北海道の縄文 №14 2022.06.05-2
標茶町博物館 「ニタイ・ト(森・湖)」 北海道川上郡標茶町塘路原野北8線58−9
015-487-2332 月休(7/1~8/31は無休) 撮影可営業(9:30~16:30)
館の特徴
・石刃鏃文化
こんな小さな博物館でこんな重大な秘密が明かされるとは思ってもいませんでした。
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目
次 |
01外観
20標茶町とは
30動物展示
50標茶の自然
100考古展示
101縄文時代
110縄文早期
113土坑石器集中区
120石器
125土器
140石刃鏃文化
143日本の石刃鏃遺跡地図
※考察 北海道石刃鏃文化の拡大
※資料 青森県ムシリ遺跡
149※長万部町富野3遺跡
150石刃鏃
151二ツ山遺跡第1地点
160二ツ山遺跡第3地点 |
170縄文前期
173釧路湿原と縄文海進
182前期の遺跡
1834ウライヤ遺跡越善地点
190石器
200縄文中期
211石器
216モコト式土器
217石器
240縄文土器
※資料桜ケ丘遺跡と円筒土器
250縄文後期
260石器
262土器
270縄文晩期
280人骨の出土 |
300続縄文文化
320石器
325土器
340近年の発掘調査
350トビニタイ文化
361土器
※考察 北海道のローカル文化
370擦文文化
373土器
400アイヌ文化期
413チャシ
440松浦武四郎
460森と湖の恵み
464アイヌの文物
500蝦夷地から北海道
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はじめに
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標茶町博物館では、石刃鏃文化の広がりについて、詳し石量が展示されていました。
これまで見てきた博物館や、過去に訪れた博物館でも、この文化は、短期間の寒冷期に、北海道の一部で起こった小さな変化程度の取り扱いでした。しかし、この館では、それは全道的な広がりを持ち、あまつさえ本州北部にも広がりを見せた文化であったことがわかりました。
また、石刃鏃が石鏃として使われず、神子柴型石器のような美術品として、その美しさゆえに宝物として珍重されていたかのようにも見られます。
更に、北海道と本州を結ぶ縄文航路は、渡島半島南部と津軽半島だけではなく、下北半島航路もあり、遺跡も多数あることがわかりました。
標茶町博物館での展示は、これまで触れられてこなかった、新しい事実を知らせてくれました。 |
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01外観
標茶町博物館
ニタイ・ト
(森・湖、アイヌ語)
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展示室は二階です |
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10復元品
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20標茶町とは? ~我が町の自己紹介~
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標茶町は北海道東部釧路管内に属し、多様な自然環境に恵まれた町です。
大きな特徴として、
この塘路を含む標茶町南部には、釧路湿原国立公園を含む湖沼と湿原が広がり、
中部はなだらかな丘陵が広がっています。
北部は阿寒摩周国立公園に一部含まれ、貴重な高山植物などが見られる西別岳が含まれます。
人口は令和2年2月末で約7400人、基幹産業は酪農業で、牛の飼育頭数は約53,000頭です。 |
標茶町では
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標茶町では北海道の先住民であるアイヌの人たちが暮らすコタンがあり、伝統的な暮らしが営まれていました。
1885年(明治18年)に釧路集治監(現在の刑務所の一種)が設置されると、最初の役場となる「熊牛村外四カ村戸長役場」が標茶町塘路に置かれ、
本州から多くの人々がやってくるとともに、標茶市街では急速に近代化が進みました。
現在、産業の主軸である酪農業の発展とともに「元気なしべちゃ」の創造を合言葉に、地域活性化や農業振興、そして教育、子育て事業と共に安心安全な町づくりを進めています。 |
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標茶町とは |
二本松から見た釧路湿原
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標茶町では |
標茶町では |
軍馬補充部の水道施設
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標茶市街に設置された軍用馬を育成する「軍馬補充川上支部」で使われていた水道施設。明治末~大正初期に整備されたと考えられます。 |
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30動物展示 |
31シマフクロウ フクロウ科
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日本では北海道にのみ生息しており、国内で見られるフクロウの中では一番大きい種類です。水中の魚類のほか、ネズミや両生類なども食べます。
こちらの剥製は、1986年に標茶町虹別にて、死んだ状態で発見されたシマフクロウです。シマフクロウが掴んでいる、躍動感あふれるアメマスは中村俊幸氏(J-craft)が制作しました。 |
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32
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ノスリ
、エゾタヌキ |
エゾタヌキ |
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エゾフクロウ |
トビ
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オオタカ
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コジュウカラ、アオサギ
アメリカミンク
エゾリス |
コジュウカラ
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アメリカミンク
エゾリス
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アオサギ
マガモ |
マガモ
アジサシ |
タンチョウ |
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33塘路で見られる生き物たちの世界
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塘路地区では森から湖までの環境が揃い、多くの生き物たちを観察できる。
5月上旬を過ぎるとキタコブシとエゾヤマザクラが開花し、山々は白と桜色に飾られる彩られる。
オオジシギが南から訪れ、ツバメたちが飛び回るようになると、夏鳥たちの季節が始まる。新緑の森は、エゾセンニュウやセンダイムシクイなどのさえずりに包まれる。
10月上旬になると山々実は紅葉に染まる。北からヒシクイやハクチョウを始めとするガンカモ類が湖へ飛来すると冬鳥たちの季節となる。
12月上旬より湖は凍り始め、白銀の平野が生まれる。生き物たちは厳しい冬の寒さに耐え、穏やかな春を待つ。 |
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塘路でみられる生き物たちの世界
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ジオラマで見られる標茶の生き物たち |
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40森に生きる動物
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ヒグマ |
エゾシカ
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エゾシカ(仔) |
アメリカミンク |
キタキツネ |
エゾタヌキ |
ミヤマカケス |
ヒグマ
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50過去から未来へ受け渡す標茶の自然(1)
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標茶町に残る様々な自然環境は、歴史の積み重ねの中で形成され、多くの人々によって守られてきた。
かつて開墾や木炭生産のため、山野に生える多くの樹木を切った時代があった。
その一方で「優れた景観を持つ標茶の自然環境を守ろう」とする考え方も徐々に生まれていった。
昭和36年(1961年)、標茶町は町立自然公園条例を制定。自然保護と活用に根ざした考え方に基づき、塘路湖やシェラルトロ沼を含む28㎢を指定した。
後に町立自然公園は、昭和62年(1987年)に指定された釧路湿原国立公園の一部となり、役割を引き継ぐ形で同年指定解除された。 |
過去から未来へ受け渡す標茶の自然(2)
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標茶町では日本一の面積を誇る泥炭湿原である釧路湿原国立公園、西別岳を含む阿寒摩周国立公園により、湿原から山野まで自然環境の一部が保護区として保存されている。また広大な牧草地を利用した酪農業も、環境と共生した形で行われ、道東特有の広々とした景観と自然環境の中、放牧されている牛たちを見ることができる。
この豊かな自然を未来の人々へ受け渡すため、環境保護だけではなく継続的に環境や生態系を維持しながら活用を進める、「ワイズユース(賢明な利用)」の理解と推進が求められている。 |
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過去から未来へ受け渡す標茶の自然(1)
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過去から未来へ受け渡す標茶の自然(2)
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樹木標本
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53標茶で見られる様々な地形
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標茶町は北から南へ向かって傾斜した地形となっており、緩やかな丘陵が主体の町である。
北部は阿寒カルデラを構成する山地となっており、街の中央付近までは丘陵となって続く。
丘陵は、道東に広く発達している海岸段丘の上部に火山噴出物が堆積したもので、河川の浸食により丘陵が削られ起伏が生まれた。
中央部から南部にかけては海岸段丘が広がる。「根室段丘」とも呼ばれ、かつて海岸線だった場所が隆起し丘陵状となっている。
南西部には泥炭が堆積した釧路湿原が広がる。泥炭の層厚は3~4m。湿原中央から北部にかけて厚く堆積している。 |
釧路川流域地図
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標茶で見られる様々な地形
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考古展示
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100大昔の標茶
遺跡が残るまち標茶
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標茶町では、現在200カ所を超える遺跡が確認されている。
古くは約8000年前の縄文文化の住居跡から、約100年前まで使われたアイヌ文化のクマ送り場まで、各時期に亘って多くの遺跡が見つかっている。
特に約7000年前の縄文早期と約4000年前となる縄文中期の遺跡が多数確認されており、町内遺跡全体の約60%を占める。
遺跡の多くは河川や湖、湿原沿いの平らな丘陵にあり、標茶町南部の塘路、茅沼地区と五十石地区に多く分布が見られる。
なお遺跡の多くは未発掘のまま、現代に至るまで保存されている。 |
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101縄文時代 8000~2300年前まで
自然と共に生きた縄文の人々
The Jomon, People
who Lived in Harmony with Nature
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縄文の人々は、石器や土器などを使い定住生活を営みながら、狩猟や漁労、 採集を中心とした生活を行っていた。
現在縄文文化の開始年代は15,000年前とされているが、 標茶町では縄文文化早期となる約8,000年前の遺跡が最も古い。
その後、縄文文化の終末となる約2,300年前 (BC300年)まで途切れる事なく遺跡が見つかっている。
これまでの発掘調査により、 遺跡からは住居跡や墓跡の他、時期ごとに特徴的な土器や石器が出土している。
また、早期にはユーラシア大陸から波及してきた 「石刃鏃文化」の遺跡も発見されている。 |
標茶町の縄文遺跡
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標茶町の縄文時代の遺跡は148箇所見つかっており、町内の遺跡全体の約70%になる。
特に縄文時代早期(8000年~6000年前)と中期(5000年~4000年前)の遺跡が多く発見されている。
この時期に標茶町では、多くの縄文人が暮らしていたと考えることができる。 |
打製石器と磨製石器
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石器は先史時代を通じて長期間使われた。石器には様々な種類があり、拾った石をそのまま使う場合もあるが、多くは加工して使った。
作り方の違いから、打製石器と磨製石器の2種類に分かれる。
打製石器は石の塊を割って作る石器のことで、主に刃物を作った。
多くの打製石器は短時間で作れるが、破損しやすいため、数多く作った。標茶の遺跡から見つかる石器の8割以上は、打製石器である。
磨製石器は石の塊を磨いて作る石器のことである。大まかに石を割った後、砥石で石を磨いて作った。
打製石器と比べると製作時間が必要であった。標茶の遺跡からは、磨製石斧が見つかっている。
その他に石を磨くための砥石や、ものを割るための敲き石なども遺跡から見つかっている。 |
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自然と共に生きた縄文の人々
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標茶町の縄文遺跡 |
打製石器と磨製石器 |
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110縄文時代早期(約8000年~6000年前)
縄文時代早期の遺跡
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標茶町で発見された最も古い遺跡は、この時期の遺跡である。
縄文時代早期の遺跡は、塘路、茅沼、五十石など、標茶町の南部で発見されている。特に塘路地区の塘路湖の南岸に遺跡が集中している。
この標茶町博物館も塘路湖南岸にあるため、かつては縄文の人々が暮らした生活の場であったのかもしれない。
※北海道教育委員会のPDF文書は、文書内を検索できます。 |
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縄文時代早期の遺跡 |
標茶と本州の
先史時代年表 |
縄文早期 |
・標茶で最も古い遺跡の年代。
・石刃鏃文化の人々が来る。
・摩周湖火山の爆発。標茶に火山灰を降らせる。 |
縄文時代早期の自然環境
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道東地方で縄文時代の遺跡が現れるのは、約8000年前の縄文時代早期からである。
この時期は、現在より少し暖かい気候だったと考えられ、その後も徐々に暖かくなっていった。
その影響により北極と南極の氷が溶け出し、海水面の上昇が始まりつつあった。
現在の釧路湿原の一部は、海となっていたと考えられている。
標茶町で発見された最も古い遺跡は、縄文時代早期の遺跡である。
この時期の遺跡は、主に塘路周辺や、茅沼、五十石付近で数多く発見されている。 |
縄文時代草原の自然環境 |
縄文早期の海岸線 |
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既に内陸に大きく海が侵入。
これは本来の陥没か褶曲による陥没地形ではないか。 |
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113土坑
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1本柱で作られた土坑
縄文早期
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縄文早期
ウライヤ遺跡越善地点
縄文時代早期と考えられる土坑。2.8×2.2m深50cm
写真右の穴より太い柱を一本立て、屋根を作る構造の小屋だったと考えられる。 |
黒曜石の集中区
縄文時代
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縄文時代
ウライヤ遺跡越善地点
1本柱の土坑から、黒曜石の小さな破片が多く見つかっている。
なかには石鏃もあったものの、ほとんどは薄い剥片ばかりだったため、石器を作る場所として使われたと考えられる。
※黒曜石破片の散乱は危険なため、土坑に屋根懸けして石器を製作した。
見たことのない安全対策。 |
※石器集中区
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最初の写真は内部がきれいに浚えてあるので、土坑と言えば土壙墓と考えました。
その次に、剥片石器の飛散写真が出て、やっと石器製作場所であることがわかりました。
黒曜石の剥片を剥がすため、通常は製作者の位置を固定し、周囲に等距離で剥片が飛散しますが、穴を掘って飛散範囲を固定し、更に、その外側に飛び散っても穴の中に落とせるように危険回避行動をした。なんとこんな配慮をする様子は、初めて見ました。
土坑の端に穿たれた柱穴を使ってどのような小屋掛けをしていたのでしょうか。想像できませんが、光が入って、飛散防止で土坑にすっぽりって、結構むつかしい設計ですね。 |
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120石器 |
121標茶町内から発見された石器 縄文早期
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発見された遺跡 標茶町内各所
出土遺構他 表面最終
標茶町内で発見され、公民館等で保管されていた黒曜石製の石器。
標茶町内で出土する打製石器のほとんどが黒曜石(十勝石とも呼ばれる)で作られている。
しかし標茶町内に石器を作れるほどの良質な黒曜石の産出地は無いことから、遠方まで採取しに行ったか交易で得たと考えられている。
なお遺跡から出土した黒曜石製の石器に関する原産地分析から、置戸町産と、上士幌町の十勝三股産の黒曜石が多く使われていた。
双方ともに標茶町からは200km以上離れている。
黒曜石が標茶町では貴重であった事は間違いなく、何度も再利用し、使えなくなる大きさまで加工を行った石器も、多く出土している。 |
※石器にキャプションがない。まぁ、もっともらしい名前を付けるよりも、自分で考えろということかなぁ。だとすると、
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尖頭器×3 |
掻器・ナイフ・石錐 |
磨製石斧 |
石鏃等 |
石錐・石槍4 |
尖頭器 |
石刃鏃 |
石刃鏃 |
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122黒曜石原石
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※元村遺跡
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元村遺跡は、塘路湖南岸の平坦な台地に広がりを持つ遺跡で、明治時代の記録では竪穴住居の跡があったと記録されています。しかしその後畑が作られ、多くの穴住居跡が埋められた為、現在では湖岸沿いに残された幾つかの竪穴住居しか見る事が出来ません。
その後一部が発掘調査され、縄文時代、続縄文時代、擦文時代、近代と幅広い時代の遺跡が発見されました。
また縄文時代早期と考えられるロングハウスも発見されています。推定では長軸12m×短軸37~34mの規模と考えられています。発見例が少ない珍しい遺構であり、貴重な発見でした。この時の発掘調査で見つかった遺跡は、標茶町郷土館で保管され、一部は常設展示されています。 |
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123縄文早期の石器
※石刃族や石刃を使った石器が多く見られます。遺跡年代の詳細は不明です。
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削器
金子遺跡(茅沼)
遺構外包含層 |
側縁部を打ち欠いて刃部を作成。現在のナイフのように使った。 |
石鏃
元村遺跡(塘路)
遺構外包含層
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石槍
元村遺跡(塘路) |
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石鏃
金子遺跡(茅沼) |
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石鏃
金子遺跡(茅沼) |
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縄文早期の遺物 |
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124
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浮標型石製品
金子遺跡(茅沼) |
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掻器
元村遺跡(塘路)
皮なめし・脂肪カキトリ |
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毛皮を作るため、皮をなめす道具。上部に刃部があり、剥がした毛皮の裏に付いた脂肪を描き取る道具 |
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磨製石斧は、緑色泥岩や蛇紋岩、安山岩など割れにくい石を使い、大まかに整形後、砥石で磨いて製作。木の伐採・加工用。
被熱石鏃、熱によって表面が白く変化した石槍。遺跡から被熱石器が見つかるが意図的なのかも含め、焼かれた理由は分からない。 |
磨製石斧
金子遺跡
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石鏃 金子遺跡 |
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被熱した石槍
元村遺跡
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125土器 縄文早期
※東釧路Ⅲ式土器 8000~7500年前
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縄文早期後半の土器。
東釧路Ⅲ式は縄文時代早期の終わり頃、北海道内に広く分布した土器です。鉢型の土器で底が平らでクの字状に張り出す特徴を持っています。
縄文時代に入って縄文の文様がもっとも発達した時で縄や紐を転がしたり、押し付けたりして文様がつけられています。 |
※テンネル式土器 (テンネル=天寧) 1万年~8500年前
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早期前半の無文 貝殻文条痕文系平底土器群 。テンネル・暁式, 沼尻式, 下頃辺式, 東釧路I式, 大楽毛式, 石刃鏃文化期の土器群である。
テンネル式・暁式はその最初期に位置付けられる。
テンネル・暁式土器群は、無文を基調とし、条痕などによる縦位の器面調整が施され、底面にホタテガイ殻表圧痕が付せられることを特徴とする平底の土器である。
筆者は帯広市八千代A遺跡資料を中心にテンネル暁式I~IVV群に細分し、絡条体による文様・条痕の出現を指標として古期段階 (暁I・II群), 新期段階 (暁III・IVV群) に大別した。テンネル・暁式土器の古段階は9000年前の樽前d火山灰の下層から見つかった。引用十勝地域の縄文土器概観 |
※ここにきて1万年前の土器が登場するのは大変な驚きです。これまでの編年より随分突き抜けている。
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140石刃鏃文化
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石刃鏃文化は、大陸に原郷土を持ち、アムール河流域や沿海州など北東アジアに分布することが知られる。
サハリンを経由して北海道へも波及し、北東部を中心に道内に広くこの時期の遺跡が確認されている。
旧石器時代に特徴的な石器製作技法を持つが、やがて北海道の縄文文化に吸収され消滅する。
石刃鏃と呼ばれる矢尻は、津軽海峡を越えて下北半島の遺跡からも見つかっている。
標茶町では、20カ所以上の遺跡が確認されているが、これまでに二ツ山遺跡第一地点、同第3地点の発掘調査が行われ、大きな成果が得られた。
二ツ山遺跡第一地点より出土した遺物の一部は標茶町指定文化財となっている |
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141石刃鏃文化
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石刃鏃文化 |
遺跡を守った飯島一雄氏の物語
二ツ山遺跡第1地点 標茶町字塘路原野北8線58番地9 8.2ka以後
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「二ツ山遺跡第1地点出土遺物273点」は、1992年(平成4年)に標茶町有形指定文化財として登録された唯一の埋蔵文化財である。
二ツ山遺跡第一地点は、石刃鏃文化の中で使用された様々な石器が出土した遺跡であり、また当時として珍しい石刃鏃文化の土器が発見されるなど、
新たな発見が得られた。 |
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二ツ山遺跡第一地点は五十石にある遺跡で、1962年(昭和37年)頃より遺跡として知られていたようだが、注目されることになったのは、同地点で砂利採取が行われた際に標茶町の昆虫研究者として知られる飯嶋一雄氏が遺物を発見したことが、契機であった。飯島氏は採集遺物を、釧路市立郷土博物館の澤四郎氏へ見せたところ、貴重な遺物であることがわかった。1964年(昭和39年)に澤四郎氏らによって緊急の発掘調査が行われた。 |
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その後も飯島氏は、依然として続けられていた砂利採取の工事現場にて、遺物を発見し採集を続けた。
飯島氏はその際に発見した遺物の出土した地層を記録しながら採集を行っていた。
これは飯島氏が遺物に対し学問的価値を認識していたからであり、結果的に遺物の資料的価値を損なうことなく、現在まで保管されたことにつながっている。 |
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飯島氏の採取資料等の結果を受け、1967年(昭和42年)に標茶町教育委員会にて再度発掘調査が行われた。
調査は土砂採取に対する緊急発掘調査だったため、短期間であったが、澤四郎氏が発掘担当者となり、石刃鏃文化の遺構と遺物が発見された。
二ツ山遺跡第一地点は砂利採取のために消滅したが、こうした人々の努力と協力の中で遺物が残されたのである。 |
現在の二ツ山遺跡第一地点
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現在、二ツ山遺跡第一地点は砂利採取後、放置されている。現在では遺物も見られず、完全に消滅したと考えられる。
しかし二ツ山遺跡第1地点の考古学的な価値は消える事は無い。標茶町教育委員会では町内の遺跡に看板を立て、保護を呼びかけているが、この遺跡では、記念碑的な意味合いも含めて設置されている。
また2013年(平成25年)には、標茶町内の文化やサークル「標茶縄文会」により二ツ山遺跡第一地点に関する情報を紹介した遺跡看板が新設されている。 |
現在の二ツ山遺跡第一地点
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二ツ山遺跡第一地点
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二ツ山遺跡第一地点
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143北海道内を中心とした石刃鏃文化に関わる遺跡地図
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石刃鏃文化の遺跡は、
道東のオホーツク海沿岸から内陸部、また
釧路地方を中心に数多く発見されているが、
道北地方のほか、
札幌から苫小牧を結ぶ石狩低湿地帯にかけても石刃鏃文化の遺物が見つかっている。
道南では極端に遺跡数が減少するが、
最南端は青森県東通村のムシリ遺跡で、石刃鏃が1点見つかっている。 |
北海道内を中心とした石刃鏃文化に関わる遺跡地図
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上に記述 |
北海道内を中心とした
石刃族遺跡
下に拡大している |
参考:北海道河川図
引用北海道主要河川図 |
標津茶の石刃族遺跡
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144石刃族遺跡の分布
※上段の地図は地域の位置を示し、下段の地図が石刃鏃遺跡分布図です。
借用北海道フリー地図 |
道東地方
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釧路地方
引用「気象予報区区分表北海道地方 |
道北地方
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石狩低地帯
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道南地方
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道東地方の遺跡分布 |
オホーツク沿岸~内陸部の遺跡
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釧路地方の遺跡 |
道北地方の遺跡
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石狩低地から苫小牧
日本海~太平洋
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道南と下北地方 |
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145 これまでの北海道石刃鏃遺跡の分布地図
こんな分布図を見せられると、石刃鏃文化は流行らなかったと思ってします。
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146
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※考察 北海道石刃鏃文化の拡大
これまで沖縄写真通信で石刃鏃を多く取り上げたページは 帯広百年記念館埋蔵文化財センター 浦幌町立博物館である。
石刃鏃文化の広がりと影響
浦幌町までの博物館の解説では、石刃鏃文化は、北海道東岸つまり、オホーツク沿岸と根室・釧路・十勝付近が文化圏であると言われてきた。
従って、8.2kaイベント影響下の短い期間の文化であって、大きな影響はなかったかのように扱われてきた。
しかし、この寒冷期は、8200年前から少なくとも200~400年の間続いたとされており、決し小規模な気候異変ではなかったことが分かった。
145図➀~③の、既出博物館での説明図では、石刃鏃遺跡は北海道道東部の沿岸に出現する程度とされていた。
その影響も短期間のように印象付けられていた。しかし、寒冷化は500年、1000年以上もその影響が続いたともされている。
そして、何よりも、143図③の「北海道地域の石刃鏃遺跡地図」である。伝播経路を推測するために143図④に北海道河川図を揚げた。
まず、何よりもその遺跡の多さです。明らかになった遺跡は全道に広がっていました。
これまでの説明は嘘ではないにしても、なぜこのような重要な事実が無視されているのかはわからない。
石刃鏃文化の伝播
道内各地の遺跡への石刃鏃文化の伝搬は、まずは、舟で行なわれたと考えられる。
サハリンからは8.2kaイベント以前から白滝へ黒曜石を採りに来ていた北方系の人々がいて、寒冷化イベント開始とともに、この寒冷地特有の石刃鏃技術と、その社会システムを学び、石刃鏃文化に代表される対寒冷化技術を生活に取り入れようとしたのではないか。
石刃鏃文化の受容とは
8200年前に突然始まった寒冷化によって恐れおののいた北海道縄文人たちは、食糧の確保に困惑したに違いない。植物食糧が減少し、それに伴ってたちまち動物資源も枯渇する。このままではこの地で生きていけない。多くの飢えた仲間が出ただろう。新しい土地を求めて死出の旅に出るべきかと悩んだはず。その時に、黒曜石採取のお得意様である石刃鏃文化人たちが北海道よりもずっと寒冷な土地に暮らしていることに思い当たり、その生活技術を学んでこの地で生き延びることに挑戦した。
本来学ぶべきものは、その食糧確保法や、防寒対策であり、住居や衣服の技術などである。
しかし、言葉の通じない間柄では、全てを模倣してその中で解決策を見出すことが最短だったのだろう。高度な熟練を要する芸術品のような石刃鏃の製作技術を修得しても食糧確保にはつながらない。これまでの黒曜石の剥片を鹿角で押し剥がした石鏃で十分事足りる。
北方で流行していた女満別式土器を作っても寒冷化対策にはならない。そして、黒曜石の流通システムを石刃鏃文化人の要望に応じるように変えたとしても食糧確保の改善にはつながらない。
それでも北海道縄文人たちが必死で自分たちを石刃鏃文化人化しようとしたのには、遺跡の中に、形には残らなかった生活技術を学び取り、それによって、8.2kaイベントとその余波を乗り切ることができたのだろう。おそらく大変な数の餓死者や、南への逃避者をも生み出したに違いない。
石刃鏃文化の伝播
寒冷期以前から黒曜石を採りに来ていた北方石刃鏃文化人は、オホーツク海沿岸を南下するとともに、沿岸の河口に停泊し、寒冷化のために必要となった石刃鏃文化の生活技術を、海岸沿いの村々に伝播し、その技術は沿岸の河口から河川沿いに上流にまで浸透していったことだろう。
北方石刃鏃文化人たちは、女満別付近で滞在することになった(女満別式土器の製作)。
ここで培われた文化の影響を受けた(浦幌式土器の)根室・釧路の人々が十勝・日高へと沿岸部を巡航しながら文化を伝播して行ったのだろう。
その文化伝承は、まるで宗教のように、まず、石刃鏃の生産技術と、浦幌式土器の生産からはじまった。
苫小牧市の勇払原野から札幌市の石狩平野へは川舟がつながっており、文化を運んだものと思われる。
富良野へは十勝平野から、美瑛・旭川へは東のオホーツク海岸へ流れる川筋を通って運ばれたのではないだろうか。
考えてみると、北海道で最も寒冷化が進んだのは、現在でも極端な寒さが訪れる道東地方であろう。
彼らは石刃鏃文化人化しながらも、獲物を求めて、オホーツク海沿岸部から内陸の旭川や美瑛に移動していったのではないか。
更には、飢餓に耐えられず、西へ、道央・道南へ。そしてついには、海を越えて東北北部にも食糧を求めて交易をしたのではないだろうか。
下北縄文人の地へ
最後に、下北半島尻屋崎青森県東通村北部海岸ムシリ遺跡である。1万4000年前の北海道最古の草創期土器をもたらしたのは8.2kaよりも6000年も前の東北北部の縄文人であり大変古くから頻繁に往来があったようである。
航海技術に長けた旧石器・縄文の人々は、二風谷から直接噴火湾を横断し、潮の流れに乗って恵山岬まで流され、潮の流れをうまくつかめる位置まで来ると、尻屋崎を目指して漕ぎ出した。
そのまま流されると八戸まで行くことができる。彼らはアオトラ石などの交換材を持って交易に出て、津軽半島のベンガラなどを手に入れていたのではないだろうか。この時期には、食糧資源を求めたのかもしれない。その時の交換材などとして持ち込まれたもののうち、石刃鏃が偶然残ったか、あるいは記念物、大切な貴重品のみやげとして、美しい石刃鏃を保存していたのかもしれない。
下北半島航路
今回初めて知りましたが、尻屋崎から大間町の海岸線には遺跡が沢山ありました。これまでは、渡島半島松前町から津軽半島を目指すコースが一般的で、うまく陸奥湾に入れずに流された人々が下北半島や八戸に到達したのだと考えてきました。が、そうではなく、恵山岬から大間-尻屋崎の陸地を目指すチャレンジコースも当然あったようです。 |
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148
※資料 青森県ムシリ遺跡
・北上・八戸地域~出土した縄文早期の黒曜石製石器の産地推定と考察 ・津軽海峡周辺域における縄文時代早期の測定年代と黒曜石産地推定
・ふるさとの宝物第60回黒曜石製石刃鏃 ・村の歴史 - 東通村 ・下北半島国定公園
ムシリ遺跡の石刃鏃
ふるさとの宝物第60回黒曜石製石刃鏃 引用青森県立郷土館ニュース
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大陸の息吹を感じさせる
黒曜石の石刃鏃。表(写真左)に記された「尻ヤ」の文字が裏(同右)からも透けて見える
石刃鏃とは、鏃[やじり]の一種、薄手の縦長剥片(石刃)を素材としその縁に加工を施される特異な形状からこのように呼ばれている。シベリアのアムール川流域を起源とし、ユーラシア大陸北東部に分布する大陸系の石器である。この石器の出現は約8000~7000年前頃と限られている。日本でも北海道北部から東部でこの時期(縄文時代早期)にのみ現れる。写真の資料は尻屋崎近く東通村ムシリ遺跡での採集品で、長さ39㎜幅11㎜厚さ25mm重さ1.2gと薄く小さい。光沢のある漆黒色の黒曜石で、明かりの下で見ると部分的に透き通る。黒曜石の産地を分析した結果は北海道東部にある置戸地区所山系であった。同様の産地の石刃鏃は渡島半島の長万部町富野3遺跡にても出土している。大陸の息吹を感じるこの資料が、どのようにして北海道からここまで辿り着いたか興味深いところである。ぜひ展示室で実見して考えを巡らせていただきたい。
(県立郷土館主任学芸主査 杉野森 淳子) |
村の歴史 - 東通村
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よく知られた遺跡
昭和20~30年代に、、野牛吹切沢遺跡(縄文)、尻屋ムシリ貝塚(縄文)、尻屋札地貝塚(縄文)、尻屋物見台遺跡(旧石器~縄文)などが発掘調査されました。
東通村では、132ヶ所の遺跡が発見されています。2~3万年ほど昔の旧石器時代の遺跡としては、尻労中野Ⅰ遺跡と尻屋物見台遺跡があります。 |
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※縄文時代交通の要所
東通村。こんな「最果ての・寒冷な・農耕不適な」土地が縄文時代には北海道と本州を結ぶ大動脈だった。村内には遺跡が点在し、いかに多くの人々が蝦夷島交易を行なっていたか。いかに多くの人々が、この海峡を挟んで移住を繰り返してきたかが、その遺跡の多さでわかります。
弥生時代以降に切り払われてしまったが、当時は下北半島の東海岸・頸部には広大なヒバの原生林が繁っていて、現在とは違って住みやすいところでもあったことでしょう。 |
下北半島国定公園
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西海岸の仏ヶ浦は、石英質に富んだ凝灰石が種々の侵蝕作用を受けて奇岩、怪石を形成しているもので独持の景観を呈している。
さらに南の焼山崎は、標高500メートルの焼山から急傾斜をなして海に没する断崖を有し、植生の安定していない崩壊地は赤色、黄色の岩肌を見せている。
人文景観としては、尻屋札地貝塚、ムシリ貝塚、大間ドウマンチャ貝塚等縄文時代の先住民の遺跡が海岸段丘上に見られる。また、恐山菩提寺は860年頃に開かれたもので室町時代に再興され、曹洞宗の寺院として現在に至っている。 |
下北半島先端の遺跡群
物見台遺跡 早期中葉
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青森県:下北郡東通村尻屋村物見台遺跡 [現在地名]東通村尻屋 物見台
尻屋崎の南南西約一キロ、津軽海峡に面する標高約一五メートルの低位段丘上に位置する。縄文時代早期中葉の遺跡。昭和二四年(一九四九)発掘調査が行われ、貝殻の辺縁による、幾何学的な文様の施された尖底深鉢形土器が多数出土した。 |
ムシリ遺跡 早期後半(ムシリⅠ式期)
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青森県:下北郡東通村尻屋村ムシリ遺跡 [現在地名]東通村尻屋 大平
津軽海峡に浮ぶ弁天べんてん島(旧称ムシリ)の対岸、標高約二〇メートルの低位海岸段丘上に位置する。縄文時代早期後半の遺跡。昭和二四年(一九四九)発掘調査され、篦状または竹管工具による幾何学的な平行沈線文をもつ平底の深鉢形土器が多数出土した。 |
吹切沢遺跡 早期中葉
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青森県:下北郡東通村野牛村吹切沢遺跡 [現在地名]東通村野牛 吹切沢
野牛沼の北東を津軽海峡に向かって張出す標高約30mの海岸段丘中段に位置する。縄文時代早期中葉の遺跡。昭和24年(1949)・翌25年の2度にわたり発掘調査され、炉跡を検出している。
アナダラ属の貝殻により施文された多様な貝殻腹縁文をもつ尖底深鉢形土器が多数出土した。
出土遺物に、砲弾形の尖底土器や擦切磨製石斧、局部磨製石斧、石槍、石鏃、石錘などの石器がある。
この遺跡から出土した土器を標式に、吹切沢式土器の名称が与えられている。
吹切沢式土器は、口縁下に刺突文を横走させ,胴部には貝殻の腹縁部を縦に押しつけた文様があり
貝殻腹縁圧痕文、貝殻条痕文、刺突文、沈線文、絡条体圧痕文などの文様を施文する深鉢形尖底土器である。(北海道の土器そっくり)
上記施文文様は資料「発掘ってなぁに」で検索すると出てきます。 |
※土器底の特徴
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平底土器は北海道東部の土器。
尖底土器は、東北地方の影響を受けた北海道西部の土器。すると、ムシリ遺跡は、北海道東部の文化圏となります。
貝殻文は関東から東北一帯に流行した施文方法。 |
※考察 ムシリ遺跡の住人
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縄文早期と言っても6000年あまりもあり、中葉、後半と言われても実際にはいつ頃を指すのかはわからない。
ただ、148の地図で尻屋崎北部海岸沿いに並ぶ明らかに海峡交通の灯台ともいうべき遺跡が、早期中葉の2つの遺跡が東北系の尖底土器であるのに対し、早期後半(8200年前以降)のムシリ遺跡だけは、道東地域の平底土器である。道東地方の文化を持った人々が交易ではなく居住のためにやって来て、定住したことがわかる。彼らが持ち込んで残したものは、道東平底土器と、石刃鏃1本である。 |
※黒曜石の特徴
ムシリ遺跡に言及する論文
北上・八戸地域~出土した縄文早期の黒曜石製石器の産地推定と考察 抜粋しています
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➀(この論文は)「貝殻沈線文系土器群が関東地方周辺から北海道まで広がった縄文時代早期において、黒曜石製石器の産地推定をもとに津軽海峡を挟んだ地域間関係を復元することを目的とする。」 ※これは、東北・北海道に関東地域の土器がもたらされたことを意味している。
②海峡間で黒曜石が運ばれたが、集団移住の証拠ではない。津軽海峡両岸での住居数の増減を調べ、度々の集団移住を証明した。
※旧石器時代から津軽海峡を挟んでヒトやものの往来や相互の移住が盛んであった。
a) 青森県内の縄文時代草創期の遺跡(大平山元遺跡等)では深浦産の黒曜石が主体的に用いられたが、同時期の北海道島にはほとんど搬入されていないため、「早期中葉」以前は海上交通が未発達であったと考えられる。
b) 津軽海峡を最初に黒曜石が渡った時期は「早期中葉」であり、その産地は深浦であったと考えられる。
c) 縄文時代「早期中葉」以降、太平洋側の六ヶ所村尾駮沼・鷹架沼周辺、および八戸地域で赤井川産黒曜石が主体的に用いられた。
以後、ムシリ遺跡採集の石刃鏃が置戸所山産であるというデータ(齋藤他 2008)が加えられた以外、青森県内における縄文時代開始期の産地推定事例は管見
の限り増加していないようである。
先行研究における縄文時代早期「中葉」・「後葉」を分析対象とする本稿では、上北地域(六ヶ所村周辺)、八戸地域の当該期の黒曜石製石器を取り上げて
b・c の推論の妥当性を検証するとともに、土器編年上の時期別推移を検討
※北海道へ深浦産黒曜石も運ばれたが、赤井川産が東北北部に持ち込まれた。ムシリ遺跡の置戸産黒曜石は例外である。ということらしい。 |
津軽海峡周辺域における縄文時代早期の測定年代と黒曜石産地推定
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(略)・・・また早期中葉の物見台式期には北海道南西部に本州北部産の(黒曜石が)、上北地方に北海道産の黒曜石が確認できたため、津軽海峡を挟んだ双方向の往来ルートが確立していた可能性が高い。 早期後葉のムシリⅠ式期には置戸所山産の黒曜石が見られ石刃鏃石器群との関係が窺われる一方、次段階の赤御堂式期には北海道の複数の産地が見られ、早期末葉には赤井川曲川産が大多数を占めるようになる
まず早期前葉から北海道産・赤井川産の黒曜石が青森県域に搬入されていることを指摘した。
また早期中葉の物見台式期には北海道南西部に本州北部(深浦)産の黒曜石が搬入され、上北地方(下北半島付け根。六ケ所村付近)に北海道産の黒曜石が確認できたため、津軽海峡を挟んだ双方向の往来ルートが確立していた可能性が高い。
早期後葉のムシリⅠ式期には置戸所山産の黒曜石が見られ石刃鏃石器群との関係が窺われる一方、
次段階の赤御堂式期(8000~7400年前)には北海道の複数の産地が見られ、
早期末葉には赤井川曲川産(曲川産地)が大多数を占めるようになる
早期中葉に貝殻沈線文系土器が本州から北海道まで北上したとみなされている点と(領塚 2008)、北海道産黒曜石製石器の出土量がこの時期以後に増加するとされていた点(福田2014)を踏まえたものである
津軽海峡を挟んだ地域間関係が最も強まり、双方向の地域間交流が想定されるのは、早期中葉のうちでも物見台式期と考えられるとした。
ただし北海道産の黒曜石が青森県域に搬入される数が増加するのは早期後葉以降(※ムシリ遺跡成立以後)であるため、海峡を挟んだ相互交流は継続していたと推定した
しかし同時に、津軽海峡周辺地域と東北南部以南における土器編年の対応関係に、看過できない相違点がある点も指摘した。
特に問題視されるのが、小林の設定する「S6 期」の位置付けが不明瞭な点である。
この段階は広域編年でいう早期後葉の開始年代を指すと思われるが、北海道の浦幌式、東北南部における槻木Ⅰ式を基準としているものの、これらに併行する東北北部の土器型式は何かが明らかにされていない。
結果的に、浦幌式と東北北部のムシリⅠ式(いわゆる早稲田 3 類土器)との併行関係(福田 2018)が反映されず、東北南部のみならず北海道との比較も難しい状況が生まれてしまっている
【早期後葉(前半)】 下北半島の先端に近い、ムシリ遺跡から採集された石刃鏃は置戸所山産(齋藤ほか 2008)であった。
表面採集資料とはいえ石刃鏃の帰属時期は限定されるし、主要な石材として置戸所山産が用いられている (藁科 1994、大塚 2020)ため、本段階のものとみな して良いだろう。
本稿で原産地推定の報告を行った、 八戸市の売場遺跡第Ⅳ層においても置戸所山産黒曜石 製の石鏃が出土している(青森県教育委員会 1985)。 層位的に見て、ムシリⅠ式期に位置づけられる可能性 が高い |
青森県埋蔵文化財調査センター 研究紀要28号
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また西目屋村の縄文遺跡群は、岩木川を下り日本海に出れば、津軽海峡を越え北海道へと水上の道がつながっている。
西目屋村の縄文遺跡群からは北海道産(赤井川・白滝・置戸・豊泉)の黒曜石や、神居古潭変成帯で採れた青色片岩や額平川流域産の緑色片岩(アオトラ石)で作られた磨製石斧などが発見されている。
西目屋村の縄文遺跡群から出土した北海道系の晩期縄文土器には上ノ国式(78)と聖山式(92)があるが、どちらも火山ガラス含んでおらず、製作地は特定できなかった。
白神山地に生きた縄文人は、広く北海道・東北中部・北陸の縄文人と交流を持っていた。今回の分析で、東北中部からやってきた人が故地の伝統や技術を生かして製作した土器(図3-11・12)の存在が明らかとなる一方、遠隔地からの搬入品と断定しうる土器は確認できなかった。(関根) |
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149※長万部町富野3遺跡 ムシリ遺跡と同じ石刃鏃出土
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※ムシリ遺跡の石刃族は、長万部町冨野3遺跡のものと同等のものであるということなので、写真を借りてきました。引用長万部町富野3遺跡
確かに、ムシリ遺跡のものとそっくりです。
石材は置戸所山産黒曜石を用いなければ作れないものです。音更町ふるさと館でも見ましたが、置戸産は美しい石材でした。
写真の石刃鏃は3点出土している。後の2点は別物と考えられている。私は折れたのではないかと思っています。だから合計5点。ガラスの鏃は実用性はないのではないかと思う。
これはもう、実用品というよりは、美術品、宝石に類する貴重品なのではないでしょうか。これらが実際に狩猟につかわれたとしても、一回きりの道具だったでしょう。週末縄文人氏が丹精して作った黒曜石石鏃も一回の使用で半分に折れてしまいました。遺跡からおびただしい石鏃が出土するのは、案外、使い捨ての道具だったからでしょう。しかし、石刃鏃は、当時の縄文人にとっては、美術品ではなかったのだろうか。 |
富野3遺跡の石刃と土器
※ |
富野3遺跡について
遺跡について短くまとめたページが見つからず、長大な発掘調査書を読まねばならないようですが、それは、ご勘弁頂いて、私見をまとめます。
置戸産の高級高品質の黒曜石を用いた石刃鏃は、各地に流通したのではないだろうか。
石狩低地の付け根、道南では少ない石刃鏃遺跡が、駒ケ岳テフラにまみれて出土している。北半球を襲った急激な寒冷化に食糧を奪われて餓死している時に、駒ケ岳が噴火し、火山灰をまき散らして更に動植物の調達を困難にさせる、縄文人は彼らの神に祈ったのかもしれない。北海道は最悪だっただろう。まぁ、にもかかわらず、道南地方では石刃鏃遺跡が少なく、寒冷化・食糧危機の影響をそんなに受けなかったのか、ただ単に石刃鏃文化が届かなかったのか、おだやかそうである。おそらく火山灰は苫小牧や石狩に流れたのではないか。
置戸産黒曜石で作られた石刃鏃は、おそらく、十勝平野や釧路平野などで製造され、その美しさが交易品となって、道央・道南地域に運ばれたのではないだろうか。長万部富野3遺跡には、珍しい交易品として、持ち込まれたのではないだろうか。
先端をとどめる3本の石刃鏃のうち、2本は無傷のままで、1本は下の方が折れて、残り2本は台形であるが、先端を欠いた石刃族と見え、試射したために先端が潰れてしまったのではないかと想像する。
富野3遺跡人は尖底土器文化人であり、石刃鏃文化人ではなかったようだ。道南の石刃鏃出土遺跡には、案外このようなかたちで非実用品として持ち込まれたものがあるのではないかと想像します。
結論としてムシリ遺跡人
ムシリ遺跡人は道東平底土器文化人である。釧路・十勝などから海峡を渡ってやってきて、海岸沿いに住み着いたのである。
もし、食糧を求めての難民であれば、たちまち、南部の森林地帯に散っていくだろう。海岸には食糧は少ない。ではなぜ、海岸にとどまったか、それは、このような場所でも食糧獲得の手段があったからだ。それは、交易によって得られる富によって食糧が入手できたか。あるいは、漁撈や海獣狩猟などで生活ができたか。詳細はわからない。時代はずっと下るが、
続縄文時代の寒冷期に沢山の北海道南部の住民が津軽半島から下北半島にかけて移住してきた。彼らは、内陸に入ったものもいたが、これら半島の北部海岸に集落を作って、その後も現代に至るまで住み続けている。これは、豊かではないが、海岸沿いのギリギリのところで踏ん張って生き延びたということかもしれない。
ムシリ遺跡人は、道東人であり、持ち込んだ石刃鏃は、長万部富野3遺跡のものと同等品であり、道東から、大切にして持ち込んだ宝物だったのかもしれない。
しらんけど |
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150石刃鏃 二ツ山遺跡第1地点遺物 標茶町五十石 縄文時代早期
※参考 石刃鏃の種類 引用コトバンク 以下に関係しています
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➀片抉り(かたえぐり)
バイカル湖以西の地では,沿バイカルのヒン文化,オビ川上流アンドレーエフ湖遺跡,中央アジアのケルチェミナール文化の石刃鏃は,その柄(石刃の長い部分)が片抉りのものである。
②斜めの柄
ザバイカル,アムール川上流,内・外モンゴルにかけて分布する石刃鏃は,斜めの柄をもつものである。これら以東のシベリア各地(アムール川中・下流域,ヤクート地方,極東地方)
③平らな柄,円い柄,作りだしの柄など
そして中国東北では,平らな柄,円い柄,作りだしの柄などの石刃鏃が分布し,北海道にまで達している。 |
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151二ツ山遺跡第1地点遺物(標茶町五十石)
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152
石刃槍:大きな石刃を元に製作された槍先。このような大型で薄い槍先へと加工するためには、高度な技術が必要であり、製作者の高い石器製作技術が伺える。
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掻器:石刃から作り出された。毛皮の加工などに使用されたと考えられる。 |
掻器
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片抉り入り
斜めの柄 |
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削器 |
石刃の両面を加工して作られた。 |
彫器
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丸い柄
作り出しの柄 |
※なぜ3地域特有の石刃鏃が一ヶ所から出土するのか大変不思議です。 |
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154石刃と石刃鏃
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石刃鏃:石刃を代表する石器。その名の通り、石刃の先端を加工し、形を整え弓矢の先に付けて使用した。
石刃:石刃は、様々な石器を作るための基礎となる石器で、石刃自体も刃物として使用した。 |
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石刃:石刃は、様々な石器を作るための基礎となる石器で、石刃自体も刃物として使用した。 |
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石鋸:砂岩製の石鋸と擦切った加工痕が残る磨製石斧用の原石。このように原石を石鋸で擦切り、磨製石斧を製作した。
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159
浦幌式土器 北海道石刃鏃文化人の土器 北方石刃鏃人は女満別式土器を使用した。
平底の土器
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石刃鏃文化の人々が使用した土器。この土器は炭素年代測定が行われており、BP7280±40となっています。
引用根室市/土器
縄文時代早期後半(約7,500年前)の土器で浦幌式(うらほろしき)土器とよばれています。 現在のところ、根室市内で一番古い土器であるとされています。
上からみると土器の口縁が隅丸方形で、植物質の軸に撚り糸を巻き付けて道具を押し当てて、口縁部に縄文をつけているのが特徴とされています。 |
浦幌式土器 |
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160二ツ山遺跡第3地点の遺物 縄文早期
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柳葉型尖頭器:
柳の葉のように薄い形状の石器で、左右対称に作られている。なお尖頭器とは石槍と同じ意味であるが、破損が全く見られず、使用痕がない。 |
※柳葉形尖頭器
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旧石器時代にはポイントと呼び、柳葉形・木ノ葉形・三稜などの種類がある。縄文・弥生時代は石槍と呼んでいる。引用「尖頭器」 |
北海道では美しく大きな柳葉形尖頭器を見ることがある。今後の博物館でも登場するのだが、
右の資料は、その大型柳葉形尖頭器の論文である。 後期更新世末期の本州中央部における両面加工狩猟具の変遷
石核
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尖頭器
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両面加工石器:黒曜石の塊を表裏面ともに、荒く割り取り、薄く仕上げている。 |
両面加工炻器
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石刃鏃
石刃鏃 |
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玉環(ぎょくかん):装身具の一種と考えられる。竪穴住居の床面より出土した。
※床の上に落として、土や敷物や、ゴミと一緒になってわからなくなっていたのかな。 |
上記 尖頭器 と石刃鏃の別角度の写真
石刃鏃 |
尖頭器(左端) |
石刃
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石刃鏃文化人の人々が使用する石器の母体となるのが、ナイフやカッターのように、単体の道具としても使用した。
下端の白い石刃鏃は頁岩で作られている。 |
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170縄文前期の塘路湖
6000年前
縄文時代前期頃の塘路ウライヤ遺跡周辺の様子
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縄文海進が最も進んでいた、約6000年前の標茶町塘路地区、ウライや遺跡越善地点周辺の様子を、想像も踏まえ再現している。
当時、サルボ展望台と塘路市街の間には大海原が広がっていた。阿歴内周辺(あれきない)まで海が続き、ウライヤ遺跡越善地点は、海に突き出た岬となっていた。
縄文時代前期の住居は2軒確認されており、倉庫のような小屋もあった。遺跡から丸木舟は発見されていないが、おそらく漁をするために使っていたと考えられる。森の中には今と変わらぬ動物たちがいたことだろう。 |
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縄文時代前期頃の塘路ウライヤ遺跡周辺の様子
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173釧路湿原と縄文海進
撮影地 標茶町萱沼地区
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萱沼地区の高台より、シラルトロ沼北側の釧路湿原を撮影。
現在は中央を流れるシラルトロエトロ川の周囲に湿原が広がっているが、6000年前には、海水が入り込み大きな湾となっていた。 |
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釧路湿原と縄文海進 |
現在の湿原 |
6千年前、海湾を再現 |
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サルボ展望台から見た縄文海進
撮影地 標茶町塘路地区(サルボ展望台北側より南方向を望む)
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サルボ展望台から見た塘路市街と、6000年前の縄文海進時の同じ場所を再現した。
6000年前には塘路湖は海の一部となり、塘路市街とサルボ展望台の間には、遠浅の海が広がっていた。 |
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175ジオラマ
縄文前期6000年前のウライヤ遺跡越善地点の復元
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180縄文前期 (約6000~5000年前)
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181内湾と河川、湖沼が支えた縄文の暮らし
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縄文期の標茶町に大きな影響を与えたのは、「縄文海進」と呼ばれる海水面の上昇であった。
温暖化が進んだことに伴い海水面が上昇し、縄文前期、約6000年前にピークを迎える。この時、現在の湿原域に海水が入り込み広大な内湾が生まれた。
標茶南部は湾に面した遠浅の海岸が続き、人々は海の恵みを糧に海岸線近くに住居を構えた。
縄文後期、約3000年前に海水は退き、湿原化へと向かった。かつての海岸線は湿原縁へと変化。
釧路湿原は海退後、西高東低の隆起により、釧路川は湿原東側に流路を取るようになり、海跡湖沼として塘路湖やシラルトロ沼が残った。
自然環境は大きく変わったが生活環境は維持され、以前と同様に人々はこの地で生活を営んだ。 |
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182縄文時代前期(6500年~5000年前)
縄文時代前期の遺跡
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縄文縄文時代前期の遺跡は標茶町内で発見されているが、早期に比べ発見された遺跡数は少ない。
塘路地区で発掘調査された前期の遺跡では、湿原の縁に住居や墓の跡が見つかっている。
当時湿原海だったと考えられることから、海岸縁に住居を構え、海産物等を採りながら定住生活していたと考えられる。
※釧路湿原は東側はなだらかな岸辺で、西側、北斗遺跡側は急峻に切り立っている。標茶側は住みやすく、漁撈もしやすかったようだ。 |
縄文前期の遺跡
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縄文前期 |
・縄文海進最高潮。現在より温暖。五十石・南標茶まで海水流入。(古釧路湾の発達) |
縄文時代前期の自然環境
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縄文時代前期の頃は、早期よりさらに気温が上昇し、この辺は現在の東北地方にある石巻市付近と、同じような気候だったと考えられている。
海水面の上昇が最も進んだ時期でもあり、現在よりも3~5mほども高くなったと考えられている。
この現象は日本で「縄文海進」とも呼ばれているが、世界規模で起こった出来事である。 |
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1834ウライヤ遺跡越善地点
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東釧路Ⅴ式土器を伴う土坑
ウライヤ遺跡越善地点
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縄文前期と考えられる土坑。
2.7×2.3m。
深さは掘り込み面から70cm。
土器は土坑の中央で発見された。写真左手に腰掛のような盛り上がりがあることが特徴。
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東釧路Ⅴ式土器の出土状況 ウライヤ遺跡越善地点
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展示中の東釧路Ⅴ式土器の出土状況である。土器がつぶれた状態で出土し、いくつかの破片が折り重なっていた。
一部の土器片は粘土状に変化し、取り上げることが難しい状況であった。 |
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184ウライヤ遺跡越善地点 引用洞爺湖町の遺跡をもっと知りたい方は - 北海道教育委員会
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標茶町 ウライヤ遺跡越善地点
調査理由: 開発事業(電波塔建設)
調 査 地:標茶町字塘路ウライヤ 35 地先
調査主体:標茶町教育委員会
調査期間:平成 22 年 5 月 10 日~平成 22 年 6 月 14 日
調査面積:55 ㎡
調査の概要
ウライヤ遺跡越善地点は、塘路湖と釧路川を結ぶアレキナイ川右岸の低位河岸段丘面に位置し、塘路湖に面する川口から川に沿って細長く包蔵地が広がるものと予想されています。今回の調査地点は、図示したとおり、塘路湖とアレキナイ川に面しており、川からの距離がおよそ 60m、標高 8~9mほどの台地先端部にあたります。
本遺跡では、これまでの分布調査や公共下水道事業に係る発掘調査によって、縄文前期~後期、続縄文期、擦文期にわたる幅広い時期の遺構、遺物が確認されています。
発掘調査の結果
遺構としては竪穴状遺構1基、土坑 2 基、墓坑 1 基が検出されました。
遺物総数は 1,119 点。土器には、縄文前期、中期、続縄文期、擦文期のものがあり、
そのうち前期の土器が最も多く出土しています。石器は、石鏃、石匙、磨製石斧、砥石など 33 点でした。
検出された竪穴状遺構は、上層に Ta-a、ko-c2が堆積しており、層序の観察によると時期的には擦文時代と考えられます。
大きさは幅 2.3mで、長さは調査範囲内で 7mです。
土坑 2 基は縄文早期と考えられ、墓坑は、長軸 1.25m×短軸 0.9mの楕円形で、縄文早期~前期のものと考えられます。墓坑の底面にはベンガラが堆積し、人骨の歯部分のみ取り上げる事ができました。
今回の成果は、現在でも未発掘の包蔵地が残竪穴状遺構全景 される塘路湖周辺地域において、今後に生かす事のできる新しいデータが得られたものとして評価されるでしょう。なお、本調査の報告書は、平成
22 年度末に刊行する予定です。 |
ウライヤ遺跡越善地点 |
遺跡発掘
擦文期竪穴状遺構 |
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190石器 |
191ウライヤ遺跡越善地点出土遺物 標茶町塘路 縄文前期
石匙
第1号住居 覆土
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石匙は、つまみ付きナイフとも呼ばれる。
基部に紐をくくり付けるための加工が施されている。 |
掻器 第1号住居 覆土
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右の資料は途中で折れているが比較的状態の良い黒曜石製掻器。
町内の遺跡で掻器は多く見つかっている。
冬の寒さを乗り越えるために毛皮の確保は必須であり、毛皮鞣しの道具である掻器を多く使ったのだろう。 |
削器
第2号住居 覆土
床面付近
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両面加工された黒曜石製の削器。
一部原礫面を残すが、形状は木葉形に整えられている。 |
掻器 第2号住居 覆土
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微小剥離痕ある剥片 第2号住居 覆土
床面付近
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黒曜石の薄い剥片を刃物として利用したことにより、側縁に微細に欠けが見られる。
こうした二次加工のある剥片は多く見られる。 |
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192縄文時代前期の遺物
石鏃
第1号住居 覆土 |
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平らな基部を持つ黒曜石製石鏃。
右端の資料のみ下半分が欠損している。 |
石槍 第1号住居 覆土
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本資料は、付け根部分を残して多く欠損している。再加工もむつかしいことから遺棄したと考えられる。 |
石鏃
第2号住居 覆土
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石匙
第2号住居 覆土
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193
石匙
第1号住居 覆土
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頁岩製石匙。標茶町内で出土する石匙は、黒曜石で作られる他の打製石器とは違い、多くが頁岩製。
頁岩は黒曜石より切れ味は劣るが、割れにくい。
道具の用途に合わせて石材を選択したのだろう。 |
石鏃
盛土遺構
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桜ケ丘2式土器 第1号住居 覆土
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桜ケ丘2式土器
盛土遺構
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195砥石 ウライヤ遺跡越善地点
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大型の砂岩を用いた砥石。
石斧の河口や研ぎ石などとして使用された。
竪穴住居の床面から出土している。 |
砥石(砂岩) |
砂岩製の砥石。
平らな面のほぼ全てを砥面として使用しており、石皿のようにも見える。 |
被熱痕の残る礫
炉石の一部 |
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熱を受け、黒い焦げや赤く変色した痕跡が残る礫。
竪穴住居や屋外でのたき火の際に、炉の一部として使用されたのかもしれない。 |
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200縄文時代中期(約5000年~4000年前)
縄文時代中期の遺跡
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この時期は内湾が消え、次第に潟湖へと変わっていく大きな環境変化があった。
これまでと同様、河川や湿原縁で生活する人々も多かったが、この変化に対応するように、河川沿いに内陸へと移動する人々も現れた。
標茶では、この時期の遺跡が最も多く発見されており、町内の広い範囲で遺跡が発見されている。 |
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縄文中期の遺跡 |
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縄文中期 |
・現在ほぼ同じ気候だったと考えられる。
・標茶町で最も遺跡数の多い時代。 |
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201縄文時代中期の自然環境
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縄文時代中期になると、少しずつ気温が低くなり、現在に近い気候となった。
気候の変化により海水面が低下し、現在の釧路湿原域において地形が東側に傾く傾斜運動が起こったのも、この時期と考えられている。
これらの影響により古釧路湾は面積が小さくなり、汽水※1から潟湖※2へと変わっていった。
塘路湖やシラルトロ沼は、まだ海の一部だったと考えられるが、このときの地形変動の影響により、海跡湖として残されることになった。
※1海水より塩分の少ない水のことを指す。淡水と海水が混じる河口に多く見られる。
※2湾が砂州によって隔てられて湖沼となった地形のこと。日本では、サロマ湖や八郎潟などが代表的な潟湖。 |
縄文中期の自然環境 |
海岸線 |
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北筒Ⅱ式土器の出土状況
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時 期:縄文中期
撮影地:ウライヤ遺跡越善地点(標茶町塘路地区)
竪穴住居の覆土中(住居の上に積もった土)~発見された。写真以外の部分からも発見され、形を復元して展示している。
(廃棄された住居の上に壊れた土器を放り投げて、あちこち散らばった、、のを発掘して集めて、復元した。)らしい。しらんけど。 |
北筒Ⅱ式土器 |
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北筒Ⅱ式土器の出土 |
北筒式土器の特徴は口縁部に円形刺突文がぐるりと一周していること |
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210縄文中期の遺物 |
211石器
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石槍 鴨沢遺跡(標茶町新栄) 遺物包含層(縄文中期)
黒曜石製の槍先。木製の柄の先端に固定し、動物などを獲るために使った。
鴨沢遺跡の付近には河川も多いため、石槍以外にも魚を獲るための銛先として使ったとも考えられる。 |
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掻器 萱沼第2地点第8号住居覆土
黒曜石製の掻器。展示している2点共に途中で折れている。内皮から脂肪を描き取る作業は、掻器に強い力が加わる。そのため折れたのだろう。
石鏃 開運遺跡 遺物包含層
形がややいびつな石鏃が多いが、これは石槍などの破片品を何度も加工して使い続けた為に、形状が変化したと考えられる。
また、右の2点は石鏃としては大型であることから、小型の石槍か、魚を捕る石銛として使ったものかもしれない。 |
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213
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215開運町遺跡の石器 標茶町市街
石槍
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黒曜石を使って作られた石の槍先で、柄の先端に固定するなどして使用した。
この付近では縄文時代中期の遺跡から数多く見つかっており、また大型の石槍も見つかっている。
より内陸へと生活範囲を広げた縄文中期の人々が、陸上動物などを捕獲するために使ったと考えられている。
標茶の南側には古釧路湾が広がっていたため、比較的この手の石槍は、魚を取るために 石銛の 銛先として使ったものもあったと思われる。 |
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石槍
開運町遺跡
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磨製石斧
開運町遺跡
第3住居床面
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異形石器:開運遺跡 遺物包含層
メノウ製の石器で、東部より舌を細かく整形し、作られている。用途不明。 |
異形石器
開運町遺跡
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メノウ製。頭部より下を細かく整形して製作。用途不明。 |
矢柄研磨器
開運町遺跡 |
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弓矢の中柄を研磨する砥石 |
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216モコト式土器 中期初頭 金子遺跡(標茶町茅沼) 遺物包含層出土
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北海道東部を中心に分布した北筒式土器の中でも最も古い時期に出現した土器。中期初頭と考えられる。口縁部の粘土を折り返し、指の腹で調整している。 |
藻琴式土器 引用「帯広百年記念館収蔵 縄文ギャラリー」
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中期になると、土器に突起が付けられたり、粘土ヒモの貼付けによって表面が装飾された「モコト式」土器が作られるようになります。
その後、「北筒式」と呼ばれる筒形器形で円形刺突文に特徴があるグループが広がります |
引用大空町の縄文中期
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中期前半は、前期から続いてきた平底の押型文土器は、一部地域では残されていたようですが、
道東部の地域に新たに「モコト式」と呼ばれる土器が現れました。
中期後半になり、涼しい時期になると「北筒式」土器があらわれてきます。
北筒式土器は、
「➀土器を作る粘土の中に植物繊維が含まれているもの」、
「②口縁に厚い帯状の粘土紐がつけられ、そのすぐ下に円形の刺突文がつけられるもの」、
「③口縁に4、6、8、12個ほどの山形の突起がつけられるもの」など、時代とともに口縁の形も変化をみせてきます。古いほうから新しい時期に向かい、5つの時期に区分されています。 |
モコト式土器の形状引用「北筒系土器の変遷と展開」
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モコト式は、口縁部に刺突文・押引文・沈線文や、上部に刺突文や指頭・縄側面の押圧文が施された貼付帯を有することが特徴である。
平口縁と波状口縁の両者があり、胴部にふくらみをもち口縁部にむかって開く器形が一般的で、地文は基本的に単節の斜行縄文である。 |
引用「テキスト/中期の土器」
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道東北部には、北筒式土器とそれに関連する土器群が分布する。その前段階として、網走市のモコト遺跡から出土したモコト式土器がある。
モコト土器は、胎土に繊維を多く含み、地文は無節もしくは単節の縄文が付される。文様は口縁部に集中し、押し引き文や刺突文、沈線文などが多い。また垂直に粘土帯を貼りつけ、その上にも押し引き文や刺突文を加える。器形は円筒形で平底となる。 |
モコト式土器 |
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217ウライヤ遺跡越善地点出土(標茶町塘路)
石鏨(いしたがね)
遺物包含層
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全面にわたって磨かれている石たがね。
本町での出土は、この1点のみである。
緑色片岩で作られている。 |
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218
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磨製石斧
開運町遺跡(標茶町市街)
遺物包含層出土 |
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石匙 ウライヤ遺跡越善地点 第4号住居址出土
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石匙
ウライヤ遺跡越善地点
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黒曜石製の石匙で、形状は石槍によく似ている。 両面ともに丁寧に調整されており、 ほぼ未使用に近い |
磨製石斧
開運町遺跡(標茶町市街)
遺物包含層出土
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磨製石斧
開運遺跡
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どちらの磨製石斧も先端が砕けている。
なお右側は 変質安山岩で作られており、 柄との装着部が黒く汚れ ている。
また右側は緑色片岩を使い製作された。 |
つまみのある削器
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つまみのある削器
ウライヤ遺跡越善地点
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薄い剥片を原材として右側縁に刃部が作られている。 なお裏面の刃部調整は無く片刃。 簡単なつまみが作出されている。 |
敲き石
ウライヤ遺跡越善地点
第4号住居址
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堅果類等を潰すときなどに使用された道具で安山岩で作られている。 |
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230土器の出現と使用
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縄文時代から使用した土器の出現は、生活を変えた大きな発明品だった。直接、火にかけることのできる土器により、煮込み料理が可能となったのである。それまでの調理方法は、「焼く」か「蒸す」事しかできなかったと考えられる。
展示されている土器を見ると底が抜け、口縁(土器の口付近)付近が黒く焦げ付いた土器がある。
これは煮炊きに使った際に、直接火が当たる底付近がもろくなり失われたことと、土器を使って煮炊きの途中に吹きこぼれ、口縁部に焦げ付いたためと考えられる。
土器が使われ始めた当初は、深鉢と呼ばれる寸胴鍋のような形の土器しかなかったが、徐々に多様な形や大きさの土器が作られた。
北海道では、土器を擦文時代まで使い続けた。 |
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231竪穴住居跡の窪みに残る残雪
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標茶町では縄文時代の人々が堀った円形の竪穴住居跡が、現在でも埋まりきらずに残されている遺跡がいくつかある。
この横川遺跡第2地点もその一つで、縄文時代中期~後期と考えられる住居跡の窪みが60カ所以上見つかっている。 |
竪穴住居跡に残る残雪 |
桜ケ丘2式土器出土
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埋蔵文化財包含地の看板
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240縄文土器 |
241上段 引用帯広百年記念館収蔵 縄文土器
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上段
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女満別式押型文土器(北方からやって来た石刃鏃文化人が作った土器)
縄文時代早期 8500~8000年前 二ツ山遺跡第3地点、標茶町五十石地区
スタンプ状の器具を使って施したと考えられる「押型文」が口縁部に3段にわたって付けられている。
その下には貝殻などを使ったと考えられるスジ状の条痕文がみられる。
「東釧路Ⅰ式土器」は筒形・薄手で、土器の表面に繊維質の工具で横方向に擦ったあとが残された特徴をもつグループです。同じような特徴の土器は北海道西南部にも分布します。 |
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東釧路Ⅱ式土器 縄文時代早期後半8000年前 元村遺跡 標茶町塘路地区
縄文時代早期の土器で、釧路市東釧路貝塚で発見され、名付けられた土器である。
細い縄文の原体を使用し文様を付しているほか、粘土の紐を付けた隆起帯や、
何らかの道具を使って付けられた刺突文などが見られる。
また元村遺跡出土の東釧路Ⅱ式土器は、土器の縁にあたる口唇部にも刺突文、押し引き文等の文様が
付されている。
元村遺跡の発掘調査報告書では東釧路Ⅱ式土器と区別し、本村式土器と名付けることが提案された。
約8000年前になると、「東釧路Ⅱ式」と呼ばれる縄文が多用された土器が道内各地に分布するようになります。この土器は縄文のほかに、押引き文や貼付け文、刺突文など多様な文様が組み合わさるのが特徴です。このグループの土器は帯広市大正8遺跡からまとまって出土しました。 |
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東釧路Ⅱ式土器 縄文早期後半 元村遺跡
口縁部から胴部上半にかけて残されていた土器で、細かい縄文の原体を使用し
横方向や斜め方向に文様を付されている。
また口縁部下に補修孔が開けられていることから、一度割れた後も補修して使ったのであろう。
なお底部は平底であったと推測される。 |
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東釧路Ⅲ式土器 縄文時代早期後半 飯島遺跡 標茶町五十石地区
小ぶりではあるが、全体の形が残っている状態の良い土器である。
様々な技法を使い縄文の文様が付されているほか、粘土の紐を使った隆起帯も施されている。
Ⅱ式の形や文様が変化して「東釧路Ⅲ式土器」へ移行し、さらに表面に細い粘土ヒモをいく段にも貼り付け、その間に細かな縄文を施文した「中茶路(なかちゃろ)式」土器へと変遷します。 |
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中段
243東釧路Ⅲ式土器
縄文人の指の跡
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この土器の口縁部裏側には、縄文人が制作する際に土器の形が歪まないように、指で押さえた跡がはっきりと残っています。
こうした調整は現在の陶芸でもよく見られますが、当時の人々も同じように製作していたのでしょう。
この時は約7000年前の土器ですので、7000年前の人の指紋といえます。 |
東釧路Ⅲ式土器 縄文時代早期 飯島遺跡
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縄文時代早期の土器で、釧路市の東釧路貝塚で発見され名付けられた土器である。
東釧路Ⅱ式土器の後に続く土器と考えられている。
全体の形が残っている非常に状態の良い土器で、様々な技法を使い縄文の文様が付されている。
またこの土器は、胴部上半まで炭化物が厚く付着している。おそらく何度も食事の際に使われ、食べ物がおこげなどとして、こびりついたのであろう。
東釧路Ⅳ式土器は体部の縄文が羽状に施文されることに特徴があります。 |
中段
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東釧路Ⅲ式土器
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縄文人の指の跡 |
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縄文人の指の跡 |
東釧路Ⅲ式土器 |
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※ |
東釧路式土器Ⅰ~Ⅳは縄文早期の土器。東釧路貝塚の貝層下から出土しました。貝塚以前の遺跡
東釧路Ⅴ式土器は、縄文前期の土器です。東釧路貝塚貝層中から出土しました。貝塚集落の遺物 |
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244東釧路Ⅴ式土器 縄文時代前期
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東釧路Ⅴ式土器 縄文時代前期 ウライヤ遺跡越善地点
縄文時代前期の土器で釧路市の東釧路貝塚で発見され名付けられた土器である。
大変もろい土器で、他の遺跡で発見された東釧路Ⅴ式土器の中には、破片しか取り上げることができない場合もあった。
この土器も発見当時は大変モロかったが、特殊な溶液に浸して強度を上げ、土器復元がされた。
この土器の特徴は、縄文を使わず、スタンプのようなものを押し付けて文様をつけることが特徴で
それ以外の土器表面は丹念に磨かれている。
底の部分はなくなっていたが、お釜の底のように丸底だったと考えられている。 |
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桜ケ丘Ⅱ式土器 縄文前期 ウライヤ遺跡越善地点、
縄文時代前期に使用されたと考えられる土器。円筒形の土器で上部は残っていなかった。
胴部に開けられた穴は補修孔である。
また土器の底にも同様の大きさの穴が開けられている。
単純な単節縄文が付されており、焼きがしっかりとした土器である。 |
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桜ケ丘Ⅱ式土器 縄文時代前期 ウライヤ遺跡越善地点
縄文時代前期に使用されたと考えられる土器。底を除いた胴部~口縁部分が出土した。
口縁部を回るように2本の沈線が施され、さらにその沈線の中に円形の刺突文が施されている。
なお全体に縄文が付されているが、土器の内面にも同様の縄文が施されている。
同様の土器は、釧路市の「桜ヶ丘2遺跡』や『武佐川1遺跡』などで出土しているが、
出土例は多くない。
なおこの土器は名前がつけられていなかったが、ウライヤ遺跡越善地点の発掘調査報告書で『桜ケ丘Ⅱ式土器』と名付けられた。 |
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※資料 桜ケ丘遺跡と円筒土器
桜ケ丘遺跡、桜ケ丘2遺跡、桜ケ丘Ⅰ式、桜ケ丘Ⅱ式、また、桜ヶ丘も含めて、北海道上川郡下川町内の遺跡であると思われます。
桜ケ丘遺跡や桜ケ丘式土器についての資料がありません。ただ、桜ケ丘Ⅱ式土器は、円筒土器に見えます。
引用「縄文時代前期末から中期の土器-北見市」
北見市オホーツク海沿岸では、縄文時代前期末から中期、後期初頭にかけて円筒土器が流行した。
引用「函館市/函館市地域史料アーカイブ」
円筒土器
尖底土器や絡縄体圧痕文の平底土器の時代を過ぎると、円筒形で樽形の縄文土器の時代となる。
函館周辺では、縄文時代前期から中期に栄えて次の新しい土器の時代を迎える。
この分布は北海道の南部から次第に道央、道東北部にも伝播するが、本州では青森県を中心に秋田、岩手に広がって行く。(青森から拡散した文化)
土器の基本形が円筒形であるため円筒土器と最初に呼ばれ、遺跡の性格や遺物の編年、分布圏などによって、これを円筒式土器文化と呼ぷ。住居や集落も発掘例が多くなり、文化の性格も特徴がはっきりしてきている。(引用終了)
と、あり、桜ケ丘Ⅱ式は、やはり円筒土器の系譜らしい。標茶町釧路湿原にも前期末には円筒土器が始まっていた。
円筒土器は
➀円筒土器が青森を発祥地として南北に拡大していった。
②北海道南部では縄文前期の土器で、中期末には終了する。
③道東では前期末や、中期、あるいは中期後半からとする円筒土器の開始説があった。
④円筒土器は、北海道式円筒土器=北筒式のこと。
⑤縄文時代中期後半~後期初頭。約4500~4000年前。
※情報皆無の桜ケ丘Ⅱ式円筒土器と、北筒式(北海道円筒土器)とのつながりについては論究されていない。 |
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中期になると、土器に突起が付けられたり、粘土ヒモの貼付けによって表面が装飾された「モコト式」土器が作られるようになります。 |
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その後、「北筒式」と呼ばれる筒形器形で円形刺突文に特徴があるグループが広がります(これは十勝地域での北筒式の開始時期) |
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※資料 円筒土器と北筒式土器
調べていくうちに、北海道での「円筒土器」と「北筒式」が区別されているように感じ、少し、触れてみます。
円筒土器
北筒式土器
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245北筒Ⅱ式土器 縄文時代中期 茅沼遺跡第2地点 標茶町茅沼地区
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標茶町では多く発見されている土器である。口縁部に山形の突起を持ち、その下には肥厚帯がめぐる。
肥厚帯の下には、円形の刺突文が施され、続いて縄文が施されている。また土器は厚みがあり、粘土の中に植物の繊維が大量に混ぜられていいます。
底は平底になっていたと考えられる。 |
土器に含まれた繊維質
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この時期の土器には、植物の繊維や砂利などが、大量に粘土の中に混ぜられています。
これは当時の人々が、土器を作る際に割れにくくするためつなぎとして入れたと考えられています。
赤枠内に、粘土に混ぜられた植物が焼けて炭化している状態が見える。 |
北筒Ⅱ式土器 |
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北筒Ⅱ式土器 |
土器に含まれた繊維質 |
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小砂は可視・繊維不可
写真解像度低し
口縁下に刺突文 |
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246下段
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247
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北筒Ⅱ式土器 縄文時代中期 開運町遺跡(環状住居跡群)
土器に多くの砂を混入して作られており、表面が剥落した箇所からは、
砂粒が見られる。
底の部分は失われているが、他の北筒式土器同様に平底だったと考えられる。 |
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北筒Ⅱ式土器 縄文時代中期 ウライヤ遺跡越善地点
北筒式土器は比較的大きな土器が多いが、この土器は底が失われているが
残っている部分で、高さ48.5cmを測る。
これは標茶町郷土館で所蔵している土器の中でも最も大きい。
なおこの土器は煮炊きに使用した後、割れてしまったようで、
縄文人が土器に穴を開けて紐で結び、再利用した跡が残っている。
この大きさから木の実などを保管する容器として使用したのかもしれない。 |
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北筒Ⅲ式土器 縄文時代中期 茅沼遺跡群 (北筒Ⅲ式期住居跡)
部分的にもろい場所があるが、底部を除き大部分が発見された土器である。
口縁部に肥厚帯を巡らし、4つの突起がつけられている。
Ⅱ式とにているが、縄文の種類や施文方法、粘土に混ぜる混和剤などが異なることで区別されている。 |
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北筒Ⅲ式土器 縄文時代中期 茅沼遺跡群
北筒Ⅱ式土器の後に続くどき。口縁部を回る肥厚帯はなく、
棒状の突起のように作られた肥厚帯があるのみである。 |
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北筒式土器 縄文時代中期~後期 上田信広第一遺跡 標茶町下御卒別地区
北筒Ⅳ式土器に属する土器と考えられる。
底部は失われているが、平底だったと考えられる。
底部が残っていれば推定28cmほどの器高だったと思われる。 |
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御殿山式土器 縄文時代後期 マサコヤノシマ遺跡 塘路地区
縄文時代後期の土器。出土当初は破片として一定の範囲に散らばっていた。
口縁部を巡るように土器の内側より刺突文が施され、全体に単節縄文が地文として施文されている。
標茶町では縄文時代後期の遺跡が少なく遺物数も少ない。
全体の形が復元できた唯一の土器である。 |
御殿山式土器 後晩期、大洞式とは別系統 青森から来た土器のようだ、
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250縄文時代後期(約4000年~3000年前)
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251縄文時代後期の遺跡
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縄文時代後期の遺跡は町内で見つかっているが、その遺跡数は少ない。塘路湖南岸のマサコヤノシマ遺跡では、多くの土器片が出土している。
この時期は現在よりも気温が低く、生活するのには大変な時代だったと考えられている。釧路地域全体においても、縄文時代中期に比べて遺跡数が低下する時期であり、人口数も減少したのではないかとも考えられている。 |
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寒冷化、遺跡減少 |
・現在よりも気候が冷涼になった時期。遺跡数が減少する。
(人がいなくなった。沢山の餓死者が出たか。)
・釧路湿原が発達する。
・樽前山の噴火。標茶に火山灰を降らす。 |
縄文時代後期の自然環境
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縄文時代後期になると、海水面の大きな変化はなくなり、現在に近い状態となった。海岸線も現在と同じような位置になったと考えられる。
ただし気温は現在よりも平均に低下し、寒冷な気候となった。この気候の変化は、生き物たちの生活に大きな影響を与えたと考えられている。 |
縄文後期の自然環境 |
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釧路湿原の乾燥化
湿原南岸に砂丘発達 |
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マサコヤノシマ
杣(マサ)小屋の島 |
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260出土遺物 |
261縄文時代後期の遺物 マサコヤノシマ遺跡
石核
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全面に亘り何度も黒曜石片を割り取り、残された石核。
黒曜石は貴重品だったことが伺える。 |
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石鏃
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この石鏃を含め、後期の遺跡から出てきた石器はいずれも小さい。
貴重な黒曜石を何度も再利用し、使われたのかもしれない。
※こんなに原産地の近くでも黒曜石を入手できなくなったのか。どんな暴君が産地を支配したのだろう。 |
石錐 |
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縄文後期の土器 引用「札幌市中央図書館 後期の土器」
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・・・後期前葉、(寒冷化のため、北海道東・北部ではほとんど遺跡が見つからない)
後期後葉では、長沼町幌内堂林遺跡出土の土器を標式とする堂林式土器と、その流れをくむ静内町御殿山遺跡出土の土器を標式とする御殿山式土器、斜里町朱円環状土籬遺跡出土の土器を標式とする朱円式土器などがある。
堂林式は、斜行・羽状の縄文を地文として、平行沈線文、弧線文、渦巻文、曲線文、磨消縄文、突瘤文などが組み合わさり、精製・粗製の二種類がある。精製土器には貼瘤文が付されるものもある。
御殿山式、栗沢式はともに墓地遺跡から出土した土器である。 前者は
斜行縄文に沈線文、磨消縄文、列点文などをもつものと、
三叉文や丈の高い注口土器を含むものとの二群に分けられる。
栗沢式も磨消縄文、貼瘤文や奔放な曲線文、三叉文などがあり、御殿山式の後者に近いグループでともに縄文後期終末に位置づけられている。 |
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262御殿山式土器
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釧路管内では、縄文時代後期の遺跡が少なく、貴重な土器である。
バラバラに割れ、地面に散らばった状態で検出された。一部は風化のため、土へと還元していた。 |
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静内御殿山墳墓群(新ひだか町)
縄文後期~晩期の配石を伴う数十に及ぶ大規模墳墓群。石器・土器・装身具、などの副葬品を出土した。
ケルン様墳墓型式の積石が80あまり発見された。ほか、住居跡・土壙・落し穴も検出。最大は高さ21cmの精巧な土偶である。
※配石墓は一般的だが、小石を積む墓 ケルン墓は初めて聞く。どこか中央アジアの系譜の人々がやって来たのだろうか。 |
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御殿山式土器
縄文後期
マサコヤノシマ遺跡 (標茶町塘路地区)
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釧路管内では、縄文時代後期の遺跡が少なく、
貴重な土器である。 |
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263御殿山式土器
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縄文時代後期の特に後葉を主体とする遺跡は、標茶町内のみならず、釧路地方ではあまり発見されておらず、よくわかっていない。
町内では、堂林式 (堂林遺跡) 御殿山式土器片が採集されている。 |
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堂林遺跡 夕張郡長沼町字幌内
馬追丘陵を横断する国道二七四号の南側、標高約50mの小河岸段丘上に立地する縄文時代後期末の遺跡。発掘調査は昭和35年(1960)4月と9月に長沼町教育委員会によって行われ、A-D地区の合せて66㎡が調査された。発掘の結果、縄文後期末葉の深鉢、鉢などの口縁に内側から突刺して表面に小さな瘤をつくる粗製土器(突瘤文土器)と、沈線文や磨消縄文が発達した壺や浅鉢などの精製土器が組合わさって出土し、堂林式土器と名付けられた。
堂林式土器
縄文後期末葉の深鉢、鉢などの口縁に内側から突刺して表面に小さな瘤をつくる粗製土器(突瘤文土器)と、沈線文や磨消縄文が発達した壺や浅鉢などの精製土器がある。 |
御殿山式土器
マサコヤノシマ遺跡 |
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上部が失われているが、ほぼ完形に近い小型の壺形土器 |
御殿山式土器 |
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土器製作の際に、現在の陶芸でもみられる輪積み法を使って作られたことがよくわかる資料。
粘土を紐状にして積み重ねているが、接合が不十分だったため、規則的に横断するように割れている。 |
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270縄文時代晩期(約3000年~2300年前)
縄文時代晩期の遺跡
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縄文時代晩期の遺跡は、標茶町内ではあまり見つかっていない。この時期の遺跡は、川の河口付近で見つかることが多く、釧路市で代表的な遺跡が見つかっている。
標茶でも縄文人が住んでいた事は確かだが、多くの縄文人は海岸近くへ移動し住んでいたと思われる。 |
縄文時代晩期の自然環境縄
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縄文時代晩期になると、古釧路湾として海が広がっていた低い土地が、湿原へと変わっていき、現在の釧路湿原が生まれていった。
気候も徐々に暖かくなり、ほぼ現在と同じ気候となったと考えられる。
塘路湖やシラルトロ沼、達古武沼は、独立した湖沼となり、現在見られる風景はこの頃に形作られて行った。 |
土器片の集中区
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縄文時代後期の遺跡で検出した土器片の集中区。200点近くの土器片が集中して見つかった。その後の土器の復元作業が行われ、3個体の土器が復元されている。 |
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縄文晩期 |
縄文晩期の遺跡
縄文晩期の自然環境
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土器片の集中区 |
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幣舞式土器
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幣舞式土器
標茶町内 |
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幣舞遺跡 釧路市幣舞町1~4番地 引用コトバンク 幣舞=ヌサマイ
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釧路川河口から500m上流の左岸の海成段丘、釧路段丘上に位置する。明治21年(1888)釧路貝塚として学界に最初に紹介された場所もこの遺跡の範囲に含まれる。大正13年(1924)前後から開発が進み、原地形を把握できない状態にあった。昭和29年(1954)遺跡の西面を掘削する富士見坂道路工事の際多量の遺物が検出され、その前後に発見された土器をもとにヌサマイ式土器が設定され、縄文時代晩期の在地の特徴的な土器を出土する遺跡として知られるようになった。平成元年(1989)から同10年にかけて五次にわたる発掘調査が実施され、遺跡西側部分の様子が明らかになった。 |
幣舞式土器
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引用東京大学学術資産等アーカイブポータル
縄文晩期 約2700~2400年前
丸底の器形が特徴で、深鉢形や浅鉢形のほか、舟形などの特殊な器形も見られる。文様は、口縁部に横方向にめぐる縄線文や沈線文が特徴で、この例では沈線文の間に縄線文が施され、その上下に刺突文がめぐっている。
引用北見市
晩期後半の土器。実用品の土器から墓に副葬される装飾的な土器まで、さまざまなものが見つかっています。 |
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280塘路ウライヤ遺跡越善地点 第一墓壙(原寸大ジオラマ)
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標茶町塘路地区のウライヤ遺跡越善地点は発掘調査で発見された縄文時代前期の墓壙である。
標茶町で人骨を伴う墓壙としては、初めて発見された。墓壙の大きさは、長軸1.2.4m、短軸0.87m、深さ0.62mだが、 遺構上部を削った状態で発見されたため、本来はもっと深さのある墓壙だったと考えられる。 |
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墓壙内には遺体腐食に関係した暗褐色土が見られ、大まかな人型として捉えることができた。遺体の東部は北西方向で、膝を曲げかがむような状態で葬られていた。
骨はほぼ風化し、失われていたが、頭蓋骨と歯の一部が残されていた。
遺体にはベンガラが振りかけられていたが、副葬品はなく遺体の性別は不明である。なお推定身長は145cm前後と推測される。 |
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300続縄文文化 紀元前3世紀~紀元後7世紀 2500年前~1400年前
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続縄文文化の始まり
The Beginning of the Jomon Culture
本州では稲作伝来とともに縄文文化から弥生文化へ移り変わるが、北海道には気候的にも稲作が伝わらなかった。そのため縄文文化と同じく狩猟、漁労、採集を中心とする生活が営まれた。
紀元前3世紀頃(BC300年頃)から7世紀前半(AD600年前半)まで及んだこの時期を、 続縄文文化と呼んでいる。
標茶町の続縄文文化の遺跡は、釧路川など河川沿いの台地を中心に分布しており、縄文文化と同じような遺跡立地を示している。
これまでの調査例からも、 前期や後期に相当する数多くの遺物が出土しており、 縄文時代から連綿として人々の生活の痕跡を認めることができる。。 |
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310続縄文時代 紀元前3世紀頃~7世紀前半 (BC300年頃~AD600年前半)
続縄文文化の遺跡
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続縄文時代は縄文時代と同じ生活が続けられたが、同時に交易が活発に行われ始めた時代でもある。
遺跡からは縄文時代同様に、縄文が施文された続縄文土器のほか、石器が出土するが、続縄文時代後半になると周辺との交易による鉄製品が使われるようになり、石器は鉄製の道具に置き換わることで、次第に数が減少していった。
標茶町では、塘路や茅沼地域のほか、標茶町市街や御卒別、多和など、町内の広い範囲で遺跡が見つかっている。
標茶町内の発掘調査において、これまで続縄文時代の集落跡は確認されていないが、遺物は縄文時代の遺跡より上層から出土している。 |
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311
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・約2300年前より続縄文時代が始まる。
・北海道では狩猟採集文化が続く。 |
no caption有孔土製品
not 紡錘車 |
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320続縄文時代の遺物 |
321掻器
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縄文時代と同様に使われた道具で、主に毛皮を作るときに使われたと考えられている。 置戸産と思われる非常に透明度の高い黒曜石を使用している。 |
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322石鏃 開運遺跡
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縄文時代同様、弓矢の先につける矢じりは、黒曜石にて作られた。続縄文時代には、矢じりの基部にえぐりを入れるタイプが多く、三角形に見えることから、三角鏃とも呼ばれる。 |
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323
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石匙
開運遺跡 |
「石ベラ」」とも呼ばれる。石匙の中には両面を丹念に加工したものも見られ、この展示資料も丁寧な両面加工が施されている。 |
石槍
開運遺跡 |
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縄文時代と同じく狩猟具として使われた。左の長い石槍は何度か刃部を再加工している痕跡が見られ、全体の形状がやや歪んでいる。 |
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削器 縄文時代と同様に使われた石器。ナイフのように、様々なモノをきる道具年て使われたと考えられる。
石錐 縄文時代と同様に使われたと考えられる黒曜石の石器。前の通り、穿孔具年て使われたと考えられる。 |
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削器
開運遺跡
ナイフのように使われた石器。 |
様々なモノを切る道具として使用。 |
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石錐 |
穿孔具 |
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324続縄文土器
続縄文土器
ウライヤ遺跡越善地点
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下田ノ沢Ⅰ式土器に含まれると考えられる。
根室・釧路地方の特徴的な土器。 |
有孔土製品
ウライヤ遺跡越善地点
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粘土を焼いて作られた土製品。
攪乱された土層から出土したため、年代の断定はできないが、続縄文時代と推定される。
撹乱の影響がこの2点は、やや離れた位置で発見された。
用途は不明だが、耳につける垂れ飾りを真似て作った可能性が考えられる。 |
ミニチュア土器
植田信宏第1遺跡 |
墓の副葬品用 |
ミニチュア土器 植田信広第1遺跡(標茶町御卒別)
小型の土器で、墓の副葬品として見つかる場合が多いが、 使用法 については詳しくわかっていない。
土器の縁が一部欠けているが、 炭化物が付着していない事から、 煮炊きなどには使用せず、 別な用途として使用したと考えられる。 |
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続縄文時代の土器
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続縄文土器とは 引用札幌市中央図書館/デジタルアーカイブ
続縄文時代の北海道を大きく捉えると、
その初頭では縄文時代晩期の亀ヶ岡系の土器を母体とする恵山文化が渡島半島南部に見られ、 (亀ヶ岡→恵山文化)
他の地域では、タンネトウL・ヌサマイ・緑ヶ岡式土器の流れである大狩部・興津文化が見られる。 (幣舞式→興津式)
その後、渡島半島の恵山文化は、次第にその分布を道央にまでひろげ、
道東では前段階の文化が継承され宇津内文化、下田ノ沢文化となり、道央では石狩町紅葉山33号遺跡の土器のような独自の文化圏を形成する。
次いで道央部に発生した後北式(江別式)文化は、次第に分布域をひろめ後北C1式土器の頃には、宗谷半島の一部に見られるオホーツク文化を除いてほぼ全道に広がる。
そして、後北C2式土器に至ると北海道はおろか仙台平野から新潟県でも発見されるようになる。
続縄文時代の終わりには、北大式土器が後北C2式土器と同様な広がりで見られる。 |
※北海道の土器が仙台・新潟まで拡がっていたとは知らなかった。
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325宇津内式土器
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引用「北見市」
オホーツク海沿岸地域では続縄文時代前期から中期にかけて、宇津内IIa式・宇津内IIb式と呼ばれる土器が作られていました。 |
興津式土器
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釧路市で発掘された、幣舞式の流れを組む、続縄文時代早期の壺形土器。 |
後北式土器
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宇津内式土器
植田信宏第1遺跡 |
興津式土器は、続縄文早期の釧路地方を中心に発見されており、標茶町内でも幾つか出土例がある。 |
後北C2・D式土器
ウライヤ遺跡越善地点
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興津式土器
おこつしきどき
植田信宏第1遺跡 |
興津式土器は、釧路地方を中心に発見されており、標茶町内でも幾つか出土例がある。、 |
後北C2・D式土器
ウライヤ遺跡越善地点
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後北C2・D式土器
ウライヤ遺跡越善地点
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326
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340近年行われた標茶町内の発掘調査
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標茶町では2005年度(平成17年度)より2015年度(平成27年度)まで、遺跡の発掘調査や整理がほぼ毎年行われた。遺跡の発掘調査は、大きく2種類に分けられる。
一つは、道路の建設や拡幅工事、または施設建設など、土地を掘り返す必要のある開発行為に伴う、緊急発掘調査である。
決められた期間内に発掘調査し、遺跡は記録保存する。その後工事に伴い遺跡は破壊される。
一つは遺跡分布調査や学術調査で、既に確認されている遺跡の範囲や規模、そして遺跡そのものの詳細を調査するために行われる。
この場合、遺跡を発掘し記録保存した後、再び保存のため梅戻される。
常設展示の遺物はこれらの調査で得られた遺物も多く含まれている。 |
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340近年行われた標茶町内の発掘調査
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341ウライヤ遺跡越善地点
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ウライヤ遺跡越善地点は、塘路地区の公共下水道処理施設建設のために行われた緊急発掘調査である。
標茶町教育委員会により、2005年度(平成17年度)~2007年度(平成19年度)まで3か年にわたり調査が行われた。
これまで標茶町で発見例のなかった縄文前期の土器や、擦文時代前期前半の土器などが発見されている。 |
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342二俣遺跡第3地点
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二俣遺跡第3地点は、JR塘路駅の東側に位置する遺跡で、擦文文化の竪穴住居が多く残されている。
駒沢大学特別研究助成(共同研究)「日本列島における北方文化形成の歴史過程の研究」の一環として、2008年(平成20年)~ 2009年(平成21年)にかけ、
標茶町教育委員会との共同学術発掘が行われた。
駒沢大学考古学研究会の学生を主体とした発掘調査で、擦文時代の大型竪穴住居1軒の発掘を行い、調査終了後は保存のために埋め戻されている |
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343ウライヤ遺跡越善地点
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ウライヤ遺跡越善地点は、塘路地区の移動通信施設建設のために行われた緊急発掘調査で2005年度調査区域に隣接している。
標茶町教育委員会により、 2010年度(平成22年度)、約1ヵ月にわたり調査が行われた。擦文期と考えられる巨大な溝状の掘り込み跡(竪穴遺構)、墓壙が発見されている。 |
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344マサコヤノシマ遺跡
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マサコヤノシマ遺跡は、塘路湖南岸に位置する遺跡で、1968年(昭和43年)、部分的に調査がされた遺跡である。
その際、釧路地方には数少ない縄文時代後期の遺跡と確認された。
近年湧水の影響により、遺跡付近の土が流されるなど状況の変化があり、2011年(平成23年)~2012年(平成24年)にかけ、標茶町教育委員会によって詳細文部調査が行われた。
調査では縄文時代後期の土器片が数多く出土した。また調査と並行し、遺跡発掘体験などの事業も行い、大人や子供たちも発掘調査に参加した。 |
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345元村遺跡
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元村遺跡は、塘路湖南岸に位置する遺跡である。
1996年(平成8年)、塘路湖エコミュージアムセンターを建設する際に、標茶町教育委員会により調査がされた。
その際、遺物とともに縄文早期のロングハウスが検出されるなど多くの成果が得られている。
2014年(平成26年)、塘路湖エコミュージアムセンターの除雪機格納庫増築工事に伴い、標茶町教育委員会にて緊急発掘調査が行われた。
調査面積は11平方メートルと少なく、期間も2週間程度であったが、縄文早期の土器片のほか、近代の徳利片など出土した。 |
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350トビニタイ文化 9世紀頃~13世紀頃 (約1200~1100年前 ~ 約800年前)
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北海道、樺太の時代による文化変遷の図
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4世紀は北海道全域が続縄文文化、樺太はオホーツク文化の前段階とされる「鈴谷文化」。
5世紀は北海道の大半が続縄文から擦文文化への転換期。オホーツク海沿岸に樺太、千島列島はオホーツク文化。
10~12世紀は北海道の大半が擦文文化でオホーツク文化人は樺太に撤退、根室、釧路地方にはトビニタイ文化が成立 |
引用Wikipediaトビニタイ文化 |
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351トビニタイ期の遺跡
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続縄文時代に北海道の北東部、オホーツク海一帯に活動を展開した海洋民族が現れる。
彼らの生活や文化は、北海道に住んでいた在地の続縄文人と大きく異なることから、「オホーツク文化」と呼ばれている。
オホーツク文化の人々は大陸から北海道へと移動し、海岸の近くを中心に海との関わりを強く持った生活を行った。 |
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オホーツク文化は擦文時代の中頃まで存続し、最終的には擦文文化と融合していった。
両文化が融合により、オホーツク文化と擦文文化の土器の特徴を併せ持つトビニタイ土器が使われていた期間を、トビニタイ期と呼ぶ。
その後トビニタイ期は完全に擦文文化化し、ほどなく擦文文化もアイヌ文化へと移り変わる。 |
※標茶のトビニタイ文化
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標茶には沿岸海洋性のオホーツク文化の遺跡はないが、内陸文化と、沿岸海洋文化が融合したトビニタイ文化は遺跡を残した。
網走港付近に残っていたオホーツク文化人(骨角鏃)と、内陸から進出してきた擦文人(鉄鏃)が、融合したため、内陸に広がり、標茶に及んだ。 |
標茶町内のトビニタイ土器
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標茶町内で、オホーツク文化の遺跡は見つかっていないが、トビニタイ土器がいくつかの地点で見つかっており、内陸部へも生活を広げていたと考えられる。
標茶町では約7000年前の石刃鏃文化と、この1200年前のトビニタイ期の遺跡が大陸起源の文化集団の痕跡として見つかっている。
異なる二つの時代に、大陸よりやってきた異文化は、確かに標茶の地に足跡を残したのである。 |
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トビニタイ土器の検出状況
擦文時代
二股遺跡第3地点
塘路地区
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平成20~21年度にかけて実施された大型竪穴住居跡の発掘調査にて、住居の外にあった盛り土の中より発見された。実物は下の展示ケース内にある。
二股遺跡第3地点遺物 |
現在ももはっきりと残る
住居跡の痕跡
茅沼竪穴群
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茅沼竪穴群に残る擦文文化の人々が暮らした竪穴住居跡。
現在でも、5m内外の四角形で、1.5~2mほどの落ち込みが残されている。これらの住居が放棄されてから約1000年間、破壊や埋没を免れて残されていたのである。 |
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360 |
361トビニタイ土器
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トビニタイ土器は、オホーツク文化の人々が使っていたオホーツク土器と、擦文土器の両方の特徴を併せ持つ土器で、大陸からやってきたオホーツク文化が在地の擦文文化と融合、そして吸収されていく過程で作られた土器である。土器の装飾において、擦文土器のように刻むのではなく、年度紐を貼り付けるのが特徴の一つである。
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トビニタイ土器
二股遺跡第3地点 |
標茶町内のトビニタイ土器は発見されているが、出土点数は少ない |
トビニタイ土器
上に記述 |
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362高坏 擦文時代 二股遺跡第3地点
高坏
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平成20~21年度にかけて実施された大型竪穴住居の発掘調査にて出土した。大型竪穴住居の覆土(住居の上に積もった土)より出土しており、住居とは直接関係がない高坏と見られている。口縁部が大きく失われている。
なお展示資料は表面の文様をお見せするため裏返して展示している。 |
高坏
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平成20~21年度にかけて実施された大型竪穴住居の発掘調査にて出土した。住居のカマド付近でいくつかの破片となって発見された。
口縁部を一部欠くが、ほぼ完全な形で復元された。 |
高坏
二股遺跡第3地点 |
高坏 |
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高坏
二股遺跡第3地点
上に記述 |
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※考察 北海道のローカル文化 続縄文・擦文文化と、オホーツク・トビニタイ文化
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北海道の文化は、縄文→続縄文→擦文→アイヌ文化と流れる。
しかし、広大な北海道には、道内以外の地域の影響を受けたローカル文化が発生する。
宗谷海峡を挟んで生まれたニブヒと縄文人の混血である人々が南下し、オホーツク海を取り巻く地域で狩猟漁撈活動を始めた。
それまでの北海道にはなかった海洋への進出である。
危険な荒れ狂う北の海へ小舟で乗り出して巨大な海獣を狩猟するハンターの文化、オホーツク文化人の出現である。
オホーツク文化は続縄文時代の途中から擦文時代の途中まで、北海道東部の沿岸で営まれた文化であるが、彼らの交易活動・海洋進出は、日本海側にも及び、和人との交易も盛んに行っていた。
しかし、内陸文化の擦文人の一部がオホーツク人と混血して海洋に乗り出す技術を身につけるようになると、たちまち北海道全域に広がり、海洋擦文人と、オホーツク人が対峙するようになる。更に、この時期に、オホーツク文化の発展地域網走と、通過地点の枝幸の間に対立が生じ、枝幸地域はサハリンに引き上げてしまい擦文人の支配地となり、網走オホーツク人は海路を断たれ、孤立してしまった。これによって擦文人による抹殺ではなく、融合が始り、トビニタイ文化が生まれ、やがて、擦文文化に重大な影響を与えて、消滅していった。 |
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370擦文文化 7世紀後半頃(AD600年後半)~13世紀前後(AD1200~1300年)
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371河川沿いに暮らした擦文文化の人々
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続縄文文化は、7世紀後半頃(AD600年後半)には擦文文化へと移り変わった。
擦文文化の人々は、ハケ目のついた擦文土器を使い、竪穴住居内にカマドを設けるなど本州文化の強い影響が認められる。
石器の使用は終わりを迎え、やがて鉄製品が使われるようになった。
擦文文化の集落は、川沿いに大規模な集落が営まれる傾向がある。
標茶町でも釧路川沿いに数十軒単位の竪穴住居跡が点在しており、直径10mを超える大型住居跡も存在する。
標茶北部の西別川沿いにもこの時期の集落跡があり、主にサケ・マス漁やエゾシカ猟を対象とした生業活動が営まれていたと考えられる。 |
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約1600年前~オホーツク文化開始
約1300年前~擦文時代
・交易により鉄器が使われ始める。
約1200~1100年前オホーツク文化終了し、トビニタイ文化始まる
800年前頃トビニタイ文化終焉する
・擦文文化からアイヌ時代への移行は、地域により時間差がある。 |
擦文時代の遺跡
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標茶町では、釧路川沿いに位置する茅沼竪穴群や二股遺跡第1~3地点、西別川沿いに位置する虹別1遺跡など、擦文時代の竪穴群が大きな河川沿いに残されている。
二股遺跡第3地点では平成20~21年にかけて駒沢大学・標茶町教育委員会共同による、擦文時代の約11m四方の大きさを持つ、大型竪穴住居の発掘調査が行われた。この時の調査成果から、大型の竪穴住居は 12世紀頃に使われたことがわかっている。また擦文文化の竪穴住居の特徴であるカマドのほかに、住居床面に数カ所の焼土が見られたことから、照明を得るために複数カ所で火を焚いていたと考えられる。
一家族では大きすぎる住居であることから集会所のような用途であった可能性も考えられる。 |
大型竪穴住居の完掘状況
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時期 擦文時代
撮影地 二段遺跡第3地点(標茶町塘路地区)
平成20~21年度にかけて実施された大型竪穴住居の発掘調査における完掘状況。 方形の一辺が11mほどを測る。
なお四隅には直径30cmほどの主柱穴が見つかっている。 |
擦文時代の遺跡 |
大型竪穴住居の完掘状況 |
大型方形住居である。
太い柱を何本も規則的な立て並べ、住居の内部構造が想像できる。
オホーツク人の住居も、20~30人あまりで暮らしていたために大型であったが、
ここにはその痕跡はないが、寒冷・窮乏期には多人数が暮らしやすい。
のではないだろうか。 |
擦文土器
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擦文時代には擦文土器と呼ばれるハケ目を持ち、刻線で文様がつけられた土器が使われたが、本州の焼き物(土師器)の影響受けてできたと考えられている。
標茶町内で発見された擦文土器は、概ね擦文時代後半の土器に含まれるが、擦文の中でも古いタイプに属すると考えられる十勝茂寄式土器も、少数だが発見されている。
なお擦文文化では石器が鉄に置き換わっているため、石器はほぼ出土しない。 |
擦文土器 |
擦文土器の出土状況
二股遺跡第3地点
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大型竪穴住居の覆土(住居の上に積もった土)の中より検出された土器片。土器に刻まれた刻線が確認できる。 |
竪穴住居に残されたカマドり痕跡
二股遺跡第3地点
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大型竪穴住居で検出されたカマドのようす。
カマドには白色のきめ細かな年度を用い、側壁部分には袖石などの補強を行いつつ構築した。
カマドは発見時、土の堆積により潰されていたが、焚口の円形部分が確認されたほか、写真左下には袖石の一部が確認できる。 |
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擦文土器の破片と袖石の検出状況
二股遺跡第3地点
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平成20~21年度にかけて実施された大型竪穴住居の発掘調査にて検出された、カマド付近に様子。
カマドの側壁の基礎部分を補強するために使われた袖石とともに、土器の破片が散らばった状態で発見された。 |
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373擦文土器
擦文土器 擦文時代中期~後期 二股遺跡第3地点
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平成20~21年度にかけて実施された大型竪穴住居の発掘調査にて出土した。
出土状況から、竪穴住居内で使われていた土器や高坏よりも古い時期の土器と考えられている。 |
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擦文土器
擦文時代中~後期
二股遺跡第3地点
上に記述 |
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擦文土器 ウライヤ遺跡越善地点
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平成20~21年度にかけて実施された大型竪穴住居の発掘調査にて出土した。
煮炊きに使用されたためか焦げが付着している。また割れを直した補修孔なども見られ、大切に使われていたことがうかがえる。 |
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374擦文土器 擦文時代後期 二股遺跡第3地点
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平成20~21年度にかけて実施された大型竪穴住居の発掘調査にて出土した。
大型の擦文土器で、バラバラに割れた状態で発見された。口径36.4cmを測る大型の深鉢である。
なお底部が失われているが、底部と考えられるいくつかの破片が見つかっている。 |
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375擦文土器
十勝茂寄式土器 擦文時代前半期 十勝最寄式土器
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擦文時代前半に使用されたと考えられる土器。釧路地方では初めて出土した土器で、その他の地域でもまだ出土例は多くない。
土器片は発掘調査中に一カ所から固まって出土したが、周辺に関連のある遺物は出土せず、一個体分が孤立した状態で見つかった。
この土器のみ持ち込まれたものかもしれない。 |
擦文土器 擦文時代後期 二股遺跡第3地点
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平成20~21年度にかけて実施された大型竪穴住居の発掘調査にて出土した。
大型竪穴住居の覆土より出土しており、住居とは直接関係がない土器と見られている。 |
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擦文土器
擦文時代後期
二股遺跡第3地点
上に記述 |
擦文土器
トブー遺跡(塘路) |
擦文土器 二股遺跡第3地点
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塘路地区の東側に所在する二股遺跡には、擦文時代の住居が未発掘の状態で残されている。
現在でも大雨などにより遺跡周辺の土地が洗い流される際、こうした土器片などが発見される。 |
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400アイヌ文化期 12世紀~19世紀
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410アイヌ文化期の訪れ
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擦文文化の終わり頃には、家の形も竪穴住居から平地住居へと変化し、それに伴い住居内のカマドも消えていった。
また鉄鍋を真似たとされる内耳土器が用いられ、その後鉄鍋が道東部へも広く普及すると、縄文時代から用いられた「土器」も姿を消すことになる。
こうした生活様式の変化を受けアイヌ文化へと移り変わっていく。
道東北部では、13世紀前後(AD1200~1300年)にアイヌ文化期へ移行して行ったと考えられている。
この地域では、サハリンから南下してきたオホーツク文化が広がり、やがて擦文文化と融合(トビニタイ期)し、両者の要素を合わせ持ちながらアイヌ文化の成立へつながっていく。 |
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411アイヌ文化期
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アイヌ文化期で使われた鉄鍋や、鉄器、木製品などは、火山灰が多く堆積し酸性土壌である道東地方では、特殊な条件下でなければ腐食のために失われてしまう。
近年北海道内で調査が進んでいるが、現在でもなお古い時期のアイヌ文化期に関する資料は少なく、詳しい生活の様子はわかっていない。
標茶町内でも、その時期の確実な遺物は確認されていない。 |
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アイヌ文化期の訪れ
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・擦文からアイヌ時代への移行は地域差あり
・土器が使われなくなり、鉄鍋が使用される。
・竪穴式から平地式住居にかわる。
・チャシが構築される。
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412
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アイヌ文化期 |
「近蝦夷地居家図」 |
「近蝦夷地居家図」 |
秦檍麿(はたあわまろ)によって描かれたチセと呼ばれる家屋外観のようす。『蝦夷島奇観』は1801年に成立したとされており、、江戸後期のアイヌの人々の暮らしが描かれている。
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413チャシ
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国指定史跡
「釧路川流域チャシ跡群」
標茶町におけるアイヌ文化期の遺跡はチャシ跡に代表される。現在19カ所が確認されている。
これまでチャシは16~18世紀(AD 1500~1799年)にかけて築造されたと考えられてきたが、近年13~14世紀(AD 1200~1399年)に築造されたチャシ跡の調査例が報告されており、アイヌ文化期当初から存在した可能性が高い。
標茶町のチャシ跡は、湖沼や河川近くの丘頂付近などに残されており、祭祀や談合、戦いの場や見張り台に使われたと考えられている。
平成27年(2015年)には「シラルトロ第一チャシ跡」「同第二チャシ跡」 「マタコタンチャシ跡」が、釧路川流域に点在する重要なチャシ跡の一つとして国の史跡に指定された。 |
標茶町のチャシ
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標茶町では、アイヌ文化期のチャシ(砦、柵の意味)が19ヵ所見つかっている。標茶町のチャシの多くは塘路湖の周りにあり、特に塘路湖北岸を中心にチャシが残されている。塘路湖北岸のチャシは、いずれも湖を含めた周辺を一望できる場所である。
塘路湖南岸にはアイヌの人々が暮らす大きな集落(トウロコタン)があった。塘路湖の資源を狙い、他の集落から来る略奪者等に備えるため、見張り台として使われたチャシが多かったと考えられる。 |
塘路湖周辺に現在残されているチャシ跡
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塘路湖周辺のチャシ跡は、 北岸の切り立った崖の上に多く残されており、 眺めの良い場所に作られた。 これらのチャシ跡は、現在遺跡と保存されている。
なおチャシの多くは民有地内にあり、またヒグマが出没する区域も含むため、許可なく立ち入ることはできない。 |
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釧路川流域チャシ跡群
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標茶町のチャシ |
塘路湖周辺のチャシ跡 |
塘路湖周辺に現在残されているチャシ跡
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415アイヌ文化の各資料
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内耳式土器
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鉄鍋
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マチコル図 |
囲炉裏には鈎によって吊るされた、鉄なべがかけられている。 |
北宋銭 塘路市街
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中国の北宋時代に鋳造された皇宋通寶(初鋳造AD1038年) 聖宋元寶(初鋳造aAD1101年))である。
塘路市街の下水管工事に伴う調査で出土した。
一部に紐擦れと思われる摩耗が見られることから、アイヌ文化の装身具、タマサイなどの一部として使われたのではないかと考えられる。 |
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420チャシ |
421
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国指定史跡「釧路川流域チャシ跡群」
シラルトロ第2チャシ跡
標茶町茅沼地区に所在する。シラルトロ沼に隣接した急峻な段丘の上に位置しており幅2.5m、深さ2mほどの壕が半円状に巡る。
壕の内側にあるチャシの主体部からは、シラルトロ沼を見渡すことができ、非常に展望が良い。これは同時に見張り台としての機能を伺うことができる。
なおこのチャシ跡は、釧路湿原パーク「いこいの家かや沼」の敷地内にあり、定期的に草刈り等が行われているので、簡単に見学することができる。
またかつては「シラルトロチャシ」と呼ばれていたが、平成27年度の国指定史跡登録に伴い、名称が変更されている。 |
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422
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国指定史跡「釧路川流域チャシ跡群」
シラルトロ第1チャシ跡
標茶町茅沼地区に所在する。釧路湿原に面した西側の低い段丘上に位置しており、南北方向に細長い形上で残されており、三か所に土盛されたテラス状の部分と、壕が1カ所見られる。ただしチャシの東側については、昭和初期に行われた釧網本線の敷設工事により大きく破壊されており、チャシ構築当時の構造については、不明な部分がある。なおシャチに行くためには線路を越える必要があり、安全上の問題から現在チャシへ立ち入ることはできない。 |
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シラルトロ第一チャシ跡 |
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シラルトロ第一チャシ跡 |
シラルトロ第1チャシ跡 |
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423ジオラマ
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国指定史跡「釧路川流域チャシ跡群」
マタコタンチャシ跡
標茶町ルルラン地区に所在する。標高約80mの丘頂部に位置しており、幅1.5m、深さ1mほどの壕がめぐる。傾斜の強い斜面上にある事からチャシからの展望は非常に良く、見張り台として使用されたのかもしれない。なお「マタ」とはアイヌ語で「冬」を意味し、この周辺はマタコタン(冬の村)と呼ばれていた。この地名については、この地で仕事をしていたアイヌの人々が大雪のため自分の集落へ帰れなくなり一時的にこの場所に住んだからではないかとの解釈などがある。 |
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マタコタンチャシ跡は、民有地にあるため立ち入りできない。しかし春先と秋頃には、遠くからでもチャシのある丘頂の稜線に窪んだ壕を確認することができる。
かつては「マタコタンチャシ」と呼ばれていたが、平成27年度の国指定史跡登録に伴い、名称に「跡」が付け加えられている。 |
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マタコタンチャシ跡 |
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マタコタンチャシ跡 |
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マタコタンチャシ跡 |
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440豊かな水と生きるアイヌの人々 ~江戸時代の記録
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北海道の先住民族であるアイヌの人々。標茶町での文献記録は1700年代後半から現れる。1800年代には塘路湖畔に位置するトウロ(塘路)のコタン(村人の住んでいる所)、西別川上流部に位置するニシベツ(虹別)のコタンが、大きな集落として知られていた。
一方でシベツチャ(標茶)は、トウロ、ニシベツに比べると、戸数・人口とも小規模であったが物産を保管するための番屋や板蔵が置かれていた。
いずれの集落も大河川である西別川や釧路川、また塘路湖などの水の確保が容易な場所にあった。
豊かな河川と湖沼、その背後に広がる森よりもたらされる資源に支えられ、人々が暮らしを紡いだ。
北海道の先住民族であるアイヌの人々。 標茶町での文献記録は1700年代後半から現れる。 1800年代には塘路湖畔に位置するトウロ(塘路)のコタン
(村人の住んでいる所)、西別川上流部に位置するニシベツ (虹別) のコタンが、 大きな集落として知られていた。
一方でシベツチヤ(標茶) は、 トウロ、 ニシベツに比べると家・人口とも小規模であったが、 物産を保管するための番屋や板蔵が置かれていた。
いずれの集落も大河川である西別川や釧路川、また塘路湖など水の確保が容易な場所にあった。
豊かな河川と湖沼、 その背後に広がる森よりもたらされる資源に支えられ、人々は暮らしを紡いだ。
The Ainu who live among abundant waters beginning Edo era
The Ainu are the indigenous people of Hokkaido. There are records of Ainu being present in Shibecha from the latter half of the 18th century. In the 19th century, both Toro (located on the shores of Lake Toro) and Nishibetsu (located along the Nishibetsu River and upstream of Lake Toro) became well known Ainu settlements. Although Toro and Nishibetsu were relatively small settlements compared to Shibecha, they both had facilities to support trade and storage of goods while maintaining a smaller population.
Each settlement, being located on the Nishibetsu and Kushiro Rivers and on Lake Toro, was by definition within a convenient distance of water. And while located on the water, the settlements also had forested land behind them from which they could gather resources.
豊かな水に囲まれて 暮らすアイヌの人々 ~江戸時代の初め~
アイヌ民族は北海道の先住民族です。 標茶には18世紀後半からアイヌが居住していた記録が残っています。 19 世紀には、塘路(塘路湖畔)と西別(塘路湖の上流、西別川沿い)の両方がアイヌの集落として有名になりました。
登呂町と西別町は標茶町に比べて比較的小規模な集落でしたが、いずれも人口が少なく交易や物品の保管を支援する施設を備えていました。
各集落は西別川、釧路川、塘路湖沿いに位置しており、必然的に水辺に便利な距離にありました。 そして、集落は水辺に位置していながら、背後に森林があり、そこから資源を集めることができました。 |
アイヌの人々
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松浦武四郎が見たシベツチヤとアイヌのコタン
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江戸時代の標茶地域について最も詳しく記録しているのは、安政5年(1858年)幕府の命を受け、松浦武四郎が現地調査をした記録『戊午ぼご東西蝦夷山川地理取調日誌』、及びそれを要約した『久摺日誌くすり』である。
松浦武四郎はニシベツからツベツチヤ、トウロへと調査を進め、その土地の地理やアイヌ語地名、伝承などを詳しく書き記した。トウロのコタンでは住民全ての名前を記録している。また松浦武四郎が感嘆と共に「実にその風景筆紙の及ぶ所にあらず」と表したニシベツ川水源や、シラルトロ沼の、塘路湖などの景勝地では、地名を書き加えた絵図を書き残している。 |
松浦武四郎が歩んだ道
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松浦武四郎の歩んだ道 (安政5年/1858年) 日誌では4月になっておりますが、現在の暦では5月になります
The Path Walked by Matsuura Takeshiro (AD 1858) |
松浦武四郎の歩んだ道 |
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1戊午第十二巻 東部奴宇之辺都日誌
安政五年四月七日
ニシベツ水源にて記す
平山の雪が積もる沢の上に一つの沼がある。 周りは三丁(327m) ほど。 その周囲は岩、底は浅く三尺(90cm)ぐらいである。 水は清く透明で、一粒の米が水中にあってもはっきりと見えるだろう。
水は少し暖かく、底面より砂が噴き上げる様子は、ガラス容器の中で湯が沸いているようだ。 水底にある砂は全て白砂で、違う色の砂は一粒もない。これがニシベツの水源で、
マシウ湖の水が地底をくぐって来ていると言う。
ヌウシベツ(ニシベツ・西別川)、本名はヌウウシヘツで、 ヌウ (温泉)のあるところと いう意味である。 夏は鱒が多く、秋には川底が見えない程鮭が来ると聞いた。
また、冬には鷲が多く、蝦夷第一の富貴な川だと感じる。
(川沿いを下ると)コトンナイという場所に着いた。 漁小屋が一つある。 まだ八ツ半 (15時)だが、ここで泊まることにした。
2戊午第十二巻 東部奴宇之辺都日誌
安政五年四月八日から十日まで
ニシベツ (西別川)を下りシュシヤモコタンなどを巡る
微雨。
途中シユシヤモコタン (現虹別市街) で、明日ここに泊まる予定とし荷物を置いた。 そして更にニシベツを下り、ホンベツで泊まった。 翌日はホンベツからシユシヤモコタンへ帰る予定だったが、
ネモロ領との境界で、ニシベツの支流シカルンナイまで行くことにした。
シカルンナイはネモロ クスリの領分境で、 川幅は七~八間 (12.7~14.5m) もある。
帰りはシカルンナイの川岸に沿って帰った。 |
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ニシベツ水源 ヌー(温泉沼)の図 『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌上』より引用
松浦武四郎の描いた西別水源の景。 『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌』では、このニシベツ水源を大変な美しさのあま
り " 実にその風景、 筆紙の及ぶ処にあらず”と評した。 |
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3戊午第十三巻 東部久須利日誌
安政五年四月十一日から十三日まで
テシカゞ、そしてクツチヤロを巡る
※4月11日~13日にかけて、 松浦武四郎の一行は弟子屈と屈斜路へ向かいました。
詳細は割愛しますが、 武四郎の道程に合わせて釧路から運び、 弟子屈で受け取る予定だった食料(米や味噌など)が到着しておらず、この間食料に大変不自由したことが書かれています。
武四郎は各地のアイヌコタンで、子供たちやお年寄りらに自分達の食料を分け与えていましたが、 この間それも十分にできず、非常用として持ち歩いていたヒエの他、山で猟を行うなどして食べ物の確保を行いました。
また屈斜路では武四郎の持っていた刀の鍔を出し、 アイヌの人々へ食料の交換をお願いしました。
シラリウトル沼の図 『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌上』より引用
松浦武四郎の描いたシラリウトル沼。 なお "シラリウトル” が元来のアイヌ語名称で、後に変化し現在の"シラルトロ"
になった。トウロアイヌの漁場である事が記されている。 |
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4戊午第十三巻 東部久須利日誌
安政五年四月十五日
クスリ川(釧路川)を経てシベツチャに到着
テシカゞを出発し道に沿って進むと、クマウシについた。 ハケノカラの家が一軒あるだけである。 昔ここには一つのメム (水たまり) があり毎年多くの鮭が入るので、
クスリ (釧路) のアイヌの人らが来て、 捕った鮭を干す棚を作った場所である。 干棚をクマと言い、多いをウシと言うの で、このように呼ばれている。
クマウシから四里半 (17.6km) ぐらいでシベツチヤに着く。 二人のアイヌが我々を待っていたので訳を聞くと、 食料を浜から運び、 ここの蔵に入れて見張りをしていたと言う
(食料の届け先をシベツチヤと誤っていた)。 一同とても喜び、 蔵の戸を開けると、受け取る予定だった米、 タバコ、味噌、塩などがあった。 今夜は五日ぶりに米を炊き、腹いっぱいになるまで食べた。
シベツチヤは訳すと川の端である。ここには茅屋一軒に半分壊れた板蔵がある。 川岸には我らがクスリ会所へ帰るため、 丸木舟が一艘置か れている。
5戊午第十三巻 東部久須利日誌
安政五年四月十六日
シベツチャより舟に乗込み、クスリ川 (釧路川) を下る
まだ薄暗い中我々は舟に乗り込み出発した。 小舟のため同行者のうち 五名は、歩いてトウロまで行ってもらうことにする。 川はいよいよ湾曲し、舟は様々な方向へ進路を変える。
途中でトウロに住むケンルカウス と出会い、一緒にトウロへ向かうことにした。
(ヘツウシにて) ウリルイという白い鳥が多くいた。 シリベツ (石狩) で 見た「キサラウシチカフ」 である。 頭の毛が耳のように見えることから、名付けられた鳥である。(この地では「キサラウシチカフ」を「ウリルイ」と呼んでいました。
なおこの鳥はエゾヤマセミです)
またヲユゝケという、体がうす黄紅、 背中は濃茶紅、 くちばしは紅で大きく、足は深紅の鳥も見る。 大きさはひよ鳥ぐらいある (この鳥はアカ ショウビンです)。
小鳥はさまざまなものを見る。 鳥は絶えまなく鳴いている。 |
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6戊午第十三巻 東部久須利日誌
安政五年四月十六日
シラリウトル沼を越え、トウロコタンにて記す
シラリウトルトウ (シラルトロ沼) に着いた。 ここはトウロに住むアイヌ
の人々の漁場で、シラリは岩、ヲートロは中にあるの意味である。 沼の 周りは七~八里 (27.4~31.4km) である。
トウロブト (塘路湖河口)に着く。 右のほうにトウロ村があり、 人家十六軒がある。 ケンルカウスの家にて休む。 家より右手に沼の奥が見え、 左には沼の口が見える。ここは少し高台になっており、 とても風景が良い。
塘路沼 (塘路湖) の周囲はおよそ十三~四里 (51~55km)。 周りに高い山はなく、奥のほうに一つ二つの山が見えるが、おそらくアッケシ領の山だろう。
(なお武四郎は、トウロの人名を記録しています。 戸主は、ケンルカウス、 サンシロウ、タンカマレ、 シケビタ、 トミクサ、 シタヒカン、コトロミナ、 シャレヌシ イカシテカ、ムシンラク、チャロニシバ、 モロク、 ニセサン、 トヒヤリカ、イクタラ、シリカントクの十六名。)
七ツ (午後3時) 前に着いたが、 家もたくさんあることから、周辺を舟で散策し楽しんだ。 夜五ツ (午後8時) 過ぎに歩いてきた者たちが到着した。
7戊午第十三巻 東部久須利日誌
安政五年四月十七日
クスリ川 (釧路川) を下り、 クスリ会所へ向かう
松浦武四郎は塘路のコタンで一泊後、 翌日釧路川を下りクスリ会所に戻りました。 そしてクスリに置かれていた鎮守社の前で、 旅の無事を祝しました。 |
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松浦武四郎による図の名前なし 『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌上』より引用
松浦武四郎の描いた塘路湖の図であるが、本人による図名の記載はない。 現在の国道391号からみた塘路湖の風景を
描いている。 図の中央やや右よりに数軒の家と、湖中で舟に乗った人々の姿が描かれている。 |
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450展示室全景
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460森と湖の恵み 江戸後期のトウロのコタン
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塘路湖畔にあったトウロのコタンは釧路川中流域最大のコタンで、広大な森と湖に囲まれた豊かなコタンとして知られていた。
江戸後期の文政5年~万延5年(1822~58)年間の記録によれば、20軒前後の家屋に200人以上の人々が暮らしていた。
このコタンで作られる樹皮製の織物は上等で、この地を訪れた松浦武四郎も白く美しい織物を見て名品と書き記した。
また毎秋、湖より得られるペカンベ(菱の実)は収穫の安定した食料として大切にされた。ペカンベをもたらす湖の神への祭事は、ペカンベカムイノミと呼ばれ、
収穫時期の前に毎年欠かさず行われた。 |
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461ペカンベカムイノミ (ペカンベ祭=菱の実祭り)
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塘路コタンの人々によって毎年行われた、ペカンベの恵みをもたらす塘路湖の神への感謝の儀礼、ペカンベカムイノミ。
このペカンベカムイノミは、アイヌ民族野祭事の中では植物が関係する、大変珍しい儀礼である。
いつ頃から塘路で行われていたか定かではないが、明治時代の記録によれば
「かなり古くから行われており、いつから行われたか知っている人はいない」
と記されており、少なくとも明治期依然から続けられていたと考えられる。 |
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ペカンベカムイノミは、ペカンベが収穫できる毎年8月下旬から9月上旬ごろに行われた。昭和33年に全国上映された映画「森と湖のまつり」で注目され、多くの観光客が塘路へ訪れるようになるとともに、観光化が進んだ。
なお残念ながら平成2年より、ペカンベカムイノミは休止となり、現在行われていない。 |
ペカンベカムイノミ
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現存最古のペカンベカムイノミの写真。鳥居の前で着飾った人々が並んでいる。
この鳥は明治時代、塘路に入植した貫誠社の人々が残した八幡神社の鳥居である。貫誠社が撤退し人々がこの地を離れてしまった後、アイヌの人々は「神社が残され、かわいそうだ」との考えで、同じ場所にペカンベカムイノミのヌサを置いた。 |
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森と湖の恵み
江戸後期のトウロのコタン |
ペカンベカムイノミ |
ペカンベカムイノミ |
ペカンベカムイノミ |
ペカンベ祭の衣装 |
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462
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乾燥させたペカンベ (菱の実)
採取地 塘路湖 採取年 平成20年
秋に採取したベカンペを皮付きのまま乾燥させたもの。長期保存が可能で、一定量収穫できるベカンベは、塘路アイヌにとって非常に大切な食糧であった。
殻の中には、白い実がある。実は澱粉質で、食べるとほんのりと甘い味がする。 |
湖中で越冬したベカンベ
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秋に実りきったペンは、湖の底へと沈んでしまう。そして鬼皮が腐り、黒い皮に包まれた実となる。
トウロアイヌは、湖に沈んだペカンペを得るため、凍った湖面を割り、○○を巻き付けた棒を使って探〇した。
春に採られるベカンベは秋のものより〇が〇いとも言われている。
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イカヨプ(矢筒)
塘路アイスで使われていたと思われる矢を入れるための容器。
塘路町では古いアイヌ民具がほとんど現存しておらず、貴重な資料となっている。 |
湖中で越冬したベカンベ
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イカヨプ(矢筒)
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イカヨプ |
エムシ |
エムシ
不明 |
イナウ |
イナウ |
イナウ |
イナウ
不明 |
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イナウ (塘路湖の神に関わる木幣)
使用地 標茶町塘路 使用年代 不明
イナウ上部に、海の神の印であるアシベノカ※1(海神である“シャチの背
びれを表現している)。裏面には山の神の印であるシトコノエ※2(山の尾根を示す)
が刻まれており、ペカンベカムイノミで使われた塘路湖の神へ捧げられ
た木幣の一種と考えられる。
※1アシベノカ ※2シコノエ |
イナウ
塘路湖の神にかかわる木幣
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463清流ニシベツ川からの恩恵
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~江戸後期のニシベツのコタン~
ニシベツノコタンは西別川上流部に位置し、江戸後期となる万延4年(1857年)の記録では40人前後の人々が暮らしていた。
西別川で捕れるサケは味が良く最高級品として知られており、江戸時代には将軍家への献上鮭とされた。
大群で遡上する西部川のサケを狙い、オオワシとオジロワシが数多く飛来したが、コタンの人々はワシを捕らえることで、高価な交易品である鷲羽を得ることができた。
西ベツ川は水産資源以外にも良質な交易品が確保できることから、近隣領域より川の漁業権をめぐって訴訟が行われたこともあった。
コタンは豊かな川の恩恵を大きく受けていたのである。 |
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清流ニシベツ川からの恩恵
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イオマンテ(クマ送り)
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早春、越冬中のヒグマ猟の時、生まれたばかりの仔熊がいたときには、コタンに連れて戻った。
まだ小さい時は、家の柱につないで養った。やがて自分で食べ物を食べるようになると仔熊用のチセ(家)を建ててその中で養う。
仔熊の家には、仔熊用の食器(木製)が4つ差し込めるようにできていて、それぞれ牛乳、魚、野菜を入れていた。
晴れた日は仔熊の運動のために、林の中へ連れて行き、一緒に遊んだ。(虹別初期のお話) |
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大切に育ててきた熊神(仔熊)を、秋から冬ごろに神の国の親元へ送る儀式が、アイヌ民族のクマ送りである。熊神は、人間の世界での姿(肉体)を脱ぎ、本来の魂の姿となって神の国へ帰る。人間たちは、約2日間に渡って神々に祈り、歌い踊り、たくさんの土産を熊神に持たせて、熊神を神の国へ贈る。
熊送りは、虹別では昭和14年、塘路では昭和5年頃まで行われていた。なおコタンの人々全体ではなく、熊を獲った人を中心に、神木の前で小規模に行う熊の霊送りは、昭和30年代まで行われていたようである。 |
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なお虹別で昭和14年に行われた熊送りの際には、北海道大学の犬飼哲夫教授によって詳しく調査され報告された。記録とともに儀礼中の写真も残されている。
なお昭和14年の際に行われた熊野送り場は、現在標茶町の遺跡として大切に保存されている。 |
シュワン送り場と子供
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シュワン川岸にあった。クマ送り場で写真に写る子供。この送り場には、かつて巨大なカシワが佇み、ヌサがあった。カシワの巨木は、伐採により続けて無くなったが、切株附近に送り場を作り、送った熊の頭骨を重ねて鎮めた。この子供はさぞ○かったのであろう。 |
シュワン送り場と子供 |
シュワン送り場と子供
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ニシベツ川でのサケ遡上
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464アイヌの文物
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465祭祀具等 |
466
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イクパスィ
捧 酒 箸
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エムシ
刀 |
チカビナウ
鳥木幣 |
トウキ
酒椀 |
タマサイ
首飾り
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467
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イラクサ素材
イラクサの撚糸 |
イカヨプ
矢筒
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キラウシタップ
角の付いた○○ |
マキリ
小刀 |
煙草入れ |
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470 |
471アイヌ民具の復元
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過去に学び今に受け継ぐ
復元されたアイヌの民具
大きなコタンがあった塘路と虹別地区では、伝統的なアイヌの生活民具や祭具が使われていたが、今日までに多くが失われ現有数はとても少ない。
一方で昭和10年代~昭和30年代(1930年~ 1950年代頃)、トウロや虹別地区ではアイヌ文化の研究者らによる調査が度々行われていた。
民具や祭具も収集されたらしく、現在道内博物館や大学などで保管されている。
標茶町教育委員会では、他の博物館や大学に保管されている塘路・虹別地区のアイヌ関係資料を調査し復元を試みた。
製作は○○○○主宰の頭訪良光氏により平成12年(2000年)から平成23年(2011年)まで49品のアイヌ民具が復元制作された。 |
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仕掛け弓・ゴザ編み
ニス・杵 |
復元民具 |
シントコ・エトウネプ・トゥキ
杓子・団子ヘラ・ |
ニマ・ボンスホブ・ムイ
チボロニナブ・なずち棒
イタ・トンコリ |
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過去に学び今に受け継ぐ
復元されたアイヌの民具
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473
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475
丸木舟 |
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480観光化するアイヌの祭事
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観光課するアイヌの催事
~昭和期のベカンベ祭り~
トウロのコタンで行われていたペカンベカムイノミは、やがてベカンベ祭と呼ばれ、昭和5年(1930年頃には観光客を集めるアイヌの祭事として知られていた。
この祭事が、さらに知れ渡るようになったのは昭和33年(1958年)発行の武田泰淳による小説『森と湖のまつり』である。
タイトルの『森と湖のまつり』はベカンベ祭のことであり小説刊行同年に製作公開された映画のヒットも受け、ベカンベ祭は道内外に広く知られるようになる。
以降、ベカンベ祭りが開催される毎年9月上旬には、多くの観光客が塘路地区へと訪れ、祭事は大きな観光イベントへと変化していった。 |
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観光化するアイヌの祭事
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森と湖の祭り
映画ロケ風景 |
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500蝦夷地から北海道
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蝦夷地から北海道へ
明治2年(1869年)、政府により蝦夷地から北海道へ名称が改められ、11カ国へ分割された。決定には松浦武四郎の意見が作用し、標茶を含む釧路国川上郡が生まれる。
明治16年(1880年)頃まで内陸の標茶では本州からの移住者が少なく、川上郡全体で人口300人に満たなかった。
明治18年(1885年)、標茶の中心部に刑務所の一種である釧路集治監が設置されると、急激な市街地化が進む。
その後陸軍の軍馬補充部が置かれるなど、国による巨大な機構が街を支えた。一方周辺では
明治42年1909年頃より入植者が増え、町内各地域の基礎が形作られる。
昭和35年(1960年)以降酪農振興が進み、酪農は標茶の基幹産業へと成長した
明治2年(1869年)、政府により蝦夷地から北海道へ名称が改められ、 11か国へ分割された。 決定には松浦武四郎の意見が作用し、 標茶を含む釧路国川上郡が生まれる。
明治16年(1880年)頃まで内陸の標茶では本州からの移住者が少なく、 川上郡全体で人口300人に満たなかった。
明治18年(1885年)、 標茶の中心部に刑務所の一種である釧路集治監が設置されると、急激な市街地化が進む。
その後陸軍の軍馬補充部が置かれるなど、国による巨大な機構が町を支えた。一方周辺では
明治42年(1909年)頃より入植者が増え、町内各地域の基礎が形作られる。
昭和35年(1960年)以降酪農振興が進み、"酪農”は標茶の基幹産業へ成長した。
From Ezo to Hokkaido
-The development of
Shibecha as a town
In 1869 the Meiji government officially changed the name of present day Hokkaido from Ezochi. Hokkaido was furthermore divided by the government into 11 different regions. The division of Hokkaido-a decision which was heavily influenced by the explorer Matsūra Takeshiro- included Shibecha as a part of the Kawakami district located in Kushiro province. Around the 1880s, because of the limited number of immigrants from Honshu, Kawakami district had a small population, totaling around 300 people. In 1885 a labor camp called Kushiro Shūjikan was established. The establishment of Kushiro Shujikann increased the district's population dramatically, making Shibecha a town. The establishment of a war horse training facility and an increase of settlers in various areas of town, beginning in 1909, cemented Shibecha as a legitimate town. Dairy farming was promoted as a key industry starting in 1960 and has thrived since.
Uni-Voice
蝦夷から北海道へ 標茶の街の開発
1869年、明治政府は蝦夷地から現在の北海道の名前を正式に変更しました。 北海道は政府によってさらに11の地域に分割されました。 北海道の分割は探検家の松浦武四郎の影響を大きく受けた決定であり、標茶は釧路川上郡の一部に含まれていました。 1880年代頃、川上地区は本州からの移住者が限られていたため人口が300人程度と少なかった。 1885年に釧路集治監という労働収容所が設置された。 釧路集治館の設置により人口が飛躍的に増加し、標茶町が誕生しました。 1909年以降、軍馬訓練所の設置と町内各地への入植者が増加し、標茶は正当な町としての地位を確立した。 酪農は1960年から基幹産業として推進され、盛んになってきました。 |
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