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 西日本の縄文41  2019.8.1-2

 上淀白鳳の丘展示館 鳥取県米子市淀江町福岡977-2 0859-56-2271火休撮影可


交通 レンタカー
 「淀江ゆめ温泉」0859-56-6801を目印にして、道路の向かい側にある。
      徒歩淀江駅より20分
      地域バス:上淀白鳳の丘展示館前下車、時刻表リンク・新しいウィンドウで開きます 経路図 2時間に1本
       
特徴 上淀廃寺の復元
絵画土器
石馬。九州以外で唯一の出土。石馬谷古墳近く。
       
  感想   古墳の築造に代わって、列島で一斉に始まった寺院建築。
寺院の管理運営は施主の豪族である。寺院の消長は豪族と伴にあります。
上淀廃寺の消長を知ることは、他の廃寺の典型といえます。

 付近の施設案内
  施設:伯耆古代の丘公園 、淀江夢温泉白鳳の里
  遺跡:上淀廃寺跡石馬谷古墳向山古墳群岩屋古墳(向山1号墳)
  近隣の遺跡:妻木晩田遺跡



 



00伯耆古代の丘公園
01古代ハスの園

100上淀白鳳の丘展示館
101外観
111上淀廃寺が建てられた背景
 淀江の地理と淀江平野の変遷

考察 古代寺院
 寺院建築
 寺院の維持
 上淀廃寺の経営

 地理・地形
112淀江の地理と淀江平野の変遷
115伯耆古代の丘周辺地形模型

116旧石器時代~縄文時代
 旧石器時代
 縄文時代
 富繁渡り上り遺跡

資料 鮒ケ口遺跡・河原田A・B遺跡
資料 井手跨遺跡
資料 西川津遺跡

120原始の淀江
122縄文前期の石器
123縄文後・晩期の遺跡

考察 曽畑式土器と西日本

 弥生時代
124淀江の原始の生活・文化
125絵画土器
126弥生時代中期遺物
127絵画土器
130蘇る弥生の国邑
131妻木晩田遺跡
133木製農具

139迷子写真 古代~中世
 石製相輪

 古墳時代~古代
140古代の淀江
 淀江の古代の生活・文化

141古墳時代
142石馬

資料 石人石馬
 石馬(レプリカ)

考察 石馬と九州磐井文化
考察 淀江の石馬と磐井氏

144岩屋古墳 古墳後期
145閉塞石
150埴輪
151井手挾3号墳出土形象埴輪
152動物埴輪
153人物埴輪
154器財埴輪
155土器

 古代 飛鳥時代
170上淀廃寺の建立
171上淀廃寺の経過と経緯
172確認された足跡
174上淀廃寺跡出土物

178淀江の石馬

200第2室
 復元された金堂

201上淀廃寺金堂
 如来像・菩薩像
Ⅰ類の壁画(初期造形)
Ⅱ類の壁画
209建築の復元設計
210奈良時代以降の堂内
212塑像
220出土した塑像片
221塑像の復元製作
222復元過程

223壁画断片
240堂内を復元しうる断片
250創建時の群像
252塑像
 
 00伯耆古代の丘公園
   いろいろな種類のハスが植えられていて、大賀ハスもあるそうです。
 01古代ハスの園

とてものんびりした

いい所でした。

ここには古代ハスの
大賀蓮もあり

結構、早朝から楽しめそうです。

先を急ぐ私はグルッと

まわって帰りました。
淀江町営淀江ゆめ温泉白鳳の里左手に楼閣があり、背後、に写っている森は 全て向山古墳群である
石馬谷古墳もある。
 






 100上淀白鳳の丘展示館


  「淀江」とは、水流のおだやかな(滞留した)、湾状の土地の意味で、船舶の係留地として、交通の要衝です。

 101上淀白鳳の丘展示館外観
第1展示室入口

 111上淀廃寺が建てられた背景
国指定史跡 上淀廃寺跡は、平成3(1991)、法隆寺金堂壁画と並ぶ日本最古級の仏教壁画が出土した、白鳳期寺院の堂内の荘厳を復元し得る、数少ない遺跡です。この上淀廃寺が建てられた淀江平野周辺は、交通の要所として、また、天然の良港として、山陰の古代文化の黎明期を受け持った重要な拠点でした。
ここでは淀江平野周辺の古代文化の集大成の一つである上淀廃寺が建てられた地理的・歴史的背景を紹介します。

 淀江の地理と淀江平野の変遷
「淀江」の地名は「よどんだ入江」からきているようです。その名の通り、古くは潟湖だったという地理的特性から、豊かな自然に恵まれ、原始より人々が生活し、活動を行っていたことを思わせる遺跡が数多く発見されています。

また、他地域との交流を示す遺物も見つかっており、陸上・海上両面で交通の要所であったことがうかがえます。


考察 古代寺院

 寺院建築
古代に、中国との外交交渉に於いて、蛮族、として相手にされないことを恐れ、大陸の制度を取り入れ、律令・戸籍・道路・都市計画、地誌、国の歴史書の作成などの、制度や施設、文化などの唐風化を行い、
更に宗教も原始宗教の呪術でなく国際的に認知された同じ宗教を採り入れることによって、文明国として認知されるよう制度を改めた。

この時期にはまだ、広い地域を国として支配していた地方豪族は(後に中央政権によって国を小分割され財力と権力をそがれていった)、古墳に変わる権勢の発露の場として寺院建築を行った。氏寺(有力氏族の寺の意)は、豪族の支配する地方にも建立し、都で住まう領地にも建てた。奈良の古代廃寺分布図には、近接していくつもの寺院が建立されている。各豪族が競って建てたものであり、贅を凝らし、華美で、人目を引くいろいろな伽藍配置も考えて建築された。

有力者は個人でいくつもの寺院を建立し、ヤマト政権の大王やその妻などは、政権の財力に任せて気ままに寺院建設をおこなった。
これらの寺院建設は短期間で行えるものではなく、設計図のない当時は、大変優秀な職人たちが、多数半島から呼び寄せられ、幾種類もの専門的な職人が様々な地域を移動し、それぞれ別々の作業内容を担当しながら、時には一軒の寺を100年もかかって建立した。(大規模建築はそうなる)

 寺院の維持

列島各地、津々浦々に、国が営む国分寺・国分尼寺をはじめ、各氏寺もあわせて、雨後の筍の様に列島に寺院は充満した。しかし、豪華で壮大で華麗な寺院を造営したが、いったいどれほどの人々が寺院というものを理解していただろうか。ましてや仏教とは何者だ

有力者の所有物である私設寺院には、僧侶がいないことが多く、国内の僧侶の数も足らなかったこともあり、僧侶を置くことすら勘定に入ってなかったかもしれない。「僧の姿を見ず」の記述もある。もしかしたら年に一、二度は、近くの国分寺から招いて法要をしたかもしれない。

このような寺院であるから、次第に荒廃し、パトロンである氏族が瓦解するとやがて廃寺となり、その後の有力者が柱や床板を剥がして自宅屋敷の建築材に使うようになると、消滅して終わりである。

 私の生まれ在所に「あかやしろ」という地名があった。「赤屋敷」赤い顔料を塗った屋敷があったということであり、赤漆の社を使ったらしい。

 平安時代の末法思想の流布による経塚の全国的流行や、石に文字を書いて甕に詰めて埋納したり、奇妙なムーブメントが行われたのは、
 廃寺目前の危機感による寺院側の経営改善のためのマヌーバだったのではないかと思える。
 経筒埋納によって富裕者から資金を集め、それが下火になると、一般庶民に石に文字を書かせて埋納する運動によって資金を得た。
 寺院の維持には大衆に迎合を余儀なくされ変質していった。それができなかった寺院は礎石ばかりとなった。のではないか。

江戸時代以降の寺院は檀家制度によって維持されるようになったが、それらを持たない直願寺(天皇家の寺)や、大寺院が現在も多くあり、その経済基盤がどうなっているのかは不明である。(奈良薬師寺は、写経で堂塔を建立した。現代版石ころ文字である。)

 上淀廃寺


淀江は日本海航路の湊であり、荷物の積み下ろしやそれらを商って財をなした者が上淀廃寺を建立したものであろう。寺の名さえ残っていない。
途中でいちど半丈六仏を丈六仏に作り替えているので、改築か再建を行ったかもしれない。近くに別の寺院が建立され、それと競ったのだろう。

しかし、やがて湊が活気を失うと、法隆寺と同じ白鳳期の荘厳な寺も、それを維持する有力者の瓦解によって存立基盤を失って消滅する。
上淀廃寺は火災によって消滅しているが、火災の前は荒れ寺で中で焚火をしたり、火災後には再建する僧も、パトロンもいなかったと私は思う。


 上淀廃寺
上淀廃寺が建てられた背景
上淀廃寺が建てられた背景
上に記述
淀江の地理と淀江平野の変遷

上に記述

 112淀江の地理と淀江平野の変遷

 淀江の地理
淀江は鳥取県西部の中核都市、米子市の東部に位置します。中国山地最高峰を誇る大山の北麓に位置し、眼前に日本海を臨みます
東は大山山麓の火砕流による丘陵地、西は壺甕山によって米子平野と隔てられ、独立した淀江平野を形成しています。

淀江平野には、かつて潟湖(せきこ)がありました。潟湖とは、入海の入口が砂州によって塞がれた湖で、淀江平野に広がる現在の田園風景は、日本海に面した潟湖の面影をよく伝える景観です

 淀江平野の変遷
今から約2万年前以降、海面の上昇が始まり、淀江平野に入海が形成されました。
その後、砂州の発達によって入海から潟湖へと変化し、縄文時代には漁場や天然の港として利用されたと考えられています。

弥生時代の中頃には日本海と遮断され、その後次第に沼地化していったと考えられます。河川から供給される土砂の堆積によって次第にその姿が失われ、今日のような景観が形作られていきましたが、交通・交易の拠点としての伝統が古代・中世と引き継がれといったとみられます。

淀江の地理 淀江の地理

上に記述
淀江平野の変遷
上に記述
淀江町の西を流れる佐陀川が供給する土砂が
海流に流されて淀江湾を埋め尽くしたようです。

鳥取市の湖山池と同じですね。

 淀江平野の変遷
縄文早期 約7000年前 縄文早期~後期
約7000~2800年前

漁場や天然港として利用された
弥生時代
約2800~1700年前

弥生時代中頃に閉塞した
古代
約1700年前以降

東西の0°の条里制が敷かれる
 妻木晩田遺跡と淀江の津

 115伯耆古代の丘周辺地形模型
淀江平野の北東、山裾に位置する福岡地区周辺には「上淀廃寺」の他「妻木晩田遺跡「向山古墳群」といった国史跡、重要文化財「石馬」など、
各時代を代表する遺跡、考古資料が集中している。
伯耆古代の丘周辺地形模型
潟湖が支えた古代淀江王国
妻木晩田遺跡
妻木晩田遺跡 妻木晩田遺跡
松尾城地区(住居)
小真石清水地区(住居)
松尾頭地区(政治墳墓)
妻木山地区(住居エリア)
妻木晩田遺跡
松尾城地区(住居)
小真石清水地区(住居)
松尾頭地区(政治墳墓)
上淀廃寺跡
上淀廃寺跡
向山古墳群
北尾集落
米子白鳳高校



 116旧石器時代~縄文時代


 旧石器時代


ナイフ形石器 ナイフ形石器(旧石器)
玉髄製石器
米子市泉 泉中峰遺跡 (後期旧石器時代)

  解体に使用された玉髄製石器





 縄文時代





 富繁渡り上り遺跡 縄文時代早期末~前期前葉  米子市淀江町 富繁字渡り上り  引用米子市埋蔵文化財センター便り25
富繁渡り上り遺跡は、米子市淀江町富繁字渡り上りの水田下に所在する遺跡。1995 年に発掘調査されました。
遺跡は中西尾集落がある丘陵の先端裾にあり、遺跡の北東には鮒ヶ口(ふながくち)遺跡(約6千年前)や井手胯(いでまたぎ)遺跡が所在しています。

富繁渡り上り遺跡は縄文時代早期末から前期前葉にかけての遺跡で、縄文土器、石器、木製品など多くの遺物が出土しました。
中でも土器は前期初頭の西川津式を主体とし、石器は大量の石錘、黒曜石の剥片と石鏃、削器など、木器はヤス、弓などが出土し注目されました。
本遺跡は、六千年前の縄文海進時の旧淀江湖岸の遺跡であり、漁労を主体として暮らした人たちの村跡であったと考えられています。

 縄文土器 深鉢渡り上り遺跡
縄文前期
  縄文土器 深鉢
渡り上り遺跡
縄文前期 
縄文土器 深鉢
渡り上り遺跡
縄文前期 

石錘・漁具(網枠?)
イヌマキ製・タモ網枠と
渡り上り遺跡
縄文前期

漁具(網枠?)
イヌマキ製・タモ網枠と
渡り上り遺跡
縄文前期

石錘
渡り上り遺跡
縄文前期
 
資料 鮒ケ口遺跡・河原田A・B遺跡 引用米子市埋蔵文化財センターだより26
鮒ケ口遺跡は、淀江町中西尾字鮒ケ口、河原田A・B遺跡は中西尾字河原田の水田下にあります。1979 年に発見された縄文時代の遺跡です。
水路工事で掘り上げられた土の中から多数の縄文土器が発見されたため、緊急に発掘されました。

鮒ケ口遺跡からは縄文時代前期前半(6千年前)の土器、石器、木製品な 鮒ケ口遺跡の木材などが、
河原田遺跡からは縄文時代後期後半(3千年前)の土器、石器が大量に出土しました。

鮒ケ口本遺跡は、旧淀江湖岸の遺跡であり大量の石錘の出土から、縄文時代前期初頭の渡り上がり遺跡に続いて営まれた漁労を主体とした人たちの村跡であり、河原田遺跡は稲吉扇状地裾で暮らした人たちの村跡があったと考えられています。

資料 井手跨遺跡 引用米子市埋蔵文化財センターだより24
井手胯遺跡は、米子市淀江町福岡字井手胯他の水田下に所在する遺跡で、1991 年から 1992年に国道9号米子道路建設に伴い鳥取県教育文化財団によって3万㎡が発掘調査されました。遺跡は福岡遺跡に隣接し、淀江平野のデルタ地帯に立地しています。

井手跨遺跡は縄文時代から中世にかけての遺跡で、
縄文時代後、晩期の層では自然河川から 朱漆塗りの櫛朱漆塗りの櫛、耳飾、椀などの漆器、丸木舟、櫂などが出土しました。
弥生時代後期から古墳時代前期の層では、自然河川と杭列が発見され、多数の土器のほか、ナスビ形着柄鋤、又鍬、鋤、木庖丁等の木製農耕具が多数出土しました。
淀江平野のデルタ地帯に古代の水田が拓かれていたことを示す遺跡として注目されます。

資料 西川津遺跡 西川津式土器 引用西川津遺跡 松江市
西川津遺跡では今から1万年前の人々の痕跡が確認されています。
海崎地区(C区)では、縄文海進による海水準がピークを迎える前の谷地形が確認され、押型文土器、石器、木器が発見されました。

約7千年前頃にピークを迎える海水面の急速な上昇によって遺跡の大部分は水没し、内湾となり、上流の海崎地区付近が汀線付近になりました。
この汀付近では土坑や多くの土器が確認されており、内湾周囲での人々の暮しの様子が具体的にわかります。
当時は鹿や猪を狩り、食料としてだけではなく角や骨も加工して様々な骨角器が造られました。

約5千年前頃はその前後と比べて出土遺物が減少し、遺跡周辺は人々の生活の場ではなかった可能性があります。
海水面が下降していく後期~晩期にかけては、河川堆積を強く受けるようになり、朝酌川の河口はより南側の下流に移動していきます。

弥生時代には、この堆積微高地や湿地が弥生人の生活の場となります。

縄文早期の土器石器 前期の土器石器 前期の骨角器・獣骨 縄文海進(前期)の汀線
付近の土坑


 120原始の淀江
淀江平野における最も古い先人たちの生活の痕跡は、後期旧石器時代(約30,000~13,000年前)まで遡ります。
続く縄文時代以降、淀江平野や日本海を望む丘陵上からは、集落が栄えたことを伺わせる遺跡や遺物が数多く出土しており、人々がこの淀江の地で豊かな生活を送っていたことが窺えます。

人々の営みを示す遺跡の発見により、脈々と受け継がれた先人たちの生活・文化の歴史的変遷を辿ることが出来る重要な地域となっています。
 121
原始の淀江
上に記述


 122縄文前期の石器
尖頭器

渡り上り遺跡
縄文前期
サヌカイト製槍先
石匙
鮒ケ口遺跡
縄文前期

動物の肉や植物を加工する
石鏃
渡り上り遺跡
早期末~前期前葉
約6000年前
隠岐島産黒曜石
堅果類
渡り上り遺跡遺跡
縄文前期

 123縄文後・晩期の遺跡
竪櫛

井手胯遺跡
縄文後期~晩期
朱塗り結歯式の木製櫛
耳栓
井手胯遺跡
縄文後期~晩期
朱塗り木製ピアス 
縄文土器 浅鉢
井手胯遺跡
縄文後期
舟型の浅鉢
浅鉢 縄文土器 深鉢
鮒ケ口遺跡 縄文前期
九州を中心とする曽畑式で、交流がうかがえる
深鉢
曽畑式土器は半島人が九州に来て作った土器


考察 曽畑式土器
  九州・沖縄から西日本にかけて、決定的な英起用を与えた曽畑式土器

 曽畑式土器  縄文前期
縄文前期の7300年前(6300年前)の鬼界カルデラの噴火で無人となった九州へ、半島人が大挙渡来し、曽畑式土器文化を作り、
   やがて彼らは南西諸島を南下し、沖縄にまで拡散していった。この時、沖縄縄文人は半島系の混血集団となった。曽畑式土器

   曽畑式土器が縄文前期の淀江から出土したということは、以前取り上げたことがあるが、
   この時期、半島から九州だけではなく、西日本一帯に広く人々が渡来し、薄くて、硬い土器を広めていった。
   それが、各地で、曽畑式土器や、北白川下層式など、として、大きく影響を与え、
   また、漁具でも、結合式釣り針など、半島文化が広く伝わったのである。

   縄文前期土器としては、常識はずれの大型土器が西日本各地から出土している。
   兵庫県立考古博物館、智頭町歴史資料館では復元済。しかし、出雲市、岡山県、広島県では土器として復元できない破片であった。
   この時期の土器で、智頭枕田遺跡のものがあるのでリンクしておきます。    

西都原考古博物館 沖縄写真通信

 など。





  弥生時代




 124淀江の原始の生活・文化

後期旧石器時代の先人たちの痕跡として、壺甕山南西の小波で黒曜石製のナイフ形石器が発見されています。
周辺では大山山麓を中心に、旧石器が出土しており、狩猟による生活が営まれたことがうかがえます。

縄文時代になると、大山山麓の台地上や淀江平野に広がっていた淀江潟の湖岸などに集落が営まれました。
中でも、渡り上り遺跡からは木製の漁具や石の錘と共に2000点以上の隠岐島産黒曜石が出土しています。

また、鮒ヶ口遺跡からは九州系土器が出土しており、周辺地域が漁撈を中心とした生業の場であったと同時に、他地域との交流の拠点であったことが明らかとなりました。


弥生時代になると、平野を見下ろす丘陵上に、国内最大級の集落である妻木晩田遺跡が営まれました。
また、当時の生活文化(※精神文化)を描写したと考えられる絵画土器が角田遺跡から出土しており、これらは山陰の弥生社会を考える上での重要な遺跡として位置づけられています。

淀江の原始の生活・文化 淀江の原始の生活・文化
ナイフ形石器
小波原畑出土
後期旧石器時代

絵画土器
角田遺跡出土
弥生時代中期
周辺関連遺跡の地図
小波原畑
百塚遺跡群
今津岸の上遺跡
妻木晩田遺跡
晩田遺跡
福岡遺跡
井手跨遺跡

渡り上り遺跡
鮒ヶ口遺跡
川原田遺跡
角田遺跡
妻木晩田遺跡
洞ノ原墳墓群
弥生後期
ナイフ形石器
小波原畑出土
隠岐島産黒曜石
後期旧石器時代
絵画土器
角田遺跡
弥生時代中期
角田遺跡の絵画土器
展開写真
※古代出雲歴史博物館で見た弥生の絵画土器は、
角田遺跡の絵画土器のレプリカでした。

ここに展示されているのは、ホンモノです。
 
 125絵画土器
 126弥生時代中期遺物
編籠あみかご
福岡遺跡 弥生前期
あけびのつる製
上:あみかご
下:鏡に映った底部
あみかご(上部) あみかご(底)
石鍬

今津岸の上遺跡
弥生前期
木製柄を取り付ける
弥生土器 甕
百塚第8遺跡
弥生中期
弥生土器 甕
上淀廃寺跡
「弥生中期」
寺院建立以前に使用された甕
土玉
百塚第1遺跡
弥生中期
竪穴住居内から出土
石斧
晩田遺跡 弥生中期
木製の柄を取り付けた
絵画土器
日吉塚古墳盛り土内
弥生中期
武器(戈)と盾を持つ戦士が向き合う構図

 127絵画土器 角田遺跡 弥生時代中期
壺の頸部には、線刻によって六重の同心円「太陽」、「四人が乗った舟と舟を漕ぐ人物」、「高層の建物」、「倉庫?」など建物2棟、
「銅鐸が吊るされた樹木」、「鹿?」が描かれています。
絵画土器でも複数のモチーフが描かれた例は少なく、当時の社会や思想を理解するうえでも重要な資料である。

絵画展開図
銅鐸がつるされた木

建物(倉庫か)

高層の建物

きざはし

4人が乗った舟

4人が乗った舟
太陽
鹿
高層建物は死後世界
四人の漕ぎ手は、羽根飾りから、死者を送るシャマン
 


 130蘇る弥生の国邑 妻木晩田遺跡

平成7(1995)から4年にわたる発掘調査によって、大山北麓の通称:晩田山丘陵に、弥生後期を中心とする大規模な集落跡が姿を現しました。
妻木晩田遺跡です。
規模や集落の構造から「クニの中心集落」であったものと推定されますが、平野からの標高差は100m前後あり、本来生活に不向きな丘陵地に200年以上営まれたものと考えられます。
中国の史書によると、この頃、倭国は、いくつかのクニに分かれて内戦状態にあったと記され、、当時の社会を考える上で大変重要な遺跡です。


 史跡妻木晩田遺跡
妻木晩田遺跡では現在までに、全体の約10%が発掘調査されています。
その結果、竪穴住居420棟以上、掘立柱建物500棟以上、山陰地方特有の形をした四隅突出型墳丘墓などの墳墓34基や環濠(掘)など、
山陰地方の弥生時代像に見直しを迫る貴重な資料が多く発見されました。

集落は170ヘクタールに及び、概して人々が住まいする「居住区域」と歴代の首長墓が営まれる「首長墓区域」に分かれています。
「居住区域」はさらに、祭殿とみられる建物などがある「中心部」と「一般居住区域」の区別があるものと考えられます。
「一般居住区域」をさらに詳しく見ると3~5棟の住居を1単位とする集団の集まりであることがわかってきました。

弥生時代中期終り頃(1世紀前半)、それまで平野部にあった、小規模なムラがこの丘陵に上がり、規模を拡大していったものとみられます。
淀江平野を見下ろす丘陵の先端に環濠が築かれて以降、丘陵東側を中心に居住区域を拡大させ、後期終り頃(2世紀前半)には丘陵全体に広がっています。
その後、住居棟の数は減り、古墳時代前期(3世紀前半)には、この丘陵上から姿を消します。

 131妻木晩田遺跡
蘇る弥生の国邑
上に記述
史跡妻木晩田遺跡 史跡妻木晩田遺跡
上に記述
妻木晩田遺跡全景 祭殿か
松尾頭1号田建物跡
焼け落ちた住居
妻木山434号住居跡
洞ノ原地区の環濠 洞ノ原地区の
四隅突出型墳丘墓
 132
弥生土器 台付壺妻木晩田遺跡
弥生後期
環濠内出土。装飾土器
赤色顔料で彩色
台付壺 弥生土器 高坏
妻木晩田遺跡洞ノ原出
弥生後期 環濠内出
弥生土器 高坏
妻木晩田遺跡洞ノ原出
弥生後期 環濠内出
石包丁百塚第7遺跡 中期
36号住居跡出土
穂刈具
木包丁
井手胯遺跡 中期
穂刈具
木包丁
 133木製農具
又鍬
井手胯遺跡 後期
木製柄をつけて使用
又鍬 田下駄
井手胯遺跡 中期
湿田のぬかるみにはまるのを防ぐ履物
田下駄
竪杵
福岡遺跡 弥生中期
脱穀などに用いる
竪杵 矢板
福岡柳谷遺跡
弥生中期~後期
矢板
土止めに用いた板
又鍬
井手胯遺跡 中期
アカガシ亜属木製



 139迷子写真 古代~中世

 石製相輪 伝淀江町福岡(時代不明)
「ナナカリサン」と呼ばれ、上淀廃寺跡北西部に所在した大日堂に伝来した石造物。石塔ないし、その一部とする説、上淀廃寺跡や
大日堂の相輪(塔頂部の装飾)であるとする説がある。

 礎 石 上淀廃寺跡(飛鳥時代後期)
角閃石デイサイトという大山周辺で産出される石材を用いる。上淀廃寺゛では、塔の心礎以外、本の位置を留めるものがない。
柱座が付いたものは1点のみで、建物や用途の違いは判らない。

石製相輪 石製相輪 礎石 礎石
 
 


  古墳時代~古代



 140古代の淀江

3世紀後半から始まる古墳時代には、列島各地の豪族が畿内を中心としたヤマト政権の政治社会に組み込まれ、各地で大小さまざまな古墳が造られました。
淀江平野においても数多くの古墳が築造され、山陰特有の古墳密集地帯として知られています。

8世紀以降、中国にならった律令体制が敷かれ、天皇を中心とした国家が成立すると、淀江平野を含めた地域には、地方の行政を担う汗入郡が置かれました。また、この頃、交通網の発達により淀江平野を東西に走る古代山陰道が設置され、陸上交通の要所としても発展していきました。


 淀江の古代の生活・文化
古墳時代には淀江平野だけでも400基の古墳が築かれます。
中でも5世紀終わり頃から6世紀にかけては、より広域に支配を及ぼした首長の墓=古墳が築かれ、西伯耆地域の中心地であったと考えられます。
6世紀代はここ福岡地区がの本拠地となり向山古墳群が造営されます。

古墳群中最大の全長65mを誇る4号墳をはじめ、切石の横穴式石室を有する岩屋古墳金銅製冠の出土した長者ヶ平古墳(ちょうじゃがなる)があり、
その南側には本州唯一事例となる石馬が設置されていたとみられる石馬谷古墳(いしうまたに)が確認されています。

律令体系下において、現在までに汗入郡(あせいり)の中心施設である郡衙の所在は確認されていませんが、礎利遺跡では、瓦・白釉緑彩陶器、石帯などが出土しており、関連した古代の役所の可能性も指摘されています。

奈良時代以降、全国各地で方形区画に水田を整備した条里制が布かれましたが、ここ淀江平野の水田地帯においてもその名残が見られ、古代の風景を今に伝えています。


 141古墳時代

古代の淀江
上に記述
淀江の古代の生活・文化

上に記述
関連遺跡分布図 淀江平野主要古墳の変遷
石馬 向山古墳群と条理
古墳時代後期



 142石馬 古墳時代後期 6世紀後葉 体長約150cm、高さ約90cm
(石馬谷古墳に立てられていたと考えられる)
石馬は石製の埴輪で、馬具の形などから古墳時代後期に造られたと考えられています。
石製の馬や人物を象ったものは石人・石馬と呼ばれ、九州北部に多く見られます。

現在本州で見つかっているのは淀江のもののみで、この地と九州の交流をうかがわせるものです。材質は大山産角閃石安山岩。
全長約150cm、高さ約90cmです。
淀江の石馬は江戸時代には石馬大明神として祀られており、現在は淀江町福岡の天神垣神社の境内収蔵庫に保管されています。
大明神だって)

 国指定重要文化財 石馬 引用国指定重要文化財 石馬
大山から産出される角閃石安山岩の一石から馬全体を削り出して作られた石製の馬です。体長は約150cm、高さは約90cmを測ります。
前脚は失われ、胴体と後脚は補修接合されていますが、たてがみや面長な顔などの馬の特徴や、鞍(くら)や手綱(たづな)、鐙(あぶみ)などの馬具が装着されている様子が、彫刻によって細かく表現されています。また、体の一部には赤い顔料の痕跡がみられ、過去には馬全体が赤色に塗られていた可能性も指摘されています。
昭和34年に国の重要文化財に指定され、現在は上淀集落にある天神垣(あめのかみがき)神社内で大切に保管されています。

 石馬の物語 引用石馬の物語
今から1400年以上も昔、古墳時代の後期に造られ、淀江町福岡の石馬谷古墳に置かれていたと言われている本州唯一の石馬は、今は同じく淀江町福岡の天神垣神社で大切に保存されています。
角閃石安山岩を彫って作られ、体長約150cm、高さ約90cmの石馬は、前足が欠けているものの、頭からしっぽまで丁寧に彫られており、手綱や鞍などの馬具も細かく表現されています。

江戸時代には「石馬大明神」と呼ばれて、大事にまつられていました。腰が痛いときにはこの石馬の腰と自分の腰を交互になでると痛みがとれるといって拝んでいたということです。
昭和34年に国の重要文化財に指定されていますが、一体誰が造ったのか、彫ったのはどんな人でどこで彫ったのか、なぜ本州では淀江だけに残っているのかなど、いろいろと謎の部分が多く残されています。






資料 石人石馬 引用wiki石人石馬

5世紀〜6世紀の福岡県・大分県・熊本県の古墳を中心にみられる。
種類は人物(武装石人・裸体石人など)、動物(馬・鶏・猪など)、器財(靫・盾・刀・壷・蓋など)があり、赤や緑で彩色されているものもある。
その種類が形象埴輪と種類が共通することから、埴輪を石にうつしたものと考えられている。

主として阿蘇溶結凝灰岩が使われるが、鳥取県石馬谷古墳のものは角閃石安山岩が使われていた。
石人石馬が種類・数ともに最も多いのは八女古墳群の岩戸山古墳で、人・動物・器財あわせて100点以上が掘り出されている

石人石馬が出土した古墳
石馬谷古墳 鳥取県米子市 石馬  上淀白鳳の丘展示館 
岩戸山古墳 福岡県八女市 石人・石馬・石鶏・石猪・石盾
・石壺・石刀・石靫・石蓋
岩戸山歴史文化交流館
乗場古墳 福岡県八女市 石人
鶴見山古墳 福岡県八女市 石人
石人山古墳 福岡県八女郡広川町 石人 広川古墳公園資料館
石神山古墳 福岡県みやま市 石人 みやま市歴史資料館
臼塚古墳 大分県臼杵市 石甲
下山古墳 大分県臼杵市 石甲
チブサン古墳 熊本県山鹿市 石人 山鹿市立博物館
三の宮古墳 熊本県荒尾市 石人 熊本博物館
江田船山古墳 熊本県玉名郡和水町 石人 和水町歴史民俗資料館



  石馬(レプリカ)


上に記述
石馬碑文 石馬碑文 石馬
 石馬
江戸時代に農民によって掘り出された石馬は、石馬大明神として神社の御神体になっています。
石馬を神様に祭り上げて拝ませるのは何だろう。当時の荷駄運搬業者(馬喰神)や馬頭観音や、道祖神がある中で、得になると思ったのかな。


考察 石馬と磐井文化
 
 石馬
石人石馬は北部九州を支配していた磐井氏によって埴輪の代わりに建てられた石造物である。

磐井の乱は、(日本書紀にのみ記述される)
 527年(継体21年)に朝鮮半島南部へ出兵しようとした近江毛野率いるヤマト王権軍の進軍を筑紫君磐井がはばみ、翌528年(継体22年)11月、
 物部麁鹿火によって鎮圧された反乱、

または王権間の戦争。
この反乱もしくは戦争の背景には、朝鮮半島南部の利権を巡るヤマト王権と、親新羅だった九州豪族との主導権争いがあったと見られている。
『日本書紀』の記述はかなり潤色されているとしてその全てを史実と見るのを疑問視する研究者もいる。 引用「岩井の乱」wiki

 磐井氏  引用wiki磐井(古代豪族)
磐井の墓と推定される岩戸山古墳は、当時の大王墓にも匹敵する規模であり、また出土した石製品群は北部九州の中でも他古墳を圧倒する数で、北部九州一帯に及んだ磐井の勢力を物語っている。

磐井の勢力圏
その石製品群の分布状況から推測される勢力範囲は、北は玄界灘、南は有明海に及んでおり、筑紫君を中心として「筑紫政権」とも呼ぶべき強力な連合政権を形成していたといわれ、これが九州王朝説の根拠のひとつともなっている。
 ※磐井は5世紀後半頃には既に肥前・肥後・豊前・豊後に跨る巨大勢力圏を有していたとみられている。(下地図参照)

近年では、領域の中でも特に有明海沿岸地域が5世紀後半から6世紀初頭にかけての対朝鮮交渉の中心地であったことから、その対朝鮮の外交権を巡って磐井とヤマト王権側との間に対立が生じたとする説が挙げられている。
その例として、朝鮮半島の栄山江流域に分布する前方後円形古墳の存在や、栄山江流域・慶南地方に分布する九州系横穴式石室の存在があり、これら九州系豪族が独自に朝鮮半島と密接な交渉を行なった様子が指摘される。
 ※朝鮮半島南部の前方後円墳は、ヤマト王権が許可したのでなく、九州豪族(磐井)が勝手に作らせたものだといっている。

また日本列島内においても、真の継体天皇陵と目される今城塚古墳(大阪府高槻市)を始めとする畿内古墳の石棺部材に阿蘇ピンク石(馬門ピンク石)が見られることから、九州から西日本・畿内へ文化を波及させるだけの力を有したとされる(阿蘇ピンク石の畿内流入は530年頃で終息)。
これらから、畿内側が看過できないまで九州勢力が成長していたことが乱の背景になったと考えられている(詳しくは「磐井の乱」参照)。

磐井氏と朝廷
文献の記述に関しては、『筑後国風土記』逸文に記される別区での裁判のような様から、磐井が朝廷において解部として訴訟に携わったことを表すとする説がある。
また『日本書紀』における近江毛野との会話からも、やはり磐井が若い頃に王権に出仕した可能性が指摘される。
ただしこの近江毛野の伝承に関しては、磐井の乱における毛野の動向が記されないことから、磐井の乱と近江毛野の任那派遣とは元々別伝承であったと見られている。

なお、史書では子どもの筑紫君葛子の後も7世紀末まで筑紫君(筑紫氏)一族の名が見られ、その活躍が認められている。

考察 淀江の石馬と磐井氏
磐井氏
九州鹿児島と宮崎を除く北部九州を勢力下においていた磐井氏は、ヤマト政権と同等の権力・財力を持ち、当時の半島交易の拠点である有明海沿岸を掌握し、その磐井文化は日本海航路を通じて西日本や畿内にも及んでいた。更に磐井は朝廷の官吏として出仕しとして裁判を取り扱っていた。

  律令制で、治部省 (じぶしょう) に属し、姓氏の相続に関する訴訟の裁判をつかさどった官。
  当時の呪術的裁判は、熱湯の中に投げ込んだ複数の石から特定のものをつかみ出したり、恐怖の制度だった。

半島貿易を掌握し、朝廷の訴訟沙汰を取り仕切る上に、広大な領土と強大な権力を持った豪族であり、ヤマト政権の最大のライバルであったと考えられ、連合政権であった当時の朝廷内の権力争いとしては、だれもが撃ち滅ぼしたいと願った相手である。
出雲を恫喝して(服属ではなく)主権を奪い(おそらく服属していたにもかかわらず、支配権をも手に入れたかった)、
熊襲のだまし討ち同様、急襲して殺害し、権力を削いだのであろう。磐井の乱は日本書記の捏造であろう。

最先端文化の受容
九州の石人石馬は阿蘇溶結凝灰岩(阿蘇ピンク石)で作られています。しかし、磐井文化の阿蘇ピンク石は高級石材なので、淀江では、大山の角閃石安山岩を用いて作った磐井文化の石馬です。職人だけがやって来たようです。まさに、磐井文化の運び手です。当時は、西から磐井文化の熱い波が押し寄せて、きっと最先端だったのでしょう。
馬だけ作ったのか、その他にもあったのか、は不明ですが、粘土製に比べて、費用と時間が掛ったのは否めません。

引用イザナミの生んだ筑紫国、豊の国、火の国、熊襲の国の由来




 144岩屋古墳 古墳時代後期

向山丘陵の北端に所在する、全長52mを測る前方後円墳。口縁部には、精美な切石造りの横穴式石室が開口している。
副葬品は不明だが、周溝から武人や水鳥、馬形の埴輪が出土しており、古墳の主の力を物語る。

岩屋古墳 金属製品 埴輪 水鳥型埴輪
岩屋古墳 古墳後期
人物埴輪・武人埴輪

岩屋古墳 古墳後期
金属製品 鉄鏃・鉄釘・直刀
鎌・辻金具・鉸具

鉄釘は、木棺が釘を打って組み立てられていたことを裏付ける。
   金属製品
石室内部出土。鉄製品や馬具(乗馬で使用した飾り金具)


 145閉塞石 晩田山31号墳 古墳時代終末期
横穴式石室を塞いだ石。表面に舟形のレリーフが施されており、盾や仏像の光背を模したという説がある。
この地域では向山古墳群と上淀廃寺をつなぐ古墳時代終末期の古墳となる。

※何度も繰り返しますが、山陰地方は九州型石室でいくつもの閉塞石で各室を閉じます。畿内型横穴式石室は、入口の意思を外せば
 石室内は奥まで丸見えです。

 須恵器大甕 晩田山29号墳 古墳後期
直径20mの円墳から出土した。割った大甕を、約50cm四方の箱型石棺の蓋として用いたもの。
6世紀後半、出雲地域を中心に、割った大甕を石室や石棺の床に敷く風習が流行するが、蓋に用いるのは珍しい。

閉塞石 晩田山31号墳
古墳時代終末期
閉塞石 須恵器大甕
晩田山29号墳
須恵器大甕
 

 150埴輪


 151井手挾3号墳出土形象埴輪 米子市淀江町宇田川  古墳時代中期 5世紀末 中西尾古墳群
淀江平野を臨む中西尾丘陵の先端に位置する井手挾3号墳は、5世紀終わり頃の古墳時代中期に造られた直径29mの大型円墳です。
調査時点で墳丘と北半が消滅していましたが、残る南半の周溝から、墳丘に立て並べられていた円筒埴輪のほか、人物や動物(鹿、水鳥、鶏など)、
器材(家など)を模した多くの形象埴輪が出土しました。

中でも「盾持人」と呼ばれる盾を持つ武人を模した埴輪は、古墳が破壊された状況で、少なくとも4体が確認でき、埴輪群の構成の中でも高い比率を
占めることから、古墳に眠る被葬者の役割を反映していた可能性も考えられます。
人物や動物については大小があり、親子を表している可能性もあります。

形象埴輪がまとまって出土する例は西日本では非常に少なく、地域社会や埴輪を構成を解明するために重要な資料となっています。
中西尾古墳群では他にも、日吉塚古墳など5世紀終り頃の有力者の古墳が築かれており、地域の中心地はこの後、上淀廃寺の築かれる福岡地区
移っていきます。

井手挾3号墳出土形象埴輪 井手挾3号墳出土形象埴輪

上に記述
井手挾3号墳の調査
盾持人の出土 盾持人と子鹿埴輪の
出土
鶏埴輪の出土
 152
 鹿形埴輪 井手挾3号墳 古墳中期
ほぼ完形のもので、角を有する雄鹿と、角の生え切らない小鹿の2体がある。
他にも、角や胴の断片が多数出土しており、他の形象埴輪同様、数個体立ち並べられていたものとみられる。

 水鳥形埴輪 井手挾3号墳 古墳中期
ほぼ完形のもので、大型と小型の2体がある。大型のものは、その特徴からカモ科の鳥とみられ、とか同様、親子を表現している可能性もある。
他の埴輪同様、数個体立ち並べられていたものとみられる。

朝顔形埴輪 円筒埴輪 鹿形埴輪
鹿形埴輪 水鳥形埴輪 水鳥形埴輪
 153
 盾持人埴輪  井手挾3号墳 古墳中期
いずれも正面に大きな盾を持ち、表情豊かに作られている。完形の内2体が冠を被り、顔に入れ墨を施しており、1体が髷を結い入れ墨を施していないのは、階級差を示していると考えられる。

盾持人埴輪 盾持人埴輪
鶏形埴輪
井手挾3号墳 古墳中期
人物埴輪
井手挾3号墳 古墳中期
肩から襷掛けした人物
 154家形埴輪
円筒埴輪
朝顔形埴輪
家形埴輪
 


 155土器等 百塚古墳群  米子市淀江町百塚



須恵器 朝鮮半島系碗
百塚111号墳 古墳中期

彩色土器 高坏
百塚94号墳 古墳後期
石室前にまとめて供えた状態で出土

須恵器 蓋付坏
晩田山31号墳
古墳時代終末期
刻書土器 新家
淀江町福岡塔ヶ平
古墳後期
新家 鉸具(馬具)
晩田山31号墳
古墳終末期
 
 


  古代  飛鳥時代




 170上淀廃寺の建立  7世紀末~11世紀初め

上淀廃寺は、飛鳥時代の7世紀終わり頃に建立された寺院です。
平成3年からの発掘調査で、国内最古級の壁画片が大量に出土し、この時代の堂塔内部の華やかな様子を復元できる数少ない寺院として、
平成8年に国の史跡指定されました。

この寺院の特徴は金堂の東に3つの塔を南北に配する伽藍配置です。他の古代寺院に例がなく、独創的な設計思想が窺えます。

寺院の名称や建立者についての記録はありませんが、堂塔以外にも倉庫など多くの付属施設を持つ大規模な寺院で、壁画片の他、塑像の断片、瓦・土器・鉄製品などが出土しています。

古代社会が終わりを告げようとする平安時代中頃(11世紀初め)に焼失しました。


 建立の経緯と経過
上淀廃寺は干支年号(かんし)(「癸未年みずのとひつじ」=天武12年・683)の書かれた瓦などから、7世紀終わり頃には造営に着手したと考えられます。ただし当時の寺院造営は大事業で、記録の残る中央寺院同様に、上淀廃寺も数十年という期間をかけて整備されたと考えられます。

8世紀初め頃には、半丈六級の如来像を本尊とし、中心部の堂塔は一応完成したものとみられますが、
続く8世紀中頃以降には金堂を中心に屋根の補修や、本尊の入れ替えなど改修された痕跡が窺えます。

平安時代までには堂塔の荒廃が進み、11世紀初め頃焼失したと考えられます。

 ※半丈六:普通の仏像は一丈六尺(丈六=4.85m)ですが、その半分の大きさです。2.4mほどかな


 上淀廃寺の伽藍
全体の地形から見た創建時の境内は、東西2町(約212m)南北推定1町(約106m)と想定されます。
境内の広さは古代伯耆国(現:鳥取県中西部)では、大御堂廃寺斎尾廃寺とほぼ同じで、地方では最大規模の寺院といえます。

境内のほぼ中央には、金銅や塔が配置され、その周辺に関連建物が確認されています。これらは経蔵又は鐘楼、政所又は食堂、倉庫と推定されます。この他にも、広大な境内には僧房、厨などの建物や、花園院・薬園院などの施設が営まれ、寺の運営を支える施設や建物が置かれていたことでしょう。
※花園院(堂塔の荘厳用の花木の栽培を管理するする) 薬園院(薬草栽培の園地を管理するところ)

 171上淀廃寺の経過と経緯
上淀廃寺の建立 建立の経緯と経過
上に記述
建立の経緯と経過 年表
上淀廃寺の伽藍
上に記述
上淀廃寺跡全体図
 172
 上淀廃寺金堂北側で確認された足跡
   金銅のすぐ北側、平瓦の下になって、奇跡的に残っていた。ぬかるんだ地面に裸足の足跡が作ったもので、足指の跡も生々しく残る。
   すぐ上に焼けた土が乗っており、焼失の際についたものとみられる。

 ※どういうことでしょう。土砂降りの雨の日に火事になったのでしょうか。今なら放水でぬかるんだところを通り、草履を泥に取られて裸足になり、
  逃げた後、焼け落ちて密封されたと考えますが、当時は手桶でかけるくらいで、火事には手の施しようがなかった。

上淀廃寺跡壁画
神将胸部
出土状況のレプリカ
7世紀末
上淀廃寺金堂北側で確認された足跡
 
 174上淀廃寺跡出土物 飛鳥~平安時代
須恵器

上淀廃寺跡
奈良~平安時代
土師器
上淀廃寺跡
平安時代中期
上淀廃寺廃絶期の物
刻書土器「寺」
上淀廃寺 飛鳥時代後期
倉庫らしき133号建物跡周辺出土
「××寺」とある。
元は名前があったんですね。上淀廃寺

近所の地名「のらだ」は「如来田」で「如来寺」の所領だった。
ただし、如来寺はどこにあったのかは不明だ。
別の寺名になったかもしれない。名前も残らないなんて。
白釉緑彩陶器
楚利遺跡 古代
銅を含む釉薬で焼かれた陶器
石帯
衣冠束帯着用の際、袍(ほう)の腰に締める石帯(せきたい)の銙(か)が正方形のもの。
→丸いものは丸鞆(まるとも)
 引用コトバンク巡方

楚利遺跡 奈良~平安
腰帯に取り付ける装飾品
鋲で留めた跡がある。
巡方  
 
 175上淀廃寺 飛鳥時代後期
瓦の名称と使用場所 軒平瓦 Ⅰ類 軒丸瓦
単弁12弁軒丸瓦蓮華文
創建時瓦
飛鳥時代後期
Ⅱ類 軒丸瓦
単弁8弁蓮華文
奈良時代中期
刻書瓦
癸未年みずのとひつじ
683(天武12年)
癸未年
みずのとひつじのとし
上淀廃寺の建立は683年(天武12)頃
紀年銘瓦
飛鳥時代後期683
紀年銘瓦
飛鳥時代後期683
戯画瓦
飛鳥時代後期
鴟尾
奈良時代後期

平瓦
飛鳥時代後期
丸瓦
飛鳥時代後期
瓦職人が瓦の裏に自分を表現したもの。
創建当時の瓦。
奈良時代後期に鴟尾を作り替えた。
雪の多い所だから
劣化か風水害。
又は、落雷などが考えられる。
創建当時の平瓦。瓦は劣化したもののみ取り換えて、廃寺のときまで使い続けられたようだ。

鴟尾は取り換えたが、これは一対だから、両方取り換えただろう。



 178

 淀江の石馬 天神垣神社
淀江の石馬は、古くは江戸時代中期より「石馬大明神」として祀られていたと古文献に記されている。
その後、明治初年に廃社となったので神職伊勢山綱重が村人と図り、天神垣神社に移したものである。
現在は、天神垣神社境内の収蔵庫に保管されている。

 サイノカミ
サイノカミは塞神、道祖神などと呼ばれ、地域によって呼び方やご利益は様々あります。
伯耆地方ではサイノカミと呼ばれ、主に石に男女の姿(神話の神様の姿やお雛様など)を彫ったものが多く、縁結びの神様として大切に守られてきました。
そういった男女像のサイノカミは鳥取県でも伯耆西部に多く、特に大山町や淀江町に多くあります。
淀江町のサイノカミは、縁結びの神様として昔から地域の方々に大切にされてきました。

 ※最近はこのように解釈説明されている。明治初期の民俗学者柳田らによって批判され、道祖神や塞ノ神などの民間のおまじないで(悪霊退散)
  村境に建てられていた男根型石器(縄文石棒)、男女の性行為を表した石像、神社の藁製女性器や男性器、などが撤去された。

  今では、「ほほえましい・かわいらしい」男女の描かれた道祖神などと、何も知らない女性アナウンサーが喋っている。

サイノカミ(亀甲神社)
縁結びの神
淀江台場跡(今津)
文久43年構築
長者ヶ平古墳(上淀)

伯耆の石舞台
天の真名井
名水
淀江の石馬
天神垣神社
サイノカミ
男女の姿の彫刻
 
 






 200第2室


   第2室は、復元された上淀廃寺金堂です


 



 201上淀廃寺金堂

 202上淀廃寺
上淀廃寺は、飛鳥時代後期(白鳳期)に建立された古代寺院です。寺の名前を記したものが見つかっていないため、その名前は今も不明です。
平成3年(1991)の発掘調査で、法隆寺(奈良県)と並ぶ国内最古級の仏教壁画が出土し、全国的に有名になりました。
時代 年代 できごと
飛鳥時代後期(白鳳期) 天武天皇12(683)頃 上淀廃寺建立(完成は8世紀初め頃)
奈良時代中期 750年頃 建物・壁画の改修、本尊の交替
平安時代中期 1000年頃 上淀廃寺、火災により廃絶
上淀廃寺金堂再現 上淀廃寺 上淀廃寺 CGによる再現
2塔1金堂は
薬師寺式伽藍配置

 如来像
如来とは「悟りを開いた者」を表し、寺院では主に本尊として表現されます。上淀廃寺跡からは、ここに復元している丈六級の如来像の断片が出土しています。
螺髪」「頭皮」「白毫」や「台座に懸かる衣」などがあり、裳懸座型式の坐像であったと考えられます。
肉身の断片が極めて少なく、細部はわかりませんが、ここでは壁画の主題と同じ「釈迦如来」として復元しています。

懸裳(かけも)の断片には、赤褐色や黒褐色の顔料が残っており、本来は菩薩像と同じように衣裳部分には彩色が施されていたものと見られます。

 菩薩像
菩薩とは「悟りを求める修行者」を意味し、三尊像では脇侍として表わされます。
「手指」「掌」「足指」など肉身部分の他、右脚、左脚の部位を特定できる「衣部」や「装身具」など如来像と比べて多くの断片が出土しており、
一丈級で三屈法の姿勢をとる左右対象の立像であったと考えられます。
復元は、塑像の土の色にしていますが、少なくとも衣の表面には赤色の顔料が塗られ、丸い花や宝相華の模様が描かれていたことが分かっています。

菩薩・如来・菩薩 如来像 如来坐像
菩薩像
菩薩像
頭皮と螺髪
台座に懸る衣
菩薩像

 Ⅰ類の壁画
比較的小さなモチーフで、創建当初に描かれたものとみられる一群を、
Ⅰ類と呼びます。金堂の北側を中心に出土したもので、「神将」や「菩薩」、「遠山と霞」「樹木の遠景」「天蓋」「下草」などの断片が出土しています。
Ⅱ類の壁画と、出土位置の傾向が違い、金銅の北面に描かれていたものと想定されます。

出土したモチーフから「説法図」と想定し、復元しています。画面の大きさは、各モチーフが小さいことから比較的小規模であると考え、北壁の腰長押(こしなげし=腰高さの水平部材)より上と想定しました。

 Ⅱ類の壁画
Ⅱ類と呼びます。金堂の東西を中心に出土したもので、「頭光背」、「花」、「蓮の台座」などの断片が出土しています。
Ⅰ類の壁画と、出土位置の傾向が違い、金堂の東西面に描かれていたものと想定されます。

これらは比較的小さな仏像に伴う背景的画題と考えられますが、壁画断片ではその中心となる仏像が確認できません。


来迎図
Ⅰ類の壁画 上淀廃寺出土壁画
神将
菩薩
遠山と霞
Ⅱ類の壁画 上淀廃寺出土壁画
頭光背

蓮の台座
 209建築の復元設計
建築の復元設計
上淀廃寺金堂復元南立面図
上淀廃寺金堂発掘状況
薬師寺東塔

法隆寺金堂桁行断面図
金堂の復元方針
 


 210奈良時代以降の堂内


 211奈良時代以降の堂内
この展示室では、淀江に存在していた古代の華やかな堂塔に想像を巡らし、体感していただくため、往時の金堂の様子を伝える遺構と出土品から、
堂内の荘厳を復元しています。

上淀廃寺跡からは、内部空間を復元する手掛かりとなる壁画・塑像が良好な状態で多数出土しており、この寺院のほぼ完了した奈良時代以降の堂内を復元しています。

残念ながら、金堂の遺構からは基壇の構造と規模しか判りませんが、建物の形式は、創建時期である白鳳期(7世紀終わり頃)の類例を参考に、考えられる一つの可能性を示したものです。

奈良時代以降の堂内 奈良時代以降の堂内 復元過程・復元の各工程 復元過程
唐招提寺金堂
廬舎那仏像

東大寺法華堂
不空羂索観音像
復元の各工程
 212塑像
塑像「菩薩足指」
上淀廃寺 奈良中期
1丈級

復元した菩薩の足
塑像「菩薩 掌と手指」
上淀廃寺 奈良中期
1丈級
塑像「菩薩 右脛部の衣」
上淀廃寺 奈良中期
1丈級
 
 220出土した塑像片
金堂及び中・南塔周辺から3,797点の塑像片が出土し、このうち造形が確認できる物は769点です。これらは概ね新旧二時期に分類できます。

古相のものは創建期となる7世紀終わり頃から8世紀前半の様式で、金堂周辺から半丈六級如来像の螺髪(Ⅰ類)や三尺級の天部像又は供養者像、2尺級の菩薩像、塔周辺から2~3尺級の天部像又は供養者像(以上Ⅲ・Ⅳ類)、山岳や磯形の断片が出土しています。

新相のもの(Ⅱ類)は改修期となる8世紀後半の様式で、金堂周辺から三尊を形成していたものとみられる丈六級如来像と1丈級菩薩像の断片が出土しています。

 221塑像の復元製作
  上淀廃寺跡 奈良時代中期
出土した塑像片 塑像の復元製作 塑像「菩薩 裾折返し」
金堂北側から
1丈級
塑像「菩薩 菊座」
金堂西側から
1丈級 装身具
塑像「菩薩 蕾形飾」
金堂西側 金箔残存
塑像「菩薩 繧繝花文のある衣部」
金堂北側
塑像「菩薩 裾折返し」
金堂西側 丈六級
塑像「如来頭皮」
塑像「如来螺髪」

丈六級
金堂西側・金堂周辺

 222復元過程
復元過程 復元過程
法隆寺玉虫厨子
敦煌莫高窟322窟
敦煌莫高窟321窟

下図作成
下書き作成

捻紙で下書きの転写
墨による線描き

彩色
切金
彩色
復元の各工程
 223壁画断片 上淀廃寺跡 奈良時代中期
壁画「頭光背」
上淀廃寺跡
金堂跡を中心に出土
壁画「花」
壁画「蓮の台座」
壁画「花」 壁画「蓮の台座
螺髪とか、ピンボケ 塑像「菩薩右脛部の衣」
金堂北側から出土
塑像「菩薩 掌と手指」
金堂西側を中心に
塑像「菩薩足指」
金堂西側から出土
 225壁画 上淀廃寺跡 飛鳥時代後期 金堂北側から出土
古代の顔料一覧 壁画「樹木」「草」 壁画「瑞雲」
瑞兆として出現
壁画「幡」「天蓋」
幡:法要や説法の際に立てる飾り布
天蓋:仏像の上にかざす笠状の装飾物
壁画「遠山と霞」
中塔北側から出土
 

 230出土した壁画断片
金堂周辺から出土した壁画断片は5,394点に及び、うち1/3に彩色が認められます。
火事で焼けたため、弁柄、緑青や群青などの顔料を除いて当時の彩色は失われていますが、
分析によって6系統8~12種類の顔料が使用されたと考えられます。モチーフや描法から、大きく2種類に分類できます。

北側を中心に出土したⅠ類は、比較的小さなモチーフのもので、「神将」や「菩薩」、「天蓋」「遠山と霞」など、
東西側を中心に出土したⅡ類は、比較的大きなモチーフで、「頭光背」や「花」、「蓮の台座」などが出土しています。
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出土した壁画断片 壁画の復元製作
壁画「神将 胸甲」
上淀廃寺「飛鳥後期」
金堂北側から出土
菩薩 頭部
上淀廃寺「飛鳥後期」
金堂北側から出土
壁画「菩薩 腰紐」
上淀廃寺「飛鳥後期」
金堂北側から出土

壁画「二人の菩薩」
菩薩 腰紐
上淀廃寺「飛鳥後期」
金堂北側から出土

壁画「菩薩 腰紐」
上淀廃寺「飛鳥後期」
金堂北側から出土

壁画「供養者」
上淀廃寺「飛鳥後期」
金堂北側から出土

壁画「神将」
上淀廃寺「飛鳥後期」
金堂北側から出土

 240堂内を復元しうる断片
現存する飛鳥時代の寺院壁画は法隆寺金堂壁画のみです。
発掘事例として奈良県山田寺跡の他、上淀廃寺の壁画発見以後、数例確認されましたが、いずれも小片でモチーフまでは特定できておらず、
上淀廃寺跡出土壁画は、出土量とまとまりにおいて群を抜いています。

塑像断片においても一定量が出土している寺院となると限られています。
上淀廃寺跡出土壁画・塑像は、古代寺院における堂内荘厳を発掘資料により復元しうる極めてまれな一括資料です。
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堂内を復元し得る断片

 250創建時の群像
金堂の周辺からは、8世紀後半の丈六三尊像の他にも、
半丈六級(立像とすると高さ約2.4m)の如来像、2~3尺級の神将臓、天部又は供養者像、菩薩像など多数の断片が出土しています。

これらは、その特徴から8世紀前半に制作されたものと考えられ、本尊入れ替以降どう取り扱われたのかわかりませんが、創建当初の本尊とそれに伴う群像と考えられます。

※よくあるのは、どこかの廃寺からその本尊などを持ってきて祀ることはよくあることだ。まえだち、後ろ立ちとして並べたりすることもある。
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創建時の群像 群像の復元にあたって
東大寺戒壇堂増長天像
法隆寺供養者像
 252塑像
群像 塑像「如来 螺髪」
上淀廃寺跡「飛鳥後期」金堂西側出土。
半丈六級

塑像「天部 顔面」
上淀廃寺跡
「奈良中期」
三尺級

塑像「天部復元」
上淀廃寺跡
塑像「天部 又は供養者顔面」
上淀廃寺跡「奈良前期」

金堂西側出土。3尺級
塑像「天部 又は供養者復元」
上淀廃寺跡
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塑像「迦楼羅 顔面部」
かるら
上淀廃寺跡「奈良前期」

金堂西側出土。3尺級

塑像「迦楼羅 復元」
上淀廃寺跡

天部「胸甲」
上淀廃寺跡「奈良前期」

金堂西側出土。3尺級

天部「左腰」
上淀廃寺跡「奈良前期」

金堂西側出土。3尺級

塑像「天部 又は供養者背中」
上淀廃寺跡「奈良前期」

金堂西側出土。2~3尺級