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 北海道の縄文 №34 2022.06.15-2

  西興部村(にしおこっぺむら)郷土館 北海道紋別郡西興部村西興部126
   0158-87-2188 火休(5/1~10/31open) 撮影可

館の特徴  考古展示は僅かです。細石刃核が特徴的。と思って・・・
交通 レンタカー
近隣観光地
近隣博物館
宿泊情報
 
 
 はじめに
 西興部村はありますが東興部村はありません。西興部村内東端に東興という地域はあります。
西興部村の由来は、紋別郡瑠橡(るろち)村、沙留(さるる)村、興部村が合併。できた旧興部村の西部が分村して西興部村となりました。

 この館は
 とても小さな郷土館です。展示物も棚2つ分です。しかし、この館では、全く異なる細石刃技法の遺跡が、すぐ近くから出土しています。
技法が異なるのは集団の出自や経歴・文化が異なるからでしょう。
 なぜ近接した場所から異なった剥離技法集落遺跡が出土したのかと疑問に思い、訪れました。
 
目次
01外観
03入口展示

100考古展示
101村の歩み
※資料 湧別技法
※資料 忍路子技法

村の歩み
※困惑 細石刃技法の違い
※考察 列島の細石刃技法
※考察 大平山元遺跡と細石刃技法の不思議
※緊急訂正 
105考古資料
 はじめに(私見)
110展示資料
111左上段から
 有舌尖頭器
 ホロカ型彫器
 広郷型細石刃核
 札滑遺跡
116左中段
120左下段
 東興遺跡
123細石刃剥離技法
 忍路子型細石刃核
130接合資料
 舟底形石器
140THE GREAT JOURNEY
150右上
 峠下型細石刃核
 小形舟底形石器
 忍路子型細石刃核
160彫器
171石刃
173石器接合
 両面調整石器
177削器
200西興部村の前近代
201アイヌの人々とチャシコツ

203寄贈石器
210寄贈石器1
「西オコ2N地点」
230「中オコN地点」
250寄贈石器2
260「西オコN地点」
265札滑遺跡
270「上オコ1N地点」

300開拓時代
310拝み小屋
320民具
330ハッカ栽培
333西興部村の自然
 
 
 01外観
紋別市海岸段丘
(砂丘)

寒冷地で草の成長遅く
(平地が信州の高山並)
紋別市オホーツク海
冬季用牧草の備蓄には
牧草地
広大な牧草地が必要
西興部村郷土館 郷土館は手前
向こうは創夢館
両館の入口
 03入口展示
郷土館入口
訪問時は無人でした
きっと誰も来ない
自然環境
一周するとこの切株が
館内図
まァ、読めないワ
手前:自然環境
隣接:開拓住居
歴史展示
村の歩み
年表の撮影は読めないのでやめました。
 


 100考古展示


 101村の歩み
  大昔の西興部 引用「西興部村郷土館」
 北海道に人が住み始めたのは、今から約2万年前であると考えられています。

 その頃は氷河時代で、北海道はシベリアと陸続きでした。
まだ土器を作る技術はなく、人々は黒曜石などを打ち欠いて作った道具=石器を使って、
寒いシベリアから渡ってきたマンモスなどの動物狩りをして暮らしていました。
このような時代を先土器時代と呼び、今から1万年前まで続いていました。

 西興部村の各地からも、この時代(2万年前)のものと思われる石器が数多く発見されています。
なかでも、札滑と忍路子の遺跡から発見された石器の年代を調べた結果、西興部村に人が住み始めたのは、今から1万2千年ほど前であることがわかりました。
 また、この両遺跡から発見された細石刃核は、どちらもその作り方に特徴があり、「湧別技法札滑型」、「忍路子技法」と呼ばれ、北海道の先土器時代を代表する遺跡として世界的に注目されています。

 ※ここで注目したのは、「湧別技法」「忍路子技法」とあることです。二つは全く異なる技法なのかの疑問です。

西興部村 忍路っ子遺跡
https://www.vill.nishiokoppe.lg.jp/section/kyouiku/feeuub00000019mr.html
https://www.jssscp.org/files/backnumbers/78_4.pdf
https://www.vill.nishiokoppe.lg.jp/section/kyouiku/feeuub000000055a.html
 札滑型細石核 忍路子型細石核
西興部村 札滑遺跡










※資料 湧別技法 引用「wikipedia湧別技法」(抜粋)

湧別技法による細石刃核は「白滝型」と「札滑型」に分類される。
湧別技法による細石刃生産
半月形または木葉形の両面加工石器(blank)を製作する。
両面加工石器の両端に長軸方向の打撃を複数回加え、器面にほぼ直交する打面を作出する。
 この段階で、最初に断面三角形の削片が剥離され(first spall)、
 二回目以降では断面台形のスキー状削片(spall)が剥離される。
③細石刃を作出する。長軸の一端または両端より剥離作業が行われる。(右図参照)


図引用「鏡野博物館」

 白滝型と札滑型
湧別技法での細石刃核は船底形(楔形)を形成する。この時に準備される細石刃核は「白滝型」と「札滑型」に分類される。
 白滝型は打面に擦痕があることが大きな特徴であり、当初はそれ自体が道具だと考えられていた。
  (この内、比較的小形の細石刃核の一群で、打面部に縦方向の擦痕が認められるものがある。
   これを使用痕と考え、この湧別技法をある種の船底形石器の製作技法とみる立場もある。)札滑型についてこのような記述はない。


 道内分布域

湧別技法の道内分布は札滑白滝第30・32、服部台置戸安住タチカルシュナイ遺跡など北海道北部に集中し、石材に黒曜石を用いる
湧別技法札滑型細石刃核の分布は、北海道から中国山地・瀬戸内地方に及ぶ。(新潟県月岡遺跡山形県角二山遺跡岡山県恩原遺跡など)。
 札滑型の石材には黒曜石、頁岩の他、各地域に産する石材を利用する傾向がある。
 共伴遺物には尖頭器、荒屋型その他の彫器、各種スクレイパーなどあり、その年代は黒曜石水和層法により約1万3000B.P.と考えられる。


 極東での分布 引用「webilio湧別技法」
湧別技法の分布は「中国やサハリン、東シベリア、沿海州、カムチャッカ」にまで達している。
 特に中国では「河套(かとう)技術」と称されているものは湧別技法と対比されている。
 (しかし、厳密な製作工程に基づいた比較検討はなされていない。白滝型細石刃核は大陸側で出土していない。)
道内に存在するその他の細石刃生産技術、荒屋型彫器などと伴に、北海道から東日本の細石刃文化の系統を理解するための重要な指標となっている。

 結論










北海道の細石刃技術の祖型は湧別技法で、細石刃核は舟底形又は楔形である。北海道北部が分布の中心である。
北海道の細石刃核のもう一つのグループには円錐形・半円錐形のものがある。これは置戸型or紅葉山型と言われ北見市紅葉山遺跡出土である。

湧別技法白滝型は大陸側で確認されていないので、湧別技法札滑型が祖型であり、白滝型は道内で派生したと考えられる。
その後、札滑型集団は北海道西岸から南下し、東北地方から中国地方・瀬戸内地方までの列島各地に南下し、地元産黒曜石などを入手して各地に植民を行ない、やがてその勢力範囲を広げていった。

おそらくこの頃にはまだ後氷期の大型獣がわずかに生き残っていたのだろう。だから、細石刃狩猟具が活躍したのだが、結局、細石器で対象動物を絶滅させ、細石刃文化は終了した。

汎用性の少ない大型獣向けの道具、細石刃石器がどのように使われたかわからないが、
 北海道では2万年前から1万年間も使用されたのだから、いかに大型動物が多かったかがわかる。その細石刃器を持って本州島に南下した
 ハンターは、あっという間に大型獣を狩り尽くした。 


 ※資料 忍路子技法












忍路子技法は木葉形の両面調整石器の側縁を長軸方向に削ぎ落すことにより、平坦面を作出し、石刃を剥がす技術であり、これは、湧別技法の一つである。
忍路子型細石刃核石器群の発生は、湧別技法の札滑型 白滝型、 紅葉山型、蘭越型に後続するとされている。
また、円錐形細石刃核グループの紅葉山型と、楔型細石刃核の蘭越技法は同時期に発生したと考えられている。

細石刃技法を大別 引用「札幌市中央図書館-細石刃技法」
 ①円錐形・半円錐形のグループは、通常の石刃技法と脈絡があるもの。 
 ②舟底形ないし楔形グループは、主にその製作技法の違いから、ホロカ技法、湧別技法、峠下技法、忍路子技法、蘭越技法などに細分できる。
 従って忍路子技法は、舟底形・楔型石核を元にする、湧別技法と同一のグループに属する。ことになる。

結論
 忍路子技法とは、湧別技法の中の一つの技法である。



 考古展示
 
村の歩み
北海道の歴史
先史時代
旧石器~縄文前期 縄文時代 続縄文以降 大昔の西興部
上に記述

年表 北海道の主な出来事
20,000年前 北海道に人が住み始めた
旧・中石器時代
 ナウマン象・オオツノジカ・マンモス 石器
(先土器時代)
10,000年前
縄文時代
早期 貝殻文土器がつくられる 狩猟・矢の先
前期 各地に貝塚がつくられる 貝塚
中期 大きな「むら」がつくられる 魚採り・木の実取り
後期 ストーンサークル・周堤墓などがつくられる
晩期 遮光器土偶がつくられる
2,000年前
続縄文時代
 鉄器が伝わる
 恵山文化優れた骨角器がつくられる 銛・釣針

※そういえば、子供の頃、骨角製のスプーンがあった。重くて硬くて綺麗な装飾が施されていた。口に当たると冷たかった。茶菓子用のフォークも骨格製だった。きっと祖父の物で、象牙製だろう。高価だったのでしょう。入江・高砂か北黄金で骨角製スプーンを見た時、なぜか懐かしい手に取りたい欲求に駆られたのは、この記憶のせいだったのか。
金属製は口の中にイオンが広がる味がした。金属製でもない現代のプラスチック製でもない、不思議な感触でした。
1,500年前
擦文文化オホーツク文化
 家の中のカマドで煮炊きを行なう
 アワ・ソバ・豆などをつくる
1,000年前
 モヨロ貝塚がつくられる
 アザラシなどを盛んに捕る

500年前
アイヌ文化
「内耳土器」「館」「チャシ」
 和人とアイヌの争いが起こる
 松浦武四郎らが道内され探検する

100年前
明治時代 北海道開拓使がおかれる
大正時代 
昭和時代 開道100年―野幌に100年記念塔がつくられる

 西興部村
 札滑遺跡と忍路子遺跡位置図
西興部村遺跡分布図
札滑・忍路子遺跡は一本の沢筋で近接。が居住時期が異なる。
札滑・忍路子遺跡
非連動
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 画像をクリックして下さい。
 連動していません。後付け挿入です。

上図広い地域
下図両遺跡の位置関係

 狩猟・採集
マンモス狩り想像図 古代人が食べていた木の実 モモ・ハシバミ・トチ・クルミ・クリ・ドングリ・マタタビ・サルナシ(マタタビ属)

※トチの食べ方不明
 トチ餅は弥生以降

 約2万年前の北海道と北方の動物
北の動物
オオツノジカ
 肩高約2.3m 体長3.1m 体重700kg、角幅3.6m以上 重量50kg以上
ヘラジカ
 オオツノジカよりやや小さい程度の大鹿
マンモス
 肩高約3m 体長3.5m 体重5t 牙長3m
陸地となった海峡
間宮海峡
宗谷海峡
国後海峡

 北海道のおもな先土器時代の遺跡
●北海道のおもな先土器時代の遺跡
札滑忍路子 
オホーツク沿岸
1.浅茅野
2.モサンル
3.札滑
4.オショロッコ
5.札久留

渚滑・湧別・常呂・網走川流域
6.タチカルシュナイ
7.ホロカ沢 1
8.白滝
9.上口
10.吉田
11.中本
12.広郷
13.増田
14.紅葉山
15.岩橋
16.置戸 
釧路・十勝川流域
17.北斗
18.嶋木
19. 

旭川盆地・石狩川
20.射的山
21.旭ヶ丘
石狩低地・道南
22.三角山
23.
24.峠下
25.狩人
26.立川
27.樽岸
28.ピリカ
29.トワルベツ
30.湯の里4
31.日東
32.メボシ川 

 札滑遺跡想像図
札滑遺跡想像図
 

※困惑 細石刃技法の違い
 北海道を始め、列島の細石刃技法や細石刃核について、私はほとんどわけが分からない。
 上記で「湧別技法札滑型」とあり、大陸から北海道、その後列島日本海側を南下していった湧別技法系統の剥離技術かと思います。
 「湧別技法として知られる白滝型・札骨型・峠下型・蘭越型、忍路子型、幌加型、射的山型、紅葉山型など」とあり引用「列島考古学」
 湧別技法下の分化した剥離技術ととらえていました。

 (紅葉山型は湧別技法なのか?円錐形細石核だろ?
 論文をよく読むと、湧別技法の細石核も出土していました。)「紅葉山型細石刃核を組成する石器群の動作連鎖」

 (円錐形・半円錐形細石核は、圧倒的に九州から入って来た細石核のグループです。北海道では忍路子型と同時期に派生したと上にあった)

 しかし、引用「細石刃技法」
 「北海道の多種・多様の細石刃技法については、大きくは
 ➀円錐形・半円錐形のグループと
 ②舟底形ないし楔形(くさびがた)と称されるグループの二つに分けられる。

 ➀は、通常の石刃技法と脈絡があるもの、(※とあるが、意味不明)
 ②のグループは主にその製作技法の違いから、
  ホロカ技法、湧別技法、峠下技法、オショロッコ(忍路子)技法、蘭越技法(図1)などに細分される↓


 とあり、このように比較図を見ると、確か1・2と3・4は違う技法に見える。しかし、一方では湧別技法下の一技術であるとされる。
 が、円錐形・半円錐形細石刃核(置戸型紅葉山型)については、今のところ言及した論文が見当たらない。

 湧別技法も他の技法と同じく一技法にすぎないのなら、大陸からはいろいろな技法の集団が別々に渡って来たことになる。
  今見たところ、湧別技法の舟底形細石刃核と、紅葉山型の円錐形細石刃核。北海道型と九州型。シベリア型と華北型というべきか。
  にもかかわらず、一方では、まるで全てが湧別技法下で分化した技法のようにも語られる。??
 
 
 
 ※考察 列島の細石刃技法

北海道の細石刃技法 引用「列島考古学 旧石器時代における細石器の特徴とその製作上の効率性 岡本かのん」(要約)









細石器とは、打製石器の一種で小型の刃を木や骨角の軸にはめ込んでナイフ・槍・鎌として用いた。旧石器時代後期とされる。
本州最古は静岡県休場遺跡の14,300年前で、終末は12,000年前にむかえた。北海道では2万年前と言われ、縄文時代草創期まで存続した
細石刃遺跡は全国で500ヶ所を超え、遺跡密度は北海道と九州で、極端に少ないのは近畿地方である。
石材は黒曜石・砂岩・チャート・流紋岩・ガラス質安山岩・硬質頁岩など、その地域で利用できる岩石が用いられた。

この文化は、細石刃核の形態や製作技術に地域的な変化が顕著であり、それが特徴である。
北海道の細石刃核は、湧別技法として知られる白滝型・札骨型・峠下型・蘭越型、忍路子型、幌加型、射的山型、紅葉山型などに類別される。
湧別技法やその影響を受けた細石刃剥離技術は、津軽海峡を越えて山形県、新潟県、茨城県など東北地方の北半分まで拡がっている。

白滝型、札滑型と呼ばれる2種類の細石刃核は、原材料の黒曜石などの原石を半月形または木葉形にし、これを両面から加工し 10cmほどの大きさの両面加工の母体を作る。この長軸方向に剥離を加え、平行に平らな面を作り出し、細石刃を剥離するための打撃面を用意する。こうして調整した石核の端に打撃を加え細石刃を剥ぎ取っていく。
 
本州の細石刃技法
 九州の細石刃技法
西北九州を中心に、福井型と呼ばれる細石刃核が存在する。(野岳型→船野型→福井型と変化した型式は隆起線文・爪形文土器を共伴)
南九州を中心に畦原型(うねわらがた)が知られる。    (円錐形・半円錐形・角柱状石核)
野岳・休場型細石刃核は、関東・中部地方から九州までの広い地域に広がっており、円錐形、半円錐形、角柱状などの形をしている。
船野型細石刃核も宮崎平野、大野川流域の東九州から近畿南部、東海を経て中部南半分、南関東まで広く分布している。
 これらは二面の作業面を形成しやすい技法である。(細石刃剥離面が両側にできる)
 船野型は、野岳・休場型(稜柱形)→船野型(船底形)→削片系(楔形)へと変化するとし、野岳・休場型が最も古い段階に出現するとした

 本州の細石刃技法
・九州島の細石刃技法には、福井型・唐津型それに野岳型の三者が認められる。
野岳型・休場型等と呼ばれる角錐状細石核による矢出川技法は、華北地域の角錐状細石核を用いる細石刃技術と類似する。
日本列島及び東ユーラシアにおける細石刃石器群の展開(何を引用したのかわからなくなっています。)
西南日本型細石刃核は中国大陸各地から出土している。引用「西南日本における細石刃文化の紀元と展開」

明治大学博物館「約2万年前の静岡県休場遺跡の細石刃石器」
 約2万年前の静岡県休場遺跡の細石刃石器群には神津島産の黒曜石が使われていて、当時すでに海を渡る航海術があった
 ことを示しています
・九州島への細石刃の伝播は18000calBPとする資料もあるが、その後2万年前後の値の遺跡が多くあり、
 静岡へは、九州より先に到着したかもしれない。明大の休場遺跡2万年前の記述は確からしいと思われる。

 それでは、どうして九州よりも先に静岡に到着したのだろうか推論してみた。
2万年前の日本列島

引用広島WEB博物館

華北(黄河)文化センターから休場まで
 103
バイカル湖から台湾島まで
 4万年前にバイカル湖※0に到達した細石刃が、華北文化センターに伝えられたのは、円錐形・半円錐形・角錐状・角柱状・稜柱状と言われる石核だった。時代は最寒冷期に向かっていた。動物も植物も全て南へ逃れていった。この技法を学んだ華北型細石刃文化人もこれを追って行った。
 いつの頃に華北に伝わったのかはわからないが、この技術は急速に進む寒冷化から逃げる人々にとって大変好都合だった。
この技術が何千キロも離れた地でも正確に伝わった背景には、急速な寒冷化と、華北文化センターの人々そのものが拡散していったからだろう。だから亜流形を産む暇もなかったのだろう。(華北と休場の石核は同種だった。)

 最終氷期に向かう頃、黄海は広大な平原となっていた。※0海水面はどんどん下降し、九州と朝鮮半島の間の対馬海峡には激流が流れるも、冬には氷結し、広大な氷の回廊となり、多くの動物や細石刃ハンターが渡ったかも知れない。※1

 シナ陸塊を南下した細石刃は台湾海峡にたどり着きこの辺りを猟場にした人々もいたようだ。※2

現在の台湾島の北側から船出すると琉球弧の内側を、南側から船出すると、琉球弧の外側の世界最大最速の黒潮(幅100km秒速2m。1日に2×60×60×24=172800m≒173km/日。台湾北端基隆港~伊豆半島約2000km。約11日)に乗ることができる。※3彼らは、この流れに乗って二、三週間とかの短期間で伊豆半島にたどり着いたと考えられる。(4~9km/hともあり、96km/日~216km/日)
 その航海者とは。
※0バイカル湖文化センターから

引用「黄河文化センター」
※0最寒冷期の海岸線 ※1最終氷期の対馬海峡古地理
引用「最終氷期の対馬海峡」
※2中国の細石刃文化遺跡分布図
引用「西南日本における細石刃文化の起源と展開」
※3沖縄周辺海域における黒潮の流路ならびに琉球サンゴ礁の氷期と間氷期における北限の予測位置

引用「鮮新世から現世までの黒潮と対馬海流の歴史」
※3黒潮とトカラ線

引用「口之島ダイビングサービス」
※3黒潮の流れ

引用「古水温変動からみた北太平洋の軌道強制力に対する応答

104
黒潮圏 海上の道 引用「黒潮圏の考古学」-海上の道の始り

スンダランドの海洋民
 約5万年前頃スンダランドの海岸地域※4に、海洋適応戦略を成功させた新人段階の旧石器人が定着していた。かれらは東南アジア内陸部の熱帯雨林に展開した「礫器文化」に対峙するように、海岸や島嶼部を拠点に「不定形剥片石器文化を発達させた。おそらく筏(竹か)などの渡航具を使用し、河川・海洋資源を主生業にした漁撈・採集民であった。
 彼らは、最寒冷期に向う気候変動の過程で生じたスンダランド地域の海進と海退の環境変動に促される形で、黒潮海域を活動の場として、外洋航行にも順応できる「海洋航海民」に成長していったと考えられる。

コンティキ号の実験航海がベースにあるのかと。筏や竹材では不可能という実験もある。
・筏は波で転覆して静かな湖向き。筏の縄は水に膨れて切れる。
・外洋航海には、台湾ヤミ族のように船尾と船首に高い舳先を付ける。この舳先の高さの波まで舟は絶えられる。
丸鑿石斧貝斧※5などがかなり以前からあったのだが。八丈島からマリアナ円筒石斧が沢山出土している。
・何らかのまともな舟が無ければ、海洋航海はできない。筏で出れば、目の前で転覆するだろう。


海を渡った旧石器人
 世界最古の海上航行:
 約5万年前頃東南アジアのスンダランドからオセアニアのサフルランドヘ移住した旧石器人集団が知られている。かれらは目視できる島々を伝って渡海・移住し、新天地を第二の故郷としてメラネシアの島々に拡散・定住し、今日まで生活している。
縄文人のDNA検査で最も近いとされた人々が彼らワジャク人だ。※6
海洋航海民は雲の沸き立つ所に島があるという。湿潤な風が島の斜面を駆け上がると雲を作るからだ。

神津島産黒曜石の交易:
 約3万2千年前頃東京・武蔵野台地の旧石器遺跡から、約180Km南の太平洋上に浮かぶ伊豆諸島・神津島産の黒曜石を使用した石器類が発見されている。本州島(伊豆半島)と神津島の間には海深200m、幅30Km以上の海が横たわっており、この島の黒曜石を入手するには渡航具(筏、丸木舟)を使用した海上航行が必要であった。

丸木舟は横に回転して不安定。アウトリガーを付けて支える。二~三艘の舟を繋いで航行する。

関東の黒曜石と海洋航海民
3万2千年よりも前(3.8万)に黒曜石を持って武蔵野台地※7に遺跡を作った人々は、スンダランド人が偶然そこに上陸したのではなく、彼らは最初から黒曜石の有用性を知っていて、航海の途中に伊豆半島近くの神津島で黒曜石を見つけ、これを重要な交易資源として利用することにし、近くの海岸に上陸したのだろう。幸い黒曜石を採りに行けるのは、彼らしかいないため、独占することができる。このようにして、スンダランド人は、本州旧石器人と黒曜石交易を確立した。

それから1万2千年後、2万年前に休場遺跡に、シナ陸塊の南端で得た、細石刃技法を持ち込んだ。この華北型が、その後16000calBPの野岳型と同種なので、野岳-休場型と名付けられた。当時、休場遺跡1.4万calBPとされていたからだ。
※7神津島・武蔵野台地
・休場遺跡
おそらく野岳のものは列島で細石刃が盛んになった頃に残されたものだろう
これは、必ずしも対馬海峡を越さなくても、南西諸島の西側を舟で進めば、九州西側を進み、どん詰まりは長崎県であった。

海洋航海民は、旧石器から縄文にかけて、伊豆諸島のもっと南の島に、大潮の日にしか採れない美しい貝を採取しに行き、高い価値で取引された。実際に海を知り尽くした人々だった。そして、何よりも大切なことは、黒潮に流されて、太平洋の藻屑になるばかりではなく、海図を持ち、行った航路を辿って帰ってくる、海洋漂流民ではなく、海洋航海術の達人、海洋航海民だったということが大事です。


南方型旧石器文化(約3.5万年前) ※8
 神津島の発見者は、黒潮海流を北上してきた新期(後期)旧石器時代人である。
 彼らは琉球列島を経由して、種子島や四国・本州島の太平洋岸地域※9を遊動拡散してきた新人集団と考えられる。
 (※この時代には、台湾でまだ旧人がいた痕跡があり、旧人の洞窟の傍で、新人が暮らしていた遺跡がある。)
 種子島の立切横峯B遺跡約3万年前)、東京の西之台B中山谷遺跡約3万5千年前)で出土した
 礫器大型幅広剥片石器錐状石器クサビ形石器磨石敲石などの「重量石器」を特徴としている。
 同様な旧石器群は、ベトナム、香港、台湾島などにも分布が認められている。

不定形剥片石器文化:(約2.5万年前トカラ海峡以南 ※10
 黒潮海流を北上した旧石器文化の第二波が、奄美諸島の土浜ヤーヤ天城遺跡約2万5千~2万年前)で確認された。
 磨製石斧片、チャート製の台形状石器、スクレイパーに特徴をもち、
 九州島から列島内部に展開される「ナイフ形石器」が伴出しない。(黄河文化センター以外の文化。)

 そしてこの旧石器群は南方型旧石器文化と分布圏を同じくするが、トカラ海峡を越えて北側の列島内部には
 発見されていない。【引用終】
トカラ海峡線
 ※トカラ海峡を超えないのは、ここから黒潮が太平洋側に大きく蛇行し陸地から遠ざかるからである。
 ここをトカラ海峡線と言い、生物分布の大きな境界となっている。
 ※黒潮の流れは蛇行ではなく変化することが知られている。トカラ海峡で太平洋に流れるようになったのは2.5万年前。
 ※八丈島と青ヶ島の間を流れている黒潮は、以前は八丈島の北側を流れていた。
 トカラ列島から太平洋に向かった黒潮の流れは、やがて伊豆半島や神津島にぶつかる。※11
※8南方系石器
引用「黒潮圏の考古学」
※9本州太平洋岸
引用「最終氷期の東アジア」
※10不定形剥片石器
トカラ列島線

引用「黒潮圏の考古学」
※11寒冷期の神津島
引用「広島WEB博物館」
引用「日本人形成過程のシナリオ

 ※重要参考ページ 是非ご参照ください。
   神津島と海の古道
    神津島と伊豆半島への海の道、また、三浦半島や房総半島への道を研究したページ
   まろん通信 VOL.2705 旧石器時代のブランド?神津島の黒曜石
    神津島の黒曜石、海底地形。伊豆半島から神津島への舟の検討などが掲載されています。



細石刃文化の運び手 約2万年前
 5万年前に始まった、海洋航海民の活動は、3万8千年前には神津島の黒曜石を関東地方に供給していた。
 2万年以前南シナ海に到達した華北型細石刃技法は、台湾島付近で渡海中の海洋航海民に伝播した。

 この頃のスンダランドは最も広大な陸地が出現したがその多くは干潟だった。しかし、塩分を含む砂地に生える植物や、それを餌とする動物が増えるのには長い時間が必要で、むしろ、漁場が干上がり、珊瑚むき出しの手足に深い裂傷を追うような危険な海岸線が多く出現し、補陀落渡海のような死出の旅に出なくても済むような状況ではなかったのだろう。

 2万年前に彼らはこの新技術を携えて航海にでて、トカラ線から大きく島嶼列をそれる黒潮を乗り切って、伊豆半島や神津島に衝突し、やがて、静岡県休場にたどり着いて、豊富な黒曜石を背景に、華北型細石刃器を作成した。

 細石刃以前の石器は台形様石器ナイフ形石器剥片尖頭器など小型剥片石器が主流であった。これに対して、大きく強力な刃器である細石刃器が導入されると、旧石器人の狩りが激変しただろう。

狩猟具の変化
 3万年前にナイフ形石器が出現全国的に普及する。
 1.5万年前に中部・関東を中心に槍先形尖頭器が広がる。
 1.4万~1.2万年前に細石器が用いられる。
 大半の時代をナイフ形石器が占めるわけだ。ナイフ形石器は、長期的に北海道を除く全国で盛行した。

細石刃の普及
 北海道と、本州に2万年前に細石刃技術が伝わった。北海道では大いに発達し各地で様々な技法が出現した。
 中部地方では矢出川技法として有名である。ここでは、
  (細石刃14000年前 尖頭器16000年前 ナイフ形石器 24000~2200年前)
  1.4万年前に最盛期を迎える。なぜ、6千年間も低調だったのかはわからない。


結論
 スンダランドの海洋航海民の手でシナ陸塊南端に届いた細石刃技術は、時を経ずして2万年前に休場遺跡に到着した。
 ただし、数千年の沈黙の時があって、1.4万年前から1.2万年前までが細石刃の本州最盛期となる。この詳細は不明です。

 関連ページ
  鏡野郷土博物館 南牧村美術民俗資料館 宮崎県埋蔵文化財センター

推論後記
 推理の中で、いろいろなことがわかりました。氷期の対馬海峡には黄河や揚子江の河川水が流入し、最下流が津軽海峡だった。
 あれほど常識とされてきた、対馬海峡を渡って人や動物が渡来した説は間違いだった。

 一方で、消えたスンダランド人の行方は知らないが、台湾少数民族となった海洋航海民は、
 南に進み、東南アジアからニューギニア、ニュージーランド、南アメリカ大陸へ。
 北に、マリアナ諸島を北上し、八丈島までやった来た海洋航海民は、ハワイ諸島を基地に、太平洋の島々へと冒険の旅に出かけて行った。
 そして、インド洋に入った人々は、マダガスカル島まで拡散している。

 彼らの通った道筋には独特の遺物モアイ像や独特の宗教観マナも残している。
 彼らの遺伝子に刻み込まれた新天地に旅立とうという冒険遺伝子は、過去に生まれた人類の祖先が持っていた、新天地に拡散するという
 何かにとりつかれたような、まるで、カタツムリが体内に寄生する生物にコントロールされるかのような、拡散欲求、冒険欲求が、
 特に強くはたらいた人々だったのかもしれない。
  スンダランドにホモサピエンスが到着した5万年前からマダガスカルに移住した3000年前まで、死出の旅を恐れずに、
 未知の世界に旅立とうとする行為が、これだけ長く続くとは、本能にコントロールされているとしか言いようのない行為に思える。
 
 

※考察 大平山元遺跡と細石刃技法の不思議
 大平山元遺跡列島最古の無文土器が出土したことで有名であり、これが縄文時代の始まりとされる。
しかし、土器ばかりが強調されてそのほかに出土したものについてはあまり語られていない。
例えば、神子柴型石器群についても、これは信州で出土したので信州初源かと思われがちだが、正確には、長者久保・神子柴型石器群として、
青森県下北半島の付け根に当たる青森県上北郡東北町長者久保遺跡から出土しており、大平山元遺跡との関連が最も強い遺跡である。
また、石鏃も出土している。その他大型石刃尖頭器も出土している。

 この件について以下の引用文では、
引用「日々あれこれブログ 石刃・細石刃とそれらの作成技法(大平山元遺跡で目にした『湧別技法』)」では、これらを一覧表にして、

第1群:長者久保・神子柴系石器群
第2群:細石刃石器群(湧別技法)舟底形細石刃核とされている)
第3群:有樋先頭石器群
第4群:詳細不明の黒曜石製石器群  としている。


なぜ大平山元なのか
 外ヶ浜への経路
 私は、以前なぜ最古の土器が北海道ではなく青森県津軽半島の陸奥湾側で発見されたのかについて考えた事がある。
外ヶ浜町は、渡島半島から舟で渡ってくる時の目標地点である。するとその出発地点は、北海道の西岸を利尻礼文から下って不毛のサロベツ原野を南下し、広大な砂丘地帯を延々と下って石狩低地に辿り着き、きっとこの辺りの旧石器人に追い立てられて、積丹半島をまわり、沿岸各地でキャンプを繰り返しながら松前町白神岬から津軽海峡横断に成功し、陸奥湾西側の外ヶ浜町に上陸したと考えられる。と結論付けていた。

 サハリンから西周りで、南下した土器文化人は、北海道旧石器人とは折り合えなかったか、もしくは、
 沿海州から運よく渡島半島に辿り着いた土器文化人は、青森から道南に渡っていた東北旧石器人と折り合えて、津軽半島に渡り、
 津軽半島で上記の石器文化と土器文化を花開かせたのかもしれない。(津軽海峡横断には水先案内人が必要だったかも)
 しかし、同様に東周りで南下する集団もあるはず。すると、オホーツク海沿岸や知床で最初の土器が発見されてもおかしくはないはず。
 では、分類された1~3群を考えよう。


第1群 長者久保・神子柴型石器群 について
 この石器群は、アムール川から沿海州に起源を持つと言われる。
 青森県下北半島で、この美しい尖頭器を製作していた長者久保遺跡の縄文草創期文化では、激変する気候の(旧石器時代から縄文前半は気候が不安定で、気温上昇や下降が激しく、東京の気温が台湾にまで上昇したり下降したり、農耕はもちろん安定した動物の捕獲など不可能な時期だった)ため、定住は困難で、居住拠点を周回する旧石器型の集落形態をとり、しかし、土器を使用していた拠点集落は未発見または消滅したようだ。この長者久保遺跡自体、谷川の水に半分流されて、遺跡全体の姿は解明できなかった。

 美しい尖頭器文化は南に広がり、長野県では神子柴遺跡周辺で、大いに花開き、周辺に沢山の同種の石器が出土する遺跡がある。

 更に、土器文化は超速で南下し、長崎県福井洞窟遺跡では旧石器人が土器文化を受容する姿が残されている。
 大平山元遺跡の土器石器セットはそのまま列島中に拡散され、長野県矢出川遺跡からは本州型と北海道型の細石刃核が出土している。


第2群 細石刃石器群 について
 しかし、問題はここではなくて、大平山元遺跡から出土した細石刃が湧別技法であったことだ。
旧石器時代終末期に北海道内から、日本海側を南下して各地に持ち込まれ、四国からも出土した湧別技法札滑型は無土器で、
1万6500年前に大平山元遺跡に伝えられた細石刃技法が土器を伴った湧別技法だったことである。

 約2万年も前に北海道に持ち込まれ、道内各地で様々なローカル技法が生まれた「土器ナシ湧別技法○○型」ではなく、
大陸で流布していた湧別技法が土器を伴い、そのまま大平山元遺跡に持ち込まれたと「土器アリ湧別技法札滑型」である。

これは、たまたま、湧別技法北海道型ではなく、大陸からストレートに持ち込まれたということを表しているのではないか。
つまり、大平山元遺跡へは、直接大陸から持ち込まれ、北海道には技術移転がなく、津軽半島にのみ文化移転が興ったと言えるのだろう。
 ※舟底形細石刃核について
 ※引用文献では、小形舟底形細石刃核は、華北地域に多いとされている。


第3群 有樋尖頭器 について
 大平山元遺跡の、有樋尖頭器の出土と分布については、
 福島県文化財センター白川館(撮影禁止館)広報「まほろん通信71 平成31年4月16日発行」(令和元年4月16日発行)に、(以下引用抜粋)
シリーズ資料紹介29
2万年前の狩人が置いていった槍
 引用文(前略)
  この尖頭器は、先端左側にある大きな剥離(打ち欠いた跡) が特徴です。
  先端から雨樋のような細長い剥離痕が縦に入ることから、考古学の世界では「有樋尖頭器」と呼ばれています。

(赤柴遺跡の有樋尖頭器)
 有槌尖頭器は関東地方と中部地方に多くみられる石器ですが、
分布範囲は、北は青森県から、南は静岡県と現代の東日本に広く及んでいます。
この石器が流行した年代は約2万年前と考えられていて、この石器の近くで見つかった炭の化学分析による年代も近い年代を示しています。
また、石の素材として珪質頁岩が用いられています。この石材は現代の東北地方の日本海側地域が主要な産地で、そこから運び込まれたと考えられます。
 赤柴遺跡(旧石器時代の集落遺跡、福島県相馬郡新地町杉目字飯樋)では、この石器が出た後さらに周辺の赤土の中の調査を進めたところ、切る、削るなどに使われた石器のほか、礫群と呼ばれる当時の人が食べ物の調理に使った焼けた石の集まりが5カ所見つかりました。
そこは、約2万年前の日本海から太平洋まで東北地方をまたにかけた狩人が生活した場所だったのです。【引用終】
 とあり、日本海側における有樋先頭石器群は、大平山元遺跡以前、2万年以上前から使用されていた石器であったと結論付けられます。
 従って、遠来の土器文化以前からの地元の石器のようです。

検討
 長者久保・神子柴型尖頭器がサハリンから来たのであれば、北海道でも発見されるはずである。
 細石刃が北海道から来たのであれば、優勢だった白滝型が来ていてもおかしくはない。
 もっと早い段階から、北海道に土器が出現するはずである。
 全てが北海道を避けて津軽半島を目指している。大変不思議な伝播ルートである。

 【大平山元遺跡と細石刃技法の不思議】終わり
 
 
※緊急訂正 推論 1.65万年前の土器文化の到達 
 上記第2群で述べた大平山元遺跡の土器石器セットの津軽半島への到達道筋は、現代の海岸線や地形を念頭にしたもので間違いです。
推論➀歩いてきた
 1.65万年前以降の縄文時代草創期にも島根県隠岐島は陸続きで、歩いて黒曜石を採りに出かけていました。場所は隠岐島諸島の島後と言われる日本海側の島で、現在の水深が160mあまりあります。するとこれを列島全体に当てはめると、氷河時代の列島の地形と同じです。
 北海道はサハリン・間宮陸峡をはさんで大陸と繋がっており、利尻礼文・焼尻島・奥尻島はもちろん、水深40mの根室海峡は開いておらず、クリル諸島へは歩いて行けたようです。(ヤンガードリアス期 約1.29~1.15万年前の前でもそれほど急速な温暖化は進んでおらず、最終氷期ほどの寒冷期ではないが海水面の上昇は急激には進んでいなかったようだ。)

 ただ、対馬海峡と、津軽海峡は、開いていたと思われます。それは、日本列島を含む北半球は、寒冷乾燥地域であったため降雨量は少なかったが、旧日本海湖に、中国大陸・シベリア・日本列島から流れ込む河川水や、また、温暖化進行により融解した山岳氷河や降雪の雪解け水や降雨などが流れ込んで溢れ、水位を高めていく時期であり、対馬・津軽の水道には激しい流れがあったと思われます。但し、気候は寒冷期で、現在のようなモンスーンはなく、また、日本海への海流の流れ込みもなかったので、淡水が流れ、冬には氷結してその上を歩けたのでしょう。

 今から30年も前の話ですが、朝日放送関西版番組「クイズ紳助君」で、シベリア大陸から冬の間宮海峡を歩いてサハリンに渡るという実験がありました。実際にはこの時期のこの地域の人々は氷結した海峡を橋代わりにトラックを通して物資の運搬をしていましたから、実証というべきでしょう。現在では、この海峡は冬は通行不可能のようです。

 サハリンは非常に大きな島で、北海道の二倍以上の長さがあり、南下すると気温が上昇し宗谷海峡は海水面の低下により、陸化していましたから、宗谷陸峡を1.65万年前の人々は歩いて渡れたと思います。
 上記の想定では、シベリアからサハリン西海岸を舟で南下し、陸化した宗谷海峡を避けて利尻礼文島の西側を南下し、そのまま、北海道西岸の砂丘地帯を南下し、やっと石狩低地に着いたと考えていました。1.65万年前の人々は歩いて移動できたんですね。しかも、北海道西岸は現在のような北西風の吹き付ける不毛地帯ではなかったようで、それなりに、動植物の息づく土地だったようです。

 列島最初の土器文化人の南下は、渡島半島南部にまで達し、激しく流れる津軽海峡が氷結するのを待ったか、冬に2本の陸峡が現れるのを待ったかです。以前にも述べたが、津軽海峡には2本の双曲線になった海底陸地が続いており、太い方には青函トンネルが建設されている。
 しかし、この時期(温暖化が原因かもしれないが)、東北北部の人々が盛んに北海道に渡っており、この間の交通手段は意外と舟だったかも知れない。
 北海道旧石器人と意思疎通ができずか、もっと温暖な気候を求めてか、北海道に定住しなかった土器文化人は、氷上を歩いてか、それとも、津軽半島でその文化を花開かせたのだから、津軽半島から道南に渡って来た東北旧石器人の船団に渡してもらったか、して、陸奥湾半島の、当時もっとも栄えていた旧石器時代の海岸集落に辿り着き、この辺り(大平山元)に落ち着いて、その文化を解放したのではないだろうか。
 かなり無理のある推論。ところどころほころびている。


推論②
サハリン中部から舟で来た
 上の記述は長者久保-神子柴型石器群が、シベリアのアムール川流域から沿海州に起源を持つと言われていることを念頭にした推論。
しかも、陸続きだったため歩くことを前提にした。
 しかし、右、引用の地図「いしい。onX:最終氷期最盛期の日本周辺古地理図。」から考えると、当時アムール川は北極海に流れており、
アムール川流域文化とサハリンは、繋がっておらず、長者久保-神子柴文化人が、シベリアから無理やり極寒の山越えをして、現在考えられる靺鞨族とは異なった民族かが、間宮海峡南部から舟を出し一気に南下して津軽に辿り着いたと言えなくもない。しかし、なぜ、わざわざそんな無理して日本海に来るだろうか。有り得ない。第一彼らに土器文化が届いていたかが疑わしい。

推論③沿海州から舟で来た
 中国江西省では2万年前の土器が出土しており、沿海州でも(発見遺跡の年代は?万?頃かと)発見されている。アムール川(1.8~1.5万年前)
また、神子柴型石器群の分布域には沿海州が含まれており、土器のシベリア到達を待たなくても、それ以前に沿海州から列島への到達があったとしてもおかしくはない。なぜなら、この頃の日本海湖は現在よりもはるかに穏やかであったと考えられる。
 参照「シニガイ文化に添付した地図」 沿海州最古の土器 チェルニゴフカ 1遺跡

 縄文時代前期頃まで、秋田県や山形県にいくつものオーパーツが漂着している。
 王族刻印の玉斧青銅刀子玦状耳飾「の」状石製品など、が多いことが、
 シベリアではなく、中国や沿海州からの渡海が容易だったと考えられる。
 (※の字状石製品は、巻貝を横に立ち切ったものを石でまねた、魔除けと思われる。)

引用wikipedia「シニガイ文化」


推論
④想定される渡来ルート 沿海州から舟で流されてきた。
 氷河期の日本海についての、
 最近の研究では、対馬海峡は幅10km深さ10mで、黄河と揚子江から流れ出た淡水が日本海湖に向かって流れ込み、
 津軽海峡は出口でした
 表層には淡水が、深層には海水が流れ、日本海湖は汽水域だったようです。
 そして、氷河期に動物や人がこれを渡って列島に流入することはできなかったという説が支配的です。

  この件に関する論文 動画 動画が早いです。
  この結果では、寒冷期の動物や人の渡来はなかったことになり、渡来動物は40万年前と60万年前にできた陸橋で来たことになる。
  人には、海を渡る道具はなかったとされている。

 最寒冷期は1.7万年頃とされる。
 旧日本海湖に流れ込んだ河川水や雨水や融雪水・融氷河水は、北の出口、津軽海峡に向かって流れていた。
 日本海湖の水流は出口である津軽海峡へと流れ、その流れに乗ったまま舟を進めれば、労なくして自然に津軽海峡に到達し、
 南側に舵を切れば陸奥湾側に接岸することができる。(この時期時陸奥湾はなく、広い入口と奥に平原が広がる陸奥海岸でした)
 このようにして、北海道を経由することなく、シベリアも経ず、大陸沿海州から陸奥湾に来ることがいとも簡単にできたと考えられる。
 これが、大平山元土器・石器セットが最初に北海道に出現しなかった理由かもしれない。
 
 当時の日本海湖には、チョウザメイトウなどの大型淡水魚や川イルカなどが群れていたかもしれない。
 大きなズワイガニ・松葉ガニ・セコガニ・ベニズワイガニ、ホタルイカなどは間宮海峡や宗谷海峡が開いてから、北氷洋から流入した。

 ただし、日本海湖は丸いので、流入した大量の黄河・揚子江の淡水は、現在もだけど、湖の中で回っていたかもしれない。
 沿海州からは、一旦西に流されて、から、東向き水流に乗るか、 西向きの流れを乗り切って東に向かうかでしょうか。
 
と、以上のように記述を訂正します。
 
 


 110展示資料

 アイヌ時代を除いて、考古資料は↓これだけです。

 はじめに(私見)
 このたった二つの展示ケースの郷土館を取材したのにはわけがあります。
「忍路子型細石刃核」や「札滑型細石刃核」は、細石刃技法の中の有名な技法の一つです。
その有名な技法の名前が二つも、この西興部村の遺跡の名からとられたものなのです。
「西興部村 忍路子遺跡」「西興部村 札滑遺跡」です。

 これらの遺跡から発掘された細石刃には、「湧別技法札滑型」と「忍路子技法」と命名された湧別技法から進化した、あるいは変化した細石刃技法と言えます。
※wikipedia細石刃では
  北海道の細石刃核は、湧別技法として知られる白滝型・札骨型・峠下型・蘭越型、忍路子型、幌加型、射的山型、紅葉山型などに類別
  とあり、忍路子型は湧別技法下の一型式だといっている。
※札幌市中央図書館-新札幌市史-細石刃では
  北海道の多種・多様の細石刃技法については、大きくは
  (一)円錐形・半円錐形のグループと(二)舟底形ないし楔形と称されるグループの二つに分けられる。
  (一)は、通常の石刃技法と脈絡があるもの、※通常の石刃技法とはなに?
  (二)は主にその製作技法の違いから、ホロカ技法、湧別技法、峠下技法、(忍路子技法、蘭越技法などに細分されている。とある。
※技法と型式の区別がまだできていないようです。

 北海道の細石刃時代は約2万年前から1万年余も続き、各種の地方型、技法の方言型が発生し、色とりどりとなっていますが、
それらは、のちの土器のように、一地方に偏って発展したものではなく、各種の技法が各地に入り乱れ、
しかし、それは決して、一人の細石刃製作者が多種多様の技法を使いこなしたというのではなく、
それぞれの細石刃剥離技法を持った人々の集団が各地のキャンプに適した場所に次々と到来して生活し、しかし、それは決して他の集団と共同生活したのではなく、狩猟拠点となりやすいキャンプ地を、時期や時代を違えて使用したために、多様な技法が近接した地域で見つかるのだと思われます。

 当然、忍路子遺跡で忍路子型細石刃技法が発明されたのではなく、どこかで身につけた技法を持った人々がやってきて残した細石器が最初に発見されたに過ぎないのですが、有名な細石刃技法が二つとも、この狭い地域から発見されたことに、太古の人々の行動パターンに共通性があったことがわかりました。
 111左上段から

尖頭器 : 形からも想像できるように、モノを突き刺す槍の役目を果たした道具です。
錐 : 獣皮などに穴をあける道具です。 穴をあけるために、 骨とか木も用いられたと考えられますが、 腐れて残っていません。
有舌尖頭器: 尖頭器の基部に舌状の(なかご)をもつものです。 旧石器時代終末期にみられる道具です。

尖頭器
有舌尖頭器 有舌尖頭器

ホロカ型彫器: 旧白滝村 (現・遠軽町) 幌加沢で発見されたことから、この名がついています。
ホロカ型彫器 掻器 彫器(右下)
 
広郷型細石刃核
北見市広郷地区で多く出土している資料から、この名がつきました。 忍路子型細石刃核とほぼ同じか少し以前の石器と考えられております。
札滑遺跡 (K地点)から出土した石器

石核: 主に石刃、 あるいは、剥片を剥がした後に残った芯状のものをいいます。

広郷型細石刃核
札滑遺跡k地点
広郷型細石刃核
石核
※楔型石核
石核

 116左中段
剥片:石器を作る時に出る石屑ですが、 大きな剥片などは、さらに石器として利用されます。

舟底形石核 石刃
ジャスパー製(碧玉)
石刃
ジャスパー製
剥片 石刃 剥片

石鏃:矢の先に石鏃を付けて、弓で射られたと考えられています。
石匙:匙という文字が使われていますが、ナイフのような役目をはたし、持ち運びができるようにつまみがついています。
石刃
石刃
石鏃 石斧
縄文土器 石匙(携帯ナイフ)
 120左下段
 121
彫器:骨や木を削ったりする道具と考えられています。
石鏃
(縄文時代)
彫器 彫器
大型と小形の彫器
削片
掻器(黒曜石)

削器: ものを薄く削り取る作業に使われたと考えられています。 現代のナイフのような役目を果たしたと思われます。
掻器(玉髄) 削器
東興遺跡
東興遺跡
東興遺跡から出土した石器
東興遺跡出土石器
右:3点が接合した
縦三つに割れている
広郷型細石刃核

 東興遺跡:西興部村字東興184~185番地、 標高165mの 河岸段丘上、出土物:石刃、剥片
 広郷型細石刃核:
  厚手の石刃を素材とし、周縁を剥離で整形する。端部に打面を作出し、そこから得られた細石刃は細長く橇やねじれが少ないことが特徴。

 123細石刃剥離技法
細石刃剥離技法 札滑型
白滝型
峠下型
忍路子型
蘭越型 
〇札滑型・白滝型・峠下型は、よく似た技法
〇忍路子型・蘭越型はよく似た技法。
しかし、上下二群の型式は似ていない

忍路子型細石刃核:
このように極限までと言っても良いほど最後まで細石刃を剥離された細石刃核は珍しく、全国でも数例ではないかと思われます。
極小細石刃核。極限まで使い切った石核。

子供の頃は鉛筆で極小を競った。
最近はシャーペンを使うのでそんなことはしない。
ちびた鉛筆をアルミの鞘に入れるケースまで売っていたからね。

黒曜石産地にいながら極限まで石核を使わなければならなかったのはなぜだろう。
愛着があった。貧しかった。ちびっこ競争をしていた。
 どこかの博物館で、小さな舟底形石核が沢山出土していて、目的がわからないってあったような。使い終わった石核じゃないの?違います!

 忍路子型細石刃核と細石刃(黒曜石)
忍路子型細石刃核
黒曜石

 忍路子型細石刃核 (硬質頁岩)
黒曜石が多く用いられるオホーツク海側地方では、頁岩製の細石刃核は数が少なく貴重な資料といえます。
渡島半島から持ち込まれた頁岩製細石刃核が使用半分で放置されたのは、ここで、黒曜石に乗り換えたのだろうか。
それとも、珍しいのでとっておいたのだろうか。白くてきれいだしね。

北海道の黒曜石産地は21ヶ所あり、質・量とも良好なのは白滝・置戸・十勝三股・赤井川です。
硬質頁岩(珪質頁岩)は渡島半島函館市尾札部町黒鷲岬に大産地他に道央・道東・道北にも小規模に産出します。引用「縄文人の石器利用」PDF

忍路子型細石刃核
硬質頁岩

 130接合資料
舟底形石器: 断面が、舟の底のような形をしていることから、この名前がついています。細石刃を剥がすために用意されたものと考えられます。

3ピースが接合した資料
舟底型石核
2ピースが接合した
舟底形石核
舟底形石器
断面が舟底形
細石刃剥離の石核
 ※石核づくりに失敗して割れちゃったから、捨てた。ってことかな。

氷河期を生き抜いた狩人 舟底形石核 人類の移動想像図
下に記述
細石刃
上藻1遺跡 
  尖頭器と細石刃   
氷河期を生き抜いた狩人
   


掻器:掻器:下部が分厚く作られ、その部分獣皮などの脂を掻き取ったり皮をなめす道具です。
当時の寒さ(今よりも年平均で約7度低かったといわれています)から身を守るための毛皮作製に欠かせない道具の一つです。

彫器
錐(石核調整剥片利用)
錐(頁岩を使用)
掻器

 140THE GREAT JOURNEY
10万年前ホモサピエンス発生➡6万年前出アフリカ➡
 
 ➡5万年前東南アジア➡4万年前オーストラリア到達
4~3万年前日本列島到達
3万年前シベリア到達➡1.5万年前極東➡アラスカ到達➡1.2万年前ホーン岬到達
4万年前イベリア半島到達


 150右上
 峠下型細石刃核
倶知安町峠下遺跡から出土したものをモデルに峠下型細石刃核と名付けられました。
細石刃を剥離した残核で、今からおよそ18,000~15,000年前までの数千年間使用されていたと言われています。

 峠下型細石刃核は北海道と東北アジアで類似の技法が確認される。 古くから単独型式として扱われ、その分類は今も有効である
 峠下型細石刃核は美利河1遺跡の出土状況などから細石刃石器群の中では古い位置付けがなされる 引用「日本の細石刃文化

 以上から、峠下型細石刃技法は、極東アジアから直接持ち込まれた技法であると考えられる。

峠下型細石刃核 幌加型細石刃核


 小形舟底形石器
小形舟底形石器:断面が舟底の形をしていることから、この名前がついています。細石刃よりも小さな石刃をはがした跡がありますので、石核の一つと考えられます。忍路子型細石刃核に伴って出土することが多く、今から約12,000~10,000年前の道具と思われます。

 忍路子型細石刃核 (道南地方の細石刃技法
西興部村の忍路子遺跡から最初に出土したことから、この名が付きました。
旧石器時代(約4~1万年前)の、最終の細石刃核と考えられています。

忍路子型細石刃核は、北海道道南地方で展開していた石器群の主体で、硬質頁岩を原材としています。
細石器は、日本列島の旧石器時代最終末期(約1万5千年前)に使用された石器で、中石器時代の代表的遺物です。

小形舟底形石器
忍路子型細石刃核に共伴する
忍路子型細石刃核 忍路子型細石刃核

上に記述
広郷型細石刃核

  細石刃忍路子型
これ一つでは道具にはならず、骨とか木などの先端を鋭くした棒状の側面に溝を掘り、その溝に細石刃をいくつも埋めて槍として用いられました。


上に記述
細石刃
玉髄を使用
細石刃
ジャスパーを使用
ジャスパー碧玉
キャスパー=ディズニーキャラクター子供お化け

 160彫器
黒曜石とかではなく、頁岩などが使用されることが多い道具です。
彫器
削片 彫器

 掻器
掻器


 細石刃
細石刃

 彫器
彫器
骨や木を削る道具
彫器 彫器 彫器 彫器

 掻器
掻器
玉髄製
 
 170

 171石刃
両方の(ふち)が、ほぼ平行するように、形の整った縦長の剥片を石刃といいます。石刃が直接の道具になったり、他の道具の素材となったりすることもあります。

石核
石刃・彫器
石刃 石刃

 彫器 玉髄を使用
彫器
玉髄を使用

石核
 主に石刃、あるいは剥片を剥がした後に残った芯状の物を言います。

※剥がしても、石刃と剥片とは違うんだ。
  石刃は同じ形の整ったもの。
  剥片は、ただの、石のカケラ。不定形。ということか。
石核 黒曜石
黒曜石は普通黒い色をしていますが、このように赤褐色の黒曜石もあります。

 173石器接合 剥片接合ではなく、壊れた石器がどの程度離れて見つかったかの表示
       いずれも、2m程度の距離で発見されている。意味はわからないが。様子はわかる。ポイと捨てたんだろう。
石器接合の様子
壊れた石器がどの程度離れて出土したか。

 両面調整石器
尖頭器(石槍)のような形をしておりますが、これ自体が道具(尖頭器)として使用されたのではなく、細石刃を剥がすための素材となったものです。

両面調整石器 有舌尖頭器の基部のみ 有舌尖頭器の根元。
先端は折れてなくなったらしい。

 175削片 (剥片ではなく、削片と呼ばれる)
  彫器の刃の部分を作るときなどにできる特殊な剥片などをいう場合が多いです。
削片 削片

 177 削器
ものを薄く削り取る作業に使われたと考えられています。現代のナイフのような役目を果たしていたと思われます。
削器 削器 削器
削器

 石刃
両方の(ふち)が、ほぼ平行するように、形の整った縦長の剥片を石刃といいます。石刃が直接の道具になったり、他の道具の素材となったりすることもあります。

石刃
石刃
石刃
玉髄の石刃
 


 200西興部村の前近代

 201アイヌの人々とチャシコツ
 現在西興部村には、アイヌの人々が残した資料はほとんど見当たりません。
また、和人による開拓が始まった明治37(1904)年頃には、アイヌの人々は既に住んでいなかったと言われています。
 しかし、アイヌの人々の居住を示すものに、札滑チャシ・コッがあります。
 チャシはアイヌ語で砦のようなところで、主に17世紀中頃、各地のアイヌが互いに結びつきを強める中で作られ、
和人の支配力が全道的に及んだ18世紀末頃にほとんど使用されなくなったと言われています。

チャシの用途は
 〇外敵に備えた戦闘用
 〇獲物を得たときの祭りの場や会合の場
 〇見張所
などと言われています。
 札滑チャシ・コッは、戦闘用の可能性があります。

※戦闘用って、いったい相手は誰でしょう。正史では出てきませんが、アイヌ各部族や地域毎に対立し、アイヌ時代にはチャシに籠って戦闘を繰り返していたようです。武田泰淳「ひかりごけ」

西興部村の前近代 西興部村の前近代 札滑チャシ全景 札滑チャシの壕 アイヌの人々とチャシコツ上に記述

 松浦武四郎
竹四郎ともかく。文政元年(1818)伊勢国(三重県)に郷士の子として生まれる。
安政2(1855)年、函館奉行所雇いとなり、翌3年全道と樺太南半を廻る。安政4(1857)年、東西蝦夷山川地理取調を命ぜられ、2ヵ年をかけて全道を踏破し、安政6(1859)年に『東西蝦夷山川地理調取調図』を完成させ、北海道の内陸部を明らかにした。
明治2(1869)年、武四郎の案を基礎に、北海道の名が決定された。多数の著書があり、和人によるアイヌの酷使を非難してるものが多い。明治21 (1888)年没。71歳。

アイヌ時代の西興部
地名・河川名
松浦武四郎
松浦武四郎 鮭の瀬付マレポ突き アイヌの長老
武林盛一
明治10年頃

9×6cm北大図書館蔵
 
 


 203寄贈石器

寄贈石器の位置図 上オコ1N地点(奥興部) 中オコN地点(中興部)
西オコ1N地点(札滑)
西オコ2N地点(忍路子)

 205寄贈石器(以下に詳細)

 210寄贈石器1

 「西オコ2N地点」出土物
「西オコ2N地点」とされておりますが、西興部村字忍路子15番地にあるオショロッコ遺跡と思われます。
オショロッコ遺跡は、日本において旧石器時代の研究が本格的に始まった早い段階から注目された遺跡で、このオショロッコ遺跡から出土した細石刃核をモデルとして忍路子型細石刃核と名付けられました。

彫器:
 彫刻刀のような役目を果たしたと考えられる彫器には、 黒曜石ではなく頁岩と呼ばれる石が用いられることが多いです。
峠下型細石刃核:
 倶知安町峠下遺跡から出土したものをモデルに峠下型細石刃核と名づけられました。
 細石刃を剥離した残核で、今からおおよそ20,000~15,000年前までの数千年間使用されていたと言われています。
小型舟底形石器:
 断面が舟底の形をしていることから、この名前がついています。
 細石刃よりも小さな石刃を剥がした痕がありますので、 石核の一つと考えられます。
 オショロッコ型細石核に伴って出土することが多く、今から約12,000~10,000年前の道具と思われます。
石核 :
 石器の素材となる主に石刃、あるいは、剥片を剥がした後に残った芯状のものです。
石刃:
 両方の縁が、 ほぼ平行するように、形の整った縦長の剥片を石刃といいます。

オショロッコ遺跡
昭和33年11月に発行された 「先史時代」 第7輯において近藤忠氏(当時網走支庁勤務) が、「西興部の無土器文化」というタイトルでオショロッコ遺跡 (文献ではオシロップ遺跡となっています) など、 西興部村の特に旧石器時代の遺跡について述べられています。

彫器 峠下型細石刃核 小形舟底形石器
削器 石核 石刃 ジャスパー(碧玉)
を使用
「西オコ2N地点」出土物 オショロッコ遺跡
石核2
細石核 3
石刃4
削器3
彫器3
尖頭器1
搔器1
剥片 1
舟底形石器 1
合計 19
尖頭器

 230
「中オコN地点」 出土遺物
「中オコN地点」とされており、西興部村字中興部にある遺跡で拾ったものと思われます。
中興部地区には、中興部1遺跡と中興部2遺跡がありますが、このどちらから出土したのか、新しい遺跡なのかは不明です。
展示している石器をはじめとして、31点の石器が収集されており、 好資料が含まれております。

 231
細石刃: 石刃のごく小さなものを細石刃といい、骨・木・角などで作られた軸の両側に数個を嵌め込んで作られた組み合わせ石器です。
彫器: 現代の彫刻刀の役目を果たした道具と考えられています。

細石刃 彫器(頁岩製) 石刃
尖頭器
 235中オコN地点」出土遺物
石槍:その名が示すとおり石でできた槍です。時代は新しく縄文時代 (今から約10,000~2,300年前) のものと思われます。
掻器:下部が分厚く作られ、その部分で獣皮などの脂を掻き取ったりする道具です。
   旧石器時代 (今から約1万年以上前)の遺跡から多く出土する道具の一つです。
削片:彫器の刃の部分を作る時などにできる特殊な剥片などをいう場合が多いです。
石槍
縄文時代
上に記述
掻器
旧石器時代の遺跡から多く出土

上に記述
掻器
削器 削片

上に記述
中オコN地点」出土遺物

上に記述
 

 250寄贈石器2

 西興部村から出土した大昔の道具
中内伊勢吉(下川町在住)から、村内4ヵ所の遺跡で表面採集された石器を、下川町教育委員会を通じて西興部村教育委員会に寄贈頂きました。
数十年前に収集されたものですが、西興部村の歴史、特に大昔の様子を知る上から大変貴重な資料となっています。

 石刃核:
石刃を剥がした後に残ったものを、石核と区別して石刃核と言うこともあります。頁岩が使われており、剥離も見事で美しささえ感じます。
西興部村出土の大昔の道具
西興部村出土の大昔の道具
石核(石刃核)
彫器
峠下型細石刃核

 260
「西オコN地点」 出土遺物(札滑遺跡)
「西オコ1N地点」とされておりますが、 西興部村字札滑17、41~44番地にある札滑遺跡で拾われたものと思われます。
札滑遺跡は、日本における旧石器時代の研究に大きな役割を果たしたことで有名な遺跡です。
札滑遺跡から出土した細石核をモデルとして札滑型細石核の名前がつけられました。
 261
西オコN地点出土物
西オコN地点出土物
削器

ジャスパーを使用
掻器
掻器
掻器
細石刃
札滑型細石刃

 265 札滑遺跡

複合石器
一つの素材から掻器と彫器の二つの役目を果たすように作られた合理的な道具です。忍路子型細石刃核に伴って出土する事が多い石器です。
複合石器
上に記述
石刃
(左:黒曜石)
(右:硅石製)
硅石=ガラス・シリコン原料
削器
削器
 266
錐:獣皮などに穴をあける道具です。 穴をあけるために、 骨とか木も用いられたと考えられますが、腐れて残っていません。
舟底形石器: 断面が、 舟の底のような形をしていることから、この名前がついています。
  細石刃を剥がすために用意されたものと考えられますが、はっきりしたことは分からない道具の一つです。
黒曜石:黒曜石は、普通黒い色をしていますが、このように赤褐色の黒曜石もあります。

広郷型細石刃核 舟底形石器 舟底形石器 黒曜石
札滑遺跡 書籍「札滑遺跡」 札滑遺跡
昭和50年5月に雄山閣から発行された 「日本の旧石器文化」第2巻において、
桑原護氏が「札滑遺跡」と題して、同遺跡の発掘調査結果を報告しています。

 270「上オコ1N地点」出土遺物
「上オコ1N地点」地点とされておりますが、西興部村字奥興部で拾われたものと考えられます。
奥興部地区では奥興部遺跡が知られておりますが、その遺跡から出土したかは不明です。
しかし、この時点からは約370点の石器が収集され、そのうち約300点が細石刃です。
峠下型と広郷型と言うタイプの細石刃核があり、少なくとも二つ以上の時代の人が住んでいたことになります。
 271
完形・ほぼ完形の
細石刃

細石刃
どっちが頭で下端?
頭部があり下端がない細石刃

下端が折れた
頭部も下端もない細石刃

上端も下端も折れた
頭部がなく下端がある細石刃

頭部が折れた
細石刃
 ※細石刃が折れたのでしょうか。それとも上下を切断して長さや大きさを揃えたのでしょうか。


 273広郷型細石刃核
北見市広郷地区で多く出土している資料から、この名がつきました。
オショロッコ型細石刃核とほぼ同じ時代かそれ以後の石器と考えられております。


広郷型細石刃核 石核
頁岩使用
 
 277
剥片 掻器 掻器
彫器

彫器は粘り気のある頁岩製。
頁岩製の彫器 「上オコ1N地点」出土遺物
上に記述
石刃
 


 300開拓時代

 310拝み小屋
開拓者の多くは、簡単な着手小屋を建てて、畑地を一坪でも多く開墾しようと汗を流しました。
資金の乏しい開拓者は、冬を過ごす食料を得るために、住宅建設に貴重な日数を費やす事は出来ませんでした。
この着手小屋は、両手を合わせたように丸太を寄せ合わせ、屋根と壁を兼ねたもので「拝み小屋」とも言われました。
開拓者には今日の私たちが想像もできないほど、冬の厳しく、辛い拝み小屋での生活が待ち受けていたのです。

拝み小屋
開拓当時の悲惨な苦労が偲ばれます。 こんな履物で農耕。真冬は藁靴でも作ったのでしょうか。 どのように寒気を防いだのでしょう。 朝起きたら布団の上に雪が積もっていたとか聞きますね。

 320民具
西興部村の林業
伐採・製材
馬橇・運材・土場
西興部村の農業
運材(馬運) 農耕具 西興部村の農業
耕起・除草・播種
水田用具
種蒔き・脱穀・選別 正面開拓小屋?
馬鈴薯農具
西興部村の警防 生活道具
織機・石臼・大鍋

 330ハッカ栽培
 ハッカ栽培の沿革
 北見ハッカ(薄荷)と世に知られた網走管内のハッカ栽培は、明治29 (1896)年頃から湧別を中心として始まり、
その後、明治末期までに野付牛(北見)、紋別方面へ移行したと言われています。

 西興部村のハッカ栽培は比較的遅く、大正2 (1913)年、西興部市街で栽培されたのが始まりです。
種根下川村一の橋から入手したもので、網走管内の他地域と異なり、永山(旭川)下川西興部経由で移植されたと言われています。

 ハッカ価格は年ごとに変動する投機的作物でしたが、交通事情の悪かった西興部村としては何よりも輸送が容易なことから、作付する者が増加していきました。
そして、第一次世界対戦(大正3~7年)後は価格も高騰し、各地にハッカ成金が生まれました。

 ハッカ取卸油は、大正末期から昭和初期にかけて大手商人に買い叩かれ、西興部村の作付は伸び悩みましたが、水稲の凶作と作業組合組織の強化により作付は伸び、昭和8(1933)年には最高の作付を記録しました。
 戦後は食糧増産、酪農への転換、合成ハッカの開発などの影響受け作付も減少し、昭和54 (1979)年を最後に、西興部村での栽培、蒸留に幕を閉じました。

ハッカ栽培 ハッカ蒸留器と炉 ハッカ蒸留の仕組み
ハッカと言えば入浴剤「アイヌの涙」by「探偵ナイトスクープ」ですね
風呂に数滴入れると、真夏でも歯の根が合わなくなるほどガチガチと
震える。恐怖の寒さを感じるという。「恐怖のハッカ液」
 今でもあるそうですよ。買ってみますか。
ハッカ飴しか知らない私です。本当のハッカは昔よく使われていました。百二~三十年前から北海道旅行をしていた祖父の旅行鞄の中にありました。清涼感のある一種の芳香剤でしょうか。確かガラス瓶に入った結晶でした。

蒸留炉のレンガや灰
ハッカ栽培の沿革
炉の構造もわかる
ハッカ作付面積の推移
 
 333西興部村の自然
 毎回思うのですが、これらの剥製づくりには大変な技術と工夫が必要だと思います。
 大きな動物一頭分を腹側から開いて皮を剥ぎ取る。以前、農耕馬一頭を剥ぎ取っていましたが、それはそれは、大変な作業だと思います。
 皮の内側の脂肪を削り取って毛を痛めないように鞣す。
 乾燥する。皮は必ず縮むので、大きな馬も何割か小さくなる。なるべく縮まないように干すのは大変な工夫です。
 完成スタイルを想定して芯を作り、乾燥した皮を被せて縫い目が見えないように縫い合わせ、目や鼻や口、牙などを取り付けて、詰め物をし、
想像しただけでもすごいですね。