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弥生時代 |
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120稲作開始A8 |
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121稲の来た道 米作り初期の土器 (弥生早期になるのかなぁ、縄文晩期になるのかなぁ)
※コメ作りを始めた頃の土器 1980年代までは東北地方のコメ作りは弥生中期 (約2000年前) と考えられていました。ところが1988年からの青森県弘前市砂沢遺跡の調査で、 水田跡に伴い弥生時代前期の土器である遠賀川系土器が出土したことにより、東北地方の稲作開始は弥生前期 (約2200年前) まで遡ることが 判明しました。 遠賀川系土器とは、 西日本に分布する弥生時代前期の土器の総称である遠賀川式土器と類似した特徴を持つ土器で、東北地方各地の遺跡から、 縄文土器の特徴を色濃く残す在地系の弥生土器と共に出土しています。 また、県内では東海地方の水神平式土器※に系譜が求められる条痕文土器が、在地の弥生土器に伴う例も知られています。 引用「福島県立博物館 米作りを始めた頃の土器」 水神平式土器 遠賀川式土器 |
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福島に持ち込まれた東海系土器 ※水神平式土器 土器は壺を主体に深鉢,鉢があり,縄文直後の変形工字文や磨消縄文を表出した例が少なくない。 壺のうちには,外面がよく調整された素面のものも多く,条痕文を駆使した東海系の水神平(すいじんびら)式土器が数個含まれていて, 東北地方への弥生文化伝播の具体例として注目されている。 引用コトバンク水上平式土器 水神平遺跡 愛知県豊川市の遺跡。豊川右岸の40mの段丘上に立地する。3か所の集落跡と5か所の甕棺墓が有名。 土器は水神平式土器(おもな分布範囲は愛知、長野、静岡、山梨県)で、型式内容を3時期に細分している。 壺、甕、鉢、碗などがあり、土器全面に粗い条痕がつき、壺の口縁や肩には凸帯をつけるのが特徴である。 少量の遠賀川式土器や大洞A'式風の土器が伴存することから、編年的には弥生前期並行期に位置づけられている。 石器のなかには環状石斧、多頭石斧、独鈷石、有柄石剣、石冠など、多様なものが含まれている。 中部地方南半部の、縄文文化から弥生文化移行過程を知るために、きわめて重要な遺跡の一つである。 引用コトバンク水神平遺跡 縄文と弥生の特徴を併せ持つ、つまり、弥生文化を受け入れた縄文人の遺跡と考えるべき。縄文・弥生遺物が混交して出土している。 ※鳥内遺跡 縄文時代後期から、弥生時代中期にかけての遺跡です。@鳥内遺跡 A鳥内遺跡 B鳥内遺跡 C鳥内遺跡 D鳥内遺跡画像 特に、弥生時代前半期にあった、遺体を一旦骨だけにして、その後土器の中に再び葬る葬法、再葬墓が多く検出さた遺跡として全国的に 有名です。 また、東海地方の水神平式土器、九州地方の遠賀川系土器が出土しています。特に前者は、直接東海地方から運ばれたものと考えられて います。 このように鳥内遺跡からは、弥生文化北上の様子がうかがえます。また、全国で20例ほどしかない人面土器も出土しています。 引用鳥内遺跡 |
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125西日本の弥生土器 前期〜後期 遠賀川系土器 と 天王山式土器
天王山式土器 天王山遺跡出土土器 ※弥生時代後期の土器 福島県域では弥生後期、「天王山式土器」 (白川市天王山遺跡が標識) と呼ばれる、器型や文様の特徴が前段階の物とは大きく異なる土器が 作られます。 今回ご紹介する会津坂下町能登遺跡の土器もその一例で、壺や甕、注口、片口、蓋などが出土しています。 「天王山式土器」には、 @壺や甕の口縁部は受け口状で段を持つ例が多い。 A交互刺突文と呼ばれる文様が多くみられる。 B太めの沈線で連孤文などの文様が描かれる。 C胴部には縦あるいは横に縄文が施される例が多い。などの特徴があります。 「天王山式土器」は、北海道や東北地方北部などの土器から影響を受けて成立したと考えられ、その分布は東北から北陸までの広い地域で 確認されています。(新潟県) 引用「福島県立博物館 これも弥生土器!?」 ※天王山式土器とは、 高温期の弥生中期に東北北部にまで広がった稲作は、大量の半島人の入植と、在地縄文人の弥生人化を促した。 弥生後期の寒冷化に伴い、入植弥生人は農地を放棄して西に去り、残った一部の弥生化縄文人たちは、何百年前の縄文に回帰した。 回帰縄文人たちは、天王山式土器を携えながら、福島県を中心に東北地方から新潟県までを、狩猟採集生活をしながら彷徨した。 縄文文化を失っていた人々が、再度縄文生活を復活させることは、困難であったに違いない。 じつは、南下してきたアイヌと深くかかわり、狩猟・採集や土器の作り方まで教わりながら暮らしたのでしょう。 |
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130水田稲作 |
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134稲作の開始 紀元前3世紀頃、北部九州に稲作が伝わり、西日本へと急速に広まりました、東日本でも紀元前1世紀頃には、弥生文化を受け入れ、稲作が開始 されます。 人々は平地を切り開き、木製の鋤や鍬を用いて共同で水田をつくり、その近くの台地上に集落を営みました。 福島県でも、南相馬市の桜井遺跡などから石包丁が出土しており、当時の稲作農耕の一端を知ることができます。 桜井遺跡は、「桜井式」の標式遺跡です。石庖丁は「半月形外湾刃」や「 引用福島県立博物館 考古収蔵資料 |
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136石包丁 コメ作りと石の道具 弥生時代の石の道具にも、「大陸系磨製石器」と呼ばれる、大陸に起源を持つ、新たな道具が加わります。 弥生時代の初めに米作りと共に伝来したものです。石包丁はその代表的なもので、県内の浜通り地方から多数発見されています。 材料は、相馬地域の阿武隈山地の粘板岩です。南相馬市天神沢遺跡からは、石包丁の未製品が出土しており、この辺りに製作するムラが あったようです。
考察 ※石包丁が出土した遺跡 は、断然太平洋側に多く、山形県最上川上流の寒冷地帯。福島県南部の南会津の寒冷な高原地帯に多い。なぜだろう。 東北地方太平洋側は、初夏に山背が吹いて稲作不敵な地域です。 九州を出た弥生人たちは、瀬戸内海、和歌山の南端、東海、房総沖を回って、はるばる東北に辿りつき、農耕をはじめたようです。 この、時期、一時的に世界の気温が上昇し、青森県まで稲作がおこなわれたが、すぐに寒冷化し、入植地は放棄され、北方からアイヌが南下 しました。 もちろん、アイヌも寒冷化に耐えきれず、南下したのでした。彼等は、放棄された村や田畑を利用して生活を築きました。 この時、弥生人とアイヌが深く接触し、東北地方一帯にアイヌの地名が根付き、アイヌ語方言や文化が広まりました。 そして、何よりも大切な、マタギの知識も、この時、アイヌから教えられました。 |
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140再葬の墓A9 |
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141墓料遺跡の再葬墓遺構は、弥生時代初頭 (約2千年前) のものです。直径1.5m程の土坑の中に5個の壺を納めています。 死骸を1次葬で骨にし※1、それを壺に入れて埋葬したと考えられます。このような埋葬例は関東・東北を中心に40数か所が知られています。 福島県内でも、宮崎遺跡や根古屋遺跡などの例があります。 ※墓料遺跡からは6基の再葬墓が見つかり、合計16個の土器が見つかりました。 ※1死体は、石敷きで屋根付き掘立柱建物に3ヶ月ほど放置して風葬にし、骨にしてから埋葬する。 |
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142いろいな墓形式 ※平戸市里原田遺跡の支石墓は、縄文晩期とされている。相当早い時期から半島人がやってきて居住していたようです。 |
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143甕棺 弥生中期 |
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144油田遺跡の再葬墓 弥生時代中期 弥生時代を代表する玉のアクセサリーと言えば、碧玉などを素材とした管玉や勾玉に加え、大陸から伝えられた新たな技術によって作られ始めた 色鮮やかなガラス製の玉があります。そして、これらは形や大きさを変えながら、次の古墳時代へと引き継がれていきます。 弥生時代中期の再葬墓と土坑墓が合わせて132基も発見された遺跡として、たいへん注目を集めた会津美里町油田遺跡でも、管玉や勾玉、 そして平玉が500点以上出土しています。土坑墓に副葬された例がほとんどで、一つの土坑墓から200点以上もの平玉が出土した例や、 管玉と勾玉がいっしょに副葬されていた例も確認されています。 (とても裕福なムラだったようです。なぜ、二つの埋葬方が混在したのか。民俗学的課題) お墓から発見された玉のアクセサリー。これらを見ると、死者を生前の姿と同じ様に飾り付けながら別れを惜しむ、当時の人々の姿が想像されます。
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U古代B |
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210古墳時代 | ||||||||||||||||||||||||
211会津大塚山古墳 B1 古墳時代前期(4世紀) 一箕古墳群 (前出の、弥生時代の 墓料遺跡 の近くにある。) 4世紀の大和国家の成立と前後して、古墳が造られ始めました。大和国家の最初の影響を示すのが大塚山古墳です。 豪族が司祭者から政治支配者に変わるようすが、正直古墳群、真野古墳群などからわかります。 大化の改新後、東北の南部までが律令国家に組込まれ、陸奥国府のもとに白河郡などが置かれました。 12世紀には、荘園をもとに私的な勢力が争う世の中になります。 福島における古墳時代の始まり 4世紀 調査の結果、東北地方における古墳時代の始まりが西日本と比べても大きな時間差を待たず、4世紀にまで遡ることを明らかにしただけではなく、 当時の東北地方、特に会津地方は近畿地方にあった中央政権と密接な関係を持っていた地域であったことも明らかにしました。 その後の会津盆地を中心とした調査の進展に伴い、古墳時代が始まる頃の様子が明らかになってきています。 福島県内の古墳を見ると、古墳時代の早い段階の物は現在のところ会津地方に集中して発見されており、北陸地方を経由して 会津地方から古墳文化の大きな波が県内各地に広がったことがわかります。 また、古墳の出土品や墳丘の形から南の関東・東海地方からも強い影響を受けていたことがわかります。 当時の福島県地方は西の北陸と南の関東・東海から伝わった先進文化が合流する古墳文化の「北の交差点」として、重要な役割を果たした 地域であったと考えられます。 (西の北陸と南の関東・東海の豪族が、領地拡張を巡って対峙する地域だったようだ。戦闘はあったかもだが、戦場はわからない。) (長野県野辺山では、戦争の痕跡が未開地から出土する) 考察 北陸新潟から会津に入植したのは吉備系弥生人ではなかったか ※南東北の内陸盆地、会津地方に、なぜ中央と結びついた政治勢力が生まれたのだろうか。 やってきた集団は、日本海側、新潟県から峠越え、川沿いに会津盆地に到達して、勢力を築いた人々です。 長野県でも、東海から北上した弥生人と、北陸から南下した弥生人が、塩尻付近で対峙していました。南下勢力は鉄器を持つ進んだ勢力でした。 東北地方には、この時期、北陸からと、東海からの二大勢力が各所に入植を繰り返し、勢力を拡大していました。 ※北陸は、出雲の勢力地域でした。大和政権成立当初に失脚し、吉備の勢力下になりました。北陸は「越の国」といい、戦乱の度に流出する 膨大な半島人流民を、直接日本海ルートで受け入れる、越してくる土地でした。 支配者吉備は、この流民を使って開拓と、領土拡張を行い、米交易で財を、大量の農奴を支配することで権力を握ったのでしょう。 東海・関東地方からも、同様の目的で、「なにがしか」の豪族が同じことを行っていました。 と、私は考えます。 会津大塚山古墳 は、全長114mの前方後円墳です。 後円部には二つの長大な木簡が納められていました。木簡の中には、三角縁神獣鏡、三葉環頭大刀、鉄鏃・銅鏃の入った靫 (ゆぎ) 、 短冊形鉄斧をはじめ沢山の副葬品が納められていました。 これらの副葬品は、近畿地方の前期古墳の副葬品と極めて近い内容で、東北地方でも西日本に遅れることなく古墳文化が始まっていたことを 示している。 東北地方で三角縁神獣鏡が出土しているのは会津大塚山古墳だけであり、この鏡は「最北の三角物神獣鏡」として有名です。 会津大塚山古墳の南東方向には堂ヶ作山古墳、飯盛山古墳という大形の前方後円墳があり、前方後円墳が3代に渡って作られていたと 考えられています。 飯盛山周辺地域は、古墳時代の会津盆地の中心地の一つだったことがわかります。 |
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212会津大塚山古墳副葬品
※同范鏡は、 岡山県備前市で作られてすぐに、会津大塚山古墳に運ばれている。同じ、吉備勢力の一族の墓だったようだ。 ただし、吉備勢力が、一旦、北陸に進出し、更に、その分岐勢力が会津盆地や信州にやってきたようだ。 会津の弥生人は、吉備人ですね。北信州のもそうですね。 |
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213田村山古墳 古墳時代のごく初期の古墳 会津若松市北会津町田村山字塚越 全長約25m後円部直径18mの前方後円墳。 国産の内行花文鏡、中国製内行花文鏡が出土。 古墳時代のごく初期の古墳。 古墳周囲から東海地方の土器に似た古墳時代初めの儀式用壺形土器が発見されており、この古墳に葬られた豪族は東海地方とも交流 を持っていた可能性が考えられます。 破鏡 出土した鏡は半分しかなく、割れ口も含めて全体が入念に研磨されていることから、割れた後も大事に磨かれて使われていたことがわかります。 このように意図的に割られた破鏡は、貴重な宝物もしくはまじないの道具として身につけられていたと考えられており、中国から輸入された銅鏡 、舶載鏡が使われました。 破鏡を遺体と一緒に埋葬するお墓は弥生時代後期から古墳時代の初めにかけて西日本を中心にみられますが、三角縁神獣鏡が配布される 古墳時代前期頃には、あまり見られなくなります。従って、破鏡の出土する古墳は三角縁神獣鏡の出土する古墳より古いと考えられることから、 田村山古墳は古墳時代初め頃に造られたと考えられています。 ※東海系弥生人勢力は、早くから太平洋側からの入植を行っていました。田村山古墳の被葬者は東海系だったかもしれませんね。 すると、後から来た吉備勢力と戦争をしたのでしょうか。 ※東海地方の博物館を歴訪して調べてこないと分かりませんね。 杵ガ森古墳と稲荷塚遺跡 古墳時代前期前半 3世紀後半 古墳と周溝墓の複合墓地遺跡 杵ガ森古墳は会津坂下町にある全長46mの前方後円墳で、奈良県の箸墓古墳とよく似ています。 古墳の後円部を取り巻くように周溝墓が発見されており、古墳以外の部分は稲荷塚遺跡と呼ばれています。 周溝墓は古墳と重複せず、古墳を取り巻くように造られていることから古墳と近い時期の物と考えられています。ここからは、 多数の土器が出土しており、いずれも古墳時代前期でも古い段階の物です。 杵ガ森古墳と周溝墓は古墳時代前期前半の3世紀後半頃に造られていることから、杵ガ森古墳は現在のところ東北地方最古の前方後円墳 です。 古墳時代の会津地方と北陸地方 杵ガ森古墳のくびれ部の下から古墳が築造される直前まで使われていた竪穴住居が発見されています。 ここからは、壺・甕・器台などが出土していますが、これらは北陸地方の物に似た特徴を持っています。 会津坂下町には東北地方第2位の規模を持つ亀ヶ森古墳がありますが、それに隣接する男壇遺跡・宮東遺跡でも古墳周囲に周溝墓が あります。 ここから出土する土器も古墳時代前期でも古い段階の物で、この土器も北陸地方の物に似ています。 会津盆地では、北陸地方からの人の移動も含めて、日本海側から大きな影響を受けながら古墳時代社会が成立したことがわかります。 ※初期の古墳は、支配者の王墓を中心に、付き従った者達の周溝墓を配した、集団墓地だったようですね。 |
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※1森北1号墳 古墳時代前期前半(4世紀前半)の築造 会津坂下町にある全長約42mの前方後方墳です。 後方部から、長さ7m、幅2mの墓坑が検出され、 内部に舟形木棺が埋められていたことがわかりました。 木棺内部からは銅鏡、管玉、槍などの鉄製品が発見されており、表面に残された痕跡から、これらの副葬品が木箱に納められていたこともわかり ました。 東北地方の前方後方墳から鏡が出土するのはこの古墳が初めてで、しかも、この古墳から出土した放射状区画を持つ珠文鏡は全国的にも珍しい ものです。 おそらくこの古墳に葬られた豪族は会津地方はもとより、県内でも大きな力を持った人物であったと考えられます。 この古墳は、墳丘や周溝から出土した土器から古墳時代前期 (4世紀前半) のものと考えられ、杵ガ森古墳・田村山古墳などと共に 会津盆地の中でも早い段階に造られた古墳であることがわかります。 ※先の、杵ガ森・稲荷塚古墳の被葬者は、3世紀後半から、僅かな時間を於いて、もう、「県内でも大きな力を持った人物」、となり、他勢力を駆逐し、 福島を支配した。 |
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230群集する古墳B3 |
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231原山1号墳人物埴輪 B2 ※原山1号墳の泉崎村には、泉崎資料館があり、多数の展示資料と共に、古墳内部が見学でき、、ないみたい。 |
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232古墳時代中期 5世紀末 原山1号墳 泉崎村太田川に在。後円部直径12.5mの前方後円墳 周溝から多量の円筒埴輪、墓守や奏楽の人々を表した人物埴輪など、東北でも有数の埴輪群が出土し、5世紀末頃の県南地方の首長の墓で あることがわかりました。 |
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古墳時代後期 233群集する古墳 埴輪 B3 古墳時代後期になると、これまで豪族に支配されていた有力な人々も古墳を作るようになり、古墳群が形成されます。 墓室にはあとから何回も葬ることのできる横穴式石室が造られることが多くなり、金メッキされた馬具や大刀などが副葬されるようになります。 この他に横穴式石室の代わりに山腹に穴を掘る横穴墓も多数作られ、中には清戸迫横穴・泉崎横穴・中田横穴など、壁に絵や文様を 描いたのも現れます。 ※中田横穴の三角模様は魔除けだったのか。台湾少数民族の衣服や、建物、地域の国立病院 (室内装飾) にまで三角模様が装飾されていた。
陶棺 後田1号墳6c末-7c初頭 古墳後期 いわき市 土製素焼き陶棺。 1列7本 合計21本の脚が付いている。蓋は未発見。全長約170p。 考察 会津地方と吉備 東北歴史博物館で見た埴輪は、縄文人の顔でした。装束も簡素でした。 ところが、会津の埴輪は吉備地方、いや、畿内の埴輪以上に半島系の顔です。 実に吉備的な、埴輪と家型陶棺は、やはりここが、吉備の勢力下にあったことを物語っていると確信しました。 吉備は、出雲、越の国を勢力下に置き、日本海ルートを牛耳っていたんですね。誰が、こんな壊れやすい陶棺を、はるばる福島の山中まで運び ますか。それは、吉備との強烈な結びつきがあったからこそ、王族の中のパイオニアに対して送られたのでしょう。 そうすると、この時期に、出雲はもう吉備に追い落とされていた。長野の北方勢力は北陸吉備勢力で、東海系勢力と対峙していた。 東海系勢力と言えば、継体天皇の出自であり、姻戚関係の三尾氏は、東海地方に勢力を持つ一族ではなかったかな。 この系統のことははっきり分からず、少なくとも、皇統から外れていた。大和での皇統が絶えた時、初めて表に出た。 つまり、古い豪族の吉備氏などが滅んだあとに、かつて敵対していた古い豪族を表に出した。吉備氏と対立していた勢力、、、考えすぎかな。 アイヌ交易を太平洋側から日本海側に移させたのは、吉備勢力だったのかもしれない。莫大な利益が、揚がったのでしょう。独占するために。 |
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234後期古墳 副葬品 古墳後期7世紀
真野古墳群 双魚袋金具 双魚袋金具とは、ながらく何に付けられたものか分かりませんでしたが、奈良県藤ノ木古墳から類似資料が出土し、刀に付けられた装飾品と 判明しました。 薄い銅板に金メッキを施したもので、魚を表現する繊細な彫刻を加えた姿はとても優美です。福島県の重要文化財に指定されています。 引用群集する古墳 |
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235勿来 金冠古墳 鎧 (なこそ きんかんこふん よろい) 古墳時代後期 7世紀初め 単に金環古墳と呼ばれています。 いわき市勿来 7世紀初め 聖徳太子が生きた、活躍した、その時代の人物の墳墓です。大形横穴式石室から豊富な副葬品が見つかりました。 それらの中には、金で装飾された品々が含まれており、当時、勿来地域一帯を治めていた豪族が葬られたと考えられます。 もしかしたら、聖徳太子や蘇我馬子などとも交流があった人物かもしれません。
冑について 現在はバラバラになっていて分かりにくいですが、鉄板を組み合わせて本体を作り、鉄の小板(小札こざね)を編んで頬当てや錣(しころ)といった 顔や首を守る部分を作ります。 とはいっても分かりにくいので、鉄を革に置き換えて復元した冑があります。手にとって、被ってみてください。 この冑は、正面が船の舳先のように折れ曲がっています。 また、本体や小札は革ひもによって綴じられています。 そして本体に縦(竪)に長い広めの鉄板を使っているため、学術的には「竪矧広板革綴式 衝角付冑」 (たてはぎ ひろいた かわとじしき しょうかくつき かぶと) と呼びます。 |
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240ムラの暮らしB4 古墳時代になると、鉄製の農耕具が普及し、木製の鋤や鍬では耕すことが出来なかった土地も、水田に利用できるようになりました。 また、水路を作る土木技術も著しく発達し、米の生産力も次第に増大しました。 佐平林遺跡は、福島県の代表的な古墳時代の集落跡で、6世紀前半頃には7軒の竪穴式住居がひとまとまりになり、 ムラを形作っていました。ここに住んでいた人々も古墳造りに駆り出されていたことでしょう。 |
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241暮らしとかまど |
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242かまど以前 矢ノ目遺跡 古墳中期5世紀前半 |
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244かまど以後 佐平林遺跡4号住居かまど 6世紀 模型は、古墳時代後半 (1500年前) のかまどと使用法を推定復元したものです。かまど内部には支石(支脚)が置かれ、 その上に甕と甑を重ね置いて使用しました。甑(こしき) は蒸し器のことです。 かまどは食物の調理や暖房に用いたものです。床を窪めた炉に代わったかまどは、当時の生活に大きな変化をもたらしました。 |
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248祭祀用模造品 B4 矢ノ目(館)遺跡出土石製品 古墳時代中期
中期の副葬品 この頃になると人々は、埋葬儀礼として、豪華な物は副葬しませんでした。代わりに、泥や、ろうせきで作ったおもちゃを入れました。 威信財となるもの、財物は、残った者の手に渡されました。 |
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古代 250陸奥国の成立 B5 泉崎村 関和久遺跡を中心として、陸奥の国の一部となった福島県の奈良・平安時代の様子を土器や瓦などの資料を用いて展示しています。 (せきわぐ) 福島県西白河郡泉崎村北平山古寺 ←古代条里制の跡が見られます。 |
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251国衙 法律と文書による政治 大化の改新後、朝廷の組織も整えられ、天皇を中心とした朝廷に権力が集中する、中央集権の国づくりが進められました。 701(大宝元)年、唐の制度にならった大宝律令が作られると、各地に置かれた役所では法律に基づいて政治が行われるようになりました。 また、役所で行う政治は全て文書に記録され、役所から人々に出される命令も文書の形で伝えられるようになりました。 簡単なメモや持ち運ぶ必要のある文書は木の板、長く補完する文書は紙に書いて繋ぎ合わせ、巻物にしました。文字を書く板を木簡と呼びますが、 当時の歴史には記録されていない地方の政治の様子を知ることができるたいへん貴重なものです。 行政区分の誕生 全国の人々は、律令に基づいて6年毎に戸籍に登録されました。戸籍を作成する単位が「戸」で、50戸をまとめて1里、複数の里をまとめて郡、 郡がまとまって国というように、国-郡-里という地域区分がつくられました。 福島県は陸奥国に属しており、会津若松市は会津郡、福島市は信夫郡など、奈良時代には県内が10郡にわかれていました。 そして、区分ごとに役所がおかれ、国の役所は国府、郡の役所は郡家 (こおり-の-みやけ) と呼ばれていました。 これらの役所の間を結ぶ道路も整えられ、役人が行き来するための駅が設けられていました。 関和久官衙遺跡とは、大和朝廷下の地方郡役所のことです。 せきわぐ-かんが-いせき |
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252製鉄遺構 |
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253製鉄 相馬地方の製鉄の終わり 10世紀 飛鳥〜平安初期 (1350〜1100年前) にかけて、相馬地方では大規模な鉄作りが行われていました。 この時代は、中央政府による北進政策がとられており、相馬地方は陸奥国府の多賀城や北方の城柵などに鉄資源を供給する役割を 担っていました。 |
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254鋳造遺跡 |
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V収蔵庫からこんにちは | ||||||||||||||||||||||||
310原山1号墳 五世紀末 福島県 西白河郡 泉崎村 大字太田川字原山 原山1号古墳は、発掘調査の結果、東半分がすでに壊されていたものの、全長22mの前方後円墳であることが明らかにされました。 古墳の周りに掘られた溝(周溝)からは、倒れ落ちた状態でたくさんの埴輪が発見されました。また、出土した土器から5世紀末頃築造と判明。 この古墳は、県南地方を治めた有力者の墓と考えられます。 引用原山一号墳 |
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311原山1号墳の概要
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312埴輪 もっと詳しい解説は、福島県立博物館 特集"原山遺跡" をご覧ください。
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315埴輪の部品 榛名伊香保テフラ ※テフラとは、溶岩以外の火山噴出物、ここでは、榛名山からとんできた火砕物のことです。 原山古墳はこの火山活動による地震や降灰で倒れた埴輪を発掘したということです。 周溝からガラスのような粒を大量に含む砂状の堆積物が確認されました。 これは、榛名山の爆発で広域に降下した火山灰 (榛名伊香保テフラFP) です。 榛名山は5世紀末と6世紀前半期に大きな火山活動を引き起こしました。この堆積物は6世紀前半の爆発に由来するものでした。 部品からわかること 復元できない埴輪部品が沢山ある。 鞍・尻尾・鈴・足から馬の埴輪があった。 二又の冠を可ぶる頭部、力士像の腕、盾持ち男子像の盾があり、埴輪が複数であった裏付けである。 男子像の左腕などは3体分ある。 小型の壺があり、女子像が持っていた可能性がある。 塵尾 (しゅび・毛扇) を持つ腕がある。その人物埴輪が不明である。 ※よく知られるように、埴輪職人によって量産された各種の埴輪が、古墳の周囲をぐるり取り巻いていた訳で、同形埴輪は多数あった。 全長約22mの前方後円墳。後円部径12.5m、埴輪・周溝を備える古墳であるため、おそらく相当量の埴輪があったことがうかがえる。50〜70個?
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330中島村 福島県西白河郡中島村 泉崎村(原山1号墳)の東隣で、元は一体であったでしょう。 |
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よほだこふん 331四穂田古墳の短甲 古墳時代中期中葉 (5世紀前葉) 短甲は、東北地方初出土で分布範囲を北に広げた。 三角板鋲留短甲(さんかくいたびようどめたんこう)という、三角の鉄板を鋲で留めたもの。最古段階の鎧で、五世紀前葉。黒漆塗り。 ・太刀は、(大刀か) 全て茎(なかご)が欠損しており、副葬の時に切り取ったようである。 ※刀身は貴重で、また、作り直したのかもしれない。 ・鉄族は、片刃の鏃身と長頸鏃で、古墳時代中期中葉を上限とする古墳であった。 ・鉄製ヤリガンナ2丁は、断面凹形の柄に刀身をはめ込み、紐で縛った。 ・砥石は大小とも凝灰岩製。 これら以外に1丁の有角袋状鉄斧や、少量の土器が出土。 |