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01外観
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T原始 A 旧石器時代 AとかA1とかは博物館内の通し番号です |
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10福島県最古の人間 A1 |
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12福島県最古の人間 平林遺跡の石器 平林遺跡 後期旧石器時代初頭 約3万年前 最古の人間 旧石器時代人が県内にはじめて住んだのは桑折町平林遺跡です。石器を使い、今では絶滅した動物を狩っていました。 石器には、流紋岩を石材として、楔形石器(クサビとして用いる道具)、スクレイパー(物を掻き取る道具)などの石器が出土しています。引用 土器や弓矢を使い始めた縄文時代人は、約8000年にわたって塩沢上原A遺跡など多くの集落を営み、木の実・獣・魚などを食料にしていました。 弥生時代になると、稲作が始まり、桜井遺跡などの村々に広まり、村の中から有力者が成長しました。(って、もう弥生まで行っちまった。)
ピエス・エスキーユ: 楔形石器とも呼ばれるピエス・エスキーユは、タガネのようにハンマーと対象物との間におかれた間接具と考えられています。 引用 みかた遺跡展示室縄文時代の石の道具 |
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13旧石器時代の石器 スクレイパー: 皮なめしのほか、木や骨を削ったり、獣の肉を切ったり、まさに多目的な利器であったと考えられています。 切出様石器: 切出形ナイフ形石器 引用縄文時代の石器 |
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20氷河時代の生活 A2 |
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21氷河時代 22石器製作技法 |
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23氷河時代の生活 塩坪遺跡 1万4000年前 後期旧石器時代 (喜多方市) 氷河時代の人々は主に台地や河岸段丘の上など、安全で便利な場所に住み、定住はせず、移動しながら石器で狩りをし、動物の解体などを していました。 代表的な道具に、ナイフ形石器、石片の先端に丸い刃を付けた掻器(エンドスクレイパー)、細長い刃をもつ彫刻刀形石器などがあります。 塩坪遺跡出土礫群 遺跡からまとまって出土する河原石は礫群です。石は赤く焼けていたり、細かくはじけていたりします。旧石器人はこの石を使って焼いたり 煮たりしました。 旧石器人は一年を通じて回遊する大型獣を狩猟するため、定期的な移動を繰り返していました。
塩坪遺跡出土石器 後期旧石器時代 約17000年前 塩坪遺跡は後期旧石器時代の福島県を代表する遺跡です。ナイフ形石器、エンド・スクレーパー、彫刻刀形石器などとともに、 当時の調理施設と考えられる「礫群(れきぐん)」が検出されています。年代が違っているので引用しました。 |
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30最終氷期 後半の環境A3 |
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33気候環境 旧石器時代には氷期と間氷期が繰り返し、約2万年前の再寒冷期には、気温が5〜7℃低く、海水面は100mから140m低下していました。 寒冷化で、針葉樹林帯が低地にまで降り、ナウマン象やオオツノジカなどの絶滅大形獣が狩りの対象となっていました。 火山活動も活発で、AT層、約24,000年前に爆発した姶良カルデラから噴出した火山灰が福島県下でも確認されています。 引用
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ポイント展 34石器に用いられた石 笹山原16遺跡 3万〜2.8万年前 打製石器の材料には薄く割れやすく、縁辺が鋭くなるものが選ばれます。篠山原No.16遺跡の石材には硅質頁岩と凝灰質頁岩が多数を占めます。 硅質頁岩は、東北地方では、旧石器から縄文にかけて多用された石材ですが、会津地方では産出しません。山形県や新潟県北部産と推定されます。 凝灰質頁岩は白味がかった地元産の石材です。 旧石器人は狩猟動物群の行動に応じて頻繁に移動する遊動生活をしていました。移動には、石器材料も携行したでしょうが、移動先での調達も 生じます。不足の状況に応じて遺跡ごとの石材の割合も異なりました 篠山原No.16遺跡では、山形県や新潟県北部産の硅質頁岩や長野県産の黒曜石などが出土しており、旧石器人の移動範囲の広さがわかります。 篠山原No.16遺跡は、猪苗代湖西岸の後期旧石器時代遺跡です。特に後期旧石器時代前半の遺跡が密集しています。 No.16遺跡は郡山女子大学短期大学部 (越中山K遺跡の石器を独占所有しているというところ) が継続調査中。実年代は3万年〜2.8万年前 ※中山k遺跡は、瀬戸内式の石器技術を持った人々が、日本海側を北上し、山形県酒田市に辿りついて営んだ西日本人の遺跡です。
石器集中区は、旧石器時代の住居跡のことです。 |
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縄文時代 40環境の変化と生業A4 1万年前、氷期が終わり温暖化し、広葉樹が繁り、小動物が多くなりました。それに応じて人々の生活も変わり縄文時代が始まりました。 人々は弓矢を使って猪や鹿を追い、海や川では貝や魚を取って暮らしていました。 トチやクルミなどの木の実も重要な食糧でした。この頃から土器が使われ、食料を煮炊きすることが出来るようになりました。 土器は様々な文様で飾られました。 |
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41生業
※富作遺跡出土 尖底深鉢 縄文時代早期 約8,000年前 住居跡から出土した縄文早期(常世1式約8,000年前)の土器です。常世1式は喜多方市常世原田遺跡が標式遺跡。 この頃の土器の種類は底の尖った深鉢だけです。器厚が薄く、砲弾形で底部に乳首状の突起が付く特徴があります。 文様は放射肋をもつ貝殻の縁を押し付けたり、引きずったりして施されています。口径24.1cm、高32.3cm。 |
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42大畑貝塚 縄文時代後期初頭(今から3,800年前)の遺跡。アサリやサザエなどが主体ですが、貝の間にはタイなどの魚やシカの骨なども見られます。引用 |
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43三貫地貝塚骨角器 縄文後期〜晩期 大畑貝塚の離頭銛や、三貫地貝塚の、組合せ式ヤスや、組合せ式でない釣針、など、北方系民族の道具です。
参考 三貫地貝塚出土縄文人のゲノム解析 近年、百体以上の人骨が出土し、その歯根部から取り出したDNAの解析が行われました。2016年に実施 参考資料「縄文人ゲノム解読 私たちのルーツは」 『縄文人の核ゲノム配列をはじめて決定・・ 縄文人の核ゲノムから歴史を読み解く 神澤秀明 「縄文人ゲノム解読 私たちのルーツは」 三貫地貝塚 縄文人ゲノム解読 私たちのルーツは 縄文人のDNA 現代人に伝わったのは「15%」1万5000年以前に出現か 「東ユーラシア人の中で最初に分岐したのは縄文人だった」 分析から分かったこと 縄文人はアイヌ人にもっとも近く、ついでオキナワ人、そしてヤマト人(アイヌ人とオキナワ人を除く日本列島人)に近縁であることが明らか になりました。 さらに、縄文人は、現代人の祖先がアフリカから東ユーラシア(東アジアと東南アジア)に移り住んだ頃、もっとも早く分岐した古い系統であること、 そして、現代の本土日本人に伝えられた縄文人ゲノムの割合は15%程度であることが明らかになりました。 転載縄文人の核ゲノム配列をはじめて決定 これらミトコンドリアDNAからの情報は、以前の知識の上書きでした。N9b とM7a2 というのも知られていました。ほぼ新しいことはなかった。 |
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47製塩土器 塩づくりの始まり 晩期 製塩は縄文後期末に関東地方で始まり、晩期には青森県から福島県沿岸域にかけての東北地方にも広がりました。 縄文の製塩法は、濃縮した海水を土器で煮詰めて塩を得ることから「土器製塩」と呼び、用いる土器を「製塩土器」と呼びます。 製塩土器は、塩づくり専用の土器として、無文、薄手の深鉢形で激しく加熱されることや、内部に浸みた塩分の結晶化による器表面の剥落が 顕著で色調が複雑なことが特徴的です。一度使うと壊れるため、製塩作業地 (製塩遺跡) では、製塩土器片が集積して出土することがあります。 |
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48石器 後〜晩期 |
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50縄文のムラA5 塩沢上原A遺跡 中期中葉〜後葉 縄文時代には次第に人口も増加し、人々は定住しました。水の便や日当たりのよい台地の上に竪穴式住居を造り、ムラの中には広場を設けました。 広場では祭りや共同作業が行われていました。住居の近くには食料の貯蔵穴などもつくられ、ムラのゴミ捨て場の一部は貝塚となりました。 ムラ同志の交流も盛んで、物々交換が行われ、遠く長野県の黒曜石なども運ばれてきています。 |
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51住居 縄文時代中期中頃〜後半頃(4700〜4,200年前)の住居を復元したものです。 二本松市塩沢上原A遺跡(しおざわうわはら)の発掘調査のデータを基にして復元しました。住居の中央には「複式炉」が設置されています |
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52塩沢上原A遺跡の土器 縄文中期末葉 大木10式期 二本松市上原
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53塩沢上原A遺跡の石器 ここには縄文時代の大集落が、未だ、眠っているそうです。いつか発掘される時を待っているようです。 |
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55複式炉 前期に入ると,住居内に炉をもつことが一般的となり,さまざまな形態をもつ炉がつくられるようになる。特に、 中期は炉の発達が著しく, 床を掘りくぼめただけの地床炉(じどころ)、 深鉢形土器を埋め込んだ埋甕炉(うめがめろ)、 河原石をめぐらした石囲炉、 土器と石囲を組み合わせた石囲埋甕炉、 炉が二つの構造からなる複式炉と呼ばれる特異な炉などがつくられ, 竪穴住居内の炉が生活のうえで重要な役割を果たしたことをうかがわせている。引用コトバンク複式炉 複式炉の年代 ・複式炉は,東北地方南部を中心に形成され,縄文中. 期末の大木 8b式土器の後半に出現し,大木 10 式土器. の後半に終焉したとされている。 引用縄文中・後期の環境変化 ・中期後葉の東北地方南部では複式炉をともなう住居が現れ、中部地方とくに長野県などでは石敷の住居も現れる。 後期になると、地域によっては「柄鏡型」とよばれる入り口部分を外側に張り出した住居が出現する。円形のものも続き、 方形に近い住居跡も復活する。 晩期になると、柄鏡部分がつぶれて短くなる構造に変化する。 引用竪穴式住居wikipedia 各地の複式炉 複式炉は、北陸から東北地方まで、関東・中部高地を含まず、広い範囲に分布していた。この広範囲には、同じ民族、同じ文化を持つ人々が 住んでいた。
考察 勝手な妄想です 複式炉の目的は、 縄文時代中期前半は温暖期で、海水面が現在より数m高く、現在よりも温暖化が進んでいました。とても暑かったのです。 しかし、中期後半になると気温が低下を始め、植生や動物相が変化をはじめます。高温に慣れた人には寒冷化と感じたはずです。 複式炉は、縄文中期の前半の一時だけ大流行し、その後すたれてしまった。大型炉が温暖な気候下で流行し、寒冷期になると消滅するのは おかしい。 複式炉は、気候や生活とは関係なく、別の目的で利用されたのではないでしょうか。 縄文人を祖先に持つアイヌでは、死者をミイラにする習慣があった。私には、炉の形があぐらをかいて座った人物を後ろに倒した形に見える。 つまり、火を燃やして、炉に熱い灰を作っておき、その上に死体を横たえて乾燥させた。頭部など乾燥しにくい部分には埋甕があり、甕の中に 赤熱した炭を入れて熱い灰を掛けておくと効果的に乾燥することができたのではないかと思う。 なぜ、後期になると、すたれたのだろうか。 後期は気候が寒冷化し食料需給が困難になった時代。縄文人は中期まで大家族で暮らしていたが、獲物が減少し、全員をまかなえなくなり、 集落は分散し、核家族で生計を立てるようになった。つまり、餓死者はごろごろと出て、のんびり、人の干物を作ってる余裕はなくなったのだ。 弱者は見捨てられ、働ける若者が生きていくのが精いっぱいの時代となったため、無用な習慣は切り捨てられたからではないでしょうか。 |
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56遠くから運ばれたもの
考察 勝手な妄想 交易の対価 縄文人にとって必需品である石器石材や、接着剤のアスファルト、儀式に必要な装身具などを、どのように入手したのだろうか。 産地まで取りに行っても、そこはもう別の部族によって仕切られており、おいそれと持ち出すことはできなかったであろう。 以前、どこかで、縄文時代は定住社会と言われているが、定住者は半分、あとの半分は遊動者であったろうと、聞いたことがある。 実際、縄文人の激しい交流や移住、は絶え間ない遊動者の移動があり、手ぶらで移動することはできず、軽い威信材(宝飾品)や、 生活必需品(貴重品・石材) などを携えることによって、交流ができ、そうでなければ食料泥棒として追い立てられたであろう。狩猟民族は狩場テリトリーをもち、 他者の無断狩猟を許さない。 ある文献では、石材が、村から村へとリレーのようにしてゆっくりと伝わったかのように書かれていたが、それでは膨大な時間を必要とする。 冬の狩猟の季節の前には、消耗品である、石鏃とアスファルトがなければ次の年に村人は飢え死にするだろう。 つまり、このような要求に応えて、切望される必需品を持ち歩き、食料を得るとともに、次の交易・行商品を得るための高価値のものと交換した のでないか。そう思うようになりました。 ではそれが何であったのか。それはいろいろ考えられるがわからない。 ただ、どこかの黒曜石産地の集落跡から、各地の威信材等珍しいものが沢山出てきたという話を聞いたことがある。そのようなものもあったのでしょう。 残りにくい物もあったでしょうし、食料をはじめとする有機物は、想像するほかはない。 |
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60縄文人 三貫地貝塚人骨と複顔A4 61縄文人 縄文人は、今の日本人の祖先と考えられます。 しかし、顔つきなどは少し現代人とは異なっていたようです。 顔の幅は広く、寸詰まりで彫の深い顔をしており、上下の前歯が奥歯のように咬み合うのも特徴の一つです。 歯は現代人に比べて著しく磨り減っています。 怪我や病気の痕跡が骨にみられることもあります。 石鏃が骨に刺さったまま痛みをこらえて働いた三貫地貝塚の男性の骨は、当時の厳しい生活を物語っています。 ※寸詰まり 縄文人の顔を表現するときによく使われます。コピペでしょうか。しかし、全く意味がわかりません。不適切な言葉です。死語です。 細長くない。丸顔、四角顔の意味です。「顔の幅は広くて縦は短く、彫の深い顔」と書けばよい。意味を咀嚼せずに表現を流用したようです。 |
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70a信仰と墓地 |
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71石棒 田村市前田遺跡 -敷石住居の石棒祭祀- 縄文中期 環状列石、敷石住居、炉跡 環状列石に隣接して、床面に扁平な石を敷き詰めた敷石住居がある。この住居の隅には石棒が立てられており、祭壇状の施設と考えられている。 人々はこの立石を対象とし、大いなる自然の恵みと死者の再生を祈る屋内祭祀を盛んに行っていたのであろう。
環状列石に隣接した敷石建物は祭祀施設。もしや、死体を風葬する場で、環状列石には遺骸の一部を埋葬したのではないか。 一体分の土壙墓は環状列石に大きすぎるから。 環状列石 (墓地遺跡) に隣接した祭祀遺跡なら、そこで何をしたのか。特殊な石敷きは、何が目的か。 弥生時代なら風葬だが、縄文時代では違うかな。もし風葬なら、石の間に小骨が落ちていただろう。って、溶けたかな。 |
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72人面付き石製品・土偶 注意人面付石製品は、石棒と勘違いして撮影しています。隠れている端部に人面が彫刻されています。 正しい画像はリンク画像をご覧ください。
※2土偶 新美術情報2017 リンクは、ネット上で最も簡潔で詳細に「土偶」についてまとめた文章です。消えないうちに保存しておきましょう。 土偶の型式変遷図 土偶は草創期13000年前から弥生時代中期まで作り続けられた。全て同じ目的で作られたとは言えない。 第1章 土偶のかたち @出現期の土偶と祭祀のかたち A立像土偶の出現と祭祀のかたち 第2章 土偶芸術のきわみ @土偶祭祀のかたちの多様化 Aその他の土偶 これまで知らなかった土偶への知識が、たいへん詳しく説明されています。ぜひ、こちらから先に、読んでください。 |
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73三貫地貝塚人骨・犬骨埋葬状況 貝塚からは100体以上の人骨が出土しました。この模型は、埋葬状態の一部を復元したものです。一度葬った人の頭骨13個を円形に並べ、 手足の骨を中央に集めた極めて珍しい埋葬例が発見されています。 手足を折り曲げて葬られている屈葬男性人骨のそばからは、犬の骨が出土しました。柴犬に似た縄文犬は狩りなどに役立つため、飼われてい ました。 |
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74三貫地貝塚人骨発掘図 |
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ポイント展 100縄文人の植物利用 -三島町荒屋敷遺跡の植物素材製品- 縄文晩期 三島町荒屋敷遺跡は縄文時代晩期後半(2400年前)の遺跡です。 低湿地だったため、縄文時代の木製品や繊維製品、漆製品などが腐らずに水浸け状態で出土した珍しい遺跡です。 植物繊維を用いた縄は、「縄文」の由来の通り伝統的に土器施文に用いられましたが、それ以外にも生活のあらゆる場面での結縛に活用されて いたでしょう。 籠状の編組製品は細い竹を使用して作られ、用途に合わせて編み方を工夫し、大小様々な形の物を作っています。 木製品は、刳物 (くりもの) にはトチノキ、 弓にはマユミ、斧柄にはフサザクラ、柱にはクリというように、植物の特性を熟知して道具や建材を作っていました。 このような縄文人の技術と知恵が数千年にわたって地域で受け継がれ、現代まで繋がってきたと言えるでしょう。 |
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101漆 |
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102panel |
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103土器 |
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107植物図鑑 ウルシ 原産地はヒマラヤとされています。日本には縄文時代以前に渡来していたようです。幹を傷付けると白い樹液が出ます。 これを集めて炭やベンガラを混ぜて色を付け、器や樹皮で作った器に塗ったものが漆器です。強度を増したり、防水効果があります。 日本では約8千年前の縄文早期から漆製品が作られていました。 挿入 情報 ※鳥浜貝塚発見のウルシの枝は、2012年に、1万2600年前との結論が出ました。また、鳥浜貝塚からは、6000年前の漆製品も出ました。 石川県三引遺跡の赤漆塗竪櫛 (7200年前) 鳥取県夫手遺跡の漆液容器 (6800年前) 青森県野辺地町歴史民俗資料館 貝殻象嵌木胎漆器(縄文前期6000-5000年前)などが見つかっています。 引用NHK「日曜美術館 漆 ジャパン12000年の物語」 2017.07.30放送 2017.8.16書き加え ※漆は種実で増え、種はロウを多く含むためよく燃え、灯りとなる。12600年前以前に、(旧石器ということになる)誰かが中国大陸から種で 持ち込んだようです。当然、漆技術も持っていただろうと、想像できます。 なぜなら、漆はひどくかぶれるため、よくその特性を知った人以外は触らない、嫌うものです。あえて持ち込むのはそういう人です。 ※リンクの漆かぶれは軽度です。本当は、何日か寝込んだり、うで・足・顔がパンパンに腫れ、猛烈な痒みと発熱に襲われる。 挿入情報終了 縄文時代の漆製品(↓写真)
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110植物利用2 |
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114植物製品
斧柄は、関西では樫の木が一般的だが、北陸地方ではヤブツバキを用いることがあり、風土に合った、粘りのある硬い木を用いたようです。 ここでは、フサザクラ材 会津では近年まで使われていた。※は、斧の柄の材として、樫の木、ではなく、フサザクラが、であって、石斧が使われていたのではありません。 |
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118編み物 植物図鑑
弓 |
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弥生時代 以下次回へ |