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 東北の縄文1   14  2016.10.16-3 14

   福島県立博物館1/2 (旧石器・縄文編) 福島県会津若松市 城東町1-25 0242(28)6000 月曜休館 撮影可

  交通  福島駅から、まちなか周遊バス「ハイカラさん」にて約20分 三の丸口下車  30分間隔
                           「赤べえ」は逆回りで随分時間がかかります。ご注意を!

  見所  膨大な考古資料があり、全て撮影するには半日かかります。 私は古墳時代までしか撮影していません。

      福島県立博物館1(旧石器・縄文編)
      福島県立博物館2(弥生・古代編)
 




 (旧石器・縄文編 目次)

01外観

T原始 A

 旧石器時代

10福島県最古の人間
12福島県最古の人間
13旧石器時代の石器

20氷河時代の生活
21氷河時代
22石器製作技法
23氷河時代の生活

30最終氷期後半の環境
33気候環境


ポイント展 

34石器に用いられた石
 篠山原No.16遺跡の石器
 
 縄文時代

40環境の変化と生業
41生業
42大畑貝塚
43三貫地貝塚骨角器
参考 三貫地縄文人のゲノム解析
47製塩土器
48石器

50縄文のムラ (塩沢上原A遺跡)
51住居
52土器
53石器
55複式炉
   複式炉の年代
   各地の複式炉

考察 複式炉の目的

56遠くから運ばれたもの

考察 交易の対価

60縄文人
61三貫地貝塚人骨と複顔

70a信仰と墓地
71石棒
72人面付石製品・土偶

   福島県の土偶
   土偶 新美術情報2017

73三貫地貝塚人骨・犬骨埋葬状況
74三貫地貝塚人骨発掘図


ポイント展

100縄文人の植物利用
101漆
103土器
07植物図鑑

110植物利用2
114植物製品
118編み物


 (弥生・古代編 目次)

 弥生時代

120稲作開始
121稲の来た道
※コメ作りを始めた頃の土器

125西日本の弥生前期土器
   天王山式土器
※弥生時代後期の土器

130稲作の開始
136石包丁
  コメ作りと石の道具
※石包丁が出土した遺跡

140再葬の墓
141墓料遺跡
142いろいな墓形式
143甕棺
144油田遺跡の再葬墓

 
 
U古代

210古墳時代

211会津大塚古墳
  福島における古墳時代の始まり
  会津大塚山古墳

212会津大塚古墳副葬品
213田村山古墳
  ※1森北1号墳

230群集する古墳
231原山1号墳人物埴輪
232古墳時代中期
  原山1号墳

 古墳時代後期
233群集する古墳
  陶棺
234大塚古墳 副葬品
235勿来金冠古墳 鎧

 240ムラの暮らし
242かまど以前
244かまど以後

248祭祀用模造品


 古代

250陸奥国の成立
251国衙
252製鉄遺構
253製鉄
  相馬地方の製鉄の終わり

254鋳造遺跡


V収蔵庫からこんにちは

310原山1号墳 五世紀末
312埴輪
315埴輪の部品
330中島村
331四穂田遺跡の短甲

 01外観
広大な会津若松城の中にある、 とても大きな博物館です。 入口はかなり地味ですが、 しょっぱなからタイムトンネルが待っていました
双葉町清戸迫第76号横穴墓の壁画が再現されています

 T原始 A

  旧石器時代  AとかA1とかは博物館内の通し番号です


 10福島県最古の人間 A1

 12福島県最古の人間  平林遺跡の石器

  平林遺跡 後期旧石器時代初頭 約3万年前
  最古の人間
   旧石器時代人が県内にはじめて住んだのは桑折町平林遺跡です。石器を使い、今では絶滅した動物を狩っていました。
   石器には、流紋岩を石材として、楔形石器(クサビとして用いる道具)、スクレイパー(物を掻き取る道具)などの石器が出土しています。引用

   土器や弓矢を使い始めた縄文時代人は、約8000年にわたって塩沢上原A遺跡など多くの集落を営み、木の実・獣・魚などを食料にしていました。
   弥生時代になると、稲作が始まり、桜井遺跡などの村々に広まり、村の中から有力者が成長しました。(って、もう弥生まで行っちまった。)

最古の人間 旧石器時代 人類史 人類の進化と脳量 人類と道具の進化
平林遺跡 平林遺跡
石器出土状況後期旧石器/初頭
遺跡断面 福島県最古の人類平林遺跡/
後期旧石器時代初頭
新人の起源人類単一起源説 平林遺跡出土石器
ピエス・エスキーユ、
スクレイパー
切出様石器
ピエス・エスキーユ
(楔形石器)
スクレイパー
(削器・掻器・箆状石器)
切出様石器
(関東地方に分布する)
岩宿遺跡からも出土
関東地方における切出形石器を伴う石器文化の様相
全人類のDNA分析の結果
人類はアフリカで生まれ、世界各地へ分散する中で
変異を繰り返し、多くの人種が生まれた。

世界の常識だが、中国・台湾では、中国人は北京原人から生まれたと今も教育している。 非科学で自らを誇ろうとの国策である。

  ピエス・エスキーユ: 楔形石器とも呼ばれるピエス・エスキーユは、タガネのようにハンマーと対象物との間におかれた間接具と考えられています。
                                                                    引用 みかた遺跡展示室縄文時代の石の道具

13旧石器時代の石器
谷地前C遺跡出土 磨石 敲石 ナイフ形石器
彫刻刀形石器
石錐
塩坪遺跡出土石器1万4000年前 エンドスクレイパー(掻器)
彫刻刀形石器
ナイフ形石器
エンドスクレイパー

  スクレイパー: 皮なめしのほか、木や骨を削ったり、獣の肉を切ったり、まさに多目的な利器であったと考えられています。
  切出様石器: 切出形ナイフ形石器   引用縄文時代の石器




 20氷河時代の生活 A2


 21氷河時代

 22石器製作技法
氷河時代の生活 塩坪遺跡出土礫群 石器製作技法 間接打法・直接打法 手で保持した間接打法 長柄T型剥離具使用の押圧剥離
無柄加圧器使用の押圧剥離
木切れを使った直接打法
石刃技法 @材料選定、    
A打面を作る、   
B作業面に稜を作る
C打面を細かく整える、 
D稜線に沿って石刃を剥ぐ、
E打点を横移動して自然面付きの石刃を剥ぐ

F更に石刃を剥ぐ、
G打面を作りなおす
H打面を整える   

石刃を加工する

彫刻刀形石器=細長い面を作りだす
ナイフ形石器=刃潰しを加える
掻器=先端に丸い刃をつける


 23氷河時代の生活

  塩坪遺跡 1万4000年前 後期旧石器時代 (喜多方市)

  氷河時代の人々は主に台地や河岸段丘の上など、安全で便利な場所に住み、定住はせず、移動しながら石器で狩りをし、動物の解体などを
  していました。

  代表的な道具に、ナイフ形石器、石片の先端に丸い刃を付けた掻器(エンドスクレイパー)、細長い刃をもつ彫刻刀形石器などがあります。

 塩坪遺跡出土礫群
  遺跡からまとまって出土する河原石は礫群です。石は赤く焼けていたり、細かくはじけていたりします。旧石器人はこの石を使って焼いたり
  煮たりしました。
  旧石器人は一年を通じて回遊する大型獣を狩猟するため、定期的な移動を繰り返していました。

氷河時代の生活 塩坪遺跡出土礫群1万4000年前の
焼き石料理の痕跡
塩坪遺跡出土礫群 肉を切った石器の使用痕
と未使用の石器

発掘された旧石器時代の石器
会津若松市篠山原No.8遺跡
石器を作る道具と材料 材料頁岩(寒河江市産)と
黒曜石(和田峠産)
道具鹿角、敲石/塩坪遺跡谷地前C遺跡 石刃技法接合資料 後期旧石器時代 (1万4千年前)
喜多方市 塩坪遺跡

 塩坪遺跡出土石器 後期旧石器時代 約17000年前

  塩坪遺跡は後期旧石器時代の福島県を代表する遺跡です。ナイフ形石器、エンド・スクレーパー、彫刻刀形石器などとともに、
  当時の調理施設と考えられる「礫群(れきぐん)」が検出されています。年代が違っているので引用しました。




 30最終氷期 後半の環境A3

 33気候環境
  旧石器時代には氷期と間氷期が繰り返し、約2万年前の再寒冷期には、気温が5〜7℃低く、海水面は100mから140m低下していました。
  寒冷化で、針葉樹林帯が低地にまで降り、ナウマン象やオオツノジカなどの絶滅大形獣が狩りの対象となっていました。

  火山活動も活発で、AT層、約24,000年前に爆発した姶良カルデラから噴出した火山灰が福島県下でも確認されています。 引用

最寒冷期の気候 針葉樹林北海道日勝峠 針葉樹林帯の
ナウマンゾウ針葉樹林の中で生息するゾウとは、すごいね。
食べ物は何だろう。
法正尻土層と花粉分析
福島県磐梯町
4.5万〜3万年前の樹層
ケヤキ・トネリコ・スギ
ブナ・ナラ・シラカンバ

3万〜1万年前の樹層
エゾマツ・カラマツ・シラカンバ
AT層前後の植生変化シラカンバ・モミ

ツガ・カラマツ・マツ
火山灰土層断面
二本松市永田四丁目地内
軽石層 姶良火山灰層 (AT層)鹿児島湾から、東北まで飛んできたAT層が、
こんなに遠くても、まだ厚みがある。
火山灰土層断面
黒色・軟質火山灰層膨大な量を噴出したんですね。




  ポイント展

 34石器に用いられた石 笹山原16遺跡 3万〜2.8万年前
  打製石器の材料には薄く割れやすく、縁辺が鋭くなるものが選ばれます。篠山原No.16遺跡の石材には硅質頁岩凝灰質頁岩が多数を占めます。

  硅質頁岩は、東北地方では、旧石器から縄文にかけて多用された石材ですが、会津地方では産出しません。山形県や新潟県北部産と推定されます。

  凝灰質頁岩は白味がかった地元産の石材です。

  旧石器人は狩猟動物群の行動に応じて頻繁に移動する遊動生活をしていました。移動には、石器材料も携行したでしょうが、移動先での調達も
  生じます。不足の状況に応じて遺跡ごとの石材の割合も異なりました

  篠山原No.16遺跡では、山形県や新潟県北部産の硅質頁岩や長野県産の黒曜石などが出土しており、旧石器人の移動範囲の広さがわかります。


  篠山原No.16遺跡は、猪苗代湖西岸の後期旧石器時代遺跡です。特に後期旧石器時代前半の遺跡が密集しています。
  No.16遺跡は郡山女子大学短期大学部 (越中山K遺跡の石器を独占所有しているというところ) が継続調査中。実年代は3万年〜2.8万年前

  中山k遺跡は、瀬戸内式の石器技術を持った人々が、日本海側を北上し、山形県酒田市に辿りついて営んだ西日本人の遺跡です。

石器に用いられた石
笹山原No.16遺跡の石器
3万〜2.8万年前
笹山原No.16遺跡 黒曜石栃木県高原山産、
信州産
硅質頁岩ナイフ形石器
台形様石器
ナイフ形石器
台形様石器
剥片
第3石器集中区出土
水晶玉髄
鉄石英流紋岩
凝灰岩と石刃
凝灰質頁岩 凝灰質頁岩ナイフ形石器
台形様石器
石刃
剥片接合見本 凝灰質系の頁岩・砂岩は、石油を貯留する岩石です。

  石器集中区は、旧石器時代の住居跡のことです。










 縄文時代





 40環境の変化と生業A4
  1万年前、氷期が終わり温暖化し、広葉樹が繁り、小動物が多くなりました。それに応じて人々の生活も変わり縄文時代が始まりました。
  人々は弓矢を使って猪や鹿を追い、海や川では貝や魚を取って暮らしていました。

  トチやクルミなどの木の実も重要な食糧でした。この頃から土器が使われ、食料を煮炊きすることが出来るようになりました。
  土器は様々な文様で飾られました。


  41生業
/縄文時代
埼玉県寿能遺跡
環境の変化と生業
クルミ/縄文早期/石皿
田村市/富作遺跡
下郷町/大松川上遺跡

クルミ/晩期/荒屋敷遺跡

トチの実/縄文晩期
三島間町/荒屋敷遺跡

トチの実/後期
会津坂下町/松原遺跡


石鏃
尖頭器 磨石・くぼみ石
中期/塩沢上原A

 富作遺跡出土 尖底深鉢 縄文時代早期 約8,000年前

  住居跡から出土した縄文早期(常世1式約8,000年前)の土器です。常世1式は喜多方市常世原田遺跡が標式遺跡。
  この頃の土器の種類は底の尖った深鉢だけです。器厚が薄く、砲弾形で底部に乳首状の突起が付く特徴があります。
  文様は放射肋をもつ貝殻の縁を押し付けたり、引きずったりして施されています。口径24.1cm、高32.3cm。


 42大畑貝塚
  縄文時代後期初頭(今から3,800年前)の遺跡。アサリやサザエなどが主体ですが、貝の間にはタイなどの魚やシカの骨なども見られます。引用

大畑貝塚貝層断面 固定銛装着復元
離頭銛装着復元
固定銛・離頭銛

 43三貫地貝塚骨角器 縄文後期〜晩期

 大畑貝塚の離頭銛や、三貫地貝塚の、組合せ式ヤスや、組合せ式でない釣針、など、北方系民族の道具です。

弭状角製品/刺突具/逆刺 ヤス 組合せ式ヤス/釣針
弭状角製品
各種刺突具/
逆刺(かえり)
釣り針
三貫地貝塚出土
骨角製品

猪・鹿/後期〜晩期

フナ・トラフグ・クロダイ・ウナギ
(ゆはず)
弭状角製品
(ゆはずじょう)
とは、弓の両端で、弦(つる)をかける
(張る)部分

 参考

 三貫地貝塚出土縄文人のゲノム解析
  近年、百体以上の人骨が出土し、その歯根部から取り出したDNAの解析が行われました。2016年に実施

  参考資料「縄文人ゲノム解読 私たちのルーツは」
  『縄文人の核ゲノム配列をはじめて決定・・  縄文人の核ゲノムから歴史を読み解く 神澤秀明  「縄文人ゲノム解読 私たちのルーツは」
  三貫地貝塚 縄文人ゲノム解読 私たちのルーツは  縄文人のDNA 現代人に伝わったのは「15%」1万5000年以前に出現か
  「東ユーラシア人の中で最初に分岐したのは縄文人だった」  


 分析から分かったこと
  縄文人はアイヌ人にもっとも近く、ついでオキナワ人、そしてヤマト人(アイヌ人とオキナワ人を除く日本列島人)に近縁であることが明らか
  になりました。

  さらに、縄文人は、現代人の祖先がアフリカから東ユーラシア(東アジアと東南アジア)に移り住んだ頃、もっとも早く分岐した古い系統であること、
  そして、現代の本土日本人に伝えられた縄文人ゲノムの割合は15%程度であることが明らかになりました。

  転載縄文人の核ゲノム配列をはじめて決定

  これらミトコンドリアDNAからの情報は、以前の知識の上書きでした。N9b とM7a2 というのも知られていました。ほぼ新しいことはなかった。






 47製塩土器 塩づくりの始まり  晩期

  製塩は縄文後期末に関東地方で始まり、晩期には青森県から福島県沿岸域にかけての東北地方にも広がりました。
  縄文の製塩法は、濃縮した海水を土器で煮詰めて塩を得ることから「土器製塩」と呼び、用いる土器を「製塩土器」と呼びます。

  製塩土器は、塩づくり専用の土器として、無文、薄手の深鉢形で激しく加熱されることや、内部に浸みた塩分の結晶化による器表面の剥落が
  顕著で色調が複雑なことが特徴的です。一度使うと壊れるため、製塩作業地 (製塩遺跡) では、製塩土器片が集積して出土することがあります。

福島県における縄文時代の製塩土器出土地三貫地貝塚・藤堂塚遺跡
浦尻貝塚・寺脇貝塚
福島県における縄文時代の製塩土器出土地 塩づくりのはじまり 製塩土器
三貫地貝塚/晩期
製塩土器
浦尻貝塚/晩期



 48石器 後〜晩期

・磨製石斧/南原遺跡
・打製石斧
石箆・独鈷石/南原遺跡

独鈷石は後晩期の中部地方に多いが東北まで拡散している
・石錐
.・石錘/南原遺跡/晩期
・土錘/三貫地遺跡
後期〜晩期
石匙・スクレイパー





 50縄文のムラA5 塩沢上原A遺跡 中期中葉〜後葉

 縄文時代には次第に人口も増加し、人々は定住しました。水の便や日当たりのよい台地の上に竪穴式住居を造り、ムラの中には広場を設けました。
 広場では祭りや共同作業が行われていました。住居の近くには食料の貯蔵穴などもつくられ、ムラのゴミ捨て場の一部は貝塚となりました。

 ムラ同志の交流も盛んで、物々交換が行われ、遠く長野県の黒曜石なども運ばれてきています。

 51住居
   縄文時代中期中頃〜後半頃(4700〜4,200年前)の住居を復元したものです。
  二本松市塩沢上原A遺跡(しおざわうわはら)の発掘調査のデータを基にして復元しました。住居の中央には「複式炉」が設置されています
復元住居 住居内 複式炉甕が二つも埋け込まれた複式炉です

  52塩沢上原A遺跡の土器 縄文中期末葉 大木10式期 二本松市上原

縄文のムラ 塩沢上原A遺跡/中期
4200-4000年前/二本松市S字状区画文が特徴
塩沢上原A遺跡土器
大木10式土器
大木10式は
   縄文中期後葉末
大木式土器の編年
縄文土器編年の標識 大木囲貝塚出土の土器 - 東北大学総合学術博物館

  53塩沢上原A遺跡の石器  ここには縄文時代の大集落が、未だ、眠っているそうです。いつか発掘される時を待っているようです。


土偶・土製品・
円盤状土製品
石鏃 打製石斧・石錘・石匙
石皿磨石・磨製石斧




  55複式炉

   前期に入ると,住居内に炉をもつことが一般的となり,さまざまな形態をもつ炉がつくられるようになる。特に、
   中期は炉の発達が著しく,
      床を掘りくぼめただけの地床炉(じどころ)、 
      深鉢形土器を埋め込んだ埋甕炉(うめがめろ)、 
      河原石をめぐらした石囲炉
      土器と石囲を組み合わせた石囲埋甕炉、  
      炉が二つの構造からなる複式炉と呼ばれる特異な炉などがつくられ,

   竪穴住居内の炉が生活のうえで重要な役割を果たしたことをうかがわせている。引用コトバンク複式炉

                                                           
 複式炉の年代
 ・複式炉は,東北地方南部を中心に形成され,縄文中. 期末の大木 8b式土器の後半に出現し,大木 10 式土器. の後半に終焉したとされている。
      引用縄文中・後期の環境変化
 ・中期後葉の東北地方南部では複式炉をともなう住居が現れ中部地方とくに長野県などでは石敷の住居も現れる。
   後期になると、地域によっては「柄鏡型」とよばれる入り口部分を外側に張り出した住居が出現する。円形のものも続き、
   方形に近い住居跡も復活する。
   晩期になると、柄鏡部分がつぶれて短くなる構造に変化する。 引用竪穴式住居wikipedia


 各地の複式炉
  複式炉は、北陸から東北地方まで、関東・中部高地を含まず、広い範囲に分布していた。この広範囲には、同じ民族、同じ文化を持つ人々が
  住んでいた。

複式炉の分布域 北陸の分布 東日本の分布 関東・北陸の分布 東北の分布 東北北部の分布
秋田県内村遺跡 山形県小林遺跡 富山県二ツ塚遺跡 新潟県沖ノ原遺跡 岩手県観音堂遺跡 宮城県大梁川遺跡

栃木県槻沢遺跡

飯館村日向遺跡
西会津町上小島遺跡

 考察 勝手な妄想です

 複式炉の目的は、
   縄文時代中期前半は温暖期で、海水面が現在より数m高く、現在よりも温暖化が進んでいました。とても暑かったのです。
   しかし、中期後半になると気温が低下を始め、植生や動物相が変化をはじめます。高温に慣れた人には寒冷化と感じたはずです。

   複式炉は、縄文中期の前半の一時だけ大流行し、その後すたれてしまった。大型炉が温暖な気候下で流行し、寒冷期になると消滅するのは
   おかしい。
   複式炉は、気候や生活とは関係なく、別の目的で利用されたのではないでしょうか。

   縄文人を祖先に持つアイヌでは、死者をミイラにする習慣があった。私には、炉の形があぐらをかいて座った人物を後ろに倒した形に見える。

   つまり、火を燃やして、炉に熱い灰を作っておき、その上に死体を横たえて乾燥させた。頭部など乾燥しにくい部分には埋甕があり、甕の中に
   赤熱した炭を入れて熱い灰を掛けておくと効果的に乾燥することができたのではないかと思う。

 なぜ、後期になると、すたれたのだろうか。 
   後期は気候が寒冷化し食料需給が困難になった時代。縄文人は中期まで大家族で暮らしていたが、獲物が減少し、全員をまかなえなくなり、
   集落は分散し、核家族で生計を立てるようになった。つまり、餓死者はごろごろと出て、のんびり、人の干物を作ってる余裕はなくなったのだ。

   弱者は見捨てられ、働ける若者が生きていくのが精いっぱいの時代となったため、無用な習慣は切り捨てられたからではないでしょうか。




 56遠くから運ばれたもの

福島に運ばれたもの アスファルトは秋田県
豊川油田/槻木遺跡から
ヒスイは富山県
黒曜石長野県星ヶ塔
橋立硬玉原産地
小滝硬玉原産地
福島県中通りの遺跡
ヒスイ・硬玉原産地
黒曜石原産地
橋立、小滝
和田峠・霧ケ峰・浅間
黒曜石原産地箱根・天城・神津島 アスファルト原産地
山形県湯の台
黒曜石原産地
長野県和田峠
硬玉原産地
新潟県姫川

黒曜石製品
アスファルト
玉製品

・和田峠産黒曜石
・黒曜石製石器/早期

・アスファルトの付着した骨角器/三貫地貝塚
/後期〜晩期
・アスファルト付着の土器
国見町川原遺跡/後期

・現在のアスファルト/新潟県産
・遺跡出土のアスファルト/新潟新発田市村尻遺跡
硬玉製大珠/縄文時代
硬玉原石
硬玉製大珠
・矢祭町縄文時代
・石川町七郎内C遺跡中期
・白河市町屋遺跡縄文時代
・喜多方市上林遺跡縄文時代

 考察 勝手な妄想

 交易の対価
  縄文人にとって必需品である石器石材や、接着剤のアスファルト、儀式に必要な装身具などを、どのように入手したのだろうか。
  産地まで取りに行っても、そこはもう別の部族によって仕切られており、おいそれと持ち出すことはできなかったであろう。

  以前、どこかで、縄文時代は定住社会と言われているが、定住者は半分、あとの半分は遊動者であったろうと、聞いたことがある。

  実際、縄文人の激しい交流や移住、は絶え間ない遊動者の移動があり、手ぶらで移動することはできず、軽い威信材(宝飾品)や、
  生活必需品(貴重品・石材)

  などを携えることによって、交流ができ、そうでなければ食料泥棒として追い立てられたであろう。狩猟民族は狩場テリトリーをもち、
  他者の無断狩猟を許さない。

  ある文献では、石材が、村から村へとリレーのようにしてゆっくりと伝わったかのように書かれていたが、それでは膨大な時間を必要とする。
  冬の狩猟の季節の前には、消耗品である、石鏃とアスファルトがなければ次の年に村人は飢え死にするだろう。

  つまり、このような要求に応えて、切望される必需品を持ち歩き、食料を得るとともに、次の交易・行商品を得るための高価値のものと交換した
  のでないか。そう思うようになりました。

  ではそれが何であったのか。それはいろいろ考えられるがわからない。

  ただ、どこかの黒曜石産地の集落跡から、各地の威信材等珍しいものが沢山出てきたという話を聞いたことがある。そのようなものもあったのでしょう。
  残りにくい物もあったでしょうし、食料をはじめとする有機物は、想像するほかはない。



 60縄文人 三貫地貝塚人骨と複顔A4

 61縄文人
   縄文人は、今の日本人の祖先と考えられます。 しかし、顔つきなどは少し現代人とは異なっていたようです。
   顔の幅は広く、寸詰まりで彫の深い顔をしており、上下の前歯が奥歯のように咬み合うのも特徴の一つです。
   歯は現代人に比べて著しく磨り減っています。

   怪我や病気の痕跡が骨にみられることもあります。
   石鏃が骨に刺さったまま痛みをこらえて働いた三貫地貝塚の男性の骨は、当時の厳しい生活を物語っています。

 ※寸詰まり
  縄文人の顔を表現するときによく使われます。コピペでしょうか。しかし、全く意味がわかりません。不適切な言葉です。死語です。
  細長くない。丸顔、四角顔の意味です。「顔の幅は広くて縦は短く、彫の深い顔」と書けばよい。意味を咀嚼せずに表現を流用したようです。

縄文人 石鏃の刺さった腰骨三貫地貝塚 骨盤に刺さった石鏃 骨盤に刺さった石鏃 咬み合わせの違い 縄文人と現代人

身長159cm/170.5cm
女性148cm/157cm
縄文生活では蹲踞姿勢が多く、脛骨が変形した 縄文男性の体形 縄文男女の上半身 尺骨・大腿骨・脛骨 現代人の全身骨
現代人男女 寿命の変化 縄文人の複顔 縄文女性頭蓋
復元された女性の顔について何も言えない。
アイヌや、琉球人、現代人をそれぞれ念頭にすれば、

それに近くなる。
 細かな違いは、骨からだけではわからない。
 かつて複顔で被害者を探せると考えたが、却って足枷になり迷宮入りしたことも多い。



 70a信仰と墓地

 71石棒 田村市前田遺跡

  -敷石住居の石棒祭祀-  縄文中期 環状列石、敷石住居、炉跡

  環状列石に隣接して、床面に扁平な石を敷き詰めた敷石住居がある。この住居の隅には石棒が立てられており、祭壇状の施設と考えられている。
  人々はこの立石を対象とし、大いなる自然の恵みと死者の再生を祈る屋内祭祀を盛んに行っていたのであろう。

A7信仰と墓地 石棒/縄文時代 田村市 金子平遺跡 立石を持つ敷石住居跡田村市 前田遺跡
縄文中期の住居跡
敷石住居の石棒祭祀  

  環状列石に隣接した敷石建物は祭祀施設。もしや、死体を風葬する場で、環状列石には遺骸の一部を埋葬したのではないか。
  一体分の土壙墓は環状列石に大きすぎるから。

  環状列石 (墓地遺跡) に隣接した祭祀遺跡なら、そこで何をしたのか。特殊な石敷きは、何が目的か。
  弥生時代なら風葬だが、縄文時代では違うかな。もし風葬なら、石の間に小骨が落ちていただろう。って、溶けたかな。


 72人面付き石製品・土偶

  注意人面付石製品は、石棒と勘違いして撮影しています。隠れている端部に人面が彫刻されています。
  正しい画像はリンク画像をご覧ください。


人面付石製品/
土偶頭部・胴部・脚部/
土偶


人面付石製品/縄文
いわき市 冷水遺跡
いわきの縄文T

・大きな耳飾りをつけた
 土偶/三貫地貝塚/縄文
・土偶
・髷を結った土偶/
     南原遺跡/晩期
  会津只見考古館からも
    同種の土偶が出土

土偶頭部・胴部・脚部
/
三貫地貝塚/縄文後期
結髪土偶 福島県博この土偶の詳細不明

三島町小和瀬遺跡
 大洞A式期/晩期
福島県の土偶 - 国立歴史民俗博物館学術情報
結髪土偶 蹲踞土偶福島市上岡遺跡 蹲踞土偶/晩期 ハート形土偶郡山市荒小路遺跡 ハート形土偶
後期前半の関東地方で多く作られた


 福島県の土偶 (国立歴史民俗博物館学術情報) を、垣間見ると、(もう、読む時間がない)、

 中期、大木7a式期からの土偶の変遷を図示している。

   縄文人の土偶製作は、次第に装飾に熱意を注ぎ始め、
   やがて、見事な魔除け、悪霊除けの文様を身に着けた土偶に発達する。

 後期になると
   一転、関東のハート形土偶が入り込む。 (これは非常に低レベルの造形。未発達な児童に多い表現)
   しかし、やがて元の東北土偶と、関東土偶を止揚した造形となり、蹲踞土偶、合掌土偶へと発達していく。

   従って、結髪土偶や蹲踞土偶は晩期の土偶です。 
土偶の変遷
土偶 新美術情報2017※2

※2土偶 新美術情報2017 リンクは、ネット上で最も簡潔で詳細に「土偶」についてまとめた文章です。消えないうちに保存しておきましょう。

  土偶の型式変遷図  土偶は草創期13000年前から弥生時代中期まで作り続けられた。全て同じ目的で作られたとは言えない。

   第1章 土偶のかたち    @出現期の土偶と祭祀のかたち A立像土偶の出現と祭祀のかたち
   第2章 土偶芸術のきわみ @土偶祭祀のかたちの多様化  Aその他の土偶

  これまで知らなかった土偶への知識が、たいへん詳しく説明されています。ぜひ、こちらから先に、読んでください。




 73三貫地貝塚人骨・犬骨埋葬状況
  貝塚からは100体以上の人骨が出土しました。この模型は、埋葬状態の一部を復元したものです。一度葬った人の頭骨13個を円形に並べ、
  手足の骨を中央に集めた極めて珍しい埋葬例が発見されています。

  手足を折り曲げて葬られている屈葬男性人骨のそばからは、犬の骨が出土しました。柴犬に似た縄文犬は狩りなどに役立つため、飼われてい
  ました。

三貫地貝塚出土人骨・
犬骨埋葬状況
人骨と犬骨と集骨 左上:犬骨 中央:人骨横たわった主人に寄り添うように埋葬された犬。

これは、殉死か追葬か
埋葬犬骨丁寧に主人の方を見ながら横たわる愛犬。
北方民族は犬を食べる
これは元居た縄文人の墓
集骨(集積埋葬)新しい死者を導いてくれるように、先祖の遺骨で儀式をしたのだろうか。先祖供養だろうか。  この墓地の様子は
富山県小竹貝塚と
そっくりです。
富山県埋蔵文@
富山県埋蔵文A

海洋狩猟民族ニブフでない縄文人の遺跡です。
  74三貫地貝塚人骨発掘図
人骨・犬骨発掘図 人骨・犬骨・集骨 人骨・集積埋葬 人骨・集積埋葬・犬骨  埋葬犬骨は確実であるが、

人骨の中には投げ捨てられたようなものや、動物等に荒らされたような人骨、

集積埋葬とはいえ、どこから集骨したのかなど、儀式かどうかが不明なものもあるように思う。





ポイント展

 100縄文人の植物利用 -三島町荒屋敷遺跡の植物素材製品- 縄文晩期

  三島町荒屋敷遺跡は縄文時代晩期後半(2400年前)の遺跡です。
  低湿地だったため、縄文時代の木製品や繊維製品、漆製品などが腐らずに水浸け状態で出土した珍しい遺跡です。

  植物繊維を用いた縄は、「縄文」の由来の通り伝統的に土器施文に用いられましたが、それ以外にも生活のあらゆる場面での結縛に活用されて
  いたでしょう。

  籠状の編組製品は細い竹を使用して作られ、用途に合わせて編み方を工夫し、大小様々な形の物を作っています。
  木製品は、刳物 (くりもの) にはトチノキ、

  弓にはマユミ斧柄にはフサザクラ柱にはクリというように、植物の特性を熟知して道具や建材を作っていました。
  このような縄文人の技術と知恵が数千年にわたって地域で受け継がれ、現代まで繋がってきたと言えるでしょう。


  101
  102panel
ポイント展
縄文人の植物利用-三島町荒屋敷遺跡の植物素材製品-
縄文人の植物利用
漆塗り櫛 漆塗り表面 斧柄
  103土器
漆塗り製品 漆を入れた土器 漆を入れた土器 漆塗り土器(向こう)
漆入れた土器(手前)
漆が付着した石皿
漆塗り石皿 四足の赤い浅鉢 漆が付着した石皿:左
四足の赤い浅鉢:右
漆塗り壺 漆塗り壺 漆塗り壺




 107植物図鑑

 ウルシ
   原産地はヒマラヤとされています。日本には縄文時代以前に渡来していたようです。幹を傷付けると白い樹液が出ます。
   これを集めて炭やベンガラを混ぜて色を付け、器や樹皮で作った器に塗ったものが漆器です。強度を増したり、防水効果があります。

   日本では約8千年前の縄文早期から漆製品が作られていました。


 挿入 情報
  鳥浜貝塚発見のウルシの枝は、2012年に、1万2600年前との結論が出ました。また、鳥浜貝塚からは、6000年前の漆製品も出ました。

    石川県三引遺跡の赤漆塗竪櫛 (7200年前) 鳥取県夫手遺跡の漆液容器 (6800年前)
    青森県野辺地町歴史民俗資料館 貝殻象嵌木胎漆器(縄文前期6000-5000年前)などが見つかっています。

    引用NHK「日曜美術館 漆 ジャパン12000年の物語」 2017.07.30放送  2017.8.16書き加え

  漆は種実で増え種はロウを多く含むためよく燃え、灯りとなる。12600年前以前に、(旧石器ということになる)誰かが中国大陸から種で
    持ち込んだようです。当然、漆技術も持っていただろうと、想像できます。

    なぜなら、漆はひどくかぶれるため、よくその特性を知った人以外は触らない、嫌うものです。あえて持ち込むのはそういう人です。

  ※リンクの漆かぶれは軽度です。本当は、何日か寝込んだり、うで・足・顔がパンパンに腫れ、猛烈な痒みと発熱に襲われる。
 挿入情報終了


 縄文時代の漆製品(↓写真)
  漆塗り糸玉 紐にいくつもの結び目をつくり、漆でコーティングしたもの。装飾品か、数を記録したものか、との見方がある。
  漆塗り櫛 木を組み合わせて原型をつくり、隙間を木屑を固めた充填剤で整形し漆塗りで仕上げています。
  上2点は赤、下1点は赤・黒に塗っています。
       
  編み布 漆を漉すための布。アンギン編
  漆塗りかんざし 木を削って原型を作り、漆塗り仕上げをしています。左右対称の髪飾りと考えられます。
  漆塗り製品 材質は不明。樹皮のような素材で成形し、赤漆塗り仕上げ。装飾品か。

ウルシ 漆製品 漆塗り糸玉
北海道・山形・新潟の
後晩期遺跡で検出
漆塗り櫛
木組みの原型に木くずを固めて充填し漆仕上げをした
編み布・漆塗りかんざし
・漆を漉すための布。アンギン編。
・かんざし。木を削って原型を作り、漆塗り仕上げ。折れているが、左右対称の髪飾り。
漆塗り製品
材質は不明。樹皮のような素材で成形し、赤漆塗り仕上げ。装飾品か。





  110植物利用2

 114植物製品
シダ類 荒屋敷遺跡からは植物を撚って作った縄類が出土していますが、何の植物かは不明です。三内丸山、富山県桜町、佐賀県東名遺跡では、
ワラビなどのシダ類を用いた縄が発見されています。
   
  稲わらがなく、カヤ(ススキ)は硬すぎて編めず、ガマは乾燥するとボロボロに崩れてしまう。
  8月頃のワラビの成体なら、固くて手ごろで、叩いて柔らかくし、縄になう (綯う) ことができたのでしょう。
トチノキ トチノキは日本各地の温帯や低山に生える落葉高木で、30m程の大木になります。葉は大きく、子どもたちが風車にして遊びます。
種子は径4cm位で晩秋に落ち、縄文人の食料でした。アクが強く、木灰によるアク抜きが必要です。(アク抜きはかなり手間がいる難物です)
トチ材は現在も汁椀やこね鉢に用いられます。荒屋敷出土の容器と未製品はトチノキでした。
フサザクラ 谷間の湿潤地に生える落葉高木。別名よきニレ(よき=斧)。  荒屋敷遺跡出土の斧柄8点中、フサザクラ4点、ブナ3点、ケヤキ1点。

シダ類 樹皮製品・繊維製品・縄 樹皮製品
樹皮をねじりながら輪にしています。用途不明

3本の紐を右撚りにした1段撚りの縄。土器文の縄文原体は2本2段撚りです。これは実用の縄です
繊維製品
樹皮を束ねた芯に糸を巻いた。端部に穴があるものもある
トチノキ

木製皿/トチノキ材
石による加工痕あり。出土地周囲で製作の模様。未製品も沢山見つかり、製作工程が究明された。
木製の皿とコップ木製コップ/栃材
内外共丁寧な仕上げ。内側底面は工具が届かず削り残しがある。
食槽
木製の大皿/栃材
フサザクラ 石斧の柄 石斧の柄/フサザクラ材
先端に石斧をはめ込み、上部にソケットを被せ、紐で縛った。会津では近年まで使われていた。※

  斧柄は、関西では樫の木が一般的だが、北陸地方ではヤブツバキを用いることがあり、風土に合った、粘りのある硬い木を用いたようです。
  ここでは、フサザクラ材

  会津では近年まで使われていた。※は、斧の柄の材として、樫の木、ではなく、フサザクラが、であって、石斧が使われていたのではありません。


  118編み物

 植物図鑑

クリ 暖帯林の落葉高木。40mにもなる。材は硬く、水にも腐りにくい。種実は大切な食糧です。荒屋敷遺跡を含む縄文住居の柱材はほぼクリ材です。
マユミ 野山にふつうにみられる落葉低木で、真弓といい、弓の材料です。強靭でしなやかで弓に適しています。
ササ・タケ類 編みカゴには、ササ・タケ類を裂いた素材を用います。アズマネザサは東日本に分布しよく用いられています。縄文時代にも用いたかもしれません。

   
編み物 編み物 編み物拡大写真 クリ
マユミ ササ・タケ類
材質はマユミ。五か所に補強らしき樹皮が巻かれている。 マユミは古代から現代まで弓の素材として用いられています。
左に同じ
編みカゴタケ類を素材にした。 編みカゴ網代編み」や「ゴザ目編み」という→ 編みカゴ編み方で編んでいます。





  弥生時代 以下次回へ