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10入口展示
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20鳥海山麓、日本海沿岸の縄文文化 |
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30由利本荘市の遺跡 |
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31菖蒲崎貝塚 (しょうぶざき) 秋田県由利本荘市川口菖蒲崎 縄文文化、縄文時代って? 世界各地の文明は、農耕を開始することで定住生活を得ることができた(新石器時代)、反面、自然環境を大きく変化させる方向に進んでいきます。 一方、縄文文化の担い手である縄文人は、農耕を選ばず食料のもたらす自然のサイクルと共に狩猟・採集・漁労を生業の基盤として定住を達成し、 縄文時代は1万年以上の長期間継続するのです。 ※旧石器に続く時代を新石器時代と呼びますが、世界では農耕を伴います。 ※旧石器同様の狩猟・漁労・採集の時代が続く日本列島では、これと区別して縄文時代と呼んでいます。 菖蒲崎貝塚 由利本荘市川口字下菖蒲崎 菖蒲崎貝塚 - 全国遺跡報告総覧 JR羽後本庄駅の北約1㎞、子吉川と芋川の合流点付近に位置します。縄文時代早期を中心に4次に及ぶ生活痕が確認されました。 約7200~7100年前 縄文早期後半頃 ヤマトシジミを中心とする上下二層の貝塚がつくられた時期。 上層部では数個の石からなる配石遺構が2か所発見され、周辺から3体分(成人男性・成人女性・子供)の人骨が出土し、墓の可能性がある。 約7100~6800年前 早期末 貝塚がつくられた後の時代。 縄文人が地面を削って低い所にに盛って平らにした「盛土状堆積土」、火を使った調理場とされる「集石炉」、 アサの果実が付いた土器などが見つかりました。 約6800~6700年前 早期末~前期初頭 火を使った場所「焼土遺構」が発見されたり、石器を作っていたこともわかりました。 貝塚がつくられたのは一番古い時期だけですが、3番目の時期までに見つかった活動の跡や土器や石器をみると、 菖蒲崎貝塚はずっと魚や動物、木の実などの食物をとって加工する作業場として使われていたようです。 約3000年前 縄文後期 早期から前期にかけては菖蒲崎貝塚は海辺にあったのに、環境が変わって、後期には今のように海には面していなかったようです。 |
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32菖蒲崎貝塚 土器 |
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33堤鍋遺跡 (さげなべ いせき) 前期-中期 由利本荘市鳥海町上川内 鳥海山の北東側山麓、子吉川と支流である笹子川に挟まれた標高164mの台地上にある縄文前期~中期の遺跡です。 縄文前期の集落跡「縄文提鍋ムラ」であったことが確認できました。そのピークは前期後半のようです。 ムラは、少なくとも東西370m、南北130mの広がりをもつと推定されますが、台地中央北側の"広場"(遺構分布の希薄な範囲)を中心として、 その北側に"土坑群"(60基以上)と"竪穴住居"(16軒以上)が帯状に配置され、もっとも外側の台地縁辺・斜面には、"捨て場"が形成されていました。 土坑群の中にはフラスコ状土坑と呼ばれ、食料貯蔵庫ではないかと推測される遺構もあります。 捨て場では、縁辺部を拡張すべく斜面に土を運び入れた"盛り土"の土器や石器が含まれていました。 発掘調査の成果から見ると、縄文提鍋ムラとは、鳥海山麓、子吉川水系における縄文前期の拠点的な集落であったことが判りました。 |
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34堤鍋遺跡 土器 http://www.akihaku.jp/publication/report/38/aktpmrep38_025-043.pdf
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35根子ノ沢Ⅰ遺跡 (ねっこのさわ)中期-後期 由利本荘市西目町西目字根子の沢113-1 JR西目駅の南西約2.7㎞、旧西目潟西岸の丘陵にある縄文中期~後期の遺跡。 今回の展示は、中期の土器です。ほぼ完全な形に復元されたことから推測すれば、死亡した乳児や、死者の骨を入れる土器棺の可能性があります。 いずれにしても、掘りの深い渦巻き文様やウサギの耳のような立体的な貼付装飾などは、出土例が少なく貴重な資料と言えます。
※ 山形県などに多い装飾技法 と、ありますが、山形県では、一例も見たことがありません。 大変驚き、感動しました。 |
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37湯出野遺跡 (ゆでの) 縄文後期-晩期 由利本荘市東由利老方湯出野21 湯出野遺跡発掘調査概報 道の駅「東由利」の南約800m、石沢川(高瀬川)の支流松沢川右岸の河岸段丘にある縄文後期から晩期の遺跡です。 調査で、成人の墓と考えられる土坑墓が103基、子供の墓と考えられる土器棺墓が8基みつかり、縄文晩期の大規模な墓地であったことが 分かりました。 土坑墓は長さ120cm幅60cm程の隅丸長方形や小判形が多く、死者の頭部付近に撒かれたベンガラの位置から、頭を西向きに埋葬した例が多い ようです。 墓坑には勾玉、小玉、耳飾等が副葬されていました。また、土坑墓群の隣接地から土器、石器、石製品、土製品、土偶等多数見つかっています。 現地には、土坑墓群が復元され、当時の様子を感じることができます。 東日本最大級の土壙墓遺跡。発見された103基を地表に復元保存 |
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38湯出野遺跡 土器 後期末~晩期 大洞B式、 大洞BC式土器 |
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50遊佐町の遺跡 (ゆさ) 山形県飽海郡遊佐町 |
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54柴燈林遺跡 (さいとうばやし) 中期中葉 遊佐町吹浦字柴燈林 JR羽越本線吹浦駅の東約1.3㎞、鳥海山の南西側山麓にある縄文時代中期の遺跡です。小山崎遺跡の北東200~500m程の丘陵斜面上にあり、 小山崎の縄文人が中期中頃、柴燈林地区に移動して新たに集落"柴燈林ムラ"を形成した場とも言えるのかもしれない。 調査の結果、柴燈林ムラの範囲は、少なくとも東西150m南北130m程であり、出土した土器や石器類は12000点を超えます。 今回の展示は中期中頃の浅形土器と深鉢形土器です。その他に、新潟県で多く出土意がある火炎土器も発見されています。 |
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55柴燈林遺跡 土器 中期中頃 柴燈林遺跡出土の縄文土器 ー 4500年前のやきものの美 火焔型土器 大木8a式土器 |
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57小倉向遺跡 (おぐらむかい) 中期 遊佐町直世字高ノ上字小倉向 JR羽越本線吹浦駅東約3㎞、鳥海山の南西側山麓にある縄文時代中期の遺跡です。小山崎遺跡の東側約2㎞の丘陵辺縁上に立地しています。 調査の結果、小河川と沢に挟まれた東西・南北各100m程の範囲~中期中頃を中心とした土器・石器類が出土しました。 "柴燈林ムラ"と同時期で、ここにも"小倉向ムラ"が形成されていたとみられ、丘陵辺縁に縄文中期のムラが点在していた様子が想像できます。 展示の土器は、縄文時代中期の深鉢形土器です。 大木8a式土器、 火焔型土器の王冠型土器 |
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60小山崎遺跡 (こやまざき) 早期後半-晩期中葉 山形県遊佐町吹浦字七曲 |
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61小山崎遺跡パネル JR羽越本線吹浦駅東約1㎞、鳥海山の南西側山麓にある縄文遺跡です。 遺跡の南を西流する牛渡川は、日本海に注ぐ月光川(吹浦川)支流に当たり、河口から遺跡までの距離は約1.7㎞です。 調査によって水辺の活動域(丘陵直下の低地部)と、丘陵部の集落域が一連となり、縄文時代早期後半~晩期中頃にかけて断続的に存続しました。 特に、層厚2.5m以上の動物依存体を含む捨て場の検出は、鳥海山麓の豊富な湧水の恩恵に他なりません。 縄文時代早期末約6,500年前から晩期前葉約2,700年前にわたる、約3,800年間に営まれてきた遺跡です。 小山崎遺跡 リンク リンク リンク リンク
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63小山崎遺跡 中期末~後期前半 中期末葉 大木10式 |
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65小山崎遺跡パネル |
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67小山崎遺跡 後期~晩期前葉 後期後葉の金剛寺式土器から晩期初葉の大洞B式土器 |
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考察資料
縄文のオーパーツと言われる遺物への論証 縄文遺物の中で出現する、大陸由来の出土物を、どう考えるのか。 これは、私の最初の取材地、新潟県立歴史博物館から抱いていた疑問です。 この疑問に言及した書籍がこれでした。 参考リンク 大陸との交流の痕跡の数々 大陸文化の縦断路-日本海文化圏 査海遺跡 龍 縄文人の海洋性と石材加工 |
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71縄文の渡来文化 転載「縄文時代の渡来文化 -刻文付有孔石斧とその周辺-」 以下に引用する写真は、縄文時代に渡来した大陸文化の名残と考えられています。
これらの縄文オーパーツは、
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参考文献 三崎山出土の青銅刀 三崎山の青銅刀 縄文時代の渡来文化の痕跡 75縄文時代の青銅刀子 75三崎山A遺跡 刀子 (みさきやま) 三崎山の青銅刀 (山形県遊佐町吹浦字三崎山) 縄文時代後期~晩期 昭和29年、秋田県境の三崎山で、採石工事中に地表面化約1.8mの岩石の隙間から青銅刀が発見されました。出土地点の周辺からは 縄文中期~晩期の土器が見つかりましたが、当時、縄文時代に金属器が出土することは研究の常識になく、新しい遺物とされました。 (かく乱地とした) しかし、近年、縄文時代に大陸からもたらされた最初の金属器との評価が定着しています。更に青銅刀の鉛の分析から、中国殷王朝後期 (3300~3046年前)の首都にあった殷墟 (河南省安陽市、世界文化遺産)出土と同じ鉛とされ、中国からの渡来品であると確定しました。 青銅刀は内反りで長さ26㎝、柄先端部は環状と想定されますが欠損しています。出土地は三崎山A遺跡として登録されています。 実物は、東京国立博物館にあります。 |
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81杉沢A遺跡 (すぎさわ) 晩期中葉 (山形県遊佐町杉沢字中山口) 土偶埋納痕 昭和28住宅建設工事中に、石組を伴う土坑内に納められた、ほぼ完全な形の土偶が多数発見された。 土偶は径60cmの土坑の中に3個の石を「コ」字形に並べ、その内側に頭位を北北西にし、上向きにした状態で置かれていました。 その上には平石で蓋をして土を掛けてありました。あたかも人間を葬ったかのような土偶の出土状況は、国内で初見とされ、その写真や図面は 現在でも各種の学術書や土偶を扱った書籍、図録などにも多く引用されています。 土偶は高さ18.3センチ、縄文晩期中頃。実物は奈良国立博物館にあります。 縄文晩期中葉(紀元前10世紀~同4世紀)と推定され、目は遮光器状(まぶたを閉じた様子)で、頭部は髪を結った状態。 青森県つがる市の亀ケ岡石器時代遺跡から出土した大型土偶(国重要文化財)と同系列の遮光器土偶とされる。 引用遊佐のお宝「杉沢の土偶」、奈良博から里帰り
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