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お知らせ 南アルプス市ふるさと文化伝承館は。現在閉館中です。 このページの掲載後、2019年3月頃にリニューアルオープンします。 ぜひ、新しい展示を見に行きたいものです。 皆さんも、ここでご覧になって生じた沢山の疑問を、お尋ねになってはいかがでしようか。 この館の展示やパネルは。もう過去のものになりました。 |
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01外観 |
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02一階入口展示 |
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03二階入口展示 縄文考古展示は階上に |
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11鋳物師屋遺跡 出土 遺物展示 |
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12円錐形土偶 山梨県南アルプス市鋳物師屋遺跡出土縄文時代中期 (5,000〜4,000年前) 円錐形の中空の胴をもつ土偶を円錐形土偶と呼んでいます。腹部上に当てた左手は3本に表現されています。 空洞の胴部には石や粘土玉を入れ、音が出るように作られており、音を聞く土偶とも言えます。 |
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13panel 鋳物師屋遺跡の円錐形土偶 胴体が円錐形で中空であることからこの名があります。この館で最も有名な展示品です。 縄文中期に中部地方から関東地方にかけて作られた独特の土偶形式で、鋳物師屋遺跡の出土品は、 その中でも、最も均整のとれた美術的にも非常に優れた土偶と言えます。 円錐形土偶は完形で出土した貴重なもので、縄文中期の関東・中部地方における特有の形式。本体は中空、胴体の側面・底部に孔が存在する。 切れ長の目に乳房と妊娠による正中線が現された妊婦を表現したもので、3本指の手を腰と腹部にあてている。引用Wikipedia |
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14円錐土偶 |
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20展示 |
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21人体文様付有孔鍔付土器 鋳物師屋遺跡出土、「人体文様付 有孔鍔付土器」 は、三本指の人物が片手をあげて踊っているような姿が装飾されています。 このような装飾は、土器の口縁部に鍔がつけられ、孔の開いた縄文中期の有孔鍔付土器の中に類例が知られています。 一説には酒作りの土器といわれ、祭祀具と考えられています。 人体装飾は、同時代の土偶と同じく女性を現した文様で、その中には、女神が身体を焼かれることによって死に、再び新しい生命として誕生する ことを願う「死と再生」の神話が潜んでいるとする研究者もいます。この土器の装飾には、実は縄文人の深い世界観が隠されているようです。 |
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21鋳物師屋遺跡 出土土器 遺跡は甲府盆地西部の南アルプス市下市之瀬の漆川と坪川の合流地点に位置する遺跡で、約5千年前の縄文中期のムラ跡が発見されました。 ムラの中心には広場があり、それを取り囲むように住居が巡っていました。 住居跡からの出土品の内205点が縄文人の精神文化を知る貴重な資料として、国の重要文化財に指定されました。 これらの土器は、当時の日本列島の文化を大飛揚する資料として、世界の様々な博物館で紹介されています。 |
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22人体文様付有孔鍔付土器 山梨県南アルプス市鋳物師屋遺跡出土 縄文中期 5000〜4000年前 胴部に女性と考えられる人物像を描いています。右手を挙げ、冠状の帽子を被り、頬には入墨が見られます。 恍惚として踊る女性の一瞬の姿を表現しているとも言われています。 ※シャマンが踊りながらトランス状態に入る様子を描いた土器なのだろうか。 |
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24 |
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以下の大量の土器については、無脚注のため、一切不明です。画像だけお楽しみください。 |
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25土器 棚上の土器 |
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26棚下の土器 |
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30縄文王国山梨 |
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31左 | ||||||||||||||||||||||||
32左棚の最上段 土器 |
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33左棚の中段 浅鉢・土偶・耳環 | ||||||||||||||||||||||||
34左側下の段 石斧 |
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35右 |
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36縄文王国山梨 縄文文化は、今から1万2千年前から約1万年の間続いた文化で、 最後の氷河期から徐々に温暖化した日本列島に現れた豊かな森や四季を基盤に誕生しました。 縄文時代の人々は、森の恵みである植物を採取し、動物を狩り、魚を捕りながらムラに定住していました。 中部山岳地域では、今から5千年程前にムラの数が爆発的に増加し、この地域独特の文化が花開きました。 山梨はその中心として栄えた、まさに「縄文王国」の名にふさわしい地域です。 この躍動感あふれる土器の造形美からは、自然と共生していた縄文人が作り出した独特な世界観が、数千年の時を超えて浮かび上がってきます。 panel |
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37動物文様
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38土製円盤 釈迦堂遺跡博物館では、土製円盤は死者の額に置いて葬送する一種の呪符として考えられていたと記憶している。 |
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39人面把手
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50世界に誇る縄文文化の顔 -鋳物師屋遺跡- 鋳物師屋遺跡の円錐土偶と人体文様付有孔鍔付土器は世界中の博物館で展示されてきた。 |
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51panel |
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52 縄文人のこころに触れる 約5000年前、縄文中期のムラの跡で、32軒もの竪穴建物の跡や、膨大な量の土器が発見されました。 常時4〜5軒で、200〜300年間ムラが存続した結果、32軒分の跡が残ったと考えられています。
国指定重要文化財 鋳物師屋遺跡は、台地直下の扇状地にあり、土石流に覆われたことで、発掘されるまで保存され、完全な形をした土器が多く出土しました。 それらを観察すると、縄文人の感性や精神文化を感じ取ることができる点で注目され、205点の出土品が国重要文化財に指定されています。 中でも「円錐形土偶」、「人体文様付有孔鍔付土器」は類例が少なく、世界中の考古学ファンに知られる存在です。 円錐形土偶 (子宝の女神 ラヴィ) 高さ約25cmと大型で、円錐形のお腹は安定しています。乳房があり、さらに大きく膨らんだお腹には左手が添えられ、右手は腰をおさえている。 妊婦さんがお腹の赤ちゃんをいたわっている様子が表現されているようです。家族やムラの繁栄を祈ったことでしょう。 また、空洞のお腹は鳴子で、土鈴になっていました。この鳴子はお腹の赤ちゃんを表しているとも言えます。まさに命の象徴とも言える土偶です。 人体文様付有孔鍔付土器 樽のような形の土器の表面に踊っているかのような姿が丁寧に描かれています。用途は、果実酒醸造の酒造容器説、太鼓説に分けられます。 一般的な土器には見られない文様であり、また、あまり多くは出土しないことから日常用ではなく、祭り事など特殊な用途と考えられます。 鋳物師屋からのメッセージ 鋳物師屋遺跡の出土品は世界の博物館で紹介されているだけでなく、様々な本の表紙を飾り、図鑑などにも多く登場しています。 まさに日本縄文文化の「顔」と言えます。ほぼ完全な形をした数少ない例であることと、見た目の芸術性、そして何よりも、 鋳物師屋遺跡縄文人達の「祈り」や「命」の大切さ、「愛情」などが感じられるところに世界中の人が強く惹かれているのです。 鋳物師屋の縄文人たちが残してくれたメッセージは、現代の私たちこそが受け止めるべきものなのかもしれません。 ※情緒的表現が強い文章ですが、最後は特に、考古学を離れた、かなり感情的に過ぎる表現です。 |
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53円錐形土偶の海外出張履歴
人体文様付有孔鍔付土器
土偶装飾土器 鋳物師屋からは、土偶装飾の土器も出土しており、後姿は両腕でお腹を抱えているように見え、土器が土偶のお腹を表現しているかのようです。 鋳物師屋縄文人の豆栽培 レプリカ法により、出土土器表面の穴が、大豆・小豆・エゴマの痕跡であったことが判明した。全て栽培種で、栽培が行われていたことが分かります。
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60土器 |
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61鋳物師屋遺跡-右後 |
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61鋳物師屋 土器 後ろ |
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62a〆木遺跡 下市之郷
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63鋳物師屋 前 |
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鋳物師屋 前 |
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63a装飾土器
土偶装飾土器 神像筒形土器 (井戸尻考古館) と同じモチーフの土偶貼付土器です。肩パットに施された文様は神像筒形土器と全く同じです。 井戸尻の精緻で写実的な文様に比べ、鋳物師屋のものはスッキリとした現代的なシンプルな装飾です。 参照もう一つの神像筒形土器
土偶装飾把手
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65鋳物師屋遺跡 土偶装飾把手 土偶は見えませんが、装着していた、土器片かもしれません。 |
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65鋳物師屋前右 |
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67土製品 浅鉢、装飾土器片、筒形土器、ミニチュア土器、環状土製品など、祭祀具や土偶の破片のようにも見えます。 |
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81百々・上八田遺跡 旧石器時代の石刃、約1万3000年前 縄文時代後期の鯛の背骨
百々・上八田遺跡 縄文時代後期初頭のタイの第二椎骨。その大きさから体長40cmを越える大型のタイと想定される。 当時、内陸部であったこの周辺に於いても鯛が流通していたことや、同時に保存技術が確立していたことが分かるなど、この小さな資料が伝える 情報は多い。 ※鯛は深場にいる魚です。それを釣り上げる仕掛け、特に糸、20m〜30mほどの深場とポンピングできる糸と、糸を切られない釣りの腕。 釣り上げた、肉厚の魚を干物に乾燥させる技術。やはり、寒風が吹く時期が最適か。 それを内陸部まで運んで交易する物流の技術とネットワーク。 縄文時代にすでに現代と同じような釣りや魚加工技術、運搬技術や、交易ネットワークが存在したことは、大変な驚きです。 そして何より、やはり、鯛がおいしい魚であると、当時から釣りの対象魚であったこともおもしろいですね |
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82石器 |
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83土器 横道遺跡/下市之瀬 横道遺跡は、縄文時代後期初頭の敷石住居。 石を敷いたり、並べ立て囲んだりしたもので、その様子が良好に残った数少ない例。現在携帯鉄塔で破壊。
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84土器 徳永・御崎遺跡 御勅使川扇状地を釜無川が削りとってできた. 崖上にある遺跡。 縄文時代後期、古墳時代後期、. 平安時代と複数の時代に渡る遺跡である。遺跡. の北側には中世金丸氏の館跡、長盛院がある。.
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85新居田遺跡 平岡 新居田B遺跡 縄文中期〜古墳時代初頭の住居跡が発見。この一帯の、特に漆川を望む崖線際に縄文時代晩期の遺跡を検出。 新居田A遺跡 縄文中期前半の竪穴建物跡と、弥生時代終わり〜古墳時代の竪穴建物跡発見。
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87曽根遺跡 上宮地 土器形式 曽利U〜X式 諸磯B式 五領ヶ台式 藤内式〜井戸尻式 東海系の大廓式などである。 |
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90北原C遺跡 91水煙文土器 縄文中期 約4500年前 縄文時代後半の八ヶ岳周辺地域に限定される土器で、把手が豪華で渦巻きや曲線などで表され、まるで水煙が立ち昇る様子に見えることから 名づけられました。水煙把手土器とも呼ばれます。 水煙文土器は主に円やS字模様の豪華な把手と、モンブランのような把手がありますが、北原C遺跡からはその両方が出土しています。 北原C縄文人の美のセンスが感じられる大変貴重な資料です |
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100前 北原C遺跡 |
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101前 |
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102
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103釣手土器様の土製品
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104 |
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107前右
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110 | ||||||||||||||||||||||||
111後ろ |
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115後ろ
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119後ろ
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120北原C遺跡 土偶 南アルプス市の土偶 全員集合! 南アルプス市を中心とする甲府盆地の西縁地域は長いこと縄文時代の遺跡が少ない地域とされてきました。 昭和50年代に入り発掘調査が急増し、土偶の発見例も徐々に増えています。 鋳物師屋遺跡の円錐形土偶のように割られない土偶がある一方、頭部や脚部などのように体の一部だけが出土する例が大半を占めます。 今回初めて公開する2点の土偶片も体の一部のみが発見されています。 北原C遺跡の生命感 北原C遺跡は縄文時代中期後半の集落遺跡で、出土する遺物に特徴があります。 集落のごく一部を調査したに過ぎませんが、土偶破片の出土密度が高く、また、土偶の縁に付けるために作られた顔面把手が2点出土した。 また、3本指の「手」が描かれた土器や、カエルやイノシシなど様々な動物を装飾した土器もあり、土偶や動物を通して新しい生命や繁栄、 豊穣などを祈ることを大事にして北北原C遺跡の縄文人の「こころ」を垣間見ることができます。 |
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121北原C遺跡の土偶
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122動物装飾土器 北原C遺跡 土偶の代わりにイノシシが装飾された土器
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124人面把手
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125土偶の破片 |
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126土偶の破片 |
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128三本指の土器
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129
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130北原C遺跡 | ||||||||||||||||||||||||
131後ろ
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132動物装飾土器 縄文時代中期 約5000〜4000年前 北原C遺跡 北原C遺跡からは上を向いたヘビが装飾された土器も数点発見されています。 装飾としてのヘビの表現は三角や台形の頭に、ウネウネとした胴体や編み込んだような胴体、あるいはとぐろを巻いた様子が多いです。 |
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133前 ヘビを装飾した土器 沢山の蛇が描かれています。編み込んだおさげ髪のような装飾は、何匹もの蛇が絡まって交尾している様子を描いたもののようです。 周り中に本当にたくさんの蛇の交合の様子が描かれた特殊な土器です。
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140 |
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141後ろ |
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中畑遺跡 145前 浅鉢 鉢 |
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150中畑遺跡 縄文前期前半(約6000年前)の、市内最古の住居址群を検出。 その他、縄文中期〜後期、晩期、弥生中期〜古墳初頭、などの集落跡が検出。 縄文前期の住居跡から、中越式 (伊那谷中心) の丸底深鉢を検出した。 |
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151中畑遺跡 縄文時代中期 約5000〜4000年前 |
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152中畑遺跡 縄文時代中期 約5000〜4000年前
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160後ろ | ||||||||||||||||||||||||
161 |
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162中畑・長田口遺跡 |
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180長田口遺跡 縄文晩期 |
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184大型石核・土偶・石棒 長田口遺跡では,縄文晩期の土坑から、黒曜石の大型石核が4点、1点約1kgが出土しました。 晩期にこれだけの大きさは考えられないものです。 黒曜石産地と、太平洋側地域との間で、仲卸をしていたのではないかと考えられています。ほたるみ館北側 |
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185顔面付土器 |
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190展示室全景 |
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200一階展示場 |
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200弥生時代 |
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201 稲作の始まった頃 台地から低地へ 縄文時代も終わりになると、人々は高台の見晴らしの良い環境から、一段下った低地へと活動を広げ始めます。 市内全域の扇状地上に於いて、縄文晩期から弥生時代にかけての遺跡が数多く確認されています。 向河原遺跡では 弥生時代中期末〜後期の水田跡が発見されるなど、生業と共に活動が変化していくことが読み取れます。 六科丘遺跡(あやめが丘) 弥生時代後期には六科丘遺跡などのように依然として台地上を中心に広く集落が展開するほか、扇状地に於いても 十五所遺跡で みられる方形周溝墓群や、村前東A遺跡のような古墳時代初頭へかけての大規模な集落などが展開し、この地域における 大幅な人口増加が認められます。そして後の古墳時代を迎えるのです。 |
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210弥生時代後期 |
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211住吉遺跡 弥生時代後期 (約2000〜1700年前) 、東海地方との関係を示す豊富な土器群に象徴される特徴的な集落遺跡です。 |
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212六科丘遺跡(あやめが丘) 弥生時代後期 (約2000〜1700年前) |
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220古墳時代 |
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221ヤマト政権と南アルプス市のクニ 村前東A遺跡のような大規模集落で見られるように、膨大な人口増加を迎えた古墳時代初頭の南アルプス市域は、弥生時代に引き続き、 台地、扇状地ともに大規模な集落が営まれ続けます。 古墳時代前期末〜中期になると、台地の先端部など、甲府盆地にせり出した眺望の良い場所に古墳が築かれ始めます。 物見塚古墳 現存している最も古くそして最大の古墳は物見塚古墳で、ヤマト政権との繋がりを示す前方後円墳の形をしています。 河川によって浸食された各舌状台地の先端部にはそれぞれ古墳が築かれていますが、それらはみな物見塚古墳の後継のものとみられ、 それ以降円墳のみが確認されています。 低墳丘墓も築かれ、後期になると台地下の扇状地に群集墳が築かれ、古墳時代の集落が営まれていたようです。
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222寺部村附第6遺跡 |
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223村内遺跡 古墳時代中期 5世紀 |
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225野牛島・西ノ久保遺跡 野牛島 平安時代 9〜12世紀 生産遺跡と礫郭墓、和鏡 平安時代後期の住居跡からは雁又鏃が発見され、また炭焼窯や、平安時代末期の礫で囲んだ墓坑からは和鏡が発見され。 生産や特殊な身分を示す遺構が特徴となる。
野牛島・西ノ久保遺跡の 大甕 遺跡内の浅い谷底から発見された須恵器の甕。形はゆがみ、窯体の一部が融着することから、廃棄された失敗作であると考えられ、 この付近に須恵器の窯があったことが推測される |
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350古代 |
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351奈良・平安時代 甲斐源氏活躍の礎 甲斐国 奈良時代の直前、山梨県の原型となる「甲斐国」が誕生します。律令制が始まり、全国に国郡里(郷)が施行され、市域は巨麻郡に組み込まれた。 遺跡の分布は、御勅使川扇状地先端部に集中する傾向があり、段丘上に住みながら、水の豊かな低地を新たに開発した人々の様子が伺えます。 時代が進むにつれ百々遺跡にみられるように扇央部の開発も進み、扇状地上に「八田牧」と言う馬・牛を飼育する施設もあったと考えられています。 甲斐源氏 こうした新たな開発による生産力が着目され、市内甲斐源氏の祖となる遠光が加賀美に配されます。その後、遠光は長男光朝を秋山に、 二男長清を小笠原に置き、市内に甲斐源氏の礎が築かれていきました。こうして南アルプス市の武士の時代が幕を開けます。 |
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352奈良時代 |
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353 |
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平安時代 |
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354〆木遺跡 平安時代 9〜12世紀 |
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355鋳物師屋遺跡 下市之瀬/平安時代9〜12世紀 |
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356 |
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357 |
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358村北第2遺跡 中世13-16世紀
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360中世 |
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361武家文化の台頭 遠光、長清親子は、源平の合戦から鎌倉幕府の成立と確立に深く貢献した。市内には活躍した甲斐源氏の武士達ゆかりの遺跡が随所にある。 一方大師東反保遺跡では、洪水に被災し砂礫に埋もれた集落跡が発見され、水害の危険と隣り合わせだった低地開発の様子を垣間見られる。 鎌倉幕府が滅亡し、室町幕府が成立する動乱の時代、県内では禅宗の信仰が広がり、市内でも夢窓国師が臨済宗長禅寺を鮎沢に建立している。 戦国時代に入ると、市内南部に甲斐源氏末裔の大石が勢力を拡大し、武田氏と激しく対立した。両者は後に和解し、武田家に嫁いだ大井夫人は 晴信(後の信玄)を生むことになる。徳永には武田氏の重臣であった金丸氏が居を構え、武田氏の甲斐国支配を支えた。
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363溝呂木道上第5遺跡 鎌倉時代12〜14世紀
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370近世 |
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371水を治め水を生かす知恵と技術 |
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380近現代 |
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381近代技術の導入と戦争の影 水害の克服に腐心した南アルプスの人々。地域で長く守られてきた堤防は近代に受け継がれ、明治維新による新たな治水思想によって 改修されていきます。「石積出四番堤」の発掘調査では、鉄線蛇籠や木工沈枠といった新たな技術に守られた近代の堤防遺跡が確認された。 また「砂防」という新たな思想の導入により国登録文化財「芦安堰堤」が造られるなど、市域は、治山・治水技術が試される先進地となっていく。 そして、近代の遺跡として忘れてはならないものに「口タコ=ろたこ」(御勅使河原飛行場)があります。 長さ1500mの滑走路を中心に約800haもの範囲に及んだロタコ工事には、地域住民や朝鮮人労働者が広く動員され、 地域の負の歴史を伝えるモニュメントとして、アジア太平洋戦争末期の記憶を現代に伝えています。 |
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390一階ロビー展示 |
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391 |
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632 寺部村附第6遺跡 古墳中期5世紀 |
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