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01外観・入口展示 |
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10旧石器時代 |
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11日向林B遺跡と竹佐中原遺跡
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資料 日向林B遺跡 野尻湖湖岸から約1km徒歩15分の位置にある遺跡。 3万数千年前 直径25m~30mの範囲に住居 (環状ブロック)群があり、接合関係のある9001点の石器が出土した。 当時の人々が環状のムラを構えていたことがうかがえる。 特筆すべきは蛇紋岩類製などの磨製石斧36点、打製斧形24点である。日本最多で大小様々なバリエーションがある。 黒曜石を主体とする台形石器も同じ形をしており、国内随一の完成度を持っている。 一方、貝殻状刃器という、剥片をそのままを利用した簡単な石器は1000点を超え、遺跡内で重宝されたようです。
考察 旧石器人とガラス質石材 ・野尻湖の旧人の旧石器文化は、骨角器や礫石器が主体でした。 その後、新人型旧石器人が多様な石器を持ちこみ、野尻湖の旧人は絶滅した。 ・野尻湖日向林B遺跡では、石器がかなり分化・進化していること。原初的な黒曜石製石器が使われていることが、年代を決める手掛かりです。 ・佐久市高尾A遺跡は、黒曜石製の貝殻状刃器が主体であり (100個出土) 、3万年前頃の遺跡とされている。 出土した黒曜石は球顆の多い長野県麦草峠(佐久穂町)や冷山(茅野市)の八ヶ岳周辺でとれる黒曜石でした。 ※球顆の多い黒曜石は、壊れやすく上質のものではありません。 ・佐久市 香坂山遺跡群 (八風山遺跡群) は、信州産黒曜石発見のパイオニア期の遺跡で、ガラス質安山岩の原産地である。 ・佐久市 立科F遺跡は、 ナイフ形石器文化成立期の集落遺跡となっており、使用黒曜石も、和田峠・星ヶ塔・星糞峠産で、新しい文化である。 引用黒耀石利用のパイオニア期と - 明治大学 八風山遺跡群: ガラス質黒色安山岩原産地遺跡 黒曜石と旧石器人 ※上記から、野尻湖に足跡を残した骨角器を使用する旧人型旧石器人の、後にやって来た新人型旧石器人は、石器文化人であったといえる。 彼等は、猛烈な勢いで石器石材を探し、偶然行き当たった石器を使用しながら、麦草峠や冷山などの産地が他の部族に支配されていると、 近辺をくまなく踏破して、新たに和田峠や星ヶ塔、星糞峠などを見つけ、自分たちで石材を確保し、その産地を有効に利用したのだろう。 彼ら新人型旧石器人の頭脳は現代人と同じである。独占したり、支配したり、物々交換材したり、、、。 単にみんなで共同利用したりはしなかったでしょう。 それにしても、私の初期の「野尻湖ナウマンゾウ博物館」はひどいもので、大切な物が何かを分かっていない写真撮影でした。 もう一度行って撮影しなければなりません。 |
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12竹佐中原遺跡の旧石器 飯田市山本 竹佐中原遺跡 3~5万年前 二か所の石器集中区と礫群 ・遺跡は飯田市山本の三遠南信自動車道飯田山本ICにある。 2000年11月、前・中期旧石器ねつ造事件が発覚し、考古学会は未曽有の混乱期となった。そのさなか、2001年6月に石器群は発見され、 ねつ造石器でない「前・中期旧石器か」と全国版で報道された。 出土した石器群は、先行する竹佐中原Ⅰ石器文化と、竹佐中原Ⅱ石器文化に二分され、 Ⅱ文化は後期旧石器時代初頭とされた。では、先行するⅠ石器文化は後期旧石器時代のものか、それ以前のものか、今も課題となっている。 竹佐中原Ⅰ・Ⅱ石器文化の石器 ・竹佐中原Ⅰ石器文化の石器 阿智川採集とされるホルンフェルスを主に使い、黒曜石製石器がない、定型的な石器が見られないこと等が特徴。 ・竹佐中原Ⅱ石器文化の石器 点数が少ないが、局部磨製石斧と石斧を研いだ砥石。黒曜石を使っている石器文化で、Ⅰ石器文化とは異なる。 ※博物館の脚注では、Ⅰ、Ⅱ、となっているが、平成12~18年の調査でA~Dが発見されており、A・C・Dはよく似た遺跡ということなので、 下のⅠ→A、Ⅱ→Bと解釈してよいようです。 竹佐中原A・C・D遺跡は、3~5万年前の可能性があるとされている。 ※旧石器ねつ造事件のあおりを受けて、いまだ宙ブラリンになっている重要な遺跡はたくさんあると聞きます。不運です。 |
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13石器 ※刃器1類、2類って、なんのことだか、分かりませんでした。 |
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18石子原遺跡の旧石器 (いしこばら) (旧石器~縄文草創期) 飯田市山本 これも、竹佐中原遺跡の近辺にある。 ※飯田市山本には沢山の遺跡が集中しており、石子原遺跡も、旧石器~古墳までの複合遺跡である。参照石子原遺跡 ・3ヶ所の石器集中区 (住居跡) から、チョッパー、チョッピング・トゥール、スクレイパー、尖頭器、使用痕のある剥片等が出土した。 前期旧石器の存在の可否を含めて注目される。 ・石子原遺跡石器文化の石器の特徴 赤石山脈の石を使っている。遺跡付近にはなく、天竜川から持ってきたと考えられる。 ※竹佐中原遺跡では、阿智川採集とされるホルンフェルスを使っていた。 |
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19石細工の達人 日本列島に人が住み始めたのは10万年以上前と言われています。 下伊那では、山本石子原遺跡から、2万2,000年以上前の石器が見つかっています。 旧石器時代の下伊那は、調査された遺跡が少なく、よくわかっていませんが、大陸から渡ってきた大型の動物を追って生活していたようです。 旧石器人の石器製作技術は高度なものでした。 以下は、黒曜石産地、長和町の男女倉遺跡の黒曜石製石器です。 サンプルとして展示していますが、ここ、伊那谷からは離れています。
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20縄文時代 |
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21縄文時代の石器 縄文時代には数多くの道具が使われていたと思われますが、木や骨で作られた道具は長い間に土の中で腐ってしまい、 現在まで残っているものは、石で作られた道具の一部のみです。 石器は柄や紐を着けて使われました。 1万年以上続いた縄文時代は、時期によって使われる石器が少しずつ違っていました。 これは、食べ物や生活の様式が変化していたことを示します。 以下の石器は、多くが5,000~4,500年前の縄文時代中期後葉のものです。この時代は打製石斧が多く、石族が少ないのが特徴です。 ※石鏃が減少は、狩猟が衰退し、植物採集が生業になったということか。寒冷化によるものか。私は初耳です。
※定格式磨製石斧 定格式磨製石斧とは、大変形が美しく、宝物としての用途ではないかと考えられている。 参考資料増田遺跡 |
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石器の種類・使い方・名前 一覧表
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30縄文人の暮らし |
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32縄文カレンダー
縄文人の調理法と縄文パン 縄文人の主食は、ドングリやヤマイモなどの植物食だったようです。豊丘村伴野原遺跡からは縄文人が食べていたパンが見つかりました。 分析の結果、栽培植物のエゴマではないかとされました。 これは、縄文時代に植物栽培をしていたことになります。 |
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34春 |
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35夏 |
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36秋
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37冬 |
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50館内全景 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
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資料 56曽利式土器 中期後葉~中期末葉 引用曽利式土器 井戸尻式土器を母体として発生し、加曽利E式土器の影響を強く受けた曽利式土器は、Ⅰ式~Ⅴ式までの5段階に分類されている。 曽利Ⅰ式 中期中葉の井戸尻式土器から発生した型式である。 曽利Ⅱ式 加曽利E式土器の影響を強く受けた土器群が発生する。 曽利Ⅲ式 曽利Ⅳ式 曽利Ⅴ式 この時期には加曽利E式土器の流入が激しく、終末期には曽利式土器が減少する。 あたかも曽利式文化が完全に加曽利E式文化に吸収されてしまったかのように見える。(「縄文土器の研究」小林達雄著・土器の変遷より) |
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60祭祀具・埋甕 |
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62埋甕 平畑遺跡 |
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64有脚尻張り立像土偶 (ゆうきゃく しりはりどぐう) 縄文中期後半 生活の全てを自然に頼っていた縄文人は、あらゆるものに怖れと祈りの気持ちを持っていました。 万物を生み出す源としての土偶や石棒を作り祈りました。 縄文時代の家の入口に土器が埋まっている場合がありますが、 埋甕と呼ばれ、早死にをした子どもを埋葬したとか、胎盤を入れたのではと言われています。 縄文人もおしゃれをしていました。 顔には入れ墨をして、髪飾りやイヤリングもしていました。私たちが思っている以上に縄文人は豊かだったかも知れません。
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66土偶破片 |
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70縄文土器 前・中・後期 |
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71粘土から器へ 土器は1万2000年前から作られるようになり、現在のところ縄文土器が世界最古と言われています。(※現在、世界最古は中国2万年前) 土器は粘土を焼いて作りますが、「焼く」とは、粘土を熱で化学変化させることで、この変化を最初に活用したのは縄文人だったのです。(※誤謬) 旧石器人は「生」・「焼く」・「蒸し焼き」で物を食べていましたが、土器で「煮る」ようになると可食食物が増え、 縄文人は、栄養面や衛生面でも向上することを知りました。 土器を作り始めた頃は、煮たり、入れ物として使う「深鉢」がほとんどでしたが、時がたつに従い、色々な形の土器が作られるようになりました。
資料 ・曽利式土器 曽利式土器 曽利式土器の研究(上) 曽利式土器の研究(下) 曽利式土器 ・下伊那の土器 抜粋飯田市栗谷元遺跡 - 全国遺跡報告総覧 飯田・下伊那地域における縄文時代中期後葉の土器編年については、周辺地域の土器文化を積極的に 取り入れ、その影響をう けた 独自の型式を多く 作り 出した。前段階に続く「細隆線文土器」の他、「中富式系土器」「加曽利E式系土器」「下伊那タイプ土器」が出現する。 中富式系土器は、東海地方の編年による中富Ⅱ式に比定され、本来は地文に撚糸文が施文されるところを条線文で施文されている点が 在地化された様相を示し ている、東海系土器である。。 下伊那タイプ土器は、把手のあるもの、ないもの、胴部地文に縄文が施文されるものと条線が施文されるものが見られ、形式的に細分される 。 また、口縁部の渦巻文隆帯が沈線化されているものも見られ、型式の中で若干の時期差が存在する ・下伊那Aタイプ土器は、松本平の唐草文土器に、関東平野東部の加曾利E式土器の文様構成が加わって成立した土器です。 |
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72前期・中期の土器 |
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73 |
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85施文 |
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86最古の芸術家 縄文土器 最初に作られた土器は、文様・形とも籠などに似せて作られました。 次第に色々な道具を使って美しく飾られるようになり、中期には、立体的で芸術品と呼ばれるような土器が作られました。 縄文後期・晩期になると、洗練された文様が付けられ、弥生土器に変化していくのです。 このように縄文土器は時期によって変化しますが、場所によっても違いがありました。 これは作者が自分の思った通りに作るのではなく、決まりがあったからです。 ですから、土器を調べることによって作られた場所や時期がわかります。 |
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87下伊那の土器 |
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87下伊那唐草文土器
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88下伊那唐草文土器❶ 約4300年前 縄文中期後葉 唐草文土器は、松本平の土器文化圏ですが、下伊那地方にも独自な唐草文が存在し、当初、曽利式とされていたが型式認定されました。 下伊那唐草文土器は、松本平の唐草文土器や、甲府盆地の曽利式土器と似ているため、区別して、この名があります。 引用転載下伊那唐草文土器 ~縄文中期後葉伊那谷南部の地域性~ 飯田市上郷考古博物館 2010年10月 |
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①長野県の土器形式 ❷❸
②下伊那唐草文土器の土器形式 土器形式器は4期に区分され、さらに、3期、4期を3つに細分している。❹❺ Ⅰ期 (大門原式) 中期中葉の特徴を残す。多くが細隆線文タイプ Ⅱ期 (新切式) ここから後葉の形式が始まる。各地の影響で多様な形式が生まれる。 ・細隆線文タイプ、 ・下伊那Aタイプは各地の形式を組み合わせた、・東海中富式系タイプは東海土器文化を踏襲、 ・関東加曾利E式タイプ ・下伊那北部A B C タイプ、 Ⅲ期 (前の原式) 唐草文の変遷と、ニュータイプの出現により3時期に分かれる。 Ⅲ期古 下伊那Aタイプ・東海中富式系タイプに加え、唐草文タイプが出現する。 Ⅲ期中 典型的な唐草文タイプが成立。下伊那Bタイプが完成する。東海系中富式は次の段階の神明式系タイプが流入。 関東加曾利E式タイプも存在する。 Ⅲ期新 前タイプに加え、下伊那Cタイプが成立し、下伊那B式に唐草文を施文するようになった。 Ⅳ期 (親田式) Ⅳ期古 唐草文・関東加曾利E式系・下伊那B・下伊那Cタイプ。東海系は消滅。 Ⅳ期中 Ⅳ期古とほぼ同じ Ⅳ期新 他形式は全て、唐草文・関東加曾利E式系に収斂されつつある。 |
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まとめ 信州やその近辺では見慣れた唐草文土器です。しかし、それが、他の形式とどのように関わっているのかがわかりませんでした。 ここでは、下伊那唐草文土器を通して、当時の土器文化圏や、土器文化の融合・消長がすこしわかりました。 |
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90物の移り変わり |
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91 |
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92住居の変遷 |
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93保存容器 |
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94鍬・鎌・斧 |
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95斧・鎌 |
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96狩猟具 |
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まとめ 科学技術の発達を感じます。金属加工技術。新エネルギーや新材料の獲得。などによって豊かで便利になりました。 そして、医療の発達によって寿命が延びました。 しかし、それは知識や科学や技術が蓄積された結果にすぎない。 我々が縄文人よりも賢くなったわけではない。 例えば、我々は2500年から2000年も前の人々の観念に支配されて、それを超えることができない。宗教や思想である。 そんな大昔の人々の観念によって、今もなお戦争をし、殺戮を繰り返している。 人類は少しも進歩していないと感じる。 って、最後に銃が出てきたので、つい愚痴ってしまいました。 |
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100弥生時代 |
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101早期 信濃にイネが来た頃の遺跡分布 縄文時代終末期の籾圧痕土器 縄文時代最終末の遺跡は、北信・中信に多く分布しています。 座光寺石行遺跡・大町市一津遺跡からモミ跡のある土器が出土しており、イネは作れませんでしたが、コメの存在は知っていました。 しかし、稲作りが伝わった弥生文化の波及期の遺跡は比較的南信に多く、河川に沿って北に広がっていったのでしょう。 弥生文化定着期の遺跡は、主に平たん部にあり、稲を作りやすい場所が選ばれています。 |
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考察 条痕文土器と突帯文土器 籾殻圧痕土器 水田稲作が始まる以前。 列島を西から東に駆け抜けていった、いわば、露払いのような文化がありました。 西日本では突帯文土器です。 籾殻の圧痕を、胴部や底部に残しながら、九州北部から関西まで、海岸部から山間僻地まで、あらゆるところにその痕跡を残しました。 しかし、怒涛の彼らも鈴鹿山脈は、なかなか越せませんでした。そこから先は、広大な縄文の森が広がり、縄文文化が息づいていたからです。 東海地方では条痕文土器が、100年も遅れて登場します。籾殻圧痕土器の登場です。 突帯文土器 と 条痕文土器、特に櫛描条痕文土器は、シベリアに出自を持ち、突帯文とは別文化が突如東海に出現したと思えました。 突帯文土器の変容 しかし、条痕文系土器様式の研究 永井宏幸では、「条痕紋系土器は突帯紋系土器に系譜をもち、型式変化も漸進的である」。 また、「突帯文土器から条痕文土器へ伊勢湾周辺地域で突帯文土器が条痕文土器に変容したとする論文を見つけた。 永井宏之幸によると、一宮市馬見塚遺跡が突帯文土器の東端で、 豊川市水神平遺跡からは突帯と条痕文の両方がついた土器が出土し、変容過程が明確になった。 雑談 貝殻条痕文への妄想 縄文時代以降の伊那谷の土器に影響を与える東海系土器の、土器文化の発信地を追うと東海地方海岸部に行き当たる。 海からやってくる人々のもたらす文化的影響がとても強かったといえる。 新幹線で名古屋に向かい、濃尾平野に入って振り返ると、切り立った養老山地の岸壁が延々と南に続く美しい逆断層地形が見える。 あそこから飛び出してきた、プレ弥生人は、簡単に狙い撃ちされるなと思った。(笑) しかし、海から流れ着いたプレ弥生人は受け入れられたのかもしれない。 百年かかって紀伊半島を陸伝い航法で回り、伊勢湾を北上し、途中で見つけた大きな貝殻を、器面調整に土器表面に擦り付けて、 そこから貝殻条痕文が始まったとしても、想像する段には楽しいではないか。(笑) 私は、粘土の表面を椿の葉でこすったりしていました。 |
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102野底山のヒノキ ヒノキの年代と弥生時代の到来 今から2400年前に大陸から伝わった稲作りは、またたく間に西日本に広がりました。 信濃へは2300年前頃に、表面に貝殻で付けた凹凸が特徴の条痕文土器を伴った濃尾平野の人々がもたらしました。 その頃、展示した野底山のヒノキが発芽したことがわかりました。この木は下伊那の弥生時代の到来を見て来たのかもしれません。 |
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103弥生時代 前期 矢崎遺跡の遺物 縄文的な浅鉢、土を掘る小さい打製石斧、打製石鏃の中に、 弥生の到来を告げる条痕文土器の壺、石の鍬ともいえる大きな打製石斧が混じっており、 イネが来た頃には、縄文文化が次第に弥生化して行ったことが、うかがえます。 |
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104弥生時代 中期 広がるムラ 稲作開始まもない弥生中期には、天竜川に近い段丘上にムラがありました。 後期になると山に近い段丘上・扇状地・丘陵地を開拓し、次々とムラができます。 下伊那の地形や気候に適した農業技術が発達したことを物語っています。 中期の遺物 土器は、物を蓄える為の壺。煮炊き用の甕。用途によって形が異なります。 石器は、農具である、打製石斧・横刃型石包丁・有肩扇状形石器・横刃型石器、木工用の扁平片刃石斧、磨製石鏃などがあります。
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105弥生時代後期の遺物 土器は壺・甕の他お供え用の高坏があり、中期と比べて文様が少なくなってきます。 石器は打製石斧・有肩磨製石包丁・抉入打製石包丁・有肩扇状形石器などの石の道具が多くつかわれます。 木を加工する石器はなくなり、鉄器を使うようになり、それを研ぐ砥石もあります。紡錘車もあります。 |
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110段丘を耕す 段丘は水田に適した土地ばかりではありません。下伊那の弥生人は工夫して畑を作りました。その証拠遺物が石器です。 石器は、全国的には中期まででほぼ姿を消しますが、固い畑を耕す打製石斧・作物を収穫する石包丁や有肩扇状形石器は、 下伊那では後期になっても盛んにつかわれていました。 生活を支える畑作農業には、豊富な天竜川の石を使って、安価で簡単に作れる打製石器が欠かせなかったのです。 |
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111道具 |
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120葬送儀礼 |
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121段丘のムラ 段丘上のあちこちにムラが誕生すると、立地条件によってムラに格差が生まれます。 水田を作るのに適した湿地帯の広がる飯沼丹保遺跡は竪穴住居址が重なり合い、弥生人が長く暮した大きな集落です。 湿地の少ない、黒田垣外遺跡では、畑作が中心で、竪穴住居はまばらで、弥生人が短期間住んでいた集落です。 集落が移動すると、その跡を墓地として利用しています。 |
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122 円窓付土器・壺棺 円窓付土器 石川県羽咋市歴史民俗資料館にありました。北陸系土器と思っていましたが、東海系でした。 引用民俗学ひろい上げ伝承辞典には、 弥生中期後葉における朝日遺跡とその周辺特産の土器。ここ(尾張地域)でしか出ないと言っても今のところはいいだろう。と言っている。 円窓の目的は不明だが、①焼成後にあけられた。②墓に長く放置された痕跡がある。 どんな墓前の道具だったのでしょうか。 資料 円窓付土器 近畿出土の円窓付土器を考える 守山市服部部遺跡出土の円窓付土器について 近畿の二件は少し文化が違うようです。 壺棺 引用コトバンク 弥生時代中~後期に使用された壺を棺に転用したもの。 近畿地方以東でこの風習がみられる。特に関東北部から東北南部では中期初頭に広く行われ,人骨を洗骨したあとの再埋葬に用いられた。 壺棺には日常使用していた容器かあるいは人面を付した特殊な器形の土器が使われた。 一般には単棺であるが,なかにはふたとして鉢形や甕形土器を組合せた例もある。 これらは共同墓地に掘った長楕円形,円形の小ピットの中に埋められ,たまに玉類が副葬されることもあった 122壺館 垣外遺跡、方形周溝墓8の壺棺の出土状況を同じ大きさで再現しました。 壺棺とは、土器の壺を使った棺桶です。上の穴が開いた部分から遺体 (遺骨) が埋葬されたと考えられます。
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130ムラからクニへ (弥生時代) ・各地にムラが誕生すると、次第にムラ同士がまとまりを持つようになります。 同じ様な文様や形をした土器で地域を分ける「文化圏」は、それを具体的に表したものです。 ・信濃には、 伊那市より南の伊那谷に座光寺原・中島式土器が、 (座光寺中島遺跡) 千曲川・犀川流域には箱清水式土器が分布し、 (箱清水①、②) それぞれ座光寺原・中島式土器文化圏、と、箱清水式文土器化圏と呼び、 その中間の諏訪湖周辺では、橋原式土器が使われ、橋原式土器文化圏と言います。(橋原遺跡-中部山岳地の集落址) ・これらの文化圏は「小さなクニ」と考えられます。 北部の、生産力の高い地域が多い箱清水のクニには、弥生の祭に使われた貴重な青銅器が多くあります。 ※北部の、箱清水文化圏は北陸に勢力を広げた出雲、後に吉備の文化圏でした。 商品作物の水田稲作中心。青銅器・鉄器が豊富。 南部の、座光寺・中島式文化圏は、東海系文化圏でした。 雑穀生産の畑作が中心。 打製石斧が農耕の中心でした。 |
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131信濃の三つの文化圏
下伊那、垣外遺跡
※1垣外遺跡方形周溝墓1 資料飯田盆地における周溝墓再論 山下誠一 黒田垣外遺跡で調査された弥生時代後期(約1800年前)の方形周溝墓の埋葬施設。調査後、上郷考古博物館に移設された。 方形周溝墓は14.8m×12.8mの規模で、埋葬施設は周溝内中央やや北西寄りに位置し、2.6m×2.2mの長方形の土壙内部で確認された。 この埋葬施設は、板状の炭化材が長方形に残存し、内部には副葬品は無く、骨片が10点程度出土している。 ※2木炭棺 上郷 黒田垣外遺跡出土 弥生時代後期、約1800年前に亡くなった人の棺。方形周溝墓に葬られました。 板状の炭化材・枝状の炭(正面中央)・焼けた骨から、棺に葬られて焼かれたと考えられます。 山本石子原遺跡・龍江田中下遺跡に類似例があります。 引用 飯田市上郷考古博物館 棺に葬った後、火葬にし、そのまま盛土をしたと思われます。 |
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140古墳時代 |
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140段丘の秋 村に一年で最も忙しい秋が訪れた この時代の稲は均一質でなく、収穫時期に差があり、熟れた稲穂から摘み取る必要があり、農民は常に田んぼの中を収穫してまわっていた。 このような品種では、管理できる田んぼの広さに限界があり、作業効率は低く、忙しかったことでしょう。 |
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141秋
※信濃の古墳 ・4~5世紀に造られた前期古墳は北信に多く、6世紀以降の後期古墳は下伊那に集中する。 北信では豊かな生産力で富が蓄えられ、いち早く古墳を作ることができたようです。 ・6世紀以降の下伊那の古墳からは馬具が多く出土しています。東山道沿いの交通の要衝で、しかも馬との関わりで、 畿内の大和政権との繋がりが深まり、多くの古墳が造られたようです。 ※北信では米交易で富を得た支配者の古墳が作られたが、 南信では、交通・物流・馬の肥育生産などで、富だけでなくヤマト政権と結びつき権力を得、また、大和から政権近親者が下ってきた。 ために、官許の必要な前方後円墳が沢山作られたようです。 特に東北経営に重要だったため、旧東山道は、軍隊の大量派遣など、人・物の動きが盛んであったと考えられます。 |
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142外来系土器 よその地域から持ち込まれたり、それを真似て作られた土器を言います。 ①縁の形が5に似る北陸の5の字甕、 ②縁がS字状に曲がる尾張のS字甕、 ③側面を羽子板のようなもので叩く、畿内のタタキ甕や布留甕があります。 ※布留式は物部氏の拠点遺跡で、この辺りに関わる土器形式のようです。 奈良県 この時代の土器形式は、他に庄内式もありました。(古墳時代初頭の土器群) 大阪府豊中市 |
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143古墳前期 |
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144土の中からのメッセージ 一丈藪3号墳出土・畦地1号墳出土 飯沼藪上遺跡では、古墳時代前期 (約1500年前) の火災に遭った家が発見されました。 建築材が炭になり、生活用品が当時の位置に残り、生活の様子をそのまま伝えています。 柱・梁・垂木などの炭や、高坏・甕などと共にムシロ編みに使う石の錘 (とびだま) があります。これをもとに家の中を想像してみました。 |
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145土器 藪上遺跡2号住居出土
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147馬具 座光寺 壱丈藪3号墳出土 |
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149古墳時代の焼き物 土師器・須恵器があります。土師器は野焼きで、縄文・弥生と同じですが、文様はほとんどなく、形も単純です。 須恵器は五世紀に朝鮮から伝わった窯で焼く技術です。ほとんどがロクロ成形です。日常は土師器を使い、須恵器は祭祀や副葬品などに使いました。
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150古代 |
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151律令社会と伊那郡 八世紀になると中国の唐から学んだ法律による国を収める社会(律令社会)が完成します。 全国は天皇を中心とする制度によって統一され、道・国・郡・里(のちに郷) に分けられました。 奈良に都(平城京)が置かれた時代を奈良時代。京都に置かれた時代を平安時代と言います。平安時代になると律令社会は崩れ始めました。 信濃国は、10郡に別れ、今の上田市に国府がおかれ、下伊那と上伊那の伊那市より南が伊那郡の範囲でした。 役所跡の遺跡 |
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152奈良・平安の暮らし 多くの人達は、カマドの付いた竪穴住居に住み、稲作をはじめとする農業を営んでいました。 中央政府からの支配を直接受け、コメ(租)を地方政府に、 いろいろな加工品や特産物・布(庸・調)を中央政府に 税として収めました。 また、都の造営や土木・建設などの仕事(雑猺)に駆り出される事もあり、貧富の差が大きくなります。 |
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156奈良・平安時代の遺物 |
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160野底山のヒノキ 昭和63年に野底山で発見されたヒノキは、紀元前317年から西暦93年まで成長した (樹齢410年)、弥生時代の物であることがわかりました。 今でもヒノキの香りを放っています。 |
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