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 中部地方の縄文1 11-2017.05.10

  駒ケ根市立博物館  長野県駒ヶ根市上穂栄町23-1  0265-83-1135  月曜休館 撮影可


   ・駒ヶ根市ふるさとの丘あゆみ館 (ふるさとあゆみ館) 駒ヶ根市東伊那574-1 0265-83-7785撮影可

   ・駒ヶ根市郷土館  長野県駒ヶ根市赤穂24  0265-83-5011月曜休館 撮影可 入館料200円

   
  交通 駒ヶ根駅より750m徒歩10分(ただし登り坂)   または、レンタカー

  注意 ・駒ヶ根市立博物館は、一旦、考古館として開館し、その後の方針転換で展示品全てが
      倉庫に押し込まれ、それを倉庫内で見学するという状態です。
      従って、キャプションもなく、かろうじて遺跡ごとに仕分けがしてあるだけです。

      ・あゆみ館には復元品の優品が、僅かに展示されています。
      ・郷土館にも完成品の優品が展示されていますが、ケースの反射光で、撮影不能。

  見所 考古博物館が否定された悲しい姿が見られます。 
   
 

目次
 
01外観
10縄文土器・石器
 11神子柴型尖頭器 (複製)

 30辻沢南遺跡
 41殿村遺跡
 42反目遺跡
 43石器
 44有孔鍔付土器

 
 51反目南遺跡
 52高見原遺跡
 53丸山南遺跡
 54南原遺跡
 55荒神沢・富士山遺跡
 
 61七面川遺跡
 62原垣外遺跡
 63大城林遺跡
 65北方T遺跡

67弥生土器
 
90土偶
 91
 93
 94
95装飾品

97磨製石斧と打製石斧
 98打製石斧
 99石匙・石錘
 
100駒ヶ根市ふるさとあゆみ館
 101外観
 110土器

 114縄文時代
 115弥生時代
 116古代

200駒ヶ根市郷土館 
 01外観
駒ヶ根市文化会館 駒ヶ根市立博物館
 
 10縄文土器・石器
 11神子柴型尖頭器 (複製)
なぜ、無価値の複製品を揚げるのか。

この博物館も神子柴型尖頭器を収蔵していました。
ところが、それを市長が伊那市創造館に寄付してしまったのです。
なんて悲しいことを!
考古博物館閉鎖は行政トップの判断かもね。

従って、尖頭器が本当はあったからです。
 

  資料 駒ヶ根市の遺跡と考古資料 




 30辻沢南遺跡 早期〜後期 発掘調査報告書 辻沢南遺跡1986.3   辻沢南遺跡1988.3  辻沢南遺跡(第2次調査)1989.3
  31
取っ手付カゴ形土器竹カゴを模した 埋甕底を抜いた土器 石皿 伏せ甕
41号住居祉 このゾウ似の土器は有名 埋甕(正位)
縄文中期後葉前半
 
 40

  41殿村遺跡 早期〜前期  発掘調査報告書 反目・遊光・殿村・小林遺跡
・縄文時代前期初頭末
・39号住/中期後葉(伊那谷第3段階期)

・第15号住出土→
・22号土坑出土→
・小竪穴出土土器→
・第15号住/前期初頭/口縁部に貝殻腹縁模様
 愛知県知多半島清水の上貝塚の土器似

・早期末〜前期の土器 (約6500年前)

・22号土坑出/早期末

・小竪穴出土/前期初頭末

  42反目遺跡 早期  発掘調査報告書 反目・遊光・殿村・小林遺跡
第48号住
  43石器
乳房形石斧と砥石
ではないか
  44有孔鍔付土器
有孔鍔付土器太鼓の
見事な復元です。
 復元品ですが、見事な太鼓になっています。
やはり太鼓と考えるべきなのでしょうか。

 野焼き土器の口縁が皮を張る力に耐えられるなら
の話ですが。 
 
 50

  51反目南遺跡  縄文早期  発掘調査報告書反目・遊光・殿村・小林遺跡

  52高見原遺跡 中期中葉 発掘調査報告 高見原遺跡2002 高見原遺跡詳細分布調査報告書1986 高見原遺跡 埋蔵文化財緊急発掘調査1987
高見原遺跡第1地点35号住/中期中葉
井戸尻期
叩き石
石皿・石棒
石棒・砥石・磨切り石
磨切り石材
石皿・石棒・砥石
土器片錘・磨切り石材

  53丸山南遺跡 中期中葉 発掘調査報告丸山南遺跡1977
 中期、籐内U式期から曽利U式期まで
    あいだには、井戸尻U期
            井戸尻V期
            曽利T期 

    中期中葉〜中期中葉末

  54南原遺跡 中期後葉の大集落遺跡  発掘調査報告 南原 - 全国遺跡報告総覧1977

  55荒神沢遺跡 晩期末の遺跡 T群は中期、
                       U群は後期、
                    V・W群は同一のもの。
                       X群は東海地方の影響を受けた条痕文土器。
                       Y期は庄ノ畑式土器。                 発掘調査報告に素晴らしい詳細の分析が書かれている。
   ・富士山遺跡 データ未検出
  
 60

  61七面川遺跡 (しちめんがわ)  BC100年頃 弥生時代中期の遺跡と言うデータしかない

   七免川遺跡ではないか  縄文中期、晩期末〜弥生  弥生後期  開田による激しい破壊
   七免川遺跡は、BC300年頃弥生時代前期のデータ


  62原垣外遺跡 (はらがいと)   発掘報告書 原垣外遺跡 緊急発掘調査報告書

突起付甕形土器
縄文中期/加曾利式
加曾利式土器
   縄文中期の住居祉30軒、奈良〜平安の住居祉12軒


  63大城林遺跡 (おおしろばやし) 縄文中期  発掘調査報告書大城林・北方I・II・湯原・射殿場・南原・横前新田・塩木
大城林遺跡弥生式土器出土状態

  65北方T遺跡 (きたがた) 多くの埋甕が発見された。晩期〜弥生にかけての条痕文土器を発見。






  67弥生土器

・壺/弥生時代/反目遺跡
・甕/弥生中期末/反   
鉢/中期末/反目遺跡
東伊那栗林
ハソウ・高坏・壺 奈良〜平安時代




   倉庫外の廊下の展示






 90土偶
  91

土偶/中期/反目遺跡

この土偶頭部はどこかで見かけた、

  93土偶 /辻沢南遺跡 
土偶/辻沢南遺跡
  94
土偶/高見原遺跡
土偶上半身部
日向坂遺跡1号住

土偶上半身部
日向坂遺跡1号住

土偶上半身部
日向坂遺跡1号住
高見原遺跡
高見原遺跡詳細分布調査報告書
高見原遺跡 埋蔵文化財緊急発掘調査

日向坂・赤須城・七免川A・七免川B遺跡
日向遺跡ダウンロード



  95装飾品
 ※1顔面把手・面把手 人間や動物の顔が装飾されている土器の把手。
     顔面把手付土器は、中部高地 (長野・山梨) や、関東東部一帯 (群馬県など) で多くみられる土器。 人面は獣面把手から派生したと考えられる。

     なぜ人の顔が装飾されるようになっていったか、詳しいことはまだよくわからない。しかし、女神を表しているという意見は古くからあり、
     そして、それは女神信仰に関わる祭祀や儀式で使われたのではないかと考えられている。

     また、ヘビの意匠が人面と対峙して付けられているものがあることから、ヘビが男性を象徴すると考え、
     新しい生命を積極的に期待する儀式に使用されたのではないかと考える。


 ※2装身具
    装身具は、祭りなどに欠かせないものだった。しかし、装身具は装うだけの道具でなく、社会の中の地位を象徴するものでした。
    縄文人は、狩猟や採集で得た身近な素材と共に、時には交易で手に入れた貴重な貝や石などで様々な装身具を生み出した。

顔面把手・獣面把手※1
高見原遺跡出土
・顔面把手/みみずく形
中期中葉
・顔面把手/中期    
・獣面把手/中期中葉 
装身具※2・土製円盤※3 土製円盤



 ※4三角柱状土製品
    粘土を焼いて作った三角柱をした道具で、貫通する穴が開くものと、開かないものがある。
    側面などには模様がついており、縄文時代の祭の時に使用されたのではないかと考えられている。どのように使用されたかはわかっていない。

三角柱状土製品※4
(三角とう製品)
三角柱土製品

辻沢南遺跡



 ※5耳栓じせん (ピアス)
    縄文時代でも、現代と同じように耳たぶに穴を開けて装着した。
    直径1cmに満たないものから、10cm大の大型品へ成長に従って徐々に付け替えていったと考えられる。二個一対で発見されるのは珍しい。


 ※6翡翠の垂飾り (ペンダント)
    原産地は非常に限られた地域にしかなく、新潟県糸魚川流域の糸魚川市小滝地区などで産出する。

    翡翠の垂飾の分布は全国に及んでいるが、原産地との関わりもあって中部・関東・東北に多い。特定の製造所で作られ、交易品として
    関東や東北、また、中部、北陸といった地方に、中期頃から出回っていった。

耳栓 (耳環)※5 耳栓辻沢南・舟山・市内各所
土製耳栓/晩期/高見原
翡翠の垂飾り※6 硬玉製ネックレス
市内各所





  97磨製石斧と打製石斧

磨製石斧/市内各所 磨製石斧 磨製石斧の製作工程 磨製石斧の製作工程 石斧の種類


  98打製石斧
     形が斧に似ていることから名付けられました。土を掘る道具です。
     当地方では、天竜川の河原で拾える三峰川産の硬質砂岩や緑色岩類が主に用いられています。

     形はおおむね長方形を示す短冊形、刃の部分が幅広く作られた撥形、胴中央部に抉り込みのある分銅が他に大別されます。
     柄の付け方により、現在の鋤やスコップ、あるいは、鍬として使われました。

磨製石斧 磨製石斧 打製石斧 打製石斧 打製石斧と使用例


  99石匙・石錘

   石匙 つまみ状の突起を持つ刃物。用途は広く、石材によって異なっている。
       黒曜石やチャートなどの小型の鋭利なものは動物の解体などに使われ、大型の物は土掘りなどに使われた。

   石錘 石で作ったおもり。編み物の錘や、漁網用の錘として使用された。
       円く平らな石の両端に打ち欠きを持ったものが多く、表と裏に一筋、または十字の溝を彫り込んだ物もある。

       これは、紐や、編み物に使う繊維をくくりつけやすくするための工夫である。

石匙 打製石斧と石匙 石錘 石錘
 










 100駒ヶ根市ふるさとあゆみ館  駒ケ根市東伊那574-1

     駒ケ根博物館の考古資料は、館内収蔵庫の他、天竜川西岸にある「ふるさとあゆみ館」と、駒ケ根高原の「郷土館」に展示されています。
     しかし、郷土館の展示は、一つ一つガラスケースに入れて積み上げられていて、照明のために、写真撮影は不可能です。

     ただし、そこで展示されているものは、いずれも優秀品ばかりで、観察に十分耐えるものばかりです。

  101外観
伊那谷西側を俯瞰する西岸は木曽山脈の急激な隆起により裾野に南北に幾筋もの断層が見える 天竜川東岸は未発展 ここまでは急峻な坂道。車でも大変です。
しかし、
小学生二人。こんな山の上に自転車で来た。
脚力超強健な娘達





  110土器

  111panel

  114縄文時代 約1万2000〜2300年前

  縄文土器を使う時代として名付けられたこの時代は、氷河期の寒冷な気候が温暖になっていく頃にあたり、
  人々は半地下式の竪穴住居に住み、狩猟・漁労・採集あるいは原始農耕を行い、生きていました。

  土器の登場で、それまで食料として利用できなかったものが、煮炊きすることによって食料として利用できるようになり、食生活も多様になりました。
  当地方では、縄文中期後半期に最も遺跡数が多くなり、唐草文様を付けた土器が特徴的です。 (下伊那唐草文土器)

  また、この時期には祭祀に関係して住居の床などに土器を埋める「埋甕」の風習がよく見られます。

     反目・遊光・殿村・小林遺跡1 反目・遊光・殿村・小林遺跡2

東伊那の遺跡附箋の場所全てが
遺跡。驚くほど膨大な数です。
縄文時代
12000〜2300年前

反目遺跡34号住
中期中葉

反目遺跡34号住
中期中葉

反目遺跡84号住
中期後半

反目遺跡24号住
中期中葉

埋甕/
殿村遺跡16号住
中期後半

埋甕
反目遺跡48号住
中期後半
鍔付土器
殿村遺跡39号住
中期後半


  115弥生時代 約2300〜1700年前

  大陸からもたらされた稲作文化に代表されるのが弥生時代です。水田稲作は西日本から東日本へと広まり、人々の生活を安定させました。
  しかし、稲作が定着する頃になると、様々な利害関係が原因で、集団間で戦いが行われる事もありました。

  弥生時代になると、土器は、煮炊きに使う甕、貯蔵のための壺、盛り付けあるいは供え物用の鉢や高坏など、使う目的を意識した器が作られました。
  天竜川流域では、畑作が盛んで、畑作農耕用の打製石斧が遺跡から多く出土しています。 


 方形周溝墓

  弥生時代の権力者の墓。墓の周囲に溝を巡らした墓を方形周溝墓という。伊那地方では反目南遺跡・殿村遺跡から発見されている。
  周溝墓内からは被葬者に送られた鉄釧(腕輪)・ガラス小玉・管玉などが副葬された例が多い。

  東伊那の方形周溝墓は開発により主体部が破壊されていたが、造営は弥生時代末と思われる。

弥生時代
2300〜1700年前
方形周溝墓 遊光遺跡遺構全体図 反目遺跡遺構全体図 殿村遺跡遺構全体図
反目遺跡58号住/
弥生後期前葉
反目遺跡58号住
弥生後期前葉
反目遺跡58号住
弥生後期前葉
反目遺跡58号住
弥生後期前葉

反目遺跡58号住
弥生後期前葉
反目遺跡58号住
弥生後期前葉

栗林神社東遺跡
第1号住

大型壺形土器
縄文後期
栗林神社東C地区1号住
栗林遺跡確認緊急調査報告書 - 全国遺跡報告総覧



  116古代
    奈良・平安時代 約1300〜900年前

      奈良時代になると「律令」という政治の基礎となる法律が定められ、着々と国の体制が整備されていきます。
     一方地方では、未開の原野や山麓の開拓が進み、一段と貧富の差が明らかになっていきます。

     遺跡からも比較的裕福な農民ではないかと思われる家からは、緑釉陶器や墨書土器などが出ています。
     この時代の人々は、カマドのある竪穴住居に住んでいましたが、掘立柱建物も建てるようになっています。

     東伊那から火山峠を越えれば、伊那市富県福地、更に三峰川の対岸は伊那市手良に至り、いずれも古代から知られた郷名で
     その通過地として東伊那の段丘上に集落がつくられたものと思われます。

奈良・平安時代
1300〜900年前
発掘風景 古代の土器

甕/遊光遺跡1号住
平安/土師器
灰釉陶器 平安時代/遊光遺跡   遊光遺跡
  全国遺跡報告総覧







                                 

 200駒ヶ根市郷土館

  縄文中期の完形土器が15ぐらいありましたが、高反射ガラスの棚にあり、光って見えない。電灯を消すと暗く、外乱光が入って光って見えない。
     要は見えないのです。それでも展示物は素晴らしい完成品ばかりでした。

     そして何より、途中の駒ケ根高原の景色は素晴らしいものでした。
  201
天竜川西岸にはこんな
豪農の豪邸もある。
八重桜が咲き乱れる頃でした。 いつも部屋に閉じこもってパソコンいじってる私には
超新鮮でした。
駒ヶ根市郷土館 光前寺帰途にある、この寺は伊那谷の二大古刹で 有名な観光地でもある。
駒ヶ根高原美術館光前寺の境内にあります 光前寺の桜

平地よりかなり遅れて咲きます

境内

美しい苔庭
二大古刹のもう一方は
仲仙寺です。伊那谷最古の超有名、大きな力を持つ寺です。