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01外観
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02入口展示
02展示室入口
02重なりあって発見されたムラの跡
重なりあって発見されたムラの跡 鷹山地区の入り口に当たる追分(遺跡))では、新しい道路をつくるときに発掘調査が行われました。 追分遺跡は 石器製作のムラ(旧石器時代) その結果、時期の違う6つの地層から星糞峠産の黒耀石で作られた石器や、石器を作るときに打ち捨てられた、大小様々な割り屑が、 何ヵ所かにまとまるようにして発見され、黒耀石を大量に運び込んで石器作りをしていたムラの跡があったことがわかりました。 追分遺跡の地層を見ると、それぞれのムラの跡は、降り積もった火山灰や、鷹山川の洪水によって上流から押し流されてきた石を沢山含む 土砂で埋まってしまったことがわかります。 最も古いムラの跡は、現在の地表面から5m程下の地層より発見されました。 約30,000年前の地層で、この頃から黒耀石を求めてこの地に人々が集まってきたようです。 幾度も繰り返すように、石器作りのムラの跡を残していった人々。彼らはいったいどこからやってきて、また、どこへ行ったのでしょう。 ※想像するに、彼らはどこにも行かず、洪水後はすぐに集落を復旧し、広く下流の河原に流れた黒曜石を回収して、また、黒曜石産業に 従事したことでしょう。何しろ、黒曜石の利権は、あまりにも大きく、動物を追って原生林を駆け回るよりもずっと安定した生業でしたから。 追分遺跡から実物の地層をはぎ取って展示しました。 縄文・旧石器の第1~第5文化層とした地層から土器や石器が発見されました。 年代は石器と一緒に発見された炭から測定しました。 |
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展示室 |
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10黒曜石 |
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11黒耀石の原産地 切れ味の良い石器材料として人気が高かった天然ガラスの黒耀石、限られた原産地から遠い道のりを経て各地へと運ばれて行きました。 黒耀石は溶岩が固まった天然ガラスです。割れ口が鋭く加工しやすいことから、切れ味の良い石器の材料として利用されてきました。 火山の多い日本列島でも、黒耀石の産地は限られています。 中でも長野県霧ヶ峰から八ヶ岳にかけての地域は、質の良い黒耀石がたくさん採れる原産地として知られています。 そしてこの長野県産の黒耀石は、数万年もの間、利用され続け、関西から北海道の広い範囲に流通していたことがわかっています。 |
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12黒耀石の誕生 星糞峠の黒耀石は、今から約87万年前に起こった和田峠の噴火で形成され、その後の火砕流によって流されてきたと考えられています。 おさらい 星糞峠の黒曜石の成因 付近はもっとなだらかな地形でした。 87万年以前、和田峠(火山)の噴火に伴い、ケイ酸分の多い溶岩が噴出し、黒曜石の火山弾となり、堆積していました。 87万年前に和田峠(火山)で火砕流が発生し、当時の地形がなだらかだったため、現・虫倉山付近まで堆積物が流されて来て堆積しました。 その後、一帯は地殻変動や浸食が活発に行われた。 和田峠火山は浸食され、星糞峠との間に谷ができ、虫倉山が形成され、黒曜石を含む露頭が現れました。 |
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12a星糞峠を巡る地名の位置関係 引用星糞峠 第 I 遺跡M地点 虫倉山 鷹山川 追分遺跡 大門川 大笹川 大笹山 |
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13黒耀石の時代 黒耀石が石器の材料として使われ始めたのはおよそ3万年前。旧石器時代から現代までを24時間に置き換えると、 黒耀石の時代は19時間 、約80% にもなります。 |
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14第111号採掘址の第01号竪坑
発掘で分かったこと 竪坑を埋めている土の重なり方を見ると、縄文人が掘った竪坑の順番や、これらの竪坑がどのように埋まっていったのかを知ることができました。 まず、黒と黄色の土が交互に入り混じるようにして積み重なっています。これは、 周囲で掘り出された地表面近くの黒い土と、地下の深いところにあった黄色い土とが、この竪坑の中へと流れ込んできた様子を示しています。 確認された4つの竪坑は、第01号竪坑が最も新しく、隣り合う第03号、第02号新・旧の竪坑が埋まった後に、その一部を削るようにして 掘られています。 第01号竪坑そのものは、最後に掘り出された黄色い土が戻されるようにして投げ込まれ、その後、およそ2度にわたり、周囲から流れ込んだ 土によって埋まっていた様子が伺えます。 そして、その合間には、穴の中で火がたかれ、その場所が赤く焼けていました。 埋まりきらない穴を利用したのは、峠を吹き抜ける強い風を避けるためでしょうか。 これらの竪坑からは、およそ7千年前と、1万年前の土器のかけらが発見されています。 |
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15黒耀石の採掘 縄文人たちは深さ3m程の穴を掘って、地下に眠る黒耀石を捜しました。 黒耀石を産出する星糞峠から虫倉山の南西斜面では、縄文人が盛んに穴を掘り地下に埋もれていた黒耀石を採掘していました。 採掘の跡は、掘り出された土が穴の周りに土手のように積み重ねられ、クレーターのような窪みの地形となって見ることができます。 そして、窪みや土手の地下を発掘すると、直径3m・深さ3m程の採掘の穴がいくつも掘り込まれていたことが確かめられました。 採掘によってできる地表面の窪みを「採掘址」、その地下に埋もれている井戸のような深い採掘の穴を「竪坑」と呼んでいます。 星糞峠の平らな場所では、第111号採掘址の地下から4つの竪坑が発見されました。 そこで、竪坑の形を立体的に観察するために、最後に掘り込まれた第01号竪坑の南半分を発掘しました。 展示してあるものは、現地から実物の地層を剥ぎ取り、発掘されたままの姿を再現したものです。 |
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16第01竪坑での採掘の様子 縄文人たちは足場を確保しながら掘り進みました 第01号竪坑では、足場を残すかのようにして階段状に掘り進んでいます。最後に大きな石に突き当たったところでは、黒耀石を多く含む地層を 狙って、横方向に掘っていった様子も伺えます。一つの竪坑をいったい何人で掘ったのでしょう。 竪坑の周辺では、おびただしい量の細かな黒耀石の割屑が、辺り一面に打ち捨てられていた。そして、黒耀石を割る時に使った台石や敲き石も 多数発見されています。ここでは掘り出した黒耀石の質を確かめるためだけではなく、石器の素材となる剥片も打ち割っていた可能性がある。 しかし、発見された石鏃は僅か2点のみで、石器作りはそれぞれのムラに材料を持ち帰っておこなったと考えられます。 |
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20旧石器時代 |
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22旧石器時代の鷹山遺跡群 石器工房跡 星糞峠の麓を流れる鷹山川沿いには、沢山の黒耀石の石器をつくって持ち出した、石器工場のような遺跡が広がっています。 沢山の石器を作り、周辺各地へと持ち出していた旧石器時代の遺跡(Ⅰ~Ⅹ)が密集して発見されています。(下写真5) また、この大きな遺跡のまわりや鷹山川の下流には、やや小さな遺跡が点々と続き、日本海側へと流れる大門川との合流点には、やはり、 沢山の石器を作っていた追分遺跡があります。 (※追分遺跡では脚の注文に応じた石器に加工していたのかなぁ。) 小さな遺跡は、狩りをしながら黒耀石原産地の中心へと向かった当時の道筋を示し、(※つまり宿場町のような役割だったのかな) まさに、鷹山への入り口にあたる追分遺跡は、黒耀石流通の中継基地 (※つまり、大交易集落) だったのではないでしょうか。 星糞峠産の黒耀石を巡って残された、これらの遺跡の広がりを「鷹山黒耀石原産地遺跡群」と呼んでいます。 |
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23旧石器時代の黒耀石の採掘 川で拾って石器を作る 旧石器時代の黒耀石の山の麓は、石器作りのムラとして賑わっていました。当時の人々は、黒耀石の原石を川底で拾っていたと考えられます。 山頂に近い付近から落ちてきた黒耀石は、石の弱い部分が風化し、麓の鷹山川では、石器作りに適した固く質の良い原石を拾うことができた。 川沿いの台地上では、身近に拾える豊富な黒耀石の原石を利用し、石器の素材となる、薄く形の整った剥片や石槍などが沢山作られました。 石器を作っていた場所には、打ち捨てられたおびただしい量の細かな割屑や、小さくなってしまった原石の芯の部分が残されています。 一方、ここで作り出された石器の素材や、完成した石器の多くは、周辺各地へと持ち出されて行きました。 |
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30縄文時代 |
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32縄文時代の星糞峠 黒耀石鉱山 虫倉山から星糞峠にかけての斜面には、黒耀石の拾える範囲と重なるようにして、黒耀石を掘り出した跡がクレーター状の窪みとなって 残されています。 この窪んで見える地形は、黒耀石を掘り出した採掘抗の周囲に、土手のように土が積み重なって形作られています。 それぞれの窪みを採掘址と呼んでいます。この窪みとそれを取り巻く土手の地下には、いくつもの採掘抗が掘り込まれていました。 掘っては、その穴が埋まるというように、幾度も繰り返されるようにして黒耀石の採掘が行われていた様子が伺えます。また、 山の斜面は連続する窪みによって階段状になっており、黒耀石の採掘が山の形を変えてしまうような大規模なものであったことがわかります。 石器の原料を生産し各地へと持ち運ぶ。このような活動が行われていた採掘址の全体を「黒耀石鉱山」と呼んでいます。 |
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33縄文時代の黒耀石の採掘 山の斜面で黒耀石を掘り出す 斜面の中腹(標高1,500m)付近では、地下3mの深さで黒耀石の原石を含む白い粘土の地層が発見されました。 そして、星糞峠に近い斜面の下方では、黒耀石を取り囲むようにして崩れ落ちてきた黄色い土が積み重なっています。 黒耀石を含む範囲では、ズリと呼ばれる黒耀石の小さな原石が、雨水に洗い出されて地表面で見ることができます。 縄文時代の人々はこのズリを手掛かりにして、さらに地下に埋もれた黒耀石をねらって採掘を行っていたようです。 採掘は、峠付近から山の頂上を目指して進み、山の斜面が次から次へと掘り崩されて行きました。 採掘穴の近くでは、何か料理をしたのでしょうか、煤と、おこげの付いた土器が打ち捨てられ、土に押し潰されるようにして残されていました。 しかし、この付近には、人が住んでいたと思われるイエの跡は発見されていません。鉱山の全体に散らばる沢山の割り屑は、 掘り出した黒耀石の質を確かめるために試し割りをしたのものでしょうか。 掘り出した原石の多くはそのまま持ち帰られ、石器作りは、それぞれのムラで行っていたようです。 (※先出の麓のⅠ~ⅩⅠのムラが其々独自に採掘し、持ち帰ったとの意味。其々の石器工房が採掘権を持っていたようだ。) |
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34星糞峠の調査 星糞峠では黒耀石鉱山の調査が行われています。ここではその様子を詳しくお伝えします。
私見 鉱山採掘と呪術 鉱山というのは、昔も今も呪術・まじないで、採掘場所を決めています。 科学技術が発達した今もですから、先史時代人も呪術を行い、従って旧採掘坑でも、深く、または、掘り残しに偶然当たることもあったでしょう。 実際に、発掘調査で人頭大の原石が出土しているのですから、資源が枯渇してきた末期には、何度も古い採掘址も掘り返したでしょう。 現在でも八卦見が鉱山を当てれば、莫大な謝礼が貰えるといわれています。 しかし、不思議なことに、そんな呪術の痕跡は全く見られません。 見つかったのは、土器片2個、土器1、石鏃2だけのようです。とても採掘場を神聖視していたのでしょうか。 |
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36星糞峠産黒耀石 |
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37 1号採掘址の土器 |
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40旧石器~縄文の道具 |
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41石器時代の道具箱 金属を知らなかった旧石器と縄文の人々は、主に石を材料として道具を作っていました。この両方の時代のことを石器時代とも言います。 物を切る・削る・刺す・穴をあける…私たちの第2の手となって活躍する基本的な道具は、既に数万年前という旧石器時代に発明されました。 そして、身近にある道具の種類の多くは、縄文時代に揃えられたものであることがわかりました。 暮らしの移り変わりと道具 寒さの厳しい旧石器時代から温暖な縄文時代へと地球環境の変化に、暮らしを変えていきました。 寒さの厳しい旧石器時代の人々は、大きな動物の群れや石器の原料を求めて、たびたび住む場所を変える移動生活を送っていました。 当時の道具としては、様々な用途に使い分けることのできる最小限の種類のものが持ち運ばれていたようです。 気候が暖かくなる縄文時代には、食べ物が沢山手に入る森の近くに竪穴住居を建て、一ヵ所に落ち着いて定住生活を送るようになります。 イエを建てるための木を切り倒す道具や地面を掘る道具、そして、木の実などをすり潰す道具をはじめ、用途ごとに新しい道具も作られました。 |
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旧石器~現代までの道具 44突き刺す |
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工具類 45切る・削る・溝を彫る |
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46穴を開ける・割る |
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47叩く・研ぐ |
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48切り倒す・掘る |
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49調理具 |
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旧石器時代 50旧石器時代の石器作りと黒耀石の流通 旧石器時代の人々は、生活に必要な道具を補充しながら移動生活を送っていました。石器材料となる黒耀石が沢山手に入る鷹山へは、 頻繁に人々が訪れ、加工した石器そのものを各地へ送り出す工場のような大きなムラが作られるようになっていきます。 石器作りの大きなムラ跡からは、使い捨てられた石器と共に、それらの石器を作った時に打ち捨てられた、 おびただしい量の割り屑や作りかけの石器などが発見されています。 それらを詳しく調べると、石器が作られた時期やその種類によって、原料となった黒耀石の大きさや作り方に、違いがあったことがわかります。 石器ブロックの大きさと石器の数 石器工場のような原産地の遺跡と、原産地から遠く離れた地域の遺跡とでは、石器作りの規模や内容に違いがあります。 鷹山第Ⅰ遺跡S地点では、直径16mを越える大きな石器ブロックから黒耀石の石槍と石器作りの割屑など17,520点が発見されました。 ※石器ブロックとは、石器製作工房の円形テント内を意味し、直径16mもの巨大テントがあり、中で多人数が石器を作っていたとは。 そんな大きくて頑丈な皮張りのテントをどのようにして作れたのか。これはもう定住である。 足元に危険な黒曜石ガラス片が散乱していて、厚手の靴を履かないとたちまち足の裏を切って大けがをするが。 一方、黒耀石の原産地からおよそ90km離れた野尻湖周辺 (信濃町) の貫ノ木遺跡H2地点の2045ブロックでは、 直径6m程のブロックから697点の石器類が発見されました。しかし、黒耀石で作られたものは、3点の石槍とその石屑41点の割屑のみでした。 ※黒曜石原石の持ち出しがいかに難しかったかがわかる。また、きっと黒曜石は、高価だったのでしょう。 ※石器ブロックは、旧石器時代の住居跡、テント跡です。石器集中区。 |
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51石器作りと流通 |
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52黒耀石の流通 長野県産黒耀石は、山を越え川に沿って関東各地へ運ばれて行きました。 星糞峠以外の原産地でも、鷹山遺跡群のように沢山の石器を作り出していた大きな遺跡群がいくつも発見されています。 それぞれの原産地、或いは、遺跡群から持ち出されていった黒耀石の原石や石器は、どこまで運ばれて行ったのでしょうか。 全国の遺跡から発見された黒耀石の石器が、どの原産地のものかを科学的に調べる研究や、共通する石器の形や作り方などを手掛かりに、 それらを作った人々がいつの時期にどのように持ち込んでいったのか、「黒耀石の流通」の歴史を調べる研究が進められています。 ※結論から言うと、信州産黒曜石の多くが関東地方に運ばれたことが分かる。 理由は、広大な関東平野の産物が交換材だったか、地縁・血縁関係だったのか。
※関東には、黒曜石の産地と消費地に強い関係があり、神津島産・伊豆産・長野産の消費区域が別れており、 おそらく、文化や言語などが違っていたのではないのでしょうか |
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53石の割リ方 |
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54男女倉遺跡の旧石器時代 |
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55石器作りの手順と原産地から運ばれていったもの |
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56石器作りの手順 |
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57 |
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58ナイフ形石器 |
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59槍先型尖頭器 |
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信州ローム研究会によって初めて黒耀石原産地の発掘調査が行われました 1949年の群馬県岩宿遺跡の発見によって、日本列島にも旧石器時代の人々が生活していたことが証明されました。 信州ローム層研究会による男女倉遺跡群の発掘調査はその8年後に行われ、4年間に渡って第Ⅰ~Ⅳ地点、みつけ沢地点が調査されました。 その結果、石器原料である黒曜石の原産地では、信州ローム層中から、これまでにない大量の石器を出土する旧石器時代の遺跡が発見され、 調査の様子が新聞などで報じられました。 その後、男女倉地区の耕地整理事業や国道142号線和田トンネル有料道路建設に伴う調査では、新たにA~Oの地点で遺跡が発見されます。 長和町教育委員会では、2014年の分布調査で発見した新地点と合せ、男女倉遺跡群の全体を24の遺跡としてまとめました。 |
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70旧石器時代の男女倉遺跡群 複数の黒耀石産地の間を流れる男女倉川沿いには、豊富な黒耀石を利用して沢山の石器を作りだした遺跡が集中しています。 霧ケ峰高原から日本海に向かって流れる男女倉川では、和田峠に続く東餅屋を初めとして、ツチヤ沢、ブドウ沢、牧ヶ沢、高松沢の上部から 崩れ落ちてきた黒耀石の転石を拾うことができます。 特に黒耀石の産出地点から流れ出す沢と男女倉川の合流地点には、沢山の石器を作っていた集落遺跡(Ⅰ~ⅩⅩⅣ)が残されました。 岩脈から崩れ落ちた黒耀石が、水の流れで芯の強い部分を残しながら適当な大きさになり、旧石器時代の人々はその流れ出した多くの転石を 拾って加工していたようです。 豊富な黒耀石を利用して作られた「男女倉型石器」は、関東地方の広い範囲で発見されています。 |
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71panel
男女倉遺跡群の特殊な石器作り 男女倉遺跡群では、約2万年前に 広い地域を移動する生活に適した「男女倉型石器」が作られていました。 男女倉遺跡群では、板状の原石や厚く打ち剥がされた剥片を素材として、その周囲からうろこ状の剥片を打ち剥がして両面、あるいは片面に 調整加工を加えた「男女倉型石器」が作られていました。 石器作りの大きな特徴としては、細長い剥片を打ち剥がして鋭い刃や直角に近い刃を作り出しているものが多くみられます。 切ったり削ったり、また、石の尖ったものは槍の穂先として使用するなど、多目的の道具として使われたと考えられます。 そして、薄い刃をもつ削片自体も石器として使われました。 削片は、使用によって鈍くなった刃を作り変えるために打ち剥がされる場合もあります。このように刃の付け替えで長い間使い続けることができる 「男女倉型石器」は、動物を追いかけて長距離の移動生活をしていた人々が使う携帯用の道具として、最適な石器と言えます。
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72石器作りの手順と男女倉型石器の特徴 |
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73男女型石器を作る |
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77縄文人はどんな大きさの黒耀石を持ち運んでいったのか |
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80黒曜石の広域利用 |
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黒耀石の広域利用 ①男女倉型石器を作り出した人々は、東北から関東の広範囲で移動を繰り返す生活をしていました。 (※男女倉黒曜石・石器産地遺跡の人々は、採掘と石器生産の傍ら東北から関東を移動したというのである。不可思議) 男女倉型石器の材料には質の良い大きな原石が必要であったため、 東北地方では珪質頁岩、 中部・関東では黒耀石が利用されました。 (※男女倉人は遊動先の、東北では頁岩を、中部・関東では黒曜石を使って、男女倉型石器を作っていた。やはり遊動人か?) 男女倉遺跡群が広がる長野県の黒曜石産地は、石器作りにとって最良の場所だったのです。 ②長野県産の黒耀石を材料とする男女倉型石器は、中部・関東の広範囲で発見されるようになります。 男女倉遺跡群では、男女倉型石器と一緒に、幅広のナイフ形石器と縦長のナイフ形石器が同時に発見されています。 一方、男女倉型石器が出土した関東の遺跡では、 幅広のナイフ形石器が下の地層から、(旧型) 縦長のナイフ形石器は上の地層から出土し、(新型)、 時期が異なると考えられています。 男女倉の黒耀石原産地は、男女倉型石器を作った人々と、時期の異なる幅広と縦長のナイフ形石器を作った人々が 石器作りの方法を交換した場所だったのではないでしょうか。(文終) (※男女倉遺跡群の縄文人は、 ①幅広ナイフを教えられると、、その文化が滅んだ遥かのちになっても作り続け、 ②縦長ナイフが新しく起こると、それも受容して作り続け、新旧両方を使い続けた。) (※つまり、男女倉人は遊動しなかったために、狩猟具の、世間の流行や進化を知らず、陸封されて、狭い知識で同じものを作り続けた。) 感想 男女倉人は、非常に長い間、いくつもの文化が興り (おこ) 廃 (すた) れても存続し続け、移動・入れ替わりなく、ずっとそこに居た訳だ。凄い。 黒耀石鉱山は、それほど富をもたらし、生活を安定させてくれたようです。 (※しかし、最初に挙げた前提、「男女倉人は遊動民」と、「世間の変化も知らずに閉じこもり長期間、同じことを続けていた」とは、相反する。 仮説男女倉型石器製作技術を持った一部の人々は遊動民となり、東北地方では珪質頁岩を使って男女倉型石器を作っていた。)のではないか。 |
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82男女倉型石器の発見された遺跡 (結論:関東地方に多く分布する)
珪質頁岩・黒曜石・ガラス質安山岩など、各地産の母岩を用いた石器が広範囲を移動して持ち込まれています。 |
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83黒曜石産地にみられる多様な石器作りの技術 |
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84幅広のナイフ形石器 男女倉遺跡群でも関東地方を中心に広まった、幅の広い剥片を材料にナイフ形石器が作られるようになります。 広い地域から人々が訪れた証拠として、他地域の珪質頁岩、ガラス質安山岩、チャートなどで作られた幅広のナイフ形石器が発見されています。 (※ここでは、各地産の幅広ナイフ形石器が持ち込まれたと、している。) |
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85男女倉型石器 旧石器時代の人々は、原料の豊富な黒曜石産地で作った石器を携えて遠方の狩場に向かったと考えられます。 石器作りの場として盛んに利用されていた男女倉遺跡群には、男女倉型石器の未成品がたくさん残されていました。 また、各地の狩場から戻ってきた証拠として、ガラス質安山岩など、他地域の石材で作られた男女倉型石器が発見されています。 (※ここでは、各地産の岩石で男女倉型石器を作って、持ち帰ったと、している。) |
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86縦長のナイフ形石器 男女倉遺跡群では、縦長の剥片を素材とするナイフ形石器も作られるようになります。 他地域から運び込まれた多様な石材は、広い地域から黒曜石産地に訪れた人々が、互いに石器作りの方法を学びあい、 新たなナイフ形石器を作り出した可能性を示しています。 (※ここでは、各地の石器技術を持ち寄って、新しい縦長剥片石器技術、縦長ナイフ形石器を開発したとしている。) |
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87霧ヶ峰地域における黒耀石産出地
黒曜石の産地別標本
男女倉型石器の特徴
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縄文時代 |
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110縄文時代の石器作りと黒耀石の流通 人々が生活するムラは、黒耀石の採掘が行われていた星糞峠から10km以上も離れた大きな川の下流に広がっていました。 この川下のムラ跡には、鉱山から持ち運ばれてきた黒耀石の原石と、その原石をもとに作られた石器や細かな割屑が残されており、 ムラの中でも石器作りが行われていた様子が伺えます。 その石器作りには、大小様々な大きさの原石が利用されていました。 旧石器時代には、原石の大きさを選んで利用していましたが、縄文時代になると、石器の作り方も大きく変わっていたことがわかります。 |
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111黒耀石の流通 石器作りのムラ 星糞峠の鉱山からは、 黒耀石の原石から打ち剥がした剥片を持ち出していた時期と、 黒耀石の原石そのものを持ち出していた時期とがあるようです。 星糞峠1号遺構では、掘り出した原石を打ち割った時の細かな割屑が沢山発見されていますが、石鏃などの石器はほとんど見られません。 石器の素材となる形の良い剥片が持ち出されていたようです。 これに対し、木曽地方のお宮の森裏遺跡では、黒耀石の原石はほんの僅かで、主に、持ち込まれた剥片を素材として石器作りが 行われていました。 一方、長門町の大門川沿いにある明神原・滝遺跡では、黒耀石の原石から、石器作りの割り屑、そして、完成した石器の全てがそろっており、 原石を持ち込んで石器作りを行っていムラであることがわかります。
黒耀石の流通 川下のムラには各地から人が訪ねて来た証拠が残されています。星糞峠の黒耀石を求めてやって来たのでしょうか。 黒耀石の原産地付近の山から流れ出す川の下流には、大きなムラと小さなムラの跡が、一定の範囲にまとまるようにして発見されています。 大きなムラ跡からは沢山の黒耀石と共に、他所から運ばれた土器や石器も発見され、遠い道のりを越えて人々が行き来していた様子が伺えます。 これらの土器や石器を持ち込んだ人々は、黒耀石を求めて来たのでしょうか。また、其々のムラに何人くらいの人が住んでいたのでしょう。 そして、鉱山で黒耀石を掘り出していた人達は、どのムラに住んでいた人達なのでしょうか。
※この村の役割 星糞峠に集落跡はなく、人々は、10km程下流のムラに分かれてくらし、其々のムラ毎に採掘し、ムラ毎に持ち帰っていた。 ムラに石器工房がありそこで加工していた。それとは別に、来訪者用の宿泊施設があったはずである。 ただ、有形の石器は何らかの交換材を用いて交易しただろうが、無形の、宿泊サービスには対価を支払ったのか。 ニューギニアでは、年に一度多くのムラが集まって開かれる祭りには、会場のムラが建物だけを立てて無料提供していた。どちらだろう。 もし、この時代に、宿泊を有料で行う商売があったとしたら、旧石器から縄文にかけて実に興味深い話である。 考察 星糞峠の麓のムラ 大門川流域 星糞峠1号・滝・明神原遺跡は石器製作のムラである。 明神原遺跡に隣接する大仁反遺跡は、「分水嶺を挟んで対峙する西側の勝坂式土器がたくさん持ち込まれています。(縄文中期前半)」とあり、 もっと古く旧石器時代からも、各地からの人々がやってくる、交易のムラだったのでしょう。 依田川 (下流) 片羽遺跡・中道遺跡・上の段遺跡には、石器製作の様子はないので、交易や、宿泊などの機能を持った集落であったかもしれません。 考察 黒耀石鉱山を管理(支配)するムラ 以前、どこかで出会った情報です。石器石材産地を支配する集団(部族)がいて、そこからは各地の貴重品・威信材が多数発見されたという。 すると、ここで穴掘りをして黒耀石を掘り出しているのは、奴隷かもしれない。(リンク先、小林達雄×津川雅彦対談) 縄文時代は決して平和で平等な世界ではなく、十分に階層社会であり、残虐な世界だったと思います。 |
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石器の製作 113石の割り方 石器の作り方
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120石器製作の順序 |
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123 |
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124原産地から運ばれてきた黒耀石と石器作りの手順 |
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125 |
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130黒曜石の原産地 |
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131世界の黒曜石原産地 |
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132日本各地の黒曜石 |
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134日本の黒耀石原産地 信州ブランド黒耀石は、3万年前の旧石器時代から全国へと持ち出されていった。 |
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135南米の古代文化と黒曜石
テオティワカン文明と黒耀石 紀元前50年~650年 (2050~1350年前) 太陽のピラミッドなどで有名なティオティワカンの古代都市には、今から2,900年前頃に人々が住み始め、紀元前150年には、周辺の都市を 圧倒するような勢力の一つになったと考えられています。 その後、紀元後150年前までの間には、面積20㎢、人口6~8万人というメキシコ盆地最大の都市国家へ発展し、 北方のトルテカ系部族に滅ぼされる紀元後650年頃までは、メキシコにおける中心として栄えました。 こうしたテオティワカンの発展と繁栄は、テスココ湖周辺の低湿地を利用した灌漑農業が可能であったこと、 交通の要所に位置していたこと、そして、何より黒曜石の原産地が近くにあったためだと考えられています。 テオティワカンの周辺で、最も有名な黒曜石の原産地は、緑色の黒曜石を産出するパチューカですが、ここでは、 紀元前700年頃より本格的な黒曜石の採掘が始まっており、採掘坑の深さは、当初1m~3m程度でしたが、 長年に渡って採掘が続き、紀元後1,350~1,521年のアステカ文明が栄えた頃には、その深さが40mにも達する規模になっていました。 この緑色の黒曜石は、地元メキシコ高地では、大型の石刃や石刃石核として交換されていました。一方、産地から 1,200km以上離れたマヤ低地へは、両面調整の石器や「エキセントリック石器」(下写真:祭祀儀礼に用いるヒトをかたどった打製の石器) といった製品として流通していたことが知られています。(紀元後250~600年)。 マヤ文明の支配階級の人たちは、遠くテオティワカンからその石器を手に入れることで、自らの権威を高めたと考えられています。 また、メキシコの古代文明では、緑色が世界の中心をなす神聖な色であると信じられていました。 産地の限定される緑色の黒曜石は、より貴重品として重んじられていたのです。 アステカ文明と黒耀石 1325~1519年 (700年前~500年前) 12世紀以降、ティノチティトランを中心に栄えたアステカ文明は、紀元後650年頃に滅亡したテォティワカン、そして、 その後に反映したトルテカ文明を継承・発展させたメソアメリカ古代文明の集大成の文化であるといわれています。 暦を刻んだ太陽の石の巨大石彫や首都ティノチティトランの美しい建造物。そして、羽毛や宝石の工芸遺品などに、その高い芸術性を見ることが できます。 また、その一方では、いけにえによって太陽が昇る独特な宇宙観を持ち、 連日、神殿で人身のいけにえを捧げる儀式が行われていたことでも知られています。 テォティワカン文明の頃から、メソアメリカ (中央アメリカ) 各地に流通していたパチューカ産の緑色黒曜石は、一部で金属器が出現した後も、 アクセサリーや石器の基地ような資源として採掘が続けられていました。 16世紀にアステカ文明を征服したスペイン人の記録には、黒曜石の石刃づくりの様子や、黒曜石の様々な利用の方法が書き残されています。 それによると、石刃は、両足で固定した石刃石核に棒状の工具の先端をあて、もう一方を胸に押しつけるようにして圧力をかけ、 一つの石核から200本以上の石刃を作り出したとあります。 また、この石刃は特定の工人たちによって作られ、彼らは石器を作る際に断食や祈祷を行ってから作り始めるなど、石器作りそのものが 神聖な儀式としてとり行われていたようです。 利用の方法としては、石刃でひげを剃ったり、散髪に利用するだけではなく、黒曜石の粉を薬として、傷口にすり込んで化膿を防ぎ、早く治す。 また、丸薬にして2・3錠飲むとリューマチに効果があり、声の出が良くなったり、解熱作用があるなど、驚くべきものも紹介されていました。 アステカ文明にまつわるこれらの民俗資料を見ると、当時の人々にとって、黒曜石は切っても切れない関係にあったようです。 マヤ文明と黒耀石 BC2000~AD1524年 (4000~500年前) ユカタン半島のマヤ低地周辺にムラが作られ、農耕と土器づくりが始まったのは、今からおよそ3,400~3,000年前といわれています。 のちに「コパン王国」として発展するコパン谷のムラは、紀元前1,400年頃、マヤ低地では紀元前1,000年頃のことでした。 この地域を中心として紀元後300年頃には、独自の暦と神聖文字、巨大な石像建築の技術などに特徴を持つマヤ文明が花開きます。 一方、金属を知らなかったマヤの人々は16世紀にスペイン人に征服されるまでの間、石器を生活の道具として使い続けていました。 石器の素材としては、主にチャートや玉髄を多く用いていましたが、黒曜石も交易によって手に入れています。 マヤ低地での黒曜石の利用は、先古典期前期(紀元前1,300~900年)から始まりますが、コパン王朝の最盛期(古典期後期:紀元後600~900年)には、 石刃と石刃核の生産と流通とが、国家の管理の下に行われていたと考えられています。 この石刃や石刃石核は、遠く離れたイシュテペケの原産地で作られ、コパン谷で周辺の都市や国家に再分配するという黒曜石交易のあり方が 推定されています。
イースター島と黒曜石 モアイ像で知られるイースター島も、黒曜石の産地として知られています。 イースター島に人類が到達したのは、紀元後400年頃だと考えられています。 モアイ像が作られるようになったのは、紀元後700年頃からで、1,000~1,680年頃がその最盛期でした。 このモアイ像の目の部分には、本来「眼球」が埋め込まれていたことがわかっています。白目のぶぶんには白サンゴを、 そして、黒目の部分には黒曜石をはめ込んでいたという話も有名です。 展示しているイースター島の民芸品にも、目の部分に黒曜石が埋め込まれており、その伝統が今に残っています。 島の人たちにとって、黒曜石は生活の道具の材料としても有用でした。黒曜石で作られた「マタア」と呼ばれる石器は戦闘用の槍先として 作られたものですが、時には、ナイフとして使われるなど、多様な機能を持っていた、さしずめ、古代イースター島の万能ナイフでしょうか。 両面加工石器と戦争 古典期後期(紀元後600~900年)には、石刃を素材とした両面加工の石器がたくさん作られていました。 その石器に残された使用痕跡を分析したところ、肉や皮を突き刺したという機能に加えて、絵に装着した痕跡も認められ、鏃として利用された 可能性が高いといわれています。 コパン王朝の第16代の「夜明け王」の石像は戦士の装いをしています。また、当時の碑文からは、コパン王朝崩壊の直前に、マヤの都市国家の間で 頻繁に戦争が起こるようになり、武器として石刃素材の鏃が大量に生産された様子が伺えます。 アステカやマヤをはじめ、古代メソアメリカ文明の戦争は、国家間の領土拡大・征服を前提とした大規模なものではなく、捕虜を獲得するための ゲリラ戦的な戦いに終始したといわれています。 捕えられた捕虜は、宗教儀礼の場で、神に捧げる生贄として、その命を奪われ、黒曜石の両面加工ナイフは、そうした儀礼に使われたものと 考えられています。 生贄を捧げることによって太陽が昇ると信じていた当時の世界観は、戦争や支配階級と農民との間に溝を作り、その結果、 優れた文明も跡形もなく滅亡の道を辿ることになります。 |
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137世界の黒耀石産地 |
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140長野県の石 |
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142長野県の石 黒耀石 ケイ酸分の多いマグマが急激に冷やされ、決勝が発達する前に固まった火成岩(火山岩)です。ケイ酸分を主とする天然ガラスです。 様々な固体が溶け合ったものをマグマと言います。地球のマグマは成分の主体となるケイ酸に含まれる二酸化ケイ素の量によって、 玄武岩質、安山岩質、デイサイト質・流紋岩質マグマの4種類に分類されます。 ケイ酸の少ない玄武岩質マグマは粘り気が低く、噴火するとドロドロ流れ出す溶岩になります。 ケイ酸の多い流紋岩質マグマは噴煙や火砕流が生じる爆発的な噴火が多く、黒耀石は流紋岩質マグマによってできる場合が多い。 日本列島最大規模の北海道白滝の黒耀石は、約220万年前、島根県隠岐島は約600万年前、長野県和田峠は約87万年前の噴火でできました。 星糞峠の黒耀石は、その噴火に伴って発生した火砕流によってできたと考えられています。 遺跡から発見された黒耀石は、その成分の違いによって産地が特定できます。また、産地や岩脈の部分によって黒耀石の特徴が異なります。 黒や赤の色は鉄分によるものですが、和田峠・星糞峠・星ヶ塔のものは、透明度が高い点が特徴とされます。 和田峠北東:三の又沢の火砕流と黒耀石の形成 星糞峠の黒耀石鉱山では、地下に堆積する白色の火山灰層に含まれる黒耀石の原石を採掘していることが発掘調査で分かりました。 この白色の火山灰層中には砂粒大から大人の頭ほどの黒耀石の原石が軽石などと一緒に含まれており、火砕流起源の火山灰でした。 地層中の黒耀石の形成は約87万年前で、和田峠と同じになり、その時流れてきた火砕流が成因であるとされました。 写真は和田峠の麓で発見された火砕流の地層です。流れた方向は星糞峠でした。 和田峠と星糞峠を結ぶ火砕流の行方を捜すことが課題となっています。 |
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143ザクロ石 1月の誕生石 (これもまた、宝石商が考えたことなのかな) 。 和田峠のザクロ石は流紋岩の隙間にできた結晶です。鉄・マンガン・アルミニウムを主成分としています。 和田峠のガーネット ガーネットは、その名が「種子」という意味のラテン語、グラナタスGranataumに由来し、ザクロの実のように赤く丸っこい結晶をしているものが 多いのですが、成分の違いにより、その色も橙色、褐色、緑色などといろいろです。 結晶そのものが12面体・24面体と美しい形で、硬い石をカットする技術のなかった昔から、天然の宝石として利用されてきた歴史を持っています。 現在は1月の誕生石として、変わらぬ愛情と深い絆をもたらす実りの象徴とされていますが、海外の昔話では、石の中に火が隠れており、 魔を払い、出血や炎症を治す強い魔力があると信じられていたそうです。また、ノアの方舟の灯火として使われていたという話もあります。 ヨーロッパでは、この他に、中世十字軍の兵士は、赤い血の色のようなガーネットを命の証として、戦場に赴く時に負傷から身を守るお守りとして 身に着け、「一族の血の結束」をあらわすとして王家の紋章としても尊ばれたそうです。 |
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144ナウマンゾウ 日本列島にはナウマンゾウとマンモスが生息していました。マンモスは北海道に、ナウマンゾウは九州から北海道の広範囲に その化石が発見されています。長野県野尻湖は化石発見数日本一として有名です。 ナウマンゾウは今から約40万年前に現れ、約2万年前に絶滅しました。旧石器時代の狩猟対象でした。化石から復元されたナウマンゾウは、 肩の高さ2.5m~3mで現生のアジアゾウと比べやや小型ですが、牙が発達しており、オスで長さ2.4m直径15cmに達するほどでした。 マンモスとの違いは、ナウマンゾウの方が小柄で牙がやや直線的、オデコが大きく張り出してベレー帽状態に見えるところです。 ナウマンゾウの化石は、日本と中国の一部約で180ヶ所以上で発見されています。瀬戸内海でも多く発見されています。最多は野尻湖です。 象の歯の生え変わり 象には大きい歯が上に2本、下に2本生えています。 象の歯は、草などを食べると擦り減っていき、小さくなった歯は前から取れていきます。(脱落歯) 若い象では、奥の歯が次第に前に移動して来て次の歯に変わります。 ヒトのはの生え変わりは一生に1回ですが、象の場合は5回生え変わります。 これらの歯は年齢によって、大きさや形が違うので、象の歯を調べれば、おおよその年齢がわかることになります。 |
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150黒曜石文化研究の歩み 黒耀石原産地の男女倉遺跡群と鷹山遺跡群の研究は、昭和30年(1955)に長和町郷土史家児玉司農武氏の発掘によって始まった。 |
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152研究資料 |