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新潟の縄文 №20 2020.10.02-3
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新穂歴史民俗資料館
にいぼれきしみんぞく |
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新潟県佐渡市新穂瓜生屋492
0259-22-3117月休 撮影可 |
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目
次 |
佐渡島
01佐渡島航路
10東横イン
20フェリーターミナル
33船上から
41両津港
40朱鷺の森
47観察室 |
95新穂歴史資料館 外観
100入口展示
101新穂村のあけぼの
103蔵王遺跡出土品
105大野日吉神社
106正明寺出土品
110縄文遺跡
112縄文土器
117火にかけた土器
118蓋形土器
140弥生時代
141弥生遺跡出土遺物
145古代・中世の土器
160新穂村の城跡
162青木城址出土品
163新穂城址出土品
165口ヶ坪(壺)遺跡
166喜楽遺跡出土品 |
200展示室 中央
201縄文浅鉢
210石製品
211石鏃
214黒曜石
221矢田ヶ瀬遺跡
222敲石・磨石
223アオトラ石
224石棒
231竪穴住居内部
232a縄文中期の土器
232b縄文後期土器
240弥生時代
241弥生石鏃
243縄文石鏃
300新穂玉作遺跡
302管玉製作工程
303縄文後期土器
304奈良平安の須恵器
306垣ノ内・矢田ヶ瀬遺跡
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400玉作 新穂玉作遺跡
411細形管玉製作工程
414碧玉の玉作行程
415赤玉石の玉作行程
420新穂玉作遺跡出土品
422 第6行程 穿孔
422b第7行程 管玉完成
423角玉製作工程
424砥石
425石鋸(石英粗面岩)
426メノウ製作工程
427石針の製作工程
450新穂玉作遺跡
451稲作のはじめ
※考察 貝包丁
453稲作遺跡出土物
455紡錘車
456土錘・石錘
460弥生土器
461新穂玉作遺跡
463石器
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501年表
510玉製品等
900生活・民具展示室
901アルキメデスのポンプ
903生活民具
904滝沢銀山 |
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今日の旅行経路
新潟港フェリーターミナル → フェリー内 → 両津港 → 朱鷺の森 → 新穂歴史民俗資料館
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佐渡島
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01佐渡島航路
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佐渡島航路は新潟港と直江津港から出ています。どちらもフェリーと高速艇ジェットホイルが就航しています。新潟港から行きました。➀
両津港前のニコレンで借りて旅行しました。②新穂歴民の周辺には数多くの観光地や遺跡があります。③
佐渡島は日本海の拡大に伴って列島が南下し、それに伴って遅れてやってき大陸の切れ端の一部です。④⑤
佐渡島は大佐渡島と小佐渡島からなり、二つの島を浸食した土砂が島の間を埋めて溜まったのが国仲平野です。
島にはマグマ活動成因の熱水鉱床によって金銀の巨大鉱脈がありました。⑥
豊臣秀吉の時代には銀の採掘が行われ、海外に輸出し、豊臣政権を支える財源となっていました。
江戸時代には金鉱脈が発見され、江戸幕府の財政と権力を支えました。
言い換えるなら、佐渡島の金と銀がなければ、豊臣政権も徳川268年間の政権も成立しませんでした。 |
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10東横イン
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新潟県は、2020.09.25~10.03まで9日間旅行しました。この日10.01に初めて地域共通券がもらえるようになりました。
1回の宿泊に2000円分。しかし、初めてですから使えない店が多く、港往復のタクシーで千円ずつ使いました。おつりは出ません。
しかし、一か月後に行った九州旅行の大分県では渡さないないホテルが2件ありました。客に渡さず、従業員が使っているようです。詐欺HOTEL。 |
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20新潟港佐渡汽船フェリーターミナル
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早朝始発のフェリーに乗らないと、佐渡島での行動時間が短いのですが、バスはまだ動いていません。
このために新潟駅前の東横インに宿泊し、駅前のタクシープールから乗りました。徒歩2.3km30分。迷ったら終わり。 |
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30 |
31ターミナル内の写真を取りましたが、人が写っているので使えない。壁の佐渡島観光のポスター。
大佐渡石名天然杉遊歩道 |
遊歩道中の高山植物 |
シラネアオイ・エチゴキジムシロ
オオイワカガミ・ザゼンソウ
盗掘者を誘うようなポスターはいけません |
春の大佐渡の呼び物
大佐渡島の遊歩道。
登山目的ですね |
象牙杉
豪雪地帯ならではの杉 |
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33船上から
出航前の桟橋。信濃川の中州に建設 |
手前:小佐渡島
向こう:大佐渡島
中央:国仲平野 |
荒々しい海岸線 |
きれいで豪華な船内 |
フィリピンパブの女性
3人で佐渡島見物に |
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40朱鷺の森 |
41両津港 新潟港6:00発→両津港着8:30
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新潟を暗いうちに出発して、両津港に着くとちょうど始業前のよい時間になっていました。
港前の家並みは古く、ちょうど宿場町の様に、街並みが整っていました。(間違い。ここは宿場町でした。) |
フェリー |
整った街並み |
昔の街並みがよく残っている。 |
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私が生まれた町は旧宿場町で、道沿いによく似た構造の家が続いてよく統一されていた。
最近、その街を通ると、町家の街並みは滅茶苦茶になり、 |
武家屋敷の多くは解体、今様な安っぽい建売のような家に変わっていました。
誰も街並み保存を考えなかったのです。 |
朱鷺の森
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最初に朱鷺保護センターに行きました。到着し9時からの開園にと思ったが、自販機が停止中で入場券が買えず、女性係員に言うと、
激しい言葉が帰ってきました。機械の電源を入れ忘れていたようです。 |
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43トキ資料展示館
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館には、黒い朱鷺とピンクの朱鷺の存在を思い出させてくれました。
これは、長い間謎とされ、ある在野の研究者が謎を解きました。 |
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45
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46
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47観察室
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観察室に入ると奥になぜか郵便局がありました。観客の観察場所からはよく見えません。すると局員がここから見るとよく見えますという。
(局員は施設内でカードやハガキなどを売っていた。なぜ観察質で売るんだろう。第一、売る必要があるのか。外でうれば。邪魔だろう。)
保護センターが最もよく見える場所を郵便局に使わせ、入場料を取っている観客には見えない場所を使わせていました。(笑)
で、更に局員がいうのです。センターは客が来る前にケージの床に餌を撒いているので1時間くらいは見えませんよ。
床は周囲より低く掘り込んであり、すっぽりと鳥の姿が隠れるようになっています。
理由もなく怒鳴り散らし、見える場所を使わせない。餌なんか、もっと早く来て撒けば客に見えるのに、飼育員の遅い出勤に合わせて作業する。
もう、腹が立って、腹が立って、完全ブチ切れでさっさと出てきました。
大体ここの飼育はおかしいです。最初の頃、保護ケージができたと言って朱鷺を放したら、イタチに沢山食い殺されたんですよ。
原因は、完成した鳥小屋は隙間だらけ穴だらけで、いくらでも害獣が入れる状態だったんです。出鱈目な請負業者、出鱈目な検査。
にもかかわらず、そんなことどうでもいいと、天然記念物を放して、食い殺させた。ここの生き物・朱鷺は皇室の持ち物なんですよ。
それでもカエルのつらにしょんべんてな風にこんな性悪する。
下の写真をみてください。普通、観察ケージの金網は外側から黒いペンキを塗らなければ中が見えません。ここは、さび止めペンキを塗っただけのようなひどい色をしていて、なぜか内部に網が張ってあります。これがイタチ除けのつもりでしょうか。ここは、客に朱鷺を見せようとする姿勢ではない、
本当にひどい施設だと思いました。
腹を立てながら、次の訪問地へ行きました。
ここで1時間待っていたら見れるかもしれないですが、時間がない。佐渡は一泊二日で旅するほどの見どころもなく、
何しろ船の運航時刻が大変不便で、一泊すると、新潟港から運んだ海産物を高めの値段設定で食べられるかもしれないが、
翌日いくら早く本土に帰ろうとしても昼頃になり、半日無駄にします。だから、さっさと用事を済ませて、その日のうちに帰らないと大変です。
だから、でたらめな朱鷺施設には付き合っていられないのです。 |
何枚も撮って拡大してこれが最良のもの |
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見に行ってもせいぜいこんな写真しか撮れませんよ。 |
テレビで見るほうがいいよ。 |
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95新穂歴史資料館 外観
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賀茂郡新穂村(niibo)は佐渡島にあった行政区。現在は佐渡島全域が佐渡市となっている。
明治22年に周囲の7つの小町村が合併してできた村。江戸時代はもっと小さな行政区に分割されていた。(統治をしやすくするためか)
戦国末期から江戸初期には銀が多く産出された土地である。 |
新穂歴史俗資料館 |
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二階踊り場 |
行き場をなくした
野仏がずらり 佐渡は特殊な歴史の島だから行倒れの供養なんかに野仏が沢山作られたのでしょう。 |
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100入口展示 |
101新穂村のあけぼの
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新穂村に人が住み着いたのは、縄文中期から後期の頃で、今から約4000年も以前です。
大野川沿いに矢田ヶ瀬遺跡と垣ノ内遺跡があり、加茂湖沿いには源太平遺跡と湖鏡庵遺跡があります。
各処から土器や石器が出土しており狩猟・漁撈や山の植物採集が生活手段であったことがわかります。
大野川沿い住民は川や古国仲湖では、淡水漁撈で加茂湖台地住民は海水漁撈を営んだ。
昭和4年鳥居龍蔵博士による垣ノ内遺跡発掘調査ではイノシシ等の骨も出土しています。
※縄文人はどのようにして佐渡島を見つけたのでしょうか。新潟市南西に角田山・弥彦山という三角山が並んでいます。その山の上から見ると
佐渡島が見えます。かなり漕がないと海流に流されて秋田まで行ってしまうから、凄い体力ですね。
でも、そのおかげで、新潟本土の文化圏から切り離され、火焔土器などは入っていません。 |
考古・歴史展示室 |
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新穂村のあけぼの |
新穂村主要遺跡分布図 |
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玉作遺跡出土物
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新穂玉作遺跡出土
管玉の製作工程 |
管玉完成品 |
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103蔵王遺跡出土品 弥生時代中期中葉~古墳時代前期
蔵王遺跡は下新穂にある特別な建物跡の発見された遺跡
内行花文鏡と珠文鏡
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新穂村下新穂の蔵王遺跡から平成8年8月、特殊な基礎(枕木、布堀という)のある第5号建物址の脇から発見されたもの。
内行花文鏡は直径10.8cm、珠文鏡は断片で、推定6.4cm。いずれも県内初めての発見で、他に銅鏃の出土もあり、古墳前期の祭祀遺跡である。
蔵王遺跡は弥生時代、我が国最大の玉作遺跡である新穂玉作遺跡のうちの平田遺跡と隣接し、玉作を伴う弥生中期中葉(約2000年前)から古墳前期(約1700年前)の遺跡で、9棟の建物址や環濠址があり、木器類が多い。建物のうち、第1号建物址は大形の基盤を持ち、年輪年代測定では、西暦290年を示した。
この銅鏃を伴う第5号建物址とともに、古墳時代前期の神殿や宝物殿のような特別な建物とみられる。古代佐渡と中央権力との関係を考える遺構遺物として注目される。 |
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珠文鏡
掘立柱周辺出土 |
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内行花文鏡
蔵王遺跡(下新穂)
古墳時代初め |
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内行花文鏡と珠文鏡
上に記述 |
銅鏃
掘立柱建物周辺 |
銅鏃 |
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104
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銅鏃
掘立柱建物周辺
重複だが
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解像度が良い |
ガラス小玉
平地建物(大型建物)
ガラス小玉
遺物包含層 |
ガラス小玉 |
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炭化米
平田遺跡8号溝状遺構
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105大野日吉神社 文明六年鰐口 (おおのひよしじんじゃ ぶんめい6ねん わにぐち)
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106正明寺出土品
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銭貨 |
正明寺出土
金銅製 経筒 |
埋納経
経筒は出土するが中の埋納経の出土は |
金銅製経筒
始めてみました。大抵は水が入って腐食 |
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古鏡 江戸時代 |
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奉納法華経筒 |
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110縄文遺跡出土遺物 その他の遺物 中期以降
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111
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1.土器 |
土製耳飾り、蓋形土器、鉢形土器、甕形土器、土師器、須恵器、長頸壺、碗形、坏形 |
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2.石器 |
石皿、磨石、凹石、敲石、石匙、石槍、石斧、石鏃、丸石、砥石、掻器、石錘、石棒、石錘 |
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3.その他 |
有孔骨製品…獣骨に穿孔、
装身具…矢田ヶ瀬遺跡、垣ノ内遺跡、湖鏡庵遺跡から出土したものです。 |
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縄文遺跡その他の遺物
ちょっと意味不明 |
垣 ノ内遺跡 |
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112縄文土器 中期 約5000年前
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中期を代表する火焔土器のような装飾性がない。信州や福島などへ広がった火焔土器様式は、佐渡島には影響を及ぼさなかったようだ。 |
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113縄文土器 後期 約3800年前
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深鉢 |
浅鉢 |
浅鉢 |
鉢
後期前葉 約3800年前
垣ノ内遺跡 |
柱根
垣ノ内遺跡
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114
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114から115の土器は、上記の粗製土器ではなく精製土器のようで、見事に美しく、高度なデザイン性のある土器である。 |
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蓋形土器 |
凹みでなく凸文である。螺髪の様に美しい。
初めて見た意匠です。 |
蓋形土器規則的な刺突文と
両端の突起穴に蔦や竹で編んだ把手が付けられたはずだ
十三稲葉式土器(後期前葉)に似る |
蓋形土器
丹念な刺突文装飾
両端の穴に蔓などで把手を付けていたようだ。 |
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深鉢
矢田ヶ瀬遺跡 |
深鉢
垣ノ内遺跡 後期
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115精製土器
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※以下の4つの突起は、縄文中期の意匠です。忠この表面の細かな施文は、佐渡島独特の物かと思います。
この時期に、新潟や福島など本州中部から渡来してきた人々が多かったようです。
刺突文は後期の十三稲葉式土器など、長岡市で多く見られるものです。 |
垣ノ内遺跡 |
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垣ノ内遺跡 |
この精緻で美しい文様。高度に完成度の高い優れた技術と意匠の土器である |
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施文が何かに見えますか |
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116浅鉢
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矢田ヶ瀬遺跡
縄文中期 |
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一見、信州の土器に似ているが、口縁部の意匠が違う。
大胆に口縁部を波打つ沈線と、その上下に二匹のみずちがとぐろを巻く意匠は、始めてみるものです。
みずち文浅鉢というべきか。 |
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117火にかけた土器 垣ノ内遺跡
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118蓋形土器
ほぼ完形に近いが、よく摩耗している。
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119香炉様土器 垣ノ内遺跡
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紐かけ穴のような浮き上がった突起はその根元に丸い穴が開けられ、頂部の片側にだけ目のような凹みを持つ。
香草などを燃やしたのではないかと思われるような、香炉に見える精製土器である。 |
比較用提示 |
土器内部にススはなく供物を入れた祭祀用精製土器 |
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垣ノ内遺跡
内側にいぶした痕跡がある。儀式用精製土器 |
口縁部の沈線模様は上の土器が遥かに優品。秀麗さはないが、見事に連続文を規則的に描く |
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香炉のような美しい意匠である |
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140弥生時代
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141弥生時代遺跡出土の遺物
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1.土器…… |
弥生式壺形土器・甕形土器 |
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○甑・・・底部に一孔か数孔を穿つものがあり、現用の背色と同じ炊飯具です。 |
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○有孔円盤土製品・・・紡錘車として使用 |
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○縄文と弧状隆線で飾られた壺形土器 |
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○籾殻痕があるものもある。 |
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2.石器…… |
石鏃、石槍、石錘、石のみ、石包丁、凹石、石鋸、石針、砥石、石斧、敲石、管玉、勾玉、角玉 |
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3.その他… |
炭化米 |
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弥生時代遺跡出土遺物 |
早い時期の弥生土器
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142遅い時期の弥生土器
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土師器 高坏
下新穂出土 |
高坏 |
共献(お供え)の器。
縄文時代から弥生時代に盛んとなった。
歴史時代になると木製のものとなる。 |
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145古代・中世の土器
横瓶(よこべ)
横瓶
佐渡市小泊窯址出土
古代
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墨書土器 坏 「内」
新穂村青木 野田出土
古伊万里の蓋付茶碗
北方城址
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珠洲焼 壺
室町時代
新穂村青木 |
能登の珠洲地方で中世に焼かれた。青木城址脇の屋号「堀請」の斎藤権左衛門家の伝世品。
斎藤家は青木殿の家臣で、この壺は青木城に関わるものであろう。 |
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中世
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160新穂村の城跡
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元禄検地帳によれば、新穂村には13ヶ所の城跡があった。1300年代に築城されたものと推定される城跡は、広さが約1haで周囲には濠を巡らし、
外敵の侵入を防ぎ、農耕期は濠の水を水田用として利用した。
徳川時代の初期、城跡は田畑となり大半の濠は埋め立てられたが、青木城、新穂城、北方城の濠は今も水をたたえ昔の姿を残している。
これらの中世の城跡は単壕単郭平城型式として歴史学的学術的にも貴重で新潟県指定の史跡である。 |
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161
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162青木城址出土品 15世紀前半
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新穂村青木にある水をたたえる濠を持つ中世城跡から出土したもの。須恵器や珠洲焼の他、近世陶磁器も混じる。
青木治用は青木殿の居館であったが、天正17年(1589)、越後の上杉氏の佐渡攻めによって落城した。 |
1589
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青木城址出土品 |
青木城址出土品 |
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須恵器
およそ奈良平安のもので、甕・壺・碗・鈕付蓋などが見える |
珠洲焼中世の焼物で能登の珠洲地方で焼かれた物。叩目の甕・壺が見える |
近世陶磁器
伊万里焼・唐津焼・織部焼などが見える。江戸時代のもの |
古伊万里破片 |
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163新穂城址出土品 16世紀後半 天正17年(1589)廃城
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新穂城址は、下新穂の国仲線ぞいにある。水濠に囲まれた、単郭単濠の城館址で、下新穂私有楽開発センター裏の畠から出土したもの。 |
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165口ヶ坪(壺)遺跡
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北方の明王院裏一帯の口ヶ壺遺跡からは土師器や須恵器が比較的多く出土した。 |
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166喜楽遺跡出土品
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馬場の喜楽亭裏から昭和17年11月に出土したもの。土師器・須恵器が見られる。 |
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200展示室 中央
佐渡は古代のタイムカプセル
佐渡は古代のタイムカプセル(1)
佐渡は古代のタイムカプセル(3)
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201縄文浅鉢
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210石製品
※資料 佐渡赤玉石
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これ以降、赤いガラス質の石製品がたびたび登場してきます。これは、佐渡赤玉石という貴石で、石英に鉄分が高温高圧化で含有されて形成しました。
弥生時代以降、佐渡島を特徴づける玉づくりの原料として利用されます。両津港ふきんの赤玉地区に産出します。 |
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211石鏃 縄文前期~後期初頭
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212
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213
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サイドスクレイパー
垣ノ内遺跡
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石槍 上立野遺跡
サイドスクレイパー
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石槍 矢岡ヶ関
骨銛 三宮貝塚
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貝槍
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石槍・貝槍
浜端洞穴 |
石槍 三宮貝塚
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214佐渡の黒曜石
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佐渡の黒曜石 |
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吉岡遺跡 |
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石鏃
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新穂遺跡 |
矢田ヶ瀬遺跡
垣ノ内遺跡 |
長者ヶ平 |
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215
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216石器
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脚注なし 掻器か
三宮貝塚
福浦遺跡
浜田貝塚 |
石槍には見えないが
三宮貝塚
矢田ヶ瀬遺跡 |
掻器・スクレイパー
矢田ヶ瀬遺跡 |
scraper長者ヶ平
楕円型石器矢田ヶ瀬
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石鏃 三宮貝塚 |
石鏃 福浦遺跡
掻器 立野遺跡
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220 |
221矢田ヶ瀬遺跡出土物 縄文中期 約6000年前
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尖頭器
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石錐
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磨製石斧
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石槍 |
削器 |
石鏃
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掻器 |
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石匙
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222敲石・磨石
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223アオトラ石
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土製耳飾 |
有孔骨製品 |
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擦切石斧
緑色凝灰岩 |
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←緑色凝灰岩製
とありますが、
これはアオトラ石です。
緑色凝灰岩は柔らかくてもろいので、石斧にはなりません。 |
アオトラ石は、
北海道二風谷で採掘され、大変美しく磨かれた長大な石斧として青森に持ち込まれ交易されました。
北海道縄文人は革張りカヌーで佐渡島へ来ていたそうですから、
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海の達人達は、帰りは対馬海流に乗って、何かの交易品を土産に帰って行ったのでしょう。
北海道⇔佐渡島は来やすかったようです。 |
アオトラ石の出現期は縄文前期~中期です
石材は現在もあり、高級庭石として出荷されています。 |
敲石
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両端と上面に敲きの痕跡あり
武井城付近出土 |
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224石棒(せきぼう)
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信仰に関係有。他男根に似るところから縁結び、懐妊、花柳病の治癒を祈願し、対象とした。明治・大正の頃、関東地方では道祖神に用う。
新穂内巻東光院子宝権現に木製大小のチン棒山積みしてあり。 |
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230 |
231竪穴住居内部
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大変わかりにくい写真です。④から左へ見ていくと理解できます。ライトが強くてこのような撮影しかできませんでした。 |
➀
大野の矢田ヶ瀬
縄文時代の様子 |
②
竪穴住居の内部
炉を中心に一間の空間で生活していた |
③
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④
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⑤
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⑥茅葺 直径4.5m円形
5-6人居住 |
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232 |
232a縄文中期の土器 矢田ヶ瀬遺跡
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232b縄文後期土器 垣ノ内遺跡
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233石鏃
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石鏃 |
垣ノ内 |
吉岡
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吉岡
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大型石鏃
甚兵衛遺跡
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大型石鏃 吉岡 |
三宮貝塚
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三宮貝塚
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235
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240弥生時代
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241弥生時代の石鏃
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弥生時代の石鏃 |
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玉A地区
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新穂玉作
アメリカ式石鏃 |
玉C地区
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刺さったら折れて抜けなくなる、殺傷力の高い非人道的な石鏃。
特に大きく危険な鏃
これで先住縄文人を殺して領地を奪ったのか。
刺さると動けなくなり、確実に殺せる |
尖頭器
玉C地区
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新穂玉作
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玉B地区 |
玉A地区 |
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縄文時代の石器
242源太平遺跡出土石器 縄文時代
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243縄文時代の石鏃
縄文時代の石鏃 |
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三宮貝塚 |
アメリカ式石鏃
番匠家敷出土 |
石鏃
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石鏃 |
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245弥生時代の石鏃 佐渡 玉作遺跡 弥生時代
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300奥壁面 |
301新穂玉作遺跡出土品 弥生時代
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石鏃 |
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302管玉製作工程
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303考古・歴史
縄文後期
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304奈良・平安
須恵器
須恵器 奈良・平安 |
佐渡で須恵器は、
羽茂町の小泊窯址で
焼成した。
左右の壺は小泊カメ畑窯址出土。 |
須恵器 小泊カメ畑窯址
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須恵器 小泊カメ畑窯址
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須恵器 小泊カメ畑窯址
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305石鏃
石鏃 |
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306垣ノ内・矢田ヶ瀬遺跡
垣ノ内・矢田ヶ瀬遺跡
石鏃
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垣ノ内・矢田ヶ瀬遺跡
石鏃 |
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骨片 |
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400玉作 新穂玉作遺跡
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410 |
411細形管玉の作り方
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原石を適宜に打ち割って、石鋸で浅い筋溝を付け、その溝より半截し、このことを繰り返しながら所要の小さな四角柱状体とします。
次にその側稜を剥離して多角柱状体に研磨してから原石よりも硬度の低い径1.5mm前後の石針で片側か又は両側より穿孔して完成したものです。 |
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管玉の製作工程 |
412 1~3行程
管玉製作工程 |
第1工程
原石打割
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第2工程
施溝 |
第3工程
半截
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半截 |
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413 4~5行程
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新穂玉作遺跡の
玉作行程
碧玉・赤玉石
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414碧玉の玉作行程
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415赤玉石の玉作行程
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420新穂玉作遺跡出土品 |
421
佐渡玉作遺跡分布図 |
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新穂玉作遺跡出土品 |
使用石材
鉄石英…佐渡赤玉石、酸化鉄を含む石英塊、赤褐色や黄褐色
碧玉……酸化鉄を含む石英塊、ブルーサファイア
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422 第6行程穿孔
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第6工程
管玉穿孔中 |
第6行程穿孔
貫通の際折半 |
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管玉 |
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422b第7行程 管玉完成
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423角玉製作工程
角玉
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三角玉
側面から穿孔 |
四角玉
底面から穿孔 |
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角玉 |
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424砥石
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425石鋸(石英粗面岩)
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この石鋸で管玉の原石に筋溝を避けて半截し、これを繰り返して所要の太さにしたものである。 |
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426メノウ製作工程
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427石針の製作工程
石針
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孔をあける工具である。
この石針(玄武岩)は赤や青やメノウよりも硬度は低いものであるが、硬い石に穴をあかした(あけた)。
しかし、水と共に金剛砂に代わる細粉を常に注がねばならない。 |
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450新穂玉作遺跡
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今から約2千年前の弥生時代中期、国仲平野のほぼ中央部でA・B・C・Dの四地区に分かれ、碧玉と鉄石英の細形管玉(長さ1.0cm径0.25cm
口径0.15cm)を主に作り、ヒスイやメノウでは勾玉を作ったり、日本では他にない佐渡独特な角玉も製作していたところです。 |
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451稲作のはじめ
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新穂玉作遺跡には、弥生時代の土器片に水田稲作脳儀容を示す籾殻痕の付いたものや、稲穂を摘み取る石包丁などが出土しています。
また、玉作の生活層からは多くの、炭化米も検出されています。玉作と共に稲作が行われていたことがわかります。
ここは新穂村の米作りの発祥の地でもあり、新穂玉作りと共に、弥生文化の貴重な遺跡地帯であります。 |
新穂玉作遺跡 |
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弥生時代の米作 |
石包丁と貝包丁
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石包丁と貝包丁
穂の下を石(貝)包丁で摘む。
残された穂株はあとで焼き、肥料にする。
インドネシアのバリ島では、現在もこの様な
穂摘み具を使っている。 |
※考察 貝包丁
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コトバンク要約
「貝製穂摘具。石包丁同様で、指かけ用の紐孔を1~2開けたもの、孔ないものがある。中国考古学では蚌刀(ぼうとう)とよび、淡水産の二枚貝製のものが新石器時代の竜山文化(5000~4000年前)にあり、この形に倣って杏仁(きょうにん)形・半月形の石包丁が生まれたともいわれる。
日本では弥生前期に九州に実例があり、また後期に神奈川県三浦半島の洞穴遺跡に豊富である。ともにアワビ製。
現代のイネ摘み用の貝包丁は、フィリピン、スラウェシ(セレベス)島などで知られる。
日本ではアワ摘み用として、長崎県福江島のアワビ製品、北海道でアイヌが使ったカワシンジュガイ製品が知られる。」
竜山文化にあったとしても、以後現代まで使われているようである。佐渡島では他に貝刃も出土している。
私は稲作文化は、種籾と農耕具と、灌漑技術と共に伝播していったと考えていました。この中の何が欠けても稲作を構成できないからです。
ところが、これは青森県六ケ所村郷土館の館長様から教えていただいたのですが、青森県からは石包丁が出土していないのです。
セットで伝わるはずの栽培技術の中に石包丁がない。にもかかわらず、砂沢遺跡・垂柳遺跡では灌漑設備を伴った立派な水田遺構が発掘され、
寒冷地に適した品種の稲が栽培されていました。
稲作技術で最も重要な利器である石包丁がなぜ欠落したのか。それは、石包丁にとって代わる、より便利なものでなければなりません。
それは、何でしょう。
上記④の貝包丁の写真では貝の種類は未記述です。
川真珠貝は北海道・本州に、ベンケイガイは北海道以南に分布しますが、写真の貝包丁はどう見ても南海産アワビのような色をしています。
アワビだったのでしょうか。軽くて鋭い貝殻は、反面欠けやすい壊れやすい。新潟では入手しにくい。美しい真珠質面がよかったのかも。
では、なぜ、青森県では石包丁が消えたのでしょうか。石包丁の代用は石匙だと教えていただきました。(六ケ所村郷土館館長様)
東日本一帯で出土する石匙は縦長でナイフや鎌のような多用途に使える利器です。
だとすると、これは縄文人の道具であり、青森県での稲作には縄文人が深く関わっていたことになります。
確かに、海を渡って来た大陸人だけでは広大な土地を開墾し、灌漑設備を整え、水田を開くことは困難です。
縄文人と交流し、土地の提供から、開墾・土木工事に協力を得て、5月に田植えをして気温が上昇すれば開花、結実。
いざ収穫の時には、、、、あっ!縄文人はいつも腰に石匙をぶら下げているよな。それでちょいとこすれば穂が刈れる。
そうだったのかもしれない。
弥生人(半島人)の大量東進のはるか以前。沿海州から船団を組んで荒れる日本海を縦断し、津軽にたどり着いたのはたった1艘だったかもしれない。数人の漂流民は生き延びるために縄文人と融和し、共に水田稲作を始め、その中で、石包丁よりも常時携帯する石匙を使ったのかもしれない。 |
新穂玉作遺跡と稲作
新穂玉作遺跡 |
新穂玉作遺跡B地区 |
遺跡発見者
計良由松氏
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稲作のはじめ |
計良由松氏 |
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計良由松氏
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明治44(1911)生~平成10(1998)没。享年88歳。新穂村大字下新穂の人。
昭和13(1938)年に弥生時代の新穂玉作遺跡(桂林遺跡)を発見する。以来半生をかけて遺跡の調査研究に没頭。
細形管玉の製作工程を解明し、学術上大きな業績を残した。細形管玉製作工程資料は、昭和53年(1978)年に、国重要文化財に指定された。 |
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453稲作遺跡出土物
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455紡錘車
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456土錘・石錘
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・上下に擦切痕 玉C
・第3工程頭部2稜に擦切痕 玉B
・石針の原石に擦切痕 若宮玉作 |
軽石
・研磨痕のある
・中央に穿孔の痕
玉B |
石錘、土錘 玉B |
紡錘車 下畑玉作 |
紡錘車 玉B |
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457
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460弥生土器
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461 新穂玉作遺跡
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462弥生土器 新穂玉作遺跡
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463石器 玉作遺跡
弥生時代の石器 |
石鑿 |
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464石器
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九学会発掘遺物
玉作り遺跡
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石鏃など
玉作B地区
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玉砥石
玉作B遺跡 |
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501年表
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縄文~飛鳥
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飛鳥~室町 |
室町~安土桃山 |
安土桃山~江戸 |
江戸時代~明治 |
明治・大正・昭和 |
昭和 |
昭和
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510玉製品等 |
511
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硬玉の材料 |
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赤玉(鉄石英) |
青玉(碧玉) |
石鋸の原石
(石英粗面岩) |
瑪瑙原石 |
メノウ |
玉作行程3・4 |
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521
ヒスイ原石
新穂玉作A遺跡
(竹ノ花遺跡) |
ヒスイ原石 |
ヒスイ原石 |
新穂玉作A遺跡
(竹ノ花遺跡)
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523
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525
佐渡の碧玉原石 |
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碧玉原石 |
管玉製作工程 |
碧玉製
管玉製作工程 研磨
玉B地区 |
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527
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900生活・民具展示室
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901
生活・民具展示室 |
農具・紡績具
焼酎醸造甕 |
農具 |
水汲み揚げ具
アルキメデスのポンプ |
ムラの暮らし |
生活民具 |
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むしろ編み機
(筵機)
籾磨り臼 |
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903生活民具
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桶屋 |
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桶
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曲げ物 |
信仰 |
近代の消防 |
炊事用具 |
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御膳・ランプ |
裂き織 |
タチバタ |
タチバタ |
トキ帽子
だおぼっち |
酒徳利に甕 |
どぶろく醸造器 |
生椿上人堂の彫刻 |
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長野県に高ボッチ高原というのがある。
高い帽子の意味だったんだ。
高ボッチ高原 |
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904滝沢銀山 (通称:新穂銀山)
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滝沢銀山は、「相川」「西三川」「鶴子」等と共に金銀の産出した所で、天文(1535)の頃から採掘が始まり、慶長(1596)の初め頃には相川金山に次ぐ銀山として栄え、徳川幕府の直轄地となった。新穂の集落も大きくなった。今も「滝澤千軒」「大和屋敷」「山の神」等の名称があり、坑口も30ヶ所くらい残っている。近くの清水寺には「本尊と金脈」等の伝説もある。ここに出品のものは当時鉱石を砕いた「たたき石」や「石臼」など道具の一部である。 |
※佐渡島最大の銀山は
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鶴子銀山は、佐渡最大の銀山で、1542(天文11)年~1946(昭和21)まで採掘が続けられました。、 |
祭のだし |
芸術文化展示室 |
滝沢銀山 |
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採掘道具 |
鉱石 |
こえまつ台 |
採掘道具 |
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百枚間歩
銀鉱山坑道入口 |
百枚間歩内部 |
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