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 北海道の縄文 №19  2022.06.08-6

  中標津町郷土館 北海道標津郡中標津町丸山2丁目15
   0153-72-2190 :月・休日の翌日 撮影可

 館の特徴
カエル意匠とされる土器が有名。
北海道の土器変遷を一枚の紙にまとめた表が素晴らしい。
交通 ・レンタカー
・空港バスで中標津バスターミナル。1.2km徒歩15分
近隣観光地 野付半島開陽台展望台、長い直線道路、メロディーロード、低湿地地形など
  近隣博物館  
  宿泊情報   道路沿いの安宿には気を付けて。Bery不潔な旅館が5千円程取るあり
中標津町と周辺地域

目と鼻の先に北方領土が見える
 
     


01外観
02入口展示
➀貝製ペンダント
②イノシシの牙製腕輪

30③蛙意匠の土器
31※資料 蛙文土器
 ※考察 蛙文土器
32参考-網走のカエル意匠土器
 ※考察 カエルと熊

100中標津の先史時代
102北海道 土器・石器編年表

110縄文時代
111縄文土器
※道東の縄文土器
112中標津の縄文土器

200続縄文時代
210続縄文土器
230続縄文土器・石器

300擦文時代
310擦文土器
※考察 不安定土器と安定土器

400アイヌ時代
410アイヌ民具

500開拓期

600中標津の観光
630開陽台
640道路名所 
644中標津空港
651直線道路
655天空への道
 メロディーロード
652野付半島
670別海町鉄道記念館

680中標津町の民宿

 
 01外観
郷土館外観
丸山公園

トイレを貸さない宣言!
縞笹とツツジ
北海道にもツツジがひと月遅れで咲いている
郷土館外観 中標津町郷土館
昭和3年開館、同47年建設。意外に古い

 02入口展示


 10 ➀貝製ペンダント 中標津町西竹遺跡 縄文時代晩期
「イノシシの牙製の腕輪」・「人骨」と共に発見されました。

入口展示
貝製ペンダント
貝製平玉は利尻礼文奥尻の墓地から出土。死者のペンダントでないかと考えています。

 ②イノシシの牙製腕輪 中標津町西竹遺跡 縄文時代晩期
下あごの犬歯の上下を切って孔を開けています。 
※超巨大なイノシシ牙で、北海道産でなく本州産のため、腕輪に加工した状態で持ち込まれたものと考えます。


 30蛙意匠の土器 続縄文時代初頭 西竹遺跡

 中標津町指定文化財第一号
  「蛙意匠の土器」
発見年月日
発見場所
寸法
時代
その他
 昭和38年10月
 中標津町西竹遺跡(中標津町西竹850-17
 高さ49.5cm 口径36.7cm 底径12cm
 続縄文初頭 2200~2300年程前 (続縄文中期説も
 美幌町、釧路市iに同様の蛙意匠の土器片あり。      (斜里町チャシコツ岬下Bからも)   チャシコツ岬下B

表面
高さは49.5cm、
上部の口径は36.7cm
裏面

何の意匠だろう
この二本の突起は壊れているので

この先の形状は想像するしかない。
円形につながっていて小枝を挿してカエルのための日陰にしたり、はい上がる様子にしたとか。
勝手に想像できますが、
円筒系の凹みに、擦れた跡がないので、皆さんはどう考えますか。
➀ここには何もなかった
②何かの意匠があった

 31※資料 蛙文土器
  中標津町郷土館だより8号 興津式土器(蛙文) 根室市穂香竪穴群(カエル・興津)で検索 動物意匠遺物とアイヌの動物信仰 

 引用中標津町郷土館だより8号
これら3点の共通点は引用資料郷土館だより8号内で詳しく検証されている。
中標津と美幌は同一作者の土器が運ばれたと思える。
釧路の蛙と常呂遺跡の森の蛙文様は似ているかもしれない。

中標津西竹遺跡の蛙 釧路市幣舞遺跡の蛙 美幌町遺跡不明の蛙
牙製ラッコと土製カエル
根室市チャシコツ岬下B 
引用知床博物館
平成13年度活動報告
・オホーツク文化期の竪穴住居跡群を含む。
縄文後晩期・続縄文・オホーツク文化期の土器や石器が出土。
・平成27年度より本格調査
・複合遺跡だがカエル意匠土器は
続縄文初頭・興津式と考えられる

※考察 蛙文土器
 中標津町郷土館だより8号で述べられている、蛙意匠の土器の共通点は、➀続縄文時代前期製作である。
 ②施文された土器は興津式土器であることが、興津式土器(蛙文)穂香竪穴群(表)からあきらかである。
 興津式土器は、続縄文時代早期、紀元前3世紀頃 続縄文時代早期の釧路地方を中心に作られていた型式の土器である。

 縄文晩期の東北地方北部の亀ヶ岡式変形工字文の影響を脱し、道内で様々な土器型式が興り、その一つとして興津式がある。
通常の興津式土器は何波形かの壺型だか、祭祀用として、蛙意匠の土器が出現する。
 蛙は沢山卵を産み、やがて水たまりは沢山のオタマジャクシで一杯になる。この様子から、多産の祈りを込めて、蛙を精製土器に張り付けて豊穣を祈ったものと思われる。
 これは、興津式土器を使う人々の間でのみ行なわれた文化である。釧路で始まった文化が道東に広くいきわたったのだが、
その後、宇津内Ⅱa式土器文化がオホーツク地域から入り、やがて廃れてしまったようである。

 従って、北海道でのカエル文土器、蛙意匠土器は、 続縄文初頭の興津式土器文化期、紀元前3世紀頃 に製作されたものと推測される。
 

 32参考:網走のカエル意匠土器 オホーツク文化前半期 (5~6世紀 1600~1500年前) 網走市立郷土博物館展示 (モヨロ貝塚出土
 
※考察 カエルと熊
 中標津町西竹遺跡のカエル意匠の土器を見た時に、背中にいくつもの刺突文があり、細長く伸びた首と、小さな頭部から、クマだと思いました。
背中の刺突文はクマ送りの際に射られた花矢の跡だろうと考えました。細長く伸びた首・頭部は飼い熊の首を丸太二本で挟んで殺した跡と考えました。その時は、土器の年代がわかりませんでした。
 クマを神格化するオホーツク文化は続縄文時代後半期から擦文時代中期頃まで続き、その後は擦文+オホーツク文化=トビニタイ文化になりました。
その後、この土器が続縄文時代前期のものであることがわかり、クマ信仰とは関係がなく、やはりカエルと思われます
 貼り付けたカエルの背中の刺突文はカエルの文様だと思いますが、一番よく似ているのがツチガエルです。しかし、北海道には綺麗なカエルが沢山いますし、彼らは、両生類でも、爬虫類でも、なんでも食べていましたから、これらの形をよく知っており、なぜ、頭部だけ横から見たつくりなのか、色彩が最も汚いツチガエルなのかは.わかりません。 もしかして、おいしかったのでしょうか。最近はカエル料理の店も聞かなくなりました。以前はあったのにね。

 網走のカエル:今回の撮影旅行では、二度目という前提があり、掲載しないつもりで行った網走市立郷土博物館とモヨロ貝塚館の撮影が不十分でした。為に掲載が困難です。
上記網走市立郷土博物館の土器装飾をカエルと表示しているのはモヨロ貝塚館(網走市立郷土博物館の分館)です。 
展示している網走市立郷土博物館では発掘遺跡表示もなく、ただ、オホーツク文化前半のコーナーにno captionで置かれています。

モヨロ博物館の展示
まず、下肢が上肢より長く、カエルに見えます。しかし、クマの下肢も上肢より長く、常に膝を曲げており、飛び掛かったり、速く走るときにこの下肢を伸ばす力が高速ダッシュを生みます。
次に、あたまが小さいこと。両生類は大きな口と頭骨。それに続く、流線型の体部。この動物は頭が小さい。
そして最後に、頭部の上のロープのデザイン。クマ送りの熊は一本のロープの真ん中に首をくくられ、引き回され、丸太で首を挟んで殺す。そのロープじゃないか?とクマにこだわる。
 蛙意匠土器と言われる根室市オンネモト遺跡のカエルはついに見つからなかったが、この遺跡はオホーツク文化期です。
もしかすると、オホーツク文化期にもカエル意匠の土器があったのかもしれない。

 そして表現方法も続縄文期の写実的表現から、オホーツク人はレントゲン画法で描いたのかもしれない。
アボリジニーの絵画はレントゲン画法であり、北海道手宮洞窟の絵画もレントゲン画法である。しかし、
モヨロ貝塚館の像は、脊椎骨、あばら骨、四肢骨、頭骨を死体・解体後のように。しかし、これは、カエルの朽ち果てた姿とはちょっと違うようにも見える。
しかし、カエルかもしれない。
 ただ、私にはこのデザインは、クマ送りの熊にしか見えないのです。そう見たいのかもしれない。
ロープで引き回され、丸太に首を挟まれて脛骨を折られて絶命し四肢を折り曲げて這いつくばった姿に見えます。
オホーツク文化貼付文期の動物意匠。ロープと動物の背骨・四肢骨。皆さんは何に見えますか。 
 
 


 100中標津の先史時代
 101

 102北海道 土器・石器編年 表
北海道の石器・土器の編年を知るうえで大変よくまとめられた、素晴らしい表だと思います。

北海道考古学年表
アイヌ~続縄文 縄文晩期~中期 前期
早期
先土器時代
旧石器

 105展示土器
 
 中標津町の先史時代
中標津町で人が最初に生活し始めたのは、今から約6千年ほど前の縄文時代のようで、この頃の人々の生活の痕跡(遺跡)が発見されています。
縄文、続縄文、擦文の時代を経てアイヌ文化の時代に至るまでの長い間、人々は中標津町の厳しく、そして豊かな自然の中で生活を続け、今日に至っています。


 110縄文時代
この時代の遺跡は中標津町内に数多く分布しています。
その多くは河川や沢に面した小高い場所に立地しており、畑地などでは土器や石器が地表面に散布していることも少なくありません。
この時代は約2300年前まで続き、早期、前期、中期、後期、晩期の5期区分されています。


 111縄文土器
縄文中期(約4500)← 北筒式土器が盛行 → (約4000年前)縄文後期
 トコロ6類(円筒式) 中期末(約4500から4000年前) 後期初頭にかけての古い土器
    羅臼式(円筒系) 縄文後期(約4100から4000年前)に発生流行した新しい土器 
                      幣舞式  縄文晩期後半(約3500~2500年前)に盛行

※研究 道東の縄文土器

 羅臼式土器
時代:縄文後期 約4100-40000  形態:円筒土器
縄文中期末葉から後期前葉にの道東に盛行する北筒式土器(北海道円筒土器)系土器の、新手である。
口縁部に肥厚帯がない点や、口縁部から体部に施された縄文のなかに細い磨消帯が横にめぐっている点などが特徴となる。 引用羅臼式土器

 幣舞式土器
時代縄文晩期後半 約2700-2400年前  形態:様々多様

幣舞式の深鉢形土器である。丸底で、口縁部に四か所の突起を有する。頂部に刻み目をもつ突起の形状は、同時期の道央部以南に分布する大洞系の土器の影響とみられる。引用幣舞式土器

ヌサマイ式土器の特徴は、
器型は、多種の器形で構成されることである。深鉢を主体として、浅鉢、壷形、舟形、片口、皿形の注口、双口土器などがある。
 特に深鉢の大形品が多いが、実用品とは考えられない小形品もしばしば見られる。底部は丸底や丸底気味の不安定なものが多い。
文様は、縄文が多用されるが特に深鉢、浅鉢など日常の煮沸用土器に多い。普通は縄文の地文の上に、沈線文、縄線文、撚糸文などが施される。
 舟形土器は、縄文を地文とし、太めあるいは細めの沈線文を配し全面を真赤にベニガラを塗布したものも多い。
 深鉢や壷形土器の口頸部には、沈線文や撚糸文が段状に施されることが多い。
 また、胴部まで縦にくねくねと鋸歯状(のこぎりばじょう)に施文された例がしばしば見られ、この型式の特徴の一つとなっている。
 ヌサマイ式には道南部の日ノ浜式の精製朱塗り壷形土器が伴出することがしばしば知られている。幣舞遺跡では完形壷形土器一個と数個体分の破片が出土している。
 ヌサマイ式に伴う石器には、石鏃、石槍、靴形石匙(ナイフ)、搔器、削器、磨製石斧、矢柄研磨器などがある。
特徴的な石器としては、黒曜石や玉隋などから作った靴形石器がある。エスキモーが近年まで陸獣や海獣の解体処理に使用した石器に類似し、千島列島、アリューシャン、カムチャツカ方面の遺跡からも出土するところから、この方面から道東北部に伝播してきたものと考えられる。
また、釧路市貝塚町一丁目の晩期の土壙墓から、被葬者の頭蓋骨下数センチメートルのベンガラ中よりソラ豆大の鉄片が出土している。
 このことから、道東部の縄文時代晩期には、すでに金属器の使用される時代に入っていたことを示している。 引用道東北部のヌサマイ式土器

 日ノ浜式土器
日ノ浜遺跡は、函館市旧恵山町にあり、津軽海峡に面した砂丘上に位置する。
縄文前期~中期の円筒土器文化の集落。 縄文晩期の土坑群が発掘されている。
「日ノ浜型住居」はのちのオホーツク式住居に似て、五角形で、室内周囲にベンチ状の構造を持つ竪穴住居である。
イノシシ形土製品が出土している。 引用

日ノ浜式土器は、
 縄文晩期後葉の大洞A式に相当するのが日の浜式と呼ばれる土器群である。
沈線と浮文によった装飾が多用され、太いヘラ描き沈線による工字文が特徴である。
深鉢、浅鉢、台付鉢、皿、壺形土器があり、注口土器は姿を消す。日の浜遺跡、聖山遺跡、添山遺跡などの大遺跡が知られている。
 日の浜式土器の壺や鉢などの精製土器は、道央のタンネトウL式、道東・道北のヌサマイ式土器文化圏にも移出され、在地系の土器とともに出土しているほか、津軽半島北部にも分布する。後続する大洞A'式に対比される土器は、日の浜遺跡や森町尾白内遺跡などから出土しているが、まとまったものは少ない。
  引用「亀ヶ岡式文化」

 112中標津の縄文土器
縄文時代
上に記述
北筒式  羅臼式土器
 
 羅臼式土器
縄文中期
川に流され縄文が摩耗した土器
 
   
幣舞式土器

 115石斧 縄文時代中期末~晩期
石斧
トコロ6類
縄文中期末頃
中期末葉 縄文晩期→
幣舞式期

晩期

晩期
 


 200続縄文時代

今からおよそ2300年前、九州北部に大陸から稲作とともに鉄器や青銅器などの金属器が伝わり、これが定着して弥生時代が始まります。
しかし、北海道では、わずかな金属器は伝わったものの、縄文時代同様に狩猟や漁労、採集を基盤とした生活が続いたことなどから、この時代を「続縄文時代」と呼んでいます。

 続縄文土器
引用コトバンク
北海道地方を中心に,縄文時代のあとに続いて使用されていた土器。 この土器の後に擦文土器が成立する。
初期にはほぼ全道的に,少量ながらも突瘤文のみられる兜野式,琴似式,大狩部式,興津(おこつ)式などの土器が分布する。

引用北見市続縄文土器
 約1000年間にわたって続いた続縄文時代は、土器の型式の変化に基づいて、大きくは前半(紀元前4世紀~紀元1世紀ころ)と後半(紀元2~6世紀ころ)の2つに分けられています。

 さらに細かい時期区分については様々な考え方がありますが、ここでは前半を早期・前期・中期後半を後期・晩期に分割する説に従ってご紹介します。

 続縄文時代前半は、北海道各地で地域色のある型式の土器が作られた時代です。
オホーツク海沿岸地域では続縄文時代前期から中期にかけて、宇津内(うつない)IIa式宇津内IIb式と呼ばれる土器が作られていました。これに混じって、隣接する地域の型式の土器も見つかっています。

 続縄文時代後半は、土器型式によって後期・晩期に分けられています。
後期は後北C1式土器後北C2・D式土器が中心に作られた時期で、晩期は北大I式土器北大II式土器が中心に作られた時期です。

 210続縄文土器
続縄文土器 中標津の先史時代
上に記述
続縄文土器

 230続縄文土器・石器
 231
砥石各種 台石
 233
 235
削器 掻器
石鏃
石錐
 250
続縄文土器
続縄文時代
上に記述


 300擦文時代

8~12世紀、本州の奈良・平安時代に相当する頃、北海道では擦文時代となります。擦文と言う呼び名は、土器の表面にハケで擦ったような文様があることからつけられました。この時代になると、石器はほとんど姿を消し、これに変わって鉄器が使われるようになりました。

擦文時代は、北海道の歴史のうち、7世紀ごろから13世紀にかけて、擦文文化が栄えた時期を範囲とする時代区分。本州の土師器の影響を受けた擦文土器を特徴とする。後に土器は衰退し、煮炊きにも鉄器を用いるアイヌ文化に移行した。 ウィキペディア

 擦文土器
擦文時代は、北海道の歴史のうち、7世紀ごろから13世紀にかけて、擦文文化が栄えた時期を範囲とする時代区分。本州の土師器の影響を受けた擦文土器を特徴とする。後に土器は衰退し、煮炊きにも鉄器を用いるアイヌ文化に移行した。 ウィキペディア

 引用北見市 擦文土器
擦文土器は、7世紀頃から13世紀初めまでの、擦文時代に、北海道で作られるようになった土器です。同時代の本州で作られていた土師器の製法が伝わって作られるようになりました。この土器は表面が木のヘラで擦って仕上げられています。この擦ったあとがパターン模様のようになっていることから、この土器は「擦文土器」と呼ばれています。本州の土師器と全く同じというわけではなく、線を刻んで描かれる文様などは北海道独自の要素となっています。
 
 本州からの影響で作られ始めたことから、擦文時代の古いほうの擦文土器はオホーツク海沿岸地域では少ししか見つかっていません。オホーツク海沿岸に擦文土器を使う文化が本格的に広まってくるのは10世紀以降と考えられており、 多くの遺跡は11~12世紀に残されたものとされています。擦文時代も細かく区分する考え方がいくつか示されていますが、ここでは大まかに資料の少ない10世紀までの前半と、多数の遺跡が見つかっている11世紀からの後半に分けてご紹介します。

 310擦文土器
擦文土器
擦文時代
上に記述
下田ノ沢Ⅱ式土器 擦文時代

脚のみ出土。高坏か?

※不安定土器と
安定土器
択捉島(内保)出土

  ※考察 不安定土器と安定土器
擦文時代の道東東端で、このような土器が発達していた。
以前、高坏の大きなものが出土して、これも不安定な土器で、足で挟む以外に保持のしようがなかったが、この土器はそれをもっと勧めた土器。
隣にある小型土器は、明らかに安定を目指して、底を広く、重臣を低くして、転ばぬようにしている。
しかし、脚のみが出土していることからも、最初に尖底土器を作り、逆さまにして、尖底部分に別に造った脚を貼り付ける手法のようです。
使い終わると、カマドの付近に逆さまにして置いたものでしょう。やはり、足で挟む以外に保持の使用はありません。

では、何を入れたのでしょう。こんな大きな器に。足で挟むところから、一人用でしょうが、使用々途が不明。当時、煮炊きした具材と汁をすくい入れたのでしょうか。



 400アイヌ時代

アイヌ民族は北海道を始め、サハリン、千島列島、本州東北地方に居住し、自然の中で狩猟や漁、植物採集を中心とした生活を営んでいました。
アイヌ文化の成立については、いまだに明らかではありませんが、擦文文化がその母体となったものと考えられています。

 410アイヌ民具
アイヌ民族 軽石製火皿 行器シントコ
ケリ(鮭皮製靴)
北海道ただ1か所の展示。珍しいので3枚。

上に脚絆を付けてブーツになっている。

ヒレは滑り止めのアイゼン替わり。冬季用?
ケリの作り方
 


 500開拓期

開墾道具とミニチュア 生活具 大正-昭和のスキー? 昭和初期の開拓 旧標津線のタブレット ヘッドマーク
 

 600中標津町の観光

北海道の東端は高速沈降地域
 北海道東西圧縮により、高まり続ける日高山脈とは対照的に、北海道東部は沈み続けています。
厚岸湖から根室の海岸。かつて根釧原野といわれた地域。風蓮湖春国岱(しゅんくにたい)から知床半島に至る地域です。
 この地域では7-8mm/年(8-9mmとも)の沈下が進み、野付半島トドワラが海水の侵入により枯れてしまったり、春国岱の針葉樹の枯死の原因となっています。
また、地下水に海水が混じるなどの現象も起きているそうです。  風連湖春国岱野付半島トドワラ

 630開陽台 地球が丸く見える 地平線の展望
開陽台はツーリング小説「振り返れば地平線」の中に登場する有名な舞台です。
従って、バイク野郎たちにとっては、ここは聖地となっているそうです。
開陽台展望台
地球が丸く見える
東 択捉島方向
330°のパノラマ
といわれています。展望台が邪魔して全周パノラマが撮れません
静止画写真をつなぐソフトが必要です。 北西 標津岳
阿寒・摩周・屈斜路カルデラ方向

 開陽台からのパノラマ写真拝借 開陽台からのパノラマ写真
 

 640道路名所 
道東東端のこの地域には、長い長い直線道路が沢山あります。それはまた、地域の観光名所ともなっています。
かつて、この地域が大変未開の原野であったため、このような直線をひくことができたのでしょう。まるで米国のようです。
約43°の傾きで、何本も並行に、また、90°直交するように引かれた道路は、おそらくこの地を流れる標津川の流れに平行線をひいたものと思われます。

 641
道東東端の地形
火山列と海成平原の
陥没低湿地です
中標津の直線道路
(縮小版)

沢山長い直線道路
中標津直線道路
(拡大版)

詳細をご覧ください
北方領土の地形図
島々は火山島で珍しい地形も見られますね
開陽台(展望台)
・隠れた直線道路 29.31km
ミルクロード
(周辺牧場から牛乳収集トラックの経路・付近一帯がミルクロード)
天空への道
 (右端の東端低地側から走ると天に続く感覚となる)
 (googlemap記載の文字側から走ってしまうと魅力半減
・メロディーロード
 (走ると音楽が聞こえる道路。二か所ある。)
開陽台への道
辺りは直線道路でいっぱい。こんなところをすっ飛ばすと気分爽快。
 642ミルクロード
 辺り一帯全て広大な牧場。
ミルクロード
開陽台から降りるとミルクロードの横行に接続
特にここだけ
ミルクロード?
小さい区画に見えるが全て広大
方形に区切られた区画は全て牧場群
ミルクロード入口
ここからは褶曲地形が見える
あの一番向こうまで続いている
褶曲地形の中標津。ジェットコースターのように起伏する。あの向こうまで。
すっ飛ばし放題
三段の褶曲があります

“特にここだけ”ミルクロードと表記するのは、中標津特有の褶曲地形が典型で見える場所だからでしょう。

地図で見るミルクロードは短いが、写真で見ると、あの丘の向こうまで真っ直ぐに続く。
随分以前、50年ほど前に、NHK番組で中標津を紹介し、女子中学生を主人公にストーリーを展開し、その過程で
この道路を紹介するために、ここまで自転車を運び上げて、ここから下っていく様子を放映していた。ジェットコースターの道と言ってたと記憶する。
それ以来ずっとここに来たかったんです。((笑)) 50年目にして叶った憧れの地でした。
 ミルクロードとは周囲の牧場から義雄乳を集めて通る、タンクローリーの通る道を指しています。従って本当はもっと長く碁盤の目状です。

牧場地域
上③の衛星写真では小さく見えた牧場群ですが、実際の広さはこんなに凄いのです。濃い緑の輪郭線は全て防風林です。
2019年から2023年までこの地域一帯を恐怖に震え上がらせた凶暴グマOSO18は駆除されました。

牧場地域
平坦地に大規模な牧場が続く
白樺並木の防風林
牛は餌を食べながら、日がな一日を過ごし

夕方になると、牛舎に駆け込んで搾乳してもらう。

 644中標津空港
中標津市街から3kmと、散歩の範囲に2200m級の飛行場がある。自転車で通える範囲にある飛行場なんてすごいね。
日本一便利な福岡空港に継ぐぐらいの近さですね。市街地に密接していますから。

根室市は釧路市に次ぐ大きな都市ですが、空港を設置する場所がなく、また、沈下地域であるため、その次の街として、随分離れた中標津に根室中標津空港が開設されました。釧路空港時刻表。 新千歳、丘珠(札幌)、羽田の各便があります。便利ですね。
 本来は昭和19年に開設された旧日本海軍の空港でした。
空港は地域防衛のためにも大切ですね。 チンプーは軍事侵攻先をウクライナと北海道を用意していたそうですから。ゾッとしますね。

空港航空写真 空港ターミナルビル
 

 651直線道路 29.31km
約30km先まで真っ直ぐな道路。私でいえば、今住んでいるところから実家が見通せるということだ。なんともすごい直線道路でしょうか。
市街地に隣接するこの道路を契機にして中標津町が繁栄していったのでしょう。

周辺の畑作地帯も広大
牧場も広い
信州野辺山で見た野菜栽培用シートが敷かれている
野辺山の何倍もの、
この広大な農地を耕して畝立てし、マルチシートを敷き、キャベツやレタスを植え付ける。
楽しそうですね。

 655天空への道メロディーロード

天空への道と
メロディーロード
天空への道 ミルクロード
 652野付半島
野付半島
野付半島も30km程なのに行かなかった理由は、日野正平さんが、走ってるのを見て、何もないところだと知っていたからです。

野付の砂州は行けども行けども 、ただ砂州。
ところが後にこの先端から国後島への連絡船が出ていたと知り、そんな港跡でもあったらと後悔しました。
     

 670別海町鉄道記念館
 671別海町鉄道記念館
鉄道記念館と公園

google map拝借
旧西春別駅前だのに広大な土地がありました。

google map拝借
もしかするとここは操車場などがあったのでしょうか
記念館
残念ながら、この日はなぜか休館日でした

 673 D51-27蒸気機関車 (静態保存) 特別仕様車
 このD 51-27蒸気機関車は、戦後日本からサハリン(樺太)へ輸出されたものを購入したものです。
 この型式は車両等保存委員会調べの廃車体データベース(1989補遺版)では日本国内においては1両しかありません。
鉄工品貿易公団を通じ直ちにサハリンへ輸出されたものです。
 サハリンでは昭和24年から昭和40年頃まで、サハリンの東海岸沿いで主に、石炭輸送に従事していたことが判明しています。
 型式は日本のD 51に準拠していますが、防寒の目的で運転室は密閉式となっており、性能、装備等もほぼ同じでありますが、
区分するため型式と番号の間にハイフォンが入っており、日本のD 51はD 51 27でありますが、サハリン向けはD51-27となっております。
 平成3年4月 別海町
D51-27
 675ラッセル車 キ-276

 明治末期に米国製を まねて作ったキ-100の後継機。
 子供の頃に絵本で見てあこがれたラッセル車です。いかにも力強い。どんな豪雪も弾き飛ばしてくれそうなところが好きでした。
 そしてそれは、この見た目が、初期の頃の鉄人28号によく似ていたからでもあります。きっとイメージが重なったのでしょう。

 677周辺施設
西春別スケートリンク 冬になるとただ水をまくだけで凍り付き、表面を重機で平らに削って市民が楽しむのでしょう。
スピードスケート用リンクです。
駅前にあるのがいいですね。よそから来られる。

ただし、廃線となり、もう、汽笛が聞こえることはありません。残念ですね。

 鉄道記念物
気動車キハ22 239 車掌車ヨ4642
   
 


 680中標津町の民宿
民宿2900円
 3900円と思って予約したら、2900円でした。建物の古さは苦になりません。が、事前に泊まったビジネスホテルよりも全てが揃っていて、
 しかも全て大変清潔で、よく整備されていました。
 80代と思しきご夫婦が運営しておられたが、大変感心しました。
 夕方になる沢山の若者男女が帰ってきて、1階でまかないを食べて居ました。若い人の長期宿泊がメインのようです。

 きっと、建物が古いことと、トイレが水洗でないことが料金を遠慮している理由でしょう。しかし、トイレのにおいいは全くしませんでした。
 だいたい、北海道では、水洗トイレはごく一部の都市だけです。帯広でも水洗ではなかった。
 北海道の多くの自治体では設置できない公共設備です。なぜなら、凍結による下水管のつまりが最大の問題です。便も尿もそれを流す水も氷結するからです。
 私も高齢者の一人です。あんな高齢になっても沢山の部屋をこれだけきちんと整備できるのは、大変な重労働だと思いました。 
丁寧に謝辞を言ってあとにしました。