縄文を旅する3 北の縄文 北東北〜南北海道旅 22 2013.10.10(木) 2016.03.27一部修正 千歳市埋蔵文化財センター 北海道千歳市長都42-1 0123−24−4210 交通 レンタカー推奨 空港・駅からかなりの距離。北海道の地図は縮尺が違う。タクシー高額。 見所 ママチ遺跡の土面 キウス周堤墓 水鳥の土偶 反省点 この日の四軒目で長時間のドライブでかなりの疲労。もう一軒行かねばとの焦りから撮影が雑になっていた。 ただ、この日は誰も、どこの館も説明をしてくれなかったので早く回れた。(笑) |
||||||||||||
|
||||||||||||
01旧石器時代 |
||||||||||||
|
||||||||||||
02縄文時代 年代区分に草創期はなく、早期から始まっている。 後期・晩期になって変化のある土器が増えました。 早期 1万〜6000年前 人口 2万100人 前期 6000〜5000年前 人口10万5500人 中期 5000〜4000年前 人口26万1300人 後期 4000〜3000年前 人口16万 300人 晩期 3000〜2300年前 人口 7万5800人 資料引用 |
||||||||||||
03続縄文以降 続縄文時代 2300〜1300年前 土壙墓と竪穴住居 擦文時代 1300〜800年前 村の様子と竪穴住居 アイヌ時代 800年前〜 掘立柱住居(平地住居)
|
||||||||||||
06土面 縄文晩期 2300年前のママチ遺跡の土面 大変有名です 土面2300年前 足形付土製品は7000年前 土面の存在から墓地に立柱があったことがわかる。 容貌は、丸顔で鼻の高い前期モンゴロイド、または、南方系の二重瞼の人である。 墓地の立柱(墓標)に土でできた重いお面を掛ける。 写真付きの墓石と同じか。 よく壊れなかったものです。 近世のアイヌの絵図であらわされる風体と、髪型や髭など、全く違う。当時の風俗はこのようだったことがわかった。重要なことだ。 男性土偶は ウサクマイA遺跡出土 縄文時代晩期終末期(2000年前) 赤い塗料が塗られていた。 |
||||||||||||
07キウス周堤墓
|
||||||||||||
08祭祀用土器 縄文後期 3500年前 土器を使えなくする穴を開け、穴を中心に左右対称の文様を付ける。 土器の機能を無効にする穴が、大変重要な意味を持つことを意味している。 |
||||||||||||
09縄文前期の墓 6000年前 美々貝塚北遺跡 |
||||||||||||
10キウス周堤墓群 縄文後期 3000年前 共同墓地 この時期の北海道では、環状列石や周堤墓や環状土籬など、 指導者による大規模工事が行われるようになった。 |
||||||||||||
11擦文時代の墓 1000年前 埋葬方法が変化。竪穴住居式土壙墓。 副葬品に土師器や鉄製刀子(死者の守り刀)を埋土の上に供える。 擦文文化はアイヌ文化と同じ系統で、アイヌ人の祖先であると考えられる。 竪穴住居式土壙墓 文書引用 ブナ林と古代史 他に参考文献がないのでお借りします 擦文文化の墓は住居と強く結びついている。 @ 擦文時代の「墓」は竪穴住居の壁に沿って作られている。 A 「墓」は竪穴の床面かその直上から掘り込まれている。 @ が意味しているのは、墓が住居の寝所に設けられたということ。 A は人が住むのを止めた直後か、それほど時間の経っていない段階で、住居に墓が作られたことを意味している。 住居に土壙を掘って埋葬しそのまま墓にした。考えられる理由は、凍結期の死体の処理方法だ。 土が凍って埋葬できない。外に置くと、猛獣が集まってくる。しかし、室内に置くわけにいかず、 唯一埋葬できる場所は住居内。だか、埋葬場所には暮らせない。 死体は臭いからね。 だから、竪穴住居式土壙墓 となった |
||||||||||||
12近世アイヌの墓と近世和人の墓 400年前 |
||||||||||||
20動物形土製品 縄文晩期 2500年前 水鳥か海獣かに見える土製品。中空構造で技術の高さがわかります。 千歳市 美々4遺跡出土 |
||||||||||||
22貝塚 縄文前期 6000年前 美々貝塚北遺跡 北貝塚 ヤマトシジミが大半を占める貝塚。海辺にありながら、淡水産の貝が美味しかったのかな。 温帯産の貝はまだ、少なかったのかもしれない。? |
||||||||||||
25土器や石器を作る 縄文時代
|
||||||||||||
26植物の利用・道具や装身具・丸木舟
|