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 中部地方の縄文1  08  2017.05.09-05

    松川町資料館  長野県下伊那郡松川町元大島3720  0265-34-0733水曜休館 撮影可 10:00〜17:00

  交通  レンタカーonly

  見所  

目次

01外観

10旧石器時代
11松川町のあけぼの
12石器資料


20縄文時代
22竪穴住居
33縄文時代の松川
34土器の変遷
35縄文人の生産活動
36縄文時代の祭祀跡
  前田遺跡の配石遺構
42縄文土器
44石器
46特殊な土器
48土偶
52祭祀具
56埋甕
58石皿


60弥生時代
61水稲耕作と弥生文化の伝播
  弥生農耕
63弥生土器

70古墳時代
71古墳時代の松川
72峰垣外古墳

100古代
111古代の松川
庶民のくらし
121土器
125文字が記された土器
 
150中世
153中世の松川
  武田氏の侵略
154中世の人々のくらし
155遺物と文献
160中世の信仰
163武家領主と山城
165伊那街道「片桐宿」

180近世
181幕府の支配と農村社会

200民俗・民具
 01外観
松川町図書館・資料館 中央公民館から入り
奥の棟にあります。
新しく整備され、展示もすっきりしています。 松川町立体地図





 10旧石器時代




  11松川町のあけぼの
     伊那谷にやってきた最古の人々の生活の一部がわかるのは3万年前のことで、旧石器時代と呼ばれています。
     気温は今よりも7〜8℃も低い寒冷の時代で、高い山には氷河が残り、火山が噴火を繰り返して火山灰を堆積させる厳しい環境の時代でした。

     人々は石や角などを加工した道具を持ってナウマン象やオオツノシカなどの獲物を追う狩人で、移動生活をしていました。
     まだ、土器のような煮炊きの道具を知らず、獲物は焼くか生で食べていました。

     里見遺跡北の城遺跡は伊那谷を代表する1万数千年以上前の旧石器時代の遺跡で、狩りに使った石の槍、獲物の解体に使ったナイフなど、
     数多くの道具が発見されています。

松川町のあけぼの 旧石器時代の尖頭器
北の城遺跡(神子柴型)
槍先型石器出土状況 発掘状況 松川町のあけぼの
  12参考資料 (この名称で、展示されています)

各地の旧石器
2万〜1万年前
      中平遺跡

剥片石器/中平遺跡
槍先型尖頭器(有舌尖頭器)
1.3-1万年
槍先型石器(尖頭器)/
北の城遺跡/約1.5万年前

・剥片石器、/中平遺跡   
・槍先型尖頭器(有舌尖頭器)
1.3-1万年前

槍先型石器(尖頭器)/
北の城遺跡/1.5万年前





 20縄文時代



  22竪穴住居
右入口上にキジ、
玄関にオコジョ
漆塗り装飾の儀式用弓
乾燥棚には煮炊き用カゴなど
正面右に棚が造りつけ
石囲い炉。夫人の横にはアク抜き前の堅果類が
ネズミ除けの吊下げ籠
魔除けの猪の頭骨
ペットのオコジョ
タヌキかな?
ばかされたかな(笑)
設計者はいろいろと知恵を絞って再現を試みています。素晴らしい。
入口に埋甕がある。子どもは死産だったようだ。 クルミ・クリ・乾燥キノコ・各種の斧 いろいろな木の実が用意されている 敲き石で皮を割って水さらしの準備をしている。 小さな斧と刈り払い用の大型打製石斧を準備中



  33
  縄文時代の松川
   約1万年前になると気候は次第に暖かくなり、野山にクリ・ドングリ類などが茂り、シカ・イノシシ・ウサギ・キツネ等の動物も増えてきました。
   素早い動物を捕獲するために弓矢が発明され、同時に土器を作って食物を煮炊きしたり、貯蔵することも始まりました。

   数家族がムラを作って住み着き、共同の暮らしをするようになりました。狩りや採集のほか、食用植物の管理・栽培も始められました。
   厳しい自然を生き抜くため、人々の生活はまじない事に頼っていました。

   松川町には縄文時代の遺跡が各所に残され、特に縄文時代の中頃(約4000年前)には数十棟の竪穴住居によるムラが造られ
   豊富な生産用具が出土しています。         ※約4000年前は中期末から後期初頭です。

縄文時代の松川 松川町 北垣外遺跡の縄文時代集落跡約4000年前 縄文時代の松川


  34土器文化の変遷
   約1万年続いた縄文時代には、時期や地域を異にして各地に文化的な高まりが見られました。これを示すものに土器があります。
   一つの型を持った土器の広がりは、その土器を製作した地域の文化が広がったことを示しています。

   土器の広がりは人によってなされ、そこに地域間の交流を知ることができます。大きくみれば本州を二分する東西文化の交流があり、
   伊那谷は東西を結ぶ文化の橋渡し的な位置・地形のため、東西文化の活発な交流の跡が残されています。

   関西・東海・北陸・関東・東北地方系などの土器の存在から、ある時期にはこれらの地方の文化的な影響を強く受けたことが知られ、
   縄文時代の伊那谷は各地と積極的に交流を行っていたことが想像されます。

土器文化の流れ 地域的な土器文化圏 前期の土器文化圏
6000〜5000年前北白川下層式
諸磯式
十三菩提式
薄手無文
羽状縄文
前期大木式
浮島式など
中期の土器文化圏
5000〜4000年前咲畑・醍醐式
船元・里木式
火焔土器
大木式
勝坂式
加曾利E式
曾利式
唐草文系
特殊な石器材料の動き松脂岩
チャート
ヒスイ
黒曜石・安山岩
水晶
土器文化の変遷


  35縄文人の生産活動
   縄文人は獣や鳥、魚の捕獲、食用植物の採集や栽培。また、これらの加工・貯蔵など、食料生産が労働の中心で、これに使う道具を作る事も
   大切な仕事でした
   彼らの道具には石器・骨角器・木器・土器、植物繊維や毛皮によるものなどがあり、全て自然界から手に入る材料を加工しました。

   縄文人は狩猟・採集に加え、食料となる植物の管理・栽培も始めました。焼畑による雑穀栽培や、野山のクリ・ドングリ林等の
   管理もしていました。
   狩猟・採集・栽培等の季節的な労働の間には他の集落との物々交換、住まいの修理、道具や衣服の製作など、いろいろな仕事をして生活しました。

 
縄文人の生産活動 縄文カレンダ―冬・春

冬の狩猟・漁労
鹿・猪・熊・鴨・狐・狸・シジミ

春の採集
若草・ワラビ・若芽・ゼンマイ
縄文カレンダー秋・夏
夏の漁労・採集
鯉・鮒・鯰・鰻・筍・ウドヘビ・蛙等

秋の漁労・採集
ハヤ・ヤマメ・イワナ・鮭・鱒
クルミ・栃・ドングリ・栗・キノコ
ヤマブドウ・山芋・ウサギ
石器の使い方
石のナイフ
石の斧
石皿
縄文人の生産活動

  36縄文時代の祭祀跡

  前田遺跡配石遺構   縄文時代中期末〜後期初頭 約4000年前
   縄文時代の祭祀遺跡。天竜川から運び上げた平たい石を中心に、環状・列状・集石状など、様々な形に石を並べ、部分的に石を立てている。

   石の下には墓穴とみられる穴を伴うものもあり、焼骨も出土している。
   石棒や土偶などの出土から、祖霊崇拝や豊穣祈願などの際祀の場であったものとみられている。

   発掘調査時、伊那谷で初の出土であり、例の少ない遺構であるため、地域住民の熱意により出土地から数メートル北へ移転して現地保存された。
             引用 前田遺跡

前田遺跡配石遺構
神を呼ぶ炎…釣手土器
北垣外遺跡
縄文時代の祭祀跡
前田遺跡祭祀遺構
前田遺跡の配石遺構
引用指定文化財


  42縄文土器

みみずく把手付土器/
中期/4500年前/
南方遺跡

彫刻文付き土器/中期
4000年前/東?遺跡

底部穿孔長胴土器/
中期
4000年前/前田遺跡
唐草文土器/中期
4000年前/中平遺跡

底部穿孔伏甕/中期
4000年前/横枕遺跡

渦巻文土器/後期
3500年前/妻の神遺跡

平行沈線文土器/中期
5000年前/倉平遺跡
彫刻文付土器/中期
4500年前/庚申原遺跡

漆塗り土器/後期
3500年前/有平遺跡
朱塗土器/中期
4000年前/北垣外遺跡

・唐草文土器/中期
4000年前/北垣外遺跡

角口土器/中期
4000年前/的場遺跡

筒形土器/中期
4000年前/鴨池遺跡
・壺形土器/中期
4000年前/的場遺跡
・鉢形土器/中期
4000年前/中平遺跡

・唐草文土器/中期
4000年前/北垣外遺跡

小型連孤文土器/中期
4000年前/北垣外遺跡

・鉢形土器/中期
4000年前/中平遺跡

  44石器

・分銅型石器/後期
 3000年前/西山遺跡
・土掘具(打製石斧)
 中・後期/5000〜 3000年前

・磨製石斧
石包丁(横刃型石器)
  中期/5千-4千年前

・くぼみ石
・叩き石 

中期〜後期/5000-3000年前

・手斧(ちょうな)・
・鑿(のみ)    

中期/5千-4千年前

抉入石包丁(横刃型石器)
中期/5000〜4000年前

・石器用の黒曜石
・石器作りの破片/中期
4000年前/北垣外遺跡

穿孔具(石錐)、石鏃
/中期
4000年前/北垣外遺跡

・ナイフ(剥片石器)/早期〜中期(9000〜4000年前)

・土垂(土器片錘)/中期〜後期(4000〜3000年前)

・皮はぎ(石匙)/早期〜中期(9000〜4000年前)

・石錘/中期〜後期(4000〜3000年前)

大型石棒/脚注無し

台付(脚付)土器/中期
4000年前/原畑遺跡

石棒/中・後期
3000〜4000年前



  46特殊な土器
    顔面把手付土器  北垣外遺跡 縄文中期(約4700年前)

      祭祀用土器で、把手には女性の顔が、側面には男性を象徴するマムシが表現されている。
      男女間で生み出される新しい生命の息吹を鉢に込めたものと見られます。

      目鼻のない異常な顔面は、神との媒体として崇めた当時の女性身体障害者を表現したものと考えられます。
      目鼻口の表現のない顔面把手付土器は全国で初の出土です。

台付(脚付)土器

中期
4000年前/原畑遺跡
顔面把手付土器 顔面把手付土器

中期
4700年前/北垣外遺跡
顔面把手付土器

顔のない顔面把手
顔のない顔面把手



  48土偶
妊婦土偶

中期/4000年前

伊那谷の尻張り土偶

土偶/中・後期/3000〜5000年前

土偶/中・後期/
3000〜5000年前

土偶/中期/4500年前
南方遺跡

土版/後期/3000年前
有平遺跡


  52祭祀具
多頭石斧
晩期2500年前
大島城遺跡
砥石/中期/
5000〜4000年前
小型土器/中期/4000年前

・丸石/中期/4000年前/北垣外遺跡
・土製円盤/中〜後期/
4000〜3000年前

鳥獣把手/中〜後期
4000〜3000年前
スタンプ状土製品
中期
北垣外遺跡

・硬玉製垂飾/ヒスイペンダント/中期/4000年前
・耳飾/臼状耳飾/中期/4000年前
  54祭祀具
釣手土器・器台
/中期
4000年前/横枕遺跡
釣手土器
/中期/4000年前
北垣外遺跡
釣手土器 注口土器
後期/3000年前
有平遺跡

  56埋甕
   底部穿孔の埋甕  関矢原遺跡
    縄文中期 (約4000年前) の住居の床下に埋められている土器で、底に孔が開けられています。
    孔が開けられた底を上にして倒立した状態で埋められているため、伏甕とも呼ばれています。
    出入り口部の埋甕と同じように出産儀礼に関するまじないの容器と見られます。

底部穿孔の埋甕


  住居内埋甕の断面  的場遺跡D1号住居跡
    縄文時代中期後半 (約4000年前) の住居跡の出入り口に埋められた埋甕の断面を示したものです。甕は底が抜かれ、石の蓋がされています。
       埋甕は出産時の後産や死産児を入れ、子どもの健やかな成長や新しい生命の誕生を願うまじないに使用されたとみられます。
住居内埋甕 住居内埋甕の断面

  58石皿
松川町の主要遺跡分布 原始古代社会の比較表 石皿/中期/
5000〜4000年前
石皿





 60弥生時代



  61panel
    水稲耕作と弥生文化の伝播
      約2300年前頃大陸から北九州に伝わった稲作農耕文化は、約200年かかって伊那谷に入ってきました。
      人々は天竜川近くや段丘崖の下の湿地帯を利用して稲作を始めました。乾燥した台地など、水の便の悪いところでは陸稲や雑穀類の畑作も
      盛んに行われました。

      鉄や銅の金属器も伝わり、養蚕や機織りも行われるようになりました。
      富が蓄えられると人々の間に身分の違いが生まれ、やがて地域がムラやクニへとまとまっていきます。

      松川町の台地が水田や畑として広く開発が始められるのはこの時代からで、台地状の各地から大規模な農耕集落や、
      その集落の権力者の墓などが発見されています。

弥生時代の松川 天竜川と豊かな氾濫原 水稲耕作と弥生文化の伝播弥生時代の住居跡 水稲耕作と弥生文化の伝播


    信濃の二つの文化圏
       稲作や畑作による土地の拡大はムラとムラの間に争いを起こし、その結果、勝ったムラと負けたムラの間には格差が生まれると共に、
       ムラの中でも指導者や統率者の地位がより高くなり、支配者と被支配者の区別が明確になりました。

       力のある統率者はムラムラをまとめ、クニと呼ばれる政治集団を治める王に変わっていきました。

       紀元3世紀頃には卑弥呼で知られる邪馬台国のような強大なクニも成立しました。
       信濃でもこの頃になると南北の地域差が目立つようになり、天竜川流域千曲川流域とでは異なる文化圏が形成されます。
                                         中島式土器文化圏  箱清水式文化圏

       飯田周辺を中心とする文化圏を小国家として捉え、「イナコク」と呼ぶ考え方もありました。

クニの形成 信濃の二つの文化圏
弥生時代後期千曲川流域文化圏
(箱清水式土器文化)
天竜川流域文化圏
(中島式土器文化)
弥生時代の首長墓方形周溝墓
/的場遺跡
信濃の二つの文化圏


 弥生農耕
   弥生時代になると鉄製品の普及によって、石製農耕具は減少し、鉄製品や鉄器で作られた木製農耕具に変わっていきます。

   しかし、天竜川流域では、弥生時代を通じて石器が盛んに使用されました。
   これは、生活の場が水の便の悪い段丘の上であるため、生産の主体が水田ではなく、陸耕を余儀なくされたためです。

   石鍬などの土掘り具や石包丁などの収穫具をはじめ、陸耕用の各種の石製農具が発達しました。
   高燥な段丘の畑を耕し、陸稲や雑穀類 (アワ・稗・麦・蕎麦・豆) を栽培しました。当時の住居跡からはこうした作物の炭化物も検出されています。

陸耕の発展 弥生の農耕 農耕具 弥生農耕 木器/エブリとクワ




  63弥生土器



・壺形土器/後期     
1700年前/的場遺跡
・壺型土器/弥生中期  
1900年前/下島遺跡

・環状石器/後期           
   1700年前/的場遺跡
・環状石斧/縄文晩期〜弥生初期2000年前

砥石/後期1800-1600年前

・台付甕型土器/後期    
1800年前/倉平遺跡
・碗型土器/後期       
1700年前/宮の上遺跡

・祭祀用小型土器/後期   
1700年前/西原遺跡
・砥石/後期/1800-1600年前

石鏃/弥生後期
 1800年前/北垣外遺跡
  65

壺形土器/後期      
的場遺跡/1700年前
北垣外遺跡/1800年前
壺形土器 太型蛤刃石斧/
後期/1800年前
有肩扇状石器/裁断具
後期1800-1600年前
ガラス玉/後期
1700年前/
家の前遺跡4号住居
  67
高坏型土器(遠江系)
後期1800年前
倉平遺跡
高坏型土器(尾張系)/後期/的場遺跡/1700年前
・鉢形土器/中期   
1900年前/的場遺跡
・甕型土器/中期/的場遺跡/1800年前
・横刃型石包丁
・磨製石包丁 
後期/1800-1600年前
有肩扇状石器(除草具)
後期/1800年前
  69
石鍬/中・後期
1900-1700年前

・高坏型土器/後期
1700年前
・台付甕型土器/後期
 倉平遺跡/1800年前
甕型土器/後期1800年前
・北垣外遺跡
・北垣外遺跡
・的場遺跡  
石鍬(打製石斧)
中・後期
1900-1700年前




 70古墳時代


  71古墳時代の松川
    弥生時代の権力者が力を蓄え、首長として成長していく3世紀末から4世紀初めになると、近畿地方を中心に土を高く盛り上げた墓が造られます。

    伊那谷では大和王権の支配が全国に及んだ5世紀になって古墳が築かれるようになります。
    古墳はムラやクニを支配する豪族の墓で、松川町では天竜川に近い段丘の上に沢山の古墳が残されています。

    死者に添えられた副葬品には、刀・矢じりなどの武器、乗馬用の馬具、勾玉・管玉などの装飾品、土師器や須恵器などの土器があります。
    この時代から住まいにカマドが造られ、弥生の伝統を継ぐ土師器に加えて、新しい技術による硬質な須恵器が使われるようになり、
    鉄製農具も徐々に普及してきます。

古墳時代の松川 松川町の古墳 副葬の鉄製武器
峰垣外古墳
屋敷添古墳/円墳 古墳時代の松川
屋敷添古墳石室/7世紀 古墳時代の土器土師器 須恵器 土師器と紡錘車

 屋敷添古墳石室
   屋敷添え古墳は七椙神社(しちすぎ)の北東に位置する底径14m高さ3mの小円墳で、石室は南に向いて開口しています。
   発見された頭椎大刀など副葬品は東京帝室博物館(現国立博物館)に寄贈されました。

   7世紀に構築された宮本古墳群の一つです。石室の一部、長さ4.3mが残っています。
   明治35年の副葬品、土器・刀装具・玉類など14点は東京帝室博物館のものとなった。
   中でも、頭椎大刀の柄頭は当地方に於いては出土例の少ないもので貴重です。     引用指定文化財




  72新井峰垣外古墳 刀剣
    竪穴式石室を持つ5世紀代の古墳石室残存部から、直刀・刀子(鹿角装)・鉄鏃などの鉄製武器類、碧玉製管玉・ガラス玉・滑石製臼玉・銅環
    などの装飾品類、土師器・須恵器などの土器類が出土。
    副葬品に鉄製布石類が多く、馬具がない点から、こと基の古墳と見られ、松川町最古の古墳資料になります。  引用指定文化財

直刀・鹿角装刀子 刀子 鹿角装刀子
柄に鹿角を装丁した
鉄製刀子

  73峰垣外古墳副葬品  5世紀

    新井の七椙神社西の段丘端部において偶然発見された古墳の石室残存部より出土した副葬品で、
    直刀・剣・刀子・矢じりなどの鉄製武器、管玉・ガラス玉・銅管などの装身具、土師器・須恵器などが見られます。

    古墳は1500年前、この一帯を支配していた首長の墓で、これら多くの副葬品は被葬者に供えられたものと見られます。


須恵器・土師器の壺

鉄族

鉄族
峰垣外古墳副葬品

銅環/金メッキして耳飾りにした

ガラス玉・臼玉
(滑石製飾り玉)

管玉/碧玉製
峰垣外古墳副葬品
     


 100古代



  101古代・中世
古代・中世の松川
  110古代    
  111panel
  古代の松川
   701年、朝廷は中国を模範として律令制による中央集権国家を作りました。奈良時代の信濃国には伊那・諏方ほか10郡があり、伊那郡には5つの
   郷(里)がありました。大島は麻績郷、生田は伴野郷、上片桐は小村郷に属していました。

   奈良時代以降、官道として整備された東山道が天竜川西岸を通過し、多くの新しい文物をこの地にもたらせました。
   平安時代になると公地公民を基礎とする律令制は崩壊し、土地の私有化と荘園化が進み、大島・上片桐は春近領に、生田は伴野庄に属しました。

   平安時代末期に源氏の一族が伊那郡に土着し、源の為公の五男が賢錐に来て片切氏を名乗り、やがて片切氏より分かれた一族は名子・大島
   に来て名子・大島氏わ名乗ります。

古代の松川 古代の松川 奈良・平安の松川 信濃の古道 文字のある土器 古代の松川

 庶民のくらし
  都から遠く離れた地方の庶民の暮らしは苦しいものでした。人々は原始時代同様の竪穴住居に住み、土師器や須恵器を使い、田畑を耕しその間には
  織物を始めあらゆる仕事に従事しました。10世紀後半頃から東山道から運ばれてきた白瓷(しらし)と呼ばれる陶器が食器として普及するようになり
  庶民は初めて土器の食器と決別することができました。

  過酷な税、疫病や飢饉のはやり、世情の不安など、庶民には大変な時代で、こうした庶民の暮らしぶりからは、都の華やかな貴族文化は
  とても伺うことはできません。神仏にすがる庶民の間に火葬の風習が広まるのもこの頃からです。

庶民のくらし くらし想像図 平安時代の竪穴住居
方形・カマドあり
庶民の暮らし


  121土器

 平安時代のカマド 若宮遺跡1号住居跡(名子)
   平安時代の住居跡には主に西側の壁面にカマドが取り付けられています。このカマドによって日時用の煮炊きが行われていました。
   本模型は平安時代 (10世紀) の住居跡から検出されたカマドの本体を復元したものです。

 平安時代の焼き物
   平安時代の食器や調理器具は、前代からの素焼きの土器作りの技法を継承する土師器や、朝鮮半島からもたらされた技法による須恵器と呼ばれる
   硬質土器に加え、中頃からは白瓷 (しらし・灰釉陶器) や青瓷 (あおし・緑釉陶器) と呼ばれる施釉陶器が使われるようになりました。

   平安時代の終末には白瓷が土師器・須恵器にとって代わり、ようやく縄文時代以来の素焼き土器から解放されました。


土師器 甕/平安時代
名子西教寺遺跡
名子西原遺跡

土師器 甕/平安
福与倉平遺跡
土師器 鍋/平安
名子華厳寺畑遺跡

須恵器 甕/奈良

平安時代のかまど
若宮遺跡1号住居址
平安時代のカマド 平安時代の焼き物 灰釉陶器壺・土師器甕
灰釉陶器瓶子
須恵器/奈良時代
坏・蓋/古町的場遺跡
坏・碗/福与塚越遺跡

須恵器/平安時代
坏/名子外出遺跡
碗/名子南方遺跡

灰釉陶器/平安
瓶子/名子外出
碗・皿/町内各遺跡


  125
  文字が記された土器
   平安時代の土師器の食器 (碗) の一部に墨で文字が記されています。このことから、この食器が使われた10世紀代、すでにこの地の集落内に
   文字を記す人がいたことを示しています。読める文字と読めない文字がありますが、器の所有者や所属などを示す記号のようなものであったと
   見られます。

   煤煙などを溶いた墨で文字が記された土器を墨書土器、鋭い器具で文字が刻まれた土器を刻書土器と呼んでいます。松川最古の文字です。


須恵器大甕/平安
古町下島遺跡
文字が記された土器
代・山・甲・原/平安
刻書土器と墨書土器
人と刻書/平安

土師器質土器
皿・皿・碗/平安

種子・ドングリ
炭化食品/平安
福与塚越・福与倉平
  129

灰釉陶器 瓶子/平安
名子岡見遺跡

灰釉陶器/平安
耳皿・瓶子と皿
緑釉陶器/平安/皿
砥石/平安/名子若宮
土錘/平安/名子岡見
鉄鎌・鉄鏃・鉄斧/平安
 
  150中世    
  153panel
 中世の松川
  武士の支配する鎌倉・室町時代、上片桐は源氏の一族である片切氏が、大島は片切氏から分かれた名子・大島氏が、生田は諏訪の
  神氏の一族である知久氏がそれぞれ支配しました。荘園を私領化し、自立した領主は領内の開発に努めました。

  領主間の小競り合いもあり、他からの侵略に備えて見通しのいい高所に戦争用の城を築きました。戦争のたびに食料や馬の調達、輸送などに
  借り出される農民の負担は重いものでした。領主の住む館(城)周辺は経済活動の中心となり、町屋も発達しました。

  名子氏館跡・船山城・大島城の周辺には当時の町並みを示す古い地名が数多く残っています。この辺りからは各種の建物や墓地の跡も検出されます。

中世の松川 中世前半の郷村と豪族 片切・名子・大島の地頭や福与などの地名資料 中世の松川

  武田氏の侵略
   南信の攻略を伺っていた甲斐の武田氏は天文23(1554)年、一挙に伊那郡に侵入し、ここを手中にした晴信(信玄)は秋山信友を飯田城に置き、
   伊那谷を統治しました。元亀2年(1571)、武田氏は大島城を東海地方の攻略並びに京へ昇るための拠点とするため、秋山信友に命じて大修築
   させました。

   この時、下伊那19の郷民と2衆を城普請人足として強制的に動員させた信玄の命令書が残っています。天正10年(1582)、織田が伊那に侵入した時
   大島城は信玄の弟の信廉が守っていましたが、織田の進撃に驚き夜中に逃亡したと「信長記」に記されています。

武田氏の伊那攻略と
大島城
武田信玄の領土拡張図 武田氏の侵略
  154panel
   中世の人々の暮らし
戦国時代の住居跡
古町遺跡
南北朝時代の火葬墓/岡見遺跡 中世(室町)の寺院跡/古町遺跡
  155中世の遺物と文献
   160中世の信仰 
     161  
     162 
阿弥陀如来座像と信仰 阿弥陀如来座像 福与城・大島氏と大島城 片切氏と船山城 名子氏と名子氏城
桃井城
   163上記各氏の山城の模型でした。 みえません。 ピンボケに、アングル悪し。
大島城/ビンボケ

   165伊那街道「片桐宿」
    伊那街道(三州街道)は伊那谷を北から南へ通じ、南信濃と東海方面を結ぶ大切な路線で、道筋は古くから開かれ、武田氏が伊那谷を攻略し、
    三河・美濃地方に進出した時、軍馬や荷駄の通行が可能なように大改修を加えたともいわれます。

    文禄2(1593)に飯田城主京極高知は飯田と飯島間の街道を西の山つけへ移し、同時に宿駅を設置しました。
    片桐町・原町(市田)などの宿駅はこの時、東下方から移転され、伝馬宿として設置されたものです。

    伊那街道は塩尻から根羽までの間に15宿があり、宿場には幕府公認のもとに人馬荷駄の継立を行う問屋がありました。

伊那街道「片桐宿」 伊那街道「片桐宿」 伊那街道「片桐宿」
   
 180近世
   181幕府.の支配と農村社会
江戸時代の村々の支配
農民のくらし
伊那街道と宿場
中馬街道のにぎわい
  182
文献と遺物 文献 交易関連展示 荷駄運びと馬具
  185文化と信仰 ピンボケ
文化と信仰 文化と信仰
-江戸時代の寺子屋-
文化と信仰
-帰命山寺屋敷と
木食上人-
大島の但唱
文化と信仰
-江戸時代体の信仰-
文化と信仰
-松川の偉人達-
幕末の騒乱と松川
 



 200民俗



  201民具

近代日本の農村が詰まった空間ですね。

古い農具だのに、随分

真新しいのです。

最近待て゛販売していたようです
写真で見る町・人・風景
縄綯い機
唐うす
柄ぶり・鍬・大鎌
代掻き
千刃扱き