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01外観・入り口展示 02大量のアズキ圧痕の埋甕 ―伴野原遺跡の炭化種子 伴野原遺跡 縄文中期 (4500〜4000年前) 昭和51年の発掘調査で、住居址から発見された埋甕の胎土に、300粒ものアズキ痕のあるのが見つかった。 1990年代までアズキは大陸伝播と考えられていたが、縄文時代の中部高地ではアズキが栽培されていた考える根拠となりました。 ※粘土にアズキを混ぜたのではなく、アズキを巻き散らした上で、成形のために甕を転がしたようです。 なぜ意図的にこのようなことをしたのかは分かりませんが、埋甕という製作目的と何か関係あるのかもしれません。 また、この時代に、アズキが栽培されていたことを証明するとともに、栽培 (農耕) 技術が確立していたことも裏付ける資料です。 ※アズキの原産地は東アジアで、列島にも野生種で、ヤブツルアズキ、日本からヒマラヤの照葉樹林帯に分布するものである。 これらは栽培を繰り返すことで次第に大きな個体に選択変化し、現在の栽培種に近くなったと考えられている。
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05展示室全景 06 展示室の奥に、まだ、収蔵庫があります。 よく整備されています。 |
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10旧石器時代 |
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11
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20縄文時代 |
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21縄文時代の豊丘 今からおよそ1万年くらい前になると、気候は次第に暖かくなり、野山にはクリ・ドングリなどが実り、シカ・イノシシ・ウサギ・キツネなどの動物も 増えてきました。それらの動物を捕まえるために弓矢が考案され、同時に土器を作って食物を煮炊きしたり、蓄えることも始まりました。 いくつかの家族がムラを作って住み着き、力を合わせて暮らすようになりました。 獣や鳥、魚などを獲ったり、野山のクリ・ドングリをはじめ、採集ばかりでなく、有用植物の栽培・管理も始めました。 豊丘村には縄文時代の遺跡が各地に残っています。 縄文中期、約4000年前には、地面を円形に掘り窪めて柱を建て、屋根を載せた、竪穴住居が十数件程まとまったムラ(集落)が造られ、 そこからは土器や石器などの生活の道具(遺物)が数多く発見されています。
縄文時代の生産活動 縄文時代の人々は、獣や鳥や魚を獲ったり、食用植物の採集や栽培をし、また、これらを加工・保存することなど、食料を作ることが労働の中心で、 これらに使う道具を作ることも大切な仕事でした。 彼らの道具には、石器や骨角器・木器や土器があり、この他に植物の繊維や毛皮から作るものなどもあり、 全て自然界から手に入る材料を加工していました。 また、狩猟採集ばかりでなく、食用植物の栽培管理も始めました。 焼畑でアワ・ヒエ・キビ・マメなどの雑穀類を栽培したり、野山のクリ・ドングリ林等の管理をしていたようです。 (中略) 間には住まいの修繕や焚物集め、道具や着る物作り、また、ほかのムラとの物々交換など、いろいろな仕事をして生活していました。
縄文人の祈り※ 縄文時代の人々は、自然の恵みを頼りに生活していました。自然は人々に多くの物を与えてくれる反面、 時には人々の命さえも奪う恐ろしい力を持っています。 この恐ろしい自然の力をなだめる為に、人々は複雑な 「まじないごと(呪術)」 に頼って生活していました。 ムラの中央の広場に沢山の石を集めて並べた場所 (配石遺構)は、祖先の霊を迎えたり、亡くなった人を送るためのまつりの場所とみられます。 住まいの奥に造られた祭壇 (石壇せきだん)は、台風や日照り、山火事などで自然が暴れることのないように、また、野山、、、(以後判読不明) |
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22早期の石器・土器 |
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23石器 |
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24土器 埋甕の祈り 住居の入り口付近にある。死児とか後産を入れ、それを毎日踏んで還霊や健康を祈った。一戸に一個位はあったと思われる。 伏甕 底部を穿孔または打ち欠きをした深鉢形土器を倒立させて竪穴住居の床面下に埋設したものである。 埋設される深鉢型土器は,伏甕専用に作られた土器ではなく,日常的に (使用されたものである。) 引用柿ノ木平遺跡出土伏甕 ※土器を穿孔したり、打ち欠いたりするのは、土器の死を意味し、死者を入れて送るには、壊れた土器である必要があった。 また、葬った霊魂の通り道として穿孔する必要があった。 |
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26土器・石器 |
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40弥生時代 |
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41弥生時代の豊丘村 今からおよそ2300年前頃、大陸から伝わった米を作る文化 (稲作農耕文化) は、約200年かかって伊那谷に入ってきました。 人々は天竜川の近くや湿地帯、段丘下の湧水のある沼地などを利用して米作りを始めました。 水の便の悪い乾燥した土地では、おかぼ (陸稲) や雑穀類などが畑で作られるようになりました。 銅や鉄などの道具も伝わり、蚕を飼って糸を取り、機織りも行われるようになりました。 富が蓄えられると、人々の間に身分差が生まれ、やがて地域がムラからクニへとまとまっていきます。 豊丘村の大地が田んぼや畑として広く開発が始められたのはこの時代からで、村内至る所から土器類が発見されている。 また、田原村からはムラのリーダーと思われる大きな墓も発見されています。 |
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42石器 |
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45弥生土器 |
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46前期―後期 |
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47後期 |
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50古墳時代 |
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51大宮 家の上古墳 内 容 全長約18mの円墳で、無袖式の横穴式石室が調査された。出土遺物から8世紀前半まで追葬がされていたと考えられる。 時 期 7世紀中頃 |
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平場展示 |
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60 伴野原遺跡のパン状炭化物 縄文中期 火災にあった住居跡の炉底から径17cm厚さ3cm (今のホットケーキ大) の炭化物を見つけました。鏡餅を作る手法で造られています。 内容物から栽培種のエゴマが検出されています。 熱灰 (あつばい) の中に入れて焼いた、おやきのルーツと言えます。 食品を灰の中に入れた直後に火災になったらしく、そのまま廃棄されたため、4500年後まで残されました。 今日の粉食 (こなしょく) の基本が縄文中期には既に出来ていたことがわかる資料です。 尚、この住居から出土した埋甕から、多量のアズキを貼り付けた土器が出ています。(入口展示の項参照) |
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63パン状炭化物 |
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64穀物食物の炭化物 |
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66線刻絵画付小形埋甕 |
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70平安時代 |
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71鉄製品 |
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80縄文時代 |
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81田村原遺跡 早期末〜中期 (たむらはら遺跡) |
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82伴野原遺跡 中期 |
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83土偶 女体をかたどり人や動植物の繁殖繁栄を祈った。 ひもでつるしたらしい。 小型土器 祭に使用されたらしい。 族長の家より発見。 |
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84顔面把手 中期 |
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85吊り手土器 一集落に一個ぐらいあった。(族長の家) 把手はひもの焼けない工夫。 石棒と同じ祈りの道具。獣油を入れて灯す。 |
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87深鉢 |
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90収蔵庫 91 |
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100古墳時代 |
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101古墳時代の豊丘 弥生時代の力のある人が、ますます力を蓄えて首長として成長してゆく3世紀の終わり頃から4世紀の初め頃になると、 近畿地方を中心に、土を高く盛り上げた大きな墓 (古墳) が造られるようになります。 伊那谷では、近畿地方に大きな勢力を持った大王の支配が全国に及んだ5世紀になって、このような古墳が造られるようになりました。 古墳はムラやクニを支配する豪族の墓で、豊丘村では天竜川に近い台地の上に残されています。死者に供えられた品物 (副葬品) には、 刀・剣・鏃などの武器や、馬に付ける馬具・勾玉。管玉・ガラス玉・金環などの身を飾る装飾品・土師器や須恵器と呼ばれる土器などがあります。 この時代からは住まいに炉がなくなり、かまどが作られるようになります。 あと、判読判読不能・・・ |
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110古代 |
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111平安時代の土器・陶器 灰釉陶器 灰釉陶器 小壺 きわめて小さな壺で、口を欠いている。薬などを入れたのであろうか。 灰釉三足短頸壷 住居張り出し部前面より出土した首の短い壺です。底には高台と更に猫足状の三本の足がつけられています。 この壺は名古屋市の西南部、猿投山西麓方面(猿投窯)で焼かれた灰釉陶器で、長野県では足の破片などの出土したことはあるけれども 完全に復元は初めてという貴重な資料です。 この壺の持つ特異な形態及び出土状態から、非日常的な特殊な壺とみられ、これを持ち得た人の社会的地位やこの壺の持つ性格を推し量ることも 可能です。
須恵器 壺※ 住居張り出し部全面より出土しました。地元伊那で製作されたもので丁寧に形作られた細い首が付けられています。 本来は液体を貯蔵する容器で、平安時代を通じてごく一般的にみられるものです。 土師器 小型甕※ 日常の煮炊きには素焼きの甕が使用されましたが、あまりにも小さな甕です。二次的な火熱が加えられているため、何かを煮沸したことは確かです。 |
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120平安時代の鉄製品 鉄製品 弥生時代以降、我が国では銅や鉄等の金属製品が使用されるようになりますが、鉄製品が工具・農具・武器として権力者に行き渡るのは 古墳時代で、これ以降、鉄製工具・農具は一般庶民にも普及するようになりました。 平安時代の住居跡からは窯や小刀などの小さな鉄製品は一般的に検出されますが、農具など、大型のものはなかなか残されていません。 羽口 製鉄や鍛冶の際、鉄を溶かす炉の下部やフイゴに設けられる送風口としての筒状の土製品で、近くで鍛冶・製鉄が行われたことを示している。 鉄滓 製鉄の際に出る鉄の不純物です。俗名かなくそ。羽口などと共に出土し、鍛冶・製鉄が行われたことを示しています。 砥石類 金属 (鉄) 製の刃物を研ぐ砥石で、手にもって使用するもの(持砥)と据えて使用する(置砥)の二種があります。 持砥は今日と同じく商品として流通していたもので、置砥は河原から拾ってきて使用していました。 置砥石 天竜川の河原から拾ってきて使用していました。 持砥石 使用品として流通していた砥石で、今の砥石と同じです。
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130奈良・平安時代 奈良・平安の庶民のくらし 奈良(平城京)や京都(平安京)の都から遠く離れた地方の人々のくらしは苦しいものでした。人々は原始時代とあまり変わりのない竪穴式住居に住み、 土師器や須恵器と呼ばれる土器を使い、田畑を耕し、その間には織物をはじめあらゆる仕事をし、時には税の一部としていろんな仕事にかり出された。 平安時代の10世紀後半頃から、東山道によって尾張国(愛知県)方面から運ばれてきた白瓷 (しらし=灰釉陶器) と呼ばれる陶器がこの地方にも 食器として行き渡るようになり、人々はようやく土器と決別することができました。 厳しい税に加え、はやり病や度重なる飢饉によって世の中が不安定となり、人々にとっては大変な時代で、地方の人々のくらしぶりからは、都の 華やかな貴族文化は、とても伺うことはできません。神仏にすがり、苦しみながら救いを求める人々の間に火葬の習慣が始まるのもこの頃からです。 ※平安仏教は加持祈祷の貴族の文化であって、庶民の仏教であったとは思えない。 鎌倉時代に起こった仏教のポピュリズム運動によって、初めて庶民に仏教が浸透したと思います。 それまで庶民の間では、仏教以前の自然崇拝や、まじないなどが行われ、埋葬というも、死体は投げ捨てるに等しい、風葬が一般的でした。 真継 伸彦の小説 「無明」や「鮫」 などにこれらのことが見られる。 |
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131平安時代の豊丘 701年に、朝廷は中国をまねた律・令という法律に基づいて国の統治を始めました。これを律令制といい平安時代まで続きました。 律令制の大きな特徴は、全国の田畑は国のもので、人々は国から一定の土地を与えられて耕作し、税金(租)を納めていました。 奈良時代の信濃国には伊那・諏方(諏訪)の他10郡があり、伊那郡には5つの郷(里)がありました。 伊那郡の範囲はほぼ今の伊那谷地域で、豊丘は伴野郷に属していました。 奈良時代より、官道として整備された東山道が天竜川の西を通り、新しい多くの文化をこの地にもたらしました。 平安時代になると、奈良時代からの律令制はあまり守られなくなりました。 始めは土地は国のものであったはずなのに、力のあるものは土地を自分のものにしてしまったり、 貴族や寺に土地を寄付したようにして(荘園)、自分の土地の権利を守ったりしました。 土地を守るために武器を持った集団が発生し、武士として次第に力を付け、源氏・平氏などの力のある武士団は、やがて政治に大きな影響力を 持つようになります。この頃、豊丘は伴野庄と呼ばれる皇室の荘園に属していました。
伴野郷のようす※ 伴野庄の範囲は、天竜川の東岸で、現在の泰阜 (やすおか) から、松川町の福与辺りまでといわれ、竜東では一番の平坦地である。 この中心を伴野本郷といい、現在の豊丘村伴野だといわれている。 伴野庄は、最初の皇女上西門院の領地であった。その後、何度か宮家の領地として変わり、鎌倉時代には、知久氏の領地となった。 皇室領であったから、※京都のように整然とした道路や街並みが※、伴野郷にはあった。中央に、南北に大道路があり、東西には碁盤の目のように 何本もの小道が付けられていた。それらのうち、今も使われている道が何本もある。今の県道も、千年前の大道路にだいたい沿っているという。 その頃の遺跡や、地名が今も残っています。 ○地名として、殿垣外・出口・内城・畑中・向西寺・町(上市場・下市場) ○春日社・八幡社・島大明神・南堂・慈恩院・古城などの跡
伴野薬のこと 中手田遺跡4号住居跡 平安時代 平安時代の大規模竪穴住居跡 北隅に特異な張り出し部を持つ。奥の壁中央に巨大なかまどが取り付けられている。壁に沿って土台石が置かれ、土台が炭化して残っている。 当地方最大級の平安時代竪穴住居跡である。 張り出し部を持つ特殊な4号住居跡 神仏を祀った空間か 住居跡は一辺10mを測る特大の竪穴住居です。竪穴の床面積からすれば、通常住居の4倍程の面積となり、この地域屈指の大きさです。 この住居は竪穴の中に土台石 (礎石、一辺に4個) を並べています。 この地域の平安時代の竪穴住居で、このように巨大で、かつ土台を持つのは極めて珍しいものです。 住居は焼けている(火災?)ため、焼け残った建築材が炭となって残っています。 特に竪穴の壁に沿う形で、土台と見られる建築材が土台石の上に乗る形で残っており、この家の構造を知るための貴重な資料を提供しています。 更にこの住居は竪穴の北側隅が外へ張り出し、一段高くなっています。こうした張り出し部分の存在は今まで知られていません。 張り出し部の全面には、あたかも横列に並べてあったかのように、大きな甕や壺、足の着いた特殊な壺、蓋付きの碗や盤と呼ばれる特殊な 皿などが出土しています。このような張り出し部について、一つの考え方として、神仏を祀った場所ではないかという見方があります。 「仏壇。神棚の場」というような解釈です。住居の規模・構造から、この住人が地域(伴野郷)の中でも特定の位置にあったことは確かです。 とすれば、この住人は中央との交流もあり、中央の情報も多く、それなりに東大の教養も身に着けていたことは十分に予測できます。 平安時代の中期(10世紀後半)、すでに天台・真言などの仏教は広く浸透していました。また、三本足の付いた特殊な壺は仏具的色彩が強いと いわれます。地域において権力を持つことができたこの住人が、自宅に神仏などを祀る空間を備えていたとしても不思議ではありません。 ※庶民の宗教施設ならば、失火すればまた再建されるでしょう。それがないということは、権力に疎まれて、焼打ちに合ったのか、 なんらかの事情があって放置されたのかもしれません。
平安時代の土器・陶器 灰釉陶器 奈良・平安時代に生産された草木灰を原料とする高温度焼成の陶器で、源流は中国に求められる。 中国陶磁の影響下に愛知県猿投窯に於いて初めて生産が開始されました。 初期は瓶類のみであり、その供給先は畿内の役所や寺院にとどまっていましたが、平安時代になると次第に供給範囲が拡大し 生産地も東海地方に広がりました。焼き上げは須恵器と同じ窖窯 (あながま) で、高温度で焼き締められました。
平安時代の土器・陶器 土師器 古墳時代から奈良・平安時代の間に製作された茶褐色の素焼きの土器の総称です。縄文土器・弥生土器同様に、800℃前後で焼かれています。 数百年にわたって日常雑器として使用された土師器も、釉を塗った陶器の出現により、次第に機能を失っていきました。
平安時代の土器・陶器 須恵器 古墳時代中期末以降、朝鮮より渡来した技術をもとに日本で生産された青白色の陶質土器です。ロクロを使用し成形された器は、 地下式あるいは半地下式の窖窯 (あながま) で、約1100℃の還元焔で焼き上げます。 須恵器の持つ青白色の色調は還元作用によるものです。奈良時代にかけ、河野の大矢沢では須恵器の窯が作られ、生産されていました。
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140古窯 平安時代 |
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141須恵器大甕 中手田遺跡の住居張り出し部前面より出土した須恵器の大甕です。 高さ80cm口径41cm胴の最大幅66cmを測る巨大な甕で、復元された大甕としては県内屈指の大きさです。 外に強く開く口縁部の内外には、櫛状器具による歯状紋や平衡線紋が付けられた、飾られた大甕です。須恵器壺同様に地元産と見られ、 非常に丁寧に作られており、、成形・焼成ともに高い技術を示しています。 云々 この大甕は底が丸いため、地面に穴を掘って甕を据えています。 中手田遺跡発掘調査出土品展開催に当たり 豊丘村では役場庁舎の新築に伴う発掘調査をしました。 地表下100cm〜110cmより、約1000年前の平安時代(10〜11世紀初頭)の住居址5棟を検出。5棟からは当時の生活用具や生産用具が多数出土し、 人々の生活の様子を示す資料です。また、多くの新しい発見は、豊丘と長野の歴史に加筆される資料も少なくない。
大矢沢須恵器古窯跡は、 昭和26年に調査され、少なくとも約1200年前のもので、この地方の奈良・平安時代頃に使われた器物の多くはここで焼かれたものと思われる。 近郷近在の需要に応じた、日常雑器の生産跡として基地ような遺構である。また、低地帯に多く分布する古墳の副葬品にも使用され他であろう。 窯から3km程下った大宮付近・大塚上・東養寺等の古墳から出土した各種の須恵器を中手田遺跡で掘り出された大型の須恵器の水甕など、 大矢沢の古窯で焼かれたものである。 また、ここで焼かれたものは、対岸の市田・座光寺・上郷などの古墳群へ送られたものも多かったであろう。
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