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  西日本の縄文  26    2016.04.19-2

   帝釈峡博物展示施設 時悠館  広島県庄原市東城町帝釈未渡1909  08477-6-0161 水曜休館 9:00~16:30撮影禁止

  交通  車

  見所  庄原市帝釈峡付近には50箇所もの岩陰遺跡・洞窟遺跡があり、その多くが縄文時代に属します。 その遺物の一部が展示されています。

       帝釈峡遺跡群の住人は旧石器時代~弥生、そして古墳時代まで、同じ一族が暮らし続けたようです。出土物に特異な変化がありません。
       普通は途中で住人が変わっています。 一万年連続した縄文文化の様子は大変興味深いと思います。

  時代  (旧石器時代)~縄文時代~弥生時代

  注意  旧石器展示物は、ナイフ形石器が1本だけ、トンネルの出口付近にあるそうです。私は見落としました。



次 

01外観・庄原市の春景色

10タイムトンネル
11入口展示
13古墳時代
  大迫山1号墳
16弥生時代
17
18牛川遺跡
  九重式土器と上東式土器

20縄文時代
22土器形式
23帝釈馬渡・寄倉・名越岩陰遺跡
  帝釈峡の縄文住居
24復元岩陰住居
26帝釈峡の岩陰遺跡

40帝釈馬渡岩陰遺跡
41帝釈馬渡岩陰遺跡の文化層

42第1.2層 縄文前期 前半.後半
43第3層 縄文早期
44第4層 縄文草創期
45第5層 旧石器時代

50帝釈寄倉岩陰遺跡
51帝釈寄倉岩陰遺跡の文化層
52第3~5層 縄文後期
  第6~8層 縄文中期
53第8層下~9・10層 縄文前期
  第11・12層 縄文早期~前期

60犬塚古墳群

70帝釈峡遺跡群
 帝釈峡遺跡群の遺跡 

90帝釈名越岩陰遺跡
 名越遺跡の住居
 晩期に金属器で殺害された人骨
 石器
 狩猟採集から農耕へ
92帝釈名越岩陰遺跡出土物

100帝釈白石洞窟遺跡

110久代東山岩陰遺跡
112パネル
116久代東山岩陰遺跡の立石
  石棒祭祀
118土器


120帝釈猿穴岩陰遺跡

130帝釈鬼橋野呂第2号洞窟遺跡

140石器時代の庄原市東城町

160戸宇牛川岩陰遺跡
   縄文早期の有茎尖頭器

190社会の交流
191生活物資の交易 

 01外観・庄原市の春景色 -幼年期地形台地のうつくしさ-

帝釈峡に向かう道路のあちこちで個人が花いっぱい運動をしています 庄原盆地は山頂まで10mもない幼年期地形。 丘陵上に街があります。標高200m余りです。三次盆地は150mです 庄原市上野公園の桜

駐車場や誘導員も配置されていました
これはもう、山ではなく丘ですね。不思議な光景です。
信州の人が見たら驚くでしょうね。
何の花かわかりませんが、あちこちに植樹されています 桜です。西日本ではみんな散ったと思っていたら、今満開
帝釈峡神石高原町
標高500mは季節がひと月ほど遅い
花もみじだそうです 楓の花ですね 帝釈峡博物館入口この上に車で行ってはいけません ここからでないと入場できません 山上の施設へのエレベータと通路に繋がっています 博物館入口 無人
自動券売機で入場
券は回収箱に投入




 10タイムトンネル

  11入口展示
     帝釈峡遺跡群の秘密 帝釈峡は石灰岩台地が浸食されてできた峡谷です。
       台地に降り注ぐ雨や水の流れは、長い年月の中で石灰岩を浸食し、多くの洞穴を作り出してきました。

       自然の岩陰や洞窟は、縄文人たちにとって格好の生活の場となりました。
       また、台地の森林や澄み切った渓流は、多くの動物を育み、豊かな自然の恵みを与えたのでした。

       遺跡が縄文時代から何千年にもわたり利用され続けたのは、帝釈峡の自然が生み出した住環境に秘密があったのではないでしょうか。
古墳時代から遡る展示が始まります。しっかり見てください 下帝釈(しもたいしゃく)の紅葉 石灰岩台地に刻まれた
帝釈峡の洞窟や険しい山容。平坦な台地。
馬渡遺跡から、帝釈峡の考古学が始まった タイムトンネル 銅鐸絵が描かれています


  13古墳時代 3c終わり~7c  権力者が人々を服従させ、権力を誇示するために、巨大古墳を造らせた。
                     そして、遂に関東から九州までを支配する権力者が登場した。
   14
古墳時代 墳形と副葬品の変化 古墳時代のムラと人々の暮らし豪族居館とムラの復元
ムラと人々の暮らし※1
勾玉と耳環
古墳の基本形
 円・前方後円・前方後方・方・帆立て貝形
大迫山第1号墳※2
東城町の古墳分布図
獣首鏡(中国鏡)
墳頂からの眺望
※1豪族居館を中心に村落を形成し、庶民は共同で農作業や祭祀をした。
木製・石製農具は鉄製に替わり、農地の開墾や生産に大きな力となった。

 古墳の大きさは権力の大きさだった。

 ※2大迫山1号墳
      東城町に400基の古墳。山腹や丘陵上に築造。 これは、4世紀中頃の前期古墳で、県内有数の大きさだった。
      東城町は山陰と山陽を結ぶ交通の要衝で、鉄生産と関係のある権力者がいたのかもしれません。



  16弥生時代
     二千数百年前稲作が伝えられたとしている。人々は集団作業のためムラを形成し、リーダーに従うようになった。
    水田耕作の土地を求めて原野を開墾し、時には、これらを巡って激しく争うようになった。
   17
弥生時代 稲作の伝来 金属器の出現 卑弥呼伝説
魏志倭人伝の金印・銅鏡の授与
打製石包丁 邪馬台国の謎ヤマトが魏の敵国の背後にあるように行程を偽装した

   18牛川遺跡 山陰文化と瀬戸内文化の交流。弥生時代終末期遺跡。
牛川遺跡 東城町内の弥生遺跡※1 牛川周辺遺跡
墓の構造
竪穴式石室
日本海・瀬戸内の交流九重式(くのう)・上東式土器が見つかる東城町 東城町の弥生の暮らし中期に丘陵尾根に小集落を作り農業した。小さな水田。麦・ソバ・豆・クリなどを栽培した。 牛川遺跡の二種の土器※2上東式土器(瀬戸内の土器)

 ※1牛川遺跡は 弥生時代終末期の、丘陵を利用した集団墓地。5基の墓は地面を長方形に掘り、副葬品はなし。

 ※2牛川遺跡の二種の土器
    九重式土器 第4号墓から出土した器台は完全に復元すると、高さ16㎝程になり、鼓形器台となります。これを九重式(くのう)と言います。
    上東式土器 第5号墓からは多数の大型壺や大型器台が出土しています。いずれも瀬戸内地方では上東式(じょうとう)と言われます。



  20縄文時代
   22土器形式
縄文土器※1 土器形式の変化※2 帝釈峡の土器変化
草創期
中期
後期
縄文土器の文様
押形文・縄文・竹管文
撚糸文・条痕文
縄文土器の文様
押形文・縄文・竹管文
撚糸文・条痕文・貝殻文
縄文の集落

 ※1土器は、食物の貯蔵、水の運搬貯水、煮炊き、盛り付け、などに使われた。土器によって人々の生活は飛躍的に拡大した。

 ※2円筒上層式(青森:口縁に文様)、火焔土器(新潟:複雑な形)、勝坂式土器(山梨:人や動物で飾られる)、里木式土器(岡山:縄文が多い)、
    阿高式土器(熊本:深く彫った線)


   23帝釈馬渡・寄倉・名越岩陰遺跡

 帝釈峡の縄文住居
縄文住居は平地住居ですが、石灰岩地形の帝釈では、天然の岩陰や洞窟が多く、雨露をしのいだり、獲物から身を潜める狩りのベースキャンプとして最適。
特に、日当たりのよい南や西向きの、魚の多い峡谷の窪みは、狩りのベースキャンプとして、式を通じて暮らしに適した場所でした。

帝釈峡の住居遺跡 各所の岩陰・洞窟遺跡 文化層帝釈遺跡の中には↓ 石鏃
帝釈馬渡岩陰遺跡
磨製石斧・打製石斧
帝釈寄倉岩陰遺跡
スクレイパー帝釈名越岩陰遺跡 貝製容器テングニシ
帝釈馬渡岩陰遺跡
島根・福岡・宮崎で採取可能
数千年から1万年も生活してきたものが多い。
 生活痕跡は何千年も積み重なっており、その層を文化層と呼ぶ。

  24復元岩陰住居

  岩陰のマイホーム 
帝釈峡では旧石器時代から天然の岩陰や洞窟を利用して生活していました。

岩陰の窪みは半洞窟状になった深いものから、僅かに上部がせり出しただけの浅いものまで、いろんな岩陰住居が発見されています。
生活するには深い窪みが良いでしょうが、日当たりや川や猟場への近さなど、利便性を優先して住居を決めたと考えられます。

ここでは帝釈峡地域の、縄文後期~晩期にかけての半洞窟状の岩陰住居を再現しています。
住居の広さ  約12㎡ 4坪 8畳程度  居住人数 1家族4~5人程度

岩陰のマイホーム僅かに雨をしのげれば柱と壁を立てて利用した 埋葬土坑奥に穴を掘って埋葬した
埋葬目印に石を置くのはこの頃からか 埋葬された成人女性縄文後期の女性人骨 屈葬で石を置いている
抱き石ではなさそう
 死者を住居奥に埋葬し
祖霊を崇拝し、霊魂の再生を願っていた。
   と書いてある

  26帝釈峡の岩陰遺跡
馬渡遺跡(昭和36) 発掘のきっかけ林道工事で発見。
児戯のような発掘寸評が掲載されている
発掘寸感 一万年前の槍柳刃型石槍 寄倉遺跡 遺跡調査2年後全体調査開始
洞窟岩陰に遺跡ありは常識だった。なぜ掘らなかった
ベルトコンベア
縄文期の遺品続々 名越遺跡 発掘調査一度に全ての遺跡を乱雑に発掘したら
お宝探しに他ならない
第4次調査 若年層の表現
こんな言葉を使う人たちが発掘したんだぁ~
縄文早期の解明 展示施設内の風景円形建物の内側廊下が展示場所。展示物が光って全く見えない

   何も知らない判っていない建築設計士がこんな円形建物を作って鼻高々か?  使いにくく、見にくく、最低な展示館の設計でした。






 40帝釈馬渡岩陰遺跡
帝釈峡遺跡群発掘のきっかけとなった帝釈峡馬渡遺跡は、帝釈始終にあり、帝釈川と馬渡川の合流点から、馬渡川を100m遡った右岸にあります。
長さ10m厚さ4mに渡って、旧石器から縄文前期に及ぶ5つの文化層が見つかっています。

土器や石鏃の出現する縄文時代が始まる頃の様子が明らかになった重要な遺跡です。
  
  41帝釈馬渡岩陰遺跡の文化層

旧石器~縄文前期の
5つの文化層
BC10000年て言うか?
12000BPだろう。BCの意味がないやろ
いつからいつまで何年間かわからないだろ
5つの文化層 光って何も見えんやろ。こんな展示館はダメですよ


5つの文化層
第1層 縄文前期後半 地表下0.5~2m前期後半の土器・石鏃・石錘・石匙。サルボウ貝製貝輪。カワニナが多量に出土。
         
第2層 縄文前期前半 中央部にR2m厚さ1.2mの灰層あり(長期間の生活痕跡)。前期前半の土器。石鏃・石錘・石匙・凹み石。マツバ貝製貝輪
        カワニナ・カワシンジュ貝。鹿・猪の骨
         
第3層 縄文早期 中央部にR2m厚さ0.5mの灰層あり。押形文土器(楕円・山形)・石鏃・石匙・礫器。カワシンジュ貝。海産貝は出土せず。
         
第4層 縄文草創期 旧石器時代終末期の有茎尖頭器(投げ槍用) と縄文時代の土器・石鏃が出土。旧石器から縄文への変遷が明らかになった。
        10cmもあるカワシンジュ貝が大量出土し、煮沸用に土器が出現したと考えられた。
更新世の絶滅動物、ヤベオオツノシカの臼歯破片も出土した。
         
第5層 旧石器時代 第4層下0.5mの最下層文化層。サヌカイトの剥片石器。ヤベオオツノシカの上顎骨破片出土。


  42第1・2層 縄文前期 前半・後半 6000~5000年前
土器押形文土器 石器礫器・石錘・スクレイパー・石鏃 貝製品貝輪片・ハマグリ・巻き貝・ハイガイ・トカシオリイレボラ・ツメタガイ・シドロ・アワビ 押引文土器(6000年前)
第2層から

  43第3層 縄文早期 1万年前~6千年前
楕円押形文土器(8000年前)
山形押形文土器(8000年前)
楕円押形文土器(7000年前) 無文土器(7000年前) 山形文土器(8000年前) 楕円文土器(7000年前) 磨石・凹み石・スクレイパー・石鏃
(8000~7000年前)

  44第4層 縄文草創期  1万3千年前~1万年前
カワシンジュ貝 1万2000年前の無文土器 第4層は1万2千年前が中心です 尖頭器・有茎尖頭器
石鏃
無文土器12000年前

  45第5層 旧石器時代
剥片石器 上顎骨
 オオツノジカの骨
 上顎骨の奥側にある
石器について説明がない。
それとも、鹿の骨でしょうか


 50帝釈寄倉岩陰遺跡は、
    帝釈峡の入り口付近にあります。長さ40m奥行10mの範囲に地表下6mまでに13の文化層がある、帝釈峡最大の遺蹟です。
    縄文時代全般にわたる文化層が連続して見られます。また、縄文時代後期の総数50体以上に及ぶ2つの埋葬人骨群が発見されています。


  51帝釈寄倉岩陰遺跡の文化層 縄文早期~弥生時代
13の文化層あり、縄文時代全般の連続的文化層
縄文後期の50体以上の2つの埋葬人骨群発見
13の文化層
縄文時代~古墳時代
13の文化層

弥生土器 第1層中期
約2000年前

高坏
弥生土器 第1層中期
約2000年前
縄文中期土器
縄文時代 第7・8層
5000~4000年前

13の文化層

第1・2層
第1・2層
 縄縄文晩期
 ・弥生以降
第1層から弥生~古墳時代の遺物出土
第2層から縄文晩期後半の遺物出土
         
第3~5層  縄文後期 第3層は縄文時代後半
        第4層は後期中頃
       第5層は後期前半 の土器が出土。石槍・石鏃。ハマグリ・ハイガイなど海産。カワニナなど淡水産貝類。動物骨。
        2つの埋葬人骨群
         
第6~8層  縄文中期 縄文中期土器 石鏃・石錘。黒曜石製大型剥片石器。カワニナなど貝類。動物骨。貯蔵穴。
        第6層からは 後期土器の特徴「磨消縄文」のさきがけ土器が出土。
         
  第9・10層  縄文前期  縄文前期土器 爪形文などを特徴とする瀬戸内の土器。
        隆帯や沈線による幾何学的な模様が特徴の九州地方の土器、などが出土。
        この時期の文化的交流が伺える。また、石鏃なども多く出土した。
         
第11
 ~13層
 縄文早期
縄文早期
第11・12層からは
特に第12層出土の
繊維土器が出土
土器は、縄文を文様とする厚手の土器で、寄倉12層式土器と呼ばれる土器形式です。
        第13層からは、 押形文土器。 第12層からカワシンジュガイ。 第11層からカワニナが多く出土する。


  52 第3~5層 縄文後期    参照「広島県史年表」
    第6~8層 縄文中期
第3~5層 縄文後期土器
4000~3000年前
第3~5層 縄文後期土器
4000~3000年前
中津式土器
磨消縄文土器
第5層後期 4000年前
中期~後期土器 第6層
4000年前
里木Ⅱ式土器 第6層
中期 4500~4000年前
中期土器 第7・8層
5000~4000年前
  53 第8層下~9・10層 縄文前期
    第11・12層 縄文早期~前期

前期土器
第8層下半~9・10層
6000~5000年前
早期~前期土器
(繊維土器)第11・12層
7000~6000年前
早期土器 押形文土器
第13層
7000年前
牙玉・石製勾玉
海産の貝類 アワビ・ハイガイ・ハマグリ
黒曜石の石刃・剥片
縄文 各期
石錘
石斧 石器類 縄文各期 石鏃 スクレイパー 骨角器(骨針他)
縄文 各期
貝製品 縄文各期
貝輪・穿孔品




 60犬塚古墳群
   弥生稲作農耕に不適な地に集権的・高生産性を意味する古墳時代遺跡があるということは、どのような経済性で成り立っていたのだろうか。
標高510m丘陵尾根上の4基の古墳で構成されている
1号墳 (6世紀中頃)
県最古の横穴式石室
持ち送り式石積み
(朝鮮式石室)

R11.5mの円墳
副葬品=玉類・剣・須恵器
4号墳は竪穴石室 3号墳 2号墳 1号墳
横瓶 有蓋壺 はそう 提瓶 短頸壺 蓋付坏
4号墳須恵器
蓋付坏・小形丸底坩
3号墳須恵器・土師器

2号墳土師器
蓋付き坏
1号墳須恵器
耳環・須恵器と玉類
1号墳
鉄器類 刀子・槍鉋
1号墳
やりがんな 鉄鏃




 70帝釈峡遺跡群 -石器時代の東城町-
     遺蹟群は、帝釈川流域、高梁川上流の東城川、天田川流域や、日本海に注ぐ江の川上流域にもあり、庄原市・神石高原町・府中市にまたがる
     約20km四方の範囲にまたがっています。51箇所の岩陰・洞窟遺跡が確認されています。

     遺跡の中には縄文・弥生などの古い遺跡だけでなく、古墳時代以降の新しい時代のものもあります。

帝釈峡遺跡群の遺跡 遺跡の分布図 遺跡名 帝釈峡付近の空撮
縄文時代の時代区分
縄文時代の時代区分  帝釈峡遺跡群の調査馬渡遺跡
 第5層からは旧石器時代の剥片石器やオオツノシカの骨

 第4層から平底無文土器・石鏃と共に
 旧石器時代終末期の有茎尖頭器が出土し、時代の変化が明らかになった

 つまり、ここでも、旧石器を使っていた旧石器人が、縄文土器を使いだしたという、連続性を示している

 帝釈峡遺跡群の遺跡
    20㎞四方 (400㎢) の帝釈石灰岩地帯の台地や峡谷に発達した、岩陰や洞窟に51箇所の遺跡が確認されている。
    縄文・弥生から古墳時代以降になっても利用されました。



 90帝釈名越岩陰遺跡
    縄文早期(7000年前)から古代・中世に至る文化層が連続する。柱穴・埋葬・貯蔵穴などの住居内部の遺構が明らかになった。
    岩陰遺跡は小さく狭く、1家族程度の居住面積です。岩陰遺跡の特徴です。

    縄文後半期には、抉り入り石器や晩期の籾殻圧痕土器など、中国山地でもヒエ・イネの栽培が始まった遺物が出土している遺跡。
名越岩陰遺跡
上に記述
名越遺跡 遺跡の住居
※1
※1 ※1 遺跡の南北断面
遺構の状態 縄文晩期後ろ手の被葬者 住居図と貯蔵穴 石器※2 ナイフ形石器・鏃・石錘 籾殻圧痕土器の出土状況
狩猟・採集から農耕へ※3 ※3 ※3 ※3 帝釈名越岩陰遺跡

※1名越遺跡の住居

遺跡からは、全国にも例のない柱穴列や、住居内部に埋葬と貯蔵穴も見つかった。
柱穴列は、岩庇に沿って、縄文中期・後期・晩期・弥生前期が確認され、最も明瞭なのは、縄文後期後半(3500~3000年前)です。
 
柱穴は 岩庇の下に岩陰を覆打ように横に並び、また、内部を間仕切りするために、それに直交するように配置されています。
覆われた面積は12㎡で、直径4mの竪穴住居に匹敵します。
人骨 葬人骨4体(弥生中期の小児、縄文晩期成人男性、縄文後期成人女性、時期不明の縄文でない成人女性)
縄文晩期男性は住居外に伏臥・後ろ手で左腕に金属の刃による傷があった。※(晩期に弥生人が侵入・殺戮し家族を奴隷に連れ去ったか)
貯蔵穴は 14個(縄文中期3、後期5、晩期6) 東側に集中するが、縄文晩期3000年前頃に奥側の壁に沿って作られ、住居利用に変化が起きたようだ。
5号貯蔵穴は上面40~50の楕円・内部40cmの袋状断面。縄文後期4000~3000年前のもの。
上部に4個の石灰岩・角礫・川原石を置き、中から大型のカワシンジュ貝11個出土。

縄文時代後半の西日本では、自然の湧水のある丘陵裾の谷に、ドングリ類の貯蔵穴が見つかるが、
ここでは、肉や貝類など、いろいろなものを貯蔵したようだ。

※2石器  
狩猟具(石鏃・石槍)、漁労具(石錘)、伐採・加工具(磨製石斧)、調理具(磨石・敲石・石皿)、加工具(スクレイパー)など現代の道具とほぼ同じです。
漁労具・調理具など、河原など手近にある石を利用しますが、
鋭利な刃物(石鏃・スクレイパー)など、狩猟・加工具には、サヌカイト(安山岩)と黒曜石を使用します。

中・四国地方では、香川県金山・五色台(サヌカイト)。島根県隠岐島(黒曜石)などの産地の石材を利用しています。


※3狩猟採集から農耕へ
縄文時代は狩猟採集が生業だが、西日本の場合には、遺跡の立地や磨製石鎌・打製石斧(農耕具)の存在から、
晩期(3000~2500年前)には農耕があったと考えられていた
     
稲の籾殻圧痕 名越遺跡からはイネの籾殻圧痕のある土器底部が出土していますが、付近に水田のできる場所はありません。
    籾殻圧痕土器は、岡山県総社市南溝手遺跡からは後期末の土器についたものが見つかっています。

籾殻圧痕は後期末(3000年前)まで遡るようです。それ以外にも、ヒエのプラントオパール(植物珪酸体の機動細胞)が
土器の胎土から検出されるようになりました。
     
プラントオパール 岡山市岡山大学構内遺跡でイネ・ヒエ、 高知県高岡町松ノ木遺跡でシコクビエが縄文後期中頃3500年前の土器から。
    岡山県姫笹原遺跡からイネが、縄文中期土器、5000~4000年前から検出されている。
     
穀物の栽培 しかし、収穫道具の登場は、後期中頃(3500年前)です。この頃、イネやシコクビエの栽培がおこなわれた可能性があります
     
収穫道具 遺跡から、短辺に抉りが入り、刃にあたる長辺が内反りになってひじ用に磨滅した石器が出土し、これは
    動物を切ったり解体したりするスクレイパー類に見られない磨滅です。同様の石器は中・四国・九州では、後期中頃3500年前から出現。

弥生時代の打製石包丁との形態的類似から、縄文の抉り入り石器も収穫具ではと考えられています。
     
農耕具の出現 なお、土堀具の打製石斧は帝釈峡地域では堂面遺跡の1点のみですが、中四国では、同様に後期中頃から出現します。
    縄文後期の時期には、中・四国地方では穀物類のプラントオパールや、抉り入り石器・打製石斧など、
それまでにない道具が出現することから、
     
農耕の開始   後期中頃から穀物栽培という新たな生産の歩みが始まっていたのではと考えられます



  92帝釈名越岩陰遺跡 出土物
押形文土器 縄文早期
7000年前
縄文前期土器
6000~5000年前
縄文中期土器
5000~4000年前

粗製深鉢土器 縄文後期
縄文後期土器
4000~3000年前
縄文晩期土器
3000~2500年前
すり石・たたき石 サヌカイト石材(後期)
抉入り石器(後期)
スクレイパー・楔形石器(縄文各期)
石鏃(縄文各期)
石錘(縄文各期)
籾殻圧痕の土器(晩期3000~2500年前)
骨製管玉状製品(後期)
貝輪サルボウ製(晩期)


 100帝釈白石洞窟遺跡
    縄文早期(7000年前)~古代・中世
    崩落礫が多く、縄文遺物は少なく、弥生中期の壺・鉢・高坏の3点の完形土器が出土。
    洞窟祭祀の後と考えられる。
帝釈白石洞窟遺跡
高坏出土状況

壺出土状況

弥生時代         
前期土器(2500~2400)
前期・中期土器(2500~1900年前)

弥生前期土器
(2500~2400年前)
弥生前期・中期土器(2500~1900年前)

弥生中期土器1900年前


 110久代東山岩陰遺跡 縄文早期(8000年前)~古代・中世
   くしろひがしやま
  112パネル
久代東山岩陰遺跡岩壁の崩落が非常に多い
久代東山遺跡 構造の状況と  
住居の復元図
切目石錘出土状況

 久代東山岩陰遺跡

特徴は、 縄文時代早期後葉(8000年前)の 繊維土器 と後期後半(3500年前)の 14個の切目石錘です。
     
繊維土器は、 胎土に植物繊維を混ぜた土器で、この時期の国内で一般的です。
    久代東山遺跡からは関東地方の茅山式土器に類似土器が出土しています。
     
錐目石錘は、 紐かけ部を打ち欠いて作った礫石錘とは異なって、打ち欠き部を溝状に擦り切った網の石錘です。
    帝峡釈内の他遺跡では少量ですが久代東山遺跡では、14個うち13戸が網に掛けられたまま、岸壁の窪みから出土した。
14個が一つの網に付ける数だったと明らかになった。
     
遺構としては、 縄文後期の柱穴と灰層や焼土面(炉跡)。縄文後期柱穴1つ。炉跡2つ。住居を3等分していた。
    縄文前期の河原石を利用した立石や敷石
     
立石は、 中央に65cm、最大幅30cm、厚さ15cmの洋梨型。その前後を小石で支える。 石棒祭祀の初現と思われる。
     
敷石は、 2m四方に20~30cmの扁平な石を敷いたもので、何らかの、特別な場所と考えられます。
    礫は大きく扁平な石が多いが、下の方に5~10cmの焼けた小型の石が多くみられます。
     
遺跡の住居は、 長さ10~12m。奥行2.5~3mの細長い構造。だった。河原石の遺構群は国内に例がありません。
東山遺跡は、立石など、他とは異なった特殊な遺跡かも知れません。



  116久代東山岩陰遺跡の立石  立石をもつ、河原石を多用した、縄文前期(6000~5000年前)の住居が明らかになっています。
立石 縄文前期6000年前
石棒祭祀の初現形態
石棒祭祀
東日本では
立石男性性器をそのまま表現した、石棒よりも リアルな造形物。 いんけい・いんのうです。わざと横向けて展示しています。 撮影時電気を消されほぼ真っ暗でした
でもよく撮れてるね

 石棒祭祀
   東日本では住居の中央に立てる例が多くみられます。 健康や子孫繁栄。木の実や動物などの食糧が多くとれるように願ったのかもしれない。

  118土器 
     繊維土器 縄文早期~前期の土器に見られる、胎土中に故意に繊維を混入させた土器。

繊維土器の復元図
久代東山岩陰遺跡
7000~6000年前
繊維土器 縄文早期
7000~6000年前
関東地方の茅山式土器
7000~6000年前
茅山式土器
神奈川横須賀・茅山貝塚
関東地方早期後半土器

磨製石斧と切目石錘
縄文後期4000~3000年前


 120帝釈猿穴岩陰遺跡
    縄文早期(7000年前)~弥生時代まで
    文化層は6層。 各層から炉跡の灰層・焼土層が出土。

    縄文各層から、
      土器、石鏃・スクレイパー・石錘・磨り石。貝輪。骨牙製品。
      ハマグリ・あわび。の海産貝。 シジミ・カワニナ・カワシンジュ貝の淡水産貝。鹿・猪など動物骨。


名越遺跡
 帝釈猿穴岩陰遺跡
猿穴遺跡
晩期土器3千~2500年前
後期土器4千~3千年前
早期土器7千~6千年前
石鏃・スクレパー・石垂
骨角器・貝輪
滋養文各期



 130帝釈鬼橋野呂第2号洞窟遺跡 室町時代~江戸時代

帝釈鬼橋野呂2号墳 帝釈鬼橋野呂2号墳 鎌・小柄・包丁・円盤・銭・和鏡・煙管・毛抜き・青磁・すり鉢 鉄鍋



 140石器時代の庄原市東城町
    旧石器時代の遺物は、馬渡遺跡第5層から出土した剥片石器類だけです。

    縄文時代になると岩陰・洞窟遺跡だけでなく、丘陵や平坦な場所にある、持丸・内堀市原遺跡から土器片。湯谷・馬渡上遺跡から磨製石斧。
    石棒が出土した長者が原遺跡(久代)遺跡。が出現しました。

石器時代の庄原市東城
石棒(長者が原 縄文)
縄文後期土器3500年前帝釈白雲洞洞窟遺跡 磨製石斧(縄文馬渡上)
磨製石斧(縄文湯谷)


 160戸宇牛川岩陰遺跡  縄文早期~後期(8000~3000年前)
      特徴は、隠岐島産黒曜石の比率が高い。牛川は20%。他は5%。もっとも北に位置する為、流通の拠点だったと考えられている。

      縄文草創期の投げ槍用有茎尖頭器が、縄文早期の層(8000年前)から出土した。


上に記述
牛川遺跡
押形文土器早期(7千年前
有孔貝製品前期(6千-5千)
有茎尖頭器(8千年前)
石鏃・石器剥片(黒曜石&サヌカイト) 縄文前期土器(6-5千年)
早期-前期土器(7-6千年)
石鏃(縄文各期)

  縄文早期の有茎尖頭器
    旧石器から縄文草創期に出現した、動きの遅い大型動物を仕留めるものだった。
    それから4000年も経ってなぜ帝釈峡地域に尖頭器が続いていたのだろうか。

    権力や部族・家族のシンボルとして見ても、4000年も前のものを保存し続けられるだろうか。
    対人用かそれとも、ヒバゴン対応だったか、サンダとガイラ用だったか。
    いずれにしても、大型獣の絶滅後、このようなものがなぜ残ったのか不思議である。



 190社会の交流
    帝釈峡遺跡群からは、各遺跡・各時代とも、中・四国地域の共通性が見られ、九州東部から近畿地方にかけて、
    瀬戸内を中心とした一つの土器文化圏があった。

    早期~前期にかけては東日本や九州地方の要素を持つ土器が見られる。
            茅山式、関東早期の土器や、 前期の轟式・曽畑式の九州の土器。

            茅山式土器は、東山岩陰遺跡・神石町観音堂洞窟遺跡から。
            曽畑式土器は、馬渡岩陰遺跡と、寄倉岩陰遺跡。油木町の弘法滝洞窟遺跡から。
            轟式土器は、 帝釈峡遺跡群の多くから出土しています。

社会の交流上に記述 早期西日本型繊維土器と
九州型土器の分布
前期九州の轟式と東海の羽島下層式の分布 中期西日本の船元式と九州の阿高式の分布 後期西平式と中津式 晩期岩田第4類
舟橋式(突帯文土器)
縄文前期、帝釈峡遺跡群に影響した土器形式※1 運び込まれた石材産地
※2
※1

九州前期轟式系土器
        (観音堂)
九州前期曽畑式系土器
 (観音堂・寄倉・弘法滝)
※1

関東早期茅山式土器
 (観音堂・東山)
近畿後期元住吉山(特)式系土器(日比須)
帝釈観音堂岩陰遺跡
帝釈寄倉岩陰遺跡
帝釈弘法滝洞窟遺跡
帝釈久代東山岩陰遺跡
帝釈日比須岩陰遺跡
※2石材産地
黒曜石
 隠岐島-久見・津井・加茂
 大分県姫島
サヌカイト
 広島県冠山
 香川県-金山・五色台


 191生活物資の交易
    帝釈峡遺跡群からは、日本海へも瀬戸内海へも60㎞の中国山地の中にあります。

    しかし、縄文早期・草創期から、アワビやハマグリなどの海産貝類や、
    石器材料として、香川県金山・五色台産サヌカイト。隠岐島・大分県姫島産黒曜石が入っています。

    縄文後期(4000年前)以降になると、金山産が中心となり、また、佐賀県腰岳産黒曜石や奈良県二上山のサヌカイトも入ってきました。

    何千年も前に石材や海産貝類など、物資の流通網が出来上がり、土器に見られる情報網も発達していたと言えます。
    広範な人々の、頻繁な往来があったと考えられます。

上に記述 上に記述 上に記述 冠山産サヌカイト
金山産サヌカイト
姫島産黒曜石
隠岐島産黒曜石