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01外観 |
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10旧石器時代 |
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11松川町のあけぼの 伊那谷にやってきた最古の人々の生活の一部がわかるのは3万年前のことで、旧石器時代と呼ばれています。 気温は今よりも7〜8℃も低い寒冷の時代で、高い山には氷河が残り、火山が噴火を繰り返して火山灰を堆積させる厳しい環境の時代でした。 人々は石や角などを加工した道具を持ってナウマン象やオオツノシカなどの獲物を追う狩人で、移動生活をしていました。 まだ、土器のような煮炊きの道具を知らず、獲物は焼くか生で食べていました。 里見遺跡や北の城遺跡は伊那谷を代表する1万数千年以上前の旧石器時代の遺跡で、狩りに使った石の槍、獲物の解体に使ったナイフなど、 数多くの道具が発見されています。 |
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12参考資料 (この名称で、展示されています)
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20縄文時代 |
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22竪穴住居 |
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33 縄文時代の松川 約1万年前になると気候は次第に暖かくなり、野山にクリ・ドングリ類などが茂り、シカ・イノシシ・ウサギ・キツネ等の動物も増えてきました。 素早い動物を捕獲するために弓矢が発明され、同時に土器を作って食物を煮炊きしたり、貯蔵することも始まりました。 数家族がムラを作って住み着き、共同の暮らしをするようになりました。狩りや採集のほか、食用植物の管理・栽培も始められました。 厳しい自然を生き抜くため、人々の生活はまじない事に頼っていました。 松川町には縄文時代の遺跡が各所に残され、特に縄文時代の中頃(約4000年前)には数十棟の竪穴住居によるムラが造られ、 豊富な生産用具が出土しています。 ※約4000年前は中期末から後期初頭です。 |
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34土器文化の変遷 約1万年続いた縄文時代には、時期や地域を異にして各地に文化的な高まりが見られました。これを示すものに土器があります。 一つの型を持った土器の広がりは、その土器を製作した地域の文化が広がったことを示しています。 土器の広がりは人によってなされ、そこに地域間の交流を知ることができます。大きくみれば本州を二分する東西文化の交流があり、 伊那谷は東西を結ぶ文化の橋渡し的な位置・地形のため、東西文化の活発な交流の跡が残されています。 関西・東海・北陸・関東・東北地方系などの土器の存在から、ある時期にはこれらの地方の文化的な影響を強く受けたことが知られ、 縄文時代の伊那谷は各地と積極的に交流を行っていたことが想像されます。 |
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35縄文人の生産活動 縄文人は獣や鳥、魚の捕獲、食用植物の採集や栽培。また、これらの加工・貯蔵など、食料生産が労働の中心で、これに使う道具を作る事も 大切な仕事でした 彼らの道具には石器・骨角器・木器・土器、植物繊維や毛皮によるものなどがあり、全て自然界から手に入る材料を加工しました。 縄文人は狩猟・採集に加え、食料となる植物の管理・栽培も始めました。焼畑による雑穀栽培や、野山のクリ・ドングリ林等の 管理もしていました。 狩猟・採集・栽培等の季節的な労働の間には他の集落との物々交換、住まいの修理、道具や衣服の製作など、いろいろな仕事をして生活しました。 |
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36縄文時代の祭祀跡 前田遺跡配石遺構 縄文時代中期末〜後期初頭 約4000年前 縄文時代の祭祀遺跡。天竜川から運び上げた平たい石を中心に、環状・列状・集石状など、様々な形に石を並べ、部分的に石を立てている。 石の下には墓穴とみられる穴を伴うものもあり、焼骨も出土している。 石棒や土偶などの出土から、祖霊崇拝や豊穣祈願などの際祀の場であったものとみられている。 発掘調査時、伊那谷で初の出土であり、例の少ない遺構であるため、地域住民の熱意により出土地から数メートル北へ移転して現地保存された。 引用 前田遺跡 |
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42縄文土器 |
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44石器 |
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46特殊な土器 顔面把手付土器 北垣外遺跡 縄文中期(約4700年前) 祭祀用土器で、把手には女性の顔が、側面には男性を象徴するマムシが表現されている。 男女間で生み出される新しい生命の息吹を鉢に込めたものと見られます。 目鼻のない異常な顔面は、神との媒体として崇めた当時の女性身体障害者を表現したものと考えられます。 目鼻口の表現のない顔面把手付土器は全国で初の出土です。 |
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48土偶 |
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52祭祀具 |
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54祭祀具 |
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56埋甕 底部穿孔の埋甕 関矢原遺跡 縄文中期 (約4000年前) の住居の床下に埋められている土器で、底に孔が開けられています。 孔が開けられた底を上にして倒立した状態で埋められているため、伏甕とも呼ばれています。 出入り口部の埋甕と同じように出産儀礼に関するまじないの容器と見られます。 |
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58石皿 |
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60弥生時代 |
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61panel 水稲耕作と弥生文化の伝播 約2300年前頃大陸から北九州に伝わった稲作農耕文化は、約200年かかって伊那谷に入ってきました。 人々は天竜川近くや段丘崖の下の湿地帯を利用して稲作を始めました。乾燥した台地など、水の便の悪いところでは陸稲や雑穀類の畑作も 盛んに行われました。 鉄や銅の金属器も伝わり、養蚕や機織りも行われるようになりました。 富が蓄えられると人々の間に身分の違いが生まれ、やがて地域がムラやクニへとまとまっていきます。 松川町の台地が水田や畑として広く開発が始められるのはこの時代からで、台地状の各地から大規模な農耕集落や、 その集落の権力者の墓などが発見されています。
信濃の二つの文化圏 稲作や畑作による土地の拡大はムラとムラの間に争いを起こし、その結果、勝ったムラと負けたムラの間には格差が生まれると共に、 ムラの中でも指導者や統率者の地位がより高くなり、支配者と被支配者の区別が明確になりました。 力のある統率者はムラムラをまとめ、クニと呼ばれる政治集団を治める王に変わっていきました。 紀元3世紀頃には卑弥呼で知られる邪馬台国のような強大なクニも成立しました。 信濃でもこの頃になると南北の地域差が目立つようになり、天竜川流域と千曲川流域とでは異なる文化圏が形成されます。 中島式土器文化圏 箱清水式文化圏 飯田周辺を中心とする文化圏を小国家として捉え、「イナコク」と呼ぶ考え方もありました。
弥生農耕 弥生時代になると鉄製品の普及によって、石製農耕具は減少し、鉄製品や鉄器で作られた木製農耕具に変わっていきます。 しかし、天竜川流域では、弥生時代を通じて石器が盛んに使用されました。 これは、生活の場が水の便の悪い段丘の上であるため、生産の主体が水田ではなく、陸耕を余儀なくされたためです。 石鍬などの土掘り具や石包丁などの収穫具をはじめ、陸耕用の各種の石製農具が発達しました。 高燥な段丘の畑を耕し、陸稲や雑穀類 (アワ・稗・麦・蕎麦・豆) を栽培しました。当時の住居跡からはこうした作物の炭化物も検出されています。
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63弥生土器 |
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70古墳時代 |
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71古墳時代の松川 弥生時代の権力者が力を蓄え、首長として成長していく3世紀末から4世紀初めになると、近畿地方を中心に土を高く盛り上げた墓が造られます。 伊那谷では大和王権の支配が全国に及んだ5世紀になって古墳が築かれるようになります。 古墳はムラやクニを支配する豪族の墓で、松川町では天竜川に近い段丘の上に沢山の古墳が残されています。 死者に添えられた副葬品には、刀・矢じりなどの武器、乗馬用の馬具、勾玉・管玉などの装飾品、土師器や須恵器などの土器があります。 この時代から住まいにカマドが造られ、弥生の伝統を継ぐ土師器に加えて、新しい技術による硬質な須恵器が使われるようになり、 鉄製農具も徐々に普及してきます。
屋敷添古墳石室 屋敷添え古墳は七椙神社(しちすぎ)の北東に位置する底径14m高さ3mの小円墳で、石室は南に向いて開口しています。 発見された頭椎大刀など副葬品は東京帝室博物館(現国立博物館)に寄贈されました。 7世紀に構築された宮本古墳群の一つです。石室の一部、長さ4.3mが残っています。 明治35年の副葬品、土器・刀装具・玉類など14点は東京帝室博物館のものとなった。 中でも、頭椎大刀の柄頭は当地方に於いては出土例の少ないもので貴重です。 引用指定文化財 |
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72新井峰垣外古墳 刀剣 竪穴式石室を持つ5世紀代の古墳石室残存部から、直刀・刀子(鹿角装)・鉄鏃などの鉄製武器類、碧玉製管玉・ガラス玉・滑石製臼玉・銅環 などの装飾品類、土師器・須恵器などの土器類が出土。 副葬品に鉄製布石類が多く、馬具がない点から、こと基の古墳と見られ、松川町最古の古墳資料になります。 引用指定文化財 |
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73峰垣外古墳副葬品 5世紀 新井の七椙神社西の段丘端部において偶然発見された古墳の石室残存部より出土した副葬品で、 直刀・剣・刀子・矢じりなどの鉄製武器、管玉・ガラス玉・銅管などの装身具、土師器・須恵器などが見られます。 古墳は1500年前、この一帯を支配していた首長の墓で、これら多くの副葬品は被葬者に供えられたものと見られます。 |
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100古代 |
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101古代・中世 |
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110古代 | |||||||||||||||
111panel 古代の松川 701年、朝廷は中国を模範として律令制による中央集権国家を作りました。奈良時代の信濃国には伊那・諏方ほか10郡があり、伊那郡には5つの 郷(里)がありました。大島は麻績郷、生田は伴野郷、上片桐は小村郷に属していました。 奈良時代以降、官道として整備された東山道が天竜川西岸を通過し、多くの新しい文物をこの地にもたらせました。 平安時代になると公地公民を基礎とする律令制は崩壊し、土地の私有化と荘園化が進み、大島・上片桐は春近領に、生田は伴野庄に属しました。 平安時代末期に源氏の一族が伊那郡に土着し、源の為公の五男が賢錐に来て片切氏を名乗り、やがて片切氏より分かれた一族は名子・大島 に来て名子・大島氏わ名乗ります。
庶民のくらし 都から遠く離れた地方の庶民の暮らしは苦しいものでした。人々は原始時代同様の竪穴住居に住み、土師器や須恵器を使い、田畑を耕しその間には 織物を始めあらゆる仕事に従事しました。10世紀後半頃から東山道から運ばれてきた白瓷(しらし)と呼ばれる陶器が食器として普及するようになり 庶民は初めて土器の食器と決別することができました。 過酷な税、疫病や飢饉のはやり、世情の不安など、庶民には大変な時代で、こうした庶民の暮らしぶりからは、都の華やかな貴族文化は とても伺うことはできません。神仏にすがる庶民の間に火葬の風習が広まるのもこの頃からです。
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121土器 平安時代のカマド 若宮遺跡1号住居跡(名子) 平安時代の住居跡には主に西側の壁面にカマドが取り付けられています。このカマドによって日時用の煮炊きが行われていました。 本模型は平安時代 (10世紀) の住居跡から検出されたカマドの本体を復元したものです。 平安時代の焼き物 平安時代の食器や調理器具は、前代からの素焼きの土器作りの技法を継承する土師器や、朝鮮半島からもたらされた技法による須恵器と呼ばれる 硬質土器に加え、中頃からは白瓷 (しらし・灰釉陶器) や青瓷 (あおし・緑釉陶器) と呼ばれる施釉陶器が使われるようになりました。 平安時代の終末には白瓷が土師器・須恵器にとって代わり、ようやく縄文時代以来の素焼き土器から解放されました。 |
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125 文字が記された土器 平安時代の土師器の食器 (碗) の一部に墨で文字が記されています。このことから、この食器が使われた10世紀代、すでにこの地の集落内に 文字を記す人がいたことを示しています。読める文字と読めない文字がありますが、器の所有者や所属などを示す記号のようなものであったと 見られます。 煤煙などを溶いた墨で文字が記された土器を墨書土器、鋭い器具で文字が刻まれた土器を刻書土器と呼んでいます。松川最古の文字です。 |
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129 |
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150中世 | |||||||||||||||
153panel 中世の松川 武士の支配する鎌倉・室町時代、上片桐は源氏の一族である片切氏が、大島は片切氏から分かれた名子・大島氏が、生田は諏訪の 神氏の一族である知久氏がそれぞれ支配しました。荘園を私領化し、自立した領主は領内の開発に努めました。 領主間の小競り合いもあり、他からの侵略に備えて見通しのいい高所に戦争用の城を築きました。戦争のたびに食料や馬の調達、輸送などに 借り出される農民の負担は重いものでした。領主の住む館(城)周辺は経済活動の中心となり、町屋も発達しました。 名子氏館跡・船山城・大島城の周辺には当時の町並みを示す古い地名が数多く残っています。この辺りからは各種の建物や墓地の跡も検出されます。
武田氏の侵略 南信の攻略を伺っていた甲斐の武田氏は天文23(1554)年、一挙に伊那郡に侵入し、ここを手中にした晴信(信玄)は秋山信友を飯田城に置き、 伊那谷を統治しました。元亀2年(1571)、武田氏は大島城を東海地方の攻略並びに京へ昇るための拠点とするため、秋山信友に命じて大修築 させました。 この時、下伊那19の郷民と2衆を城普請人足として強制的に動員させた信玄の命令書が残っています。天正10年(1582)、織田が伊那に侵入した時 大島城は信玄の弟の信廉が守っていましたが、織田の進撃に驚き夜中に逃亡したと「信長記」に記されています。
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154panel 中世の人々の暮らし |
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155中世の遺物と文献 |
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160中世の信仰 | |||||||||||||||
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163上記各氏の山城の模型でした。 みえません。 ピンボケに、アングル悪し。 |
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165伊那街道「片桐宿」 伊那街道(三州街道)は伊那谷を北から南へ通じ、南信濃と東海方面を結ぶ大切な路線で、道筋は古くから開かれ、武田氏が伊那谷を攻略し、 三河・美濃地方に進出した時、軍馬や荷駄の通行が可能なように大改修を加えたともいわれます。 文禄2(1593)に飯田城主京極高知は飯田と飯島間の街道を西の山つけへ移し、同時に宿駅を設置しました。 片桐町・原町(市田)などの宿駅はこの時、東下方から移転され、伝馬宿として設置されたものです。 伊那街道は塩尻から根羽までの間に15宿があり、宿場には幕府公認のもとに人馬荷駄の継立を行う問屋がありました。
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180近世 | |||||||||||||||
181幕府.の支配と農村社会 |
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182 |
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185文化と信仰 ピンボケ |
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200民俗 |
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201民具 |