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   西日本の縄文 北陸の辺縁は何処まで 08  2015.10.15

  豊岡市立歴史博物館−但馬国府・国分寺館  兵庫県豊岡市日高町祢布808   0796-42-6111  水曜休館※

   交通  レンタカー

   見所  古代史資料が多い

   注意  開館日にもかかわらず、館員が入口に鍵を掛けて、何やら中でしていることがある。

   動機  村岡民俗資料館 (古墳時代資料) に行く途中の寄り道程度。

   感想  辺鄙な田舎町の資料館でした。




次 

00外観
01入口展示
10旧石器時代
  サヌカイト文化人とその末裔
20縄文時代
  火山灰層の下の遺跡
  但馬の縄文遺跡が山岳部に多い 

30弥生時代
40古墳時代
41古墳
43埴輪
45副葬品

50古代
51寺院
 末法思想

52但馬国誕生
54役所
55国分寺

60小さな特別展

 00外観
黒い四角な箱が細い通路でつながっている
独特な建物です
入口


 01入口展示
古代ひとがたのイラスト 白磁輪花皿 幻の但馬国府を探る
国府は度々移動していた
国府・国分寺の歴史年表


 10旧石器時代
旧石器コーナー 旧石器時代にマンモスを狩っていたのは北海道で、西日本では、ナウマンゾウですね(笑) 氷河期の頃の日本列島この図では日本海の水は流れ出ていない!? 縄文時代の磨製石器と
弥生時代の打製石器

こんな極端な比較は何のため。弥生の打製石斧は珍しい。
貝塚の貝殻円山川は溺れ谷で河口から17qも海水が逆流する。ために、海水・淡水産の貝が出土する 市内最古の出土品
ナイフ形石器 
2万年前
大内谷古墳群/旧石器
奈良県二上山のサヌカイト製

  遺跡からの出土ではなく、古墳の発掘現場から、古墳の石室の中から、2万年前のナイフ形石器が発見された。

 
 サヌカイト文化人とその末裔

  ・28000年前に確立した瀬戸内技法は、横に長く割れる性質のあるサヌカイト(安山岩)から横長剥片石器をはぎ取る技法文化です。
   サヌカイトは瀬戸内地方香川県国府台や奈良県二上山から採れます。

  ・この技法でナイフ形石器をつくった文化は国府石器群といい、 この文化を身に着けた人々は瀬戸内・二上山から各地に拡散していきました。

  ・日本海側を北陸に向かった一団は、あくまでサヌカイトと横長剥離法にこだわり、かたくなに固執し、貫いていきます。
   そして、一部は新潟北部から内陸に入り、山形県に到達します。もうすでにサヌカイトが得られる距離ではありません。

   そこで頁岩を用いて石器を作り始めますが、やはり、横長剥離技法・瀬戸内技法を貫きました。


  ・一方、国府形石器群よりも遅く近畿地方を出発した一団は、富山県直坂U遺跡で発見された石器から、直坂U石器群と呼ばれます。
   彼らもサヌカイト(安山岩)を好み、山陰〜北陸の安山岩地帯を拠点とします。25000〜23000年前に存在しました。

   石器材料として、日本海側や下呂石、太平洋側にも交易をしていろいろな石を入手しました。


  ・富山県立見遺跡から、17000〜16000年前の600q離れた、青森県深浦産の黒曜石製石器が発見され、これは加工されて運ばれてきたもの
   でした。
   シベリアからマンモスを追ってきた人々は海洋航海術に長けた人々で、津軽海峡を越え、日本海側を南下し、中国地方にまで到達しました。


  ・近畿からやってきた直坂U石器群の瀬戸内技法・横長剥片石器文化人は、
   富山県立野ヶ原で、このアムール川経由北海道経由で日本海側を下ってきた縦長剥片技法の北方民族と出会います。

   両者は立野ヶ原一帯に棲み分けてそれぞれの技法の集落を形成していましたが、やがて融合していきました。

                  引用「埋文とやま132号先史時代の人とモノの動きC瀬戸内系の石器D瀬戸内系集団の末裔」




 局部磨製石斧 旧石器時代〜縄文時代

子の石器は、全体を粗く打ち欠いた後、歯の部分だけを磨いて作っています。打製石器と磨製石器の中間にあたるもので、旧石器時代から縄文時代の初めのみにつくられた珍しい石器です。

これらの石器は、神鍋山から流れ出た溶岩の直上で見つかりました。神鍋山が噴火した年代を考えるうえで重要な資料です。




 20縄文時代
伊府遺跡の
局部磨製石器と石鏃
局部磨製石斧 旧石器〜縄文の特有石器
局部磨製石器 伊府遺跡

石鏃(伊府遺跡)と
石核か掻器か
荒原貝塚出土貝殻
縄文時代

牡蠣殻が多く加工工房か
豊岡の縄文時代
豊岡に石器づくり工房
荒原貝塚の貝層 神鍋遺跡の縄文土器 縄目文様の土器片 縄文土器と石皿・磨石 神鍋遺跡の竪穴住居前期
但馬の縄文遺跡は山岳地帯に多い※1
神鍋遺跡の土器・石器
見蔵岡遺跡スクレイパー
海岸の竹野町出土
見蔵岡遺跡は石棒の生産地 京都市考古博物館に同形が展示されている
見蔵岡の石棒

二種類の石棒を生産していた
折れたのでなく、この大きさだったようだ

  火山灰層の下の遺跡
   神鍋山火山は縄文時代まで噴火を繰り返していた。 40年前以前には発掘調査で火山灰層の下は掘らなかった。えらい先生の指導でした。
   ところが、ある時、地元の歴史好きがその下を掘ってみたところ、ざっくざくと遺物が出土した。

   えらいせんせーはなぜ掘らなかったのか。出てきた遺跡を見てどう言ったんだろうか。
   しかし、何より、その時の遺物がすでに廃棄されていることが問題だ。

   この時の出土物について当館で尋ねたところ、そんな古いものはもう廃棄です。個人(が持って帰った)か、捨ててしまったか。だそうだ。

     あほちゃうか。そんな古いもんやて。掘り出されて僅か40年。埋もれていたのは数千年。
     博物館には、そんなあほな学芸員ばっかりいるのかいな。なんで40年が古い・価値のないもの・捨ててしまうものやねん。
     こいつら、文化財保護法違反や。


 ※1但馬の縄文遺跡は山岳地帯に多い

   火山灰の下から縄文遺跡が出たということは、縄文時代にも付近の火山は噴火し、降灰していたことになる。すると、

   縄文人が生活していた頃、神鍋山も噴火し、火山灰を飛ばしていたことになる。にもかかわらず、なぜ山岳地帯に遺跡が多いのか。
   これはやはり、狩猟がしやすく、山菜も採りやすかったのではないでしょうか。

   降灰地はなだらかで入りやすく、降灰後に生える若い樹木や草は鹿や小動物にとっても、縄文人にとってもよい食糧ではなかったか。
   結局、十和田湖周辺や、南九州のような噴火による森林の開墾が有利に働いたのではないでしょうか。


   山焼きや山火事の後には、柔らかくておいしい山菜がたくさん生え、いろいろな有用な植物も新芽を吹き出し、大変良かったことを思い出します。
   縄文時代から行われて来たと言われる山焼きは、定期的に行うことによって山を耕し、管理する方法のひとつなんです。

   山焼きの後に、豆やその他の栽培を行い、獲物の狩場としても有効でした。





 30弥生時代

豊岡の弥生時代
稲作開始時期は不明
久田谷遺跡の破壊銅鐸
過熱・水冷後に叩き壊した

籾痕跡ある土器 石包丁
駄坂川原遺跡

弥生初期は開墾と対縄文人戦争に明け暮れた日々

弓筈(ゆみはすゆはず)
弓の両端で弦をかける処


 環状石斧 祢布ヶ森遺跡(豊岡市日高町祢布) 弥生時代
環状石斧は、そろばん玉のような形をして、周りを尖らせた磨製石器です。縄文時代のはじめに出現し、 弥生時代には全国には広まりました。
用途は、武器説と土堀具説があります。弥生時代の環状石斧は、穴に棒を差し込み、棍棒という武器として使われたのでしょう。

環状石斧
縄文人や後発の弥生人との戦闘で使用した武器
環状石斧
欠けた処が使用痕ですね
鉄剣・鉄刀・鉄鏃・ヤリガンナ・首飾り。 板材作りの槍鉋は家屋建築の大切な道具だったようだ。
妙楽寺墳墓群の台状墓
山の尾根に多数の墓
弥生後期
弥生土器
妙楽寺墳墓群
骨で作ったペンダント
駄坂川原遺跡
土器に描かれた犬・猪・鹿
土器に描かれた犬・猪
西安田遺跡
土器の形が犬です
土器に描かれた鹿
西安田遺跡
土器に描かれた鹿
玉津田中遺跡
土器に描かれた鹿
大垣内遺跡
 縄文時代には鹿はあまりにありふれて土偶にも、描かれることもなかったのに。
 弥生の特徴でしょうね。

 鹿は害獣だのに、農耕民には神である。

 って、ふしぎやね。どんな理屈やろ。


 40古墳時代
  41古墳
豊岡の古墳
豊岡は1万基の古墳がある全国有数の密集地

楯縫古墳石室長13m
但馬最大級

見手山1号墳全長35mの前方後円墳丘上に石室

北浦横穴墓群山の斜面に横穴を開け、墓壙に

入佐山3号墳出土物
鉄剣・鉄槍・鉄鏃・鉄槍鉋
鉄鎌・鉄斧・鉄刀
方銘四獣鏡


 死者の枕 中郷深谷2号墳(豊岡市中郷)
  
丹波の古墳の棺には、枕が据え付けられていることがある。枕と言っても単に土器を並べて置いたものから、石を丁寧に加工したものまで様々です。棺に枕を入れることは山陰特融の埋葬方法であり、近畿の文化とは大きく異なるものです。

展示物は、丁寧に削って赤い色を塗ってある。

死者の枕 石枕死者の頭を固定する 須恵器
五世紀前半朝鮮人陶工が大阪陶村で生産開始

勾玉・小玉・棗玉・トンボ玉・管玉・切子玉
玉類 大師山古墳群
銀象嵌刀装具・刀子・馬具・鉄刀

楯縫古墳出土遺物
「銀象嵌」

銀象嵌 鑿で掘った溝に銀を埋め込む装飾


 カヤ谷窯跡 豊岡市日高町 奈良時代
山の斜面から多くの須恵器が出土しました。。釜の本体を見つけることはできませんでしたが、亀裂が入ったり、歪んだ破片が多いことから、近くに窯跡があったのでしょう。


須恵器カヤ谷窯跡
小河江中黒遺跡

窯跡は不検出
胞衣壺 南構遺跡 神功開寶


 鹿や昆虫が描かれた銅鐸 桜ケ丘1号銅鐸 神戸市灘区桜ヶ丘

鹿や昆虫が描かれた銅鐸
桜ヶ丘1号墳

鹿や昆虫が描かれた銅鐸
桜ヶ丘5号墳


 43埴輪
    動物は豊作や雨乞い、厄除けなど、様々な祭り、まじないの場に登場する。(生贄のことか)
    縄文人にはなかった、特定の動物に対する祈りは、弥生時代以降、豊作を祈り、収穫に感謝するとき、多くの動物が登場する。
    特に馬は、神の乗り物とされた。

祈りの場に登場する動物 上賀茂神社の神馬
牛は単に使役動物だった
牛の埴輪
朝来市桑市 船宮古墳
左は牛の顔でなく、鼻の先でした。(笑)

鹿と木が描かれた円筒埴輪
鹿の後ろに木が 馬の埴輪 蔵の部分
森向山1号墳 
朝来市山東町森
馬の埴輪住吉東古墳
 神戸市東灘区
鹿の埴輪 島根県
犬と猪の土製品
 蛭子山1号墳 与謝野町
水鳥の埴輪
犬と猪の土製品
蛭子山1号墳 与謝野町

水鳥の埴輪
水鳥の埴輪
朝来市和田山町

動物埴輪の世界
並べられた馬・水鳥の埴輪

鶏の埴輪・鶏形土製品
鶏をかたどった土製品
鶏は弥生時代に豚と共に渡来した引用Wikiニワトリ


  45副葬品
角杯は北方遊牧民のもので、北方由来の弥生人がいたのかもしれない 鶴が描かれた柄鏡
鼈甲製髪飾り ってこれ江戸時代のものが混入
角杯形須恵器※1
大耳尾1号墳
馬具 馬具 三町田古墳
朝来市山東町
皮袋形の須恵器※2
八幡山6号墳
香美町村岡区福岡
鹿の飾りのついた須恵器
玉峠4号墳
与謝野町明石
鹿の飾りのついた須恵器
大耳尾1号墳
京丹後市峰山町
琴板に描かれた魚・鹿
袴狭遺跡出石町袴狭
琴板に描かれた羊
鳥取県青谷上寺地遺跡
装飾付器台付子持壺 猿をかたどった
      新羅土器
猿をかたどった新羅土器

 ※1角杯形須恵器は北方騎馬民族のものであり、高句麗と関係があるのでしょうか。
 ※2皮袋形須恵器の精巧さは他に類を見ない。

   出土物から推測すると、当地には、新羅系弥生人、新羅人が棲みついたようだ





 50古代





  51古墳から寺院へ
飛鳥時代には、仏教の普及とともに中央集権的な国づくりが進められました。大規模な古墳は小さく簡素なものとなり、代わりに寺院が作られるようになりました。
豊岡市内では赤坂1号墳(但東町畑)を最後に大きな古墳を築くことはなくなり、三宅廃寺(豊岡市三宅)などの寺院が築かれます。
古墳によって権威を示していた時代から、国府や国分寺が置かれる時代へと社会は大きく変わっていくのです。


薄葬礼により古墳から寺院建設へ

赤坂1号墳の横穴式石室
7世紀後半に造られた最後の首長墓

豊岡最古の古代寺院
三宅廃寺 7世紀後半創建

三宅瓦窯跡
三宅廃寺の瓦を焼いた窯跡

台付盤・子持ち台付壺
短頸壺・はそう
杯・高杯・平瓶

鴟尾・軒丸瓦・軒平瓦


 末法の世と経塚
平安時代中頃、貴族の政治が乱れるにつれ、武士が力を持ち始めました。
変化する社会に不安を抱く人々の間では、末法思想(仏の教えが衰えて世が乱れるという考え)が流行します。

そこで、弥勒菩薩が人間界に降り立つという56億7千万年後まで経典を残すため、経典を塚に埋めるようになりました。これが経塚です。

豊岡市内では、多田地経塚(伊豆七曜多田地)や香住門谷遺跡(豊岡市香住)など各地で経塚が出土しています。

末法の世と経塚 田多地2号経塚
経筒と土師器
田多地経塚出土遺物

 末法思想
  世界が仏法の無い、つまり、無秩序な世界になると信じた人々が、後世に仏教を残そうと、経筒に写経を入れ、山頂などに隠した。



  52但馬国誕生

但馬国は山陰道に属し、大・上・中・下に分けられ当時の格付けでは、上国(じょうこく)として扱われていました。しかし、但馬は山地・高原が多く、稲作ができる豊かな平地は限られていたため、実際は中国(ちゅうこく)の扱いだったようです。

それぞれの国には、現在の県庁にあたる国府という役所が置かれ、都から国司と呼ばれる貴族を派遣して支配していました。

 国府
地方を統治するために国ごとに国府と呼ばれる役所が置かれました。

但馬国府には、都から守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)と呼ばれる4人の国司が派遣され、史生(ししょう)と呼ばれる下級書記官も3人程度派遣されたと思われます。

更に、国師の仕事を支える400〜500人程の役人が交代で勤務していたと考えられます。国府の中心には国衙(国庁)と呼ばれる行政事務を行う施設がありました。

7世紀に丹波国から8郡を分割してつくられた。
分割して国力を小さくし中央が支配しやすくした
但馬国誕生 空から見た国府平野 国府には都から守・介・掾・目の4人の国司と書記官の史生3人が派遣。4〜500人の役人が国衙で行政事務を行った。 木印の出土
木製皿
平安京出土物
須恵器壺
土師器皿・緑釉陶器皿・灰釉陶器椀
深田遺跡
国府推定地
国府跡の遺跡
木簡・檜扇
帯金具
木簡の削りくず・円面硯 国府建物のあった場所
度々移動した
陶硯 墨書土器
祢布ケ森遺跡の
文字資料
出土木簡 木簡資料を読む 木簡出土状況 出土木簡 まじないの道具馬形 舟形 人形 
都でのまじない道具
6枚重なって見つかった初期SMAPの人形
斎串
人面墨書土器は魔除け祭祀に用いられた 土馬


 各地で造られた土器
役所の基準の一つとして、中国で造られた青磁や白磁の輸入陶磁器、釉薬をかけた三彩や緑釉、灰釉陶器などの高級な食器類の出土があげられます。
祢布ケ森遺跡(にょうがもり)からは気用途や美濃、猿投などの各地で作られた緑釉陶器や灰釉陶器が出土しています。また、緑釉陶器には底に「下野」と箆で刻んだ後、釉薬をかけて焼いたものも見つかっています。

各地で作られた土器役所跡からは中国輸入土器の青磁・白磁・三彩・緑釉・灰釉陶器出土 祢布ケ森からは京都・美濃・猿投などの陶器出土 但馬へ運ばれた土器の生産地 下野とは何。作者の銘?
緑釉と灰釉-うわぐすり


  54役所

 遺物から見た祢ケ森遺跡
祢ケ森遺跡からは陶磁器類のほかに、金属製や石製、木製の遺物も出土しています。

金属製品では銅銭、青銅製の鏃、青銅製の鈴、石製品では役人の帯につける石帯、
木製品では木簡のほか、漆塗りの壺、呪術に使用した人形などの木製祭祀具も出土しています。

これまで見てきた事象は、一つだけでは役所の跡と判断することはできませんが、いろいろな治用県が整うほど役所跡の可能性は高くなります。

役所の井戸 廃棄で板で蓋をした井戸 井戸からアワビと木製品アワビ殻は燈明/井戸の傍で作業中に落としたようだ 井戸の底に敷かれた
礫と板
井戸の出土品
土師器・土垂と突き刺された棒ってなに?
土師器は祭礼
土垂に棒は水量を計ったか
土師器・墨書土器 下駄とか、
こんなもんを井戸に投げ込むて、年に一度井戸さらいをするから、廃棄されてからの物やね
遺物から見た遺跡 古代の役人の親子 国府の製織工房
織物作りの道具 糸巻等
国府の漆工房漆器蓋・漆付き杯・漆ヘラ
漆パレット

  国府では、役人用(特権階級用)織物から、漆製品まで作っていたのか。ただの役所だけでなく、朝鮮人職工達の独壇場だったんですね。


  55国分寺
全国の国分寺国分尼寺各寺の瓦文 其々のデザインは誰が考えたんでしょ 各寺独自の文様なんて 贅沢過ぎる 国分寺建立の詔と但馬国分寺 但馬国分寺復元模型
金堂復元図 風鐸 但馬国分寺出土物 朝鮮半島から、あらゆる職種の、沢山の職人が渡来して、
 あらゆることについての膨大な需要をまかなったんですね。
 これによって、国内の文化や、技能・技術・産業が一気に花開き、加速した。
 ようだ


 60小さな特別展 -人と共に暮らしてきた動物たち-
骨製ヤス、鹿の骨製釣針
貝塚出土の動物骨
イイダコ壺、骨製ヤス、鹿の骨製釣針 いろいろな動物の骨
馬の祭祀具 深田遺跡の絵馬
馬形土製品
馬形木製品 猿をかたどった新羅土器


すみません重複しました
猿をかたどった新羅土器

すみません重複しました
琴板に描かれた動物
袴狭遺跡スズキor鮭
鹿とシュモクザメ

人と動物の繋がり

鹿

展示された遺跡
 但馬は新羅人の入植地でした。

 丹後古代の里資料館
でも明らかなように、
伽耶、新羅などが全国にモザイク状に支配地を持っていたようです。