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200常設展 (1) |
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210信濃の風土と人々の暮らし 常設展のねらい 長野県は中央高地に位置し、古くから東日本と西日本、太平洋側と日本海側を結ぶ結節点として、さまざまな文化の交流の場となり、 独自の風土と文化をはぐくんできた。 そうした風土と文化がつくられてきた歴史的背景と変遷を明らかにし、その成果を考古資料と文献史料などを活用した展示を通じて示し、 信濃の歴史に触れ、歴史学習を深められる場を提供する。 |
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1 木曽ヒノキが語る信濃の歴史 赤沢森林鉄道 赤沢自然休養林 見どころ たびネット信州 長野県観光サイト 上松町 木曽観光連盟 (1) 赤沢自然休養林のヒノキ(実大環境復原) 木曽ヒノキは秋田スギや奈良県の吉野スギとともに美林として名高い。上松町赤沢のヒノキ林は江戸時代から大切にされ、今は国有林として 自然休養林に指定されている。 (2) 年輪から歴史を読む 現在の木から始めて、古い建物の材や遺跡から出土した材を調べた結果、古くからの年輪の移り変わりがわかってきた。そのグラフに合わせると 出土材の年輪が何年前かわかり、樹皮がついていれば切った年もわかる。 |
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211入口展示 ―年輪から歴史を読む― |
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212年表 |
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旧石器時代 |
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2 信濃の風土がはぐくんだ原始の生活 (1) ナウマンゾウと黒曜石 先土器時代、日本列島は大陸と陸続きだったため、ナウマンゾウも渡ってきた。信濃最初の人びとは、現在の北海道なみの寒さのなかで、 黒曜石などでつくった道具を使って狩猟生活をおこなっていた。 a 最古の狩人 b 最初に住んだ人々 c 石器の地域性 (2) 中央高地の縄文文化 1万2000年前、木の実を集め鳥獣を狩り魚をとる食料採集を基礎とし、粘土で焼きあげた器、つまり土器を使う縄文文化がはじまった。 4500年前、縄文中期の長野県の地域は、日本一の人口密集地であった。 a 弓矢と土器の出現 b 定住の始まり c 森の中の縄文文化 d 縄文の祈りと祭り e 絵北村人の生活 (3) 縄文のムラ(実大環境復原) 八ヶ岳山麓の森を切りひらいてつくった6000年前のムラ。立石、列石を中心として丸く広がり、半地下式の竪穴住居や、床を高くした建物、 それをとりかこむ集石群からなる。収穫の秋、家の中は山の幸が満ちている。 (4) 稲をつくった信濃人 2500年前、大陸から新しい文化と縄文文化の伝統の上に、九州北部では水田稲作をする弥生文化が生まれた。 200年後、長野県の地域にも、稲作の暮らしが始まった。 a 弥生時代のムラ (5) 古墳に葬られた人びと 4世紀ごろ、農業が⽣み出した富を⼿にした有⼒者が、⼈々の上に⽴った。かれらの⼒は、古墳に⽰されている。 5世紀の有⼒者は、武⼈として近畿地⽅の有⼒者に結びつき、朝鮮半島との交流もあった。 a シナノの埴輪 b 古墳時代のまつり c 朝鮮半島からの文化 d 体験用参考資料 |
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213 2 信濃の風土が育んだ原始の生活
(1) ナウマンゾウと黒曜石 野尻湖 旧石器時代、日本列島は大陸と陸続きで、20から30万年前、ナウマンゾウも渡って来た。信濃最初の人々は、現在の北海道なみの寒さの中で、 黒曜石などで道具を作り狩猟をおこなっていた。 a 最古の狩人
ナウマンゾウ 4万年前 野尻湖から出土した化石をもとに復元した。全長3.7m幅1.4m肩高2.7m重4t程。現在のアジアゾウの大きさに近い。 ベレー帽のような頭、大きく曲がった牙、小さな耳、寒冷な気候に適応した長い毛に特徴がある。 約2万4千年前の氷河期の最寒冷化と、人類の狩猟により絶滅したと考えられる。
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220旧石器時代 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
221 b 最初に住んだ人々 約三万年前頃 長野県最古の人類遺跡は、三万年前を遡る可能性がある。最初に住んだ人々は、石を打ち割り、道具を製作する技術を持つ狩猟民であった。 彼らはやがてガラス質の黒曜石を多用するようになり、狩猟技術は飛躍的に進歩していく。
竹佐中原遺跡 阿智小盆地を流れる阿智水系にあり、東西に長い丘陵上の平坦面に位置する。三遠南信自動車道飯田南ICの建設に伴い発掘された。 岩石を打ち割り石器を作る やや丸みのある角礫を素材とし、その平坦面を直接叩き、厚手の剥片をとる。 剥片は鋭い縁部をそのまま利用し、または使用する部分を打撃し、 刃を付けて石器とする。 石器には尖状や厚刃のスクレイパー、錐状の石器、刃器がある。
日向林B遺跡 野尻湖の南西に端を発する鳥居川水系にあり、丘陵地帯の裾部に位置する。上信越自動車道建設工事で発見。 黒曜石の利用と石器作り 黒曜石は、ガラス質で鋭利な割れ口を持つことから石器作りに向く。素材の平坦面を直接叩き、鋭い縁部のある剥片を数多くとる。 剥片は薄く軽量で、形をあまり変えることなく加工して石器とする。石器は台形様の石器を主体とし、貝殻状の刃器、斧形石器がある。 |
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223 c 石器の地域性 先第1期の石器群 (せんだいⅠき) 先土器(旧石器)時代(約4万~3万年前) 飯田市竹佐中原遺跡A地点 長野県の先第1期は、3万5千年以前で、大型の剥片に粗雑な加工を施して作られた石器をもちいているのが特徴である
台形石器 日向林B遺跡出土土器 約3万年前 (重要文化財) 野尻湖遺跡群 発掘調査報告1 02 03 04 先土器時代(約3万年前) 信濃町日向林B遺跡 硬い石を砥石で丁寧に磨いた美しい斧形石器や黒曜石を打ち割り同じ形に作られた台形石器などが発見されました。 この石斧は、世界最古の磨製石斧です 野尻湖周辺からは、象の狩猟や解体に用いたと考えられる磨製石斧が国内で最も多く出土している。 磨製石斧は3万年前頃に広まるが、2万年前頃にナウマンゾウと共に消滅する。
打ち割られた黒曜石塊 信濃町大久保南遺跡 先土器(旧石器)時代 約3万年前 野尻湖遺跡群
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225発達した狩りの道具 約一万2、3千年前頃 1万2、3千年前頃、大陸からの影響で小さな細石器が現れた。 一つの材料から何枚も剥ぎ取った細長い刃を、木や骨の軸にはめ込む、組み合わせ道具である。 次いで大きな槍先や石斧も現れた。 石器の使い方 石器は長い間、人類の生活に不可欠な道具でした。 狩猟や加工の道具として使用されたが、一つの石器がいくつかの機能を果たしていたことも考えられる。 狩りの道具である槍の先は、ナイフ形石器から槍先形尖頭器、組み合せ道具である細石器へと改良され発達した。 |
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226細石器文化の石器 (細石刃、黒曜石) 先土器(旧石器)時代末 南牧村矢出川遺跡 矢出川遺跡の細石刃関係資料と黒曜石産地推定 細石刃はカミソリの刃のような石器で、木や骨製などの柄に彫り込まれた溝に複数をはめ込み、槍のように使用した。細石刃は、細石核から剥がされる |
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227石槍 (槍先形尖頭器) (黒曜石) 先土器(旧石器)時代末 佐久市下茂内遺跡 八風山の麓にある下茂内遺跡では約10万点の石器が出土した。その多くは作りかけの石槍と石屑(剥片)で、石槍を集中的に製作した遺跡と考えられる。
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228神子柴文化の石器 (神子柴形尖頭器) 先土器(旧石器)時代末~縄文時代草創期 南箕輪村神子柴遺跡 形が整った分厚い石斧と、きれいに整えられた石槍(槍先形尖頭器)などを特徴とする石器群。完成品がまとまって出土した。 |
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230縄文時代 (2) 中央高地の縄文文化 1万2000年前、木の実を集め鳥獣を狩り魚をとる食料採集を基礎とし、粘土で焼きあげた器、つまり土器を使う縄文文化がはじまった。4500年前、 縄文中期の長野県の地域は、日本一の人口密集地であった。 |
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231草創期~前期 a 弓矢と土器の出現 温暖化が始まって動物の種類も変わり、海面が上昇し、日本海が生まれた。 その日本列島には弓矢とイヌが登場して狩りの技術を一新した。土器が現れて煮炊きが始まると、食べ物の種類が増え、生活を安定させた。 |
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232栃原岩陰遺跡を中心とした狩りや漁 早期 栃原岩陰遺跡では、沢山の道具の他に食料にした多くの動物や魚介類が出土した。 そこを中心にした半径10km以内の谷と山地、谷間を流れる相木川の清流や淀みという自然環境とそれぞれの動物の生息環境、 出土した道具から、この遺跡に住んだ縄文人の狩りや漁などの様子が復元される。 |
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232栃原岩陰遺跡 早期 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
233丸底尖り底の土器 草創期~前期土器 (約1万3千年前~6千年前) 須坂市石小屋洞穴遺跡ほか 縄文時代の初め頃は、平底ではなく、丸底や尖り底の土器が使われた。底の部分を石などで支えて固定し、煮炊きなどに使われた。
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234草創期の石器 信濃町星光山荘A遺跡 草創期 234草創期の骨角器 北相木村栃原岩陰遺跡 早期 約8000年前 局部磨製石斧 ナウマンゾウの肉を断ち切るため刃部を磨いた石斧。旧石器時代の野尻湖周辺に出現した世界的に稀有な石斧。 他にロシア・オーストラリアで発見。 ナウマンゾウの絶滅と時期を合わせて消滅していった。 約4~3万年前の後期旧石器時代初頭に登場した、刃先に磨きをかけた石斧。大形獣の狩猟や解体、木の伐採や切断、土掘りなど多目的と推定される。 局部磨製石斧 局部磨製石斧 石斧 |
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240縄文前期 約6500年前から気候は暖かくなり、豊かな自然の恵みがもたらされた。特に八ヶ岳の広大な裾野には山の幸があふれ、、 阿久(原村)、尖石(茅野市)、井戸尻(富士見町)など大きなムラも生まれた。 縄文村の豊かさを象徴するのが土器である。用途に応じて様々な土器がつくられ、表面には生命力あふれる文様が施された。 また、きれいな石や漆を使ったアクセサリーが人々の髪・首・耳などを飾った。 |
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241企画展 「進化する縄文土器」 関連資料 縄文前期の阿久村 縄文前期の巨大ストーンサークル b 定住の始まり 温暖な気候は、豊かな自然環境を形成していった。じょうもん人は、植物質食料の獲得に力を注ぎ、採集の技術を高めていく。 土器製作の飛躍的な進歩、石器などの道具の改良、森の中にしっかりと根付いた生活が開始される。 縄文前期の阿久村 前期になると、狩猟や採集に加え、クリなどの堅果類を上手に利用することで、同じ場所に長期間住むことができるようになりました。 ムラでは、定住のために必要な様々な工夫がなされました。 定住の証拠1 竪穴住居のリフォーム (写真住居改築の跡) 家族が増えるのに合わせて拡張した痕跡が認められます。 定住の証拠2 竪穴住居以外の建物や施設 (写真方形掘立柱建物跡写真) 同じ場所で暮らしていくには、保存食を備蓄する施設などが必要になります。展示室では、方形柱穴列を高床建物として再現しました。 定住の証拠3 ムラ人共同の場所 (写真作業場跡) 長い間、住民が暮らしていくには、仕掛けや工夫が必要です。村の中央には、広場が設けられ、立石を用いた祭りや共同作業が行われた。 定住の証拠4 ムラ中央部付近の墓地 (写真土壙) 世代を超えて住み続けると、死者も増えてきます。亡き隣人やご先祖たちと共に暮らすため、住居に囲まれた場所に墓地が設けられました。 |
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「進化する縄文土器」展関連資料 242縄文時代前期の土器 原村阿久遺跡 前期 約6千年前 前半期に見られた尖底土器が姿を消し、定住生活の進展と共に、後半期には平底の土器に変わる。 また、盛り付け用の浅鉢形土器など多様な器種が増えてくる。
縄文時代前期末葉 約5,600年前 長野県松原遺跡 台付で大きな口縁を持つ特殊な形に、手の込んだ文様が施される。県内で数例しかない希少な土器で、特別な使い方がされていたと考えられる。
縄文時代前期の石器 阿久遺跡
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245Ⅵ運ばれた地域の顔 |
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246運び込まれた黒曜石 前期末~中期中葉 岡谷市大洞遺跡
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250縄文時代中期 |
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251中期土器 中期になると、地域ごとに特色のある土器飾りが発達する。交易などで運ばれた土器は互いに比べられ、まねされたり、独自性を強めるなどして、 更に華麗な土器がつくられるようになっていった。 |
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252釣手土器 富士見町札沢遺跡 勝坂Ⅲ式(藤内式) 縄文時代中期 約4000年前 |
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Ⅵ運ばれた「地域の顔」 1運ばれてきたコンパクトな土器 253桜洞神田遺跡出土品 72-74 下呂市萩原町桜洞神田 中期中葉 遺跡は飛騨川の支流桜谷川の左岸にあり、縣神社周辺が遺跡範囲です。 桜洞城跡発掘調査報告書 縄文中期の飛騨は、北陸、東海、近畿、信州と繋がる交通の要所であり、各地の土器が持ち込まれました。 また、浅くて薄い鍋を使う西日本(照葉樹文化)と、深くて暑い鍋を使う西日本(ナラ林文化)の接触地でもありました。 |
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254剣の宮遺跡27号住居址出土品 75-81 上西条・金井 中期中葉 松本盆地南端部、田川上流部の標高760mの地に位置する。諏訪方面へ向かう塩尻峠、伊那方面へ向かう善知鳥峠の登り口に立地する。 縄文中期にも交通の要衝で、焼町・剣ノ宮・峯畑遺跡などの大規模集落跡が連なる。 峠をひかえた中継地として人々が休んだり泊まったりしたためか、各地の土器が持ち込まれている。 平成10年の調査で、縄文前期の竪穴住居跡11軒、中期44軒の他、弥生時代の方形周溝墓、平安・中世の遺構が見つかる。 |
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255中期土器 人々の交流と土器装飾の発達 5000年余前 良質な石器材料となる黒曜石は、 中央高地には無い海産物やヒスイ製装飾品などと交換されたと考えられます。黒曜石はまさに信州ブランドでした。 生活用品や貴重品と共に、各地の独創的な飾りのついた土器は、"地域の顔"として運ばれました。 他地域の優れた土器と見比べることで更にわざと模様に磨きをかけ、華やかな土器に進化しました。 交通の重要な中継地であった塩尻市内の遺跡からは、様々な地域の土器が出土しています。 |
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257東と西の鍋 櫛形文は受容後大流行するが、焼町式は終息期(勝坂末期・井戸尻Ⅲ式期)に真似始める。 櫛形文は勝坂似で、横に分帯して区画するが、飾り全体の組み立て方が違う「流れる模様は」真似しづらかった。 無理に真似ると81番土器のようになる |
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3信州の北と南を結ぶ 258東畑遺跡出土品 東筑摩郡筑北村坂北仁熊 82-87 縄文中期中葉 県中央部、麻績川沿いの山間に位置し、標高560m。長野盆地(北信)、松本盆地(中信)、上田盆地(東信)の中間地点に位置し、 それぞれの地域の特性を持つ資料が見つかった。平成15・16年の調査。 縄文前期から後期の竪穴住居120軒が発見され、地域の拠点的なムラであった。他に平安時代の遺構も発見された。 |
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4黒曜石原産地近くのムラ 259大仁反遺跡出土品 88-90 長和町岩井 中期中葉 遺跡は千曲川の支流大門川右岸にあり、遡ると星糞峠黒曜石原産地遺跡に達します。千曲川流域や関東・越後から、良質な黒曜石を求めて 縄文人がやってきました。大量の黒曜石と共に、様々な地域の土器が見つかりました。 また、大門峠を越えると八ヶ岳西麓~霧ヶ峰南麓の「縄文王国」に出ます。そのため、勝坂式土器の接触も多かったようです。
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Ⅶ究極の飾りを求めて 華やかな飾りを目指して進化してきた縄文中期土器は、この後更にエスカレートします。約5000~4800年前(中期中葉~後葉)には、 新潟で火焔型土器が、中部高地では水煙土器などが全盛期への道を駆け上がります。 1誰もまねのできない土器を作りたい 約5000年前、焼町式土器の盛んだった東・北信で、流れる模様が動揺を起こします。この地域は5350年程前間では区画模様が主流だったため 流れる模様が長く続く北陸などとは事情が違った。勝坂系や群馬の土器に押されて廃れてしまいます。 しかし、ごく一部の深鉢形土器と、日時用生活とは別に使われたと考えられている台付鉢には流れる模様が引き継がれました。 特に台付鉢は他所の人間に真似られない究極の技術で華麗な飾りを作った。日常用は変わっても特別な土器は伝統の流れる模様が生きていた。 |
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260中期後半・後期晩期 |
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261Ⅶ究極の飾りを求めて 佐久市 岩村田遺跡群上木戸遺跡出土品 中期中葉 焼町後続型式 |
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270寒冷化する環境の中で |
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272南斜面に降りるムラ 八ヶ岳西南麓では、中期まで台地上に営まれていた集落が、後期には日当たりの良い台地南斜面へ降りて行った。 茅野市:聖石遺跡・長峯遺跡 中期の環状集落が衰退し、後期には南斜面に住居が移動する。台地上には墓地が残っている。 聖石遺跡 01 02 03 長峯遺跡 01 02 03 04 05 柄鏡形敷石住居 住居内に直接寒気が入らないように入口施設が付き、床面には平石や板材が敷かれる例が見られる。 小諸市:三田原遺跡第7号住居 入り口施設(突出部)が付き、階段が設置されている。住居内には、壁際の柱穴側に石列が残され、中央に石囲い炉がある。 |
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274寒冷化に立ち向かう 中央高地の縄文人達は、寒冷化・湿潤化に対し様々な工夫を行った。 1.ムラの場所を南向き傾斜地に移し、竪穴住居を寒冷地仕様にした。 2.弓矢などを増やし、動物質食料の割合を高めた。 3.アク抜きの技術を発達させ、トチの利用を進めた。 4.豊穣や子孫繁栄を祈る施設や、祭祀の道具を発達させた。 それでも、後期紅葉には、ムラを維持できなくなった。 |
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276 e 北村人の生活 縄文後期 (3,500年前)になると、年平均気温が1~2℃下がった。その影響大きく、生活が厳しくなった。 北村遺跡 (明科町) では、大きな石を使い、まつりの場や墓を作っている。祭りや祈りを通して厳しい環境を乗り越えようとしていた。 祭りに使う道具も増えた。女性を表した土偶、男性器の形の石棒など数多い。縄文人達はこうして厳しい自然の中を生き抜いていった。 資料 ※北村遺跡 は、190体もの人骨を出した巨大遺跡で、県教委・県埋文による丁寧な発掘と、膨大な頁にわたる報告書が出されています。 これを知らしめたのが人類学のススメ「日本の人骨発見史20」のブログです。もし出合わなかったら大きな見落としをしていたことでしょう。 発掘調査報告書1993年 明科町内 : 北村遺跡(本文編) 明科町内 : 北村遺跡(図版編) 人類学のススメ「報告書15 北村遺跡」 北村遺跡(きたむらいせき)とは - コトバンク 長野県安曇野市にある縄文後期の遺跡。 1987年道路建設に伴う調査で180体の人骨を含む土壙墓が 480発見された。 配石のあるものもあり,典型的な集団墓地のあり方を示すものである。 従来,縄文時代の人骨の出土は海岸地帯の貝塚にかぎられていたが,内陸部での大量の出土は,食物などさまざまな面で海岸部との比較分析を 可能にした。 |
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北村遺跡の概要 人類学のススメ「日本の人骨発見史20」 よりお借りします 北村遺跡(縄文時代):長野県で最大級の縄文時代人骨 北村遺跡は、長野県安曇野市明科に所在します。県教委による発掘調査が、1987-1988年にかけて行われ、 縄文時代中期~後期の人骨が190体も出土しており、長野県で最大級の縄文時代人骨が発見されています。 発掘報告書は1993年に『北村遺跡』で出版。 人骨が検出された墓坑は、合計279基。この内、埋葬姿勢が判明したものは117基・人骨と判断できる程度の部分骨が出土したものは51基・何らかの 骨片が出土したものは111基です。埋葬姿勢が明かな135体の内訳は、屈葬が105体(77.8%)・伸展葬が2体(1.5%)で、屈葬が多いことが確認され ました。 写真1.取り上げられた北村遺跡SH1172人骨:胸部には猪の牙製の装身具が置かれている。 人骨の多くは水分を含んだ焼き豆腐のような状態で、そのまま掘ると崩れてしまいそうでした。 これは、海岸部の貝塚に埋葬されている縄文時代人骨や洞窟に埋葬されている縄文時代人骨とは明らかに異なる保存状態です。 そこで、調査団は、埋葬状態が良いものについては、人骨の周囲を掘り下げ、段ボールや和紙で覆い、ウレタンフォームを流し込んで取り上げ ました。 その後、人骨は約1ヶ月乾燥され、人類学報告を担当した獨協医科大学(当時・現京都大学名誉教授)の茂原信生の元に持ち込まれます。 茂原信生は、解剖用メスで人骨を掘り出したり実測を行いました。また、保存のため、セメダインCを使って硬化させたそうです。
人骨を報告した茂原信生によると、個体数は190体。性別は、男性51体(26.8%)・女性71体(37.4%)・不明68体(35.8%)。 性別が判明した個体内では、男性41.8%・女性58.2%です。 死亡年齢は、保存状態が悪いために歯の咬耗度で推定されました。 その結果、新生児1体・幼児3体・少年少女7体・思春期19体・青年21体・壮年20体・熟年40体・老年7体・成人31体・不明41体という内訳で、 熟年と老年を併せると47例(約40%)と、高齢が多いことが特筆されます。 さらに、俗に虫歯と呼ばれる齲歯が少ない点が特徴的でした。 東京大学(当時)の赤澤 威等による同位体による食性分析では、C3植物を多く摂取しているという結論が得られています。 このC3植物として、クリ・トチ・コナラ等が推定されています。これにより、海岸部と異なり山岳部の縄文時代人の食性が明らかになりました。 北村遺跡出土縄文時代人骨は、190体という長野県でも最大級の人骨が出土しました。 実際には、1つの遺跡から出土した縄文時代人骨としては国内でも最大級だと言えるでしょう。それは、多くの関係者による努力の賜でした。 参考資料「縄文人の一生 北村遺跡に生きた人々-1996年夏季企画展」この図録は大変貴重です。是非、目を通して下さい。 |
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277縄文人の子供の人骨 1/190 |
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278土器・石器 縄文後期 |
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279 |
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280後期 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
281食料の貯蔵と加工技術 縄文人が主食とした木の実は地面に掘った貯蔵穴に蓄えたり、住居の炉の上にかけた火棚に保存しました。渋みを含むコナラ・ミズナラのドングリは は水に晒し、特に渋みの強いトチは更に灰汁を加え中和して渋みを抜き、食用にしました。 栗林遺跡の貯蔵穴 縄文時代後期 (約4,000年前) 中野市 栗林遺跡では、約4000年前の食料を貯蔵する穴が多数発見された。これは77号貯蔵穴の断面を剥ぎ取り、標本としたもので、 クルミやそれを加工した石皿も残っている。 |
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282縄文人の衣類と履物 縄文人の衣服はカラムシなどの繊維をむしろ編みのようにした編布で、その実物が遺跡から発見されている。編み布は中世や近世にも存在し、 民俗例ではアンギンと呼ばれている。履き物は、土偶の足や靴形土器などから、藁靴やわらじ、かんじき様の履き物が想定される。 |
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(3)縄文のムラ 八ヶ岳山麓の森を切り開いてつくった約6000年前のムラ。広場を中心に、同心円 (ドーナツ状) の計画的なムラ作りがされる。 収穫の秋を迎え、家の中は山の幸が満ちている。 290縄文ムラの復元 縄文ムラの具体的な姿について、考古学で明らかにできることはほんの一部である。不明な点は世界の民俗例等を参考に可能な限り復元した。 今から約6000年前の八ヶ岳の麓、ナラやクヌギなどの広葉樹林の森をを切り開いて阿久ムラが造られた。 立石が並ぶ広場を中心に,半地下式の竪穴住居や高床建物が並ぶ。その外側は大事な食料のクリやクヌギ・ナラの林が広がる。 |
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291掘立柱建物と竪穴住居 |
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292縄文人の食糧と道具 縄文人は自然の中で生き、自然に学び、自然を巧みに利用して暮らした。粘土・石・骨・貝・木の蔓や皮・動物の毛皮など 多用な素材を生かしながら、様々な道具を発明した。 復元住居の中には、葦で編んだ敷物や動物の毛皮が敷かれ、兎・雉・岩魚・アケビ・キノコ・堅果類等の秋の食材が炉の周りや火棚に見える。 炉に据えた土器ではクリがゆでられている。炉のそばには、いろいろな用途の土器と、木の実を粉にする道具が並ぶ。 木を倒し削る石斧、狩りの弓矢、カラムシ(チョマ)の繊維を編んだアンギン、身を飾る漆塗りの櫛などが、あちこちに置かれている。 |
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293引用「長野県立歴史館展示案内」 |
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294立石が並ぶ広場 秋の祭が終わったばかりの夕暮れ時、周りの木々は鮮やかに紅葉している。森の奥からは恋の相手を呼び求める鹿の鳴き声が聞こえ、 ムラの上を鳥が横切っていく。 人々は自然の幸に恵まれ、世界的にも例を見ない造形美溢れる土器を作るなど、豊かな生活を送っていた。 モデルとなっている原村阿久遺跡は、広大な環状列石を持つ大きなムラでしたが、中央自動車道の下に埋め戻されてしまいました。 現在、八ヶ岳美術館 (原村歴史民俗資料館) で一部を展示、申請すると原村の資料倉庫を見学することができます。撮影は申請式。非公開原則。 |
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300弥生時代 |
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301稲を作った信濃人 2300年前、大陸から来た新しい文化と縄文文化の伝統の上に、北九州では水田稲作を中心とする弥生文化が生まれた。 200年後、長野県地域にも稲作のくらしが始まる。 |
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赤い土器のクニ 引用「長野県立歴史館展示案内」 長野県では北九州で弥生時代が始まってしばらくの間、縄文的な生活様式がしばらく残っていた。しかし、 中期の初め頃 (紀元前二世紀) 各地で稲作が始まった。やがて地域の個性が生まれていった。 後期 (二世紀) になると、南と北に二つの文化圏が生まれる。それぞれの文化面を、土器形式の名称をとって、中島式と箱清水式と呼んでいる。 箱清水式は千曲川流域に広がる文化圏で、ここでは煮炊きに使う甕を除くほとんどの土器が赤く塗られる独特な文化である。 土器の形やデザイン、造り方の規格性が強くなった。千曲川沿いに強力なクニが成立したとも言われている。 中期後半以降には、特別な人を埋葬する方形周溝墓が出現した。政治的・経済的・宗教的な力や地位を持つ人が現れたことを思わせる。 |
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302弥生時代のムラ シナノでは、約2300年前頃に環濠集落がつくられ、周辺には灌漑水田が広がり、ムラと隔絶した墓地が造られるなど、縄文文化とは異なった ムラ景観が形成され、新たに生活スタイルが始まった。 |
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弥生時代年表
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303弥生時代のムラ 河川が形成した自然堤防上に営まれた2~3世紀頃のムラの風景。 ムラは、竪穴住居や高床式建物で集落を形成している。周囲を濠などで囲む場合もあり、居住区の隣に墓が設けられている。 低湿地には、水路を伴った水田が広がり、稲作農耕の発展がみられる。 |
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304弥生時代人の顔 弥生時代の幕開けの頃、西日本の一部では渡来人と縄文人の混血により、新たに弥生時代人が生まれ、 東日本を中心とする地域では在来の縄文人がそのまま弥生時代人となり、お互いが弥生文化を発展させてきたと考えられます。 在来の縄文人は顔が短く両目の間が狭く落ち込んでいるのに対し、北九州地域の弥生人は面長で鼻が高く、全体にのっぺりとした顔をしていた。 長野市篠ノ井遺跡群で発見された顔面飾りには、両目が落ち込んだ短い顔に、入墨が施された縄文人の顔が表現されていました。 |
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320弥生時代のムラ 弥生時代の特徴は、灌漑稲作、環濠集落、集団間の争い、金属器の使用、社会的階層の顕在化、政治的社会への傾斜の始まりが挙げられる。 シナノでの始まりは、今から約2,300年前の弥生時代中期と考えられる。 |
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321銅鐸 塩尻市柴宮遺跡 弥生時代後期 1900年前頃 銅鐸は近畿及び周辺で多く発見されている。初めは振り鳴らす鐘として使用された。やがて祭器として大型化し、鐘としての機能を失った。 貝殻条痕文土器 初期の弥生土器千曲市力石条里遺跡群 弥生時代前期 2500年前頃 |
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柴宮銅鐸 塩尻市柴宮遺跡 弥生後期 1900年前頃 昭和35年、柴宮銅鐸の発見は驚きをもって報じられました。それまで長野県は銅鐸分布圏外と考えられていましたが、この発見によって少なくとも 長野県の南半までは、銅鐸のまつりが行われていたことが明らかになったからです。 柴宮銅鐸は、東海地方に特有な三遠式で、時代は弥生時代後期。農耕祭祀にかかわるまつりに使われたといわれています。 初めて聞く金属の音は「神の声」とも感じられたでしょう。 平成19年、北信の中野市柳沢遺跡から銅鐸・銅戈が多数出土しました。 長野県の弥生時代の青銅器祭祀研究も新段階を迎えることになり、柴宮銅鐸の位置づけも再検討が迫られることになりました。 |
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貝殻条痕文土器 千曲市力石条理遺跡群 弥生前期 2500年前 条痕紋系土器様式とは、中部地方に広がりをもつ弥生時代の広域土器様式である。淵源は愛知県内を中心に分布する貝殻を原体とするいわゆる 「二枚貝条痕紋土器」にある。 条痕紋系土器は突帯紋系土器に系譜をもち、型式変化も漸進的であることがわかっていた。いや、当初は縄文時代晩期として捉え、条痕紋系土器は 弥生土器ではないとも言われてきた。 その後、弥生時代前期後半から中期中葉にいたる時期を中心に、中部地方各地域の在来系土器と交流をもちながら、地域独自の型式を存続させる。 引用「条痕文系土器様式の研究」 ※東海地方の貝殻条痕文土器は、西日本の突帯文土器が東進する中で、東海地方に合わせて変化したものである。 従って、突帯文土器も貝殻条痕文土器も弥生土器である。 これは、形態的にも、素人が見ても縄文土器とは似ても似つかないものであるが、つい最近まで縄文晩期土器であるとされていた。 いや、きっと、まだ縄文土器だと言い張る不勉強な人がいるのかもしれない。 |
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322参考資料 中野市柳沢遺跡の青銅製品 発掘調査報告 柳沢遺跡 県埋文 柳沢遺跡–県埋文 ※長野県は、銅戈・銅鐸などの分布圏外とされていた地域で、塩尻市の柴宮銅鐸が最北限とされていました。 中野市は塩尻市の遥か北方80kmにあり、定説を越えた地域からの、大量の青銅製品の出土でした。 県立歴史館ではその展示や解説がなく、詳細は中野市立博物館でわかるのかもしれません。 しかし、、web上に沢山の資料がありますので、どんな凄いものなのか、少し覗かせていただきましょう。 |
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③西日本と共通する青銅器文化がほぼ同じ時期(弥生時代中期後半、約2,100年前)長野県にも及んでいたのです。モノがもたらされただけでなく、 その意義も共通していたことが埋納方法からうかがえます。 ④弥生時代、東海地方の影響がつよく見られる長野県南半部と、北陸地方との結びつきが強かった長野県北半部の境界に、 塩尻の柴宮銅鐸は埋められていました。 柳沢遺跡は、北陸への窓口であり、善光寺平の北端でもあります。柴宮と柳沢は青銅器の入手ルートや埋納意義が異なっていた可能性があります。 ⑤青銅器は、地表に特別な目印もないところに埋められたため、工事現場などで偶然に発見されることが多いのです。丘の斜面、当時の村はずれ などが多く、柳沢遺跡のように川のほとりというのは珍しい場所です。幸運にも発掘調査の中で発見されたので、埋められ方や周囲の遺跡との 関係がわかりました。 ⑥水田・ムラの跡と共に、墓が見つかっています。遺跡の中で青銅器がどんな位置を占めたのか考えることができ、大きな墓とそれを囲む墓群の 姿から、当時の社会のあり方が見えてきます。 青銅器 ①銅戈は柄に横向きに取り付けて用い、敵を突き刺し引き倒す武器です。 銅鐸は内部に金属棒を吊り下げ、小さな鐘のように振り鳴らす楽器でした。 ともに原型は中国や朝鮮半島で用いられていたものです。 ②約2,300年前、弥生時代の日本に朝鮮半島から伝わってきました。伝わった当初から、実用以上の特別な意味を持っていたようです。 ③日本では、まもなく銅剣・銅矛・銅戈や銅鐸が国産化されます。すると、本来は細身の実用武器が、大きく薄く見栄えだけのものになり、 銅鐸は音を出して『聞く』小形の銅鐸から、大きな『見る』銅鐸に変化してゆきます。弥生時代中期・後期の約300年間の出来事です。 ④武器形祭器は西日本に比較的多く、銅鐸は近畿から東海地方に多いのですが、ともに長野県以西の広い地域で見つかっています。 農耕のマツリ ①日本の青銅器は武器など実用品としてではなく、豊作と繁栄を祈る農耕のマツリの道具として発達しました。地域的な偏りは、マツリのあり方の 違いを示しています。 マツリは(祭=政)であり、地域社会の統合のために欠くべからざるものであり、地域社会の親近・疎遠が青銅器のあり方に反映されているはずです。 ②生活や社会が変貌する中で、当時の人びとは初めてふれる金属の輝きや音に、神の力を連想したのでしょう。 武器形祭器は模擬戦を行った、銅鐸は神を招くものから神が宿るものとなったという説もあります。 ※青銅器の輝きは、昇る朝日に、のちに言う天を照らす太陽神に見えたのでしょうか。 青銅器の埋納 ①西日本から伝来した貴重な青銅器を埋めてしまった理由は、よくわかっていません。共同体のマツリが、首長のマツリに転換してゆく中で、 役割を失った共同体の祭器が埋められた、一時的に土中に保管したなど、いろいろな考えがあります。 (※隠れキリシタンのように隠れて信仰したのかもしれませんね。) ②複数のムラから集められ同じ穴に埋められることによって、マツリの道具は、最も大きな役割を最後に果たし終えたとすれば、そこに村々の統合と 大地への意識を見ることができるかもしれません。 (※これは、支配者によって、祭祀とともに埋められたとしているのかな) 柳沢遺跡は中野市の高社山麓。千曲川と夜間瀬川の合流点の狭い空間です。山と川に画される地域的境界であり、交通の要所です。 |
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引用② 柳沢遺跡の立地環境についての資料 柳沢遺跡(信州中野市)に船着場? 結論を先に述べると 海船と川舟の荷物積換ハブ港だった。 大変長い論文なので引用できませんが、船着き場があり、物流が盛んだったとするご意見です。 この地域は北陸からの物流であり、北陸は出雲政権が掌握していましたから、出雲の影響が強かったということでしょう。 すると、銅戈・銅鐸は出雲から運ばれたものなのでしょうか。
銅鐸の型式 中野市柳沢遺跡の銅鐸は、三遠式とされているのかもしれません。結論がどこにも書かれていませんが、上のようにして比べてみると、 出雲の銅鐸に大変よく似ていると思います。 出土した青銅器について 引用長野県埋文柳沢遺跡 銅鐸は1・2号(外縁付鈕(がいえんつきちゅう)1式)、3・4号(外縁付鈕2式)、5号(外縁付鈕式~扁平鈕(へんぺいちゅう)式古段階)、の5点です。 銅鐸の大きさは5点とも21~22㎝前後にまとまることもわかりました。一つの遺跡で5点の銅鐸が発見されるのは全国でも6番目の出土数となります。 銅鐸分布考 型式分類 出土した銅戈は1号が九州型、2~8号が近畿型I式です。九州型と近畿型の銅戈が同じ埋納坑から発見されるのは全国初です。 また、青銅器全点に対して、金属成分分析を実施しました。基本成分が判明したことで、青銅器の色・硬さ・音色からの検討も可能となり、 青銅器研究に新たな視点を加えることとなりました。 |
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330弥生土器 今から2500年前~1700年前の弥生時代に使われた土器の総称。800℃前後で野焼きする点は縄文土器と変わらないが、薄くて硬いものが多い。 貯蔵用の壺、煮炊き用の甕、盛り付け用の鉢・高坏が器の基本的なセットとなる。 重要参考資料 信濃川をめぐる弥生時代の 越後と信濃の交流 - 新潟市 |
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332栗林式土器 弥生中期 |
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資料 栗林式土器 栗林式土器の特徴 弥生時代中期後半に盛行した栗林式土器の大きな特徴は、縄文時代の文様を伝統的に受け継いでいるところにあります。 成立期の強い縄文模様の伝統は時間の経過と共に薄れ、やがて縄文の伝統は失われ、赤く塗られた壺形土器が特徴的な箱清水式土器へと変化する。 箱清水式土器は長野県の弥生時代後期を代表する土器で、広く千曲川水系に分布します。 転載「中野市の弥生土器」 ※長野県北部は弥生前期までは縄文人が活動する縄文文化でした。縄文時代後・晩期に発達していた日本海航路は、弥生人にとっても重要な航路で 北陸などは早くから弥生文化が入っていた。やがて、大河沿いや、山越しに北から中部高地に入ってきた弥生人は、独特な土器文化をもたらした。 騎馬民族の物といわれる、動物の胃袋を模した水筒形土器である。それが、縄文系弥生人によって栗林式土器としてつくられるようになった。 本当に騎馬民族がやってきたのかもしれない。後に、馬の飼育が盛んであったので。 しかし、また、別に、大陸や半島、九州などから移動してくる弥生人たちが持っていた水筒が動物の胃袋を使ったものだったのかもしれない。 水を入れて延びて膨らみ、飲めば減って縮む。水筒に最適である。さらに、おしゃれな装飾もあっただろうし、それを真似て土器に写したのかも しれない。 |
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栗林遺跡(くりばやしいせき)とは - コトバンク 長野県中野市栗林にある弥生時代の遺跡。長野盆地の北端に,南北に連なる長丘丘陵の西麓,千曲川右岸の旧河床にのぞむ微高地上にひろがる 集落遺跡。第2次大戦前神田五六の採集品により,中部山地弥生中期の磨消(すりけし)縄文のある土器が出土する遺跡として知られていたが, 1948年の発掘で円形竪穴住居を検出した。縄文のある中期中ごろの土器から櫛目文が混用される土器,さらに櫛目文だけを用いた後期の土器が 多量に出土して,中部山地北部の弥生時代後半の変遷の状況が明らかとなった。 |
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栗林遺跡と同時代の資料 転載 中野の弥生文化と地域間交流 弥生中期・栗林式土器編年の 再構築と分布論的研究 - 国立歴史民俗 ... 弥生時代中期の栗林式土器分布圏における栽培穀物 - 明治大学 332a |
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333箱清水式土器 弥生後期 長野市篠ノ井遺跡群 |
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資料 箱清水式土器 箱清水式土器の特徴 転載「箱清水式土器」 ①長野市箱清水から出土した、弥生時代後期中葉から末葉にかけての土器群を、その名称をとって「箱清水式土器」といいます。 この土器群はその後の研究で千曲川流域を中心とした広い地域に発達した弥生時代後期文化が残したものとわかりました。 器形には、壷(つぼ)・坏(つき)・鉢(はち)・蓋(ふた)・甕(かめ)・甑(こしき)などがあり、それ以前の土器にくらべると器種の分化も著しく、 器形・文様も画一化されてきます。 文様は壷と甕に描かれるだけで、供膳形態の土器には器面が赤く塗られています。 このように、独自の方法で描かれた文様(中部高地型櫛描(くしがき)文)と器面を赤く塗る手法が特徴的です。 転載「箱清水遺跡」 ②箱清水式土器は弥生時代後期後半に善光寺平を中心として分布する、通称赤い土器です。 赤色塗彩された壺や高坏と、煩雑なまでに櫛描き文を施した甕によって特徴付けられ、甕以外のほとんどの土器が赤色に塗りあげられている。 善光寺平を中心に千曲川流域に広く認められ、更には関東地方まで強い影響を与えています。 考察 栗林式と箱清水式の間 引用・参考「信濃川をめぐる弥生時代の 越後と信濃の交流 - 新潟市」 弥生後期前半に入ると、 東北の天王山(てんのうやま)式土器文化が南下し、信濃川水系に多くの集落を形成し始め、越後・信州に影響を及ぼし始める。 天王山文化は、 弥生後期以降の寒冷化によって多くの水田稲作を中心とする弥生人入植地が耕作不能となり、放棄され、弥生人は去っていった。 在地系(縄文系)弥生人達は、既に経験の途絶えていた縄文的生活、即ち狩猟・採集生活に逆戻りした。東北地方の弥生化縄文人の回帰文化である。 彼らは、天王山式土器を携え、狩り場を求めて各地に分散して行った。天王山文化人は、在来の弥生化縄文人と、近接して集落を築いて、 住み分け多くの交流もあったようである。 天王山式についての資料 沖縄写真通信 福島県立博物館2の125 天王山遺跡出土品 弥生後期天王山式土器成立期における地域間関係 重要参考資料 信濃川をめぐる弥生時代の 越後と信濃の交流 - 新潟市
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334座光寺原・中島式土器 弥生後期 飯田市丹保遺跡 |
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資料 座光寺原遺跡 縄文時代から中世期の遺跡。大堤団地周辺に弥生時代後期前葉(2100年前ころ)の集落が確認され、「座光寺原式土器」の標識遺跡。 中島遺跡 弥生時代後期後葉(1700年前ころ)の遺跡で、南東に湿地帯を控え、畑作と稲作の複合農業を営む大規模な集落で、中島式土器の標識遺跡です。 「座光寺原式土器」に続く時代に当たります。 引用➋遺跡 考察 座光寺原遺跡と中島両遺跡は、時期的にも、位置的にも違う。しかし、座光寺原遺跡、当該の中島遺跡という発掘調査報告書はない。 しかし、座光寺・中島遺跡や中島遺跡など、同名・類似名の遺跡が多く、または異名同遺跡かも知れない。はっきり言ってよくわかりません。 そこで、ここでは、座光寺中島遺跡、または、座光寺・中島遺跡について考えていきます。 座光寺中島遺跡 後期後半の中島式土器の標識遺跡。遺跡は高位の段丘上に立地し、二次にわたる調査により後期の竪穴住居址46軒・方形周溝墓2基等を検出した。 これらの調査により、後期後半から終末にかけての3時期にわたる集落であることが分かり、遺跡全体では当地方有数の規模を有する集落である。 資料 これまでの記憶 座光寺中島、または、中島式土器文化は、天竜川を遡ってきた東海系の土器文化で、箱清水式文化圏よりも早く、 貝殻条痕文土器を伴う 水田稲作文化を伊那谷にもたらした。伊那谷各地の低湿地では早くから稲作が行われた。 ただ、伊那谷は南アルプスと中央アルプスから流れ下る堆積物と、隆起運動によって土地の多くが乾燥した段丘状であるため、水田に不適で、 ひろく畑作が行われ、雑穀が栽培されてきた。石混じりの畑地には金属器よりも石器が農耕に適していたため、金属器の普及は遅れていた。 |
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340弥生の道具 |
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342石器 石包丁 稲作と伴に日本列島に持ち込まれ、打製・磨製のものがある。磨製石包丁には紐を通す孔があり、多くは双孔だが、長野県などには単孔もみられる。 打製石包丁には紐孔がなく、両短辺に抉り込みを作り、そこに紐をかけて用いていた。
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343弥生時代のまつり 引用「長野県立歴史館展示案内」 弥生時代の祭の道具には、縄文時代から受け継がれたものがある。 土偶は人体をかたどった幼児骨収納容器 (土偶形容器) や顔を付けた壺に替わり、石棒も木製品に代わる。 一方で稲作文化と共に新しい神への信仰やまじないももたらされた。神を呼ぶ祭の鐘の銅鐸、悪霊を退治する銅剣・銅矛や木製の武器が使われた。 鹿の肩の骨などに空けた穴を灼き、ひびの入り方で吉凶を判定する占いも盛んになった。 |
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344祭の道具 引用「長野県立歴史館展示案内」 ※展示目録には以下の4点が上がっていますが、今では「顔付土器」だけになり、それ以外は地元に返却されたようです。 しかし、弥生の祭祀としては全て必要だと思います。 |
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346人面付きの土器 (顔付きの土器) 弥生中期 約2000年前 長野市松代町東寺尾 松原遺跡 高さ19.2cm、最大径12.3cm 目・鼻・口が省略され、耳だけが強調されている。 栗林式土器の壺に、口の部分が極端に強調された頭部が付いた非常に珍しい土器で、右側の耳がかけている他は完全に残っている。 人面付土器は再葬墓などの墓域で出土することが多いが、この資料は集落域内の廃棄された竪穴住居跡に置かれていた。 ミニチュア土器・甕形土器・河原石と共に配置され儀礼が行われた後、火が焚(た)かれたようである。 引用「長野県立歴史館 キッズページ |長野県立歴史館松原遺跡人面付土器」 |
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347縄文人の顔・弥生人の顔 弥生時代中期 約2300年前 弥生時代の墓からは、縄文人の特徴を残す人骨や、渡来人の特徴を持つ人骨などが発見される。 縄文人は丸顔でまぶたは二重、弥生人は面長系でまぶたは一重である。これらの特徴は、土器に付けられた顔面飾りにも見られる。 |
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349人形土器 弥生時代後期 佐久市西一里塚遺跡群 墓域から出土しましたが、胸のあなは小さく、骨を入れる器とは考えにくいです。腕を広げた姿から、墓を守る意味との研究もあります。 全長約28cm、弥生時代後期 【弥生時代後期の人形土器(ひとがたどき)】 引用「西一里塚遺跡群の人形土器」 人形土器とは、上半部は頭部や腕などの人の姿を形作っているのに対して、下半部は足を表現せずに平らな底部となる容器です。 弥生時代前・中期に多くみられ、内部から小児骨が出土した事例もあります。 そのため骨を器などに入れて再び葬る「再葬」という葬制に関連した、骨を納めた蔵骨器であると考えられています。 西一里塚遺跡の人形土器は、右腕と左側の胴底部は欠けています。現存する高さは約28㎝です。 正面の胴上部には台形の窓が開き、容器として機能はしていたと考えられます。 外面には赤彩を施しているのが確認できます。 |
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長野県立歴史館 常設展 第1部 原始~弥生時代 を終わります。 次回は第2部 古墳時代~近代です。 |