四国の考古博物館1 11 2019.03.09-2
善通寺市立郷土館 香川県善通寺市善通寺町6丁目1−4 0877-63-6329月・木・祝祭日休館 撮影可
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交通 |
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善通寺駅から徒歩10分 |
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特徴 |
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弥生時代は旧練兵場遺跡群。
古墳時代は有岡古墳群です。 |
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弥生・古墳期の遺跡はここではバラバラで取り上げていますが、
善通寺郷土館では有機的につながった解説が受けられます。 |
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編集にあたって
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岡山県百間川地域では環濠集落も高地性集落もない。四国善通寺にも防御性集落はない。弥生時代の早い段階から瀬戸内一帯が大きな軍事勢力に支配されていたことを意味する。詫間町紫雲出山山頂遺跡は、高地性集落ではなく、見張り台の集落だったと思われる。
つまり瀬戸内地域は、早くから海人族(宗像)と同時期にやって来て、吉備や四国に侵攻した武力集団によって安定的に支配されていたようだ。
彼らはその後ヤマト政権の共立に参画し、初期前方後円墳を造った。その後、内部対立により、吉備津彦命による吉備侵攻(桃太郎話)等もあった。
縄文・弥生・古墳期を通じて珍重された鉱物が水銀朱である。水銀朱の主な産地は大和・三重と徳島にあり、これらは莫大な財力を生む資源として、
この産地を掌握したものは大王(天皇)にもなった。
四国では、阿波徳島で生産されたものを入手した讃岐の一族が海外交易を行い、莫大な富を得た。それが善通寺市を支配した佐伯氏であり、この地は早くから「中世の堺のような」、海外交易都市として発展し、瀬戸内航路の完全掌握と軍事的安定から、大陸人や半島人も居住し、事あるごとに流入する流民も多く受け入れて勢力拡大を行っていた。
ヤマト政権が瀬戸内航路を自由に航行できるようになったのは、神功皇后の九州征伐といわれる軍事的再編によってであり、それまでは、日本海航路を使用し、丹後宮津方面を港にしていた。これ以降宮津方面は衰退し、瀬戸内航路周辺はヤマト政権の干渉を受けるようになった。(鬼退治)
古くて小さな善通寺市立郷土館には、このような歴史がギュウギュウに押し込められています。丹念に調べると上記のような歴史的背景と、下に展開する弥生、古墳時代の興味深い歴史が見えてきます。私は取材・編集するまでこの館の重要性を知りませんでした。
従って更に再取材し、保存公開されている古墳を見学し、その解説板や古墳を見れば、もっと興味深い知識を得ることが出来るでしょう。
善通寺市では毎年4月29日に「古墳の日イベント」を行い、古墳内部を無料一般公開し、市役所からバスも出るそうです。
しかし、この頁の公開には間に合わない。更に、現在2020年2月10日「新型肺炎が国内拡散期」のため、旅行に出ることはできません。
大変残念ですが、ここで編集を終了させていただきます。
説明板の一例
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目
次 |
00善通寺五岳山と外観
01五岳山
02五岳山の地学
05郷土館外観
10善通寺市の古墳概要
11野田院古墳
12有岡古墳群とは
100旧石器時代
110土器のない時代
120ナイフ形石器
200縄文時代
201縄文の森
221縄文土器
222小蔦島貝塚
223石鏃
270他地域の
石器・土器・土偶
300弥生時代
300a旧練兵場遺跡
仲村廃寺
善通寺市の条里制
300b旧練兵場遺跡群
遺跡の概要
遺跡の経済圏
遺跡の文化圏
弥生時代の地域社会
300c旧練兵場遺跡群の
遺跡と性格 |
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301仙遊遺跡の人面刻書石棺
302仙遊遺跡の組合せ式石棺
303石棺蓋の線刻画
310仙遊遺跡の石棺の蓋石
312弧帯文石
303吉備の特殊壺
考察 仙遊遺跡と吉備国
320小児壺棺
330平形銅剣
340銅鐸
341県内の青銅器分布
五岳山と善通寺周辺
国宝 袈裟襷文銅鐸
伝讃岐国出土銅鐸
342銅鐸 表面
343銅鐸 裏面
350弥生時代
351旧練兵場遺跡とは
旧練兵場遺跡の諸相①
旧練兵場遺跡の諸相③ 銅鐸
旧練兵場遺跡の諸相④ 石斧と玉
352流水文銅鐸
354玄門部閉塞石 王墓山古墳
400弥生時代の石器
414弥生前期の石器
419弥生中期の石鏃
424分銅型土製品
430弥生中期の道具
440弥生時代後期の土器
443彼ノ宗遺跡 後期
444旧練兵場遺跡遺物後期 |
450弥生~古墳時代
460宮が尾古墳
461旧練兵場遺跡と楼閣絵画土器
462宮が尾2号墳大型須恵器
500弥生~古墳時代
502善通寺西遺跡 出土櫂
503有岡古墳群
有岡古墳群
野田院古墳
王墓山古墳
宮が尾古墳
磨臼山古墳
丸山古墳
鶴が峰4号墳
504古墳時代~白鳳時代
510王墓山古墳玄門閉塞石
512王墓山石室実測図
520善通寺西遺跡の溝 出土土器
523旧練兵場遺跡出土土器
考察 廃棄
540(飛鳥・白鳳)奈良時代~
541土器
542善通寺市内出土遺物
550王墓山古墳
550金銅製冠帽
560王墓山古墳の副葬品
569b野田院古墳
580王墓山古墳の副葬品
584菊塚古墳
590旧練兵場遺跡の須恵器
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600古墳
610王墓山古墳
631王墓山古墳副葬品
635台付鉢・子持ち壺
650平安時代
銅版経筒
香色山山頂遺跡
平安時代後期
660中世
660天霧城
その他の遺物
662善通寺伽藍出土瓦古代
670宮が尾古墳 殯の線刻画
680家形埴輪 香色山遺跡
721岡古墳群
722壺形土器 大窪遺跡
723円筒埴輪 大亀古墳群
725土器棺 旧練兵場遺跡
801善通寺
802磨臼山古墳出土石棺
参考文献
805善通寺の古代 |
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00善通寺五岳山と外観 |
01五岳山
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列車が瀬戸大橋を渡って瀬戸内海の美しい朝景色を見せ、多度津で土佐行き電車に乗り換えると間もなく、とても不思議な形の山塊が見えてくる。
思わず何も知らない私がシャッターを何枚も切ってしまうほどの景色である。
山塊の名称は五岳山。
実に神秘的な感性の山で、半島からやって来た人々がこの山の麓に住み着き、彼らもまた、神秘的な魅力に取りつかれ、信仰したようである。
その末裔は、渡来人の集団を率いるおさとして君臨し、阿波の国から産出する水銀朱交易を生業とし、中世の港町堺の様に、大陸や半島、そして畿内へと交易し、財力を蓄えた。従ってその集落には、常に半島人や大陸人が居住する交易の拠点として大いに繁栄したようである。
このような環境の中で成長した空海は、多言語に堪能で、莫大な財力を背景とした留学僧として803年に遣唐使に加わり、他の倭国の学僧が20年かかる言語の取得と知識の獲得を、言語力と知力と財力を背景に、僅か3年後の806年に帰朝し、以後、日本仏教の租として、大変重要な活躍をする。
空海の渡航費用や中国での滞在費は、全て水銀朱で支払われたという。水銀朱交易の流通を利用して少し上乗せするだけでまかなえたようだ。
当時の五岳山は屏風浦と呼ばれていた。空海帰朝の翌年、807年に空海の父を開祖として建立された善通寺の山号※として五岳山と呼ばれるようになった。
しかし、五岳山一帯は、最初に述べたように弥生・古墳時代からの聖なる場所であったようで、多数の古墳や遺跡が集中し、集団墓地も点在する。
更にそこへ仏教寺院が複数建立され、いわゆる宗教センターのような中心地として今日まで栄えている。
※山号とは、全ての寺院の名称につく実在、非実在の山の名前である。たとえば黄檗山万福寺、久能山東照宮、龍谷山本願寺などであるが、
ここでは 屏風浦五岳山誕生院と号し、現在は 屏風浦五岳山誕生院善通寺 と号している。
ちなみに、「龍谷」は2文字だが、本来は一文字で、おおたにと読むそうだ。だから「おおたにさんほんがんじ」。 |
五岳山
左の低山:香色山
円錐形の:筆ノ山
坊主頭の:我拝師山
中山
火上山 |
香色山:こうしきざん
筆ノ山:ふでのやま
我拝師山:がはいしさん
中山:なかやま
火上山:ひあげやま |
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引用拝借
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02五岳山の地学 引用拝借
、googlemap
➀香川県西部の地形 |
②五岳山上面視 |
③五岳山の地質断面
模式図 |
④火上山のキャップロック地滑り |
⑤五岳山周辺地質図 |
地形と地質
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五岳山一帯は約9000万年前(中生代白亜紀後期)の花崗岩類を基盤としている➀②③。
これはシナ地塊(安定陸塊)のものであり、2500万年前の日本海の形成によって引き裂かれ、ちぎり取られたなごりのものである。中央構造線はもう少し南を走っているので、海洋底堆積物の付加体ではない。
③その上に、1300~1500万年前(新第三紀中新世)に瀬戸内火山帯といわれる、古火山帯の活動によって噴出(貫入)した
瀬戸内火山岩類(讃岐層群)が分布している⑤。
※香川県本土の瀬戸内火山岩類は讃岐層群と呼ばれている。讃岐層群は約1400-1500万年前の流紋岩の噴火から始まり、約1300万年前までのサヌカイトの噴出で幕を閉じます。
小豆島の瀬戸内火山岩類 は小豆島層群とも呼ばれ、讃岐層群よりやや新しい 約1200-1400万年前の年代です。
③香色山は流紋岩の貫入した火山岩頸。 筆ノ山・我拝師山・中山は讃岐岩質安山岩(サヌカイト)が貫入した火山岩頸、つまり芯となっている。
④火上山は花崗岩の上を凝灰岩が覆い、その上に讃岐層群が乗るキャップロック④になっており、柔らかい凝灰岩の崩落と伴に讃岐層群も地滑りを起こしている。 引用拝借
9000万年も前の非常に硬い大陸地塊を押し割って、1500万年前に噴き出した火山岩類が山体となり、周囲にはもっと新しい堆積物をかぶって⑤讃岐の大地ができている。なんとも驚きの安定した地域ですね。五岳山の奇妙な形は、1500万年もの風化浸食による地形でした。 |
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05郷土館外観
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10入口展示 |
善通寺市の古墳概略
11野田院古墳(のたのいん)模型(有岡古墳群)
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12有岡古墳群とは
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五岳山の南、大麻山の麓にあり、善通寺一帯を支配し、水銀朱の生産と交易を行っていた集団で、
弘法大師を輩出した豪族の墳墓群と言われている。
墳墓の築造は807年の善通寺(屏風浦五岳山誕生院)の建立によって終わる。
古墳群には、 野田院古墳、王墓山古墳、宮が尾古墳、磨臼山古墳、などがある。
その他、近くに、岡古墳群がある。また、地図上では古墳の空白地帯となっている地域は、
戦時中の食糧増産のための開墾によって立派な巨石の古墳がみな壊されてしまったためです。
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有岡古墳群 |
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野田院古墳(のたのいん) 3世紀後半 石積塚古墳 竪穴式石室
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3世紀後半。前方部を盛り土で、後円部を積み石で作った二段築成の前方後円墳。 |
王墓山古墳(おうはかやま) 6世紀中期 横穴式石室
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6世紀中期。全長46mの前方後円墳。讃岐地方には珍しい横穴式石室。
副葬品は、ヤマト政権が配下に配布した金銅製冠帽、銀象嵌の鉄刀、土器(須恵器)、装身具(首飾り)、武具・馬具類。 |
宮が尾古墳(みやがお) 6世紀末~7世紀初頭 石室内に線刻壁画を持つ 横穴式石室
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6世紀後半又は、7世紀初頭。円墳、装飾古墳(線刻・浮彫)、周濠・周提、主体部の長さ9m両袖式横穴式石室。
羨道(玄室に入る通路)には2体の武人像、玄室(棺を納める部屋)の奥の壁には人物群、馬に乗る人物、船団などが克明に線刻されています。
この人物群は古代の殯(もがり)、つまり貴人が亡くなった時に本葬の準備が整うまでに行われた儀式の様子を描いたものと考えられています。
玄室部は奥行4.5m・幅約2m・高さ約2m、羨道部長さ約4.5m・幅約1.2m・高さ約1.7m。
副葬品は、耳環や刀子、須恵器など |
磨臼山古墳(すりうすやま) 4世紀後半 善通寺市生野町磨臼山山頂 引用wriver 磨り臼山古墳 前方後円墳
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4世紀後半。前方後円墳。全長全長50m、後円部径28m、後円部の高さ4m、前方部幅8m、前方部の高さ2m。
石棺は、高松市国分寺、鷲ノ山産 角閃石安山岩でできた船形刳抜式石棺が出土。石棺は善通寺市郷土資料館に保管展示される。後出。 |
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100旧石器時代
後期旧石器時代 約2,3万年前~約1万年前
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110土器のない時代
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今から1万年以上前、人々は石を打ち欠いて作った道具(石器)を使って、狩りをしながら暮らしていました。
土器を作ることは、だれも知らなかったようです。この時代を旧石器時代といいます。
この時代は氷河時代でとても寒く、北極や南極を中心として氷河が沢山ありました。そして海面が今より140mも低く、瀬戸内海は海ではなく、陸地になっていました。人々小高い山(現在は島)から下を通る動物を探して槍などを片手に狩りをしていたようです。
この頃使った石器には、先の尖った尖頭器、舟の底のような形の舟底石器、肉を切り裂くナイフ形石器やクルミなどを砕く叩石などがありました。
石器の材料となる石は、坂出市の金山や国分台で採れるサヌカイト(安山岩)を使っていました。
また、時には、サヌカイトより硬めの黒曜石という石を島根県隠岐島から運んできて使ったこともあったようです。 |
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後期旧石器時代
約2,3万年前~約1万年前
石器を使った時代 |
土器のない時代 |
日本列島の形成 |
日本列島の形成
ミンデル氷期とリス氷期 |
48万年前、ミンデル氷期の日本列島
20万年前、リス氷期の日本列島
更新世 (洪積世 258万~1万年前) は、
大氷河時代ともいわれ、寒冷な氷期と比較的温暖な間氷期とが繰り返され、そのつど、海岸線や気候が大きく変化し、新しい地層の形成や浸食が行われた。 |
動物群の移動(更新世) |
大陸と陸続きの日本に、ナウマンゾウ、マンモス、オオツノジカなどがやって来た。
それを追って人間も住み着くようになった。 |
CO2の急激な増加が氷河時代を終わらせる
氷河期の終了は深海からのCO2の大量放出だったとする記事。 |
縄文時代初頭の瀬戸内海の水深 |
現在の瀬戸内海
平均水深38m
最大深度105m
豊予海峡・鳴門海峡
当時、岡山県高梁川沖を分水嶺に、流入した河川は、東西に分流していたようです。 |
ネアンデルタール人の絶滅は4万年前
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120石器
後期旧石器時代 |
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ナイフ形石器 |
ナイフ形石器
坂出市瀬居島 |
ナイフ形石器
坂出市与島 |
旧石器人の痕跡は海底に水没し、僅かに残った島嶼から出土する。 |
瀬戸内海に棲んでいた旧石器人たちは、ナウマンゾウやヤベオオツノジカを狩って暮らしていました。
(ということだが、これらは一年のサイクルで回遊する動物。どこからどこへ回遊していたのだろう。)
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140ナイフ形石器 は、瀬戸内技法(国府型ナイフ形石器)です。
石核石器 |
瀬戸内技法の石器 |
国府型剥片
(翼状剥片) |
国府型剥片
(ナイフ形石器) |
石核石器 |
石核石器
石を打ち割り剥片を剥がして中心部を石器として使用する。
剥片石器
石の剥片を加工して
石器として使用する。 |
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200縄文時代 約1万年前~紀元前5世紀頃
土器のある時代 (縄文時代)
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今から約1万年前に縄文土器が現れました。縄文土器といっても全てに縄目文様があるわけではありません。時期や場所によって、形や文様が随分違っています。形には、深鉢と浅鉢が多く、煮炊きや盛り付けに使われたようです。
土器を使って固い食べ物を煮れば、柔らかくなって食べられました。土器は本当に便利なものだったようです。土器作りは女性の仕事でした。
土器は遠い地方から運ばれることもあったようです。香川県からは、千葉県や奈良県と同じ文様を持つ土器が出土しています。
縄文時代には弓矢が登場しました。軽く、持ち運びが簡単で、矢は槍よりも遠くへ早く飛ぶので狩りをするのにとても便利でした。
矢の先には石の矢尻、石鏃をつけました。鏃にはトリカブトのような毒をつけて狩りをしたようです。
縄文時代(新石器時代ともいう)の善通寺市にも縄文遺跡が出始めています。善通寺市にもかなり古くから人々が住んでいたことがわかります。 |
縄文時代の生活環境
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縄文時代の人々はどんなところに棲んでいたのでしょう。
縄文時代、平野部には深い森が広がっていました。今、私たちの家の周りには、田んぼや道路や街並みがあって、森は山にしか残っていません。
これは、弥生時代以降、田んぼをつくるようになったため、2000年以上にわたって人間が森を切り開いてきたからです。
縄文時代の人は、銛の中で生活に必要なあらゆるものを調達し、森と共に生きました。そこには自然と付き合う豊かな知恵がありました。
縄文時代の人が暮らした森をのぞいてみましょう。
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〇縄文の森 |
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環境復元模型 |
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〇時代 |
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縄文時代後期~晩期 約4000年前~3000年前 |
って、これ、ジオラマでなく。隣の文書です。(下201⑥の写真) |
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201縄文の森 下写真⑥の絵の解説です。
縄文の森
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遺跡の土の中に、何千年も腐らずに草木の花粉化石が残っていることがあります。今生えている木の花粉と顕微鏡で見比べて、どんな木の花粉だったかを調べると、その遺跡の周りにどのような木が生えていたのか推測できます。また、遺跡から出土した木の葉や実、枝なども参考になります。 |
●イチイガシ
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善通寺市永井遺跡では、この木の葉っぱやドングリが沢山見つかりました。現在イチイガシは香川県内では、高松市の藤尾神社の森や金刀比羅宮の森など、ごくわずかに残っているだけです。このように少なくなったのは弥生時代以降この木が生えていた平地の森が 切り倒されて田んぼにされていったためでしょうか。
この樫の木のドングリは水に浸しておくとシブが抜けます。西日本では、このドングリが縄文時代の遺跡の食料を貯蔵する穴から見つかります。 |
●ムクロジ 実は羽根つきの球にします。ムクロジやエゴノキの種子を磨り潰してもむとよく泡立ち、石鹸代わりに洗濯に使うことが出来ます。
●シカ 犬に追われ、森の中に逃げ込んだシカ。狩人が矢を放ちました。
●マムシグサ マムシグサはサトイモ科の植物で、土の中にイモができます。
●ヤマノイモ ヤマノイモを打製石斧を使って掘り出そうとしています。
●弓矢 縄文時代になって弓矢が使われるようになりました。
縄文時代
約1万年前~紀元前5世紀頃
土器を使用した時代 |
土器のある時代
(縄文時代)上に記述 |
縄文土器の写真
写真の撮影で不鮮明 |
日本人のルーツ解明
縄文人と弥生人の混血という記事 |
縄文時代の生活環境
上に記述 |
縄文の森
上に記述 |
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220縄文時代 |
221縄文土器
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縄文土器
詫間町大浜
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押型文土器
縄文早期
仁尾町小蔦島貝塚
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善通寺市五條遺跡
縄文後期
風化した土器だが
随分と砂利が混入した粗悪な胎土である |
善通寺市永井遺跡
縄文後期
こんなに粗製の土器は珍しい。良質粘土不足か、そんなものだったか |
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222小蔦島貝塚(仁尾町)の貝殻と獣骨
シラクモガイ、イソマイマイ、 |
ヌノメアサリ、イトカケヘナタリ、マガキ、トヨツガイ |
ヒリッピサルボウ、獣骨 |
ベニハマグリ |
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223石鏃
石鏃 |
多種多様な石鏃で、
一時期のものとは思えない。
長期間の変化か、
他地域からの流入か。 |
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270他地域の石器
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271奥羽地方の石器・土偶
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272北海道出土の土器
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273土偶
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275他地域の出土物
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獣骨 北海道 |
磨製石斧破片、砥石 |
磨製石斧 |
縄文土器(秋田県出土) |
石錘 |
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300弥生時代
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300a旧練兵場遺跡 弥生時代中期後半~末期以降
引用「卑弥呼の板邪馬台国の候補地を訪ねる 四国讃岐平野の中心地 善通寺市旧練兵場遺跡群」
仲村廃寺※は、 白鳳~奈良時代創建 引用讃岐の古代寺院NO4佐伯氏の建てた古代寺院伝燈寺(仲村廃寺)
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善通寺は、空海が帰朝(806)すると父佐伯善通にちなんで誕生地に創建(807年)したといわれています。
しかし、この地には白鳳期(645-710)に佐伯氏の氏寺である、仲村廃寺と呼ばれる伝導寺がありました。古墳の築造が終焉し、多数の大陸人や半島人がこの地に居住していた環境上、仏教寺院も必要だったのでしょう。しかし、この寺院は短期間で消滅し、空海の帰朝後翌年の807年に誕生院として建替えられました。(廃寺した寺の材を使って真言密教形式に建替えた)
その後、誕生院は西院として、現在の善通寺伽藍は東院として伽藍が発達したものと思われます。この地域には五岳山上にも周辺にも多くの廃寺跡があり、多数の寺院や塔頭(たっちゅう)が建立されていたものと思われます。
基本的に、伝導寺の仏教観と空海の真言密教とは別物であり、空海の密教理念をかなえるためにも新しい寺院が必要だったのでしょう。
発掘された伝導寺と誕生院・善通寺はそれぞれほぼ同等の大きさ(右地図)であり、いずれも巨大寺院であったことが窺えます。
また、伝導寺は法隆寺のような大陸仏教であったため、同様な宝物や装飾、仏具があったものと思われます。
(善通寺はその後戦乱や荒廃に見舞われ、堂塔を焼失し、現在の建物は江戸時代に再建されたものである。) |
伝導寺
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善通寺市の条里制
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300b旧練兵場遺跡群 引用「卑弥呼の板邪馬台国の候補地を訪ねる 四国讃岐平野の中心地 善通寺市旧練兵場遺跡群」
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遺跡の概要
遺跡群は、竪穴式住居跡150棟以上、掘立柱建物跡 50棟以上、土器棺、鎌倉時代の条里制の基準線となる溝などの遺構、銅鐸、
青銅製鏃➀、大量の玉類、丹塗り土器、絵画土器など、多種多様な遺物が見つかっている。
旧練兵場遺跡は鏡や玉などの貴重品や交易品、幾重にも重複する住居跡などが出土していますが、人口・物資・情報が集中し、長期にわたる集落の営みが続く「都会」的な集落であったと考えられます。
遺跡の経済圏
それではこの「都会的集落」を支えたものは何だったのでしょうか? ②③
旧練兵場遺跡を中心とする半径 10km の地域には、同時期の小規模な遺跡が分布します。海浜の遺跡、山林の遺跡、河川沿いの遺跡など、立地条件は様々です。 旧練兵場遺跡で出土した建築材、鯛やイノシシの骨、多量のドングリなどは、これら周辺の遺跡が日常的に供給したものです。
遺跡の文化圏
また、「平形銅剣」という瀬戸内地方に特徴的な器財がこの地域で多数出土していることから、青銅器祭祀の伝統も共有していたと考えられます。つまり、これらの遺跡は共通の文化を共有しながら緊密な関係を維持した地域社会を形成していたのです。
弥生時代の地域社会
旧練兵場遺跡群が、九州④や近畿など遠方との交易を活発に行い、多数の人々が集まって生活する「都会」を維持できたのは、生活、交通、政治などに関わる地域社会が存在し、支えたからなのでしょう。
※旧練兵場遺跡群は当時の都会であり、文化や製造業などが進み、遠隔地と交易をする政治経済の中心地であったようだ。 |
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論文はこのあと、本論に入る。是非読んでいただきたい。引用「卑弥呼の板邪馬台国の候補地を訪ねる 四国讃岐平野の中心地 善通寺市旧練兵場遺跡群 この頁最下に貼り付け
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項目 |
要 約 |
1旧練兵場遺跡の特徴 |
遺跡は500年間続いた。その範囲は吉野ケ里遺跡と同等の50haである。
貴重品の青銅器や勾玉が出土し、青銅鏃は県内出土数の9割、50本が出土している。(富・権力・武力が集中している) |
2銅鐸と鏡 |
銅鐸は弥生中期(約2100年前)を中心に、集団の祭器として登場する。
銅鏡は弥生後期(約1800年前)を中心に、有力者の威儀具として登場する政治色の強いものである。
青銅器の交代は弥生時代終末期にかけて旧練兵場遺跡が大規模化する過程で、有力者が現れたことを示している。
更に鏡は集落内3か所から出土し、複数の有力者によって集落が経営されていたことが考えられる。 |
3玉 |
交易によって得た勾玉・管玉・小玉などが、翡翠・碧玉・水晶・ガラスなどで作られ、出土量は県内で突出している。
玉類は住居廃絶祭祀で埋納されたもので、特に遺跡西半分に多い。(宝石の玉を捨てるほど豊かな人々だった) |
4竪穴住居と高床倉庫 |
500年間に竪穴住居と高床建物は増え、人口増加が伺えるが、弥生後期後半(約1900年前)以後、高床倉庫跡は検出されなくなる。弥生終末期の卑弥呼の時代には、有力者が倉庫を建てられなくなり、物資の管理が禁止されたことがわかる。
この時期に卑弥呼政権による西日本各地に政治的統合が始まった・強まったと考えられます。 |
5弥生土器 |
旧練兵場遺跡からは福岡県や畿内の土器と、讃岐の胎土製の九州や畿内系土器の出土量は県内最多である。
いかにこの遺跡が活発な地域間交流と遠距離交易を行っていたかが認識される。 |
6鉄器 |
弥生中期後半(約2千年前)に列島で鉄器の生産が開始。旧練兵場遺跡から弥生後期(約1900年前)の鍛冶炉が検出し、鏃・斧・刀子が多量に出土した。遺跡の有力者は、鉄製品や鏡等の威儀具の獲得により、政治権力を発達させたようだ。 |
7地域社会 |
宝物・貴重品の交易や豊かな物資の流入など、都会=旧練兵場遺跡を支えたのは、半径10kmに同時期に存在した海・山の集落との密接な交易でした。 |
8ベンガラと朱(水銀朱) |
岡山県高梁市吹屋のベンガラと徳島県若杉山遺跡の水銀朱が付着した土器が検出され、これらの山地と繋がっていたことを示しています。(古代には、これらの外国交易を独占することになる。) |
9旧練兵場遺跡の研究
10最後に<<まとめ>> |
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300c弥生時代の遺跡 旧練兵場遺跡群の遺跡
仙遊遺跡 弥生時代前期から後期、古墳時代にかけて 石棺蓋の線刻絵画 善通寺市仙遊町一丁目680-67
彼ノ宗遺跡 善通寺市仙遊町二丁目680番地の262・271、5番地の8・10・11・12
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昭和59年には仙遊遺跡から西に500m程の彼ノ宗地区で河川改修に伴う発掘調査が実施されたが、ここでは約1500㎡ の調査区から弥生時代中期から後期にかけての40 棟以上の竪穴住居・小児壺棺墓15基・無数の柱穴と土坑群、古墳時代の掘建柱建物跡2棟とそれに伴う水路、二重の周溝をもつ多角形墳の基底部など、多くの遺構・遺物が確認された。
特に弥生時代終末期の竪穴住居からはその廃絶時の祭祀に用いられたと考えられる仿製内行花文鏡片の懸垂鏡や銅鏃、多数の玉類が出土しており、この地区における弥生時代終末期の動向を推測する上で注目されている。※家の廃棄に宝石を一緒に埋めるなんてすごい金持ち。 |
善通寺西遺跡 弥生時代後期から古墳時代にかけての、弘田川沿いの用水路で、
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総本山善通寺の西に流れる弘田川沿いで昭和52年に実施された善通寺西遺跡では、弥生時代後期から古墳時代にかけての用水路が検出され、多数の小型丸底壺・船の櫂や柱材などが出土しており、生活基盤である水田域の拡大が行われたことや古い溝の廃絶に伴う祭祀が行われたことが確認されている。 |
旧練兵場遺跡以外の巨大集落(小国家)
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上記引用四国讃岐平野の中心地 善通寺市旧練兵場遺跡群では、旧練兵場遺跡を都会と表現しているが、善通寺市内遺跡発掘調発掘調査報告書12によると、
大集落というよりは小国家と表現し、他にも、同等規模の巨大集落があったとしている。(p6)
旧練兵場遺跡北500mに九頭神遺跡(くずがみ) (弥生時代後期頃の竪穴住居や小児壺棺墓・箱式石棺墓などが確認された。) 引用P6
九頭神遺跡の東方に石川遺跡 (未調査詳細不明、弥生から古墳期の遺物が多量に散布する)
九頭神遺跡の北方に稲木遺跡 (弥生後期、弥生時代から古墳時代にかけての竪穴住居群や墓地、中世の建物跡群などが確認されている。)
これらの遺跡は、全て川筋で区切られた微高地に営まれ、同時期に併存しており、弥生時代の善通寺周辺部には、大集落というより地方都市が
誕生していたと考えた方が良いかも知れない。
※これらを旧練兵場遺跡と同格の都市国家と考えるのか、衛星集落として捉えるのかは、3遺跡の性格をもう少し掘り下げねばならない。 |
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300d 古墳・遺跡年表 善通寺市 引用「広報 善通寺」
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301仙遊遺跡の石棺 -人面文刻書-
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仙遊遺跡の石棺 |
旧練兵場遺跡
仙遊Ⅰ地区 1号石棺
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旧練兵場遺跡
各地区遺跡名称
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旧練兵場遺跡群の
各遺跡地図
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旧練兵場遺跡群の
各遺跡地図
➀旧練兵場遺跡
②仙遊遺跡
③彼ノ宗遺跡
④善通寺西遺跡 |
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302仙遊遺跡の組合せ式石棺 弥生時代後期(3世紀)
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旧練兵場遺跡の集団墓の中で発見された石棺です。弥生時代後期(3世紀)のもので、石棺の石材には、入れ墨をした人の顔や鳥の絵の他に、
直弧文や弧帯文と呼ばれる当時呪い(まじない)の模様が線で刻まれています。装飾された弥生時代の石棺は国内唯一です。 |
蓋石に刻まれた弥生人の顔
旧練兵場遺跡の人面描画石棺 弥生後期 仙遊Ⅰ地区1号石棺(通称:仙遊遺跡) 善通寺市仙遊町一丁目680番67
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弥生時代人の顔は、分銅型土製品・人面土器・邪視文銅鐸などが知られているが、これほど克明に表現された例は少なく極めて貴重である。
類例は愛知県安城市の人面文土器・球形土製品、岡山県総社市の鉢形土器などが知られているが、
箱式石棺に描かれたものは全国でも初めてである。 |
側石に刻まれた鳥の絵
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弥生時代の鳥の絵は土器や銅鐸などによく描かれる。祭事に欠かせない存在だったかもしれない。
古墳時代に入ると、石室内によく鳥が描かれているが果たして同じ意味を持つのだろうか。 |
側石に刻まれた直線と曲線の組合わせ模様
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やはり、古墳時代に入ると、古墳の石室や石棺に、直弧文なる直線と曲線を巧みに組み合わせた図文が柄かがれていることがある。
この石にもよく似た模様が多数認められる。岡山県の楯築遺跡の亀石の弧帯文によく似た模様もある。装飾古墳のルーツといえるのであろうか。 |
仙遊遺跡の石棺 |
箱式石棺の検出状況 |
蓋石に刻まれた弥生人の顔 |
側石に刻まれた鳥?の絵 |
側石に刻まれた直線と曲石の組み合わせ模様 |
仙遊遺跡人面文 |
仙遊遺跡から出土した弥生時代の人の顔の絵が描かれた石棺。 |
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303石棺蓋の線刻画
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目・鼻・口・耳が克明に描かれているが、中でも目が特に印象的である。
一顔に多数描かれた平行線は、入れ墨を表現したものと考えられる。入れ墨については、当時の日本(倭国)の風俗などが記載されている、
「魏志倭人伝」に『黥面文身』都市て登場する
~男子は大小と無く皆黥面文身す~
弥生時代の男性の代表的な顔として捉えてよいものか、特別な人物(司祭者?)の顔なのか、興味は尽きない。 |
線刻画
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石棺蓋の線刻画 |
愛知県亀塚遺跡の人面文土器
上に記述 |
魏志倭人伝
習俗・産物
下の記述 |
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魏志倭人伝 引用魏志倭人伝
原文
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男子無大小 皆黥面文身 自古以來 其使詣中國 皆自稱大夫 夏后少康之子封於會稽 斷髪文身 以避蛟龍之害 今 倭水人好沉没捕魚蛤 文身亦以厭大魚水禽 後稍以為飾 諸國文身各異 或左或右 或大或小 尊卑有差 計其道里 當在會稽東治之東(東治は東冶の転写間違いと考える) |
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和訳 |
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「男子は大小無く、皆、黥面文身す。古より以来、その使中国に詣(いた)るや、皆、自ら大夫と称す。夏后少康の子は会稽に封ぜられ、断髪文身して、以って蛟龍の害を避く。今、倭の水人は沈没して魚、蛤を捕るを好み、文身は、亦、以って大魚、水禽を厭(はら)う。後、稍(しだい)に以って飾と為る。諸国の文身は各(それぞれ)に異なり、或いは左し、或いは右し、或いは大に、或いは小に。尊卑差有り。その道里を計るに、まさに会稽、東冶の東に在るべし。」 |
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男子はおとな、子供の区別無く、みな顔と体に入れ墨している。いにしえより以来、その使者が中国に来たときには、みな自ら大夫と称した。夏后(王朝)の少康(五代目の王)の子は、会稽に領地を与えられると、髪を切り、体に入れ墨して蛟龍の害を避けた。今、倭の水人は、沈没して魚や蛤を捕ることを好み、入れ墨はまた(少康の子と同様に)大魚や水鳥を追い払うためであったが、後にはしだいに飾りとなった。諸国の入れ墨はそれぞれ異なって、左にあったり、右にあったり、大きかったり、小さかったり、身分の尊卑によっても違いがある。その(女王国までの)道のりを計算すると、まさに(中国の)会稽から東冶にかけての東にある。 |
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310仙遊遺跡の石棺の蓋石
写真のライティングも悪いのだが、石材の風化もかなり進んでいます。 見えるかな。見えないだろうな。見えません!
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312弧帯文石
このライティングでは、、無理。
弧帯文石
風化と光線の具合で見えませんでした |
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313吉備の特殊壺
線描きされた石
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※特殊壺(吉備の土器)
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墓への共献土器
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高坏?器台? |
平鉢 |
考察 仙遊遺跡と吉備国
仙遊遺跡の葬送儀礼に際し、吉備から葬送用の特殊壺や土器が共献されている。 出雲の西谷遺跡(四隅突出墳)でも吉備の土器が共献されている。
これは、本来はかなり大きな豪族で、各地の豪族と交流のある首長の墓ではないだろうか。
それとも、集団墓地の中の一つの墓に過ぎないもので、この頃には吉備の墓地荘厳や葬送用用品が流行していたのだろうか。
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314
これらも箱式石棺の部分かと思われるが |
やはり、線刻を見ることが出来ない。 |
風化が進んでいます |
※吉備の特殊壺が出土しています。
時代は弥生時代後期。古墳時代ではありません。ここでは既に、吉備の墳丘墓祭祀や荘厳の仕方が行われていたようです。
かつて、吉備を調べたとき、吉備王の息子が、讃岐王になったことを知りました。巨大に膨張した吉備が讃岐を飲み込んだのかもしれない。
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320小児壺棺 弥生後期 3世紀 彼ノ宗遺跡 昭和37年農事試験場工事でも出土した(弥生時代前期~後期)
(彼ノ宗遺跡15基、仙遊遺跡3基)
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旧練兵場遺跡を中心に市内の集落遺跡で発見された子供用の土器棺です。医学の発達していない古代では、ちょっとした病気で命を落とす子供は多かったようです。
子供の場合は集落から離れた集団墓地には埋葬されず、集落の中に埋葬されました。集団の財産である子供たちは大切にされていたようです。 |
※大変大きな小児棺です。
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330陣山出土平形銅剣 出土地:善通寺市与北町陣山
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弥生時代 古代のまつりに使用された青銅の剣。
昭和17年の3月頃、仲多度郡与北村陣山(現:世喜多町1656第1山林)の松林を開墾中、地下約45cmで3口1束にして径約20cmの丸型の川石を
20~30個敷いた上に水平に置かれていたのが発見された。 |
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陣山出土平形銅剣
弥生時代 上に記述 |
陣山出土平形銅剣
弥生時代
平形銅剣は讃岐特有のものです。 |
ガラス玉・管玉
野田院古墳 3世紀後半 古墳時代
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鉄刀
野田院古墳 3世紀後半 古墳時代
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340銅鐸
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341県内の青銅器分布
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これまで、わが国の青銅製祭器の分布には、近畿地方を中心とする銅鐸分布圏と、北九州を中心とする銅剣・銅矛分布圏に区別されていました。
その分布には、政治的、宗教的なまとまりをもつ二つの異なった集団があったと考えられています。
しかし、ここ荒神谷遺跡で銅鐸と銅矛が同じところに埋められていたことや、全国の出土数をはるかに上回る大量の銅剣が出土したことにより、
今後青銅器二大分布圏説の考え方は見直さなければならなくなりました。 |
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県内の青銅器の分布 |
紀元前1世紀後半から1世紀頃の青銅器の分布 |
銅鐸の分布
大阪湾型銅戈の分布
出雲中細銅剣の分布
平形銅剣の分布
銅矛・銅戈の分布
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県内出土の銅鐸
15 13 12 |
15我拝師山銅鐸
善通寺市吉原町
高さ29.8cm
13大麻山銅鐸
善通寺市大麻町
高さ40.2cm
12大橋家旧蔵銅鐸
伝讃岐出土
高さ42.5cm |
五岳山と善通寺周辺
善通寺周辺地図 |
善通寺五岳山周辺に
古墳や遺跡が集中 |
五岳山
香色山、筆ノ山、我拝師山、中山、火ノ上山は、現在も信仰の対象である。
しかし、仏教以前の弥生・古墳時代にもその特異な景観から遺跡が集中している。
以下に掲示する遺跡は、全てここから出土したものである。 |
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342銅鐸 表面
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竪杵で臼をつく人
高床切妻の建物 |
工字型の道具を持つ人(✖糸を紡ぐ人)
シカを射る人 |
左図は
「ゆる」を抜く男。
灌漑用水の水門を開けることにより、沢山の小動物や昆虫が入って豊かになり、銅鐸に描かれた物語が始まる。
力いっぱいに用水路の水門を抜いて転んだ様子を描画している
これが銅鐸絵の一番目なのです。 |
スッポンとトンボ |
鈕の様子 |
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343銅鐸 裏面
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イモリとスッポン
鋸歯文 |
イノシシを狩る人とイヌ |
スッポン |
魚をくわえたサギ |
トンボ |
カマキリとクモ |
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350弥生時代 |
351旧練兵場遺跡とは
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旧練兵場遺跡は、善通寺市仙遊町に所在する弥生時代の香川県を代表する集落遺跡です。引田川と中谷川の合流地点から南側一帯の、河川で区切られた微高地が遺跡の範囲にあたり、東西1km南北500m、面積50万㎡と考えられています。
遺跡の中心は現在の国立病院付近ですが、病院周辺の彼ノ宗遺跡・仙遊遺跡、農業試験場にある仲村廃寺跡、引田川周辺の善通寺西遺跡・引田川西岸遺跡なども旧練兵場遺跡群として捉えられます。
弥生時代を通じて、遺構・遺物が見られますが、弥生時代中期後半から古墳時代初頭にかけて集落が最も大きくなり、
丸亀平野のみならず、香川県域における中心的な大集落となっていたことがわかっています。
その後、集落の規模は小さくなりますが、人々の営みは続き、中世に至るまで生活の痕跡が窺えます。
近世には遺跡の名の由来となった旧陸軍練兵場が造られました。 |
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352流水文銅鐸 弥生中期 我拝師山C遺跡
我拝師山 北麓の我拝師山C遺跡で出土し た、弥生時代中期の、外縁付紐式流水文銅鐸は大阪府茨木市東奈良遺跡で鋳型が出土しており、
大阪府豊中市桜塚鋼鐸と同范関係にあること がわかっている 。 ※初期の銅鐸で、大阪で、石製鋳型によって作られたものだった。
我拝師山南麓の シンネバエ遺跡では扁平紐式銅鐸が出土している。
※参考
善通寺市内からは与北山の陣山遺跡で平形銅剣3日、大麻山北麓の瓦谷遺跡で平 形銅剣2口・細形銅剣5口・中細形銅鉾1口の計8口、
我拝師山遺跡では計3カ所から平形銅剣5口・銅鐸1口、北原シンネバェ遺跡で銅鐸1口など、青銅器が数多く出土してお り、
旧練兵場遺跡群や周辺部の遺跡群を本拠とした集団との関連も注目される。
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354玄門部閉塞石 王墓山古墳
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王墓山古墳
玄門部閉塞石 |
古墳入口から羨道を通って、 |
石棺の安置された玄室の入り口を塞いだ石 |
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400弥生時代の石器 紀元前5世紀~3世紀後半 稲作が始められた時代
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410 |
413弥生前期の石器
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弥生前期の石鍬・石槍 |
前期石包丁・石槍 |
弥生中期の石包丁
磨製蛤刃石斧磨製扁平片刃石斧 |
磨製扁平片刃石斧
中期の石包丁 |
太型蛤刃石斧
天霧東山麓出土 |
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414弥生前期の石器
弥生前期の石器 |
石鍬・石槍・磨製蛤刃石斧 |
石鍬・石槍・石包丁 |
磨製蛤刃石斧・磨製扁平片刃石斧 |
太型蛤刃石斧 |
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415弥生前期の石器
弥生前期の石鍬 |
弥生前期の石鍬 |
弥生前期の石包丁 |
石槍 |
弥生中期の石包丁 |
弥生前期の石器
磨製蛤刃石斧
磨製扁平片刃石斧 |
石斧片 |
石斧片 |
弥生前期の石器太型蛤刃石斧
天霧山東山麓出土 |
磨製・打製石斧 |
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418全景
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419弥生中期の石鏃
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424分銅型土製品
磨製環状石斧
天霧山麓出土 |
分銅型土製品
平形銅剣伴出
我拝師山北麓 |
分銅型土製品
旧練兵場遺跡出土
弥生後期 |
分銅型土製品
旧練兵場遺跡出土
弥生後期 |
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430弥生中期の道具
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石臼 善通寺市 |
石皿と磨石 上吉田町 |
弥生前期の土器
生野町山南遺跡 |
凹石・叩き石
旧練兵場遺跡 |
台付甕(弥生中期)
旧練兵場遺跡 |
壺(中期)
旧練兵場遺跡
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叩き石・砥石
叩き石 旧練兵場遺跡
砥石 善通寺町北原 |
中期土器
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440弥生時代後期の土器 |
441後期の土器
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443弥生後期 彼ノ宗遺跡
以下の遺物は、彼ノ宗遺跡の住居廃棄祭祀に伴って、廃棄住居内に捨て(埋納)られたものである。
小さな竪穴住居や掘立柱建物などに住む人々が、当時の宝石を捨てるという、裕福な人々であった。
彼ノ宗遺跡の発掘調査報告書全ての中にカマドの文字はなく、煙に燻されるような生活の人々にもかかわらず、宝石を捨てるという、、、
どんな立派な掘立小屋だったんだろうかと、、、想像もできない。
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懸垂鏡
(仿製内行花文鏡片)
弥生後期末
彼ノ宗遺跡 |
仿製内行花文鏡片
弥生後期末
彼ノ宗遺跡 |
勾玉(徳島の蛇紋岩製)
弥生後期末
彼ノ宗遺跡 |
ガラス小玉 弥生後期末
彼ノ宗遺跡 |
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444
後期の土器
旧練兵場遺跡 |
石戈
弥生中期
彼ノ宗遺跡
ピンボケ |
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446弥生後期
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銅鏃
彼ノ宗遺跡 |
イノシシ型土製品
ミニチュア土器
旧練兵場遺跡 |
イノシシ形土製品
祭祀遺物 |
ミニチュア土器
祭祀遺物 |
土玉(祭祀遺物) |
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447弥生後期の土器
小型丸底壺
旧練兵場遺跡 |
※丸底鉢でないかと |
砥石
旧練兵場遺跡 |
土製紡錘車
滑石製模造品 |
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449弥生後期の土器(甕) 旧練兵場遺跡
支脚 弥生後期 |
岡山県加茂矢部南向遺跡(足守河床)出土
大型の土器を支える台で、通常3本以上出使用されていたと考えられている。
大きさは様々で、4~5cmのものから、このように大きなものもある。
弥生時代後期の遺跡からよく発見される。
※支脚は大きなものが主流で、小さなものの方が稀有である。 |
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450弥生~古墳時代
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有岡古墳群
香色山山麓に展開する、佐伯氏の古墳群である。現存するものに、野田院古墳、王墓山古墳、宮が尾古墳、磨臼山古墳などがある。 |
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460宮が尾古墳 古墳時代後期 6世紀後半 円墳 直径20m高さ4m 横穴式石室 全長9m 玄室長4.5m幅2m高2m
古墳壁面に武人や乗馬人物像、船団などが線刻される。
古墳時代前期 3世紀後半~
古墳時代中期 4世紀末頃~
古墳時代後期 6世紀初め~6世紀末
古墳時代終末期 7世紀頃
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461旧練兵場遺跡と楼閣絵画土器 弥生時代中期後半 約2000年前
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弥生期の絵画土器
旧練兵場遺跡 |
引用センター便り |
引用建物を描いた土器 |
旧練兵場遺跡から、
弥生時代中期後半(約2,000年前)の大型壺の破片に、建物を描いた絵画土器が見つかりました。
出土した絵画建物は、床と柱の表現から、桁行一間×梁間一間の高床建物(高層建物)で、性格が不明な先端が円弧状の屋根飾り、格子状の線刻を持つ壁などが特徴となっています。
引用神社と古事記 |
旧練兵場遺跡竪穴式住居検出状況 |
旧練兵場遺跡竪穴式住居検出状況 |
旧練兵場遺跡竪穴式住居検出状況 |
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462宮が尾2号墳開口部出土大型須恵器
古墳時代後期 6世紀後半
須恵器(鉢) |
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須恵器(四耳甕) |
須恵器(四耳甕) |
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須恵器 甕 |
須恵器 甕 |
須恵器 甕 |
須恵器 甕 |
須恵器 甕 |
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500弥生~古墳時代
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502善通寺西遺跡 出土櫂 弥生~古墳時代 舟が航行するほどの灌漑用水路3本出土。櫂×2、多量の土器
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総本山善通寺の西に隣接する弥生時代から古墳時代にかけての複合遺跡で、昭和52年に古代の灌漑用水路が3本発見されました。
ここからは木製の櫂2本が出土しましたが、当時の自然環境・社会環境を考えるうえで極めて貴重な資料であります。 |
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※善通寺市(地形図)は、地図右下のまんのう公園付近から流れる土器川の後背湿地にあたり、善通寺の弥生人はそこから大規模な水路を何本も引く灌漑工事を行い、雨の少ない讃岐地方の水田に水を供給していたものと見られます。
土器川は現在では、水量の少ない河川ですが、豊かな森林に恵まれていた弥生時代には、通年に渡って清流が流れ、船を浮かべて交通手段としていたのでしょう。 |
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善通寺西遺跡出土櫂 |
善通寺西遺跡 |
善通寺西遺跡の
灌漑用水路 |
善通寺西遺跡出土櫂
上に記述 |
櫂
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503日本に国ができる頃
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4世紀の始め頃(約1700年前)、奈良盆地を中心に、前方後円墳が造られるようになりました。前方後円墳は各地の豪族の墓です。
4世紀の終わり頃になると、東北から九州までの広い範囲で前方後円墳や、円墳などの大きな古墳が数多く造られるようになりました。
大和政権の力が遠くの地方豪族にまで及ぶようになったようです。
5世紀の始め頃、須恵器と呼ばれる土器が焼かれるようになりました。須恵器をつくる技術は、朝鮮半島半島から来た人々によって伝えられました。
須恵器はそれまでの焼き物と違い、ロクロを使って成形し、登り窯を使って焼くのが特徴です。
土器の色は青っぽい灰色で1100℃~1300℃という高温で堅く焼かれました。
善通寺市でもこういった須恵器が王墓山古墳などから沢山発見されました。
善通寺市には有岡地区にある6基の前方後円墳の他400基以上の古墳があり、豪族は次々と古墳を造っていたようです。
この時代を古墳時代といいます。 |
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日本に国ができる頃 |
有岡古墳群 古墳時代 約1650~1420年前
積石塚・線刻壁画・黄金の冠 修復でよみがえった古墳と石室
有岡古墳群
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前方後円墳5基と円墳1基からなる代々の首長墓群です。このうち
金銅製冠帽やきらびやかな馬具など数々の豪華な副葬品が出土し、史跡指定の契機となった王墓山古墳、
石室内の線刻壁画が有名な宮が尾古墳、
積石塚の野田院古墳が次々と修理・整備され、史跡公園として多くの人に親しまれています。 |
有岡古墳群 古墳紹介
有岡古墳群位置関係図
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位置関係図 |
古墳紹介
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金銅製冠帽 |
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有岡古墳群
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善通寺市内には約400基の古墳があり、その中でも有岡古墳群はこの地の豪族で弘法大師の一族の首長墓とされる古墳が集まっています。
有岡古墳群は3世紀末から7世紀前半にかけての6基の墓で、王墓山古墳・宮が尾古墳・野田院古墳(以上発掘調査済)、磨臼山古墳・丸山古墳・鶴が峰4号墳の6基が国指定史跡です。
有岡古墳群 有岡古墳群 有岡古墳群 有岡古墳群 有岡古墳群 善通寺市の古墳 |
野田院古墳
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前方後円墳 3世紀後半 全長44.5m 後円部直径21m高さ2m 後円部は石だけを積んだ積石塚。前方部は盛り土上に葺石をした。
後円部主体部には、竪穴式埋葬施設の他に副葬品の石室があり、ガラス玉・鉄剣・土師器が出土。
古墳周囲からは壺形土器が多数出土した。これは弥生時代の特徴で、初期の古墳である。
墳丘を土でなく石だけを積み上げて作る積み石塚と呼ばれるものです。
積み石塚は古墳時代前期の香川県周辺に数多く見られ、積み石塚の出現と変遷や、この地域における古墳出現期の様相を知る上で重要な古墳です。
整備では墳丘の保存修理を行いました。積石塚の保存修理は国内初の試みでした。
※私には、本来の「石積塚」墳丘墓に、あとから前方部を付け足したように見えます。 |
王墓山古墳
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前方後円墳 6世紀中頃 全長46m 横穴式石室 須恵器、首飾り、武具、馬具など。
大和政権が配下の地方豪族に配布した金銅製冠帽、銀象嵌鉄刀
横穴式石室内に石屋形という北部中部九州などに特有の遺体安置施設が収められており、地方首長間の交流を物語る資料として注目されます。また、国内初出土となる金銅製冠帽、銀象嵌模様のある鉄刀など、豪華な副葬品も出土しました。整備では石室が崩れかかっていたため、石を積み直して保存修理を行いました。 |
宮が尾古墳
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墳形不明 (円墳) 7世紀初頭 主体部長さ9m、両袖式横穴式石室
古墳の壁面には、線刻が゛描かれている。羨道には2体の武人像、玄室には人物群、騎馬する人物、船団などが描かれている。
人物群は殯の様子を描いたものです。
直径約20mの円墳。全長9mの横穴式石室の壁面に線刻壁画があることで有名な古墳です。
壁画は人物、船、馬度を描いており、当時の葬送儀礼の一部を表現しているという説があります。
整備では石室と墳丘の保存修理を行いました。 |
磨臼山古墳 4世紀後半頃
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前方後円墳 4世紀後半 全長50m 後円部直径28m高さ4m 前方部幅8m高さ2m
主体部から、香川県国分寺町鷲ノ山産の石材(鷲の山石)を用いた船形刳抜式石棺が出土している。 |
丸山古墳
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前方後円墳 5世紀中期 全長54m後円部直径30m |
鶴が峰4号墳
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前方後円墳 5世紀前半 全長26m、後円部の直径13m。 他に1~3号墳があり、いずれも前方後円墳で同じ一族の首長墓と思われる。 |
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504 古墳時代~白鳳時代 3世紀後半~8世紀初頭
野田院古墳検出状況 |
復元された
野田院古墳 |
王墓山古墳
整備中の石室の様子 |
復元された王墓山古墳
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整備された宮が尾古墳 |
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磨臼山古墳 |
◀磨臼山古墳墳丘
全長50mの前方後円墳4世紀後半。
後円部から石を刳り抜いた石棺が出土しており、重要文化財に指定されています |
◀磨臼山古墳石棺頭部付近の加工
石棺には頭部をおくための加工(石枕)があり、その両側に勾玉を表現した浮き彫りがあります。 |
宮が尾古墳
石室奥壁の壁画
(人物群) |
宮が尾古墳壁画 |
石室奥壁壁画
人物群・船・騎馬人物・船団・武人
石室西壁壁画
武人
宮が尾古墳石室内の壁画の位置 |
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510王墓山古墳玄門閉塞石 玄門は羨道から玄室に入る入り口部分。ここを閉塞する石。
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512王墓山石室実測図
石室上面石検出
石室全景 |
石室全景
玄室全景 |
石室実測図
上面視
玄門閉塞石位置 |
石室展開図
上面・側面左右・
前面・後面 |
遺物配置図 |
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520善通寺西遺跡の溝 出土土器
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521善通寺西遺跡の溝から出土した小型の壺 (使われなくなった溝を埋める際に投げ入れられた祭祀土器)
※この大きな溝は、善通寺西遺跡は灌漑用水路でした。
弥生時代以降の人々は、水路にものを投げ捨てたり、祭祀として投げ入れたりする事が多く、住居周辺の水路には、糞便からゴミまでを
大量に捨てていたようです。これらは流れもせずに、そのまま堆積したと思われます。
従って、当時の都(都市)は、悪臭に満ち満ちた、クサイ、クサイ大都市であったようです。
古代の都市構造を見ると、必ず川が引き込んであり、水路が細かく分流していました。道路のそばには必ず溝がありました。
考える必要もなく、当時は糞便の汲み取りも、ごみの取集もなく、各家庭全てが井戸を持っているはずもなく、
この水路が水くみ場、洗い場、ゴミや糞便の捨て場(平中物語で、糞便を捨てに行く話があった。毎回溝に捨てていたようだ。)、
であり、水を巡る祭祀場でもあり、人面土器を水災除けに沈めたり、斎串や人形を流したりしました。
また、屋敷の一角に穴を掘って埋めて処理することもあり、発掘でゴミ捨て穴が見つかることもある。
ある人は、このような生活ごみで都がいっぱいになると、遷都を行った。ために、初期は何度も遷都を繰り返したと言う人もいる。
では、平城京や平安京はどのようにしていたのだろうか。古代史への興味は尽きない。江戸では汲み取りやごみのリサイクルが行われた。
善通寺西遺跡の溝出土の土器
田んぼの拡張のため、溝を廃棄・埋設する祭祀のために投げ入れた祭祀用土器。破損がほとんどない。ゴミ捨てではなかった。
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522
善通寺西遺跡の
溝出土土器 |
ミニチュア土器 |
旧練兵場遺跡の溝から出土した高坏と坏 |
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523旧練兵場遺跡出土土器
旧練兵場遺跡出土土器
ハソウ |
旧練兵場遺跡から出土した土器ミニチュア土器 |
高坏・坏・蓋付坏・横瓶 |
長頸壷 |
堤瓶、台付壺 |
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考察 廃棄
弥生人は、住居や溝を廃棄するときに、なぜ、祭祀を行い、高価な宝物や、新品の土器を大量に投げ入れたりするのだろう。
江戸時代には、物には魂が宿っていて、廃品が化けて出るという百鬼夜行とか、、、そんな怪談話があったが、、、
それは半島人の思考様式なのだろうか。 無機物に魂を認めるからタタリ鎮めをする、のだから、この時代以前から、半島人の畏れなのでしょう。
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540(飛鳥・白鳳)奈良時代~ 7世紀初頭~ 法治国家の始まり |
541土器
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ミニチュア土器
旧練兵場遺跡
古墳時代
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五鈴鏡、管玉
滑石製小玉(市内古墳)、
ガラス玉・管玉・平玉(市内古墳)
銅鏃(旧練兵場遺跡)、
滑石製模造品鏡(旧練兵場遺跡) |
金環:大麻山地獄谷出土
銅鏡: 陣山古墳(古墳前期)
14点のガラス玉と共に出土 |
陣山古墳出土銅鏡
(古墳前期)
14点のガラス玉と共に出土
製塩土器(沙弥島) |
製塩土器(沙弥島) |
イイダコ壺(瀬戸内海)
土錘(与島) |
イイダコ壺
善通寺市内遺跡 |
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542善通寺市内出土遺物
五鈴鏡 |
管玉 |
滑石製小玉、
ガラス玉・管玉、平玉
(市内の古墳) |
銅鏃(旧練兵場遺跡) |
鏡:滑石製模造品
旧練兵場遺跡 |
鏡型土製品
旧練兵場遺跡 |
金環:大麻山地獄谷 |
銅鏡:陣山古墳
古墳時代前期
14点のガラス玉と共に出土 |
製塩土器 沙弥島 |
土錘(与島) |
イイダコ壺
瀬戸内海海上がり |
イイダコ壺 |
近代のイイダコ壺 |
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王墓山古墳 6世紀中期頃の前方後円墳 横穴式石室 香川県善通寺市善通寺町1785-1
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550金銅製冠帽
王墓山古墳出土金銅製冠帽と銀象嵌入鉄刀 王墓山古墳出土
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昭和58年から翌年にかけて実施された石室内の発掘調査で、縁を揃えて畳まれた(潰された)状態で金銅製製品が出土し、これを復元したところ、
珍しい冠帽だったことがわかりました。これまでに国内で出土した金銅製冠(帽)は30例くらいしかないうえに、このようにほぼ完全な状態を保った物は少なく、極めて貴重な存在であることがわかりました。
また、一緒に出土した5本の鉄刀のうち1本には太陽のような模様の象嵌があります。
この模様は蓮弧輪状文と呼ばれ、国内各地の主要古墳(奈良:藤ノ木古墳など)からの出土例が知られています。これらのことから、
王墓山古墳の被葬者はかなりの権力者だったことがわかります。 |
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王墓山古墳出土
金銅製冠帽と銀象嵌入鉄刀
上に記述 |
王墓山古墳出土
象嵌入り鉄刀 |
銀象嵌は柄の連弧状の文様 |
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実物と模造 |
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560王墓山古墳の副葬品 |
561鉄刀
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562轡
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563 f 字形鏡板
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564金銅製鈴付鉄地金銅張雲珠
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565鉄鉾と剣菱形杏葉
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567鐙
鐙(王墓山古墳) |
締具・鉄斧 |
鋏と小札(ハサミとこざね)
錆びて固着
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568ガラス玉
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滑石製小玉と有孔円盤 |
碧玉製管玉と水晶製切子玉 |
ガラス製臼玉 |
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569a小札 (この小鉄片を繋いで甲冑を作った)
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569b野田院古墳 3世紀後期 古墳時代初頭
ガラス玉・管玉
野田院古墳 |
壺形土器
野田院古墳出土 |
壺形土器
埴輪の原型
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壺形土器
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580王墓山古墳の副葬品
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582ころく(胡籙)
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矢を入れて携帯する容器の一種です。日本では
矢筒式の容器を靫(ゆぎ)とし、
矢立て式の容器を胡籙(ころく)と区別されます。
王墓山古墳からは形が異なる複数の胡籙が出土しました。バラバラの破片をっくっつけて調べた結果、鍍金したうえで様々な装飾が施されていること、
獣の皮や毛を用いていること、底板に透かし彫りが施されていることなど、沢山のことがわかりました。 |
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583ころく
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菊塚古墳 出土馬具
584 f 字形鏡板 菊塚古墳(古墳時代後期)
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585剣菱形杏葉
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586菊塚古墳の副葬品
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590旧練兵場遺跡の溝から出土した須恵器
使われなくなった溝を埋めるときに投げ入れられた祭祀土器。穴があけられてた壺と小さな坏が2組と共に出土しました。
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旧練兵場遺跡の溝から出土した須恵器 |
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臓骨器
臓骨器まで捨てていた |
捨てられた骨壺に入っていた高貴なお方は、どう思ったでしょう。
庶民は野ざらしが普通。貴人は火葬後に骨上げして、捨てられて。みんなおんなじですね。結局遺骨なんて邪魔。 |
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600古墳 |
601
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610王墓山古墳
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善通寺市内には 400基を超える古墳が確認されています。中でも、筆ノ山・我拝師山で北部を、大麻山で南部を限られた弘田川流域の有岡地区には、
同一系譜上の首長墓と考えられる前方後円墳が集中し、大麻山山麓の谷間には至る所に後期古墳が群集しています。
王墓山古墳はこの有岡の里の中心に所在する独立丘陵上に築かれた前方後円墳で全長46m・後円部径28m後円部高6m前方部幅28m高4.5mです。
築造は出土した遺物から6世紀初頭であり、6世紀後半に追葬が行われたことが確認されいてます。 |
王墓山古墳石室
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王墓山古墳の主体部は安山岩を積み上げた横穴式石室です。盗掘にあって天井石は失っていますが、玄室からは多量の副葬品と共に県下で初めて、瀬戸内海一帯でも数少ない石屋形が検出されました。
石屋形とは横穴式石室の中に造られた石の部屋(棺の安置施設)で、王墓山古墳では角礫凝灰岩※を加工した見事なものです。
玄室の扉、閉塞石にも同じ石材が使われています。
石屋形は肥後地方に濃密な分布を示しており、当時の九州地方と密接だったことが窺えます。
本ページ512の➀~⑤に石屋形が見えます。
※✖角礫凝灰岩、○凝灰角礫岩 火砕岩(かさいがん)の一。直径32ミリ以上の火山岩塊と多量の火山灰とからなる岩石コトバンク
凝灰角礫岩は、火山砕屑岩の一種で、火山砕屑(さいせつ)物と呼ばれる火山灰や岩屑などから形成された岩。構成する粒子や礫の大きさや割合によって分類されるwiki |
王墓山古墳 |
王墓山古墳 |
王墓山古墳
上に記述 |
王墓山古墳墳丘実測図
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王墓山古墳石室 |
王墓山古墳
横穴石室実測図 |
王墓山古墳 (副葬品)
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王墓山古墳から出土した副葬品は多量の須恵器の他、金銅製冠帽・首飾り・耳環等の装身具、武具・馬具類など、素晴らしいものばかりです。
また、出土した鉄刀のうち1本に連弧輪状文の銀象嵌が確認されています。冠帽や鉄刀の象嵌は優秀な渡来工人がヤマト政権下で製作を担当し、ヤマト政権が地方の首長に権力の象徴として贈ったとの考えが有力です。
王墓山古墳の鉄刀と同じ象嵌文様をもつものが、群馬・奈良・島根・熊本の古墳からも出土していますが、これらの資料は当時の大和政権の勢力伝播、つまり大和政権と地方豪族の関係を知る上で重要なものです。 |
王墓山古墳
横穴式石室 |
副葬品
上に記述 |
金銅製冠帽 |
王墓山古墳出土遺物 |
須恵器
子持壺・脚台付鉢・蓋付坏・蓋付小壺・壺
高坏・脚台付鉢
金銅製冠帽
武具類
鉄刀・鉄槍
馬具類
装飾品類 |
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630王墓山古墳 |
631王墓山古墳副葬品
王墓山古墳(副葬品)
上に記述 |
王墓山古墳出土須恵器 |
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632須恵器
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634
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635台付鉢・子持ち壺
※子持ち壺は、石室への納棺の前に行われる祭祀に用いられるものです。出土位置が不明かつ、破壊が少ないですが、
子持ち壺祭祀に使ったもののようです。
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大型器台というのか
装飾脚付鉢というのか
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脚台付装飾壺 |
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650平安時代
銅版経筒 香色山山頂遺跡 平安時代後期
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経筒は平安時代の末法思想から極楽往生を願う豪族が、仏教の経典を後世に伝えるために築いた。全国各地に築かれたが
二階構造の経塚は不安定な世相で宗教に救いを求めた人々が、子孫にも使ってもらおうと残した全国でも例のない貴重な遺構と見られる。
発見された経塚は棒状の流紋岩で囲われ東西70cm南北1m深さ80cm真ん中部分に幅10cmの石柱を平らに並べ、上下二層に仕切っている。
二階部分は深さ30cm。盗掘されて倭鏡1枚と経筒の破片だけが残っていが、一階部分はほぼ原形のまま残存し、主室には
高さ31.2cm直径12.8cmの円筒形の経筒があり、横の副室には故意に折り曲げられたとみられるU字型の大刀1本と短刀10本が残っていた。
経筒は瓦質の壺に入れられ蓮の花をかたどった鮮やかな宝珠のつまみ装飾が施されている。
底には風化した紙辺が付着。仏教経典の痕跡と見られている。
銘文や刻印はないが、出土品から下部が12世紀前期。上部が12世紀中期から後期のものと推測されている。
善通寺教育委員会は経筒などの埋納時期がずれていることに注目、発掘した笹川氏は最初から二階構造で作って二次利用を考えたものと推定。
次の世代の血族にも使えるように造られたと考えている。
折り曲げた大刀の出土は全国でこれまで4例しかなく、四国では初。また、経塚埋納は天台宗信仰に基づくものが主だったが、
今回は真言宗総本山善通寺に近接しており、真言宗の僧侶が深く関与したものとみられ、仏教文化の研究でも注目を集めそうである。
香色山(標高157m)は総本山の裏に位置し、山頂は弥生時代からの遺跡が点在する。瀬戸内海国立公園に含まれ、市民散策コースになっている。
経塚とは
末法に入ると仏教が滅亡するという末法思想に恐れを感じて、後世に仏教経典を残すために、銅製の経筒などに書写した経典などを入れて土中に埋めた遺構。
11世紀頃に発生したと言われ、県内では90例の塚跡や経筒が見つかっているが、遺構や遺物がほぼ完全な形で発掘されたのは全国でも極めて珍しい。 |
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香色山経塚群の位置 |
香色山山頂
(こうしきやま) |
香色山1号経塚下部
石郭の上部 |
香色山1号経塚下部
石郭の下部 |
銅版経筒
香色山山頂遺跡
平安時代後期
上に記述 |
香色山経塚石郭の出土状況 |
※経筒を埋納するために柱状節理の石材を並べ、しかも二段にして隠し、
盗掘を免れた二段目の埋納穴の経筒が見つかっている。→ |
おそらく、埋納穴の上には切り石の蓋が何枚か置かれたようです。
盗掘は、もしかすると、埋納直後にこれらを造った人夫たちによって行われたのかもしれません。 |
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中世
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660天霧城(あまぎりじょう) 引用wiki天霧城
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鎌倉時代と室町時代の間の南北朝時代、正平19・貞治3(1364)年に、讃岐守護細川氏の家来として香川氏が西讃岐守護代に任ぜられ、築城した。
実際には香川氏は畿内で細川氏に付き従っていながら、西讃岐を支配した。
築城年代不明(1364)以降。
天文18(1549)年に細川氏が三好氏(細川氏の家臣であったが下剋上を起こし四国東部から近畿一円に大勢力を有した)に敗れ、阿波の細川氏も三好一族に暗殺され阿波の実権を奪われる。これにより香川氏は三好と対立する。
永禄元年(1558)三好は香川氏の天霧城を攻めるが撃退され、和議を結び開城する。
天正7(1579)土佐の長宗我部が四国制覇に侵攻し、香川氏は家督を譲る。
天正13(1585)豊臣秀吉の四国征伐に伴い香川家は取り潰し、天霧城は廃城となる。 |
国指定遺跡 天霧城
築城年代のない解説なんてどういうつもりで |
天霧城と周辺の
主な中世城跡
書いているのか疑問。 |
天霧城の攻防戦
ここもいつ起こったのか書いてない。 |
近世城下町の様子
長い文章だが何の役にも立たない解説です |
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661天霧城跡出土遺物
出土鉄器(武器) |
古銭(輸入銭) |
土師器(かわらけ)のような、酸化型の |
土器です。今も神社などで、 |
また、一般の祭礼でも使われています。 |
庶民の土器ですね。 |
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662善通寺伽藍出土瓦(古代)
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岡山県・鴨矢部南向遺跡(足守河床)出土
奈良時代後期から平安時代初頭の軒平瓦で、発見された場所から考えて矢部廃寺か惣爪廃寺のものでないかと考えられる。
この周辺は古代寺院が密集しており、駅の推定地である。 |
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宮が尾古墳奥壁の線刻壁画
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670宮が尾古墳 殯(もがり)の線刻画
➀宮が尾古墳の殯(もがり)の線刻壁画
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・昭和41年、善通寺市宮が尾3214番地の山林を開墾中に、古墳時代後期末に構築された横穴式石室が発見され、石室内部に多数の線刻画が描かれていることが判明し、話題になった。これが「宮が尾古墳」である。
・このような壁画を持つ古墳は大変珍しく、しかも絵の内容が極めて優れていたことから昭和59年有岡古墳群として国史跡となった。
・宮が尾古墳玄室の奥壁の巨石には、小さな家のような図形を取り囲む5体の人物、大勢の人物を乗せた船、騎馬人物等が写実的に描かれているが、最上段の人物については特定の構造物を中心に、何かの儀式をしているように見え、これまでにも様々に解釈されて来たが最近の調査・研究によって付近の群集墳にも小さな家のような図形が多数描かれていることが判明した。 |
②
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・一地区に同一モチーフを持つ装飾古墳が群集することは大変興味深く、しかもこの中には線刻画が古墳築造以前に描かれたことが証明できる資料も含まれており、古墳の装飾の意味を考えるうえで極めて貴重であると考えられる。
・共通モチーフの小さな家のような図形は、棒状の素材を円錐形に束ねた構造物…➀のようであり、古墳の壁画であることや壁画を同一の図形が埋め尽くしたものがあることから、古代の葬送儀礼に密接な関係のあるもの…②ではないかと考えられる。
・古代、殯(もがり)という習俗が存在していたことが、文献や民俗事例で知られているが、この壁画のモチーフに極めて似たものがある。モンドリ形(円錘形)の殯屋である。
・これらの図形が殯屋を表現したものであるならば、古代の殯を絵で見ることのできる唯一の資料となる。、しかも宮が尾古墳の場合、殯屋の前で2人の人物が両手を大きく開き向い合い、背後には手を堕ろした3体の人物が控えている様子は、殯の儀式そのもの、儀式のクライマックスを写したものではないかと考えられる。しかも、殯屋の中か後ろからもう一体の人物が上半身を乗り出している様子は、神代記を彷彿とさせる。
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③
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・古代、殯(もがり)という習俗が存在していたことが、文献や民俗事例で知られているが、この壁画のモチーフに極めて似たものがある。モンドリ形(円錘形)の殯屋である。
・これらの図形が殯屋を表現したものであるならば、古代の殯を絵で見ることのできる唯一の資料となる。、しかも宮が尾古墳の場合、殯屋の前で2人の人物が両手を大きく開き向い合い、背後には手を堕ろした3体の人物が控えている様子は、殯の儀式そのもの、儀式のクライマックスを写したものではないかと考えられる。しかも、殯屋の中か後ろからもう一体の人物が上半身を乗り出している様子は、神代記を彷彿とさせる。
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古事記に登場する殯 ~アメワカヒコが亡くなった時~
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「そこでさっそく、本葬までの間、仮に死者を収めておく喪屋をその場所に作り、
河のほとりに棲む雁を、棺に倚り添って食物を盛った笥(け)を頭に載せていく岐佐理持(きさりもち)として喪屋を掃除するための箒(ははき)を持つ
箒持(ははきもち)とし、
翡鳥(かわせみ)を、死者に食物を供える御食人(みけびと)とし、
雀を、米を春(つ)く碓女(うすめ)とし、
雉(きじ)を葬式の時に泣く哭女(なきめ)とした。
このようにそれぞれの役目を定めて昼も夜も八日八晩、死者の魂を慰めるために歌い踊った。」 国民文学全集 第1巻 「古事記」河出書房から |
④殯の習慣
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・殯の習俗は時代を経たが、その名残は今も日本各地で見ることが出来る。その形式はここに登場するモンドリ形(円錐形)殯屋以外にも、横に覗き窓を持つ箱型・家型・垣状のもの等と様々であり、今後は石室内部に設けられた石製施設(石屋形)などと殯屋との比較研究も望まれる。
・また、香川県丸亀平野の周辺部には殯屋を主なモチーフとした善通寺地区(木葉や樹葉図形も認められる)以外に、木葉や樹葉図形を主なモチーフとした坂出地区(殯屋形図形認められる)があり、葬送儀礼を司るシャーマンのテリトリーの存在もにおわせるユニークな資料でもある。
今後の研究に期待が 寄せられる。 |
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671
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宮が尾古墳の殯(もがり)の線刻壁画
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宮が尾古墳内部
羨道から玄室を望む
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壁画
(大勢の人が乗る舟)
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奥壁壁画実測図
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➀宮が尾古墳
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宮が尾古墳周辺遺跡
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②周辺主要遺跡
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殯屋形と人物群
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羨道の壁画
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夫婦岩1号墳玄室壁画
殯屋形の絵
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岡5号墳羨道壁画
殯屋形の絵
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岡5号墳羨道壁画
殯屋形の絵
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古事記上巻に登場する殯
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③
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夫婦岩1号墳天井壁画
殯屋形図形 |
天井石には壁と接する部分にも多数の壁画があり、石室構築以前に描かれたことが確実。
壁画の修正のためか、部分的に表面を平らな工具で削った痕も見える。 |
夫婦岩1号墳天井壁画
殯屋形図形 |
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各古墳の殯屋形図形 |
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※青山型モガリ
榊(サカキ、古代では樒シキミ)を使用していたらしく記紀にも
「青柴垣あおふしがき」
「蒼柴籬あおふしかき」 |
青山型殯
が葬送の際に登場する。香川県坂出地区に多く見られる広葉樹のモチーフも殯に関するものであることが考えられる。 |
青山型形殯
滋賀県多賀町 |
モンドリ型殯屋形
滋賀県大津町 |
モンドリ(円錐形)型
モガリ
滋賀県大津市 |
④殯の習慣 |
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675宮が尾古墳奥壁の線刻壁画 殯屋形 見えない
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680家形埴輪 香色山遺跡出土 寄棟造
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700 |
701宮が尾古墳
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宮が尾古墳と
宮が尾2号墳 |
宮が尾古墳復元整備
工事 |
宮が尾古墳2号墳検出状況 |
2号墳副葬品 |
2号墳石室検出状況 |
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705宮が尾古墳出土物
宮が尾古墳出土物 |
宮が尾2号墳出土物 |
宮が尾2号墳出土物 |
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710 |
720 |
721岡古墳群
72岡古墳群夫婦岩
第1号墳
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円墳
線刻:家屋文・斜格子文 |
羨道部奥壁を望む |
67岡古墳群第5号墳 |
円墳
線刻:家屋文・木葉文
平行線・船 |
横穴式石室入口 |
68岡古墳群第6号墳
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円墳
線刻:家屋文 |
羨道部 家屋文 |
68岡古墳群第10号墳
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円墳
線刻:綾杉文・木の葉文
平行線 |
羨道部:綾杉文・家屋文 |
70岡古墳群11号墳
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円墳
線刻:家屋文・木の葉文
平行線・格子文 |
羨道部より後室 |
綾杉文・木の葉文 |
綾杉文 |
木の葉文 |
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722壺形土器 大窪遺跡
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723円筒埴輪 大亀古墳群 古墳時代中期
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725土器棺 甕 旧練兵場遺跡 弥生時代後期
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800善通寺・石棺 |
801善通寺
弘法大師の父が807年に建立した寺院です。縄文・弥生・古墳時代の信仰の場である五岳山の麓にあり、西国75番札所。
真言宗善通寺派の総本山である。
弘法大師空海の一族は、地元の豪族で、多くの渡来人を抱えていた。ために、空海は、朝鮮語・中国語に堪能で、他の留学僧に比べていち早く
学問をマスターすることが出来た。
また、この一族は水銀朱をあきなう大富豪で知られ、莫大な留学費は水銀朱であがなわれたという。
外観
同時期に建立された |
門前
多くの豪族氏寺は廃寺 |
となっているが、ここは |
1200年間も続く人々の |
信仰を集める寺院です。 |
五岳山 |
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802磨臼山古墳出土石棺 善通寺市市民会館
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石棺とは、古墳に埋葬するために有力者の遺体を納めた「石のひつぎ」で、身と蓋が一対となり、断面が円形のものを「割竹形石棺」と呼びます。
この石棺は、昭和31年に有岡古墳群の磨臼山古墳から出土したもので、古墳時代前期後半(4世紀後半)に作られたと考えられます。
石棺内部には朱が塗られた痕跡があり、被葬者の頭を置く石枕が勾玉の装飾と共に浮き彫りされているなど、全体的に精美な加工がされています。
石材は高松市国分寺町の「鷲ノ山」から産出する角閃石安山岩(鷲ノ山石)が用いられています。
鷲ノ山石の石棺は、県内の有力首長の古墳の他、海を越えて大阪府橿原市の古墳まで運ばれています。石棺は被葬者を安置する重要なものであるため、石棺に同じ石材を利用した地域には、政治的な結びつきがあったのかもしれません。 |
磨臼山古墳出土石棺 |
市民会館ロビー |
割竹形石棺 |
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石棺出土状況
昭和30年頃 |
磨臼山遠景 |
石棺 身 |
前方後円墳の後円部墳頂から出土
主軸を東西に向け、頭部を西にして納められていた |
石棺内部 |
可動式石枕もあるが、作り付けである。 |
頸の付近に勾玉が一対彫刻されている。 |
大変きれいですが、本物です。複製ではありません。 |
柔らかい石なので石工の手早い仕事が目に浮かびます |
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蓋石に綱掛があります。蓋を閉じるときの為でしょう。 |
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参考文献 善通寺市内遺跡発掘調査事業に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書
805善通寺の古代 原文を引用 原文は明朝体で大変読みにくいので、書き直して掲載しました。
引用
善通寺市の遺跡
埋蔵文化財の発掘調査によって、市内吉原町から旧石器も出土しており、現在のところ本市の古代文化は約2~3万年前まで遡ることができる。
善通寺市街地の北一帯には、香川県を代表する弥生時代の中枢的な集落遺跡がある。西は筆の山の山裾から、東は四国農業試験場の敷地にまでおよんでおり、ここが旧陸軍第11師団の練兵場用地であったことから旧練兵場遺跡と呼ばれている。
昭和30年頃の四国農業試験場の用地整備工事に伴って、弥生時代前期から後期にかけての小児壺棺十数点・多数の土器、石器類が出土した。また、県道整備工事の際に国立病院付近から弥生土器に加えて須恵器や小玉などが大量に出土したことなどから、遺跡は弥生時代のみならず、古墳時代にまでおよんでいることが確認された。
旧練兵場遺跡はこのように広い範囲におよぶ可能性が強いばかりでなく、弥生時代前期から後期、古墳時代にかけての連続性が考えられる、県下でも例のない存在であることが分かっている。
ただ、最近の調査によってこの旧練兵場遺跡は幾つかの川道によって分断されていることが判明し、旧練兵場遺跡群としてとらえた方が良いと考えられる。
この遺跡群では、これまでに数多くの発掘調査が実施されている。以下、主な調査を順に紹介する。
総本山善通寺の西に流れる弘田川沿いで昭和52年に実施された善通寺西遺跡では、弥生時代後期から古墳時代にかけての用水路が検出され、多数の小型丸底壺・船の櫂や柱材などが出土しており、生活基盤である水田域の拡大が行われたことや古い溝の廃絶に伴う祭祀が行われたことが確認されている。
昭和58年には、遺跡群の東端部に所在する白鳳時代建立と考えられる善通寺の前寺・仲村廃寺(伝導寺跡)の発掘調査が実施され、寺域の北端やその下層の弥生時代中期から古墳時代にかけての遺構が検出された。
昭和59年には、善通寺西遺跡から弘田川沿いの約600m下流に所在する彼ノ宗遺跡の発掘調査が実施されたが、ここでは約1500㎡の調査区から弥生時
代中期から後期にかけての40棟以上の竪穴住居・小児壺棺墓15基・無数の柱穴と土坑群、古墳時代の掘建柱建物跡2棟とそれに伴う水路、二重の周溝をもつ多角形墳の基底部など、多くの遺構・遺物が確認された。特に弥生時代終末期の竪穴住居からはその廃絶時の祭祀に用いられたと考えられる仿製内行花文鏡片の懸垂鏡や銅鏃、多数の玉類が出土しており、この地区における弥生時代終末期の動向を推測する上で注目されている。
昭和60年には彼ノ宗遺跡から東に約500mの仙遊遺跡で弥生時代後期の箱式石棺と小児壺棺墓3基が発見されたが、この箱式石棺の石材には入れ墨を施した人面や鳥の絵の他、直弧文状の文様が一面に線刻されていたことから全国的な話題となった。その後も、国立善通寺病院や四国農業試験場などではこれまで頻繁に発掘調査が行われているが、いずれの調査でも住居跡が複合し密集した状態で遺存しており、正確な集落の規模は今も把握できていない。
この遺跡の東側には九頭神遺跡・稲木遺跡・石川遺跡と続いている。
また、ここから北方に広がる善通寺平野には、旧練兵場遺跡と同様に弥生時代の古い時期から古墳時代にかけての大規模な集落遺跡が幾つか知られている。
まず旧練兵場遺跡から北方500mあたりには九頭神遺跡があり、ここでは昭和62年に都市計画道路改良工事に伴う発掘調査が実施され、弥生時代後期頃の竪穴住居や小児壺棺墓・箱式石棺墓などが確認された。
九頭神遺跡から東方500mあたりには弥生時代から古墳時代にかけての遺物が多量に散布することで知られる石川遺跡が広がるが、未調査のため詳細は不明である。
九頭神遺跡の北方に隣接する稲木遺跡では、四国横断自動車道路建設に伴う調査が昭和58年から昭和62年にかけて、また県道善通寺白方線改良工事に伴う調査が昭和61年度と昭和63年度の二度実施されており、弥生時代から古墳時代にかけての竪穴住居群や墓地、中世の建物跡群などが確認されている。旧地形をみると、これらの集落遺跡群はいずれも複数の旧河道間に形成された微高地に営まれたものであり、これまでの調査結果からいずれも同時期に併存したものであることもわかる。したがって弥生時代頃の善通寺周辺部には、“大集落”というよりはむしろ“小国”が誕生していたと考えた方が良いかも知れない。
青銅器の出土
一方、善通寺市内からは与北山の陣山遺跡で平形銅剣3口、大麻山北麓の瓦谷遺跡で平形銅剣2口・細形銅剣5口・中細形銅鉾1口の計8口、我拝師山遺跡では計3カ所から平形銅剣5口・銅鐸1口、北原シンネバエ遺跡で銅鐸1口など青銅器が数多く出土している。また、近年旧練兵場遺跡では、小銅鐸をはじめ複数個の銅鐸片が出土し話題となった。
市内出土の弥生時代青銅器の数が県下出土数の約4割を占めていることは特筆すべきことである。旧練兵場遺跡群や周辺部の遺跡群を本拠とした集団との関連も注目される。
古墳の築造
やがて弥生時代に開始された稲作文化は完成期を迎え、丸亀平野の肥沃な生産基盤を背景に、独自の技術を持った特定の有力者が潅漑治水事業などを行い耕作面積を増大させた。この勢力が地域を代表する権力者となり有岡地区を中心に数多くの墳墓を築くようになるが、古墳時代を迎えこの地の勢力はさらに発展を続ける。
この頃の集落域は現市街地の北方と東方に広がりを見せ、市街地の南西部の丘陵部が墓域と推定される。この地区の古墳は確認されているだけでも400基以上を数え、中でも香色山・筆ノ山・我拝師山で北部を、大麻山で南部を限られた弘田川流域の有岡地区は、前方後円墳が集中する地域として有名である。(有岡古墳群)
まず古段階の古墳としては、大麻山山麓中でも比較的高所を中心に大麻山椀貸塚、大麻山経塚、野田院古墳、御忌林古墳、大窪経塚古墳、丸山1号・2号墳など数多くの積石塚が築かれている。御忌林古墳と丸山2号墳以外は全て前方後円墳であり、積石塚古墳分布範囲の最西限に位置している。
野田院古墳
中でも野田院古墳は、標高405m(平地との比高差約370m )という全国的にも有数の高所に立地する丸亀平野最古級の前方後円墳である。大麻山北西麓のテラス状平坦部に立地しており、前方部は盛土、後円部は積石で構築されている。史跡整備に伴う発掘調査によって壺形土器が多数出土した。また、後円部と前方部の具体的な構築方法を確認するなど、多くの成果が得られた。築造年代は3世紀末頃と推測される。
有岡古墳群
また有岡地区の平地部分には、前期から後期にかけての多数の前方後円墳が直線的に並んで築かれている。北東から南西方向に順に生野鑵子塚古墳(消滅)・磨臼山古墳・鶴が峰2号墳(消滅)・鶴が峰4号墳・丸山古墳・王墓山古墳・菊塚古墳が知られており、その状況から同一系譜上の首長墓群と考えられているが、中でもその中央の小丘陵上に築かれた王墓山古墳は一際目を引く存在である。
王墓山古墳では、石屋形を有する横穴式石室が検出され、内部からは金銅製冠帽や象嵌付き鉄刀、多数の馬具・鉄製品・装飾品・土器などが出土した。また、菊塚古墳でも石屋形を検出し、多数の遺物が出土した。
古墳時代後期末になると大麻山山麓部を中心に群集墳が多数出現する。現存する群集墳の中には線刻画で装飾された横穴式石室が計8基確認されており、それらが共通モチーフを有している点は大変興味深い。
宮が尾古墳もそのひとつである。線刻画ではそのモチーフの正体を把握しにくいものが多いが、宮が尾古墳には周辺の装飾古墳と共通したモチーフのほか、人物群や船、騎馬人物が具象的に描かれており、装飾古墳を考える上で極めて貴重な存在と考えられている。
この頃の丸亀平野は金倉川の東が那珂郡、西が多度郡と呼ばれており、多度郡には佐伯直一族が勢力をもっており、有岡一帯の前方後円墳群についても佐伯の一代系譜の墓とする考えが有力である。
やがて仏教の伝来に伴い、白鳳期には佐伯氏の氏寺である伝導寺(仲村廃寺)が旧練兵場遺跡の一角に建立される。しかし、この寺は短期間で消滅し、後に500m 程南面に移転されたものが現在の善通寺伽藍ではないかと考えられている。
善通寺
奈良時代末、宝亀五(774)年この地の有力豪族であった佐伯氏に弘法大師空海が誕生する。平安初期、大同二(807)年に唐から帰朝した空海が、
長安の青竜寺を模して今の伽藍の場所に真言宗最初の根本道場として善通寺を建立した。
創建当時は四町四方の境内に金堂や大塔、講堂、法華堂、西塔、護摩堂のほか、四十九の僧房があったといわれているが、平安時代末頃から鎌倉時代、そして南北朝時代にかけては、社会環境の大きな変化に伴い幾度も荒廃の危機に曝された。これを反映するように、善通寺の西側に隣接する香色山山頂では平安時代末頃の経塚群が確認されている。末法思想を背景として、この地に活動の基盤とした豪族(佐伯氏)や善通寺の僧侶達が造り上げたものであるが、中には子孫のために経筒などの埋納場所を事前に確保しておいたとみられる上下二段構造の経塚(香色山1号経塚)が、平成9年夏に発見され注目を集めた。
善通寺は戦国時代、永禄元(1558)年には香川・三好両軍の戦火により焼失してしまう。その復興が始まるのは、やがて江戸時代に徳川幕府が封建制度を確立してからのことであるが、四国八十八カ所巡礼や金毘羅参りが全国的な信仰行事となるのはこの頃からであり、八十八カ寺のうち五カ寺が現市内に所在するこの地域は、総本山善通寺を中心に門前町として活気を取り戻す。
明治29(1896)年には陸軍第11師団が設置され、門前町に加えて軍都としての性格を帯びるようになり、これに伴い道路や鉄道が整備された。この頃建設された洋風デザインの建造物群は市街地に今も多数残され、独特の景観を呈している。
これにより善通寺町として都市化が始まり、昭和29(1954)年3月31日に竜川村・与北村・筆岡村・吉原村との合併により市制が施行され善通寺市が誕生し、現在に至っている。
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