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目次
01外観
02入口展示
地学
03津軽平野の形成
04津軽平野
05津軽半島
6津軽平野の変遷
07地質と降水量と水害
10展示室
20年表
40北奥の歴史特性
100原始
101土器と石器
112石器の製作
120土器の発明と社会
130縄文土器
150原始の生業
151動物の利用
152原始の食料
153土器片錘
154生業と食料資源 |
160原始の津軽
162竪穴住居の広がり
170自然環境とムラ
171津軽平野の古地理変遷と
各時代の主な遺跡
173原始の自然環境
174装いと呪具
175土面・装身具
176祈りのかたち
縄文晩期の東アジアの文化圏
180縄文時代の流通
182土製品・石偶・骨角器
189遠くからもたらされた物
190文化の交流
192縄文前期の土器と動物
194弥生時代の文化交流
土器編年
195縄文時代の物の移動・人の移動
196時代の円筒土器文化圏の推移
200古代
211須恵器の生産
212五所川原須恵器窯
300古代
311中里城(高地性集落)
壕で囲まれた集落(防御性集落)
研究 中里城遺跡
320五所川原須恵器窯跡の分布 |
330製鉄と鍛冶
研究 青森県西部の鉄生産
331製鉄と鍛冶
332製鉄の技術
333鉄製農具
340稲作と漁業
341稲作の広がり
343津軽地域の土錘の分布
350古代の暮らしと社会
351律令制の浸透
353津軽地域の主な古代遺跡
360古代の暮らし
中里城遺跡出土遺物
365平安時代 土器
370古代の祭祀と文化
372信仰と祭祀
374刻書土器と墨書土器
380半島をめぐる交流
381海峡をめぐる交易と流通
385古代の流通
386擦文土器 |
400中世
410津軽の中世城館
420中世の生産活動
421中世の経済
440動乱の中の暮らし
441中世の食器
450安藤氏と十三湊
461津軽の中世豪族
462北の仏教文化
465交易
466日本海交易と下之切道
三津七湊
※元寇と津軽
※元寇と津軽
501新田開発と用水の確保
飢饉と水害
502飢饉の食事
504庶民のくらし
近世の諸産業
540岩木川水運と仲通り
感想 十三湊と岩木川の水運
550近現代 民具
560村と新田開発 |
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01外観
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02入口展示
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地 学
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03津軽平野の形成
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04津軽平野
➀青森県地形図 |
青森県は、広大な平野と、火山地形、隆起山地でできている。
東西圧力によって急速に隆起を始めた大地に、追いかけるように沢山の火山が噴火を始め、特有の地形・景観を形成している。6000万年前以降に隆起した地形であり、複雑な成因を持っている。 |
引用岩木山の可視マップ
カシミールを使った |
県央を南北に走る奥羽山脈の東側が南部地方で風化火山灰の粘質土壌(ローム層)が形成する台地が多く、
西側の津軽地方は沖積低地といわれる、河川堆積物によって形成された土地である。 |
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05津軽半島
③津軽半島
引用岩木川の支流一覧 |
津軽低地の詳細を見ると、上の地図➀②では見えない河川が半島先端付近まで流れていることが分かる。普通、岩木山北側付近から日本海に注ぐのだが、
岩木山から北に延びる屏風山といわれる低い隆起地形によってはばまれ、半島先端付近まで流れている。従って、
津軽半島東端は、中山山地、津軽山地(梵珠山地、平舘山地)、 西端は屏風山に遮られ、西風による砂丘によって多くの潟湖が作られている。その真ん中を岩木川が流れている。つまり、
津軽平野は岩木川によって埋め立てられた沖積平野である。
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④岩木川流域地形図
引用岩木川水系河川整備計画 |
岩木川の流域面積は広大で、しかも高い山々をその範囲の中に含み、以前見た天竜川が中央アルプス・南アルプスからの流れを集めるように、
白神山地・大鰐山地・十和田火山・八甲田連峰・岩木山に源を発し、津軽山地から流れる河川水も集めて流れる暴れ川である。そして、その先に十三湖がある。
→右写真⑤「東北の河川」をみると、岩木川が1級河川である理由が分かる。 |
⑤東北の河川
引用
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06津軽平野の変遷 (年代は様々な説があり、目安である。)
前期
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草創期
16,000-10,000
縄文海進以前の
古津軽平野 |
早期
10,000-6,000
数千年の時間をかけて海が侵入し、 |
前期
6,000-5,000
縄文海進により、
古十三湖(内湾=津軽湾)が形成された |
中期
5,000-4,000
海退と暖流の日本海への流入によって降水量が劇的に増加し、河川による埋設が活発化した。 |
後期
4,000-3,000
激しく堆積が進む |
晩期
3,000-2,300
後期から始まった海退もあり、津軽低地が広がった。 |
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07地質と降水量と水害
②河川整備計画の
対象区間
引用岩木川水系河川整備計画 |
③岩木川流域地質図
引用岩木川水系河川整備計画 |
十和田火山・八甲田連峰地域では、
崩壊しやすい火山灰や火砕流堆積物、シラス質土壌で構成されている。
白神山地地域は海底火山の噴出物が堆積してできた、緑色凝灰岩(グリータフ)が多く、
粘土化しているため、地滑りが発生しやすい。
津軽低地地域は、岩木川中下流地域では軟弱な泥炭層が広がっている。
十和田(20万年前~)・八甲田(100万年前~)、大鰐山地地域は、火山性岩質で、もっと古いカルデラの上にできた新しいカルデラ火山である。下にそれを引用する。 |
④古カルデラ分布図 |
350万年前、八甲田・十和田地域には5つのカルデラが形成され活動していた。引用八甲田-十和田火山群
280万年前、古津軽湾(津軽内陸水路)の南や南東には大きなカルデラをもつ火山があり、活発に噴火を繰り返していた。
時折起きた大噴火の時には大規模火砕流が発生し、火山灰や軽石を大量に含んだ熱い熱雲は山麓を流れ下り、さらに隣接した海中にまで広く拡散して堆積した。
この時期のカルデラは、現在の津軽平野よりやや広い範囲を覆うように広がっていた海域の南の方に三つもあり、
それぞれに碇ヶ関(いかりがせき)カルデラ、沖浦(おきうら)カルデラ、湯ノ沢(ゆのさわ)カルデラと名前がつけられている。
これらの火山の外輪山の位置を復元してみると、その規模はいずれも十和田湖を形づくっている十和田カルデラと同じくらいか、
それより大きいものであったことがわかる。 引用「新編弘前市史 通史編1(自然・原始) - ADEAC(アデアック ...」 |
※カルデラ噴火とは |
小学校で「阿蘇カルデラは巨大な火山があって、それが風化して滑り落ち、山麓だけが外輪山として残った」とは間違いで
最初から外輪山の大きさの超巨大な噴火口が地面から現れ噴火した。
従って、④図のカルデラはあの大きさの噴火口が口を開いたのです。しかも何度も。恐ろしいことですね。
ただ、立山カルデラは山体崩壊して周囲だけが残っていますが、阿蘇カルデラとは及びもつかない小ささです。 |
岩木川流域の岩質特性
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100万年前 |
東北地方は南東北を中心に隆起を始め、青森県地方が海上に出現したのは随分新しい。
東北地方は隆起前から激しい海底火山活動が続き、広大な緑色凝灰岩地帯が分布している。
また、カルデラ火山が非常に多いのも東北・北海道の特徴であり、いたるところにある。
カルデラ噴火とは、直径何十kmにも及ぶ噴火口ができ、一挙に大量の火山噴出物を放出する。
このようなカルデラの後にまたカルデラ噴火を起こしながら、海底堆積物の凝灰岩は激しく風化しながら隆起し、百万年単位で風化、噴火堆積、土砂流出を繰り返しながら津軽山地と屏風山の間の広大な海底に堆積していった。
これは、フォッサマグナを関東山地からの土砂で埋め立てて関東平野を形成したのと同じである。 |
岩木川の氾濫
岩木川流域の降水量
年平均
引用岩木川水系河川整備計画 |
降雨・降雪は当然山岳地帯に多く、岩木川の集め下る水量は膨大なものである。
先史・古代から近現代にいたるまで洪水の歴史が積み重ねられている。 |
昭和10年8月洪水の
浸水域
引用岩木川水系河川整備計画 |
引用岩木川水系河川整備計画 |
地球温暖化によって各地で起こる大洪水に備えるのならば、
岩木川では、日本海方向への放水路の建設が急務であるといえる。 |
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10展示室
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20年表
この年表は、展示室の壁、最上段に室内を一周するように張り付けられていたものです。その様子は100から写真上部に見えます。
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21旧石器・縄文時代
旧石器時代
10万年前
ナウマン象・アオモリ象・オオツノジカ・ヒグマ・ニホンジカ・原牛など化石骨出土
七戸町・小川原湖岸・東通村の石灰岩地帯から
7万年前
氷河期襲来
津軽海峡の水位低下
三本の陸橋ができる
3万年前頃
新人(ホモ・サピエンス)出現
ナイフ形石器文化
(太平山元Ⅲ)
1万4千年前
細石器文化
(太平山元Ⅱ・Ⅲ) |
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縄文草創期
1万3千年前
氷河期終・津軽海峡形成
土器弓矢の使用。
無文土器・隆起線文土器
文化広がる。(大平山本Ⅰ、
六ケ所村表舘Ⅰ遺跡)
気候温暖化・縄文海進
太平洋岸に貝塚形成
押型文・貝殻沈線文土器
文化広まり、
竪穴住居・釣針等が普及
三沢市早稲田貝塚
八戸市長七谷地貝塚
9千-8千年前オリエント
農耕牧畜開始イラクシャルモ遺跡
7千-5千年前オリエント
原始農耕文化成立・青銅器出現
6千年前クレタ文明 |
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縄文前期
6千年前
縄文海進頂点に達し
古十三湖沿岸に集落・貝塚ができる。
東北北部中心に円筒下層式土器文化広まる
(中里町・深郷田遺跡
木造町・田小屋野貝塚)
5千年前
エーゲ海文明興る
5千年前
黄河流域に新石器文明
4500年前
インダス文明成立 |
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縄文中期・後期
5千年前
大規模な村と貝塚出現。
円筒土器文化から
東北南部の
大木系土器文化に移行。
(森田村・石神遺跡、
青森市・三内丸山遺跡)
4千年前
アムル人バビロン王国建国
エジプト、ピラミッド
ギリシャ人南下開始
縄文晩期 4千年前
十腰内式土器文化出現
環状列石・配石遺構・石棺・甕棺墓がつくられる
(金木町・神明遺跡、
青森市・小牧野遺跡)
3500-3100殷王朝最盛期
3500年頃アーリア人インド侵入
3200年前頃ミケーネ文明滅亡 |
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縄文晩期
3千年前
亀ヶ岡式土器文化開花
遮光器土偶などの呪具が盛んに製作される。
(西津軽郡木造町・亀ヶ岡、市浦町・五月女萢遺跡)
北海道~奈良方面まで文化圏を拡大
3千年前中国文字使用開始
2750年前ギリシャ都市国家成立
BC770春秋時代~403
BC508ローマ共和制成立
BC492-448ペルシャ戦争
BC403中国戦国時代突入
BC431-403ギリシャペロポネソス戦争
BC334-324アレクサンドロス大王東方遠征 |
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前期
中里町深郷田遺跡出土資料を標識とする深郷田式土器や、
市浦村オセドウ・笹畑遺跡出土資料によって設定された円筒下層式土器など、
平らな口縁を有する円筒型の深鉢土器が発達する。
撚糸文や縄文によって器面が飾られる。 |
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中期
市浦村オセドウ遺跡出土資料を標識とする円筒上層式土器に見られるように、
前期に引き続き円筒型の深鉢土器が発達する。
後葉には、東北南部の土器文化の影響を受けて成立した大木系土器が広まる。
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後期
弘前市十腰内遺跡出土資料を標識とする十腰内式土器に代表されるように、線状の沈線文様や、縄文を施した後に
一部を磨り消して無文とする磨消縄文で飾る土器群が広まる。
壺形や鉢形の様に深鉢以外の土器も多く作られた。
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晩期
木造町亀ヶ岡遺跡出土資料を標識とする亀ヶ岡(大洞)式土器が発達する。
丁寧に作られた精製土器とそれ以外の粗製土器があると共に、
注口土器や小型土器をはじめとする多様な形の土器が出現する。 |
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23弥生時代
2300年前
岩木山東麓で稲作開始
砂沢式土器文化
(弘前市・砂沢遺跡、
小泊村・縄文沼遺跡)
津軽平野で大規模水田
田舎館式土器
恵山式土器(続縄文)文化
(田舎館村垂柳遺跡、
三厩村・宇鉄遺跡)
BC221秦の始皇帝中国統一
BC108朝鮮に楽浪郡を置く |
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BC108朝鮮に楽浪郡を置く
BC60ローマ三頭政治
BC46カエサルの独裁政治確立 |
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BC4キリスト誕生
AD25光武帝後漢建国
AD27ローマ元首制成立
AD57倭国王後漢に朝貢し、光武帝より印綬を受ける |
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107倭国王、後漢・安帝に入貢
114ローマ、メソポタミア遠征
180倭国大乱
184漢、黄巾の乱
205この頃帯方郡なる
220後漢滅亡三国時代始まる
226ササン朝ペルシア興る
239邪馬台国女王卑弥呼、魏の明帝に遣使 |
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266倭の女王壱与(台与)西晋に入貢
280西晋、中国統一~316
284ローマ専制君主制選定 |
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25古代
大和時代300~
大和朝廷の統一
313高句麗、楽浪2郡を滅ぼす
317西晋滅び東晋興る~420
325ニケーア宗教会議
ローマ帝国キリスト教を公認
346西済の統一なる
356新羅の統一なる
369倭軍、新羅を破り南朝鮮を支配
372高句麗に仏教伝来
375ゲルマン民族の大移動
384百済に仏教伝来 |
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391倭軍、朝鮮半島で軍事行動
395ローマ帝国分裂
404倭の軍、高句麗と戦う
413倭王、東晋に朝貢
421宋の武帝、倭国讃に称号を授く
438倭王珍、宋に遣使、
安東将軍となる
443倭王済、宋に遣使 |
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460倭王済、宋に遣使
462倭王済の世子、興安東大将軍
476西ローマ帝国滅亡
478武王、宋に遣使上表、
安東大将軍の称号を受く
479斉の高帝、
武を鎮東大将軍となす
502梁の武帝、
倭王武を征東将軍となす
512大伴金村任那4県を百済に割譲 |
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562大和政権伽耶(任那)の拠点を失う
570高句麗初めて日本に遣使
587蘇我氏、物部氏を滅ぼす
589隋、中国を統一
592蘇我氏崇峻天皇殺害
592推古天皇即位
593聖徳太子が摂政 |
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26飛鳥時代
600~
603冠位十二階制定
604十七条の憲法制定
607小野妹子を遣隋使として中国に送る
607法隆寺創建
610ムハンマド、イスラム教創始
614犬上御田鍬を隋に派遣
618隋滅亡、当、唐興る
622聖徳太子没する
622イスラム教元年 |
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626蘇我馬子死し、その子蝦夷、大臣となる
626唐、太宗即位
626唐、貞観の治~649
629唐僧、玄奘三蔵、インドに渡る
630犬上御田鍬を隋に派遣(遣唐使の初め)
637唐の太宗、律令を制定
642ササン朝ペルシャ滅亡226-642
643蘇我入鹿、山背の大兄王を攻め、王一族自殺 |
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645大化の改新
中大兄皇子・中臣鎌足ら、蘇我入鹿を殺す
646改新の詔
647淳足柵・648磐舟柵設置
655津軽の蝦夷6人、〇彼に招かれ叙勲を受く
653阿倍比羅夫、蝦夷を討つ
阿倍比羅夫郡領を後方羊蹄に置いて帰る
660阿倍比羅夫粛慎を伐つ
660百済、唐・新羅郡に敗れ救援を求む
661イスラムウマイヤ朝成立
663白村江の戦、日本軍等の水軍に敗れる
667近江大津宮に遷都
668中大兄皇子(天智天皇)即位
668高句麗滅亡
670戸籍を作る(庚午年籍)
672壬申の乱
676新羅、唐の勢力を駆逐して朝鮮半島統一
687八色の姓制定
689浄御原令22巻を分かつ
690唐の則天武后、国権を握る
694藤原京に遷都 698-926渤海建国
700刑部親王・藤原不比等ら、律令の編纂に着手
701大宝律令制定
708和同開珎を鋳造 |
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27奈良時代710~
710平城京遷都
711西ゴート王国滅亡
712「古事記」なる
720渡島津軽の侓司等6人を靺鞨国に派遣
720「日本書紀」なる
724陸奥コンクに多賀城設置
726東ローマ帝国聖像崇拝禁止令
741国分寺・国分尼寺建立の詔
743墾田永年私財法できる
743出羽柵を秋田に移す |
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751フランク王国成立~987
751タラス河畔の戦い、唐イスラムアッバース朝に大敗
567イスラム帝国・後期ウマイヤ朝成立~1031
780唐、両税法施行(春秋から徴収)
780伊治呰麻呂の乱
794平安京遷都
796十腰内村に下居宮(岩木山神社)を鎮座 |
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28平安時代794~
794平安京遷都
796十腰内村に下居宮(岩木山神社)を鎮座
800カール載冠西ローマ帝国復興
802坂上田村麻呂胆沢城築城
803坂上田村麻呂志波城築城
811文室錦麻呂岩手県北部の蝦夷を平定
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843ベルダン条約
858藤原義房摂政となる
875~884唐、黄巣の乱
878出羽国で蝦夷の反乱
(元慶の乱)
894遣唐使廃止
907朱全忠、後梁建国-923
911ノルマンディー公国建設
918王建、高麗建国-1392
935新羅滅亡
939藤原純友の乱
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960趙匡胤、宋建国-1279
962神聖ローマ帝国成立
979宋、中国統一
1016藤原道長摂政となる
1038セルジュークトルコ建国
~1157
1051前九年の役-1062
安倍貞任の子高星丸、藤崎に逃れ、津軽安倍氏の祖となる
1053平等院鳳凰堂建立
1054東西教会分離
1077カノッサの屈辱
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1051前九年の役-1062
安倍貞任の子高星丸、藤崎に逃れ、津軽安倍氏の祖となる
1053平等院鳳凰堂建立
1054東西教会分離
1077カノッサの屈辱
1083後三年の役-1087
1091安倍氏下居宮(岩木山神社)を十腰内村より、百沢に遷す
1094藤原清衡白川より外ヶ浜まで卒塔婆を造立したという
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1096第1階十字軍-1099
1126藤原氏(清衡)の支配
津軽にも及ぶ
1127高宋、南宋建国-1279
1147第2回十字軍-1149
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40北奥の歴史特性
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北奥の歴史を通観したとき、三つの地域圏が浮かび上がることに気づかされます。
縄文晩期以降、明確化するこれらの地域圏は、「海峡世界」特有の自然・人文環境に基づいた生業や交流の差異から拡大・定着し、
古代・中世を経て近世まで貫徹する歴史的枠組みと捉えます。 |
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41
北奥の歴史特性
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縄文後期後葉
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縄文晩期後葉
大洞A式期の北部
(三半島+渡島半島)
聖山式土器文化圏。
北海道アイヌ系文化圏
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弥生時代
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古代
青森県沿岸部や大河流域には北海道アイヌが沢山南下して集落を形成していた。
擦文土器文化圏
また、深く山岳地帯に入り、狩猟生活を行うようにもなった。
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中世
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近世
寒冷期に南下したアイヌだが、本州タイプと道南タイプに分化してしまい、本州最北端に追いつめられる。
道南アイヌ
本州アイヌ |
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下北・津軽半島部では、北奥在地の「貼瘤文系土器群」よりも、北海道的様相が色濃い「突瘤文・刺突文系土器群」が主体を占めている。 |
大洞A式期の土器文化圏については、縄文の施文手法や方向などによって、東南部・北部・西部の三地域に分類される。 |
弥生前期後葉の砂沢式より中期中葉の田舎館式に至るまで、
津軽・下北両半島、
津軽平野周辺、
南部地方
という三つの土器文化圏が鼎立する。 |
擦文土器の特徴から
・太平洋ルートを通じて道央・道北部と連携する陸奥湾周辺域
・日本海ルートを通じて道南・道西部と結びつく岩木川・米代川流域
・北海道との交流の痕跡が目立たない県内地域に分けられる。 |
下北では、陶磁器と共に、海獣猟やアワビの採取・加工跡が検出されており、生業形態や銛頭の特徴などから、本州アイヌが残したものと考えられている。 |
下北・津軽・夏泊半島には「狄村」「狄住宅」あるいは「狄屋敷」と記録された「近世本州アイヌ」居住地が広がる。 |
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100原始
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101土器と石器
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110石器 |
111土器と石器
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動物の伸長と
石器の変化 |
狩猟文土器 |
動物の伸長と
石器の変化
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旧石器人と共に、
大型獣、大型肉食獣や、大型草食獣は絶滅し、
縄文一万年間に残されたのは、
せいぜい中型動物の、ニホンジカとイノシシで、
あとは、小型の毛皮採り用動物程度でした。
よくまあ、こんな貧弱な食料資源で1万年も
乗り切ることが出来たものだと思います。 |
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112石器の製作
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ヒトとその他の動物を区分する特徴の一つが、石器の製作です。
石器の製作技術は、ヒトの誕生とともに生まれ、その後数百万年間に渡る原始社会を通じて緩やかな発展を続けてきました。
ところが、旧石器時代から縄文時代にかけて、狩りの道具の急激な変遷と、植物を加工する道具の増加が見られます。
これらは狩の対象となる動物の変化と、木の実など植物質食料の増大という自然環境の変化に対応したものと考えられています。 |
石器の進化
石器の進化 |
敲打器(楕円形石器)
↓石の表面に打撃を加え刃を付け、叩いたり割ったり裂いたりするために使用した。
石刃(ナイフ形石器)
↓打撃を加えて剥離した石片をナイフに使用。
尖頭器(ポイント) 石を打ち欠いて槍先形に加工した石器。
↓槍先形尖頭器は、主に柄先に取り付けて、投げ槍として用いた。狩猟具としては飛躍的進歩を示している。
細石器(細石刃)
旧石器時代末期に盛行。植刃器。 |
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敲打器(楕円形石器)
石の表面に打撃を加え刃を付け、叩いたり割ったり裂いたりするために使用した。 |
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石刃(ナイフ形石器)
打撃を加え手剥離した石片をナイフに使用。 |
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尖頭器(ポイント) 石を打ち欠いて槍先形に加工した石器。
槍先形尖頭器は、主に柄先に取り付けて、投げ槍として用いた。狩猟具としては飛躍的進歩を示している。 |
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槍先形尖頭器は、おもに柄先に取り付けられて投げ槍として用いられた。狩猟具としては飛躍的進歩を示している。 |
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細石器(細石刃)
旧石器時代末期に盛行。植刃器。 |
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細石器は、木・骨・角などに刻んだ溝に並べてはめ込む、いわゆる組み合わせの道具として使用した。 |
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114旧石器 石槍
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彫器 旧石器時代
蟹田町大平山元Ⅱ遺跡
木や骨などを削ったり彫ったりする石器 |
細石刃核 旧石器時代
蟹田町大平山元Ⅲ遺跡
細石刃を剥ぎ取った原石 |
ナイフ形石器
旧石器時代
蟹田町大平山元Ⅱ遺跡加工具又は槍先として用いられる石器 |
槍先形尖頭器
旧石器時代
蟹田町大平山元Ⅱ遺跡槍先として用いられる石器 |
有舌尖頭器
縄文草創期
小泊横泊海底
横泊海底の123mより引き上げられた槍先形の石器。投槍等の先端に装着して、狩猟に用いられたと考えられる。 |
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113縄文 石斧
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乳房型磨製石斧
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磨製石斧
樹木の伐採や加工に用いる石器 |
凹石・玉砥石 |
左:凹石
木の実の破砕などに用いる石器
右:玉砥石
中里町深郷田遺跡
石製の玉類の研磨に用いる砥石 |
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115縄文 石鏃
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鋸歯状(異形)石器 縄文時代
切断や削りに用いた |
石槍(尖頭器) 縄文時代
中里町深郷田遺跡ほか
槍先として用いられる石器 |
石匙 縄文時代
中里町深郷田遺跡
動物の皮の剥ぎ取りや切断に用いられる石器 |
石鏃 縄文時代
中里町深郷田遺跡
矢の先端に装着して用いられる石製の鏃 |
箆状石器 縄文時代
中里町五林遺跡
動物の皮をなめしたり、切断に用いられる石器 |
石錐 中里町深郷田遺跡
穴を開けるために用いられる石器 |
石鏃
矢の先端に装着して用いられる石製の矢尻 |
※箆状石器へらじょうせっきは、 東北地方に特有の石器です。
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箆状石器は、東北地方に特有の石器です。形態から命名された石器器種であり,その機能は,土掘り具,あるいは皮加工道具として従来考えられてきた。近年箆状石器の使用痕分析が蓄積され,その機能の一つに皮加工の道具として認識されるようになった。箆状石器の出土する遺跡では掻器が共伴しており,掻器にもやはり皮加工を示す使用痕が確認されている。
,箆状石器と掻器は,同じ皮加工道具でありながら操作方法において異なっていることが明らかになった。掻器は刃部を立てたスクレイピソグの操作方法であるのに対して,箆状石器は刃部を寝かして削りとるホイットリングの操作方法である。
箆状石器が縄文時代早期に出現することから,縄文文化の初期段階に,皮加工の道具が少なくとも2種類存在し,皮加工の目的に応じて使い分けていた可能性が非常に高いと考えられる。
引用箆状石器の機能について 箆状石器 |
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120土器の発明と社会(食料加工技術の革新)
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旧石器時代から縄文時代にかけての、もう一つの大きな技術革新が土器の発明です。土器で煮ることによって保存や殺菌効果が高まり、
食べられるものの種類も増えました。乳幼児・老人・病人向けの食事が可能になり、病気の予防や寿命の延長をもたらしました。
また、ドングリ類のアク(渋み)を抜いたり、干し貝を大量に作ることができるようになり、温暖化に伴って発達した植物採集・漁撈活動を支える
道具として、原始社会に大きな役割を果たしました。 |
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122
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124深郷田式土器 前期
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125十腰内式土器 後期
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non caption |
non caption |
十腰内Ⅱ式 台付鉢
縄文後期 大沢内遺跡 |
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十腰内Ⅱ式 台付鉢
縄文後期 大沢内遺跡
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十腰内式小型土器
縄文後期 深郷田遺跡
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十腰内式小型土器
縄文後期 深郷田遺跡
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土器づくりの技術 |
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130縄文土器
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131前期
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中里町深郷田遺跡出土資料を標識とする深郷田式土器や、市浦町オセドウ貝塚・笹畑遺跡出土資料によって設定された円筒下層式土器など、
平らな口縁を有する円筒型の深鉢形土器が発達する。撚糸文や縄文によって器面が飾られる。 |
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深郷田式土器 深鉢
中里町深郷田遺跡
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深郷田式土器 深鉢
中里町深郷田遺跡 |
円筒下層式土器 深鉢
中里町深郷田遺跡
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円筒下層式土器 深鉢
中里町深郷田遺跡
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円筒下層式土器 浅鉢
中里町深郷田遺跡
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円筒下層式土器 深鉢
中里町深郷田遺跡
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深郷田式土器 深鉢
中里町深郷田遺跡 |
深郷田式土器 深鉢
中里町深郷田遺跡 |
深郷田式土器 深鉢
中里町深郷田遺跡 |
円筒下層式土器 深鉢
中里町深郷田遺跡
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円筒下層式土器 深鉢
中里町深郷田遺跡
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円筒下層式土器 深鉢
中里町深郷田遺跡
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前期
上に記述 |
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132中期
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市浦村オセドウ遺跡出土資料を標識とする円筒上層式土器に見られるように、前期に引き続き円筒型の深鉢土器が発達する。
後葉には東北南部の土器文化の影響を受けて成立した大木系土器が広まる。 |
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円筒上層式土器 深鉢
中泊町深郷田遺跡
中期前葉~中葉
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大木系土器 深鉢
中泊町深郷田遺跡
中期後葉
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中期
上に記述 |
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133後期
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弘前市十腰内遺跡出土資料を標識とする十腰内式土器に代表されるように、線状の沈線文様や、縄文を施した後に一部を磨り消して無文とする
磨消縄文で飾る土器群が広まる。壺形や鉢形のように深鉢以外の土器も多く作られた。 |
後期前葉土器 深鉢
中里町深郷田遺跡 |
後期前葉土器 深鉢
中里町大沢内遺跡
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十腰内式土器 壺
中里町深郷田遺跡
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134晩期
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木造町亀ヶ岡遺跡出土資料を標識とする亀ヶ岡(大洞)式土器が発達する。丁寧に作られた精製土器とそれ以外の粗製土器があると共に、
注口土器や小型土器をはじめとする多様な形の土器が出現する。 |
亀ヶ岡(大洞)式土器
中泊町深郷田遺跡 |
亀ヶ岡(大洞)式土器深鉢
中泊町深郷田遺跡
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亀ヶ岡(大洞)式土器深鉢
中泊町深郷田遺跡
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亀ヶ岡(大洞)式土器
注口土器
中泊町深郷田遺跡 |
亀ヶ岡(大洞)式土器
注口土器
中泊町深郷田遺跡 |
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亀ヶ岡(大洞)式土器
注口土器
中泊町深郷田遺跡 |
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亀ヶ岡(大洞)式土器
台付鉢形土器
中泊町深郷田遺跡 |
亀ヶ岡(大洞)式土器
小壺
中泊町深郷田遺跡 |
晩期
上に記述 |
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150原始の生業
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151動物の利用(原料と製品)
原始の生業
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シカの利用
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鹿角→ |
釣針・銛先・アワビ起こし・腰飾り |
毛皮→ |
衣服 |
骨→ |
ペンダント・ヘラ |
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動物相と植物相の変化 |
旧石器時代の
森林植生と動物相 |
気候帯
ツンドラ
森林ツンドラ・亜寒帯林
亜寒帯針葉樹林
冷温帯洛葉広葉樹林
照葉樹林
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動物相
マンモス動物群
マンモス・ヘラジカ
黄土動物群
ナウマンゾウ
オオツノシカ |
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縄文時代の
森林植生と動物相 |
気候帯
亜寒帯針葉樹林
冷温帯洛葉広葉樹林
温暖帯落葉広葉樹林
照葉樹林
亜熱帯林 |
動物相
カモシカ
イノシシ
ツキノワグマ
ニホンシカ |
原始の産業
生業の道具
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旧石器時代は槍が主な狩猟具でしたが、縄文時代に入ると弓矢が中心になり、猟犬や落とし穴も盛んに使われるようになります。
漁撈の発展は、釣針・石錘などの漁具を出現させ、植物質食料の増大は、アク抜き用の土器類や石皿・磨石などの製粉用加工具を発達させました。 |
原始の産業
生業の道具 |
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鹿角製釣針、
石錘
石槍
石鏃
磨製石斧
石皿
石匙
銛頭 |
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152原始の食料
原始の食料 |
原始の食料 前期
中里町深郷田遺跡 |
貝
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骨片 |
動物骨
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ウニ・貝殻
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153土器片錘
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土器片錘 |
土器片錘
縄文前期 坊主沢遺跡 |
土器片を再利用した漁網錘。両端に綱掛用の刻み目を有する。
小泊地区において古くから網漁が活発であったことを示す。 |
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154生業と食料資源
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旧石器時代は、大型動物の狩猟が主な食料獲得の手段(生業)でした。
縄文時代には温暖化が進み、種実の採れる樹木が増え、植物採集が発展しました。また、水温の上昇により魚介類が多く獲れるようになり漁撈が本格化しました。
狩猟は絶滅した大型動物に代わって中・小型動物が対象となりました。
植物採集・漁撈・狩猟が複合した縄文型の生業活動は、温暖な自然環境に適応して多種多様な食料をもたらし、津軽半島に於いては、稲作が導入された弥生時代以降も生業の一角を占めました。 |
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生業と食料資源 |
生業カレンダー |
夏から秋
漁撈:アザラシ・カツオ
マグロ・サケ・マス
植物採集
海辺採集:ハマグリ |
秋から冬
漁撈:サケ・マス
植物採集:ブドウ
ドングリ・クリ・シイ
冬
狩猟:イノシシ・シカ
漁撈・海辺採集:クジラ |
春
植物採集:若草・木の芽
海辺採集:アサリハマグリ
トド |
原始の食事
狩猟・漁労・採集、の三大生業により、安定した食生活が営まれていた。
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野ウサギ茹肉(ゆで)
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堅果類
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ドングリ餅
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鮭・シジミ |
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156
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160原始
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161
|
原始
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原始の十三湖付近
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十三湖周辺の遺跡
縄文前期
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動物遺存体
深郷田遺跡 |
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縄文時代竪穴住居
中里町深郷田遺跡
縄文前期
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162竪穴住居の広がり
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162a竪穴の平面図
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163原始
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今から1万数千年前に始まった気候の温暖化は、海水・地形・地質など地球規模の変動をもたらし、やがて生物にも影響を与えました。
動物の変化は狩猟道具としての石器・骨角器の変化。魚釣り・貝拾いの発達を促し、植生の変化は木の実・山菜などの採集活動を発達させました。
豊富な食料資源と保存技術の向上は、定住生活を可能とし、地域文化を形作るうえで基礎となるムラを長期にわたって存続させました。
このように、自然環境への適応を通して培われた各種の技術革新が社会へ大きな影響を及ぼしましたが、ムラを維持するための強い規制と既存の食料に頼る採集経済の性質は、次第に新技術の創造を衰えさせる一因ともなりました。 |
原始
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竪穴住居の構造 |
竪穴住居の作り方 |
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竪穴住居の作り方
1.地面に竪穴を掘り、土を周囲に盛り上げ盛り土にする。壁面にはつちのくずれを防ぐため小枝や蔓などでしがらみ(柵=しがらみ)をつくる |
2.柱穴に4本の主柱を建てる。 |
3.主柱にけた(桁)を掛け、斜め材を立て掛ける。 |
4.斜め材を盛り土に埋め、両側の先端を組み合わせ、棟木を載せる。 |
5.垂木を結び、横木を垂木に掛け、茅葺の下地を作る。 |
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縄文時代の暮らし
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縄文時代の住まいは、円形や方形に地面を掘り窪めて、屋根をかけた竪穴住居が一般的で、普通一つの住居が一家族とみなされます。
時期によって、平面の形や柱・炉の位置などが異なりますが、寝食の場、作業の場、時には祭の場として、北海道から沖縄までの広範囲にわたって利用されました。
津軽半島では、気候の温暖化がピークに達する縄文時代前期半ば頃(約5500年前)から竪穴住居が多く造られ、豊かな自然環境を背景とした定住生活が本格化します。 |
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170自然環境とムラ
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171津軽平野に於ける古地理の変遷と各時代の主な遺跡
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津軽平野の古地理の変遷と各時代の
主な遺跡
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草創期
草創期:沼沢地
寒冷期の津軽平野は東部の二本の山地と西部の日本海に突き出た30m程の丘陵地に沿って延びた砂州によって囲まれた潟となっていた。 |
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早期
早早期:神山(3)木造町
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前期
前期:オセドウ貝塚
深郷田
芦野(2)
石神
内湾は最大となり、周囲に遺跡が増加する。
温暖化による雨量の増加で岩木川の堆積が活発となる。 |
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後期
後期:深郷田
岩木川による埋設が進み、寒冷化による海退も始まる。 |
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晩期
晩期:五月女萢遺跡
(そとめやち)
岩木川は広大なカルデラ火山地帯を抱え、土砂の流量も水量もハンパなかった |
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現代
現代
暴れ川岩木川の治水が進み、江戸時代から始まった干拓開墾が成功し、現代も十三湖の干拓が行われ、広大な米作地帯が生まれている。 |
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173原始の自然環境
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旧石器時代は氷期に相当し、最も寒い時期には現在よりも気温が最大8~13℃、海面は100m以上低下しました。
最後の氷期が終わると気温・海水面の上昇が始まり、縄文前期(約6千~5千年前)にはピークに達します。
現在よりも気温が約2℃、海面は約5m高く、野山は実の採れる落葉広葉樹林、低地は水産資源に富む湖水に覆われました。
湖水に面した台地は食料資源に恵まれ、多くの人々がムラを作り始め、貝塚が集中します。 |
原始の自然環境 |
原始の自然環境 |
古十三湖付近の
縄文前期の遺跡
牛潟(1)、田小屋野、
石神、芦野(2)、深郷田
オセドウ |
気温の変化と海水準の変化
気温2℃上昇で海面が5m上昇。まもなく我が住居は海の家となる。 |
施文具と文様
参照「楽しく学べる縄文土器文様」 |
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174装いと呪具
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原始社会では、超自然的・神秘的な力をかりて種々の現象を起こそうとする道具(呪具)が発達しました。
呪術は、社会を維持するための規制強化の役割を果たし、埋葬・祭りなどあらゆる側面で作用しました。装身具も、身体を飾る目的とともに呪術的な意味合いが強く、付ける人間と付けない人間の区別がありました。
また、土器など実用の道具についても、本来の用途のほかに、文様などによって精神的な要素を与え、呪術的効果を期待する場合もありました。 |
装いと呪具 |
装いと呪具
上に記述 |
装身具
(遮光器土偶の装具) |
漆塗り竪櫛
石製耳飾り ヒスイ製首飾り |
この女性を縄文的な丸顔にし、初老太りにし、
雪眼鏡をかければ、まさに土偶そっくりとなる。
単なる模様と思っていたものを再現すると、
こうもリアルに似るんですね。 |
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175土面・装身具
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土面 晩期
浪岡町羽黒平遺跡
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玦状耳飾り 中期
青森市三内丸山遺跡 |
耳たぶに穴を開け、耳飾りの切れ目を通して装着した。
この薄い切れ目なら装着は痛いし外せないほど痛かっただろう。
普通はもっと切れ目が大きい。まるで拷問具 |
首飾り 晩期
六ヶ所村
上尾駮(1)遺跡 |
竪櫛 晩期
八戸市是川遺跡 |
赤漆塗り竪櫛 |
赤漆塗り竪櫛 |
上の遮光器土偶の女性の頭に刺さっていた櫛ですね。
北海道でも同じ文様です。広範囲に流通したようだが、製作地は北海道かな。秋田かな。 |
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176祈りのかたち
縄文時代の呪具と装身具
縄文時代の呪具と装身具
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遮光器土偶
亀ヶ岡遺跡 |
岩偶・土偶
観音林遺跡 |
土偶:観音林遺跡
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象嵌土偶
宇鉄遺跡
土偶:観音林遺跡 |
土面 羽黒平遺跡 |
独鈷石・ヒスイ製品
亀ヶ岡遺跡
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ヒスイ製品
石刀・石棒・石刀・石剣 亀ヶ岡遺跡
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糸魚川の翡翠が日本海航路でここまで運ばれてきた。
高価な交換材として。
目的は赤色顔料の入手だったのだろうか。
それ以上の高価な産物はこの地にはなかっただろうから。 |
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大山ふるさと資料館では単に象嵌でした。
ここでは土偶。
とても小さい造形物で
(写真は超拡大)土偶には見えなかったけど。 |
縄文晩期の東アジアの文化圏
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原始のネットワーク
180縄文時代の流通
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石器の原材料となる黒曜石、接着材として利用されるアスファルト、装身具・呪具に使われるヒスイ(硬玉)など原産地が限定される資材については、
陸路や海路により、いくつもの地域・集団を経由しながら遠く離れた地域に流通しました。
特定資材のこのような広がりは、原始社会の経済的な交流範囲や、技術・情報伝達の経路を示し、すでに列島規模のネットワークが形成されていたことを物語ります。 |
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181
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縄文時代の流通
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縄文時代の流通
上に記述 |
縄文時代の主な
物の流れ
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182土製品・石偶・骨角器 15坊主沢遺跡(小泊) 弥生中期/中泊町博物館蔵
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石偶は、黒曜石製の精緻な逸品です。クマ形意匠把手は、鉢形あるいはカップ形の土器に付属していたと考えられます。いずれも青森県内では類例が少ない一方、津軽海峡を挟んだ北海道では多く認められることから、北方文化との交流を物語る資料と考えられます。
閉窩式離頭銛(へいか)は、鹿角製と考えられ、逆刺(かえし)や紐を通す索孔(さくこう)などが認められます。柄の先に装着して、魚類や海獣類の刺突漁に用い、紐を手繰り寄せて獲物を回収します。青森県内では発見例が少なく、縄文時代晩期のものでも数点、弥生時代のものだとすれば、初めての出土例となります。
足形土製品は、土偶の脚部とも考えられます。蓋と共に類似の資料が津軽山地を越えた外ヶ浜町三厩地区に位置する宇鉄遺跡から出土しています。 |
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板状土偶 中期
深郷田遺跡 |
土製品・石偶・骨角器
上に記述 |
足形土製品・石偶
閉窩式離頭銛
蓋・土版・
クマ形意匠把手 |
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183
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足形・石偶・離頭銛
蓋・土版・クマ形把手 |
足形 |
足形土製品 |
足形土製品
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蓋
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蓋
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石偶
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石偶
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土版
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土版
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閉窩式離頭銛
閉窩式、開窩式は
断面が円が閉窩式
断面が半円が開窩式 |
閉窩式離頭銛
先端刺突部が壊れている |
クマ形意匠把手 |
クマ形意匠把手 |
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186
碧玉製管玉 弥生時代
坊主沢遺跡
複数を組み合わせ
首飾り・胸飾りに使用 |
碧玉製管玉首飾りや胸飾りとして用いた。 |
碧玉製管玉 |
土偶頭部 縄文後期
坊主沢遺跡 |
勾玉・玉斧 縄文晩期
大澗遺跡 |
新潟糸魚川産の蛇紋岩製と推定される |
片刃磨製石斧
弥生中期 坊主沢遺跡 |
玉斧 縄文晩期
大澗遺跡 |
石製垂飾
弥生中期 坊主沢遺跡
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象嵌土偶
縄文晩期 宇鉄遺跡
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189遠くからもたらされた物
堂林式土器 深鉢
縄文後期
中泊町深郷田遺跡
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北海道夕張郡長沼幌内堂林遺跡出土資料を標識とする土器。
北海道中央部の石狩低地を中心に分布する |
黒曜石
北海道白滝産 |
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190文化の交流
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旧石器時代は石器の製作技術や石材によっていくつかの文化圏に分かれるものの、全体的には大陸文化との共通性の高い段階です。
一方縄文時代以降は、土器の器形・文様・組み合わせなどによって、複数の小文化圏に分けることができます。
小文化圏は時期ごとに異なりますが、隣り合う圏域どうしは交流によってよく似た展開をします。
これらの相似した小文化が空間的、あるいは時間的に連なった縄文文化は、大陸の農耕・牧畜を中心とした新石器文化とは異なる列島独自の文化です。 |
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191
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192縄文前期の土器と動物
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194弥生時代の文化交流
土器編年
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(弥生時代前期)砂沢式→五所式・二枚橋式→(弥生時代中期)宇鉄Ⅱ式・井沢式→田舎館式→(弥生時代後期)念仏間式→天王山式(鳥海山式)の他
(1期)砂沢式→(2期)五所式・井沢式・二枚橋式→(3期)宇鉄Ⅱ群→(4a期)田舎館2群→(4b期)垂柳Ⅲ群→念仏間式・大石平Ⅰ群→鳥海山式・大石平Ⅵ群2類という編年も考えられている。 |
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二枚橋式土器 浅鉢
弥生中期前葉
中泊町坊主沢遺跡 |
むつ市大畑二枚橋遺跡出土資料を標識とする土器。津軽海峡両岸を゜中心に分布する。 |
後北C1式土器
弥生後期
中泊町弁天島遺跡
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北海道続縄文文化後半の土器形式。
弥生後期に並行する
後北B式・C1式、
古墳前期に並行する
後北C2-D式に細分される。
北海道の他、東北北部を中心に分布する。 |
田舎館式土器 甕
弥生中期中葉
中泊町坊主沢遺跡
田舎館村垂柳遺跡出土資料を標識とする土器
津軽地方を中心に分布する。 |
田舎館式土器 |
聖山式土器 縄文晩期
五所川原市五月女萢遺跡 北海道聖山遺跡を標識とする。津軽海峡両岸に分布する。
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聖山式土器 縄文晩期
五所川原市五月女萢遺跡 北海道聖山遺跡を標識とする。津軽海峡両岸に分布する。 |
宇鉄Ⅱ式土器 甕
弥生中期中葉
中泊町坊主沢遺跡
外ヶ浜町三厩宇鉄遺跡を標識とする。
津軽海峡両岸に分布 |
宇鉄Ⅱ式土器 甕
弥生中期中葉
中泊町坊主沢遺跡
外ヶ浜町三厩宇鉄遺跡を標識とする。
津軽海峡両岸に分布 |
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195縄文時代の物の移動・人の移動
ヒスイ・黒曜石・アスファルトは東北・北海道の消費地遺跡にあまねく分布している。
黒曜石・アスファルトは狩猟の必需品として。ヒスイは交換材・威信財・呪具として渇望されたのだろう。
縄文時代の物の移動・人の移動 |
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〇ヒスイ産地 糸魚川
△黒曜石 白滝・置戸
十勝・赤井川
出来島・深浦・男鹿
雫石・湯倉 |
□アスファルト湧出地
釜谷・豊川(槻木)
草津(湯の台)
黒川・新津 |
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アスファルト付着石鏃
中の平遺跡 |
アスファルト塊
李平Ⅱ号遺跡 |
ヒスイ製品
亀ヶ岡遺跡 |
黒曜石原石
北海道白滝 |
黒曜石 石槍
中の平遺跡
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ヒスイ産地
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交流と交錯
196時代ごとにみる円筒土器文化圏の推移 |
197
この図表は大変よく考えられたものです。円筒土器文化だけでなく、津軽海峡を挟んだ北海道と東北の文化圏的推移が一目瞭然です。
ただ、これを一つ一つ文字にするにはかなり難しいので、各自ご利用ください。
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200古代
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210 |
モノづくりの発達
211須恵器の生産
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蝦夷社会においては、律令国家との接触をきっかけとして、鉄・塩・木工など多くの手工業が発達し、津軽地域はそれらの生産拠点として位置づけられますが、須恵器はその代表的製品です。
窯で高温焼成される須恵器製作の技術は、古墳時代に朝鮮半島からもたらされ、律令期には国家政策として国内のあらゆる場所で生産されました。律令制の衰退とともに多くの窯が廃絶しますが、五所川原須恵器窯はその頃操業を始め、広大な北方世界を対照的に約一世紀に渡って流通します。 |
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須恵器の生産 |
須恵器の生産 |
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須恵器の生産 |
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蹴ろくろ |
あて具と叩き板 左の長い板で叩き
右の丸板をあて具と思っていました。
叩き板ではなく、内側から押したようです。 |
窖窯(あながま) あながまは斜面の途中に造られ、焚き口の下には失敗作を捨てる場所がありました。 |
登り窯との違い
登り窯は斜面に沿って横にした窖窯を縦に何段も連ねたもので、それぞれの焼成室にも焚口があり、大規模なものになっています。 |
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212五所川原須恵器窯 平安時代 五所川原市大字持子沢 9世紀末~10世紀後半
窖窯模型
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丘陵の斜面を利用して構築され、焚口部・燃焼部・煙道よりなる。 |
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須恵器窯
平安時代
五所川原須恵器窯跡
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青森県域には五所川原須恵器窯しかなく、生産は大変多忙だったと思われます。
生産が多忙で、年に何回も火入れをしたはず。 |
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213須恵器
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214須恵器
古墳時代中期頃、朝鮮半島より製作技術が伝わった焼き物で、専用の窯で作られる。
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須恵器
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須恵器 長頸壺
平安時代
中里町中里城遺跡 |
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300古代
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中国を統一した唐の影響を受けて成立した律令国家は、全国の土地と人々を直接支配する体制を目指し、東北地方への進出を強めました。
東北北部に住む人々は蝦夷と呼ばれ、狩猟採集生活を基盤にした社会をつくっていましたが、律令国家との接触により、経済的基盤の変化を余儀なくされました。 |
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310 |
311中里城 中泊町中里字亀山741
堀で囲まれた集落 |
中里地域の古代集落の変遷 |
中里地域の古代集落遺跡
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北奥・道南地方の
古代防御性集落 |
10c初~中頃の遺跡
非防御性集落は津軽半島南部に集中
10c中~11cの遺跡
防御性集落は分散・北上する
襲撃を受けたためと思える。
野盗や朝廷軍から集落を守るために、
その他の平安時代遺跡はどうしたのかな。七人の侍でも雇ったのでしょうか。 |
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316中里城遺跡 (高地性集落)
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壕で囲まれた集落 (防御性集落)
317中里城遺跡の竪穴建物の変遷
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律令制の崩壊期に急増した津軽地域の各集落は、米・鉄など生産の増大とともに、河川などを単位とした地域共同体としてのまとまりを強化していきます。こうした共同体の相対的自立は、土地・水・交易などの利権をめぐる対立関係を生じさせたと考えられ、やがて空壕・柵列など防御施設をめぐらす集落を出現させます。
これらの集落形態は北奥の蝦夷社会における、政治的統合の過渡期の現象と理解され、平泉政権が成立する頃までにはほとんどが解体されます。
※
➀防御性集落の形成は、津軽平野内の生産性が高まり、地域共同体の自立意識が高まったために地域対立が深まり、依って環濠集落となった。
②「平泉政権」とは、奥州藤原氏(1087-1189)であり、それまでの間に、安倍氏の前九年の役(1051-1062)、後三年の役(1083-1087)。など、何十年にもわたる奥州内部戦争が続いており、これらによって自立独立が破られ、近隣対決ではなく、欧州の二大勢力による環濠独立自治は消滅していた。
ちなみに、坂上田村麻呂のエミシ征討(791)、38年戦争(770-811)
沢山の長い戦争の後に和人の支配を受けたことによって防御性集落が解体されたことが分かった。
※この現象は、吉野ケ里でもみました。あれだけ強力な防御施設や兵士を擁していた環濠集落が、もっと大きな政治勢力の支配を受けることによって環濠の中にとどまる独立を否定され、自ら環濠を埋めて出ていきました。
津軽地方でも大きな政治勢力や、暴力装置を持った集団に支配されると、自主・自治・防衛が否定され、防御施設は解体させられたのでしょう。 |
中里城の遺構
10世紀後半
11世紀頃 |
井戸跡 |
空堀跡
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柵列跡 |
竪穴建物 |
10世紀後半頃の遺構
11世紀前半頃の遺構 |
中里城遺跡の竪穴建物の変遷 |
中里城遺跡
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研究 中里城遺跡 中泊町中里 引用転載「県史跡 中里城遺跡」
古代 - 考古学からみた中里城遺
「蝦夷」と古代集落 10世紀初頭
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中里地域の本格的な開発は中近世以降のことですが、その起点は平安時代に遡ります。
10世紀初頭、大沢内溜池周辺や、深郷田(ふこうだ)・宮野沢・五林など、現在の集落が広がる低い台地に、古代集落が続々と出現しました。
当時の北奥は国家の管轄外であり、そこに住む人々は「蝦夷」と呼ばれていました。中里地域において古代集落を開いたのも、「蝦夷」と称される人々と考えられます。
(※10c初に全国各地から税を取られない管轄外の地に、沢山の入植があったこと、南から、北からも人が来たことを意味する。) |
「環壕集落」の出現 10世紀後葉
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古代集落が出現してから約半世紀、10世紀後葉には再び大きな変化が訪れます。低い台地につくられた集落の多くは放棄され、人々は標高30~50mの一段高い丘陵部に移住を開始します。高所につくられた集落は、壕や柵で囲まれ、容易に侵入できない構造になっており、「環壕集落」と称されています。
稲作や漁撈等の生業に便利な低地から、高地へ移転する動機については、土地・水・交易利権等を巡る「蝦夷」同士の争いとする説が有力ですが、異論も少なくありません。
(※弥生時代同様、無法地帯と化し、利権や収穫物を巡る権力闘争、ならず者が跋扈し始める。西部劇みたいな社会が出現した。) |
中里城遺跡の発掘調査 10世紀後葉~11世紀前葉 (中里城:最大規模の環濠集落を城と呼んだ)
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中里地区では、このような古代の「環壕集落」が 10ヶ所前後確認されています。なかでも規模・標高ともに卓越し、岩木川下流部を代表するのが、県史跡中里城遺跡です。発掘調査によって、縄文前期・平安・室町・江戸各時代の遺構遺物が発見され、なかでも平安時代が主体を占めることが明らかとなりました。
平安時代の(中里城環濠)集落は、一時期 10棟前後の竪穴建物跡から構成され、全8期に渡る変遷が推定されますが、
平安後期(10c後~11c前)には柵列・空壕等の区画施設を伴う「環壕集落」へと変貌を遂げます。
竪穴建物群の周囲に廻らされた柵列跡は全長約 85m、空壕跡は全長約130m、幅約 5m、深さ約3mに達する大規模なものです。 |
主な出土遺物
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在地産の土師器・須恵器に混じって、北海道に起源をもつ擦文土器が大量に出土しました。擦文土器は、北海道南西部と共通する文様構成のものが多いことから、岩木川~十三湖~日本海を介して、北海道との交流が盛んに行われていた様子がうかがわれます。(※住民はアイヌの比率が高かったか)
一方炭化米や籾痕土器。200個以上出土した漁網用土錘の存在は、稲作や内水面漁撈が生業の一端を占めていたことを示します。
また羽口・鉄滓・砥石・坩堝など精錬・鍛冶関連遺物や、錫杖状鉄製品をはじめとする各種鉄製品の出土も注目されます。(本格的鍛冶が行われた)
中里城遺跡を含めた「環壕集落」は、奥州藤原氏が北奥を支配する平安時代後期 12 世紀までには終焉を迎えます。
同集落の消滅は、中世社会の幕開けとともに、中里地域が国家の領域に含まれたことを意味する重要なエポックといえるでしょう。
(※管轄外の地だった北奥が大和朝廷に支配されたこと、それは、先にあげた長い戦争があったことによるものだ。)
引用転載「県史跡 中里城遺跡」 |
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モノづくりの発達
320五所川原須恵器窯跡の分布
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須恵器 大甕
平安時代
中里町中里城遺跡 |
五所川原須恵器窯の分布
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犬走窯跡
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五所川原須恵器窯跡
分布図 |
粘土や燃料、廃棄物、
あな窯の劣化などによって窯場を変更する必要があったのでしょうか。 |
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330製鉄と鍛冶
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研究 青森県西部の鉄生産
製鉄炉と製鉄の方法 引用抜粋 鉄生産遺構と製鉄炉の性格 弘前市立図書館
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古代の鉄生産は、砂鉄や鉄鉱石と木炭を製鉄炉の中で高温度にして還元させて得る。この方法には直接製鋼法と間接製鋼法がある。
鉄生産を行うと、炉壁と反応した鉄滓、炭素を多く溶け込ませた銑鉄(ズク)が流れ出て、炉内には還元された炭素量の低い鋼(鉧=ケラ)が残る。
直接法は炉心に残る鉧を多く得る方法であり、間接法は銑鉄を多く得る方法である。
直接法・間接法のいずれにしても、得られた粗鋼は再度過熱して脱炭し、鍛造して不純物を取り除いて純度を高める必要があった。
直接法の鉧(ケラ)の塊りは、壊してそれぞれ純度に応じて選別され、材料鉄となる。最も高純度のものが玉鋼という日本刀の材料となる。
間接法の銑(ズク)は液体の鉄で、炭素量・不純物が多く脆(もろ)い鉄である。再度脱炭し不純物の除去をする。
銑鉄を鋳型に流し込んで製品を得るには、もう一度溶融させて脱炭し成分調整を行ってからである。
二種類の製鉄炉
東北地方には二種類の製鉄炉があり、一つは(岡山県吉備式の)長方形で背の低い箱型炉であり、
他方は地面を楕円形に掘り込んで高い煙突を持つ(半島式の)半地下式竪型炉である。
津軽半島南部の岩木山北麓の製鉄地帯では竪型炉が主に使われ、間接製鋼法が行われた。
豊富な鉄資源
東北地方には広く砂鉄鉱床や鉄鉱石鉱床が分布する。初期には各地で製鉄が行われていたが、大量の燃料を必要とするため、木材資源を求め、ここ青森では、次第に岩木山麓の森林地帯に移動した。この地帯にも大量の砂鉄鉱床がある。津軽半島西側の七里長浜では砂と砂鉄が層をなしている。同じことが下北半島猿ヶ森砂丘など各地で見られる。
製鉄炉で得られた鉄は、大鍛冶場に運ばれ、再加熱と鍛錬によって脱炭精錬を行い材料鉄となり、小鍛冶場(村の鍛冶屋・野鍛冶)で製品となる。 |
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平安時代の製鉄遺跡
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東北地方北部の古代の製鉄遺跡は、米代川流域と岩木山麓に集中的に検出されており、いずれも古代後期(平安時代)の操業である。
青森県岩木山麓の遺跡
(10世紀の)岩木山麓の製鉄遺跡は、大平野Ⅲ号遺跡・大館森山遺跡・杢沢遺跡などがある。青森平野に面した丘陵地には朝日山遺跡がある。
大平野Ⅲ号遺跡ではA・B・Cの3地点からそれぞれ2基・5基・3基の合計10基の半地下式竪形炉が、大館森山遺跡では4基の半地下式竪形炉が検出されている。
何れも数十㎡の小面積の調査で遺跡全体の様相は不明だが、地形や関連遺物の散布状態から、大規模な製鉄関連遺跡と考えられている。
特に、大館森山遺跡からは、11世紀代の集落跡も検出されている。
朝日山遺跡では、半地下式竪形炉1基と鍛冶場跡1基、更に9世紀から11世紀にかけての多数の竪穴住居群が検出されている。
杢沢遺跡は、半地下式竪形炉34基・鍛冶場跡3基・炭窯3基・井戸跡3基・焼土遺構4基・溝跡6条等の他に鍛冶集団の竪穴住居跡21軒が検出された。しかも、各遺構に伴う製鉄関連遺物(鉄器・鉄滓・砂鉄・羽口等)や生活遺物(土師器・須恵器・擦文土器・土錘・土玉・炭化米・木製品等)等、膨大な量が出土した。製鉄関連遺構や工人集団の住居跡は、10世紀中葉から11世紀初頭の操業が推定されている。
岩木山北麓から西麓にかけては各地で鉄滓が確認されており、古代の一大製鉄地帯と考えられる。 |
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半地下式竪形炉
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岩木山麓で検出された各遺跡の半地下式竪形炉の一般的な構造は、長軸60cm~120cm・短軸20cm~40cmの長方形ないしは馬蹄形で、20cmほどの深さの掘り込みをもって作られている。(大変小さい)
また、炉本体や炉底も、斜面の傾斜に沿った形で構築されており、この斜面下端には排滓口や作業施設が設けられている。
左右壁には羽口の挿入痕跡がなく、羽口は炉体の上端(下からでなく上から送風した)に設置されたものと考えられている。炉壁は粘土で作られ、数回の改築があるのも特徴の一つである。このような構造を持つものは、米代川流域の寒川Ⅱ遺跡(能代市)や大平遺跡(昭和町)でも認められている。
いずれの場合でもこの特徴は、小型であることや、送風管(羽口)の装着が単独で、しかも炉体上端にのみ装着されていることなどである。
炉の構造や上記のような金属学的解析結果から、
杢沢遺跡の半地下式竪形炉は「間接製鋼法」の精錬炉であることが判明したが、このことは、
※精錬炉は製錬炉(製鉄炉)で作った粗鋼を再度高温にして還元・脱炭して材料鉄をつくる炉である。(二次加工炉)
半地下式竪型炉の操業
原料となる磁鉄鉱を製錬して銑鉄を作り出し、その銑鉄を再び小型の炉に入れて精錬し、調整された炭素含有量の鋼を製造するという高度な技術の下で行われた精錬炉であることを示している。
岩木山麓や、米代川流域での他の半地下式竪形炉も、基本的にはこの杢沢遺跡のものと同一技術下にあったことは容易に推定できる。
※半地下式竪型炉はたたら製鉄で作られた銑鉄(炭素量と不純物が多く脆い鉄)をもう一度溶融して純度の高い銑鉄を作り、出銑して鋳型に流すか、大鍛冶場に送る材料鉄をつくる、いわば2次炉であったといっている。
では、その一次炉はどこにあったのか。 |
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シリーズで並んだ竪型炉 引用抜粋 鉄生産遺構と製鉄炉の性格
シリーズで並んだ竪型炉
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シリーズで並んだ竪型炉
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小型竪型炉はシリーズで並び、連続的に作業ができる。 効率的。
炉の後ろは作業スペース。送風、材料・燃料の投入。
炉の前では、排滓、出銑、鉄塊取り出し。選別。炉の修復。だそうな。
この炉は繰り返し何度でも使えるのが特徴。 |
大平野Ⅲ号遺跡
実測図
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(一次)製鉄炉はどこに?
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杢沢遺跡で精錬していた磁鉄鉱の銑鉄はリン分を含み国内では産出地がなく、大陸から輸入したかと言われている。引用抜粋 鉄生産遺構と製鉄炉の性格
(しかし論文は、「再び小型の炉」に入れた銑鉄については、)一方、磁鉄鉱から鉄塊(銑塊)を取り出す製錬炉はこの地方のみならず、我が国ではこれまでのところ発見されていない。また、リン分を含有した磁鉄鉱の鉱床そのものも滋賀県近江周辺にあるとされるが、周辺に製錬炉が発見されていないことから、この鉄塊(銑塊)は大陸から輸入された可能性も指摘されている。
(と、述べ、どこかから輸入したといっている。)
※半島式の炉だから、半島人が操業し、原料も半島から持ち込んだのかもしれない。というような結論となった。
※国内では生産されない原料鉄なので、半島から輸入したことは間違いなかろう。 |
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もう一つの論文。
東北の製鉄の歴史 東北の古い製鉄 佐々木清文 岩手県立博物館
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1. はじめに
古い製鉄といえば「たたら」を連想される方が多い。弥生時代に稲作とともに鉄の道具が伝わり、加工技術が確立され,国内の原料から鉄が作られたのは6世紀頃とされている。
昨年広島県の小丸遺跡で発見された3世紀の製鉄炉が話題になっているが,今後,たたらの起源を解決してくれると思う。
ここではこれまでに発掘された東北地方の製鉄遺跡の概要を紹介してみたい。
2. 古代の製鉄と近世の製鉄
東北地方では,宮城県多賀城市の柏木遺跡で8世紀前半代の製鉄遺跡が,福島県浜通り地方北部の武井地区製鉄遺跡群や金沢地区製鉄遺跡群では7世紀後半から10世紀までの製鉄遺跡が検出されている。
他の4県からも主に9世紀以降の製鉄関連遺跡が発見され,古代の製鉄炉の構造や製造技術・加工技術がだいぶ明らかになってぎている。 |
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(1)古代の製鉄
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中央政権による鉄生産
鉄の生産は原料の採集から生産・加工まで多大な労働力と高度な技術を必要としたことは古代も近世も変わらない。
特に古代は,この運営に直接的な国家組織の介入や援助が無ければ不可能である。
そのため,柏木遺跡(1)は724年に設置された多賀城の直轄製鉄所と考えられ,
また福島県浜通り地方北部(2)の遺跡群は,7世紀半ば頃に成立した行方郡に伴うものと見られている。(※行方郡郡役所の製鉄炉という意味)
ほかの地域でも,政府の勢力に組み込まれた地域から順次製鉄が行われたようで,10世紀には津軽半島まで広まった。
東北地方の古代の主な製鉄遺跡を図1に示 した。 |
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東北地方の古代製鉄遺跡 |
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図2 箱型炉
図2 |
図3 半地下式竪型炉
図3 |
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箱型炉(製鉄炉)7世紀後半
福島県武井地区では、7世紀後半に長方形箱形炉による生産が開始される(図2)。この炉には、丘陵斜面に直行する長軸を持つ縦置ぎ炉と逆に斜面に並行するように構築する横置き炉の二者がある。
初期のものは送風装置が明瞭ではないが、9世紀前半期のものからは、地面を左右対象に斜めに掘り込んで、シーソー式の踏み板による送風を行った踏みフイゴの痕跡が検出されている。この形態はやがて丘陵上の平坦地に作られて、長軸の両方向に鉄滓を流し出して製鉄するような形態になる。
※箱型炉での生産は、新潟県柏崎市でも行われ、古代の一大、製鉄コンビナートを築いていた。
半地下式竪型炉 (製錬炉)8世紀後半
また8世紀後半には半地下式 竪形炉と呼ばれる円筒形の炉が現れる(図3)。傾斜地を大きな階段状にし、上下の作業面の間に円筒形の炉を作り、上の段に踏みフイゴによる送風装置を設置し、下の段では鉄滓を流し出したり、鉄塊の選別などを行ったようである。
実際の炉体は、上の作業面よりはるかに高く、上の段からは送風だけでなく、原料砂鉄や燃料の木炭を投入していたようである。
復元実験などによれば、炉内の送風口の下位に鉄の塊ができ、その塊がある程度の大きさになったところで送風を止める。その塊を取り出すために炉を壊さなければならないし、塊も純粋な鉄ではないので、鉄と鉄滓をより分ける。
炉体はその後補修して,再利用される。そのため遺跡に残るのは鉄の塊を取り出した後の残骸と送風装置の痕跡、それに大量の鉄澤である。また、大量に消費された木炭を生産した木炭窯の跡も近くに残されている。
鋳造技術の導入(液体鉄を用いた鋳型による製品作り)9世紀前半
9世紀前半には鋳造技術も導入され、遺構の数からも鉄の生産・加工が最も活発化したようである。しかし、その頃には東北経営の拠点が、すでに多賀城以北に移っており、その影響か10世紀には小規模なまとまりの中の生産となり、この地の製鉄は終焉を迎える。
※鉄生産地域は福島県。供給地の多賀城は宮城県。しかし、城柵が北上すると、朝廷軍のための鉄の供給地としては遠すぎるようになったのか。
福島の鉄生産は終了してしまう。 |
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※ |
原料砂鉄を投入したとある。ではこの小さな竪型炉で製鉄も精錬も行っていたのだろうか。そういえば、毛沢東が中国全土で穀物の敵小鳥を
皆殺しにしたり、自力更生と称して農村で鉄製農具を作らせたりしていた時に、本当にドラム缶を2つ積み上げた程の製鉄炉が映っていた。
結果、翌年には全国で害虫が大発生して不作となり(駆除してくれる小鳥が居なくなった)、粗悪な鉄製農具は使い物にならなかった。 |
各地の半地下式竪型炉
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二つの炉の形態は関東以西でも見られるが、長方形箱形炉は現在のところ福島県から宮城県南部までしか見られない。円筒形竪形炉は、秋田県の米代川流域や青森県の岩木山周辺まで広がる。
初期に福島県武井地区に長方形箱形炉を使う製鉄技術を持つ集団が政策的に移住させられ、やがて円筒形竪形炉という新しい技術が関東から導入され、それが改良され東北経営の拠点の移動と共に広がるうちに、官営だけでなく私的な製鉄も行われるようになったのであろう。
青森県の杢沢遺跡(岩木山北麓)では10世紀の製鉄炉が多く検出されている。半地下式竪形炉の系譜を引くものであるが、緩斜面に立地し、上と下の作業面の段差はあまり大きくない。ふいごの羽口片は出土しているが、送風装置の痕跡は見つかっておらず、踏みフイゴかどうかはわからない。
秋田県大館市の大館野遺跡からは平坦地から製鉄炉が検出されている。炉の排滓側と反対の位置に、送風時に使用された施設の一部 と思われる杭穴が見つかっているが、シーソー式の踏みフイゴではないようである。
中略 |
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材料鉄をつくる まとめ
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ここで明らかにしたいのは、東北北部では、どのように材料鉄を作っていたかである。高性能と言われる半地下式竪型炉で作っていたのか、別の場所で作って持って来ていたのか。です。
論文の上の部分に続く各地の半地下式炉では、製鉄を行うほどの構造でも規模でもないということでした。そのくせ「原料砂鉄を投入した」と言う。
砂鉄から粗鋼を得るには、大量の燃料や人手が必要で、それはまた、大量に作らなければ効率よく鉄をつくることがきないからです。
岩手県山之内Ⅱ遺跡では9世紀代の製鉄遺構が見つかったようだが、東北北部で粗鋼を作るのは「大変効率が悪かった」ようです。 |
粗鋼はどこから運んだか。
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ケラと呼ばれる粗鋼は何処から運んだのでしょう。その前に、ではなぜ西日本では効率よくたたら製鉄ができたのでしょう。
砂鉄は、東北、下北・津軽で広大な鉱床があり、現代でも砂鉄の露頭が層をなしている。一方西日本では山中にダムを造り大量の水を溜めて切り崩し、大洪水を引き起こして砂鉄を得ていた。これによって地形が変わってしまったのは、出雲平野、広島市、赤穂市、揖保川下流などと言われている。斐伊川などは鉄穴流しで川底に溜まった大量の土砂で、天井川になってしまって大変危険である。これほど非効率なことはない。
残るは燃料である。一回の操業に12tの木炭を使用し、それは30年物の樫の樹林1ha分。年間60回の操業で約1800haの山林が必要とされる。
切れ目なくたたら製鉄を行うには最低でも1800ha×30以上の雑木林が必要である。 引用木炭 和鋼博物館
ウイッシュの祖父、竹下元首相は代々たたら製鉄の元締めであるから、広大な山林王である。それを所有していなければ、砂鉄を得るかんな流しも木炭の生産もできないのである。
私も二十歳代までよく山歩きをしていた。山に入ると、炭焼き用の雑木を伐り出して木炭を作り、生計を立てている人たちとよく出くわした。
私の母親によると、雑木の山林地主に頼まれたり持ちかけたりして他人の山で仕事をするのだという。雑木は30年以上大きくなると炭にもできず、
価値がなくなり処分に莫大な費用が掛かるため、「山行さん」に無料で提供し、そのあとにドングリの種をまいてもらうか、切株更新かでまた、
山が再生するのだそうである。一つの山を山林地主が生きている間に2回か、3回関わったら超長生きという程の話しである。
中国山地の広大な山の中でこんなことが行われていた。
東北地方は広大な山林地帯であるが、初期の製鉄では、広大な天然のヒバ林を切り払って草原や砂丘にしてしまった。(後に馬産が侵入)
秋田ではナラ材による白炭の生産が行われているが。寒冷地東北では、広葉樹林の成長再生が間に合わないのかもしれない。
だから、少量の木炭で済む製錬炉が使われたのではないだろうか。 |
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結局、まだ、よくわからない。 もう一つロンブーン。 |
みちのくの鉄 引用 みちのくの鉄 室蘭工業大学
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エミシの鉄
弥生前期:宮城県寺下遺跡、青森県下北半島大間貝塚などで鉄器が発見される。
弥生後期:石器が出土しなくなる。
古墳時代、4世紀:鉄は埋葬品。秋田(斧状)、盛岡市・宮城県。鉄器を研ぐ砥石の発見例からかなりの鉄器があった。北海道を含む。
5・6世紀:東北南部で小規模な鍛冶痕跡が広がる。東北北部では鉄製品の組織的導入は確認されていない。鍛冶はなかった。
7世紀:東北南部で大規模な鉄生産が開始される。盛岡以北は未確認。生産はなかった。
7世紀後半:北上川中流域から八戸市周辺に終末期古墳群築造。副葬品に鉄製品と手入れする砥石が発見される。
8世紀:鍛冶機構や鍛冶用具が発達し、地域も広がる。 |
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蕨手刀
ワラビのように柄頭が丸い短い直刀。東日本から北海道に分布。岩手県では70例出土。8世紀以降に作られ平安時代には消えて行った。 |
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古代東北の鉄生産
724年宮城県に多賀城を建設。東北支配の強化と統治機構の確立のため。役所には様々な工房が付属する。鉄生産の工人も移住した。
柏木遺跡(鍛冶工房、多賀城付近)に製鉄炉4基、木炭窯5基、鍛冶工房の竪穴建物を検出する。
製鉄炉は半地下式竪型炉(円筒形の炉)。福島県相馬地方・群馬県の製鉄炉の系統。関東南部から技術移入、工人が来た。
東北地方南部の、福島県浜通り地方北部では、7世紀~10世紀まで武井地区製鉄遺跡群で製鉄が行われていた。
第Ⅰ期(7世紀後半)
長方形箱型炉、自然送風(滋賀県野路小野山遺跡に類似)。近江の製鉄集団の東国移住。官営工房か。この地域は
6~7世紀に、古墳の副葬品、須恵器、瓦生産などを通じて東海地方を介在して中央政権と強く結びついていた。
第Ⅱ期(8世紀中頃~後半)
関東からの影響によって、製鉄炉の種類に竪穴炉(半地下式円筒型竪型炉)が加わり、羽口の出土により、人工送風に変わった。
※竪穴炉は竪型炉の間違いと思います。どこにもそんな名前の炉はありません。
第Ⅲ期(9世紀以降~)鋳造技術が導入。
第Ⅳ期(9世紀後半~)に最も盛んになる。梵鐘など仏具が多い。多賀城以北に東北経営の拠点が遥か北方に移り、官営的要素が薄まる。
第Ⅴ期(10世紀)鉄生産終焉。
東北地方北部の、
岩手県胆沢城造営以降の9世紀に鉄生産開始と思われる。遺跡未確認。岩手県志波城で製鉄炉跡確認。
岩手県中部の花巻市大瀬川A・B遺跡は、代表的製鉄遺跡で、竪型炉3基である。官営でなく私設炉。
岩手県沿岸部で8世紀~9世紀の古墳築造。周辺に砂鉄鉱床が存在し異なった形で製鉄技術が導入された。大槌町夏本遺跡では4基の鍛冶炉。
秋田市坂ノ上E遺跡では9世紀前~中頃に秋田城附属と思われる竪型炉、木炭窯、住居跡出土。北陸地方の製鉄炉(箱型炉)。
秋田・青森県地方:米代川・津軽岩城山麓を中心に、10~11世紀の製鉄遺構が分布する。
この遺跡は、律令制崩壊後※の在地軍事豪族の台頭から、豪族の私設炉と考えられる。
この時期以降、堀を巡らせた集落遺跡がこの地方を中心に形成され、その中に鍛冶遺構をもあり、拠点集落内での生産体制が確立した。
※律令体制の崩壊が、都でも、こんな辺境の津軽でも、環濠集落を発達させ(都でも)、全国的に治安が非常に悪くなった。
戦国時代ではなく、野盗や人殺しがめっちゃ増えた、怖い世の中になったようだ。
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平泉文化と鉄 岩手県南部の平泉氏
11世紀末~12世紀末まで、奥州では平泉文化が発展する(岩手県南部平泉市)。藤原氏は安倍氏との戦乱の過程で発展してきた。
10世紀~11世紀に平泉の北30kmの金ヶ崎町鳥海遺跡(鳥海柵)で鍛冶工房が確認される。この遺跡は環濠集落である。
10世紀代には仏教文化が浸透していた。福井県産梵鐘出土。平泉文化は京の直接模倣が特徴で日常陶磁器に至るまで。平泉でも鍛冶を行う。 |
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蕨手刀の材質
蕨手刀の中央部には炭素量の少ない鉄が含まれている。(柔らかく純度の高い)
蕨手刀の材質には、関東・甲信地方出土は磁鉄鉱から、東北地方は砂鉄、北海道は磁鉄鉱と砂鉄を合わせたものが使われた。 |
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終末期古墳出土鉄器の材質
6~7世紀中葉
鉄鉱石が主原料。含リン・含銅の磁鉄鉱を主原料とした鋼がともに用いられている。含リン磁鉄鉱は近江地方産だが。
含銅磁鉄鉱は大陸からの輸入。大陸産の鉄器が盛んに流通していたことが窺える。
砂鉄を使用した鉄器製作
関東7世紀中~末期。
東北7世紀末~8世紀初頭以降。
オホーツク海沿岸産から出土している高P-含Ti(高リン含チタン)系介在物の鋼をもとに製作された鉄器も含む。
※オホーツク人の遺跡出土鉄と同じ鉄だったとは。それはアムール川流域から沿海州で作られた鉄だ。
この鉄が広く東北北部から北海道に流通していた鉄器の原料となったのか。
7世紀中葉~末
千葉県成田空港遺跡。福島県相馬市の遺跡群など、関東・東北地方に大きな製鉄基地が作られたことと
砂鉄を原料とした鉄器の発見が一致する。そのことにより、原料から製品までの一貫生産が行われるようになったと考えられる。
北海道は、道外から鉄製品又は半製品が供給されたのだろう。
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東北地方北部出土鉄器(平安~中世)
1.住居跡出土鉄器の材質
平安期の鉄器は大半が含リンの磁鉄鉱又は、高P-含Ti系介在物の鋼を持つ鉄器が5割を占め、砂鉄原料の鉄器生産は拡大していない。
2.古代の鉄製造方法
製鉄方法は、原料鉱石を木炭で還元するのだが、それでは、高P-含Ti系介在物の鋼を素材にした鉄器の存在を説明できない。
秋田県鹿角市はりま館遺跡の鉄生産関連炉から検出された鉄塊の分析では、鉄は銑鉄、チタンは脱炭のため加えた砂鉄から、
リンは原料鉱石から含入した。これらは間接製鋼の所産である。
3.平安期における鉄塊の流通
遅くとも平安時代初期の東北北部には、炭素量の調整された鋼を創り出し、それを使って鉄器を生産できる高度な技術を持つ技師がいた。
原料とする含リンの磁鉄鉱を原料とする鉄塊は地元では生産されていない。出土地不明である。大陸や朝鮮半島からの輸入が考えられる。
4.中世の鉄鋼及び鉄器の材質
中世アイヌの利器、鉄鍋は、鋳造品で、含リンの磁鉄鉱が使われていた。この原料は交易で外部から供給されねばならない。
古代から中世における東北北部・北海道出土鉄器は、漠然と砂鉄を原料としたと考えられてきた。しかし、6割以上が含リンの磁鉄鉱を
始発原料としている。自給自足が中心と考えられてきた古代~中世の東北北部・北海道地域の社会は、
実は他地域との活発な交易によって発展してきたのである。
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結論
長々と見てきたが、東北北部の鉄製品は、豊富な砂鉄を使わず、輸入した鉄材を再加熱脱炭して製品にしていた。
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参考文献
鉄生産遺構と製鉄炉の性格 弘前市立図書館 東北の古い製鉄 佐々木清文 岩手県立博物館 みちのくの鉄 室蘭工業大学
岩木山 鉄生産 青森県・白神山地地質、岩石、化石、地形、自然 下北半島北東部に分布するヒバ埋没林の成因に関わる人為的影響
下北半島 製鉄 岩木山 鉄生産
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331
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鉄の生産(製鉄)は、高度な知識と共に専門労働者を組織する政治力・経済力が必要とされ、律令期には国家の管理のもと各地で生産が行われました。
津軽地方では律令制の崩壊後、燃料の豊富な岩木山麓を中心に鉄製産(製錬)が始まり、大規模な生産拠点へと発展しました。
鉄の量産体制とあわせて加工(鍛冶)技術も急速に広まり、農具・工具など多くの道具が鉄製に変わり、生産体制に大きな変化をもたらしました。
※製鉄炉の遺構があるのは岩木山西北斜面である。暖流による温暖な地域で、燃料用樹木の生長が早かったか、原料鉄の搬入に便利だったか、
北西風を利用したかであろう。 |
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製鉄と鍛冶 |
製鉄と鍛冶 |
製錬と小鍛冶 |
製錬:
粗鋼を加熱・鍛錬し脱炭して純度を上げる。
小鍛冶:
材料鉄から様々な鉄製品を作る。
左の下図は近代製鉄における製錬である。
上図はよく知らない人がたたら製鉄を描いている。沢山の壺は意味が分からない。きっと間違いのある絵。 |
※列島の鉄生産は、砂鉄または、砕いた鉄鉱石を、木炭とフイゴを使ったたたら製鉄炉で加熱して粗鋼を生産し
それを大鍛冶場で加熱・鍛錬して製錬して材料鉄を生産し、
小鍛冶場で加熱鍛錬していろいろな製品作っていました。
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332製鉄の技術
製鉄の技術
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赤鉄鉱・砂鉄
砂鉄 平安時代
中里城遺跡 |
精錬作業(赤鉄鉱)
鉄鉱石に木炭等を加えて製錬炉で加熱し、還元することにより、炭素量4%前後の銑鉄が生成される。 |
精錬作業(砂鉄)
銑鉄に砂鉄を加えて製錬炉で加熱し、脱炭することにより炭素量0.9%以下の鋼が生まれる。 |
赤鉄鉱
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赤鉄鉱は融点が低く精錬に利用しやすかった。 |
磁鉄鉱 |
強い磁性を持っている。鉄の重要な鉱石鉱物。砂鉄や餅鉄として自然に採取される磁鉄鉱は、かつてたたら製鉄の原料として盛んに利用された。 |
鉄滓 |
平安時代
中里城遺跡
製錬・鍛造作業中に生じるカス |
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砥石
平安時代中里城遺跡 |
鍛造作業 たたく
鋼を鍛冶炉で加熱し、半溶融状態で鍛打し鉄製品を製作する。 |
羽口 平安時代中里城遺跡
製錬・鍛造作業などに用いるフイゴの送風管 |
るつぼ
平安時代中里城遺跡
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鋳造作業 型に流す
銑鉄あるいは鋼を溶融し、鋳型に流し込んで製品を製作する。 |
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鋳造に用いる土製容器
銑鉄あるいは銅を溶融し、鋳型に流し込んで製品を製作する。 |
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333鉄製農具
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340稲作と漁業
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341稲作の広がり
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稲作の技術は、弥生時代の初めに大陸からもたらされ、間もなく津軽地方に伝わりました。気候の寒冷化などによりいったんは衰えましたが、
古代には気候の温暖化並びに生産技術の向上によって津軽一帯に広がりました。
更に鉄製農工具の普及は生産性を大幅に高め、コメを鉄・須恵器などと並ぶ重要な交易品に成長させました。その他各種の雑穀・野菜類の栽培や、
河川・湖沼に面した集落では淡水魚を対象とした漁が活発に行われました。 |
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稲作の広がり
上に記述 |
古代の農具 |
鋤・鍬先、鎌 |
鉄製釣り針
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古代の畠 |
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342古代の食料
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古代の食料 |
獣骨 平安時代
中里城遺跡 |
炭化米 平安時代
中里城遺跡 |
炭化米 |
炭化米 |
炭化米 |
炭化米 |
古代の食事 |
穀類・塩生産の普及と、内水面漁業の発達を背景とした食事。 |
濁酒・塩漬ワラビ・フキ |
玄米・ヒエ混合粥・
ウグイ塩焼き |
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343津軽地域の土錘の分布
土錘の検出値は当時の漁村の場所。波打ち際を表す。
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350古代の暮らしと社会
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351律令制の浸透
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城柵設置に代表される律令国家の東北進出は、津軽地方にも大きな影響をもたらし、農耕社会を成立させました。
当初は津軽平野を中心に集落が形成されますが、律令制の衰退期以降は平野北半の開拓が進みます。
低地に面した丘陵部に複数戸からなる集落が営まれ、共同で耕作地の開発を行いました。
当時の住居は、地面を方形あるいは矩形に掘り窪め、柱を立てて屋根をかける竪穴建物で、寝食のほか鍛冶や機織りなどの作業も行われました。 |
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古代の暮らしと社会
上に記述 |
安藤氏と津軽の世界
安藤氏と北方世界 |
8~9世紀の陸奥国
出羽国の柵
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10~11世紀の陸奥国
出羽国の郡 |
12世紀の陸奥国
出羽国の郡・保・荘 |
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352復元古代竪穴建物 平安時代 中里城遺跡 方形掘立柱建物
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茄子型鍬を担いだ男
青物を背負った女 |
古代竪穴建物
平安時代
中里町中里城 |
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古代の暮らし
353津軽地域の主な古代遺跡
津軽地域の主な古代遺跡 |
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8~9世紀前半主体の遺跡:青森県平川市~黒石市付近に集中していた集落遺跡。
9~10世紀前半主体の遺跡:黒石市北方に遺跡が移動している。
10~11世紀主体の遺跡:になると遺跡は大規模に増加し、弘前平野全体に分布している。
※集落の増大は、単に人口増加?、岩木川の水害が減少したため開拓が進んた?、
それとも、水害があってもとにかく開拓を行わないと食えないから? |
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360古代の暮らし |
361古代の食器
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農耕社会の成立は生活様式の変革をもたらし、食生活が直接反映される食器の組み合わせは特に大きな変化を遂げました。
食器は食膳具・貯蔵具・煮炊具などから構成され、律令的な土器様式である土師器や須恵器が主に用いられていました。
食膳具として土師器・須恵器坏・貯蔵具として土師器壺・須恵器甕、煮炊き具として土師器の甕・鍋が古代を通じて利用されますが、
後にはそれぞれ木器・陶磁器・曲物・桶、鉄鍋など専業工人による製品へ置き換えられていきます。 |
中里城遺跡40号竪穴建物出土遺物
中里城遺跡40号竪穴建
物出土遺物
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須恵器大甕
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須恵器大甕出土状況
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須恵器長頸壷
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土師器甕
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土師器坏 |
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362
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支脚 平安時代 |
支脚は炉やカマドにすえ付けて、上に甕を載せて煮炊きに用いる。 |
土師器小型土器
平安時代 中里城遺跡
五林遺跡(五林館) |
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土師器把手付土器
把手部
平安時代
中里城遺跡 |
このような把手のついた土器とは、
どのような土器だったんでしょう。
左右に一対付いたハンドルのようなものだったんでしょうか。 |
土師器、坏・耳皿
平安 中里城遺跡 |
柱状高台坏
中里城遺跡 |
土師器、巻上坏・小坏中里城遺跡 |
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365平安時代 土器
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土師器 甕
深郷田遺跡
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土師器 甕
中里城遺跡 |
土師器 甕
中里城遺跡 |
土師器 甕
中里城遺跡
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土師器 壺
中里城遺跡 |
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366平安時代土器
土師器 堝
深郷田遺跡 |
土師器
弥生土器の系統を引き主に古墳時代から平安時代まで使用された赤褐色の素焼き土器。 |
土師器 甕
中里城遺跡 |
土師器 甕
中里城遺跡 |
土師器 把手付土器
中里城遺跡 |
土師器 把手付土器
中里城遺跡 |
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368
土師器 小型甕
深郷田遺跡 |
土師器 小型甕
深郷田遺跡 |
土師器 小型甕
中里城遺跡 |
土師器 小型甕
中里城遺跡 |
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370古代の祭祀と文化
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371古代の祭祀と文化
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律令制の広がりと共に、仏教・山岳宗教の影響の一端は蝦夷社会にも及びました。また、畿内や国府での出土例が過多い斎串・土馬などの祭祀具も見られることから、城柵などを通じて律令社会の精神文化の一部が津軽地方にも波及していたことが分かります。
文字資料については墨書土器や刻書土器があります。ほとんどが漢字一字で片仮名・平仮名はあまり見られません。また、須恵器には工人が刻んだものと考えられる記号が見られます。 |
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古代の祭祀と文化 |
古代の祭祀と文化
上に記述 |
墨書土器「寺」
墨書土器「寺」 |
宗教具(蓬田大館遺跡)
仏具(五輪野遺跡) |
仏具(五輪野遺跡) |
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372信仰と祭祀 平安時代
信仰と祭祀
平安時代
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土玉 中里城遺跡 |
錫杖状鉄製品
中里城遺跡 |
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錫杖状鉄製品は、
沿海州→アイヌ→和人の三角貿易でもたらされた 、粛慎などのシャーマンの持つ祈祷道具だった。 |
斎串
青森市細越遺跡
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西域の区画などに用いる律令的祭祀具 |
銚子(提子)
さしなべ・ひさげ
中里城遺跡 |
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373文字と記号
文字と記号 平安時代 |
刻書擦文土器
中里城遺跡
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刻書土師器 |
刻書須恵器
中里城遺跡
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刻書土錘
中里町唐崎遺跡
(安部太郎屋敷) |
墨書土師器
中里城遺跡
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刻書土師器
中里城遺跡
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こんな記号の土器を買う人いるかな。中里城では製鉄炉もあったから自分たちで土器も焼いていたのかもしれない |
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374刻書土器と墨書土器
刻書土器と墨書土器
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墨書土器「田」 |
墨書土器「大」 |
墨書土器「川」 |
墨書土器「三」 |
墨書土器「幸」 |
刻書土器「惟」 |
墨書土器「寺」 |
墨書土器「大」 |
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古代
380半島をめぐる交流
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381海峡をめぐる交易と流通
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蝦夷社会と律令国家の接触は、両者の境界域に設置された城柵などを通じて行われ、限定的ながら津軽地方にも各種の文化や物資がもたらされました。
律令制の崩壊後、津軽地方は農耕社会の成熟とともに須恵器・鉄・塩木器など各種の手工業が拡大し、製品は津軽海峡を越えて北方へ流通しました。また、北海道からは海産物・擦文土器などがもたらされ、海峡をめぐる広大な経済圏が成立しました。
?
北方世界と国家の両海域に位置した津軽地方は、その後も環日本海地域の交易拠点として重要な役割を果たしました。 |
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海峡をめぐる交易と流通 |
海峡をめぐる交易と流通 |
古代の地域経済圏 |
10世紀の
三大地域経済圏
下に記述
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11世紀の
二大地域経済圏
下に記述
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10世紀の
三大地域経済圏
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北東北以北
漆器食膳具
須恵器貯蔵具(五所川原窯跡
鉄製煮炊具
土製煮炊具(擦文土器)
本州地域
土器食膳具(土師器・黒色土器)
国産施釉陶器食膳具
須恵器・陶器貯蔵調理具
土器煮炊具
(釜)
中九州以南
中国製陶磁器・貯蔵・調理具
鉄製煮炊具 |
11世紀の
二大地域経済圏
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東海・北陸以北
漆器食膳具
鉄製煮炊具
須恵器貯蔵具
木製貯蔵具
西日本
土器食膳具(土師器・瓦器)
中国製陶磁器食膳具
須恵器陶磁器貯蔵・調理具
土器・鉄製煮炊具 |
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382中里城遺跡出土土器
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383擦文土器
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東北地方の土師器の影響を受けて成立した土器。北海道を中心として、一部、東北地方北部に分布する。 |
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384中里町五林遺跡
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385古代の流通
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北海道と北東北の間
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北へ:米・酒・
原材料鉄(浪岡城遺跡)
須恵器(中里城遺跡)
北から:海産物・鷹羽・
毛皮・擦文土器 |
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南から
丸鞆
(五所川原市観音林遺跡)
土師器(市浦村中島遺跡)
須恵器(尾上町原古墳)
蕨手刀(尾上町原古墳) |
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丸鞆
(五所川原市観音林遺跡) |
土師器(市浦村中島遺跡)
須恵器(尾上町原古墳)
蕨手刀(尾上町原古墳) |
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386擦文土器 甕
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この擦文土器は北からの交易品となっています。北海道アイヌが津軽で生活したための津軽産でない証拠に、和人集落から出土している。 |
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擦文土器 甕
中里城遺跡 |
擦文土器 甕
中里城遺跡
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擦文土器 甕
中里城遺跡
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387
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擦文土器 甕
中里町一本松遺跡 |
擦文土器 甕
中里城遺跡 |
擦文土器 甕
中里城遺跡
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擦文土器 甕
中里城遺跡 |
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400中世 鎌倉~戦国時代
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中世に移行する頃の津軽には、奥州藤原氏の平泉文化の影響があったと考えられます。そして、源頼朝の平泉攻撃は、津軽地方に波紋を投げかけました。曽我・工藤氏ら鎌倉武士団が流入し、新しい文化も伝わったのです。
在地の豪族安藤氏は、北条氏の得宗領の管理や蝦夷の支配を任され、次第に勢力を伸ばしました。鎌倉時代も末になると、安藤氏は、惣領家と庶子家の対立が激しくなりました。十四世紀前期には安藤氏の内紛は「津軽大乱」に発展し、鎌倉幕府滅亡の遠因となりました。
この間、藤崎の安藤氏は次第に拠点を十三湊に移し、華やかな海上活動を展開していました。
一方南部氏は建武の新政(1333)を機に津軽地方に力を伸ばし、安藤氏にとって手ごわい存在となりました。
中世の奥津軽、それは安藤氏の興亡と南部氏進出の時代と言ってもよいでしょう。
※安藤氏(後に安東)は信州の出身。南部氏は甲斐南巨摩郡南部の出身者。 |
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401
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五輪塔(五林神社) |
懸仏(弘誓寺) |
如来坐像(弘誓寺) |
五輪塔(五林神社) |
中世
上に記述 |
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410中世城館をつくる
津軽地域の中世城館
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幕府の支配が及んだ鎌倉時代以降、津軽地方では御家人層の城館が各所に築かれます。
特に鎌倉幕府の崩壊前後より戦国時代かけては、豪族間の抗争を背景に数多くの城館が造られ、築城技術が急速に発達しました。
軍事的・経済的な必要によって、あるいは時代・階層に応じて多様な形態が知られていますが、いずれも自然地形を巧みに利用し、壕や土塁によって守りを固めたものです。
中世城館は城下町を取り込んだ近世城郭の誕生とともにその役割を終えました。 |
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津軽地域の主な中世城館 |
津軽地域の中世城館 |
古絵図に描かれた中里城跡(貞享の絵図) |
津軽地域の主な城館跡
中世竪穴建物 室町時代
青森市尻八館遺跡 |
中世竪穴建物 室町時代
青森市尻八館遺跡 |
城館跡で比較的多くみられる竪穴建物は、倉庫や工房としての機能が考えられている。 |
津軽地域の主な城館跡
中世陶磁器を出土した主な城館 |
※津軽地域には複雑な勢力関係があり、対立する勢力と対峙するためと、地域支配のために多数の城館が設けられた。 |
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420中世の生産活動 |
421中世の経済
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古代末に活性化した各産業は、生産用具や技術の進化を経て中世以降も拡大の一途をたどりました。
農林漁業や木工や鉄工などの手工業は大量生産が可能となり、余剰物が日本全域にわたって流通しました。※
物資の流通は、交易路の整備とともに商業を発達させ、貨幣経済への転換を促しました。
銭の鋳造は古代から行われていましたが、鋳造量が少なくほとんど流通しなかったため、大量の中国銭が輸入されて利用されました。
※余剰物の発生が流通を発生させた。(生産力が高まり、物が余るようになるのは技術が向上したから。)
もう一つは、生存に関わるような必需品を求めることで流通交易が生まれた。
(縄文時代の石器材料や塩など。では、互いに貧窮の中で物を分け合うには、相当に魅力的な対価を支払わなければ手に入らない。
にもかかわらず、どこかのぼんくらが考えて真実のように言われる、次々と隣から隣へと順々に渡っていったという考えはどうかと思う。
縄文時代には余剰物はないのだから。生活必需品を割いて交易に回し、どうしても必要なものを入手していた。 ) |
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中世の生産活動
上に記述
日本の貨幣経済は15世紀初め以降、室町幕府の日明貿易によって輸入した銅銭によって始まった。 |
大工道具
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鋳造道具 |
農具
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422中国銭貨の流通
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中国銭貨の流通
輸入された中国銭 |
いろいろな物の値段 |
いろいろな物の値段
米の値段 |
米一石の値段の移り変わり |
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430 |
431国産焼き物の歴史
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十三湖の遺跡
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国産焼き物の歴史
土器
炻器
陶器
磁器 |
土器 (縄文時代~)
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炻器(せっき) (古墳時代~)
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陶器 (奈良時代~)
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磁器 (江戸時代~)
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粘土を原料に、摂氏800度前後で焼成された素焼きの焼き物。
縄文時代より出現し、その後も「弥生土器」、古代の「土師器」、中世~近現代の「かわらけ」等と長期にわたって利用されています。 |
(陶器と磁器との中間のようなもので長石などが含まれる粘土を原料に)
不吸水性の素地に釉を掛けずに、摂氏1200~1300度の高温で焼きしめたものが炻器です。
古墳~平安時代に焼かれた「須恵器」や、「珠洲」・「越前」等、中世の北陸地方で生産されたものが相当します。 |
粘土で成形し、釉薬をかけて摂氏1000~1300度で焼成された焼き物。
古代の「灰釉陶器」を始め、中世の「瀬戸」、近世の「唐津」など、多孔質で吸水性のある素地が特徴です。 |
陶石で素地を作り、釉薬をかけ、摂氏1300~1400度の高温で焼成されたもの。素地がガラス化して吸水性はありません。
近世に国産の「伊万里」が生産されるまでは、中国・朝鮮製が使用されていました。 |
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432
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青磁(中国製)
盤ばん・皿 (中里城跡)
青磁椀 (五林遺跡)
室町時代 |
釉薬中に還元された鉄分を含み、青緑色を呈する磁器
※盤=大皿 |
碗・青磁片
(弁天島遺跡) |
青磁椀(中里城遺跡) |
白磁(中国製)
白磁椀(一本松)鎌倉
小坏(中里城)室町
瀬戸盤(中里城)室町 |
白磁
白色の胎土に透明な釉薬をかけた磁器。
瀬戸
愛知県瀬戸周辺で製作された施釉陶器 |
瀬戸 室町時代
皿・碗・鉄釉仏花瓶 |
灰釉陶器・鉄釉陶器
白磁 |
白磁
灰釉瓶
鉄釉仏花瓶
室町、中里城 |
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440動乱の中の暮らし 中世
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441中世の食器
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古代まで盛んに利用されていた土器がほぼ姿を消し、陶磁器や漆器・鉄器が食器の中心となります。
特に陶磁器は流通の発展を背景に国内外の製品が大量に運び込まれ、津軽地方の城館に於いては日常的に使用されていました。
陶磁器は、時期によって器種・生産地の変化が見られるものの、鎌倉時代以降増え始め、室町時代を通じてピークを迎えます。
これらは十三湊をはじめとする各地の要港を経てもたらされたものと考えられます。 |
盤(ばん)・皿
室町時代・中里城遺跡 |
盤(ばん)・皿
室町時代・中里城遺跡 |
いろいろな中世陶磁器 |
石臼・茶臼・青磁皿・青磁盤・白磁皿
越前甕・珠洲擂鉢・青磁椀・瀬戸碗 |
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442
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珠洲焼 擂鉢 室町 中里城 |
珠洲焼 壺 鎌倉
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越前焼 壺
茶臼・石臼 |
茶臼・石臼 |
中世の食事
米食・味噌の一般化と交易による海産物の入手が容易になった。 |
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443中世陶磁器の生産地
中世陶磁器の生産地 |
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中国朝鮮半島の窯
染付・白磁・青磁
珠洲窯
越前窯 |
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美濃窯
瀬戸窯
常滑窯
渥美窯
神出・魚住窯
備前窯 |
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450安藤氏と十三湊
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451中世の石造文化財
五輪塔(ごりんとう)
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五輪塔は大日如来を本尊とする供養塔でしたが、墓標として使用されるようになりました。下から地・水・火・風・空の五つの部分からなり、石造遺物では最もよく知られています。五輪塔の各部には真言の五大種子が刻まれています。 |
板碑(いたび)
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板石塔婆・青石塔婆とも呼ばれ、埼玉県秩父地方に起源を持つという見方が有力です。中世にも多く造立されました。
死者の供養を目的とするもののほか、造立者が来世に極楽往生するよう祈る「逆修」のための板碑もあります。青森県内の最古の板碑は、弘前市鬼沢にある文永4年(1267)、下限は弘前市中別所の応永12年(1405)の板碑です。地域によって造立年代や形式に差がありますが人々の信仰を知る手掛かりとして貴重な遺物です。 |
藤崎唐糸の板碑
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藤崎長「唐糸御前史跡公園」にある板碑で、江戸時代から人々に知られていました。釈迦三尊を示す種子(梵字)を上部に刻み、下部には年月を中心に
この板碑の造立理由を記しています。津軽平野内陸型の板碑で、藤崎地用の文化財に指定。菅江真澄は「都介路廼遠地つがろのおち」に「韓絲姫碑からいとのひめひ」として紹介しています。 |
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五輪塔 |
藤崎唐糸の板碑 |
藤崎唐糸の板碑解説
上に記述 |
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大正時代鋳造の半鐘
大正10年に鋳直された銅鐘 |
大正時代鋳造の半鐘 |
中里五林神社の
五輪塔
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中里五林神社の五輪塔 |
相内蓮華庵の板碑 |
相内蓮華庵の板碑 |
如来坐像 弘誓寺
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455
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461動乱の中の暮らし
津軽の中世豪族
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元弘3年(1333)から翌建武元年にかけて、津軽では鎌倉幕府方と朝廷方の武将が戦いました。大光苛楯から石川楯、持寄城などで防戦に努めた幕府側の武将も、建武元年11月には降伏しています。
南部師行に提出された「津軽降人交名注中状」には、上段に投降人、下段に投降人を預かった武将銘が記されています。
津軽に所領を持っていた工藤・曽根両氏は敗北者の側に多く、安東氏は降伏者を多く預かっており、その勢力を知ることが出来ます。
小川氏、工藤氏は一族が敵味方に分かれています。建武の新政から南北朝時代にかけて、津軽の豪族は新旧入れ替わってゆきました。
降人の中に新関(開く)又二郎と乙辺地小三郎光季の名が見え、これを中里城主と尾別上種にあてる説があります。 |
中世の信仰
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中世の信仰
長勝寺嘉元鐘
動乱の中の暮らし
津軽の中世豪族
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長勝寺嘉元鐘
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462北の仏教文化
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津軽には十三千坊・高野千坊・阿闍羅千坊、併せて三千の寺院があったと伝えられています。ちょっと大袈裟ですが、これらの地域には寺院の跡や「寺屋敷」の名が残され、五輪塔や宝篋印塔、板碑など中世の遺物が多く見られます。
十三湖を囲む地域には檀林寺・禅林寺・山王坊・阿吽寺・龍興寺・羽黒権現・熊野権現・浜の明神などの寺社名や遺構に比定される土地があります。
そこには天台・真言・禅・修験など多くの信仰があったと考えられています。また、「時衆過去帳」には安東氏関係者の阿弥号が記載されているほか、
名号を刻む板碑もあり、この地域の中世の信仰生活は多彩だったといえそうです。 |
中世の信仰
北の仏教文化 |
十三湊迎寺に残る五輪塔 |
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弘誓寺如来坐像
鎌倉~室町天台宗解脱院弘誓寺
本尊
廃寺院の本尊を持ち込んだという |
弘誓寺如来坐像
鎌倉~室町 |
懸仏
鎌倉~室町
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※2019年の私は、「津軽海峡冬景色」や「俺は田舎のプレスリー」、太宰治「津軽」などのイメージから、 この地をとてつもなく貧しい、寂しい、
大変なド田舎と思い込んでいました。
しかし、本当は、本州最北端の、豪雪地帯にもかかわらず、縄文時代から港湾を中心に、また、温暖な海流による豊かな自然が形成され、
ヒト・モノの交流が盛んで、従って富の集積も著しく、中世武士がロマンをかき立て、また、国内のあらゆる仏教が集まって布教を行い、
数多くの堂塔を建立させるだけの莫大な経済力を持っていた地域でした。
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465交易
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466日本海交易と下之切道
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中世の日本海には七つの港「七湊」が賑わっていました。「十三湊」はその北端にあります。応永30年(1423)、安藤陸奥守は室町将軍足利義量に、馬・鳥・鵞眼(ががん=銭)・海虎(ラッコ)の皮・昆布などを献上しています。安藤氏の商港十三湊で交易された動物や商品とみてもよいでしょう。
「十三往来」は「十三湊」に「夷船京船群集」したことを記し、繁栄の様子を偲ぶことが出来来ます。夷船は北からの貿易船、京船は京都から琵琶湖水運で運ばれた商品を積んだ船なのでしょうか。
十三湊から津軽平野内陸部への輸送は、岩木川が利用されたと思います。陸路は藤崎から飯詰・中里を通り十三湊に通じる「下之切道」が使用されたと考えられています。 |
日本海交易と下之切道 |
下之切道沿いの
主な文化財 |
中通(街道)絵図 |
中通(なかどおり)部分 |
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三津七湊(さんしんしちそう)
三津七湊
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�・七湊(しちみなと)
・三津(三箇の津・さんがのつ)
博多津・坊津・安濃津(あのつ)又は、堺津 |
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「津軽郡中名字」が記す奥津軽
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「津軽郡中名字(なあざ)」は天文15年(1546)、浪岡御所北畠具永が編んだと伝えられる地名集です。史料的に信頼度が低いという見方があります。しかし、地名を一つ一つ確認していくと、歴史を物語る部分があります。忌来市(きらいち)以北に地名がないのは、安東氏の退去後有力者が居なかったことを示し、十三湊付近の三つの地名はかつての繁栄の名残ではないかなど、様々な推測が成立します。 |
「津軽郡中名字」が記す
奥津軽
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下の切道
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480館内展望
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※元寇と津軽
鎌倉時代にモンゴル人が占領した朝鮮人に命じて日本を攻めさせたときに、戦争の直前に対馬を船で脱出し日本海航路で、当時まだ、人口が流動的だった津軽にやってきた人々がいた。それが津島一族だ。滅びの文学、太宰治(津島修治)の祖先だ。
この頃、青森県以外の地は、すべて土地の支配が固定していて、新たに移入しようとすると、住む土地がないのだ。しかし、当時の津軽はまだ流動的で移住する余地があったのだ。
彼らがこの地に来てどのように土地を獲得し、生業を見つけていったのかは興味深い。しかし、そのようなことには一切触れられていない。
その他の氏族についてもその消長については無関心である。津島一族をはじめ、きっとその子孫がいまだに地元で続いているのかもしれない。
中世の最後に記述しておきます。 |
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500近世のくらし
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501 新田開発と用水の確保 中世
弘前藩と新田開発
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近世の「奥津軽」。天正16年(1588)大浦(津軽)為信は飯詰城を占拠し、津軽統一の事業は完成に近づきました。為信の子、津軽信枚は弘前城を築くと共に、岩木川下流域開発の拠点として、亀ヶ岡城の工事を始めました。築城事業は中断しますが、新田開発は三代藩主信義から四代藩主信政へと受け継がれたのです。
ここから先の展示は近世と呼ばれる300年余り。織田信長や豊臣秀吉、徳川家康から慶喜まで、15人の将軍の時代です。
津軽地方における弘前藩の政策はどのように展開したのでしょうか。新田開発を通して幕藩体制を考えてみたいと思います。 |
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502近世の食事(飢饉食)
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餅藁・粃混合雑炊
餅藁・糠・蕎麦殻餅 |
冨野遺跡出土遺物
箸・緑豆・板材・木製椀 |
陶磁器 |
餅藁・粃混合雑炊 |
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新田開発と用水の確保
503金木組・金木新田の村々
金木組・金木新田の村々
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金木組・金木新田の村々
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貞享(天和)の絵図
中里町 江戸時代 |
金木組・金木新田
広須組・木作新田
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江戸時代の中里地域
~村々の変遷~
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近世中里地域の
商家と職人
村々の職人の分布
村々の商家の分布
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飢饉と水害
水害・災害年表
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津軽三十三観音巡礼
弘前藩内の観音霊場 |
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504
庶民のくらし
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中里町富野は、岩木川下流域の自然堤防上に位置する、標高3mの極めて低平な地区です。江戸時代中期、出羽秋田郡の大川作右衛門が開拓したムラで、金城新田組の中では比較的水害を受けることが少なかった地域です。
富野遺跡は同地区の中ほどに所在し、溝状の遺構より近世後期と考えられる陶磁器碗・皿・木製椀、箸などの食膳具のほか、竹・杉などの板材・緑豆が出土しました。文献でしか知りえなかった近世新田の日常的な生活様式が生々しく伝わってきます。
※農民というのは本当に悲しいもので、いったん祖先が住み始めたら、その場所がどんなにひどい災害を受け続ける土地であっても、そこに住み続けなければならない。離れれば、逃散として処罰される。もし離れても、日本中どこにも行って住むところがない。すべての土地は誰かのものになっている。容易に入り込んで住むことはできないのだ。
関東地方で、富士山の噴火で水田の上に分厚く堆積した火山灰を何年もかかって自分たちの力と、一部の善良な役人の助けを借りて(役人はその後一部の村人にえこひいきしたとして責任を取らされ切腹)取り除き、復活させた記録がある。幕府は救済せず、義援金を大奥の改築費に使うなど、
くそったれな為政者だった。
なぜ、村人はそれほどまでにして田畑を掘り出したか。もし、掘り出せなかったら、村人は全国を流れさすらう乞食になるしかなかったからだ。 |
近世の諸産業
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江戸時代の産業は、幕府・藩の政策もあり初期には脳儀容が大部分でした。中里地域でも、ほとんどの住民の生業は農業であったと考えられます。
しかし、江戸時代も半ばを過ぎると、商業・手工業などが徐々に中里地域に広まったと思われます。
中里地域の村々の商家・職人の分布を見ると、「下之切道」沿いの地域では中里に、
新田の地域では富野・豊岡に商家・職人が多くいます。おそらくそれぞれの地域の中心的な役割を果たしていたものと考えられます。
幕末になると、今泉(母沢)には豊富な木材で炭を焼き、七里長浜から運ばれた砂鉄を製鉄する今泉鉄山が経営されました。 |
庶民のくらし |
近世の諸産業 |
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藩札(一匁・五匁)
海獣骨 |
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船鑑札
十釜(貝釜)片 |
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寛永通宝 江戸時代 |
鉄滓 |
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505具足
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520庶民の文化といのり
近世の庶民文化といのり
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集落の周辺には、民間信仰の碑が多く見られます。庚申塔や猿田彦太神碑、二十三夜塔、百万遍塔、馬頭観音、甲子大黒塔などが道端や寺社の境内にあります。これらの石碑は講(信者の団体)や個人により造立されました。刻まれている建立年代は江戸時代以降のものがほとんどです。 |
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540岩木川水運と仲通り
十三小廻し
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弘前藩主は、岩木川を独占していることを、他の大名から羨ましがられたと伝えられています。新田開発と共に岩木川の整備が進むと、年貢米は川筋の御蔵に集められ、小廻し舟により十三湊に運び、鰺ヶ沢を経て江戸や大阪に送られました。十三湊から直接松前に移出された米もあります。
近世に入ると安藤氏の十三湊は「十三小廻し」と呼ばれる米の中継輸送で再生し、藩の四浦(青森・鰺ヶ沢・深浦・十三)の一つとして活気を持ちました。
なお、岩木川の橋は弘前の藤見橋だけで、対岸との往来は渡し船に頼っていました。 |
十三小廻し |
十三小廻しと岩木川筋の御蔵 |
「下之切通」の村々
御国中道之図
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下の切道を歩いた人々 |
廻船船の絵
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感想 十三湊と岩木川の水運
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縄文晩期土器の一大傑作である亀ヶ岡土器や遮光器土偶が全国に分布していることから、日本海航路を使って積み出されたと考え、また、あちこちで話していました。ところがある時、ある博物館の(年配でずいぶん権威を振り回す方でした)学芸員が、亀ヶ岡木造からどうやって船に乗せるんだ。どこに港があるんだ。と、ボロックソに言われました。その時は、亀ヶ岡西部の潟湖地帯に船を寄せたのではないかと考えていました。それがやがて埋まって途絶えたと。
ところがどっこい、ここ亀ヶ岡は岩木川水運の中継路にあたり、十三湖までの運搬はとても楽だったということが分かりました。
やはり、亀ヶ岡式土器は、十三湊から積み出されていたものだとわかりました。
どこかに書いたと思いますが、亀ヶ岡の土製品が赤いのは、津軽半島最北に弁柄鉱山があり、弁柄が入手しやすかったこと。
亀ヶ岡の土製品が全国に広まったのは、この弁柄を求めてくる船によって運ばれたものであることが想像されます。お土産だったかもね。 |
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550近現代 民具 (割愛)
近世の民具
近世から近代まで使われた民具です。 |
岩木川の水害
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岩木川水害年表とか、十三湖への水利事業などが掲示してありました。 |
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560村と新田開発
津軽の水郷 豊岡 青森県中津軽郡中泊町豊岡
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豊岡の集落の南側を昭和20~30年代の空中写真から復元しました。鳥谷川に沿った東西の道路、その外側に家並みが続き、川には台形の橋がかかっていました。川筋には舟が浮かび、農作業用に利用したほか、船で来た花嫁さんもおりました。美しい茅葺の家、鳥谷川の流れ、そこに繰り広げられた人々の生活、様々な面から江戸時代の残像を偲んでください。模型にはかなりの省略と変更がありますが、豊岡の皆さんのご協力により、完成しました。絵図や資料と比較してご覧ください。 |
金木新田の図
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元禄11年(16898)の写。裏面に「御領分御絵図下画」と記されており、元禄2年(1689)に原本は成立していたと考えられています。豊岡集落には「神明宮」や「御用屋敷」画あり、集落の入り口の道路が丁字路や食い違いになっていることを考えると、新田開発の拠点だったと推定されます。また、大沢内や八幡の集落はまだできておらず、「覚」には16カ村と記されています。 |
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