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 東北の縄文  08   2016.10.14-3

  由利本荘市 修身館 企画展 秋田県由利本荘市尾崎 本荘公園  月曜休館 撮影可

 時代 縄文時代

 見所 少数ですが、見事な秀品を展示していました。
      特に、縄文時代の青銅刀子は山形県埋文からの借りもので、通常は、閲覧不可です。

 交通 車  由利本荘市市役所の駐車場に車を止めてすぐ隣の丘の上

 注意 ここは博物館ではなく、ただの展示コーナーに、偶然、先史遺物があったのです。
見事な立体造形の鉢
   

目次
 
01外観
10入口展示

20鳥海山麓、日本海沿岸の縄文文化 

30由利本荘市の遺跡

31菖蒲崎貝塚
32土器
33提鍋遺跡
34土器
35根子ノ沢遺跡
37湯出野遺跡
38土器

  
 50遊佐町の遺跡

54柴燈明林遺跡
55土器
57小倉向遺跡

60小山崎遺跡
61panel
63土器 中期末~後期前半 
65panel
67土器 後期~晩期前葉

 
考察資料
70縄文時代の渡来文化 
71縄文の渡来文化

75縄文時代の青銅刀子
75三崎山A遺跡 刀子
 三崎山の青銅刀

81杉沢A遺跡
 土偶埋納痕  
 01外観 
 
   由利本荘市役所の駐車場に止め
  隣接する大きな公園から
  丘の上の、旧天守閣にあたる 修身館に入ります。

   入口横に展示コーナーがあります。

   由利本荘市には 本荘郷土資料館 や
   魚形文刻石(鮭石)のある矢島町郷土資料館 

  があります。 
精霊の顔を表したような造形

 10入口展示  
エントランス 宋 左近氏 寄贈 縄文中期 鉢 茨城出土 縄文晩期 浅鉢 弥生後期 壺 土師器 高坏 茨城県

土師器 壺 青森県
土師器 甕 山梨県

円筒下層式土器
年表
縄文晩期 土製品
青森県出土 土笛?

縄文晩期 皿型土器
青森県

縄文後期 土偶 茨城県

縄文中期 深鉢飾り部分
北東北
深鉢飾り部分 宋 左近氏
宋 左近氏略歴 宋 左近 1919-2006
 フランス文学者
 東大哲学科/北九州生




 20鳥海山麓、日本海沿岸の縄文文化



 30由利本荘市の遺跡

 31菖蒲崎貝塚 (しょうぶざき) 秋田県由利本荘市川口菖蒲崎 

 縄文文化、縄文時代って?
   世界各地の文明は、農耕を開始することで定住生活を得ることができた(新石器時代)、反面、自然環境を大きく変化させる方向に進んでいきます。

   一方、縄文文化の担い手である縄文人は、農耕を選ばず食料のもたらす自然のサイクルと共に狩猟・採集・漁労を生業の基盤として定住を達成し、
   縄文時代は1万年以上の長期間継続するのです。


  旧石器に続く時代を新石器時代と呼びますが、世界では農耕を伴います。 
  ※旧石器同様の狩猟・漁労・採集の時代が続く日本列島では、これと区別して縄文時代と呼んでいます。


 菖蒲崎貝塚  由利本荘市川口字下菖蒲崎  菖蒲崎貝塚 - 全国遺跡報告総覧
   JR羽後本庄駅の北約1㎞、子吉川と芋川の合流点付近に位置します。縄文時代早期を中心に4次に及ぶ生活痕が確認されました。

  約7200~7100年前 縄文早期後半頃
   ヤマトシジミを中心とする上下二層の貝塚がつくられた時期。
   上層部では数個の石からなる配石遺構が2か所発見され、周辺から3体分(成人男性・成人女性・子供)の人骨が出土し、墓の可能性がある。

  約7100~6800年前 早期末
   貝塚がつくられた後の時代。 縄文人が地面を削って低い所にに盛って平らにした「盛土状堆積土」、火を使った調理場とされる「集石炉」、
   アサの果実が付いた土器などが見つかりました。

  約6800~6700年前 早期末~前期初頭 
   火を使った場所「焼土遺構」が発見されたり、石器を作っていたこともわかりました。
   貝塚がつくられたのは一番古い時期だけですが、3番目の時期までに見つかった活動の跡や土器や石器をみると、

   菖蒲崎貝塚はずっと魚や動物、木の実などの食物をとって加工する作業場として使われていたようです。

  約3000年前 縄文後期
   早期から前期にかけては菖蒲崎貝塚は海辺にあったのに、環境が変わって、後期には今のように海には面していなかったようです。


鳥海山麓、日本海沿岸の縄文文化 由利本荘市市街と子吉川流域、鳥海山 縄文文化、縄文時代って? 菖蒲崎貝塚
菖蒲崎貝塚 菖蒲崎貝塚
菖蒲崎貝塚 菖蒲崎貝塚の写真 菖蒲崎貝塚の位置 貝塚写真 現在の菖蒲崎貝塚 貝層断面
貝層の平面分布ほとんどヤマトシジミ 集石炉早期後半の土器出土
調理場跡か
アサの果実が入っていた土器


  32菖蒲崎貝塚 土器
早期後半~前期初頭土器形式不明です
アサの実が付いていた
土器の内側にアサの実がついていた




 33堤鍋遺跡 (さげなべ いせき) 前期-中期 由利本荘市鳥海町上川内

  鳥海山の北東側山麓、子吉川と支流である笹子川に挟まれた標高164mの台地上にある縄文前期~中期の遺跡です。
  縄文前期の集落跡「縄文提鍋ムラ」であったことが確認できました。そのピークは前期後半のようです。

  ムラは、少なくとも東西370m、南北130mの広がりをもつと推定されますが、台地中央北側の"広場"(遺構分布の希薄な範囲)を中心として、
  その北側に"土坑群"(60基以上)と"竪穴住居"(16軒以上)が帯状に配置され、もっとも外側の台地縁辺・斜面には、"捨て場"が形成されていました。

  土坑群の中にはフラスコ状土坑と呼ばれ、食料貯蔵庫ではないかと推測される遺構もあります。
  捨て場では、縁辺部を拡張すべく斜面に土を運び入れた"盛り土"の土器や石器が含まれていました。

  発掘調査の成果から見ると、縄文提鍋ムラとは、鳥海山麓、子吉川水系における縄文前期の拠点的な集落であったことが判りました。

堤鍋遺跡 堤鍋遺跡 出土土器 提鍋遺跡
提鍋遺跡 提鍋遺跡 提鍋遺跡
遺跡遠景 遺跡 縄文提鍋ムラ構成図 遺跡近景 捨て場の近景 発掘作業
埋設土器 竪穴住居跡 遺物の出土状況
  34堤鍋遺跡 土器    http://www.akihaku.jp/publication/report/38/aktpmrep38_025-043.pdf


円筒下層式土器

円筒下層式土器
人面礫 人面を想起させる自然礫 由利本荘市は

円筒下層式土器と、
大木式土器の

境目に位置する街です。




 35根子ノ沢Ⅰ遺跡 (ねっこのさわ)中期-後期 由利本荘市西目町西目字根子の沢113-1
  JR西目駅の南西約2.7㎞、旧西目潟西岸の丘陵にある縄文中期~後期の遺跡。

  今回の展示は、中期の土器です。ほぼ完全な形に復元されたことから推測すれば、死亡した乳児や、死者の骨を入れる土器棺の可能性があります。
  いずれにしても、掘りの深い渦巻き文様やウサギの耳のような立体的な貼付装飾などは、出土例が少なく貴重な資料と言えます。

根子ノ沢Ⅰ遺跡近景 土器模写図 口縁部大木式土器
この見たこともない
土器の解説


 日本海沿岸、子吉川加工の南側、埋没した西目潟に面する段丘上にあります。
渦巻の文様を中心にして
彫りの深い立体装飾を持つ南の土器
縄文を中心とした渦巻文様の周囲を粘土の貼り付けで隆起させ、

その隆起を花びらのように土器の口まで伸ばします。

山形県などに多い装飾技法
引用アイテム

   ※ 山形県などに多い装飾技法  と、ありますが、山形県では、一例も見たことがありません。 大変驚き、感動しました。





 37湯出野遺跡 (ゆでの) 縄文後期-晩期  由利本荘市東由利老方湯出野21  湯出野遺跡発掘調査概報

  道の駅「東由利」の南約800m、石沢川(高瀬川)の支流松沢川右岸の河岸段丘にある縄文後期から晩期の遺跡です。
  調査で、成人の墓と考えられる土坑墓が103基、子供の墓と考えられる土器棺墓が8基みつかり、縄文晩期の大規模な墓地であったことが
  分かりました。

  土坑墓は長さ120cm幅60cm程の隅丸長方形や小判形が多く、死者の頭部付近に撒かれたベンガラの位置から、頭を西向きに埋葬した例が多い
  ようです。

  墓坑には勾玉、小玉、耳飾等が副葬されていました。また、土坑墓群の隣接地から土器、石器、石製品、土製品、土偶等多数見つかっています。
  現地には、土坑墓群が復元され、当時の様子を感じることができます。

  東日本最大級の土壙墓遺跡。発見された103基を地表に復元保存

湯出野遺跡 湯出野遺跡 湯出野遺跡遠景 土坑墓群全景 土坑墓 復元された土坑墓群
調査風景 土坑墓確認状況 土坑墓・土器棺墓配置図 遺物出土状況 注口土器出土状況 岩隅出土状況


  38湯出野遺跡 土器 後期末~晩期  大洞B式、 大洞BC式土器 
注口土器









 50遊佐町の遺跡 (ゆさ)  山形県飽海郡遊佐町




 54柴燈林遺跡 (さいとうばやし) 中期中葉 遊佐町吹浦字柴燈林

  JR羽越本線吹浦駅の東約1.3㎞、鳥海山の南西側山麓にある縄文時代中期の遺跡です。小山崎遺跡の北東200~500m程の丘陵斜面上にあり、
  小山崎の縄文人が中期中頃、柴燈林地区に移動して新たに集落"柴燈林ムラ"を形成した場とも言えるのかもしれない。

  調査の結果、柴燈林ムラの範囲は、少なくとも東西150m南北130m程であり、出土した土器や石器類は12000点を超えます。
  今回の展示は中期中頃の浅形土器と深鉢形土器です。その他に、新潟県で多く出土意がある火炎土器も発見されています。

柴燈林遺跡 柴燈林遺跡 火炎土器
中期中頃
柴燈林遺跡    
  土器出土状況
柴燈林遺跡 作業風景 傾斜地の竪穴住居
竪穴住居 竪穴住居 配石炉 柴燈林遺跡

 55柴燈林遺跡 土器 中期中頃

   柴燈林遺跡出土の縄文土器 ー 4500年前のやきものの美
   火焔型土器  大木8a式土器




57小倉向遺跡 (おぐらむかい) 中期 遊佐町直世字高ノ上字小倉向

   JR羽越本線吹浦駅東約3㎞、鳥海山の南西側山麓にある縄文時代中期の遺跡です。小山崎遺跡の東側約2㎞の丘陵辺縁上に立地しています。
   調査の結果、小河川と沢に挟まれた東西・南北各100m程の範囲~中期中頃を中心とした土器・石器類が出土しました。

   "柴燈林ムラ"と同時期で、ここにも"小倉向ムラ"が形成されていたとみられ、丘陵辺縁に縄文中期のムラが点在していた様子が想像できます。
   展示の土器は、縄文時代中期の深鉢形土器です。

   大木8a式土器、 火焔型土器の王冠型土器

おぐらむかい遺跡 大木8a式土器





  60小山崎遺跡 (こやまざき) 早期後半-晩期中葉  山形県遊佐町吹浦字七曲


 61小山崎遺跡パネル

  JR羽越本線吹浦駅東約1㎞、鳥海山の南西側山麓にある縄文遺跡です。
  遺跡の南を西流する牛渡川は、日本海に注ぐ月光川(吹浦川)支流に当たり、河口から遺跡までの距離は約1.7㎞です。

  調査によって水辺の活動域(丘陵直下の低地部)と、丘陵部の集落域が一連となり、縄文時代早期後半~晩期中頃にかけて断続的に存続しました。
  特に、層厚2.5m以上の動物依存体を含む捨て場の検出は、鳥海山麓の豊富な湧水の恩恵に他なりません。

    縄文時代早期末約6,500年前から晩期前葉約2,700年前にわたる、約3,800年間に営まれてきた遺跡です。

      小山崎遺跡  リンク  リンク  リンク  リンク


〔早期後半
~末〕
低地と丘陵辺縁に小規模な捨て場が形成された。小山崎に最初に入った縄文人は、丘陵辺縁の微高地上に活動の拠点を置いていた。
 
〔前期初頭〕 低地の捨て場から人為的な加工痕のあるドングリ(コナラ)の集積が確認されました
〔前期前半〕 低地部では小規模ながらヤマトシジミの貝塚が形成され、鮭・鮫・真鯛・スズキ・鯖・フグ等の魚骨や、川鵜・狸の獣骨も見つかりました。また、人骨が確認され、墓としても利用されていた。ただし、調査範囲内に於いて早期・前期の竪穴住居跡は未検出です。
〔中期初頭〕 丘陵先端部で北陸系 (新潟県など)の縄文土器が大量に出土しています。
〔中期後半
~末〕
低地背後の丘陵斜面に竪穴住居による大集落が形成されます。 この時期は、小山崎の東側丘陵部に位置する"紫橙林"や"小倉向"にも集落が造られます。 小山崎丘陵部の集落は後期末まで存続します。
〔後期前半〕 後期に入ると低地に本格的に進出し、「水辺遺構」を作り出します。これは、低地部に平らな石を敷き詰め、丸太を並べ杭で止めた、
いわば、石敷きの作業場といえます。 石の多くは鳥海山の安山岩、丸太はクリ材を多用しています。

ここからは、作りかけの櫂(オール)が出土していることから、使くに丸木舟を係留する船着き場が阿多と想定できます。
また、同時期の捨て場からは栽培種に近似するヒエやアサの種子が見つかっていることから、それらの栽培が予測されます。
〔後期中頃〕 水辺遺構がほぼ完成した時期になります。また、その背後の沢を利用した捨て場が最大規模となるのもこの時期です。
〔晩期初頭
~中頃〕
水辺遺構の利用と捨て場の形成は、晩期に入ってからも継続しますが、中頃になると限定的となります。
小山崎の縄文人は、このころを最後に新たな地に移動したようです



最古段階/草創期の土器 貝層の分布ヤマトシジミ 日本海上空から鳥海山を臨む※ 小山崎遺跡 小山崎遺跡の各時代
遺跡の各時代 遺跡の各時代 遺跡周辺の遺跡 密集した遺跡群 ※左手前に吹浦漁港、月光川河口、吹浦駅、吹浦集落の奥が小山崎遺跡


   63小山崎遺跡 中期末~後期前半 中期末葉 大木10式
※土器背後の写真は
小倉遺跡のものです
小山崎/中期末 後期前半


   65小山崎遺跡パネル
水辺遺構での調査風景 水辺遺構出土の櫂 櫂の取り上げ状況 小山崎遺跡航空写真 水辺遺構全景
捨て場出土の
獣骨
アシカ科肩甲骨
イノシシ頭骨 他
水場遺構
現地説明会
水場遺構 鮭の叩き棒出土町広報紙での記事 水場遺構
サケ漁関連遺物※
土器出土状況
後期前半の土器
赤漆塗り木製舟形容器
捨て場出土/後期中頃

現代と縄文の叩き棒
   (ほぼ近似)
出土した鮭骨
釣り針、刺突具

   67小山崎遺跡 後期~晩期前葉  後期後葉の金剛寺式土器から晩期初葉の大洞B式土器
後期前半の土器 後期中頃 後期中頃

小型土器

小型土器
注口土器
後期末~晩期初頭 亀ヶ岡式(大洞式)

 考察資料



70縄文時代の渡来文化 参考文献
及び転載
縄文時代の渡来文化 -刻文付有孔石斧とその周辺-
 浅川利一・安孫子昭二編  雄山閣 4600円 2002年初版

 縄文のオーパーツと言われる遺物への論証

   縄文遺物の中で出現する、大陸由来の出土物を、どう考えるのか。
   これは、私の最初の取材地、新潟県立歴史博物館から抱いていた疑問です。 この疑問に言及した書籍がこれでした。


   参考リンク 大陸との交流の痕跡の数々 大陸文化の縦断路-日本海文化圏 査海遺跡 龍 縄文人の海洋性と石材加工




 71縄文の渡来文化 転載「縄文時代の渡来文化 -刻文付有孔石斧とその周辺-

   以下に引用する写真は、縄文時代に渡来した大陸文化の名残と考えられています。

④刻文付有孔石斧
(玉鉞)/中川代遺跡山形県羽黒町/縄文中期
①玉鉞に随伴した土器中期/大木式 査海遺跡/装身具遼寧省/縄文早期相当期 桑野遺跡/装身具
福井県/縄文早期末~
前期初
倉輪遺跡/装身具八丈島/縄文中期初 松原遺跡/装身具長野市/縄文中期初
②押出遺跡/彩漆土器
山形県/縄文前期
山形県東置賜郡 高畠町深沼
③虚空蔵遺跡・今津遺跡/三足土器
虚空蔵/青森県三戸郡
今津/青森県東津軽郡
晩期中葉
⑤三崎山遺跡/青銅刀
山形県/縄文
中期~晩期
商代後期(紀元前13-12世紀)から西周時代



①査海遺跡 興隆窪文化 (7500-7150年前 遼寧省、または、8200-7400年前) この文化が、王を龍として権威化し、以後引き継がれていった。
査海遺跡の装身具と酷似のものが、列島各地に分布している。

査海遺跡の
福井県桑野遺跡はこれらの品物の、縄文時代の交易人の墓地遺跡だと考えられている。
倉輪遺跡では渡来装身具を、黒曜石との交換材としたという考えもある。
   
②彩漆土器 河南省、陝西省の仰韶文化期 (ぎょうしょうぶんか、黄河中流域 7000-5000年前 縄文早期~前期) の彩陶が原型である。
③三足土器 森県のほか新潟にも出土している。これも仰韶文化の青銅製酒器があり、この祭器を模したものではないかと考えられている。
 
④刻文付有孔石斧
山東省の大汶口文化 (だいもんこう、黄河文明6100-4600年前 縄文前期~中期中葉) の王器が対岸の遼寧省に渡り渤海から南下した。
青銅刀 河南省の殷墟 (いんきょ、3700-3100年前) から。北方経由で到来した。およそ3000年前のものである。


 これらの縄文オーパーツは、
殷墟などからの亡命者が持ち込んだとする考え、
②交易の流通経路があったとする考え、などががあります。わたしは、両方の考えに賛成です。

また、函館市、垣ノ島遺跡から縄文早期9000年前の赤漆糸や、恵庭市、西島松遺跡から縄文後期末の赤漆塗りの櫛が検出されました。
これは、アイヌの交易活動によるものです。 交易品はあらゆるものに及び、主に沿海州付近から、いくつもの交易の民を経由しました。

例えば、時代は下がりますが、蝦夷錦は華人からニヴフへ、そして、和人との交易のためにアイヌが入手し、和人から食料などと交換しました。

南海産貝やオオツタノハガイ交易と同様に、恒常的な交易路が大陸・半島との間にあったのかもしれないし、アイヌによる間接交易かもしれない。西方からの交易にのみ着目されていますが、私は、北からの日本海航路にも着目すべきだと思います。




                          参考文献  三崎山出土の青銅刀   三崎山の青銅刀  縄文時代の渡来文化の痕跡


 75縄文時代の青銅刀子

 75三崎山A遺跡 刀子 (みさきやま)

  三崎山の青銅刀 (山形県遊佐町吹浦字三崎山)  縄文時代後期~晩期


  昭和29年、秋田県境の三崎山で、採石工事中に地表面化約1.8mの岩石の隙間から青銅刀が発見されました。出土地点の周辺からは
  縄文中期~晩期の土器が見つかりましたが、当時、縄文時代に金属器が出土することは研究の常識になく、新しい遺物とされました。
  (かく乱地とした)

  しかし、近年、縄文時代に大陸からもたらされた最初の金属器との評価が定着しています。更に青銅刀の鉛の分析から、中国殷王朝後期
  (3300~3046年前)の首都にあった殷墟 (河南省安陽市、世界文化遺産)出土と同じ鉛とされ、中国からの渡来品であると確定しました。

  青銅刀は内反りで長さ26㎝、柄先端部は環状と想定されますが欠損しています。出土地は三崎山A遺跡として登録されています。
  実物は、東京国立博物館にあります。




 81杉沢A遺跡 (すぎさわ) 晩期中葉  (山形県遊佐町杉沢字中山口)

 土偶埋納痕
  昭和28住宅建設工事中に、石組を伴う土坑内に納められた、ほぼ完全な形の土偶が多数発見された。
  土偶は径60cmの土坑の中に3個の石を「コ」字形に並べ、その内側に頭位を北北西にし、上向きにした状態で置かれていました。

  その上には平石で蓋をして土を掛けてありました。あたかも人間を葬ったかのような土偶の出土状況は、国内で初見とされ、その写真や図面は
  現在でも各種の学術書や土偶を扱った書籍、図録などにも多く引用されています。

  土偶は高さ18.3センチ、縄文晩期中頃。実物は奈良国立博物館にあります。



  縄文晩期中葉(紀元前10世紀~同4世紀)と推定され、目は遮光器状(まぶたを閉じた様子)で、頭部は髪を結った状態。
  青森県つがる市の亀ケ岡石器時代遺跡から出土した大型土偶(国重要文化財)と同系列の遮光器土偶とされる。
   引用遊佐のお宝「杉沢の土偶」、奈良博から里帰り

杉沢A遺跡 土偶埋納状況図面 杉沢A遺跡全景 土偶出土地点 日本土偶手帳に記載された土偶
土偶写真 杉沢土偶里帰り展  右の頭髪部などを若干欠損するほかは、ほぼ完形の中空の土偶である。

 目はいわゆる遮光器状に表現され、肩や腰の文様は縄目文様を施した後に部分的に縄目をすりけす、
 磨消縄文の手法で飾られ、腹部を縦に貫く線は、2重の隆線で強調されている。

 また臍(へそ)の部分は内部に連なり、腰部の文様も巧みに強調して表現されている。
 出土状況は特異で、北側と東西に、約20センチメートルの川原石を置いて作った石囲の中に、

 頭部を北に向けて仰臥した状態で埋納され、

その上に長径約30センチの蓋石が被せられていた。

 あたかも人間が埋納されたかのように置かれ、土偶の性格を考える上に貴重な出土例である。

引用文化財オンライン