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 北部九州の縄文 №31  2020.11.19-2

  熊本県立装飾古墳館31  熊本県山鹿市鹿央町岩原3085
  0968-36-2151月休、撮影可

交通 レンタカー
   
  備考  古墳館周囲には古墳群があります。今回未調査・未撮影ですが、
是非見てきてください。

 
  ご注意とお願い
  この館は、考古遺物を扱った巨大博物館です。通常の大きな博物館の2倍の200MBあります。しかも考古だけ。
  館の中心展示「装飾古墳」は 500 番から記載しています。
  もし、最初から順に見ていくと、きっとあなたは、途中で飽きてしまうでしょう。

  装飾古墳を見たい人は⇒500 に飛びましょう。その後で、01からご覧ください。
  館の展示を見たい人は⇒01から順に、、時々、飛ばしながら。 編集している私ですら、○○〇〇しています。とにかく大量なのです。
  この展示を2週間で読み切ることは、まず無理です。編集にも長い時間を要しました。

  では、ごゆっくり、そして、機会があれば、ぜひ、ご訪問ください。
  この本文中でも掲示していますが、岡山県の風土記の丘が閉館したようにせっかくの貴重な文物の展示が、客離れによって閉館し、
  建物を壊すときには、貴重な遺物も一緒に潰して捨ててしまうので、そんなことにならないよう、 実際のご訪問もよろしくお願い申し上げます。

  
 
目次


01館周辺の古墳群
11岩原古墳群

20館内入口展示
23磐井の物語
25装飾古墳写真

50常設展示室

50先土器時代
53道具のいろいろ

70縄文時代
72土器の変遷
74暮らしと道具
78死生観
80縄文土器
90石器


100弥生時代
102金属器
103農耕具
104墓制
105住居と集落
111前期土器
113後期土器
117石製品
118中広形銅矛
119鉄器

130古墳時代
132生産活動
135色々な古墳
136住居
140道具

160古代
161菊池川流域

170中世
171菊池川流域
173金属器
174仏教関連
176土師質土器
183貝塚

200第2展示室

230企画展「装飾古墳」
300文化保護行政の整備
320古墳時代のガラス

340江田船山古墳

400地階展示
401広開土王碑の碑文拓本
402石室壁画
410装飾古墳とは

500装飾古墳室
501鍋田横穴墓群27号墓
503大村横穴群11号墓
510装飾古墳室入口
520永安寺東古墳
540古城横穴墓群
550鴨籠石棺
560井寺古墳

571展示室全景
572土器
573埴輪
574装身具
575小田良古墳
576武器武具・横山古墳
78農具・工具
579銅鏡

600木柑高塚古墳出土石人
611人物埴輪
613臼塚石人
710小田良古墳
720千金甲1号
730チブサン古墳
740大坊古墳
750大鼠蔵古墳石材
760広浦古墳の装飾石材
770弁慶が穴古墳

780装飾古墳・横穴墓の分布
790古代人の死生観

800中庭展示場
810菊池川流域の舟形石棺
820菊池川流域の家形石棺

850装飾文様の種類
 
 

 01館周辺の古墳群 
   装飾古墳館は、古墳群の中に建っています。

 11岩原古墳群いわばる
   古墳館前の野原には、大変きれいに整備された「岩原古墳群」「岩原横穴墓群」があります。

国指定史跡、岩原古墳群(いわばる
昭和33年1月29日指定)   13基の古墳。 古墳時代中期(5世紀)

菊池川流域では、最大の古墳群です。前方後円墳の双子塚古墳を中心に古墳群が並び、地元では「四十八塚」とも呼んでいます。
5世紀頃、菊池川中流域を支配した豪族の墳墓で、寒原2号墳(家形石棺)、狐塚古墳(横穴式石室)以外は未発掘です。
不向(むかず)2・3号墳、塚原古墳は復元したものです。

岩原古墳案内図 国指定 岩原古墳群

上に記述
 

 13館庭内の古墳(移築ではありません)

  墓型式展示
   古墳館前庭には、さまざまな墓形式の展示場があります

第2号小円墳 2号賞円墳 第2号小円墳
調査時には墳丘を失っていたが、元来直径9mの墳丘を持つ小円墳であったと思われる。内部主体は石棺であるが破壊されており、西側半分しか残っていなかった。
棺材には凝灰岩製の板石を使用しており、箱式石棺であったとあったと思われる。
周囲には幅1mの溝が巡る。その周溝底からベンガラを入れた土師器の壺2個が出土した。5世紀代の構築と考えられる。
第1号小円墳 1号賞円墳 第一号小円墳
墳丘を失っていたが、元来直径5.4mの墳丘を持つ小円墳であったと思われる。
内部主体は木管であるが、棺は腐食しており、棺材を埋め込んだ穴のみが残っていた。この穴から、
長さ(内径)131cm幅42cm深さ37cmの木管が復元された。棺の内部から鉄鏃一個が出土した。木棺部の周囲には幅80cmの溝がめぐる。5世紀前半の構築と考えられる。
第2号石蓋土壙墓 第2号石蓋土坑墓
石蓋は凝灰岩の板石をもってこれに当てている。土壙は長さ129cm幅36cm深さ33cmで、
第一号土壙墓より若干大きい。埋葬された人骨は腐食し消滅していた。副葬品はなかった。5世紀前半の構築と考えられる。
第1号石蓋土壙墓 第一号石蓋土壙
墓石蓋は3枚の安山岩よりになる。土坑は長さ122cm幅25cm深さ36セcm、
内部壁には丹が塗られ、被葬者の頭骨がが若干残っていた。副葬品としては刀子(小刀)が発見された。5世紀前半の構築と考えられる。
寒原遺跡遺構位置図 寒原遺跡遺構
寒原遺跡は、昭和33年この地の地主が畑を耕作中に家形石棺を発見して以来、古墳時代の「周知の遺跡」として現在に至っている。石棺の中から鉄剣や刀子などが出土し、小字名にちなんで寒原石棺と命名された。

平成2年2月、熊本県立装飾古墳館建設に先立ち、敷地約7000㎡の発掘調査を実施した結果、北側の一角から、石蓋土壙墓2期、小円墳2基が発見された。このため、建物の位置を南に移動させ、現状保存をはかった。
ここに屋外展示されている遺構は、その原寸大のレプリカで、実物は地下に保存されている。
 

 20館内入口展示
 21石室装飾図案
古墳館周辺遺跡
壁面展示➡
千金甲古墳 釜尾古墳
弁慶ヶ穴古墳 釜尾古墳
 

 23磐井の物語
昔々、継体天皇の御世のこと、
筑紫の国に祝という、強く
荒々しく、天皇に従うことを
潔しとしない猛者がいた。
  やがて戦がおこり、
大和朝廷軍は、
磐井を討とうとしたが、
磐井はひとり豊前の山中に
逃れてしまった。
  朝廷軍の怒りはやまず、
古墳に立てられていた
石人石馬を、ことごとく
破壊したという。
 筑後風土記逸文
   
岩戸山古墳 石人石馬 石人石馬分布図 石人石馬は火の国
熊本県に圧倒的に多い。

磐井の支配地域の中心だったからようです。

 25装飾古墳写真
チブサン古墳
鴨籠古墳 井寺古墳 千金甲古墳 弁慶ヶ穴古墳 鍋田横穴墓


 磐井の乱から約千年の後、
磐井の乱から約千年の後、
ここ、菊池川流域は、
再び天下の耳目を集めることとなった。
時の権力者、豊臣秀吉に反旗をひるがえした
国衆一揆がそれである。
中央政権に対する
肥後の反骨精神は、ここに脈々と
受け継がれていたのである。

 30釜尾古墳写真
 


 50常設展示室



 50先土器時代



 人類の祖先は、今からおよそ200万年前、アフリカ大陸でサルの仲間である類人猿から分かれたといわれています。
その後、猿人、・原人・旧人・新人へと進化を遂げます。
我々現代人の直接の祖先は、この新人の仲間でおよそ3万年以降の人々を指すと考えられています。

 人類の時代である180万年前から1万年前は、「氷河時代」とも呼ばれています。
この「氷河時代」には海水面が下がり、日本列島とアジア大陸が度々陸続きとなりました。
そこでマンモスやナウマンゾウなどの動物と同じように先土器時代の人々もアジア大陸から渡ってきたことが想像されます。

 日本列島は酸性の土壌が多く、人骨の保存には適しませんが、明石原人ほか数例の化石人骨の一部が発見されています。
 最近、全国各地で沢山の遺跡が発掘されていますので、完全な姿の化石人骨が発見されるのも夢ではありません。

 ※現在では、330万年前の石器が発見され、その時点から考古学が始まるとされている。少し前までは200万年前の道具の発見でした。


 51先土器時代の日本
先土器時代
上に記述
石器の作り方


 2万年前の日本列島と哺乳動物
氷河時代の日本は、海水面が下がり、大陸と陸続きになったため、さまざまな動物が渡ってきました。

 先土器時代遺跡分布図
 熊本県内の先土器時代の遺跡は、現在107ヵ所が知られています。この中で菊池川流域には約20ヵ所が集中し、
上流から下流までくまなく分布しています。

2万年前の日本列島と哺乳動物
先土器時代遺跡分布図
先土器時代遺跡 ※旧石器時代遺跡がこれほど沢山発見されるのは大変珍しいことではないでしょうか。

 同時期の列島に5千人ほどの存在ときいています。
すると、この地域は食べ物が豊富で住みやすかったのでしょう。

 きっと彼らは西から渡来した旧石器時代人なのでしょう。

 53道具のいろいろ
 菊池川流域にも先土器時代の遺跡があり、現在約20ヵ所の遺跡が知られています。
先土器時代の人々が使った道具には、様々なものがあり、代表的なものを紹介しましょう。

ナイフ形石器
台形石器
剥片石器
 石材の一部に「刃潰し加工」という独特の加工が施されています。
 おもに動物の皮や肉を斬るのに使われたと考えられています。
スクレイパー
 木や骨を削るための加工や、動物などの解体に使われていたと考えられている「削器さっき」と、
 動物の皮なめしに使われていたと考えられている「掻器そうき」の2種類があります。
尖頭器
 槍の先端に付け、狩猟の槍の先端に付け、狩猟の道具として使われたと考えられています。
細石刃
 木や骨の槍先状の両側に溝を掘り込み、溝に埋め込んで使われたと考えられています。

道具のいろいろ
ナイフ形石器
台形石器
剥片尖頭器
スクレイパー
尖頭器
細石刃
細石刃装着例

 55石器  ※菊池市 伊野遺跡
槍先形尖頭器
先土器時代末~縄文時代草創期
山鹿市鹿北町 柿原遺跡
細石核
先土器時代
菊池市 伊野遺跡
細石刃
先土器時代
菊池市 伊野遺跡
削器 先土器時代
菊池市 伊野遺跡
 57
石器 先土器時代
山鹿市中央町
装飾古墳館周辺
ナイフ形石器
伊野遺跡
ナイフ形石器
伊野遺跡
 59
石核 先土器時代
水俣市 石飛東遺跡
石核 先土器時代
水俣市 石飛東遺跡
 


 70縄文時代



 縄文時代はC14年代等によれば、約12,000年前に始まり、約2,500~2,200年前頃に終わると考えられています。
この時代に使われた土器を縄文土器とよび、現在知られる限り、世界で最も古いといわれています。
 縄文土器は食物の煮沸容器として発達したことから、主に植物性食料に大きく依存していたことが判ります。
特にドングリのアク抜きの技術の発達と結びついて、縄文人の植物食文化は大いに発展しました。

 一方弓矢は縄文時代の始め頃から出現していて、狩猟活動も盛んに行われていたことが判ります。
このように縄文時代は狩猟・採集を中心とした生活でしたが、前代の先土器時代と大きく異なるのは、魚や貝を捕る漁撈活動が盛んで、
全国各地に多くの貝塚が遺されています。
こうして食料確保のための様々な活動や折からの気候の温暖化によって、縄文人の生活はさらに安定し、集落をつくり定住生活が実現しました。

 この時代に最も多く出土し、変化に富んだ遺物は縄文土器です。
これらの土器をもとに、考古学では土器の形や文様の変化によって、
縄文時代の約1万年間を草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6時期に区分しています。

縄文時代
上に記述

 71豊かな恵み縄文の大地
 今から1万年前、長い氷河期が終りをつげ、温暖な気候の時代になりました。
野山は豊かに実り、海辺には新鮮な魚や貝、更に動物たちが群をなしていました。
このような風景がそろったとき、縄文文化が生まれ育つ環境が整いました。
縄文人たちはこの豊かな大地の恵みを受け、たくましく生き抜いて行きました。、

豊かな恵み縄文の大地

上に記述
復原住居
和水町万世の都内

 72縄文人の暮らし
 縄文人は身の回りにある、あらゆる素材を利用して、道具を作りだしました。
粘土をこねて土器を焼き、硬い石を割ったり研いだりして、様々な石器を作りだしました。
数千年という時間の流れの中で、縄文社会は世界でも類を見ない高度な文化を発展させました。

縄文人の暮らし 縄文時代の土器変遷
豆粒文(草創期)
押型文(早期)
塞ノ神式(せのかん)早期
円筒土器(前期)
曽畑式(前期)
轟式(前期)
阿高式(あだか)(中期)
南福寺式(中期)
西平式(後期)
御領式(後期)
古閑式(こが)(晩期)
三万田式(後期)
夜臼式(ゆうす)(晩期)
天城式(晩期)
※短い縄文晩期に
夜臼式、天城式は
発達し様々な形状を生み出した。

 土器型式の変遷
草創期 早期 前期 中期 後期 晩期
豆粒文 押型文 円筒土器 阿高式 西平式 古閑式
塞ノ神式 曽畑式 南福寺式 御領式 三万田式
轟式 天城式
夜臼式


 73縄文の四季
 四季の移り変わりに、縄文人の食料獲得の方法や手段も変化していきした。
それぞれの季節での生産活動の中で、住居を造り、土器を焼き、石器を作っていました。
これらの活動は一年を通して、計画的に行われていたと考えられています。

縄文の四季 縄文人の四季のくらし
[春] 雪が解け、水がぬるみ始めると、野山や森の中に木の芽や山菜が芽吹き始めます。
海にはハマグリやアサリが取れ始めます。
長い冬が終わると、人々は一斉に野に山にそして海辺に飛び出します。
[夏] 太陽の光と、青々とした海には、スズキやタイ・イワシなどが群をなして泳ぎ始めます。
また、川にもアユやヤマメが群を作ります。
縄文人はこれらの魚を捕獲するため、網や釣針など様々な道具を考えだしました。
[秋] 山々が色づき始める秋、縄文人にとって最も忙しい季節です。クリやドングリなど、食料が不足する冬のために、盛んに採集が行われました。
また、アケビやブドウなども一斉に身を付けました。
[冬] 山々が雪景色になる頃、男たちは狩りの準備を始めます。野山や森にはシカ・イノシシなどを追う、縄文人の姿が見られるようになります。
 
74縄文の暮らし
 縄文人のおしゃれ
 縄文人が身につけた装飾品には、髪・耳・首・胸・腕・腰・足のあらゆる部分の物があり、
使われた材料も角・歯・牙・骨・貝・石・土・漆などが利用されました。

 縄文人の信
縄文社会は現代からすると、比較にならないほど厳しい自然環境の中で、自然に対する崇高な入のと、様々な物を生み出しました。

 縄文人の死後の世界
縄文人も死者を大切に葬りました。病気や事故など、人間を死に至らしめるものを悪霊の仕業と考えていました。

道具のいろいろ

 75工具

道具のいろいろ 工具
打製石斧・磨製石斧
石鑿・石匙・石鏃・石錐
十字形石器

磨石・円盤形石器
環状石斧・貝刃器
石棒
石皿

 76漁撈具
漁撈具双頭形石器
単頭形石器
石錘・土器片錘
釣針(鹿角製)
土製品
土偶・紡錘車
装身具
なつめ玉
平玉
管玉
耳飾り
貝輪
勾玉
首飾り
垂玉すいぎょく

 78縄文人と死後の世界
縄文人も死者を大雪に葬りました。病気や事故など、人間を死に至らしめるものを悪霊のしわざと考えていました。

縄文人と死後の世界 城南町黒橋貝塚
埋葬人骨(縄文後期)
 

 80土器
押形文土器
縄文早期
中後迫遺跡
曽畑式土器
縄文前期
曽畑貝塚低湿地遺跡
塞ノ神式土器
縄文早期
五木村
頭地田口A遺跡

阿高式土器
縄文中期
米山遺跡

no caption
御領式土器 天城式土器

 90石器
 91
打製石斧
磨製石斧
円盤形石器 十字形石器
 93
石匙 敲石
敲石
石鏃
 


 100弥生時代



 弥生時代になると、世の中に大きな変化が訪れます。その一番大きなものが稲作農耕と金属器が大陸から日本に入ってきたことです。
北部九州に入った稲作技術は、瞬く間に日本中に広がります。
熊本市内では有明海の沿岸部から内陸部へと稲作技術が入っていったようです。
菊池川流域でも、その頃の遺跡が数か所見つかっています。
玉名市天水町の「斎藤山貝塚」や菊池市七城町の「岡田遺跡」などがそれです。中
でも「斎藤山貝塚」では鉄斧が出土し、弥生時代前期の鉄斧として日本的に有名です。

 稲作が本格化すると、人々は一定の土地に集まって住むようになり、ムラができてきます。
ムラの中には、ムラ同士の争いなどから周囲に彫を巡らすところも出てきます。
弥生時代後期になると、非常に大きな遺跡が各地に出現します。
県内の「うてな遺跡」(菊池市七城町)や「二子塚遺跡」(上益城郡嘉島町)では、周りを溝で囲んだ、大集落があったことが分かっています。

 101弥生時代

 102弥生時代の金属器
弥生時代には、青銅器と鉄器の二種類の金属器がほぼ同時に入ってきます。
鉄器は、斧、鋤先、鍬先などの農具の一部に利用されていました。
青銅器には、鏡、剣、鉾、鏃などがあります。

弥生時代の金属器
青銅器 銅矛
銅戈・銅剣
鉄器 鉄斧
鉄鎌
鉄鏃

 103農耕とその道具
 水田稲作は、1年間を一つの周期とする作業が必要です。また、その時々に応じた道具も必要です。
道具としては、馬鍬、諸手鍬、平鍬などが使われました。

農耕とその道具
諸手鍬
狭鍬
馬鍬
横鍬
踏鋤

鋤 三本爪
鋤 紡錘形

臼と杵

 104弥生時代の墓制
弥生時代には、土壙墓、支石墓、甕棺墓、箱式石棺墓、木棺墓などの様々な墓があります。
縄文時代に比べるとその種類も増えています。

弥生時代の墓制 支石墓 木棺墓 甕棺墓

 105弥生時代の住居と集落
弥生時代の住居は、ほとんどが竪穴住居でした。
弥生時代の初めには、住居は2、3軒集まるだけでしたが、
後期になると数十軒集まる大きなムラが現れます。

弥生時代の住居と集落
竪穴式住居跡 弥生時代のムラ
(二子塚遺跡)
 
 110土器
 111前期土器
紡錘車
弥生前期
熊本市 江津湖苗代遺跡

弥生前期
大津町 牟田遺跡

no caption

no caption
高坏

 113後期土器 うてな遺跡 菊池市七城町
土製匙
手づくね土器

 115後期土器 蒲生・上の原遺跡 山鹿市
器台
ジョッキ形土器 片口注口坏鉢



 117石製品
石戈装着木柄
弥生中期
玉名市 菊池川河川敷
石戈(抉り入り)
弥生中期
玉名市 菊池川河川敷
石包丁 中期
山鹿市鹿本町
虎ヶ迫遺跡
石包丁 前期 熊本市
江津湖苗代津遺跡
抉り入り片刃石斧
中期 虎迫遺跡
扁平片刃石斧
中期 うてな遺跡
砥石 前期
和水町 諏訪原遺跡


 

 118中広形銅矛 弥生時代中期後半 熊本県山本郡鹿本町大字 庄 字 太郎丸
弥生時代の青銅製の武器には銅矛・銅剣・銅戈などがあります。
初期の頃の銅矛や銅剣は、小型で細く実戦用の物でしたが、やがて幅広く大型化して実用性は失われ、祭の道具としての役割が高まります。

中広形銅矛
弥生中期
山鹿市 庄遺跡

 119弥生時代の鉄器 和水町 諏訪の原遺跡
弥生時代の鉄器 鉄斧
鉄鏃
手鎌
 
 


 130古墳時代



 古墳時代になると、その名が示すように全国的に多くの盛り土をした墓(古墳)が造られました。
それは各地にできたクニを治めた豪族たちが残した記念物です。
同時に日本が一つの中心地「ヤマト」によってまとめられ、統一的な国家となっていく中で生まれたものでもあるのです。

 菊池川流域でも多くの古墳が造られ、力を持った豪族がこの地方に沢山いたことを示しています。
しかし、古墳を造ることは、全国支配のしくみの中に組み込まれたことを意味しています。
つまり、日本という国の中にこの地方が含まれていくことにもなります。

 このことは、古墳だけに限りません。家の形や器(土器)といった人々の生活に密着した所でも変化が現れてきました。
弥生時代には、菊池川流域などに限られた形であった家や土器が、古墳時代になると全国的に共通する物があらわれます。

鉄器や生活の場で使われるものも共通するものが使われるようになります。

このように古墳や土器などに共通するものが多く出て来るのは、モノだけが伝わったのではなく、それを作り上げる技術も伝わらなければ出来ません。
当然、その技術を伝える人も来たでしょう。日本内だけの移動ではなく、日本の外、朝鮮半島からやって来た人も多かったと思われます。

江田船山古墳出土の鉄剣に記された銘文に大陸系の人の名があるのは有名です。この時代は、人々の移り住む時代でもあったのです。

 131
古墳時代

 132古墳時代の生産活動
 古墳時代には農耕具がさらに進歩し、鉄製のものも広く普及していきます。
しかし、この鉄製農具を持つ者は、一帯を治める統治者に限られていたようです。
そのためか、多くの鉄製品は、おおきな古墳の中から出土しています。

古墳時代の生産活動 鉄製農具 国越古墳入口

 133単一化する器
 弥生時代には、地域ごとに差が大きかった器類が、古墳時代に入ると器の形と 組み合わせが非常に似てきます。
土器には弥生時代の伝統を受け継ぐ「土師器」、大陸から入ってきて日本で発展した「須恵器」があります。
この他に木の器もあったでしょうが、県内では、ほとんど見つかっていないためよくわかりません。

単一化する器 単一化する器 土師器 須恵器

 135色々な古墳
色々な古墳 円墳 前方後円墳 方形周溝墓

 136古墳時代の住居
 この時代の一般の住居は、竪穴式住居で、四角形に掘り込んでいます。
これは、ほぼ全国的に同じようなもので、県内で多く確認されています。
古墳時代の前半には、屋内に火を使う場所である炉穴がありますが、半ば過ぎになると壁際にカマドを作り付けるものへと変化します。

炉のある住居跡 カマドのある住居跡
 

 140道具
 143
小型壺
小型丸底土器 高坏
 145前田遺跡
 土師器 坏 須恵器 坏身・蓋 須恵器
提瓶・坏身蓋
提瓶
 146
高坏
ハソウ


 148古墳時代の鉄器
古墳時代の鉄器 ヤリガンナ 鉄斧、刀子 鋤先

 149広諏訪原遺跡出土鉄器 古墳中期 山鹿市
1号石棺出土鉄器 2号石棺出土鉄器
3号石棺出土鉄器 鉄刀
 


 160古代



 161古代の菊池川流域
 肥後の古代における歴史上の具体的な場所が、中央の国の記録に残った例は、極めて少ないのです。
自然では阿蘇山の噴火、歴史的にものとしては、鞠智城(山鹿市菊鹿町)や浄水寺(宇城市豊野町)くらいがその主なものとして挙げられましょう。

 鞠智城は7世紀代律令国家である大和朝廷によって築城された古代の山城で、大宰府(大和朝廷の九州統括と対外交渉の基地)の支配下にあった6城のうちの一つです。
 鞠智城をつくるにあたり、どうしてこの地が選ばれたか学説の分かれるところですが、弥生・古墳時代に引き続き菊池川が育んだ肥沃な土地を基盤に
した繁栄が、設置のひとつの遠因であったことは事実でしょう。
 それから200年程後、律令国家の衰退と共に、幾多の防人とともにあった鞠智城も終焉を迎えます。

 この他、菊池川流域には、10指にも及ぶ古代寺院跡や、平安時代前期の赤星・水溜遺跡(菊池市)を始め御宇田遺跡(山鹿市鹿本町)等の古代の集落跡や、駅家跡と思われる奈良時代の駄の原遺跡(だのはら 山鹿市鹿央町)等が残り、かっての繁栄を物語っています。

御宇田遺跡からは、越州窯青磁、緑釉陶器、三彩等の外来の焼き物や、役人が着用したと思われる石製鉈尾が出土しており、ある時期における「郡家」等の役所の存在をも推定させます。 
駄の原遺跡からは5棟の倉庫跡や4棟の住居跡、遺物としては刀子や鉄鏃の他も円面硯や、舎人、注下と書かれた墨書土器等が多数発見されております。
また、高さが50mの不動岩(山鹿市)の根元からは、久安元年(1145)銘の滑石製経筒が出土しており、、当時の仏教信仰の一端を物語っています。

古代の菊池川流域 駄の原遺跡の倉庫と住居跡 菊池川流域関係略年表
赤星遺跡出土の土師器 中村廃寺塔心礎石

 162経筒

経筒 凡導寺跡出土経筒
経筒の銘文 鞠智城内八角形の
建物柱穴

 165土製品
土製品
丸瓦・平瓦
奈良~平安初頭
康平寺
甑 奈良時代
下原遺跡
墨書土器
西正、上
8c末~9c初頭
千経塚遺跡
宅代、大正
8c末~9c初頭
千束遺跡
舎人
8c末~9c初頭
上鶴頭遺跡
緑釉陶器片
10c
千束遺跡
 


 170中世



 171中世の菊池川流域

 菊池川流域における中世は、農村を基盤とする地元の土豪菊池市の活躍の時期とほぼ重なりながら展開していきます。

 菊池氏は、刀伊の入寇のさい奮戦した府官藤原蔵規の子孫で、当初菊池川右岸に本拠地を置きます。
平安末期から菊池郡内の中心勢力であった菊池氏は、元弘3年(1333)武重が肥後守となって以来、代々国主もしくは守護として
肥後一国を統制するようになります。

 前後して、菊池氏は、本拠地を現菊池神社の所在する菊池上に移し、南北朝時代には、南朝方に属し、征西将軍宮を奉じ活躍します。
その館跡は、、土居の外などの地名や出土物等から、城の麓の現菊池高校敷地一帯にあったと思われます。
その間、菊池氏は、麓集落である隅府(菊池市)を中心に菊池川流域に防備体制(18外城制)を確立し、菊池川水運の整備や、山鹿温泉の改修整備、
朝鮮との貿易や菊池の孔子廟の設置等に活躍します。

 しかし、戦国期に入ると家臣に乱れを生じ、当主の夭折と相まってまもなく菊池氏は滅亡します。
その後、家臣の勢力が増大し、戦国末期になると赤星氏隈部氏が相次いで菊池城に入場し、隈部氏の行動は、城村城(山鹿市)や田中城(和水町)を舞台とする国衆一揆を引き起こす契機となります。

 国衆を代表する隈部親永は、国主佐々木成政と城村城を中心として戦いますが、
翌年隈部氏ら国衆も、佐々木成政も、豊臣秀吉によって喧嘩両成敗で一挙に処分され、肥後における中世は終わりを告げることになります。

 関連する中世の遺跡としては、隈部館、田中城等の城館跡や寺院跡、墳墓等数多く残っています。

中世の菊池川流域 菊池市の菩提寺
日輪寺
菊池川流域関係略年表
内空閑氏の菩提寺康平寺の仏像 山鹿市
国衆一揆の舞台となった城村城遺跡 山鹿市
天正年間銘の日輪寺梵鐘
天正年間銘の西福寺摩崖仏
菊池武重起請文

 173金属製品
水草流水双鳥鏡
荒尾市 前田遺跡

 175仏教関連
五鈷金剛杵
山鹿市 康平寺
五鈷金剛杵
チベットのもの
瓦質灯籠
康平寺
滑石製鍋 寺米野遺跡
一字一石様川原石 康平寺
滑石製品 前田遺跡
室町時代

 176土師質土器
青磁碗
室町時代浦大間遺跡
土師質土器
山鹿市鹿央町
日羅山遺跡
燈明皿
山鹿市鹿央町 康平寺
瓦質片口土器
西福寺遺跡
室町時代
経筒
康平寺
骨臓器
山鹿市日羅山遺跡
室町時代
 
 180

 181菊池川流域主要遺跡分布模型

 183貝塚って何
{貝塚}って何?~貝塚を体験してみよう~

「貝塚」は、昔の人たちが食べ残した貝殻や獣・魚の骨、いらなくなった道などを捨てていた、昔の人たちのゴミ捨て場です。たくさんの貝殻に守られて、いろいろなものがとても良い状態で保存されます。
ですから、昔の人たちがどんなものを食べていたのか、どんな道具を使っていたのかなどいろいろなことを教えてくれます。

この貝塚が残っされるようになったのは、今から1万年以上前の縄文時代でした。それまでの寒い時代とは打って変わって、今の気候によく似た暖かい時代でした。そんな暖かい気候の中で、昔の人たちは海の幸(海産資源)を盛んに利用するようになったのです。そしてそんな海の幸の利用は、それ以降の弥生時代や古墳時代、奈良時代、平安時代、鎌倉時代、そして今日まで続いています。その結果、残されてきたのが貝塚でした。皆さんが海辺の町に行ったならば、もしかしたら現代の貝塚が見られるかもしれませんよ。

右に展示してるものはそんな貝塚の本物です。熊本市城南町にあるこの黒橋貝塚(縄文時、中期、後期。今から5千年前から4千年前)から直接剥ぎ取ってきたものです。それを見てみますと、カキやアサリ、ハマグリ、九州の浜からいなくなってしまったハイガイなどの貝殻のほかに、イノシシの牙、縄文式土器などを見つけることができます。

この黒橋貝塚の近くでは、御陵貝塚(熊本市)、曽畑貝塚(宇土市) 、轟貝塚(宇土市)、大野貝塚(氷川町)など、たくさんの貝塚を見学することができます。貝塚を体験してみてください。

貝塚って何 御領貝塚 黒橋貝塚付近の貝塚 貝塚剥ぎ取り断面
 
 
 


 200第2展示室



 201百済系青銅仏の日本初出土 (※鞠智城=きくちじょう と読むと思います)
7世紀後半の日本熊本県北部山鹿市の。鞠智城が百済人たちの技術指導によって築城されたことを裏付ける、百済系仏像が出土した。今まで百済人が築城を指導したと考えられていたが、これを立証できる異物が発見されたのは、今回が初めてである。

 7世紀後半に築城された熊本県の鞠智城
'百済人からの指導と技術で築城'を裏付ける物証


鞠智城遺跡を発掘中の熊本県立装飾古墳館は「先月末、鞠智城内部の西側貯水池の地下1.5mの地点で7世紀後半に作ったと見られる百済系青銅菩薩立像を発掘した」と明らかにし、9日、鞠智城温故創成館でこの仏像を一般公開した。

表面がかなり腐食したまま出土したこの青銅製菩薩立像は、頭に宝冠をかぶり、両手で何かを持って、身体の側面はS字形になっている。下端部には、仏像を固定するために「ほぞ」がある。「ほぞ」を含んだ全体の高さは12.7cm仏像部分の高さは9.7cm幅は3cmである。
日本の専門家たちは、この仏像が7世紀後半に製作された百済系仏像だと見ている。


九州大学の大西修也名誉教授は、仏像の大きさ、「天衣」と「ほぞ」の姿などから見れば、百済滅亡直後の660年代に作られたものであろうと推定した。
日本文化文化庁の厳佐光晴主任調査官は「螺旋体的な形を見ると650~675年に作られており、部分的に新しい要素が加味された様式」と評価した。

この仏像の写真を見た韓国国立中央博物館のミン・ビョンチャン学芸研究官は「部分的に6世紀様式と7世紀様式が混じっているが、顔や身体の横線などを見ると、百済系仏像とみてもよさそうだ」と明らかにした。しかし、ミン研究官は、「朝鮮半島の百済の地で作ったのではなく、百済遺民が日本に渡って、熊本の現地様式を一部反映して作った可能性も、排除をすることができない」と述べた。

この仏像出土の最大の意味は、鞠智城築城の過程をより正確に明らかにしてくれるきっかけになると言う点だ。

鞠智城は7世紀後半大和政権の時代に築城された山城だ。当時、朝鮮半島において三国間での戦争が激しくなるなど、東アジアの情勢が緊迫化する中、大和政権が西日本地域を守るために築城した11の山城の1つである。

今日まで日本の学者たちの間で「日本に亡命した百済貴族たちの指導と技術によって建設された」と言う見解があったが、これを裏付ける物証はなかった。
このような状況でこの仏像は重要な物証になり得るようである。

発掘責任者である大田幸博熊本県立装飾古墳館長は、「鞠智城は京畿道河南市の二聖山城と構造がそっくりである」「今度の仏像発見は鞠智城など、熊本地域の古代山城と百済の関係を立証する重要な発見」と評価した。太田館長はまた「大きさが小さなことから、身分の高い百済人たちが携帯した仏像であろう」と推定した。

この仏像は日本で初めて出土した百済系仏像と言う点でも意味がある。
日本には現在10点余の百済仏が伝わっている。1918年和歌山県の那智山で金銅系百済仏像の後背の破片が発掘されたことがあるが、仏像が出土したのは今回が初めてだ。したがって、今回の百済系菩薩立像は7世紀後半の韓日文化交流史研究で非常に重要な資料になると期待されている。

百済系青銅仏の日本初出土
記事前半部


日本の熊本県鞠智城から最近発掘された百済系仏像
 写真の左側が正面。右側は側面。
7世紀後半に作られたと推定されており、鞠智城は百済人の指導により築城されたことを立証する貴重な資料だ。全体の高さ12.7cm仏像部分9.7cm写真提供。熊本県立装飾古墳館。

記事後半部

 203全国風土記の丘
全国の風土記の丘は、1966年文化財保護委員会(現文化庁)によって発案された「風土記の丘構想」に基づいて設置されたものである。

1960年代は、乱開発によって各地で自然や遺跡が無差別に破壊された時代であった。このような環境変化に対応するため、遺跡の広域保存と環境整備を図り、合わせて資料の収蔵設備を整えた事業計画が風土記の丘構想であった。

事業計画は、用地の確保、環境整備、資料館の設置を中心に据え、設置場所は、遺跡を広域に持ち、自然環境を保った、地域が当てられ、公有化によって確保される基準面積は 16 5000平㎡以上とされた。

熊本県では1979年からこの事業に着手し、1992年4月15日にその中核となる「熊本県立装飾古墳館」の開館を見るに至ったもので、当施設はは全国では13番目の開設になる。

全国の風土記の丘
I八雲立つ風土記の丘
J吉備路風土記の丘
Kみよし風土記の丘
L宇佐風土記の丘
M肥後古代の森
N西都原風土記の丘
C房総風土記の丘
D立山風土記の丘

E甲斐風土記の丘
F安土風土記の丘
G近つ飛鳥風土記の丘
H紀伊風土記の丘
Aしもつけ風土記の丘
B先玉風土記の丘
C房総風土記の丘
D立山風土記の丘
E甲斐風土記の丘
 204
A しもつけ風土記の丘
栃木県立しもつけ風土記の丘資料館

栃木県の南西部を流れる思川・姿川流域には、古墳時代から律令期にかけて重要な遺跡が数多くあり、古代下野国の中心地である。資料館には、周辺古墳群の出土品や下野国分寺・国分尼寺に関する資料を中心に展示されている。
  B 埼玉風土記の丘
埼玉県さきたま資料館

国宝金錯名鉄剣の出土で著名な稲荷山古墳のある埼玉古墳群を中心とする。
忍藩主松平家の菩提寺である天祥寺や天正年間の忍城水攻めの遺構が整備され、資料館には石田堤等に関するものや民俗資料が収められている。
  C房総風土記の丘
千葉県立房総風土記の丘資料館。

千葉県の北総台地にある。史跡岩屋古墳をはじめ百数十基に及ぶ、竜角寺古墳群と白鳳時代の寺院である竜角寺との組み合わせが特色となっている。
資料館には考古資料や民俗資料を展示している。
  D立山風土記の丘
富山県立立山博物館

富山県立山町。かつて芦峅寺は、阿弥陀信仰を基本とした立山信仰の中心地として多くの宿坊が軒を並べて栄えた。博物館には立山信仰関係の民俗資料等が収蔵展示されている。
  E甲斐風土記の丘
山梨県立考古博物館

曽根丘陵の古墳群を中心とする。古墳群中に考古資料館があり、周辺部に古代生活体験のキャンプ場や歴史植物園、日本庭園、研修センターなどの多目的施設が併設されている。
  F安土風土記の丘
滋賀県立安土城郭・考古センター

滋賀県蒲生郡安土町。織田信長の居城であり、近世城郭の先駆けとされる、特別史跡、安土城跡を中心に整備されている。
観音城跡、史跡瓢箪塚前方後円墳などの豊富な遺跡・史跡の中に資料館がある。
  G近つ飛鳥風土記の丘
近つ飛鳥風土記の丘資料館

「近つ飛鳥」とは、古代河内地域の名称にちなんだもので、約250基からなる一須賀古墳群を中心として整備されている。なお資料館は投函と同様、安藤忠雄氏の設計による平成6年に完成した。


  H紀伊風土記の丘
和歌山県立紀伊風土記の丘資料館

和歌山市の特別史跡岩橋千塚古墳群を中心とする。
弥生時代の高床式倉庫を模した松下記念資料館があり、遺物等を展示している。移築した民家にも農耕・漁労具が展示され、万葉植物園などがある。
  八雲立つ風土記の丘
島根県立八雲立つ風土記の丘資料館

島根県松江市。一帯は、くにびき神話の地で、縄文・弥生・古墳各時代の遺跡をはじめ、出雲国庁や、国分寺、出雲国造家関係の寺社などが多い。資料館には、これら主要遺跡の出土品を展示している。
  J吉備路風土記の丘
岡山県立吉備路郷土館

※平成22年3月31日付けで閉館。 

岡山県岡山市・総社市。旧山陽道に沿った古代吉備の国には、造山古墳やこうもり塚古墳、備中国分寺跡、宝福寺三重塔など貴重な歴史的遺産が集中している。郷土館には、これらの関係資料が展示されている。
  Kみよし風土記の丘
広島県立歴史民俗資料館

広島県三次市盆地にある。この地方は、古代から県北における文化の中心であった。歴史民俗資料館には、浄楽寺・七ツ塚古墳群出土品を中心に、江の川水系の漁業、民俗資料などを展示している。
  L宇佐風土記風の丘
大分県立宇佐風土記の丘歴史民俗資料館

大分県宇佐市は、古代文化の集積地である。古代寺院、特に富貴寺や皇位すら左右する勢力を持った宇佐八幡、さらに隣接して六郷満山などがある。資料館には、これら関係資料を展示している。
  М肥後古代の森(風土記の丘)
熊本県立装飾古墳館

熊本県の北部を流れる菊池川の豊かな恵みは、その流域に、数多くの装飾古墳を残した。当装飾古墳館では、県下の著名な装飾古墳を原寸大のレプリカとして公開するとともに、菊池川流域の各遺跡から出土した代表的な遺物を展示している。
  N西都原風土記の丘
宮崎県立総合博物館西都原資料館

宮崎県西都市。総数329に及ぶ特別史跡西都原古墳群を中心とする。資料館には、古墳群の出土品を中心として、地下式横穴墓に関する資料、民俗資料などを展示している。
 
 209第二展示室催し物案内
 
 210古墳の形
前方後円墳 前方後円墳

日本の古墳を代表する形です。その形の様子から車塚、ひょうたん塚、銚子塚、二子塚などとも言われてきました。
北は岩手県、南は鹿児島県大隅半島まで広い範囲にあります。その大きさは様々で、400mを超える大きなものから長さ20m前後の小さなものまであります。

円墳
前方後方墳
 
前方後方墳
北は宮城県・関東、南は北部九州に分布しています。
大抵50~60m位の大きさで、最も大きいとされる西山5分(奈良県天理市)は、長さが185mルあります。
島根県に40基をはじめ、岡山県・栃木県に、徳に集まっています。
九州では、長崎県の対馬に数基あります。熊本県では今のところ見つかっていません。
 双円墳
 双円墳
最大のものは金山古墳(大阪府南河内郡河南町)で長さは約78mあります。また、山口県の後井古墳(熊毛郡田布施町)には、それぞれの墳丘に横穴式石室があります。
とても珍しい形の古墳です。その形から、瓢形墳とかも言われます。
 上円下方墳
 上円下方墳
上円下方墳は全国に5~6例ほどしかあり。古墳時代の終わり頃に作られたものが多いようです。石のカラト古墳(奈良県奈良市)や清水柳北古墳(静岡県沼津市)などがあります。
奈良県明日香村にある石舞台古墳もこの形ではないかと言われています。かなり珍しい形の古墳です。
方墳
 
方墳

日本各地にありますが、古墳時代の後期や終末期に60mを超えるような大型のものが多いようです。
九州では宮崎県西都市に、常心塚古墳(64m×58m)と言う大きな方墳がありますが、熊本県ではあまり見かけません。
八角墳
 
八角形墳
7世紀半ばから8世紀初め頃に作られました。

段ノ塚古墳や岩屋山古墳などがあり、それらのほとんどが奈良盆地南部(飛鳥)にあります。
また、古墳の主は、いずれも天皇、またはその皇子が想定されています。
かなり珍しい形の古墳です。

 


 230企画展「装飾古墳」受け継がれゆく宝

 231
開催にあたって

井寺古墳など県内7カ所の装飾古墳は、現在の文化財保護法の前身である「史跡名勝天然記念物保護法」(1919(対象8)年交付)により、最初に史跡として認定を受けました。

当時これらの装飾古墳は、地元はもとより全国の研究者の注目を集め、調査・研究が進められていました。

1916 (大正5)年には日本で初めて考古学講座を開設した、京都帝国大学による県内の装飾、古墳の総合調査が行われ、その成果は2冊の詳細な報告書にまとめられました。これにより「装飾古墳」と言うものが定義され、その学術的研究の基礎が築かれました。

こうした成果もあり、1921(大正10)年3月3日、国の史跡に指定されたことで、わが国を代表する文化財として保護されることとなったのです。

今年度はこの指定から100年の節目に当たります。熊本の古墳文化を代表する装飾古墳は、これまでたくさんの人々の想いによって護られ、また多くの方々の地道な研究の積み重ねで歴史的価値が高められてきました。本企画展では、このように受け継がれてきた私たちの宝、装飾古墳の世界へと皆様をご案内いたします。

最後に開催にあたり、貴重な資料の出品や写真の提供などにご協力を頂きました関係各位に対しまして、厚く御礼申し上げます。令和2年10月17日熊本県立装飾古墳館長


プロローグ

考古学にとって「記録」する事は、その遺跡の現在の姿を後世に伝えていくための手段の1つです。

これは1849年(嘉永2年)山鹿を訪れた久留米藩士矢野一貞が鍋田横穴27号墓に刻まれた装飾を描いたもので、「筑後将士軍談(筑後国史)」と言う書物に収められています。

現在、鍋田横穴27号墓の半分は崩落によって失われ、見ることはできません。私たちは彼が残したスケッチによって、失われた部分を含めた装飾文様の構造を知ることができるのです。

江戸時代の終わり頃、菊池川流生行の横穴墓や古墳などに描かれた装飾文様は、すでに特異なものとして、人々に注目されていたことがわかります。この地方での装飾古墳研究の揺籃期であったと言えるでしょう。

今回の展示では、多くの先人たちによる調査研究の歴史を振り返ります。郷土を愛するたくさんの人々の想いによって、大切に守り、伝えられてきた「装飾古墳」の魅力を感じてください。

開催にあたって プロローグ
①鍋田横穴27号の
装飾文様
②久留米藩士のスケッチ 筑後国史
(筑後将士軍談 下巻)
 232
地元研究者の活躍、

1880年(明治13)年政府は古墳を発見した場合の届け出を義務付けました。熊本県内の届け出のあった古墳の記録をまとめた「古墳発顕記録」には、装飾古墳である晩免古墳及び潤野古墳(宇土市)が1883(明治16年)の発見が記載されており、県下の装飾古墳の発見例では古いものになります。

1899 (明治32)年、熊本県尋常師範学校の美術教師であった福原岱郎は、考古学の専門誌『考古学会雑誌』に「肥後雑件」を連載し、竜北高塚古墳(氷川町)の装飾がある石棺や大野窟古墳(氷川町)などを取り上げ、巧みなスケッチとともに紹介しました。

菊池川流域の装飾古墳については、県立鹿本中学校の教師、波多巌が研究を行っています。「肥後国菊池川流域における横穴及び古墳」は 1905(明治38)年、『考古界』に4回にわたり掲載され、鍋田横穴や長岩横穴などが報告されています。1909 (明治42)年には「チブサンの石人につきて」、続いて、1913 (大正2)年の「肥後国平小城村古墳チブサンの石棺及び模様について」(『考古学雑誌』3−2)を発表し、特に後者はチブサン古墳(山鹿市)の装飾を、初めて報告したものとして、当時も高い評価を得ています。

このように装飾古墳の存在が広く学会に知られてゆくには、装飾古墳研究のパイオニアとも言える地元研究者たちの熱心な活動がありました。

地元研究者の活躍 長岩横穴群 長岩横穴群
所在地
時期:後期
鉄鏃・刀子
(長岩横穴群)
古墳後期
須恵器 高坏・甕
長岩横穴群
古墳後期
 233
③竜北高塚古墳石棺
③竜北高塚古墳石棺
④同スケッチ

⑤長岩108号横穴墓
⑤長岩108号横穴墓
装飾文
⑥長岩108実測図 二個の土器は撮影禁止
 

 234チブサン古墳(国指定史跡)
所在地 熊本県山鹿市城
時 期 古墳時代(6世紀前半)
概要
平小城台地の東端(標高45m)に立地
前方後円墳(複室構造の横穴式石室)
石屋形に赤色、白色、灰色で菱型文の連続文と同心円文、人物が描かれている。
また、装飾古墳質のレプリカで見ることができる。
セク人を伴っていたが、現在は九州国立博物館に没収展示されている。

⑦長岩109号横穴墓装飾文様
同実測図
土師器 赤彩壺
チブサン古墳
6c前半
土師器 黒彩壺
チブサン古墳
6c前半
チブサン古墳

 235⑨チブサン古墳石屋形
石屋形 ⑩チブサン古墳石屋形実測図

 チブサン古墳馬形埴輪脚部
馬形埴輪(脚部分)
チブサン古墳
馬形埴輪脚部
6世紀前半

 チブサン古墳円筒埴輪
円筒埴輪 円筒埴輪
6世紀前半
 
 240
 241京都帝国大学の調査と史跡指定
1916 (大正5)年12月下旬から翌年1月中旬にかけて、浜田耕作を中心とした京都帝国大学考古学講座による、県内の装飾古墳の相互調査が行われました。
井寺古墳(嘉島町)を始めとする県中央地域から、八代・天草地域、大村横穴群(人吉市)などの球磨地域、さらに玉名地域と広域に亘るものでした。
これらの調査の成果は京都帝国大学文科大學考古学研究報告、第1冊『肥後における装飾ある古墳及び横穴』として、1917 (大正6)年に発刊されました。

また1918(大正7)年には再び熊本入りし、釜尾古墳(熊本市)を始めとした、宇土、天草、八代地域の装飾古墳の調査を行いました。
その成果は、研究報告第3冊『九州における装飾ある古墳』(1919 (大正8)年)にまとめられています。

これらの報告書に収められている井寺古墳、千金甲古墳(甲号)(熊本市)、同古墳(乙号)、釜尾古墳、大村横穴群(人吉市)、石貫穴観音横穴(玉名市)、石貫ナギノ横穴群(玉名市)は、1921(大正10)年の最初の国史跡指定の際に指定されました。

京都帝国大学の学術調査が、史跡指定に必要な装飾古墳の価値付けに果たした役割は大きなものでした。
1922(大正11)年に指定された、チブサン古墳・鍋田横穴群を加え、熊本県下で戦前に指定された11件の内9件が装飾古墳になります。

京都帝国大学の調査と史跡指定
井寺古墳 井寺古墳石室石障
⑫井寺古墳実測図 須恵器坏身蓋
釜尾古墳
 242
釜尾古墳石室内部 実測図
 石貫穴観音2号横穴
 石貫穴観音2号横穴 
実測図       
須恵器ハソウ
釜尾古墳6c前半
須恵器 高坏
土師器 高坏
釜尾古墳6c前半
九州における装飾ある古墳

 244石貫ナギノ8号横穴墓
石貫ナギノ8号横穴墓 実測図
馬具 雲珠 刀鍔
弁慶ヶ穴古墳
6世紀
刀の鍔 馬具雲珠
 245大村7号横穴墓
⑲大村7号横穴墓 ⑳実測図
鉄鏃
弁慶ヶ穴古墳 6c後半
 246㉑千金甲古墳(甲号)
㉑千金甲古墳(甲号) ㉒千金甲古墳実測図 須恵器
坏、ハソウ
弁慶ヶ穴古墳 6c後半
 247㉓千金甲古墳(乙号)実測図
㉔千金甲古墳(乙号)実測図
須恵器坏身・蓋
土師器坏
弁慶ヶ穴古墳 6c後半

出土物撮影禁止


 234弁慶ヶ穴古墳(国指定史跡)
所在地 熊本県山鹿市入町
時 期 古墳時代(6世紀後半)
概要
熊入台地の西端(標高40m)に立地
円墳(複室構造の横穴式石室)
石室に赤色、白色、灰色で馬、人物、船に乗った人物、馬を乗せた船、同心円文、菱型文、三角文等が描かれている。
また、装飾古墳質のレプリカで見ることができる。

須恵器坏身・蓋
土師器坏
弁慶ヶ穴古墳 6c後半

出土物撮影禁止
弁慶ヶ穴古墳
 

 280高校考古学部の活躍
 281
昭和30年代、各地の考古学の調査研究を担っていたのは、地元の高校の部活動でした。
装飾古墳の調査・研究においても、特に原口長之氏が指導した山鹿高校(現在の鹿本高校)考古学部の活動が多くの成果を上げています。
馬塚古墳、臼塚古墳、弁慶ヶ穴古墳など山鹿周辺の遺跡調査の成果は、ガリ版刷りの報告書や部誌「チブサン」に掲載されています。

特に話題を呼んだ「弁慶ヶ穴古墳」の調査は、1956(昭和31)年に行われました。今でこそ装飾古墳で有名ですが、1923(大正12)年に発行された『鹿本郡誌」に「馬の壁畫あり」の記載はあったものの、石室の壁はススで真っ黒に汚れており、装飾が見える状態ではありませんでした。

考古学部員たちが清掃を行った際、石室の壁に水をかけて亀甲たわしでゴシゴシとこすったところ、鮮やかな赤い色彩が現れ、次々と装飾図柄が発見されました。
この世紀の大発見は、新聞各紙が大きく取り上げることになり、全国的に知られることとなり、弁慶ヶ穴古墳は、1956 (昭和31)年12月に国史跡に指定されました。

高校考古学部の活躍 高校生発掘隊の雄姿

282馬塚古墳  (国指定史跡)
所在地 熊本県山鹿市鬼天神
時 期 古墳時代(6世紀前半)
概要
平小城台地の南東端(標高40m)、断崖近くに立地
円墳(複室構造の横穴式石室)
石室に赤色、白色、灰色で連続三角文等が描かれている。

調査報告書 須恵器片 馬塚古墳
6世紀後半
土錘
馬塚古墳
6世紀後半
鉄鏃
馬塚古墳
古墳後期
刀子
馬塚古墳
古墳後期
馬塚古墳 高等学校部誌
チブサン
 
 
 
 300
 301文化財保護行政の整備
1955(昭和30)年から1973(昭和48)年にかけては高度経済成長期と呼ばれています。国民の生活レベルは上がり、各地で高速道路開通や新幹線開業等のインフラ整備も進みました。
熊本県でも、この時期は開田事業などの農地開発や住宅地の造成、九州縦貫自動車道建設工事等、様々な開発事業が行われました。しかし、それに伴って、古墳を始めとする多くの遺跡が破壊の危機にさらされました。

このような状況の中、熊本県では1972(昭和47)年に文化財保護を担当する部署として県教育庁(県教育委員会事務局)に文化課が設置されました。装飾古墳についても、様々な保護の施策が取られました。

まず1973(昭和48)年度から2ヶ年に亘り、装飾のある横穴式石室及び石棺の実測調査が実施されました。
1974 (昭和49)年には『熊本県の装飾古墳白書』において、装飾古墳の保存方法や管理に一定の方向を示し、その後の保存施設の建設などの保護措置と続いていきます。
1981 (昭和56)年度から3年かけて装飾古墳の総合調査が企画され、『熊本県装飾古墳総合調査報告書』(1984 (昭和59)年)がまとめられました。
昭和40年代後半から昭和50年代にかけては、装飾古墳の保存に向けた動きが急速に進むことになりました。

文化財保護行政の整備
緊急発掘調査
興善寺馬場遺跡
緊急発掘調査
横山古墳
チブサン古墳
塚坊主古墳 袈裟尾高塚古墳
 303
左:玉類 臼塚古墳
6世紀前半
右:耳環 臼塚古墳
6世紀前半
耳環 臼塚古墳
6世紀前半
馬具 臼塚古墳
6世紀前半
須恵器壺
臼塚古墳
6世紀前半
 
305臼塚古墳

 臼塚古墳  (国指定史跡)
所在地 熊本県山鹿市臼塚
時 期 古墳時代(6世紀前半)
概要
岩野川の沖積平野上の自然堤防上(標高20m)に立地。
円墳(複室構造の横穴式石室)
石室に赤色、白色、灰色で人物、三角文、円文等が描かれている。
石人を伴っていたが、現在は県立美術館で展示されている。また、双しっょく古墳館のレプリカでも見ることができる。

臼塚古墳 貝類 6世紀前半
 307円筒埴輪 臼塚古墳 6世紀前半
 310
釜尾古墳
千金甲(乙号)古墳
右袖石
千金甲(乙号)古墳
左袖石
千金甲(甲号)古墳
千金甲(乙号)古墳
左袖石
 
 
320古墳時代のガラス

 321
 古墳時代のガラス玉
アルミナソーダ石灰ガラスが多く出土する。
多くは古墳の副葬品。
5世紀までは紺色、緑色のガラスが多い。
6世紀頃には黄色水色など色のバリエーションが増える。
7世紀頃には赤色のほか、鉛ガラスが使われる。

 調査を行った出土ガラスの製品
東京理科大学との合同調査
装飾、古墳館では、現地にある装飾古墳の調査と並行して装飾古墳から出土した遺物の調査も行っています。

今回蛍光X線分析、ラマン分光分析等によるガラスの豊富な調査データと経験を有する東京理科大学中井泉先生などとの合同調査により、
装飾古墳のみならず、江田船山古墳や弥生時代の遺跡から出土したガラス製の玉(小玉、勾玉)も含め、その調査生日の一部を紹介します。

古墳時代のガラス玉 調査を行った出土ガラスの製品 小玉・丸玉 小玉・丸玉

 323ソーダ石灰ガラス

ソーダ石灰ガラス(紺色)
江田船山古墳
ソーダ石灰ガラス アルミナソーダ石灰ガラス
弥生時代のガラス玉
カリりガラスが多く出土する。水色・紺色のガラスが多い。甕棺墓
、土壙墓のほか、竪穴住居跡唐も出土する
アルミナソーダ石灰ガラス 小玉 小玉
水色・紺色・青緑・緑・黄色
国越古墳

 330公開・活用されてきた装飾古墳
装飾古墳は、石室内部の石材や横穴墓の岩肌に直接装飾を
施すことなどから、環境の変化に弱い文化財です。古墳ごとに保存条件も違うことから、保存・活用については多くの課題があり、保存施設の建設に伴い、一般公開を禁じている古墳もあります。

このような中、1976(昭和51)年に熊本市に開館した県立美術館の地下1階に装飾古墳室が設けられました。溶結凝灰岩の模刻の上にフレスコ技法で彩色したチブサン古墳の石屋形を始め、県下の主要な装飾古墳がレプリカで再現され、この一室だけで装飾古墳の世界に入門できる仕組みになっています。

1992 (平成4)年には、装飾、古墳の調査研究及び保護活動を積極的に図ることを目的に、県立装飾古墳館が開館しました。熊本県の代表的な装飾古墳12基の石室や石棺のレプリカと並び、その出土品も展示されており、石棺系、石障系、石屋形系、横穴系とたどった装飾古墳の足取りを具体的に知ることができます。

また、古代の生活に触れる体験学習ができる施設として県内の小中学校に活用されています。
また、保存施設の環境調査などの成果を踏まえ、装飾古墳の保存に影響が少ない、秋と春に時期を選び、県教育委員会と県内市町とが連携して、2009 (平成21)年から「熊本県内装飾古墳一斉公開」を実施しています。

装飾古墳には、その保存のために適切に管理・活用し、地域の宝として次世代に伝えていくことが求められています。

公開・活用されてきた装飾古墳
:県立装飾古墳館 県立美術館
県下装飾古墳一斉公開ポスター
 


 340江田船山古墳
菊池川中流域にある前方後円墳です。明治6(1873)年に発見。
銀象嵌のペガサスや75文字が刻まれた大刀や、金銅製冠など、この時に発見された出土品約200点は、国宝として東京国立博物館に保存されています。


 3415刀剣 江田船山古墳
江田船山古墳出土
大刀復元刀
江田船山古墳5c後半
国宝銀象嵌銘大刀

 江田船山古墳
江田船山古墳
5世紀後半
墳丘墓 出土品
上に記述
耳飾り 金銅製
冠帽 金銅製
青銅鏡

 343アンバランスと調和の装飾文様
塚坊主古墳 熊本県玉名郡和水町瀬川
塚坊主古墳は、現在周囲を削りとられて小さくなっていますが、本来は長さ44.3mの墳丘を持つ前方後円墳であったことが、県文化課の史跡整備の調査でわかりました。
さらに平成3年の調査では、石室内の石屋形の内面に描かれた装飾文様の全貌も明らかになりました。

文様は、石屋形の奥壁と左右の側壁に描かれています。モチーフは三角形ですが、連続三角文を主体に、菱形や大きさの異なる三角文を配してアンバランスを強調しながら、全体的にみるとバランスを感じさせる不思議な模様です。
彩色には、赤・白の顔料を用いていますが、黒色を使った可能性もあるようです。
模様は菊池川を挟んだ対岸の玉名市にある大坊古墳や山鹿市のチブサン古墳の文様と大変よく似ています。
このことは、菊池川の流域に同じ文化を共有する勢力が存在したことを物語る証と言えるでしょう。


アンバランスと調和の装飾文様
塚坊主古墳の装飾文様
大坊古墳の装飾文様
国宝 神碑と車馬画像鏡レプリカ

江田船山古墳 5c後半
子持ち壺 京塚古墳
5c後半
玉類
江田船山古墳 5c後半
鈴付高坏 京塚古墳
5c後半
国宝金製長鎖三連式垂飾坏耳飾りレプリカ
江田船山古墳
5c後半
 345
須恵器高坏
江田船山古墳
5世紀後半
国宝金銅亀甲文冠帯金具残欠
江田船山古墳
5世紀後半
国宝金銅製沓 複製
江田船山古墳
5世紀後半
石枕 塚坊主古墳
5世紀後半
永安寺東古墳
6世紀
 
 350

 351被災した装飾古墳
    釜尾古墳
 平成28年熊本地震、1月の和水町を震源とした地震は、装飾古墳に大きな被害を与えました。
被災した装飾古墳では全国から支援を戴き、復旧事業が始まっています。
皆さんに再び訪れていただく日を思い描きながら。

釜尾古墳

 353古墳石室写真
大村7号横穴墓 石貫ナギノ横穴8号墓
石貫観音横穴2号墳
井寺古墳 5世紀
井寺古墳
 


 400地階展示



 401広開土王碑の碑文拓本
広開土王は、紀元前1世紀から西暦7世紀後半までの間、今の朝鮮民主主義人民共和国から中華人民共和国の東北部(吉林省集安市)にあった高句麗の王で、好太王とも呼ばれています。広開土王碑は、その息子である長寿王が父の業績を刻んだ一大記念碑です。

広開土王碑は、高さ6.3m、胴周り6.2mと言う角柱状の巨大な岩の4つの側面に1800もの文字が刻まれています。
特に注目されるのは、
「百殘,新羅舊是屬民,由來朝貢,而倭以辛卯年來,渡海破百殘,□□新羅,以為臣民。」
と言う記事です。

「百残(百済)や新羅は元々高句麗の属国で、高句麗に朝貢していた。ところが、辛卯の年(391)に、倭が渡海して清に釉し、百済・伽羅。新羅を押さえたため、高句麗に朝貢しなくなった。」と記されています。これが事実ならば、4世紀末の日本(倭)には、海外へ派兵するほどの力を持った統一国家が成立していたことになります。(この記録は日本に残っていません)。歴史の教科書でも取り上げられているように文字資料が少ない日本古代史上、とても重要な碑文であるとともに、当時の東アジアの国際情勢を知る上で貴重な碑文です。

ここに掲示している資料は、この広開土王碑の4面のうち、「倭」について注目される記述がある第一面の沢本であり、山鹿市菊鹿町在住の古関三博氏が平成8年(1996) 4月に現地調査で入手されたものです。装飾古墳と言う共通する文化風土を持つ高句麗と菊池川流域を理解する貴重な資料です。

資料名:広開土王碑拓本資料
寄託者:古関三博氏

広開土王碑文 広開土王碑の碑文拓本

 広開土王碑の碑文拓本資料

広開土王碑の碑文拓本
広開土王碑
4・5世紀の朝鮮半島
広開土王碑 平城と帯方郡 百済・新羅

 402石室壁画

 403壁画図案

 405古代馬と馬具博 装飾馬具
この模型は大阪府日下遺跡出土の完全な馬体(古墳時代中期・5世紀後半)を基準にして、我が国の在来馬の中で、最も自然な繁殖が行われてきた
都井岬に生息する「御崎馬」を参考に復元したものです。体高130cmと推定された大陸系の中型馬に属します。
 また、装飾されている馬具は全て大阪府吹田市新脚や古墳出土のレプリカです。


 410装飾古墳とは
 三世紀の終り頃から七世紀の終りにかけての列島には、大規模な盛り土をもった墓が数多く造られたため、この時代を古墳時代と読んでいます。
このような古墳の石室内部や石棺などに、絵画や彫刻による装飾を施したものを装飾古墳と読んでいます。
 特に5~6世紀を中心とする時期に多く造られました。

 まだ文献もほとんどなく、文字が普及していなかったこの時代にあって、単に日本の絵画史の出発点としての価値にとどまらず、
古代人の死後の世界観など、人々の精神文化にまで立ち入ることのできる貴重な歴史的遺産として、今後とも大切に守り続けて行かなくてはなりません。

 装飾古墳の分類
装飾古墳には様々な種類のものがありますが、おおむね次の4つに分ける方法が一般的です。
 ①石棺に装飾がある古墳
 ②石障に装飾のある古墳
 ③壁画を描いた装飾古墳
 ④装飾のある横穴

装飾古墳とは
装飾古墳の分類

 411①石棺に装飾がある古墳

 石棺の種類
石棺に装飾がある古墳
割竹形石棺 舟形石棺 家形石棺(横口式) 箱式石棺

 412時代別の石棺
石棺の編年
4-5世紀の石棺 4-5世紀の石棺
安福寺境内石棺
直弧文のみの装飾
5世紀中頃の石棺
鴨籠古墳
直弧文に円文が加わる
5-6世紀の石棺
大鼠蔵東麓1号墳
円文に武器武具等に具象文様が加わる
7世紀の石棺
水泥古墳

蓮華文が加わる

 413②石障に装飾のある古墳

 石障系石室とは
 石室内部の遺体を安置する部屋である玄室内部に、石障という板状の石材を立て並べて壁をつくる横穴式石室の一種で、
特に古代肥後の国を中心に発達しました。直弧文などの装飾文様の多くは、この石障部分に施されています。

石障に装飾のある古墳 古墳内模式図 井寺古墳石室実測図
 414
5世紀前半の古墳
千足古墳
線刻による直弧文の装飾
5世紀中頃の古墳
井寺古墳

線刻で直弧文や円文を描き赤青白の顔料で塗り分ける
5世紀後半の古墳
千金甲古墳
円文・対角線文に靫が
 
415③壁画を描いた装飾古墳

 壁画を描いた装飾古墳
6世紀初頭の古墳
塚花塚古墳

同心円文・連続三角文・咽蕨手文や靫
・盾・大刀・馬などを赤色と緑色の顔料で描く
6世紀初頭~中頃の古墳

幾何学文と武器・武具や騎馬像を描く
6世紀後半の古墳
弁慶が穴古墳

馬・舟などを組み合わせ、物語性のある壁画を赤色顔料で描く

 416九州地方以外の装飾古墳
高松塚古墳 山陰地方の装飾古墳
幾何学文と円文・三角文や魚を赤い顔料で描く
近畿地方の装飾古墳
墓室の左右画面と通路都通路部分に線刻による人物像などが分かれている
北関東の装飾古墳
墓室の奥壁都左右の壁面に、円文や三角文、更に大刀・靫・鞆などの武器や武具が赤い顔料で描かれている。

 417④装飾のある横穴

 横穴墓の構造
岩肌が剥き出しになった崖面に横穴を掘って墓室を造った古墳時代の墳墓の一種で、横穴式石室と同じく、墓室が一つ(単室)のものと、ふたつ(複室)のものが あります。また、数十基から数百基の単位で群集することが一般的です。

 地下式横穴墓の構造
 地面に竪坑をもうけ、更に横方向に掘って墓室を造った古墳時代の墳墓の一種で、特に宮崎県や鹿児島県など南九州に発達しました。

装飾のある横穴 横穴墓の構造
地下式横穴墓の構造
 418
横穴墓の内壁に装飾
清戸迫横穴群

渦巻文を中心に人物や動物が赤色で彩色されている。
東北地方以南の日本列島のほぼ全域に分布する
横穴の外壁に装飾
鍋田横穴群

人物や武器・武具を線刻・浮彫で表現。熊本県菊池川
・隅川流域に分布する
地下式横穴の装飾
立切地下式横穴墓群
家屋の棟柱や部材を浮彫や彩色で表現。宮崎県を中心とする南九州に分布する。
 

 450イマジネーションホール
 451館内映像上映案内

 455竹原古墳  6世紀後半 福岡県若宮町竹原 諏訪神社境内
 この古墳は直径約17~18m高さ5mの円墳です。内部の横穴式石室は、前室と奥室に分かれています。
前室の奥壁、つまり奥室の入口両袖表面の右側には朱雀らしい鳥の絵、左側には玄武らしい絵が描かれています。
ここから奥壁を見通すと、通路が作り出す画面一杯に、黒と赤色の顔料で壁画が描かれています。

 奥壁の左右に翳(サシバ 貴人に差し掛ける日傘)、右に連続三角文、下に波を、その上に舟、馬を引いた人物、その上には炎を吐く駿馬に似た怪獣と小さな舟が描かれています。
人物の服装などは、人物埴輪や、高句麗壁画古墳にも見られるもので、全体として大陸的な要素が多く認められます。

竹原古墳
6世紀後半
玄武と朱雀 前室
奥室

 457太田古墳 (田代太田古墳) 鳥栖市田代古墳模型 S=1/5
 
 


 500装飾古墳室



 501鍋田横穴墓群27号墓 7世紀 
 山鹿盆地の西北、平小城台地(ひらおぎ)の南崖には城地区46基、付城地区96基、鍋田地区60基等の横穴墓が密集している。
中でも著名なのが鍋田横穴群27号墓である。

 入口の右側は崩落しているが、古く嘉永2年(1849)の矢野一貞のスケッチによると、この部分にも靫や大刀や人物像が描かれている。
展示資料は入口の左側の外壁に施されたもので、全て浮彫りである。

 1は弓を持つ人物で、墓室を守る人であろう。2は矛先、3は鞆、4は大きな靫、5は小さな靫、6は鎌、7は矢をつがえた弓、8は盾9は馬である。
以上のように文様も豊富で、装飾のある横穴の代表例である。

浮彫図
鍋田横穴墓群27号墓
7世紀
上に記述
鍋田横穴群浮彫

 503大村横穴群11号墓 7世紀
 球磨川の右岸JR人吉駅の北側の阿蘇溶岩の急崖に南面して26基の横穴が開口している。この中の7基に装飾が見られる。
展示資料は第11号墓外壁のものである。図中の1・2・3は靫で、特に2の靫には鋭い鏃を持つ5本の矢がおさめられている。
4・5は鞆であろう。6・7・8は刀子、9~12は円文、13は靫であろうが判然としない。
靫などの武器の威力によって、悪霊の侵入を防ぐとともに、ここに葬られた人の生前の冨を誇ったものであろうか。

横穴群浮彫
大村横穴群11号墓
6~7世紀 人吉市
大村横穴群11号墓
上に記述
 
 510装飾古墳室入口
 装飾古墳とは
 古墳内部の石室や石棺、又は横穴墓の壁面に、彩色や彫刻による文様を施したものを、装飾古墳と読んでいる。
こうした現象は4世紀後半に始まり、横穴式石室が盛んに営まれた6世紀から7世紀にかけて、九州北部を中心に広がった。
全国で約660例が知られているが。その3割近くが本県にあり、特に菊池川流域に集中している。
装飾古墳が各方面から注目されているのは、描かれた文様や様々な図柄から、文字による記録のない古墳時代似あって、
祖先の人々の考え方や社会の仕組みなどを知る手がかりになるからである。

 また、これらの文様を絵画・彫刻として見る時、遠く我が国の美術史の源流を知る上でも、重要な資料となるものである。

装飾古墳とは 館内図 入口

 520永安寺東古墳 7世紀
 玉名平野の北方、東西に連なる丘陵の南崖に築かれた円墳である。
隣接して永安寺西古墳があり、さらにその西側に大坊古墳がある。
 現在の墳丘は高さ約3mあるが、大部分が崩壊して石室が露出している。
内部は南東側に入口をもつ複室の横穴式石室で、前室の前半分は崩壊している。
玄室奥壁に沿って石屋形がある。
奥壁と左右の側壁には阿蘇凝灰岩切り石の巨大な一枚石を立て、その上に小型の切り石を持ち送り式に3段階に積み上げ、さらに、安山岩の板石を架して天井としている。

大坊古墳では三角文を主体とするのに対して、ここでは円文が中心である。
赤く塗られた円文を並べ、上方に厩ゴンドラ形の船の江がある図柄は、幾何学文様から形象的な文様への装飾文様の発達過程を示すものとして注目される。


 540古城横穴墓群 第39号墓閉塞石 熊本市古城町 6c末~7c後半
 古城横穴墓群は、6世紀末から7世紀後半にかけての共同墓地の跡です。県立第一高等学校災害復旧工事に伴い承和57年11月から58年6月まで発掘調査が行われました。
 調査では53基の横穴墓が確認され、その中から副葬品として馬具などが見つかっています。
この横穴墓で特筆すべき発見品だったのが39号墓の閉塞石(入口を塞ぐ石)でした。
閉塞石の表面に「火守(または火安)」と読める文字が彫り込まれていたのです。
 “火守”と読んだ場合、39号横穴墓の被葬者が生前、火を管理する職務に就いていたとも考えられます。
 なお、古城横穴墓群は、東京都の大森貝塚を発見し、発掘したことで知られるE.・S・モースが1879(明治12)に訪れたことでも知られています。

古城横穴墓群
第39号墓閉塞石

 550鴨籠石棺(かもこ) 5世紀 宇土市不知火町大字長崎字坊の平
 鴨籠古墳は宇土半島南岸の通称城の越丘陵にあった円墳で、内部に大きな板石を立てて造った竪穴式石室があり、この石棺はその北壁に沿って置かれていたものである。
石棺は蓋・身ともに阿蘇溶結凝灰岩の一石を刳り抜いて造られた家形石棺である。
棺蓋の四周に幅の狭い縁取りがあり、、両側の長い縁取りの下に、それぞれ2個の縄掛け突起があったといわれるが現在は残っていない。
棺身内の一端に枕を作り出してある。
棺蓋の屋根に刻まれた文様は「直弧文」で、もとは赤で彩色してあったらしい。

鴨籠石棺

 560井寺古墳 6世紀 上益城(かみましき)郡嘉島町大字出良字冨屋敷
 熊本平野を西に望む低い丘陵に築かれた古墳である。現在は変形しているが、直径約24m高さ5m程の円墳であったらしい。
内部は入口を西側にした単室の横穴式石室で、阿蘇溶結凝灰岩の切り石を使い、丁寧に積み上げられて造られている。

玄室は幅2.30m長さ3.20mの長方形で、天井までの高さはおよそ3mである。玄室の内側には高さ0.8mの石障をめぐらしている。
もとはその内側に石棚があり、奥壁と両側壁に二個ずつの突起がある。
石障に線刻してある文様は、直線と弧線を組み合わせた直弧文・同心円文・梯子形文・柱状文で、
もとは赤・白・緑の3色で塗り分けられ、実に奇麗なものであったと思われる。

井寺古墳
 570
 571展示室全景
 572土器
 古墳時代に使われた土器として、「土師器」と「須恵器」があります。土師器の方が古くから使われていました。
いずれも普段の生活で使われたものですが、古墳へのお供えとしても沢山おさめられています。
ただ、普通に使うものに比べ、赤く塗るなど特殊な物が使われた要です。
 墓の中に一緒に納めたものと、墓の周りでお祀りを行った際に使われたものがあるようです。

土器 土師器赤塗り高坏
古墳後期 釜尾古墳
土師器二重口縁壺
古墳後期 上ノ原遺跡
須恵器 無頸壺 古墳後期
熊本市 釜尾古墳
坏   古墳後期
熊本市 釜尾古墳
高坏 古墳後期
熊本市 釜尾古墳
壺 古墳後期
城南町 上ノ原遺跡

 573埴輪
 埴輪は、古墳を飾り、威厳を示すために古墳の頂部や中段、周溝の縁などに立てられていました。
種類としては、形象(人物・動物・家形)埴輪、円筒埴輪、朝顔形埴輪などがあります。

また、九州では加工のしやすい凝灰岩を利用した石人・石馬が有名です。これも埴輪と同じ役割をもつと考えられています。
菊池川流域は、福岡と並んで石人・石馬が非常に沢山ある地域です。

円筒埴輪 古墳後期
山鹿市 金屋塚古墳
円筒埴輪 古墳後期
山鹿市 金屋塚古墳

 574装身具 国越古墳 古墳時代後期 宇土市不知火町
 古墳時代には、人々がどの程度のオシャレをしていたかよくわかりませんが、古墳から出てくるものを見ると、古墳に入れられた人は
かなりの飾りを身につけていたようです。耳に耳飾り、首に首飾り、髪に櫛などがあります。
 ここに展示したのは、国越古墳のものですが、玉の数は数百を数えます。
中でも黄色のガラス小玉は非常に珍しいものです。

装身具 装身具 金環 古墳後期
硬玉製勾玉 碧玉製管玉
ガラス製小玉 銀製空玉
左:丸玉(紺色)
小田良古墳 宇土市
5世紀中
右:小玉・丸玉・棗玉
(水色・紺・青・緑)
小田良古墳 宇土市
5世紀中
青銅製鈴
小田良古墳 宇土市
5世紀中

 575小田良古墳 宇土市 古墳時代後期 5世紀中
滑石製臼玉
小田良古墳 宇土市
5世紀中
金銅製耳環
古墳後期 横山古墳
銀製耳環
古墳後期 横山古墳

 576武器・武具 横山古墳
 戦争に主に使われる道具は、弥生時代に既にありました。古墳時代になると、大陸からの影響もあって数も多く、技術も進歩しました。
武器としては、まず鉄鏃、鉄戈、鉄剣、鉄刀などがあります。また、武具としては、身を護る甲冑、馬に使用した馬具などがあります。これらは実用的な物が多く、実際に戦闘に使用したものでしょう。

辻金具 古墳後期
横山古墳
辻金具 古墳後期
横山古墳
刀装具 古墳後期
横山古墳
鉄製馬具

 577
鉄鏃 古墳後期
国越古墳
広根式鉄鏃 圭頭式鉄鏃
細根式鉄鏃
鉄鉾 古墳後期
国越古墳
圭頭式鉄鏃 細根式鉄鏃

 578農具・工具
 古墳時代には、鉄製の農耕具が人々に広く使用されるようになってきました。
弥生時代には、鉄自体が貴重で使用する度合いが余り大きくありませんでしたが、弥生時代の終り頃から鉄の生産が日本でも始まって来たようです。
そして使用の度合いも急速に高まって行きます。古墳にも自分の冨を象徴するかのように多くの鉄製品を納めていました。
鎌、鋤先、斧、鑿等がそれです。

農具・工具 鉄製農具
鍬先・鋤先と鎌
鉄製工具

鉄斧と鑿

 579銅鏡

 鏡は元々中国大陸からもたらされたもの(舶載鏡)ですが、その形を真似て日本で作ったもの(仿製鏡)もあります。
既に弥生時代から鏡を大切にする習慣が日本にはありました。
古墳時代になると、鏡は古墳の中に死体と共に入れられるようになります。
この鏡は自分の顔を写すためではなく、お祭りに使用したり、自分の権威を人々に示すために使ったものだといわれています。

平縁四獣鏡 後期
塚坊主古墳
半肉彫獣帯鏡 後期
国越古墳
四獣鏡 後期
国越古墳
画文帯神獣鏡 後期
国越古墳
 
 
600木柑高塚古墳出土石人(きこうじたかつかこふん) 菊池市木柑子所在  6世紀
 木柑子高塚古墳は、6世紀中頃に造られた前方後円墳です。
花房中央地区県営圃場整備事業に伴って平成9年2月から9月まで発掘調査され、築造年代や墳形が分かりました。
また、この周溝から4体の人物型石製表飾、石人が出土しました。

 これらの石製表飾は、石人石馬とも呼ばれ、埴輪や木製表装具をモデルに製作されたと考えられ、
熊本県中部以北、福岡県南部など有明海沿岸を中心に分布しています。
 古墳館では、出土した4体の石人の内3体を展示しています。
真ん中と向き合って右側の石人は、ふくよかな腹部から女性とも力士とも考えられています。
一番左の端の人物は冠帽を被った貴人を表現しているようです。もしかするとこの古墳の被葬者なのかもしれません。

木柑高塚古墳出土石人
九州に分布する石人ほか
 
         
石人(文人)
木柑高塚古墳
石人
木柑高塚古墳
石人(女性石人)
木柑高塚古墳
 610

 611人物埴輪 古墳後期 虚空蔵古墳
 人物埴輪の頭部です。耳、鼻、頭髪が撮れていますが、残りの部分から巫女の埴輪ではないかと考えられています。


 613臼塚石人 6世紀 山鹿市大字石字臼塚
 古墳は市の北西部の岩野川流域の低い丘の上にある円墳である。内部は割石の小口積みの横穴式石室で、玄室奥壁に沿って石屋形がある。
石屋形の奥壁に赤・青・白で幾何学文様が描かれ、玄室入口の袖石に人物像と三角文がある。

 この古墳の墳丘中央に南面して立っていたのが石人である。阿蘇凝灰岩製で頭部を失っているが、背に靫を負い短甲を装着した武装石人である。
古墳に葬られた人を守るためのものであろう。円体で力感あふれ、石人の中でも最高の傑作とされる。

臼塚石人 山鹿市
臼塚石人
 
 700

 710小田良古墳(おだら) 5世紀 宇土郡三角町大字中村字前田
 天草に向かう国道57号の右手の海岸にあり、墳丘を失っているが、円墳であったらしい。
内部は割石をドーム上に積み上げて築いた横穴式石室と考えられている。
石室の幅2.2m長さ2.30mのほぼ正方形で、通路をはさんで左右に死床を設けている。

側壁に沿って高さ約0.3mの板石をめぐらし、それぞれの板石の内側に2条の横線を刻み、その間に向かって正面には靫・盾をそれぞれ2個ずつと
同心円文を3個、左側には円文4個、右側には円文3個、手前にも円文2古賀刻まれている。
 石室からは人骨1体分と猪・犬・馬などの骨のほか、ガラス製棗玉・臼玉・直刀・銅製品などが出土した。

小田良古墳

 720千金甲1号 6世紀 小島下町勝負谷
 金峰山系から延びる権現山丘陵にある千金甲古墳群中の1基で、直径12m高さ3mの円墳である。内部は板石を小口にして積み重ねて壁を作った単室の横穴式石室である。
 玄室の内部には阿蘇凝灰岩の切り石の石障を立て巡らし、床面には奥壁に並行に1つ、中央の通路を挟んで左右に1つずつの計3つの死床を設けている。
 装飾は主として石障の内側に施されている。同心円文を描くのにコンパスを使い、中心から赤・黄・赤の順で塗り分けるなどデザインに工夫が見られる。
 開口が古く遺物はほとんどとわからないが、大正5年(1916)碧玉製管玉1個が見つかっている。

千金甲1号墳

 730チブサン古墳 6世紀初頭 山鹿市大字城字西福寺
 市街地北西約2km、平小城台地の東端にある全長約44mの前方後円墳である。
墳丘には埴輪・葺石が残り、北側には周溝も見られる。後円部には複室の横穴式石室があり、南側に入口を持っている。

石室の側壁は割石を小口積みにしている。玄室奥壁にそって美しい家形石棺が置かれていた、その内壁などに赤・白で描いた装飾文様がある。
向かって右壁の人物像はここに葬られた人を守る番人であろう。
昔から土地の人々は正面の二つ目のような図柄を乳房に見立てて「乳房さん→チブサン」とよび、乳の神様として信仰の対象としてきた。
6世紀の初頭、この地方に君臨した豪族の墳墓であろう。


 740大坊古墳 6世紀前半~中頃
 ペコ (o*。_。)oペコッ m(_ _"m) ピンボケのため展示物解説を記述できません。
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 大坊古墳は、6世紀前半から中頃に築かれたと考えられる装飾古墳で、菊池川とその支流繁根川との間に形成された玉名平野を望む丘陵南斜面に位置しています。
 全長約50mの前方後円墳で、後円部に横穴式石室が設けられています。玄室(遺体を納める部屋)の手前に前室を有する複室構造になっています。
 石室は、安山岩割石を小口積みにして持ち送ったドーム状構造になっていて、天井は幅の広い板状の石数枚で覆われています。
玄室の一番奥には、石屋形(開かれた棺)が設けられています。

 石屋形の内壁三面と全面、前室・玄室の入口や扉石(玄室内に保管)の前面等には、赤・黒・青(灰色)の顔料で連続三角文に円文を配する壁画が描かれています。
この古墳は、熊本の装飾古墳の中でも保存状態がよく、出土品と合わせ、優れた古墳の一つとして重要なものです。


 750大鼠蔵古墳石材 5世紀(4世紀後半~6世紀) 八代市鼠蔵町 (海上の小島に造られた古墳)
 大鼠蔵山東麓の古墳に納められていた箱式石棺の一部である。左から半月形の横長い舟のようなものは弓、次は靫で鋭い矢が5本差してある。
その右は紐で吊るした鏡(二重円文の内円は鏡の紐を表す)、その右は上体につける鎧よろいで三角の鉄板を横につないであることを示している。
 次は革鞘入りの大刀に二条の紐で吊るした鏡である。ここに葬られている貴人の副葬品に代えた物であろう。

大鼠蔵古墳石材

 760広浦古墳の装飾石材 天草郡大矢野町大字維和字広浦
 広浦古墳は千束蔵々島の南端にあったが、大正7年(1918)2月に工事のため破壊されたと言われ、この資料はその石材の一部である。
石室に納められた物かどうかは判らない。
 砂岩の切り石を組み合わせた箱式石棺であったらしく、装飾を彫り込んだ石材は4個残されている。
第1石には大刀とその上に革鞘の刀子を重ねて浮き彫りにしてある。
第2石は右側から革鞘の刀子、柄鏡のようなもの、半円形に柄を付けたようなものをそれぞれ浮彫してある。
第3石は上段に刀子を下段に2個の円文、更に
第4石は一端が半円で他の一端が末広がり状の方形の物が掘られていたと言われるが、現在は所在不明である。
 本資料はこのうち第1石・第2石である。

広浦古墳の装飾石材

 770弁慶が穴古墳  6世紀 山鹿市熊入町
 771
 市の東北部、通称熊入台地にある直径15m高さ5.7mの円墳で、内部は南西に入口を持つ複室の横穴式石室である。
 石室には阿蘇凝灰岩の巨石が使用され、前室・玄室とも側壁の基礎部分には大きな板石を立て、その内側に壁画が描かれている。

向かって右側には「馬を乗せた舟」「舟と荷と鳥」、正面右側の袖石には赤と白とで描いた幾何学文様、
左側袖石の小口部分には「馬を載せた舟」を中心に、上方には同心円文、下方には靫が2つ並べてある。

現在は色が薄れているが、左側壁には太陽と人物と馬を載せた船団があり、羨道部左壁には人物蔵の浮彫がある。
石室の壮大さや装飾の鮮やかさにおいて県下屈指のものである。

弁慶が穴古墳


  人と馬と舟 ―菊池川流域の特色―
 菊池川流域の装飾古墳の図柄で、特に目立つのは人と馬と舟でしょう。
 チブサン古墳ではおそらく死者の枕元に描いたものと思われる人物―足を踏ん張り両手を開いてあげた姿が描かれています。
悪霊の侵入を防ぐ意味のものでしょう。長岩、城、桜の上、小原大塚、浦田、石貫、原などの横穴墓の図柄も同様な意味のものと思われます。
舟の絵も特徴的です。
 弁慶が穴にも永安寺古墳や桜の上、長岩などの横穴墓にもあります。また、弁慶が穴や永安寺東―鍋田横穴等の馬もよく知られています。
人物像や船や馬の絵に古代人はどんな夢を託したのでしょうか。これらの絵の背後にある社会の仕組みなども考えてみましょう。

人と馬と舟 人・馬・舟
-菊池川流域の特色-
人物像
弁慶ヶ穴古墳
馬を積んた舟
弁慶ヶ穴古墳

 773弁慶ヶ穴古墳
馬を積んだ舟
 
 

 780装飾古墳・横穴墓の分布
北九州から中九州、東九州は装飾古墳が最も多く分布しているところであるが、古墳の造り方、、装飾の仕方から、次の三つのタイプに分けられる。
筑後型 割石を積んだり巨石を組んで長方形の石室を造り、彩色を主として、人・馬・靫・盾・幾何学模様などを描いたもので、筑後川流域から菊池川流域を中心として分布する。
   
肥後型 割石の小口積みで石室は方形、円文を中心に靫や盾などを配したものが多く、県下南や天草が中心である。
   
近畿型 まだ、一般的には認められた名称が決まっているわけではないが、近畿―中央勢力の影響かに出来たものではないかということで、近畿型と呼ぶことにする。
横穴式石室や、横穴墓に、金釘の先で引っ掻いたような技法で、帆掛舟とか人物・鳥・木の葉などを自由画風に線刻したもので、福岡で9例、熊本でも8例、佐賀県で6例、長崎県で6例、宮崎県で4例、大分県で1例が知られている。無根な図柄が生まれた野はなぜか
。今後の研究課題である。

装飾古墳・石棺・横穴墓の分布
装飾古墳地図 装飾古墳名
永安寺東古墳 大坊古墳
小田良古墳 鍋田横穴墓群 チブサン古墳 弁慶が穴古墳 大村横穴墓群
 
783全国装飾古墳分布図
 中国で、古墳に壁画や装飾が現れるのは、後漢の時代(1~2世紀)である。それが
 朝鮮半島北部の高句麗に伝わり、4、5世紀には最盛期を迎える。
 日本の古墳に装飾や彫刻が現れるのは5世紀からである。最初は九州の中西部の有明海沿岸に現れ、
その後、瀬戸内、近畿、関東、東北に広がるのが7世紀頃と考えられる。
 装飾古墳の分布の北限は、宮城県の川北横穴墓群等で、北海道には所在しない。また、関東・東北で装飾を持つものはほとんどが横穴墓である。

 図柄は最初に、交叉する斜線の間に様々の弧線を描く直弧文、円文、三角文や菱形文が現れ、靫や弓、刀、楯、人物像がそれに続く
 図柄が時代によって異なるのは、古い時代には、呪術性、宗教性が極めて強かったからであろう。それが古墳時代も後期になると、次第に具体的な武器、人物像、動物等の図柄が現れてくる。

全国装飾古墳分布図
東北・関東・信州・東海
中京・近畿・中国・北九州
中国九州
九州 中・北部九州 近畿・四国・東海 東海・関東・北陸・信州
東京湾 東北

 785釜尾古墳
釜尾古墳 釜尾古墳
 

 790古代人の死生観
 古代の人たちは、この世で死ぬることは、あの世に生まれ変わることであると固く信じていた。
従ってあの世の生活のために、大きな古墳を造り、永遠に壊れないように石積みの堅固な部屋を作り、部屋を少しでも美しくしようと、
赤や青や白などで絵柄を描いたり、いろいろな文様を彫ったりした。その絵や文様から、古代人の死生観が想観される。
古代人は死後の世界はどこにあると考えたのだろうか。

 ①あの世は地下にある
古事記や日本書紀に、愛する妻を失ったイザナキギノミコトが妻を訪ねてヨモツヒラザカから、黄泉の国に下りて行き妻と問答する話がある。
この物語をよく示しているのが横穴式石室である。

 ②死ねば魂は鳥になる
神話の中にヤマトタケルのミコトの話がある。東国の賊を退治新佐多ミコトはノボノで死ぬ。
塚を築いて命を葬り祀っているとミコトの魂は白鳥となって古里ヤマトをさして飛んでいく、という話である。
弁慶が穴古墳や珍敷塚古墳に描かれている鳥の絵はその好例である。

 ③あの世は海の彼方にある
 万葉集の「おきつ国しらさむ君がしめ屋形 黄染のやかた 神の門わたる」の歌は『あの世の君とu
るべき貴人を載せた船が山の峡門を静かに流れて行く』という光景を詠ったものとされる。隋書倭国伝には「葬におよび、屍を船上に置き陸地にこれを牽く」とある。

 ④あの世は山の上にある
 民俗学では「死出の山」と言われるように死ねば魂はそれぞれの村を見下ろせるような高山や霊山に行くという信仰があったという。
万葉集にも、柿本人麻呂が、死んだ妻を求めて山に行こうと詠んだ歌がある。村を見下ろす高い所に古墳があることが多い。
装飾古墳の文様にはないが、古代から確かにその思想はあったものと思われる。

古代人の死生観 古代人の死生観 ➀あの世は地下に ②死ねば魂は鳥になる ③あの世は海の彼方に ④あの世は山の上に

上の横穴式石室の通路がヨモツヒラザカで、妻に会うところが前室の入口、妻が寝ていたところが玄室である。
あの世は地下にあり、自由に往来できると考えられていたのである。
横穴式石室は何体も追葬したので、イザナキギのような経験は誰にもあったのであろう。
左の写真は鳥になった死者を、あの世に送っていくところ、
左側の人物は船頭、舳先にとまっているのが鳥、
遥か海原の彼方にあるあの世をさして漕いでいくところである。


 ※ニライカナイの信仰がこの段階かな

左の写真は、岩原横穴群Ⅰ-15墓の舟の形をした死床に作り出してある櫓べそです。
海の彼方のあの世に、死者を送る舟を漕いでいくためのものでしょう。 7世紀

櫓べそ(櫓を取り付け、漕ぐための固定具)
   多くの古墳が小高い丘の上か、丘陵上にある。
高い所からムラを見下ろすところにある、ムラ人から言えば自分たちが敬愛している祖先の霊を仰ぎその加護を祈る、
というわけであろう。
あの世は高い山の上にあると考えたのである。

※アイヌの神と死後の世界は➀と④が混じった考えかな
   ※これは横穴式石室の入り口に掘られたレリーフ。前に出てきたかな、、?
 
 

 800中庭展示場

 810菊池川流域の舟形石棺
 古墳時代の石棺の構造を見ると、数個の石材を組み合わせた組み合わせ式と、一つの石を刳り抜いて造った刳り抜き式があります。
舟形石棺は後者に属し、加工の容易な阿蘇溶結凝灰岩が多く用いられます。

棺身の外側に、吃水線を示す帯状の突起が巡らされているのが特徴です。古墳時代の前期後半から中期にかけて造られました。

県内では菊池川流域と、宇土、八代地区に多く見られます。船形石棺は、南方の習俗である「舟葬しゅうそう」の名残を留める貴重な資料です。
近くの岩原横穴墓群・1群-14号墓の死床に残る櫓べそと共に、興味深いものがあります。

菊池川流域の舟形石棺

 舟形石棺(下流域) 玉名市山辺田字山下 レプリカ
 玉名市山下古墳出土舟形石棺のレプリカ。 山下古墳は古墳時代前期4世紀の古墳です。



 舟形石棺(中流域)
昭和40年7月牧草地造成工事に伴い、と絵時の山鹿高校考古学部が発掘調査を実施したものです。が
辻古墳の墳丘内には、4基の石棺が埋納されていましたが、ここに展示しているのは1号舟形石棺
です。棺内には、壮年男女2体の人骨とともに、内行花文鏡、勾玉も管玉、直刀、刀子等が納められて
ました。辻古墳は、古墳時代中期(5世紀)の古墳です。


 820菊池川流域の家形石棺
 家形石棺は、棺の蓋が家の屋根の形をしているところから、この名称で呼ばれています。
墓石の丁歩に若干の平坦面をつくり、蓋に縄掛け突起を持っているのが特徴です。
 棺身は、刳り抜き四季と組み合わせ四季がありますが、菊池川流域では、ほとんどが組み合わせ式となっています。
棺身に、縄掛け突起はありません。

 菊池川流域の家形石棺は、天皇陵等に見られるような豪華な家形石棺ではなく、ここに展示しているような極めて素朴な地方色豊かな石棺で、
古墳時代後期に数多く造られました。


 ①家形石棺 鹿本郡鹿央町千田字浦大間
昭和55年、県文化課が実施した、圃場整備に伴う発掘作業で発見された古墳時代後期の家形石棺で、方形周溝墓の内部主体として埋納されていたものです。棺内には3体分の人骨と、素環頭大刀、竹櫛2個などが埋納されていました。
 なお、蓋石は崩壊が著しいため、展示にあたり、新しく復元したものです。
①家形石棺 ①家形石棺 ①家形石棺

 ②箱式石棺 鹿本郡(かもとぐん)植木町宮原
 平成2年に県文化財課゛調査した、古墳時代後期の箱式石棺です。開田工事で出土したもので調査時には既に蓋が開けられていました。
棺の内部は、丹が前面に塗られていました。なかにまいそうされた人骨は腐食して消滅しており、副葬品はありませんでした。
②箱式石棺

 ③家形石棺
 平成2年に県文化財課゛調査した、古墳時代後期の家形石棺です。開田工事で出土したものです。
蓋石が割られ、側石の一部にも穴が開けられ、過去に盗掘を受けたことが 判ります。
棺の内部は丹が面に塗られ、2体分の人骨が頭を同じ方向にして埋葬されていました。棺内に副葬品はありませんでした。
③家形石棺

 850装飾文様の種類
 851

 852装飾文様の種類(1)
 装飾古墳に描かれた文様や図柄には次のようなものがあります。

 852a幾何学的文様
 直弧文や対角線文・三角文・円文などで、他の図柄と組み合わせて使われる場合もあります。
 852直弧文
石人山古墳(福岡県) 井寺古墳(熊本県嘉島町)
日輪寺古墳(福岡県) 浦山古墳(福岡
安福寺古墳(大阪府)
 852c三角文・連続三角文
王塚古墳(福岡県) 王塚古墳(福岡県)
チブサン古墳(熊本県山鹿市)
釜尾古墳(熊本市)
永安寺東古墳(熊本県玉名市)
石貫ナギノ横穴群(玉名市)
宇賀岳古墳(熊本県松橋町)
鬼の岩屋古墳(大分県)
 852d円文・同心円文
 852e具象的文様
人物
チブサン古墳(山鹿市)
弁慶ヶ穴古墳(山鹿市)
五郎山古墳(福岡県)
清戸迫横穴群(福島県)
泉崎横穴群(福島県) 鍋田横穴26号墓(山鹿市)
宮が尾古墳(香川県)
高井田横穴群(大阪府)
,
猫渕横穴群(茨城県)
 852f武具
萩ノ尾古墳(福岡県)
鳥船塚古墳(福岡県)
王塚古墳(福岡県)
大村横穴群13号墓
(熊本県人吉市)
鍋田横穴群8号墓
((山鹿市)
小田良古墳
(熊本県三角町)
大鼠蔵東麓1号墳
(熊本県八代市)
広浦古墳(熊本大矢野町)
大村横穴群11号墓
鍋田横穴群27号
五郎山古墳(福岡県)
王塚古墳(福岡県)
珍敷塚古墳(福岡県)
小田良古墳(三角町)
大村横穴群11号墓(人吉)
鍋田横穴群27号墓
       

 860装飾文様とその意味

 861装飾文様とその意味
 初期の装飾古墳の文様
  直弧文の源流

 直弧文の源流は弥生時代にあり、岡山県楯築墳丘墓出土の特殊器台や弧帯文石に描かれた文様に、その原形を求める説が有力です。

その後、直弧文は、畿内を中心として刀装具の飾りなど各種の器物の装飾として使われたり石棺系の初期の装飾古墳の文様として、多く用いられるようになりました。この文様は単独の文様として使われたのではなく、一定の幅を持った帯状の文様として認識されていたようです。

弥生時代後期➡
特殊器台と弧帯石

楯築墳丘墓(岡山県)
宮山墳丘墓(岡山県)
楯築墳丘墓(岡山県)
➡古墳時代初頭➡
特殊器台型埴輪と
貝輪

都月坂1号墳(岡山県)
柴金山古墳(大阪府)
初期装飾古墳の直弧文
千足古墳奥壁(岡山県)

 862三角文の発生
三角文は、直弧文やその省略した形である対角線文の中から発生したものとされ、
直弧文と同じように、連続三角文のように帯状に連続した文様として用いられることが一般的です。

三角文の発生 直弧文(対角線文を中心に弧線を描く)
井寺古墳(熊本県嘉島町)
対角線と靫との重複文
千金甲1号墳(熊本市)
連続三角文円文
大坊古墳(玉名市)
連続三角文
永安寺東古墳(玉名市)

 863円文
円文の中には、明らかに鏡を表現したものや、
円を重ねた同心円文、さらに単純に円を描いたものまで、様々なものが ありますが、
三角文が直弧文、対角線文の中から生まれてきたように、その原形は鏡にあって、時間の経過と共により単純な円へと変化していったようです。

円文
縄で吊り下げられた鏡 紐で吊り下げられた円文
円文・車輪文 赤く塗られた円文
 
 
 870装飾文様の種類(2)
 871武器
武器
大刀、刀子
広浦古墳(熊本県大矢野町)
石貫ナギノ横穴群8号墓(玉名市)


猫渕横穴群(茨城県太田市)
京ガ峰横穴群1号墓(熊本県錦町)
弓、弓矢

鍋田横穴群27号墓、8号墓
(山鹿市)
 872
怪獣(竜馬)
竹原古墳
馬を引く人
竹原古墳
騎馬人物
王塚古墳
騎馬人物
五郎山古墳
 873


弁慶ヶ穴古墳(山鹿市)
原古墳(福岡県うきは市)

弁慶ヶ穴古墳(山鹿市)
鳥船塚古墳(福岡県)

石貫古城横穴墓玉名市)
宇土城石垣の古墳石材

小原大塚横穴群41号墓(山鹿市)
大原9号石棺(熊本県岱明町)
 874動植物


鹿、ヒキガエル 樹木木葉、花弁
 875特殊な文様
さしば
竹原古墳(福岡県)
蕨手文
王塚古墳(福岡県)
蕨手文
塚花塚古墳(福岡県)
蕨手文(波文)
竹原古墳
双脚輪状文
釜尾古墳(熊本県)
王塚古墳(福岡県)

 ※北海道の北海道式古墳の出土物の中にこの双脚輪状文の土製品を見つけた時には肝を潰しました。
  本州では絵柄だけしかなかったのに、遠く離れた北海道でなぜその絵が実体化しているんだろうと、とても不思議でした。
  双脚輪状文は水字貝スイジガイを形象したもののようで、沖縄の魔除けとしてのスイジガイが、遠く北海道まで、古代(奈良平安)に運ばれたか、
  そのような土製品が出回っていたかでしょう。
  Wikipediaに和歌山県出土(巨大古墳群)の双脚輪状文の土製品がありました。
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