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01外観
滝沢遺跡の敷石住居跡 場所 御代田町塩野滝沢遺跡 (本館に移転) 時代 縄文時代中期後半 4000年前(加曾利EⅢ式期) 規模 東西3.9m南北3.8m面積13㎡ 型式 柄鏡形敷石住居 説明 鉄平石を敷き、安山岩と軽石で四角く囲んだ石囲炉を持つ。また、柄鏡の柄に相当する張出し部がこれにつく。 住居の埋甕には、縄文時代中期後半 加曾利EⅢ式 の 両耳壺 が利用されていた。 埋甕のほかは土器片のみで点数も少ない。 敷石住居は、中期後半から後期の中部地方・関東地方西部に流行するもので、祭祀遺構とする説もあるが、今日では住居とされている。 |
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02入口展示 |
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03入口展示
宮平遺跡 - 全国遺跡報告総覧 - 奈良文化財研究所 みやだいらいせき 宮平遺跡 - 全国遺跡報告総覧 - 奈良文化財研究所 宮平遺跡-歴史の里石岡ロマン紀行 滝沢遺跡 - 全国遺跡報告総覧 東荒神遺跡・西荒神遺跡・下大宮遺跡・関屋遺跡・中屋際遺跡 |
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04展示室入り口
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10入口展示 |
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11縄文リビング |
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12縄文中期遺跡地図 縄文中期 (4500年前) の日本列島にあって、中部・関東地方には最も人口が集中し、多くの集落がつくられた。 |
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13浅間川原田遺跡 時として浅間は過酷な火山災害をもたらしたが、人々は豊かな自然の恵みをも享受できた。山麓には清冽な湧水がほとばしり、落葉広葉樹林には 木の実が実り、沢山の動物たちが生息した。 その森にあって1万年間、人々は次々にムラをかまえ、縄文の生を謳歌した。 4500年前の川原田ムラ 標高870m浅間山麓の南向きの舌状台地に川原田遺跡の中期縄文集落がかまえられたのは、今から4500年前のことである。 川原田のムラは周囲の衛星的集落の核となる拠点集落で、中期の間に50軒に及ぶ竪穴住居が作られては消えた。
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15縄文の姿 縄文遺跡からは、編衣(アンギン)と呼ばれる織物が発見されており、衣服などとみられる。 モデルの編衣の模様は、土器の模様をもとに復元した。大きなピアス式の耳飾りや、骨製かんざしもあった。 土偶などから推定すると、顔に入れ墨をした人もいたらしい。 男性 平均身長 158cm 女性 平均身長 147cm 平均寿命 約30歳 (15歳まで生きてきた人の寿命) 目鼻立ちがはっきりとした彫りの深い顔 |
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16縄文住居 縄文時代の家は、地面を掘り窪めた竪穴住居であった。 住居内には、石囲炉があり、柱穴が残り、数本の柱を立てて伏せた屋根を支えたものと考えられる。 4500年前の縄文中期は、円形が基本であった。半地下式住居は夏涼しく、冬暖かく、機能性に優れていた |
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17創造性の爆発 縄文人とは毛皮一枚で野山を駆け巡るようなのイメージがあったが、最近ではそのファッションが考古学的に復元され、「おしゃれな」縄文人」と 形容されるようになった。 5000年前の縄文人の能力は、脳容積が同じであるため、現代人と同じ能力を持っていた。 彼らは、有孔鍔付土器で音楽を奏で、ヨーロッパでは笛も出土している。また、土器への複雑な施文は芸術的能力も高かったことを意味する。 |
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18縄文の原風景 |
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30縄文土器 1万数千年前、人々は初めて焼き物の器を作った。 縄文の1万年に土器の形を見る。 |
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31尖底土器群 早期~前期初頭 7000~6000年前 縄文時代の前半、平底の土器が普及する以前の、草創期から前期初頭にかけては、三角錘状の尖り底の土器=尖底土器が用いられた。 尖り底のためそのまま置くことができず、土器の半分は地面にさして使用した。 表面には転がした羽状縄文などがつけられる。 御代田町塚田遺跡 下弥堂遺跡出土。 塚田式土器など。 塚田遺跡 - 全国遺跡報告 |
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32浅間山麓の縄文土器の変化 縄文土器は13000年前に誕生し、1万年の間に様々な形と文様の変化をみせ、機能的改良も加えられた。 形は尖底から平底へ。 文様は簡素から華美、そして再び簡素へ。 草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に区分される縄文時代に、器の変化をみる。 |
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33草創期~晩期土器 |
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34草創期~晩期土器
実際、二つの時代区分が使われているので、大変混乱しています。この博物館の場合は、慣用化した時代区分のようです。 しかし、その年代を補正年代に直すことはできません。っていうことは、何が何だかわからないってことですね。 |
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35焼町式土器 約4500年前、中期中葉の土器 参照千曲川流域の縄文時代中期中葉の土器- 国立歴史民俗博物館学術情 第 120集 - 国立歴史民俗博物館学術情報リポジトリ - 国立情報学研究所 焼町土器を作る 今日、世界の多くの民族においては、土器づくりは女性の仕事である。 その例にならって4500年前の川原田のムラで焼町土器をつくる母娘を復元した。 母娘の服装には、弁柄で赤く染めた縄文アンギンをベースに、焼町土器や縄文の模様をあしらい、出土した耳飾り(ピアス)をつけた。 また、川原田のJ-11号住居跡からは、土器づくり用とみられる粘土が出土しており、粘土をこねる役目を娘に任せた。 川原田遺跡 - 全国遺跡報告総覧 - 奈良文化財研究所 川原田遺跡 - 全国遺跡報告総覧 - 奈良文化財研究所 川原田遺跡出土火熨斗の科学的調査 - 全国遺跡報告総覧 |
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37縄文メニュー 食料 縄文の食さまざま 列島各地の異なる生態環境で暮らしていた縄文人には、地域によって様々な食の違いがあったことが、人骨の同位体食生分析から判明している。 内陸部長野の北村縄文人は、クリ・ドングリ・トチノミなどC3植物に依存し、魚類はもちろん、意外に肉類の摂取なども少なかった。 これに対し北海道の有珠人は、海獣や大型魚類に依存し、植物質食料の摂取量は少ない。 東京湾沿岸の古作貝塚人は肉類と魚類を多く食べていた。 ところ変われば、様々な縄文の食があった。
浅間山麓の縄文人の食料 浅間山麓の縄文遺跡からは、縄文人の食料とみられるクリ・オニグルミ・ドングリ・トチノミなど植物の他、 ニホンジカ・イノシシ・キジ・オオカミなどの動物骨、淡水産の貝も発見されている。
浅間縄文人のメニュー 川原田遺跡からは、クルミ・オニグルミ・ドングリ・トチノミの植物食料が出土した。 宮平遺跡ではニホンジカ・イノシシ・クマなどの骨のほかカワシンジュガイ・カエルが、 石神遺跡ではキジ・オオカミのほかにヌマガイ・イシガイ・ドブガイなどの淡水産の貝も見つかった。 こうした食料が、縄文カレンダーに沿って、季節ごとに縄文人の食卓を彩っていたのであろう。 最近では、縄文人が酒を飲んでいた証拠も見つかっている。
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50縄文の道具 |
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51縄文の道具 石や木・骨などから人々は道具を生み出し、それらに自らの暮らしを託した。
石器の機能 刺す、穿孔する、切る、打ち割る、掘る、伐採する、剥がす、なめす、叩く、すり潰す、すくう、盛る 石器は様々な用途に利用された。
日本の黒曜石原産地 火山列島日本には、数多くの黒耀石原産地が残されており、その数は化学成分100以上に分けられる。 北海道白滝、長野県和田峠、麦草峠、東京都神津島、島根県隠岐島、大分県姫島、佐賀県腰岳、鹿児島県三船などがある。 ガラス片のように鋭い割れ口をもつ黒耀石は、溶岩や火山放出物に由来する火山岩で、旧石器時代から縄文時代にかけて石器の材料として 多用され、100km以上もの陸路や、海を越えて供給された。長野県では和田峠や麦草峠の黒耀石が石器に用いられた。
運ばれてきた石 浅間山麓の縄文遺跡には、石器の材料となる各種の石材が産地から運ばれてきた。 石鏃などに多用された黒耀石は、和田峠や霧ヶ峰・麦草峠などの佐久地方近隣の黒曜石産地からもたらされたことがわかった。 集落間の交易を経てもたらされたのだろう。(※そんな貴重なものを気安く分けてくれる隣人はいない。自分で取りに行ったか、行商かだよ。) チャートは千曲川上流の相木から、ガラス質黒色安山岩は八風山、硬質頁岩は佐久市志賀などから運ばれてきた
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53縄文人の道具箱 狩猟・漁労・植物採集が縄文人の生業であった。縄文人の道具箱には、そうした生業にかかわる様々な道具が収められた。 石器には打ち欠いてできた打製石器と、磨かれてできた磨製石器などがあり、狩猟・漁労・採集の様々な側面で機能を発揮した。 |
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54剥片石器 原石あるいは石核から剥片がはがされ、剥片をもとに、石鏃・石匙・石錐などの精巧な石器が作られた。 剥片石器の素材には、黒耀石をはじめ、チャート、ガラス質黒色安山岩など、割れ口の鋭い緻密な石材が用いられた。 |
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56 打製石斧と磨製石斧 |
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58 軽石製品 宮平遺跡 浅間山麓の軽石製品 浅間火山の噴出物として、山麓には膨大な軽石がみられる。 軽石は加工が容易で、水に浮くなどの性質があるため、それを利用して縄文人はユニークな軽石製品を残した。 |
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59縄文人の調理道具 宮平遺跡
※石皿 石皿とありますが、お皿・お盆形の石皿は見たことがありません。 北方民族の道具に「石ランプ」がありますが、これとそっくりです。暖房器具ですが、ご覧下さい。 「北海道立北方民族博物館1の60火と器」 |
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60精神文化 |
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61祭祀具 |
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62石棒・土偶 起立する大石棒―北沢大石棒― 日本最大のこの石棒は長さ2.23m。コツコツ石を叩いて作られた。男根を模した祭祀具で、佐久穂町北沢に起立している。 石棒 男性器をかたどった石棒は、生殖や繁栄のシンボルともされる。縄文人の精神世界を具現し、第二の道具ともいわれる。 土偶 土偶は、粘土による人がたの造形で、乳房などの表現から、多くの女性をかたどった精神遺物とみられる。 その一部が故意に破壊されているものも多く、何らかの再生信仰と結びつくものとみられている。 |
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70アクセサリー |
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71壁面の装飾品 宮平遺跡 |
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72縄文の葬送儀礼 |
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73アクセサリーと土器棺 縄文人はアクセサリーを好んだ。 ヒスイののペンダントや土製耳飾りなどが、縄文遺跡から数多く発見されている。 耳飾りは東日本の縄文中期から晩期に多く見られ、ピアス式に耳たぶに穴をあけ、着けたらしい。 耳飾りの装着を示す土偶も見られる。
※みみずく土偶 ・今から3000年前、縄文時代晩期の東北地方に花開いた「亀ヶ岡文化」。 是川遺跡を代表とするその優美な道具の数々は、九州まで影響を及ぼしていた。 同じ頃、関東地方で、亀ヶ岡文化を意識しながらも、強い個性を持って育まれた「安行文化」。 関東地方の、縄文晩期・安行文化を代表するのがみみずく土偶です。 引用「みみずく土偶と縄文人」 ・安行文化は縄文後・晩期の関東地方の土器形式と土偶文化である。 みみずく土偶は、縄文縄文後期後葉から晩期前葉にかけて関東地方を中心につくられた土偶である。 安行式土器文化圏 安行式土器文化は、群馬県で盛行している。 |
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80焼町式土器列 |
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81
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82川原田遺跡出土 焼町土器 中期 |
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90縄文集落 (川原田遺跡) |
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91川原田遺跡 浅間山麓の縄文中期のムラ (御代田町)、発掘調査では、50軒程の竪穴住居が発見されている。 |
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92川原田遺跡の焼町式土器
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93石製品
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95石鏃 |
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96石匙 |
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98土偶 |
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100浅間火山展示室 |
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101浅間山 浅間山は、黒斑山・仏岩・前掛の3つの火山の集合からなる複合火山で、最高地点は前掛山の中央火口丘の釜山にあり、標高2568mである。 今から数万年以上前に誕生したが、その活動は次のように分けられる。
黒斑山は標高2800mの成層火山であったが、2万3千年前に大規模な山体崩壊を起こし、その岩なだれは千曲川に及ぶ広い地域を覆った。 仏岩の時代には、離山や小浅間山などの溶岩ドームができ、大規模な軽石噴火が起きた。 この軽石流は、浅間山麓特有の田切地形の断面にみられる。現在は前掛山が活動を続けている時代である。 |
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102 |
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103浅間火山の形成 |
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112浅間連峰鳥瞰図 |
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