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100二階展示室 常設展 旧石器~縄文 |
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110旧石器時代 人類誕生から約1.2万年前までを旧石器時代と言いう。石器や骨角器等の道具で、ナウマンゾウやオオツノジカなどの大型獣を狩る生活をしていた。 当時は氷河期で、約2万年前の気温は今より約7℃も低く、寒く乾燥した時代でした。 北杜市では、八ヶ岳山麓を中心に、旧石器時代の遺跡があり、標高1200mの高地からでも発見されています。(丘の公園第2遺跡※) 中でも、横針前久保遺跡は、山梨県内最古の遺跡の一つで、約3万年前のものとして知られています。 ※横針前久保遺跡 約3万~2.8万年前の遺跡 ナイフ型石器、台形石器、刃部磨製石斧が出土 刃部磨製石斧」は、刃を磨いた県下初の石器で、木の伐採や加工、動物の解体や皮なめしに用いられていたと考えられます。 石器石材は、黒曜石・頁岩・水晶など。黒曜石の中には、伊豆神津島産を含む。 ナウマンゾウやオオツノシカなどの大型動物が姿を消すのと同時期にほぼ消滅してしまうことからも、 とくに大型動物の解体の道具であったとという見方があります。 引用横針前久保遺跡 引用「北杜の旧石器時代」(長坂郷土資料館) ※丘の公園第2遺跡 標高1200m、2万~1.8万年前、石器ブロック16ヶ所、礫群30、配石8基。ナイフ型石器・彫器・掻器・楔型石器・削器・石錐等 ※丘の公園第1遺跡 2万~1.8万年前 (第2遺跡より新しい)。 ナイフ型石器・槍先型尖頭器 が出土し両石器群の関係が注目される。 彫器・ノッチ(抉入石器)・掻器・楔型石器・削器・石錐など 石器石材は、黒曜石・水晶・チャート、その他に、珪質頁岩・玉髄・流紋岩・粘板岩など 丘の公園14番ホール遺跡 丘の公園第1・2・3・4 遺跡 丘の公園入口遺跡 丘の公園第Z遺跡 |
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111北杜の旧石器時代 旧石器時代の道具 日本の旧石器時代遺跡から出土するのはほとんどが石器です。大陸では骨角器も豊富に出土しています。日本は酸性土壌で残りませんでした。 黒曜石などの緻密な石材では、ナイフ形石器、槍先型尖頭器、掻器、削器などが作られ、他の石材では、石斧類、敲石、磨石なども見られます。 横針前久保遺跡では伊豆神津島の黒曜石も見られ、旧石器時代に何らかの航海技術があったことが推定されます。 |
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113ナウマンゾウ ナウマンゾウはその化石の出土から、旧石器時代に九州から北海道まで広く分布していたが、2万年前には絶滅したと考えられる。 旧石器時代の狩猟対象動物で、狩猟の増加により、絶滅に至ったと考えられている。 体高は、現存のアジアゾウかやや小型で、体長約6m肩の高さ約2.8mと推定される。頭にベレー帽を被ったような出っ張りが特徴である。 旧石器時代の環境 湖沼へと続く湿地帯は旧石器時代の動物たちの格好の水場でした。同時に旧石器人にとっての絶好の狩場でした。 湿地に足を取られた大型獣は動きが鈍く、普段なら近づけない至近距離からでも槍を投げて狩りをしました。 野尻湖からはナウマンゾウやオオツノジカ等の大型獣の他に、ニホンジカ、イノシシ、アナグマ、ノウサギ、などの中・小型動物の遺体も 見つかっています。 また、チョウセンゴヨウなどの花粉化石のほか、ハシバミ、オニグルミなどが見つかり。当時の環境を知る上で貴重な資料となっています。 |
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114横針前久保遺跡 旧石器時代 長坂町
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115ホルンフェルス製石器 粘板岩が接触変成した熱変成岩。片理や劈開など、ガラス質的性質を持たない。引用コトバンク
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116丘の公園第1遺跡の石器 北杜市高根町清里 |
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120縄文時代 |
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121北杜の縄文時代 121a縄文人と自然の関り 約1.2万年前、氷河時代が終わり、徐々に気温が暖かくなり始め、海水面が上昇し、ドングリやクリなどの落葉広葉樹林が、東日本にも 急速に広がりました。 気候の変化は、自然環境や人間の生活に大きな変化をもたらします。この頃から土器が作られるようになりました。 変化に適応していく中で、定住的で豊かな文化が成立していったのです。 縄文時代の幕開けです。 北杜市では、長かった八ヶ岳の噴火活動が、収束を迎えようとしている時代です。 縄文時代の人々も現在と変わらないこの光景を眺めながら、自然の恵みに感謝して生活していたことでしょう。 黒曜石の流通 縄文時代前期以降、北杜市には大きなムラがいくつも営まれるようになります。恵まれた自然環境だけではなく、 生活に不可欠な石器製作に欠かせない黒曜石の一大産地、長野県の和田峠に近いことも大きな要因だったでしょう。 前期の天神遺跡※からは400g以上の大きな塊も見つかっていますし、 中期の寺所第2遺跡では2kg以上の黒曜石を埋納した住居跡が出土しました。一大消費地関東平野への再配分を担っていたのでしょう。 また、金生遺跡からは77kgの黒曜石が発見され、直接、採取のため原産地を訪れたものと推定されています。 ※金生遺跡は祭祀場遺跡であった。ここに大量の黒曜石があったのは、再配分用なのか、祭祀・供献用なのか。 ※天神遺跡 縄文時代前期後半の大規模集落跡 引用 0336天神遺跡 0031天神遺跡 0236天神遺跡
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121b縄文時代の道具 と植物食 縄文時代には、石、骨、角などを用いて道具を作りました。 石を打ち欠いて作る打製石斧には、撥状(ばち)のものや分銅型のものがあり、時期による流行や、違いも想定されます。 大きな石を磨いて作る乳房状の磨製石斧は伐採具として、定角式の磨製石斧は木材等の加工用として使用されました。 黒曜石で作られる石錐は革などの穴穿け用に、石匙は万能ナイフとして使用されました。 現在でも同じナイフと言いながら、形や大きさ、刃の付き方が違えば、使う用途は異なります。 縄文人も石材の性質や大きさなどの制約の中、様々な工夫をしながら多様な道具を作りました。 植物食料の利用 縄文人の食を支えたのは多種多様な植物食料でした。 土器で煮炊きすることで生ではアクが強く、澱粉が分解されず食料として利用することができなかった植物も利用できるようになったことで 食生活が豊かになりました。 食べる植物の範囲が広がったことで、長い期間、同じ場所に留まって生活できるようになりました。 中でも秋に実りを迎えるクリやドングリ、トチノミは長期の保存が可能で、長く厳しい冬を乗り切るのにとても重要な食料でした。 また、酒呑場遺跡から出土した土器からツルマメの圧痕が見つかっています。縄文時代の人々も豆類の栽培、管理を行っていたのか 大きな問題を投げかけています。 |
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121c漆の利用 福井県鳥浜貝塚の調査で、漆の利用は縄文時代草創期に遡ることが知られています。 漆の樹液は顔料を混ぜて土器や、木製品などの塗彩に使うほか、膠着材(接着材)としても使われました。 漆は乾燥した環境では痕跡が残りにくいが、この地域でも前期の終わりには赤漆と黒漆で丁寧に文様を描いた土器の破片が発見されています。 漆液の採取には、木の計画的管理が必要です。また、漆はかぶれる人が多いうえ、現在でも複雑な工程を何度も繰り返す高度な技術を要します。 この漆の生産体制、工芸技術が縄文時代に確立されていたことには驚かされます。 ※鳥浜貝塚出土の漆の小枝は12,600年前のもので、大陸から種で持ち込まれ、栽培で増殖したものと考えられます。 漆利用の完成した文化がその時に既にあったようです。つまり、漆液としての利用と、漆蝋としての利用ではないでしょうか。 |
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121c縄文時代の狩猟と犬 狩猟には黒曜石などで作られた石鏃を用いた弓矢が使われました。狩りの際には犬も追い込み猟の勢子として大事な役目を果たします。 犬は狩りの際の大事なパートナーとしてだけではなく、ペットとしても飼われていました。 貝塚では丁寧に埋葬された犬の骨が発見されることもあります。私たちにとって身近な甲斐犬も縄文時代から続く血統種と言われています。 また、考古学的な痕跡はほとんど残りませんが、罠猟も盛んに行われていたことと思われます。 丈夫な紐や縄があればできる、くくり罠猟なども広く行われていたことでしょう。 けもの道に沿って掘られたと考えられる落とし穴が連続する様子もわかっています。 |
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資料 縄文前期の様子 約6000~5000年前 気温が上昇し、様々な生活技術が発達し、定住化が進み、集落が増加します。特に、前期前半には最も気温が上昇し、縄文海進が進みます。 前期前半の中越式期には、あちこちで突如として大きな集落が営まれます。 坂平遺跡、板橋遺跡、堰口遺跡、上北田遺跡、根古屋遺跡、黒沢遺跡、向原遺跡、石之坪遺跡などです。 これらは互いに一定の間隔で併存し、互いの領域を侵さないかのように見えます。しかし、前期後半まで続くのは、太文字の三遺跡だけです。 ※縄文海進で土地を失った関東からの移住者は、大きな集団でやってきて、入植したが、少人数であった在地の縄文人達は、 食料獲得競争に敗れ、ムラを奪われ、更に奥地へと分け入ったのでしょうか。 |
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資料 縄文前期の遺跡 坂平遺跡 前期初頭~前葉の住居祉63、建物跡(方形柱穴列)6、小竪穴15、 土器、下吉井式・花積下層式・木島式・中越式・神ノ木式・石山式。前期初頭は在地系下吉井式、前期前葉は繊維を含む中越式が主流。 石器、石族・石錐・石匙・掻器・有抉石器・打製石斧・磨製石斧・横刃型石器・礫器・磨石・凹石・石皿など様々な物が大量に出土。 板橋遺跡 前期前半の中越式期の住居祉56、方形柱列8、土坑4。中越期の大集落跡。方形柱穴列は長野県特有でしたが、山梨県内で初めて発見された。 土器、新しい時期の中越式が主体で、神ノ木式・関山式が客体的に、木島式はほぼなし。 石器、水晶が多く出土 堰口遺跡 前期の中越式~諸磯b式期の住居祉90、集石土坑40、 中期籐内式期の住居祉5、 曾利Ⅱ式期の住居祉1 特に前期集落は長期間営まれた大集落。 八ヶ岳南麓の天神遺跡や甲ッ原遺跡同様にこの地域の拠点集落だった。 石蒸料理の集石土坑沢山有り、大規模な祭祀が行われたようだ。また、集落内に水を引き込む溝や堅果類があり、アク抜き施設あった。 土器、神ノ木式、関山式、中越式、有尾式の各土器 上北田遺跡 前期前半中越式期住居祉24、土器、長野の中越式、静岡の木島式、 住居内から堅果類が焼けて出土。魚型ペンダント滑石製、玦状耳飾。 中畑遺跡(長田口遺跡も同じ) 前期前半中越式期の住居祉16 中期~後期、弥生末~古墳の集落でもある。 前期前半の土器 中越式、木島式、花積下層式など。 木島式の中心静岡に近いため、木島式が多い。 |
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資料 中期の様子 約5000~4000年前 中部高地の縄文文化の最盛期。 100軒以上もある大集落ができ、、中央広場を囲む環状集落ができる。 上小用遺跡・向原遺跡・石之坪遺跡などがある。 |
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資料 中期の遺跡 上小用遺跡 貉沢式~曾利式期の住居祉70以上。曾利式期には環状集落に発展。土坑も多数。 ヒスイ製装身具・黒曜石製異形石器など。 井戸尻式、曾利Ⅰ式 向原遺跡 前期前半と中期の遺跡。後期の遺跡も確認。他の遺跡に比べて長く存続した。 顔面把手が大小様々 顔が数多く出土している。 井戸尻式、曾利Ⅰ式 石之坪遺跡 前期後半から中期の住居祉223、長期間の集落。 土器は、早期~晩期に及ぶ。 水棲動物を表現した抽象文が付けられた土器が多数出土。 新道式、籐内式、 |
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資料 後期の様子 約4000~3000年前 気候が寒冷化し、中部高地の遺跡数が激減する。集落は台地から低地へ移動する。 北杜市の遺跡も、向原遺跡、石之坪遺跡のみとなる。 確認された遺跡・遺物は後期前半のもので、後期後半の物はほとんど確認されていない。 晩期の様子 約3000~2500年前 東北地方の亀ヶ岡文化が栄えた時期で、文化の中心が北へ移っていったようです。 県内の遺跡数はさらに減少し、縄文文化が衰退していくようだ。 この時期の遺跡は屋敷平遺跡だけです。出土土器からは、アワ・キビなどの雑穀類の種子圧痕が見つかっています。 遺構・遺物は晩期後半から終末にかけてのもので、晩期前半のものは確認されていない。 後期後半から晩期前半にはほとんど無人だったと思われます。 晩期土器、称名寺式、堀ノ内式 条痕文土器・浮線文土器 (屋敷平遺跡) |
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122上北田遺跡出土品 前期前葉 山梨県内では、縄文前期前葉の遺跡が少なく、その内容は不明な点を残している。 このような中で、県東部では関東的な要素を持った土器が主体となるのに対し、 (※関東人に占領されたのかな) この資料は長野県中信・南信地域の影響下で成立する土器群を中心とし、 (※中信・南信地域に踏みとどまった縄文人もいた。) 長野県南部、東海地域からの文化の流入経路やその広がりを知る上で貴重な資料となっている。 (※在地人にとって、流入してくる移住者は困りもの。許せば自分が飢える。追い払ったか、追い払われたか。) 前期前葉の土器 |
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123中期土器 |
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124物の往来 黒曜石の中間集積地として重要な位置を占めたこの地域には、多くの地域から物資と情報がもたらされています。 ヒスイやコハクなどの装飾品は単に美しいものとしてだけではなく、威信材(所有者の権威を表すもの)として交易に使われたものでしょう。 市内ではまだ見つかっていませんが、山梨県内では、タイの骨や蛤の貝殻など、海岸部からもたらされたものが見つかっています。 この地域にも黒曜石と交換に干貝や干魚、塩などがもたらされていたことでしょう。 人の往来 北杜市は、地質的、鉱物組成的に八ヶ岳南麓を挟んで、塩川流域、釜無川流域の三地域に区分されます。(下図②参照) 縄文中期にはそれぞれのムラでそれぞれの鉱物組成に由来する土器が作られており、 北杜市内での細かい土器の移動 (人の移動) が明らかになっています。 また、この地域に独自の文様要素を持った土器が甲府盆地にもたらされているのも確認されていますし、 土製耳飾りの多く作られる地域 (多摩地域) からこの地域に耳飾りがもたらされています。 同族間の婚姻を忌み、他のムラに婚入した人々がもたらしたのでしょうか。 |
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125土器の交流 ヒスイやコハク、黒曜石の流通だけではなく、土器作りの情報、あるいは土器そのものも広い範囲からもたらされます。 土器は、交換する資材の容器として、或いは旅する人の物入れとして利用されたものだったのでしょう。
縄文中期の土器 |
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126縄文後期・晩期の土器 |
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127縄文遺跡分布図 |
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130縄文時代の石器 |
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131パン状炭化物 と漆採土器 縄文時代は石皿や磨石などの製粉具が大量に使用され、木の実や植物の種実などを磨り潰し、その粉を練って食用としていた。 練り上げて、成形されたものが稀に遺跡から発見されるが、残念ながら何の植物に由来するものか証明されていない。 寺所第2遺跡では、住居跡の灰の中からエゴマを主体とした、クッキーのように焼しめた炭化物が出土している。 ※エゴマは、シソ科の一年草。シソ(青紫蘇)とは同種の変種。東南アジア原産とされる。 一方。ゴマは、ゴマ科ゴマ属の一年草。アフリカ大陸に野生種のゴマ科植物が多く自生しているが、考古学の発掘調査から、紀元前3500年頃の インドが栽培ゴマの発祥地である。 |
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140金生遺跡 |
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141金生遺跡と配石遺構
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144金生遺跡の発見 金生遺跡の発見で、縄文後期から晩期(4000~2500年前)の姿が明らかになりました。 人々が生活した「住居跡」と「墓」、「祈りの場(配石遺構)」が一体となって出土したのです。 中でも東西60m南北15mに広がる配石遺構(1号配石)は多彩な遺物と共に、この遺跡を特徴づけるものでした。 この発見は、縄文時代後期から晩期にかけて文化的に衰退していくものと考えられていたイメージを覆し、縄文時代を見つめ直す きっかけとなり、全国的に注目を浴びました。 |
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145金生遺跡は 約3400㎡が発掘調査され、国史跡となりました。遺構は埋め戻し、盛土をした上に縄文晩期前半のムラの様子を再現しています。 石組遺構 「祈りの場」である1号配石の中に見られる石組遺構には、「石棺墓」、「円形石組遺構」「方形石組遺構」があります。 円形石組遺構は、 斜面の下部に見られますが、もともとは石棺墓です。石棺墓の上に、石組を円形に築き、女性器とみなしたようです。 この中に、男性器を象った(かたどった) 石棒を樹立し、死者の再生や食料となる動植物の豊穣を祈ったものと考えられています。 方形石組遺構は、 斜面上部に築かれた石棺墓でした。別の場所で焼いた人骨を、その人物を復元するかのように置いたものがありました。 斜面下部の円形石組遺構とは異なった祈りがささげられたことが想像されます。 |
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146配石遺構の模型 方形・円形石組、石棒、石棺 など、見えるかと、 |
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148a祈りの場 1号配石 一見乱雑に大量の石を集めただけに見える1号配石ですが、意図的に石が組まれています。 縄文時代後期中頃、中央に石垣状に石組を築き、その南北に「石棺墓」を作り始めました。 やがて、晩期前半にこの石棺墓の上にさらに石を敷き並べて石組遺構を築きました。 1号配石全体が「祈りの場」に変化していく様子が捉えられます。 この配石遺構の中には、重さ1tを超えるような花崗岩の巨石が、直線距離で4km以上離れた釜無川から、比高差100m以上の断崖を越えて運ばれ、 使われています。この配石遺構が作られた意味を考えさせられます。 金生遺跡の変遷 金生遺跡は、縄文前期から晩期にかけて4000年間も営まれたムラ跡です。39件の住居跡が見つかっています。 このうち36件が、後期から晩期の住居で、この時期は連続して人々が住んでいました。 同時に存在した住居の数は、出土した土器の型式変化を調べると、晩期初め頃にピークとなり、12軒になります。 しかし、重なり合った住居跡もある事から、実際にはもっと少なく、同時に存在したのは数件程度と考えられます。 |
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148b住居跡 金生遺跡からは、縄文時代後期から晩期の住居址が36軒発見され、このうち、地面を掘り込んだ竪穴住居跡は僅かに1軒だけで、 ほかは地面を浅く掘り込んだだけの平地住居でした。 これは、当時、地表面に露出していた「祈りの場(1号配石)」と同じ高さから、住居跡の周囲に巡らされた石列や敷石の発見から判明ました。 上屋の構造については、不明な点が多いのですが、石列の外側に柱穴を配列する傾向があることから、壁のある構造であったと考えられます。 |
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148d 遺物 金生遺跡からは、日常生活に深く関わる遺物が大量に出土しています。 煮炊き用土器、石皿と磨石、石鏃、打製石斧などです。 このほかに祈りを捧げる時に使われたと考えられる、 浅鉢・注口土器・匙状土製品などの土製品、 直接祈りの対象となる土偶・土版・石棒・石剣などの土製製品や石製品などがあります。 また、特別な日、ハレの日に身に着けた垂飾や耳飾りなども大量に発見されています。 |
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148e 犠牲 縄文晩期 当時の人々が生活していた地層からは、動物の焼けた骨が大量に出土しています。粉砕して撒かれたものです。 この様子から、これらの動物は、狩りの獲物として食料とされたばかりではなく、 火と結びついた祭祀や魂送りが行われていたことが想定されています。 動物の種類には、イノシシ、ニホンジカ、ニホンカモシカ、ツキノワグマが見られますが、中でもイノシシが多くみられます。 8号土壙と呼ばれる穴(直径1.3m深さ60cm)からは、イノシシの焼けた下顎骨138個体分出土しました。 一度にこれだけのイノシシが屠られて祭祀が行われたのだとすると、いったい、どのような祭祀が行われたのでしょうか。 ※各村々から飼いイノシシを連れてきて、一斉に屠殺して食べたような、重大な儀式が行われたのでしょうか。 金生遺跡のイノシシ飼育 ①金生遺跡(縄文後・晩期)の意義・4 イノシシ飼育 ②イノシシ飼育の問題点2 ③イノシシ飼育の問題点3 |
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149縄文時代の住まいとムラ 縄文時代になると定住化が進み、洞窟や大きくせり出した岩陰を利用しての生活から、平坦な斜面に住居を作り、一定期間留まって生活した。 縄文時代の住居には、 ①穴を掘って半地下構造の上に小屋掛けした竪穴住居と、 ②地面の上に壁を立ち上げた、壁立ち・平地住居、 ③地面に柱を打ち込んで、柱の間を壁とした掘っ立て柱建物 などが見られます。 時期や地域によって、作られる住居の形や構造も変化します。 住居の床には炉が作られ、照明・暖房・調理の場として利用されると共に、その上に火棚を設け、食物の乾燥・貯蔵にも利用されたでしょう。 縄文時代のムラ 住居がいくつか集まってムラが構成されます。ムラの中には住居だけではなく、墓や地倉(貯蔵穴)なども作られます。 縄文時代に多く見られる環状集落では、中央に広場のような空間を持ち、墓、住居、地倉が同心円状に配置されます。 梅之木遺跡では、環状集落と川辺の作業空間を繋ぐ道の跡も発見された。また、生活を続けながらゴミ捨て場も一定の場所に作られます。 大きなムラでは百軒以上の住居跡が見られますが、使用された土器を詳しく分析すると、同時に存在した住居は1~数軒程で 同じ時期に同時にくらした人々は多く見積もっても××人くらいだと考えられます。 |
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150中空土偶 縄文晩期後半 (約2,500年前) 金生遺跡 中空土偶に言及した掲示は館内にありませんでした。資料が載っている、山梨県立埋蔵文化財センターのページは全て不許複製が付いていて 一切転載できません。そこで、言えることだけを書きます 土偶は、輪積み法で作られています。この技法で作るのは、たいへん高度な技術です。 通常は、砂を多くした粘土を使い、中芯を作っておいて粘土を貼り付ける方法をとりますが、輪積み法で作り上げるのは困難の極みでしょう。 特に3分割したものを張り合わせる場面。 頭部の造形、彫り込みなどにも、どのようにして上部が落ちないように粘土を支えていたかがわかりません。 北海道の中空土偶も同じで、縄文人の造形力と技術力と頭の良さには感心させられます。 |
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151 |
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160顔面把手付土器 |
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161顔面把手付土器 中期前半 (約4500年前) 竹宇1遺跡 釜無川流域の遺跡出土の土器 解説文はありません。井戸尻式、などに似た土器です。 後出の出産文土器より前に作られました。 |
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170出産文土器、顔面把手付深鉢 人面把手付深鉢とも言っている |
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173山梨県指定文化財 顔面把手付深鉢 北杜市須玉町の津金御所前遺跡 文時代中期の深鉢形土器 約4000年前という記述もある 口縁部の顔面把手と土器本体にある人体のような装飾と顔面装飾があることから、子どもが誕生する瞬間を表現しているとされ、 出産文土器とも呼ばれている。縄文時代の精神文化を端的に示す資料である。 口縁部の大把手には内面を向いた顔面の他、外面にも苦痛に顔を歪めたように目をデフォルメした顔面が描かれている。 また、体部はほぼ同じモチーフが2単位施されており、口縁部から下垂する隆帯の中央にも顔面がつけられ、隆帯はこの顔面から下では二本に 分かれている。 この状況から2本の隆帯を下肢と捉え、出産を表現したものと考えられている。 |
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180第二の道具 縄文時代の遺物のうち、土器や石器のように、生活に直接かかわる道具を「第一の道具」と言います。 一方、それ以外の精神性を表す道具を「第二の道具」と呼んでいます。 縄文時代は生きていくうえで過酷な時代でした。出産の際は、死産の確率が高いだけでなく、母親が死に至る場合も数多くありました。 また、食料となる動物や植物の多少・作柄によって、簡単に「飢え」に至りました。「死」というものが、極めて身近だったのです。 そのため、子孫繁栄や、食料植物の方策・獲物の豊猟を願う祈りの行為は、人々にとって切実なものでした。 第二の道具の代表的なものには、石棒や、土偶があります。 祈りの現場 祭礼や儀礼には、家族、或いは同族集団で行うものと、ムラ全体で行うものがあります。 釣手土器は内部で燃料を燃やす、照明具ですが、大きなムラでも全く見つからないこともありますし、多くて数点しか見つかりません。 多くは、竪穴住居内から発見されます。非日常的な土器で、特別な祭礼や儀礼の際の聖なる光を得るために使用されたのでしょう。 同様に、石棒も縄文中期までは竪穴住居や墓と思われる穴から出土することが多いのですが、 後期以降、配石遺構と呼ばれる、ムラの共同の祭りの場が作られるようになると、配石遺構から多く出土するようになります。 |
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181panel
※縄文の音色 縄文時代の楽器は明らかになっていませんが、中に土玉や小石、あるいは豆類などを鳴子として入れた、丸く中空に作られた土鈴や、 猟師が使用するシカ笛に似た笛などの出土から、縄文人も音が鳴る道具を作っていたことがわかります。 小型のミニチュア土器と呼ばれるものの中には、吹くと音が鳴るホイッスルと考えられるものもあります。 これらは出土量が少なく、祈りをささげる場面など、特別な時に使用されたことと思われます。 |
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182祭祀具 |
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190土偶 土偶は土で作られた人形です。土器同様、土偶も地域や時期により様々な変化・変遷が見られます。 西日本では数が少ないが、縄文時代草創期から見られます。 この地地域では、前期後葉に出現し、少ない時期もありますが、晩期まで継続して見られます。 土偶には乳房・妊娠した腹部などが具象的に表現されたものが多く、ほとんどのものが女性だということがわかります。 体につけられた文様には入れ墨や衣服と考えられるものも見られます。 また、土偶は大半が何らかの形で破損しており、祭祀の際などに故意に破壊されたものと考え得られています。 土偶の製作 土偶は粘土を塊にしたものを幾つか繋ぎ合わせて整形して作られています。 中には、繋ぎ合わせるのに団子のように串で刺して貫いたものもあります。 遺跡から土偶が完全な形で出土することはほとんどありません。あえて壊れやすい構造にしていたと考えられます。 また、土偶はほとんどが板状、立像ですが、まれに壺を抱えたものや、蹲踞しているものも見られます。 このような土偶をポーズ土偶と呼んでいます。 土器のような作り方で内部を中空にして、中に鳴子を入れたものや、仮面をつけた様子がわかるものなどもあります。 |
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191 |
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192土偶・土版 |
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210記念物 死と祈り 縄文時代後期以降、東日本を中心に大きな配石遺構が作られるようになります。 また、この地域では見つかっていませんが、環状盛土遺構などの巨大な構築物も作られるようになります。 このような巨大な遺構を記念物・モニュメントと呼んでいます。これらの記念物は、そのムラに住む人々だけではなく、 遠くの地域からも人々が集まって来て、長い時間をかけて徐々に構築していったものと考えられます。 配石遺構からは多種多様な祭祀に用いる遺物のほか、日常の生活に使用する土器、石器も大量に発見されています。 物に宿る精霊の再生を願う、「魂送り」のような儀礼がそこで行われたのではないかと考えられています。 縄文ランドスケープ 縄文時代の人々は、日常の食料を獲得する中で自然のサイクル、太陽の運行に気づいていたと考えられます。 特に冬至は1年で最も日が短くなる日で、この地域では冬季の晴天率が高いことから注意されていたことと思われます。 金生遺跡のムラの中央から見る冬至の日没は、甲斐駒ケ岳の山頂に没します。 このような場合でなくても、ムラから見える象徴的な山に日が落ちた後、何日目が冬至だと認識していたと考えられます。 また、あの山に日が落ちたら、そろそろ○○が採れる季節だと気づいていたことでしょう。 太陽の運行は縄文人にとって、年間のサイクルを知るカレンダーであると同時に、日の出・日没の瞬間は時計同様に時間を認識していました。 |
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220祈りの道具 |
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230館内全景 |
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300弥生時代 |
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310北杜の弥生時代 |
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320弥生土器 |
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330弥生時代 |
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331弥生時代 約3,000年前、大陸から伝わった稲作中心の農耕文化は、山梨県内には、約2,500年前に伝わりました。 自然の恵みに依存した狩猟・採集の生活から生産経済へ移行した古代の産業革命と言われる、弥生時代の幕開けです。 しかし、一斉に稲作が行われたわけではありません。その気候や地理的条件から、地域によって受け入れ方に差異がありました。 北杜市域では、気候が寒冷であったためか、今のところ水田遺構は見つかっていません。 本格的に集落が作られ始めたのは弥生時代後期以降のことで、鳩川流域などにみられます。 弥生時代の道具 弥生時代になると、稲作技術と共に大陸系の太型蛤刃石斧、抉入柱状片刃石斧などの磨製石器類が導入されました。 北杜市域では、これらの石器類はまだ見つかっていません。 稲の収穫に使われる穂摘み具の石包丁は、屋敷添遺跡から1点だけ発見されています。 このような状況から、同じ弥生時代と言っても、地域によって受け入れた内容が異なっていたことが想定されています。 この地域の弥生時代~古墳時代前期の遺跡からは、縄文時代の打製石斧のような大きな石器が出土します。 「石鍬」と呼び、起耕具と考えられています。 水田は見つかっていませんが、雑穀類が作られていたのかもしれません。 |
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300弥生時代 |
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310北杜の弥生時代 |
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320弥生土器 |
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330弥生時代 |
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331弥生時代 約3,000年前、大陸から伝わった稲作中心の農耕文化は、山梨県内には、約2,500年前に伝わりました。 自然の恵みに依存した狩猟・採集の生活から生産経済へ移行した古代の産業革命と言われる、弥生時代の幕開けです。 しかし、一斉に稲作が行われたわけではありません。その気候や地理的条件から、地域によって受け入れ方に差異がありました。 北杜市域では、気候が寒冷であったためか、今のところ水田遺構は見つかっていません。 本格的に集落が作られ始めたのは弥生時代後期以降のことで、鳩川流域などにみられます。 弥生時代の道具 弥生時代になると、稲作技術と共に大陸系の太型蛤刃石斧、抉入柱状片刃石斧などの磨製石器類が導入されました。 北杜市域では、これらの石器類はまだ見つかっていません。 稲の収穫に使われる穂摘み具の石包丁は、屋敷添遺跡から1点だけ発見されています。 このような状況から、同じ弥生時代と言っても、地域によって受け入れた内容が異なっていたことが想定されています。 この地域の弥生時代~古墳時代前期の遺跡からは、縄文時代の打製石斧のような大きな石器が出土します。 「石鍬」と呼び、起耕具と考えられています。 水田は見つかっていませんが、雑穀類が作られていたのかもしれません。 |
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332a弥生時代の墓制 弥生時代の墓には穴を掘って直接埋葬するもの、埋葬した後、しばらく時間が経過してから骨になったものを土器に納め直して再び埋葬する、 再葬墓、また、方形周溝墓があります。 下大内遺跡で見つかった、大きな壺は、元々種籾などを蓄える為の貯蔵用の容器でしたが、最終的には骨壺として再葬墓に使われました。 方形周溝墓は、四角に溝を掘って土を内側に盛り、低い墳丘を造った墓です。この墓は弥生時代の初めから古墳時代前期まで造られます。 古墳時代前期に多くの遺跡から発見されるようになります。 |
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332b弥生時代の鉄器 弥生時代なると、農耕文化、大陸系の磨製石斧類、布を織る技術と共に、青銅器や鉄器が僅かな時間をおいて全国に広がります。 頭無A遺跡では、 弥生後期の方形周溝墓から鉄剣と鉄釧 が発見されました。鉄釧は被葬者が身に着けていたもの、鉄剣は副葬されたものです。 弥生時代の鉄釧は山梨県内では他に例がなく、また、方形周溝墓から鉄剣が出土した例も県内では、数例しかありません。 弥生時代の北杜市には大きな集団もなく、農作も盛んだったとは考えられません。 このような中に、鉄釧を身に着け、鉄剣を副葬される人物の登場は想像を超えたものでした。
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333a 鉄剣・螺旋形鉄釧・ガラス玉 頭無A遺跡5号墓 (弥生後期) の埋葬主体部から出土。鉄剣は中国大陸もしくは朝鮮半島からの舶来品と考えられる。 日本海ルートから北信濃を経由してもたらされたものか。剣身の一部に鞘の残骸と思われる木質部が付着している。 螺旋形鉄釧は扁平な鉄材を15巻して形成されたもの。エックス線写真からは2本の細い鉄を1本にして作られている可能性がある。 ガラス玉は引き延ばし技法で製作されたものと考えられる。 |
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333b 勾玉・管玉・特殊土器 大日川原遺跡12号墓 (古墳前期) の周溝墓から出土。 勾玉・管玉は、1カ所からまとまって出土。すべて緑色凝灰岩製で、一連の垂飾を構成していました。 特殊土器は垂飾と離れた周溝覆土中からの出土した。 胴部肩に3個の口頸部をほぼ等間隔につける。その中央および脚台との接合部、脚台部裾にも焼成前に穿孔が施されている。 また、胴部下半には打欠きが見られ、儀礼に伴うものと推定される。 類例に乏しいものの製作技法からは東海地方西部、美濃地方からの移入品と考えられる。
考察 特殊土器の使い方 この特殊土器とは何でしょう。 三っつ口が有るのは、なんらかの意味があって、儀式用に使ったのでしょう。 (例えば、神・夫・妻用とか) 近年は、夫婦茶碗、夫婦杯は、美しい絵柄・色柄で夫婦其々用だが、60年前に夫婦杯を見せてその意味を語ってくれた人がいた。(小学低学年頃) 詳細は忘却だが、一つには孔があり、儀式の意味は、再びこれを使うことはない。二度と婚礼することはないという意味だった。 壺・甕の穿孔は、死者の魂の通り道だが、儀式用特殊壺の孔は、最初使用するときには指で穴をふさいで液漏れを止め、 終わると指を離して液を流す。神 (カミ) に誓ってこの約束事を破らない。という誓約の儀式である。 夫婦杯も、最初は穴を指で押さえておき、使用すると、もう使わないというのが正しい使い方だと聞いた。(60年前の記憶 (笑)) |
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400古墳時代 |
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410古墳時代 3世紀中頃、奈良盆地で大規模な墳墓 (前方後円墳) が作られ始めます。急速に国家統一に向けて動き出した時期でもあります。 甲斐国では甲府盆地南部に銚子塚古墳、大丸山古墳などの大規模な前方後円墳が築造され、その出土物から中央(大和)との強い結びつきが 伺われます。 北杜市域では、弥生時代後期の集落を引き継ぎ、八ヶ岳南麓の鳩川中流域を中心として、大きな勢力が分布します。 塩川流域では、古墳時代前期の集落が僅かに見られるほか、後期になって、自然堤防上などに平安時代まで継続する集落が出現します。 また、釜無川流域では、古墳時代の様子は明らかになってはいません。 古墳時代
北村遺跡の葬送儀礼 北村遺跡から発見された古墳時代前期の方形周溝墓には墳丘が残されていたものがありました。 この墳丘が残されていたことにより、墓の上で行われた儀礼の内容を窺い知ることができました。 1号墓では墳丘部中央から埋葬主体と思われる竪穴が見つかり、この上から小型壺や高坏、鉢などの多くの土器が出土しています。 これらは死者に捧げられた副葬品ではなく、神となった亡き首長と、それを引き継ぐ後継者との饗応の場であったと考えられます。 神である祖霊と、その後継者である首長が飲食を共することで神と人が一体となり、首長権が正式に継承されたことを人々に伝えたので ないかと考えられます。 ※墓前・墓上祭祀は、長男 (跡取り) の役目。現代にも引き継がれている。が、ここでは、権力の世襲を意味する。他者に盗られない譲らない。
土器の移動・人の活動 縄文土器に比べ、弥生土器は、地域性が比較的少なくなったと考えられがちですが、古墳時代前期までは地域色は色濃く残されています。 このような地域色に注目すると、北村遺跡から出土した土器は、あまり丁寧に作られていませんが、 ・高坏やS字口縁台付甕、口縁部が直立しながら内湾するヒサゴ壺などの東海地方の系譜のある土器や、 ・二重口縁壺やS字口縁鉢など畿内地域に系譜の求められるもの、 ・頸部に櫛描波状文を施す中部高地系の壺等も見られます。 このような活発な土器の移動は、北村遺跡だけではなく、全国的に見られる現象で、 国家統一に向けて中心的な役割を果たした地域集団のいたことが明らかとなっています。
方形周溝墓 |
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420土器 |
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421古墳時代の土器 古墳時代から古代の土器は土師器です。 弥生時代の煮炊き用の甕、貯蔵用の壺、食べ物を盛り付ける高坏がほとんどを占めていますが、 古墳時代になると、祭祀に使われる小型丸底土器、器台が加わります。古墳の築造と共に、一般家庭の祭祀も変化したのです。 また、4世紀中頃には、朝鮮半島から窯で焼かれた硬質の須恵器が伝わります。 工人を伴った朝鮮半島からの人々の移住により、新たにもたらされた技術によるものです。 この地域にも比較的早い段階でもたらされますが、量としてはごく僅かです。 古墳時代後期になると、 土器は須恵器の影響を受けたものに大きく様変わりし、住居の中へのカマドの導入と共に日々の暮らしも変化していきます。 古墳時代の土器 |
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時代区分論 古墳時代は、古墳、特に前方後円墳の築造が卓越した時代を意味する考古学上の時代区分。現在、古墳時代の始まりの年代に関しては 議論が大きく揺れ動いているが、おおむね3世紀中頃に始まり、710年の平城京遷都までを古墳時代としている。 また、文献史の立場では、崇峻天皇5年(592年)から和同3年(710年)の118年間にかけて飛鳥に宮都が置かれていた時代を飛鳥時代と呼ぶ 場合もある。 そのほかにも美術史の立場で白鳳時代等の呼び方をする場合もある。 S字状口縁台付甕 口縁部の断面が「S」字状に見えることからこの名称が使われている。東海地方西部で古墳時代前期に作られ始めた土器であるが、 その分布は九州北部から東北南部に至る。型式変遷が明らかにされ、日本各地の土器の交差編年の指標として重要な位置を占める。 また、この土器を含む東海系土器の受容動態などから古墳発生期の社会の変化を探る上でも重要となる 422古墳前期土器 |
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423古墳後期土器 |
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424秋夏天王塚古墳 |
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430北杜市内の古墳 昭和7年には市内で10基あった古墳はその後、破壊や発見があった。(現在は破壊が進み、現存総数は把握されていない。) 現在、市内の古墳は全て後期の円墳です。この時代は全国的に最も多く古墳が築造された時期で、被葬者は集落の首長層まで広がった。 北杜市域では三之蔵古墳群、湯沢古墳群、の他に鳩中川中流域に古墳が集中します。この中で、 夏秋天王塚古墳はその規模、出土遺物共に傑出したものでした。 弥生後期から継続する地域集団が築造したと考えられます。 古墳時代の住居 古墳時代の住居はほとんど竪穴住居でした。住居の形は角丸方形のものから、やがてほぼ正方形のものへと変化していきます。 一部の地域を除き、 古墳時代中期までは竪穴住居のほぼ中央に炉(囲炉裏があり、照明や暖房、台所を兼ねていましたが、 古墳時代後期になるとカマドが竪穴住居の奥壁に造られるようになります。 カマドは石などを芯にして、粘土を貼り付けて作られ、そこで燃やされた煙は煙道を通って竪穴住居外に排出されます。 カマドは調理施設ですので、照明は別に照明用の燈明具が必要になりますし、そこで燃やされる燃料も必要になります。 カマドを作る技術は朝鮮半島から渡ってきた人々のもたらした文化でした。 |
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440奈良・平安時代 |
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441北杜の奈良・平安時代 和銅3(710)年、平城京遷都と共に奈良時代が始まりる。北杜市の奈良時代遺跡は、塩川の自然堤防の上などに僅かに見られるだけです。 平安時代になると、、山地開発への関心の高まりや、この地に設置された朝廷直轄の御牧の経営を背景に集落が急激に増加していきます。 釜無川流域では「真衣野牧」の経営に関わった宮間田遺跡が出現します。 塩川流域では「小笠原牧」そのものの遺構ではないかと考えられる永井原Ⅴ遺跡を中心に、それを取り巻くように大きな遺跡が分布します。 八ヶ岳南麓の南端近くに官衙的な性格を考えられる湯沢遺跡があり、その北側、鳩川流域を中心に直線的に大きな集落が連続しています。
甲斐型土器 8世紀以降、甲斐国全域に流通している土師器で、古い段階のものは駿河、相模国にも流通している。器種には杯・皿・大小の甕がある。 坏や皿は精選されたきめの細かい土で作られ、赤褐色のものが多い。 器外面はヘラで丁寧に磨かれたものから、後には磨かずに削りの痕跡が残されるようになる。 内面には暗文と呼ばれる細い線の模様が描かれている。 内黒土器 信濃国で多く使われていることから、信州型とも呼ばれる。坏や皿は、器内面をヘラで磨いてから、炭の粒子を付着させるため内側が黒い。 稀に放射状や螺旋状の暗文が施されるものもある。 外面は黄白色から黄褐色のものが多い。器種には坏・皿・鉢がある他、大型の片口鉢も見られる。 甲斐国では、旧巨麻郡内の遺跡からの出土が多い。 441
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442古代の開発と集落 平安時代になると、北杜市域の山間地の開発が急速に進められました。これは、開墾奨励策や朝廷直轄の御牧の整備などのためです。 集落には鍛冶跡が多く、開墾に必要な農具の製造や修理が頻繁に行われました。 集落には、竪穴住居と掘立柱建物跡が見られます。一般的な竪穴住居は一辺約4mの方形で、東側の壁にカマドを作ります。 掘立柱建物は作業場や納屋などに使用していました。大きな集落には、税となる稲を収める倉も作られました。 寺所遺跡では、掘立柱建物跡を伴った大きな竪穴住居の周りに住居跡が密集しています。開拓領主の住まいと開拓民の集落と考えられます。 |
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443墨書土器 平安時代に使われた土器の中には、文字を墨書したものがあります。殆どは漢字1文字だけ書きます。 数字 (百・千等)、干支 (子・艮)等、身分 (守・目=さかん等)、人命 (麻呂・廣等)、氏族名 (安曇・物=物部等)、施設名(寺・政所・倉等)、食糧(酒・魚等) 吉祥句(福・吉等)です。種類が多岐にわたるため、墨書の目的は其々異なったと考えられます。 このような中、寺所遺跡では、「侈or福」の土器が、破片を含めて157点も出土しています。特殊な儀礼に伴うものと考えられます。 則天文字 則天武后 (唐の高宗の皇后) が制定した文字。この文字が使用された僅かな時期の経典などを遣唐使が持ち帰り、それが各地に流布した。 逆説的に、平安時代の集落にに仏僧など識字層が存在したといえる。 |
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444村の鍛冶屋 平安時代、北杜市では山間地の開発が積極的に進められ、集落跡からは開拓に必要な鋤先や、鋸、鎌などの鉄製品が出土します。 これらを作ったり、修理するための鍛冶場も多く見られます。 東原遺跡 (大泉町) では竪穴住居の中で家事を行っていた様子が明らかになっています。床面中央に大きな平たい石を据えて、金床とし、 鉄を鍛錬する時に飛び散る鉄の細かい塊がその周囲に厚く堆積し、石の周囲の地面は焼けた鉄の熱のため赤く焼けていました。 ふいごの羽口の出土から、ふいごで送風し、炭火を強熱して鉄を高温に焼いて作業していたこともわかります。 |
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445御牧の設置 平安時代になると、朝廷直轄の「御牧」が甲斐・信濃・上野(こうづけ)・武蔵の4国に設置されます。 甲斐国には「真衣野牧」(武川町牧原周辺)・「柏前牧」(高根町樫山周辺・異説有)・「穂坂牧」(韮崎市穂坂周辺)が置かれました。 いずれも北杜市域とその周辺です。 調教された良馬を毎年朝廷に献上しますが、その数は穂坂牧で30頭、真衣野・柏前両牧で30頭と決められていました。 これだけの良馬を生産するために、1,700頭もの馬が飼われていたといわれています。 馬は、財産と軍事力という2つの側面がありました。有力な貴族は牧を私的に経営し、馬を贈与品とすることで勢力の拡大に努めました。 一方、軍事力としては、後の地域武士団の形成に深く関わることになります。北杜市域の私牧としては、「小笠原牧」と「逸見牧」が有名です。
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446 湯沢遺跡 湯沢遺跡 (高根町) は、当時の役所跡でないかと考えられていますが、軍事的緊張も強く感じさせます。 竪穴住居の他に集落を区画する柵の列と、沢山の掘立柱建物跡が整然と並んで見つかりました。 この集落は背後に山を背負って展開し、集落前方には物見を伴った柵が巡り、柵の中央には門が置かれていたことが分かっています。 この遺跡からは、当時、寺院や役所のような施設でしか使われていなかった瓦が出土しています。 ほかにも銅製の鈴や皇朝十二銭の「隆平永宝」などの特殊な遺物が出土し、この遺跡の性格を際立たせています。 大小久保遺跡 遺跡 (須玉町) は湯沢遺跡 (高根町) から400mほど離れて立地する平安時代の集落で、土器焼成土坑が8基発見され、 黒色土器を生産していたことが明らかとなっている。 しかし、流通範囲は極めて狭く、ここで生産された土器は、湯沢遺跡でしか確認されず、両遺跡の関係が注目される。 |
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450古代の牧 小笠原牧・逸見牧 小笠原牧は、応和元年 (961) 「冷泉院小笠原御馬を陣外に於いて分け取らしむ」という記録から、10世紀半ばには後院牧(=冷泉院) として設置 されていたことが確認されます。永井原Ⅴ遺跡 (明野町) では、600m以上に渡って直線的に延びる浅い溝が発見されました。 遺跡の立地からこの溝は小笠原牧を区画する「格」と考えられています。 逸見牧も同じく後院牧と想定され、両牧の名を詠み込んだ和歌の作者、紀貫之の没年から両牧の成立は更に遡り10世紀初めに成立していた 可能性が指摘されています。 その後、これらの牧は、荘園へと発展し、後院から皇室領、そして平安末期には摂関 (近衛) 家領として伝領されたと考えられています。 古代の馬 馬というとサラブレッドなどの大型馬を想像しがちですが、これらは明治以降、移入、交配が進められたものです。それ以前の日本の馬は、 古墳時代に朝鮮半島を経由して導入された体高 (肩までの高さ) 120cm程の蒙古系馬で、分類的には馬ではなく、ポニーとされます。 日本では去勢の技術がなく、小型の馬とはいえ、強悍で、源頼朝が宇治川の戦いの際に佐々木高綱に与えた「生食(イケヅキ)」は 人に噛みつくほどの猛々しさから名付けられたとも言われています。 また、「吾妻鏡」には奥州随一の駿馬として「高楯黒 (タカタテグロ)」と号す馬が登場しますが、体高147cmの大きさであったと記されていて 個体差が大きかったことが分かります。 450
古代の官道 古代の都城と地方の役所・官衙を結びつけたのが官道です。甲斐国は当初より東海道に属し、官道は主に東海道が使用されました。 駿河国横走駅で本道と別れて甲斐路に入ります。駒牽の行事もこの官道を使って行われました。 一方、桑原南遺跡 (須玉町下津金) で駅家などに見られるような大規模な掘立柱建物跡が見つかった事から、海岸寺峠を抜けて佐久、東山道に 抜けるルートや、平安地有機に編纂された延喜式にも記述のある宇波刀神社、比志神社、神部神社の存在から信州峠を越えて信州佐久に至る 小尾街道 (穂坂路) も早い段階で整備されていたものと推定されます。
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300弥生時代 |
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310北杜の弥生時代 |
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330弥生時代 |
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331弥生時代 約3,000年前、大陸から伝わった稲作中心の農耕文化は、山梨県内には、約2,500年前に伝わりました。 自然の恵みに依存した狩猟・採集の生活から生産経済へ移行した古代の産業革命と言われる、弥生時代の幕開けです。 しかし、一斉に稲作が行われたわけではありません。その気候や地理的条件から、地域によって受け入れ方に差異がありました。 北杜市域では、気候が寒冷であったためか、今のところ水田遺構は見つかっていません。 本格的に集落が作られ始めたのは弥生時代後期以降のことで、鳩川流域などにみられます。 弥生時代の道具 弥生時代になると、稲作技術と共に大陸系の太型蛤刃石斧、抉入柱状片刃石斧などの磨製石器類が導入されました。 北杜市域では、これらの石器類はまだ見つかっていません。 稲の収穫に使われる穂摘み具の石包丁は、屋敷添遺跡から1点だけ発見されています。 このような状況から、同じ弥生時代と言っても、地域によって受け入れた内容が異なっていたことが想定されています。 この地域の弥生時代~古墳時代前期の遺跡からは、縄文時代の打製石斧のような大きな石器が出土します。 「石鍬」と呼び、起耕具と考えられています。 水田は見つかっていませんが、雑穀類が作られていたのかもしれません。 |
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332a弥生時代の墓制 弥生時代の墓には穴を掘って直接埋葬するもの、埋葬した後、しばらく時間が経過してから骨になったものを土器に納め直して再び埋葬する、 再葬墓、また、方形周溝墓があります。 下大内遺跡で見つかった、大きな壺は、元々種籾などを蓄える為の貯蔵用の容器でしたが、最終的には骨壺として再葬墓に使われました。 方形周溝墓は、四角に溝を掘って土を内側に盛り、低い墳丘を造った墓です。この墓は弥生時代の初めから古墳時代前期まで造られます。 古墳時代前期に多くの遺跡から発見されるようになります。 |
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332b弥生時代の鉄器 弥生時代なると、農耕文化、大陸系の磨製石斧類、布を織る技術と共に、青銅器や鉄器が僅かな時間をおいて全国に広がります。 頭無A遺跡では、 弥生後期の方形周溝墓から鉄剣と鉄釧 が発見されました。鉄釧は被葬者が身に着けていたもの、鉄剣は副葬されたものです。 弥生時代の鉄釧は山梨県内では他に例がなく、また、方形周溝墓から鉄剣が出土した例も県内では、数例しかありません。 弥生時代の北杜市には大きな集団もなく、農作も盛んだったとは考えられません。 このような中に、鉄釧を身に着け、鉄剣を副葬される人物の登場は想像を超えたものでした。
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333a 鉄剣・螺旋形鉄釧・ガラス玉 頭無A遺跡5号墓 (弥生後期) の埋葬主体部から出土。鉄剣は中国大陸もしくは朝鮮半島からの舶来品と考えられる。 日本海ルートから北信濃を経由してもたらされたものか。剣身の一部に鞘の残骸と思われる木質部が付着している。 螺旋形鉄釧は扁平な鉄材を15巻して形成されたもの。エックス線写真からは2本の細い鉄を1本にして作られている可能性がある。 ガラス玉は引き延ばし技法で製作されたものと考えられる。 |
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333b 勾玉・管玉・特殊土器 大日川原遺跡12号墓 (古墳前期) の周溝墓から出土。 勾玉・管玉は、1カ所からまとまって出土。すべて緑色凝灰岩製で、一連の垂飾を構成していました。 特殊土器は垂飾と離れた周溝覆土中からの出土した。 胴部肩に3個の口頸部をほぼ等間隔につける。その中央および脚台との接合部、脚台部裾にも焼成前に穿孔が施されている。 また、胴部下半には打欠きが見られ、儀礼に伴うものと推定される。 類例に乏しいものの製作技法からは東海地方西部、美濃地方からの移入品と考えられる。
考察 特殊土器の使い方 この特殊土器とは何でしょう。 三っつ口が有るのは、なんらかの意味があって、儀式用に使ったのでしょう。 (例えば、神・夫・妻用とか) 近年は、夫婦茶碗、夫婦杯は、美しい絵柄・色柄で夫婦其々用だが、60年前に夫婦杯を見せてその意味を語ってくれた人がいた。(小学低学年頃) 詳細は忘却だが、一つには孔があり、儀式の意味は、再びこれを使うことはない。二度と婚礼することはないという意味だった。 壺・甕の穿孔は、死者の魂の通り道だが、儀式用特殊壺の孔は、最初使用するときには指で穴をふさいで液漏れを止め、 終わると指を離して液を流す。神 (カミ) に誓ってこの約束事を破らない。という誓約の儀式である。 夫婦杯も、最初は穴を指で押さえておき、使用すると、もう使わないというのが正しい使い方だと聞いた。(60年前の記憶 (笑)) |
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410古墳時代 3世紀中頃、奈良盆地で大規模な墳墓 (前方後円墳) が作られ始めます。急速に国家統一に向けて動き出した時期でもあります。 甲斐国では甲府盆地南部に銚子塚古墳、大丸山古墳などの大規模な前方後円墳が築造され、その出土物から中央(大和)との強い結びつきが 伺われます。 北杜市域では、弥生時代後期の集落を引き継ぎ、八ヶ岳南麓の鳩川中流域を中心として、大きな勢力が分布します。 塩川流域では、古墳時代前期の集落が僅かに見られるほか、後期になって、自然堤防上などに平安時代まで継続する集落が出現します。 また、釜無川流域では、古墳時代の様子は明らかになってはいません。 古墳時代
北村遺跡の葬送儀礼 北村遺跡から発見された古墳時代前期の方形周溝墓には墳丘が残されていたものがありました。 この墳丘が残されていたことにより、墓の上で行われた儀礼の内容を窺い知ることができました。 1号墓では墳丘部中央から埋葬主体と思われる竪穴が見つかり、この上から小型壺や高坏、鉢などの多くの土器が出土しています。 これらは死者に捧げられた副葬品ではなく、神となった亡き首長と、それを引き継ぐ後継者との饗応の場であったと考えられます。 神である祖霊と、その後継者である首長が飲食を共することで神と人が一体となり、首長権が正式に継承されたことを人々に伝えたので ないかと考えられます。 ※墓前・墓上祭祀は、長男 (跡取り) の役目。現代にも引き継がれている。が、ここでは、権力の世襲を意味する。他者に盗られない譲らない。
土器の移動・人の活動 縄文土器に比べ、弥生土器は、地域性が比較的少なくなったと考えられがちですが、古墳時代前期までは地域色は色濃く残されています。 このような地域色に注目すると、北村遺跡から出土した土器は、あまり丁寧に作られていませんが、 ・高坏やS字口縁台付甕、口縁部が直立しながら内湾するヒサゴ壺などの東海地方の系譜のある土器や、 ・二重口縁壺やS字口縁鉢など畿内地域に系譜の求められるもの、 ・頸部に櫛描波状文を施す中部高地系の壺等も見られます。 このような活発な土器の移動は、北村遺跡だけではなく、全国的に見られる現象で、 国家統一に向けて中心的な役割を果たした地域集団のいたことが明らかとなっています。
方形周溝墓 |
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420土器 |
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421古墳時代の土器 古墳時代から古代の土器は土師器です。 弥生時代の煮炊き用の甕、貯蔵用の壺、食べ物を盛り付ける高坏がほとんどを占めていますが、 古墳時代になると、祭祀に使われる小型丸底土器、器台が加わります。古墳の築造と共に、一般家庭の祭祀も変化したのです。 また、4世紀中頃には、朝鮮半島から窯で焼かれた硬質の須恵器が伝わります。 工人を伴った朝鮮半島からの人々の移住により、新たにもたらされた技術によるものです。 この地域にも比較的早い段階でもたらされますが、量としてはごく僅かです。 古墳時代後期になると、 土器は須恵器の影響を受けたものに大きく様変わりし、住居の中へのカマドの導入と共に日々の暮らしも変化していきます。 古墳時代の土器 |
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時代区分論 古墳時代は、古墳、特に前方後円墳の築造が卓越した時代を意味する考古学上の時代区分。現在、古墳時代の始まりの年代に関しては 議論が大きく揺れ動いているが、おおむね3世紀中頃に始まり、710年の平城京遷都までを古墳時代としている。 また、文献史の立場では、崇峻天皇5年(592年)から和同3年(710年)の118年間にかけて飛鳥に宮都が置かれていた時代を飛鳥時代と呼ぶ 場合もある。 そのほかにも美術史の立場で白鳳時代等の呼び方をする場合もある。 S字状口縁台付甕 口縁部の断面が「S」字状に見えることからこの名称が使われている。東海地方西部で古墳時代前期に作られ始めた土器であるが、 その分布は九州北部から東北南部に至る。型式変遷が明らかにされ、日本各地の土器の交差編年の指標として重要な位置を占める。 また、この土器を含む東海系土器の受容動態などから古墳発生期の社会の変化を探る上でも重要となる 422古墳前期土器 |
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423古墳後期土器 |
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424秋夏天王塚古墳 |
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430北杜市内の古墳 昭和7年には市内で10基あった古墳はその後、破壊や発見があった。(現在は破壊が進み、現存総数は把握されていない。) 現在、市内の古墳は全て後期の円墳です。この時代は全国的に最も多く古墳が築造された時期で、被葬者は集落の首長層まで広がった。 北杜市域では三之蔵古墳群、湯沢古墳群、の他に鳩中川中流域に古墳が集中します。この中で、 夏秋天王塚古墳はその規模、出土遺物共に傑出したものでした。 弥生後期から継続する地域集団が築造したと考えられます。 古墳時代の住居 古墳時代の住居はほとんど竪穴住居でした。住居の形は角丸方形のものから、やがてほぼ正方形のものへと変化していきます。 一部の地域を除き、 古墳時代中期までは竪穴住居のほぼ中央に炉(囲炉裏があり、照明や暖房、台所を兼ねていましたが、 古墳時代後期になるとカマドが竪穴住居の奥壁に造られるようになります。 カマドは石などを芯にして、粘土を貼り付けて作られ、そこで燃やされた煙は煙道を通って竪穴住居外に排出されます。 カマドは調理施設ですので、照明は別に照明用の燈明具が必要になりますし、そこで燃やされる燃料も必要になります。 カマドを作る技術は朝鮮半島から渡ってきた人々のもたらした文化でした。 |
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440奈良・平安時代 |
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441北杜の奈良・平安時代 和銅3(710)年、平城京遷都と共に奈良時代が始まりる。北杜市の奈良時代遺跡は、塩川の自然堤防の上などに僅かに見られるだけです。 平安時代になると、、山地開発への関心の高まりや、この地に設置された朝廷直轄の御牧の経営を背景に集落が急激に増加していきます。 釜無川流域では「真衣野牧」の経営に関わった宮間田遺跡が出現します。 塩川流域では「小笠原牧」そのものの遺構ではないかと考えられる永井原Ⅴ遺跡を中心に、それを取り巻くように大きな遺跡が分布します。 八ヶ岳南麓の南端近くに官衙的な性格を考えられる湯沢遺跡があり、その北側、鳩川流域を中心に直線的に大きな集落が連続しています。
甲斐型土器 8世紀以降、甲斐国全域に流通している土師器で、古い段階のものは駿河、相模国にも流通している。器種には杯・皿・大小の甕がある。 坏や皿は精選されたきめの細かい土で作られ、赤褐色のものが多い。 器外面はヘラで丁寧に磨かれたものから、後には磨かずに削りの痕跡が残されるようになる。 内面には暗文と呼ばれる細い線の模様が描かれている。 内黒土器 信濃国で多く使われていることから、信州型とも呼ばれる。坏や皿は、器内面をヘラで磨いてから、炭の粒子を付着させるため内側が黒い。 稀に放射状や螺旋状の暗文が施されるものもある。 外面は黄白色から黄褐色のものが多い。器種には坏・皿・鉢がある他、大型の片口鉢も見られる。 甲斐国では、旧巨麻郡内の遺跡からの出土が多い。 441
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442古代の開発と集落 平安時代になると、北杜市域の山間地の開発が急速に進められました。これは、開墾奨励策や朝廷直轄の御牧の整備などのためです。 集落には鍛冶跡が多く、開墾に必要な農具の製造や修理が頻繁に行われました。 集落には、竪穴住居と掘立柱建物跡が見られます。一般的な竪穴住居は一辺約4mの方形で、東側の壁にカマドを作ります。 掘立柱建物は作業場や納屋などに使用していました。大きな集落には、税となる稲を収める倉も作られました。 寺所遺跡では、掘立柱建物跡を伴った大きな竪穴住居の周りに住居跡が密集しています。開拓領主の住まいと開拓民の集落と考えられます。 |
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443墨書土器 平安時代に使われた土器の中には、文字を墨書したものがあります。殆どは漢字1文字だけ書きます。 数字 (百・千等)、干支 (子・艮)等、身分 (守・目=さかん等)、人命 (麻呂・廣等)、氏族名 (安曇・物=物部等)、施設名(寺・政所・倉等)、食糧(酒・魚等) 吉祥句(福・吉等)です。種類が多岐にわたるため、墨書の目的は其々異なったと考えられます。 このような中、寺所遺跡では、「侈or福」の土器が、破片を含めて157点も出土しています。特殊な儀礼に伴うものと考えられます。 則天文字 則天武后 (唐の高宗の皇后) が制定した文字。この文字が使用された僅かな時期の経典などを遣唐使が持ち帰り、それが各地に流布した。 逆説的に、平安時代の集落にに仏僧など識字層が存在したといえる。 |
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444村の鍛冶屋 平安時代、北杜市では山間地の開発が積極的に進められ、集落跡からは開拓に必要な鋤先や、鋸、鎌などの鉄製品が出土します。 これらを作ったり、修理するための鍛冶場も多く見られます。 東原遺跡 (大泉町) では竪穴住居の中で家事を行っていた様子が明らかになっています。床面中央に大きな平たい石を据えて、金床とし、 鉄を鍛錬する時に飛び散る鉄の細かい塊がその周囲に厚く堆積し、石の周囲の地面は焼けた鉄の熱のため赤く焼けていました。 ふいごの羽口の出土から、ふいごで送風し、炭火を強熱して鉄を高温に焼いて作業していたこともわかります。 |
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445御牧の設置 平安時代になると、朝廷直轄の「御牧」が甲斐・信濃・上野(こうづけ)・武蔵の4国に設置されます。 甲斐国には「真衣野牧」(武川町牧原周辺)・「柏前牧」(高根町樫山周辺・異説有)・「穂坂牧」(韮崎市穂坂周辺)が置かれました。 いずれも北杜市域とその周辺です。 調教された良馬を毎年朝廷に献上しますが、その数は穂坂牧で30頭、真衣野・柏前両牧で30頭と決められていました。 これだけの良馬を生産するために、1,700頭もの馬が飼われていたといわれています。 馬は、財産と軍事力という2つの側面がありました。有力な貴族は牧を私的に経営し、馬を贈与品とすることで勢力の拡大に努めました。 一方、軍事力としては、後の地域武士団の形成に深く関わることになります。北杜市域の私牧としては、「小笠原牧」と「逸見牧」が有名です。
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446 湯沢遺跡 湯沢遺跡 (高根町) は、当時の役所跡でないかと考えられていますが、軍事的緊張も強く感じさせます。 竪穴住居の他に集落を区画する柵の列と、沢山の掘立柱建物跡が整然と並んで見つかりました。 この集落は背後に山を背負って展開し、集落前方には物見を伴った柵が巡り、柵の中央には門が置かれていたことが分かっています。 この遺跡からは、当時、寺院や役所のような施設でしか使われていなかった瓦が出土しています。 ほかにも銅製の鈴や皇朝十二銭の「隆平永宝」などの特殊な遺物が出土し、この遺跡の性格を際立たせています。 大小久保遺跡 遺跡 (須玉町) は湯沢遺跡 (高根町) から400mほど離れて立地する平安時代の集落で、土器焼成土坑が8基発見され、 黒色土器を生産していたことが明らかとなっている。 しかし、流通範囲は極めて狭く、ここで生産された土器は、湯沢遺跡でしか確認されず、両遺跡の関係が注目される。 |
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450古代の牧 小笠原牧・逸見牧 小笠原牧は、応和元年 (961) 「冷泉院小笠原御馬を陣外に於いて分け取らしむ」という記録から、10世紀半ばには後院牧(=冷泉院) として設置 されていたことが確認されます。永井原Ⅴ遺跡 (明野町) では、600m以上に渡って直線的に延びる浅い溝が発見されました。 遺跡の立地からこの溝は小笠原牧を区画する「格」と考えられています。 逸見牧も同じく後院牧と想定され、両牧の名を詠み込んだ和歌の作者、紀貫之の没年から両牧の成立は更に遡り10世紀初めに成立していた 可能性が指摘されています。 その後、これらの牧は、荘園へと発展し、後院から皇室領、そして平安末期には摂関 (近衛) 家領として伝領されたと考えられています。 古代の馬 馬というとサラブレッドなどの大型馬を想像しがちですが、これらは明治以降、移入、交配が進められたものです。それ以前の日本の馬は、 古墳時代に朝鮮半島を経由して導入された体高 (肩までの高さ) 120cm程の蒙古系馬で、分類的には馬ではなく、ポニーとされます。 日本では去勢の技術がなく、小型の馬とはいえ、強悍で、源頼朝が宇治川の戦いの際に佐々木高綱に与えた「生食(イケヅキ)」は 人に噛みつくほどの猛々しさから名付けられたとも言われています。 また、「吾妻鏡」には奥州随一の駿馬として「高楯黒 (タカタテグロ)」と号す馬が登場しますが、体高147cmの大きさであったと記されていて 個体差が大きかったことが分かります。 450
古代の官道 古代の都城と地方の役所・官衙を結びつけたのが官道です。甲斐国は当初より東海道に属し、官道は主に東海道が使用されました。 駿河国横走駅で本道と別れて甲斐路に入ります。駒牽の行事もこの官道を使って行われました。 一方、桑原南遺跡 (須玉町下津金) で駅家などに見られるような大規模な掘立柱建物跡が見つかった事から、海岸寺峠を抜けて佐久、東山道に 抜けるルートや、平安地有機に編纂された延喜式にも記述のある宇波刀神社、比志神社、神部神社の存在から信州峠を越えて信州佐久に至る 小尾街道 (穂坂路) も早い段階で整備されていたものと推定されます。
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