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 北部九州の縄文 №44  2020.11.25-3

  中津市歴史博物館  大分県中津市三ノ丁1290
  0979-23-8615 月休 撮影可

交通 中津駅北口から徒歩14分1.1km
特徴   洞窟墳墓の60体の人骨
  
目次

03外観

09常設展
10未来への道
~ナカツビトの歩み~ 

11Ⅰ原始・古代の中津

12旧石器・縄文時代
13主な縄文遺跡の立地
15石器の使い方
17石鏃と弓矢
21縄文のくらし
30暮らしの道具
31土器
33旧石器時代の石器
34十字石器
35装飾品
37漆塗浅鉢
43人面形土製品
45土偶

60弥生時代
※考察 稲作伝播ルート
62主な弥生遺跡の立地
※考察 弥生以降の縄文人
64米作りの始まり
65弥生土器
 瓢形土器・儀式用
67石器
69甕棺


100古墳時代
101方形住居跡
103須恵器と土師器
105諸田南遺跡遺物
※考察 蛸壺
110ホヤ池窯跡
130古墳副葬品
※研究 幣旗邸古墳の牛歯
※考察 弥生時代の牛
※考察 牛歯の謎
※研究 牛馬の歴史
※考察 なぜ牛馬の歴史が闇に
133倉迫二ツ塚古墳
134城山古墳の馬具
135古墳時代の祭祀
150枌洞穴遺跡
考察 母子合葬・包石葬

200古代
200律令の時代
20中津に残る律令体制
203奈良時代の正倉
204古代の税制と生業
※考察 口分田制の崩壊
205廃寺瓦
206古代のまちづくり
208古代寺院と火葬墓
211炭化米
213土器・陶磁器

230Ⅱ祈りの世界
231長谷寺の金銅仏
235仏像・神像

300Ⅲ中世の中津
301荘園の時代
302薦社縁起絵巻
304下毛郡相原
306宇佐八幡宮の荘園
320武士の台頭~戦国
322中世の城館跡
325中世武士団・宇都宮氏
331書状
333前田遺跡
335鉄鍋
336深水ふこうず邸埋納遺跡出土遺物

400Ⅳ近世の中津
401黒田氏の時代
410中津城跡の陶磁器
420細川氏・小笠原氏の時代
430小笠原氏の入部と治世
440奥平氏の時代
※考察 奥平氏の身分制度
443中津の学問

500Ⅴ幕末・近代の中津
511中津の文明開化
 
 03外観
中津市歴史博物館

Wikiでも小さな小屋に見えるが、実際は大きな建物群です

近くに中津城の大きな石垣が見えます。旧武家屋敷街でしょうか

中津城周辺の景観によくマッチした建物や外観設計です。
中津城内は旧城主奥平家の資料館(撮禁)となっています。
城主は明治以後医者となって全国に移住して
、現在も病院経営
・医師を続けている家系です。
展示室1
入口壁面のプロジェクションマッピンググ
 

  常設展示テーマ
  未来への道 ~ナカツビトの歩み~
  ※過去を展示するのではなく、未来への方向性を見出す展示を目指すということのようです。


 10 Ⅰ原始・古代の中津

 11
未来への道
ナカツビトの歩み
遺物展示
中津市 


 12旧石器・縄文時代
 山国川流域に人々が住み始めたのは今から18,000年前、旧石器時代の終わり頃からである。
自然の浸食でできた洞窟や岩陰、または、川近くの見晴らしの良い高台を拠点とし、一定の広い範囲を回り(※遊動し)ながら、
木の実や動物・魚貝などをとって生活していた。
 縄文時代になると弓矢や土器が発明され、食料の種類が豊富になり、川や海岸近くの高台などに定住した。

旧石器・縄文時代

 13主な縄文遺跡の立地
台地や自然堤防の上に遺跡が分布している。海水の浸入が想定される谷底平野などの低地にはほとんど見られない。
縄文時代は現在と異なる景観であったことがわかる。
※これは何ドル海水の浸入があったことを意味している。一帯は新しく河川の土砂で堆積した低地のようです。
 かなり水害の危険のある地域、河川の氾濫と海水の浸入、のようです。(下写真第5図)

主な縄文遺跡の立地 高畑遺跡・和間貝塚
佐知遺跡
佐知久保
畑遺跡
加来東遺跡
黒水遺跡
槙遺跡
法垣遺跡
土木貝塚
長久寺貝塚
棒垣遺跡
入垣遺跡
植野貝塚

 15石器の使い方
石器の使い方 打製石斧

土堀具。縄文後期には畑作が行われていた。
磨製石斧
木を切る道具
石匙
皮を剥いだり物を切る道具。把手に紐を付けて持ち歩いた。
掻器
皮を剥いだり、木を削ったりする道具。
敲石と台石台石に木の実を置いて敲石で潰して粉にしていた。
石錐 穴をあける道具。
骨格製の針とともに
服を縫っていた。
 
17石鏃と弓矢
 弓矢
弓矢は中小型動物を狩るために発明された狩猟具である。
縄文時代は素早い動物を狩るための小型の石鏃が使われたが、
弥生時代になると、戦いの武器として殺傷力の高い大型の石鏃が使われた。
また弥生後期になると鉄族が普及し、石鏃は消えていった。

※和弓が発達するまでは全て短弓である。子供のおもちゃのようにに見えるが、これが世界標準。長距離を飛ばすことはできないが、30m前後で勝負
一方和弓は80m前後までが照準範囲だが、大きく長く、持ち運びや取り扱いが不便。接近戦を避けるための照準を合わせない長距離飛射約400mが向いている。このほかに威力の大きな弓には、中国の弩ローマ軍が使った機械弓などがある。

石鏃と弓矢
弓矢


 石鏃の固定法➀ 根挾み
根挟み
矢尻と矢柄をつなぐ部品。
木製と骨格製とがある。

 19石鏃の固定法② 接着剤
石・骨・鉄製がある。
松ヤニや天然アスファルトで固定している。

 石鏃の種類
石鏃➀ 石鏃➀
 姫島産黒曜石
 大分県姫島村産の
 黒曜石。
 乳白色が特徴。
石鏃②
 腰岳系黒曜石
 佐賀県伊万里市腰岳周辺でとれる黒曜石。不純物が少なく良質なものが多い。
弓:針葉樹の枝
弦:植物繊維を撚り合わせたもの
 

 21縄文のくらし
 自然と共に生きる人々
人々の生活は、山でイノシシなどの獣を獲り、木の実や貝を採る狩猟と採集が中心であった。
海岸付近では多量の貝を採り、捨てられた貝殻が溜まって貝塚となった。
縄文時代後期(3,500年前)になると台地上に小さなムラが誕生する。
法垣遺跡では、住居跡や大量の土器が見つかり、九州では珍しい掘立柱建物跡や住居内に埋葬された人骨が確認された。

資料 法垣遺跡 大分県中津市加来814 道の駅中津の建設に伴う発掘。一部保存展示。大半は破壊
中津市の東側を流れる犬丸川沿いの自然堤防上にある縄文時代後期、約3500年前のムラです。 住居(竪穴建物)​6軒と、九州で初めて縄文時代後期の高床掘立柱建物(倉庫)跡7棟​が発見されています。

縄文のくらし 自然と共に生きる人々 法垣遺跡掘立柱建物
 23縄文時代の暮らし
縄文時代の暮らし 落とし穴に落ちたイノシシを仕留める
竪穴住居内
家族団らんの様子

 25人々の思い
人々は安産や安定した生活への祈りを込めて土偶を作った。
また、装飾のため、サメの骨や貝、石を加工したアクセサリーを身に着けた。
祭祀用の器には赤漆を塗り、日常の食器と区別している。
子を大切に思う気持ち、日々の暮らしを豊かにする思いは太古から変わらない。

人々の思い 祭祀土器
法垣遺跡竪穴住居跡
アクセサリー
耳飾り・貝輪

 27縄文時代の集落 法垣遺跡棒垣遺跡
縄文集落
法垣遺跡から棒垣遺跡を望む
貝堀り
貝を捨てる
貝塚
魚採り
イノシシ猟から帰る 土器づくり
家造り
※方形高床建物
掘立柱高床建物群と
竪穴住居跡

 30暮らしの道具

 31土器
 深鉢 法垣遺跡 縄文後期
竪穴住居内から見つかった上半部のみが残る土器。住居内を埋める際に下半部を打ち欠き、据え置いたと考えられる。(※枠として使ったのかな)
日常土器が祭祀用に転用された例。
深鉢(上部)

 深鉢 法垣遺跡 縄文後期
外面にススが付着していることから食物の煮炊きに使われたと考えられる。取手ステッキ状の紋様が特徴。

深鉢 深鉢
ステッキ状(J字)紋様

把手(取手)
 
 
 33旧石器時代の石器
台地上の遺跡から石器が少量出土している。定住しない移動生活を送っていたと考えられ、(旧石器)遺構は今のところ確認されていない。
旧石器時代の石器 槍先型尖頭器
諸田南遺跡
ナイフ形石器
諸田南遺跡
 

 縄文時代の不明石器

 34十字形石器 耶馬渓町大字栃木出土 縄文後期~晩期
用途不明の石器。十字のえぐりの部分、もしくは外側が刃部と思われる。
縄文後・晩期の九州に多く出土している。が、他地域でもぽつぽつ見かけた記憶がある。

十字形石器 ※研究 栃木という地名に引っ掛かりました。
 トチノキは一般に冷温帯植物で東日本に多いのですが、九州にも分布しているようです。
 西日本の遺跡では栃の実の殻剥きの痕跡などは、知らないから検出できなかったのでしょう。北部九州にも栃木なる地名があることは、このあたりでも栃の木があったのでしょう。
(当時の中津市は冷温帯気候だったようです?温暖な平地の大分の海岸で?)
そして、縄文人やそれ以降の人々も何らかの食べ方で食べていたのでしょう。
北関東で馬牧場が多くて群馬、湿地が多かったので 前たま(さきたま、たま=湿地、埼玉)
北関東栃木県は栃の木が多くて栃木? 北部九州の中津では栃の木が珍しいから栃木?
 35装飾品
玦状耳飾
法垣遺跡
サメ骨製垂飾
垣遺跡
貝輪
枌洞穴(へぎどうけつ)
 
37漆塗浅鉢 加来東遺跡 時代:縄文晩期後半の遺跡 住所:中津市大字加来134番地の2
 
 41日常石器 大勢遺跡  中津市山国町大字宇曽
石匙
大勢遺跡
石鏃
大勢遺跡
磨製・打製石斧
大勢遺跡
※磨製・打製石斧の表示が明らかに入れ替わっていますね。
くぼみ石  

 43人面形土製品 法垣遺跡 縄文後期
人面を模した用途不明の土製品。 彫りの深い目を貫通させるなど写実性が高い。裏面は中空。
土偶であれば、中空の土偶は西日本では珍しいものである。

人面形土製品 裏面
おかしな箱。穴だらけでちっとも見えない。なんでこんな穴開けたんだ

※この土面、富山で見た土面、北海道で見た土面とよく似ている。眉の下の骨が隆起しているのは縄文系の特徴。(me too)

 45土 高畑遺跡 大勢遺跡 法垣遺跡 縄文後期~晩期
女性の身体を表現したものが多い。故意に破損したと考えられるため、安産や魔除けなどに用いたと考えられる。

分銅形土偶
法垣遺跡
人形土偶
大勢遺跡
人形土偶
高畑遺跡

 ※土面・土偶がどこかで見た感じなのは、やはり縄文中期中葉以降の寒冷化によって、東日本から沢山の人々が西日本や九州に移住したためではないでしょうか。
 


 60弥生時代

大陸から稲作や金属製品など新しい文化・技術が伝わり、人々は高台や川の近くにムラを作り、協力して田を営んだ。
安定した食料は人口を増加させたが、水や耕地・食料を巡って争いが起こるようになり、強いムラがクニへと成長していった。
大きなムラやクニには豪族や王という有力者が現れた。

 稲の伝播ルート
 ↑のリンクでは、稲の伝播ルートは3系統かと思っていましたら、多様な説がありました。興味深いです。ぜひ、全部見て行ってください。↓

引用福井県史原始古代
※考察 稲作伝播ルート
これらは仮説だと思っていました。が、どれか一つではなく、あげられた全ての経路を通って伝播した可能性がありました。

例えば最も可能性がないと思っていた南西諸島ルート。水田遺構がないので可能性なしではなく、インドやインドネシア方面から漂海民が稲籾を持って栽培適地を探して北上したと考えられ、それが鹿児島南端に辿り着いた隼人民族でした。彼らは半農半漁の海人族で、原始的な水田稲作を行いました。つまり、小さな水田を開いて持ち込んだ種籾を撒き、それが実るまでの間は魚業で食い繋いだのです。

その後、北部九州には朝鮮半島から遼東半島の民が進んだ稲作農耕をもたらしたました。彼らは田植えや農耕具、灌漑技術など完成された稲作農耕民でした。しかし、彼らがしたのは、北部九州の原始的稲作民の菜畑遺跡のような水田適地を奪って改良して水田を開きました。なぜなら、稲作農耕民は稲作と狩猟採集が生業で、稲が実るまで食べ物がない。だから原始的水田を奪って食料源とし、その間に開墾をして水田を広げ、他の部族の襲撃を避けるために板付遺跡のように環濠集落を形成したのでした。

寒冷地遼東半島の稲作技術は沿海州に広まり(今回の北部九州シリーズの最後の博物館で渤海地域の稲作遺跡がでてきます。ご期待ください。)、やがて沿海州から寒冷地対応の早生品種を持って直接海を渡り、青森県十三湊から岩木川を遡って内陸に到達し、垂柳遺跡で巨大水田を開きました。この時にも稲作技術は完成したものが伝わりました。北部九州と同じです。ただ違うのは品種でした。
しかし、残念なことに、このルートについては、どの稲作伝播ルートにも書かれていません。きっと学者は寒冷地馴化した品種は九州に入った稲がやがて200年で変化したと考えているようです。垂柳の籾にはヒエが多く混じっており、ほぼ雑穀状態でした。
これは、初期中国大陸の稲籾には、多様な雑品種が沢山混じっていて、高温多湿地や、温暖地、寒冷地等、それぞれの地域で栽培されることによって適地適作で、その土地に応じた品種が自然淘汰されていったもので、暖地である九州に適応した品種から寒冷地適応の早生品種は生まれないのです。

従って、稲作伝播ルートはどれか一つではなく、多様なルートで、多様な人々が、多様な品種をもたらしたのが実際ではないでしょうか。
 61
弥生時代

上に記述

 62主な弥生遺跡の立地 〈弥生中期~後期〉
縄文時代と比べ遺跡数が増え、谷底平野や扇状地でも生活の痕跡が見つかっている。
下毛地域を含め河川沿いの台地(高台)にムラがつくられ台地下の平地に水田が営まれた。

主な弥生遺跡の立地


※考察 弥生以降の縄文人
※下毛地域って、これは毛人=縄文人の棲んでいる所を指すのではないでしょうか。この時代以降、長く縄文人地域があったことを意味しているのだろうか。
群馬県は毛人の国と呼ばれ、上毛野と呼ばれていた縄文人が大変多かった地域です。それは、江戸、明治までもそのように言われ、今でも縄文形質の人が多いと言われます。上毛と言います。

※弥生時代が始まって3000年。国内では混血が進み、現代日本人の縄文遺伝子の含有率は10%だといわれています。
これは、流入した弥生人の比率が10倍で混血したのではなく、弥生人が持ち込んだ病気(肺炎など)や寄生虫、などによって縄文人が絶滅していったからです。

 縄文人は弥生末期には『土蜘蛛』と呼ばれ、各地で殲滅されました。そのような中、あくまでも弥生人との混血を拒み、縄文の人種を維持した集団もありました。島根県などでは、有名な巨大弥生集落遺跡の真下に、半島系集落、混血系集落、縄文系集落があり、隣接していながら互いに没交渉で、2000年以上経た現在でも、小学校に行けば、集落ごとに全く違う3系統の集団が認められる。班別登下校でよくわかるという。

 また、宮崎県などでは突帯文土器を使用する縄文人集落が長く続いていた。
海洋縄文人と言われる隼人は、鹿児島県では、ヤマト政権が彼らの勢力を怖れて日本各地に分散してしまったので薄い印象しか与えられなくなっています。岐阜県などでも隼人の地名が多く残っています。


 63土器の作り方
縄文土器と弥生土器は共に釉薬のかかっていない素焼きの土器。
縄文土器は鉢と甕が主体であるのに対して、
弥生土器は鉢・甕に加えて、壺や高坏などの器種がある。
これは稲作文化と共に大陸から伝わったもので、壺は穀物を貯蔵し、高坏は食物を盛る食器です。

土器の作り方と器種の違い
1粘土採集
露出粘土層から採取
2素地づくり

土器に適した粘土に練り上げる
3成形
粘土紐を積み上げ形を作る
4整形・施文
土器の仕上げと紋様を装飾する
5焼成自然乾燥後焼き固める

 64解説パネル
 米作りの始まり
縄文時代の終わり頃、九州北部に稲作文化が伝わり、弥生時代中頃までには東北地方にまで広がった。
山国川犬丸川屋形川付近の高台に大きなムラが造られ、川沿いの低い土地に水田が造られた。犬丸川沿いでは、
100年以上使用された水田跡が見つかっており、数代に渡って稲作を営んでいた。

 争いの始まりと有力者の出現
土地への縄張り意識が芽生え、ムラの内と外を溝で分けるようになる。ムラとムラは土地や食料を巡って争うようになり、大型石鏃や石剣などの武器が作られた。村の政(まつりごと)や米作りを指導する有力者が権力を握り、有力者やその家族は死後、朱色に塗られた特別な棺に埋葬された。

米作りの始まり 水田に続く水路で見つかった弥生人の足跡
沖代小学校校庭遺跡
争いの始まりと
有力者の出現
朱色に塗られた子供用のお墓(三口遺跡)

 65弥生土器
 ひょうたん型土器 福島遺跡 弥生中期
県内でも数点しか出土していない用途不明の土器。柄の先端には穴があけられている。(貫通していない)t(別名柄杓(ひしゃく)型土器)

 弥生土器 福島遺跡 弥生中期
展示の弥生土器は大量の土器が捨てられた溝からまとめて出土した。朱色に塗られた土器もあり祭祀用と考えられる。

ひょうたん型土器 ひょうたん型土器
弥生土器 ※瓢箪は半島では一般的な植物で、食器や容器として使われていた。
 瓢箪をそっくりに模したのは実物の瓢箪がまだ持ち込まれていなかった時代か、
この長い雁首が、把手ではなく、別の物に見せたのか、
軽い瓢箪容器に見せて重い土師器のドッキリだったのでしょうか。
瓢箪はホモサピエンスがアフリカを出るときに持ち出した物の一つと言われている。

 儀式用精製土器
高坏
 
   
 
 

 67石器
 石包丁 下屋形遺跡 諌山遺跡 佐知久保畑遺跡
イネや泡などの穀類の穂を摘み取る道具。当時はイネによって成長速度が違ったため実った穂から収穫していた。

石包丁

 石斧 佐知久保畑遺跡 犬丸川遺跡 
打製石斧(緑泥片岩製)と磨製石斧(蛇紋岩製)。
用途によって石材を選んでいる。

※緑泥片岩は国東半島の東端の狭い場所で産出する。
蛇紋岩は豊後大野市三重町に産出する。

 石ノミ 下屋形遺跡
木材を加工する道具。 蛇紋岩製。蛇紋岩は比重が重く(※重い石の意味)、力を要する道具によく使用される。※粘り強く割れにくい

石ノミ
石切
下屋形遺跡

 石鏃 佐知久保畑遺跡
打製石鏃と磨製石鏃。
打製石鏃は黒曜石やサヌカイが、
磨製石鏃には蛇紋岩が使われている。

 石剣(未製品) 福島遺跡 弥生中期
金属製をまねて作ったもの。
本来は磨製であるが展示品は打ち割った状態の未完成品。

 石戈(部分) 佐知久保畑遺跡
金属製銅戈をまねて作った磨製石器。

 69甕棺 上万田遺跡 弥生終末期~古墳初頭
棺桶として用いられた甕。
胴体は大きいが口が狭いため子供用と考えられる。
 
 


 100古墳時代


古墳は豪族や王の墓で、3世紀末から6世紀頃、東北から九州で造られた。古墳時代の終わり頃には豪族や王以外化の人々も古墳に埋葬された。
市内で最も古く出現するのは4世紀後半の勘助野地遺跡の方墳である。

古墳には方墳や前方後円墳、円墳、岩盤に横穴を掘り、墓室を形成する横穴墓など様々な墓が造られた。
また、朝鮮半島や大陸で争いが起こり、多くの人々が渡来し、漢字や土器の焼き方などの技術や文化が伝わった。

古墳時代

 101方形住居跡
方墳
相原山首遺跡
方墳
7~9世紀
相原山首遺跡
竪穴住居
諸田遺跡
竪穴住居
6世紀後半
諸田遺跡

 102解説パネル
 須恵器生産の始まり
6世紀後半頃、専門の工人がロクロを使って器を作り、山の斜面に築いた窯で焼く須恵器生産が始まった。
それまでの土器の作り方とは違った新しい技術で、、野依伊藤田窯跡群は奈良時代まで須恵器や瓦が焼かれた九州でも有数の窯跡である。

 人々の暮らし
古墳時代になると人口増加により、平野部にもムラが広がった。竪穴住居内にカマドが設けられ、食べ物を蒸す調理方法なども伝わった。
製鉄の普及で高度な土木工事が行われ、農地が広がった。

須恵器生産の始まり 城山窯跡群 人々の暮らし 中須遺跡の竪穴住居跡

 103須恵器と土師器

須恵器と土師器

 須恵器
 登り窯で焼かれた陶質土器で、青灰色で硬い。形は様々で、食器や液体を貯蔵する容器として使用されたと考えられる。

倉迫二ツ塚古墳

大勢遺跡
ハソウ
伊藤田窯跡群
高坏
上ノ原横穴墓群
須恵器
 登り窯で焼かれた陶質土器で、青灰色で硬い。形は様々で、食器や液体を貯蔵する容器として使用されたと考えられる。

 土師器
 古墳時代から平安時代の間に作られた素焼きの土器。甕、甑などの調理器や貯蔵する容器として使用されたと考えられる
丸底壺
上万田遺跡

上万田遺跡
長頸壺
上ノ原横穴墓群

沖代地区条里遺跡
土師器
古墳時代から平安時代の間に作られた素焼きの土器。甕、甑などの調理器や貯蔵する容器として使用されたと考えられる


 105諸田南遺跡遺物 古墳時代後期 6世紀後半 集落遺出土

勾玉
諸田南遺跡 6c後半
古墳時代後期
耳環(ピアス)
諸田遺跡6c後半
スラグ、羽口
諸田南遺跡 6c後半
 107
摘鎌 摘鎌 諸田南遺跡
6世紀後半

鎌の両端が曲げられていることから、
板状のものに取り付けて使用されたと考えられる。

諸田南遺跡
6世紀後半
土馬
土馬
伊藤田遺跡7c

首より上のみ。
胴部・脚部は欠損。
耳・口・タテガミが明確に認められる。
 109
紡錘車
6世紀後半
イイダコ壺
諸田遺跡 6世紀後半

25個まとめて発見
土錘
諸田遺跡6世紀後半

※考察 蛸壺
これまで気が付かなかったけれど、弥生時代になって蛸壺が登場する。海人族が持ち込んだものだろう。
現在は、蛸は岩礁地帯で疑似餌で見釣りするか、岩の間にヤスを刺して捕獲するものだ。いったい誰が蛸壺を考えたのだろう。

以前、イイダコ用の蛸壺が膨大な数展示されていた館があった。蛸壺もあったが、大きな二枚貝があった記憶もある。
イイダコの捕獲は、貝堀り時に大きな貝殻二枚を吸盤で合わせて中に潜んでいたとか、
潜り漁で大きな二枚貝を見つけたら中にイイダコが入っていたとか、そんなことから大形二枚貝や代用に土師器を使用したことから始まり、次第に大きな蛸壺には大きな蛸が入ることから古くから蛸壺が漁の道具になったのかもしれない。

ってWikipediaでは学者さんが次のように言っている。
蛸壺の発明
日本列島では縄文時代晩期に大型貝塚を形成し、クロダイ・スズキを中心とした漁労を行う縄文型内湾漁労が衰退する。
弥生時代には新たなタイプの内湾漁労として大陸から渡来した管状土錘を用いた網漁や、イイダコを対象とした蛸壺漁が行われる。
兵庫県明石市がその発祥の地といわれ、周辺の遺跡からも蛸壺が発見されている。その後、蛸壺漁法は同心円状に広がりを見せ、古墳時代後期以降になると瀬戸内海一円に広がり九州北部にも散見されるようになる。なお、北海道などでは四角い蛸箱が使われる。
 らしいです。海人族じゃなかった。


 110ホヤ池窯跡
窯体
ホヤ池窯跡 7世紀

登り窯の壁面に溶着した須恵器
 120

諸田遺跡6世紀後半
蒸し器。沸騰した甕の上に据えて使用した。
坏身・蓋
諸田遺跡6世紀後半
食物を盛る須恵器。
食器。
移動式カマド
十前垣遺跡
6世紀後半

竪穴住居内出土。通常据付だが移動式もある
 

 130古墳副葬品
副葬品
 131副葬品

 幣旗邸(ぬさはたてい)古墳  5世紀後半 中津市大字相原字勘助野地
中津市相原に立地した円墳で竪穴式石室。工場建設に伴う発掘調査が平成元年度に実施された。石室から直刀、鉄鏃牛歯などが発見された。
 
副葬品
副葬品 幣旗邸古墳 石室 幣旗邸古墳
5世紀後半
鉄鏃
 

人々は石や金、銀、銅、ガラスなどを使って装飾具をつくり、着飾り、権力を誇示した。
古墳時代のムラ跡から、耳環や勾玉などが発見されているが、多くの装飾具は古墳に副葬品として納められた。
古墳には鉄製武器や土器、馬具なども納められた。相原古墳、幣旗邸古墳から直刀や鉄鏃などが発見された。
 
※研究 幣旗邸古墳石室から牛歯出土

 上記131では副葬品と共に「牛歯など」と記述。しかし、これまで、弥生時代の牛の話などほとんど記憶にない。いったいいつの間に、どこから。
 以前、古墳から馬一頭が出土したと聞いた。しかし、牛の歯や骨が出た話は聞いてない。
まず、古墳時代に牛がいたのか。南九州では馬耕具(ココはしむれ)が出土していた。戦闘用馬が農耕馬となったのか。が牛は最初から農耕用。
馬産の話は広く調べたが古墳時代の牛についてはきっと初めての登場です。


 幣旗邸古墳と家牛

 引用・抜粋「発掘調査報告書「幣旗邸古墳1号墳」 
      第Ⅴ章 幣旗邸古墳1号墳出土の家牛歯、家犬骨」
  参考:「東アジアにおける殺牛祭祀の系譜」(朝鮮三国時代、新羅、中国について)

1.古墳の概要
 幣旗邸古墳1号墳は山国川東岸台地上に位置する直径20mの円墳。5世紀末頃の築造
2.出土状況
 墳頂部の集石遺構から、牛歯列。封土中から犬下顎骨片が検出された。 (※9頁上図参照
 牛歯の上下に集石があり、集石で挟まれていた。周囲は熱変成しており、骨片が見られた。
 これは、牛頭骨一頭分が集石遺構で挟まれ。頭骨が溶け去って残った歯が集石に挟まれたとみられる。
 家犬骨は右下顎骨の破片で、歯はなくなっていた。

3.出土牛歯・犬下顎骨の所見
 牛は、性別は不明であるが7オ前後、体高118-122cm程度の在来型牛で、吐喝劇列島口之島野生化牛に近い形質である。(小さな成牛)
 犬は中型犬の骨である。

4.古墳に伴う牛の供犠
(1)日本列島
 混入を除外して列島では100箇所程の古墳から馬歯・馬骨の出土例があるが、牛歯・牛骨の出土は希少である。
牛歯・牛骨の出土地
弥生時代
五島福江島の大浜遺跡弥生中期~古墳時代。約2000~1800年前紀元前後~2世紀頃
 4つの墓坑の埋葬人骨に(溶け残った)牛歯が出土、同時に破砕された牛馬骨も発見された。  
東京都港区三田の伊皿貝子塚2号方形周溝墓の西端の小土坑から牛頭1個体分を検出。底に頭蓋骨を敷き、上に下顎骨を置いていた。弥生中期末
 (白骨化した頭骨ならできるが、生首では作業が大変だ。どちらだろう。)
弥生中期(紀元前2世紀~紀元1世紀)末は紀元1世紀頃となります。)

 いきなり、幣旗邸古墳の500年も前の牛骨が出てきた。この頃にすでに牛馬がいた!!

 ※考察 弥生時代の牛
 馬もまだ大っぴらに輸入されていない弥生中期に、なぜ牛が、しかも、半島から遠く離れた関東平野で、しかも、墓前祭祀に供している。
福江島は半島に近いので、それなりの財力があれば取り寄せることができただろう。しかし、東京湾沿岸にはどのように運んだのだろう。
そのような運搬ルートがすでにできていたのだろうか。
 長崎県大浜遺跡海浜遺跡で、鮑の加工品や石製品が副葬されていた。海女族・海人族の集落のようだ。また、
 東京湾伊皿子貝塚海浜遺跡で、漁撈中心の生活だったようだ。
 このような集落が半島から牛を輸入してくる程の財力や勢力を持っていたとは驚きだが、福江島の場合は干しアワビなどの海産物、
 港区の場合は、遠浅の海から、得られるもの、干しナマコとか、東京湾の豊富な海産物の干物、が交易品だったのかもしれない。

 更に考えられる搬入ルートだが、弥生時代中期に、
 ①すでに列島に多くの牛が飼育されていた。
 ②海人族のネットワークができていて、海路を運ぶことができ、半島から入手できた。
 ③関東へは日本海ルートから山越えで運んだ。
 しかし、この時代は山賊海賊の時代である。のんびり牛を連れて歩いていたら途中で食われてしまっただろう。やはり、海路か。
すると、どこかでデポされていた牛を海路で運ぶネットワークが北部九州→紀伊半島→東海→東京湾航路があったのだろうか。
そして逆ルートで海産物を運んで交易したことになる。でも、紀元1世紀にね?

 弥生時代に盛んに生産された米は、列島弥生人下戸の食糧でなく、交易作物だった。季節風による交易船が航海していたとすると、
海産物も、南海の貝輪交易のように、半島との間で行われ、その対価として牛が輸入されていてもおかしくはないが。

(1)日本列島の牛の供犠の続き(※以下古墳後期になると牛が入手しやすくなった感がある。日本海・瀬戸内海・東海航路の繁栄)
古墳時代(古墳後期、6世紀中葉以降。この頃に牛が一般的になったのかもしれない。)
鳥取県東伯郡羽合町の長瀬高浜24号墳。直径14m円墳。6世紀後半築造し7世紀まで追葬する。周溝上面より1~1.5才幼齢牛歯・骨と成牛歯が出土。(親子の牛を殺した)
④大阪府四条畷町D古墳は横穴式石室から、牛下顎右乳歯3、左乳歯1、馬の左下顎臼歯6点出土。6世紀中葉以降。(仔牛と成馬を殺した)
長峯1号墳(長野県佐久市内山)長径9.lmの円墳。横穴式石室内部より人骨、幼齢馬下顎骨、牛?臼歯 出土。 7世紀後半築造。(仔馬と成牛)
蓼原古墳(神奈川県横須賀市)は全長28m帆立貝式古墳
 周溝内の埴輪倒潰層の上面を馬骨数個体、牛骨 個体、犬等の獣骨を含む蒲い包含層が被覆し、 (牛・馬・犬を生贄にしたのが6世紀)
 その直上に須恵器の大甕3個体分の破砕片をタイル状に敷き詰め、須恵器ハソウ、鉄製刀子を伴う。(百年後生贄遺構の上で大甕祭祀)
 埴輪は6世紀中葉を示すが、牛馬骨直上の須恵器は7世紀中葉以降のもので時間差があり、あるいは追善供養のようなものか。

 ※古墳後期には、小~中規模古墳から牛遺存体が出土している。

(2)朝鮮半島
高句麗域では紀元前後~2世紀頃の築造と推定されている慈江道楚山郡の蓮舞里2号墳(四隅突出形墳)から子牛・鹿の大腿骨、豚足骨を出士している。
『三國志』韓博には「其葬有棺無榔不知乗牛馬 牛馬粛於送死」とあり、3世紀韓南では葬礼に際し牛馬供犠が行われたらしい。
また平安南道大安市の徳興里壁画古墳 (408頃)は好太王治世の幽州刺使、鎮の墓で、前室の墓誌銘末尾の吉祥句に「牛羊酒宍米緊」とあり牛羊の肉を賞味し酒盛りする状景が窺える。
伽偲の林洞堂古墳群慶尚北道慶山市)は5~6世紀の墓より牛・馬・犬などの骨が出土している。

新羅域では艇州の皇南大塚南墳 (5世紀前半)の封土内から大甕に内蔵された大型獣骨が出土しているほか、
智証王の癸未年 (503年)に建立された冷水碑(慶尚北道迎日郡神光面) ・法興王の甲辰年 (524年)に建立された鳳坪碑(同道蔚珍郡竹辺面)にはいずれも王・六部の代表者が裁定し、その際に牛を殺して誓約儀礼を行ったという内容が記されている。

 ※朝鮮半島北部で紀元前後に始まった墓前祭祀が400年後には南部でも行われるようになった。

(3) 中国東北地方
  (鮮卑紀元前3世紀から中国北部と東北部に存在した騎馬民族。五胡十六国時代(304~439)・南北朝時代(439-589)には大移動で南下して
   漢人の国々を征服し、中国に北魏、北斉、北周などの王朝を建てた。)

 列島の古墳時代に騎馬風習・装身具など多大な文化的影聾を与えた慕容鮮卑(4c後半~5c中期)の葬礼では、死者に対して来世への乗物や死後の食物として馬・牛・犬などを殺して捧げる風習があった。
遼寧省朝陽県十二台郷磚廠墓(土坑木棺墓)は豊富な金製装身具を伴う前燕建国以前 (3世紀)の慕容鮮卑の墓で、壁龕に牛腿骨・陶尊が副葬されていた。

こうした習俗は五胡十六国時代 (304-439) の鮮卑系諸王朝の葬礼にも受け継がれ、
河南省安陽県の孝民屯墓(前燕 4世紀中葉)では土坑木棺墓の頭部側小口の壁龕に牛腿骨と陶罐・陶壺を供献する墳墓が 5-6基検出され、うち MI54号墓では金銅製馬具に覆われた人骨を囲んで壁龕に牛胙、右足付近に馬頭・犬頭が供えられていた。

遼寧省北票県馮素弗墓は墳丘内に2基の墓葬があり、
1号墓は415年に没した北燕の王族馮素弗の墓で木棺を収めた石室外の壁龕に陶罐・陶壺がおかれ、その上に牛の腿骨と肋骨が置かれていた。
2号墓は夫人墓で犬骨大小 2頭分が出土している。

 ※墓前祭祀の宴会は、遊牧民鮮卑の祭祀が始まりだった。

5結語
 以上のような類例の存在より、幣旗邸古墳1号墳出士の牛歯は供犠の痕跡と推定される。
また近年弥生~古墳時代の墳墓に犬の供犠を伴う例が若干報告されており、家犬骨についても供犠痕跡の可能性が高い。
こうした家畜供犠は近接する時期の中国五胡十六国(304~439)・朝鮮半島の墓葬にしばしば見られ、列島の事例はその影響下にあると推定される。
 幣旗邸古墳1号墳ではいかなる経緯でこの習俗が採用されたのか興味ある問題である。
全国的にも出土状態の詳細が記録され、遺構に伴うことが明らかな古墳出土例は稀であり、栗焼憲児氏らの慎重な調査と適正な処置が当資料の発見につながったことを喜びたい。
 資料の観察と報告の機会を頂いたことに感謝いたします。また本稿の作成にあたり、鹿児島大学農学部家畜解剖学教室の西中川駿先生に獣骨鑑定法や参考文献を御教示頂き、同獣医学科の日高祥信氏に牛歯の計測、年齢・体高の推定をお願いした。あわせて御礼申し上げます。


 ※考察 古墳出土の牛歯の謎
 引用文から
1.中国の動物犠牲儀礼
 この祭祀の原点は紀元前3世紀の騎馬民族鮮卑食生活と、葬送儀礼にありました。
 中国北部の騎馬民族・遊牧民、鮮卑の食生活は、農耕民族とは異なり、肉と乳製品です。従って、常に食事をするたびに、動物犠牲が伴います。
 遊牧民鮮卑は墓の前で宴会をしました。その際食材動物を締めました。
 沖縄では現代も門中墓の前で故人を偲び宴会をします。我々の法事と同じです。
 これらは、特に残虐な事でも、奇異な事でもありません。普通の事です。遊牧民を扱ったTV番組では、夕食前に必ず羊などを締めています。

2.朝鮮半島の動物犠牲儀礼
 鮮卑の隣国で同じく騎馬遊牧民族高句麗(扶余族は、紀元前後~2世紀頃の築造とされる古墳から、牛・鹿・豚の骨が出土していて、ここでも墓前祭祀として宴会が行われ、動物が締められていた。

 動物犠牲と書くと「生贄儀礼」を思い浮かべ、残虐なイメージですが、これらは生贄ではなく宴会用の食材であり、モンゴルなどの遊牧民が、その日の客人へのもてなしに供するために、天と地に祈って屠殺します。農耕民族は天と地に感謝の祈りを捧げて大根を切ったりしませんが、動物を食材にする時にはそれなりの感謝をするのです。そして、この時は墓の祖先に捧げるための屠殺ですから、最も神聖な部分である頭部を先祖に捧げたのでしょう。つまり、先祖への供え物です。
 やがてこの儀礼は遊牧民から農耕民にも伝わり、3世紀には、半島南部でも行われていた。
 なぜ伝わったのでしょう。度重なる戦乱の中で、混住や捕囚などによって接する機会があったのでしょうか。
 いくら混住したからと言って不快な事なら農耕民もマネしませんよね。そりゃあ、おいしかったからでしょう。それに贅沢ですね。

3.日本での動物犠牲
 列島に渡来人が押し寄せた弥生時代は紀元前10世紀からである。その1000年後に
 渡来した弥生半島人は、紀元0~2世紀頃には葬送儀礼の中で墓前祭祀で()物犠牲を供献し、それを墓前で食べ、また()人の食膳に供献した。
 ただ、中国でも半島でも列島でも、最高の動物犠牲は牛(一部マダラ牛でした。特殊な牛とされたのか、味がよかったのかでしょう。
  焼き肉が旨かったかどうかは別として、長崎と東京の海人族は、紀元0年以降に渡来してきた半島南部の海女族だったようです。

 弥生中期の墳丘墓遺跡から牛歯・牛骨・馬骨が、長崎県福江島、東京都港区の墳丘墓からは牛骨が出土しているということは、
 弥生中期に乗用の馬、農耕用の牛が持ち込まれていたことを証明し、かつ、墓前祭祀で供献できるほど、牛馬が入手しやすく、供犠儀礼が一般化していたのかもしれない。

 とはいうものの、上記2例の弥生中期の海人族遺跡から牛骨牛歯と馬骨が出たのは、農耕用ではなく、葬送儀礼用の犠牲動物として、なので、生贄用に入手したのだろう。でも、なぜ海人族に遊牧民の食習慣や葬送儀礼が流行したのだろう。そして、わざわざ半島から持ち込んで、食っちまうって、、他に利用は考えなかったのかなぁ。
 ただ、みんなグルメですね。仔牛や仔馬が食べられています。もちろん成体もありますが。肉が柔らかくおいしいという話が広まっていたのでしょう。


4.幣旗邸古墳の牛歯
 幣旗邸古墳は、北部九州中津の5世紀末古墳中期末の墳墓である。
 弥生時代中期末からは3~4百年たっており、牛の入手もだいぶ楽になっていたのでしょう。
 この時期には半島でも列島でも墓前祭祀の供犠が盛んで、数多くの例がある。しかし、列島では馬産中心であり、牛は数少ない様子。

 幣旗邸古墳では、最もおいしいとされるマダラ牛を食べたかはわからないが、墓前祭祀で牛を殺し、宴会を開き、頭は墳頂部で焼き石を敷いた上に置き、更にその上から焼き石重ねて土をかけて蒸し焼きにして供献した。(きっと故人は食べやすかったことでしょう(笑))

 家犬の供献はそれ以前の墓前祭祀で行われたため、封土の中に攪乱して発見された。つまり、以前は家犬を屠ったが今回は最高の供献動物牛を使えたのだから、凄く裕福になったようだ。
 ※131記述の「石室から牛骨を検出」したのではなく、墳丘上部から出土したのだ。


5.古墳時代の牛馬供犠

 弥生時代の牛馬供犠は半島人海人族だった。
 古墳時代中期後半5世紀末から始まる牛馬供犠は少なく、全国100例ほどである。
 その古墳はほぼ、中~小規模、大きくもなければめちゃ小さくもない、そんな古墳から検出されている。これは何だ。

 動物供犠を行うのは半島人で、しかも半島では、5~6世紀に一挙にこの習俗が墳墓に広まっていることから、その影響を受けた新来の渡来人が持ち込んだ習俗ではないだろうか。ただ、何故新来の渡来人が土地と権力と武力を持っていたのかは不明である。

 戦乱のやまなかった半島では、5世紀頃に渡来人が急増した。戦争難民集団である。彼らは各地に分散して集団で入植した。
やがて、入植地で生活を安定させ、経済的にも潤うようになると、集団の長の円墳をつくり(半島の墳墓は円墳、土饅頭の大形化)、半島式の葬送儀礼や墓前祭祀を行ったのではないだろうか。
 それが今に残る100例の動物供犠の痕跡である、動物骨ではないだろうか。
 幣旗邸古墳の場所相原は、秣(まぐさ)と呼ばれる地域に近く、河川敷、氾濫原、などで開発や居住困難な地域だったに違いない。
 ただ、当時は全国的に人口増加による再開発ブームで、それまで開墾できなかったところまで開墾し入植することが全国的に起こっていた。
 幣旗邸古墳の相原に入植したのは仕方ないことだ。相原って葦原の事か?

6.これで終われない幣旗邸古墳
 「発掘調査報告書」によれば、この古墳は竪穴式石室を造り、玉砂利を敷き、組合式石棺を組み、上から遺骸を入れた。石棺系竪穴式石室である。
石棺の石蓋は10枚の鉄平石が鎧重ねで覆われていた。石室内の石棺からは若年の人骨が一体出土している。その後土で埋められている。
石棺内からは、人骨・鉄器・植物遺存体。鉄器は、直刀1、鉄鏃21、刀子1、鑷子(毛抜き)1、不明鉄器1。(後:植物は瓜状炭化物)が出土した。

 ところが、その後、もう一度墳丘上部が掘り込まれ、石棺の鉄平石の蓋が開けられ、ひざの骨が動かされ、瓢箪状植物が供献されている。
すでに完成した墳丘をもう一度掘り返す行為は稀有であるが、同時期(5世紀後半)の、隣接する上ノ原横穴墓群でも同じ行為が認められる。
その後、埋め戻された墳丘の上で、焼き石の上に牛頭骨を置き、更に焼き石を置いて土を掛け、蒸し焼きの、動物犠牲の供献を行ったようだ。
 牛頭骨下の土から犬の骨が出たのは、第一次の封土後の墓上祭祀時の動物犠牲で、二度目の封土後の祭祀が牛頭骨なのだろう。
竪穴式石室石棺を掘り直したことがわかったのは稀有にも人骨が残っていたからと、石棺石蓋が不自然に動いていたからだ。
これは、全国でもここだけの風習なのではないだろうか。


7.感想
 弥生時代の牛については、これまでの博物館での情報が少なく、存在しないものと思っていました。また、馬は古墳時代中期の5世紀頃に持ち込まれたと書かれていおり、そう考えていました。。
 つまり、馬耕が中心だったと思っていましたが、馬同様に牛も持ち込まれ、いや、馬以上に早く、弥生中期には関東まで運搬ルートが完成していた。
持ち込まれて農耕用か、祭祀犠牲かに使われていたことがわかった。
 (海人族は、農耕牛は使わないだろう。墓前祭祀用に高額で交易で取り寄せたに違いない。とても豊かな海浜の村だった。)
 しかし、牛耕用の道具は弥生農耕具としても古墳~近世までの博物館展示でもほとんど見かけることはなく、平安期には牛で田を耕すようになったようだとなんとなく、当時の絵のコピーなどで思っていた程度。確たる証拠は知らなかった。
 弥生時代にすでに殺して宴会をするほど牛がいたとは、、寝耳にミミズです。   しらんけど・・・(◎_◎;)




※研究 牛馬の歴史

そこで、今回のことで、牛を、調べると、なんと!
牛は 日本列島では約2,300年前(弥生中期)渡来人によって家畜化された牛が持ち込まれたと考えられています。引用(サンキョーミート)

こんな報告は初めて聞きました。一方、馬は、
馬は 縄文後期に中国華南地方から台湾、琉球諸島、薩南諸島を通じ、広西矮馬や中国西南山地馬(四川馬、雲南馬のルーツと言われる)を母体とする小型馬が導入され、与那国馬、宮古馬、トカラ馬、愛媛県野間馬が作られました。

また弥生時代には内蒙古、河北、遼寧、吉林から朝鮮半島を通じて蒙古馬(中央アジアのタルパン系高原馬とも言われる)を母体とする中型馬が導入され、宮崎県御崎馬長野・岐阜県木曽馬岩手・青森県土産馬が作られました。

ちなみに対馬の対州馬は朝鮮半島ルートと南西諸島ルートの交雑があるのか、両方の中間型を示しております。引用(天王寺動物園)


魏志倭人伝には、倭国には牛馬はいないと記されている。弥生後期280~290年頃

日本国内の4点の牛埴輪。その博物館
  牛の埴輪(複製) 奈良県田原本町羽子田古墳 原資料所蔵:奈良県田原本町  唐古・鍵考古学ミュージアム 6世紀前半頃
  牛の鼻と口とみられる埴輪の一部。朝来市の船宮古墳で出土し、牛形埴輪としては日本最古とされる。豊岡市埋蔵文化財センター 5世紀後半
  大日山35号墳出土 牛形埴輪 和歌山県立紀伊風土記の丘展示 6世紀前半
  牛の埴輪 高槻市今城塚古墳 高槻市今城塚古代歴史館 6世紀前半


※考察 なぜ牛馬の歴史が闇に
 民間企業や動物園から牛馬の歴史が明かされる一方、全国の博物館では、冷ややかな扱い。ほぼ触れない。量は僅かだ。無視するほどだ。
といった声が聞こえてきそうです。が最も大きな原因は別にあるようです。それは文献史学です。

 魏志倭人伝に「牛馬なし」とあるため、牛馬はないことにしているのでしょう。
 だから大分県中津市歴史博物館でも、「牛歯」としか書かず、それ以上は触れていない。

 弥生時代に牛がいたなんて、
 文献史学に反することは、たとえ真実でも隠してしまうのが権威主義的な考古学の世界。あの捏造事件を経てもまだ、解放されないようだ。

 ほとんどの博物館で牛馬について触れないために、縄文~弥生~古墳(5世紀以前)には牛馬がいなかったことになってしまう。
 先日編集した大分県「吉野ケ里遺跡」では、前回訪れた時には、3世紀の馬具の出土が展示されていたのに、今回の訪問時には撤去されていた。
 文献史学から馬頭いや罵倒されたのかもしれません。

 これでは、牛馬の歴史の考古学的な解明は相当先になるでしょう。
 きっと、弥生時代の馬耕具・牛耕具や、牛馬の制御具も出土しているのではないだろうか。それらはきっとお蔵入りになっているのでしょう。
 唯一、「COCOはしむれ」でのみ展示されているのかもしれません。
 
 
 

 133倉迫二ツ塚古墳 6世紀後半 旧三光村
中津市三光下秣(しもまぐさ)に立地した円墳で横穴式石室。工場建設に伴う発掘調査が平成2年~3年に実施された。
石室内から須恵器の提瓶や壺、多くの玉類、鉄鏃などが発見された。

※秣(まぐさ)は牛馬の飼料となる、干し草、藁、別名かいばである。
 中津市には下秣上秣西秣の地名があり、おそらく古代に牛馬の干し草を生産する広大な河川敷があったのではないだろうか。

小玉・臼玉
勾玉
切子玉・丸玉
管玉
勾玉・管玉・丸玉・臼玉

 134城山古墳の馬具 7世紀初頭~中頃
中津市伊藤田に立地する円墳で横穴式石室。昭和28年に学術調査が実施された。耳環、馬具などが発見された。

辻金具 城山古墳
7世紀初頭~中頃
鉸具
杏葉 辻金具
馬具の名称

 135古墳時代の祭祀
成恒笹原遺跡(なりつねささはら)から出土したミニチュア土器は実用品ではなく祭祀に使用されたと考えられる。
人々は八面山のふもとで何を祈り、祭を行ったのであろうか。1基の竪穴から300点を超える大量のミニチュア土器が発見された貴重な遺跡である。

※ミニチュア土器の大量副葬って何なんでしょう。集めるのが趣味だった。ミニ土器屋だった。沢山の孫やひ孫がたっぷり造ってお見送りした。?
古墳時代の祭祀 成恒笹原遺跡 ミニチュア土器
ミニチュア土器
 
 

 150枌洞穴遺跡(へぎ) 縄文早期・前期・後期 中津市本耶馬渓町今行 字甲進799
本耶馬渓町今行(いまゆく)屋形川右岸にある洞穴遺跡。 幅11m高さ6m奥行9mの大きさで、縄文時代に墓や住居として利用された。
縄文時代早期・前期・後期の墓から計68体分の人骨が発見され、覆石葬(ふくせきそう)・屈葬・伸展葬など様々な方法で埋葬されていた。
特に母子合葬や4体の共同埋葬など当時の葬送形態を知ることができる珍しい遺跡である。

※1万年間ものあいだ、次第に変化する埋葬法の展示場のようです。
※以前の墓を壊さずに、順次後世の時代の墓地が拡がったのはよかった。

母子合葬とされている

展示物
枌洞穴近景
貝輪を付けた人骨
成人と子供の埋葬

展示物

 縄文時代後期の母子合葬
 遺体は頭を東方に、仰臥屈葬位で埋葬され、その右腕には幼児が抱かれていました。胸には石が置かれた「抱石葬(ほうせきそう)」の例です。
 骨の初見から、母親と見られる遺体は20才代前半の女性で、幼児は歯の生え方の状態から生後1年ぐらいと推定されています。
縄文時代後期の母子合葬

※考察 母子合葬・包石葬
 縄文後期の食糧不足の寒冷期。母子が死んだ。とされる。二十歳代の若い母親の胸の上には石が置かれ、霊魂の封じ込めが行われている。
意味は、二度と生まれ変わるな。である。
 縄文人女性は、一人で8人の子を生まないと集団が維持できないと言われている。
一歳程の子供と二十歳の母親はなぜ死んだのだろうか。そしてなぜ、二度と生き返るななのでしょう。
 子供が死んだ責任を取らされて、子供と共に埋められ、上から大石を落とされて圧迫死させられ、殺されたのでしょうか。

 アイヌの習俗にミイラ作りがあります。死体を燻製にし、完成したミイラは、生きている時と同じように扱い、一緒に食事や行動するという。
しかし、この燻製化作業は女性に命じられ、完成すると褒美を与えられるが、失敗すると殺されるのだ。

 この母親は何らかの原因で子供が死に、その責任を取らされて殺されたのだろうか。だから、怨嗟のために石を抱かされたのだろうか。
ただ、この時代は子供の産める女性は貴重で、しかも二十歳代と随分若い。
8人産んでもほとんどが夭折するので、こどもが死ぬのは当たり前。それでいちいち殺されていたら、とっくの昔に縄文人は絶滅していただろう。
 
 いったいなぜ女は子供と共に葬られ、二度と生まれ変わるな バーカ!! とされたのだろうか。
 


 200古代


 200律令の時代 7世紀後半(645)~10世紀頃

古代以前は地域ごとに有力者が人々や土地を支配していたが、
奈良に誕生した朝廷は法律(律令)を定め、国が人々や土地を直接支配する仕組みを作った。
国郡里(郷)制により豊前国下毛郡が生まれ、郡内には山国、大家、麻生、野中、諌山、穴石、小楠の7郷があった。
また、仏教文化が地方にも広がっていった時代でもある。

 201
律令の時代

 202解説パネル
 中津に残る律令体制
新しい世の中ができ、地方ごとに役所を置き、戸籍をもとに人々に土地を分け与えるようになり、法律に基づいて土地は区画された(条里)。
山国川の氾濫でできた沖代平野に条里水田が作られ始め、人々は収穫した米の一部を税として役所に収めた。
長者屋敷官衙遺跡は米が納められた郡の役所跡である。

発掘された倉跡
長者屋敷官衙遺跡

 203奈良時代の正倉(長者屋敷官衙遺跡) 中津市永添2303

➀長者屋敷官衙遺跡は、米を納めた下毛郡の正倉(倉庫)である。倉を建てる立地は法律(倉庫令)で定められていた。

倉庫令
 ・倉はみな高く乾燥した所に置くこと。
 ・周囲に池渠(いけみぞ)を開くこと。
 ・倉の周囲半径50丈(役148m)以内に倉庫以外の建物を置いてはならない。

③遺跡は平野から一段高い場所にあり、東西は谷に挟まれている。西側には「大池」という地名があり、「倉庫令」の池渠であった可能性がある。

奈良時代の正倉 倉庫令 倉庫の位置 大池と官衙遺跡 倉庫群

 204解説パネル
 古代の税制と生業
古代の税制は、「租=米、庸=労働、調=特産物や布製品」で、米作りのほかにも様々な生業があった。
海辺の定留遺跡では漁で使うイイダコ壺を焼いた遺構が見つかり、山国町の大勢遺跡(おおぜい)には海辺のムラから塩が運ばれた。
また、平城宮出土の木簡「豊前国下毛郡調綿(しもげぐんちょうめん)」からは調として綿が納められたことがわかる。

※近代まで日本中で綿花栽培が行われていた。私の子供の頃、近所の農家では綿花を作り、綿繰り機でたねを取っていた。それは、製糸や製綿以外にも、自家用の「綿入れ」(冬用衣類)や座布団にもできる。水の便の悪い畑作地では租税対策で栽培したのだろうか。

 律令制のゆらぎ
奈良時代の半ばに墾田永代私財法743年新しく開いた田を私有できる)が定められると、有力者は自分の土地を増やし、財産を蓄えた。
定留(さだのみ)遺跡や法垣遺跡では、国内外で焼かれた高級食器が見つかり、有力者が住んだ拠点的なムラであったと考えられる。
こうして国が土地を支配する体制がゆらぎ始めた。

※考察 口分田制の崩壊
 口分田制の崩壊の原因は土地不足。制度発足時の見通しが甘く、人口の増加を政策立案に加えていなかった。本来なら、口分田用地開墾制度を設けておくべきでした。テクノクラートがこれを知らなかったか、知っていて、この、豪族から土地を奪い取る法律を破滅させたかったのかもしれない。
政策に関わった者たちは、土地を没収された豪族たちだったから。
 しかし、口分田制は成功した政策だった。なぜなら、急速に人工が増加したのだから。

古代の税制と生業 律令制のゆらぎ 海を臨む定留遺跡

 205廃寺瓦
鬼瓦
塔ノ熊廃寺 8c後半
つり上がった目、大きく開けたくてには牙も見えるが、どこか愛嬌のある顔立をした鬼瓦。塔ノ熊廃寺は、現在の秣小学校あたりあった古代寺院。
軒丸瓦
塔ノ熊廃寺 8c後半
2枚1組の花弁が8枚表現された中に、12個の連子を持つ。新羅系軒丸瓦と言われる形式。周辺は唐草文で飾られる。
軒丸瓦
相原廃寺 7c後半 
建物の軒先を飾った瓦で、蓮の花が表現されている。大ぶりの花弁8枚の中央に7個の連子を持つ。百済系軒丸瓦と言われる形式。

 206古代のまちづくり
古代は官道を中心とした「まちづくり」が行われた。沖代平野に広がる条里は、官道を基準として碁盤目状に線引きされたと考えられている。
古代豊前道(官道)はこも神社の三角池堤防上を通り、一直線に宇佐神宮へ続く、一連の都市計画だったことがわかる。

古代のまちづくり 沖代平野のまちづくり

 条理の区画
坪は条理区画の基本単位。1坪を10等分したものが1で、男子は6歳になると田圃2段を支給される。 口分田

条里の区画 条里の区画


官衙遺跡周辺遺跡地図 条里展望台 薦神社の三角池 条里水田の水がかりを巡るお祭り(鶴市笠鉾神事
 

 208古代寺院と火葬墓  奈良時代
仏教の教えが広まったこの時代、有力者は寺院を建て一族の平安を願った。
相原には高い仏塔が建ち(相原廃寺)、西秣(にしまぐさ)には鬼瓦を葺いた寺が建っていた(塔ノ熊廃寺跡)。
火葬が行われるようになり、有力者や僧侶は火葬墓に葬られた(相原山首遺跡勘助野地遺跡など)。

古代寺院と火葬墓
相原廃寺の塔心楚は
瑞福寺の手水鉢は、相原廃寺寺の塔心楚 相原廃寺の礎石は貴船寺の石垣に
 209火葬墓
相原山首遺跡は、中津を治めた有力者の歴代の墓地であったと考えられている。
現地は風の丘遺跡公園となり、古墳が復元されている。
また、風の丘葬斎場内では出土した土器を展示している。
相原山首遺跡の4号火葬墓は、火葬を行った穴に骨壺を埋めていた。

※薪の上に座棺を乗せ、周りから燃やして翌朝、骨上げをし、まだ、遺骨や炭や灰が残った上に蔵骨器を埋め込み、石で周りを囲って安定させ、墓としたか。
勘助野地遺跡の火葬墓は中津市市内で最も古く、奈良時代中期頃のものが見つかっている。
国道10号線の発掘調査で発見された。

※火葬場で骨上げし、埋葬は別場所に埋葬した。すると、火葬場は誰かの手によって掃除され、
残った遺骨や灰・燃えカスは、奥のほうに積み上げられたのでしょう。
 

 211炭化米 長者屋敷官衙遺跡 8世紀~10世紀
正倉が火災に遭い、倉に納められた米が焼けたもの。この炭化米から長者伝説が生まれ、長者屋敷の地名がついた。

※「203の倉庫令(718)」にあるように、およそ、火事には縁遠いような場所に造られた倉庫(正倉)が燃えたということは、意図的な兵火か、放火か。
それとも暴風の中の大火による飛び火か、いずれにしてもめったにあることではないでしょう。税を燃やしてしまえば、翌年は倍の税を取られ、大変なことになります。

炭化米 炭化米

 213土器・陶磁器
墨書土器「野大」
長者屋敷官衙遺跡
8世紀後半
製塩土器
大勢遺跡 8c
土師器イイダコ壺
諸田南遺跡 8c後半
緑釉陶器水注・碗
定留遺跡
9c後半-10c前半
青磁・白磁 碗
法垣遺跡
8c後半-10c中頃
灰釉陶器 短頚壺
法垣遺跡
9世紀初頭
 215
蔵骨器 須恵器
坂手隈城跡
8c中頃-後半
円面硯 須恵器
長者屋敷官衙遺跡8c
坏蓋・身 須恵器
諸田南遺跡
8c後半
 


 2302 祈りの世界  中世 院政期~戦国時代 11世紀後半~16世紀後半


古代中世の時代は神仏への祈りが人々の暮らしに欠かせないものだった。
神仏は、五穀豊穣や日々の安寧を願って、木や石や絵などによってその姿を形作られた。
地方の有力者は寺社を造営し、そこに暮らす民はムラの鎮守やお堂に祀った神仏を信仰した。

2祈りの世界

 231長谷寺の金銅仏 中津市三光西秣1893
三光西秣にある古刹・長谷寺には銅造観音菩薩立像(国重文)が守り伝えられている。
大宝2年(702)に周防国凡直(すおうのくにおおしのあたい)によって造像され、すがすがしい表情や、やや腰をひねった態勢など、白鳳期の金銅仏として知られる。
“長谷観音”として毎年4か月20日にご開帳される。

長谷寺の金銅仏 長谷寺

 銅造観音菩薩立像 大宝2年(702)
像高30.1cm。顔は笑みを浮かべて丸みをおびる。わずかに腰を右にひねって蓮華台の上に立つ。
周防国凡直の誓願により造像された観音菩薩像。

銅造観音菩薩立像

 新宮権現社懸仏
 山国町草本の新宮権現社にまつられていた懸仏。薬師如来や十一面観音などが表された15面が残る。

新宮権現社懸仏

 235仏像・神像
市内には多くの仏像や神像が守り伝えられている。
神を仏の姿で表した青地区の妙見菩薩坐像や、新宮権現社の懸仏は、八面山英彦山といった山岳霊場と関係する。
平安時代の木彫仏の代表としては、久福寺 大日如来坐像が挙げられる。

 木造大日如来坐像  12世紀前半
耶馬渓町平田の久福寺に伝来する木彫仏。カヤ材の一木造で内刳りを施し、両腕両足部を矧(は)ぎ付ける。膝上で定印を結ぶ胎蔵界大日如来を表す。

仏像・神像 木造妙見菩薩坐像 木造大日如来坐像 木造大日如来坐像

 羅漢寺
本耶馬渓町跡田にある羅漢寺には、延文4年(1359)から1年間かけて刻まれたという石造五百羅漢像が伝わっている。
禅僧円龕えんがん昭覚と逆流建順ぎゃくりゅうけんじゅんによって造像が企画されたもので、山内に配置された羅漢からは、聖地・中国天台山の情景が浮かぶ。

 石造羅漢像
五百羅漢の内の一軀。自身の顔をめくり、その下から十一面観音が現れたと言う、中国梁代の高僧・宝誌和尚はの説話が取り入れられてできた図像で、日本にもたらされた中国文化が色濃く反映されている。

羅漢寺 羅漢寺
石造羅漢像 石造羅漢像
 


 3003 中世の中津 院政期・鎌倉時代・室町時代・戦国時代 11世紀後半~16世紀後半


 301荘園の時代 奈良時代末期~鎌倉時代

奈良時代、国の繁栄を祈る寺社には田畑の私有が許され、“荘園”ができた。
平安時代には、有力な豪族が、国や領主の許可を得て荒れ地を開墾し、貴族や大寺社に寄進して、いくつもの荘園が作られた。
中世の下毛郡には、沖代平野を中心に多くの荘園があり、様々な職能を持った人々が暮らしていた。


 302薦社縁起絵巻 17世紀
  こもじんじゃ
薦神社の縁起を描いた3幅の掛け軸、絵解きに使われと考えられる。幅目には薦神社の境内が大きく描かれ、神社が鎮座した経緯などが描かれる。
薦社縁起絵巻
 これらの図は、領地争いに関わるもので、絵図面で所領を明らかにしようと、全国で作られた。

 304下毛郡相原・永添絵図(荘園絵図)
 鎌倉時代に描かれた県内に唯一残る荘園絵図。
中央に耕地が描かれ、周辺に家や山の樹木、谷筋の水田、左下には波が渦巻く池が描かれている。
絵図には朱文字で「金吉」という地名や、官道と思われる直線道が確認できることから、現在の相原・永添付近を描いたものであることがわかる。
注記には「押領」(他人の土地を不当に占拠すること) 「当知行」(現実に占有していること)といった文字が見え、朱線で領域を示していることから、
所領相論(しょりょうそうろん)に関わる絵図であろう。

 下毛郡相原永添絵図 13~14世紀
鎌倉時代に描かれた県内に唯一残る荘園絵図。図中に「押領」「当知行」といった文字が見え、土地の支配を巡る論争に関する絵図と考えられる。

下毛郡相原・永添絵図
(荘園絵図)
現在比定地図 下毛郡相原・永添
上図の原図 下毛郡相原

 306宇佐八幡宮の荘園経営
宇佐宮神領大鏡」によれば、宇佐八幡宮の神領のうち、下毛郡には古代の郷が荘園となった大家郷野仲郷深水荘が認められる。
大家郷は中津市域の北西部、野仲郷は東部にあたる。それぞれ“名(みょう)が設定されて宇佐八幡宮の年貢を負担した。
現在も当時の名を表す地名が多く残っている。
宇佐八幡宮の荘園経営
 

 320武士の台頭から戦国の動乱  平安後期
平安時代の終わり、武士が台頭して武者の世が始まった。

鎌倉幕府が開かれる御家人であった武士は守護・地頭という職を得て地方に進出した。 (用心棒が、地方領主となった)

豊前地方には宇都宮氏が下り、一族が荘園の地頭職などを掌握して値を広げた。
宇佐宮の神官らも武士化し、戦国領主として成長した。
戦国期には大内・大友両雄が豊前の支配権を巡り争いが続いた。

 321
武士の台頭から戦国の動乱

 322中世の城館跡
中世の城館跡 岡崎城跡縄張り図

 323下毛の奇城~長岩城跡~
長岩城は12世紀末に野仲氏によって築城されたという。高さ2mの石塁や、尾根に石を積み上げ防壁としている。
16世紀末、城は黒田氏に攻撃され落城。石積みは黒田氏(黒田官兵衛)の攻撃に備え築かれたという説もある。
累々と延びるその様は全国的に数少ない珍しいものである。
下毛の奇城
~長岩城跡~
長岩城跡の石塁
長岩城全体縄張り図

 325 説明パネル
 中世武士団・宇都宮一族

中世武士団
宇都宮一族
蒙古襲来絵詞の
中世武士団
中世武士団宇都宮一族
宇都宮氏は、(北関東栃木県)下野国宇都宮を出自とする鎌倉御家人である。
その分家宇都宮信房は豊前守護職や国衙の在庁職を得て下向し、
城井(きい)馬場(福岡県みやこ町)を本拠地とした。
信房は兄弟や子に領地を分割相続し、彼らは豊前の谷々に根を張った。
下毛郡には野仲氏や深水氏が居を構えて所領を支配した。
戦国の動乱と下毛郡 野中鎮兼充行状 戦国の動乱と下毛郡
室町・戦国期、守護大内氏は領国支配を確立し、戦国大名へと成長した。
下毛郡の国人・土豪らはその被官として体制に組み込まれたが、次第に戦国領主として独立する動きとなる。
特に長岩城の野仲鎮兼は下毛郡統一に乗り出し、周辺の諸将と幾度も戦を繰り広げた。
戦乱の状態は、近世大名黒田氏に平定されるまで続いた。
中津の中世城館 岡崎城跡横堀  中津の中世城館
大分県の城館数は約580箇所(推定地含む)。そのうち中津は約70箇所を数える。
山間部の領主は、山城を築き有事の際の詰め城とした。
一方、平野部を領地とする領主は、低い山や平地に居住と防御を兼ねた館を築いた。
中津は豊前・豊後の境目の地にあり、戦国領主たちは互いに争いを繰り返した。
 
 330
 331書状
 鎮西下知状 正和2年(1313)
宇佐神宮の神官、成清が先祖伝来の所領である野中郷実得・時元・快日の三ヶ名について、御家人市尾光俊の押領を鎮西探題に訴えたもの。神領であると認め社家に返すべき裁きが鎮西探題北条政顕より下った。実得名・時元名は三光に十徳・時本の小字名が残る。

鎮西下知状 鎮西下知状
正和2年(1313)

 野仲道棟軍忠状 建武3年(1336)
建武三年に起こった玖珠城合戦(玖珠伐株山を舞台にした南北朝の戦い)にあたり、
豊前の御家人野仲道棟は、北朝方として、近隣の御家人らとともに城攻めに参戦した。この文書は自身の戦功を列記し幕府に提出した軍忠状で、跡田氏・延入氏など近隣武士の名が見える。

野仲道棟軍忠状 野仲道棟軍忠状
建武3年(1336)

 333前田遺跡
青磁碗
前田遺跡
12c中~後半
南宋時代龍泉窯
豪族居館跡出土
白磁碗

前田遺跡
11c後半~12c
中国陶磁器
合子 13c中頃
:景徳鎮
合子 13c中頃
中国・景徳鎮窯。型押し技法で菊花形に仕上げる。上面に見える20数個の小さな華が愛らしい。化粧品容器や香合として使用された。
瓦器碗
瓦器碗 前田遺跡
13世紀前半~中頃
食物などを盛る器。内面に炭素を吸着させ水漏れを防止している。
色調が屋根瓦に似るため、その名が付けられた。墓に副葬されることもある。
硯 天正7年
硯 中津城跡 天正7年7
天正7(1579)銘をもつ。
黒田官兵衛入部前に中津城に存在した中世城館付近から出土した。
年代・人名が刻まれた珍しい資料。

 335鉄鍋 深水邸埋納遺跡 14世紀前半
口径30cm 器高13.3cm。土師器小皿約58枚が入れられており、一部は鍋に張り付いていた。

鉄鍋 鉄鍋

 336深水(ふこうず)邸埋納遺跡出土遺物
1987年、中津市三光下深水在住の深水明氏が自宅の庭園造成中に備前焼の大甕を発見した。
大甕からは、銅銭55枚、鉄鉈、和鏡、鉄鍋、金輪、鉄刀などが出土した。
鉄鍋は金輪にかけた状態で見つかり、鉄鍋の中から3~4枚を1単位とした土師器小皿が58枚発見されている。
埋納された時期は14世紀前半~中頃と考えられ、遺物は県有形文化財に一括指定された。

 古銭
合計55枚の中国の古銭が備前焼の甕の底部に敷き詰められた状態で出土した。唐~宋時代のもので、北宋時代のものが大半を占める。

古銭 深水邸埋納遺跡出土遺物
古銭
 


 4004近世の中津
      江戸幕府の成立1603~東京遷都1869
    or 関ヶ原の戦い1600~大政奉還1867


 401黒田氏の時代

初代中津城主となる黒田官兵衛孝高は豊臣秀吉の九州征伐において活躍し、天正15年(1587)、豊前国6郡を与えられた。
最後まで抵抗した旧領主宇都宮氏を滅ぼし、領内を平定した黒田氏は豊前中津を統治の中心地に定めた。
2代目長政が関ヶ原の戦功のにより筑前52万石を与えられ、福岡に移るまでの13年間、黒田氏の統治は続いた。

黒田氏の時代

 403黒田氏の入部と中津城築城
築城の名手であった黒田官兵衛孝高は、天正16年(1588)、山国川の河口に自らの居城となる中津城の築城を始めた。
当時最新の野面積みの技法で築かれた石垣を持つ中津城は、九州最古の近世城郭の一つである。
一部の石垣には、上流の唐原山城跡(7世紀・上毛町)から運んだ石材が用いられた。

※考察 黒田官兵衛の城郭建築
 黒田官兵衛は城郭建築の名手と言われています。中津城以前は長野県の初期の上田城のように、石垣がなく、土盛の上に櫓を築いていた。
黒田は、中津城築城に当たって、上流の唐原山城から大量の石材を運んで石垣を築いたという。

 唐原山城は奈良時代の山城で、白村江の敗戦後に亡命半島人の指導によって西日本に作られた岡山県鬼ノ城などと同じ、朝鮮式山城です。
奈良時代の半島では、すでに穴太積みの石垣を組んだ山城がつくられていたのでした。しかしその後、なぜか山城の事はすっかり忘れ去られ、鬼の城などと呼ばれて60年前のTV番組「日本の謎」として不思議がられていました。
 
 とにかく、古代の山城には、近世城郭建築に使用できる巨大な石材が沢山使用されており、900年も前の築城技術がいかに優れていたかがわかります。
黒田官兵衛の石垣づくりの城郭建築は、古代の朝鮮式山城に学んだものかもしれませんね。

黒田氏の入部と中津城築城 黒田孝高
 405黒田官兵衛
黒田官兵衛書状
16世紀後半
黒田如水縄張り図
17c~18c
中津城縄張り図

 410中津城跡の陶磁器 16世紀

 411貿易陶磁器 中津城跡/中津城下遺跡 16世紀末
 中国や朝鮮半島で焼かれた碗や皿などの陶磁器類。特に華南三彩の破片は珍しい。
中津城本丸や本丸に近い地点で多く出土するため、これらの多くは限られた階層が手にしていたことがわかる。
陶磁器の出土数は貿易都市として栄えた大友府内町跡や博多などに比べると少ない。

 天目茶碗 中津城跡/中津城下町遺跡 16世紀末
 中部地方で焼かれた瀬戸・美濃焼の碗。鎌倉時代に中国の天目山で学んだ僧侶が持ち帰った黒釉の茶碗を日本で「天目」と呼称したのが始まりとされる。
茶道の普及に伴い普及した茶碗であり、瀬戸・美濃地方で模倣・製作されました。

天目茶碗 と 用変天目茶碗  ニセ用変天目茶碗

天目茶碗
中津城跡 16c
朝鮮産碗
中国陶磁器
福建皿
景徳鎮碗・蓋
貿易陶磁器 翡翠釉小皿 中国山五彩皿
河南三彩片
漳州窯産碗

 413中津城瓦 16世紀 中津城跡
軒平瓦
佐賀県名護屋城と
同范瓦
軒丸瓦
巴紋は火除けの意味
巴は災厄除け
桐紋瓦
秀吉の家紋「五三の桐」
金箔瓦
 

 420細川氏・小笠原氏の時代
黒田氏に代わって慶長5年(1600)に入部したのが細川氏である。藩体制を確立させ、山国川の治水工事などを行った。
細川氏は寛永9年(1632)に肥後国へと転封てんぽうとなり、
代わって小笠原氏4家が入部。旧細川領を分割してその後の中津藩の形が成立した。細川氏の政策を引き継ぎ、領内の寺社の再興にも力を入れたが、2代目以降失政が続き、力を失っていった。
 421
細川氏・小笠原氏の時代
 422瓦
薦神社 九曜紋鬼瓦
中津城跡 17c前半
細川家の家紋
鳥紋鬼瓦17c

 423細川氏の入部と治世
黒田氏に代わって豊前を拝領したのが細川忠興である。
ムラ支配の体制を確立させるなど、その後の政治の基礎を整えた。
また、本城を小倉に定めた後も中津城は維持し、山国川の治水工事や城下町の整備を行うなどの土木事業にも力を入れ、域内の神社仏閣の再興にも力を注いだ。
細川氏の入部と治世

 424細川忠興
特別展示
「細川忠興の書状」
細川忠興書状
 425十七世紀前半の焼き物
細川氏の時代頃に生産、使用されたもの。この頃の焼き物は陶器が主体で、中津城跡や城下町遺跡で出土するのは佐賀県唐津焼上野・高取焼(あがの・たかとりやき)きが多い。
佐賀県の伊万里焼が生産され始めた頃で、染付(磁器)は高級品であった。

織部焼
中津城跡
瀬戸美濃焼
城跡
上野・高取焼皿
城跡
唐津焼灰釉皿
城下町遺跡
唐津焼鉄絵皿
城跡
 
426十七世紀中~後半の焼き物
小笠原氏の時代頃に生産、使用されたもの。
伊万里焼の技術が向上する頃に当たり、前代より薄手の製品が作られ普及し始める。
染付の紋様もより庶民的なものになり、碗は現在に通じる形となっている。
伊万里焼・碗・皿
城下町
17世紀中頃から後半の焼き物 伊万里焼
中津城下町遺跡
油壷


 

 430小笠原氏の入部と治世
初代長次は城下町の整備や「御水道」の敷設など、治水・利水に力を入れた。
3代目長胤ながたねは荒瀬井路を整備したが、取水堰により川べりの道が水没し、後の青の洞門の掘削へと繋がった。
初代藩主は善政により慕われたが、2代目以降、藩主の浪費など失政が続き、領民の心は離れていった。

小笠原氏の入部と治世
 

 440奥平氏の時代
小笠原氏の後、享保2年(1717)より中津を治めることになった奥平氏は、前藩主の失政を立て直すべく治安や秩序を維持するため
藩士の身分の制定や掟の発布を行った。

城下では計画的な町づくりが行われ、交通網も発達する。
伝統的な漢学を学ぶ藩校が設立されるとともに、藩主により蘭学が奨励されるなど学問が発展し、後に近代化を支える人材を生み出した。

※奥平氏は、前藩主小笠原氏の失政で道を水没させ江戸末期に旅の僧が30年もかけて洞門を開いた「青の洞門」だが、この対策は江戸初期から末期まで遂に一切行わず、放置していた。藩士の身分を制定したが、自分の家来の間でいわれのない差別的な身分制度を作った。蘭学を推奨したが、蘭学が実ったのは奥平一族であり、江戸幕府瓦解後、自ら一族は医師として全国に散らばり、現在も医者など華々しい一線で活動している。
 441奥平氏の時代
奥平氏の時代
奥平家歴代肖像 奥平家歴代肖像
 442解説パネル
 譜代の名門・奥平氏
奥平氏は長篠の戦における功績により譜代大名となった。
宇都宮9万石を有していた奥平昌成は、父祖の功により中津藩10万石に加増転封となる。
旧小笠原領を拝領したが、奥平の10万石格に対して不足する分について、中津に加え筑前備後に飛び地が与えられた。

 奥平氏の入府と治世
享保2年(1717)に中津に入った奥平氏は藩政改革に乗り出す。
藩士を上士・下士に分け、両者の格を厳格に定め、町方・村方には治安維持、質素倹約を基本とした方針を打ち出した。
奥平氏はその後幕末までの150年間、中津を治めた。
 
※考察 奥平氏の身分制度
 奥平氏は丹後宮津藩より加増転封となり、中津藩に入部した。入部以前の中津藩は、政治経済治安においてかなりな人心の荒廃があったようです。
そこで藩政改革を行うために、家臣の武士団の身分を上士を1/3、下士2/3に分け、身分制度を厳格にしたという。この意味がわからない。

 高知土佐藩では、山之内家の家臣とそれ以前の長曾我部の家臣がいて、二つの厳格な武士の身分差別があったと聞いている。
しかし、奥平氏は宮津藩から家臣団を引き連れてやってきたはずで、新天地では最も信頼できる家来だったはずである。
転封された領内が荒廃していれば、いるほどそれらの家臣を大切にし、団結して新規まき直しにあたるものだと思うが、ではなく、その家臣団にそれまでになかった差別的な身分制度を押し付けるという、どう理解したらいいものやらわからない政策で藩を立て直したという。これって何?

 中津奥平藩が前藩主宇都宮氏の家臣を抱えることになったのなら、その様な制度を設けるのも当時の風潮かと思えるが、そのような求人をしたという記述は探しても見つからない。子飼いの部下たちに対する不可解な締め付け差別行為である。しかも永遠の。何考えてるんだこの藩主。

 福沢諭吉 は明治の著名人である。何をしたのか知らないが、中津藩の下級武士=下士の出自で、150年間学問奨励をしていた奥平治世下の伝統を身にまとって「学問ノススメ」を書いたという。それと、某市立大学を造って名を残した。きっと福沢を持ち上げるのは、その大学出身者であろう。

譜代の名門・奥平氏 長篠合戦図屏風に描かれた長篠城
奥平氏の入府と治世
 443中津の学問
蘭学事始め 解体新書 記註撮要 奥平昌鹿の時代
 445陶磁器
陶磁器
京焼・肥前・唐津が多い
紅皿 紅皿
紅は小ぶりの磁器碗や杯の内面に刷毛で塗りました。器の外側には「小町紅」などの当時流行のブランド名を書いて販売しているものもありました。
展示している紅皿は、お椀に後から赤く「大坂しんさいはし 南清 ときハ紅」と書いて販売されたものです。

山形産の紅餅を発行させてつくった口紅は高価で、杯や小さな専用容器の内側に刷毛でツルッと塗ったものを乾かして売っていた。かなりの希少価値、高価なものでした。(紅花の紅は現在でも高価です)

 446中津城下町
 惣町の発展と町人の生活
発展した城下町は惣町(自治権のある町人町)と称され、独立性の強い自治組織があり、警察権も持っていた。
城下町には多くの職人がおり、彼らは藩によって勤務時間や賃金が定められていた。(職人の所得制限を設けた)
中津城下では祇園祭(※原文:町=誤、祭=正)が庶民に親しまれ、質素倹約を基本としていた奥平氏の治世でも盛大に行われた。

中津城下絵図 中津城下絵図 惣町の発展と
町人の生活
惣都は中心の意味
城下の街並み
 447萌黄縅(もえぎおどし)桶側(おけがわ)二枚(にまい)胴具足(どうぐそく)もえぎおどしおけがわにまいどうぐそく)17世紀
中津藩士黒瀬家に伝わる甲冑。板札細長い鉄板を横方向に繋ぎ合わせて作られている。
戦国期に流行した当世具足の代表的な形式。
落ち着いた感覚を醸し出す。
 


 5005幕末・近代の中津

 501奥平氏と学問
3代目昌鹿は母の骨折が蘭方医学により完治したことで蘭学に関心を持つ。
藩医の前野良沢に蘭学を学ばせ、良沢(ら)は解剖書『解体新書』の翻訳を完成させる。
5代目昌高も蘭学に傾倒し、彼の主導で編纂されたオランダ語辞書はその後の西洋文化・科学の導入に貢献した。
漢学を学ぶ藩校「進脩館」も創設され、学問の基礎も整っていった。

5幕末・近代の中津
奥平氏と学問
奥平氏と学問

 漢学・蘭学・医学
藩主により蘭学が奨励され、『解体新書』の翻訳やオランダ語辞書の編纂などの成果がもたらされたが、
当時の学術書は漢文で書かれていたため、基礎として漢学の教養が必要であった。漢学を学ぶ場として藩校「進脩館」が創設され、
藩医として人体解剖を行った村上玄水や、福沢諭吉の師となる白石照山ら、近代化にかかわる人材を輩出した。

バスタールド辞書
和本に編集
欄語和撰

初の日本語―オランダ語辞書木版活字刷り、7000語収録

バスタドール辞書
漢学・蘭学・医学
 
 510

 511中津の文明開化
幕末・維新の変革期、中津でも尊王攘夷を掲げた挙兵などがあった一方、福沢諭吉らの文明開化の思想を受けて、急速に近代化が進んだ。
西南戦争に中津隊を率いて参戦した増田宗太郎は、県下初の新聞である『田舎新聞』の発行を主導した人物の一人で、
その根底には自由民権思想に基づく新政府批判があった。慶應義塾の姉妹校に当たる中津市学校も設立された。

中津の文明開化
 512福沢諭吉
福沢諭吉の書 序章
福沢諭吉のルーツ
特別展示
「福沢家旧蔵書」
「新発見私領」
 514
福沢百助(諭吉の父) 中村栗園と福沢家
 515福沢諭吉と中津市学校
福沢諭吉と中津市学校 明治の先駆者たち
 520
 521近代の中津
 523近代年表

 525御水道の仕組み 江戸時代の給水施設
 
 530
福沢諭吉の書展 双葉山