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目次
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01外観
10入口展示1
11神丘5遺跡の調査
20入口展示2
ピリカ遺跡の発見と発掘
30入口展示3
遺跡周辺の立体地図
40入口展示4
41石器
42田代3遺跡の磨製石斧
43神丘地区の縄文土器
50入口展示5
神丘2遺跡の石器
60入口展示6
鐸形土製品
100旧石器展示室
100➀氷河期のピリカ
101過去の気候
110北海道の歴史と文化
111渡島半島の主な遺跡
113年表と文化史
114文化の特徴
115日本列島の人々のDNA関係
130旧石器から縄文へ
野尻湖堆積物の花粉分析
132旧石器から縄文へ
激動の時代を生き抜いた人々
133旧石器から縄文へ
140大陸から列島へ
141細石刃石器群の分布と拡散
145大陸から北海道、ピリカへ
150ピリカ遺跡の風景とくらし
151旅を繰り返す暮らし
153旧石器時代の気候 |
200②石器のいろいろ
201旧石器人の道具箱
210細石刃と細石刃核
211細石刃
216細石刃核
220尖頭器
225彫器
230掻器
235削器
240石錐
245両面加工石器
250石刃
255石刃核
300③石器をつくる
301石器をつくる
303剥片を取る
304ハンマーの種類と使い方
320石器の作り方
320石刃の作り方
330尖頭器作り方
340湧別技法の細石刃
350ピリカ遺跡で用いられた石材
351ピリカ遺跡は頁岩の石器製作センター
353黒曜石と頁岩
355ピリカで用いられた石材
380原石
400④重要文化財展示室
405ピリカ遺跡と重要文化財
411石器出土層の確認
413石器セットの移り変わり
420石器が出土する土層
450石器作りの職人
460ピリカ旧石器人のオシャレ
470美利河技法の提唱
480石刃の接合資料
490ピリカ-美しい川 |
500ピリカ遺跡
502石器製作跡展示場
503ピリカの美しい石器
510石器製作跡(屋外展示棟)
511➀発掘方法
②地層からわかること
512剥ぎ取り土層
513③石器の調べ方
520石器製作跡
530氷河期の森
600海牛展示棟
610カイギュウ骨角復元展示
620貝化石
630ピリカカイギュウ
640貝化石など
650ピリカカイギュウの発見
660磨製石斧
※北海道の石棒の時代
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01外観
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史跡ピリカ遺跡
ピリカ旧石器文化館
/石器製作跡
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館内受付 |
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10入口展示1
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神丘地区の大型石製品 縄文時代
神丘5遺跡や周辺の畑では、大型の石棒と磨製石斧がまとまって採集されています。
特に石棒は儀式の際に使われたものと考えられています。当時の人々にとって特別な場であったことが想像されます。
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神丘地区の大型石製品
石棒と磨製石斧
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神丘地区の大型石製品
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石棒
神丘5遺跡 |
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磨製石斧
遺跡名 神丘5遺跡
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磨製石斧
神丘5遺跡
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磨製石斧(未成品)
神丘5遺跡 |
大きくて長い磨製石斧で、こんなの見たことないです。
山の上で石器材料に良い石取り場を見つけて、巨木を切り倒して開墾し
集落を築いていったのでしょう。
先端が欠けることを前提に長い石斧を作り、打撃の威力が出るように重い石斧にしたのでしょう。すると、この石斧を振り回していた人は、おそらく筋骨隆々とした大男だったのでしょう。 |
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11神丘5遺跡の調査
今金町「町内遺跡詳細分布調査報告書 Ⅳ神丘5遺跡の調査」より抜粋
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採集物44:土器2 石器39 陶磁器3
➀珪質頁岩製掻器、②黒曜石製石錐、③縦長剥片(石刃製)珪質頁岩製つまみ付ナイフ(縄文早期後半~前期前半の松原型)
表面採取品:大型石棒 2 点、 石斧未成品 2 点
石棒は、④⑤やや変成した安山岩製の無頭石棒で両端部が浅くくぼみ、 器体全体は紡錘形を呈している。
表裏または上下の区別が可能な装飾は施されていない。
石斧は、⑥⑦緑色凝灰岩製の石棒で、片側の端部が欠損しているが、 その他の形態的特徴は 石棒 と酷似している。
これらは茅野の分類(茅野 2013)によれば端部彫刻石棒の一群に相当する。
これらは、中期中葉~後葉の頃のものとされている。
北海道南部では北斗市館野遺跡 C 地区で同種の形態の石棒が出土しており、 中期後半の所産と判断されている。 |
➀~③は早期後半から前期前半 ④⑤は
➀掻器
暗緑褐色の珪質頁岩製

1度の打撃で表裏を作った |
②石錐
 約1ミリの球顆を含む黒曜石 |
③つまみ付きナイフ
珪質頁岩製

縦長剥片石刃技法 |
④⑤石棒
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④はやや変成した安山岩製の無頭石棒。両端部が浅く窪み、器体全体は紡錘形をなす。
表裏・上下を区別する装飾はない。
⑤緑色凝灰岩製の石棒で、片側の端部が欠損しているが、その他の形態的特徴は石斧と酷似している。
これらは端部彫刻石棒の一群で、中期中葉~後葉の頃とされる。
北海道南部では北斗市館野遺跡C地区で同種の石棒が出土し、中期後半とされてい |
⑥⑦石斧 |
⑥は縞模様のある緑色岩製の石斧未成品である。断面がひし形となる棒状の原石を素材とし、稜線部を打面として調整を行った後研磨によって器体を整形している。
⑦は⑥と同一供給源と考えられる緑色岩製の棒状原石である。一部に剥離が見られるものの、全体として加工はごく僅かである。断面形状やサイズが5と近いことや同一の石材であることから、 大型石斧用の材料として遺跡に持ち込まれたものと考えられる。 |
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20入口展示2
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ピリカ遺跡の発見と発掘調査
発見
北海道開発局函館開発建設部が美利河ダム建設にあたり、ダム堤防の材料として粘土が必要となり、1978(昭和53)年、土質調査を丘陵一帯について行ったところ、試し堀りの穴の1つから石器が発見され、市立函館博物館に届けられました。
石器は旧石器時代のものであることが判明し、周辺が遺跡であることがわかりました。
発掘調査
遺跡の保存と開発に関して話し合いが行われ、ダム建設には築堤材料となる粘土の採取が必要とされ、やむを得ず発掘調査を行うことになりました。
調査は1983・84(昭和58・59)年に財団法人北海道埋蔵文化財センターにより実施されました。
この調査はA・B地点の1585㎡を対象として行われ、11万点を超える旧石器時代の石器が出土するなど大きな成果を収めました。
この成果を踏まえ、今金町教育委員会は、その保存に万全を期すため、1987・88(昭和62・63)年に遺跡の範囲を確認するための調査を実施し、その結果、遺跡は約20万㎡の丘陵一帯に広がることを確認しました。
1991(平成3)年には、農地造成に伴いC地点の発掘調査を町教委が行いました。C地点は遺跡がある丘陵上最も高い段丘面上に位置しており、150㎡を発掘し、約12200点が出土しました。
2000~2002年(平成12年~14年)には史跡整備事業に伴い、D・E地点(438平方メートル)の発掘調査を行い、46,300点の石器類が出土しました。
また1996 (平成8)年からは、国学院大学文学部が、考古学実習の一環として、C地点から北東へ50m離れたK地点の発掘調査を続けています。 |
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ピリカ遺跡の発見と発掘調査
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ピリカ遺跡
 石器製作跡
ピリカ旧石器文化館 |
※遺跡の下、集落の下には育成中の樹林帯(防風林)が見え、更にそのむこうには海がある
ように見える、美利河ダムの湖面です。
周辺には農家が点在し、酪農or畑作を小規模に行なっているようです。
※北海道を走っていると、大規模な農家や牧場が一般的だが、山間に入ると、小規模農家があり、これは本州の山村と同じで、兼業農家の典型であり、
デッカイドー北海道で、なぜこんな不便で生産性の低い土地に開拓に入ったのかと、
しかし、先に入植した人々に大きな土地が割り当てられ、後から来たものにはもうなかったのかもしれません。せっかくの苦労がこんな結果になったとは大変ですね。 |
ピリカ遺跡ジオラマ |
石器製作跡D地点
史跡ピリカ遺跡E地点
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史跡区域外の遺跡範囲
A,B,C,K地点
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ピリカ遺跡周辺の地形模型1/1000
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30入口展示3
遺跡周辺の立体地図
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40入口展示4 |
41石器
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国指定重要文化財
槍先形尖頭器
展示は450から |
北海道にたどり着いた旧石器人のふるさと

実物展示は440から |
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42田代3遺跡の磨製石斧 今金町田代349~350-2
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この遺跡では、畑から多くの磨製石斧が採集されています。磨製石斧は主に木を伐採するのに使われたと考えられています。
竪穴住居を作るなど、木材と関係の深い暮らしぶりが想像されます。 |
磨製石斧
田代3遺跡 |
磨製石斧 |
磨製石斧 |

折れた磨製石斧 |

石斧破片 |
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磨製石斧装着例 |
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あっ!割れてるな。
年輪と直角に石斧をハメるべきです。
これは年輪に平行に石斧をハメています。 |
割れてるのは、
一度試したんでしょうか。
石斧を差し込むときに無理したからでしょうか。 |
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43神丘地区の縄文土器 神丘遺跡群
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町の西部にあたる神丘地区では、河川より高い段丘面上の広い範囲で多くの土器辺が採集されています。
神丘遺跡は前期から晩期にかけての長い間、縄文時代の人々の生活の場であったことが想像されます。 |
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50入口展示5
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神丘2遺跡 日本歴史地名大系 「神丘2遺跡」の解説 引用コトバンク
北海道:檜山支庁今金町利別村神丘2遺跡、[現在地名]瀬棚郡今金町字神丘
後志利別川の右岸、標高約37mの段丘上に立地する。旧石器時代から縄文時代後期の遺物が出土する開地遺跡である。
昭和63年(1988)から平成元年(1989)にかけて発掘調査が行われ、約7,700点の旧石器時代の石器がおもに地表下約70cmの明褐色粘土層から出土した。
これらは平面的な分布、石器組成、用いられている石材の違いからA・B二つの石器群に分れる。
A群には片面・両面加工の尖頭器、有舌尖頭器・彫器・掻器・舟底形石器・局部磨製石斧があり、石材には瑪瑙・頁岩・黒曜石・安山岩が用いられている。
ピリカ旧石器文化館さんの投稿 引用「ピリカ旧石器文化館さんの投稿」
2023年5月19日…
■旧石器人も利用したメノウ
1988年に行われた神丘2遺跡(今金町字神丘308-16ほか)の発掘調査で、旧石器時代の石器が数多く出土し、その中にメノウで作られた石器も
多数含まれていました。この企画展ではそのうちの8点を公開しています。
後志利別川上流域に豊富にあるメノウ原石を拾い集めた旧石器人たちは、直線距離で約20kmほど下流にあたる
この地にたどりつき、そのメノウでさかんに石器を作った。そんな姿が想像できます。
彫器、掻器はどちらも加工具の一種で、軟らかい岩石だと刃の損耗が激しく、用をなしません。その点、硬いメノウはこうした用途に適して
おり、彼らはあえてメノウを選んだのでしょう。岩石の特性をうまく利用していることがうかがわれます。
第3節 歴史的背景 引用「第1章今金町の概要」
〇先史時代(旧石器時代から擦文時代まで)今金町は旧石器時代の一大石器製作拠点・ピリカ遺跡のある町として知られています。
ピリカ遺跡は後志利別川上流域の美利河地区にあり、細石刃や槍先形尖頭器等、大型動物の狩りに用いられた狩猟具等が多数出土する遺跡で、
約2万数千年前から1万 5千年前まで、氷河期最寒冷期から縄文時代初頭までの長い期間にわたって旧石器人の生活跡が発見されています。
中流域の神丘地区にある神丘2遺跡では、特徴的なナイフ形石器の石器群が出土しています。これらはピリカ遺跡よりも年代的に古く、
北海道の旧石器時代遺跡の中でも比較的古い段階に位置付けられています。
本町の旧石器時代の遺跡は、河川上流域から中流域に多く分布し、本流域は旧石器時代の長い期間にわたって人々の暮らしの舞台だった
ことがわかります(図 1-16)。
氷河期が終わり温暖な後氷期になると、中・下流域を中心に縄文時代の遺跡が濃密に分布するようになります。
これまでに確認された縄文時代の遺跡は計 40 カ所あり、縄文時代中期から後期を中心として、早期から晩期までほぼ途切れることなく発見
されています。
ただし、これらの遺跡は畑等での採集品で確認された場合がほとんどで、発掘調査が行われたのは神丘2遺跡の 1 カ所に過ぎず、詳しい
内容はわかっていません。
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神丘2遺跡の出土物
深鉢形土器
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深鉢形土器
1988~89年に行われた神丘2遺跡の発掘調査で、縄文時代の土器片が201点出土しました。
このうちよく復元できたのはこの資料のみです。
時期は縄文時代中期末から後期初頭の余市式土器に分類されます。
遺跡名:神丘2遺跡
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つまみ付きナイフ
石匙とも呼ばれ、縄文時代を代表する石器の1つです。様々なものを切るのに用いられたようです。
つまみを上端に付け、紐などで巻きつけて持ち歩いたと考えられています。
神丘2遺跡出土 |
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石槍
石銛(いしもり)とも呼ばれ、骨角器などと組み合わせて突き刺す道具です。獲物の狩に使われました。
神丘2遺跡 |
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石鏃
弓矢の穂先で、矢尻ともばれます。縄文時代を代表する石器の1つです。森の茂みに隠れ、鹿や小動物を狙ったものと考えられます。
神丘2遺跡 |
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ミニチュア土器
普通の土器の特徴を真似た、小型の土器で、その製作目的はよくわかっていません。儀式用や子供のおもちゃであった可能性が指摘されています。
種川2遺跡出土 |
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60入口展示6
鐸形土製品
縄文時代後期前葉
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鐸形土製品
銅鐸のような形をした土製品で、縄文時代の祭祀具(お祭りの時に使われる道具)と考えられています。
縄文時代後期の北海道南部と本州東北地方に多く見られます。
上端部を欠きますが、ほぼ完全な形で採集されました。
神丘11遺跡 |
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100旧石器展示室
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旧石器展示室は、次の4つのテーマに分かれています。
1.旧石器時代から縄文時代への移り変わり、大陸から北海道への文化流れはどのようであったのか。
氷河期のピリカ遺跡はどんな風景だったのか。
2.ピリカの旧石器人はどのような石器を用いていたのか。
3.どのようにしてピリカの石器は作られたのか。
4.国の重要文化財に指定された石器と、それらから何がわかったのか。
約2万年前から1万年前までの、氷河期の中で、最も厳しい寒さを生き抜いた人々の知恵と技術に触れて、ピリカ旧石器人の姿を想像してみてください。 |
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旧石器展示室
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展示テーマ
1.氷河期のピリカ
2.石器のいろいろ
3.石器をつくる
4.重要文化財 |
館内動線  |
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100➀氷河期のピリカ
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101過去の気候
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氷河期のピリカ
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グリーンランド氷床コアから復元された過去の気候変動
5万~4.5万年前 |
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4.5~3.5万年前
非常に激しい気候変動
寒冷化に向かい周期的な温暖ブレを起こす |

4~3万年前
周期的な温暖ブレが減り寒冷期となる |

3.5~2.5万年前
氷河期の中の激しい気温変化。突発的な温暖期 |

2.5~1.5万年前
2万年前に極低温期を脱した |

2万~5000年前
約1万年前に激しい気候変動が終わる |

1万~現代 |
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110北海道の歴史と文化
―旧石器からアイヌまで― |
111渡島半島の主な遺跡
遺跡分布の移り変わりと人々の暮らし
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旧石器時代の遺跡は、河川の上流域から中流域に分布しています。これは大型動物を狩る上での地形的な利点や石器石材の得やすさのためと考えられます。
縄文時代の遺跡は河川の中流域から下流域、海岸付近の段丘上に分布し、森や海の資源を盛んに利用する暮らしへ変わったことに関係しています。
続縄文時代で、その傾向はさらに強まり、海岸沿いに多くの遺跡が分布しています。海の恵みを盛んに利用する暮らしを反映したものでしょう。
擦文時代の遺跡は、河川の河口部に分布しています。和人や北方民族との交易を行う上で、物流に便利な場所を選んだものとみられます。
奥尻島には、オホーツク文化の遺跡があります。「海洋の民」オホーツク文化の人々がこの桧山地域にまで交易のために訪れていたようです。
アイヌ文化期では海岸近くに集落があり、また丘陵上のチャシ(砦)を拠点に交易や祭祀を行っていたようです。
江戸時代に始まった和人による砂金採掘は、後志利別川(しりべしとしべつ)上流域一帯に、その痕跡が無数に見つかっており、また山奥深くの金鉱山の存在は、金を追い求めた彼らの執念が伝わります。 |
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旧石器-和人文化までの遺跡分布 |
渡島半島の主な遺跡 |
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長万部付近 |
ピリカ遺跡付近
今金町付近
瀬棚町北部
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瀬棚町
八雲町
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八雲町 |
遺跡分布の移り変わりと人々の暮らし
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113年表と文化史
遺跡名
特徴的遺物
特徴的遺物 |
ピリカ遺跡出土石器
豊岡6遺跡の縄文土器
(せたな町情報センター所蔵)
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南川遺跡の続縄文土器
(瀬棚郷土館所蔵)
高山下遺跡の擦文土器
(せたな町情報センター所蔵)
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青苗砂丘遺跡のオホーツク式土器
(奥尻町教育委員会提供)
セタナイチャシ跡出土の陶磁器
(せたな町情報センター所蔵)
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カニカン岳金山跡の石臼
美利河 1 砂金採掘跡
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114文化の特徴
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ピリカ遺跡
豊岡遺跡 |
旧石器文化(ピリカ遺跡)
氷河期に生息していた大型動物の狩りと植物採集を主な生業とし、獲物を追いながら点々と移動する暮らしを特徴とする。狩猟具や加工具には精巧な石器が使われ、石器製作技術が高度に発達した。
縄文文化(豊岡遺跡)
温暖・湿潤な環境のもと、豊かな自然資源を巧みに利用する狩猟・採集・漁労を生業とする。縄目のついた土器で煮炊きをし、定着的な定住生活を特徴とする。祭祀的遺稿などに見られる精神文化が発達した。 |
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瀬棚南川遺跡
利別川河口遺跡
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続縄文文化(瀬棚南川遺跡)
本州以南の弥生文化=稲作農耕に対し、北海道では狩猟・採集・漁労の縄文文化はそのまま続いたことから、続縄文文化と呼ぶ。その前の縄文時代より、さらに、海の資源を利用し、交易も盛んになった。
擦文文化(利別川河口遺跡)
土器表面にヘラで擦った跡がある擦文土器を特徴とする。
狩猟・漁労で得た魚介類や毛皮を交易品とし、本州地域から鉄製品などを得ていた。この頃には石器は使われなくなり、鉄器に置き換わった。 |
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青苗砂丘遺跡出土
オホーツク文化期の人骨
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セタナイチャシ跡 |
オホーツク文化(青苗砂丘遺跡)
オホーツク海沿岸を中心に分布し、船を自由に操り海獣狩猟と交易を主な生業とする。オホーツク式土器や平面形が五角形をなす住居を特徴とする。オホーツク人は、極東のニブフの祖先と考えられている。
アイヌ文化(セタナイチャシ跡)
土器は使われなくなり、交易の比重が一段と高くなった。サケや昆布、毛皮などを介して、鉄製品や漆器、陶磁器、米などを得た。雑穀の畑作も行った。住居は地面を掘り込まない平地住居に変わった。 |
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115日本列島の人々のDNA関係
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これまでの発掘により、このピリカ遺跡の丘は旧石器人のくらしの舞台であったことがわかりました。 しかし、 その後の縄文時代になると人々の足跡はみられなくなります。
彼らはどこへ行ってしまったのでしょうか?アイヌの人々が北海道の先住民であることはよく知られています。では、
アイヌの人々はいつ頃から北海道でくらし始めたのでしょうか?また、アイヌの人々は擦文人や縄文人とどのような関係にあるのでしょうか?
道内の縄文時代やその後の時代の遺跡から出土した人骨と、 アイヌの人々の人骨とを比較したこれまでの研究で、擦文人はアイヌの人々とよく似た特徴をもっており、
縄文人や縄文人についても、アイヌの人々との連続性を示す共通した特徴をもつことがわかっています。 このことから、アイヌの人々は少なくとも縄文時代から北海道でくらし続けてきたとする考えが現在では一般的です。
1万年以上続いた縄文人の伝統は、 新たな文化要素を加えながら、 続縄文人、擦文人、 そしてアイヌの人々へと脈々と受け継がれてきたとも言えるでしょう。
旧石器人と縄文人とのつながりについては、旧石器人の人骨が道内では発見されておらず、よくわかっていません。 ピリカ遺跡の旧石器人はいったいどこからやってきたのでしょうか?その答えはこの展示室内に示されています。どうぞゆっくりとご覧ください。 |
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日本列島の人々の関係
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オホーツク人はニヴフと呼ばれるようになった。
縄文人はアイヌ・琉球人・本土人となった
弥生人は縄文人と交雑して本土人・琉球人となる |

上に記述 |
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130旧石器から縄文へ
野尻湖湖底堆積物の花粉分析による植生の変動 |
132旧石器から縄文へ
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激動の時代を生き抜いた人々の知恵
ピリカ遺跡の人々が生きた時代は寒冷な氷河期にあたり、北海道はシベリアのような針葉樹を中心とする林と草原の環境でした。
その豊かな草原環境に支えられ、バイソンやオオツノジカ、マンモスといった大型の草食動物が数多く生息していました。
旧石器時代の人々はそれら大型動物を主な食料源として、獲物の動きに合わせ 転々と移動する生活をしていたと考えられています。
彼らはそうした獲物の狩りに使う 道具として石器を巧みに使い、高度な石器文化を発達させました。
狩猟具の槍先形尖頭器や細石刃がその代表例です。
遺跡の発掘で住居跡がほとんど見つからないことから、彼らの住まいは移動生活に適した簡単なテントだったと考えられています。
およそ1万5000年前を境に氷河期が終わりに向かい、気候が暖かくなると、環境は草原から広葉樹を中心とする森へと変わりました。
この時期は世界的な気候の転換期で、氷河期の大型動物はこの急激な変化について行くことができず、その多くが絶滅したと言われています。
この時期を境に石器の様相は目まぐるしく入れ替わりました。 細石刃は姿を消し、代わりに弓矢の穂先である石鏃 (矢じり)が現わ れました。
弓矢は森にすむ小動物の狩りに適したものです。
また、旧石器時代にはほとんどなかった磨石や石皿が多くみられるようになります。
ドングリなどの木の 実をすりつぶすためのものでしょう。 そして何より大きな変化は土器の出現です。
煮炊きができるようになり、食べられるものが飛躍的に増えました。
住居はしだい に大がかりなものとなり、 一定の場所に住み続ける定住がはじまります。
自然と共生しながら食料を得るという点では、旧石器時代も縄文時代も共通していますが、その技術やくらしぶりには大きな変革があったのです。 |
旧石器から縄文へ
左下:亜熱帯性針葉樹は亜寒帯性針葉樹の
誤植です |
激動の時代を生き抜いた人々
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亜寒帯性針葉樹とは:トドマツ、エゾマツ、シラビソ、オオシラビソ、トウヒ、コメツガ、カラマツ、ダケカンバなど
分布域:北半球のユーラシア大陸とアメリカ大陸の周極地帯、日本(北海道、本州の亜高山帯)など
冷温帯性落葉広葉樹:ブナやミズナラ、カエデなど、冬に葉を落とす広葉樹の樹木。冷温帯の厳しい冬と涼しい夏に適応し落葉して越冬。
分布域:日本では、東北地方や北海道に広がる
中部日本の800~1600mの山地では「ブナ帯」と呼ばれ、ブナ、イヌブナ、ミズナラ、カエデ類の落葉樹からなる森林がある
本州南部では標高約1000m以上に分布する
北側、寒冷地側では亜高山帯針葉樹林に接する
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野尻湖湖底堆積物の花粉分析による植生の変動
野尻湖湖底堆積物の
花粉分析による
植生の変動
亜熱帯性針葉樹は
亜寒帯性針葉樹の
誤植です |
亜寒帯性針葉樹と冷温帯性落葉広葉樹の比率
1万8700年前、最寒冷期が終わる。
1万3900年前、最寒冷期後の氷期が終わる。
1万2700年前、2度の寒冷期が終わる。
1万2700年前、温暖期が開始された。 |
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133旧石器から縄文へ
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旧石器と縄文
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旧石器時代
寒冷期・気候激変期 |
縄文時代
高温期・気候安定期 |
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道具の移り変わり
旧石器時代
道具の移り変わり |
旧石器時代
投げ槍の使用 |
旧石器時代
石器の移り変わり
神丘2遺跡 2.5万年前
特殊なナイフ形石器
ピリカ遺跡 2万年前~
細石刃・細石刃核(蘭越型)
石製小玉
細石刃核(峠下型)、細石刃核(美利河型)
尖頭器
細石刃核(忍路子型)、細石刃核(広郷型) |
縄文時代
縄文時代  |
縄文時代
道具の移り変わり
草創期
ピリカ遺跡
有舌尖頭器
舟底形石器
草創期末
石鏃、磨製石斧 |
道具の移り変わり
早期
弓矢の使用
土器の使用
磨石・石皿の使用 |
動物群の移り変わり
野尻湖湖底の花粉分析による(本州の例)

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旧石器時代
寒冷地型動物群(バイソン)
マンモス動物群(マンモス)
※(オオツノジカはナウマン象動物群)
※最寒冷期2万年前後に絶滅したのは、
寒冷による食草不足か?
食糧源の減少に伴う旧石器人の狩猟のため?
※住居は移動する食料源を追うため定住不可だった(テント生活 or 各所に住居を持つ) |
縄文時代
旧石器末から中小型動物が狩猟対象となる
シカ、イノシシ(本州のみ)
※次第に植物食糧が豊富となり、定住が可能
(竪穴住居)
土器使用による食糧資源の多様化 |
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マンモス動物群とは、
約2万年前のヴュルム氷期に日本列島へ渡来した動物のグループで、マンモス、ヘラジカ、ヒグマ、ニホンウマなどが含まれます。
【マンモス動物群の渡来】
海水面が低下して海峡が陸化したことで、大陸と日本列島が地続きになりました。
北方系の動物が間宮海峡や宗谷海峡を通って日本列島へ渡来しました。
マンモスは北海道南部までしか南下しなかったと考えられており、夕張や襟裳岬の海岸段丘では化石が発見されています。
【マンモスの特徴】
長鼻目に属すゾウの仲間で、寒い気候に適応していました。
体格はゾウに似ていますが、巨大な牙をもつことや、身体が非常に大きく、大きいものではアフリカゾウの1.5倍もあるそうです。
ケナガマンモスはヨーロッパ北部からロシア、そして北米まで北半球の広い地域に生息していました。
【マンモスの先祖】
マンモスの古い先祖は、「暖帯のマンモス」とよばれるメリジオナリスゾウで、
そのゾウは300万年前から100万年前にユーラシア大陸の広い地域で生活していました。 |
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140大陸から列島へ |
141細石刃石器群の分布と拡散
細石刃という技術革新
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酷寒の大地・シベリアにやってきた人々は、暖を取るための炉を備えたテント状の住居を持ち、保温性の高い皮の服を身に付けていました。
彼らは狩猟具に革新的な技術を生み出しました。
細石刃と呼ばれるカミソリの刃のような石器で、骨角器の軸に埋め込み、槍として使いました。
石と骨格と言う二つの素材の長所を組み合わせると言う発想は、画期的で貴重な石材を長持ちさせることができました。
細石刃核を持っていればいつでも刃を補充でき、長距離移動にも適していました。
バイカル湖周辺で編み出されたこの新技術がサハリンを通って北海道にやってきたのです。
楔形細石刃核とは
楔とは断面がV字形の木片で、正面形が似ていることから、クサビ形細石刃核とよんでいます。 |
大陸から列島へ |
楔形細石刃核の分布 |
細石刃遺跡の分布
楔形細石刃核は4万年前から登場 |
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極東への流れ
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クサビ形細石刃核とは
クサビとは断面がV字形の木片で、 正面形が似ていることからクサビ形細石刃核とよんでいます。
細石刃という技術革新

上に記述 |
楔形細石刃核とは |
クサビの形状と
細石刃核の各部
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細石刃核と細石刃の製作
➀両面加工品(両面加工石器を用意する)
②側面を打撃して
断面三角形削片、スキー状削片を剥がす
③できたクサビ形細石刃核の平坦面の端を打撃して細石刃を剥がす。
骨角製の槍先の製作
骨角側縁に、彫器で彫った溝に細石刃をはめ込む |
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145大陸から北海道へ、そしてピリカへ
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道内には250カ所以上の細石刃石器群が確認されており、約2万5千年前から1万5千年前まで細石刃が主な狩猟具として使われ続けました。
この細石刃を携えた人々は、大陸からマンモス動物群を追って陸続きとなっていたこの大地にたどり着いた人々と考えられます。
ピリカ遺跡もその一つでシベリアにその系統をたどることができます。
細石刃石器群とは別に、道内各地には不定形剥片や台形様石器、ナイフ形石器などを主とする石器群がありますが、これらを残した人々と細石刃を携えた人々とは、どんな関係にあったのかは未だよくわかっていません。
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北海道細石刃石器群の特徴
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細石刃核には、その製作工程に時代的な移り変わりや多様性があり、これまでに大きく9つの技術型式が知られています。
これほど多様に細石刃核型式が展開した地域は他に類がありません。
石材資源に恵まれ、自然豊かな広い大地があったからこそ、このような高い石器文化が花開いたのではないでしょうか。 |
ナイフ形石器 |
東山型- 石刃の基部を加工 東北地方から北海道網走郡津別町まで分布
杉久保型 -縦型石刃の先端部及び基部への刃潰し加工 - 主に中部地方北部から東北地方にかけて分布。 ...
茂呂型- 一縦型石刃の側縁と反対側基部への刃潰し加工 - 主に関東、中部地方南部、東海に分布。 |
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東山・杉久保型ナイフ形石器 (縦型石刃技法)
茂呂型ナイフ形石器 (縦型石刃技法)
国府型ナイフ形石器 (横剥ぎ(瀬戸内技法)横型石刃技法) |
※考察 細石刃石器群の種類 細石刃文化期(14300~12000年前)
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細石刃石器群は大きく三種類に分かれる。
東北日本のクサビ形・舟底形細石刃核は、シベリアから北海道を経由して本州に拡散した。
南西日本の円錐形・稜柱形細石刃核、野岳・休場型や船野型細石刃は、中国黄河中・下流域から九州を経由して本州に拡散した。引用
そのほかに、矢出川形細石刃核・矢出川技法がある。
楔形細石刃は、湧別技法の白滝型・札滑型、蘭越型、忍路子型、広郷型、峠下型、紅葉山型、置戸型、幌加型、射的山型、美利河型などがある。
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150ピリカ遺跡の風景とくらし |
151
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旅を繰り返す暮らし
獲物の狩りと植物採集で生計を立てる旧石器時代の人々は、一ヶ所に定住する事はありませんでした。
新たな環境を求め、季節ごとに転々と移動する生活を繰り返していました。
石器の材料を得る
ピリカ遺跡には石器の材料として頁岩と呼ばれる石が大量に持ち込まれています。
遺跡の東側を流れる国縫川で、現在でも採集することができるため、この周辺から得たものと考えられます。
長万部町頁岩産地 AI による概要
北海道長万部町国縫地区の川には、良質な頁岩(けつがん)が拾うことができます。
頁岩は堆積岩の一種で、黒曜石よりも硬く刃こぼれしにくい特徴があります。
【概要】
頁岩は北海道南西部から本州東北地方で一般的に見られる岩石です。
細粒の堆積物が固結してできた堆積岩で、若い時代のものは泥岩と呼ばれます。
黒曜石よりも硬く、刃こぼれしにくい特徴があるため、彫刻刀形石器等といった削る機能を
もつ石器に頁岩が選ばれる傾向があります。 |
国縫川水系 |
国縫地区と遺跡の距離 |
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※海岸地区に多い頁岩の岩脈だが、国縫まではピリカ遺跡から下り坂直線で11kmあまり。踏み分け道でも2時間もあれば到着する。
早朝に出発して採取し、往復することは可能。帰りは4時間もかかるのではないか。
※球顆混じりの黒曜石は赤井川産のようで、これは交易で入手したのかな。赤井川まで行くほどの価値のない石材です。
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ピリカ遺跡の風景とくらし |
ピリカ遺跡の景観
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ピリカムラ |
皮で覆ったテントとは住居跡がなかった。
旅に重い皮は持って行けない。幾つかのキャンプ地に住居を持ち、季節や年で移動したのではないか。 |
旅を繰り返す暮らし
石器の材料を得る
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153
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旧石器時代の気候
ピリカ遺跡の土を花粉分析したところ、現在のサハリン北部やシベリア地方に相当する気候であったことがわかりました。
北緯49度のポロナイスク市周辺には旧石器時代のピリカ1遺跡周辺で生育していたグイマツなどの植物を見ることができます。
今金町と比べて年間平均気温は7~8度低く、年間降水量は6割程度。氷河期とはいっても一年中寒いわけではなく、夏は涼しく乾燥した気候だったようです。
旧石器人にとってのピリカ遺跡
当時この付近はグイマツやアカエゾマツなどの針葉樹に、シラカバやハシバミ、コナラなどの広葉樹が混じる、明るい林でした。
ハシバミやコナラ(ドングリの木)の実は貴重な栄養源として利用したことでしょう。
草原が広がり、川の合流付近は、オオツノジカや野牛などが行き交う格好の狩場だったと思われます。
秋には川にサケやマスが大量に遡がります。(後志利別川水系、河川図)
保存食として利用していたかもしれません。彼らにとってこのピリカ遺跡は大変住み良いところだったに違いありません。 |
氷河期の植生 |
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ピリカ遺跡の気候環境に相当する地域
ポロナイスク市(N49°)
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旧石器の気候
旧石器人にとっての
ピリカ遺跡 |
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200②石器のいろいろ |
201旧石器人の道具箱
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石器のいろいろ
ピリカ旧石器人の
道具箱
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今金の地層 |
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石器のいろいろ
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210細石刃と細石刃核 |
211細石刃
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幅が1.2cm未満で、長さが幅の2倍以上の縦長剥辺のうち、側辺のそれぞれと表面に残された稜線のそれぞれが平行している石器です。
重さは2~3本でやっと1gほどです。あまりにも小さいので、単独では石器として用いることはできません。木や骨で作った柄の左右に細い溝を刻み、そのまま、あるいは分割し、はめ込んで用いられました。
刃こぼれした場合には、付け替えることができ、替え刃式のカミソリのような合理的な道具です。 |
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細石刃装着例
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細石刃装着例
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細石刃を装着した
植刃器
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細石刃 |
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212
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216細石刃核
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細石刃を連続的に剥離した面を持つ石核です。細石刃が剥離された後の石核(残核)は、石核が用意される過程、細石刃を剥離する過程の違いにより分類できます。
北海道においては、湧別技法(白滝型・札滑型)、蘭越技法(蘭越型)、峠下技法(峠下型)、忍路子技法(忍路子型)、幌加技法(幌加型)、広郷技法(広郷型)、美利河技法(美利河型)、紅葉山技法(紅葉山型)と言う8技法9型式の細石刃核が知られています。
ピリカ遺跡からは、白滝型、札滑型、幌加型、紅葉山型を除く5型式の細石刃核が出土しています。
※具体的に、蘭越型、峠下型、美利河型、忍路子型、広郷型が出土
※ピリカ遺跡と広郷型細石刃 |
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220尖頭器
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両面、片面加工の槍先形の石器、周辺のみに加工したものを尖頭器と呼ぶことが多いですが、ここでは剥片の自然の尖った部分先端にした類を始め、先端が尖っている石器をを全て尖頭器としています。
形状によっては、木葉形、柳葉形、半月形、有舌形などに分類することができます。
柄に取り付けられて、突き槍や投げ槍として用いられたと考えられます。 |
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221
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225彫器
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剥片の一端を打ち欠き、樋状の細長い剥離により彫刻刀のような刃を作り出した石器です。
彫器は柄に取り付けられ、樋状剥離面と腹面が接する角をナイフの刃のように使って、木や骨格を削ったものと考えられます。
現代のカッターナイフの刃を折って切れ味を良くするのと同様に、彫器の刃部も鈍くなると樋状の剥離を加えることにより何度も刃部の再生をすることができました。 |
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彫器 |
彫器使用例
装着例 |
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A地点

樋状の剥離面 |
A地点
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A地点
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D地点 |
E地点
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230掻器
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剥片の先端部に、直角に近い角度の厚い刃がつけられた石器です。
動物の皮の裏側についた脂肪や肉をそぎ落としたり、乾燥して硬くなった皮をなめして柔らかくする作業に用いられたと考えられています。
ピリカ遺跡の多くは、石刃を素材としています。 |
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掻器 |
装着・使用例 |
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A地点
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A地点
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D地点
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E地点
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235削器
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剥片の側縁に、連続的な加工によって刃部を作り出した石器です。木や骨、角、皮などを切ったり削ったりして加工する道具と考えられています。
刃が丈夫に作られていますので、力強い作業に適しています。
また、動物の解体作業などにも用いられたと考えられます。形は様々ですが、ピリカ遺跡の多くは、石刃を素材としています。 |
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削器 |
使用例 |
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A地点
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A地点
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D地点
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←このような壊れ方、欠け方をした石器をよく見かけます。
使用法による破損ですが、どのような使い方をしたのでしょう。 |
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240石錐
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剥片の一端あるいは両端に、錐の先のように細くとがった刃がつけられた石器です。 刃部は両縁部からの凹形の弧を描くような加工によって作り出されており、
その他の部分にはあまり加工がほどこされていません。 先端は細くもろいので、 皮のようなやわらかいものに穴をあけたりするのが主な目的だったと考えられています。
ピリカ遺跡の多くは石刃を素材としています。 |
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245両面加工石器
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両面にほぼ全周からの加工によって整形された楕円形などの石器で、尖頭器に分類されないものです。何に用いられたかは不明です。 |
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250石刃
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幅の2倍以上の長さを持つ縦長剥片で、側片のそれぞれと、背面に残された稜線のそれぞれが平行している石器です。
石刃はこのままの形でも切る道具として使うこともできますが、石刃の先端に樋状剥片を加えれば彫器、先端に急角度の刃をつければ掻器、厚い刃を側縁につければ削器と言うように、いろいろな道具を作るための素材として用いられました。 |
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255石刃核
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両側縁はほぼ平行する細長い長方形の石刃を連続的に剥離した面を持つ石核です。石核の一端に打面を持つものと両端に打面をもつものがあります。また、石刃の剥離が
ある一面に限られているもの、全周に及ぶものなどがあります。
これらの特徴は、石刃剥離の進行状態によって変わる可能性があるため、単純に分類する事はできませんが、時期差によるくせはあるようです。 |
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石刃核 |
A地点
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A地点
右端のみD地点 |
A地点
右端E地点 |
A地点 |
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300③石器をつくる
ピリカ旧石器人の技術
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石器をつくる |
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301石器をつくる
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今金町教育委員会では1986(昭和61)年より『石器づくりセミナー』を毎年実施してきました。
このセミナーの講師を務めてくださったのが松沢亜生氏です。松沢氏は1973(昭和48)年頃より石器製作の研究を一筋に重ねられてきた方で、ここに展示しているものは、松沢氏による石器製作実験の数々です。なお、製作実験にはすべて白滝産の黒曜石を用いています。 |
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石器をつくる |
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石割れの原理
割れ円錐
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透明なガラスの平らな面の中央に打撃を加えると、打撃点直下に円錐形の割れが、傘を開いたように広がります。この打撃点を頂点として作られる円錐を割れ円錐といいます。 |
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303剥片を取る
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この割れ円錐の原理を利用して、石材のふちに沿うところに打撃を加えると、そこを起点として、石材の内面へ向かって斜め方向に割れ面ができます。こうしてもとの石材(石核)から、かけら(剥片)を欠き取ることができます。 |
石核と剥片にみられる衝撃の跡
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打点に続く部分は、剥片の側では大きな膨らみ(バルブ)となり、
石核の側では、その逆の丸い凹みとなります。
打点から広がる同心円状の波状のあとをリングと呼びます。
打点を中心に放射状に走り、リングと交叉するように現れる傷をフィッシャーと呼びます。
これらのリングやフィッシャーによって、打点やバルブが見当たらなくても、剥離方向が分かり、それらの切り合い関係から剥離の順序を知ることができます。 |
石核と剥片にみられる衝撃の跡
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フィッシャー |
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304ハンマーの種類と使い方
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素材の岩石よりも硬いハンマーは、厚い剥片を剥がすのに適しています。力が石核の内部に向かわないように、剥がしたい面の上を抜けるようにして、やや斜めぶつけます。
これに対して素材の岩石よりも柔らかいハンマーは、素材を壊さず、薄い剥片を剥したり、形を整えたりするのに適しています。
打撃は硬いハンマーの場合以上に斜めに加えるのがコツです。
いずれの場合も、打面と剥がされる面との角度は、90度以内でなければ、石は割れません。 |
ハンマーの種類と使い方
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ハンマー
岩石よりも柔らかいハンマー
鹿角、柔らかい石
岩石よりも硬いハンマー
硬い石 |
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石器の作り方
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320石刃の作り方
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石刃の作り方
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素材と稜の準備 |
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素材と稜の準備
石刃を作るための素材に板状、あるいは角柱状の石材を準備します。素材のどこかに直線的な稜を探し出します。もし稜がない場合には、左右両面を交互に打ち分ける剥離により直線的なトサカ状の稜をつくります。
稜を作るときの交互剥離は、石などの硬いハンマーにより直接打撃を加えます。 |
打面の準備
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打面の準備
稜の長軸上の一端、もしくは両端に平らな打面をつくります。
打面を作るときの剥離は、硬いハンマーによる直接的な打撃です。
打面のふちが潰れたり、打面と石刃が剥がされる面の角度が鈍角(80度以上)になったりして、剥離が不可能になった場合には、同じ方法を繰り返して打面を再び作り直します。 |
稜付き石刃の剥離 |
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稜付き石刃の剥離
稜の長軸上の打面の縁をもぎ取るように、
柔らかいハンマー(鹿の角や硬い木、柔らかい石など)を用いて直接、打撃します。
この場合、あたかもこするようにハンマーを打ちあてます。この製作実験では、石核の打面に鹿角のパンチをあてがって、このパンチの頭を硬い木のハンマーで叩く関節打法を用いたりしています。はぎ取られた稜付き石刃は、断面三角形となります。 |
石刃の剥離 |
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石刃の剥離
最初の石刃の剥離痕によって、平行する2本の稜線が石核上に残されます。これらの稜線に
沿わせて、両脇部分を交互に移動させながら、
平行する側辺を持つ石刃を連続して剥離します。
この剥離のたびに、打面の縁をなめらかにするための「頭部調整」を施す必要があります。この調整は、柔らかい小石を用いて、軽く叩いたりいたり、こすりつけたりします。 |
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330尖頭器作り方
尖頭器の作り方
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素材の準備と粗割 |
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素材の準備と粗割
板状の素材、あるいは大型の剥片を素材とし、
素材の大きさは、最終的な形の2倍位の大きさが必要です。
ハンマーには握りやすい大きさの硬い石が適しています。
板状の素材に対して表と裏の面を交互に打ち欠きながら全体の輪郭を整えながら粗割していきます。 |
整形
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整形
ハンマーを硬いものから素材の岩石よりも柔らかいものに変えます。柔らかい石、鹿角または硬い木などが適しています。
粗割りによって残された凸部分を取り除きながら、
輪郭、断面ともに均整のとれた形へと整形します。
作業途中でぶ厚い部分が残った場合には、辺縁部に打面を準備して、石のハンマーなどによる力強い一撃で取り除きます。
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より薄く仕上げる |
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より薄く仕上げる
辺縁を断面にして表裏両面を交代させながら凸部を形づくって稜に合わせて、中心部に届く、長くて薄い剥離を施し、全体の形を整えながら薄く仕上げます。
より薄くするためには、両面体の内部に食い込むように剥離を施すことがコツです。鹿角あるいは硬い木のハンマーを持ちます。 |
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340湧別技法の細石刃
湧別技法の細石刃
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両面加工石器を作る |
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両面加工石器を作る
尖頭器を作る時と同じように、板状の素材、あるいは大型の薄片を素材として準備します。
硬い石のハンマーによる粗割で、両面加工石器を作り、
素材の岩石よりも柔らかいハンマーで整形します。
この作業の要領は、尖頭器を作る場合と同じです。 |
打面の準備
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打面の準備
両面加工石器の一端に打面を作り、一側縁に沿って縦割りにします。この際、1本目には断面三角形の稜付きのものが、2本目にはスキー状のものがそぎ落とされます。これらを
を削片(スポール)と言いますが、これらは素材の最大幅のところで、平坦な画面を得ることを目的としています。
平坦な画面を上にすると、石刃の作り方の稜付き石刃剥離前と同じ状況が打面の両端にできています。 |
細石刃の剥離 |
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細石刃の剥離
石刃の場合と同様に稜を追いながら、擦るような要領で柔らかい鹿角製の小形のハンマーを打ちあてます。
細石刃のように薄く同形同大のものを連続的に剥離する場合には、圧力を用いて剥離する押圧剥離法が用いられたりします。
押圧剥離用具には鹿角の先端部が適しています。いずれの方法によっても、剥離のたびに「頭部調整」を施したり、また、石核の打面縁部が潰れたりして、剥離が不可能になった場合には、打面を薄く剥がして、それを再生する必要があります。 |
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350ピリカ遺跡で用いられた石材 |
351ピリカ遺跡は頁岩の石器製作センター
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ピリカ遺跡出土の石器は主に頁岩が用いられ、全体の85%以上を占めています。次いで、瑪瑙※が13%と、頁岩と瑪瑙で98%を占め、黒曜石がわずかにみられます。
頁岩は堆積岩の一種で、粒の細かい砂や粘土が海底の強い圧力によって固まった岩石です。
北海道南西部から本州東北地方は頁岩地帯として知られ、ピリカ遺跡の東側の河原では、現在でも良質な頁岩を採集することができます。
頁岩製石器が膨大に出土する事からみて、ピリカ遺跡は豊かな石材産地を控えた石器作りの一大拠点であったことがあったといえます。
ここで作られた石器が遠く各地へ運ばれ利用されたのでしょう。
道南地域の遺跡はほとんどが頁岩製石器からなっています。
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黒曜石から見える交流ネットワーク
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黒曜石は火成岩の一種子で、珪酸分の多い溶岩が急に冷えてできた天然硝子です。
割れ口が鋭く、鋭利な刃を得やすいことから、旧石器時代から石器の材料としてよく利用されました。
北海道には白滝・置戸・十勝三股・赤井川と言う4大産地があり、特に白滝はその埋蔵量が数十億トンとも言われる世界的に著名な産地です。
道東から道央の遺跡ではほとんどが黒曜石製石器からなっており、道南地域の遺跡とは対照的です。
ピリカ遺跡出土の黒曜石製石器について、産地分析をしたところ、ほとんどが赤井川産の黒曜石でしたが、他の三大産地の黒曜石もわずかに持ち込まれていました。
白滝や置戸など約300kmも離れた産地の石器が見つかる事実をどのように考えれば良いのでしょうか?
広い範囲にをわたって石材が流通するネットワークが、すでに2万年も前から出来上がっていたと考えられています。
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※北海道のメノウ産地
北海道でメノウが採れる産地は、主に今金町花石地区です。花石は、かつて国内有数のメノウの原石産地として知られ、
明治時代から昭和時代にかけて盛んに採掘されました。
現在では採掘は禁止されていますが、一部の古い在庫が土産物として販売されています。
今金町花石地区:
北海道瀬棚郡今金町花石は、メノウ(瑪瑙)の産地として有名です。
採掘の歴史:
花石のメノウは、かつて工芸品などの材料として利用され、盛んに採掘されていました。
明治時代には、若狭のメノウ加工業者によって開発され、一時は海外に輸出もされていました.
採掘の衰退:
ブラジルからの安価なメノウの輸入により、採掘は衰退し、現在は国の管理下で採掘は禁止されています.
メノウの種類:
花石のメノウには、乳白色の縞瑪瑙や、鉄分を含んだ赤みを帯びたカーネリアンタイプ、緑色のモスアゲートタイプなど、いくつかのタイプがあります.
現在の状況:
現在は、採掘は行われていませんが、以前に採掘されたメノウが、古い在庫として土産物店などで販売されています.
ピリカ遺跡:
今金町には、ピリカ遺跡があり、そこではメノウ製の石器も多く出土しています. |
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ピリカ遺跡は頁岩の
石器製作センター
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黒曜石から見える
交流ネットワーク
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353黒曜石と頁岩
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355ピリカで用いられた石材
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黒曜石(遠軽町白滝)
黒曜石(赤井川村土木川付近)
頁岩(長万部町上国縫川上流)
頁岩(木古内町大釜谷川)
頁岩(八雲町トワルベツ川) |
緑色岩(平取町沙流川水系額平川)
マンガン(ピリカ遺跡出土)
メノウ(ピリカ遺跡出土メノウ製石鏃)
頁岩(函館市皆茅部地区黒鷲岬) |
緑色岩
(通称アオトラ石) |
アオトラ石原産地 |
緑色岩(通称アオトラ石)(平取町沙流川水系額平川)
薄い縞模様が入るピリカ遺跡出土の斧形石器(重要文化財指定品)は、
日高地方のアオトラ石でつくられています。 |
黒曜石
(遠軽町白滝)
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白滝黒曜石鉱山 |
黒曜石(遠軽町白滝)
標高1000m付近の八号沢と呼ばれる露頭で、高さ15mほどの崖に漆黒の黒曜石が大量に顔を出しています。白滝はその膨大な埋蔵量を背景に、原石加工の中継地的な遺跡が山麓一帯に100カ所以上確認されています。世界に類を見ない第一級の黒曜石原産地です。 |
マンガン
(ピリカ遺跡出土のマンガン)
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柏台1遺跡の顔料 |
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マンガン(ピリカ遺跡出土のマンガン)
ピリカ遺跡からは、マンガンの塊が多数発見されていますが、これらに加工した痕跡はなく、その用途は不明でした。
1998年千歳市柏台1遺跡から多数の石器とともに鉱物が発見され、その一部部がピリカ産のマンガンであることがわかりました。これらは全面が擦られており、顔料として用いられたようです。 |
柏台1遺跡とは 25,000-22,000年前 LGM(最終氷期最盛期)の遺跡。細石刃技法の遺跡。
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AI による概要
柏台1遺跡出土の細石刃石器群は、約2万年前に遡るものであることがほぼ確定的です。
解説
柏台1遺跡は、考古学的には旧石器時代後半に属しています。
旧石器時代は、今から約3万8千年前から1万6千年前の約2万2千年間を指します。
旧石器時代の人々は、土器を持たず、打製石器や動物の骨や角を用いて作られた骨角器を使い、狩猟や採集活動を行っていました。
旧石器時代の代表的な遺跡には、次のようなものがあります。
岩宿遺跡(群馬県みどり市)
砂原遺跡(島根県)
矢出川遺跡(長野県)
祝梅三角山遺跡(北海道千歳市)
嶋木遺跡(北海道上士幌町)
湯の里4遺跡(北海道知内町)
柏台1遺跡のマンガン塊
AI による概要
北海道千歳市柏台1遺跡からは、黒色礫(マンガン)が大量に出土しています。これは顔料の原石として利用されていたと考えられています。
【詳細】
柏台1遺跡は縄文文化以前の遺跡で、約2万年前の細石刃石器群が確認されています。
この細石刃石器群は、恵庭火山灰よりの下の地層で発見されました。
たき火のあとの炭素を測定した結果、国内最古の細石刃石器群であることがわかっています。
この遺跡からは、硬質頁岩を主体とする細石刃石器群のほか、赤色礫(磁鉄鉱)も多量に出土しています。
これらの礫は顔料の原石として利用されていたと考えられています。
埋蔵文化財調査センター ニュースレター
黒絵具と赤絵具
本遺跡では、材質の違いにより黒色礫(マンガン)・赤色礫(針鉄鉱・赤磁鉄鉱)に分類された、顔料の原石(擦られた痕跡のないもの)➀
や原材(擦られた痕跡が観察されたもの)② と共に、顔料の付着が認められた台石③ が出土しました。
また、炉址周辺の半径約1.5mの範囲に顔料の沈着が確認された箇所もありました。これらのことから、遺跡内で黒色礫・赤色礫を擦って顔料の生産がおこなわれていたことが明らかとなっています。
また、それとともに本遺跡では琥珀製の玉④)が出土していることも注目されます。
土器も、恒久的な建造物も作られていなかったこの時代、顔料は、ヒトが身に着けていた衣服(例えば毛皮)あるいは身体そのものを彩ることに用いられていた可能性が高いと思われます。紐に通してネックレスのように身に着けていたと想定される玉とともに、身体装飾をおこなうところから顔料の利用が始まったといえるかもしれません。 |
引用「パレオアジア文化史学」
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論文は細石刃、装身具、玉について述べ、顔料について述べる。
北海道の後期旧石器時代の中でも顔料としての評価が可能な彩色鉱物は玉よりもはるかに検出例が多く、中でもLGM(最終氷期最盛期)の遺跡に顕著にみられる。
嶋木遺跡(map)、川西C遺跡(map)、柏台1遺跡(map)、美利河遺跡(map)(D・E地点)には、赤色および黒色の鉱物(褐鉄鉱、磁鉄鉱、マンガンなど)の小破片が多数出土している。これらは概して破片化しているが、ナゲット状で表面に擦痕を残すものも少なくない。LGM相当の南町2遺跡スポット1からは台石の研磨面に赤色鉱物が残されており(北沢ほか1995)、実験からも(宮本2020)、台石などを用いて研磨することによって粉末が作られたと考えられる。
同時に、LGM以前には影が薄い磨製の技術(groundtechnology)がLGMの旧石器社会で顕在化することを示唆する。関連して、筆者は同様なナゲッ
ト状の赤色鉱物をスペイン北部のエル・ミロン洞窟遺跡に残されたマグダレニアンの文化層より回収された遺物の中に見たことがある。当該洞窟に
は壁画はないが、赤色のみならず黄色など多彩な鉱物破片は石器や獣骨にまじった遺物層から多数出土していた。その後拡張した発掘区から、赤色鉱物(赤鉄鉱)を散布した埋葬人骨が確認され、ほぼ同じ時期に描かれたと推定される線刻のある石灰岩塊にも赤鉄鉱が残存していたことから、死者を弔う場面で用いられた顔料があったことは確実である(Straus
et al. 2015)。 |
黒曜石
(赤井川村土木川付近)
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黒曜石(赤井川村、土木川付近)
赤い川、黒曜石原産地の1つですが、明確な原石露頭は未だ確認されていません。写真は赤井川村の南側の林道に散乱する黒曜石。他の産地の黒曜石と比べて小さく、白い縞状の筋が入るのが特徴です。ただし、こうした筋のない良質なものもあります。 |
メノウ(ピリカ遺跡出土の瑪瑙製石器) |
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メノウ(ピリカ遺跡出土のメノウ製石器)
メノウは火山岩の空洞中に石英などが縞状に溜まってできたものです。
非常に硬い石材ですが、ピリカ旧石器人は見事に加工し、石器に仕上げています。
メノウは遺跡の周辺の川で採集することができます。
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頁岩
(八雲町トワルベツ川) |
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頁岩(八雲町トワルベツ川)
量は少ないながらも、良質な頁岩を産出する地点。上八雲地区の集落周辺には、頁岩製石器を主する旧石器跡があります。 |
頁岩(長万部町上国縫川上流) |
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頁岩(長万部町上国縫川上流)
良質な頁岩を採集できる地点で、ピリカ遺跡出土のものと外観がよく似ていることから、この付近で採集したとみられます。
しかし、奇跡とは5kmほどの距離があるため、遺跡にもっと近い場所に私たちがまだ知らない原石産地があるのかもしれません。 |
頁岩(函館市南茅部地区黒鷲岬) |
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頁岩(函館市南茅部地区黒鷲岬)
この地域の頁岩は摂理(層状のヒビ)が縦横に入っているため、大型の石器製作には向きませんが、小さな石器を作るのに用いられた可能性があります。
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頁岩
(木古内町大釜谷川) |
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頁岩(木古内町大釜谷川)
量は少ないながらも、黒色で珪質分の高い頁岩を産出する地点。
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380原石
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黒曜石
赤井川村土木川 |
メノウ
今金町花石 |
珪質頁岩
八雲町上八雲
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黒曜石
置戸町所山
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黒曜石
白滝村赤石山
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400④重要文化財展示室
美利河旧石器人が教えてくれたこと
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401
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405ピリカ遺跡と重要文化財
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ピリカ遺跡の本格的な調査はA・B地点において1983(昭和58)年に始まりました。北海道埋蔵文化財センターによるこの調査は翌年1984(昭和59)年まで続けられ、豊かな石器文化の内容が明らかにされました。
ピリカ遺跡の名は、独特なピリカ技法や玉製品の発見などにより、学会の注目を集め、北海道の旧石器文化研究の新たな展開を促すものとなりました。
ピリカ遺跡A・B地点からの出土遺物のうち、163点が学術的価値の高さから1991(平成3)年に国の重要文化財に指定されました。翌1992(平成4)年には、アメリカスミソニアン博物館群のサックラー美術館において重要文化財のうち10点の石器が約3カ月間展示され、世界に紹介されました。
遺跡についても全体の約半分の面積にあたる99,090㎡が1994(平成6)年に国の史跡として指定を受けました。 |
ピリカ遺跡と重要文化財
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発掘調査区
(A地点1983年)
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発掘調査 (A地点1983年)
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410 |
411石器出土層の確認
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石器が出土する層を上下で確認
右の土層断面模型はA地点М-52区の土層をはぎとったものです。ここではⅢ層
中部より石器のまとまり(ⅢA石器群)が出土し、さらに掘り進むと石器を含まない層を挟んでⅢ層下部よりまた石器のまとまり(Ⅰ石器群)が出土しました。
同じような堆積状況がМ-44区においても確認され、上層からⅢB石器群が、下層からⅡ石器群が出土しました。
この事は、下から出土した石器が古く、上から出動した跡が新しいと言うそれぞれの石器が堆積した年代の違いを示しています。
このように上・下の層から石器が出土する例は北海道の旧石器時代の遺跡では極めて稀なことです。 |
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石器が出土する層を上下で確認
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A地点の発掘区 |
ピリカ遺跡は、何度か途絶えながら、原料の豊富ゆえに、再生された。 |
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Ⅰ石器群にともなった 炭化物層
(約21,000~20,000年前)
これらの炭化木片は顕微鏡による観察の結果、 マツ属(ハイマツあるいは五葉松類) トウヒ属 (エゾマツあるいはアカエゾマツ)、カラマツ属 (グイマツ)
と同定されました。 グイマツは現在北海道に分布せず、北方のサハリン、 南千島などに生育しています。
このことから、当時の気候は現在に比較し、かなり冷涼であったことがわかります。
炭化木片は石器が集中する範囲の中心にあることから、石器を製作した人々が暖房あるいは炊事のため火を燃やした焚火のあとと推定されます。 |
A地点M-52区の土層断面剥ぎ取り模型
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Ⅲ石器群の石器
18,000~17,000年前
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Ⅰ石器群に伴った炭化物層
21,000-20,000
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Ⅰ石器群に伴った炭化物層
21,000-20,000 |
Ⅰ石器群に伴った炭化物層
21,000-20,000 |
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413石器セットの移り変わり
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石器群が上下の層から出土したことにより大まかに、Ⅰ石器群・Ⅱ石器群→ ⅢA・ⅢB石器群、ⅢAとⅢB石器群の新旧関係はまだ明らかではありません。
放射性炭素年代測定法によってⅠ石器群は約21000年から2万年前。Ⅱ石器群は約20,000年前、ⅢA石器群は18000年から17,000年前の年代と判明し、ⅢB石器群はⅢA石器群に近いものと考えられます。 |
ⅢA石器群

有舌尖頭器・半月型石器
削器・彫器・掻器・石斧・尖頭器 |
ⅢB石器群

広郷型細石刃核・彫器・石錐
有舌尖頭器・尖頭器・石斧 |
Ⅱ石器群

彫器・掻器・蘭越型細石刃核 |
Ⅰ石器群

峠下型細石刃核・彫器・美利河型細石刃核 |
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420石器群
Ⅰ石器群
Ⅰ石器群 |
細石刃
峠下型細石刃核
彫器 |
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細石刃 |
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峠下型細石刃核 |
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彫器
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430Ⅱ石器群
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Ⅱ石器群 |
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細石刃  |
蘭越型細石刃核 |
細石刃  |
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石刃
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石刃核
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440 |
441Ⅲ石器群
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442
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443
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450石器作りの職人
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ピリカ遺跡ⅢA石器群は基部に舌状の作り出しを持つ有舌尖頭器、木葉形、柳葉形・半月形の尖頭器などのいろいろな形の尖頭器によって特徴づけられます。
中でも長さ33.1cm厚さ1.8cmの尖頭器は月桂樹の葉に似た流麗な形をしており、ひときわ目を魅かれます。
この長大な尖頭器に長い柄が取り付けられ、槍先として機能したとはとても思われません。
長さ44.7cm、重さ4.4kgもある両面加工石器と共に呪術的、儀礼的な用途が考えられます。
白いメノウ製の尖頭器も出土しています。メノウは硬度7(鉱物の硬さをあらわす目盛りで、最も硬いダイヤモンドが硬度10)と非常に硬く、石器の材質としては困難を伴いますが、左右対称の見事な木葉形に仕上げています。
この尖頭器の表面には黒ずんでいる部分があります。これは熱を受けたためと考えられています。
石器の素材を加熱処理することによって珪質で硬い石の剥離をたやすくする方法として知られています。
今金町字花石はかつて瑪瑙の採掘と加工が盛んでしたが、ピリカ旧石器人はその先がけというわけです。 |
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石器作りのの職人 |
Ⅲ石器群 |
有舌尖頭器
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尖頭器
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尖頭器
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尖頭器 |
両面加工石器
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460ピリカ旧石器人のオシャレ
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Ⅱ石器群に伴って日本最古の首飾りと考えられる7点の玉製品が発見されました。
これらは焼土と思われる淡いピンク色の土を遺跡から持ち帰り水洗いした時に
見つかったものです。玉の穴は、素材のほぼ中央に両側から開けられています。
玉の多くは変形しており、これはネックレス状に身に付けられ、玉と玉が擦れあって
減ってしまったためと思われます。玉の材質は、はんれい岩系が5点、ダンかんらん岩が2点であり、すべて緑泥石化という変質作用を受けており、このような種類の岩石は北海道にはなく、本州か、大陸からもたらされたものと考えられます。 |
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Ⅱ石器群 |
ピリカ旧石器人のオシャレ
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4点の玉が発見された石器集中地点 |
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Ⅱ石器群 |
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玉製品
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玉製品
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玉製品
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470美利河技法の提唱
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石器の色や模様などを手がかりに似たものを集めると、石器と石器が互いに引きつけ合うようにピタッと合わさることがあります。こうした接合作業は、北海道の旧石器文化研究においては、このピリカ遺跡の資料で、北海道埋蔵文化財センターによって本格的に行われたのが最初です。その努力が実り、細石刃の剥離技術として知られていなかったピリカ技法が新たに提唱されました。これらの接合資料は、まるでビデオテープの巻き戻して見ているように石器の作り方を再現してくれるのです。石器作りにおける成功ばかりではなく、失敗例も見られ、ピリカ旧石器人との対応が出来るような気がします。 |
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美利河技法の提唱 |
美利河技法の提唱
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接合前の分類 |
接合後 |
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Ⅰ石器群 |
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480石刃の接合資料
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接合資料は石器の作り方を教えてくれるだけではありません。同じ塊の石から剥がされたと思われる石を集め接合作業を進めてもジグソーパズルのように全てが埋まるとは限りません。ここにある3点の接合資料は、石刃技法の進行過程を表すものです。
A・Bの接合資料では、表皮、打面調整、剥片、石刃核は互いに接合しましたが、肝心の目的とした石刃が抜けています。剥がされた石刃は製品として加工され消費されたか、あるいは石刃のまま遺跡外へ持ち出されたなどのことが考えられます。
Cの接合資料では、表皮、目的とした石刃は接合しましたが、芯の部分である石刃核が遺跡内から出土しませんでした。まだ石刃を剥ぐことができる石刃核が、次の遺跡へ持ち出されたことが考えられます。
このように接合作業は遺跡内にとどまらず、遠く離れた違う遺跡間に及ぶ可能性を教えてくれています。接合作業を徹底的に行う事は、ピリカ旧石器人の遺跡内での移動、ひいては遊動生活の解明にもつながるのです。
※感激 これまで沢山の接合資料を見てきたが、単に「ごくろうさま」としか思わなかったが、何が足りないのか、それはどうしたを解説してもらえると、これほど有意義な接合資料の展示はほかにはないと思います。 |
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石刃の接合資料 |
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A(Ⅱ石器群)
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B(Ⅲ石器群) |
C(Ⅱ石器群)
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490ピリカ-美しい川
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ピリカ―この優しい響きはアイヌ語地名「pirka-pet(ピリカ。ペッ)」に由来します。
日本語にすると良い川とか美しい川という意味です。
綺麗な川なら他にいくつもあります。しかし、先住民であるアイヌの人たちは、
外見だけの美しさを超えた何か特別な思い入れをこの土地に重ね、心に刻んだものでしょう。
現在の私たちには、この地名の本当の由来や意味を知る事はできませんが、
遺跡にある湧水、群生する水芭蕉、川の中に光るメノウに向けられた
まなざしから生まれた生まれてたのかもしれません。
ピリカと名付けた人たちは、はるか2万年前の人たちと私たちをつなぐ
鎖のような役割を持っていたものと考えられます。
遺跡はきっとその事情を知っているのでしょうが、なかなか語ってはくれません。
ぜひ、遺跡にたたずんで、柔らかい風を受けながら、
自分の目と耳で確かめてみてください。 |
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500ピリカ遺跡
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国指定史跡 ピリカ遺跡
時代
旧石器時代から縄文時代初頭にかけて、今からおよそ2万年前から1万年前に残された遺跡です。
広さ
後志利別川の支流、ピリカ別川左岸の標高130~180mのなだらかな丘陵一帯に広がっています。
面積は約20万平㎡に及び、このうち99,090㎡が1994年(平成6年)4月26日に国の史跡として指定されています。
特色
これまでにA・B・C・D・E・K地点において発掘調査が行われています。
1983年(昭和58年)と1984年(昭和59年)において、最も大規模な調査が行われたA点の調査では、出土した石器の時代的な変遷をたどることができ、また、石器を製作した場所や火を焚いた場所などが発見されています。
11万点に及ぶ出土品のうち、長さが日本列島では最大級の尖頭器、珍しい装身具(カンラン岩製のビーズ)など163点が1991年(平成3)年国の重要文化財に指定されました。 |
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502石器製作跡展示場
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石器製作跡展示場
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史跡ピリカ遺跡
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ピリカ遺跡全体図
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ピリカ遺跡
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ピリカ遺跡 |
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503ピリカ遺跡の美しい石器 宮本雅通(今金町教育委員会学芸員)
意図的に壊される?
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新聞記事全文
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意図的に壊される?
今回は当館の展示品の中でひときわ目立つ「美石器」をご紹介しましょう。
重要文化財展示室でスポ ットを浴びて浮き立つ二つ の石器写真左がそれです。右は長さ33cmという異様な大きさと、柳の葉を模したかのような流麗な姿に目がクギ付けになります。
黄色を帯びる頁岩製。左は長さ25cmの木の葉形、メノウの白色が抜群の存在感を放っています。赤い部分は 節理面といい、石材の内部 に走る天然の平滑な亀裂で
す。いずれも両縁から整形 され、先がとがる形状から「槍先形尖頭器」という種類に属します。 これは一般に柄の先に付け、獲物を捕るために使われたものと考えられており、普通の長さは15cm以下のものがほとんどです。
しかし、この二つはその倍以上の長さがあり、また右の石器は大きさの割に厚 さは1.8cmと、軽い衝撃で簡単に折れてしまう薄さです。果たしてこれらは本当に狩りの場面を想定して作られたものなのでしょうか。1983~94年の発掘当時、これらはどちらもバラバラの状態で発見されました。右は5点が直径80cm程度の範囲から、左は7点 が約3mの範囲からまとま って出土し、いずれも接合 し復元されたものです。
右の石器は、製作時に生ずるカケラが一つも見つからないことから、完成品の状態で外部から持ち込まれたものでした。また、いずれも完成品の状態からバラバラに分割されています。左の石器はメノウという非常に硬い石材で作られており、厚さが2.4cmあるため、そう簡単には折れない厚さです。それが7分割されていることからみて、非常に強い力で執拗に壊されたと考えざるを得ません。右の石器は薄いとは言え5分割という異様な折れの状況を示しており、これも意図的に壊されたとみられます。
さて、これらに見られる「異常な大きさ」と「意図的に壊す」という現象を皆さんはどのように考えますか? 考古学者によるこれまでの説明は諸説ありますが、実用品ではなく、旧石器人の社会生活や精神性を示すものであろうとする点は共通するようです。私もその考えに賛成する者の一人ですが、それ以上の具体的な説となると推測の域を脱しません。
そこを踏み込んで考えるのがまた楽しいところでもあります。ぜひ多くの皆さんに実物をご 覧頂き、このバラバラ事件の真相究明に挑んでくださ い。
なお、これらを含むピリカ遺跡の石器10点は1992年、はるばる海を渡り、アメリカのスミソニアン博物館で展示されました。
「Ancient Japan(古代の日本展)」と題する特別展に日本の旧石器文化を代表する資料として出展されたのです。そして展示担当の学芸員から「世界で最も美しい石器」と評されたのが右の石器です。 ピリカ遺跡のある美利河地区の名はアイヌ語の「ピリカ・ベツ(美しい・川)」に由来します。アイヌの人々がピリカベツ川の何を美しいと感じ、そう名付けたのかはわかりませんが、奇しくもピリカ遺跡は世界で 最も美しい石器を擁する遺跡でもあったわけです。 皆さんもぜひピリカ遺跡に立ち、ピリカベツを望む景観から当時の人々の暮らしに思いをはせてみてくだ さい。
なお、ピリカ旧石器文化 館は4月1日からリニュー アルオープンします。イラストや映像などを豊富に使い、より親しみやすい展示になりました。また、リニ ューアル記念として試験的 にこの1年間は入館料を無料といたします。ぜひ、この機会にご来館ください。
◇ ◇ ◇
「学芸員リポート」は、 道南ブロック博物館施設等 連絡協議会のブログに掲載 された会員の記事を抜粋 し、加筆・修正して連載し ています。
道南ブロック博物館施設 等連絡協議会(http://dounan.exblog.jp/i0/) |
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510石器製作跡(屋外展示棟)
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511➀発掘方法
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遺跡発掘の仕方 |
1 遺跡発掘のやりかた
1 発掘する場所をきめる。
2 一番上の土を取りのぞく。
3 ていねいに掘りさげて行く。
4 石器が出たら、 目印をつける。
5 石器を動かさず、まわりを掘り下げる。
6 石器の位置を記録し、取り上げる。
7 4~6 を繰り返す。
8 地層を観察して、土の色や性質により線引きし、図にあらわす。 |
遺跡の地層や土からわかること
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2 遺跡の地層や士からわかること
《遺跡の年代をしらべる》
1 遺跡の地層は、下の層が古く、上の層が 新しい。石器がどの層から出たか確認する。
2 地層にふくまれる火山灰を顕微鏡でしら べることにより、 どこの火山からいつごろ 飛んで来たかがわかる。
3 遺跡から木炭や貝がらなどが出ると、その中に残っている放射性炭素(C14) の量をはかることで、
その木や貝が死んで 遺跡に残された年代がわかる。
《当時の環境をしらべる》
土の中にのこっている花粉などの小さい化石を顕微鏡でしらべると、生物の種類がわかり、環境をしることができる。 |
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512剥ぎ取り土層
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ピリカ遺跡石器製作跡の地層剥ぎ取り標本 |
※最上部から下方へ
石器を含む地層 |
1層 表土(耕作土)
2層 凝灰質シルト
3層 シルト
4a層 細かい砂を含むシルト
4b層 細から中礫を含むシルト |
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石器を含む地層
濁川火山灰 (約1万2千年前) を含む再堆積層。 花粉分析の結果、モミ・マツ・カバノキ属などの木と、
シダ類が繁茂した森林であった。
木炭のC14年代を測定(約1万5千年前)花粉分析の結果、カバノキ・ハンノキ・コナラ属などの木がまばらに生え、コケスギランなどからなる寒冷乾燥気候をしめす草原が広がっていた |
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4b層 細から中礫を含むシルト
4c層 細かい砂を踏むシルト
5層 凝灰質中粒砂
6層 粗粒砂 |
洞爺火山灰(10~13万年前)を含む再堆積層 |
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6層 粗粒砂
7層 細粒砂
8層 粘土 |
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7層 細粒砂
8層 粘土
9層 細~中礫 |
海生珪藻化石(単細胞藻類)が産出し、この層が堆積した頃は海であった。 |
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513③石器の調べ方
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3 石器のしらべかた
1 出土した石器を水洗いし、番号を書き入れる。
2 石器をよく観察し、 種類ごとにわける。
3 大きさや重さをはかり、正確に図にしたり、 写真撮影したりする。
4 石器の色や模様などを手がかりに同じ 石を集め、 接合することにより、 石の割り方、 遺跡内での人の動きがわかる。
5 石器の種類と組合せをしらべ、他の遺跡とくらべる。
6 石器にのこされたキズをしらべることに より、使われ方を考える。 |
石器製作跡跡から出土した石器
出土石器
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細石刃
細石刃核
尖頭器
両面加工石器
彫器
尖塔状石器 |
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削器
掻器
石錐
石刃
石核
敲石 |
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520石器製作跡
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ドアの向こうは
530氷河期の森
2夢万年前に広がっていたグイマツ・アカエゾマツ林
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ふぃーるどかいせつ No.1ピリカ遺跡
氷河期を生きたマツ ~花粉分析の成果から~ ピリカ旧石器文化館 |
氷河期を生きたマツ |
2001年、石器製作跡の近くに 10本のマツの木が植えられました。
石器製作跡に近いほうの5本 がグイマツ、遠いほうの5本がアカエゾマツと呼 ばれるマツです。
グイマツは秋に黄葉して葉が落ちる寒帯系のマツで、樺太やロシア沿海州の永久凍土地帯でみられ、現在の日本列島ではみられないマツです。
アカエゾマツも寒い環境を好み、氷河期には北海道から本州東北地方に広がっていましたが、現在は道や道北地域が中心となっています。
1983年のピリカ遺跡の発掘調査の際、石器を含む地層から土壌サンプルを採取し顕微鏡でくわし<観察する花粉分析が行われ、多くの花粉や胞子の化石がみつかりました。その中にグイマツやアカエゾマツの花粉化石も含まれていたのです。
このことから、ピリカ遺跡の人々が暮らしていたおよそ2万年前は、グイマツやアカエゾマツの林が広がる、現在のシベリア地方のような寒くて乾燥した気候だったことがわかります。
ピリカ遺跡の人々はこのようなマツの木がまばらに広がる草原で、転々と獲物を追いつつ暮らしていた・・・そんな風景を想像してみましょう。 |
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600海牛展示棟
ピリカ旧石器文化館や石器製作跡展示棟とは別に、カイギュウ骨の展示棟(文化財保管活用庫)がありました。
海牛骨の発見は、ピリカダム建設工事地中に、2名の現場作業員が巨大な肋骨2本を発見したことに始まります。
発掘の結果、カイギュウ骨は、約120万年前、全長8mのものでした。
骨角は頭部を含む33個の骨化石で、棟内に復元展示されています。
※上半身のみと言うのは、下半身は120万年の間の地殻変動で失われてしまったのか、ダム工事の際に失われたのか、
それとも、元々、120万年前の死体で海底に堆積した時には腐敗して取れてしまったのか、
サメやシャチに下半身を食いちぎられて沈んだのでしょうか。いずれにしろ現在は復元されています。
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601
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610カイギュウ骨角復元展示
それとは別に、残念なお話。
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ステラーダイカイギュウの絶滅
ステラーダイカイギュウは、18世紀中頃、 ベーリング探険隊のステラーによって発見されたが、捕鯨やラッコ狩りの人びとに狩りつくされ、ステラーの発見後わずか27年間で、二度と姿を見ることができなくなりました。 |
カイギュウ骨角模型 |
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ステラーカイギュウの絶滅
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ジュゴン |
子供向けQ&A |
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611子供向けリーフレット
ピリカカイギュウQ&A
表 |

裏 |
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620貝化石
カイギュウ骨角に伴出した貝化石
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630ピリカカイギュウ
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復元骨格模型 (プラスチック製)
体長約8mと復元された中では世界最大級のカイギュウ化石
発見された地層から、今からおよそ120万年前と推定
18世紀半ばまで生存したステラーカイギュウを元に復元
復元: 美利河海牛化石調査研究会
作製: 沼田町化石研究会
指導監修: 古澤 仁・久家直之 |
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640貝化石

エゾボラ×2
オーロラニシキ×2
海牛共伴 |

シラトリガイ
エゾボラ×2
オーロラニシキ |

シラトリガイ
エゾボラ |
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スッポン類
産出地 今金町 新生代新第三紀中新世 所蔵 今金町教育委員会
甲らは扁平で、表面に特徴的なしわ状の模様が刻まれる。 水生の雑食動物で、 現生のものは湖、 沼、 流れの遅い川で アツガキやピカリアなどの貝化石も産出しており、亜熱帯~熱帯の環境のもとで生活していたスッポン類である。 |
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650ピリカカイギュウの発見
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ピリカカイギュウの発見
■1983年秋、美利河ダムの建設工事中、 偶然に現場作業員の斎数久雄さんと上野晃さんによって化石が発見さ
れました。
■化石に詳しい地元教員の日下哉さんの予備調査の後、北海道教育大学の秋葉 力先生、 木村方一先生らによりカイギュウ類であるとの見解が示され、 翌年発掘調査 を行うことが決まりました。
■1984年、地元町民とほ乳類化石の発掘経験のある全道 各地の教職員、 大学関係者からなる調査団が組織され、 5月の連休を利用し、
多くの人の協力により化石は発掘 されました。
■発掘調査の結果、 化石はあお向けの状態になっており、頭を含む上半身部分が良好に残っていることがわかりました。
しかし胸骨や下顎骨などはなく、 またダム工事によって下半身は失われていました。
■発見当時の化石は、豆腐のような軟らかい状態だったため、化石の保護のため、周囲を石膏で固めて砂ごと取り出すという方法が採用されました。
■その後の化石のクリーニング作業は、 発掘関係者を中心とする「美利河海牛化石調査研究会」によって長い期間にわたり、
丹念に行われました。
実物大の復元模型は、専門家や沼田町化石研究会等多くの方々の協力で1998年に完成しました。 |
ピリカカイギュウの発見
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ピリカカイギュウの発見 |
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発見当時の化石で、崖面から肋骨などが見えています
 発掘現場には各地から多くの見学者が集まりました |
専門家により詳しい調査が行われているようす
 発掘調査の結果、計33個の化石が発見されました |
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ピリカカイギュウとは?
■ピリカイギュウは海にすむ草食のほ乳類です。 今生きている動物で最も近いのはジュゴンやマナティです。
■ピリカカイギュウは今からおよそ120万年前、 長万部・黒松内寿都地方に広がっていた 「古黒松内海峡」 付近にすんでいました。
■ピリカカイギュウとともに産出した貝化石は 「瀬棚動物群」と呼ばれ、100万年前頃の北海道周辺の代表的な 化石動物群集とされています。
■それら貝化石の中には、 現在ベーリング海付近の浅い海にすんでいる現生種のオーロラニシキなどが含まれており、当時の海が現在のオホーツク海なみの冷たい海だったことがわかりました。
■復元されたピリカカイギュウは、体長が8mを超え、世界最大の海牛化石であることがわかりました。
■体の各部位のつくりは、タキカワカイギュウとステラーカイギュウの中間的な特徴をもっています。 このことは、ピリカカイギュウがタキカワカイギュウの子孫で、ステラーカイギュウの祖先に当たることを示しています。 ただし固有種かどうかはわかっていません。
■ピリカカイギュウは、頭を含む上半身が産出したほぼ 完全な標本で、 今後の研究が期待されています。 |
美利河海牛とは
ピリカカイギュウとは |
120-100万年前頃の渡島半島の地形 (想像図)
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古黒松内海峡
化石発見場所
現在の海岸線
当時の陸 |
世界のカイギュウ類の系統と分布 大きさ
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660磨製石斧
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ほぼ真っ暗な状態と、近接した蛍光灯の光。撮影条件が悪かったです。磨製石斧だから、縄文時代ですね。
田代3遺跡の磨製石斧 この遺跡では、畑から多くの磨製石斧が採集されています。
磨製石斧は主に木を伐採するのに使われたと考えられています。
竪穴住居を作るなど、木材と関係の深いくらしぶりが想像されます。 |
磨製石斧 |
磨製石斧 |
磨製石斧 |
石棒 |
田代3遺跡の磨製石斧 |
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北海道の石棒 時代 AI による概要
北海道では縄文時代中期から晩期にかけて石棒が使用されており、祭祀に用いられたと考えられています。
【石棒の時代】
縄文時代中期以降に製作・使用されたと考えられている
縄文時代前期から晩期に用いられた
弥生時代前半期まで使用された
【石棒の形態】
丸い棒状の軸部と半球形の頭部を一体として形作り、表面を丁寧に磨いて仕上げている
剣のかたちを模した祭器と考えられている
【石棒の用途】
男性器を模した形状から、子孫繁栄の儀礼等に用いられたと考えられている
男根を模したと考えられる呪術・祭祀に関連した特殊な道具とみられる
【石棒の例】
千歳市のキウス周堤墓群の一つのお墓から見つかった石の棒は、約3,200年前の縄文時代後期に作られたものです
北海道から九州まで日本各地で出土しています |
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誠に、AIはとんでもない回答を出すものです。こんなもの信用してはいけません。 |
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