縄文を旅する1 中部地方14 2013.05.25(土)
釈迦堂遺跡博物館 山梨県笛吹市一宮町千米寺764
設立目的 中央自動車道建設に伴う釈迦堂遺跡群発掘による出土物の保管展示。
八ヶ岳縄文文化圏を南下するに従い装飾土器のデザインが変化するのがわかります。
それぞれの地域が強い独自性を発信していたようです。
行き方 レンタカーで中央高速道の釈迦堂PAから歩いて行く。すると、次の山梨県立博物館へ行くのも便利。
心より感謝 釈迦堂では素人の質問に丁寧に、長い時間の案内と説明をしてくださいました。
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目
次 |
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01釈迦堂遺跡博物館
13釈迦堂遺跡群
縄文早期・前期・中期土器
釈迦堂の土偶
16土器に宿る精霊
16取れ付けられた精霊
顔面把手
蛇体装飾
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17四季の食生活
18釈迦堂の土坑墓
水煙土器
20土器
21釈迦堂の土製品
装身具と楽器と祭祀具
22道具の交流
23道具
25土偶 |
26企画展「縄文人の装い」 |
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01釈迦堂遺跡博物館 パーキングエリアから左の階段を上っていきます。アクセスは大変不便です。
釈迦堂遺跡博物館 |
案内板 |
博物館正面 |
遺跡の環境一つの扇状地に形成された遺跡 |
この地域ではこの位置が最適な居住ポイントでした |
7千年前海進の始まりと同時に村ができ始め、4千年前寒冷化に伴い、増加した人口により大量餓死 |
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13釈迦堂遺跡群 山梨県は縄文遺跡の宝庫です
縄文早期・前期・中期土器
縄文早期前期土器中国で起こった土器文化を、長く変えることなく継承している。華北華中人の末裔 |
縄文中期土器独自の顔面・人面装飾土器が発達してきました。 |
釈迦堂の縄文土偶
釈迦堂では、1,116固体の土偶が出土している。これは全国のほぼ1割を占める数である。
このうち前期のものが7個体、後期のものが1個体、その他全て中期のものである。
釈迦堂の土偶の特色は、
まずその@数が多いこと、A色々な形態のものがある、そのB製作法が分かること、
C遠く離れて出土した頭部と胴部が接合する、など、土偶の研究上欠かせない資料に恵まれていること。
精巧な細工ができる、繊細で鋭いヘラが必要 |
竹製のヘラででも加工したのでしょうか |
土偶分布歴史地図DLして使用可 |
これまで粘土ペラの出土例を聞いていないなぜか |
土偶の顔にはいろいろなタイプがあります。 |
目がつりあがった顔
主に北方エベンキ人に由来する顔や |
吊り目でないモンゴロイドや、その他、です。中には、子供の様に |
竹串で三つの丸い穴を開けただけのものもあります |
土偶の顔は中空で、高度な技術が見えます |
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16土器に宿る精霊
縄文人の精神世界は精霊信仰。人類の根源的な宗教観。
全てのものに魂が宿るとの考え方は、現代にも通じ、生きている考え方である。ということ。
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顔面把手付土器 |
手のモチーフ |
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顔のモチーフ |
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人体文 |
16取り付けられた精霊
顔面把手
顔面把手 |
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土器に宿る精霊たち
蛇体装飾
カワセミ=翡翠 |
蛇体装飾台湾では蛇は魔除け |
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有孔鍔付土器の蛙を狙うカワセミは対立概念か |
カワセミと蛙強者と弱者か |
両方とも神聖な神や精霊なのか |
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17四季の食生活
四季の食生活 |
四季の食生活 |
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縄文人の食べ物 |
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食料と精霊が同じとは、食器にキャラクターがついてるのと同じか |
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煮沸した土器とそうでない土器 |
栃の実は食料を劣化させない働きがあるので、大変厄介な堅果だが敢えて食糧化したそうだ |
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しぶい木の実 |
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18釈迦堂の土坑墓
スイジガイの模様付土器を発見しました。スイジガイは今でも南方諸島の食糧であり、魔除けです。
縄文中期は高温期でスイジガイの北限も北上し、伊豆諸島付近でも生息できました。
土器に魔除けを貼りつけたということは、土器の装飾は、台湾と同じで魔除けかもしれません。
水煙土器
水煙土器火焔土器に対して水煙土器と命名された。
特に意味はないが、作者の造形力は素晴らしい。 |
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これを棺にして埋葬した |
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甕の中に甕を棺にした埋甕 |
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埋甕=蓋付甕に埋葬
伏甕=底に穴を開けた甕を伏せて棺にした |
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葬送儀礼が発達し、男女や子どもと成人、後には貴賤もわかるようになった。 |
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20土器
人口が増え、交流が盛んになった時代に、逆に地域性が高度に発揮され、独自なデザインが発達した。
井戸尻式よりもさらに変化したデザインがみえる。
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このSってなんだ
野球チームか? (笑) |
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水煙形把手かな |
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21釈迦堂の土製品 装身具と楽器と祭祀具
耳飾り軽薄美麗なつくりでも耳は巨大な穴と垂れ下がった耳たぶが異様 |
土鈴使途は何でしょう |
土笛 |
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土製円盤埋甕から出たこともあり |
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ミニチュア土器群台湾でも出土する |
葬儀の副葬品として埋納されると |
考えられている |
現代人と同じ知能を持った縄文人ですから、楽器を作り、音楽を楽しんだだろうと思います。
陶芸芸術で、普通の主婦があれほどの作品を日常的に生み出すのだから。 |
すると、楽器も、笛に太鼓に鈴。弓に壺に竹竿に、手拍子足拍子に歌声といろいろなものを使っていたでしょう。
縄文人は劣った人間ではなく、その時代の環境で最大限に能力を発揮した優秀な人々だった。 |
ヨーロッパでは鳥の骨で作ったフルートが出土している。 |
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22道具の交流 縄文中期の人口は列島で僅か25万人。しかし、激しい移動と活発な交易でネットワークを築き上げていた。
土器の交流 |
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石材の交易 |
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小型の石器類 |
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出土した各地の土器形式 |
大木8b式 東北地方中期後半の土器
加曾利E式 関東地方中期後半
天神山式 東海地方早期末2〜4mm厚薄い |
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たたき石 ハンマー
磨き石 土器の内側を水漏れ防止のために磨く石
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←砥石 磨製石斧などを砥ぐ道具で、釈迦堂では出土例が多い
打製石斧 土堀道具 |
加曾利b式 関東地方後期初頭
黒浜式 関東地方前期粗雑な縄文と繊維を含む
北白川下層式 近畿地方前期薄い器壁と爪形文
天神山式 東海地方早期末2〜4mm厚薄い |
稜磨石 断面三角の稜を磨き面としている石器で早期〜前期に多い
磨き石 縄文の大兵的な石器。手でこすりやすい円形の自然石を利用。中には凹みあるものもあり、凹み石ともいう |
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23道具
この時期すでに矢羽をつけていたとは。弓の発明と同時に矢羽も発明されたようだのか。
矢に矢羽がないとまっすぐに飛ばない最重要の部品。弓矢の発明以上にすごい発明発見です。
矢羽の付いた矢 |
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縄文人は斜面を掘って根菜類を収穫した。平地はほらないでしょ。素人のやることです。 |
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現代人と同じ知能を持ち、経験に富んでいたため、 |
大変柔軟に自然に働きかけていたと思われる |
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25土偶
土偶とは何か |
土偶のファッション |
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子どもが増え、成人しないと、家族や一族の将来は餓死だから、みんな懸命に多産を願い、無事の成長を願ったでしょう。 |
けつ状耳飾りは中国発祥のようで、台湾でもこれを生産していました。
古代中国華中辺り出身者がやって来た証明 |
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26企画展 「縄文人の装い」
新作縄文土器やオブジェが沢山あった |
縄文土偶の装飾 |
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仮面土偶の上半身 |
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縄文土偶の顔 |
入れ墨のある土偶既婚者ですね |
釈迦堂では大量の土偶が出土している |
唄っているかのような表情 |
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土偶の耳にある穴は耳飾り用。耳たぶに小さな穴を開け次第に広げます。 |
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かなり凝った耳飾り |
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高級品は権力の象徴でしょうね |
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採りに行ったのか持ってきたのか、次々人手を介したの |
安全に旅行できたか |
交易とは何を交換したのか陸路海路 |
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交易品のない者は何と交換したのか交易で生計を立てたか |
携帯食料が発達し、陸路が明確ならば行商できるが、全人口25万人では住居すら発見できない。 |
細石刃のような鏃 |
どこかで、交換市が立ったのか。拠点となる集落などで定期市でも開催か。 |
物流や、嫁入りを中心とする人的交流の激しさは |
そのような場がなければ不可能。言葉や意思が通じず、偶然の出会いは殺し合い |
鑿
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縄文って
おもしろいよね。
交易って簡単に言うけど、1億2千万人ならどこにも人がいて言葉も通じる。 |
最盛期で25万人。それ以前から交易があった。
場所もわからず、言葉も意思も通じないのに、敵意を抱かずに、意思を疎通し、交易にまで持って行けたか。ふしぎ |
海洋民族には海上の道や停泊場所。
狩猟民族には狩猟の道があり、移動する獲物を追うことで自然と他のハンターと出会うのかもしれない。 |
黒沢映画「デルスウザーラ」では、
狩猟者の勘と生活経験が、まるで魔法のように描かれていたが、 |
広大なシベリアでも人と出会え、意思の疎通を図ることができるということだ。
DVDもう一度見よっと |
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私の妄想1
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縄文中期には大きな村ができていたが、後期になると小さな村が点在するようになり、晩期になるとさらに小さくなって行くことについて。
縄文人はエスキモーがそうであるように、共同体(村)の全員を相互扶養する社会システムだった。
それは、小規模家族で移動していた野良犬ような生活から、気候が安定し、栽培作物もできて定住すると、人口が増え、大きな共同体となる。
集団による狩猟や採集によって安全で効率的に食料を確保でき、知識もひろくなり、文化も高まる。縄文文化全開である。
しかし、後期に気候が不安定となり、晩期には寒冷化し、食糧の確保が困難となり、このシステムが維持できなくなった。
このままでは共同体の全員が餓死することになる。
人々は分散して扶養義務システムを軽減化した。これによって生き残れる家族と餓死する家族が選別され、
食糧確保競争に勝ち残ったものだけが生き残れ、弱者は見捨てられた。5人に1人しか生き残れなかった。
やがて、累々たる餓死者を村から離れたところに集めて葬る共同墓地を作らざるを得なくなり、配石墓が作られた。
移動生活では生まれない、共同生活でのみ生まれる祖先崇拝の感情が共同墓地の整備を行うに至り、
さらなる分散と移動を余儀なくされながら一族の祭礼を行う時期を天文観測で決め、冬至や、夏至といったわかりやすい祭礼日を設けたに違いない。
彼らは、ストーンサークルという共同墓地でのみ互いが同族であることを確認しあうことにした。
食糧確保はますます困難となり、人々はさらに分散離散していったが、なぜか埋葬時だけはここに戻って来た。
イギリスでは遺体を持ってきたり、遺骨だけを持ってきたりした。おそらく列島でも同じであろう。
やがて無秩序に沢山作られ続けた配石墓は整理する必要がでてきた。
拝礼しやすくするため同心円状に整備され、一族が集まる時を示す日時計も作られ、環状列石となった。 |
私の妄想2
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縄文時代の村からは便所と風呂と排水施設が出てこない。
台風が来ると浸水したであろうし、日常的に水を流すことはなかったのだろうか。
アマゾンのヤノマミたちは川に行って行水するのでしょう。南洋諸島でもそのようだ。
寒冷地では洗濯も行水も季節によっては思うに任せず、ほとんど垢まみれだった。
するとさらに皮膚病やダニなどの寄生虫だらけは免れず、大変な状態だったと思われる。
肛門などは結構弱く、洗わないと痔になりやすく、切れ痔・脱肛・痔ろうなど、大変だったでしょう。
川に行けばツツガムシ病に感染するし、平均寿命が短いのは当たり前だったでしょう。
ある説では、超古代から人間は川の上で排便し、やがてかわやという小屋を作ったそうだ。
川がない場合は山中に行って適当に用を足したそうだ。
しかし、危険だらけの排便は、ある意味命がけだったかもしれない。
有毒ヘビや猛獣、有毒昆虫に寄生虫。恐ろしい時代でしたね。
あかまみれ、 皮膚病 ダニ 寄生虫
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