北海道の縄文 №11 2022.06.04-1
浦幌町教育文化センターらぽろ21内
浦幌町立博物館 北海道十勝郡浦幌町桜町16-1
015-576-2009 月・祝日の翌日 撮影可
館の特徴
|
・復元された土器が、列柱のように並ぶ展示は圧巻である。
・化石がゴロゴロ産する地域で、化石展示が豊富。 |
|
|
|
|
|
目
次 |
01外観・入口
03館内展示案内
100自然
110アオサギの世界
120浦幌の自然
130新種北どじょう
140浦幌の四季
150鳥類の剥製
200地学
211十勝川の河岸段丘
221最後のアンモナイト化石
231デスモスチルス
240K-Pg境界
245白亜紀の化石
249海牛類の肋骨
250アザラシ祖先の化石
260北海道の成り立ち
|
300考古学
310発掘
320北海道先史文化の移り変わり
400土器列展示
410縄文時代
420続縄文時代
450擦文時代
500壁面展示
510色々な土器
520色々な石器
600壁面展示
601縄文時代
610北海道の初期土器文化
620シベリアからの石刃鏃文化
※資料 石刃鏃文化
626浦幌式土器
627石刃鏃文化の石器 |
630続縄文時代
630続縄文文化と墓
631十勝太若月遺跡
※考察 土壙墓内の柱穴
633土壙墓出土品
640擦文文化
641住居と生活用具
647深鉢形土器
650鉄と農耕
653栽培植物
660文化財遺骨の埋葬
|
700アイヌ文化
711遺骨の返還
712副葬品
720アイヌ民具
730アイヌの暮らし
750送り場
754儀礼用具
760チャシ
800和人の流入
801トカチの成立とトカチ場所
802初期の開墾
803文具
804昭和の民具
810新しいムラづくり
812産業
820獅子舞 |
|
|
01外観・入口
浦幌町立博物館 |
博物館と図書館を開設 |
企画展予告 |
管内ロビー |
テーブルとしての
巨大時計 |
時計の言われ |
|
03館内展示案内
|
自然からのメッセージ
右側に並ぶ沢山の資料 |
館内図
|
自然からのメッセージ
アオサギの世界
十勝・浦幌の自然誌
|
石器と土器の文化
1、2、3
|
十勝浦幌の歩み1、2
アイヌの暮らし
|
|
|
100自然
|
110アオサギの世界
|
アオサギは環境に敏感な鳥です。ナラ・ヤチダモ・ニレなどの広葉樹が広がる天然林に集団営巣地置(コロニー)を作り、川魚やカエルなどの水生動物を餌とします。コロニーを取りまく広い地域の変化を敏感に感じ、「アオサギの里」は、その地域の自然が良好に保たれていることを象徴しています。
春 1つの巣に3~5個の卵を産み、25~28日でふ化し、飛ぶ時には長い首をエス字型に縮め、脚を尾の端から長く出し、グァーまたはアー、ゴァーと鳴きます。
北海道では一般に、渡り鳥ですが、希には留鳥として周年、生息しているものもいます。 |
|
120浦幌の自然
|
日高山脈の東側には、十勝川に育まれた十勝平野が広がり、その東部を延長87kmの浦幌川が南に流れ、浦幌十勝川に注いでいます。
町域は、この浦幌川を取りまくように南北に細長く、その約4分の3 は山林で、畑地は浦幌川や下頃辺川流域に沿うように広がっています。
上浦幌地域は集約的農業が、下浦幌地域では酪農や漁業が盛んで、これらが本町の基幹産業となっています。
年間積算気温は約73℃、年間雨量は約1300mmですが、海岸地域は、夏にガスと呼ばれる濃霧の影響を受けることが多く、低温が続くこともありますが、上浦幌地区は大陸性気候で好天の日が多いのが特徴です。 |
浦幌の自然 |
浦幌の自然 |
月平均気温と雨量 |
浦幌の自然
|
|
130北どじょう (新発見の新種)
|
普通のドジョウと違う |
ここを観察してみよう |
|
|
北海道にはどんなドジョウがいるのかな
|
普通のドジョウと違う |
ふつうの”ドジョウ”と違うの?
違うよ。
ドジョウよりも口先 (吻) が長い、目が小さいという特徴があるよ。
さらに遺伝子を調べたところ、 ドジョウとかなり違っていたので
新しく分類されたんだ。 |
ここを観察してみよう |
ここを観察してみよう!
頭の形は? 丸い?長い?
背びれと腹びれ の位置関係は?
尾びれの形は?
ヒゲの数は何本?
模様は ?
図書館でもしらべてみよう |
|
|
|
【和名】 キタドジョウ
【学名】 Misgurnus sp. (新しく分類されたのでまだ決まっていない)
【 アイヌ語】 チチラカン (十勝地方の呼び名)
【 体長】 12cm~21cm
【分布】北海道、東北地方 関東地方 北陸地方など
【生態】湖沼や湿地などの流れのゆるやかな泥底を好んで生息する。生活史については不明な点が多い。 |
北海道にはどんなドジョウがいるのかな
|
北海道にはどんなドジョウ がいるの?
キタドジョウ、フクドジョウ、エゾホトケドジョウの3種がいるよ。
ドジョウが移入されている可能性もあるよ。
フクドジョウはヒゲが3対で体に色んな模様があるよ。エゾホトケドジョウはヒゲが4対で、体の横に1本の黒い筋があるよ。
また絶滅危惧種に分類されているよ。
フクドジョウ エゾホトケドジョウ
画像は『日本のドジョウ』 (中島淳 著, 2017年, 山と渓谷社刊)より
ご自由にお持ちください! 2021年度博物館実習生 三枝弘典(北大) |
|
140浦幌の四季 |
141夏
|
2018年5月16日 十勝毎日新聞 17年
ツルの子育て 仲むつまじく
【浦幌】国の天然記念物タ
ンチョウがつがいで仲良く子育てする姿が、今年も町内の河川で見られている=写真。
このつがいは数年前からほぼ同じ場所で営巣。今年は3
月末に巣作りを始めた。4月3日に抱卵が確認され、今月10日に巣の中にいるひなが目撃されていた。昨年は2羽だったが、今年ふ化したのは1羽だけだった。
11日には親子で河川に姿を 現し、親鳥が川岸の土を掘り起こしたり、水中の餌を探したりして忙しそうにしていた。餌になるミミズを見つけたがひなの口に入りきらず、親鳥が器用にくちばしで小さくしてひなに与えるほほ笑ましい光景も見られた。
浦幌野鳥倶楽部の武藤満雄会長は「河畔林が伐採され隠れる場所がなくなったが、無事に育ってほしい」と話して いる。 (円子紳一通信員) (円子紳一通信員)
タンチョウ 特別天然記念物 国内希少野生動植物種 絕滅危惧Ⅱ類
日本および東アジア、ロシア極東に生息す るツルの一種で、 道東では越冬・繁殖してい る。 近年、 浦幌での営巣も多くなり、年間を 通じて身近な野鳥となりつつある。 その分、 交通事故などの新たな懸念が生じている。
エゾタヌキNyctereutes procyonoides albus 食肉目イヌ科
日本には、 北海道に亜種エゾタヌキ、本州以南に亜種ホンドタヌキが生息する。北海道では島嶼部を除き、全道的に生息するとされる。
雑食性で、昔から農村や都市部など人里に暮らす傾向がある。 アライグマが急増している地域では、生息地の競合が懸念されている。
浦幌町立博物館所蔵
アライグマとタヌキは似ているけれど、指の形、尾の縞模様、 耳や足先の毛の色などに違いがあります。
|
|
タンチャウ |
ツルの子育て |
モモンガの巣 |
エゾタヌキ |
|
|
143秋
|
大正十三年五月十四日午前中喫茶牛沢ヨリ 出現シテ時恰も起墾中ノ場所ニ向ヒタレバ附近ノ住民一時驚愕シテ倉皇警鐘の乱打ス 依ッテ火防員及青年団員其他有志現場ニ馳参シ四方ヨリ遠捲ニシテ コレヲ 川岸丈高キ叢中二追込ミテ高田宗太郎氏一発彈丸ニテ打止ム 是ヲ当部落保護者会ノ企ニ依リ
標本トシテ寄贈ス 以上 |
|
145冬
エゾヒグマ Ursus arctos yesonesis
|
北半球に広く分布するヒグマのうち、 日本に生息する種類は亜種。日本では北海道のみに生息する、食肉目クマ科の
大型の雑食性哺乳類。成獣では体長2mほど、体重は150~250kg になるとされています。 浦幌町を含む、 白糠丘陵一
帯にも多数の個体が生息しています。
季節や地域により食べるものが異なりますが、 春から夏にかけては主に植物質を食べ、夏から秋にかけては盛んに昆
虫を食べるようになります。また、河川沿いではサケなどの魚類を補食します。近年、エゾシカの増加が全道的に問題
となっていますが、エゾシカの死体や、ときには生きているエゾシカを襲って食べることもあります。
冬は穴を掘って 「冬眠をしますが、完全に眠っている訳ではなく、その眠りはごく浅いものと考えられています。
浦幌のヒグマ研究と 「ヒグマの学校」
浦幌は、「阿寒-白糠地域個体群」と呼ばれる、ヒグマの高密度生息地です。そのため、浦幌は永年、ヒグマの生態研究 における重要なフィールド (調査地) とされてきました。
毎年、酪農学園大学の学生を中心とする研究グループが浦幌を拠点に山へ入り、ヒグマの研究に励んでいます。夏休みには 「ヒグマの学校」を開催し、子供たちにヒグマの生態や接し方などについて、大学生がわかりやすく教えます。
近年は大人向けに卒業論文発表会なども開催しています。 |
|
エゾヒクグマ |
ヒグマの学校
危険を教えるようだ
|
北海道は猛獣と隣り合わせで住んでいる、危険地帯なんですね。 |
エゾヒクグマ |
|
146春
|
この映像は、開町70年を記念して、昭和 44(1969)年に作製され た記録映画「伸びゆく浦幌」です。 当時は 16ミリフィルムで撮影されていましたが、まちづくり政策 課により、デジタル化されたものを上映しています。
昭和30年代末期~昭和40年代 初頭にかけての浦の光景が記録された貴重な動画となっています。
上映時間22分 (自動再生中) |
|
147
ヒグマ調査 |
タンチョウ衝突注意マップ |
春
|
秋
|
夏
|
|
150鳥類の剥製
|
|
|
トビ
|
オシドリ |
マガモ |
コガモ
|
オシドリ
|
オシドリ
|
ウズラ
|
コガモ
|
フクロウ
|
ミヤマカケス
アカショウビン
コルリ
ノコマ
メジロ
センダイムシクイ
|
エゾライチョウ
フミルイ
|
エゾフクロウ
|
オオワシ |
|
オオワシは渡鳥
オジロワシは留鳥 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
200地学
|
210十勝川下流域の地質時代 |
211十勝川下流域の河岸段丘
|
河岸段丘は、河川の流れで侵食された地形面です。十勝平野は、その全域が十勝川による幾段もの河岸段丘によってできています。
浦幌町が所在する十勝川下流域には、古い面から順に十勝太Ⅰ面、十勝太Ⅱ面、十勝太Ⅲ面、新吉野面、池田面と呼ばれる河岸段丘があり、
十勝太1面とⅡ面は更新世中期 (70万から13万年前)その他の面は更新世後期に出来上がりました。地形面の比較によって、段丘の新旧関係を調べることができます。 |
|
215十勝平野形成に起因する化石
|
|
221最後のアンモナイト化石
|
2012年8月に十勝の浦幌町で発見されたアンモナイトが、アンモナイトで絶滅する直前の約6680万年前の地層から産出し、日本(北太平洋地域)で最後まで生き残っていたアンモナイトであったことが、北海道博物館、三笠市立博物館、足寄動物化石博物館、浦幌町立博物館の最新の研究から分かりました。
このように、北海道では毎年新しい発見がされており、少しずつ太古の世界の秘密が解き明かされています。 |
浦幌町に分布する地層とアンモナイトの発見
|
化石は、浦幌町の茂川流布(モカワルップ)川沿いの露頭で発見されました。
この地域は、北太平洋地域で唯一、6600万年前の巨大隕石が衝突したことによる影響で作られたと考えられる地層(黒色粘土層)が露出しています。
6600万年前は、恐竜やアンモナイトなど生物の大量絶滅が起こったことで知られ、その主な原因は巨大隕石の衝突による影響が考えられています。
今回のアンモナイトは、この地層から約15m古い(下位の)地層から発見されました。 |
浦幌町に分布する地層とアンモナイトの発見 |
|
6600万年前の露頭 |
アンモナイト化石 |
|
|
|
223十勝管内で初めて発見されたアンモナイト化石
|
2015年(平成27年) 11月26日 (木曜日) (第3種郵便物認可) 十勝毎日新聞
浦幌のアンモナイト 絶滅直前まで繁栄 道博物館発表 28日から化石公開
【札幌】北海道博物館(札幌)は25日までに、2012年に浦幌町で発掘されたアンモナイトの化石が、北太平洋地域で最後まで生き残ったアンモナイトであったことが判明したと発表した。近く日本古生物学会の機関誌に掲載する。この研究成果を踏まえ、同館は2日から「北海道のアンモナイトとその魅力」と題した企画展を開き、化石標本を公開する。
浦幌町のアンモナイト化 石は2012年8月、同町内の茂川流布川沿いで発見された。調査の結果、巻き アンモナイトの一種「ディプロモセラス シリンドラ セアム」と同種で、約6680万年前の産出と推定さ れた。 アンモナイト類は白亜紀末の約6600万年前に巨大隕石(いんせき)の衝突の影響で絶滅したとさ れ、化石の地層などから、このアンモナイトが北太平洋地域で最後まで生き残っていたものと断定した。
同館の栗原憲一学芸員は「絶滅時にどのようなアンモナイトが繁栄していたかは一切不明だったが、今回の研究成果で、本種が隕石衝突の直前まで繁栄していたことが初めて明らかにされた」としている。
この成果は日本古生物学会の国際誌「パレオントロジカル・リサーチ」に掲載される予定。同館の企画展は26日から来年1月17日まで開かれる。入場無料。同館の住所は札幌市厚別区厚別町小野幌53ノ2。月曜休館。 (道下恵次)
北太平洋地域で最後まで生き残ったアンモナイト (浦幌町立博物館所蔵、画像提供・北海道博物館) |
十勝管内で初めて発見された
アンモナイト化石
|
|
最後まで生き残っていたアンモナイト化石 |
|
ディプロモセラス シリンドアセラム
白亜紀
6600-7200万年前
|
|
|
225アンモナイト化石採集状況
|
第3種郵便物認可
北海道博物館 (札幌市厚別区)は20日、2012年に十勝管内浦幌町で発掘された化石が 6680万年前のもので、 北太平洋地域では最も新しく、最後まで生き残っていたアンモナイトだと発表した。 6600万年前には巨大隕石の衝突が原因とされる生物の「大量絶滅」が起きており、アンモナイトが大量絶滅直前まで、海の中で繁栄を続けたことを裏付ける発見だ。 (文化部編集委員 橘井潤)
6680万年前の北太平洋地域
浦幌産化石最後のアンモナイト 12年8月発掘 道博物館が研究発表
同博物館の栗原憲一学芸員らが明らかにした。この化石は12年8月に同町の茂川流布川沿い の露頭で発見。1体のアンモナイトの殻部分で、水道管を折り曲げたようなU字形をしており、最長部分が約30cm。当初は種類は分からなかったが、他標本との比較から白亜紀に生息していた「異常巻きアンモナイト類」の「ディプロモセラス・シリンドラセアム」と同定した。
発掘現場は根室層群という地層のグループ。北太平洋地域で唯一、巨大隕石の衝突の影響で できたと考えられる黒色粘土層 (約6600万年前)があり、これを境に白亜紀と古第三紀の地層が平行に並んでむき出しに
なっている。白亜紀側には「古地磁気転換」の痕跡から約6800万年前と判明している地層があり、化石はこの地層と黒色粘土層の中間で見つかった。二つの地層との距離から、化石の産出年代は6680万年前と推
定された。世界的にはもっと新しい年代のアンモナイトも見つかっているが、これまで北太平洋地域では宗谷管内中頓別町、釧路管内厚岸町、兵庫県淡路島、サハリンの、それぞれ約6800万年前の地層から出た化石が最も新しいとされていた。
栗原学芸員は「80万年は地球の歴史の中ではほんの一瞬。この種類のアンモナイトが北太平洋地域でも絶滅直前まで繁栄していたと考えて間違いない」という。付近ではサメの歯や二枚貝、サンゴなどの化石も見つかっており、大量絶滅前の北太平洋地域の海の生態系の解明が進みそうだ。
この研究は、同博物館、三笠 市立博物館、足寄動物化石博物館、浦幌町立博物館の共同成果 として、日本古生物学会の国際誌「Paleontological Research」に近く掲載予定。
この化石は、北海道博物館で28日から来年1月17日まで開かれる企画展「北海道のアンモナイトとその魅力」で展示される。共同研究した3博物館でも同日からレプリカが並ぶ。
【検索資料】
アンモナイト
約4億年前のデボン紀から6600万年前の白亜 紀末まで、海洋に広く生息していた頭足類 (イカやタコの仲 間)。通常は平面らせん状に巻いた殻を
持つが、白亜紀には不規則な形の異常巻きが出現した。
白亜期末の大量絶滅
6600万年前、恐竜、翼竜、首長竜、アンモナイトなど、多くの生物が絶滅した。 巨大な隕石の衝突で起きた火災と、巻き上げられたちりによる気温の低下が原因とする説が有力だ。
古地磁気転換
地磁気とは地球の磁気のことで、数万~数百万年に1度、N極とS極が反転する。火山岩や堆積岩には それができた時の磁場が記録されており、これを分析すると地磁気が転換した年代が分かる。
【写真】
(左)北太平洋地域で最後まで生き残っていたアンモナイトと分かった浦幌町で出土した化石
(右)化石産出地点付近の地層 十勝管内浦幌町 |
|
|
230十勝・浦幌の自然誌 |
231デスモスチルス 1800万~1100万年前
|
中新世前期~中期の哺乳類で、束柱目を代表する属。名前は、臼歯が柱(stylus)を束ねた(desmos)ような形をしているので付けられました。
日本列島(本州,北海道),サハリン,カムチャツカ,カリフォルニアなど,北太平洋の沿岸地帯でのみ生息していたらしく、日本の化石の半数以上が北海道内で発見されています。 |
|
232
|
デスモスチルス
・ジャポニカス
浦幌町合流産出
北原甲子生1977
|
デスモスチルス臼歯
|
|
|
|
デスモスチルス・
ミノール
浦幌町興部沢産出
木村某1936
|
|
|
デスモスチルス・
ジャポニカス
浦幌町上厚内 木村定吉1965
|
|
|
|
233化石が含まれているノジュール
|
|
240K-Pg境界 6600万年前
|
白亜紀と第三紀の境をK-Pg境界(6600万年前)といいます。1984年、浦幌川の支々流モカワルップ川岸の活平層の中にK-Pg境界があり、宇宙起源のイリジウムを含んだ粘土層があることがわかりました。
この粘土層は、6600万年前、小惑星が地球に衝突したため、中生代に栄えた恐竜が絶滅したと言う説を補強するものとなりました。
※K-Pg境界とは、恐竜の絶滅で知られる6600万年前の小惑星の衝突による大量絶滅、大地変のことです。
※白亜紀:約1億4,500万年前から6,600万年前。正しくは、 1億4,550万年前から6,550万年前
※第三紀:正しくは新生代古第三紀。6430万年前から260万年前
※日本にも(北海道にも)6600万年前の隕石衝突の地層があったとは驚きです。やはり小惑星の破片であるイリジウムが検出されたんですね。 |
|
241K-Pg境界
K-Pg境界 |
K-Pg境界
|
|
K-Pg分布図 |
K-Pg境界 |
|
243K-Pg境界の削り取り標本
|
245白亜紀の化石
|
町内で最も古い地層は、
中生代白亜紀に属する活平層(かつひら)で、約1億年前のものです。活平層にはイノセラムスやホタテなどの貝化石を含んでいることから、この時代は海だったことがわかりました。また、
新生代始新世( 53,00万~ 3370万年前)には浦幌炭鉱の石炭層が作られました。
中新世(2300万~530万年前)に属する厚内層からはイデタマキガイやウバガイなど「厚内-峠下動物群」と呼ばれる化石が、
更新世(175万~1万年前)に属する十勝太層からはサルボウガイやマガキなどの貝化石が豊富に発見されます。 |
木の化石と生痕
|
2017年に浦幌川で採集された、木の化石。採集場所は中浦幌の円山地区の音別層で、約2000万年前のものと思われる。
木の中に入り込み、トンネルを掘りながら組織を食べて進む二枚貝の仲間フナクイムシの這った跡が見られる。こうした動物の歩いた跡などの痕跡が残る化石を「生痕化石」と呼ぶ。
発見者は付近に住む松田皓太さん(当時、浦幌小学校)。
※フナクイムシは二枚貝の仲間だったのか。だから、食用になるのか。生きたまま食べたら胃袋を食い破られると思った。
※生痕化石と言えば、30年ほど前西表島の海岸で、海岸一帯が生痕化石であることを見つけて、とある研究者に連絡したところ、石垣島の高校生が調査したと連絡があった。ただしその報告書は見ていないから、高校生物部が調査したが、報告書はなかったようだ。(調査ノートだけ)その後、破壊されたと聞いている。西表島星砂の浜である。西表島は何度も訪れた離島だが、その話を聞いて確かめに行った。確かに広大な生痕化石は全て消え去っていた。なぜ、こんなことをするのか、全く理解できず、本当に腹が煮えくり返った。壊すだけ壊して、その跡に何もないのだから、壊す理由もなかったはず。実に悪質。沢山の親子を動員して開聞岳のカンランセキを取り捨ててしまった行為と同じである。 |
|
|
化石 |
フナクイムシの生痕化石 |
|
|
タカハシホタテ
新生代第三紀中新世
|
化石
新生代第三期始新世
|
|
|
|
|
|
249海牛類の肋骨 500万~200万年前
|
2015年に浦幌川で採取された、海牛の肋骨と思われる化石。採集場所は上浦幌の貴老路地区の本別層。
採集地周辺は、化石を含んだ石(転石)が上流から頻繁に流れ着くことで知られている。
採集者は、上浦幌の酪農家で化石採集が趣味の、松田元教育委員長。 |
|
|
250アロデスムスの化石 中期中新世諸島 約1500万~1200万年前
アザラシの祖先 この頃の気候は寒冷だったようです。 |
251
|
|
二枚貝化石
タテヒダシャクシ
|
アザラシの仲間の化石
アロデスムス
|
最古の二枚貝
タテヒダシャクシ貝 |
鰭脚類アロデスムス
新種だった
|
|
253アロデスムスの化石
|
約1600万年前(中期中新世初頭)に北太平洋の東海岸に出現し、約1500万年前から1200万年前に、日本近海にも生息した鰭脚類(ききゃくるい)です。
アシカ科とアザラシ科の両方に似た特徴があり、どちらに近いか説がいくつかあります。前足も後ろ足大きく、巨大な目と単純化した歯が大きな特徴です。
オスは体長3m以上、体重300kgほどに成長し、メスは一回り小さかったようです。
1200万年前頃から始まった海洋の寒冷化とともに衰退し、約1000万年前に絶滅してしまいました。 |
|
この化石が新種であることがわかりました
学名:アロデスムスウライポレンシス Allodesmus uraiporensis
およそ1500万年前に生息していた、 鰭脚類 (アシカやセイ ウチに近い仲間)のアロデスムスという海棲哺乳類動物です。 新種であることのほか、日本で最も古いアロデスムス類の化石であることもわかりました。
化石の実物資料 (タイプ標本)は、 足寄動物化石博物館に 収蔵されています。 |
|
254アロデスムス厚内標本
|
この標本は、1991年帯広市在住の井上清和さんが発見し、後肢の部分を含むブロックを収集しました。翌年、最後部を発掘するとともに、河原に散らばっていた頭部から腰部にかけてのブロックを回収し、合わせてみるとほぼ全身の骨格があることがわかりました。
現在、足寄動物化石博物館でクリーニング作業進めています。 |
|
255アロデスムス標本
|
|
260北海道の成り立ち |
261
6600万年前
K-Pg境界(浦幌町)
|
6600万年前
|
およそ6600万年前、巨大隕石が地球に衝突し黒いチリが気球を取り巻き、恐竜やアンモナイトが絶滅した頃、
十勝を含む北海道の東部は、遥か遠くの海底でした。
K-Pg境界層が日本で唯一、浦幌町茂川流布で発見されています。 |
|
3000万年前
シンカイヒバリガイ化石
(浦幌町)
|
3000万年前
|
およそ3000万年前、プレートが移動。深海の湧水に含まれるメタンや硫化水素エネルギーに生息していたシンカイヒバリガイの化石が浦幌町上厚内で発見されています。 |
|
1500万年前
アロデスムス化石
(浦幌町)
|
1500万年前
|
およそ1500万年前、浦幌は遠浅の海辺に位置し、哺乳類のアロデスムスやデスモスチルスが暮らしていました。
町内の数カ所から歯や骨の化石が発見されています。 |
これ以降の北海道の成り立ち
「北海道という島のなりたち」 対馬の名石館 |
|
262十勝浦幌の貝化石
浅い海だったころ 1500万年前頃
|
263十勝の大地のおいたち
|
264珍種巻貝
|
珍種巻貝 |
|
265希少巻貝
|
|
270貝化石 |
271
|
273シンカイヒバリガイ
国内最古のシンカイヒバリガイについて
|
2009年8月1日に上越教育大学の天野和孝教授、古生物学者ロバート・ジェンキンズ氏、帯広市在住井上清和氏らが浦幌町に分布する約3000万年前の前期漸新世(下部統)の地層から深海シンカイヒバリガイ化石を発見しました。このシンカイヒバリガイ類化石はは国内最古で、世界で2番目に古い記録です。 |
シンカイヒバリガイとは
|
シンカイヒバリガイは、イガイ科に属する2枚貝の一群を指します。シロウリガイ類と同じように主に海溝に分布するメタン湧水や海嶺に分布する熱水付近に生息しています。
シンカイヒバリガイ類はエラに硫黄酸化細菌やメタン酸化細菌を共生させており、海底下から湧いてくるメタンや硫化水素を利用して栄養を得ている特殊な2枚貝です。 |
|
国内最古シンカイヒバリ貝
シンカイヒバリガイとは
|
音別層群縫別層
3000万年前
|
ウラホロシンカイヒバリガイ |
|
|
275マガキ化石
マガキ化石
新生代第四紀更新世
約258万年前~約1万1700年前
|
浦幌層群3500万年前 |
|
|
280 |
283厚内層群オコッペ沢層 1580万年前
|
厚内層群オコッペ沢層
1580万年前
|
化石を含有するノジュール |
|
エゾボラの仲間 |
エゾボラの仲間 |
厚内層群オコッペ沢層
1580万年前
|
アカガイ(サルボウ) |
マキガイ |
|
エゾボラって、
蝦夷法螺ホラ貝のことなんだ。寒流に棲息するのは、成長が凄く遅いのだろう。 |
|
|
285ウラホロミガキボラ
|
2014年に浦幌町字勝平の活平層」と呼ばれる地層から産出したエゾバイガイ科の化石。従来見られなかった形態のため、新種のさらに上位の分類単位である新属として発表された。属名は「ウラホロステファエラ」で、「浦幌」の名が付けられている。暁新世は約6500万~5400万年前の地層で、活平層は暁新世の地層まとまって観察できる国内でも数少ない地層として知られる。上越教育大学や金沢大学が毎年化石調査に訪れている。 |
イノウエタテヒデシャクシ
浦幌町川流布で発見された約6000万年前の新種化石
軟体動物門二枚貝網シャクシガイ科タテヒダシャクシガイ属
|
浦幌町川流布の茂川流布川に注ぎ込む沢沿いで発見された、約6000万年前の化石で、シャクシガイ科タテヒダシャクシガイの新種として2020年に発表された。タテヒダシャクシガイの化石記録は少なく、これまでは富山県産の約1700万年前の化石が最古とされてきた。
学名は永年白糠丘陵で化石採取を続けている帯広市在住の井上清和氏への献名。命名の基準となるタイプ表は、茨城県の国立科学博物館収蔵庫へ保管された。 |
|
|
300考古学
|
310発掘 |
311
|
312発掘現場の再現
|
315発掘の様子
|
遺跡の発掘調査は、私たちの過去と未来を知るために行われます。
私たちの祖先が残した文化遺産は、私たちの子孫に受け継がれるべきものです。
このかけがえのない文化遺産を後世に伝えることも私たちの使命のひとつです。
遺跡の発掘は、慎重かつ、計画的に行われます。
それは一度発掘してしまったら二度と同じ遺跡席を調査できないのだから、遺跡の発掘は、遺跡の破壊と同じ」と言うこともできるからなのです |
遺跡の発掘 |
|
発掘前
|
測量 |
表土の剥ぎ取り |
発掘 |
住居跡覆土採取用メッシュ
|
住居跡の発掘
|
地層の図面づくり |
出土した土器 |
固形剤塗り
|
住居床面の採取 |
住居全景
|
図面づくり |
土の天日乾燥 |
極小品の選別 |
極小品の選別 |
以降省略 |
|
|
320北海道先史文化の移り変わり
※この年表には縄文草創期が記述されていません。発見以前のバネルです。
しかし、北海道の草創期は本州から流入した縄文人の一次的な文化であり、1万4000年前以降の土器文化にはつながっていません。
従って、ほとんどの地域では、以前のままの年表で十分なのだと思います。それに第一、めっちゃ!金かかるしね。
|
旧石器~早期
草創期の土器は未記述 |
前期~晩期 |
後期~擦文(平安) |
続縄文~アイヌ期
弥生~江戸 |
|
旧石器
|
旧石器~早期
石刃鏃文化 |
早期~前期
大規模集落 |
中期
円筒土器・大型土偶 |
後期~晩期
環状列石・石棒 |
続縄文-オホーツク
オホーツク文化 |
オホーツク・擦文
土器・方形住居 |
アイヌ文化
土器文化終了
鉄器文化に移行 |
アイヌ文化
西欧の進出と
対和人戦争 |
|
オホーツク文化後にトビニタイ文化が書かれていないのは、
この地域には存在しなかったからでしょう。 |
|
|
|
400土器列展示
※ 北海道縄文土器の移り変わり
※この館の展示の中心。これを見るために遠く関西からやって来ました。
|
410縄文時代
|
|
以下の展示は、縄文早期、晩期・続縄文、擦文時代の三時期となっています。
早期1万2000~6000年前、晩期3000~2500年前、続縄文2000~1600年前、擦文1400~700年前
早期は6000年間もあり、
吉野遺跡は8200年以前、
浦幌新吉野台細石器遺跡や共栄B遺跡は 8200年前頃の寒冷期の遺跡と考えられます。
平和A遺跡は更に後の7000~5000年前とあるので、およそ6000年前頃の早期末のようです。
※写真横列は、一つのアンドンケース(行燈)ごとです。 |
深鉢形土器 縄文早期 吉野遺跡
|
口縁部が小波状を呈する中型土器。土器内外に外側からあけられた補修孔がある。土器下部は、過熱を受けもろくなっている。 |
※吉野遺跡の発掘調査報告書は内容が公開されていない。
|
※吉野遺跡の詳細不明
なので、浦幌町 縄文早期 吉野遺跡で検索すると、浦幌新吉野台細石器遺跡がでる。これは吉野遺跡ではない。8,200年前以降の遺跡。
しかし、この土器列には含まれていない遺跡です。なぜか、ずっと後にでてきます。
仕方ないので、イリーガルだが、説明を補足しておきます。
浦幌新吉野細石器遺跡は、縄文時代早期にシベリア大陸から北海道に伝播した石刃鏃文化の遺跡で、本邦で最初の発見地です。
この遺跡は、昭和9年(1934)に地元の考古学者が発見し、昭和18年(1943)に「細石器遺跡」として学会に報告され大きな反響を呼びました。
浦幌新吉野台細石器遺跡は浦幌町共栄。共栄B遺跡など近隣しています。
吉野台地には近接して多くの遺跡が集中しています。
浦幌新吉野細石器遺跡は大変重要な遺跡でした。 |
|
深鉢形土器 縄文早期 (石刃鏃文化) 共栄B遺跡 7500年前
|
土器内外を横位の条痕文で調整し、口縁部には斜位に、その直下には5段の絡状体圧痕文を施した中型土器。
この型式の口縁部輪郭は時として小判型になる。石刃鏃石器を伴うことで知られる。 |
|
|
|
遺跡は浦幌川西岸の標高20mの河岸段丘上にある縄文早期の石刃鏃文化の遺跡です住居跡2軒、土壙19基、焼土跡2ヶ所などとともに多数の浦幌式土器と石刃鏃石器群が発見されました。
石刃鏃文化はシベリアに原郷があり、アムール川中流域のノヴォペトロフカ文化との共通性が認められます。
住居跡2軒のうちの1軒は隅丸方形、1軒は円形で、いずれも石刃鏃文化の遺構です。
浦幌式土器とともに、石刃鏃、石刃槍、石斧、石錘、各種装身具が出土しています。なかでも玦状耳飾りは日本で最古と考えられています。引用北の縄文 |
深鉢形土器 縄文早期 平和A遺跡
|
口縁部に8つの突起を持った土器。突起と突起を結ぶ、断面三角形の微隆起線文が軽やかに施されている。
土器の下半分を欠いているが、この地域の縄文早期土器の特徴をよく示している。 |
|
|
|
口縁部に8つの突起を |
平和A遺跡は
• 縄文時代早期7000年前~5000年前
• 国内最古の軟玉ひすい装身具も発見
• 北海道日高産のひすい ネフライト(nephrite)
• 十勝地方は当時、日本のファッションの最先端?
引用「北海道の自然 2015」 |
|
日高翡翠 引用「日高翡翠」
幻となった第三の翡翠
日高翡翠は北海道日高町産の緑色の宝石です。
クロムダイオプサイト(クロム透輝石)の一種ですが、翡翠と似た構造を持ち、緑色の美しさやツヤ・透明感などが翡翠同様に優れていることから“第三の翡翠”とよばれています。
翡翠はヒスイ輝石からなる硬玉(ジェダイト)と角閃石からなる軟玉(ネフライト)の2種類に分けられますが、日高翡翠はそのどちらでもない翡翠の新種というわけです。
日高翡翠のベースの緑色はクロムによる発色ですが、ウヴァロバイト(濃緑)・クロムスピネル(黒)・ペクトライト(白)などの鉱物も含まれており、渦巻くようなマーブル模様、絵の具を細かく散らしたような点模様などがみられます。こうした独特の模様も日高翡翠の魅力のひとつといえるでしょう。
日高翡翠の存在が知られるようになったのは昭和後期のことでしたが、宝飾品に使用するためにさかんに採掘され、わずか数年でほとんど採り尽くされてしまいました。そのため現在では“幻の翡翠”として希少価値が高まっています。
※国立公園内で採掘したとは、どうやって採掘権を入手できたのでしょう。 |
|
|
|
※十勝太若月遺跡について
|
十勝太若月遺跡は縄文早期から江戸時代までの複合遺跡。各時代の多くの遺物や人骨が出土した大変重要な遺跡です。 |
|
十勝太若月遺跡 浦幌町 コトバンク ガラス玉 浦幌町 発掘された十勝の遺跡 tonton
引用「発掘された十勝の遺跡」
〇続縄文時代後半期の墓から後北式土器が出土している。副葬品に本州方面伝来と思われる碧玉製の管玉やガラス玉がありました。
〇擦文時代の生業は、続縄文までの狩猟・漁労・採集を基盤としたものに、農耕の要素が加わったものとされます。
十勝太若月遺跡の住居跡から、炭化したオオムギ・キビ・シソが出土しており、周辺でこれらの作物が栽培されていたものと考えられます。
この遺跡や周辺からはフイゴの羽口や紡錘車が出土しています。
〇浦幌町下浦幌に所在する続縄文~擦文時代を主体とする遺跡。
擦文期の焼失住居から、炭化したオオムギ・キビ・シソが出土したことで、当地での作物栽培が明らかとなった。 |
|
|
420縄文晩期~続縄文時代
続縄文時代(紀元前3世紀から紀元後7世紀)(2500年前~1400年前)(弥生時代~古墳時代)続縄文時代は1000年弱続いた
縄文時代中後晩期の土器は続縄文時代前半まで使われました。続縄文後期に後北式土器が登場します。
|
後北式土器 続縄文時代後半期になると、「後北式」と呼ばれる土器が北海道全域に広がり、さらに宮城県北部や新潟県、千島列島中部からも出土するようになります。この土器を伴う墓が浦幌町十勝太若月遺跡から出土しており、副葬品に本州方面伝来と思われる碧玉製の管玉やガラス玉がありました。引用「発掘された十勝の土器」
後北式土器の特徴
口縁部に、2個1対、or1個1対の小突起をもち、微隆起帯と帯縄文が放射状、菱形状に施されている。
この土器は1対の小突起があり、帯状の線文と、菱形状の線文がある。 |
|
421浅鉢形土器 縄文晩期 十勝太若月遺跡 3000~2500年前
|
口縁部に刻みのある一対の緩やかな突起を持ち、胴部と底面には無文地にやや太い目の工具による曲線が刻まれている。
特に底面は同心円状の文様が独特の印章を与える |
|
|
|
貫通孔がある |
貫通孔は最初から開けていた。ひっかき線が孔をよけている。
逆さまにして作った土器のようです。 |
|
正面写真
下に鏡が |
底面写真
鏡に写った面 |
底面に同心円を施文
|
火の中で高温になった土器を、二本の棒で挟んで取り出すために、滑り止めの太い線が必要だったのかなぁ。 |
文様はナマ乾きの時でなく、粘土整形直後にひっかいたようです。
とても大胆な、勢いのある線を一気に引いています。手だれの者。 |
|
|
422深鉢形土器 続縄文時代 十勝太若月遺跡
|
微隆起線文を沈線に置き換えたような文様を持つ土器で、底面は糸底に作られている。後北C1式土器では極めて珍しい例で類例は少ない。
この墓の土器の全ては完全に破壊されており、復元されたものは少ない。 |
|
後北c1式土器 土器写真
後北C1式土器は道央部の系統から生じた土器で、続縄文時代後期の道内全域に分布する。
文様は胴下半部に縦方向の縄文、上半部には横方向の縄文とともに隆起線がつけられており、特に隆起線による眼鏡状のデザインが特徴的である。
※道央部石狩平野と北海道各地との激しい人的交流や活発な交易が考えられる。道央部が中心的な存在になったのだろうか。 |
|
423壺形土器 続縄文時代 十勝太若月遺跡
壺形土器 |
|
|
|
|
|
|
|
|
※左:鍋型土器と右:妊婦形土器?
妊婦型土器には、子供の遺体や成人の二次埋葬用の土器棺に使われることがある。東北北部で顕著です。
妊婦をかたどり、再生を願った土器なのでしょうか。出産をイメージしたのでしょうか。
それとも貯蔵用土器でしょうか。文様と装飾が他に例を見ない。 |
|
|
|
424深鉢形土器 縄文早期 浦幌新吉野台細石器遺跡 7500年前(較正前か)
|
口唇部に一対の隆起を持ち、口縁部には横走する9段の撚糸圧痕文、胴部には羽状縄文が施されている。
口唇部から垂下する隆起帯と胴部を一周する隆起帯が貼付されており、この型式としてはやや新しい要素を持つ。 |
※どんな意図があって縄文早期遺跡の土器を続縄文土器の列に入れたのでしょうか。
|
|
430続縄文時代 |
431壺形土器 続縄文時代 十勝太若月遺跡
|
対をなす波状口縁の頂部が2山となり、その直下からややずれて貫通孔のあるボタン状貼付がアクセントをつけている。
口頚部に縄線文が4段施され、無文帯下には底面に至るまで無節縄文が横方向に施文される。 |
|
432深鉢形土器 続縄文時代 十勝太若月遺跡
|
土器表面の上半部には横方面、下半分には縦方向に撚糸文が施される。口縁部には、内側からの刺突文が土器を一周し、外側にコブを作っている。
土器は全体にもろく、表面の剥脱も激しい。
※一周する刺突文は貫通孔であるから保存用には不適。土器全体がもろいことから長期間火熱にさらされたようだ。 |
|
433深鉢形土器 続縄文時代 十勝太若月遺跡
|
地文の斜行縄文と口縁部の沈線文からなる小型土器。
土器は、全体の約2分の1を欠いているが、口縁部の曲線文は続縄文時代前葉の特徴と縄文時代晩期の土器の特徴を併せ持っている。
底面にも幾何学的模様がある。 |
|
|
440続縄文時代 |
441壺形土器 縄文時代後期 十勝太若月遺跡
|
胴部のの張り出した小型土器。口唇部直下からそ底部にかけて細かな刺突文と曲線文が連続的に施され、独特の幾何学文を幾何学文様を作り出している。
縄文時代後期の土器の様相を装よく表している。 |
※大変丁寧に造られた精製土器である。見事な文様です。製作者の息遣いや手の動きが見えてきそうです。土器棺なのか、儀式用なのか。
|
443深鉢形土器 続縄文時代 十勝太若月遺跡
|
縦と横の微隆起線を基本に文様構成された後北C1式土器で、縦の隆起線が4本施され、刺突文が縦の隆起線の間や横の隆起線に沿って押引き文のように施文されている点は、他に例がない。 |
|
445把手付片口浅鉢土器 続縄文時代 十勝太若月遺跡
|
一方に2個の耳状把手、他方に片口がつく。耳と耳の間及び側面に微隆起線による円形文を配し、それをつなぐ文様構成はバランスが良い。
内面にも縄文が施文され、底面は糸底となっている。
※液体を入れ、注ぐ土器。鍋から液体を移すのにはひしゃくが必要。片口から注ぐには、これより小さな椀が必要。ひしゃくと椀は木製だったか。 |
|
447深鉢形土器 続縄文時代 十勝太若月遺跡
|
器高32cmのやや大型の土器。口唇部には2山1組からなる突起が2対付けられ、口唇部直下から胴部上半に至るまで断面三角形の微隆起線文、
底部近くは縞縄文となる。(※縞縄文(しまじょうもん)の意味は不明。)
底面は糸底で、後北C1式の特徴をよく出している。
※縞状の縄文は、縄文原体を転がさず、横や縦にひいて溝を付けたものらしい。その間に刺突文を多量に施して施文している。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
一度施文した上に何度も施文を重ねた、何かをつぶやきながら施文する様子が浮かんでくるようだ。ちょっとサイコパスかな |
|
|
450擦文時代 7~13世紀 1400~700年前 飛鳥・奈良・平安・鎌倉時代後半
|
擦文とは、土器の表面に付けられた「須恵器を模して木のへらで擦ったあと」のことをいいます。
擦文文化の人びとは、同じ時期の本州にみられるカマドを取り入れた四角い竪穴住居で暮らし、住居の中央には伝統的な囲炉裏がありました。
8世紀になると、人びとは河口近くに集落をつくり、サケやマス、野生植物をとり、アワやキビ、オオムギなどの栽培をしていました。
このころの北海道は、東北地方とさかんな交流があり、その強い影響を受けていました。 |
|
451深鉢形土器 擦文時代 十勝太若月遺跡
|
複段の鋸歯状文を持つ中型土器。表面はかなりの加熱を受けて、裏表に煮汁と考えられるカーボンの付着が著しく、もっぱら煮炊き用に使用されたものであろう。深鉢深鉢型の擦文土器は、このくらいのサイズのものが比較的に多い |
十勝太若月遺跡
|
擦文時代の生業は、続縄文までの狩猟・漁労・採集を基盤としたものに、農耕の要素が加わったものとされます。十勝では、浦幌町十勝太若月遺跡の焼失住居跡から、炭化したオオムギ・キビ・シソが出土しており、周辺でこれらの作物が栽培されていたものと考えられます。この遺跡や周辺からはフイゴの羽口や紡錘車が出土しています。前者は鍛冶の時に使う送風装置の部品、後者は糸をつむぐ道具です。
12~13世紀頃には、土器文化が終わり、竪穴式住居が姿を消すようになり、擦文時代は終末を迎え、アイヌ文化期へと移行します。この変遷は連続したもので、両文化の担い手は同一であると考えられています。引用「発掘された十勝の土器」 |
|
考察 擦文土器の形
須恵器を模した擦文土器です。形がそれまでと大きく変化します。巨大な口縁部のふちです。まねされた須恵器にこのような形があるのかと思いましたが、それは全くありませんでした。不思議で奇妙な形です。週末縄文人氏が実証してくれた尖底土器と連結カマドでは、カマドの上部を三角に造って両脇から煙が抜けるようになっていました。
擦文時代のカマドは、焚口と煙突である排煙口があり、それが1本につながっていて、火を焚けば煙突から煙と熱が出る。
カマドは、その焚口の上に穴を開け、鍋としての土器を差し込んで熱します。すると、穴と土器の間に隙間があれば、煙が漏れます。漏れないようにするには穴に適合するように土器胴部をテーパードにして適当に位置で穴を胴部が塞ぐようにします。
土器上部の広い口縁部は、ここをもって土器鍋を引き上げるためのものではなく、おそらく煮こぼれを防ぎ、木製のふたを被せるためのものでしょう。
昔使っていた鉄鍋は丸底で、縁が少し広くなっており、そこに木製の蓋を被せるようになっていました。
擦文土器はカマドにかけっぱなしで、余り頻繁に引き出すと、壊れるので、そのまま調理して、広い口縁部は煙除け・煤除けにもなったでしょう。 |
|
453深鉢形土器 擦文時代 十勝太若月遺跡
|
口縁部と口頚部に施された横走沈線文を特徴とする古いタイプの擦文土器。底部を欠いているが、器高は32cmと推定される。
十勝太若月遺跡の標高のやや低い箇所からこの時代の墓がややまとまって発見された。 |
|
455深鉢形土器 擦文時代 十勝太若月遺跡
|
胴部に付けられたベルトが特徴的な古いタイプの擦文土器。刻みのあるベルトを境として、
その上部には先端の平たい工具による沈線とそれに沿って刺突文が、ベルトより下部は刷毛目痕が見られる。 |
|
※土器の特徴
擦文土器としては見たこともない形です。カマド内で加熱される部分と、胴から強く立ち上がった口縁部が大きく上に開いています。
熱効率がよくて、丈夫で、吹きこぼれがないように随分工夫された土器だと思います。 |
※擦文土器の使い方
形状が尖胴平底。尖り部分は火熱を受け、その上は燻されている。尖った胴部はカマドに入れ、平底がカマドの底に着いて支え、使ったようだ。
|
|
460擦文時代 |
461高坏形土器 擦文時代 十勝太若月遺跡
|
美しく整形され、焼成状態も良い高坏形の土器で、内黒。器全体を先端の尖った工具による沈線文で飾り、脚部は縦方向の削りが見られる。
底面は上げ底。器全体に光沢があり、上品な感じに作られている。 |
※高坏形土器は内黒土器になっている。東北地方の内黒土器と同じ。 水漏れを防ぐために煤で燻したようです。
不安定な底部です。そのまま下(地面や床)に置いたのではなく、底の穴を何かに差し入れて、転ばないように工夫したのでしょうか。
※このような高坏形土器が、カマドから発見されたという記事を見ました。カマドに掛けた状態だったのか、カマド付近にあったのか。
まさかこれをカマドにかけたりしないでしょう。書き方を間違えると変なことになりますね。カマドには掛けない土器です。
|
463深鉢形土器 擦文時代 十勝太若月遺跡
|
頸部に2条1単位の連続鋸歯状文、その下位に7~8条の横走沈線文を施し、その上から2条1単位の鋸歯条文、さらにその下に矢羽状の刻文、
最後に2条の横走沈線が施された土器。溝状遺構のある住居跡から出土した。(※溝状遺構のある住居の意味不明) |
|
465深鉢形土器 擦文時代 十勝太若月遺跡
|
やや大型で、鋸歯状文を持つ土器。口縁部はルーズに外側に開き、口頚部から底部に向かってすぼまる形態をし、末期の擦文土器の様相をよく示している。土器表面は磨かれたような光沢をしている。 |
|
※土器を磨く
擦文土器は木の箆で表面を擦った跡があるのが由来だが、週末縄文人氏のHPで、縄文土器を作る際に土器内部を石で磨いてツルツルにする様子が映されている。確かに、鍋の内部がツルツルでなければ使いにくいのが分かった。ここでは、土器表面をツルツルに磨いてから施文したようです。
終末期の擦文土器は、鉄鍋の模倣であり、表面までもツルピカにするほど、鉄鍋への憧れがあったことがわかりました。
それほど鉄鍋は使いやすかったのでしょうか。しかし、まだ、内耳土器が出現していないから、鉄鍋まではまだ遠いようです。 |
|
|
500壁面展示
|
510色々な土器 |
511縄文文化と土器
|
日本の縄文文化は、日本列島全域に及び、用途に応じて様々な形の土器が作られ、流行に即して様々な文様が生み出されました。
縄文文化の「縄文」は、土器の表面に付けられた「縄目」の文様にちなんだ名前ですが、
1万年もの間には、貝殻や棒で付けられた文様も見ることができます。
土器は、煮炊き、食料保存、食器などに使われていましたが、考古学者は土器を、時代を決定する証拠としています。
土器作りの文化は、北海道では縄文文化に始り、続縄文文化、擦文文化にまで引き継がれ、その一部は擦文文化が終わっても続きました。 |
|
|
縄文文化と土器 |
土器の作り方 |
土器の形
|
土器の文様 |
土器の地方色
浦幌町平和A 浦幌町平和A
浦幌町共栄B
浦幌町吉野
大樹町下大樹
|
音更町十勝川温泉1
清水町東松沢2
常呂町朝日トコロ貝塚
常呂町トコロチャシ南尾根
恵庭市柏木B
常呂町栄浦第2
|
|
|
|
|
|
515
|
517
底面にホタテ貝痕 |
底面に文様 |
上:最後に土器をひっくり返して糸じきを作り、指で施文したのでしょうか。
下:同様にひっくり返して、底面を平らにする必要があり、ついでに何かの目的で刺突文を突けた。 |
赤色塗彩 |
祭祀を盛り上げる赤色塗装。ベンガラは津軽半島産の舶来品。 |
|
|
|
520色々な石器 |
521
|
土器とともにたくさん使われたのは石器です。北海道では黒曜石を原材料とすることが多いのですが、頁岩やチャートが使われる地域もあります。
黒曜石は硬くて、剥がれやすい性質があり、ヤジリ、石ヤリ、掻器、石錐などが作られました。
また、オノは緑泥岩、石錘には砂岩や安山岩などが好んで使われました。 |
|
石器の材料
|
黒曜石原産地
|
|
黒曜石原産地
秩父別
滝川
赤井川
豊泉 |
名寄
近文台
|
白滝
置戸
十勝三股
美蔓 |
|
石器の作り方
|
1材料と道具
2剥片を剥離する
原石を両足に挟んでタガネをあてがい、ソフトハンマーで打撃する |
3荒割作業
ソフトハンマーで目的とする石器の大まかな形を作り出す
4細部調整
荒割した材料をえぐりのある道具で押剥がす |
5仕上げ
最後に周囲を調整して仕上げる 6仕上がった石器
木の葉形槍先完成 |
|
|
石器の使い方 |
溝を掘る
肉を切る
孔を開ける |
木を倒す
脂肪を掻き取る
獲物を突く |
|
|
|
|
522石器
|
523
|
靴箆形石器※
黒曜石 |
石銛※
黒曜石 |
石銛
黒曜石 |
小型石斧
緑泥岩 |
|
※靴形石箆 も 靴箆形石器と同じと思い。 引用函館市史
続縄文時代恵山式の時期になると縄文時代になかった新しい石器が出土する。片刃柱状磨製石斧、片刃偏平磨製石斧、環状石斧、靴形石箆(べら)、魚形石器などである。石鏃も薄手で鋭利なもの、銛先に付けた石銛※が現われ、動物の脂肪をかき取ったりする石器など、定形化した石器となって現われる。
靴形石箆は一種の小刀である。基部と刃部の間に段があって骨や木の柄を付けて用いた。
形が靴に似ているが、刃部が舌状のもの、三味線のばち形のもの、長方形などのものがある。
これらの靴形石箆は、片面に石器製作の時にできる剥片の湾曲面を残して片面と周縁の刃部を細加工したものと、
剥離面を残さず両面を再加工して刃を付けたものがある。
この靴形石箆は恵山式に現われて続縄文中期の江別式まで存在する。動物の肉を切り取るとか解体する道具として用いられたのであろうが、片面に剥離面を残したものは、脂肪を掻き取ったのでないかといわれている。 |
|
524
|
525装身具
|
527石製品
|
石刃 石核
|
石小刀
|
石錘 石ランプ※
砂岩 |
砥石
砂岩 |
|
石ランプ※
|
北海道立北方民族博物館ではイヌイットの石ランプを展示している。
竪穴住居のなかでは、アザラシの脂を溶かしながら燃やし、灯りと暖房と、調理にも使ったという。
引用➀7ページ 引用② 引用③ 沖縄写真通信 北海道立北方民族資料館➀ と ② どちらも石ランプで検索してください。
石ランプはアザラシの脂を溶かしながら燃やして灯りなどに使用する道具。 |
|
600壁面展示
|
610縄文時代 |
610北海道の初期の土器文化
|
611研究のはじめ
|
日本列島での土器作りは、約1万2,000年前から始まりましたが、北海道ではそれより約4,000年ほど遅れて始まりました。
北海道東部では、平底土器の文化が定着し、
北海道南部では、尖底土器が作られました。これは東北地方の影響を強く受けたものでした。
しかし、文様は貝殻文を使うと言う共通点がありました。
この土器文化に注目したのは北海道学芸大学の河野広道で、釧路市立博物館の澤四郎は、その体系化に大きな業績を残しました。
1959 (昭和34)年、東京大学文化人類学教室の調査した浦幌町下頃辺遺跡の土器は下頃辺式土器と名付けられ、
その発見は北海道最古の土器として多くの注目を集めました。 |
|
研究のはじめ |
|
|
|
|
尖底土器と平底土器
|
尖底土器の系譜は本州東北地方にあり、その広がりは道南から道央地域が中心です。日高山脈を越えなかったようです。
縄文人は縄文早期から本州と関わりを持っていたようです。カヌーによる往来が盛んだったのでしょうか。 |
|
613深鉢形土器 縄文早期 下頃辺遺跡 十勝郡浦幌町吉野
|
1959 (昭和34)年、東京大学文化人類学教室一行が発見した土器で、当時は北海道最古と言われ、その後の研究に大きな影響与えた。
小波状口縁と胴部の軽やかなヘラ描き沈線文が特徴。 |
深鉢形土器 縄文早期 平和A遺跡
|
北海道東部では最古の土器群。粗雑な器表に無文あるいは集合沈線文が施され、ラフな絡条体痕文や円形刺突文が加わることもある。
また、土器底面にホタテ貝の放射助痕が付されている例もある。 |
深鉢形土器
平和A遺跡 |
|
|
|
620シベリアから来た石刃鏃文化
東シベリアの石刃族遺跡の分布 石刃族とは 石刃鏃 石刃鏃文化が起こったわけ 8.2kaイベントと石刃鏃文化
|
621研究のはじめ
|
今から7000年ほど前にシベリア大陸から、特殊なヤジリを使う文化が北海道に伝わってきました。
このヤジリは石刃を加工したもので、日本の考古学者はこれを石刃鏃、このヤジリを使う文化を石刃鏃文化と呼んでいます。
浦幌新吉野台遺跡は、我が国で最初の石刃鏃文化の発見地で、1934 (昭和9)年に発見されて、
1950 (昭和25)年に北大の名取武光と斉藤米太郎が発掘調査しました。
隣接する共栄B遺跡も同種の遺跡で、シベリアのアムール川中流域のノヴォペトロフカ遺跡とよく似ていると言われています。
石刃鏃文化には、浦幌式土器が使われることが多かったようです。
参考:サハリンの早期新石器文化と縄文文化 |
|
研究のはじめ |
※石刃鏃について
石刃鏃文化についてほぼ理解できてないのです。バイカル湖文化センター付近で始まったようです。
石材を細長く剥がした剥片を石刃と言い、それを加工して鏃等を作った文化の呼び名のです。
なぜ名人芸の加工技術が必要なのか?深く刺さって致命傷を与えなければ捕獲できないような
厚い脂肪層を持つ動物がいたのか。(この時代にはマンモスは絶滅していたはず。)
同じバイカル湖文化センター発の細石刃文化とは真逆の狩猟具を使う文化集団です。
この石刃は、むしろ芸術品というべき技術です。
極上品質の黒曜石を潤沢に利用できることが背景にあったのだろうか。
北海道原産の黒曜石ではバイカル文化センター付近のような石刃はなかなか望めないが、、? |
|
622シベリアの石刃鏃文化遺跡
|
国別黒曜石原産地数
引用Wikipedia |
石刃族文化は、良質で大きな黒曜石原石が必要です。シベリアのどこに原産地があったのかはわかりません。しかし、ロシア全体としては18箇所しか産地がなく、にもかかわらず、下の遺跡地図には乗っていない、ベーリング海峡やカムチャッカ付近にまで遺跡が分散しています。(カムチャツカ半島は火山列が凄い)
原石の採取、運搬、加工にはわからないことがほとんどです。そしてこの文化の担い手は誰だったのでしょう。
ヨーロッパロシア+シベリアの広大な地域にわずか18箇所の黒曜石鉱山。
狭い日本には55箇所の黒曜石産地。 |
|
|
※片刃石斧 片刃石斧は、使途不明の御物石器や、両頭石器と呼ばれる用途不明石器、にとても良く似ています。
※北海道で栽培されていた植物品種の多くが北方系であることから、コンスタンチノフスカヤ |
|
625北海道の石刃鏃文化遺跡 縄文時代 8000年前
|
※参考資料 「北海道浦幌町の石刃鏃文化」 水野の縄文写真館 をぜひご覧ください。大変素晴らしいページです。
また、同氏の東日本遺跡巡り もご覧ください。しばらくすると消えてしまうかもしれません。全て素晴らしい遺跡紀行写真です。 |
※北海道の石刃族遺跡の分布 引用「集まれ!北海道の学芸員」石刃鏃分布図
極東の石刃族遺跡 |
北東シベリアの石刃鏃文化の遺跡が上図より多く記述されている。
沿海州地図 |
石刃鏃文化の南下 |
遺跡は北緯では秋田県付近まで南下している。
8.2kaeventの寒冷化でアムール川流域からウスリー川などをつたってウラジオ付近にまで南下し。石刃鏃原料は原石を産地まで取りに行ったのでしょう。 |
北海道の石刃族遺跡
なぜか日本の石刃族遺跡一覧や分布図はない |
図以外に沢山の石刃鏃遺跡がある。
内陸の富良野東山からも枝幸町・浜頓別町etcからも石刃族が見つかっている。
道東沿岸だけではない |
|
|
※資料
石刃鏃文化とは
|
遺跡の年代:8000年前~7000年前。縄文早期。 |
|
浦幌式土器:浦幌式土器は、土器の形や文様から、北海道中央部や東北北部の影響が強い土器です。 |
|
女満別式土器:紐を木片などに縛り付けて土器上を転がして付けた組紐圧痕文のほか、刺突文・竹管文の文様を持つ土器。引用Hi-Ho
特徴は型押文で、彫刻を施した棒を押し付けながら転がした文様がある。類似した文様がロシアで確認されている。引用集まれ |
|
石刃鏃文化とは、非常に高度な石刃技法によって得られた石刃の腹面に、簡単な剝離加工を施した鏃「石刃鏃」によって代表される特異な文化の総称である。石刃鏃文化の石器群は、黒曜石の石核から縦長形状の細く薄い石刃を連続的に多数剝ぎ取り、これを素材としたものが主体を占める。大陸が原郷土であり、シベリア地方のアンガラ川流域、レナ川流域、アムール川流域を中心に広く分布しており、北海道では道東北部を主に渡島半島を除く石狩低地帯付近にまで総数五〇カ所程の遺跡が分布していることが知られている。道東北部を除いた地域の他は、特徴的な石刃鏃のみの発見例であり、その南限は太平洋側で苫小牧、白老、登別、日本海側では札幌付近までである。 引用「テキスト/石刃鏃文化とは」 |
|
石刃鏃文化の土器 引用「北海道浦幌町の石刃鏃文化」
浦幌式土器:十勝では、絡条体圧痕文を口唇・口頭部に持つ平底土器を伴う。アムール川河口からも発見されたという。
女満別式土器:同時期の北海道常呂町のトコロ朝日貝塚からは石刃鏃と共に円形刺突文土器が見つかり、
女満別町豊里遺跡からは型押文土器が出土した。シベリア沿海州の遺跡からも女満別式土器に類似した土器が、石刃鏃と共に発見されている。
石刃鏃文化は中国東北部からも発見されている。 |
|
石刃鏃文化の発祥地
中石器時代から新石器時代初期にかけてユーラシア大陸北部に広く認められる。日本列島では,北海道東・北部に限って存在し,縄文時代早期浦幌式土器,女満別式土器などを伴う。
アジア大陸側では,シベリア,中国東北,モンゴルの各地に存在し,数多くの遺跡が報告されている。
細かく見ると,この文化には時代性と地域性の差を認めることができる。
シベリアの最初期の石刃鏃は幅1cm以下の細石刃に作られたもので,土器を伴わない中石器時代段階のものである。アンガラ川のチェリョムシニク遺跡が代表例である。
次に土器出現後の新石器段階の石刃鏃は,幅1cm前後以上の小型石刃から作られたもので,これには明確な地域性を認めることができる。
バイカル湖以西の地では,沿バイカルのヒン文化,オビ川上流アンドレーエフ湖遺跡,中央アジアのケルチェミナール文化の石刃鏃は,その柄が片抉りのものである。
ザバイカル,アムール川上流,内・外モンゴルにかけて分布する石刃鏃は,斜めの柄をもつものである。これら以東のシベリア各地(アムール川中・下流域,ヤクート地方,極東地方)
そして中国東北では,平らな柄,円い柄,作りだしの柄などの石刃鏃が分布し,北海道にまで達している。
これらの石刃鏃と伴出する土器も地域性をもっている。
アムール川中・下流域,極東地方,中国東北の土器はすべて平底であるが,
他の地域は丸底ないし尖底土器である。
平底の土器グループは,中国遼寧省のものでは櫛目ジグザグ文をもち,黒竜江省,ロシア・アムール川中流域では粘土紐を貼りつけた文様をもち,
北海道,サハリンでは絡条体圧痕文などが施文され,地域性を鮮明にしている。
平底土器をもつ石刃鏃文化は,銛などの骨角器,石錘そして自然遺物として魚骨を出土するなど,漁労活動が盛んであることを示し,ほぼ7000~5000年前の文化と推測される。 |
|
|
浦幌式土器 (東北北部・北海道中央部の土器)
626深鉢形土器 縄文早期(石刃鏃文化) 共栄B遺跡 (共栄遺跡、 新吉野台細石器遺跡、下頃辺遺跡など全て近接しています。)
|
北海道の石刃鏃文化を代表する土器。平底で、絡条体圧痕文を口唇部と口縁部に持ち、時として、土器平面形が小判形となるものもある。
また、補修孔と補修穴を沈線で結ぶという独特の技法や底面に木の葉痕があるものもある。 |
|
石刃鏃文化期の土器
|
|
|
|
|
隅丸方形の口縁部。
円形の口縁ではない。 |
|
|
|
|
|
|
627石刃鏃文化の石器 縄文早期(石刃鏃文化) 共栄B遺跡
|
628石刃鏃文化の石器 縄文早期(石刃鏃文化) 共栄B遺跡
|
629刃鏃文化の石器 縄文早期(石刃鏃文化) 共栄B遺跡
|
玦状耳飾、環飾
|
垂飾
|
石斧、石錘、石鋸
|
敲石
|
磨石
|
|
|
630続縄文時代 紀元前3世紀~紀元後7世紀 (弥生時代~古墳時代)
|
630続縄文文化と墓 |
631続縄文時代と十勝太若月遺跡
|
続縄文時代は、縄文文化の伝統を残しながらも鉄などを取り入れた文化で、本州の弥生文化に相当します。
この文化の遺跡からは墓が発見されることが多く、十勝太若月遺跡は大規模な墓遺跡としてよく知られています。
普通、墓は円形に地面を掘って墓穴としますが、十勝太若月遺跡には直径7メートル以上の楕円形の墓や、深さ1m50cmの円形の墓も見つかっています。
これらは、2体以上を埋葬した合葬墓の可能性があります。
副葬品は、土器のほかヤジリなどの石器、
ガラス製の小玉、碧玉製の管玉、コハク製の平玉などの装身具があり、本州産も含まれています。 |
|
※考察 土壙墓内の柱穴 上図④の土壙墓の図
土壙墓内に太さや位置がまちまちの柱穴があるのは初めて見ました。墓穴に屋根掛けするなら。覆土後に盛り土の外側、つまり穴の外に杭を打って屋根掛けするのが合理的なやり方。ところがこの穴では、死体を安置した直後に柱穴(杭)を打っている。しかも死体が横向き、膝かかえの姿に合わせて太い杭を6本打ち、その後、細い棒を2本打っている。その後、副葬品を入れ、柱上部をインデアンテントのように束ねて屋根掛けをしたのでしょうか。
これは、この土壙墓を一次葬とし、その後遺骨を取り出して壺に収容する二次葬を行なうと想像した場合です。
また、別に考えると、もしかするとこれは柱穴ではないのじゃないか。何かを支える目的に合致した位置には柱が立っていない。
以前、アイヌの墓は男女別形状の墓標を1本立てると知った。ところが「アイヌの墓」で検索すると、沢山の墓標が立っている写真がある。
アイヌ文化より遠い以前の続縄文時代には、槍を模した墓標(これが男性や狩人、勇者を表したのかもしれない)を土坑の中に、特に有力者には何本も立て、魔除けとしたのかもしれない。柱穴では意味不明だ。
私の子供の頃に、なぜか全国的にトーテムホールが大流行した。アラスカエスキモーの墓で、太い柱の上部に死体を入れた箱があると聞いている。白人の考古学者はその箱を開けて中の人骨を取り出した。まさに墓を壊したから先住民運動が起こったのだ。
日本の場合は、複合遺跡を掘ると、たまたま、アイヌ文化の土坑などがあり、掘ろうとして掘ったわけではない。カナダやアラスカとは随分と事情が違うようだ。
しかし、そんな墓標を全国の馬鹿教師が、それが なにかも知らずに、子供に作らせて、校内に立てて、喜んでいた。学校は墓場か。
ボーッと生きてんじゃねーよ! |
|
633土壙墓52出土品 続縄文時代 十勝太若月遺跡
|
124×90cmの楕円形の墓。坑底の壁に沿って9本の柱が立っていた。
副葬品は土器のほか、やや大振りな石鏃、砥石、棒状黒曜石、石斧、コハク製玉、蛇紋岩製玉類などがある。 |
|
副葬品 |
|
琥珀製玉類
蛇紋岩製玉類 |
石核・棒黒曜石・石鏃 |
石斧・石核・棒状黒曜石
|
大ぶりな石鏃
|
土器
|
|
砥石
|
|
|
|
635土壙墓82出土品 続縄文時代 十勝太若月遺跡
|
微隆起線文を直線あるいは曲線状に配置する続縄文時代後北C1式の好資料。
墓内から2個が直立したまま出土した。また、25個の石器が一緒に副葬されていたが、全て故意に割られていた。 |
|
|
|
故意に割られた石器 |
|
|
後北C1式 微隆起線文を直線あるいは曲線状に配置する |
後北C1式 |
|
|
|
|
|
637十勝太若月遺跡の副葬品(土壙墓82) 続縄文時代 約3・4世紀
|
玉
ガラス製 |
|
管玉
滑石製品
|
|
|
土坑墓出土の装身具
管玉
|
|
|
管玉と貝殻など溶けてしまうものが装身具になっていたのでしょうか。 |
|
|
|
|
640擦文文化 奈良・平安・鎌倉時代 1400~700年前 7世紀~13世紀
|
擦文とは、本州のロクロ成形の土師器をまねて、土器の表面を木のへらで擦った跡がついたのが特徴であったためにつけられた時代名称。
擦文文化では、擦文土器を使い、
住居は、地面に正方形の穴を掘り、その上に屋根を作った構造の竪穴住居に住み、内部では中央にたき火をする囲炉裏を設けるほか、壁際には「かまど」もつくられていました。
雑穀栽培を行うなど、本州の暮らし方を取り入れつつも、伝統的狩猟採集も行い、水田は作らない、といった北海道の地域性が強く表れた文化でした。 |
|
641住居と生活用具
|
擦文人たちは、大・中河川の河口付近に(交易目のため)ムラをつくりました。浦幌十勝川河口の十勝太地区にもこの時代に村が作られました。
戸数は500以上と言われていますが、一時期には数戸だったようです。
※人々は家の建て替えをせず、老朽化すると、近くに新しく地面を掘って新築しました。ために、付近には沢山の住居穴が残りました。
住居は、地面を正方形に70~100cm掘り込んだ竪穴住居で、中央に囲炉裏、東または南側の壁にはカマドをつくりました。
土器は、底の小さな深鉢型土器や高台のついた高坏形土器で、糸紡ぎ用の紡錘車や勾玉をまねた土製品もつくりました。 |
|
|
住居と生活用具
|
擦文文化の
遺跡分布図
|
擦文遺跡の分布
海岸線に沿って
(沿岸航路と交易)
大河川の流域
内陸盆地と交易路
交易の活発化 |
十勝太若月遺跡
ビフォー・アフター |
|
642十勝の擦文文化遺跡
|
|
|
|
|
|
十勝太地区の擦文住居跡分布図 |
十勝太の擦文遺跡 |
擦文住居
|
|
|
|
|
643木器 擦文時代 十勝太若月遺跡
|
火事になった住居からは、炭化した木器が出土した。
木製品は腐ってしまうことが多いが、火災のため炭化し、残ったのであろう。
多数の木製品が日用品として使用されていた。 |
柱と板 擦文時代 十勝太若月遺跡
|
住居跡に残っていた柱材と炭化した板材。竪穴住居の屋根を支える柱には、集落の近くで伐採することができ、丈夫なかしわ材などが好んで使用された。この柱材は、1000年もの間、腐らずに残っていたことになる。 |
柱と板
|
|
|
645紡錘車
|
糸を紡ぐためのはずみ車である紡錘車は、擦文時代の住居からよく発見される。中央の穴に捧を差し込み、回転させて使用した。
穴を中心に放射状あるいは同心状に見事な文様が施される優品も多い。 |
645拇指形掻器 擦文時代 十勝太若月遺跡
|
鉄は擦文時代には随分と普及していたが、初期の頃には黒曜石の石器も使用された。
この拇指形掻器は、擦文時代初期の石器で、円形の一部に刃がつけられている。 |
拇指型掻器 |
|
ピッ(錘石)
|
住居内から時折、細長い小石が発見される。この小石の用途はよくわかっていないが、民族例などからゴザなどを編むときに使う錘石であろうと推定されている。同様の小石は、アイヌの人たちも使用していた。 |
ピッ(錘石) |
|
筵(むしろ)、薦(こも)、だつ、俵(たわら)や、簾(すだれ)などを編むときに、
わら、茅、竹などを編むための縄、ヒモ、糸などを巻きつけておいて、材料を足すたびにヒモを伸ばして行く道具です。普通は、木製の棒で、中心に近付くほどテーパードになっていて、紐が巻きやすく、なっています。
こんな石では紐が巻きにくく、また、長い紐も使えず、最悪紐が滑ってはずれやすく、使い勝手がとても悪いと思います。それに重く、手に当たると痛い。こんな拷問のような道具を使っていたのでしょうか。その辺の木を切って木製で作れば簡単便利で扱いやすいものです。どうしたのでしょう。
ただ、石錘だと、強く締まって隙間が少ない織物ができるでしょう。私は名称「とびだま」と記憶。 |
|
647擦文土器 7世紀頃から
647深鉢形土器 擦文時代 十勝太若月遺跡
|
住居内では大型・中型・小型の土器が使用された。これらの土器は、壁に作られたカマド近くから発見されることも多く、
煮炊きや食料保存のために使用されたものであろう。 |
擦文土器
|
擦文土器のもっとも一般的な特徴は、器面にヘラ状の道具でこすった擦痕(ハケメ)や種々の刻線文(沈線文)がみられることです。 弥生土器の系統をひく土師器と縄文土器の伝統を残す北海道系の続縄文土器が相互に影響を及ぼし合いながら形成されたと考えられています。 引用
擦文土器は7世紀頃から北海道で作られ土器です。 同時代の本州で作られていた土師器の製法が伝わって作られるようになりました。 土器は表面が木のヘラで擦って仕上げられています。 この擦ったあとがパターン模様になっていることから、「擦文土器」と呼ばれています。引用 |
|
|
650擦文文化の鉄と農耕 |
651鉄と農耕の普及
|
擦文人たちは鉄も利用しました。鉄製品は、本州からの移入品で、オノ、カマ、クワ、ヤジリ、小型のナイフである刀子などもありました。
十勝太若月遺跡でも鉄製品はかなり普及しており、発掘された20戸のうち9戸から発見されました。また十勝太古川遺跡第8号住居では、
小鍛冶が行われていました。
擦文人は農耕も行いました。栽培したのは雑穀が主で、他にシソ、リョクトウ、アサなどです。
雑穀は、アワ、キビ、オオムギなどで、このうちオオムギはシベリア産と本州産があり、十勝太若月遺跡などではシベリア産のオオムギを栽培していました。 |
擦文文化の鉄と農耕
|
|
鉄と農耕の普及
|
フイゴの羽口の出土 |
フイゴ羽口の出土 |
アイヌの鍛冶作業図
農具を作る |
フイゴの羽口形状小鍛冶が自前で作った羽口 |
フイゴの羽口出土の
十勝太古川遺跡
第8号住居跡
※フイゴの羽口出土
この家は鍛冶屋だった |
道内各地で、様々な野鍛冶が活動していたようです。 |
|
|
|
|
653擦文時代の栽培植物
|
擦文時代の栽培植物
全道で農業してた |
アサ・アズキ・イネ・アワ・ウリ
・ソバ・コムギ |
|
|
|
キビ・シソ・モロコシ・ヒエ
・リョクトウ
・ベニバナ・オオムギ |
十勝太古川遺跡
炭化植物種子 |
十勝太古川遺跡
炭化植物種子
|
シソ・キビ・オオムキ |
福島のクルミ出土NEWS
下に記述 |
|
|
News!
福島県の縄文晩期 の遺跡から、カゴに 入った大量のクルミが! 2018年12月4日 北海道新聞
縄文の籠 クルミぎっしり
【写真】
福島県南相馬市の鷺内遺跡から出土したクルミが大量に入った籠 (同市教委提供)
福島の遺跡で全国初の出土
福島県南相馬市教育委員会は、縄文時代晩期の鷺内遺跡(約3千年前)から、クルミが200個ほど入った籠が出土したと発表した。
このような状態で大量のクルミが見 つかるのは全国初という。市教委の担当者は「当時、食べ物を籠に入れて貯蔵したことが分かる貴重な資料だ」と話している。
昨年10月から今年6月にかけて発掘調査し、11月2日に発表した。湧き水をためるために作ったとみられる穴から、籠やざるのようなものが12点見つ
かったという。
このうち、タケやササ類を編んだ縦 33cmの四角い籠に、当時の主食の一つだったオニグルミの実が大量に入っていた。クルミは直径約3.5cmのものがそろっており、選別された
後とみられる。
籠の底の編み目は大きめだが、縁の 部分は細かく編まれているという。 クルミも籠も腐らずにほぼ完全な状態で見つかった。
籠は水の中に漬けられていたとみられ、市教委は「クルミの保存のほか、実の中にいる虫を殺すためだったのではないか」と推測している。
※堅果類はそのまま置くと乾燥して、カチグリになって、煮ても焼いても食えなくなる。水漬けだと柔らかさは残って食べられる。 |
|
655鉄製品 擦文時代 十勝太若月遺跡
フイゴの羽口 十勝太古川遺跡
|
擦文時代には鉄の道具が使用されたが、鉄製品の再加工も盛んに行われた。
十勝太古川遺跡第8号住居では、火力を上げるためのフイゴからの送風管である羽口がスラグとともに見つかっている。
この住居では小鍛冶が行われたのであろう。 |
鉄滓
擦文時代
十勝太古川遺跡
|
フイゴの羽口
十勝太古川遺跡 |
|
縄
十勝太古川遺跡
|
鉄斧
十勝太古川遺跡
|
鉄斧
袋状鉄斧 |
シソ
|
オオムギ |
オニグルミ |
キビ
|
|
|
|
657土器展示室全景
|
660文化財遺骨の埋葬
|
文化財遺骨の埋葬について
浦幌町立博物館では、 1974年の十勝太若月遺跡第三次発掘調査で出土した、 近世 (17世紀ころ) と推察されるアイヌ女性の遺骨1体を収蔵してきました。
近年、こうした博物館で所蔵する、埋蔵文化財としてのアイヌ遺骨の今後の取扱いについて、館としての方針が求められています。 当館としては、以下の理由から、地域返還を選択しました。
1. 博物館として、遺骨を資料として研究や展示に活用する見込みが無い。
2. 博物館で、 永続的に遺骨に対して適切な尊厳ある収蔵・保存体制を構築できる状況にない。
3. 町立墓地にアイヌ墓地がある。
4. 地域受入団体として浦幌アイヌ協会があり、北大返還遺骨の受入や祭祀などを執り行なってきた実績がある。
5. 副葬品は引き続き博物館で収蔵・活用することで、 浦幌アイヌ協会と合意がもてる。
上記のことから、 当町はすでに、 ただちに地域
返還できる環境にあると判断できる。 |
北海道新聞 2019年(令和元年)7月24日(水)
アイヌ遺骨返還へ来月にも 浦幌博物館保管で初
浦幌町立博物館が、保管するアイヌ民族の遺体1体を浦幌アイヌ協会(会長)に変換することが23日、関係者への取材で分かった。博物館が地域のアイヌのグループに遺骨をするのは初めて。8月にも返還し、同協会が町内の墓地に埋葬する。
同博物館によると、遺骨は江戸時代のアイヌ女性とみられ、1974(昭和49)年に町が十勝太若月遺跡(縄文時代早期~江戸時代)
から発掘した。同館は文化庁が今年4~5月に全国の博物館を対象に実施した遺骨保管状況・返還意向調査に回答した。
返還意向調査では、アイヌの遺骨について
➀白老町に来春オープ ンする民族共生象徴空間(ウポポイ)の慰霊施設に集約する
②引き続き保管する返する
③変換する の3点を尋ねた。文化庁によると、ほとんどの施設が慰霊施設へ集約すると回答しているという。
浦幌町立博物館は、浦幌アイヌが2017年と18年、北大が返還した遺骨計約90体を墓地へ再埋葬しており、遺骨を受け入れる環境が整っていると判断。返還を決めた。
同協会は今年6月に 札幌医科大とも和解。
8月に同大から返還される遺骨1体とともに、計2体を再埋葬する。
遺骨管理者は、国連先住民族利宣言に基づくもので、サケ捕獲権や土地の権利などと同じく先住民にとって 重要な権利だ。これまで博物館が所有する文化財としての遺骨を発掘地域のアイヌに変換した例はなかった。
会長は、「遺骨が地元の土に還ってもらうのは会れしい。博物館に感謝している」と歓迎した。
2019年8月17日に地域返還を実施し、 札幌医大からの返還遺骨と共に直ちに再埋葬されました。 |
遺骨返還 |
|
十勝太若月 |
人骨について |
|
|
漆片
|
|
|
返還事業 |
|
|
|
|
|
700アイヌ文化
|
710 |
711アイヌ遺骨の地域返還
|
1934(昭和9)年に、当時の浦幌村愛牛地区に存在したアイヌ墓地の人骨数十体が、北海道帝国大学(現北海道大学) 医学部の研究者によって持ち去られました。当時、同様の遺骨採集と研究が、各地で行われていました。これらの遺骨については、研究材料として戦後も永く各地の大学で保管され、浦幌のアイ ヌ協会が返還を求めていました。
2017(平成29)年と2018年の2回にわたり、北海道大学から合計95体の遺骨が浦幌へ返還され、町営浦幌墓園へ再埋葬されました。2019年には札幌医大から1体、2020年には東京大学からも6体の遺骨が返還されました。
その際、遺骨と共に持ち去られた副葬品も返還されましたが、浦幌アイヌ協会のご意向により、これらは浦幌町立博物館へ一括寄贈されました。ここでは、その一部を公開しています。 |
|
712副葬品
|
|
握りバサミ
マキリ(小刀) |
マキリ(小刀)はアイヌの副葬品として最も多く見られるものである。
マキリは男女を問わず、生活の必需品で、最も身近な道具であった。 |
エムシ(太刀) |
ケプシプ
(太刀の鞘)
|
装身具
|
太刀の柄 |
太刀はアイヌの副葬品によく見られるが、多くは17世紀以前のものである。
1669年のシャクシャインの闘い後に松前藩による「刀狩り」が実施され、副葬品の太刀も刀身を欠く儀礼用の物が増えたと考えられている。 |
|
713アイヌ副葬品
|
銅銭
寛永通宝などの硬貨は、タマサイ(首飾り)の重要な材料として用いられた。寛永通宝は1636(寛永13)年以降の江戸時代。
一銭同化と半銭銅貨は、1872(明治4)年の「新貨条例」施行後に流通した硬貨。 |
アイヌの副葬品 |
銅銭
|
漆膜、布、赤布
現代でも色の飛びやすい赤が江戸期から残っているとは素晴らしい |
釘・樹皮・赤布 |
セッパ・切羽・鍔
セッパは日本語
|
|
|
漆器はアイヌの副葬品として代表的なもののひとつである。 一般にアイヌ墓からみいだされる漆器には、儀礼用途を目的としたものが多く、イコロ (宝物) として大切にされてきたものと考えられている。これに対して、和人の墓に副葬する漆器には、日常食器 (愛用品) としての意味合いが強い。 詳細な検討を要する資料である。 |
|
硯
アイヌの副葬品として硯は珍しい。 しかし、 和人地に設して(接しての間違いでは?)、生計を立てていた近代のアイヌは、文字を学び、 筆をとった。 この副葬品は、そうしたアイヌの生活様式の近代化を示していると考えられる。 |
|
網針
アパリ (網針) は漁網を縫うための道具。 十勝川上流では 「ヤシヤ」 ( すくい網) と呼ばれる、 木綿 (古くはツルウメモドキを用いたとされる) でつくった網を利用して鮭を採っていた記録がある。 アパリは、 ヤシヤを縫うために用いられた。
このアパリの製作年代はまだわかっていないが、サケ漁に関係する道具だったのだろう。 |
|
720アイヌ文化の伝統品
アイヌの民族とアイヌ文化
|
縄文時代以前から北海道に暮らしていた人々は、やがて12~3世紀頃(本州の和人の歴史では鎌倉時代)になると「アイヌ文化」と言う独自の文化を生み出します。
漁や狩猟、それに植物採取を生業とし、文字を持たず、独特の精神文化を発達させた暮らしを行っていました。
また、和人が鎖国をしている間にも、他の地域の人たちと交易を行っていました。
和人との交易では干したサケやタラ、コンブなどと、漆器や刀、鉄製品や布などが交換されました。
このコーナーでは、現在の浦幌町愛牛から十勝太にかけて暮らしていたアイヌの人たちから寄贈された伝製品を紹介しています。
今も浦幌にはアイヌ民族が暮らしています。もちろんですが、現在のアイヌは、当時のような暮らしはしていません。
和人と同じ服装、食物で、共に暮らしながら、独自の伝統文化を受け継ぐ活動にも取り組んでいます。 |
|
|
|
アイヌの民族とアイヌ文化
|
太刀
|
|
|
行器 |
盆 |
杯、椀 |
捧酒箸 |
鉢
|
|
730アイヌの暮らし
アイヌの暮らし |
アイヌ酒宴の図 |
マレク漁の図 |
蝦夷島奇観 |
住居 (チセ) |
機織り(アットシ織) |
住居内 |
イヨマンテ
|
西里静彦のしごと |
|
|
|
|
740タマサイ
|
タマサイ |
|
750送り場
|
アイヌの人たちは、すべてのものが神(カムイ)であると考え、常に神に感謝することを忘れませんでした。
神々が天上界から人間界に降りてくる時にはたくさんのお土産を持ってきます。
そこで、神々の国に返すときには、神に感謝し、たくさんのお土産を持たせて丁重に送り返します。これをイオマンテと言い、その場を「送り場」と呼びます。 |
|
送り場
|
送り場周辺の近世遺物の出土
|
|
なた・小刀・山刀 |
鉄製品
|
|
754儀礼用具
|
鍔 |
笄(こうがい) |
刀責金具 |
小札(こざね) |
砥石
|
内耳鉄鍋
火皿
|
骨角器 |
|
|
|
|
|
755送り場出土の自然遺物
|
|
760チャシ
|
チャシ分布図
|
チャシの模式図 |
丘頂式 |
丘先式 |
面崖式(半円) |
面崖式(方形) |
オタフンベチャシA |
オタフンベチャシB |
チフネオコッペチャシ |
十勝川口チャシ |
安骨チャシ |
霧止山チャシ |
札文内第二チャシ |
アツナイチャシ |
十勝太Dチャシ |
旅来チャシ |
帯富チャシ |
稲穂チャシ |
|
|
|
|
|
|
|
800和人の流入 |
801トカチの成立とトカチ場所
|
17世紀中頃、十勝は産金の場として知られていました。初めは、十勝川河口の地名であった十勝(ブト)は、松前藩ができて、家臣の知行地となると、場所をさす名に変化しました。十勝場所の中心は、初めはトカチブトとで、後年は広尾に移り、産物も初め山でとれたワシ、タカ、ツルなどでしたが、次第に海産物のサケ、カスベ、タラなどに変化しました。 |
十勝場所の主な産物
|
一七九〇(寛政二)年
『蝦夷国風俗人情之沙汰』最上徳内
・・・扨又、東蝦夷地トカチの河は、海浜より一里程河
上にて二筋に別れ海に落る。
其二筋にて凡六、七町斗あり。海に落口にて川瀬ありて、 大舶河内に入る事ならず。
商舟海浜に碇宿して交易を調ふなり。此処にも塩漬鮭の産あり。多く江都に到る也。 |
十勝場所の主な産物
|
|
鶴・鹿・ラッコの皮
干カスベ
干し鮭・筋子
塩切鮭(黒毛・白毛)
熊皮・肝 |
|
松浦武四郎
1818(文政元)年~1888(明治21)年
江戸時代末期の探検家、後に開拓使開拓判官。 伊勢国(三重県)生まれ。1845 (弘化2)年から数 度にわたり蝦夷地を探検。「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌」 61巻をはじめ多数の蝦夷地の記録を残しました。 1869(明治2)年、北海道名・国名などについての意見書を出し開拓判官となりましたが、開拓使の政策に失望、辞職しました。 |
|
最上徳内
1755 (宝暦5)年~1836(天保7) 年
江戸時代末期の探検家。 出羽国 (山形県) 生まれ。 27歳で天文学・数学などを学び、1785(天明5)年 青島俊蔵らと国後島などを踏査。 1789(寛政元)年 クナシリ・メナシアイヌの一斉蜂起時にも松前に 渡りました。 1791(寛政3)年アイヌ救済に奔走、 1798年には近藤重蔵と千島に渡り、翌年様似山 道の開削にも従事しました。 |
|
近藤重蔵
177) (昭和8)年~1820(文久12)年
江戸時代末期の探検家。 幕臣の家に生まれ、幼 少より神童と言われていました。 1778(寛政10) 年幕府巡見使に随行して択捉島に渡り、タンネモイ の丘に「大日本恵登呂府」の国標を建立。その後、広 尾で、私財を投じてルベシベツからビタタヌンケ に至る山道を開削。1807(文化4)年、蝦夷地経営 の中心を札幌としました。 |
|
802オヘチコカシ村の成立と初期の開墾
|
1869(明治2)年、開拓使は全道を11国86郡に区分し、十勝国に7郡51ヶ村を置き、ベツチヤロ・トカチオヘチコカシ・アイニウシ・オホツヲサウスの6村が浦幌町域にありました。
最初の入植者は1881 (明治14)年に愛牛村で野菜の栽培を始めた青森県人で、1898年には3haを耕作していました。 開墾が本格化するのは1896(明治29)年以降で、下浦幌原野に岐阜・土田・熊谷の大農場が開かれ、
大津に近い生剛地区には戸長役場・小学校・駅逓所巡査駐在所・郵便局・病院・獣医院などがある市街地ができました。 |
|
植民地区画作業 |
7郡51村の移り変わり |
|
河合牧場 |
岐阜農場 |
開墾風景 |
前にいるのが開墾主で、後にいるのが小作人かな。開墾は大きな経済力で行なわれた。馬・紙巻きたばこ。超未開地まで珍しい写真屋を呼んで撮らせる。写真1枚が物凄い値段。 |
サケ漁 |
巻き網漁で、網上げを待って網から鮭をはずし、背負った木函で運ぶのを待っているようだ。 |
斎藤漁場 |
中央にあるのは巻き取り機で数人で回して舟を引き上げ用。
漁場を開拓、占有した人の名前がついていた。
漁協とは違う。 |
|
803民具
|
棕櫚蓑
|
棕櫚製の高級雨具
|
古い道具に履物
ミシン・アイロン・炭火アイロン・ひのし |
|
|
少人数の食卓 |
鰹節削り |
昭和までの食卓 |
|
|
|
湯沸かし |
|
足踏み脱穀機 |
パテントがなかったころであちこちで模倣品が氾濫し、オリジナル会社がわからない。 |
ネット検索するには、足踏み脱穀機+ガオガオ |
|
|
804明治~昭和の民具
|
810新しいムラづくり
|
生剛・十勝太を通過する予定だった鉄道は計画変更されて、 1903(明治36)年、 浦幌厚内駅が開業、これにより市街地は徐々に浦幌駅前に移転し、
新しいムラづくりが始まりました。
1906年には生剛村と愛牛村が合併して二級町村生剛村となり、1912年には村名を浦幌村と改め、小学校や寺社も整備され、 電灯や電話も使えるようになりました。 |
|
811重要文化財級の古建築
|
浦幌で最大級の保全が求められる文化財
現存する浦幌の和洋建築のなかでも最も古いと考えられる、 和洋折衷様式の牧場事務所兼住宅である。明治時代の牧場事務所は現存数が少なく、非常に貴重な建築物として知られ、その価値は
国の重要文化財に相当する。
現在、居住者はおらず、諸般の事情から立ち入りや接近ができ ない。文化財等にも指定されておらず、永年の風雨で全体に荒廃の進み方がひどく、早急に保全のための方策をとる必要がある。
斉藤牧場は守れるか?
旧斉藤牧場事務所の歴史的な意義は多くが認めるものであり、かつての所有者であった斉藤兵一郎氏も、建物を含む一帯を史跡として保存することが望ましいと考えていた。しかし、現状では
建物の修復はおろか、指定文化財化にも至っていない。
最大の問題は財政的な面にあり、従来のような個人もしくは行政に負担を強いる所有・管理だけでは、建物の保全は難しい時代になってきている。
旧斉藤牧場事務所をどう守っていくか? は、浦幌町に課せられた大きな課題であると共に、文化財は国民全体の財産であることから、単独の町を越えた国民的な議論により解決していくことが必要である。 建物の老朽化の現状から、残された時間は長く無い。 |
|
812産業
浦幌炭鉱(砿)
|
釧路炭田の最西部に位置する浦幌は、十勝で唯一の炭鉱町でもあります。
大正7 (1918年)年から採掘を開始し、一時休山の後、昭和8)年の再開後に本格的な採掘が始まりました。
留真、ケナシ、ソーウンベツの3ヶ所の坑口を持ち、最盛期には年間18万5,700トンを出炭。炭鉱だけで約3千人が暮らし小学校や病院もありました。
釧路側からの尺別炭鉱との間に「尺浦隧道」を掘って軌道で結び、掘り出した石炭は全て尺別経由で釧路港へ出荷しました。
昭和29 (1954)年、不況と合理化で閉山しました。 |
|
820浦幌開拓獅子舞
|
1902年、(明治35年)八幡神社の秋祭りに富山県から土田農場に入植した人々は、故郷を偲んで獅子舞を奉納しました。
当時の獅子舞は、獅子頭はザル、目・鼻はイモ、耳はかぼちゃで、胴体は南京袋を縫い合わせ、天狗の衣装は娘の晴れ着を使いました。
また、稲穂地区に入植した加賀団体にも石川県から伝わった勇壮な獅子舞があり、昭和初期まで続けられました。 |
※過酷な開拓と、寒冷、極貧といった生活の中で、喜びを見つけるためにふるさとの祭を行なったようです。
ここのような祭の導入は、北海道の各地で見受けられます。
|
|
|