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十三湖 市浦歴史民俗資料館(撮禁中世メインだが、先史遺物は素晴らしい)
中泊町博物館、津軽市縄文住居展示資料館、津軽市森田歴史民俗資料館
外ヶ浜町大山ふるさと資料館、板柳町立郷土資料館、弘前市立博物館、平川市立郷土資料館
竜飛崎、太宰治記念館、立佞武多の館、ベンセ湿原、 |
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目
次
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01外観
02つがる市木造亀ヶ岡考古資料室へようこそ
03土器編年年表
04亀ヶ岡文化
05亀ヶ岡石器時代遺跡の由来
07亀ヶ岡遺跡
08田小屋野貝塚
※おことわり
10遺物展示
11壺形土器
12赤漆塗り土器
13亀ヶ岡出土土偶
14注口土器
33石棒
34石斧
36赤漆塗り骨製垂飾
37亀ヶ岡式土器 晩期 |
53石器
56石棒・石剣等
58玉製品関連
59土偶
61壺形土器
63漆塗皿形籃胎漆器
64土錘・骨角器
66石皿・磨石
67赤色顔料作り
研究 ベンガラ |
94亀ヶ岡文化を中心としたベンガラ生産
131亀ヶ岡式土器
152亀ヶ岡遺跡出土の動物骨
161上下違うものの接合土器
162頭のない遮光器土偶
163土偶・石鏃・土製品
171壺形土器
172土偶・石剣
175石皿・石冠
182漆の入った土器
185透かし入り台坏土器
191亀ヶ岡北西部台地出土
192土偶頭部 |
197玉砥石・御物石器
198石鏃・石匙・石箆
202三角土版等
234釣針
235ミニチュア土器
236アメリカ式石鏃
238石錐
245鯨骨等 |
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01外観
亀ヶ岡資料室縄文館 |
縄文館 |
つがる市木造亀ヶ岡考古資料室 |
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展示室 |
展示室全景 |
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02つがる市木造亀ヶ岡考古資料室へようこそ
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木造亀ヶ岡考古資料室は、ここから北へ1km程にある国史跡亀ヶ岡石器時代遺跡の出土品を主に展示しています。
亀ヶ岡石器時代遺跡は、縄文時代晩期、今からおよそ3000〜2300年前の遺跡で、遮光器土偶など、この時代の優れた遺物が出土していることから、この時代の北日本の文化を示す、「亀ヶ岡文化」という言葉のもとになった遺跡でもあります。
右の写真の遮光器土偶は明治20(1887)年に出土した物で、縄文晩期の亀ヶ岡遺跡の人々が、何らかの「祭祀行為」に使ったものであると考えられています。
尚、ここに展示中の遺物は、国史跡亀ヶ岡石器時代遺跡やその周辺から、畑仕事などの際に出土した個人所有のもので、遺跡周辺に住んでいる人々から拝借して展示しています。
また、一部、亀ヶ岡石器時代遺跡の北200mの所にある、国史跡田小屋野貝塚からの出土品も展示しています。
亀ヶ岡石器時代遺跡と田小屋野貝塚は、昭和19(1944)年6月26日に国史跡に指定されています。
また、この2つの史跡は、世界文化遺産暫定リストに登録された「北海道・北東北を中心とした縄文遺跡群」の構成資産になっており、現在世界遺産本登録を目指しています。 |
引用wiki遮光器土偶 |
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03土器編年年表
東北地方の土器編年年表
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参考資料
関東と南東北の土器編年表 |
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草創期・縄文早期
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縄文前期・中期
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縄文後期・晩期
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縄文草創期・早期 土器編年表
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東北地方南半 |
青森県 |
草
創
期 |
一ノ沢1
一ノ沢2
一ノ沢3
一ノ沢4 |
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早
期 |
蛇王洞U
大 平
明神裏V
大寺1.2.3
槻木T(蛇王洞)
上川名T
梨木畑
船入島下層 |
白浜・小船渡平
寺ノ沢
吹切沢
物見台・早稲田T
館場赤御室・早稲田2
ムシリT・早稲田3
ムシリU・早稲田4
ムシリV・早稲田5
長七谷地 |
縄文早期7080年±150年 |
縄文前期・中期 土器編年表
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東北地方南半 |
青森県 |
前
期 |
上川名U
室浜桂島
大木1
大木2a
大木2b
大木3
大木4
大木5
大木6 |
芦野TU群
深郷田
円筒下層a
円筒下層b
円筒下層c
円筒下層d1
円筒下層d2 |
中
期 |
糠塚
大木7a
大木7b
大木8a
大木8b
大木9
大木10 |
円筒上層a
円筒上層b
円筒上層c
円筒上層d
円筒上層e
榎林
最花・中ノ平 |
前期5520年±140年〜4760年±90年
中期4540年±140年〜3940年±125年
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縄文後期・晩期 土器編年表
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東北地方南半 |
青森県 |
後
期 |
門前
宮戸1a
宮戸1b
宮戸2a
宮戸2b
宮戸3a
宮戸3b |
山田野1.2
十腰内1
十腰内2
十腰内3
十腰内4
十腰内5
十腰内6 |
晩
期 |
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亀ヶ岡式土器 |
大洞B
大洞B.C
大洞C1
大洞C2
大洞A
大洞A' |
後期3780年±150年
晩期2820年±or2260年±130年 |
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04亀ヶ岡文化
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日本を代表する縄文文化の一つである縄文時代晩期の亀ヶ岡文化、亀ヶ岡式土器とは、この縄文館が所在する木造町館岡の亀ヶ岡遺跡に由来する名称である。
亀ヶ岡文化は、北は北海道南部から南は東北地方南部と新潟県の一部までを含む広大な文化圏を形成した。
秋に実りをもたらし、初冬に葉を落として再び春に若葉をつける、そういう季節感溢れる落葉広葉樹林帯の豊かな自然を背景に育まれたものである。 |
遮光器土偶(重要文化財) 史跡亀ヶ岡石器時代遺跡出土(沢根地区出土) 縄文時代晩期中頃(約2700〜2500年前)大洞C1式段階
高さ34.2cm 重さ約1.4kg
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写真の遮光器土偶は、亀ヶ岡遺跡の南側の低湿地、沢根から出土した縄文時代晩期(3000〜2300年前)の中頃のものです。
1887(明治20)年6月2日(木)に農作業中の人が発見しました。1957(昭和32)年2月19日に国の重要文化財に指定され、現在は東京国立博物館に収蔵展示されています。
内部は空洞「中空土偶」と呼ばれています。眼部が雪眼鏡(=遮光器)を掛けた姿のように見えるため、遮光器土偶と呼ばれるようになりました。
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亀ヶ岡文化
上に記述 |
中空大土偶
(遮光器土偶)
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遮光器土偶
上に記述 |
ようこそ
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つがる市木造亀ケ岡考古資料室へようこそ
上に記述 |
史跡亀ヶ岡石器時代遺跡
田小屋野貝塚周辺遺跡
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青森県の縄文遺跡群
を世界に
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亀ヶ岡石器時代遺跡
史跡範囲 |
田小屋野貝塚史跡範囲周辺図 |
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05亀ヶ岡石器時代遺跡の由来
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元和9(1623)年正月元日天気よし
〇2日弘前城下の死も鍛冶町で火事
〇近江沢での築城が中止となった。この城の城下になるところは、亀ヶ岡というらしい。
ここからは。めずらしい(貴重な)瀬戸物(やきもの)が出土する。その形はみな甕(かめ=土器)の形をしている。
大きさに大小あるが、みな水を入れる甕(=土器)である。昔から多く(の土器が)出土するところである。
昔、どういうわけで、このように多くの甕が土中に埋まったのか、その理由はわからない。
その名(甕)をとって、「亀ヶ岡」という地名になったとのことである。
また、青森近在の三内村に小川がありて、この小川から出土する瀬戸物は、大小ともに、みな人形(土偶)である。
これらも(なぜ土中に埋まっているのか)理由がわからない。
『永禄日記』(館野越本)より
【解説】
この文章を読んで、「亀ヶ岡遺跡の発見=亀ヶ岡(近江沢)城築城」と考える人もいるが、亀ヶ岡遺跡と亀ヶ岡城は約1km離れている。また、亀ヶ岡遺跡に築城の跡はなく、これは誤りである。
また、『永禄日記』の原本は失われ、四つの写本のみが現代に伝わっている。亀ヶ岡や三内村(三内丸山遺跡付近)の話は、館野越(現板柳町)の医師山崎立朴(りゅうぼく)が18世紀末頃に写した『館野越本』にのみ記されている。立朴は1796(寛政8)年に亀ヶ岡遺跡を訪れた菅江真澄と交流のある人物のため、写本作成の際に、真澄からの情報を追記したのだと考えられている。 |
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06
亀ヶ岡・田小屋野遺跡
ピンボケ |
亀ヶ岡遺跡
ピンボケ |
田小屋野遺跡
ピンボケ |
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07亀ヶ岡遺跡
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宇宙人を想像させるような大きな目と美しい模様で飾られた体で、太古の世界のミステリアスを感じさせる遮光器土偶(通称:シャコちゃん)刃亀ヶ岡遺跡から出土しました。
亀ヶ岡遺跡は、津軽平野の北側に位置する屏風山丘陵の先端、標高約4〜16mの丘陵上に位置し、西側には日本海に面した七里長浜が広がっています。はるか南には岩木山を臨むことが出来ます。遺跡は大きく低地の近江沢と沢根、丘陵上の雷電宮の3地区からなります。
シャコちゃんのほかにも緻密な文様が施されたり、漆で彩色された壺や皿など美しい土器が沢山出土していることでも有名です。
江戸時代初期の津軽藩の事跡を記した「永禄日記」には、既に瓶(かめ=土器のこと)が沢山出ることから瓶ヶ岡(かめがおか)と地元で呼んでいるという記述があり、古くから著名な遺跡であったことが分かっています。
また、江戸時代後半の紀行家菅江真澄による遺跡の紹介や、明治の画家蓑虫山人による発掘などもあり、高い知名度を誇っています。
遺跡から出土した遺物に、一風変わった物があります。津軽藩主が茶道具として利用するために、内側に金箔を貼った高坏形土器です。
しかし、珍しい土器が沢山出るということから、盗掘も盛んに行われていたようで本遺跡から出土したといわれる土器や遺物は、本中に散逸しています。青森県立郷土館にも風韻堂コレクションとして出土資料が展示してあります。この様に古くから知られている亀ヶ岡遺跡ですが、遺跡の内容についてはまだ未解明な部分が多く、謎の多い遺跡です。
沢山の遺物を埋蔵する沢根地区では、県立郷土館の調査で、数多くの土器と共に縄文晩期の層から炭化米と籾殻が出土しています。また、それ以前の調査ではガラス玉が出土するなど、注目される成果が上がっています。雷電宮地区からは土壙墓がまとまって検出され、台地の上には墓域が広がっていることが明らかとなっています。しかし、縄文晩期の人々が居住した場所等、生活の主体となった場については未解明のままです。 |
シャコちゃん
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まだ江戸時代の面影が残る明治の中頃、日本の考古学・人類学の創始者坪井正五郎博士はロンドン留学していました。
ある日、大英博物館で細い切れ目の入った革製眼鏡を見つけました。これは北極近くの民族が雪の反射光をさえぎるためのいわば"雪用眼鏡"で
「遮光器」と呼ばれるもの。博士は「日本の縄文時代晩期の土偶の眼に似ている」と気付き、すぐさま日本に原稿を送り、晩期の土偶の眼は「遮光器と見るのが適当でござりませう」と、学会誌で報告されたのです。
これ以来、目が∂∂担っている晩期の土偶は考古学者から遮光器土偶と呼ばれるようになりました。 |
亀ヶ岡遺跡 シャコちゃんのふるさと 所在地:つがる市木造館岡亀ヶ岡
亀ヶ岡遺跡シャコちゃんのふるさと |
上に記述 |
上に記述 |
遮光器土偶 |
漆塗り壺型土器 |
彩文皿型土器
玉類 |
亀ヶ岡遺跡記念碑 |
遺跡位置図 |
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08田小屋野貝塚
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史跡亀ヶ岡遺跡の北側に位置し、谷を挟んで向かい合う標高約20mの段丘上に位置します。昭和19年に亀ヶ岡遺跡と共に史跡に指定されました。貝塚は全国的にみて太平洋岸に多く分布しており、田小屋野貝塚は日本海側の数少ない貝塚として重要です。しかし、詳しい内容はよくわかっていなかったため、平成2〜3年に県立郷土館が発掘調査を行いました。
調査の結果、縄文時代前期中頃の竪穴住居が発見されました。住居跡の中には貝や土器等が捨てられ、貝層を形成していました。貝は汽水性のヤマトシジミ、淡水性のイシガイが中心でした。当時は現在よりも温暖な縄文海進の時期にあたり、十三湖は現在よりも内陸まで入り込み、汽水域は岩木川の下流域に大きく広がっていました。
鳥類はガン・カモ類が多く、水辺で猟を行っていたのでしょう。魚骨はフナなど淡水魚が多く、スズキ・ニシン・カツオなどもありました。
動物はノウサギ、カモシカの骨が出土しましたが、太平洋側の貝塚から多く出土するシカ・イノシシの骨は含まれていませんでした。
そして海に棲むトド・アシカ・イルカ・クジラの骨も出土しています。クジラの骨は多量で、体長20m以上の大型のものでした。
田小屋野貝塚から4km程西には日本海があり、七里長浜と呼ばれる砂丘が広がっています。その浅瀬に乗り上げたクジラや漂着したクジラを利用したことが考えられています。このように、田小屋野貝塚からは、当時の津軽地方の食生活や狩猟・漁撈に関する貴重な情報が得られました。
注目されるのは、小面積の発掘にもかかわらず約60点のベンケイガイが出土したことです。何れも7〜8cm大の貝輪(ブレスレット)への加工途中のものや破損品で、完成品はありませんでした。ここでベンケイガイの貝輪作りが行われ、完成品はムラの外に運び出されていたものと考えられます。
ベンケイガイは房総半島以南に生息する暖流系の二枚貝ですが、対馬暖流が流れ、大きく長い砂浜である七里長浜はベンケイガイが多く、採取も容易です。その近くに位置する田小屋野貝塚は貝輪作りの集落として恵まれた環境にあったものと考えられます。
ベンケイガイは最近になって北海道でも確認されましたが、ベンケイガイの最北の貝輪造りの集落は、現在も田小屋野貝塚です。
同時期のベンケイガイの貝輪は青森県内だけでなく北海道からも出土しています。
田小屋野貝塚からは北海道産の黒曜石など北海道との交流を示すものも出土しており、作られた貝輪は青森県内や北海道まで運ばれていました。
(※ベンケイガイの貝輪が、黒曜石との交換材になっていたということでしょうね。) |
田小屋野貝塚 貝輪作りのムラ 所在地:つがる市木造館岡字田小屋野
ベンケイガイ製の
貝製品と石製装身具
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骨角器(骨刀、針)
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貝層
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遺跡全景 |
遺跡位置図 |
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※おことわり
地名の由来は(亀ヶ岡)甕ヶ丘と聞いています。江戸時代に、この地域特有の土器や土偶が大量に発掘され、関東や関西を始め、遠くはオランダに
まで高値で売られたため、この名を冠したそうです。確かに、列島各地の博物館から僅かずつですが、亀ヶ岡式の土偶が展示されています。
ただし、当時からこの地方の土器や土偶は大いに珍重されたようで、日本中で見かけることがあり、遠くは、沖縄からも発掘されています。
壊れやすい土器・土偶がどのようにして運ばれたのか大変疑問でした。道もない縄文晩期に東北の山中まで土偶を担いで運んだのだろうか。
それとも、模倣だろうか。しかし、模倣はどんなに努力しても輪郭がぼやけ、やがてオリジナルとは似て非なるものができます。
縄文時代の日本海ルートでは大量に現物が運ばれたようで、鳥取県の山中からも工字文の皿が出ています。
太平洋ルートというのもわずかにあったそうで、四国足摺岬or室戸岬から出土していると聞いています。
沖縄北端の遺跡から出土したものは、「関西の胎土を北陸の職人が造形したものだ」という話をも確かなところから聞きました。
ただし、鳥取県を除いて、東北地方以外の博物館では、これらの多くは非展示、非公開、情報秘匿で確かめることもできません。
さて、本題に戻ります。
この館に展示されているものは、ほぼ亀ヶ岡式土器であると思われます。一部他形式が混入しているかもしれませんが。
ここではほぼキャプションがなく、展示物だけをご覧いただくことになります。
以前、ネット上にこの館が揚げている解説がありました。もし、運よくそれを再発見できれば、解説が付けられるかもしれません。
2021.03.31
ネット上の解説は再発見できませんでした。館内の展示物にはキャプションがありません。従って、ほとんど見出しもつけられません。
このページでは、ご自分で丹念に写真をご覧になって、いろいろなものを発見してください。
私は、北陸東海の御物石器と、弥生時代のはずのアメリカ式石鏃を見つけました(以前にも東北のどこかの縄文遺物にありました)。
解説を頼らずに、ご自分で発見してください。面白いものがいろいろありました。
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10遺物展示
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11壺形土器
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12赤漆塗り土器
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赤漆塗り鉢形土器
1982年亀ヶ岡遺跡発掘土器 |
赤漆塗り台付土器 |
赤漆塗り壺形土器 |
赤漆塗り壺形土器 |
赤漆塗り壺形土器 |
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13亀ヶ岡出土土偶
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14注口土器 縄文晩期
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30 |
31
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32
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33石棒
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34石斧
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36装身具
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37亀ヶ岡式土器 晩期 約3,000〜2,300年前
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50 |
51
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53石器
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石刃or石片 |
石匙(縦型) |
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石匙(横型) |
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石槍 |
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石鏃 |
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石錐・石槍等 |
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55
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56石棒・石剣等
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57石棒・石剣等
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58玉製品関連
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59土偶
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60 |
61壺形土器
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63漆塗皿形籃胎漆器
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赤漆塗皿形籃胎漆器
亀ヶ岡遺跡出土
縄文晩期 |
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土錘 |
骨角器 |
鹿角製品 |
骨片 |
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64土錘・骨角器 |
65
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66石皿・磨石
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67赤色顔料作り
石皿・磨石・ベンガラ 晩期 約3,000〜2,300年前
研究 ベンガラ
弁柄の原料は青森県東津軽郡今別町赤根沢 赤岩 に産出する。地図 弁柄について 写真 Wikipedia弁柄 弁柄=酸化第二鉄
ベンガラ(紅殻・弁柄)が全て当て字で、本当はインドのベンガル地方の産物という言葉の略語だったとは、初めて知りました。
十三湊と各地を結ぶ航路がなぜ盛んだったのか、この航路を通じて亀ヶ岡式土器も運ばれたと思われますが、その運搬物の主たる物の一つが
弁柄だったのでしょう。
縄文時代に南島系(奄美・沖縄)の貝製品がなぜ日本海ルートを通じて東北まで運ばれてくるのかと不思議に思っていました。
その原動力は、やはりこのベンガラと、北海道から持ち込まれる黒曜石がこのダイナミックな交易の根底にあるのだと思います。
石皿・磨石・ベンガラ 晩期 約3,000〜2,300年前 |
磨石・ベンガラ
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石皿・磨石・ベンガラ 晩期 約3,000〜2,300年前 |
磨石・ベンガラ |
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酸化第二鉄原石 |
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80 |
81
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83
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85
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90 |
91
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93
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94亀ヶ岡文化を中心としたベンガラ生産 引用亀ヶ岡文化を中心 としたベンガラ生産の復元 J-Stage
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亀ヶ岡文化においては、土偶から皿まで、赤色顔料による漆塗り製品が特長的である。このベンガラは津軽半島突端の宇鉄遺跡に産出する褐鉄鉱が原料です。
褐鉄鋼を粉砕し、精製して得られた弁柄は、十三湊から日本海を通じて北海道や西日本まで、津軽海峡を越えて八戸の是川遺跡まで、
陸路を通って津々浦々の山中にも運ばれたようです。その時、一緒に運ばれたのが、赤く塗られた遮光器土偶であり、大洞式土器(亀ヶ岡式土器)の壺や甕、皿であったろうと思われます。
ベンガラの製造は、原料の採取→荒割り→粉砕→選別 を繰り返すことによって行われます。
製造された弁柄を赤漆にして、芸術性の高い土器や土偶に塗り、おそらく美術品として信仰とは関係なく、全国に流通したのでしょう。
いわば付加価値を付けて、いや、高い付加価値を付けて全国と交易をすることが出来たようです。 |
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95
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石棒or磨石
磨り潰した弁柄粉が付着していないが |
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磨製石斧 |
尖頭器 |
打製石斧 |
石刀 晩期
約3000〜2300年前 |
石刀=祭祀具。刀に見えたことから名付けた |
ミニチュア土器 |
石匙 |
石鏃 |
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130 |
131亀ヶ岡式土器
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132
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133
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150 |
151
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152
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152
亀ヶ岡遺跡出土の動物骨
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縄文時代には、捕らえた動物は、肉だけでなく、毛皮や、骨も利用して、釣針やアクセサリーを作ったりしています。
縄文時代晩期(3000〜2300年前)の亀ヶ岡遺跡からも、シカ・イノシシ・クジラの骨や骨製品が出土しています。ここにも、右側に鹿角とこれを材料に作った骨角器、左側にイノシシの上顎骨と下顎骨を展示しています。下顎骨から推定されるイノシシの大きさは、150kg。普通のニホンイノシシのオスは胴長120〜150cm、体高65〜75cm体重100km前後なので、このイノシシはかなりの大型です。
縄文時代晩期頃の亀ヶ岡遺跡周辺は、イノシシにとって住みやすい場所だったかもしれません。 |
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160 |
161接合土器
上下違うものを接合した土器
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こにある4点の土器は、亀ヶ岡遺跡から出土した縄文時代晩期(3000〜2300年前)のものですが、よく見ると上下違うものが接合されています。
遺跡から市出土するものの多くは、右に展示中の頭のない遮光器土偶の様に、完全な形では発見されません。
素晴らしい土器なのでかけていてはもったいないと思ったのかもしれませんが、似たような大きさや文様の異なる土器同士や土偶同士を接合した例が見られます。 中にはその違いが判らないほど上手に接合されたものもあります。 |
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162頭のない遮光器土偶 史跡亀ヶ岡石器時代遺跡出土(近江野沢地区出土) 縄文晩期前半(約3000〜2700年前) 大洞BC段階
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この遮光器土偶は、亀ヶ岡遺跡の北側の低湿地、近江野沢から出土した縄文晩期(約3000〜2300年前)前半のものです。
有名な左脚の欠けた遮光器土偶の様に、内部は空洞で、これと同じように眼部に雪眼鏡(=遮光器)を掛けたような意匠を施した頭が付いていたと考えられます。
この土偶はベンガラと考えられる塗料で赤く塗られています。
※江戸時代の盗掘ブームが起きた時、脚のない土偶や頭のない土偶などは、打ち捨てられたのでしょうね。だから、現代まで残っていて、
きれいな完品は全て高値で売り払われたのでしょう。 |
頭のない遮光器土偶 |
頭のない遮光器土偶 |
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163土偶・石鏃・土製品
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土偶
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装身具
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穿孔具 |
石鏃 |
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土錘 |
石鏃 |
掻器・石匙 |
動物骨・歯牙 |
骨片 |
磨石or 叩石 |
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170 |
171壺形土器
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172土偶・石剣
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玉 |
石刀
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土偶
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カッパに見える遮光器
頭が下がっているのでカッパに見えるが、遮光器土偶です。 |
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石錐・石匙 |
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※土偶について
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この土偶は、展示室に入って最初の陳列ケースの中央にあります。一番目につきやすい場所です。だから最初に撮影し、ページ冒頭で紹介するべきです。しかし、撮影が最後になったのは、この日、東京から一泊二日で退職学校教員のバス1台のツアーと重なり、このケースの前で説明が延々とされていたためです。
ただ、驚いたのは、館の目玉展示であるこの土偶の前に説明者は立ち、両手を大きく左右に伸ばして展示ケースの角を掴み、自分にだけ土偶が見えるようにして、観客は端から、横から、斜めからしか見えないように、いわば、通せんぼする形で説明していました。長い長い説明時間中誰も正面からこの土偶を見ることができませんでした。
館長か誰だか知らないが、「そりゃあ説明者は間違ってるよ。皆に見えるようにしないと。自分だけが独占的に見ているってのは間違いだ。
第一お前さんはいつでも眺められるだろう。なんでたまにしか来ない団体客にさーびすよく見せずに邪魔をしているんだ。」と言ってやりたいのだが、誰も言わない。説明者もこの方法をずっとやっているらしく、なんとも思っていないようだ。
沢山のツアー客は説明が終わると出ていった。ほとんどの人が、このメイン展示の土偶をまともに観察することもなく。退屈して出ていった。 |
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175石皿・石冠
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181
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土器片 |
石鏃 |
彫器・掻器・石匙・石鏃 |
磨製石斧 |
土器片口縁部 |
磨製石斧 |
この石斧、くすんでしまっているが、磨いたら
北海道産のアオトラ石ではないだろうか。
乳房型磨製石斧 |
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182漆の入った土器
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185透かし入り台坏土器
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土偶 |
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玉砥石
何かを材料に |
玉砥石
何かの玉を作っていた |
鉢形土器 |
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190 |
191亀ヶ岡北西部台地出土
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192土偶頭部 縄文後期 約4000年前 亀ヶ岡遺跡
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193土器片
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196石器等
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石斧・石鏃・石匙
垂飾 |
こんなに微妙な位置に貫通させている
重すぎる垂飾 |
垂飾 |
石鏃・石匙・彫器
ミニチュア土器 |
管玉・小玉? |
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197玉砥石・御物石器
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※御物石器は北陸地方に多いものだが、それが亀ヶ岡からも出土している。他に、大分県竹田市田井原遺跡、関東地方からも出土したと記憶している。これらも交換材として、御物石器信仰のない遠隔地にも運ばれている。まるで、遮光器土偶信仰のない沖縄まで運ばれたのと似ている。
三角交易をしていたアイヌ同様、本州縄文人も、相手が持ち込む不要なものも合わせて交易し、それら不用品は別の相手と交換したようだ。
だから、珍しいという価値だけで、交易され、各地に広まったようだ。 |
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198石鏃・石匙・石箆
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200 |
201石鏃
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202三角土版等
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205
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230 |
231
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233石匙・石錐
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234釣針
半島式でない釣針 |
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235ミニチュア土器
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236アメリカ式石鏃
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東北地方に多いが、弥生時代ではない。オーパーツみたい。 |
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237
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238石錐
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240 |
241
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243
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245鯨骨等
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