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 北陸の縄文と観光 環状木柱列を尋ねて16 2014.05.24(土)  2015.01.06再取材しました

   富山県埋蔵文化財センター  富山県富山市茶屋町206-3  076-434-2814 金曜日休館

交通   富山駅観光案内所で無料レンタサイクルを借りるのが一番です。北代縄文広場や富山市民俗民芸村考古資料館なども行けます。
  富山駅南にニコレンがあります。事前に予約必要です。   個人タクシーは安心ですが会社のタクシーはボッタくられました。ご注意を。
     
見所   小竹貝塚(縄文前期)の出土物 (人骨レプリカ等)。   境A遺跡の出土物 (縄文中期~晩期)。 シマフクロウの土器
  館の展示室は、博物館ではないのでたいへん小さく、展示物も少ないです。しかし、福井石川の博物館等はほぼ撮影禁止です。
  ですから、この館の展示物は北陸の縄文を知る上では大変貴重な公開遺物です。

遺物は、模写をしても、何時間眺めても何も理解できません。写真に撮ってじっくり観察し、あれこれ調べていろいろなことが勉強できます。
命のある限り日本中の博物館をめぐって勉強したいというのが、私のささやかな願いです。(笑)
     
きっと   小竹遺跡の膨大な出土物と大量の人骨は、日本の縄文史に重大な意味を持ち、今後の研究にも重要な遺物です。
  この遺跡のために大きな博物館が建設されるだろうと思います。期待しています。
     
反省   富山県では多くの館が写真撮影可ですが、あまり重要なものは展示されていないこともわかりました。(笑)
   
特集   日本海文化・富山の旧石器時代、旧石器から縄文時代へ、石器製作のムラ、祈りの世界、縄文の食生活、漆工芸、縄文の風習、ウッドサークル
    富山の土器編年改変  人骨から分かった小竹貝塚人 (ハプログループ)  越中の土器編年
 
 目次

03旧石器時代
 日本海文化・富山の旧石器時代
 旧石器文化の流れ
 富山の旧石器時代
 旧石器時代から縄文時代へ
05縄文時代
 石器製作のムラ
 祈りの世界
 縄文の食生活
 縄文の漆工芸
 縄文の風習
 環状木柱列 (ウッドサークル)
 富山の土器編年 (縄文中期)
11弥生時代
21古墳時代
22古代 (1400~800年前)  飛鳥・奈良・平安時代
23竪穴住居 

小竹貝塚

30小竹貝塚
31概要
32人骨
 人骨から分かった、小竹貝塚人 (ハプログループ)
 出土人骨の体格と寿命
32小竹貝塚の人骨2
33小竹貝塚剥ぎ取り標本と食生活
34越中の土器編年
3500小竹貝塚の土器について
 小竹貝塚の土器形式
3501小竹貝塚の土器
3502小竹貝塚の漆塗り土器
350小竹出土ミニチュア土器
 日本最古のイノシシ形土器
36小竹のアクセサリー
37小竹出土の道具


81北代遺跡
82越中地域考古資料


83境A遺跡
 境A遺跡の詳細


縄文時代中期中葉の土器
86シマフクロウの土器
87火焔土器のような土器
88双子角杯
88かくはい
89小型土器
 



 01富山埋蔵文化財センター 富山駅西側の呉羽丘陵中部にあり、丘陵北端には北代・小竹・蜆ヶ森などの遺跡が分布しています。

降雪地特有の広い道路 五月の北アルプスは残雪が美しい 公共施設の密集地域に埋文があります。 埋文入口には面白いオブジェがありました 旧石器時代
ウワダイラ遺跡城端町
西原C遺跡…城端町
縄文時代
小竹貝塚…富山市
境A・北代遺跡 朝日町
展示遺跡の場所でしょうか





 03旧石器時代 (3万年~1万5000年前)




   富山の旧石器時代 (参考文献)  考古学から見た富山市の歴史
    神通川右岸の船峅(ふなくら)台地と、市西部の呉羽(くれは)丘陵・射水(いみず)丘陵に60もの遺跡がある

旧石器時代とは 旧石器時代富山の旧石器
3万年~1万5000年前まで
南砺市ウワダイラ1遺跡
西原C遺跡
南砺市の近接した遺跡
縦長剥片石器 (北方系)

瀬戸内技法 (横長剥片)
の石器もあり、東西の文化が混在した

引用
局部磨製石斧

半島渡来のナウマンゾウなど大型動物の解体に使われたといわれる。
西原C遺跡 (立野ケ原遺跡群) の石器材料石器石材 西原C遺跡



日本海文化・富山の旧石器時代

 旧石器文化の流れ  (下に同一反復していますがご容赦ください)

後期旧石器時代
前半 立野ケ原石器群 (小型のナイフ形石器を主体とした文化) 福光町のウワダイラI遺跡やウワダイラL遣跡、立山町の白岩藪ノ上遺跡 
  後半 東西の石器文化圏が重なるようになる。
東日本の石器文化-石刃石器群 縦長剥片(石刃)が剥ぎ取られて、ナイフ形石器や掻器(エンド・スクレイパ-)などの石器が製作される
大沢野町の直坂Ⅰ遺跡や福光町の鉄砲谷遺跡
西日本の石器文化  瀬戸内系石器群 (国府型ナイフ形石器) とよばれ、横長の翼状の剥片石器 ナイフ形石器が製作される
大沢野町の直坂Ⅱ遺跡や小杉町の新造池A遺跡
     
終末期 (約l万5千年前) 狩猟用の槍先である木葉形の尖頭器が日本列島に広まります。 
福光町の立美遺跡などで黒曜石の優美なものが発掘されています


石器材料
立野ヶ原系石器群 碧玉(鉄石英)・玉髄(メノウ)
  瀬戸内系石器群 安山岩・下呂石、石刃系石器群(東山系・茂呂系など)が頁岩または濃飛流紋岩
尖頭器石器群 黒曜石・安山岩

石器文化の広がり
瀬戸内系石器群は、 福井県から長野・新潟県に
  杉久保系石器群は、 長野・新潟県から山形県に
東山系石器群は、 石川県から青森県にかけてひろがる
これは、旧石器時代から半島経由や北海道経由など、また、在地化した旧石器人がダイナミックに日本中を移動した証である。
特に、北陸地域は東西や南北の文化が交差する位置にあり(※1)、多様な人々の持つ文化が花開いたようだ。

引用 先史時代における『日本海文化』成立にかかわる石器石材環境の基礎的研究  富山県の旧石器
参考文献 「日本海の旧石器考古学―日本海をめぐる旧石器時代の交流―」


※1 旧石器・縄文時代を通じて東西南北の文化 (様々な文化を持った人々) が、北陸で交差することについては、
富山湾沖は、暖流系の対馬海流と寒流系のリマン海流がぶつかり、それぞれの海流に乗ってきた人々が上陸せざるを得ないからです。
また、東海地域からは飛騨山系を通り、神通川を下ると富山湾に出る。ただし、新潟方面との間には親不知子不知の断崖がある。
         資料01 02 03

陸上交通については、越中富山地域には西や南からの文化が沢山流入していることがよくわかります。
越後長岡地域との間に猟師の道や、交流の道があったのかはわかりません。断崖絶壁の交通の難所です。

ただ、長者ヶ原遺跡の、ヒスイや蛇紋岩のある沢は、海からでしか発見できない、入れない沢で、海上交通が盛んだったとわかります。
従って、当時、越中越後の交通は海上交通が一般的だったのではないでしょうか。




 富山の旧石器時代

 後期旧石器時代の 前半 には、富山地方には日本の他地域とは異なる文化、立野ヶ原石器群、が成立していた
   小型のナイフ形石器を主体とした文化で、福光町のウワダイラI遺跡やウワダイラL遣跡、立山町の白岩藪ノ上遺 跡などで発掘されています

     立野ヶ原型ナイフ形石器の製作技法
        大型剥片を石核素材とした米ヶ森技法的な剥離技術と打面を頻繁に転位させ、残核がサイコロ状を呈する剥離技術が用いられる
        つまり、後期旧石器時代前葉の秋田県を中心とする東北地方日本海側の「米ヶ森技法」と呼ばれる特徴的な剥片技法と、
             打ち欠く場所を変えながら製作する技法が使われている。

       引用 日本海学推進機構 2003年度「後期旧石器時代初頭における日本海沿岸地域の研究」 1.立野ヶ原石器群の剥離技術


 後期旧石器時代の 後半 には、
   東日本と、西日本の石器群が重なって見られるようになる。

     北方系の縦長剥片石刃 (石刃石器) を使う、
       大沢野町の直坂Ⅰ遺跡や福光町の鉄砲谷遺跡。直坂Ⅰ遺跡では調理跡の焼けた礫群が出土。

     瀬戸内系の横長の翼状剥片のナイフ形石器(国府型ナイフ形石器)は、
       大沢野町の直坂Ⅱ遺跡や小杉町の新造池A遺跡などで発掘されています。


 後期旧石器時代の 末期 には、
   最終氷期の最寒冷期 (2.1万年前) が訪れ、海水面が低下し、大陸と陸続きでした。
   局部磨製石斧
     渡来してくるナウマンゾウ等の大型動物を狩猟対象とし、北代・古沢遺跡出土の局部磨製石斧は、
     中国系の石器で、大型動物の解体に使われたと言われています。    引用 考古学から見た富山市の歴史

 後期旧石器時代の 終末期 (1万5千年前) には、
   木の葉形の尖頭器 (槍先形尖頭器) が日本中に広まり、
   福光町の立美遺跡などで黒曜石の優美なものが発掘されています。 黒曜石製は縄文時代のもの。石槍の呼び名は縄文時代から。

        引用 富山県の旧石器




 旧石器時代から縄文時代へ (1万5000年~1万年前)
この頃列島には、 細石刃有舌尖頭器大型の石斧(神子柴形石斧 を主体とする三つの石器群がめまぐるし<登場します。
   
細石刃 長さが2~3cmの小さな石刃で、細長い溝のきられた骨製の柄に何個もはめ込まれ、投げ槍のように使われたと考えらています。
有舌尖頭器 柄を装着するために舌状に作り出さ れた5~l0cmの長さの槍先です。日本最古の土器 (隆起線文土器) と共に出土します。
神子柴形石斧 短冊形で長さが 約20cm程度と大きく、刃部の磨き上げられた重量感のある石斧で、木材の伐採に用いられたと考えられています。
  この石器には神子柴型尖頭器とよばれるスリムで長大な槍先や特殊な砥石などが伴っており、
丸底で線状の模様がつけられた隆線文土器もみられます。

   





                                     富山の縄文時代 (参考文献)   考古学からみた富山市の歴史

 05縄文時代 (13,00~2,800年前)   富山の土器文化が顕著になるのは、早期 (1万年前) からのようです。

縄文時代とは 縄文時代
深鉢×3
片口・鍔付・釣手土器

深鉢×2、浅鉢

布尻遺跡

浅鉢の形状が素晴らしい
布尻遺跡
早期~晩期まで1万年続いた遺跡

土製円盤(副葬品死者の額に乗せる)、土偶
富山の縄文土偶のまつり

土偶

まが玉、大珠
石匙、石錐、石鏃
富山の草創期の遺跡
 桜町遺跡
  12,000~2,800
 臼谷岡ノ城北遺跡

縄文時代の土器

早期の土器
  深鉢形土器
  表面の模様は簡素
前期の土器
  浅鉢形土器登場
中期の土器
  釣手土器登場
  豪華な装飾

後期晩期
  壺・注口土器登場
  器面を磨いた土器 
桜峠遺跡 早期の
 回転押型文尖底土器
愛本新遺跡
 口唇にヤモリを装飾
 した深鉢型土器
井口遺跡
 イノシシ形注口土器

引用縄文時代<1> 


 石器製作のムラ
富山県東部には糸魚川方面から海流に乗って流れてくる蛇紋岩やヒスイを使った石斧や大珠などの製作工房のムラがありました。

 祈りの世界 土偶 石棒 御物石器 三角とう形土製品   引用祈りの世界
富山の土偶は南方系の、分割して豊穣を祈るもので、東北地方の様な大型土偶は発見されていません
しかし、長岡八町遺跡からは、9.5×9.5の土偶頭部、推定全長38㎝が出土しており、これは、県内・北陸最大級でした。引用長岡八町遺跡

石棒は一般的にムラの広場に立てられたり、村の入口にあったりもします。立山町の二ツ塚遺跡(中期)では住居の入口に立っていたそうです。

御物石器は、 使途不明のこの不思議な形の石器皇室に献上したためこの名が付きました。
  奥飛騨地方から北陸地方にかけて多く出土する。 縄文時代の呪術の道具。御物石器 独鈷石 青竜刀形石器などの異形石器
   
  三角とう形土製品(さんかくとうがたどせいひん)三角壔形土製品
  三角柱の一面は無文でこれを底面とし、他の面に模様を施した。穴の貫通した物などもある01 02

富山、新潟、石川、長野の縄文時代中期の文化の中に発生し、盛行し、周辺の関東、東北地方へひろまった…
 …何に使われたのだろう…用途は不明…何らかの呪い・マツリ・祭祀に関するもの
引用いたち川散歩北代遺跡の大きな謎小さな疑問


  縄文の食生活
    富山の多くの縄文遺跡は当時の海岸にあり、膨大な量の貝殻の残る貝塚の中にあった。 場所によって汽水・海水産の貝などを利用した。
    その他に陸産の獣骨、海獣骨、大型海生哺乳類などもあるが、しかし、これらについては発掘報告であまり触れられることがない。

  縄文の漆工芸
    中期桜町遺跡から口径20㎝の木製漆塗りの片口鉢や、南太閤山I遺跡(前期)から漆塗りヒョウタン容器が出土。
    福井県若狭の鳥浜貝塚からも漆器が出土していることから、大陸の漆器文化を持った人々が島根・若狭などへきたようだ。

  縄文の風習
    屈葬や石抱葬。同じ土坑に葬り、前の被葬者の骨を横に片づけて新たに埋葬した痕跡があった。が抜歯などの形跡は報告にない。(晩期にあった)

    「弥生時代のものですが、氷見市の大境洞窟で発掘された11体の人骨に抜歯がみられました。」  弥生人骨の抜歯  抜歯は結婚のときに

  環状木柱列 (ウッドサークル)
    石川県や新潟県、長野県、富山県で出土のウッドサークル(環状木柱列)は、近年研究が進み、円形建物の跡と解明されました。
    台湾では、現在も成人前の青年の寝起きする場として円形建物があり、また、北陸地方でも近代まで寝屋と呼ばれる風習があり、
    そのようなものだと思っています。(私見)

    富山県桜町遺跡ではイギリスのウッドサークルを真似た復元がされているが、間違いです。私も最初英国との関係を考えましたが
    荒唐無稽でした。しかし、英国のものがどんなだかよくわかって参考になります。


 富山地方の土器編年を調べようと、富山市埋文のページに不足の写真を加えて作りました。でないと、私には土器形式は難しい。(笑)

  富山の土器編年 (縄文中期)
    引用文献 とやまの縄文土器 を改変  (富山市埋蔵文化財センター作成 「北代縄文広場」)  参考資料マニアック且ついい加減な考察^^;

時代
区分
土器形式  土器写真 富山県内の遺跡 分布地域 
前期
朝日下層式
あさひかそうしき 
 朝日貝塚(氷見市)
小竹貝塚(富山市)
平岡遺跡(富山市)
富山県・能登に分布。
佐渡・新潟方面にも広がる。
中期
前葉
新保式
しんぼしき
追分茶屋遺跡(富山市)
北代加茂下Ⅲ遺跡(富
山市)
不動堂遺跡(朝日町) 
主に福井県北部から新潟県北部に分布。山形県や、秋田県でも出土する。 
新崎式
にんざきしき 
上に同じ 
「新保・新崎式土器」と併せて呼称されることが多く、個別の写真資料なし
東黒牧上野遺跡(大山町)
開ヶ丘中山Ⅲ遺跡(富山市) 
主に福井県北部から新潟県北部に分布。山形県や、秋田県でも出土。 
中期
中葉
天神山式
てんじんやましき
開ヶ丘狐谷Ⅲ遺跡(富山市)  東海地方を中心に関東・中部・近畿に広く分布する。
富山県以外では上山田(かみやまだ)式と呼ばれる。 
富山・石川県に分布の中
心を持つ北陸系の上山田・天神山式土器
古府式
こぶしき
境A遺跡の集落は縄文時代中期にはじまります。
・この頃の北陸地方の土器は天神山式、古府式土器です。
器面全体を渦巻状の隆起線で埋め尽くし、華やかでダイナミックな文様が特徴です。
・器形の種類も一般的な深鉢・浅鉢 台付鉢に加え異形土器(台付双子土器)・有孔鍔付土器・釣手土器など変化に富んだ土器が見られます。
古沢遺跡(富山市)  富山県・石川県のみに分布
富山県では牛滑(うしなめり)式と呼ばれる場合もある。 
中期
後葉
串田新式
くしだしんしき
有孔鍔付土器 串田新式土器の特徴として、アカガイ・サルボウなどの貝殻の縁を押し付けたギザギザ文様が見られる
 引用 縄文土器   富山県富山市北代遺跡続
串田新遺跡(大門町)
桜町遺跡(小矢部市) 
北加賀・能登・富山県・新潟県西部に分布 
前田・岩峅野式
まえだ・いわくらのしき 
     資料なし 八ヶ山遺跡(富山市)   記述なし
後期
気屋式
きやしき 
  引用 県指定史跡気屋遺跡  穴水町歴史民俗資料館
境A遺跡(朝日町)
長岡八町遺跡(富山市)
 富山県と石川県の能登・北加賀地方を中心に分布 

   縄文中期の北陸地方の土器は、十日町・津南町を中心に発達した火焔土器に影響を与えたといわれている。
   しかし、そのこと以外には、他の地域程には目立った発達もせず、知名度も低い。

   今回ここにあげた富山市埋文の土器編年に写真画像をはめ込むことは、私自身が北陸の土器を理解するうえで必要不可欠なものでした。

   しかし、火焔土器にどこがどう影響を与えたのかはわからなかった。残念です。





 11弥生時代 (2300~1750年前)   参考弥生土器入門-弥生土器の見方・作り方-





  装飾品
   富山県での 玉造りは縄文前期に始まり縄文の終焉とともに終了したが、弥生後期に再興する。
   県内では玉造の工房がたくさんでき、弥生の装飾品を作っていたようです。

  水稲稲作は、
   2300年前九州に始まり、遠賀川式土器と共に全国に広がって行きます。
   富山では水田遺構は未発見ですが、立山町で水路の流量調整器「しがらみ」が出土しています。

  米作りの村と社会
   上市町の江上A遺跡では弥生時代のムラがそのままの形で出土している。

  弥生土器 は、
   基本的には縄文土器と同じ製法で、6百~8百度で野焼きされた素焼き土器です。まだ、ロクロでの製作はなされていません。
    しかし、器の形状は多岐にわたり発達しています。

  金属器の登場
   青銅器・鉄器と石器併用時代が続いたが、青銅の銅とスズは中国大陸から板状の素材で輸入し初期は石の鋳型、後に土で製作。
   鉄は朝鮮半島の伽耶からインゴットのかたちで輸入しました。

  埋葬
    色々な地域から来た半島人大陸人はそれぞれの埋葬方を行った。支石墓。甕棺墓。石棺墓。方形周溝墓。方形台上墓。四隅突出型墳丘墓など
   四隅突出型は島根県でも見られます。元は半島北部の高句麗の騎馬民族の墓制だと言われています。


弥生時代とは 新堀西遺跡 新堀西遺跡写真 富山の弥生時代は
他の地域と特段変わったことはなかったでしょう
50万人もの半島人が各地に大挙して上陸し、 縄文人を奴隷にして土木工事をし、
縄文人の狩場・生活の基本の場を農地に変え、 進んだ武器で食料動物を狩ってしまい、
何度も戦争をし、しかし、
後から後から押し寄せる武装半島人に、結局は駆逐され、あるいは農奴狩りに遭って奴隷となったのかもしれない。 宮崎県で、千年たっても弥生人と縄文人が 明確に分離されいていたことに鑑み、永遠に奴隷身分にされたのだろう スペインがインカを植民地化した時のようなことがおこったようだ




 21古墳時代 (1750~1400年前)




   3世紀後半に畿内を中心とした西日本に巨大な前方後円墳が出現します。
   弥生時代の方形周溝墓の溝を渡る陸橋や四隅突出型墳丘墓の張出部が前方部へ変化していっ たという説があります。
   畿内で成立した巨大な政治勢力が、大王のための前方後円墳を造営し、地方の首長をも掌握した時代を古墳時代といいます。

   これは、畿内の政治勢力がこの時期にほぼ全国を手中に収め、支配するに至ったことを示していると思われます。

   北陸でも、肥沃で広大な農地を背景に、多数の農奴を獲得して、強大な権力と莫大な富を手にした支配者が、次々と大規模古墳を造営した。
       参照考古学から見た富山の歴史 古墳時代

   この時期に、こしのくに(越の国)と呼ばれ、半島からの渡来人が続々と、その時もまだ、渡来が続いていたのかな。農奴としての移民かな。
   現代でも半島から舟が漂着することもあり、近世にも、エベンキ系の人々が渡来した痕跡もあるようです。

   古墳が造られた時代 古墳の形 農民の暮らし 玉つくりの遺跡 窯で焼く土器  引用参考富山県の遺跡  富山発掘だより

稲積オオヤチ古墳群 鉄剣 鐁・鉇やりがんな
鍬・鋤先
棗玉なつめだま
管玉
刀子 鉄鏃 鉄刀
滑川市 上梅沢遺跡
注目すべき展示品は
こしき甑です。米を蒸す道具です。炊飯しない

編み物石は何に使ったのでしょうか。アンギン編みの飛び玉ではありません

支脚は囲炉裏の中で使ったのでしょうか
土師器の作り方
登り窯が日本に登場したのは1500年ほど前。古墳時代です。
それまでは縄文時代と
同様に野焼きです。
引用日本の窯の歴史
須恵器の作り方
5世紀中期に伽耶人陶
工が大阪すえ村で製作
ろくろと登り窯と還元炎
で作り、焼く。青く硬い
土器ができる。
引用須恵器について





 22古代 (1400~800年前)  飛鳥・奈良・平安時代





   縄文晩期5万人だった人口は、半島から50万人がなだれ込み、爆発的に増殖するモンゴロイドの特徴。その後も続々流れ込み、
   聖徳太子の時代574–622年には500万人に達した

古代とは 今も昔も権力者富裕者特権階級に貧民は虐げられるのですね。 仏田遺跡出土 陶磁器 墨書土器など
素焼きの土器は落書きが楽しかった

仏田遺跡
掘立柱建物(倉庫)近くに竪穴住居があった
北高木遺跡
特に人形30体斎串300
祭祀遺跡ですね
斎串 人形 舟形木製品
棒ささら 恐ろしい呪術の臭いがしますね
朝鮮半島の祭祀具 ←規則的な打ち欠きは、一斉廃棄で新しいもの購入するため、使えなくして壊れたとするための作業。ではなく、

重要な決まり事や祭祀には、食器は一度しか使わない。
 こんな時代から既に庶民の苦悩が始まって現代にまで連綿と続いていることの悲しさ。

 政治体制が変わっても、被支配者層とは常に収奪されるものだ。
 日本には弥生時代から続く家系や、古墳時代から、奈良時代から、続く家系も連綿とあり、

 今も権力者支配者でいる人々が大半です。富と権力を蓄え続けているのですね。恐ろしい。


三千年前の気候大変動によって起こった春秋戦国時代の飢餓と混乱と戦乱。それから逃れるために新天地を求めてやってきた日本列島。
自由と豊穣を夢見てやってきた農民の群れなのかもしれない。

いや、違う。船を仕立て、植民の準備をし、武装してやってきたのは、やはり、武力集団や、それを束ねる経済力を持つ特権階級だったのだろう。
すると、半島人が新天地にクニを作っても、半島の身分制度・支配構造が適用される。

ならば、半島での王族を名乗り、反抗するものへの見せしめ的武力行使をすれば、あとは外交で、中央集権構造を確立すれば初期大和政権は成立した。

その後、国力が高まり、半島南部にあった沢山の小国に比べれば、大型化した国家として映ったに違いない。
しかし、歴史の浅い新興国家のおごりは、やがて中国との海戦に敗れ、政治制度を半島式の人治・呪術から、
                                                    中国式の法治・律令制を導入せざるを得なかった。
やがてこの法治も、特権階級が私利私欲をむさぼるための抜け穴としての荘園が増加し、制度が崩壊した。

 23竪穴住居
なんていうか、 凄く悲しい感じがします ビルの中に再現する困難さを表現しているのかもしれません











 30小竹貝塚 縄文前期中葉~末葉の遺跡 (6750~5530年前)

  小竹貝塚調査報告書第一分冊 小竹貝塚発掘調査報告第一分冊.pdf(309MB) 小竹貝塚発掘調査報告第一分冊(付属CD-ROM).pdf(9.0MB)
  小竹貝塚調査報告書第二分冊 小竹貝塚発掘調査報告第二分冊.pdf(160MB) 小竹貝塚発掘調査報告第二分冊(付属CD-ROM).pdf(10MB)
                           上記四冊の報告書に目を通せば小竹貝塚の全てを理解することができます。

 31概要  新幹線工事で見つかった日本海側最大級の貝塚です。13tもの土器や数千点の遺物91体の人骨が出土しました。

       近辺には蜆ヶ森貝塚や北代縄文遺跡もあり、やはり日本海側最大級の貝塚です。縄文海進MAX時の1000年余りを、多人数で暮らし、
       貝を加工していたのかもしれません。汽水域のヤマトシジミが高さ2mで広大な範囲に積み上げられています。

小竹貝塚の概要
放生津潟岸辺の汽水域に発達した集落。
発掘場所。貝塚平面図新幹線工事で発見され、線路の幅だけの発掘。
大発見だからもっと広げるのかな。
前期-温暖化と文化の成熟
約6千~5千年前
漆製品制作技術完成
縄文海進時の海岸線
縄文早期末~前期
小竹貝塚全景 小竹貝塚周辺航空写真
解像度低くてわからんね
   完新世の気候最温暖期 縄文海進(7000~5000年前)  シベリアの気温は冬に3-9℃夏に2-6℃も上昇したという。

    海面上昇は3~5mに達し、平地が冠水して干潟が多く、浅海の貝類などの食糧が豊富だった。
    植物相は現在と同じで落葉広葉樹の森に覆われ、堅果類が豊富だった。
小竹・蜆ヶ森・北代遺跡の
位置関係


 32人骨
出土人骨の詳細 各個人骨の詳細情報 小竹人の詳細 縄文と現代の骨比較筋肉の発達が著しいために骨格が発達し、このような突起を形成した

脊椎の神経棘とよく似ている
背は低いがスポーツ万能の筋骨隆々たる縄文人だった。そのうえ、 南方系美男子の顔です
DNA分析の結果
北方系と南方系が検出

12号人骨男性150㎝
13号人骨脇に寄せられた
12号人は男性で抱石葬仰臥屈葬 副葬品が石斧
12号人は先に死んだ13号人の骨を脇に寄せて埋葬の重葬

土器棺葬と伸展葬
前期に土器棺の再葬。
伸展葬はどこの儀礼か。

側臥屈葬・仰臥屈葬
屈葬は一般的だが、
仰臥が普通で側臥は珍しいのでは
小竹遺跡では

「抱石葬を含む屈葬、伸展葬、乳児骨を収めた土器棺」それに重葬

 など、様々な埋葬型式が行われている。多様な理由は様々な出自の混在だったのか。



 人骨から分かった、小竹貝塚人  引用有名人のハプログループ  富山市・小竹貝塚 発掘調査の最終結果を発表 出土人骨は91体

特徴   北方系と南方系民族が同一集落に同居していた。
    北方系は身長165~170㎝を越える長身の骨も6体あり、バイカル湖周辺から北海道経由で南下してきた民族です。
南方系は東南アジア や中国南部に多く、南西諸島を北上し、薩摩半島から対馬海流に乗り、日本海伝いにやってきた民族です。
(※南方系は中国南部から沿海州周りで樺太を通ってやってきたか、朝鮮半島を通ってやってきたか、茂呂型石器文化は南方海上ルートです)
     

DNA   ここでは母系ハプログループについて検証しています
ミトコンドリアDNA は北方系N9b5体,A2体,G1体、と、南方系N9a3体,M72体   引用国立科学博物館便り(15
  N9bは日本固有のハプログループで、北海道の縄文・続縄文人から検出。他にM7a南方系日本固有種。G1bD10は北方系
ハプログループ=塩基型別に分類した人類グループのこと。   DNA型別人類の移動図
現代日本人に通じる半島渡来系の遺伝子型D4b,aは全くなかった。つまり、一般的な縄文人とは異なった人々でした。

 
         引用国立科学博物館便り(15

 
            引用勝手に僻地散歩-ミトコンドリアDNA D4 N9b M7a 東北縄文人 ( 1 )




  出土人骨の体格と寿命

身長   (男22体・女7体中) 男(165cm以上が6体、154cmの個体も)  女(平均148cm縄文後・晩期に同じ)
年齢   性別の判明した53/91体で、男35体女18体。死亡年齢最多は十代後半から二十歳代15体。60歳を超える超高齢者や、胎児や新生児も。
出自   北方系高身長民族の一方、130㎝程の低身長の南島人の骨格もあったそうです。だから北方系と南方系が同居していました。
  女性7体の人骨は縄文後期の平均値と同じ、平均148cmだった。(残り11体はどうなった?)
※人骨の詳細情報はない。別民族を合算して平均身長を出しても意味がない。北方系女子の身長や南方系男女の身長やDNA型が不明だ。
抜歯   年代の新しい個体で、左右の側切歯や第2小臼歯を抜歯したものがあり、縄文後・晩期に先駆けて、前期に抜歯が始まっていた
  抜歯は南方系民族の風習なので、台湾周辺のオーストロネシア語族がやってきていたのかもしれない。
埋葬   人為的な傷は墓穴を掘った際に、埋葬されていた人骨が傷ついただけで丁寧に並べて再び埋葬されていた。 以降引用歴歩
  頭上に直径約5cmのミニ土器を載せて埋葬された人骨もあった。
縄文遺跡から発掘される小型土製円盤は死者の額にあてがったもので、、現代は三角の布を当てるようだ。
 
出土物 九州や伊豆諸島以南で獲れるオオツタノハ貝製の腕輪が縄文の日本海側で初出土した。南方人の来訪を裏付ける。
国内最古のヒスイの未成品1点。どのようにして手に入れたのか。小竹で製作した痕跡がない。
関東、近畿、東北、の形式の土器。日本最古のイノシシ型土器。日本各地の製品が出土。
・縄文時代の列島全体に飼いイノシシ送りの祭祀(イノシシのイオマンテ)があり、
     北方民族は豚を飼育してやはり豚送りの祭祀があった。 (※豚とイノシシは先祖と子孫、同種なのでどこまでの区別があったのだろうか)
柴犬ほどの犬の骨。そのまま埋葬したものと、バラバラになったものとが出土。
    南方系人は犬を埋葬し、きれいに出土する。北方系人は犬を食っちまう。からバラバラで出てくる。
    ※   南方系人骨についての情報が少ない。


 32小竹貝塚の人骨2
12号女性と13号男性人骨 上隅にあった土器棺 13号人骨の副葬品。磨製石斧が大小7個 12号人骨の壊れた土器か頭骨片か。右下に20㎝四方の石皿 女性の必需品。一人に一つの調理道具。 石斧も石皿もまだ使えるもの。

 33小竹貝塚剥ぎ取り標本と食生活
日本海側最大級の貝塚。
近所の蜆ヶ森貝塚も。
貝は淡水のヤマトシジミ。
神通川の豊かさと広大な浅海。
地層剥ぎ取り資料通常とは反転したカレンダーです。富山湾の恵みイルカやマグロなど大型魚類が豊富 陸棲食料 鹿猪熊
海棲動物 サメエイ黒鯛

海岸近くに住み冬には山に狩りに出かけたのか




 34越中の土器編年

土器器種の出現深鉢 浅鉢
有孔鍔付土器
吊り手土器 釣手土器
注口土器 蓋 壺
草創期 早期 前期    草創期 早期
草創期
    出現期土器
     ・・無文土器?
    爪形文
早期 押形文 条痕文
      前期前葉 極楽寺式
中葉 朝日C式 蜆ヶ森
後葉 福浦上層
    朝日下層式
中期 後期      中期前葉 新保・新崎式
中葉 天神山式 古府式
後葉 串田新式
      後期前葉 気屋式
中葉 井口式
後葉 八日市新保式
晩期 弥生時代       晩期前葉 御経塚式
中葉 中屋式
後葉 下野式
晩期後葉 弥生時代弥生時代にも縄文土器が作られ続けたことを表しています





 3500小竹貝塚の土器について

  小竹貝塚の土器形式
小竹貝塚の土器形式 小竹貝塚搬入遺物
推定図
前期の土器の交流と
影響を受けた土器
東北の大木式 関東の諸磯式 関西の北白川式
東北関東信州の文化は糸魚川から海路で伝播
極楽寺式土器 朝日C式 蜆ヶ森式 福浦上層式 朝日下層式 隆起線文土器
細い粘土紐貼り付け

富山湾は海流が人と文化をおのずから運んでくる土地だった。

 3501小竹貝塚の土器
前期後葉 深鉢
極楽寺式か
有孔土製品 前期後葉 有孔浅鉢 前期後葉 有孔浅鉢 深鉢 前期後葉~末葉 深鉢 福浦上層式
土器棺 土器棺 残っている土器の多くが土器棺として使われた
子供のひつぎでした。

 3502小竹貝塚の漆塗り土器
漆壺と漆装飾土器 2015.01月展示 漆壺と漆装飾土器 2014.05月展示  縄文前期の漆塗り工芸

 ここにキャプション追加

 350小竹出土3ミニチュア土器  日本最古のイノシシ形土器
2014.05月展示 2015.01月展示
これ、副葬品ですよね 副葬品だったのかな

 夭折した子供のおもちゃとして副葬されたか、
狩猟の名手に捧げたものか。

 36小竹のアクセサリー   日本海側最古のオオツタノハ貝の貝輪
縄文人のアクセサリーアクセサリーは縄文前期に完成したんですね オオツタノハ製貝輪
青森産ベンケイ貝や
南海産オオツタノハ貝の貝輪
縄文から続く工芸の技
漆の塊に鯛の臼歯を埋め込んだ象嵌
垂れ飾り
ヒスイ、クマやオオカミの牙、サメの歯
玦状耳飾と
ベンケイ貝の貝輪
骨角器 札状加工垂飾
猪牙の垂飾 髪針 櫛
ニホンジカ骨の髪針 
垂飾状歯牙製品 髪針
彫刻不定形垂飾
ヘラ 細形針 櫛 ヘラ
骨角器
ヘアピン髪針
札状加工垂飾
垂飾状歯牙製品
鯛の臼歯の象嵌

 37小竹出土の道具
骨角器の装飾品や道具 縄文人の木製品 小型弓と石斧柄
小型弓 火起こし道具
石器が刺さったイルカ骨

肋骨に刺さった尖頭器

石匙 石錘
石鏃 単式釣針 刺突具
 尖頭器

木製容器

異形石器

石鏃 単式釣り針
組合せ釣針

尖頭器

火起こし用小型弓と
石斧柄 磨製石斧
2014.05月展示

2015.01月展示

磨製石斧

シダ製縄

ヒノキのカゴ



 縄文前期6000年前の丸木舟

丸木舟と出土状況  


  低湿地遺跡
   小竹貝塚は低湿地遺跡です。有機物も無酸素水漬状態で、6000年も残りました。
   以上が小竹貝塚出土品の一部です 残りのほとんどは東京の国立博物館にあります。帰ってくることはないのでしょうか。


  39報告書の写真
人骨 人骨
鯛の臼歯の漆象嵌  小竹貝塚出土品の素晴らしさを知って頂く為に
私の写真では無理なので
掲載させて頂きました。




 81北代遺跡 縄文時代中期後葉4500年前の遺跡 (中期から後期4千~3千年前)  遺跡は旧石器~平安時代まで中断しながら重なっている。
遺跡概要 集落に竪穴住居跡が87棟、同時期は5~6棟。中央部に高床建物跡が4棟。遺物が豊富に出土した貴重な縄文時代の集落跡。
北側の谷から湧水が出てドングリのあく抜きなどに利用されていた。 (現在も湧出しているそうです)
出土遺物 天神山式 古府式 串田新式 の土器  有孔鍔付土器三角とう形土製品 タカラ貝形土製品  岩版 石斧 石鏃 石器 動物骨
古くから遺跡が知られ沢山の人々が訪れ持ち去ってしまいました。

北代遺跡 天神山式土器
大変立体的造形的です
名品です

ヒスイ大珠
三角とう形、球状、小型台付土製品 三角とう形、球状、小型台付土製  北代遺跡は
     次回特集します

 82越中地域考古資料-玉造-
  越中の考古資料の収集に努めた研究者の資料。 ここでは玉造の資料が公開されている。
  しかし、早川荘作蒐集品 ←をクリックし写真をクリックしてください。越中の縄文が網羅されています。
越中地域考古資料 各地のヒスイ産地 磨製石斧の製作工程 ヒスイ玉類









 83境A遺跡   境A遺跡 -ヒスイ玉作りのムラ-  場所 富山県の東端、朝日町の海岸部 すぐ前がヒスイ海岸 北陸自動車道 越中境PA付近

 84遺跡概略
    縄文時代中期~晩期 (4 ,800~2,500年前)  ヒスイ玉製品と蛇紋岩製磨製石斧製作のムラ跡。硬玉採取と加工のムラ。
      竪穴住居跡35棟、土坑墓1700基。晩期の円形木柱列1基などの遺構。土器・石器類などが大量に出土した。

       石器は、大量の蛇紋岩製磨製石斧の未完成品やヒスイ原石・ヒスイ玉類の未完成品を含め整理箱約4,000箱・20万点以上
        玉製作関係遺物932、蛇紋岩の磨製石斧製作関係遺物583と、
        中期の深鉢形および台付鉢形土器を主とした土器・土製品類77点、石鏃・打製石斧・石錘等の石器・石製品類833点で構成される。
        発掘報告書は5冊に及ぶ



   参考 磨製石斧・石斧加工工場 境A遺跡  境遺跡バーチャルミュージアム  朝日町の境A遺跡  境A遺跡出土品

境A遺跡出土品とは 宮崎・境海岸(ヒスイ海岸)翡翠や蛇紋岩の転石が拾える海岸 境A遺跡の位置関係翡翠原石などは海流によって運ばれてくる 大珠
境A遺跡の土器
深鉢形土器 浅鉢形土器・小型土器
特殊土器
台付鉢形土器


   このコーナーは富山県埋蔵文化財センターのホームページにある、施設概要の中の境A遺跡出土品 の内容を掲載しています

 境A遺跡の詳細
  私が見た展示物では、この遺跡の全体像が全くつかめないので、富山県埋蔵文化財センターのホームページの写真と文をお借りします。

  ネット公開の資料を見ると、改めて富山県の縄文文化の広さ深さを感じさせられました。
  きっと近い将来小竹貝塚と境A遺跡で新しい博物館が開設されるだろうことを期待しています。

ヒスイ製玉類   北海道から沖縄まで流通したヒスイ製品は、新潟県糸魚川西部から富山県東部の狭い範囲で作られました。
 
磨製石斧   粘りのある割れにくい蛇紋岩は、ヒスイ鉱脈から派生する岩石です。青森県から和歌山県まで流通しました。
  境A遺跡からは3万5000点もの製品・未成品が発見されました。
 
縄文土器   境A遺跡は縄文中期に始まります。この頃の土器は 天神山式土器古府式土器です。
  器面全体を渦巻状の隆起線で埋めています。
  器形の種類は、深鉢浅鉢台付鉢や、異形土器台付双子土器)・有孔鍔付土器釣手土器 があります。
  また、信州地方の曽利式土器、東北地方の大木8b式土器、新潟信濃川流域の火焔型土器(馬高式土器)の影響も受けました。
 


   下の写真は富山県埋蔵文化財センターのホームページから拝借しています
ヒスイ玉類 磨製石斧と砥石 台付双子土器 鍔付土器 釣手土器

  三番目の土器は天神山式とも、あちこちの影響下の土器ともいえそうですね。

 以下は富山埋文で撮ってきた写真です。って下手だからわかりますが(笑)


 縄文時代中期中葉の土器


 86シマフクロウの土器
   北海道でよく見かけるシマフクロウの土器があった。 学芸員さんに北方民族との関係かとお尋ねしたところ
   そんなもん何んにも見ェへん。あんたの気のせいや!と、言われ。女性学芸員さんはミミズクでしょ。と。

   一人は見えんと言い、一人はミミズクに見えるといい、 何だこれは?!

   みみずくとシマフクロウの違いは写真のように一目瞭然。大体何のためにミミズクを土器のモチーフにするんです。
   シマフクロウは北方民族。極北のニブヒやエベンキやエスキモーの最高神だから象る(かたどる)のである。

   下の写真を連続的に見てください。何に見えますか。
縄文時代中期中葉
約4,500年前
器高29.6㎝

『雄々しく波打つ口縁、
いくつも渦巻く太い隆帯に
力強さがみなぎる。
いかついこの風貌は、
厳しい時代を生きぬく
武骨ある縄文人を
想起させる。』と、ある。
きわめて抒情的なキャプションである。
キャプション作家にとっては、それほど感動的な出会いだったに違いない
口縁が四方に突き出た形は北陸に多く、真脇遺跡でも一般に見られる。
波状口縁という
太い隆帯文は九州から静岡までの太平洋側に見られるものである。 同時期の火焔土器にもまけない素晴らしい造形であり、特有の土器でしょう 北陸の四隅形口縁
南方系の太い隆帯文
北方系のシマフクロウの図柄。真脇は魚だった
ミミズク
借用
シマフクロウ借用

  しかし、簡単にフクロウのモチーフと言えない複雑な事情があるんでしょう。 ①裏付けがない ②北海道じゃない ③キャプションが触れていない など
  失礼しました。 一人でフクロウと思っておきます。(笑)

 87火焔土器のような土器
台付鉢形土器28.5㎝
中期中葉4500年前

『錨いかりのようにも鶏の頭部のようにも見える、ただひとつの大きなアイレットがとてもエレガント
まさにプリンセスの雰囲気を漂わせる。』
と、ある。
周囲の模様は鳥の骨から削り出した丸刀のような鋭利な刃物で一気に造形されたものか。 口縁部の三角はペカペカと燃える動物脂肪の炎の様にも見え、丸い大きな穴は儀式用か。 きわめて現実的に書かせていただきました。
私のキャプション(笑)

 88双子角杯  中期中葉  有孔双子土器 とか 異形土器 台付双子土器 とかいわれています
異形土器(台付双子形土器) 25.1㎝
中期中葉4500年前
『背中と背中をくっつけたような不思議土器。頭にはそれぞれに紐を通すような穴がついている。 どうやって使ったのか、どうしてこんな形をしているのか・・興味が付きない土器である。』と、ある。  アイヌや北方民族資料館に行きますと、二つ付いた酒杯さかずきが普通にあります。

 儀式や、友好を深める時に飲んだのでしよう。西洋映画では互いに左腕を組んで角杯の酒を飲み交わすのを見ました。
 縄文中期の日本ではつのがたの盃は珍しいと思います。

 中東では1万年も前から牧畜が始まったそうです。
 羊の角杯は牧畜民の文化ですね。

 88かくはい下の写真をさしています
    2015.01.06富山埋文にて撮影  正月に行ったときにたまたま飾ってありました。
   弥生時代以降のもので、日本にいない羊の角をかたどったもの。牧畜民族の文化です。

   では、縄文中期中葉の角杯は、しかも、双子角杯。 これはまさにオーパーツのようですね。

   北海道ではこのようなふたご杯が数多く出土しており、渡島半島森町などでも見ました。北方民族の儀式や娯楽の杯でしょうね。
   外国で鹿や羊の頭部を模した盃があったそうですが、
   北海道からはクマの頭部を模した木製の容器が出土しており、やはり酒器だったそうです。

   しかし、角型 (つのがた)の獣角は、羊の角はどこから来たのでしょう。 やはり、北方系民族がもたらした文化なのでしょう。
   アイヌやニブヒは交易の民で、列島を南下して交易しました。旧石器や縄文前期から移住もあったようですから。縄文ロマンですね。

角杯

 89小型土器
 器高10.5㎝
 中期中葉4500年前
湯呑ほどの土器です
キャプションの興奮した内容は、手に持った感動を表現したのかな