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伊達歴史文化ミュージアム
この館は、伊達家の歴史や文化財、武家文化の保存と伝承のために作られたものと感じています。(部外者の発言) |
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目次 |
01外観
10二階常設展示室
20①縄文・続縄文時代
22洞爺湖と有珠山の成り立ち
縄文時代
23有珠山と噴火湾
23a 若生貝塚
23b北黄金貝塚
24北黄金貝塚の道具送り
2円筒土器文化圏
※考察 円筒土器文化文化圏
30続縄文時代
31有珠モシリ遺跡
※考察 北海道の交易路
33二千年前の遠隔地交流
38オオツタノハ製腕輪
39イモガイ製貝輪
41銛
40擦文時代
43豊かな装飾の擦文土器 |
50アイヌ文化期
51有珠オヤコツ遺跡
53弓矢の中柄
55ガラス玉
61文化の接触と変容
63太刀
65アイヌ模様の変遷
70伊達市のアイヌ文化期の遺跡
80カムイタプコプ下遺跡
83約500年前のアイヌ民族の住居
90はたけ跡
100貝塚文化の終焉
110アイヌの神々と仏教
117アイヌ関連文書 |
200明治以降
210士族の伊達市移住
213西洋農具の導入
215新古今和歌集と千載和歌集
217ジョン・バチラーの業績
220伊達家の威光
300武家文化財コーナー
310伊達家
311亘理伊達家家系図
313武家の装いとたしなみ
315武士の素養を育むもの
330男爵・伊達邦成 |
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2023.11.24アップロード |
2023.12.06追記
はじめに
「だて歴史文化ミュージアム」を編集した際に、内容に改葬墓と、受傷人骨、があったにもかかわらず、それが戦闘行為によるもの、縄文時代の戦争を意味するということをうっかり見落とし、深く追求することもなく、掲載しました。
その後、YouTubeで縄文時代の戦争として取り上げられていることを知り、ここに再度資料を集め、追加記述することにしました。
しかし、老化の進行は長足で進み、記憶力・思考力の低下により、一週間かかっても文章がまとまらず、不十分ながらの掲載となりました。
つきましては掲載期限ぎりぎりでの改変ですが、よろしくご一読くださいますようお願い申し上げます。 |
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有珠モシリ遺跡とは
引用「有珠山 流れ山」
有珠モシリ遺跡は旧称「有珠10遺跡」と呼ばれていた。
有珠湾に浮かぶ三角形の約1万㎡の小島である。島は、有珠山の山体が崩壊した岩屑雪崩が海に流れ込み、海水の浸食によって形成された。
底部・基部は溶岩流の冷え固まったものでその上に岩屑や巨石などが堆積する透水性の激しい土壌である。
海岸から島までは150m程の距離にあるが、干潮時には転石伝いに歩いていくことができる。
島には住居跡はなく、居住域は陸地側であったと考えられる。
しかし、島には縄文時代から続縄文時代の貝塚が形成されている。続縄文時代の貝塚の下には縄文時代の墓があり、また、縄文時代の貝塚を掘り込んで続縄文時代の墓がある。
有珠モシリ遺跡は、縄文から続縄文にかけての、貝塚と沢山の墓が設けられた島である。
これには、この地域の縄文・続縄文人たちがこの島を特別な場所であると考えていたふしがあるようだとも言っている。
この島を「ポロモシリ」という説がある。(地図には無名)。ポロモシリ(=大きな島)。ポロ(=大きい)。モシリ(=島・大地)。 |
遺跡の注目点
有珠モシリ遺跡には縄文時代の墓は2つあり、
2020年に東北芸術工科大学のチームが11体の再葬墓・改葬墓を発見するまでは、
この島は、沖縄近海の南海産イモガイの貝輪を付けた二体の女性人骨が埋葬された墓が発見されたことや、
クマの彫刻を施したスプーンなど、高度な骨角製副葬品が発見されたことで有名であった。
つまり、南西諸島と北海道を結ぶ広大な交易路の遺跡として有名であった。
※この表現だと有珠モシリ遺跡が交易の場と勘違いされるが、交易や居住は陸地で、この島は墓場の島、貝殻の捨て場のようです。 |
引用「北海道有珠モシリ縄文人の生と死」
2020年に発見された18号墓からは、縄文晩期後葉の「多数合葬複葬墓」(単に合葬墓、改葬墓、再葬墓ともいう)が発見された。
人骨は2500~2400年前のもので、11体の丁寧に並べられた再葬墓は、10代後半から成人の骨である。その内10体が男、1体が女。
歯の遺伝的特徴から同一血族とされる。
8体の頭蓋骨に蛤刃状の石斧による陥没痕や棍棒による殴打の痕跡があり、内6体には治癒痕や生存反応がなく、打撃後まもなくして死亡。2体には自然治癒痕があったが、その後死亡(10代から成人の間で死亡)した。 |
引用日本考古学会 2022「骨・歯の接合関係による多数合葬複葬例の埋葬過程復元 ―北海道有珠モシリ遺跡の事例―」
↑のリンク先をクリックすると、PDFの文書がダウンロードホルダーに格納されます。または、
https://researchmap.jp/tomoya.aono/presentations/37047097/attachment_file.pdf
をマウスでコピーしてURL欄に貼付け、ENTERキーを押すと表示されます。
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目的:
北海道伊達市有珠モシリ遺跡で2020年に検出した18号墓は、墓坑内から11体分の人骨が出土した縄文晩期後葉の多数合葬複葬例である。2021年には、人骨群の直下から、墓坑底面までを精査して墓坑構造の把握と遊離歯を含む人骨の記録・採取を行った。
多数合葬墓の類例は茨城県中妻貝塚や愛知県伊川津貝塚などがあるが、いずれも埋葬過程の解明が課題である。有珠モシリ遺跡
の調査では、人骨と遺物に1点ごとの番号を付して出土位置を詳細に記録した。本発表では人骨の接合と歯の突合作業により墓坑内の環境と埋葬行為の検討を行った結果について述べる。
方法:
出土位置を全点記録した人骨の接合関係と歯の突合結果を基に、墓の埋葬環境と埋葬行為を復元する。歯の突合作業は形状・咬耗度・密着度・色調・付着物などを総合して判断する。 |
骨・歯の接合関係による多数合葬複葬例の埋葬過程復元 |
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墓の構造と人骨の出土状況
規模:南北1.68m、東西1.24m、中央部の深さは0.49m、底面:土坑底ピットなし(2021年9月の発掘による成果)
頭骨の配置:北側(4個体)と南側(6個体)が顔面を向かい合わせで列状に配置→意図的な配置
結果1:骨の接合関係
1000点以上の人骨破片のうち49箇所が接合。33箇所は1つの骨が2つに割れた状態で同一箇所から出土(再埋葬後の土圧等で破損したもの)。
16箇所は離れた場所で出土した骨が接合している。
①骨端末融合個体の接合(図1)
・大腿骨の骨幹部(№360)と骨頭部(№773)、顆部(№800、№841)が墓坑内の離れた位置(約40cm)から出土
→再埋葬時に遺体の軟部組織が腐朽していたことを示す
→接合した人骨の出土範囲(A人骨からD人骨)は同時期に開口していたことを示す
②上顎と下顎の入れ違い事例(図2)
・本来の組み合わせと異なる状態で出土→18Jと18kの2個体は同時に再埋葬されたことを示す。 |
図1
骨端末癒合個体の接合 |
図2
上顎と下顎の入れ違い事例(右:18J 右:18k)
下顎が逆(再葬時に縄文人が間違えた) |
骨の突合関係と出土位置
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合葬墓出土状況 |
18号墓の土層断面 |
結果1 |
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歯の突合関係と出土位置
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結果2:歯の突合結果(図3、表1)
墓坑底部から出土した遊離歯17点は8体の頭骨に由来した。(発表要旨提出時より増加)
出土位置:遊離歯は頭骨から20から70cm離れ、南北の頭骨列を跨ぎ、墓坑底面に広く分布→頭骨の軟部組織が腐朽した段階での移動と配置
※ ①他所の一時葬墓からの移動、②墓坑内での人骨の再配置、③一時葬墓を改変した再葬墓のいずれの可能性もある。 |
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結論と課題
結論:18号墓は、再埋葬時に墓坑全体が開口した状態であり、再葬あるいは改葬人骨の頭骨を列状に配置したのちに、四肢骨、他の体幹骨の順に配置し、埋め戻したものである。根拠は以下の4点である。
①人骨群の最下部は、南北2列に向かい合った頭骨であった。(18Eを除く)
②上顎と下顎が入れ違った18Jと18K人骨は同時に再埋葬されたことを示す。(直上で同じ顔面方向の18Hと18I人骨を含めた4つが同時の可能性あり)
③ 18A~D人骨の範囲から出土した大腿骨片(4点)が接合した。
④帰属の判明した遊離歯の多くが南北の頭骨列にまたがって出土した。
課題:18号墓を構築以前に一時葬墓が存在した可能性や、追葬人骨を一時期に再配置した可能性も残されており、今後は人骨の各部位の個体識別と他の墓坑出土の人骨との接合・突合関係、咬痕の有無を調査する必要がある。 |
結論と課題 |
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引用「第75回 日本人類学大会」P49 P3-13北海道有珠モシリ遺跡に置ける再葬(複葬)墓の埋葬行為復元と人骨軍の特徴
18号墓の人骨は7体に抜歯が見られ、上顎切歯(右1・左6)のみを抜くタイプで、mtDNAのハプログループは北海道・東北地方に多いタイプ(N9-9体、M7-1体、D4-1体)であった。また、頭蓋骨には石斧等による受傷痕跡を持つ個体が8個体(うち治癒痕2体)あり、争いの実態と再葬原理の解明に資する事例といえる。 |
上記のことから、有珠モシリ遺跡の人骨の出自は、
東海地方渥美半島の遺跡などで有名な再葬墓は、南海の人々がもたらしたものであり、もしや南方系の人々の墓であったかと思いきや、
東北・北海道の遺伝子の人々であった。 |
引用「石鏃を射込まれた有珠10遺跡出土続縄文時代恵山文化期の人骨について」
有珠モシリ17号墓からは続縄文時代恵山文化期の成人男性2体と小児1体の墓坑が見つかっており、骨は散乱した状態で発見され、丁寧な埋葬がなされなかったとみられる。(野犬や狐・狼などに荒らされたか、腐乱状態のまま長らく覆土されなかったものとみられる。)
そのうち、1体の非常に華奢な成人の右大腿骨の付け根に石鏃が射入されており(これだけでは即死にならないが)、治癒痕がなく、まもなく、何らかの原因で絶命した。(トリカブト毒など)
人骨の主は身長158cmと推測され、恵山文化人の平均身長160cmに近く、華奢な青年だったと考えられる。 |
これらのことから、この地域では、たまたま貝塚の中に埋葬がおこなわれたため、埋葬された墓坑から骨に刺さって石鏃が発見されたり、頭蓋骨が陥没した状態の頭骨が出てきたりしましたが、このような条件下でなければ、よくある、土坑墓から石鏃が見つかった場合、副葬品と考えたりしましたが、それは、殺人の証拠だったのではないかという疑問が涌いてきます。
少なくとも北海道は、縄文時代にも殺戮が繰り返される、不安定な地域であったことが わかりました。 |
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引用「有珠モシリ縄文村の闘い」 では、この抗争事件についての考察がおこなわれている。
引用文献によると
更に、18号墓の埋葬骨からは、石斧・棍棒だけでなく、弓矢による襲撃も合わせて行われ、石鏃が刺さった痕跡もあるという。
有珠モシリ遺跡の北方3.5km(徒歩47分)に入江高砂貝塚(入江高砂貝塚館)
南方18.7km(徒歩4時間20分)に北黄金貝塚(北黄金貝塚情報センター)がある。
勢力争いや食糧資源獲得競争などや、配偶者獲得競争などのご近所トラブルが起こりそうなのは徒歩40分の入江高砂貝塚だろうとする。
入江高砂貝塚からは19体の人骨が出土し、その内有珠モシリと同時期の墓から腕に防御創のある骨が発見されました。
ひとつのムラ(有珠モシリ)の人口約30人とすると半数が男。老人子供を除くと約10人が若者の男性と考えられる。
高砂村の若者と有珠モシリ村の若者が抗争して有珠モシリ側が 全面敗北に終わり、その戦死者の遺体を各戸別々に埋葬し、その骨を集めて犠牲者の合葬墓を作ったのではないかとする。
また、入江高砂側が襲撃して無防備状態の有珠モシリ側を殲滅したのではないかとも考えられる。その際に、入江高砂側に向けて放たれた矢を思わず腕をかざして防御したところ、腕に刺さり、、石鏃は抜くことができず嵌入したまま一生を過ごしたのではないか。とも考えられる。
一般的に短弓の有効飛翔距離は30mとされているので、近接した敵によって放たれた確信犯の矢である。
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北海道第一弾の「伊達歴史文化ミュージアム」で、既に本州縄文時代の常識とは異なる北海道の縄文が明らかになりました。
そして、このことにより、縄文時代について再検討するにふさわしい、文献「受傷人骨から見た縄文の争い」に遭遇しました。
この文献は要約できません。どうか皆さんもご一読いただけますれば幸いに存じます。
優秀な一大学生が、何千年も前の受傷痕から、まるで警察庁の検視官のような推論を展開し、殺戮の様を明らかにしていく様子は、
推理ドラマのようで楽しく読むことができます。
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引用「受傷人骨から見た縄文の争い」
かつて中南米の有名な文明が、大変平和な時代であったとされていたが、それは全くの嘘っぱちで、遺跡の周りには沢山の石鏃が落ちていて、激しい戦闘があり、奴隷制度や虐殺があったことが近年明らかにされた。
日本列島の縄文時代も大変平和な時代で受傷人骨はほとんど発見されていない。四国久万高原の女性人骨だけが例外として語られており、私もそれを信じる一方で、遺跡のゴミ捨て場から発見される人骨や、村はずれのおかしな場所から墓坑が見つかったり、奴隷とおぼしき身分差もあり、半疑状態でした。
このたび、「受傷人骨から見た縄文の争い」を読む中で、その実態を知ることができました。
このセンセーショナルな論文が、一大学生の卒業論文であったこと。その後は、大阪圏の小さな考古系の資料館に嘱託で採用されているとか、、もっと厚遇されてもいいのではないかとも思います。
なお、同書は2013年発行であり、おそらく2011年頃までの資料が使われたもので、
2020年の有珠10遺跡(有珠モシリ遺跡)の11体の受傷人骨は登場していない。それも合わせて再編集されれば、もっと縄文の姿が浮かび上がることでしょう。
2020年以前の事例では戦闘というよりも殺人事件や事故ともとれる個人の受傷状況が検討されているが、2020年の発見では明らかな集団に対する殺戮であり、戦闘を意味している。
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以下、オリジナルのページです |
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01外観
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※徳川幕府の瓦解に伴って武士階級が消滅し、
職業を失ったため、多くの貧窮農民と供に、多くの武士も北海道に生きる場所を求めて渡海しました。
映画「北の零年」吉永小百合主演は淡路島の武士。
北海道伊達市は仙台藩。森町は尾張徳川藩など。
※和人の入植に対して、自分たちの土地を奪われるアイヌは抵抗しなかったのかと考えますが、
実は、江戸時代からアイヌの勢力は、場所受け商人によって徐々に弱められ、幕末末期にはほとんど〇隷のような労働をさせられ、集落も働き手を奪われて消滅寸前だったということです。 |
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10二階常設展示室
prologue
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明治の初め、
二つの歴史の流れかここ伊達の地で重なった。
いま、共に築いた道の上を私たちは歩いている。 |
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prologue |
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展示室全景 |
縄文・続縄文コーナー
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展示案内
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掲載順序
①縄文・続縄文コーナー
②アイヌコーナー
④明治以降コーナー
③武家文化財コーナー
の順に掲載しています |
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20①縄文・続縄文時代
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21有珠山と噴火湾 自然に育くまれた縄文人
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22洞爺湖と有珠山の成り立ち[世界ジオパーク]
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伊達市周辺は今も昔も火山活動と密接な地域です。
約11万年前の大噴火によって洞爺湖ができ、約1万5千年前には有珠山が出来上がりました。
有珠地区の地形は、約1万年以上前の有珠山の噴火によって山が崩れてできており、巨岩が地面に顔を出した、独特の景観を見せています。
火山は災害を引き起こす存在ですが、水産・農業・観光の面では私たちに恩恵を与えています。
また、大地の成り立ちを知る教育資源としても活用されており、世界ジオパークに認定されています。 |
有珠山や洞爺湖の形成
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1.約11万年前の大噴火
洞爺湖カルデラ誕生
2.洞爺湖ができた
水が溜まった湖の中央で
繰り返し噴火 |
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3.有珠山誕生2~1.5万年前
外輪山に何度も噴火して
有珠山誕生
4.洞爺湖周辺に人が!
約1万年前 石器を使用 |
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5.有珠山が崩れる1万年以上前
山頂部が崩れて海に流れ込む
6.縄文文化が栄える
ムラや貝塚が作られた |
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7.アイヌ文化が栄える
8.1663年再び噴火!
以降現在まで噴火を繰り返す |
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令和3年7月、北黄金貝塚が世界遺産に。
北海道北東北の縄文遺跡群 構成資産「史跡 北黄金貝塚」 北黄金貝塚 沖縄写真通信
北黄金貝塚
世界遺産 |
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縄文時代
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23有珠山と噴火湾 ―自然に育くまれた縄文人―
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市内には90ヶ所の遺跡があり、縄文時代早期(約9000~7000年前)から人が住んでいました。
噴火湾は国内有数の貝塚地帯と言われ、特に有珠地区には道内の貝塚の約1/5が集中しています。
これは約1万年前に噴火した有珠山の山崩れにより、天然の良港である有珠湾が作られ、海産物を採った人々の暮らしが続いたためです。 |
史跡北黄金貝塚出土品 |
有珠山と噴火湾 -自然に育くまれた縄文人-
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若生貝塚
(約6000年前)
の貝層断面 |
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伊達市内の縄文遺跡
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市内には北黄金貝塚や若生貝塚などの著名な遺跡があります。これらは伊達高校の教諭であった公費学者峯山巌氏が発見し、生徒と共に調査しました。
北黄金貝塚は縄文時代前期(約6000年前)の5つの貝塚と墓、水は、の祭祀場が発見されており、世界遺産候補でもあります。
遺跡の特徴は史跡北黄金貝塚後援で知ることができます。 |
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23a 若生貝塚 (わっか・お・い)北海道伊達市若生町・東有珠町・南有珠町
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①縄文前期6000年前の貝塚遺跡。標高53m海岸線から1000m内陸に立地。北黄金貝塚も内陸側にある。海岸付近は危険だったのかもしれない。
②「わっか」は湧き水で、遺跡付近に水場があったところ。
③遺跡の概要 A~Eの5ヶ所の貝塚が見られる。6000~1200年前 ※縄文前期から続縄文時代にわたる超長期の貝塚遺跡である。
遺跡地点 |
貝塚形成期 |
出土土器 |
A地点 |
縄文前期 |
静内中の式・円筒下層式 |
B地点 |
概ね縄文中期~晩期 |
北筒土器系・亀ヶ岡式系 |
C地点 |
概ね縄文中期 |
円筒土器系・北筒土器系 |
D地点 |
概ね縄文晩期~続縄文時代 |
亀ヶ岡・恵山・後北式土器系 |
E地点 |
縄文前期 |
静内中野式・円筒下層式 |
引用「道内最優秀の海津坂を掘る ―伊達市若生貝塚―」 |
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④縄文前期貝塚層の下から土地掘削痕が出土し、竪穴住居跡と考えられている。 |
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23b 全てのものへの感謝 北黄金貝塚 縄文前期~中期(約6000~4000年前)
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世界遺産候補の北黄金貝塚の調査によって、縄文時代の人にとって、貝塚はただのゴミ捨て場ではなく、「すべての生き物のお墓」であったことが明らかになりました。また、遺跡のほぼ中央にある湧水点の近くでは、大量の石皿と擦石か゛発見されました。人々はこの場所で使い終わった道具に感謝して供養する儀式をしていたと考えられます。全てのものへの感謝を忘れない暮らしがあったのです。 |
すべてのものへの感謝
縄文前期~中期
(約6000~4000年前)
北黄金貝塚 |
北黄金貝塚出土
磨石・石皿 |
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24北黄金貝塚の道具送り
北黄金貝塚出土石器 |
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擦石
縄文前期約5500年前
北黄金貝塚 |
石皿
縄文前期約5500年前
北黄金貝塚
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水場遺構での道具送り |
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25同じ土器をつくる「円筒土器文化圏」
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北黄金貝塚から最も多く出土する土器は、その細長いバケツのような形から「円筒(下層式)土器」と呼ばれています。
同じ形の土器は、北海道南部から東北地方北部で作られました。
同じ形の土器を作る人たちは共通する文化を持っており、「文化圏」というまとまりを持っていました。
世界遺産「北海道北東北の縄文遺跡群」は、この「円筒土器文化圏」にある17の遺跡で構成されています。
※考察 円筒土器文化文化圏
以前から円筒土器文化圏は、東アジアの広範囲で起こった文化圏であり、中国大陸の遼東半島からシベリア、サハリンで同様の土器が出土している。
中国の円筒土器は文様がくっきりしており、列島にまで到達すると、文様が曖昧になっていることも知られています。 |
北黄金の円筒土器 |
同じ土器をつくる「円筒土器文化圏」北黄金貝塚出土の円筒下層式土器 |
北黄金貝塚出土の
円筒下層式土器
縄文前期約5500年前
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※考察 円筒土器
円筒下層式土器と十和田火山
円筒下層式土器の始まりは、縄文時代前期 約6000年前からである。
十和田火山の噴火は、縄文時代前期 約6000年前と言われている。 誤記がありますが、
この図は長らく探し求めていたものです。十和田火山の噴火の降灰は限定的で、西風に乗って八戸方向に流れています。
日本の円筒土器文化圏の成立に十和田火山の噴火が影響しているなら、広大な円筒土器文化圏全体であるところの、
宮城県から北海道南部、山形県・秋田県に及ぶような破局的な大爆発や、広範囲への降灰があったわけではないようです。
また、なぜ降灰の影響がなかった、十和田火山西側の広い範囲で円筒土器文化が拡がっているのでしょうか。
※遺跡密集地域は平地・平野・盆地が中心です。 |
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円筒土器文化圏考
三内丸山遺跡が注目された時、その膨大な出土量の円筒土器が独特なものとして脚光を浴びた。東北地方北部から北海道南部にのみ分布するといわれ、その原因は十和田カルデラの噴火による環境の変化が原因とされ、長時間の煮込みを必要とする硬い食べ物の調理に向いているとされている。
しかし、近年、中国遼東半島から沿海州にかけての広大な地域で円筒土器が出土しており、この文化が遼東半島から拡がったものとされている。
従って、遼東半島から北朝鮮北部や沿海州を通り、サハリンに到達し、そこから南下して北海道に到達し、さらに南下して青森に着いたと考えるべきなのか、
それとももっと手短に、遼東半島から日本海を横断して青森に到着し、そこから北東北や北海道に拡散したと考えるべきなのだろうか。
遼東人の渡来
青森県人は遼東人の末裔だといわれている。背が高く、とても足が長い。これは大陸系だといわれるので、そうなのかもしれない。
だとすると、遼東人が朝鮮半島や北部九州・山陰などの日本海側に形質を残さずに、直接青森に来れるルートがあったのかもしれない。
いや、なければ日本人の中で最も西洋的な長足長身体格の青森県人は生まれないし、円筒土器文化も育まれない。 |
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東北訛りと島根訛り
2023.10.20追記
今朝、TVで「松本清張出会いの旅路」をやっていて、はっと思い出した。小説「砂の器」に島根県に木次線 亀嵩駅があり、この辺りには東北訛り(ズーズー弁)があるというのだ。そして、分布を調べると、出雲、富山平野、東北に分布することが分かった。
調べていくと、ズーズー弁は出雲地方が発生源で、それが富山、東北へと伝播したという説さえ見つかった。。
また、ズーズー弁とよく似た言語にモンゴル人力士の言葉があり、ツングース系民族の特徴であるとされていた。
そして、ツングース系民族の分布を調べると、シベリアウラル地方を本拠とするが、南下東進し極東地域に及んでいることがわかった。
(日本人もツングース系の一支族にあたるのではないかと思います。)
その中の南西ツングースという支族が、遼東半島、北朝鮮北部に分布していました。
つまり、ズーズー弁の音韻をもつツングース系民族が、遼東半島の渤海湾から船出し、南下し、日本海航路を進んだときに、出雲地方、富山地方、佐渡島に植民し、やがて東北北部にたどり着いたのではないだろうかと思うのです。
そして、これらの地域は密接なつながりを長く保ち続け、
弥生時代後期には、四隅突出型墳丘墓文化を共有し、古墳時代にも前方後方墳なども共有し、密接な関係を保っていた。
更に、古代に入っても独特な文化を持ち、出雲では特異な神話、風土記の制作に20数年も費やし、と、他の渡来系支族とは異なる動きを見せていた。
※ただし、出雲、富山、佐渡島に円筒土器は存在しない。 |
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縄文オーパーツと渡来
①中国大陸の文化が広まったものの一つとして玦状耳飾りがある。これは縄文時代早期末から出土している。そして前期には太平洋側の三重県でも出土している。青森県三戸郡五戸町大窪、青森県下北郡東通村浦野沢石持出土の玦状耳飾りは縄文時代 6000年前~5000年前とされている。
②「の」字状石製品は、かつて「えっ!縄文人がなぜひらがなを知っていたの。」「台湾で一時期平仮名の“の”を使うのが流行った」
しかしこれは、イモガイを真横に切断すると「の」字になり、ペンダントのようにして持つ、魔除け・厄除け・護符の類でしょう。これは前期末の5000年ほど前に日本海側に点在し、やがて太平洋側にまで持ち込まれた。
また、このように、③大陸製銅製刀子や、④王家の刻印付き玉斧なども出土している。(由利本荘市修身館71刻文付有孔石斧・玉越)
円筒土器の伝播 考
円筒土器(円筒下層式土器)は縄文時代前期末頃から分布を開始している。
随分稀ではあるが、このように縄文時代の早い時期から、直接、大陸の文化が渡来することがあったようなので、
沢山の遼東人が大挙して青森県にやってきて、その時に円筒土器文化を持ち込んだのかもしれない。
しかし、青森に伝播した時には、大陸を発ってから何世代か過ぎていたのかもしれない。それは、円筒土器の文様が曖昧になっていることだ。
かつて、島根鳥取の山中から陰嚢付注口土器と、座産系土偶が鮮烈な形で原地そのままの形で出土した。
神戸市から出土した座産土偶は原形をとどめないほど省略されて、完全におぼろげな記憶を辿ったり、伝聞によってつくられたかもしれない曖昧な形の土偶が出土した。前者はそのまま、後者は何世代も重ね、オリジナルと神戸の中間の土偶が関が原から見つかった。
円筒土器も、周囲の文様が曖昧になるほど、世代を重ねた後にバケツ型土器として、形状だけはしっかり残っていたのかもしれない。 |
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30続縄文時代 (紀元前3世紀~紀元後7世紀)
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31有珠モシリ遺跡 続縄文人と弥生人の出会い
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発掘調査報告書及び論文
北海道伊達市有珠モシリ遺跡発掘調査概要報告(2020年)
縄文晩期後葉の再埋葬墓18号墓の発掘調査報告書。多数埋葬墓(八雲町栄浜1、恵庭市カリンバ、厚真町朝日、釧路市幣舞など)ではないと断言。
しかし、有珠モシリ発掘調査概要2では、多数合葬・複葬例であるとしている。
※資料写真・図 18号墓人骨、土器、耳飾り、頭骨、11体の再葬骨、銛、腕輪、耳飾り、石刀
北海道伊達市有珠モシリ遺跡発掘調査概要報告2
18号墓の11体の人骨を分析する。
今回検出した多数合葬・複葬例は11体分の頭骨を2列に向かい合わせる意図的な配置を持つ特異な合葬墓である。加えて、人骨の頭部には鋭利な刃を持つ道具で付けられた断面楔状の陥没痕跡や、鈍器で殴られた際の陥没骨折の治癒痕が確認できたほか、黒曜石片が貫入した脛骨もあり、受傷人骨が高頻度で存在する点も特筆される。
※資料写真・図 18号墓11体の再葬骨、亀ヶ岡式土器片、配石、人骨、赤く塗られた人骨、土器
18H00749 研究成果報告書 - KAKEN
縄文晩期後葉の有珠モシリ遺跡18号墓の11体の多数遺体再葬墓である。
人骨が上顎側切歯の抜歯と東部の外相を高頻度に持つことを明らかにした。これにより、九州の弥生早期に併行する時期の北海道において、埋葬法法と抜歯習俗に本州の影響を確認できたうえに、「戦闘傷痕」であるとする。
11体の内頭部に楔状陥没(6体)、陥没治癒(1体)。脛骨に黒曜石片が刺さり延焼を起こした(1体)。これらは戦闘傷痕の可能性がある。
11体の内抜歯は7体。上顎右側切歯1、上顎左側切歯6である。本州以南(南海)の習俗の伝播で注目される。
※資料写真・図 18号墓11体の再葬骨、頭蓋骨陥没骨折の治癒痕跡(続縄文時代は石器で殴り合いの戦争だった。)
伊達市噴火湾文化研究所P8「全国の注目を集める遺跡 ―有珠モシリ遺跡―の発掘調査」
有珠モシリ遺跡からは、続縄文時代の、クマとクジラを彫刻したスプーン、沖縄近海のイモガイ製腕飾り、鹿角製銛。捕囚以南のベンケイガイ製貝輪。北海道に棲息しないイノシシの臼歯などが出土し、本州や南海の島との交易が示された。
更に赤色の角閃石安山岩を用いた墓が見つかる。(産地:香川県三豊郡三野町下高瀬、石川県石川郡白峯村桑島)
※資料写真・図 鹿角製銛、イモガイ製腕輪(種子島町広田遺跡ミュージアムに類似品が出土)、銛出土状況
石鏃を射込まれた有珠10遺跡出土続縄文時代恵山文化期の人骨について
有珠モシリ遺跡17号墓より、成人2小児1の再葬骨が出土。
成人1体は頭部に楔状の陥没があり、薄く小さく儀式用と考えられていた黒曜石製矢尻が、
皮 膚,皮 下脂肪,大 殿筋,中 殿筋お よび小殿筋 と、かなり厚い軟組織を貫き,さ らに強靱な腸骨 大腿靭帯および関節包 を射抜いて大腿骨頭深部
まで埋没 している ことから判 断 して,その威力は絶大であり,至近距離からかなり強力に打ち込まれたと思われ る。
※資料写真・図 石鏃が刺さった大腿骨、
北海道における貝塚文化の消長
北海道では縄文中期・後期に集落から離れたところに墓地をつくる、新たな墓制が成立した。
有珠モシリ遺跡は1万㎡の小島に縄文晩期~続縄文前半期の貝塚と墓が検出されている。
縄文晩期の墓の上に続縄文期の貝塚がつくられ、続縄文期の墓は晩期の貝塚を掘り込んでつくられている。このことから、
縄文人や続縄文人は、島自体を特定の意味をもつ場所として考えていた可能性もある。このことから,縄文晩期における墓地的要素をもつ貝塚の可能性がある。
※つまり、縄文晩期~続縄文期には、島自体を貝塚と墓地と考えていた可能性がある。墓地の島だといっている。 |
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32有珠モシリ遺跡
有珠モシリ遺跡 続縄文人と弥生人の出会い |
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続縄文の道具 |
有珠モシリ遺跡 |
狩猟・漁撈具 |
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有珠モシリ遺跡 伊達市有珠町102(名前のない小島。モシリ島は隣の名のある小島)
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北海道伊達市有珠地区にある小さな島の遺跡で日本中を驚かせる考古学上の大発見がありました。遺跡の名は「有珠モシリ遺跡」。
約2300年前、稲作が普及し弥生文化が広がった本州以南とは異なり、北海道島では縄文文化と同じように狩猟・漁労・採集を生活の基盤とする文化が続いていました。この文化を「続」縄文文化といいます。
有珠モシリ遺跡は、縄文文化の終わり頃から続縄文文化の前半にかけて(約2800~1700年前)の遺跡です。
有珠モシリ遺跡から出土した装飾豊かな漁労具や動物意匠付きの匙型製品からは続縄文文化の豊かさをうかがい知ることができます。
また、沖縄以南の海でしか採れないイモガイでできた貝輪などは今から約2000年前の長距離交流や多文化接触の様子を伝えています。
本企画展では、重要文化財「有珠モシリ遺跡出土品」を多数展示し、「北と南が出会った場所」有珠モシリ遺跡の姿をご紹介します。
※小さな無人島に、
かつては人が住み、漁撈や交易をし豊かな生活を送っていた。海から魚が湧いた時代の魚御殿村だったのでしょうか。
それとも、埋葬用の島、墓場の島だったのでしょうか。
そういえば、縄文人は住居のそばに埋葬しますが、アイヌは居住地とは離れたところに埋葬しました。
縄文人女性の貝輪を付けた人骨が2体出ているということは、縄文時代から続く墓地の島。ただ、場所の格が上なのかもしれない。
続縄文時代の墓地には、本土の海洋民と同じような葬法が行われていることから、この地にやって来た、海洋民族の墓だったかもしれません。 |
※考察 北海道の交易路
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北海道の交易路はサハリンから始まり、稚内(利尻・礼文)から日本海沿岸を南下するルートと、
宗谷岬からオホーツク海沿岸を南下し、知床半島・国後島から始まる千島列島をたどるコースがある。
もう一つは、日高町から苫小牧・白老・室蘭をまわって噴火湾に入り、渡島半島を函館から松前町に至り、南下して津軽半島に至るものである。
青森県からは北黄金貝塚の装飾性に富んだ骨製匙は見かけないので、これらは道内南部の地域でのみ発達した製品かもしれない。
※ここではえりも岬をまわる交易路はなかったと言っています。襟裳岬は岩礁地帯で船の墓場。しかも南から強風が吹き付け、座礁沈没が避けられない。 |
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33二千年前の遠隔地交流
対馬海流・イモガイ製貝輪の来た道
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35二千年前の遠隔地交流
琥珀製玉類 続縄文前半期(約2000年前) 有珠モシリ遺跡
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続縄文期の墓からは北海道産とサハリン産の琥珀製玉類が多量に出土します。特に石狩低地以東は琥珀の赤色を好む文化圏でした。 |
垂柳遺跡 イモガイ製貝輪の通過ポイント
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青森県田舎館村に所在する弥生時代中期(約2000年前)の水田が見つかったことで有名な遺跡。
その垂柳遺跡から有珠モシリ遺跡のイモガイ製貝輪にそっくりな石製品が出土した。
この発見によって、九州で作られた貝輪が垂柳遺跡を経由して有珠にやってきたことが明らかになった。
※「経由して」の表現は誤謬ですね。日本海航路で深浦は停泊地であり、そこで交易したイモガイ製貝輪をまねた石製品が作られ、それが内陸の垂柳にまで流布したのでしょう。「経由」とは中継地点であり、航路から外れた垂柳がそのような場とはなりえない。むしろ、垂柳で作られた米が日本海航路の船の食料として運ばれ、貝製品が手に入り、流通する模倣品も入手できたのかもしれない。
すると、垂柳遺跡の交易力(経済力)よりも、噴火湾に浮かぶ岩礁程の小島有珠モシリ遺跡の方がはるかに勝っていたといえる。いったいどんなものを交易していたんだろう。 |
宮の本遺跡 イモガイ製貝輪の通過ポイント
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長崎県佐世保市に所在する遺跡。イモガイ製貝輪が多数出土した。この遺跡の貝輪の加工法は、他の遺跡では見られない独特な物のため、
同じ作り方の有珠モシリ遺跡の貝輪が、ここで作られて運ばれて来たことがわかります。 |
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琥珀製玉類 |
琥珀製玉類 |
イモガイ製貝輪の通過ポイント 垂柳遺跡 |
有珠モシリ出土貝輪
垂柳出土模倣土製品
石製品はこちら
リンク写真は以下の宮の本遺跡の貝輪とそっくりです。 |
宮の本遺跡
イモガイ製貝輪の通過ポイント |
宮の本遺跡のイモガイ製貝輪 |
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37二千年前の遠隔地交流
ベンケイガイ製腕輪 続縄文時代前半期 (約2000年前) 有珠モシリ遺跡
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ベンケイガイは津軽海峡以南で採れる貝で、縄文時代前期から腕輪やネックレスに加工されて使われました。 |
ヒスイ製玉類 続縄文時代前半期 (約2500年前) 有珠モシリ遺跡
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ヒスイは本州中央部の糸魚川に大きな産地があります。緑と白の玉類を手にしたいとの縄文人の強い思いが、遠い北海道までヒスイを運ばせました。 |
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ベンケイガイ製腕輪
続縄文時代前半期
約2000年前
有珠モシリ遺跡
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ヒスイ製玉類
続縄文時代前半期
(約2500年前)
有珠モシリ遺跡 |
ベンケイガイ製腕輪 |
ヒスイ製玉類 |
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38オオツタノハ製腕輪 縄文時代晩期 約2500年前 有珠モシリ遺跡
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オオツタノハは琉球諸島や小笠原諸島で採れる貝で、弥生人が好んで腕輪としました。腕輪は女性の左腕にはめた状態で出土しました。 |
オオツタノハ製腕輪 縄文時代晩期 約2500年前 有珠モシリ遺跡
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オオツタノハ製腕輪 |
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オオツタノハ製腕輪 |
オオツタノハ製腕輪
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オオツタノハ製腕輪をつけた縄文晩期の二体の女性骨
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オオツタノハガイは伊豆諸島・小笠原諸島に棲息し、採取の方法は最も潮が引く大潮の日に岩礁帯に張り付いており、これを骨箆で起こして採ります。大切なことは、普段は全くどこにいるか全く見えない貝で、これを採取するのは至難の業であり、海を熟知していなければ採れない貝でした。
伊豆諸島でも最南端や、小笠原近辺まで行く必要があり、しかも、大潮の日だけが採れる時で、海洋縄文人たちはすでに太陰暦を熟知し、潮汐表が頭の中にあったと思われます。
つまり、磯に行けば勝手に採れるというものではなかった貝でした。
その他、イモガイも、ベンケイガイも深い海に潜らねばなりません。
ベンケイガイは、北限の海女と言われる岩手県陸中海岸よりももっと北の津軽半島以南の海で潜り漁をして水深5~20mの海から貝を採取する。この漁は困難を極める。 |
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39イモガイ製貝輪
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イモガイ |
イモガイ製貝輪
腕輪にするほどの巨大なイモガイが |
どこにでもいるわけがない |
大変貴重な貝です。 |
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※縄文や続縄文遺跡の出土品を、単にふんふんと見聞きしているが、潜水具がある現在でも採取しにくい貝を何千年も前の人々はどうやって採取したのだろう。ちょっと下手をすると潜水病や水死につながる。現代でも、シュノーケリングで死ぬ人があとを絶たない。あんなものでなぜ死ぬんだと思うが、事故が起こる。
その貴重な貝製品を北海道まで、丸木舟で運んでくるなんて、想像できない。海水浴場の貸しボートで沖に出て、そのまま北海道まで漕いで行けますか。そして、生きて北海道に到達した冒険者は出発した者たちの何%だっただろう。
更にまた、彼らは、どうやって生まれ故郷に帰ったのだろう。それとも、その貴重な宝をもたらした地で生涯を終えたのだろうか。 |
39a銛 続縄文前半期(約2000年前)有珠モシリ遺跡
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クジラやオットセイを捕るために獲物に向かって投げて突き刺す道具です。
刺さった後の銛頭は柄から外れ、紐をたぐって獲物を引き寄せます。中には紐を引くと90度回転して獲物から外れにくくしたものもあります。 |
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40擦文時代 7世紀~13世紀 飛鳥・奈良・平安時代 1400~800年前
擦文文化
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土師器を真似て作った土器で、器面を板で擦った痕があるため、擦文土器と言われている。 方形竪穴
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43 4 豊かな装飾の擦文土器 8~12世紀 有珠地区(有珠善光寺2遺跡・有珠4遺跡)
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本州の奈良・平安時代に使われた竃用(かまどよう)の甕は熱効率を考えて器壁を薄く削った模様のない土器です。
北海道でも本州から土師器が伝わった当初は模様のない土器でしたが、すぐに土器全体を木の板で擦り、棒で線を引き、粘土を貼り付けて模様としました。
これは縄文時代以来の土器に模様をつける意味を受け継いだたためと言えます。 |
アイヌ民族の遺跡 13~20世紀
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1806年のウス場所(有珠会所)全体の戸数は78戸328人が暮らす大きな村でした。
そのため、ポンチャシ、ポロチャシ、ポンマ遺跡など多くの遺跡が有珠地区に集中しています。
さらに、伊達市街地には道内最大規模の館山チャシがあるほか、大滝区の円山洞窟遺跡など市内全域にアイヌ民族のくらしの跡があります。 |
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50②アイヌ文化期
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51有珠オヤコツ遺跡の方形配石墓
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向有珠町の海洋センター周辺のオヤコツ遺跡では、方形配石墓と呼ばれる複数の遺体を石で囲った墓が見つかりました。
副葬品には中国大陸に起源を持つ青磁碗やガラス玉(カリ石灰ガラス)が出土しています。
同様の墓はロシア沿海地方のチェルニャチノ5遺跡にもあることから、北方からの文化的影響を示す証拠です。
※沿海州からの渡来人集団が築いた墓であり、多くの移民があったと言っているのかな。 |
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オヤコツ遺跡の方形配石墓 |
オヤコツ遺跡の方形配石墓 |
南北4.25m、東西3.93m |
文化の接触と変容 縄文時代~19世紀
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市内の遺跡からは遠隔地から運ばれた物が見つかります。
縄文時代のヒスイ、仙台地方の土器、続縄文期の南海産貝製品、琥珀玉、碧玉製管玉、13世紀のガラス玉、17世紀の漆製品などです。
また、生業や葬制にも他地域からの影響が見られます。
噴火湾地域の文化は、どの時代も北や南の人や文化と接触し、変容してきたのです。 |
文化の接触と変容
縄文時代~19世紀
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アイヌ民族の墓に供えられた本州産の品物
有珠4遺跡出土
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53弓矢の中柄 13~14世紀 オヤコツ遺跡
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矢の先端(鏃)と柄の間に使われていたもの。重量が必要なため、シカの角やクジラの骨でできています。
本来は植物質、あるいは金属の鏃がつけられていました。 |
骨鏃 13~14世紀 オヤコツ遺跡
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クジラの骨製の弓矢の先。同じ形と大きさで揃えられています。本来は、植物質の柄をつけて使用しました。 |
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弓矢の中柄
13~14世紀
オヤコツ遺跡 |
弓矢の中柄
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骨鏃
13~14世紀
オヤコツ遺跡
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骨鏃
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55ガラス玉(カリ石灰ガラス) 13~14世紀 オヤコツ遺跡
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中国大陸性のガラス玉で、同時期のものは福岡県伯方遺跡で出土するだけであることから、北海道へはサハリン方面の北回りで運ばれたと言えます。 |
シトキ(首飾りの飾板) 13~14世紀 オヤコツ遺跡
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シトキは首飾りの中央に下げる飾りです。銀を含む素材で刀の鍔を模したこのシトキは、アイヌ文化の首飾りの中で最古級の物です。 |
ガラス玉(カリ石灰ガラス) 13~14世紀
オヤコツ遺跡 |
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太刀の柄
13~14世
オヤコツ遺跡 |
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シトキ |
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60 |
61文化の接触と変容 縄文時代~19世紀
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市内の遺跡からは遠隔地から運ばれた物が見つかります。
縄文時代のヒスイ、仙台地方の土器、続縄文期の南海産貝製品、琥珀玉、碧玉製管玉、13世紀のガラス玉、17世紀の漆製品などです。
また、生業や葬制にも他地域からの影響が見られます。
噴火湾地域の文化は、どの時代も北や南の人や文化と接触し、変容してきたのです。 |
エムシ(刀)の用途 17世紀
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エムシは非常時は武器として使用されましたが、基本的にはイコロ(宝物)として家の壁に掛けるもので、争いの賠償のほか、儀式や踊りの際にも用いられました。
エムシには、銀で覆輪した金具を多用した表面と省略した裏面あることから、武器としてよりも「飾り」としての機能が重要であったと考えられます。 |
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文化の接触と変容
縄文時代~19世紀 |
アイヌ民族の墓に供えられた本州産の土器
有珠4遺跡
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エムシ(刀)の用途
17世紀 |
柄の表と裏
有珠4遺跡 |
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63太刀 17世紀
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65 5アイヌ模様の変遷
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アイヌ模様は抽象的なデザインのみで、具体的には描かないとされてきました。
しかし、有珠海水浴場近くのポンマ遺跡ではフクロウを彫刻した石製品が17世紀の地層から出土し、かつては具象的なものもあったことがわかります。
村の守神であるフクロウを彫刻した石製品はお守りのような使われ方をしたのかもしれません。 |
アイヌ模様の変遷 |
アイヌ模様の骨角器
17世紀以降
ポンマ遺跡
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小刀(マキリ)の柄と考えられる。鹿角製。 |
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アイヌ模様の石製品
17cポンマ遺跡・有珠善光寺2遺跡
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柔らかな凝灰岩に彫刻した。用途は護符やいと積む場の道具などが考えられる。 |
5アイヌ模様の変遷 |
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70伊達市のアイヌ文化期の遺跡
コタンでの暮らしと火山災害の痕跡
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伊達市には多くのアイヌ文化期の遺跡があります。中でも、有珠地区では、17世紀頃を中心とした集落(コタン)が発見されており、
近年の発掘調査によって、住居(チセ)跡・貝塚・畑跡・墓などからなるコタンの様子が明らかになってきています。
また、有珠地区の遺跡には、17世紀中頃に発生した大規模火山災害(1640年の駒ヶ岳噴火・津波、1663年の有珠山噴火)の痕跡と共に、
これらの災害から力強く復興した人々の姿を知ることができます。 |
アイヌ文化期の道具
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作りかけ銛頭 続縄文
銛頭 続縄文
有珠モシリ遺跡
約2000年前 |
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クジラ彫刻付き匙型製品
続縄文約2000年前
有珠モシリ遺跡
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ベンガラ入り容器
続縄文前半期
約2000年前
有珠モシリ遺跡 |
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赤色の顔料を入れた円盤状の土器には、ふちを糸で縫ったような表現がされており、
実際の皮袋をまねたものと考えられます。 |
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80カムイタプコプ下遺跡 1号住居跡の特徴 |
81
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伊達市有珠のカムイタプコプ下遺跡で発見された平地住居跡は、噴火湾沿岸で確認された初めてのアイヌ文化の住居(チセ)跡であると同時に、
建てられた年代が15世紀後半~16世紀に特定できる貴重な例です。
住居は短辺の長さが5.7m、長辺が8.2mほどの東西に長い方形で、室内の中央やや東寄りに火を焚いた炉の跡がありました。
室内の広さは約47㎡で、畳を28枚程敷ける広さです。
発見された柱穴の直径は9cm前後、深さは27cm前後で、柱の下側をくさび状に削り、地面に打ち込まれていました。 |
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柱穴の位置 |
遺跡で見つかった炉跡と柱の配置・断面図 |
柱跡の断面写真
先が尖っている |
柱跡写真 |
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83約500年前のアイヌ民族の住居(チセ) 縮尺1/25
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遺跡名 |
伊達市カムイタプコプ下遺跡 |
規模 |
長辺(平均)8.22m 短辺(平均)5.69m 面積46.7㎡ |
柱の構築 |
打ち込み |
柱穴深さ |
(平均)27.2cm |
柱穴直径 |
(平均)9.3cm |
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アイヌ文化の住居(チセ)跡 15世紀後半~16世紀 カムイタプコプ遺跡
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伊達市有珠地区のカムイタプコプ下遺跡で発見された平地式住居跡は、噴火湾沿岸で確認された初めてのアイヌ文化期の住居(チセ)跡であると同時に、建てられた年代が15世紀後半~16世紀に特定できる貴重な例です。
有珠地区では、有珠漁港南側のポンマ遺跡からも17世紀中頃の住居跡が発見されており、当時の人々の暮らしが具体的に明らかになって来ています。 |
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有珠で発見されたチセ跡の特徴
-小氷期を生きたアイヌ民族の住居を考える- |
当時の人々は、住居完成後も何か補強をしていたと想像されます。白い棒はその一例のつっかえ棒で、柱穴として残らないため、あえて白色にした。
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アイヌ文化の住居 |
蝦夷島図説に描かれたチセ
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90はたけ跡 |
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91はたけ跡1640~1663年/有珠4遺跡
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これは、有珠4遺跡で発見された1640~1663年にアイヌによって営まれた「はたけ」の跡です。1663年に起きた有珠山噴火による火山灰で埋まってしまったので、こうして畝の形がしっかりと残っています。
かつて、アイヌは農耕をしない(または簡素な農耕しかない)と言われていましたが、近年の発掘調査によって、このようにしっかりと畝立てされた「畑」があったことが明らかになりました。
畝の上に残された作物の痕跡と澱粉粒の分析結果から、カブ(アタネ)などの根菜を栽培していたと考えられます。 |
※アタネとは
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はたけ跡 |
蝦夷島図説アタネ
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アタネ
アタネの根菜を薄切り乾燥させたもの。
切干大根ですね |
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92はたけ跡
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100貝塚文化の終焉 「送り場」から「ゴミ穴」へ
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伊達市は、北海道で一番長い期間、貝塚が作られ続けた地域です。
「送り場」
今から約7000年前の縄文早期に、道内で最も古い貝塚の一つである有珠6遺跡の貝塚が作られて以降、市内各地で連綿と貝塚が作られ続けました。
これらの貝塚は、単なるゴミ捨て場としてだけでなく、「すべての生き物のお墓」や「送り場」という性格も持っていました。例えば、縄文時代の貝塚からは、動物
の骨や貝殻に対する儀式の痕跡が見つかっていますし、人のお墓も貝塚の中に作られました。
また、アイヌの人々にとっての貝塚は、生き物や道具に宿った魂(たましい)をカムイ(神)の世界に還(かえ)すための場所でした。
「ゴミ穴」
そうした、祈りの対象として貝塚を作る文化が、明治初期(約160年前)に終わりを迎えます。替わってつくられたのが「ゴミ穴」でした。
神聖で特別な場所として、どこからでも見ることができるように動物の骨や貝殻が山のように積み上げられた貝塚とは違い、ゴミ穴は廃棄物が人目に触れないように土中に埋め隠すために作られました。
いつの間にか人は、自らの糧となった生き物や道具への感謝を忘れるようになってしまったのかもしれません。
自戒の念を込めて、ここに明治以降に作られたゴミ穴に乱雑に投げ込まれた陶磁器の破片やガラス瓶などを展示します。
貝塚を作るという行為には、あらゆるものに感謝することで過剰な資源利用を抑制する機能があったともいわれています。持続可能な社会の実現を目指したSDGs(持続可能な開発目標)の取り組みに注目が集まる現代こそ、もう一度貝塚の意味を考えてみる必要があるのではないでしょうか。 |
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貝塚文化の終焉 「送り場」から「ゴミ穴」へ |
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「送り場」から「ゴミ穴」へ |
丁寧にホタテが積み重ねられた貝塚縄文後期
ポンマ遺跡17号貝塚
縄文後期 約4千年前 |
アイヌの送り場
蝦夷嶋図説
カムイへの捧げ物「イナウ」が立てられている |
ゴミ穴動物骨・゙ラス瓶・陶磁器片が投げ込まれた |
有珠善光寺2遺跡319土坑
明治以降約160年前 |
有珠善光寺2遺跡319土坑
明治以降約160年前 |
ゴミ穴出土品 |
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110アイヌの神々と仏教 |
111アイヌ文化コーナー
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伊達市内では、縄文時代から近代に至るまで様々な文化が育まれてきました。中でもアイヌ民族が培ってきたアイヌ文化もその一つです。
その文化は、北海道をイメージさせる代表的なものとなっています。
当市におけるアイヌ文化は、活火山「有珠山」の麓にあり、洞爺湖に町に隣接している「有珠地区」を中心に培われてきました。
そこには、この地域のアイヌ文化を語るうえで欠くことのできない建物が2つあります。
1つは「大臼山道場院 有珠善光寺」、そしてもう1つは、「バチラー夫妻記念堂」です。どちらも「宗教」が関連している建物ですが、それぞれ建てられた時代も理由も異なります。まずは、先に立てられた「有珠善光寺」を取り上げます。 |
アイヌの神々と仏教 |
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アイヌ文化コーナー |
有珠善光寺周辺地図 |
蝦夷三官寺 有珠善光寺
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18世紀になるとロシアなどの外国船が蝦夷地近海に出没するようになり、寛政8(1796)年には洞爺湖町にイギリス海軍ウイリアム・ロバート・ブロートン中佐が乗るプロヴィデンス号が上陸するなど、その頻度も増していきました。
文化元(1804)年には、ロシアなどの諸外国に対し、蝦夷地(後の北海道)が自国の領土であると主張するため、江戸幕府は寺を立てることを決めました。
このため、より広い土地が必要となり、往来の利便性の観点から、船着き場や会所の近くである現在の場所が選ばれ、有珠善光寺が立てられました。
この他に、幕府は様似町に等澍院、厚岸町に国泰寺という2つの寺も立てました。有珠善光寺と合わせたこの3つの寺は「蝦夷三官寺」と称されています。 |
蝦夷三官寺有珠善光寺
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蝦夷三官寺 |
大臼山道場院
有珠善光寺
未記述 |
円空作聖観音像 複製
東蝦夷日誌
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円空作聖観音像
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113アイヌ民族への布教
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115東蝦夷日誌
松浦武四郎
「東蝦夷日誌」 |
松浦武四郎
「東蝦夷日誌」 |
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117アイヌ関連文書 18世紀 有珠善光寺所蔵
有珠善光寺沿革
イクパスイ
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カムイノミやシンヌラッパなどの祭事の儀礼で使う道具で、右手に持ち、お酒を捧げる時に使用するヘラ状の祭具です。この祭具はお神酒をカムイや先祖に届けるとともに、イクパスイ自身が言葉を発し、祈り詞を伝える働きをします。そのため、イクパスイを指す飾った言い回しとして、イタクノカムイ「よく話す神」、パワシヌピト「雄弁な神」、パスイパルンクル「話し上手なパスイ」と言う表現もあります。 |
キサルシパッチ
トコムシパッチ
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日本語では「耳盥」ですが、呼び方が2種類あります。キサラ=耳、ウシ=ついている、パッチ=鉢が訛って「キサルシパッチ」となったもの。
「トコムシパッチ」はトコム=くるぶしの意味ですので「くるぶし付き鉢」または「突起のある漆塗りの木鉢」です。 |
イタンキ(食器として用いた場合)
トゥキ(盃として用いた場合)
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アイヌ語の名称の多くは用途から名付けられます。
そのため、用途が違えば同種の器でも名称が異なり
ます。また、逆に同一用途であれば、異なる器であっても、名称が同じと言うことがあります。 |
有珠善光寺沿革 |
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イクパスイ 18c |
キサルシパッチ
トコムシパッチ
18c
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イタンキ(食器)
トゥキ(盃) |
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200④明治以降コーナー
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210士族の伊達市移住
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明治3 (1870)年、宮城県亘理町を主に治めていた仙台藩一門の亘理伊達家が伊達市に移住してきました。移住の理由は戊辰戦争で奥羽越列藩同盟と言う反新政府の代表を仙台藩が努め、敗戦後に土地を没収されたからです。その規模は総勢約2700人に登り、片道700kmにも及ぶ道のりでした。
移住の別の理由は士族として立場を守りたかったからだ。一部はさらに札幌の琴似や山鼻などの屯田兵村にに移住し、日清戦争(1894)や日露戦争(1904)に出兵したぞ。 |
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211
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213西洋農具の導入
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明治10 (1877)年、移住者も生活できるだけの食糧生産ができるようになり、いよいよ伊達市も殖産興業に乗り出します。
この時、開拓使のお雇い外国人のクラークが札幌農学校を離れ、帰国する途中で伊達市を訪れ、「甜菜てんさい」を育て、砂糖を作るように助言していきました。
しかし、人力で畑を広げるには限界があるため、開拓使に依頼して、アメリカ製の馬で土を耕す「プラウ」を購入し、現在の長流川沿いに広大な甜菜畑を作ることに成功しました。また、明治政府もこれに注目し、伊達市に国内初の官営製糖工場となる「紋別製陶所」を設置しました。
クラークが甜菜を勧めたた理由は、「長流川」の河口付近に未開拓の肥沃な土があり、その中に「有珠山」の火山灰が流れ込んでおり、これほど農業に適した場所はないと見抜いたからだ。 |
プラウ
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プラウ 小西農機製
大正時代 伊達歴史文化ミュージアム所蔵
明治17 (1884)年以降、伊達では自らプラウを製造する人たちが出てきました。中でも小西農機が制作したプラウは赤く着色されていたことから、「赤プラウ」と呼ばれ道内で広く利用されました。
この頃、大戦景気によって世界的に食糧不足になったため、伊達では小豆が飛ぶように売れ、成金と呼ばれる人たちが出てきたぞ。 |
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デルビルくんのワンポイントコラム
『後白河法皇と後鳥羽上皇』
今回は亘理伊達家が所蔵していた『千載和歌集』と『新古今和歌集』を紹介するぞ。
今年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の中13人」の主人公:北条義時と対峙する朝廷側の二大巨頭として、立ちはだかるのが後白河法皇と後鳥羽上皇だ。
日本の歴史上、初めての武家政権である鎌倉幕府は、絶えず朝廷・公家の支持を得ることが必要とされたため不安定だったんだ。
また、天皇や法王、上皇の命令で作られる和歌集は、その時代の優れた和歌を集めて作られるから、その時代における文化的実験は、ずっと朝廷が握っていたことを示すものなんだ。
今年は平安時代末期から鎌倉時代前期を我輩と一緒に勉強しよう! |
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215新古今和歌集と千載和歌集
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217ジョン・バチラーの業績
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■ジョン・バチラーの業績
ジョン・バチラーは1877年(明治10年)、中国伝道の準備のため、香港で勉学中に健康を害し、療養のため急遽函館に来た。
そこで初めて、和人との関係の中で多くの困難に局面しているアイヌ人と出会い、やがてアイヌ民族のために生涯を捧げることとなった。
バチェラーの生涯の全ての働きの根底を貫くものは「神に愛され、神を愛す。」この「神からの愛」と「神への愛」を出発点とし到達点とする所の「隣人への愛」であった。キリスト者としての、この愛と信仰に根ざした働きは、一貫してアイヌ民
族一人ひとりの人間としての尊厳へと向けられ、それを支えるための福祉と教育の向上へと注がれた。
バチェラーの生涯にわたる業績として、特に以下の3つを記したい。
(1)教育事業
1988年(明治21年)以降、幌別に建てられた「愛隣学校」、函館の谷地頭に建った「アイヌ・トレーニング・スクール」、
平取及び釧路周辺、頓化、茂尻矢、春採のアイヌ学校。これらはバチラー自身または師の進言のもと、英国の伝道協会(CMS)によって設立され、アイヌの児童はこれらの学校で、ローマ字化したアイヌ語(アイヌ語には文字がないため)を学び、また、
師の翻訳によるアイヌ語版聖書、祈祷書、聖歌集を通してキリストの愛を学ぶことができた。また1923年(大正12年)、札幌に「バチェラー学園」を創立。奨学金を支給し、100人以上のアイヌ青年に当時の中学校以上の教育を受けさせ、職業を身に付けさせて世に送った。
(2)医療事業
バチラーはアイヌ人が和人の経営する病院に入院するのを極度に嫌い(和人による蔑視のため)病を重くしてしまうのを知り、
アイヌ人病者を公立札幌病院に通わせるための滞在及び施療施設として、札幌の自宅の傍に「アイヌ・ホスピス・レスツ・ハウス」を建てた(1892年明治25年)。この建物はアイヌが親しみを持つように、アイヌ風家屋とし、
1907年(明治40年)床が落下して閉鎖しなくてはならなくなるまでの14年間に、およそ2000名を収容した。これは師の多くの働きの中でも最も画期的な、最もアイヌ人の求めに応じた活動であった。バチェラー自身、CMS日本宣教師会議会へ
の報告書の中で、次のように記している。「レスト・ハウスが、ただ単に身体の病気を回復するだけでなく、魂の病気も完全に健康にする場所を提供するものであって欲しいと願っています。」(1983年/明治26年2月)
(3)同労者の養成
「アイヌ人への伝道・教育はアイヌ人の手で」を心から願っていたバチラーは、多くのアイヌ人同労者を養成した。金成太郎(最初の受洗礼者・幌別愛隣学校校長)、パンキ・ペテロス(同助手/幌別・有珠・平取)、向井八重子伝道師(養女/札幌・有珠)、向井山雄司祭(有珠聖公会牧師)、清川戌七伝道師(新冠・平取・荷菜)、辺泥五郎伝道師(チン聖公会公開/鶴川)等々である。
バチェラーが企画、実施した多くの事業は必ずしもその全てが成功したとは言えない。あるものは、当時の国策との違いの中で、思わぬ衝害に出会い、中止に追い込まれた。しかし、いずれもにしても、いずれにしてもバチラーはアイヌ民族の歴史の中に重要な働きかけをし、その生涯をアイヌ民族への愛に捧げたのである。 |
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220伊達家の威光 |
221
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湯桶(ゆとう)
(アイヌ語:エチュシ)
盥(たらい)
江戸時代 |
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湯桶(ゆとう)
(アイヌ語:エチュシ)
黒漆地竹雀蟹牡丹三引両紋金蒔絵湯桶 |
湯桶(ゆとう)
(アイヌ語:エチュシ)
黒漆地松梅三引両紋金蒔絵湯桶 |
湯を入れるための把手付器。
室町~江戸時代には、酒を入れて使用することもあった。 |
盥
黒漆地松梅三引両紋金蒔絵盥 |
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222提重(さげじゅう) 江戸時代
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およそ4~5任分の避けのつまみを入れるほか、皿や盃なども納めたもの。当時、花見や観劇、紅葉狩り、月見などの宴席で使用された。 |
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この提重には錫製の銚子がついており、落としても割れないようになっている。 |
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223
鼓形提重 |
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224耳盥(みみだらい) アイヌ語:キサルシパッチ 江戸時代
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お歯黒(鉄漿)をする際、うがい水を受ける器として使用されます。また、耳盥と同じ紋様の台輪がついており、この上に耳盥を載せて使用します。 |
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アイヌ民族はこの耳盥をイモカシケ(イヨマンテ⦅送り儀式⦆の際にカムイ⦅神⦆に贈る土産)を入れる容器として使った。 |
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黒漆地竹雀紋金蒔絵耳盥及び輪台 |
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写真無し
黒漆地松竹鶴亀金蒔絵耳盥 |
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300③武家文化財コーナー
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310伊達家 |
311亘理伊達家家系図
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亘理伊達家は仙台伊達家14代種宗の子、実元を家祖とする仙台藩一門の家柄です。実元の子、成美が慶長7年に亘理郡を治めました。
江戸時代を通じて家中最大の24,385石を領しました。北海道に渡って来たのは15代邦成の時です。 |
伊達成美と伊達政宗 亘理伊達家の始まり
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伊達市の「伊達」と言えば、戦国大名「伊達政宗」を連想すると思います。では、伊達市と伊達政宗はどのように関係しているのでしょうか?
政宗を祖とする仙台藩伊達家には、家臣として使えるたくさんの「伊達家」がありました。その中の1つ「亘理伊達家」は、明治以降にこの地に移住し今日の伊達市を築きました。 |
慶長7年12月30日付書状
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伊達政宗から安和殿(成美)への慶長7年(1602)の書状です。
この年は、関ヶ原の戦が終息し、政宗も岩出山から仙台城に移った翌年に当たります。
「片倉」とは、伊達三傑の1人として名高い片倉景綱です。
景綱は、伊達家の南奥州制覇を決定づけた「摺上原の戦い」でも、成美とともに功を立てました。
この書状には、その片倉には白石を任せるので、成美に亘理城へ移るよう、支持する旨が書かれています |
伊達成美と伊達政宗
亘理伊達家の始まり
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慶長7年12月30日付書状
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313武家の装いとたしなみ
大刀 宇佐美長光 鎌倉時代
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この太刀は、天文11年(1543)に実元が上杉定実に養子に行く話が出た際に、上杉家から竹に雀文とともに贈与されたもので、備前長船長光の作刀です。実元が上杉家への養子に行く事は立ち消えとなるが、竹に雀文もこの長光も伊達家側に残ることになりました。一度仙台家の重宝となるが後に亘理伊達家に返却されました。 |
伊達成実所用 黒漆五枚胴道具足 桃山時代16~17世紀
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伊達成実な用いた具足です。政宗の具足と同様に五枚胴です。
前立ては毛虫を模しており、これは毛虫は後ろに下がらないことが由来と言われています。前立ての材質は熊の毛です。 |
勝色旗 江戸時代
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平絹地をす勝色(藍染)に染めた旗で、亘理伊達家の旗です。
旗の端歩が長く下に伸びているのが特徴で、明治期に描かれた伊達成実画像にも同じ側が描かれています。通常、旗は長方形がほとんどであるが、このように左右非対称の旗は珍しい形です。 |
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11大刀 宇佐美長光
鎌倉時代中期 |
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伊達成美所用
黒漆五枚胴具足 |
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勝色旗 |
勝色旗
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315武家の装いとたしなみ ―武士の素養を育むもの―
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絢爛豪華な調度品に囲まれ、豪華な生活をしていた大名家の生活はどのようなものだったのでしょう。また、武士としての素養はどのように育まれたのでしょうか。江戸時代には大きな戦も減り、戦場で戦う武士の姿は見られなくなります。その一方、教養を高めることに重きを置かれるようになりました。 |
菊蒔絵台付オルゴール 江戸時代末期
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オルゴールの入ってる舟形は鷁首(げきしゅ)になってい
て、菊や蝶などが蒔絵で描かれた豪華な台が付いています。
鷁首とは、龍頭船(船のへさきに龍を彫刻した飾りを付けた船)と一対となり、王侯貴族の儀式、寺社の祭礼などで船楽を奏する船のことです。鷁(想像上の水鳥)は水難を防ぐと言われています。 |
学芸員のワンポイントレクチャー ―雅楽の楽器―
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オルゴールの横にあるのは笙(しょう)と言う管楽器です。日本の
古典音楽の一つである雅楽に用いられます。「匏(ぽう)」と呼ばれる部分の上に17本の細い竹菅が円形に配置されています。竹菅に開けられた指穴を抑え、匏の横に付いている吸口から、息を吸ったり吐いたりして演奏します。竹菅の下部に金属製のリードのようなものが付いており、それが息によって振動して音が出ます。
オルゴールの船の上にも、小さい笙が載っています。ぜひ見比べてみてください。 |
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武家の装いとたしなみ |
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菊蒔絵台付オルゴール |
学芸員のワンポイントレクチャ |
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笙 |
台付オルゴール
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瓶子(へいし) 江戸時代
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酒を入れておく器で、この瓶子から杯に酒を直接注いで使用しました。
古くは陶器でしたが、次第にこのような漆器に変わりました。
『平家物語』には藤原成親が平家打倒の密談を行った際、うっかり瓶子が倒れた時に「瓶子が倒れた!」と喜んだ話が書かれているぞ。 |
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330男爵・伊達邦成
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終わりに
明治37 (1904)年の日露戦争が始まった年、邦成は63年の生涯を閉じました。
その一生は、幕末から明治の時代の波にもまれながらも、懸命に亘理伊達家の存続と家臣だけが生き残る道を模索し続けた63年でありました。
邦成は伊達市幌美内町にある、市内でも比較的標高の高い場所に位置する霊園に葬られています。現在の建市街地を一望できる場所であり、死後もなお、家臣たちの行く末を見守り続けてくれています。 |
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