旧練兵場遺跡群は善通寺市仙遊町に所在し、現在の国立善通寺病院・農業試験場を中心に東西約1km、南北約 0.5km の縄文時代後期から中世にかけての大集落遺跡。 以前は旧練兵場遺跡、善通寺西遺跡、仙遊遺跡、彼ノ宗遺跡、中村廃寺など別個の遺跡名で呼ばれていましたが、現在では同一の遺跡と認識されています。 発掘調査により、竪穴式住居跡150棟以上、掘立柱建物跡 50棟以上、土器棺、鎌倉時代の条里制の基準線となる溝などの遺構、銅鐸、青銅製のじり、大量の玉類、丹塗り土器絵画土器など、多種多様な遺物が見つかっている。 旧練兵場遺跡は鏡玉などの貴重品交易品、幾重にも重複する住居跡などをご紹介してきましたが、人口・物資・情報が集中し、長期にわたる集落の営みが続く「都会」的な集落の姿がらかになりつつあります。 それでは「都会」を支えたものは何だったのでしょうか? 旧練兵場遺跡を中心とする半径 10km の地域には、同時期の小規模な遺跡が分布します。海浜の遺跡山林の遺跡、河川沿いの遺跡など、立地条件は様々です。 旧練兵場遺跡で出土した建築材、鯛イノシシの骨、多量のドングリなどは、これらの周辺の遺跡との日常的な交換を物語ります。 それだけでなく、「平形銅剣(ひらがたどうけん)」という瀬戸内地方に特徴的な器財がこの地域で多数出土していることから、青銅器を用いた非日常的な祭祀の伝統も共有していたと考えられます。 つまり、これらの遺跡は日常、非日常ともに緊密な関係を維持した地域社会を形成していたのです。 九州近畿など遠方との交易を活発に行い、多数の人々が集まって生活する「都会」を支えたのは、生活、交通、政治などに関わる地域社会が存在したからなのでしょう。 1. 旧練兵場遺跡の特徴 吉野ヶ里(よしのがり)遺跡(佐賀県)を訪れると、東京ドームの約 10 倍もある遺跡の広さに誰もが驚き、2,000 年前の「クニ」の姿に思いを馳せます。 香川には、これほどの遺跡はないと思われる方が多いかもしれませんが、実は善通寺(ぜんつうじ)市街地の地下に大遺跡があるのです。 現在、香川県埋蔵文化財センターが発掘中の旧練兵場(きゅうれんぺいじょう)遺跡は、吉野ヶ里遺跡とほぼ同じ、50 ヘクタールの大集落跡なのです。 約 500 年間、何世代もの人々が繰り返し建てた住居倉庫の跡が同じ場所に幾重にも重なり、今もなお新発見が続いています。 旧練兵場遺跡と吉野ヶ里遺跡の範囲 図表が入る そして驚くべきことに、青銅器勾玉(まがたま)など、普通の集落跡ではめったに出土しない貴重品が続々と出土しています。 たとえば、青銅製の鏃(じり)は、県内出土品の 9 割以上に当たる約 50 本がこの遺跡で出土しています。 大集落跡が継続して営まれることと、貴重品が多数出土することの 2 点が旧練兵場遺跡の最大の特徴です。 2 銅鐸 と 鏡 旧練兵場遺跡からは青銅器が多く出土している。 代表的な青銅器は銅鐸(どうたく)と鏡であるが、両者の役割は確に異なる。この違いが示す歴史的な背景について考えてみよう。 最初に現れる青銅器は銅鐸である。 弥生時代の中ごろ(約 2100 年前)を中心に、集団の祭器として使用された。 銅鐸に変わって現れるのは鏡である。 鏡は有力者の権威を示す道具であり、特定の個人が所有し政治的な色彩が濃いものである。鏡には中国からの輸入品と国産の鏡があり、弥生時代の終わりごろ(約 1800 年前)を中心に出土している。 この集団の祭器の銅鐸から有力者の権威を示す鏡への青銅器の交代は、弥生時代終わりごろにかけて旧練兵場遺跡が大規模集落へと成熟していく過程において、集団のとりまとめを行う有力者が現れたことを示している。 また、鏡は集落内の 3 か所より出土していることから、複数の有力者によって集落が経営されていたと考えられる。 旧練兵場遺跡から出土した銅鐸片と鏡片 このように青銅器を通して、一つの集落において日本列島全体に通じる弥生時代の社会変化を捉えることができる点は、旧練兵場遺跡の最大の特質である。 3.玉 旧練兵場遺跡の遺物の中に玉がある。 勾玉(まがたま)、管玉(くだたま)、小玉などの種類があり、材料には硬玉(ヒスイ)、碧玉(不純物を含んだ石英)、水晶、ガラスなどが使われている。 県内の同時期の遺跡と比較してみると、調査面積比あたりの出土量が突出して多く、本遺跡の特色のひとつに挙げることができる。 県内では産出しない材料を使用していること、遺跡内から製作道具が出土していないことから、県外から持ち込まれた可能性が高い。 他地域で作られた土器の出土例が多いことと合わせて、他地域との交流が積極的に行われた結果を反映している。 また、玉は、本遺跡の弥生時代後期から終末にかけての竪穴住居跡で出土することがわかってきた。 さらに、これらの住居跡は遺跡の西半部分にいくつかのまとまりをもって分布する傾向 左から管玉、勾玉、ガラス小玉 がみられることもらかになってきた。 同様の例は県内の他遺跡ではほとんど知られておらず、本遺跡の特徴を物語るものである。 このことは、本来、装身具威儀具(いぎぐ)であった玉が、住居の廃絶に際して埋納する祭具として使用されたことを示すだけでなく、そのような共通の祭祀を有する集団が遺跡内に複数存在したことを示唆するものとして評価できる。 4. 竪穴住居跡 と 高床倉庫跡 旧練兵場遺跡の主な遺構には、竪穴住居跡と高床倉庫跡があります。 遺跡が継続する約 500 年の間、竪穴住居跡の検出数は増加し、人口が増えていたことが分かります。 一方、これまで調査した範囲では、弥生時代後期後半(約 1,900 年前)以後の高床倉庫跡は検出されていません。 後期後半以前、遺跡内の各丘では、高床倉庫を建て物資を蓄えていました。 ところが、女王卑弥呼(ひみこ)が活躍した弥生時代終末期(約 1,800 年前)になると、有力者が物資の管理を行う社会に変化し、どこにでも高床倉庫を建てることが許されなくなった可能性があります。 「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」は、当時の それぞれの丘に並ぶ住居と倉庫(遺跡の景観復元 越智広二さん作) 西日本各地が有力者を中心としたクニ社会へ移行しつつある姿を伝えており、旧練兵場遺跡を中心とするこの地域も、政治的統治が始まったと考えられます。 そのような有力者が旧練兵場遺跡に住んでいたのであれば、まだ調査が行われていない範囲には、有力者の住居跡象徴的な建物跡が眠っているかもしれません。 5.弥生土器 旧練兵場遺跡の整理作業で毎日土器と顔をつき合わせていると、讃岐の弥生土器の中に見慣れない土器が混じることが分かってきた。 それは器形と胎土(たいど)が異なる(他地域産の土器が持ち込まれた)ものと、器形は異なるが胎土は讃岐の土器と同じ(讃岐の土で他地域の土器の形を作った)ものの 2 タイプに分けられる。 これらの土器は九州東北部から近畿にかけての瀬戸内海沿岸の各地域で見られる器形をしており、弥生時代後期前半(約 1,900 年前)を中心とした時期に盛んに見られることがわかってきた。 土器は自分で動くことはできない。 土器そのもの内容物の入れ物として人が持ち運んだり、人が移住してきて讃岐の土で故郷の土器の形を再現したりという、人の動きに伴って旧練兵場遺跡にもたらされたのである。 すなわち、各地域の人たちが地域社会という枠を超えて活発に交流をした証しであり、それは瀬戸内海沿岸を中心とした広い範囲に及ぶことがらかになったのである。 県内の同時代の遺跡と比較してこれらがたくさん出土する旧練兵場遺跡というのは、讃岐における物・人の広域な交流の拠点となった集落であり、土器という一面を取り上げてみても、 讃岐の弥生時代を語る上で看過できない内容を持った大遺跡であると改めて認識させられる。 福岡県付近から運ばれてきたと思われる弥生土器 6鉄器 弥生時代中期後半(約 2,000 年前)に、列島で鉄器の生産が開始され、旧石器時代から使用された石器は次第に鉄器に交代していく。 旧練兵場遺跡においても弥生時代後期(約 1,900 年前)の鍛冶炉(かじろ)が見つかり、生産された鏃(じり)・斧(おの)・万能ナイフである刀子(とうす)が多量に出土した。 鉄器の生産には、鍛冶炉の 1,000℃を超える温度管理など操業のための専門的な技術の獲得、主に朝鮮半島から鉄素材の入手など遠距離交易・交流が必要となるため、旧練兵場遺跡のような拠点的な集落を中心に鉄器生産が行われた。 また、遠距離交易・交流は、朝鮮半島との窓口となる北部九州地域を相手として行われたと考えられ、それを統括・調整する有力者も存在していたと見られる。 旧練兵場遺跡の有力者は、鉄に関係した交易・交流と同時に、鏡などの権威を示す器物思想を獲得することにより、政治権力を発達させたと考えられる。 7 地域社会 鏡玉などの貴重品や交易品、幾重にも重複する住居跡などをご紹介してきました。 人口・物資・情報が集中し、長期にわたる集落の営みが続く「都会」的な集落の姿がらかになりつつあります。 それでは「都会」を支えたものは何だったのでしょうか? 旧練兵場遺跡を中心とする半径 10km の地域には、同時期の小規模な遺跡が分布します。 海浜の遺跡や山林の遺跡、河川沿いの遺跡など、立地条件は様々です。 旧練兵場遺跡で出土した建築材、鯛やイノシシの骨、多量のドングリなどは、これらの周辺の遺跡との日常的な交換を物語ります。 それだけでなく、「平形銅剣(ひらがたどうけん)」という瀬戸内地方に特徴的な器財がこの地域で多数出土していることから、青銅器を用いた 非日常的な祭祀の伝統も共有していたと考えられます。 つまり、これらの遺跡は日常、非日常ともに緊密な関係を維持した地域社会を形成していたのです。 九州近畿など遠方との交易を活発に行い、多数の人々が集まって生活する「都会」を支えたのは、生活、交通、政治などに関わる地域社会が存在したからなのでしょう。 8ベンガラと朱 「赤」は太陽や炎などを連想させ強い生命力を象徴する色、あるいは特別なパワーが宿る色と信じられ魔除けとしても使われました。 旧練兵場遺跡の弥生時代終末期(約 1800 年前)の土器には赤い顔料が付いたものがあります。 分析の結果、ベンガラ(酸化鉄が主原料)と朱(硫化水銀が主原料)の2つがあることがわかりました 前者は吉備地方から持ち込まれた高杯などに装飾として塗られています。赤い土器は日常雑器ではないことを主張し、赤の持つ力で神秘性を際立たせているようです。 後者は把手付広片口皿の内面に付いた状態を確認しました。把手付広片口皿とは、石杵石臼ですりつぶして辰砂を液状に溶いたものを受ける器であり、旧練兵場遺跡で朱を使用したことを裏付けます。 朱は同時代の巨大な墳丘墓である楯築(たてつき)遺跡(岡山県倉敷市)の埋葬施設へ大量に納められるなど、葬送儀礼にも用いられています。 辰砂の産地は阿讃山脈を越えた若杉山(わかすぎま)遺跡(徳島県阿南市)が一大採掘地として挙げられます。 瀬戸内海が人物の行き交う文化の大動脈であったことは知られていますが、それにクロスするような徳島―香川―岡山という「赤」でつながる文化の道も存在したことが浮かび上がってきたのです。 9 旧練兵場遺跡の研究 これまで紹介してきたように、当時の人々は、他の地域周辺集落から交易によって入手したり、旧練兵場遺跡で生産された銅・鉄製品などの貴重品土器石器などの日用品を求めて旧練兵場遺跡に集まった。 まさに豊富な品々が取り揃えられた巨大市場であり、集落ではなく「都市」的な様相を呈していたのであろう。 それでは、旧練兵場遺跡に一極集中する流通に傾斜した香川の弥生時代社会とはどのような経済であったのか。 「都市」的な大集落を構成する多くの人々はどのように編成されていたのかなど、当時の人間社会の出来事を具体的に復元する必要がある。 我々は土器竪穴住居跡などのハードウエアは発掘調査で確認できるが、思想宗教など社会組織を構成するソフトウエアは直接見ることができない。 当時の人間社会の出来事を復元するためには、ソフトウエアの復元が不可欠であり、そのためには、出土した遺構遺物を細かく検討し、 それらが旧練兵場遺跡の内部当時の社会の中でどのような位置を示すのか体系づけて全体像を 旧練兵場遺跡に集中して出土する銅鏃 復元する必要がある。旧練兵場遺跡の集落の研究は、まさに当時の弥生時代社会を研究することと言える。 <<旧練兵場遺跡 旧練兵場遺跡 旧練兵場遺跡 旧練兵場遺跡の主な特徴と出土品まとめ>> 香川県埋蔵文化財センターのホームページから旧練兵場遺跡の主な特徴と出土品などを項目的にまとめてみると、 ① 東西1km、南北約0.5kmの約50万㎡の大きな面積を持つ遺跡。 ② 弥生時代から鎌倉時代に至る長期間継続した集落遺跡。弥生時代には500棟を超える住居跡がある。 2008 年の7月には弥生時代の生活面を構成する土の中から、縄文時代後晩期の浅鉢とみられる土器が出土 ③ 銅鐸・銅鏃などの青銅器勾玉など、普通の集落跡ではめったに出土しない貴重品が出土している。 青銅製の鏃は、県内出土の 9 割以上に当たる約 50 本が出土している。 ④ 弥生時代後期(約 1,900 年前)の鍛冶炉が見つかり、生産された鏃・斧・刀子が多量に出土している。 主に朝鮮半島から鉄素材の入手など遠距離交易・交流が必要となるため、本遺跡のような拠点的集落を中心に 鉄器生産が行われたとしている。 ⑤ 讃岐の弥生土器の中に見慣れない土器が混じり、他地域産の土器が持ち込まれたものと、讃岐の土で他地域の土器の形を作ったものがある。 これらの土器は九州東北部から近畿にかけての瀬戸内海沿岸の各地域で見られる器形をしている。 弥生時代後期前半(約 1,900 年前)を中心とした時期に盛んに見られる。讃岐における物・人の 広域な交流の拠点となった集落であることを示している。 ⑥ 把手付広片口皿の内面に朱が付いた状態を確認している。辰砂を石杵石臼で摺りつぶして液状に溶いたものを 受ける器で、本遺跡で朱を使用したことを裏付ける。 辰砂の産地は阿讃山脈を越えた若杉山遺跡(徳島県阿南市)が一大採掘地として挙げられ、同時代の巨大な墳丘墓である楯築(たてつき)遺跡(倉敷市)などへの埋葬にも用いられたと推測でき、 徳島―香川―岡山という「朱」でつながるルートの存在が浮かび上がって来る。 ⑦ 硬玉、碧玉、水晶、ガラス製などの勾玉、管玉、小玉などの玉類が多量に出土している。 県内では産出しない材料を使用していること、遺跡内から製作道具が出土していないことから、県外から持ち込まれた可能性が高いとし、他地域との交流が積極的に行われた結果を反映している。 特に、弥生時代後期から終末にかけての竪穴住居跡で出土している。 また、本来、装身具威儀具であった玉であるが、特定な出土分布傾向を示し、共通の祭祀を有する集団が遺跡 内に複数存在したことを示唆している。 ⑧ 主な遺構には、竪穴住居跡と高床倉庫跡がある。 遺跡が継続する約 500 年の間、竪穴住居跡の検出数は増加し、人口が増えていたことが分かる。 一方、これまで調査では、弥生時代後期後半(約 1,900 年前)以前には、遺跡内の各丘で高床倉庫を建て物資を 蓄えていたとみられるが、以後になると高床倉庫跡は検出されていない。 女王卑弥呼が活躍した弥生時代終末期(約 1,800 年前)になると、有力者が物資の管理を行う社会に変化し、ど こにでも高床倉庫を建てることが許されなくなった可能性があるとし 、当時の西日本各地が有力者を中心とした クニ社会へ移行しつつある姿を伝えているとみられるとしている。