青森の縄文 01 2019.09.26-4
三沢市歴史民俗資料館 青森県三沢市大字大字三沢淋代平116-2955
0176-59-3670 月休・撮影可
|
交通 |
|
レンタカー |
|
|
|
|
|
特徴 |
|
北日本最古の土偶
縄文時代晩期の赤漆彩色土器を中心とした野口コレクションなど、
三沢市内から出土した先史・古代の出土品を多数展示しております。 |
|
|
|
|
|
|
|
2021.01.06 再編集 |
|
|
|
|
目
次 |
|
01外観
10入口展示
11玄関先の展示
12北日本最古の土偶
13晩期の土偶
14早期~後期の土偶
15北日本最古の土偶
16縄文初期の土偶分布
論文抜粋 千葉県の土偶
20ジオラマ
21縄文のムラ
22縄文住居
30狩猟
31陥穴
33縄文の狩猟動物
35小川原湖の遺跡
考察 小川原湖周辺の縄文遺跡
40天狗森貝塚
45砂ヶ森貝塚
50土器形式の変遷(早期)
51根井沼式土器
52土器模式図
53石器・土器
55旧石器時代
57ナイフ形石器の分布
58石刃技法 |
60縄文時代
61早期土器
尖底深鉢形土器
63押型文・原体
65前期土器
67後期土器
68晩期土器
70弥生時代
72弥生中期
先史・古代の三沢市
73弥生初期
鳥海山式土器
75弥生後期
76弥生中期
77弥生後期・古墳
|
78奈良時代
80平安時代
82先史・古代(72続き)
90平安時代
91古代鉄作り集団の移住
考察 津軽海峡から来た製鉄集団
92平安時代の鉄生産と製品
100石器
101石器の分類
103縄文人と漁撈
祭祀遺物
104土製品・装身具
105調理の道具
106工具
縄文時代の石器の特徴
107狩猟・漁撈
狩猟に使われた石器 |
110野口貝塚と野口コレクション
115縄文晩期
118野口貝塚と野口コレクション
遮光器土偶
120野口貝塚
121朱漆塗土器
123土偶
124土器 十腰内式土器
130石器
200近世
210木崎野と小比類巻文書
日本初の民間洋式牧場
近代
220斗南藩の移住と開拓
明治・大正・昭和の三沢
230神楽面
240過去の津波の記録
300民俗
301民具
320機織りの道具
330東北地方太平洋沖地震
340博物館周辺遊歩道
|
|
|
はじめに
|
三沢市歴史民俗資料館の展示物は大変貴重な遺物だと思います。
大平山元遺跡の存在から、本州最北の旧石器・縄文時代は津軽半島から始まった感がありますが、
北海道から本州に渡って来るルートは、渡島半島松前町からカヤックを漕ぎ出しても、海流や風の影響で流されると、
陸奥湾から下北半島太平洋側にまでも上陸することがあり、文化伝来の条件としては下北半島でも最古の縄文が発見されてもおかしくないのです。
ただ、下北半島は寒冷な気候のために開発工事が少なく、発掘調査が進んでいません。
その中で、小川原湖周辺の遺跡は、下北の先史時代を知る上で大変重要な意味を持っています。 |
|
01外観
三沢市には自衛隊基地や米軍基地があり、広大な地域が軍用地として買い上げられています。
これには、この地域が農業に適さない、寒冷な土地であり、離農者が続出しており、その土地を買ってもらえるということは、
離農者の転職に弾みを付けさせてくれる、ありがたいこと、でもあります。
歴史民俗資料館の隣には寺山修司記念館があり、近隣には多数の文化施設があります。
更に、この地域には小川原湖、小田内沼、根井沼など、海跡湖があり、縄文遺跡と深く関係しています。
現代の施設としては、レジャー施設、分譲住宅、温水プール、老人施設、などなど、沢山の施設が集中しており、
何よりも、館の前は牧場であり、ホルスタインが沢山放牧されています。(三沢市営牧場)
小川原湖は北部で東に開口し、高瀬川という水路で太平洋と繋がっており、元は内湾でした。今でも、ニシンの群れが遡上して大漁になり、
市民に無料で配布したりもしました。
とっても豊かな地方自治体です。
|
|
10入口展示 |
11玄関先の展示
玄関先
子供向け顔出しパネル |
展示室入口
寒冷地なのに二重ドアでない。凄く寒いと思う |
正面は土偶
その奥はジオラマ
|
正面は①土偶の展示
その奥
左は最後、②神楽面
中央は③ジオラマ
右は④縄文住居 |
|
12土偶 北日本最古の土偶です。
いつもなら撮影可ですが、わけがあって、北日本最古の土偶は本物が撮影できませんでした。写真の写真で残念無念です。
本来このケースの中に9000年前の北日本最古の土偶があるはずでした。 |
|
北日本最古
根井沼(1)出土土偶 |
|
根井沼(1)土偶
縄文早期9,000年前
北日本とは、北海道、北東北3県(秋田青森岩手) |
|
|
13晩期の土偶
|
14早期~後期の土偶
|
右:早期 左:中期
|
左:土偶 早期 11000~6500年前
三沢市根井沼(1)遺跡
右:板状土偶 中期
高27cm
八戸市是川-王寺遺跡 |
中期5600~4200年前
|
板状土偶 中期
5600~4200年前
高13.4cm
青森市三内丸山遺跡
板状土偶 中期
5600~4200年前
高25.5cm
青森市三内遺跡 |
|
早期 土偶 11000~6500年前
三沢市根井沼(1)遺跡 |
前期 岩偶
6500~5600年前
青森市熊沢遺跡
21.3cm |
中期 板状土偶
5600~4200年前
高27cm
八戸市是川-王寺遺跡 |
中期 板状土偶
5600~4200年前
青森市三内丸山遺跡 高13.4cm
青森市三内遺跡 高25.5cm |
後期 土偶
4200~3200年前
六ケ所村大石平(1)
25.8cm
青森市近野遺跡
22.5cm |
晩期 岩偶
青森県北津軽郡板柳町
板柳土井1号遺跡
28.9cm |
|
15北日本最古の土偶 縄文早期 根井沼(1)遺跡 約9000年前
|
これまで、縄文早期の土偶は分布図(↓16の➀図)にみられるように関東・東海・北陸・近畿地方でしか確認されませんでした。
東北・北海道地方では縄文前期(約6000年前)の土偶が最も古いものでした。昭和62年6月の根井沼(1)遺跡の調査によって、縄文早期中頃(約9000年前)の土偶が発見されました。
これによって、東北・北海道地方の土偶の発生が約3000年も遡ることとなり、調査終了時点で東北・北海道、更に北陸も含めて北日本最古の土偶ということになります。 |
|
北日本最古の土偶
縄文早期
根井沼(1)遺跡
|
北日本最古の土偶
縄文早期
根井沼(1)遺跡 |
北日本最古の土偶 |
板状土偶 後期
小田内沼(1)遺跡 |
板状土偶 後期
小田内沼(1)遺跡 |
※この年(2019)の夏、三内丸山遺跡センターでは、東北の土偶展を行いました。
展覧会が終わってひと月余りたってからの旅行なのに、訪れる全ての博物館で「まだ帰ってきてない」と言われる。
中には、「まだ、展示しているらしい」とまで言われる。それで、三内丸山遺跡センターで強く抗議したら、そんなことはない、全て返却したという。
どこの世界に、別々の博物館が、全て同じように未返却と口をそろえて嘘を言ったりするもんか、と、思った。
|
16縄文時代初期土偶分布図
縄文時代初期土偶分布図
関東以北の土器編年
撚糸文期
↓
押型文期
↓
沈線文期
↓
貝殻文期
↓
条痕文期 |
縄文時代早期の土偶
(1万~6千年前)
撚糸文期〈木の根タイプ〉
7:千葉・木の根
8:千葉・朝倉
9:千葉・両国沖Ⅲ
10:千葉・金堀
11:千葉・小間子A
12:千葉・墨新山
13:千葉・寺向
撚糸文期〈花輪台タイプ〉
2:茨城・花輪台
4:千葉・〇崎
沈線文期〈庚塚タイプ〉
3:千葉・舟塚原
5:千葉・宿の台
6:千葉・庚崎
14:埼玉・西大宮バイパス№4
沈線文期〈田戸下層式〉
1頃茨城:二本松
条痕文期
15:富山・南太閤山Ⅰ
16:愛知・入海
17:愛知・天神山
押形文期
18:三重・大鼻
19:大阪・神並
検索結果
|
縄文時代前期の土偶
(6千~5千年前)
円筒下層式期
20青森・小三内
21青森・大平
22青森・一王寺
大木式期
23岩手・杉則
24宮城・糠塚
25宮城・城生野
26宮城・青鳥
27宮城・小浦
28宮城・上深沢
29宮城・大木囲
30宮城・三神峯
31福島・原作田
関山~諸磯式並行期
32茨城・内畑
33埼玉・井沼方
34東京・四枚畑
35神奈川・折本
36群馬・城
37群馬・八幡山
38山梨・釈迦堂
39山梨・一の沢
42愛知・大曲輪貝塚
種別時期不明
40山梨・天神
41長野・海戸 |
1~12撚糸文期
〈木の根タイプ〉の土偶
縄文早期
千葉県の土偶 |
13~21撚糸文期
〈花輪台タイプ〉の土偶
22~24沈線文期の土偶
縄文早期
関東地方の土偶 |
1・2押形文期の土偶
3~9条痕文期の土偶
縄文早期
近畿・東海・北陸地方の土偶 |
関東以北における土器の編年区分
撚糸文期→押型文期→沈線文期→
貝殻文期→条痕文期
|
|
論文抜粋
P239
|
<縄文早期>
縄文時代早期の土偶は,撚糸文期後半の夏島・稲荷台・花輪台期から沈線文期初頭の三戸期まで,
時間的・空間的に連続しており,系統も辿れると考えられている。
|
夏島・稲荷台期 |
木の根タイプ |
逆三角形板状土偶 |
|
花輪台期 |
花輪台タイプ |
ヴァイオリン形板状土偶 |
|
三戸期 |
庚塚タイプ |
大形化したヴァイオリン形板状土偶 |
|
|
|
|
と原田氏は整理した。文様施文,それも土器の文様と一致した施文がみられるのは,三戸期の土偶が最初のようである。
出現期の土偶を,原田氏は木の根タイプとして逆三角形で単独使用したものと考えるのに対し,
宮重行・篠原正の両氏は,刺突ないし穿孔を有する土偶の観察から,逆三角形の胴部と三角形の
脚部を細い棒状のもので結合し,篠原氏は更に胴部と頭部をも組み合せて使用したと解釈している。※つまり、操り人形状態 木の根遺跡の土偶
出現期当初の土偶が,単独土偶か組み合せ土偶かの当否は保留するにしろ,撚糸文期の土偶は,
「『壊されている』状況として強調し得ない点」に最大の特色がある。
続く沈線文期になって「それ以降の縄文土偶に普遍的な〔土偶=毀たれるもの〕という機能が確立したのかもしれない」と考えられている。
出現期土偶の印旛・香取地域という北総内陸部における集中は,当時の遺跡の集中に比例している。
この一致は偶然ではなく,有機的な関係が存在しよう。すなわち,人口の集中は,情報・伝達の速度を早め,また文化エネルギーの蓄積を生む。
土偶の出現と集中は,この文化エネルギ一 の発現形態の1つであったと考えられる。
同じ撚糸文期遺跡の集中域の1つである多摩丘陵北部に土偶が存在しないのは,本地域と文化が異なるからであろう。
しかし,北総の地において続いた土偶の系統的変遷は,現在までの知見では,沈線文期後半以降しばらくの間断絶する。
果たして土偶製作の契機が何であり,どのような理由で拡散・継起し,そして土偶の一旦の終焉に至った事情は何であったのか,
また土偶の機能が後の土偶と同じであったのか否か,残された問題は解明された以上に大きいといわねばならない。
撚糸文期 早期前葉
沈線文期 早期中葉
|
|
|
|
20ジオラマ 小川原湖畔 野口貝塚 |
21縄文のムラ 縄文時代前期(約7,000年前)
|
この模型は縄文時代のムラの様子、人々の生活の様子、また、貝塚が作られていく様子を表現したものです。
小川原湖の岸辺にある野口貝塚とその周辺をモデルにしました。地形は50分の1ですが、その他は動きが分かるように大きめにしています。
一つのムラに4~5軒の住居、ムラ人は20数人という構成がこれまでの発掘調査などで分かっています。
当時の小川原湖は海と直接つながり、魚や貝は防府に採れた一方で、シカ・イノシシといった大型動物は少なかったようです。
他に木の実や山菜なども豊富に採ることができたことでしょう。しかし、これらはいつも沢山採れたわけではありません。
食料が採れなくなるとムラごと他の場所へ移ったということもわかってきています。
さあ!縄文人と一緒に森に狩に、海へ魚獲りに、浜辺へ貝採りに行きましょう。 |
縄文のムラ
上に記述 |
|
|
|
|
|
突き漁 |
一本釣り |
二艘の船で一網打尽
現代と同じ漁法 |
貝塚の始まり |
|
海辺の村の貝加工 |
貝塚を囲んだムラ |
|
|
|
|
|
|
22縄文住居
縄文時代竪穴住居模型
縮尺1/10
ピンボケ
上に記述 |
この構造は内部にピントが合わない |
中は生活の様子や調理の様子が表現されている。 |
|
|
|
|
30狩猟 |
31陥穴(おとしあな)
|
この遺構は、動物捕獲用の落とし穴と考えられているもので、平面形が長楕円形、断面形がV字をしています。(溝形=動物が挟まる、動けない)
縄文時代前期のある時期から構築されており、これ以前の落とし穴は平面形が円形、断面形が長方形で、(円形=動物が丸ごと入る大穴)
ある時期を境として形態的に違いが見られます。
※なぜ?進化したのか、住民が入れ変わったのか、新しい技術が伝わったのか。 対人用?動物捕獲用? もすこし説明を・・・ |
縄文時代の落し穴 |
縄文時代の落し穴 |
縄文人は弓矢や槍を使った狩りの他に、
落し穴を掘り、猪やシカを捕獲していました。
八戸市鶉窪遺跡や弥次郎窪遺跡では、
直径1m深さ70cmのすり鉢型で、
底に逆茂木を立てたと思われます。↓ |
落し穴設置場所は
|
落し穴は
➀ムラの周りに~少し
②動物の通り道に
③林地と草原の間に
④崖の利用 |
ムラの狩猟場 |
↑また、それとは別に、平均して長さ3~4m、幅20cm~1m、深さ120cmの溝状の穴が、
六ケ所村発茶沢遺跡(はっちゃ)では665基、八戸市長七谷地貝塚では101基発見されています。
それぞれまとまって複数並んで列をなすことが多く、集団でシカやイノシシを追い込んで、落として捕獲したと思われます。
また、多量の溝状ピット群の検出された発茶沢遺跡には、それとのかかわりを持つ竪穴住居などはなく、
尾駮沼の対岸に富ノ沢遺跡の中期の大集落や大石中遺跡・上尾駮(2)遺跡の後期の大集落などが見られます。
このムラの狩猟場が発茶沢遺跡で検出された遺構群だと思われます。
|
選んで狩りを |
ムラの狩猟場
➀ムラの対岸にある
②大勢のムラビトが強力して追い込む
(追う人~勢子、狩りする人に分かれて)
③いつでも狩りをするわけではない
秋口から冬にかけて
<選んで狩りを>
➀メス・オス→オスだけ
②大人・子ども→大人だけ
③動物の大小に分けて(成長に合わせ)季節、
④鳥は昼・夜→夜に |
穴の構造
|
あな 穴
➀落し穴―草をかけておく
②穴の底に餌を置く
③上がれないように逆茂木を立てる
(逆茂木は、動物を殺傷する為とされていた
穴の中の空間を狭めて身動きできないよう
にするためとしている。) |
|
|
|
33縄文の狩猟動物
氷河時代に大陸からやって来た動物
最も寒い20,000年前~15,000年前
海面の低下~今より -140m下がる
大陸と日本列島が陸続きとなる
|
氷河時代に大陸からやって来た動物 |
狩猟動物の移動 |
北から
マンモス体高約3.5m
北海道で3体
ヒグマ・オオカミ・ヘラジカ・野牛
南から
アオモリゾウ・オオツノジカ(体高約2m)・トラ |
渡来動物の移動ルートと日本列島
動物渡来のルート |
北方ルート
→間宮海峡→
→宗谷海峡→
→津軽海峡
北から
マンモス体高約3.5m
北海道で3体
ヒグマ・オオカミ・ヘラジカ・野牛 |
西方ルート
→対馬海峡
南方ルート
→南西諸島
南から
アオモリゾウ・オオツノジカ(体高約2m)・トラ |
青森県尻屋崎
出土化石 |
尻屋崎出土化石
ヒグマ・オオツノジカ・
トラ・・ニホンジカ
※津軽海峡は全面が氷結していて、大間・尻屋・竜飛といった先端だけでなく、どこからでも上陸できたようだ。 |
※20年ほど前、
朝日放送関西の企画で間宮海峡を歩いて渡る番組があった。
その頃までは、渡ることが出来た。
宗谷海峡を渡るにはやはり最大寒冷期が引き金であったと思われる。 |
縄文時代とは
縄文時代とは |
|
縄文の①時間区分と、②気温上昇と各イベント③植生の変化
(1)氷期(第4期)の終了15,000年前
1.5万年→1万年前の間に+8℃~+10℃気温上昇
世界中の氷、氷河が溶ける。
海水面が+140m上昇する。
6,000年前縄文海進。気温+2℃~+3℃。海水面今より数m上昇。縄文前期最大。
(2)森林(植物相)
針葉樹(トウヒ・トドマツ)⇒落葉広葉樹(ブナ・ナラ・クリ) |
|
(3)狩りの変化
大型動物
↓ ナウマンゾウ・オオツノジカ
中型動物
↓ シカ・クマ・イノシシ
小型動物 キツネ・トリ・ウサギ |
(4)道具の発明
火の発明と利用
槍→土器→弓
槍→土↓
で・・・人が人間となる。 |
土器の発明は
➀粘土で思い通りの形を
<焼くことによって固く、火に強い>
②火にかける容器
・これまで食べられなかった植物
・歯の弱い乳幼児老人に
・栄養面健康面に
③調理→保存へ
④人口の増加、ある程度の定住生活を |
|
|
|
35小川原湖湖沼群周辺における縄文時代の貝塚及び動物遺体出土遺跡
|
小川原湖北部地域
六ケ所村周辺 |
小川原湖南部地域
三沢市・東北町周辺 |
小川原湖周辺遺跡地図
|
この図は、縄文海進がピークを迎えたとされる縄文前期の初め頃(約6,000年前)、海水が現在の内陸部まで入り込んだ状態の小川原湖周辺の
イメージです。
赤い囲み線は遺跡(周知の埋蔵文化財包蔵地)の場所を示しています。
現在は内陸にある遺跡も、当時は海岸沿いに位置しているのがわかります。 |
縄文海進時の小川原湖
|
小川原湖北部 |
小川原湖中部 |
小川原湖南部 |
|
考察 小川原湖周辺に縄文遺跡が多い理由を想像する
|
農業を伴わなかった縄文人にとって、下北半島東岸の寒冷霧は生活上は問題にならなかった。35の上下の地図を見ると、下北半島の頸部が砂丘で埋まる前は、複雑で入り組んだ地形(現在は沼となっているが当時は海と繋がった内湾)であり、多くの浦があった。東側を流れる寒流からは北の海の豊かな魚群や海獣が南下し、内湾に入り込み、捕獲することが出来た。今と違って、当時の世界の海は魚であふれていたのだ。
縄文人達は頻繁に津軽海峡を往復していた。彼らの航海術は素晴らしいもので、サハリンから奥尻島、佐渡島まで行って居住し交易していた。津軽海峡を西から東へ流れる対馬暖流の川のような潮流ぐらいへでもなかったのである。
つまり、渡島半島を出て南(ホントは西)に向かって漕ぎ、潮流に乗ってそのまま進むと陸奥湾の入口を過ぎ、下北半島をまわって半島沿いに南下し、苦もなく三沢付近に漂着する。北海道へは、下北半島東端まで漕ぎ、暖流に流されながら北上し、南下する寒流に押し戻されて渡島半島にたどり着く。
考えてみると、今は農業不適の地だが、魚溢れる縄文時代にはアイスランドや北欧のような水産資源に恵まれた、別天地だったに違いない。
だから、沢山の縄文集落が成立して繁栄していたのだろう。 |
|
|
40天狗森貝塚 三沢市米軍基地内 縄文早期・前期
|
41石皿と磨石
|
42天狗森貝塚
|
43三沢市天狗森貝塚
|
貝塚は、姉沼より南東方向へ約300m奥まった標高約30mの丘陵にあり、1971年(昭和46年)に三沢市教育委員会が発掘調査を行い、
ハマグリ、アサリ、を主とした3枚の貝層から、シカ、ウサギ、ヤマドリ、キジ、タカなどの鳥獣骨や小型の組み合わせ釣針や朱塗りを施し、
刻線を持つカンザシの欠損品が出土している。 |
天狗森貝塚出土遺物 |
上に記述 |
ハマグリ・オオノガイ
・アカガイ |
オキシジミ・カキ
アサリ・アカニシ
・ウミニナ |
スズキの鰓骨 |
|
44三沢市早稲田貝塚 早期・前期 三沢市三沢早稲田455-1 早稲田5類・6類は縄文早期~前期初頭 ムシリⅠ式土器は縄文早期
|
貝塚は、小川原湖畔の標高約20mの丘陵にあり、1956年(昭和31) 佐藤達夫氏、二本柳正一氏らが発掘調査を行い、
ハマグリ、アサリを主とする貝層と、カキを主とする貝層からなり、前者の貝層からは早稲田V類式土器を、後者の貝層からは、ムシリⅠ式土器を検出しており、青森県内で、もっとも古い貝塚である。 |
三沢市早稲田貝塚
上に記述 |
|
ウラシマ
カキ・アカニシ・オキシジミ・アサリ |
ハマグリ
アサリ・カキ・サルボウ・アサリ・ハマグリ |
三沢市山中貝塚
アサリ・ハマグリ |
|
45三沢市砂ヶ森貝塚 縄文前期
|
貝塚は、海岸線より西方向に約300m奥まった砂丘にあり、1980(昭和55年)に三沢市教育委員会が緊急発掘を行い、オキシジミを主とした貝層からアサリ、ハマグリ、オオノガイ、ホタテ、などが出土しており、焼き石が約100個出土していることと合わせ、貝の加工場、魚介類採取のキャンプサイトであったことが推察される。
円筒下層d式土器が貝や焼き石と共に出土していることから縄文時代前期の貝塚で、全国的にも極めてまれな砂丘上の貝塚である。 |
砂ヶ森貝塚出土遺物 |
三沢市砂ヶ森貝塚
上に記述 |
動物骨 |
イチョウシラトリ、シオフキ |
ホタテ、イタボガキ |
アカニシ |
|
|
47魚骨・動物骨 |
48三沢市天狗森貝塚出土遺物
貝層断面
|
これまでの貝塚調査で貝類(骨類含)が廃棄されている場所は、生活に支障のない集落の外側などに範囲を決めて捨てているようである。
捨てる際、地面に穴を掘るなどの手を加えることはほとんどないが、廃棄された住居地の凹みや自然の凹みに捨てている例もある。
山中(1)貝塚の場合は、貝層の断面から判断すると、その都度捨てる量が入る程度の穴を掘っていたようである。
ここで注目したいのは、穴と思われる黒色土が入っている範囲の上端にのみ貝があることや、黒色土の中にほとんど貝類が入っていないことなど、これまでの貝塚調査では見られない廃棄の方法である。
貝類の捨て方に何か意図したものがあるか、捨てられたものは貝類(骨類含)だけかなど貝塚を研究する上で重要なものを示唆しているように思われる。 |
天狗森貝塚
|
貝層断面
上に記述 |
|
|
ハマグリ |
シオフキ |
アサリ |
天狗森貝塚出土
マグロ・タヌキ
クロダイ
真鯛・平目・鮭歯
骨製カンザシ |
骨製カンザシ |
マグロ・クロダイ
※冬の黒鯛、夏のマグロ釣りですね。 |
|
|
|
|
|
50土器形式の変遷(縄文早期)
(大新)→根井沼式→小舟渡平式→白浜式→寺の沢式→吹切沢式→館式→蛍沢AⅡ式→鳥木沢式という変遷が予測される
引用岩井堂洞窟における早期貝殻沈線文土器の系統と変遷
|
51根井沼式土器
根井沼遺跡からは、
日計式+白浜式+小田内沼1群3類+寺の沢式+蛍沢A2式+ムシリ1式+早稲田5類+表館12群+長七谷地3群+表館式+早稲田6類
もの形式の土器が出土した引用根井沼(3)遺跡
※多種類の土器は、各地から沢山の人々の往来、交流の盛んな集落だった。こういうのを拠点集落というのかな。
|
52土器模式図 小田内沼(4)遺跡出土
|
A類 白浜式土器
B類 根井沼式土器
C類 小田内沼Ⅰ群3類土器
D類 寺の沢式土器 |
|
|
|
|
53石器・土器
|
|
|
55旧石器時代
|
56青い森で初めて姿をみせた人々
|
|
20,000年前の石器 |
ナイフ形石器
長5.7cm、6.2cm
三沢市淋代平遺跡 |
先史時代年表 |
|
57ナイフ形石器の分布
|
④石器の種類には、ナイフ、彫刻刀、掻器、削器のほか、刃の周辺だけを磨いた局部磨製石斧などがあります。
⑤ナイフ形石器の形や作り方には、地域により、特色があります。本県から出土とするものは、東日本の特に日本海に広く分布する形状のものです。
※小川原湖の人々は、日本海側からやって来たということのようだ。 |
ナイフ形石器の分布 |
上に記述 |
上に記述 |
物見台遺跡 |
ナイフ形石器のでた、物見台遺跡は尻屋崎灯台の場所である。
こんな所で狩猟・解体したのか、見張りをしていたのか、
それとも居住していたのだろうか。
見晴らしがよいので海獣狩猟に最適の場所だったのでしょう。 |
上に記述 |
物見台遺跡出土石器
1・2・4・5・ナイフ形石器
3・6掻器 |
旧石器時代の
石器分布圏 |
北海道:典型的なナイフ形石器のない地域である
東日本:縦型ナイフ形石器分布範囲
日本海側を含む地域は、杉久保・東山型ナイフ形石器分布
太平洋側を含む地域は、茂呂型ナイフ形石器の分布
西日本:横型ナイフ型石器分布範囲
国府型ナイフ形石器の分布地域
九 州:両種ナイフ型石器分布範囲
茂呂型類似のナイフ型石器の分布 |
|
58石刃技法
|
①石器の材料となる石から、おなじくらいの大きさの細長い剥片(石刃)を数多く作り出す技術です。
②約3万年前~1万年前までの長い間、石器を製作するための基本的な技術でした。 |
石刃技法 |
|
大平山元Ⅲ遺跡出土の石器
|
1・3ナイフ形石器
3彫器
4・5尖頭器状削器 |
石刃技法の模式図 |
①石刃核と石刃の接合状態
高さ19.8cm大平山元Ⅱ遺跡
石刃を造り出す順序がよくわかる
②石刃技法の模式図
③間接打法と直接打法 |
|
|
59旧石器時代
この右端が
旧石器時代 |
旧石器時代コーナー |
ナイフ形石器
淋代海岸
|
淋代海岸
旧石器時代 |
|
|
|
60縄文時代
|
縄文土器
|
61早期土器
|
62吹切沢式土器:縄文早期の土器。土器は砲弾形の尖底で,口縁下に刺突文を横走させ,胴部には貝殻の腹縁部を縦に押しつけた文様がある。
|
尖底深鉢形土器
吹切沢式土器
小山田(2)遺跡 |
尖底深鉢形土器
吹切沢式土器
小山田(2)遺跡 |
尖底深鉢形土器
吹切沢式土器
小山田(2)遺跡 |
尖底深鉢形土器
寺の沢式土器
小山田(2)遺跡 |
尖底深鉢形土器
寺の沢式土器
小山田(4)遺跡 |
|
尖底深鉢形土器
寺の沢式土器
根井沼(1)遺跡 |
尖底深鉢形土器
寺の沢式土器 |
尖底深鉢形土器
根井沼式土器
根井沼(1)遺跡 |
|
|
|
63押型文・原体
|
|
押形文土器 早期
日計式土器
三沢市で最古の土器
小田内(3)遺跡
|
|
|
押形 |
各種の復元押型文原体
根井沼(1)遺跡出土 |
押型の実際 |
深鉢形土器 早期
ムシリⅠ式土器
天狗森貝塚 |
深鉢形土器 早期
ムシリⅠ式土器
小田山(2)遺跡
|
尖底深鉢形土器 早期
吹切沢式土器
小田山(2)遺跡
|
深鉢形土器 早期
ムシリⅠ式土器
天狗森貝塚 |
|
|
65前期土器
|
|
丸底深鉢形土器
天狗沢遺跡
|
深鉢形土器 円筒土器下層a式
米軍基地内
|
|
中期土器が欠落している(※写真未撮影ではなく未展示)
|
67後期土器
|
壺形土器
十腰内Ⅰ式
小田内沼(1)遺跡
|
|
深鉢形土器
米軍基地内 |
甕棺
小田内沼(1)遺跡 |
縄文の棺桶
一次葬後の骨を埋納 |
カメ棺 縄文後期
小田内沼(1)遺跡
十腰内式土器と |
鉢形土器 十腰内式土器
姉沼基地内出土
|
鉢形土器
十腰内式土器
小田内沼(1)遺跡 |
鉢形土器
十腰内式土器
小田内沼(1)遺跡 |
鉢形土器
十腰内式土器 小田内沼(1)遺跡 |
|
|
68晩期土器 野口貝塚
|
鉢形・台付鉢形・壺形
野口貝塚 |
台付鉢形・鉢形
縄文晩期 野口貝塚 |
鉢形土器 |
|
注口・台付鉢形・壺形 |
壺形土器
球胴壺と言うべきか |
台付鉢形土器 |
注口土器 |
|
|
|
|
70弥生時代
|
※三沢市にも、弥生早期・前期の遺跡はあります。
|
71弥生土器
|
72弥生中期
先史・古代の三沢市
|
三沢市には、縄文時代から弥生時代、奈良、平安時代にわたる遺跡が数多く所在します。
特に早稲田貝塚、野口貝塚、天狗森貝塚など縄文時代早期から前期の貝塚が小川原湖周辺に多く分布しています。
縄文時代早期から前期には縄文海進と言って海水面が約5mほど上昇し、小川原湖は深い入り江になった時期があります。
貝塚はそのことを裏付ける貴重な資料であり、出土する貝類や魚骨、獣骨などによって当時の自然環境や人々の食料の内容を知ることができます。
弥生時代の遺物としては、弥生式土器や北海道系の後北式土器が出土しています。 |
|
小川原湖周辺遺跡分布図
|
小山田(2)遺跡出土物 |
鉢形土器
馬場野Ⅱ式土器
小山田(2)遺跡
弥生前期 |
甕形土器 馬場野Ⅱ式土器
小山田(2)遺跡 |
甕形土器 小山田(2)遺跡 |
|
73弥生初期
籾圧痕のある土器 弥生時代初期 天狗森貝塚
|
砂沢式土器というのは土器の形式名で、弘前市砂沢遺跡から出土した土器につけられた名称です。
昭和63年に砂沢遺跡から、(弥生時代初期の) 砂沢式土器がつくられていた時期の水田跡が発見されました。このことは、、北部九州から東北地方北部への稲作の伝播が予想以上に早かったといえます。
三沢市から発見されたこの籾圧痕の付いた砂沢式土器は将来三沢市でも、「水田跡の発見」という大きな期待を持たせてくれる小さな土器です。 |
鳥海山式土器
縄文晩期から弥生後期の土器形式の変容
縄文時代晩期終末の大洞A’式に続いて、谷起島(やきしま)式(岩手県一関市谷起島)→志藤沢(しとうさわ)式(秋田県南秋田郡若美町)→
→田舎館式(本県の田舎館村垂柳)→常盤(ときわ)式(岩手県水沢市佐倉河)土器という編年が提起された。
本県では橘善光による編年が次のように試みられた。
(弥生中期)五所式→二枚橋式→宇鉄式→田舎館式→(+)→(弥生時代後期)念仏間(ねんぶつま)式→鳥海山式→烏間(からすま)式、
近年は、
(弥生時代前期)砂沢式→五所式・二枚橋式→(弥生時代中期)宇鉄Ⅱ式・井沢式→田舎館式→(弥生時代後期)念仏間式→天王山式(鳥海山式)の他、
(1期)砂沢式→(2期)五所式・井沢式・二枚橋式→(3期)宇鉄Ⅱ群→(4a期)田舎館2群→(4b期)垂柳Ⅲ群→念仏間式・大石平Ⅰ群→
→鳥海山式・大石平Ⅵ群2類という編年も考えられている。 |
|
75弥生後期
|
76弥生中期
|
77弥生後期・古墳
後北式土器
|
小田内沼(2)遺跡
根井沼(1)遺跡 |
小田内沼(2)遺跡 三川目遺跡 |
後北式土器 |
|
|
※西日本のような、弥生時代から古墳時代への、支配体制の明確な変化はなかったようです。
また、下北半島までヤマト政権の支配が及ぶのにはずいぶん時間がかかりました。 |
|
78奈良時代
小田内沼(1)遺跡 |
|
湯釜用長胴甕
甑 |
坏(つき)
小田内沼(1)遺跡 |
甑(こしき)
小田内沼(1)遺跡 |
甕
小田内沼(1)遺跡 |
|
|
80平安時代
|
81
平安時代 |
|
82先史・古代の三沢市(72から続き)
|
三沢市には、縄文時代から弥生時代、奈良、平安時代にわたる遺跡が数多く所在します。
特に早稲田貝塚、野口貝塚、天狗森貝塚など縄文時代早期から前期の貝塚が小川原湖周辺に多く分布しています。
縄文時代早期から前期には縄文海進と言って海水面が約5mほど上昇し、小川原湖は深い入り江になった時期があります。
貝塚はそのことを裏付ける貴重な資料であり、出土する貝類や魚骨、獣骨などによって当時の自然環境や人々の食料の内容を知ることができます。
弥生時代の遺物としては、弥生式土器や北海道系の後北式土器が出土しています。
・・・(続き)
奈良、平安時代には東北地方に蝦夷と呼ばれた人々が住んでいました。
人々はカマドを設けた竪穴の家に住み、大和朝廷の影響によってもたらされた土師器、須恵器や鉄器を使うようになります。
平安時代の和歌に、"をぶちの牧"と読まれたように、小川原湖周辺には古代の牧場があり、日本有数の馬産地でした。 |
先史・古代の三沢 |
小川原湖周辺遺跡
分布図
|
|
|
90平安時代
|
91古代の鉄作り集団の移住
|
①古代の鉄作りは、中国大陸から採鉱・製錬などの技法が、島根・鳥取地方に伝わった。
※たたら技法は最初瀬戸内側から岡山東部・兵庫西部に伝わり、その後、良質の原料を求めて島根鳥取に移動した。
②そこ(島根鳥取)の鉄作り集団の一部が、988年頃、新地を求めて日本海を北上し、その一部が津軽海峡を渡り、東通村猿ヶ森・六ヶ所など、
太平洋岸を南下した。
③三沢の海岸に到着した集団は、三沢北部の谷地頭(今の金糞平=かなくそだいら)で鉄作りを始めた。
④鉄作り集団は、一群60名位で家族あわせ300名ほど。
その役割は、… |
カンナヤ=海岸砂より砂鉄を採る。 |
|
フカヤ=タヌキの皮でフイゴをつくり、松炭を作る。ズクやハガネを販売する。 |
|
ミサワ=ズクをもう一度加工して、上質の玉ハガネをつくる |
⑤その製鉄の工程で生まれたのが「鉄滓・カナクソ」である。 |
|
考察 津軽海峡から来た製鉄集団
|
※上の記述は大変重要で、これまでの一般的な製鉄の伝播(製鉄集団の到来)は、
『中国地方日本海側→新潟県柏崎→関東→南東北太平洋側→東北地方を北部へ』との見解だった。
しかしこれだけでは下北半島斧柄部である三沢~六ケ所村以北のヒバの原生林が切り払われて原野となり、そのために太平洋からの飛砂で砂丘に覆われてしまったことが説明できないし、彼ら伐採製鉄集団がどこから来たのかもわからなかった。
下北半島頸部を剥げ山砂丘にしてしまったのが、なんと、島根鳥取から来た鍛冶集団であることがわかり、その後の原野に南東北から和人・半島人・エミシなどの馬産業者が入り込んで有名な馬育産地を形成したことが分かったが、木材資源が枯渇した鍛冶集団はどこへ行ったのだろう。
この後の鉄生産の中心は岩木山山麓に移るが、そこでの製鉄はたたら製鉄ではなく関東方面から来た半島系の円筒形製鉄炉で、直方体のたたら製鉄炉は絶えてしまっている。下北半島頸部の広大に地域に繁茂していた広大なヒバの大木の原生林を伐採しつくし、木炭に変えてしまうには、相当長期間を要したと思う。彼らが生産した鉄製品はどこへ運ばれ、その後の製鉄集団はどこへ消えてしまったのだろうか。 |
|
古代の鉄作り集団 |
古代の鉄作り集団
上に記述 |
カナクソと出土した
フイゴの羽口 |
鉄滓(カナクソ)
☆砂鉄
|
①上北地方(青森県県南地方)には、旧天間林村の山砂鉄、三沢海岸の浜砂鉄が有名
②いずれも古い地質時代の海岸に堆積されたもので、淋代海岸にはかつて埋蔵量1800万トンもあった。(昭和30年1955)
③太平洋戦争中から、昭和50年代まで多くの鉱山会社が入り、掘り尽されてしまった。 |
☆松炭(マツのスミ)
|
・製錬には、大量の薪炭が必要とされる。
・これには脂分が多く炎が大きく火力の強いアカマツが多く利用された
・1000年前も三沢市の森林を見ると、ブナ・松林が優勢であったが、<1000年前>を境にブナ林が特に大減少していくことになる。
~花粉分析結果~ |
☆タタラ
|
高殿と呼ばれる〔立て型鉱炉〕の中に松炭と砂鉄を入れ、、その下から大型フイゴで送風しながら、交代で3日間踏み続けて大量の鉄を生産した。
[タタラ]と[フイゴ]を合わせて一たたらと呼ぶ。(1たたら) |
鉄滓(カナクソ) |
金滓カナクソ
三沢市金糞平畑地
高20cm幅20cm重8kg |
|
92平安時代の鉄生産と製品
鉄生産と製品 |
刀子(平安時代)
小田内(3)遺跡
鉄製ナイフ |
刀子・つも(麻糸巻き)
平畑(3)遺跡 |
羽口 小田内(3)遺跡
送風口 |
鉄製紡錘車:平畑(3)
籾痕土器 |
|
鉄製紡錘車
平畑(3)遺跡 |
籾痕土器
庭構1遺跡 |
|
鉄滓 |
皇宋通宝 |
皇宋通宝
北宋、初鋳年西暦1039年。
中国で作られた通貨で、日宋貿易に伴って流入してきた。 |
|
|
100石器 |
101石器の分類
※①こんな分類の仕方があるんだと、、感心した。
※②「素材・加工」まだ見ぬ石器の名前がこんなにあったのかと、驚きました。
|
103縄文人と漁撈
|
日本は 世界有数の漁撈国である。漁業は遥か昔の縄文時代から盛んに行なわれていた。
縄文人の漁撈活動は、主に、貝層や貝の採取と漁である。
貝塚から出土する魚骨製、石製の漁具の研究から、当時は釣り針漁、銛やヤスによる刺突漁、網漁であったことが分かってきている。
漁具の材質は違うが、漁法は今日のものと近似している。三沢台地の北、東、西が海に囲まれていた縄文時代において、
漁業は生活を支える重要なものであったと思われる。 |
|
石錘の装着方法
定置網漁があったのか知らなかった |
|
|
丸木舟の製作工程 |
祭祀遺物
|
104土製品・装身具
|
縄文時代のほぼ全期に渡り、用途不明の土製品が各種作られた。後期の頃から種類、量ともに増加する。これらの中には日常生活とは、直接結び付け難い土製品が多く含まれ、ている。鐸形、円盤状土製品はその代表的なものである。祭祀、儀式、呪術、埋葬、祈願などの原始信仰、風習、行事などの時に使用された物であろう。
狩猟、採集活動に追われた毎日を過ごした縄文人も身を飾ることを怠らなかったようである。ここに展示してある骨格製ヘアピンや耳飾りのほかに貝製腕輪、動物のキバなどをつないだ首飾りなどが身を飾るアクセサリーとして作られた。
しかし、単に身を飾るためのアクセサリ―としてだけでなく、他の土製品と同様に、信仰や祭礼に関わりのある器物として作られ、使われた物であろうと思われる。 |
|
105調理の道具
|
縄文人の食生活の中心を、動物の肉や魚介類であると考えている人が多い。
実際に貝塚を発掘してみても貝の総量は集落の人口に対しそれほど大きなものではない。
縄文人の食生活のかなりの部分が木の実や根菜類に頼っていたことは十分に考えられることである。
ここでは、調理の道具として植物質食料を対象とした石器を扱った。 |
有孔石製品
動物型土製品 |
石皿とすり石 |
石皿とすり石 有孔石製品
動物型土製品 |
調理の道具
上に記述 |
半円状扁平打製石器
(砥石or 石鋸)
砥石・砥石・石匙 |
|
106工具
縄文時代の石器の特徴
|
旧石器時代の石器の特徴は、ナイフ形石器、彫器、錘器、尖頭器、石斧形石器、石刃、掻器などが代表的であるが、その種類は意外と少ない。
また、ナイフ形石器の様に、元々は複数の機能を持ち、名称や形態からは、その機能や用途を明らかにできないものが多い。
これに対して、縄文時代の石器はより機能分化が進み、石器の種類(器種)がはるかに多くなっている。
一方、彫器や石刃の様に旧石器時代の終りと伴に消滅するものもある。 |
石匙
|
動物を解体調理する道具、または、木や骨を削る工具としての使用も考えられる。
つまみにタール状のものが付着しているものが多く、、つまみにヒモを付けた石匙を腰にさげ、携帯用の万能利器として使っていたとも考えられる。
※縦長の東日本系と横広の西日本系石匙が出土している。紐をつけて腰に下げていたとある。普段は腰に下げていたかもしれないが、
シカなどを解体するときに、
右手に石匙をにぎりっぱなしでは仕事ができない。手放したら、行き場が分からなくなる。紐は手首にくくっていたのではないだろうか。
腰では遠すぎて使いにくい。腰から外したら、どこに行くかわからない。手首に着けるために革紐で手首に付けて作業していたと私は思います。�
腰に付けていたとする仮説では、紐がすぐに摩耗して切れてどこかに落としてしまうと懸念する。解体作業時に手首に紐を掛けておいて
見失わないようにするために紐が付いていたのではないかと思う。
旧石器・縄文時代は、現代のように、アスファルトやコンクリートの道はなく、けもの道のような踏み分け道だけです。
そこで、ブラブラと、現代の若者のように、長財布に付けたチェーンを腰に下げてジャラジャラさせていたら、引っ掛かって歩けないし、
切れて落ちてしまう。ブッシュの中に石(石器)を落としたら探しに戻っても見つかりっこないわなぁ。みんな同じ色やでね。 |
石ベラ |
木や皮の切削具、あるいは皮なめしなどの
掻器として使われたであろう。 |
石匙
上に記述 |
石匙 |
石錐
木・皮・骨角器などに孔をあける道具 |
|
縄文石器の特徴
上に記述 |
農具、工具
(石匙)
右に記述 |
この中には一部、調理に使われたものも含まれるであろうが、
縄文時代の石器群の中では、最も多様かつ器種の多いものである。 |
|
|
|
石斧
|
石匙 |
擦切磨製石斧
すりきりませいせきふ
笹貝沢貝塚 出土 |
|
|
|
|
磨製石斧 |
磨製石斧 |
木製の柄につけ、樹木の伐採、加工あるいは土堀具、または武器としても使われたであろう。
解体具もありか |
|
|
|
|
107狩猟・漁撈
狩猟に使われた石器
|
縄文時代初頭期の狩猟具は、先土器時代的な色彩を強く残しているが、画期的な発明である弓矢の発生とともに
石器群の構成は大きな変遷をたどるに至っている。 |
磨製石斧・矢 |
石錘
右に記述 |
石錘
一般的には、漁業用の網のオモリと考えられている。
石の両端を打ち欠きエクリを入れる。
このエグリに網の幹綱をくくりつけてオモリとした。 |
石鏃 |
矢・石鏃
右に記述 |
石鏃
矢の先端につける石製の矢尻である。
縄文時代の石器の中でも最も代表的なもので、遺跡から発見される数も多い。 |
・石槍
・狩猟につかわれた石器 |
石槍
右に記述 |
石鑓
木製の柄の先につけ、獣を突き刺す槍先としてのみでなく、ワキの薄い部分を刃とした、ナイフのような道具にもなる。 |
狩猟に使われた石器
上に記述 |
|
|
|
|
110野口貝塚 三沢市大字三沢早稲田298−123 早期~晩期
野口貝塚と野口コレクション
|
野口貝塚は、縄文時代早期から晩期まで非常に長い年代に渡って営まれた遺跡です。早期には貝塚を形成し、晩期の遺跡としては小川原湖周辺でも多く遺物を出土しています。
早期の貝塚からは、アサリ、ハマグリ、シオフキ、カキ、などの貝類の他もシカ,イノシシ、イヌ、クジラ、アシカ、スズキ、マダイ、鳥骨などの骨類が数多く出土し、豊富な食料資源に恵まれた自然環境にあったことが知られています。
この野口貝塚から出土する晩期の遺物を収集した野口和三郎氏は、昭和54年に全資料を三沢市に寄贈されました。
野口氏は、三沢市文化財審議委員を勤め、埋蔵文化財や天然記念物の調査と保護に功績を残し、三沢市文化賞、三沢市善行賞を受賞しています。 |
|
111
|
野口貝塚と野口コレクション
上に記述 |
野口貝塚
|
縄文早期~前期
標高12m~20m
貝類は汽水産 |
上層はアサリ、下層はハマグリ。貝質低下
混在する骨種
獣類-猪・鹿・狸・犬・兎
魚骨-スズキ・メバル・平目・真鯛・ボラ
海獣-アシカ、クジラなど |
貝は効率の悪い食料
ハマグリ1kgの
中身250gで160cal
栗1kgの
中身700gで1260cal |
野口コレクション
|
野口コレクション
|
土器のいろいろ
深鉢形土器
赤色漆塗壺形土器
遮光器土偶 晩期×2
深鉢形土器 後期
石刀 33cm完形
|
尖底土器 早期後半
赤御堂式土器
深鉢形土器 後期
十腰内式土器
注口土器 後期
十腰内式土器 |
|
|
|
112
|
野口貝塚出土貝類 |
|
|
|
|
|
|
石鏃
|
石匙
|
石ベラ・石槍
|
磨石・石斧、環状石斧 |
|
113
|
114
|
|
尖底土器 早期
土器片錘 |
小型鉢形土器
縄文前期 |
尖底土器 早期
|
尖底深鉢形土器
縄文早期 |
|
115縄文晩期 野口コレクション 野口貝塚
|
壺形土器 晩期 |
鉢形土器 晩期 |
注口土器 晩期 |
注口土器 晩期 |
注口土器 晩期 |
注口土器 晩期 |
注口土器 晩期 |
台付鉢形土器 晩期 |
台付鉢形土器 晩期 |
深鉢形土器 後期 |
|
|
117
|
118野口貝塚と野口コレクション
|
|
小型鉢形土器 晩期 |
小型壺形土器 晩期 |
土製品 晩期 |
遮光器土偶
※野口コレクションは野口貝塚出土物の蒐集であるので、亀ヶ岡式土器や遮光器土偶も三沢出土となる。
当然ながら、三沢市も亀ヶ岡式土器文化圏にあった。
|
|
|
|
120野口貝塚 |
121朱漆塗土器 晩期
|
123後期土製品
|
123土偶 縄文後期 野口貝塚
|
124土器 野口貝塚
野口貝塚 |
十腰内式土器 後期
|
十腰内式土器 後期
|
尖底土器 早期
|
十腰内式土器
縄文後期
野口貝塚 |
尖底土器
縄文早期
野口貝塚 |
|
|
130野口貝塚出土品
|
石ベラ・石錐 |
石槍・石鏃 |
石匙
|
石匙
|
石匙
|
石匙
|
石皿
|
独鈷石、石冠、
打製・磨製石斧
|
石刀 縄文時代
|
|
|
|
|
200近世
|
210木崎野と小比類巻文書 参考近世南部藩の九牧に関する歴史地理的研究
|
南部地方は鎌倉時代から多くの牧場があり、室町時代には8,000頭もの馬の放牧がおこなわれていました。
江戸時代この地方を治めていた南部藩は9つの牧場を持っており、中でも一番広かったのが現在の三沢市からおいらせ町・六戸町・東北町・十和田市の一部に及ぶ「木崎野」でした。
嘉永18年(1641)、南部藩主の命を受けた小比類巻掃部助(こひるまきかもんのすけ)は野守として浜三沢に住みました。
小比類巻文書は木崎野の管理運営の記録を中心とした100点に上る江戸時代の文書です。
文書には牧場の管理運営のほかに製塩、新田開発などの産業、凶作対策等当時の生活全般にわたって記録しています。 |
|
木崎野 |
木崎の牧の御馬捕りの
様子 |
野焼き
|
野焼き 春・秋二度(?)
ススキ類→灰=肥料→→若芽=餌に
始めは冬でも外で飼うが、後半は一時厩舎に冬籠り |
木崎の牧 江戸後期 |
木崎野と小比類巻文書 |
木崎野と小比類巻文書
上に記述 |
小比類巻文書 |
|
|
日本初の民間洋式牧場
|
日本初の民間洋式牧場
日本初の民間洋式牧場
|
開牧社
○斗南藩・斗南県消滅後、斗南残留の意
○悪条件の土地→牧場として活用
○アーネスト・サトウの助言により
(英国大使館書記官)
様式牧場・イギリス人2人、洋式農具
洋馬の移入・・・計画
|
|
・大久保利通 |
・松方正義 |
間接 |
支援者 |
・高橋正風 |
・仁札景範 |
直接 |
・木戸孝允(桂 |
小五郎) |
|
|
・谷干城 |
・渋沢栄一等 |
|
・明治5年5月三沢の谷地頭でもと南部藩直営の牧
「木崎野」の一部2390町歩を政府から借用後に
払い下げをうける。
・イギリス人 |
|
ルセー(英語教師・通訳) |
|
|
マキノン(牧夫・農夫)スコットランド出身5年間働く |
|
|
➀洋牛・綿羊、◎農機具づくり、○農機具の輸入
②品種改良
③混合農業(小麦、カラス麦…)
④酪農(義雄乳、チーズ、バター) |
|
|
220斗南藩の移住と開拓
|
明治時代になると戊辰戦争で敗れた会津藩は現在の青森県下北郡・三戸郡・岩手県二戸郡に移封され、トナミ藩として再興を許されました。
明治3年春から人々の移住が始まり、藩士とその家族を会わせて17,000人もの人数に上りました。
翌年、明治政府によって廃藩置県となりました。(※旧幕藩体制下が消滅したため藩替えに従う義務も消滅し、全国どこででも暮らせるようになった)
斗南藩は近隣の藩と合併して青森県となりました。斗南藩に移り住んだ会津の人々のうち大半が生まれ故郷に戻ってしまいましたが、三沢の北山・南山に約100戸が入植しました。慣れない農業に加え、「ヤマセ」の吹く自然条件が厳しい土地にあって開拓が思うように進まず、非常に苦労しました。 |
明治・大正・昭和の三沢
|
|
斗南藩の移住と開拓 |
明治・大正・昭和の
三沢 |
明治末の汽車 出征兵士、三沢駅 |
三沢まつり 昭和初期
三沢で買った山車を引く |
本町踏切付近
昭和30年代かな |
悪路の古間木 |
明治・大正・昭和の三沢 |
市制施行 |
ゴム跳び |
|
駅前タクシー |
蒸気機関車三重連 |
明治大正昭和の
三沢駅 |
|
|
|
|
|
230神楽面 道化には見えねェ~。化け物の、百鬼夜行のお面だ~。
※神楽の普及
|
なぜか、日本中の山奥などで神楽が盛んに行われているのです。あるいは、残っているのです。
この理由を考えていましたが、先日、TVで答えをサラッと言っていましたが、忘れました。
ただ、政治的な意図があって故意にこのような芸能を持ち込んだようです。 |
|
|
240過去の津波の記録 |
241東北地方は定期的に津波の災害が起こるので、大変です。
|
|
300民俗
|
301民具
|
火棚の利用 |
水瓶・水桶・岡持・酒樽・木臼と杵 |
むしろ編み機?
上にダツかコモが下がっていて、下に
飾り編みのアンペラがある。ってれ何? |
年中行事 |
干し柿の棚 |
|
|
この地方の家(直家)
の間取図 |
この地方の家(直家)
の間取図 |
家の間取り |
|
昔の道具など
|
320機織りの道具
|
資料名「べんけい」
|
糸玉、紡錘車
近代まで使用していた |
糸
光沢がある。絹糸か。 |
樹皮の糸か
|
資料名「糸車」
元は糸車にかけていたのでしょう |
糸車
三種ありますが元はそれぞれ個別の名前が |
糸車
あったのでしょうが、館員にもわからなくなった |
糸車
左端の大きな糸車から糸を巻き取る道具 |
|
縦糸をかける
横糸の杼(ひ)
シャトルともいう |
撚糸機 |
|
|
筬 さお
|
|
伸子 しんし |
糸車
|
|
|
|
|
|
|
|
330東北地方太平洋沖地震
|
2011.3.11地震は、福島県だけでなく、関東から北海道まで広い範囲で大きな被害を起こしました。報道があまりにも偏っていただけです。 |
|
|
|
|
|
|
|
四国香川県詫間町でも見た、館内トイレにドアがない構造。
悪臭も、音も館内に響きますが、なぜドアを付けて音や臭いを遮蔽しないのでしょうか。 |
|
|
|
|
|
340博物館周辺遊歩道
博物館脇から湖方向へ |
小田内沼(海跡湖)
おだないぬま
不気味で泳げない |
小川原湖
目前にオートキャンプ場 琵琶湖とは違う怖さ |
落ち葉もなく、誰かが毎朝掃き掃除をしている遊歩道です |
鬼才寺山修司記念館のステージがあり、 |
寺山的な外観装飾の記念館 |
来た時は乳牛が沢山いたが、餌をもらいに帰ったようだ |
平坦で真直ぐな道路。120kmで走っても誰も出てこない。 |
でも、決して先頭を走らないでください。
時々ネズミ捕りが。 |
捕まったら即免停。
とレンタル店にいわれました。100kmで走行。 |
太平洋からの強風が作った砂丘の上です。
余りに平坦です。 |
作物の多くは山芋。夏場の寒冷霧で不作が多く離農が絶えない。
明治政府がここに藩を設定し会津を藩替えした。不毛の大地で武士が、現在も苦しみ続けている。米軍や自衛隊に売却できれば、離農できる。 |
|
|