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 中部地方の縄文1 26  2017.05.13

 浅間縄文ミュージアム  長野県北佐久郡御代田町大字馬瀬口1901-1
     0267-32-8922 月・祝日の翌日休館 撮影可

 交通  ・しなの鉄道「御代田駅」600m徒歩7分 
      ・JR長野新幹線佐久平駅より車で15分
      ・レンタカー

 見所  縄文時代の焼町式土器を産する川原田遺跡の展示館


目次

01外観
02入口展示
04展示室入り口

10入口展示
11縄文リビング
12縄文中期遺跡地図
13浅間川原田遺跡
15縄文の姿
16縄文住居
17創造性の爆発
18縄文の原風景
19人口増加


30縄文土器
31尖底土器群
32浅間山麓の
  縄文土器の変化
33草創期~晩期土器

35焼町式土器

37縄文メニュー 食料

50縄文の道具
51縄文の道具
石器の機能
日本の黒曜石原産地
運ばれてきた石

53縄文人の道具箱
54剥片石器
56 打製石斧と磨製石斧 

58軽石製品 宮平遺跡
浅間山麓の軽石製品
59縄文人の調理道具


60精神文化 
61祭祀具
62石棒・土偶
70アクセサリー
72縄文の葬送儀礼
73アクセサリーと土器棺
資料 みみずく土偶


80焼町式土器列
82川原田遺跡出土土器

90縄文集落
91川原田遺跡
92石斧
93石製品
95石鏃
 01外観
まなびの館
エコールみよた
滝沢遺跡の敷石住居中期後半~後期 滝沢遺跡の敷石住居4000年前
加曾利EⅢ式土器期
柄鏡形敷石住居址

 滝沢遺跡の敷石住居跡
  場所 御代田町塩野滝沢遺跡 (本館に移転)
  時代 縄文時代中期後半 4000年前(加曾利EⅢ式期)
  規模 東西3.9m南北3.8m面積13㎡
  型式 柄鏡形敷石住居

  説明
    鉄平石を敷き、安山岩と軽石で四角く囲んだ石囲炉を持つ。また、柄鏡の柄に相当する張出し部がこれにつく。
    住居の埋甕には、縄文時代中期後半 加曾利EⅢ式 の 両耳壺 が利用されていた。 埋甕のほかは土器片のみで点数も少ない。

    敷石住居は、中期後半から後期の中部地方・関東地方西部に流行するもので、祭祀遺構とする説もあるが、今日では住居とされている。

 02入口展示
入口複合施設の入り口すぐ右側。ちょっと狭いので あれっ!と思うが、
ここが入口
りゅうかえん
ジョウモンノコダマ
作:斉藤智史
浅鉢形土器/赤彩/中期
この館の提案の仕方です
飾り棚には
現代の土偶が展示されています。

  03入口展示
展示室入口内の
ディスプレイ
各地の有名な土面の
レプリカです
こっちは本物です
中期/土偶/川原田遺跡
御代田町
中期/土偶/宮平遺跡
御代田町
中期/石棒/宮平遺跡
御代田町
後期/蓋/滝沢遺跡
御代田町
後期/垂飾りヒスイ/滝沢遺跡
御代田町
垂飾り 後期/蓋/滝沢遺跡
御代田町
後期/垂飾り/滑石製/中屋際遺跡/御代田町 後期/垂飾り/滑石製/中屋際遺跡/御代田町

        宮平遺跡 - 全国遺跡報告総覧 - 奈良文化財研究所 みやだいらいせき
        宮平遺跡 - 全国遺跡報告総覧 - 奈良文化財研究所
        宮平遺跡-歴史の里石岡ロマン紀行

        滝沢遺跡 - 全国遺跡報告総覧

        東荒神遺跡・西荒神遺跡・下大宮遺跡・関屋遺跡・中屋際遺跡

  04展示室入り口
いよいよ展示室へ デスマスク/人頭土製品成田市中岫第1遺跡/
5500年前の土壙から発見/中期初頭
参照
人頭形土製品を含む成田市南羽鳥中岫第1遺跡土坑出土品

有孔鍔付土器/模造品/中期
浅間縄文世界の夜明け
浅間縄文世界の夜明け 遥か南に八ヶ岳を望む
浅間山のふもと
噴火の鎮まった
一万年前余
新しい縄文の朝が
静かに明けていく
やがて五千年前
縄文の命は躍動し
豊かな時が紡がれる

母なる森の中から
浅間縄文世界が
花開く
 

 10入口展示

  11縄文リビング

人々の居住空間は、

大地を掘り窪めた円形のスペースにあった。
「竪穴住居」に縄文の
くらしをみる。
日本列島の縄文中期の集落分布
縄文時代年表

←↑これら薄暗い壁に直接書かれているんだ。
気を付けないと見落としてしまう。デジタル処理で見えるようにしました


  12縄文中期遺跡地図
    縄文中期 (4500年前) の日本列島にあって、中部・関東地方には最も人口が集中し、多くの集落がつくられた。

日本列島の縄文中期の集落分布 縄文中期の日本列島 北海道・東北 南東北~中・四国 中・四国~九州

  13浅間川原田遺跡
    時として浅間は過酷な火山災害をもたらしたが、人々は豊かな自然の恵みをも享受できた。山麓には清冽な湧水がほとばしり、落葉広葉樹林には
    木の実が実り、沢山の動物たちが生息した。
    その森にあって1万年間、人々は次々にムラをかまえ、縄文の生を謳歌した。

   4500年前の川原田ムラ
    標高870m浅間山麓の南向きの舌状台地に川原田遺跡の中期縄文集落がかまえられたのは、今から4500年前のことである。
    川原田のムラは周囲の衛星的集落の核となる拠点集落で、中期の間に50軒に及ぶ竪穴住居が作られては消えた。

浅間山麓の縄文集落の分布
浅間川原田遺跡 浅間山南斜面 膨大な数の集落跡がある 4500年前の川原田ムラ 川原田のムラ
川原田ムラ住居址
分布図
縄文人の暮らした家 川原田遺跡J-11号住
J-11見取り図 川原田遺跡J-11号住

円形竪穴の平均面積は15㎡中央に石囲い炉、周囲に柱穴。

J-11は直径4.5m面積13.3㎡

  15縄文の姿
    縄文遺跡からは、編衣(アンギン)と呼ばれる織物が発見されており、衣服などとみられる。
    モデルの編衣の模様は、土器の模様をもとに復元した。大きなピアス式の耳飾りや、骨製かんざしもあった。

    土偶などから推定すると、顔に入れ墨をした人もいたらしい。

       男性 平均身長 158cm  女性 平均身長 147cm 

       平均寿命 約30歳 (15歳まで生きてきた人の寿命)
       目鼻立ちがはっきりとした彫りの深い顔


寒冷地から来た人々です。革靴は使っていたでしょう。土偶も履いています。
縄文の姿
←キャプションなし

勝坂Ⅲ式の出産土偶
と言われています。

  16縄文住居
    縄文時代の家は、地面を掘り窪めた竪穴住居であった。
    住居内には、石囲炉があり、柱穴が残り、数本の柱を立てて伏せた屋根を支えたものと考えられる。

    4500年前の縄文中期は、円形が基本であった。半地下式住居は夏涼しく、冬暖かく、機能性に優れていた
縄文の家 縄文の家
川原田遺跡発掘
J-15号住は6角形
石囲い炉

  17創造性の爆発
     縄文人とは毛皮一枚で野山を駆け巡るようなのイメージがあったが、最近ではそのファッションが考古学的に復元され、「おしゃれな」縄文人」と
     形容されるようになった。 5000年前の縄文人の能力は、脳容積が同じであるため、現代人と同じ能力を持っていた。

     彼らは、有孔鍔付土器で音楽を奏で、ヨーロッパでは笛も出土している。また、土器への複雑な施文は芸術的能力も高かったことを意味する。

縄文のビーナス 創造性の爆発 国宝縄文のヴィーナス
棚畑遺跡4500年前
火炎土器/野首遺跡
有孔鍔付土器/大野遺跡

  18縄文の原風景
葺いた屋根の上に土を貼ってある復元住居
御所野遺跡
縄文のムラにはどのような風景が広がっていたのだろう。

発掘調査からは、竪穴住居や掘立柱建物などが立ち並ぶ景観が復元できる。
復元された掘立柱建物
縄文住居が立ち並ぶ風景

  19人口増加
   旧石器時代 20000年前 1万人以下
   縄文早期  10000年前  2万人
   縄文中期   5000年前  26万人
   弥生時代   2000年前  59万人 
 遺跡の存在からすると、縄文時代には、東日本に人口が集中し、西日本には少ない傾向がある。

 縄文中期の関東には9万人、中部には7万人が暮らしていたとみられている。
 逆に近畿・中国・四国は5千人以下だったとみられる。 

 こうした人口の地域差は、食料資源の偏りに起因する。逆に稲作の弥生時代には、人口の逆転が起こる。
人口の増加 人口の増加 遺跡数の変化縄文早期 1万年前
縄文中期 5千年前
弥生時代 2千年前
発掘現場の再現



 30縄文土器
    1万数千年前、人々は初めて焼き物の器を作った。 縄文の1万年に土器の形を見る。


  31尖底土器群
    早期~前期初頭 7000~6000年前
    縄文時代の前半、平底の土器が普及する以前の、草創期から前期初頭にかけては、三角錘状の尖り底の土器=尖底土器が用いられた。
    尖り底のためそのまま置くことができず、土器の半分は地面にさして使用した。
    表面には転がした羽状縄文などがつけられる。 御代田町塚田遺跡 下弥堂遺跡出土。 塚田式土器など。 塚田遺跡 - 全国遺跡報告

縄文尖底土器 縄文土器 尖底土器群 尖底土器群
鍛冶屋遺跡、中道遺跡
下弥堂遺跡、六反田遺跡
塚田遺跡、梨久保遺跡
高風呂遺跡




  32浅間山麓の縄文土器の変化

   縄文土器は13000年前に誕生し、1万年の間に様々な形と文様の変化をみせ、機能的改良も加えられた。
   形は尖底から平底へ。
   文様は簡素から華美、そして再び簡素へ。 草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に区分される縄文時代に、器の変化をみる。

浅間山麓の縄文土器の変化 前期初頭 6000年前
 塚田式・中道式
 (塚田・下弥堂遺跡)

前期中葉 5500年前
 神ノ木式(城之腰遺跡)
中期中葉 4500年前
 焼町式(川原田遺跡)

後期前葉 3500年前
 堀之内式(滝沢遺跡)
  縄文土器の変化
尖底土器群 尖底土器群




  33草創期~晩期土器
  34草創期~晩期土器
草創期の深鉢形土器
早期深鉢型土器
前期の深鉢型土器
中期の両耳壺
後期の注口土器
晩期の浅鉢型土器






微隆起線文土器
・東荒神遺跡
・草創期
・ 12,000年前
 最古の縄文土器の一つ
・口縁部に細い紐状の文
 様をめぐらし、器形は砲
 弾型とみられる
鵜ケ島台式土器
・塚田遺跡
・早期
・7,000年前
・表面に襷状の幾何学文
 様が描かれる
神ノ木式
・城之腰遺跡

・5,500年前
・表面には縄を束ねて転が した複雑な文様が付けられる
加曾利E4式土器
・宮平遺跡
・中期
・4,000年前
・両側に把手が付き、表面には縄文が付けられる
堀之内2式土器
・滝沢遺跡
・後期
・3,500年前
・把手と口が付き、液体を注ぐための土器
氷Ⅰ式土器
・戻場遺跡
・晩期
・2,500年前。縄文時代最終末の土器のひとつ
・浮線文という細かいレリ
 ーフ状の文様がつけられる
微隆起線文土器 鵜ヶ島台式土器 神ノ木式土器 加曾利E4式土器 堀之内2式土器 氷Ⅰ式土器
慣用化した時代区分
 13,000-10,000

 10.000-6,000

 6,000-5,000

 5,000-4,000

 4,000-3,000

 3,000-2,800
暦年代に補正
 15,000-12,000

 12,000-7,000

 7,000-5,500

 5,500-4,500

 4,500-3,300

 3,300-2,800 引用Wiki

 実際、二つの時代区分が使われているので、大変混乱しています。この博物館の場合は、慣用化した時代区分のようです。
 しかし、その年代を補正年代に直すことはできません。っていうことは、何が何だかわからないってことですね。




 35焼町式土器  約4500年前、中期中葉の土器
              参照千曲川流域の縄文時代中期中葉の土器- 国立歴史民俗博物館学術情
                 第 120集 - 国立歴史民俗博物館学術情報リポジトリ - 国立情報学研究所

     焼町土器を作る

      今日、世界の多くの民族においては、土器づくりは女性の仕事である。

      その例にならって4500年前の川原田のムラで焼町土器をつくる母娘を復元した。
      母娘の服装には、弁柄で赤く染めた縄文アンギンをベースに、焼町土器や縄文の模様をあしらい、出土した耳飾り(ピアス)をつけた。

      また、川原田のJ-11号住居跡からは、土器づくり用とみられる粘土が出土しており、粘土をこねる役目を娘に任せた。

         川原田遺跡 - 全国遺跡報告総覧 - 奈良文化財研究所
         川原田遺跡 - 全国遺跡報告総覧 - 奈良文化財研究所
         川原田遺跡出土火熨斗の科学的調査 - 全国遺跡報告総覧

蛇体把手/川原田 蛇体把手
焼町土器を作る 粘土をこねる娘 焼町土器を作る 



  37縄文メニュー 食料

  縄文の食さまざま
   列島各地の異なる生態環境で暮らしていた縄文人には、地域によって様々な食の違いがあったことが、人骨の同位体食生分析から判明している。
   内陸部長野の北村縄文人は、クリ・ドングリ・トチノミなどC3植物に依存し、魚類はもちろん、意外に肉類の摂取なども少なかった。

   これに対し北海道の有珠人は、海獣や大型魚類に依存し、植物質食料の摂取量は少ない。
   東京湾沿岸の古作貝塚人は肉類と魚類を多く食べていた。

   ところ変われば、様々な縄文の食があった。
豊かな森の中から、人々は食物の恵みを得た。 様々な植物や動物が縄文人の食卓にのぼった。 縄文の食様々 縄文の食さまざま



  浅間山麓の縄文人の食料
   浅間山麓の縄文遺跡からは、縄文人の食料とみられるクリ・オニグルミ・ドングリ・トチノミなど植物の他、
   ニホンジカ・イノシシ・キジ・オオカミなどの動物骨、淡水産の貝も発見されている。

浅間山麓の縄文人の食料 クリ・オニグルミ
川原田遺跡
トチノミ・ドングリ
川原田



  浅間縄文人のメニュー
   川原田遺跡からは、クルミ・オニグルミ・ドングリ・トチノミの植物食料が出土した。
   宮平遺跡ではニホンジカ・イノシシ・クマなどの骨のほかカワシンジュガイ・カエルが、
   石神遺跡ではキジ・オオカミのほかにヌマガイ・イシガイ・ドブガイなどの淡水産の貝も見つかった。

   こうした食料が、縄文カレンダーに沿って、季節ごとに縄文人の食卓を彩っていたのであろう。
   最近では、縄文人が酒を飲んでいた証拠も見つかっている。

浅間縄文人のメニュー
クマ
シカ
オオカミ
キジ
イノシシ
サケ カエル
イシガイ
ドブガイ
ヤマノイモ
クリ
クルミ
トチノミ
ドングリ

イノシシ骨
宮平縄文人のメニュー

シカ・イノシシ・クマ・カエル・トリ・カワシンジュガイなどが出土

シカ骨

カエル・カワシンジュガイ・クマ





 50縄文の道具




  51縄文の道具
     石や木・骨などから人々は道具を生み出し、それらに自らの暮らしを託した。

ナイフ形石器 実験考古学 伐採 縄文ギア


  石器の機能
    刺す、穿孔する、切る、打ち割る、掘る、伐採する、剥がす、なめす、叩く、すり潰す、すくう、盛る 石器は様々な用途に利用された。
石器の機能
1石鏃 矢の先端

2石錐 穴あけ   
3石匙 万能ナイフ
  草刈り、肉切りなど
    多目的

4クサビ型石器
  物を叩き割るクサビ
6磨製石斧 木材伐採・
   加工。磨いた斧。
7石皿と磨石

5打製石斧 土堀具、
 中期遺構に盛行



 日本の黒曜石原産地
    火山列島日本には、数多くの黒耀石原産地が残されており、その数は化学成分100以上に分けられる。
    北海道白滝、長野県和田峠、麦草峠、東京都神津島、島根県隠岐島、大分県姫島、佐賀県腰岳、鹿児島県三船などがある。

    ガラス片のように鋭い割れ口をもつ黒耀石は、溶岩や火山放出物に由来する火山岩で、旧石器時代から縄文時代にかけて石器の材料として
    多用され、100km以上もの陸路や、海を越えて供給された。長野県では和田峠や麦草峠の黒耀石が石器に用いられた。

日本の黒耀石原産地 日本の黒曜石原産地 北海道・東北 北海道
白滝
置戸
十勝三股
赤井川
東北
出来島
深浦
男鹿
花泉
月山
板山
高原山
中部
浅間
信州
麦草峠
霧ヶ峰
和田峠
関東・北陸・近畿
関東
箱根、畑宿、柏峠
神津島
中国・四国・九州
中国:隠岐島
九州:姫島、出水、三船
腰岳、淀姫、桑ノ木津留
上牛鼻


  運ばれてきた石
    浅間山麓の縄文遺跡には、石器の材料となる各種の石材が産地から運ばれてきた。
    石鏃などに多用された黒耀石は、和田峠霧ヶ峰麦草峠などの佐久地方近隣の黒曜石産地からもたらされたことがわかった。

    集落間の交易を経てもたらされたのだろう。(※そんな貴重なものを気安く分けてくれる隣人はいない。自分で取りに行ったか、行商かだよ。)

    チャートは千曲川上流の相木から、ガラス質黒色安山岩は八風山、硬質頁岩は佐久市志賀などから運ばれてきた

運ばれてきた石 運ばれてきた石 川原田に運ばれた石
黒曜石:
黒曜石:
チャート:
高質頁岩:
ガラス質黒色安山岩:
霧ヶ峰(男女倉・星糞・和田峠)
麦草峠(冷山)
相木村
佐久市志賀
八風山


  53縄文人の道具箱
  狩猟・漁労・植物採集が縄文人の生業であった。縄文人の道具箱には、そうした生業にかかわる様々な道具が収められた。
  石器には打ち欠いてできた打製石器と、磨かれてできた磨製石器などがあり、狩猟・漁労・採集の様々な側面で機能を発揮した。

縄文人の道具 縄文人の道具箱 骨角器/宮平遺跡 縄文人の道具箱

  54剥片石器
     原石あるいは石核から剥片がはがされ、剥片をもとに、石鏃・石匙・石錐などの精巧な石器が作られた。
     剥片石器の素材には、黒耀石をはじめ、チャート、ガラス質黒色安山岩など、割れ口の鋭い緻密な石材が用いられた。

剥片石器 剥片石器 石匙/塚田遺跡
・硬質頁岩
・チャート
・黒耀石
・ガラス質黒色安山岩
石鏃・石錐/塚田遺跡
石鏃 
ガラス質黒色安山岩
黒耀石・チャート
石錐
ガラス質黒色安山岩
黒耀石・チャート
原石黒耀石/麦草峠
チャート/南相木村
黒耀石/和田峠
剥片/塚田遺跡硬質頁岩
黒耀石
ガラス質黒色安山岩
石核/塚田遺跡
ガラス質黒色安山岩
チャート・黒耀石




  56 打製石斧と磨製石斧 

磨製石斧/塚田遺跡 打製石斧/宮平遺跡 打製石斧と磨製石斧

打製石斧は土堀具である。
磨製石斧は、
 大型のものは木の伐採用、
 小型のものは木材加工用と考えられる。

打製石斧は特に中期以降に多く使われた。


  58 軽石製品 宮平遺跡
    浅間山麓の軽石製品

      浅間火山の噴出物として、山麓には膨大な軽石がみられる。
      軽石は加工が容易で、水に浮くなどの性質があるため、それを利用して縄文人はユニークな軽石製品を残した。

浅間山麓の軽石製品 円筒状軽石製品/浮き? 盤状軽石製品/用途不明 皿状軽石製品/用途不明

  59縄文人の調理道具 宮平遺跡
石皿木の実や肉などをすりつぶすための石皿には、 石皿と磨石きめの粗い石材が用いられた。浅間山麓では、 石皿/緑色泥岩遥か埼玉県秩父地方産の緑泥片岩などが用いられた。 磨石と凹石の複合石器
縄文人の調理道具 削器:肉などを切った
磨石:木の実や肉などを   すり潰した
凹石:凹部利用して木の  実を割った 

 石皿 石皿とありますが、お皿・お盆形の石皿は見たことがありません。
       北方民族の道具に「石ランプ」がありますが、これとそっくりです。暖房器具ですが、ご覧下さい。北海道立北方民族博物館1の60火と器」






 60精神文化



  61祭祀具
縄文スピリッツ 生命の神秘や自然への畏怖が、人々の精神世界を形成した。
命の根源を土偶や石棒に見つめる。
器に込められた
縄文の祭祀

水の祀り、火の祀り
土偶/宮平 石棒/宮平遺跡
深鉢型の祭祀具でしょうか
一瞬神像かと思いました
何を象徴したのでしょうか
深鉢/4000年前/宮平
石棒/詳細不明


  62石棒・土偶

  起立する大石棒―北沢大石棒―
   日本最大のこの石棒は長さ2.23m。コツコツ石を叩いて作られた。男根を模した祭祀具で、佐久穂町北沢に起立している。

  石棒
   男性器をかたどった石棒は、生殖や繁栄のシンボルともされる。縄文人の精神世界を具現し、第二の道具ともいわれる。

  土偶
   土偶は、粘土による人がたの造形で、乳房などの表現から、多くの女性をかたどった精神遺物とみられる。
   その一部が故意に破壊されているものも多く、何らかの再生信仰と結びつくものとみられている。

起立する大石棒
北沢大石棒
石棒
石棒
富士見町大花
富士見町曽利
御代田町川原田(24cm)
臼田町月夜平
御代田町宮平(9cm)
御代田町滝沢(33cm)
 佐久町北沢(223cm)
 土偶 土偶
 
 A遮光器土偶
Bハート土偶
Cみみずく土偶
D縄文のヴィーナス
 





 70アクセサリー

  71壁面の装飾品 宮平遺跡
獣面把手 土偶を壊す
イメージ

顔面把手

竪櫛
耳飾り

耳穴の巨大化

耳飾り

耳飾り
縄文時代の耳飾り
耳飾り

耳飾り

耳飾り装着例/ピアス式

耳飾り
縄文時代のペンダント
垂飾ヒスイ/滝沢遺跡
ヒスイ製垂飾
垂飾/ヒスイ





  72縄文の葬送儀礼
縄文の墓

・宮平・滝沢遺跡からは後期の墓が発掘された。
・宮平遺跡では扁平な石を棺状に囲った石組棺が、
・滝沢遺跡からは墓石を備えた穴に、耳型土製品・滑石製ペンダントが副葬され、人の歯や骨が出土した。
人骨を納めた土器

宮平遺跡/人骨の一部を納め、扁平な鉄平石に逆さまに伏せた加曾利B式土器が、楕円形の土壙墓内から発見された。
滑石製ペンダント

滝沢D-52土壙墓/後期
人の歯・焼けた人骨・焼けた獣骨・と共に、イモガイの断面を模し、弁柄を塗布した滑石製ペンダントが発見された。副葬品
耳型土製品

滝沢遺跡D-52号土壙墓
土器片を耳型に再加工し副葬されていた。また、大型礫2個を墓標に置かれていた

  73アクセサリーと土器棺
    縄文人はアクセサリーを好んだ。 ヒスイののペンダントや土製耳飾りなどが、縄文遺跡から数多く発見されている。
    耳飾りは東日本の縄文中期から晩期に多く見られ、ピアス式に耳たぶに穴をあけ、着けたらしい。

    耳飾りの装着を示す土偶も見られる。
縄文人とアクセサリー
耳飾り
御代田町宮平遺跡

みみずく土偶
耳飾りの装飾のある土偶群馬県桐生市/
千網谷戸遺跡
滑石性ペンダント
滝沢遺跡
耳型土製品/滝沢遺跡

耳・鼻・口唇など仮面と共に祭祀具として使われた遺跡があった(北陸)
垂飾ヒスイ/滝沢遺跡 人骨を納めた土器
宮平遺跡
人骨を納めた土器
宮平遺跡

  みみずく土偶
   ・今から3000年前、縄文時代晩期の東北地方に花開いた「亀ヶ岡文化」。
    是川遺跡を代表とするその優美な道具の数々は、九州まで影響を及ぼしていた。
    同じ頃、関東地方で、亀ヶ岡文化を意識しながらも、強い個性を持って育まれた「安行文化」。
    関東地方の、縄文晩期・安行文化を代表するのがみみずく土偶です。  引用「みみずく土偶と縄文人」

   ・安行文化は縄文後・晩期の関東地方の土器形式と土偶文化である。

    みみずく土偶は縄文縄文後期後葉から晩期前葉にかけて関東地方を中心につくられた土偶である。

    安行式土器文化圏 安行式土器文化は、群馬県で盛行している。

    



 80焼町式土器列

  81
巡る歳月の中で
人々は様々な命の炎を灯し、
そしてその時を迎えた

  Jomon Cosmology

About4,500 years ago.
dynamic artistic expressions in Jomon plastic arts.
as illustrated in the elaborate

three-dimensional ornamentation of Jomon pottery.
reached their peak.

The Yakimochi-style pottery found in
the foothills of Mt.Asama represents
the paramount achievement of
Kimon artistic creativity
Jomon Artifacts from the kawaharada Site

4,500years ago
(Designated an Important Cultural Asset by the Japanese Government)

THis set of Yakemachi pottery and associated
stone tools found at the Kawarada Site in the
southern foothills of Mt.Asama have been
designated by the Japanese government as an
"Important Cultural Asset" The potterya sa
representative of the Yakemachi Pottery style

which is known for its ornamente ・・・・ あと判読不能



  82川原田遺跡出土 焼町土器 中期

展示品は全て実物の重要文化財です
焼町土器/川原田

焼町土器/川原田

焼町土器/川原田

焼町土器/川原田

焼町土器/川原田

焼町土器/川原田

勝坂式土器/川原田
顔面把手/川原田
焼町土器/川原田

焼町土器/川原田

焼町土器/川原田
 


 90縄文集落 (川原田遺跡)


  91川原田遺跡

    浅間山麓の縄文中期のムラ (御代田町)、発掘調査では、50軒程の竪穴住居が発見されている。
・新しい住居址は深く掘り込まれている。
・住居周囲に埋葬土坑
・写真左下は二段に掘り込んだ土間や
 深い貯蔵用土坑が目立つ。

 新しい住居ほど、寒冷対策が施され、
気温低下と食料貯蔵確保に奔走した様子が伺える。

  92川原田遺跡の焼町式土器

焼町土器/川原田


  93石製品

川原田遺跡出土品
国重要文化財

打製石斧/川原田

磨製石斧/川原田

軽石製品 

磨石 

石皿 


  95石鏃
川原田遺跡
本物とレプリカ
発掘風景 住居址/6角形/
石囲炉
石錐と石鏃 石錐 石鏃
  96石匙
石匙 削器 楔形石器 土製円板
 考察
  西日本系の石匙から、川原田遺跡の人々が、西から来た人々であったことが伺える。
  全ての刃部を、一旦平らに、鋭利に磨き、その上で、サバイバルナイフのように、規則的に刃こぼしがつけてある。よく切れたでしょうね。

  98土偶
耳飾り 土偶 (顔)
頭部に穴があいている
土偶 (胴)

  頭部に大穴の開いた土偶、そして、この首長で、この表情。西日本では、これまで見たことのない土偶です。いったいどこの文化でしょう。
  私がまだ足を踏み入れていない関東のものでしょうか。それとも、もっと北の新潟?、東の茨城福島の太平洋側?それとも、独自の物?

 










 100浅間火山展示室










 101浅間山
  浅間山は、黒斑山・仏岩・前掛の3つの火山の集合からなる複合火山で、最高地点は前掛山の中央火口丘の釜山にあり、標高2568mである。
  今から数万年以上前に誕生したが、その活動は次のように分けられる。

  ●黒斑山の時代
●仏岩の時代
●前掛山の時代
(数万~約2万年前)
(約2万年~1万年前)
(約1万年前~現代)

  黒斑山は標高2800mの成層火山であったが、2万3千年前に大規模な山体崩壊を起こし、その岩なだれは千曲川に及ぶ広い地域を覆った。

  仏岩の時代には、離山や小浅間山などの溶岩ドームができ、大規模な軽石噴火が起きた。
  この軽石流は、浅間山麓特有の田切地形の断面にみられる。現在は前掛山が活動を続けている時代である。

2階浅間火山展示室 浅間山 浅間連峰
浅間山峰 浅間山
  102
展示室内 カラマツは残った
天明噴火の火山弾の直撃を耐え、浅間南麓で現代まで生き抜いたカラマツ。デモ人間ニ切ラレチャッタ
残ったカラマツ 浅間山周辺赤色立体地図

・浅間山、天仁元年(1108)の噴火による追分火砕流、
・天明三年(1783)の噴火による鬼押し出し溶岩流、鎌原岩屑流、吾妻火砕流などが立体視できる。
・こうした自然地形は火山の作り出したアートである。


  103浅間火山の形成

黒斑山の形成(数万年~)
最初にできた火山
海抜2800m成層火山だった
塚原岩なだれ23000年前
黒斑山の東半分が山体崩壊
南麓:信州側、塚原岩なだれ
佐久平に流山として点在
北麓:群馬側、応桑岩なだれや塩沢岩なだれが発生。吾妻川に流れ込む
仏岩の時代20,000年前~
仏岩期:約2万年前から仏岩が噴火成長。前掛山の下に山体が埋没。大窪沢ではこの時の黒曜石が見られる。白糸の滝軽石が降下、小浅間山の溶岩ドーム形成
大規模な軽石流の発生
13,000~11,000年前
大噴火で軽石流(火砕流)が山麓を覆う。第1軽石流(大規模)、第2軽石流。と呼ぶ。
大規模な軽石流の発生
13000~11000
軽石流は浸食されやすく、浅間山麓特有の、
箱型に切り立った田切地形が、御代田~小諸間に見られる
天仁元年の大噴火1108年
平安時代
天仁 (平安時代) の噴火は歴史時代最大で、江戸時代 (天明3年) の2倍の噴出物が堆積した。
この時発生した追分火砕流は6億㎥の噴出物が面積80㎢を平均高8m覆う。
天仁元年の大噴火1108年
博物館周辺も被災した。石垣などに多用されている黒いキャベツ状の火山岩がその時の噴出物である。
群馬側には舞台溶岩流が流下した。
時の朝廷の右大臣藤原宗忠の「中右記」に、上野国(群馬)では砂礫が国中に降り田畑が全滅した。一国の被害でこれほどの被害はかつてない
天明の浅間焼け1783年
江戸時代

「天明の浅間焼け」は、
旧暦4月に始まり7月に噴火のピークに達した。
この噴火では、大量の軽石が噴出した後、吾妻火砕流が流下し、鎌原岩なだれと
鬼押し出し溶岩流が発生。
天明の浅間焼け1783年
この時の火口はたまたま
群馬県側に向いていたため、群馬県以東の被害が甚大で、千人を超す死者が出た。
長野県側でも、降ってくる火山弾などで軽井沢周辺の宿場は焼失した。

  112浅間連峰鳥瞰図
東から西に向かって鳥瞰した浅間山
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