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01外観 |
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10縄文土器・石器 | |||||||||||||||||||||
11神子柴型尖頭器 (複製) |
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資料 駒ヶ根市の遺跡と考古資料 |
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30辻沢南遺跡 早期〜後期 発掘調査報告書 辻沢南遺跡1986.3 辻沢南遺跡1988.3 辻沢南遺跡(第2次調査)1989.3 |
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31
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40 | |||||||||||||||||||||
41殿村遺跡 早期〜前期 発掘調査報告書 反目・遊光・殿村・小林遺跡 |
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42反目遺跡 早期 発掘調査報告書 反目・遊光・殿村・小林遺跡 |
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43石器 |
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44有孔鍔付土器
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50 | |||||||||||||||||||||
51反目南遺跡 縄文早期 発掘調査報告書反目・遊光・殿村・小林遺跡 |
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52高見原遺跡 中期中葉 発掘調査報告 高見原遺跡2002 高見原遺跡詳細分布調査報告書1986 高見原遺跡 埋蔵文化財緊急発掘調査1987 |
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53丸山南遺跡 中期中葉 発掘調査報告丸山南遺跡1977 |
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54南原遺跡 中期後葉の大集落遺跡 発掘調査報告 南原 - 全国遺跡報告総覧1977 |
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55荒神沢遺跡 晩期末の遺跡 T群は中期、 U群は後期、 V・W群は同一のもの。 X群は東海地方の影響を受けた条痕文土器。 Y期は庄ノ畑式土器。 発掘調査報告に素晴らしい詳細の分析が書かれている。 ・富士山遺跡 データ未検出 |
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60 | |||||||||||||||||||||
61七面川遺跡 (しちめんがわ) BC100年頃 弥生時代中期の遺跡と言うデータしかない |
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62原垣外遺跡 (はらがいと) 発掘報告書 原垣外遺跡 緊急発掘調査報告書 |
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63大城林遺跡 (おおしろばやし) 縄文中期 発掘調査報告書大城林・北方I・II・湯原・射殿場・南原・横前新田・塩木 |
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65北方T遺跡 (きたがた) 多くの埋甕が発見された。晩期〜弥生にかけての条痕文土器を発見。 |
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67弥生土器 |
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倉庫外の廊下の展示 90土偶 |
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91 |
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93土偶 /辻沢南遺跡 |
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94
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95装飾品 ※1顔面把手・獣面把手 人間や動物の顔が装飾されている土器の把手。 顔面把手付土器は、中部高地 (長野・山梨) や、関東東部一帯 (群馬県など) で多くみられる土器。 人面は獣面把手から派生したと考えられる。 なぜ人の顔が装飾されるようになっていったか、詳しいことはまだよくわからない。しかし、女神を表しているという意見は古くからあり、 そして、それは女神信仰に関わる祭祀や儀式で使われたのではないかと考えられている。 また、ヘビの意匠が人面と対峙して付けられているものがあることから、ヘビが男性を象徴すると考え、 新しい生命を積極的に期待する儀式に使用されたのではないかと考える。 ※2装身具 装身具は、祭りなどに欠かせないものだった。しかし、装身具は装うだけの道具でなく、社会の中の地位を象徴するものでした。 縄文人は、狩猟や採集で得た身近な素材と共に、時には交易で手に入れた貴重な貝や石などで様々な装身具を生み出した。
※4三角柱状土製品 粘土を焼いて作った三角柱をした道具で、貫通する穴が開くものと、開かないものがある。 側面などには模様がついており、縄文時代の祭の時に使用されたのではないかと考えられている。どのように使用されたかはわかっていない。
※5耳栓じせん (ピアス) 縄文時代でも、現代と同じように耳たぶに穴を開けて装着した。 直径1cmに満たないものから、10cm大の大型品へ成長に従って徐々に付け替えていったと考えられる。二個一対で発見されるのは珍しい。 ※6翡翠の垂飾り (ペンダント) 原産地は非常に限られた地域にしかなく、新潟県糸魚川流域の糸魚川市小滝地区などで産出する。 翡翠の垂飾の分布は全国に及んでいるが、原産地との関わりもあって中部・関東・東北に多い。特定の製造所で作られ、交易品として 関東や東北、また、中部、北陸といった地方に、中期頃から出回っていった。
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97磨製石斧と打製石斧 |
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98打製石斧 形が斧に似ていることから名付けられました。土を掘る道具です。 当地方では、天竜川の河原で拾える三峰川産の硬質砂岩や緑色岩類が主に用いられています。 形はおおむね長方形を示す短冊形、刃の部分が幅広く作られた撥形、胴中央部に抉り込みのある分銅が他に大別されます。 柄の付け方により、現在の鋤やスコップ、あるいは、鍬として使われました。 |
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99石匙・石錘 石匙 つまみ状の突起を持つ刃物。用途は広く、石材によって異なっている。 黒曜石やチャートなどの小型の鋭利なものは動物の解体などに使われ、大型の物は土掘りなどに使われた。 石錘 石で作ったおもり。編み物の錘や、漁網用の錘として使用された。 円く平らな石の両端に打ち欠きを持ったものが多く、表と裏に一筋、または十字の溝を彫り込んだ物もある。 これは、紐や、編み物に使う繊維をくくりつけやすくするための工夫である。 |
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100駒ヶ根市ふるさとあゆみ館 駒ケ根市東伊那574-1 駒ケ根博物館の考古資料は、館内収蔵庫の他、天竜川西岸にある「ふるさとあゆみ館」と、駒ケ根高原の「郷土館」に展示されています。 しかし、郷土館の展示は、一つ一つガラスケースに入れて積み上げられていて、照明のために、写真撮影は不可能です。 ただし、そこで展示されているものは、いずれも優秀品ばかりで、観察に十分耐えるものばかりです。 |
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101外観 |
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110土器 |
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111panel | |||||||||||||||||||||
114縄文時代 約1万2000〜2300年前 縄文土器を使う時代として名付けられたこの時代は、氷河期の寒冷な気候が温暖になっていく頃にあたり、 人々は半地下式の竪穴住居に住み、狩猟・漁労・採集あるいは原始農耕を行い、生きていました。 土器の登場で、それまで食料として利用できなかったものが、煮炊きすることによって食料として利用できるようになり、食生活も多様になりました。 当地方では、縄文中期後半期に最も遺跡数が多くなり、唐草文様を付けた土器が特徴的です。 (下伊那唐草文土器) また、この時期には祭祀に関係して住居の床などに土器を埋める「埋甕」の風習がよく見られます。 反目・遊光・殿村・小林遺跡1 反目・遊光・殿村・小林遺跡2 |
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115弥生時代 約2300〜1700年前 大陸からもたらされた稲作文化に代表されるのが弥生時代です。水田稲作は西日本から東日本へと広まり、人々の生活を安定させました。 しかし、稲作が定着する頃になると、様々な利害関係が原因で、集団間で戦いが行われる事もありました。 弥生時代になると、土器は、煮炊きに使う甕、貯蔵のための壺、盛り付けあるいは供え物用の鉢や高坏など、使う目的を意識した器が作られました。 天竜川流域では、畑作が盛んで、畑作農耕用の打製石斧が遺跡から多く出土しています。 方形周溝墓 弥生時代の権力者の墓。墓の周囲に溝を巡らした墓を方形周溝墓という。伊那地方では反目南遺跡・殿村遺跡から発見されている。 周溝墓内からは被葬者に送られた鉄釧(腕輪)・ガラス小玉・管玉などが副葬された例が多い。 東伊那の方形周溝墓は開発により主体部が破壊されていたが、造営は弥生時代末と思われる。
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116古代 奈良・平安時代 約1300〜900年前 奈良時代になると「律令」という政治の基礎となる法律が定められ、着々と国の体制が整備されていきます。 一方地方では、未開の原野や山麓の開拓が進み、一段と貧富の差が明らかになっていきます。 遺跡からも比較的裕福な農民ではないかと思われる家からは、緑釉陶器や墨書土器などが出ています。 この時代の人々は、カマドのある竪穴住居に住んでいましたが、掘立柱建物も建てるようになっています。 東伊那から火山峠を越えれば、伊那市富県福地、更に三峰川の対岸は伊那市手良に至り、いずれも古代から知られた郷名で その通過地として東伊那の段丘上に集落がつくられたものと思われます。
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200駒ヶ根市郷土館 縄文中期の完形土器が15ぐらいありましたが、高反射ガラスの棚にあり、光って見えない。電灯を消すと暗く、外乱光が入って光って見えない。 要は見えないのです。それでも展示物は素晴らしい完成品ばかりでした。 そして何より、途中の駒ケ根高原の景色は素晴らしいものでした。 |
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201 |