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 北部九州の縄文 №40  2020.11.22-2

  大分市歴史資料館40 大分市国分960-1
  097-549-0880 休館日(要注意)撮影可

交通 JR大分駅→20分→豊後国分駅…→徒歩→350m4分
       
  備考  館は旧豊後国分寺遺跡内にあります。国分寺は規模を縮小して現在も存続しています。
あとで現在の国分寺を訪ねてみましたが、趣のある寺院でした。
大多数の古代寺院が消滅した中、現存することで、古代寺院の広大さと、寺院の消長というものを深く感じました。。
 

 目次
02入口展示

041.国分寺七重塔
05府内城天守復元模型
06市内の石仏
10 2.高瀬石仏

203.大分のあけぼの
30大分の地質時代

40旧石器時代
41石器の移り変わり
43各地の石材
50いろいろな旧石器
100縄文時代
101縄文土器の誕生
103前期土器
104早期土器
105前期~後期
106後期土器
110弥生早・前期土器
120大分市の縄文遺跡

123横尾遺跡
125カゴに入った黒曜石
130黒曜石の流通
135姫島黒曜石製品
136縄文人の食べたもの
137縄文時代のドングリ
138深鉢
140縄文の道具
150縄文の墓

縄文時代の合口甕棺墓
160縄文のくらし
200弥生時代
202稲作の広がり
211鏡片
222様々な青銅器
223銅矛の埋納遺構
224青銅器
225武器型青銅器
230下郡遺跡~大集落
250様々な弥生土器
253弥生前期土器
254弥生中期土器
255弥生後期土器
257祭祀土器
258市内出土土器



260古墳時代
261体験コーナー
280千代丸古墳 装飾墳

300古墳時代
305箱式石棺
310大分市周辺の古墳
313小牧山
・世利門古墳群出土品
317市内出土の埴輪
318蓋形埴輪復元図
320古墳時代の生活
322カマドの出現

325横穴墓の盛行
327玉作遺跡
330最後の石室古墳
334終末期古墳分布
336古墳時代の土師器
346須恵器

500古代
503仏教文化の導入
510廃寺瓦
521松岡古窯跡群3号窯
522生産遺跡と官衙
524窯跡出土須恵器

530律令時代
532律令制について
533竜王畑遺跡
535官衙遺跡出土品
540市内の官衙遺跡
546陶磁器

550九州の国分寺瓦
560終末期古墳
570古代寺院
572国分寺
577梵鐘鋳造遺構
590国分寺の伽藍配置
593墨書土器
600豊後国分寺
620奈良時代
622地蔵原遺跡
625鋳造関連遺跡
626経塚出土遺物

700国分寺跡公園
701豊後国分寺遺跡
703現存の国分寺
 
 01九州の列車
九州の列車
座席シートはカラフルでカッコイイひじ掛けも

でもこのテーブルは昔の列車にあったもの
昔の思い出は、
仕事帰りのおっさんが缶ビールとつまみを置いて疲れを癒していたり、団体旅行の老人が静かに騒いでいたり、、、 古い列車を改修して使っているんですね


 歴史資料館
  資料館は旧国分寺の跡地内にあります。広大な寺域が現代まで残されていました。資料館も古代寺院風の建築です。

 02入口展示
 国分寺建立の詔勅が発せられ、七重塔を建立するように命じられた。なぜ七重塔なのだろう。中国大慈恩寺の大雁塔は確かに七重塔である。
何かの仏教思想に基づいた建築なのだろうか。しかし、日本の木造七重塔は建てられてもほとんどが落雷と兵火で焼失している。
土製の大雁塔とは耐久性が違うようである。
 ただ、なぜ七重の塔なのかはわからなかった。現在は五重塔か三重塔が残っている。

国分寺七重の塔

 館内図
館内案内図 2階展示室 1階事務棟 借景  大分の里山らしい美しい景色です。
六郷満山の里風景ような田舎が、
とても心を癒してくれました。
 
 歴史資料館の展示
1.国分寺七重の塔 5. 大友宗麟と中世
2.高瀬石仏 6. 近世の府内
3.大分のあけぼの 7. くらしの道具(民俗)
4.国分寺と律令の時代
 ※1~4の太字の所だけ取材しています。
 03大分の史跡
常設展案内 大分の史跡
高瀬石仏
元町石仏 大友氏遺跡


 04 1.国分寺七重塔

※奈良時代は気候の変動疫病の大流行地震噴火など、最悪の時代でした。当時これは天皇の不徳のためとされていました。
そこで天皇は、全国に国分寺を造り、七重塔を建てるように命じました。このため、全国に七重塔という高層建築が出現しました。(なぜ七重?)
ただし、このような建物は誘雷し、建てても建てても雷に撃たれて焼失という事態も起こりました。
 天皇にこのようなバカげたことを入れ知恵した悪い奴がいたんですね。
 苦しんでいる民衆にさらに負担を掛け、あの奈良の大仏まで造らせたんですから。
 その分の莫大な予算とエネルギーを民衆救済に当てていれば、民はどれほど救われたか。
 現代でも、コロナの給付金で、県知事が『コロナの鐘』を作ろう、、なんて、そんなもの作っていつ鳴らすんだ。
 いつの世にも、為政者というのは、愚かな甘言に惑わされるものだ。


 って、行基(668-749)、国分寺建立の詔勅(741)、大仏建立(745)
民衆に直接仏教を布教していた行基を、南都仏教界がこれを禁止するように直訴し、在野となった行基が大仏建立に尽力し、全国を行脚して勧進をした。高齢の老僧が全国行脚し天皇にうとまれながら勧進したということは、直接仏教を庶民に布教することとなり、行基の願いが実現したのである。僅か8年で死去。

 奈良時代は気象災害や、地震、天然痘の大流行など、日本中に死体がゴロゴロ転がり、3人に1人が死んだという悲惨な状況の中で、
ぬくぬくと荘園のあがりで暮らしていた南都の高僧たちは、自分たちの勢力拡大のために全国に高級寺院を造らせ、その財政基盤も保証させ、自分たちがより広範囲に権力を拡大し、富むために、鎮護国家などと銘打って、庶民を苦しめたのは、当時の南都仏教は、国家仏教・特権階級の宗教であって、泥の中をはいずる、薄汚い庶民は、自分たちの荘園の奴隷・むしけらぐらいにしか思っていなかったのでしょうね。当時の仏教では庶民は救われない存在だったのでしょう。
 行基が現代に名を残したのは、未来の仏教のあり方を見通していたのかもしれません。

豊後国分寺
七重塔模型
 こんな巨大な芯柱は、いくら古代であっても、
そうは簡単には手に入らない。
 無理な建築ですね。
 ただ、現在では何百年も生きた木を僅か一か月ほどのなぐさみのために切ってきて、その後は何にも利用されずにゴミとして切り刻んで燃やされてしまう、クリスマスツリーよりはマシかも。
 05府内城天守復元模型 1/50
北野隆熊本大学名誉教授の復元研究を参考に製作したものです。
 層塔型の4重の天守で、最上階には華頭窓が飾られ、廻縁や高欄が巡る。
 府内城の諸櫓と同じように出桁を斜め方向の木材(方丈)で支える建物構造が特徴である。
 06市内の石仏
※古代豊後は、天皇の信任を得て繁栄した宗教都市だったようです。大金を投じて寺院や石仏が次々と建立され、長く維持され続けました。
 仏像好きには、奈良の仏像よりも味のある豊後石仏です。
市内の石仏
 
 10 2.高瀬石仏 (国指定史跡) 平安時代末期
 市内高瀬には、高さ1.8m幅4.4mの石窟状に彫り込まれた岩壁に、5体の仏像が彫られている。
向かって右から馬頭観音坐像、如意輪観音坐像、胎蔵界大日如来坐像、大威徳明王坐像、深沙大将立像の順に掘り出され、
中央の大日如来坐像はほとんど丸彫りに近い。
また、左端の深沙大将は赤く彩色された炎髪を逆立て、腹部には童女の顔が描かれ、どくろの首飾りや蛇を身体に巻き付けている。
が彫像として造像される例は全国的にも大変珍しい。全体を通しての温和な表情や浅い彫口などから平安時代末期頃の作と考えられている。

高瀬石仏
 


 20 3.大分のあけぼの
 
大分の郡(おおきだのこおり)
(さと)は九(ところ)…… 大分河(おほきだがわ) 郡の南にあり、 
此の河の源は  直入(なほり)の郡の  朽網(くたみ)の峯より出て  東を指して下り流れ  此の郡を経過()ぎて (とど)は東の海に入る
因りて大分川といふ  年魚(あゆ) (さわ)にあり     【豊後風土記】



 大分の土層
 私たち人間は数十万年もの長い間、生活の痕跡を大地に刻んできた。また、人々が使用した道具などが土中に埋もれて今日まで残ることもある。
過去このような証拠が、原始時代や古代の人間の生活記録となる。
 大分市域に人間が住み始めてから今日までには、海進によって丘陵の下まで海になった時期もあったが、著しい地形変化はなかった。
ただ、地表面は阿蘇山久住山などの火山の噴火や河川の堆積によって、次第に高くなってきた。

※大分市は、北九州島と南九州島の間にあり、二つの島の間を多量の火山灰と山岳を浸食した土砂が埋めた地溝帯の上にある。
引き裂かれていく九州は、しかし、常に堆積する土砂によってその隙間を埋められ、その間に存在する火山や温泉など、変化にとんだ地形である。

 大分の土層          
弥生~現代
黒色土
約2400年前-現代
縄文時代
アカホヤ層
暗茶褐色層
約1万-2400年前
旧石器
黄褐色火山灰層
2100年前
黒褐色土層

黒ボク土は20cmマデ
アカホヤ層20-50cm
風化土層50-80cm
火山灰層80-150cm
堆積層150-
 
 30大分の地質時代
ステゴドン象
大分市周辺には大分累層群と呼ばれる新世代の地層が広く分布している。その中で大分層群鶴崎層からステゴドン象の化石が5個(2個体分)発見されている。ステゴドン象は新生代第三紀の終わりから、第四紀更新世の中頃(340万年から30万年前)にかけて、東南アジア、中国大陸、日本列島に生息していた象の仲間で第三紀の中頃マストドン象から進化した象とされている。

ステゴドン象 象の大きさ比べ ステゴドン象下顎骨
ステゴドン象化石

  
三万年前の日本列島
世界の古人類
猿人―3百万年前
原人―50万年前
旧人―15~3万年前
新人―3万年前
 


 40旧石器時代


 日本のあけぼの
 日本列島に人が住み始めた正確な年代は明らかではないが、少なくとも古い石器が発見された数万年前頃にはナウマンゾウやオオツノジカなどの動物を追って大陸から移動してきたと考えられる。
土器を持たず、石器を使い、狩猟と採集を生業の中心としたこの時代は旧石器時代といわれ、寒冷な氷期と比較的温暖な間氷期が繰り返し訪れ、氷期の間、日本列島は大陸と陸続きであった。
 人々は血のつながった小さな集団を作り、獲物を追って移動することが多かったと考えられる。
やがて、約3万年から1万2000年前の後期旧石器時代の間にナイフ形石器、細石器、尖頭器などの精巧な石器が作られた。
日本のあけぼの

 41石器の移り変わり
 市内で発見される石器には、近くは大野川流域で産出する流紋岩、遠くは佐賀県腰岳産の黒曜石などが使われていた。
最も多い狩猟用の石器として、特に発達を見せたのが薄く鋭利な流紋岩や黒曜石で作られた細石刃を装着した石槍である。
この石槍は細石刃が欠けた場合はその石だけを交換すれば良いという合理的な石器であった。
 やがて、縄文時代になり、森の中でもより正確に獲物を狙える弓矢が使われ始め、石槍は姿を消していった。
※九州の旧石器人は、黄河文化センターの出身なのだろうか。

石器の移り変わり
後期旧石器時代

台形→ナイフ形→
剥片尖頭器→角錐状石器→細石刃
縄文時代
細石刃~石鏃

細石刃→石槍→石鏃
旧石器時代
台形石器~細石刃

 大分市の旧石器時代遺跡
 市内でいつから人間が生活を始めたのか明らかでないが、人々は農耕を営むことはなく、獲物となる動物を追い植物を採集しながら移動生活を送っていたと考えられる。
 これまでの発掘調査では、遺跡の多くは台地上や山地で見つかっている。
出土するものは全て石器や礫であり、旧石器時代の先人の生活を窺い知る資料は少ない。

 43各地の石材
チャート
姫島産ガラス質安山岩
姫島産黒曜石
サヌカイト
流紋岩
熊本県大山産黒曜石
大野川産流紋岩
佐賀県腰岳産黒曜石
 
 50いろいろな旧石器
※『石核』は剥片剥離用の石核なのか、石核石器なのか、

石核
猪野新土井遺跡

 剥片石器
ナイフ形石器
横尾・猪野新土居・守岡・野田山遺跡
剥片
石器素材や石屑
ナイフ形石器
旧三重町百枝遺跡
剥片
素材と石屑

 三稜尖頭器
三稜尖頭器
旧三重町百枝遺跡

剥片尖頭器
尾崎遺跡
剥片接合資料
旧三重町百枝遺跡
敲石
旧三重町百枝遺跡

原石を打ち割って石器素材を取るための道具

 細石刃
細石刃
 猪野新土居遺跡
有茎尖頭器
 縄文草創期
 横尾遺跡
細石刃
旧三重町上下田遺跡
細石核
高松遺跡
細石刃の石核
 


 100縄文時代

 豊かな1万年
 旧石器時代の後期になると、気候が温暖になり、氷河や海氷が溶け始めて海面が上昇し、大陸と陸続きだった日本列島は大陸から切り離された。
 旧石器時代に続く約1万2000年前から2000年前の1万年間は縄文時代と言われ、気候の変化に伴ってナウマンゾウやオオツノジカなどの大型獣が姿を消し、ドングリ類やクリなどの木の実(堅果類)を生み出す森林が広がるなど自然環境は大きく変わった。
人々の暮らしは、肉食を中心とした生活から植物質食料を主体とする定住生活に変化したが、自然の豊かな実りを受け、自然界のあらゆる物に霊魂が宿ると考えるなど独特な精神文化を持つようになった。

 101縄文土器の誕生
 縄文時代になると、人々は粘土質の土で器を作り、焼いた固い土器を作り始めた。
以前は生で食べるか、焼くか蒸すか以外に食料を調理する方法がなかったが、土器で煮ることにより、硬い食物を柔らかくし、熱を通すことによって殺菌効果も得られるようになった。
 また、草や木の皮を煮ることによって、繊維を取り出し、衣服や漁網なども作られるようになった。
こうして、土器の使用により縄文人の暮らしは大きく変わった。

 土器は、水を入れて食物を煮たり貯蔵したりする深めの底を持った深鉢がまず多く使われ、後に食物を盛ることもできる底の浅い浅鉢や、
水などの液体を注ぐための注口土器なども作られるようになった。
 一口に縄文土器と言っても、形や紋様が時代とともに変わり、地域差も大きいため、バラエティに富んだ土器が各時代、各地で花開いた。

縄文時代
豊かな1万年
縄文土器の誕生
 102年表
日本の古人類
牛川人(愛知)
三ケ日人(静岡)
浜北人(静岡)
港川人(沖縄)
明石原人(兵庫)
旧石器時代の絵
オーストリア-岩偶
ウクライナ-石器
スペイン・アルタミラ壁画
愛媛・上黒岩-線刻画
フランス-壁画
 BC12000
  縄文【草創期】

土器の出現
弓矢の出現
猟犬狩猟の始まり
BC7000 早期

漁撈活動始まる
貝塚の出現

竪穴式住居現れる

平底土器あらわれる
土偶現れる。

BC4000【前期】

縄文海進最高位 現在より50m高
現在の自然環境に近くなった
炉付住居の出現
大規模集落の出現
BC3550

西アジアに都市国家現れる
BC3550

ヨーロッパ新石器時代
BC3500

ヨーロッパ新石器時代

 103大分市の縄文土器 前期
深鉢
大分市横尾貝塚遺跡
縄文前期
深鉢
大分市横尾遺跡
縄文前期
縄文前期は7000~5500年前、
BC5000~3500年前
にあたります。
 

 104縄文土器

 BC9000~BC6000
 縄文早期
BC9000~BC6000
BC9000~BC6000は
1万1000年前
  ~8000年前で、
早期
1万1500年前
  ~7000年前に
おさまります。
九重町 二日市洞穴
複製

平底
貝殻腹縁文
九重町 二日市洞穴
複製

尖底
無文
野津町 菅無田遺跡
複製

尖底
無文
野津町 菅無田遺跡
複製

丸底
野津町 菅無田遺跡
複製

尖底
縄文
野津町 菅無田遺跡
複製
尖底
縄文
 ※同一遺跡でも、時期か、使用目的か、によって底の形が異なる。
 105BC6000~BC3000
   前期6000-5000
   中期5000-4000
   後期4000-3000
BC6000~BC3000 野津町 菅無田遺跡
複製

丸底
荻町 竜宮洞穴
複製

平底
野津町 菅無田遺跡
複製

平底
野津町 新生遺跡
複製

平底
BC6000~BC3000は
8000~5000年前
早期末~前期
にあたります。
 106
大分市内の縄文土器
深鉢
大分市横尾遺跡
縄文後期
深鉢
大分市横尾遺跡
縄文後期
底部渦巻文土器
大分市横尾遺跡
縄文後期

 ※縄文後期は4400~3200年前 BC2200~BC1200になります。

 107BC2000~BC1000
  縄文後期
豊後高田市 森貝塚
複製
本耶馬渓町 枌洞穴
へぎどうけつ 複製
九重町 二日市洞穴
複製
野津町 内河野遺跡
複製
大野町 夏足原遺跡
複製
野津町 生野遺跡
複製
野津町 内河野遺跡
複製
大野町 駒方遺跡
複製
 108
深鉢
大分市 横尾遺跡
縄文時代後期
深鉢
大分市 横尾遺跡
縄文時代後期
縄文後期は
 4400~3200年前
 BC2200~BC1200になります。
 
 110土器
  弥生早期
BC1000
弥生早期
緒方町 大石遺跡
複製
緒方町 大石遺跡
複製
緒方町 大石遺跡
複製
弥生早期
 BC10世紀-BC5世紀
弥生前期
 BC5世紀-紀元2世紀
弥生中期
 BC2世紀-AD1世紀
弥生後期
 AD1世紀-2.5世紀

 弥生前期
BC350
弥生前期
荻町 浦久保遺跡
複製
荻町 浦久保遺跡
複製
竹田市 楠野遺跡
複製
大分市 小池原貝塚
 
 

 120大分市の縄文遺跡
 豊かな森の恵みを受け、定住生活が始まった縄文時代早期には、大野川や大分川流域の台地上に集落があったと考えられるが、発掘調査で集落跡が見つかることは少ない。
当時は低地にも森が広がり、
縄文時代早期の遺跡が丘陵や台地上に立地するのに対し、
それ以降では台地を下り、平野部に進出する傾向にある。

大分市の縄文遺跡
丹生川遺跡
横塚第2遺跡
延命寺遺跡
横尾貝塚(国指定遺跡)
⑤小池原遺跡
⑥牧六分遺跡
下郡遺跡
大分川河川敷遺跡
旦野原神原遺跡
国分台遺跡
⑪上片面遺跡
庄ノ原遺跡
⑬几帳原遺跡
⑭田ノ浦遺跡
下原遺跡
野田山遺跡

 考古学研究の最新情報
  ―ハイテク考古学の成果―
  大分市 横尾貝塚 紀元前5300年頃 縄文早期末
 かごに入った姫島産の黒曜石が、火山灰のすぐ下から見つかりました。
今から7300年前(縄文早期末)に降り積もったこの火山灰は、鹿児島県の海底火山の大噴火によるものです。鬼界カルデラ
この時に地震など大災害が起きたため、人々はかごを残したまま逃げ出しました。
石器の収納方法を具体的に示すこの発見は他に例がなく、世界的にも注目されています。

考古学研究の最新情報
 ―ハイテク考古学の成果―
かごに詰められたまま見つかった姫島の黒曜石を CTスキャンによる透視
 
 122年表 縄文中期 BC3000-BC2000
  ※縄文中期は世界的な気候の温暖化や安定化で世界中に文明がおこった。列島では、華やかな土器文化がおこる。

BC3000縄文中期
エジプト第1王朝始まる
エジプト象形文字
ヨーロッパの巨石文化
ストーンヘンジ
BC2100
立体的文様の土器が多く作られる 火炎土器
石棒が盛んに作られる
回転離頭銛の出現

 123横尾遺跡 ~注目を浴びる縄文の遺跡~ 大分市横尾東町27
 横尾遺跡は、大野川の分流、乙津川左岸に広がる縄文時代の遺跡で、これまでの発掘調査によって、およそ7300年前~4000年前の縄文早期~後期の縄文人の生活を物語る膨大な数量の土器や石器、ドングリの貯蔵穴、水場の遺構などが次々と発見された。

 中でも、石器に加工される前の姫島産の黒曜石が数十個カゴに納められた状態で出土し、当時の交易の広がりを示す遺物として、
また、日本最古のカゴの発見として注目を浴びた。
ほかにも、水が湧く谷から、人の手による穴が認められる日本最古(約7300年前)の加工木材や、大型の黒曜石の石核が出土するなど
縄文人の技術をうかがい知る貴重な発見が続いている。

横尾遺跡 ~注目を浴びる縄文の遺跡~ 横尾遺跡 ドングリの貯蔵穴
日本最古の加工木材
 124
横尾貝塚の位置
約6000年前の推定海岸線

 125カゴに納められた黒曜石 大分市横尾遺跡 縄文早期末(約7300年前)

かごに納められた黒曜石

 黒曜石を入れた籠の復元品
かごを復元してわかったこと
材料
 復元実験では紙バンドを使用し、材料の種類や形状などの違いを、色を分けて再現しました。実物資料は、木を細く加工したものと蔓植物を組み合わせて作られています。
かごの形
 黒曜石を入れるかごにふさわしい作りで、中央口の扁平なかごであることがわかりました。底が抜けないように頑丈で、黒曜石が割れないように、柔軟性も備えた見事なかごです。
国指定史跡
横尾貝塚出土
縄文早期末頃
約7300年前
  黒曜石を入れたかごの復元品       

世界が注目する3つの事
1.石材を入れて持ち運ぶ入れ物が、かごであることを世界で初めて証明した資料です。
2.人類史上最大の自然災害で火山灰に埋まり、年代がはっきりと分かりました。
3.約7300年前の日本に、かごの存在が明らかとなりました。

黒曜石を入れたかご
取り上げ直後
 
 130黒曜石の流通
 131年表 インダス文明
BC2500
インダス文明・黄河文明勃興
新石器時代
BC2000
ヨーロッパ青銅器文明始まる
縄文後期
BC2000-BC1000
東日本の土偶
環状列石が盛んに作られる
 BC1800
車輪の使用(エジプト)
BC1400
殷文化おこる
 抜歯の風習が盛んに行われる。
  ・関東・東北地方で沿岸の漁業さかんになる
・中部山岳地方の集落が減少する
・西日本の土器から縄文なくなる

 BC1000 晩期 

 132黒曜石の流通
 黒曜石は火山の溶岩が急速に冷えて出来た天然ガラスの一種で、狩猟の鏃を作る石材として使われていた。
大分県内唯一の産地である姫島産の黒曜石は、縄文時代早期後半から利用が急増し、大分県内を中心に中国・四国地方にまで広く流通していた。
 県内の主な河川の河口周辺には黒曜石の運搬中継地があり、その周辺の集落に黒曜石が運ばれていたと考えられる。

 大分市の横尾遺跡で出土した縄文時代早期に運ばれてきた巨大な黒曜石は、姫島にある黒曜石の露頭から採掘され、製品を効率よく製作できるように割られて、丸木舟で運ばれたと考えられる。

黒曜石の流通
黒曜石の流通


 横尾貝塚の貝層断面
 貝塚は縄文時代の人々が食べた貝殻などを捨てたゴミ捨て場である。横尾では、
縄文前期中期に貝塚が形成され、前期はヤマトシジミ(汽水域)を、中期はハマグリ(潮間帯から潮下)を主体にしており、当時は内陸まで海水が入り込んでいた事を物語っている。
 ※時代によって採取する貝が違うのはなぜ。ハマグリのそばにはアサリがあるのだが、味が悪いからか採っていないのかな。

横尾貝塚の貝層断面


 縄文の食
 縄文文時代は、旧石器時代に比べ平均気温が上昇し、四季の変化がはっきりするようになり、ナウマンゾウやオオツノジカなどの大形獣が姿を消し、人々は猪やシカなどの中・小型の哺乳動物や、魚介類、ドングリ・ゼンマイなどの季節の変化に応じた旬の植物などを食べるようになった。

 これらのうちで一年を通じて縄文人がよく食べていたのは、クリ・シイノミ・ドングリ等の堅果類だった。クリやシイノミは生のままでも火で炙ったり、ゆでたりしても食べられたが、ドングリの中には水に浸けてさらしたり、加熱したりしてアクを抜かないと渋くて食べられない種類もあった。
縄文の食
縄文の食物カレンダー
独活野蒜
ウミニナ・ヘタナリ・カイソウ・アワビ・ハマグリ


海亀・・鮫

野葡萄・栗・胡桃・山芋
黒鯛・エイ・河豚


兎・猪・鹿・狸・カモシカ・ムササビ

 135姫島黒曜石製品

姫島産黒曜石 大形石核(2点)
  国指定史跡 横尾貝塚出土
  時代:縄文時代早期後半頃
  年代:約7800年前

横尾貝塚の調査からわかったこと
 出土状況:2つ並んで黒曜石が発見されました。
 年  代:黒曜石に重なって見つかった木の炭素の数を調べることでわかりました。
 古環境 :土を顕微鏡で調べた所、植物性プランクトンの種類から、この場所は当時海であったことがわかりました。

姫島産大形黒曜石 姫島産大形黒曜石
縄文早期後半
約7800年前
横尾遺跡の調査から
大形黒曜石           

  姫島産黒曜石製石器
 姫島産黒曜石製石器
石核
 黒曜石を粗削りした
       
石鏃
やじり
石錐
木や骨などに穴を開ける
石匙
獣の皮剥ぎ・携帯ナイフ
 136縄文人の食べたもの
シカ骨
大分市小池原貝塚
イノシシ骨・シカ骨
本耶馬渓町 枌洞穴
ハマグリ
ヤマトシジミ
ヤマトシジミ
大分市横尾遺跡
縄文前期約6000年前
ハマグリ
大分市横尾遺跡
縄文中期約4000年前

 137縄文時代のドングリ
国指定史跡 横尾貝塚出土
時代:縄文時代後期前葉頃
年代:約74000年前

ドングリを調べてわかったこと
種類
 谷底の大きな穴から見つかったドングリは、全て食用のイチイガシでした。そのドングリは、横尾貝塚のムラびと達が地下水に浸けていたものです。
湧き水に付けた理由
 害虫駆除が目的とみられます。殻にある穴は、虫が抜け出た時のものです。(コクゾウムシ)
 考古学実験で、最近採ったドングリを湧き水に浸けて観察した結果、害虫は一週間で全滅しました。

縄文時代のドングリ 浅鉢
大分市 横尾遺跡
縄文晩期
貯蔵穴出土ドングリ
大分市 横尾遺跡
縄文後期 約4000年前
石皿・磨石
大分市横尾遺跡
木の実の粉砕
 138深鉢 大分市 横尾遺跡 縄文後期 約4000年前
 口縁部が四波形で美しいカーブで波打っている。
素晴らしい美術品です。
 
 140縄文の道具
 141年表
BC1000
縄文晩期
周の時代
BC750 中国で貨幣発行
776 第一回オリンピック
770-403 春秋時代
563 釈尊誕生
551 孔子誕生
432 パルテノン神殿完成
334 アレクサンダー大王
ペルシャ遠征
322 インド・マウリア王朝
221 秦始皇帝中国を統一
兵馬俑坑

 143縄文の道具
 森や海、川など豊かな自然に働きかけ、その恵みを受けるために、縄文時代の人々は用途に良応じて多種多様な道具を使っていた。
道具の素材には身近にある木・石・貝殻・獣骨などが用いられ、少しでも生活を豊かにするため道具の工夫が重ねられた。

 このような生産用具とは別に、縄文時代には装身具や祭に関わる道具も多く作られるようになった。
装身具には耳飾りや腕輪(貝輪)をはじめ、勾玉、管玉など垂飾品があり、男女とも身に付ける魔除けの飾りだったのではないかと考えられている。
他にも、縄文人の信仰に関わると思われるが用途がはっきりしない土偶や石棒なども出土している。

縄文の道具
 144石器 大分県 横尾遺跡
石錘
大分市 横尾遺跡
打製石斧 磨製石斧
 145装身具
釣針
小池原貝塚
荻町 竜宮洞穴
貝輪
本耶馬渓町 枌洞穴
へぎどうけつ
くぼみ石
横尾遺跡
木の実を打ち割る石の台
 146装身具
石製玉類
緒方町 大石遺跡
貝製玉類
本耶馬渓町 枌洞穴
勾玉
緒方町 大石遺跡
骨製玦状耳飾り
本耶馬渓町 枌洞穴
石製玦状耳飾り
本耶馬渓町 枌洞穴
垂飾品
本耶馬渓町 枌洞穴
石棒
大分川河川敷出土
土偶
大分川河川敷出土
 

 150縄文の墓
 縄文人は死に対する恐れから、いろいろな形の墓をつくり、死者を手厚く葬った。
県内では、貝塚や岩陰、洞穴遺跡などから、手足をきつく折り曲げた屈葬と言われる埋葬方法で、楕円形の穴に死者を埋める墓(土壙墓)が見つかっている。
他にも石を抱かせたもの、上部を石で覆ったもの、足などの骨を一部抜き取ったものなどがある。
死者が生き返ることへの恐れから、このような埋葬を行ったのであろう。

縄文の墓 母子合葬人骨
本耶馬渓町 枌洞穴
屈葬人骨
大分 横尾貝塚
合せ口甕棺 複製
朝地町 田村遺跡


 縄文時代の合わせ口甕棺墓 縄文後期
合せ口甕棺 複製
朝地町 田村遺跡
 ※最初、誤記載かと思っていました。縄文時代の小児の甕棺墓です。
大分県大野郡朝地町大字池田字田村 出土となっています。
縄文土器ですが、弥生時代にも増して美しい甕棺です。
  

豊後大野市内埋蔵文化財ハンドブック①


に記載されています。

 朝地町 田村遺跡は縄文と中世の遺跡です。

 
 160縄文のくらし
 161竪穴住居 縄文後期(約4000年前) 朝地町 田村谷遺跡 豊後大野市
竪穴住居
縄文後期(約4000年前) 朝地町 田村谷遺跡


 炉と集石
 市内野田の野田山遺跡から、縄文時代早期(約8000年~6000年前)の炉穴と集石遺構が見つかっている。石の大半が焼けている。
ポリネシアなどの民族例に見るアース・オーブン法と呼ばれる蒸し焼き料理や、
カムチャッカ半島や北アメリカで行われていた、厚く焼いた石を容器に入れて食物を煮るストーン・ボイリング法のように、
炉穴で石を焼いて料理した跡ではないかと考えられている。

炉と集積 炉と集石 蒸焼き料理
ポリネシア
焼石
 

 163観察8矢じり
男子:矢尻、形は同じだけど、大きさが違うよね。
博士:⑯番の小さい方は「縄文時代の鏃」(約4500年前)で、⑰番の大きい方は「弥生時代の矢尻」(約2000年前)なんじゃ。
   縄文時代は何のために弓矢が使われておったのかのう?
女子:シカやイノシシなどの動物と捕るためよね。
博士:縄文時代は、動物を捕るために弓矢が発明されたんじゃったのう。では、弥生時代の矢尻はなぜ大きくなっとるんじゃろうか?
男子:捕るものの大きさが変わったからだ。
博士:シカやイノシシよりも大きい動物と言ったら何かな?ちなみにゾウはすでに絶滅しているからの。
男子:大きい動物じゃないのか…
   矢尻が大きい方が、威力が増して、ダメージも大きいと思うんだけど…
博士:弥生時代は米作りが始まり、農耕社会に変化していく時代じゃよね。米作りは1人ではできず、集団による共同作業が必要になってくるんじゃ。
   米を作る場所や、水の確保なども重要になってきて、地域の間で争いが起こるんじゃ。
女子:わかった!戦いに使う道具なのね。
博士:弥生時代には人口が増加し、ムラも大きくなってくるんじゃ。
   そのためムラを統率する強力なリーダーが現れ、これにより村の中に身分の差が生じてくるんじゃ。
   ムラを大きくするためや守るために争いは絶えず、武器としての弓矢が使われたようじゃの。
博士:[参考②]としているものは、すべて弥生時代の矢尻なんじゃ。
   ⑱番は石を丁寧に磨いた磨製石鏃。⑲番は青銅で作られた銅鏃。⑳番は鉄で作られた鉄鏃なんじゃ。
   異なる材質で作られたものじゃが、目的は1つ戦いに使うためのものなんじゃよ。
女子:弥生時代には動物を取るための弓矢からボケッとしてんの夢やに変わっていったのね。

 


 200弥生時代 紀元前5~4世紀頃から、3世紀中頃ないし後半までの600~700年間

 稲作の普及と金属器の出現
   紀元前5~4世紀頃から、前方後円墳が作られ始める3世紀中頃ないし後半までの600~700年間を弥生時代という。
この間、日本は多くの国に分かれて争い、次第に強い国を中心として大きな国にまとめられていった。
 縄文時代晩期に伝わった水稲農耕は各地に普及し、新しく金属製の道具である青銅器や鉄器が大陸からもたらされた。(紀元前5世紀頃)
金属の鋳造・機織・ガラス製作などの技術ももたらされ、人々のくらしは大きく変わっていった。

※半島や大陸からの鉄の輸入に頼っていた倭国は白村江の海戦に敗れ自国での鉄原料の確保に迫られた。6世紀末(5世紀中葉以前頃)
国内での鉄生産が開始された。実に1000年近くも鉄生産が行われていなかった。大陸での鉄の解禁は紀元0年頃なので、それよりも400年以上も遅れていた。
鉄生産は極秘事項で、中国では炉の中をかき混ぜて不純物を分離する。半島南部では円形縦長の炉が使われた。列島での方形のたたら炉は何処から来たのだろう。

弥生時代
稲作の普及と金属器の出現
 201年表
弥生 前期
米作りが伝播
鉄製ノミ・オノなど登場
弥生 前期
大陸から稲作伝来
鉄製品の登場
BC202 前漢始まる
前漢の遺物 BC108楽浪郡設置
この頃畿内は銅鐸祭り
九州は小銅鐸と青銅武器の副葬が盛ん
BC4キリスト誕生
AD0 弥生中期
初めて中国の記録に日本が登場【漢書】
25後漢興る    
ムラの首長墓登場
57倭奴国朝貢し使人自から大夫と称す
光武に印綬を賜う

 202稲作の広がり
 縄文時代晩期に北部九州に伝えられた水田稲作は、100年ほどの短い間に東北まで広がった。
こうして採集だけに頼らず、食料を自ら生産する稲作を生産の基盤とする社会が生まれた。

 稲作により、人々は貯え(冨)を持つようになり、豊かな者と貧しい者との差が生まれた。
大分市内では、多くの集落跡が見つかっているにもかかわらず、食料生産地となる水田跡の発掘例は少ない。
発掘調査では、水田跡の一部や、耕作用の鋤・鍬、稲の収穫に使う石包丁などの農具が出土している。
稲作の広がり
木製品の発掘
下郡遺跡
鍬・鋤の出土
下郡遺跡

 大分市の弥生遺跡
 市内各地で弥生時代の住居跡が発見されている。
そのほとんどは大分川や七瀬川、大野川流域の自然堤防上や台地上にあり、
環濠を伴った集落の場合が多い
環濠とはムラを囲った濠のことで、防禦の機能を持っていたと考えられるが、多くの場合、短期間で廃棄されている。
大分市の弥生遺跡
久原遺跡
丹生川坂ノ市条理遺跡
一木遺跡
多武尾遺跡
⑤北の崎遺跡
米竹遺跡
下郡遺跡
羽田遺跡
守岡遺跡
⑩国分台遺跡
東田室遺跡
上野遺跡
雄城台遺跡
尼ヶ城遺跡
城南遺跡
賀来中学校遺跡
町裏遺跡
 204
炭化米
米竹遺跡
下郡遺跡出土の農具 平鍬・鋤
三又鍬・平鍬
平鍬
三又鍬
諸手鍬
石包丁
横槌・鉄鎌・手鎌
 210
 年表
79ベスビオス火山噴火
 ポンペイ埋没
80ローマ・コロセウム完成
105蔡倫、紙を発明
 高地性集落が盛んに作られる

後期
239卑弥呼、魏に遣使し、
  金印と銅鏡百枚を下賜される
248卑弥呼没。倭は再び乱れる
  壱与が王となる

 211鏡片
 集落跡出土の鏡片
 尼ヶ城遺跡を始め、市内の5ヶ所の集落跡から小さく割られた鏡が出土している。
こうした鏡片は、破鏡として入手され、いずれも割れた面を研磨したり、孔をあけるなどの加工が行われており、集落内の有力者が権威のシンボルとして
所有したと考えられている。
 特に尼ヶ城遺跡から出土した鏡片は二つの孔が空けられ、当時は紐を通してペンダントにされていたようです。

集落跡出土の鏡片 銅鏡片(複製)
尼ヶ城遺跡
集落跡出土の銅鏡片 地蔵原遺跡 守岡遺跡 尼ヶ城遺跡
大道遺跡群 大分市内出土
青銅破鏡

 220
 221年表
弥生人の絵 中国の竜
弥生人の竜
鉄器が増え石器減少
土器・木器の日用品の作りが粗雑となる
一方で奢侈品が出現
九州で蚕が飼われ絹が作られる
ガラスの加工がはじまる
ガラス製勾玉の鋳型
支石墓
佐賀県
方形周溝墓
大阪
※弥生時代に国内産絹糸で錦が織られ、卑弥呼は魏に献上した程の完成度だった。
 222様々な青銅器
 銅に鉛や錫を加えた合金(青銅)で作られた剣や矛、鏡などの青銅器は、鉄器と共に弥生時代に大陸からもたらされた。(BC5世紀)
鉄器が農具や武器などの実用的な道具として使われたのに対し、武器形青銅器は権力のシンボルとしての宝器や祭り用の道具として使われ。
国産化されるとともに大形化していった。

様々な青銅器 青銅器の出土遺跡

 青銅器の出土遺跡
➀細遺跡
名辺山遺跡
松崎遺跡
城原・里遺跡
浜遺跡
清水ヶ迫遺跡
地蔵原遺跡
横尾遺跡
銅戈1
銅戈3銅矛2
銅戈1
銅矛1
巴形銅器4
巴形銅器1
銅鏡
小銅鐸
水分神社遺跡
京ヶ尾遺跡
岩屋遺跡
下郡遺跡
守岡遺跡
雄城台遺跡
尼ヶ城遺跡
猪野遺跡
銅剣1
銅矛4
銅戈1
ヤリガンナ、銅鏃
銅鏡2
銅鏡2、巴形銅器1
銅鏡
銅矛

 223猪野遺跡 銅矛の埋納遺構
 猪野遺跡は、大分川と大野川に挟まれた鶴崎台地上に位置し、弥生時代中期から後期の遺構が確認されている。
 銅矛の埋納は、集落から離れた場所で発見された。
この銅矛は、中広形銅矛と呼ばれる弥生時代中期から後期初頭に作られたもので、穴の中に刃を立て、周囲にはない黄色い土を用い、
固定した状態で埋められていた。
銅矛がこのように埋納された状態で見つかることは大変珍しく、意図的な埋納のあり方から銅矛にまつわる祭祀遺構と考えられる。
猪野遺跡 銅矛の埋納遺構
埋納状況
 224青銅器
 
武器としての青銅器
 石器に比べて、利器として性能が優れている青銅器は、人類にとって画期的な発明であった。
西アジアで紀元前2000年頃に始まった青銅器技術はやがて中国に伝わり、
紀元前300年頃朝鮮半島を経て、ようやく日本にもたらされた

日本に伝来した青銅製武器には、銅剣、銅矛、銅戈などがあり、戦闘用として十分使えるものだったが、
国産化が始まると次第に利器から宝器、祭器へと性格が変わっていった。

※高価な青銅器を支配者が自慢げに、恭しく見せたため、見たこともない輝きに太陽神と勘違いして思わず拝んだのが始まりだろうか。
  宝器としての青銅器
 福岡県春日市須玖遺跡からは、奴国王の墓と推定されている巨石を持った甕棺墓が発見された。
 大形の甕棺墓には30面に近い前漢鏡6本の矛1本の剣、・など、おびただしい量の青銅器が副葬されていた。
このように北部九州のクニグニの王墓や首長墓と見られる墓には、目を見張るばかりの青銅器が宝器として副葬され、
権力者のシンボルとなった
祭器としての青銅器
 銅鐸は、内側に棒を吊るして揺り動かし、
鳴らす「聞くカネ」から次第に大型化し、装飾も賑やかになって
見るカネ」へと性格を変えて行った。
 銅鐸の用途は、ムラ人共有の祭器として豊作祈願などの祭に使われたのちに、山腹や山かげなどの村から離れた神聖な場所にうめられたようである。
  小銅鐸の祭り
 宇佐市別府遺跡の住居跡から故意に潰された一つの小銅鐸が発見された。
この小銅鐸は韓国慶尚北道入室里(BC2~1世紀頃)のものにそっくりである。
朝鮮製小銅鐸は、我が国の銅鐸の祖形とみられ、農耕の祭に振り鳴らされたと考えられている。

 大分市多武尾で出土した小銅鐸は、朝鮮製のものを模してつくられた国産小銅鐸である。

 225大分市内出土武器型青銅器 複製品
大分市内出土
武器型青銅器
銅剣
伝大分市出土
銅剣
浜遺跡
銅剣復元品
銅剣
浜遺跡
銅矛
中安(城原・里)遺跡
銅矛
猪野遺跡
石戈
伝岩屋遺跡
 226
小銅鐸片
多武尾遺跡
小銅鐸鋳造復元
青銅製ヤリガンナ
下郡遺跡
復元青銅製ヤリガンナ
鉄製ヤリガンナ
下郡遺跡
銅鏃 下郡遺跡
銅鏃 玉沢地区条里跡
刀子
下郡遺跡
 

 230下郡遺跡 ~弥生の大集落~ 大分市下郡

 231下郡遺跡 ~弥生の大集落~
 1987年に下郡地区で発掘調査が始まって以来、縄文後期(約4000年前)から現代までの先人たちの様々な生活の跡が発見されている。
その中でも弥生時代には特に大きな遺跡があったようで、約2100年前(弥生中期)の環濠集落跡が見つかっている。

発掘調査では、木製の鍬や鋤などの農具が出土し、
当時の活発な交易の様子をうかがわせる朝鮮半島産の青銅製ヤリガンナや、
岡市の近くで作られた石斧なども発見されている。

また、約1700年前(弥生後期)にも集落の周りを大きな溝で囲んだ環濠集落が見つかっており、環濠からは集落内から捨てられたと考えられる大量の土器が出土している。
下郡遺跡
~弥生の大集落~
遺跡の概要
東上空から見た下郡遺跡の発掘現場

 下郡遺跡の集落分布
 これまでの発掘調査で、弥生時代の二つの時期の集落跡が次第に姿を表している。
このうち弥生時代中頃の集落跡は二重の巨大な環濠を持ち、県内最大級規模と推定されている。
下郡遺跡の集落分布
後期集落、中期集落 中期、後期 後期、中期

 二重の環濠
 調査で掘り出された弥生時代中期の環濠は、推定約1.9kmと考えられる全長のうち、わずか20m程にすぎないが、幅4.5m深さ1.5mの規模を持つ。
環濠の内側には首長の館やムラの人々の生活する竪穴住居などが建ち並んでいたと考えられる。

二重の環濠
二重の環濠
環濠に捨てられた土器

 233下郡遺跡出土の弥生土器
器台





 235下郡遺跡の遺物
鉄斧
太型蛤刃石斧
石斧と柄
  鉄鏃
 
磨製石鏃
 
打製石鏃
 
太型蛤刃石斧
 
 
勾玉
左:滑石製
右:カンラン石
土製勾玉
土錘
鉄剣
柱状片刃石斧
 
 240甕棺

 250様々な弥生土器
 251
  様々な器種
 稲作の普及は人々が使う土器に変化をもたらし、食物を貯える壺や煮炊き用の甕、料理を盛り付ける高坏や鉢、土器を乗せる器台など、用途に合わせていろいろな土器が作られた。
こうした日常生活の他に、丁寧に磨き上げたり、赤く彩色したものなど、死者を送る儀式や、神に感謝する祭などで使う特別な土器も作られた。

  作り方
 弥生土器は縄文土器と同じようにろくろを使わず、粘土をひも状に伸ばして積み上げる方法でつくられていた。
焼き上げる温度は600~800℃で、縄文土器と同じく素焼きの土器だった。

  文様・飾り
 縄文土器に比べて簡素な形の弥生土器は、土器の前面に文様や飾りを付けることが少なくなり、代わりに部分的にヘラや櫛で洗練された文様や飾りを施す例が多い。

様々な弥生土器
突帯文
浮文 重弧文
波状文
弥生土器の器種
甕・壺・高坏 鉢・器台(五徳)

 253弥生前期土器

古国府遺跡群

古国府遺跡群

古国府遺跡群
 254
 弥生中期

東田室遺跡

久原遺跡

東田室遺跡

 256弥生中期土器

久原遺跡
壺棺
賀来中学校遺跡

 255弥生後期土器

賀来中学校遺跡

多武尾遺跡

賀来中学校遺跡
 

 257祭祀土器 大分市内出土
高坏 多武尾遺跡
下郡遺跡
下郡遺跡
 258大分市内出土土器
高坏
玉沢地区条里跡
長頸壷
玉沢地区条里跡
長頸壷
下郡遺跡
 
 
 

 260古墳時代 3世紀中葉~7世紀末中葉(薄葬令まで)

 261体験コーナー
 脱穀用木製臼 大道遺跡群 大分市金池南1丁目
 この木製臼は、
古墳時代初め頃(約1700年前頃)の井戸跡から発見されました。
年代測定などの分析の結果、西暦290年頃に樹齢107年の「クスノキ」を伐採してつくられていることが分かりました。
邪馬台国の卑弥呼が生きた時代から約40年後に作られており、この時代の臼が、このように完全な形を保って出土した例は、全国的に大変珍しいことです。
臼の中央部に残る深い窪みの痕から、竪杵を使用して、穂から籾米をわける「脱穀」、籾殻を外す「籾摺りもみすり」などに使われています。
表面を「ヤリガンナ」で丁寧に仕上げ、デザイン性さえ感じさせるその整った造形からは、古墳時代の人々の高い技術と豊かな感性を感じ取ることが出来ます。

※井戸の中に木臼を投げ込むなんて考えられない。通常ならすぐに拾い上げるでしょう。水が汲めないから。
この遺跡は環濠を巡らせた海岸にあり、漁師や海女族の村だったのでしょう。
 土器片などの物を捨てるのは環濠のなかだが、井戸に投げ込んだのは大混乱があったからでしょう。海賊に襲われたのではないでしょうか。そして、そのまま集落は廃絶されたのではないでしょうか。

 大道遺跡群
 大道遺跡群は、大分駅の南側に広がる遺跡です。調査では、古墳時代初め頃の大溝や多くの井戸跡が発見され、この時期に壕を廻らせた大規模なムラが営まれていたことが分かりました。
 また、大形の、土で作られた網のおもり(土錘)や、塩作りに使用した製塩土器も数多く出土しており、海と深い関わりを持ったムラの人の暮らしもうかがえます。

脱穀用木臼
臼が発見される前の
井戸の様子
臼が出土したところ
大道遺跡群
木製臼
土器パズル
コロナで休止
突帯文土器(甕)
大分市内出土
用途…煮炊き
特徴…刻み目入り帯飾り
重弧文土器(壺)
大分市内出土
用途…穀物の貯蔵
特徴…半円形が重なった文様


 銅鏡に顔を映してみよう
 弥生時代に中国や朝鮮半島から伝えられた青銅鏡で鋳造された銅鏡は、作られた当初は顔が映るほど輝いているものですが、長い年月が経つと、酸化して本来の光を失ってしまいます。
ここで、展示している銅鏡は、当時と同じ方法で作られているので、手にとってじかに 銅鏡の輝きに触れてみてください。顔を映すのは、文様のない面です。

三角縁神獣鏡 模造鏡


 大分市出土同范銅戈
 伝岩屋遺跡出土銅戈・住吉神社所蔵戈は、実測などの比較の結果、2つは穿(穴)、内(根元部分)などの類似性が高く、同じ鋳型で作られた銅戈であると判断された。
 細形銅戈の同范(同じ鋳型で鋳造)は国内でも初めてのことであり、学術的価値が極めて高く、大分市の弥生文化を考えるうえで、貴重な資料であることが認められ、大分市の有茎文化財(考古資料)に指定された。

同范銅戈 大分市出土同范戈
 270大分市の遺跡遠望
パノラマ写真 同位置の地図
大分も古墳だらけ



 280千代丸古墳 装飾古墳 7世紀初頭 大分市大字宮苑字千代丸
 長さ8.9mの市内では最大規模の横穴式石室を持つ古墳です。
石室は南に開口し、死者を埋葬する玄室とその入口の羨道部からなっています。
玄室は奥行3.3m幅1.9m高さ2.8mの規模をもち、並べ立てた縦長の大きな石材の上に横長の石が平積みされています。
 玄室奥には死者を安置できるように2段に平石が並べられています。

この古墳の最大の特徴は、玄室の奥から水平に突き出した厚さ50cmの石棚と、その前面に三角・四角・人物・動物などが線刻で描かれていることです。また、玄室内部全面に赤色顔料が塗られており、市内唯一の装飾古墳と位置づけられています。
墳丘は全長約25mの円墳に復元される可能性が高く、築造時期は、横穴式石室や出土した須恵器の甕から6世紀後半から7世紀初め頃と考えられます。

 千代丸古墳の石室
 千代丸古墳は賀来川下流域の左岸に位置する。その横穴式石室は巨石を積んで作られ、入口は南を向き、玄室内の特色的な長方形の石棚には三角形、四角形、人物、獣類等が線刻で描かれている。7世紀初めの築造と考えられ、大分平野では唯一の装飾古墳である。

市内唯一の装飾古墳 3次元計測による石室の様子 千代丸古墳出土
須恵器甕
千代丸古墳の石室
千代丸古墳
 

 300古墳時代 250~
 301年表
古墳時代
250 この頃前方後円墳あらわる
346 百済興る   
350この頃大和朝廷興る
357 新羅興る  
瀬戸内を中心に製塩が盛んになる

 302古墳時代
 3世紀の終りから4世紀の初めには、大和地方を中心とした豪族の連合勢力によって大和政権が成立した。
この頃、各地に巨大な前方後円墳が築かれ始めた。
大和政権は服属したり、同盟関係を結んだ地方豪族に対して、古墳の造営を許したと考えられている。

 九州では宇佐市赤塚古墳が最古である所から、九州支配の拠点としてこの地がまず選ばれたのであろうか。
市内では最も古い古墳に三芳の亀甲山古墳市尾上ノ坊古墳がある。

古墳時代
野間古墳 御陵古墳
亀塚古墳
蓬莱山古墳

 市内の大型前方後円墳
 5世紀頃、市内では大分川の中流域丹生川の流域に大形の前方後円墳が作られ始める。
大分川流域では、大臣塚古墳(上野)御陵古墳(木ノ上)・蓬莱山古墳(庄ノ原)・千人塚古墳(永興)があり、
丹生川の流域では、全長約120mの県内最大規模をもつ亀塚古墳を初め、野間古墳(丹生)・大蔵古墳(城原)がある。
 この他、辻古墳(里)も前方後円墳の可能性が指摘されており、こうした大形の前方後円墳を核に古墳群が形成されている。

市内の大形前方後円墳
千人塚古墳

 305箱式石棺をもつ古墳 5世紀後半 下ヶ迫古墳
 豊後地域では、前期古墳によく見られる竪穴式石室は作られず、箱式石棺を伝統的に採用した。
下芹の下ヶ迫古墳は、直径20mの円墳であるが、凝灰岩を加工した大形の箱式石棺をもち、小銅鏡・鉄剣・直刀・鉄鏃・刀子など、主に武器が副葬されていた。

箱式石棺内遺物出土状況 5世紀後半
下ヶ迫古墳
鉄鏃・刀子・鉄剣 鉄刀 捩文鏡 鉄鏃・刀子
 
 310大分市周辺の古墳
 311年表
乗馬の風習盛んになる 421倭の五王時代始まる
各王は中国宋に遣使
 421年
 仁徳(讃)16代4c末-5c前半
 反正(珍)18代5c前半
 允恭(済)19代5c中頃
 安康(興)20代5c中頃
 雄略(武)21代5c後半
478年

 312大分周辺の古墳
 大分市周辺には、古墳群がまとまって分布している。
速吸瀬戸に臨む佐賀関半島から佐伯に至る海岸線は複雑なリアス式海岸になっていて、平野が少ない。
この地方と大在・坂ノ市は律令制では海部に属していた。

5世紀頃には佐賀関の築山古墳臼杵の臼塚古墳下山古墳などの巨大な前方後円墳をもった古墳群が作られ、
海上活動を生業とした豪族が既に存在していた。(※海人族か)
また、火山灰台地の多い内陸部では、竹田の七ツ森古墳、三重の道上古墳など交通路の要点となる所に多くの前方後円墳が築かれた。

大分周辺の古墳
大分市周辺の古墳


 千人塚古墳と辻古墳
 千人塚古墳永興りょうごは調査により、前方後円墳と確認された。
墳長45mに対して前方部が11mと短く、周溝から葺石と考えられる礫が多量に出土した。 【5世紀末~6世紀初め】大分市上戸次

 辻古墳)では、周溝に落ち込んだ礫と共に、ある一定の間隔で埴輪が出土している。大分市大字里字辻 
埴輪には蓋形埴輪などもあり、埋葬された人物の権威の高さを知ることができる。
墳丘、周溝とも大部分が失われているが、確認された周溝から直径約40mの円墳もしくは前方後円墳と考えられる。

 三角縁神獣鏡
 縁の断面が三角形で神像と胴部の文様があることからこの名がついた。
邪馬台国の女王卑弥呼が中国の魏に使いを送り、持ち帰った銅鏡100枚は、この鏡と考えられている。

『三角縁神獣鏡』と言われたら全て同じものだと思っていた。よく見てなかった。目も悪かった。
最近、「縁に三角文がある鏡」と説明するYouTubeを見た。縁の断面が三角という面処理がされた鏡だと思っていた。

 卑弥呼に銅鏡百枚というが、古墳から出てくる三角縁神獣鏡はもっとたくさん(500面以上)。どーゆーこと?
三角縁神獣鏡にはいろんな模様がある。全て同じ模様の同笵鏡ではなかったらしい。
 魏に遣使すると帰路に使節が派遣される。邪馬台国の場合は20年以上も滞在したらしい。使節はどんな構成だったのかな。青銅鏡職人が随伴したり、呼び寄せたり、青銅鏡原料を取り寄せたりして『景初三年』と入れとけば、全て『三角縁神獣鏡』卑弥呼の鏡となるのかな。当時の北部九州には奴国に高度なテクノポリスがあったから、生産しようとすれば、いくらでも作れたはず。

 で、なんで邪馬台国の鏡をヤマト政権が前方後円墳築造の許可と共に地方に配ったの?それに配布年代がずいぶん遅い。
ヤマタイ九州説ならヤマト王が北部九州に征服戦争か、国譲りみたいに、恫喝して取り上げたことになるし、
ヤマタイ畿内説なら邪馬台国連合の南に狗奴国があり、連合と対等に戦争していた、そんな強国は紀伊半島にないじゃない。九州説に間違いない。
 三角縁神獣鏡は国内で大量に生産した鏡だろう。
 卑弥呼の魏鏡とは別じゃないの。って、魏の職人が国内で、、魏の銅の材料を持ってきて作ったって、考えられるし、、

千人塚古墳と辻古墳
三角縁神獣鏡
 313小牧山・世利門古墳群出土品 5世紀
小牧山古墳群出土品
5世紀古墳群6基
内行花文鏡 大分市松岡
世利門古墳出土品
家形石棺内に7体の人骨 5世紀後半
貝輪
イモガイ製
繁根木型貝輪
ゴホウラ製
大分市上芹
 314御陵古墳出土品 5世紀中頃 大分市木ノ上
棗玉(2号石棺)
ガラス玉(1号棺)
碧玉製管玉(1号石棺)
硬玉製勾玉(1号石棺)
 315野間古墳群出土品 5世紀 10基の内、前方後円墳3基  大分市丹生野間
野間古墳群出土品
鉄鏃(雁股形) 管玉(3号古墳) 石釧(3号古墳)
神人獣形文鏡(10号)
変形渦状文鏡(3号)
 316亀甲古墳 市内最古古墳 4世紀後半 大分市季の坂3丁目6
重圏文鏡
三角縁神獣鏡

 317市内出土の埴輪
 埴輪は古墳に立てられた土製の造形物で、筒形や朝顔形の円筒埴輪と、人物や器物などをかたどった形象埴輪に分けられる。
5世紀初め頃になると、畿内の影響を受けて大分の地でも朝顔形埴輪が作られるようになり、この他、家形埴輪や船形埴輪も出現する。
この時期の古墳で県下最大級を誇る亀塚古墳出土の円筒埴輪には、波状文水字貝文様、ヘサキが二股になった準構造船の線刻文様が見られる。
5世紀後半になると、大在古墳や辻古墳から家形蓋形盾形の埴輪などが出現し、
6世紀以降になると、現在のところ埴輪が出土した古墳は確認されていない。

 大形石棺をもつ古墳
 5世紀中頃から6世紀にかけて、凝灰岩を刳り抜いた舟形や家形の大形石棺が豊後各地に現われる。
凝灰岩を加工する高度な技術や工人の導入を行い、豊後の豪族たちは、
木ノ上の世利門古墳石棺、坂ノ市の王ノ瀬天満宮石棺、片面の丑殿古墳石棺などの特徴ある石棺を作り出した。

市内出土埴輪 家形埴輪
亀塚古墳
船の線刻のある埴輪片 亀塚古墳
朝顔形埴輪
亀塚古墳
人物埴輪
船形埴輪
亀塚古墳
楯形埴輪
地蔵原遺跡
市内出土埴輪
王ノ瀬天満社の
家形石棺

丑殿古墳の家形石棺
大形石棺をもつ古墳
 318蓋形埴輪復元図
楯形埴輪 6c
地蔵原遺跡
蓋形埴輪
5c後半 辻古墳


貴人に差し掛ける日傘
円筒埴輪
4c後半
大分川河川敷遺跡
円筒埴輪
蓋形埴輪復元図
 
 320古墳時代の生活
 321年表

人物埴輪が多く作られる 切子ガラスの輸入
横穴式石室現れる
460須恵器が出現
古墳が大型化する
471辛亥名稲荷山鉄剣
527磐井の反乱
装飾古墳築造盛ん

 322古墳時代の生活
 4世紀になると、近畿地方を初めとして日本の各地で巨大な墓が造られるようになる。
古墳時代の400年間は日本で統一国家が生み出されて行く時代でもあった。
 朝鮮半島からの渡来人によって新しい技術がもたらされると、人々の生活も大きく変わっていった。
そして、改良された鍬や鋤などの鉄製農耕具も、弥生時代と比べ物にならないほど普及し、水田や畑地の開拓も大規模に行われるようになった。
平地式の家屋や、炊事のためのカマドを供えた家屋も現れる。

 竈(カマド)の出現
 6世紀になると、竈をもつ住居が現れる。(※煙道を持つ燃焼装置)
それまでは炉で煮炊きされていたが、カマドを中心とした台所が住居内に造られたことによって、調理や食事の方法、土器の形など生活様式が大きく変化していった。
※室内で火を燃やすと煙が室内に充満し、大量のススの発生となる。子供の頃の炊事場は煤で真っ黒だった。強い風が吹くと煤のかたまりが舞い落ちてきた。
 この時期北海道でもカマド付きの方形建物が流行するのだが、その後、カマドは消滅する。カマドの火が暖房にならないからだろうか。
 飛騨高山合掌造りでは、常に煙で建物を燻さないと、害虫が発生して家の耐久性が短くなってしまう。しかし、室内は常に煙で、何もかもが燻され、真っ黒けになってしまう。綺麗な晴れ着も、衣服も、学校の制服もすすだらけで着られなくなる。
古代では、税としての織物などを完成させてもずず黒く納税できない。対策としては大きな煙出しで煙と共に熱を逃がすことになる。
カマドはオンドルとともに半島から伝わったが、カマドだけが分離してしまった。暖房機能が失われた。
 しかし、古代の北海道と、現代の観光地飛騨高山では大変ですね。

古墳時代の生活 古墳時代の生活 家屋文鏡に描かれた建物

竪穴建物、高床建物
高床住居、平屋の建物
大型の住居跡
カマドの復元模型 下:長胴甕と上:甑 カマドに長胴甕をかけ、その上に蒸し器(甑)を置いて米を調理する。

近代はカマドに鉄の鑵子(湯沸かし)を掛け、その上に蒸し器を置く。
カマドの出現
※甑は普段使いではなく日常の蒸し料理は、す(簾)の上に穀物を置き「かんす」の上に載せて調理する。
甑は大人数用。村中の出土数も少ない。
 323木製臼と蓋
木製臼と蓋
大道遺跡4世紀初め頃
約1700年前
現代でも、木臼はほとんどの所有者がこれと同様に、この程度の蓋を被せて保存している。最もゴミが入りやすく、汚れると面倒な道具です。

 325横穴墓の盛行
 古墳時代後期(6~7世紀)には、古墳をつくる階層が拡大していき、中央政権の支配が下層の人々にまで直接及ぶようになってくる。
 その頃、滝尾百穴など市内各所に爆発的といえるほど横穴墓群が盛行する。横穴墓は石材を使わずに山腹や丘陵の崖面へ横から穴を掘って
遺体を入れる室(玄室)を作り出したもので、家形、ドーム形、箱形などがある。
床には小礫や平たい石を敷き詰め、遺体を置く施設(屍床)のあるものも見られる。一般的に身分の高くない人々の墓とされる。

横穴墓の盛行
滝尾百穴 横穴墓のいろいろ 家形、ドーム形 箱形
 

 327玉作遺跡
阿蘇入横穴墓群
出土品
玉つくりをした墳時代の住居跡
若宮八幡宮遺跡
若宮八幡宮遺跡
第1次調査SH135
発見地点、現:大分市上野ヶ丘中学校

 328勾玉と臼玉のつくり方
   若宮八幡宮遺跡出土の
 勾玉・臼玉製作過程の石材
勾玉・臼玉の作り方
若宮八幡宮遺跡
・蛇紋岩の原石
➀原石を探す
【勾玉・臼玉】
 原石を敲き割り、
 薄い石材を作る
【勾玉】
②石材を縦長に加工する。
③片側に半円形のえぐりを入れて勾玉形にする
④穿孔して勾玉方に整えながら荒磨きする。
⑤表面を磨いて仕上げる


【臼玉】
②形を整え、さらに薄くする。
③周りを割って小さくし穴を開ける
④小さく加工する。
⑤更に小さく削り、表面を平らに加工する
⑥表面を磨いて仕上げる



 勾玉臼玉製作工程の出土品
製作工程出土品
若宮八幡宮遺跡




1蛇紋岩原石

遺跡に運び込まれた石材
2勾玉1個分の石材
3抉りを入れ勾玉形にした石材
4穿孔し整形した石材
5荒磨きした完成直前
2臼玉1個分の石材
3穿孔した石材
 
4小さく加工した
5整形した石材
6荒磨きした完成直前
 329阿蘇入横穴墓群出土品 6世紀 9基の横穴墓群
阿蘇入横穴墓群出土 切子玉
水晶
管玉
碧玉製
勾玉
碧玉製
勾玉
メノウ製
 

 330最後の石室古墳
 331年表
527磐井の反乱  
装飾古墳が九州で盛んに造られる
538仏教の伝来
552百済聖明王仏像・経典をもたらす
  仏教公伝
585蘇我馬子仏塔を造る

 332最後の石室古墳
 市内椎迫には巨大な凝灰岩を刳り抜いて石室を作った古宮古墳がある。
昭和54年の発掘調査によって、九州では初めての終末期古墳であることが分かった。
 終末期古墳は極彩色の壁画で知られる奈良・高松塚古墳に代表されるが、石室の形はそれまでのものと異なり、火葬骨を納めることもあって、貴人や高い地位の人が葬られたと見られる。
なお、被葬者は5世紀以来賀来川の流域の統治者であった大分君の一族で、壬申の乱(672年)で活躍した大分恵尺であろうとされている。

最後の石室古墳 古宮古墳石室
 334終末期古墳分布

 336古墳時代の土師器
 古墳時代の土器は土師器と呼ばれ、各地で斉一的な器形が出現する。
しかし、古墳時代初めの頃の土師器には弥生時代との強い連続性見られる。
主な器種には、壺・甕・鉢・高坏・器台・小型丸底壺などがあり、弥生時代に比べて装飾性がなくなる。 【4世紀~5世紀】

古墳時代の土師器 古墳時代の土師器
 
 346須恵器
 5世紀には、朝鮮半島から伝わった技術により「須恵器」と呼ばれる土器が製作されるようになる。
須恵器は土師器と違い、ろくろを使って整形され、山の斜面などに造られた登窯により1000℃以上で焼かれる。
この高温で焼かれた固く灰色をした須恵器は、専門の工人(職人)たちにより大量に生産された。

須恵器
穴蟹喰横穴墓出土品
6世紀
須恵器・坏身・坏蓋
高坏・ハソウ・堤瓶
須恵器
高坏・蓋
須恵器
高坏・蓋
高坏・ハソウ・堤瓶
長頸壷
大甕
6c大曽横穴墓
 


 500古代 (古墳時代 250~538)  538から592は何時代? (古墳時代は~710まで)
飛鳥時代 592~710 (593~694) 白鳳時代(645-710)
奈良時代 710~784
平安時代 794~1185(1192)

 ※奈良時代以前は古墳時代。飛鳥時代を区分すると593年からの聖徳太子の摂政が始まってから。仏教伝来は古墳時代の事件。
 仏教伝来を飛鳥時代と感じている人々もいる。飛鳥時代の次が白鳳時代と思ってる人もいる。私もそうだった。(笑)
 大和時代などという区分をする人もいる。この辺りの時代区分は結構混乱している。

 ※飛鳥時代や白鳳時代は美術史用語であって、本来、史学や考古学で取り扱ってはいけないのだ。
 古墳時代(3世紀中期~710年)の次は奈良時代(710~784長岡京遷都)と呼ぶのだろう。だとすると長岡京時代ができてしまう。(笑)
 501年表
538仏教伝来 552百済聖明王仏像
・経典をもたらす
仏教公伝
585蘇我馬子仏塔を造る
589 隋、中国を統一

 503古代
 仏教文化の導入
 日本に仏教が伝えられたのは538年または552年とされる。
最初は個人の邸宅内に仏像をまつる程度であったが、次第に寺院の形を取るようになった。
最初の本格的な寺院は蘇我馬子が造った飛鳥寺(法興寺)であり、百済の技術者を招いて596年に完成した。
 近畿地方を中心にして、有力な氏族の間で寺院づくりが盛んになり、地方へ広まっていったが
仏教は日本に建築や土木技術、絵画や工芸、医薬などの様々な大陸文化をもたらした。

※仏教建築伝来以前の国内の建築は、掘立柱建物、高床式建物の延長線であり、いわばバラックのようなものだったのでしょう。
せいぜい、吉野ケ里遺跡の建物程度でしょうね。

 初期の寺院
 7世紀(白鳳時代)から奈良時代にかけて北部九州には多数の寺院が建立された。
特に豊前、豊後には宇佐弥勒寺を初め10数ヶ寺の遺跡が見つかっている。
市内にも永興寺宝戒寺からは、7世紀後半頃の軒瓦が出土しているが、どのような規模をもった寺院であったかは分かっていない。
 ※7世紀後半創建の寺院が継続しているのは素晴らしいが、状態は変遷しているようだ。、

古代
永興寺
金剛宝戒寺 基壇建物跡
上野廃寺跡
上野廃寺跡遺構図


 銅造仏像
 柞原八幡宮(ゆすはら)本地阿弥陀如来像として伝えられてきた小金銅仏。
眉、目の表現は簡素ながら額と鼻筋を一直線に通す手法と、安定した体部、リズミカルな衣文、台座の力強い蓮弁などは白鳳仏の特徴をよく表している。
天武天皇14年(686)に家ごとに仏像経典を安置せよとの勅令が出されており、本像もこうした流れの中で製作されたものと考えられ、その後由原宮に請来され、神仏習合の八幡信仰の中で本地仏とされたものであろう。

※八幡神と稲荷神は秦氏の始めた信仰であるとされている。571年に宇佐で始まった八幡神。5世紀に秦氏は渡来した。

 上野廃寺跡
市内上野丘の台地、西北部の一画から8~9世紀代と考えられる粘土と土を交互に積み上げた版築基壇遺構とそれに伴う礎石建物跡が確認された。
基壇遺構の下からは、7世紀中頃以降と考えられる掘立柱建物跡も見つかり、さらに基壇遺構西側かは多量の瓦が出土し、古代寺院跡(上野廃寺跡)と推定される。出土瓦には、百済系単弁軒丸瓦豊後国分寺創建時の軒瓦もある。
 ※瓦職人が持っていた瓦の版木をそのまま使ったようです。百済の職人だったようです。

銅造仏像
梼原八幡宮
銅造仏像 上野廃寺跡
 510市内廃寺出土瓦
永興寺周辺出土瓦 上野廃寺跡出土
7c中頃~9c
軒瓦
豊後国分寺創建期
上野廃寺跡出土品
・百済系単弁軒丸瓦
・須恵器蓋 掘立柱建物跡
百済系単弁軒丸瓦 複弁七葉蓮華文軒丸瓦
軒平・丸瓦
赤い塗料が付着
平瓦
塼せん
 520
 521松岡古窯跡群3号窯
 谷筋の丘斜面を利用した半地下式の登り窯で、1000℃以上の高温で須恵器が焼かれました。
全長約7m 幅約1.3mあり、天井部は崩れ落ちていましたが、煙道部から焚口までの床・壁は粘土が貼られた状態で完全に残っていました。

焚口には、舟底状ピットと呼ばれる製品の出し入れを行ったときに掘り込まれた窪みが見られます。
焚口下の斜面には、灰や須恵器の失敗品を捨てた灰原に多くの破片が長さ7mにわたって堆積しています。

松岡古窯群3号窯模型縮尺1/2 松岡古窯跡群3号窯

 522生産遺跡と官衙
 生産遺跡とは、器・瓦・塩・鉄などを作った遺跡の総称であり、古代の段階ではこれらの生産の多くは官営で行われていた。

 大分市内で発見された古代の生産遺跡のうち、松岡古窯跡群では須恵器を焼いた窯跡が、
井ノ久保遺跡では土師器を焼いた跡が、横尾遺跡群からは土器製作には欠かせない粘土を採掘した跡が確認されている。
 これらの遺跡は。全て大分川と大野川に挟まれた鶴崎台地上に集中している。
こうした生産遺跡の北側には、役所に関連すると考えられる建物跡が出土した地蔵原遺跡や猪野新土居遺跡などが位置している。
生産遺跡周辺に役所に関連する官衙的遺跡が分布しているといえ、それぞれが互いに密接な関係をもっていたことがうかがえる。

生産遺跡と官衙
松岡古窯跡群3号窯
生産遺跡と官衙 須恵器窯の想像図
土器焼成土坑
(土器を焼いた窯跡)
窯跡の中には、土師器が大量に残っていた。坏や蓋が中心に焼かれており、その多くが破裂して壊れた痕がみられた。
井ノ久保遺跡
窯内で焼成土器が破裂するのは、急速に窯の温度が上がり、土器全体に熱が回らず、
土器表面だけが焼成状態になったため破裂した。
失敗した窖窯をそのまま放棄し、新たに窯を新設した模様。 粘土を採掘した跡
横尾遺跡群
 524窯跡出土須恵器
須恵器円面硯 ヘラ記号のある須恵器
皿・大皿・高坏 須恵器坏・蓋
融着した須恵器
 527井ノ久保遺跡
 乙津川の支流である挟間川の扇状地、松岡古窯群のある丘陵の裾部に位置し、土師器を焼いた窯跡などが確認されている。
一帯には8世紀終り頃から9世紀の多量の土師器などが堆積しており、土師器生産の一大工房跡と考えられている。
また、フイゴの羽口や鉄滓なども出土しており、周辺に鉄製品の鋳造工房の存在も推定されている。

井ノ久保遺跡 焼成土坑から出土した土師器
井ノ久保遺跡
9世紀初め


焼成時に破裂した 耳皿・燈明皿
緑釉陶器 埦
黒色土器 埦
風字硯、円面硯
フイゴ羽口
把手付鉢(雪平鍋)


 530律令時代 701年大宝律令制定~10世紀後半頃

 ※このような時代区分を設定してはいけないと思います。大変むつかしい設定です。645を律令制発足とする考えもある。
 531年表
529飛鳥寺建立始まる
593聖徳太子摂政となる
603官位十二階の制定
604十七条憲法発布
607小野妹子、隋に遣使
617隋滅亡、唐興る
622聖徳太子没
623法隆寺釈迦三尊像
643山田寺金堂完成
645大化の改新
660水時計(漏刻)を初めて造る
663白村江の戦い大敗
664西日本でしきりに山城や水城を造る

 532律令制について
 律令とは中国で行われた法典で、日本では大化改新(645年)以来、平安時代まで律令をもとにした政治が行われた。
律令制度は公地公民制を原則にし、中央は二官八省の官庁を、地方には国・郡・郷・里の行政区画を設けて国司、郡司などの役人を置いた。
国家の財政は口分田からの税(租)、男子に対する人頭税(庸・調)などでまかなわれたが、このほかに公の雑役作業に従事する義務(雑徭)もあった。なお九州の調・庸は大宰府に集められた。

 豊後国府と郡衙
 「豊後国」が文献上初めて確認されるのは698年のことで、
国内は8郡(日田・玖珠・直入・大野・海部・大分・速水・国東)に分けられ、国府は大分郡に置かれていた。
国府の具体的な所在地については、大型建物群が見つかっている古国府・羽屋(ふるごう・はや)の平地一帯と、
古代の文献に「高国府」という地名のある上野丘(うえのがおか)の丘陵地の二つの地域が候補地になっている。
現段階では、「国司館」と考えられる9世紀頃の築地跡を伴う建物群が確認されている上野台地が有力候補地となっている。

 一方、郡衙(郡役所)の所在地については、円面硯や刀子、石帯が出土している下郡地域が大分郡衙の可能性が高い。
海部郡衙については、下郡遺跡群から東に約9km離れた中安遺跡で、郡衙の政庁跡と考えられる遺構が発見されていることから、この地が有力視されている。

 竜王畑遺跡
 南西に古国府地域の沖積地を、東に大分川を隔てて下郡地域を望む市内上野丘の台地の東端に位置する。
7世紀後半から中世までの掘立柱建物跡や道路状遺構、築地塀跡などが確認され、硯や輸入陶磁器(越州窯系青磁)、鬼瓦など古代の役所に関連するものも多く出土している。
築地塀を伴う建物跡は、「国司館」と考えられており、豊後国府の所在地をめぐる謎の大きな手掛かりとなる遺跡と見られている。

律令制について 古代の郡と駅と産物
不鮮明
豊後国府と郡衙
竜王畑遺跡
 533竜王畑遺跡
竜王畑遺跡復元想像図
竜王畑遺跡遺構図
羽屋・井戸遺跡遺構図
 535豊後から送られた木簡
 個人の税は、ムラや郡ごとに取りまとめて大宰府に送られるが、綿などは直接、みやこへ送ったようである。
その時の荷札が大宰府や平城宮で出土している。いずれも断片で完結しないのが惜しい。

豊後から送られた
荷札木簡
釈文
 537官衙遺跡出土品
円面硯
中安遺跡
丹生川・坂ノ市条里跡
円面硯
下郡遺跡群
円面硯・転用硯
帯金具
下郡遺跡群
豊後国分寺遺跡
墨書土器、刻書土器
墨書土器、刻書土器 石製権、刀子
下郡遺跡
斎串・櫛・青銅製品
下郡遺跡
火きり板
羽田遺跡

 540大分市各地の官衙遺跡

 541下郡遺跡群 7世紀代
 大分川河口右岸の自然堤防上に立地し、地名や立地などから奈良時代に大分郡を統括した郡役所のあった場所と推定されている。
これまでの調査で大型の掘立柱建物跡や井戸跡、真南北に規格された直線的な道路跡などが確認された。
また、出土品では当時の位をもつ役人が着ける革帯の飾りである帯金具や石帯、硯や墨書土器も数多く出土しており、同地域に大分郡衙があった可能性が非常に高くなっている。

 羽屋・井戸遺跡(はや・いど)  7世紀後半
 市内上野丘の台地の南側に形成された沖積地に立地。現在も残る条里状地割の一角で、北側には推定官道が通る。
7棟の掘立柱建物跡と柵跡を確認。そのほとんどは規模が大きく、真南北を基準に企画性をもって配置されていた。
建物の建てられた時期はおよそ7世紀後半から8世紀初頭と考えられ、大分「郡」が成立する以前の「評」に関連する遺跡と位置づけられている。

古代の道路跡
下郡遺跡群
下郡遺跡群 羽屋・井戸遺跡
 542土師器
土師器皿
下郡遺跡群
製塩土器・土師器皿
猪野・新土井遺跡
土師器坏・蓋
羽屋・井戸遺跡
下郡遺跡群
土師器坏
中安遺跡

 545海部郡衙中安遺跡
 大野川下流から海岸線に沿って東に延びる丘陵の最も高所に立地。調査では3期にわたる掘立柱建物群の変遷が確認されている。
中でも2期の段階は、南北40m以上、東西30m以上の範囲に各3棟の建物がL字状に配され、この中央付近で中心建物と考えられる四面庇建物の一部を確認している。
南側には変則的な四脚門や井戸跡があり、建物の配置としては、西側に開くコの字、もしくはロの字の典型的な官衙配置が措定され、
海部郡の郡衙政庁跡と考え背れている。
また、1期の建物についても南北方向の建物を中心に企画性をもって建てられており、「郡衙」以前の「評衙」に関わる建物群跡と考えられている。

 輸入陶磁器と国産陶器
 奈良時代の唐三彩奈良三彩と呼ばれる施釉陶器に代わり、平安時代になると鉛釉を施した単彩の緑釉陶器が国内で生産される。
中国から輸入される焼き物では、青磁や白磁といった硬質の焼き物が多くもたらされるようになり、また、この青磁・白磁を模倣し植物灰を釉とした
灰釉陶器猿投窯(愛知県)で誕生する。
これらの輸入陶磁器や国産陶器は、都や官衙、寺院など特殊な遺跡から発見されることが多く、貴族などの特別な人達が使用していた。

海部郡衙政庁跡
中安遺跡
中安遺跡遺構図
海部郡衙政庁復元図
中安遺跡
輸入陶磁器と国産陶磁器
 546陶磁器
灰釉陶器
9~10世紀
緑釉陶器
9~10世紀
長沙窯系陶磁
9~10世紀
越州窯系青磁
9~10世紀
 

 550九州の国分寺瓦

 560終末期古墳 古宮古墳 7世紀末~8世紀初頭
 巨大な凝灰岩を刳り抜いて造ったった九州では唯一の石棺式石室墳(石棺自体が石室でもある古墳)。
畿内の身分の高い人の古墳と同じ規格で造られており、壬申の乱(672年)で活躍した大分君恵尺の墓の可能性が高い。
 幅の狭い丘陵の先端に立地し、背後の高まりを「玄武東側の稜線を「青龍西側の稜線を「白虎南に流れる毘沙門川を「水」と見立てる風水思想に基づいて作られている。
 玄武・・・?  青龍・・・水の神  白虎・・・?  朱雀・・・火の神

※終末期古墳の時代になると、墓づくりに中国の風水思想が入り、大分から畿内まで、墓づくりに新しい思想や、暮壁絵画が登場するようになった。
奈良の末期古墳では、二つだけの絵画古墳が残っているが、その発掘当時には多くの同様の古墳があり、一つだけを発掘すると、夜間に土地所有者がブルドーザーで他の古墳群をあっという間に引きつぶしてしまうのが通例で、高松塚古墳も大谷大学の学生がブルの前に座り込んで身をもって破壊を阻止したのです。沢山の破壊された末期古墳の中には他にも装飾古墳があったことでしょう。

古宮古墳 古宮古墳
風水思想から見た
古宮古墳

 570古代寺院
 571年表
607法隆寺建立
670法隆寺火災一屋残さず焼失
672壬申の乱  
697藤原京が完成 701大宝律令つくられる
708和同開珎を発行
709筑前観世音寺の造営
710平城京に遷都 712太安万侶古事記編纂
713風土記の編纂始まる
717安倍仲麻呂ら遣唐使出発

 572国分寺 741年
 奈良時代は華やかな天平文化が栄えた時代であった。しかし、全国的な旱魃による飢饉伝染病の流行など社会不安も大きかった。(地震
741(天平13)年、聖武天皇は人心を仏教によっ救済し、国家の安泰を願うために国ごとに経典を納めた七重の塔を造るように命じた。
これが国分寺建立の詔であり、諸国の国府の中心近くに僧寺と尼寺が設けられた。
752(天平勝宝4)年に完成した奈良・東大寺は全国の総国分寺であった。

国分寺
国宝金光明最勝王経

 国分寺建立の詔
一、天下諸国に七重塔を建てること。
一、造塔の寺は国の華であり、必ず好所を選ぶこと。
一、僧寺を金光明四天王護国之寺と名付け。 封戸五十、水田十町を施入すること。
一、尼寺を法華滅罪寺と名付け、水田十町を施入すること。
一、僧寺には廿僧、尼寺には十尼を置くこと。
  天平13年(741年)

 金光明最勝王経
 唐の義浄が漢訳したもので10巻からなり、別名国分寺経とも言われる。国分寺の七重塔に納められたこの経典は、法華経・仁王経とともに護国の三経の一つとされ、この経を奉持すると四天王を含めた二十八の神将が国土を守り、講読すると弁財天女が知恵と弁才を、吉祥天が資財を授けて五穀百草が栄えると言われている。

国分寺建立の詔
金光明最勝王経
 573古代寺院・国分寺出土品
大山寺観音堂境内出土品 9世紀
燈明皿
土師器
豊後国分寺跡出土品
8~9世紀
黒色土器・土師器蓋
右:奈良三彩
豊後国分寺跡出土品
8世紀-9世紀
緑釉陶器 黒色土器碗

 574梵鐘復元模型 豊後国分寺跡
  豊後国分寺梵鐘鋳造遺構
   ※以前もどこかの巨大寺院で、巨大な梵鐘を境内地内で鋳造した遺構が見つかっている。
   巨大な完成梵鐘を運搬することは道路も荷車もない時代には困難で、直接寺院の建設現場で鋳造したようです。
   青銅材料は重いが運びやすい。
   この頃の陸送は、運搬は人が背負うか、牛馬の背中に乗せるかしか方法がなかった。

 575豊後国分寺
 豊後国の国分寺はここ国分の地が選ばれた。
国府は古国府付近にあったと推定されているので、諸国の例からするとやや離れた位置にある。(普通、国府の傍に国分寺やや離れて国分尼寺)
しかし、この地は大分川をのぞむ高台にあり、寺地を選ぶ条件にかなった好所であったのだろう。

国分寺跡の発掘調査が1974(昭和49)年以来行われ、金堂と塔を回廊で囲んだ中心伽藍と、講堂その他の建物、寺域をめぐる塀と溝などの遺構が見つかっている。
創建以来の仏堂や塔は平安時代には衰退に向かい、中世に至って大友・島津の戦火で焼失したようである。
なお国分尼寺については、永興寺をあてる説もあるが、はっきりした場所は分かっていない。

食堂跡
講堂跡
金堂跡
国分寺七重塔礎石
 576梵鐘鋳造
梵鐘鋳型

 577梵鐘鋳造遺構
 豊後国分寺七重塔跡から南東約80mの地点で、梵鐘を造った跡が発見されている。
梵鐘が造られたのは、9世紀の初め頃で、この時期では全国の国分寺の中でも初めての発見であり、その製作工程を窺い知る上でも貴重である。

 梵鐘の鋳造には金属を溶かす「溶解炉」、溶かした金属を鋳型に流し込む「鋳造坑」の二つの施設があり、見つかったのは「鋳造坑」である。
この鋳造坑には、出来上がった梵鐘を取り出すための「搬出坑」が確認でき、後片付けの際のゴミ穴としても利用されたため、鋳型や溶解炉の破片などが出土している。

※梵鐘鋳造考
 近世以降かな、梵鐘は富山県高岡市などに発注して造り、運んでくるのが常識だが、古代ならば、その逆で、簡単な道具と材料をもって職人がやって来て、現地で造るというのが最も効率的な方法だった。何しろ、当時は完成品の運搬が大変だったから。でしょう。
そして、古代の筑前粕屋評(村)で鋳造したという銘があり、案外、あちこちに出張していたようです。(梵鐘wikipedia)

梵鐘鋳造作業想像図
梵鐘鋳造遺構

 580梵鐘の作り方
 581
1鋳型を造る 
2鋳造坑を掘る
3鋳型内面(内型)を造る
4鋳型を固定する  
5銅を流し込む 
6梵鐘を取り出す
 582梵鐘鋳造跡
梵鐘搬出 梵鐘搬出坑 (梵鐘搬出時の)
掛木の痕跡と縄掛けの穴
搬出坑土層
梵鐘鋳造 鋳造坑
外型と内型 外型除去後の内型 鋳型設置状況
 585梵鐘鋳造遺構
梵鐘鋳造遺構模型
 

 590国分寺の伽藍配置
 591豊後国分寺伽藍配置
 豊後国分寺跡の寺域は、東西182m南北約300mの広大な範囲に及ぶ。
伽藍配置は、南から南門・中門・金堂・講堂・食堂と一直線上に並び、中門から出た回廊は金堂に取り付き、回廊内の西寄りには七重塔が配置される。このように回廊内に塔が配置される形式は九州各国分寺で見られ、大宰府管内の特色と言える。 ※伽藍配置

 なお、国分尼寺跡については、国分寺北西地区の調査から「尼寺」と書かれた墨書土器が出土し、国分寺西側の耕作地から礎石が発見されたことから考えると、国分寺に隣接していた可能性が高い。


国分寺伽藍空撮 国分寺伽藍配置
北門
遺跡確認地点
建物群

(食堂)

建物群・溝・食堂・塀
経楼・講堂・鐘楼
西門・金堂・東門
塔・回廊
礎石発見地点・梵鐘鋳造遺構
中門

経楼・講堂・鐘楼
西門・金堂・東門
塔・回廊
礎石発見地点・梵鐘鋳造遺構
中門
南門

国分寺跡の伽藍配置 須弥壇下の礎石遺構 礎石発見地から東(国分寺七重塔跡)遠望

 地蔵原遺跡 官衙・正倉跡 8世紀末~9世紀  弥生中期~平安前期   
 大野川の分流、乙津川の河口を望む大分市小池原の台地で、弥生時代から平安時代にかけての建物跡が見つかっている。
特に奈良時代から平安時代初めの掘立柱建物跡は総数80棟を超え、堀で区画された建物群と、その西側の倉庫群とに大きく分けられ
整然と配置されていた。
区画内からは大量の瓦が出土し、円面硯や大型の高坏・盤・皿・鉢などが発見され、「津」・「駅」などの官衙的な施設の存在が想定されている。

地蔵原遺跡 地蔵原遺跡
 593墨書土器
 豊後国分寺跡 8世紀~10世紀
墨書土器
豊後国分寺跡
8世紀~10世紀
大寺

 8世紀中頃 土師器にロクロ成形が導入される 下郡遺跡第115次

 8世紀後半 大宰府系の坏が出現 下郡遺跡群第68次
土師器 甕


 
 600豊後国分寺跡
 大分市西部、JR久大線豊後国分駅に隣接した、大分川左岸に沿った高台に位置しています。
天平13年(741)、国の安泰を願う聖武天皇の発願(ほつがん)により諸国の「好所」を選んで建立された国分寺の1つになります。
造立年は不明ですが、天平勝宝8年(756)に仏具などが下賜された26か国に豊後も見られ、この頃までには建立されていたと考えられています。
現在なお天台宗医王山国分寺と称し、薬師堂・観音堂を中心に広い境内を有しています。 以下略

 豊後を象徴する七重塔
 現在も残る礎石や発掘調査から、壮大な寺域の中に七重塔・金堂などの壮麗な建物が建ち並んでいたことが分かりました。
特に七重塔は、巨大な礎石と3m幅の柱間隔、一辺18mの基壇の規模から67mもの高さに復元された全国の国分寺のなかでも屈指の規模をほこっていたことが分かりました。
 調査では多量の瓦が出土しており、軒瓦の変化から国分寺創建段階(8世紀)・9世紀・10世紀代の3段階の変遷が考えられます。
軒丸瓦(鴻臚館式)軒平瓦(老司Ⅰ式)とも、その文様などから大宰府系の軒瓦に影響を受けたものと言えます。

豊後国分寺跡 豊後を象徴する七重塔
豊後国分寺跡史跡公園と豊後国分寺復元模型の合成
豊後国分寺瓦

8・9・10世紀の軒瓦

豊後国分寺は絶えず補修されており現在まで継続している
8世紀の軒瓦 9世紀の軒瓦 10世紀の軒瓦
 610国分寺伽藍配置 (参考:四天王寺式伽藍配置との違い)


 620奈良時代 710~784年

 621年表
遣唐使の道 723三世一身の法
723行基が盛んに布教活動
国衙
役人の執務の様子
737天然痘の流行
741国分建立の詔
743墾田永代私財法交布
752東大寺大仏開眼
天平文化の最盛期
754中国鑑真和上唐招提寺を造る
764恵美押勝の乱
770阿倍仲麻呂唐で死す
784都は長岡京へ移る
788最澄が比叡山に延暦寺を建てる
794平安京に遷都
 622地蔵原遺跡出土瓦
地蔵原遺跡出土品
鍋 高坏
円面硯



 625羽田遺跡 平安時代後期
 羽田遺跡鋳造関連遺物 
 市道工事に伴い、平安後期の大きな土坑から「磬」の鋳型や大型鉄釜などが出土した。
「磬(けい)」は儀式や読経の際に鳴らす仏具で、その鋳型の一部が2個見つかった。この内、表面鋳型の花弁状の撞座部を中心に反転すると、
裾の長さ16~18cmの小型のものに復元できる。下方全体が緩やかに湾曲するシンプルな形で、撞座部以外は無文である。
肩部には吊り下げるための三角形の紐が確認できる。全体の形やひも状の形状などから、「磬」の中でも古い特徴を持つものと考えられる。

羽田遺跡鋳造関連遺物
「磬」は寺院用楽器 「磬」鋳型表面裏面

 大型鉄釜の鋳型
 鉄釜の鋳型は、上下(口型と尻型)の鋳型(外型)がほぼ完全な形で出土し、全国的にも例を見ない発見として注目されている。
鋳型から復元出来る羽釜タイプの鉄釜は、口径39cm、鍔の最大径65cm、高さ38cmの大型のものとなり、湯立神事など儀式などに使われたと考えられる。
これらの「磬」や大型鉄釜は、関西に拠点を置く専門の技術者である「鋳物師」が「出吹き」と呼ばれる各地に出向いて製造したものとみられている。
また、この地にこうした鋳物師を招聘できるだけの有力者や大きな寺社の存在が想定される。

鋳造鋳型内型 大型鉄釜の鋳型
 
釜の鋳造 鋳造関連遺物出土 鋳造鋳型外型
 626経塚出土遺物
 大正年間に発掘されたもので、銅製経筒1、陶製経筒2、陶製甕1、鏡4面、中国銭(元豊通宝)をのこす。
このほかに刀子や鉄製品などが同時に出土している。平安末期  三光院蔵

経塚出土遺物 九六位山経塚 経筒・宋銭・鏡
 
 
 ※このあとの展示は、
  5.大友宗麟と中世 6.近世の府内 7.暮らしの道具(民具) であるが、
  これらの展示は地域特有の展示であり、また、全国的に同じような陶器片などであると感じて写真を撮っていません。

  どうもすみません。サボっていました。  
 
 
 630大友宗麟と中世・近世の府内
 
 
 
 700国分寺跡公園
 701豊後国分寺遺跡
 豊後国分寺は奈良時代中期に、聖武天皇の命により仏教の力で国を鎮護し災いを除くことを願って、各国ごとに建立された国分寺の一つです。
豊後国府から遠くない大分川左岸の国分の地を選び、東西183m南北300mを越える寺域に七重塔・金堂‣講堂・食堂などの壮大な伽藍が営まれた。
 この公園は、往時の豊後国分寺の姿を遺構や表示などで再現し、園内を花・森・交歓・水景・芝生の広場に区分して、散策しながら歴史学習に親しめる場としたものです。 平成4年3月10日

豊後国分寺跡復元想定図
公園案内図
 702
 食堂跡
僧侶が食事をとる所。諸国国分寺では、講堂の北に僧坊(僧侶の住まい)を造る例が多く見られますが、豊後国分寺では以降の様子から食堂と推定されます。基壇はなくなっていましたが、発見された柱穴から、正面(7間)21.3m、奥行き(4間)12mの掘立柱建物があったことが分かりました。

 講堂跡
 寺内の僧侶が参集して説教・講義・法会などを行う堂。遺構の北半部に基壇下部が残されています。
基壇の規模は東西約27m、南北約18.7m、で、瓦積みの外装を施していました。
 礎石は失われていましたが、礎石の下に差し込んだ根石が残されており、これから正面20.72m(7間)、奥行11.84m(4間)の建物を復元できます。

食堂跡
講堂跡
 703現存の国分寺
豊後国分寺跡 大分市大字国分

 国分僧寺で医王山金光明寺と呼ぶ。「天平13年(741)聖武天皇が一切災障消除年穀豊穣を発願して国毎に今光明四天王護国寺を建て、七重塔一基を造り、今光明、最勝王経、法華経、各一部を安置し、封戸五十戸、水田十丁、二十僧をあてられた。
 寺伝では、同年勅により石川民部何某が豊後国史とともに僧寺、尼寺を建て、のち行基を開基としたと言う。
天平13年は天皇御発願の年で、なお未完成の国が多く、同16年(744)石川年足などを諸国につかわして寺地を検定し、国郡司を督励して3年以内に完成するよう命令されたほどであり、13年説は信じ難い。
豊後国風土記大分郡条に「寺二所僧寺尼寺」と見え、続日本紀天平勝宝八年(756)の条に、越後国以下26ヵ国(豊後国を含む)国分で国分寺に
灌頂幡1、道場幡39、緋綱二条を下賜され、今日寺地から奈良時代の鐙瓦や唐草瓦を出土することなどから見て、756年頃にはほぼ完成していたものであろう。
 
 今日、もとの堂塔は、廃絶し、金堂跡には後の薬師堂(3間4間)、塔跡には観音堂(3間3面)が建てられている。
金堂跡の上壇はなくなり、十数個の原礎石(造り出しあり)を残すが、薬師堂建設の時、原位置を移動したため、原形を復元しえない事は遺憾である。
しかし、塔跡には土壇を存し、中心礎石及びその他の礎石も大部分原位置を残存する。
中心礎石は観音堂床下にあり、東西長径2.1m余、中央部に心柱の乗る高さ14.5cm直径76cmの造り出しがある。
周囲の礎石は九個現存し (三個欠)柱の心の位置が不明であるが、ほぼ12m四方となるゆえ4間4面であったと思われる。
やはり奈良時代の様式(東大寺式)と解すべきであろう。
全国的に見ても、このような巨大な塔はまれで、おそらく続日本紀記載のとおり、七重塔婆一基とある詔によるもので、奈良時代式の伽藍配置では東大寺や薬師寺等の東西西塔にあたるわけであるが、それらしい痕跡がないので、本来西塔だけしか建立されなかったと思われる。

国指定史跡昭和8年2月28日指定
大分市教育委員会

史跡豊後国国分寺跡


 七重塔跡
 金字金光明最勝王経を安置した、国分寺のシンボル的な建物です。
塔はもともと釈迦の舎利(遺骨)を安置したものでしたが、奈良時代には釈迦の遺法である経典を納めるようになりました。
一辺10.66m(3間)の基壇や礎石、塔の中心柱を支えた心礎がほぼ当時のまま現存します。総高67.3mの壮大な塔であったと推定されています。

七重塔跡



 金堂跡
 本尊を安置した仏殿で、堂内を金色にすることから付いた名前と言います。
現在の薬師堂の周りに約40個の礎石が残されていますが、当時の位置のままではありません。
基壇の地下部分は現存します。基壇は東西32.6m、南北21.6m。この上に正面25.16m(7間)、奥行4間(14.21m)軒の出3.7mの重層建物がありました。

金堂跡