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  縄文を旅する3 北の縄文 北東北~南北海道旅 28  2013.10.12(土)


 網走市立郷土博物館  北海道網走市桂町1丁目

 交通
   ・モヨロ貝塚館からタクシーか歩き。私は時間つぶしで歩きました。(杖を突いては遠いが、街を感じるいい機会だ)
   ・市内中心部にある。通常は散歩コース

 見所
   ・旧石器~アイヌ時代まで
   ・オホーツク人の人骨(本物) 動物型土製品 オホーツク地域の動物の剥製

   ・旧式な展示と採光・照明で見づらいが展示内容は大変専門的で、北海道のどの博物館より詳しい。
    改築された場合、このレベルが維持されるだろうか心配です。

 反省点
    この旅最後の訪問地です。でも、頭の中は二週間続いた旅行が終わるという実感がない。
    始まったときと同じように、何の違和感もなくまた、終わる。緊張感を欠いた取材でした。


    追記  2016.05.28 間違いを訂正追記しました



次 

00郷土館
01オホーツクの動物達
10縄文
11早期
12前期
13中期
14後期
14晩期

20旧石器時代
21情報
22石器
 ①旧石器から縄文へ
 ②屈斜路カルデラ
26縄文早期の石刃鏃
27縄文初期・中期の石器セットと縄文住居

30続縄文時代 
33続縄文石器セットと前期前半の土器
 続縄文式土器(前期)
34続縄文時代後期
35続縄文時代終焉
36土器棺
40擦文時代
41擦文文化

50オホーツク文化期
54オホーツク文化
55オホーツク文化の土器
56オホーツク文化人の食べ物
57オホーツク文化の埋葬
 トビニタイの不思議
60アイヌ時代
61アイヌ文化
65初秋

 
  
 00郷土館
    大変レトロな外観です。博物館の内装の改善を望みたいが、改築されるとこの外観が消える。痛しかゆしですね。
    歴史的建造物の保護と、博物館展示の近代化は両立しない。難しいところです。
網走市街
地の果ての先入観
全てが不思議。なぜ最果てに暮らす。余計なこと。 何かの産業で全てが成り立ってるんだろう。 外観通りの展示です。写真記録に不向き。  館の展示内容は専門的ですばらしい。
 だが、この内容を保持しつつ今後の改築展示替えに臨んでほしい。

 何度も繰り返してごめん

 01オホーツクの動物たち
   大変立派な剥製で、モヨロ人や、旧石器からアイヌ時代、そして近代までの人々が活計(たつき)とした動物である。
   剥製の手入れと保存が大変良い。

海底から湧昇流の湧きあがる北辺の 栄養豊富な海が育む多種多様な動物 先史時代から現代まで、棲むものに 厳しい自然が豊かな恵みを与えてくれる 巨大な海獣1tもあるアザラシや もっと巨大なクジラ
畳二枚もあるオヒョウ、クマ、シカ等中部地方と比べ物にならない多種類の動物
自然の中に動物は豊富だが それを捕まえて食料とするには、時に 自分の命と引き換えなければならない。 それほど厳しい自然 そこに信仰が生まれた オサガメ
 
 




 10縄文時代 (6000~5000年前)





 縄文時代のはじまり
   長い氷河期が終わりを告げた今から1万年程前、日本列島では初めて土器を使った生活、「縄文時代」が始まりました。
   北海道は少し遅れて8000年前頃、網走では7000年前頃に開始し、それ以降、5千年以上にもわたり続きました。

   煮炊きのできる道具である土器と、石鏃を使った弓矢の発明は、植物性食料の広い利用と、当時増えつつあったエゾシカ等の中小動物の
   効率よい狩猟法を発展させ、より豊かな食生活をもたらしました。

   人々は定住し、集落をつくり、安定した生活を営み始めます。地域ごとに独自の文化が残されたのはこの頃からで、現在の私たちの文化的な
   基盤が形成された時代でもあります。


 時代区分
   旧石器文化が栄えた氷河期が終わり、温暖化した気候は、豊かな生態系をもたらし、縄文文化発展の大きな要因となりました。
   しかし、縄文時代を通じては、小さな寒暖がおとずれ、それに対応する形で文化内容もいくつか移り変わっていきました。

   その変化は早期、前期、中期、後期、晩期と大きく5つの時期をもって区分され、まとめられています。
   それでは網走周辺の縄文時代の動向を古い時期から順を追って御覧ください。

   ※この頃、北海道では縄文草創期の遺跡が見つかっていませんでした。多くの年表も縄文早期からの記述になっています。

  私見、北海道に縄文草創期がなかったわけを考えてみた。

   ➀旧石器時代終末期の最寒冷期に、極寒に耐えられず、沢山の旧石器人が南下し本州へ渡っていったこと。
   ②最寒冷化とそれに続く温暖化によって大型獣の食草が得られなくなったことや、温暖化によって動物の回遊経路が絶たれ、絶滅したこと。
   ③更にその後のヤンガードリアス期の再氷期に、一旦温暖化適応した人々が、以前の生活には戻れなかったこと

   など、一旦北海道では、人が住めなくなったか、あるいは

   ④海岸線の後退で遺跡が全て何キロも沖の現在の海底へ移動してしまったために遺跡が発見できないのか、
   長く草創期の遺跡が見つかっていませんでした。

   西暦2000年代に入って、帯広市大正遺跡群から草創期から前期前半を示す遺物が発見され、北海道に人跡が絶えなかったことが判明した。

 北海道の縄文草創期遺跡

   参照帯広百年記念館収蔵縄文土器ギャラリー 
   草創期遺跡発見を報告したこの文書によれば、

   「草創期の土器は、道内では帯広市大正3遺跡から出土した約1万4000年前の土器が最古とされています。」
   「大正3遺跡の土器は、底が丸く、先端に乳房状の突起がつく形で、“爪形文”と呼ばれる爪でつけた文様に特徴がある土器群で、
    本州の東北地方から中部地方にかけての、この時期の土器群と共通した特徴をもっています。」とあり、

   今後、なぜ、東北から中部地方の土器群と共通しているのかを調べたいところです。






11縄文時代早期(8000~6000年前)

   北海道の縄文時代の始まりは、今から8000年前頃に遡ります。
   竪穴式住居での生活、土器や石鏃の使用、網漁が予測される石錘の存在など、縄文時代の文化的基礎はこの時代に形成されました。

   最古の北海道の土器は、貝殻や縄を器面にそのまま押し付けた文様が特徴で、道東では平底、道南では尖底と、器形の大きな違いが
   注目されています。

   網走では網走湖底遺跡に代表される湖周辺の水辺を臨む場所で遺跡が発見されています。しかし、その数は少なく、規模も小さなものばかりです。
   恒常的な大集落は形成されず、いまだに半定住的な生活が続けられていたようです。



 縄文時代早期の土器 札幌以西は尖底貝殻文土器 道央以東は平底貝殻文土器

北海道年表 縄文時代のはじまり網走の縄文時代
7000~2000年前まで。
有土器文化は遅れた
時代区分1.6万年前の土器遺跡太平山元遺跡が、北方経由なら、北海道の縄文はもっと早く始まるはず 環境変化と人口推移 縄文早期
8千~6千年前氷河期海退で当時の遺跡は海の中に没した
土器文化の広がり
北海道の土器文化が遅れたのは、縄文人が来るのが遅かったのか、
訂正(縄文人は大陸から最初に北海道に到達し
本州に拡散しました。)
旧石器人として南から来た人々の暮らし跡が海中に没したからか。

原始の森は人を拒む。

訂正(北海道の旧石器人は樺太経由で来ました)
火山災害や、海面昇降などで自然に形成される分け入りやすい土地にのみ人の居住が可能 縄文早期の植生 北海道は
亜寒帯針葉樹林
タイガの森

迷い込めば二度と出られない恐ろしい森だった。

ブヨ・蚊・吸血蛭に猛獣のすみか。
↑土器形式の違いは生活の仕方が違ったから。尖底・平底は使い方の違い。
尖底は炉に埋めっぱなし
平底は持って移動し調理したから。
 環境と生活習慣がこの違いを生んだ。




 12縄文時代前期(6000~5000年前)

   6000年前頃になると、「縄文海進」という温暖化のピークをむかえ、海面が現在よりも4mも上昇し、内陸にまで海が侵入しました。
   海には暖かい魚介類が見られ、森はミズナラ等の木の実が豊富な樹木で覆われました。

   こうした恵まれた自然のもとに、貝塚や大きな集落が各地に形成され、定住化による人口の増加がみられました。綱文、押型文、無文など
   多様な形、文様の土器がつくられ、植物加工具である石冠や、漁撈用の石錘が盛んに使用されるのが特徴です。

   当時の網走川はかなり川幅が広く、網走湖は海と直接つながった大きな湾になり、その岸辺には大曲洞窟遺跡が残されました。


 縄文時代前期の土器 札幌以西は円筒下層式土器 道央以東は繊維尖底土器(粘土に植物繊維を混ぜた)

鬱蒼としたタイガの森と海山との境目で生きる人々 縄文時代前期温暖化と海進で食糧増加で人口増加=大集落 土器文化圏
縄文前期の植生 網走の土器 繊維尖底土器は、土器文化初期に共通の傾向。
 粘土に植物繊維を混ぜて成形を容易にする方法。

 海岸線や川を遡ったりしながら生活範囲を拡大していった。

 Globalな旧石器・縄文人の動きに圧倒される。 


  13中期(5000~4000年前)  縄文時代中期の土器 札幌以西は円筒上層式土器・余市式土器 道央以東は北筒式土器


 縄文時代中期
  中期は徐々に現在の気候に近づいた時期ですが、引き続き暖かな環境にありました。
  道南には本州から円筒形の土器を使う人たちの文化が伝わり、道東でも筒形の厚手の北筒式土器が使われます。

  石槍などの投げ槍が多く用いられ、シカなどの動物を本格的に狩猟するようになりました。

  網走では縄文時代を通じ、最も多くの遺跡が残され、そのその居住域は海岸ばかりでなく、山に近い内陸にまで広がり、安定した生活であった
  ことが伺われます。
  現在の網走市南6~8条通りにかけての河川沿いの段丘をはじめ、美岬や潮見、駒場などの台地上にも多くの集落が形成されました。


 モコト式土器
 縄文時代中期の初め頃に道東地方で使われていた土器。「円筒形」をした大型の容器で、口縁には小さな突起が付けられいることもあります。
 「縄」文様が全面付けられた土器表面には、太い「粘土紐」が縦横に貼られ、その上には縄や棒の端を押し当てた「刻み目文様」が数多く見られます。

縄文時代中期温暖化による人口増加で移民が流入。新しい文化が広がる。 縄文中期の土器北筒式余市式・円筒上層式 モコト式土器 モコト式土器
北筒式土器北筒、北筒、観音山式 モコト式土器

縄文中期初頭に道東地方で使われた円筒形の大型土器で、口縁部に小突起が付くこともある。
土器表面に縄痕をつけ、太い粘土紐を縦横に貼り、その上に縄や棒の端を押し当てた刻み目文様が多く見られます。
 

  14 後期(4000~3000年前)    縄文時代後期晩期の土器 札幌以西は亀ヶ岡式土器(別名:大洞式土器) 道央以東は幣舞式土器
晩期(3000~2000年前)


 縄文時代後期 (4000~3000年前)

  後期は今より2℃程気温が低下し、再び寒冷化が進み、冬には流氷もやって来るようになりました。
  特に道東では遺跡が激減し、従来までのような食料調達の難しさから、急激に人口が減少したようです。

  全道でほぼ似たような土器が使われるようになり、北海道が一つの文化で覆われました。
  この厳しい環境を前に、当時の人々は生活を改良していきます。

  一つは土器の面で、深鉢形、浅鉢形、壺形、高坏形などと用途に応じた様々な形の土器を初めて作り出し、使い分けました。

  精神生活の面でも、発達した呪術的社会が形成されたようです。
  近隣の斜里町 朱円環状土籬遺跡に代表される豊富な副葬品を持った大きな共同墓地が各地で造られるようになるのもこの時期の
  大きな特徴です。

  斜里町 朱円環状土籬遺跡(しゃりちょう しゅえんかんじょうどりいせき)は、

斜里朱円周堤墓群

(しゃりしゅえんしゅうていぼぐん)とも言われる
  円形の周堤で囲まれる墓地といういみです。



 縄文時代晩期 (3000~2000年前)

  縄文時代の終末、晩期になると、関東以北の北海道を含めた東日本一帯は、磨り消し技法を駆使した精巧な文様で飾られた土器文化
  「亀ヶ岡文化圏」に組み込まれます。
  しかし、網走周辺の道東地域では、舟形などの特殊な形の土器を使う独自の文化が栄えました。

  遺跡数はあまり多くありませんが、市街地では網走川を間近に臨む中央公園のあたりに大きな集落が残されています。

  この時期には鉄製品や鉄器の使用がそろそろ始まったようで、次に続く続縄文時代の文化的要素もみられ見られるようになり、
  縄文時代は終焉へと向かいました。


縄文時代後期 寒冷化による生物相の変化で、食糧確保が困難になり、人々の大移動があった 遺跡数減少するも、人は住み続ける。 縄文時代晩期縄文中期の文化の高まりは各地に拡散していき、道東の辺境にまで及んだ
亀ヶ岡の影響下の土器
大洞式土器は
亀ヶ岡土器のこと


幣舞式土器は
晩期後半になると「幣舞式」と呼ばれる縄線文(縄を押し付けた文様)や沈線文を特徴とする土器が作られるようになります
気候寒冷化とは、偏西風の蛇行が不安定となり、

寒暖や大雨乾燥など極端な天候が続き、

食料入手が困難になること。

  縄文時代後期・晩期になると、気候が寒冷化し、気候が不安定で生活が厳しくなりました。
 そのため、個人の強さが求められるようになり、呪術的な儀式や信仰が行われるようになりました。
 抜歯や入れ墨や、、、その他いろいろです。






 20旧石器時代(2万~8000年前) 世界中が氷河に覆われた時代であった。海水面は140m下がり、海岸線は何十キロも沖合にあった。






 旧石器時代(先土器時代) 〈約2万年前~約8000年前〉
  北海道最古の人類文化は、氷河期も終わりに近い2万年前頃に登場しました。
  土器の発明以前のこの時期の人々は、石で作った様々な道具を携え移動しながら大型獣を追う狩猟生活をしていました。


 北海道の旧石器人
  北海道最初の人類である旧石器文化の担い手たちは、遠く北方のシベリア大陸から南下してきた人々でした。
  彼らは今から2万年前から1万年前にかけて、ヘラジカやオオツノジカなどの大形獣を狩猟しながら、氷結した海を渡り北海道に移り住んできました。

 
 21情報
旧石器時代日高山脈に氷河のある時代だった
おいそれと立ち入れない原始の森
氷河期の植物相 グイマツハイマツ 海岸線は何十キロも後退していた 北海道の旧石器人旧石器人は北方系狩猟民だったので、
山間部の上中流域に暮らした
マンモス象等北方系 ナウマン象アジア系



  22石器 氷河期後の海進によって旧石器遺跡は水没したが、旧石器人は原始の森の道内をくまなく踏破し、見事、無尽蔵の黒曜石を発見した。
この奇跡の宝は。以後何千年も、旧石器から近世までの各文化人に引き継がれ、使い続けられた。


 旧石器時代から縄文時代へ
今から9000~8000年前頃になると、長い氷河時代も終わり、地球上の気候は次第に温暖となり、現在の自然に近づきます。
氷河の縮小によって、海や川の水量が増え、魚類も豊富になり、山も豊かな銛へと変わっていきます。

こうした自然環境の激変と共に、住まいを転々として移し替えながら、狩猟採集生活を続けてきた旧石器時代は終わりを告げ、縄文時代が始まります。
縄文の人たちは四季の食料が比較的入手しやすい場所を選び、竪穴式住居を建て定住し、村をつくるようになります。

網走周辺では右図のように旧石器時代の内陸部から、網走湖岸や桂ヶ岡公園という湖や海辺に人々が移り住んできました。
背後に豊かな森をひかえた水辺近くの新しい環境の中での生活が網走の縄文時代だったようです。
 


 川越遺跡 ~北海道最古期の旧石器時代の遺跡~ 2万年前の細石刃狩猟民の遺跡

  川越遺跡はオホーツク海沿岸地域の最古級の遺跡です。
  斜里岳のふもとの山間の、地面から3mも下層の焼けた火山灰の中から黒曜石製の石器が発見されています。

  その年代は約2万年前の氷河期
  北の大陸から宗谷海峡にできた氷の端を渡り、北海道に初めて移り住んだ旧石器時代の人々のくらしの痕跡です。

  細石刃と呼ばれる細長い石片を、骨や木などの両側に埋め込んだ槍を使い、狩りをしていた旧石器人の暮らしぶりが伺われます。


旧石器時代の   
     黒曜石の採取
旧石器人は、黒曜石発見という、偉大な活動をしていたのだ。
屈斜路カルデラの大噴火は大きな影響を与えた ツンドラでの狩猟採集生活は、定住政策以前のエスキモーの暮らし 旧石器人が次第に海岸付近に移動し土器文化と接触して縄文人となる? 旧石器時代から縄文へ 掻器
石核・剥片細石刃以外の尖頭器・彫器・掻器は石核の剥片を加工したもの 彫器で骨を加工し細石器を埋め込んだ 越川遺跡
斜里岳と石器発見場所遺跡は破壊され農地になっていた。集落跡か
越川遺跡
細石刃文化人
大噴火の災害前に住んでいた
②屈斜路カルデラ
細石刃の作り方
湧別技法
いろいろな細石刃


①旧石器から縄文へ 3万5千年前頃旧人の旧石器時代が謎の絶滅をして、新人の旧石器時代となった。
旧石器人は定住せず常に移動生活していたとされる。 本当だろうか。
旧人の旧石器遺跡からは、骨角器を利用した痕跡がでる。これは、道具をその場で調達し移動しやすくするためだ。
新人の旧石器遺跡からは、大量の石器や原石が出土する。この重くて怪我しやすいものを持って延々移動したのか。
なかには、大量の動物の毛皮を持って移動したという人もいる。
本物の毛皮一枚がどれほどの重さがあるの?荷馬車か牛車があったとでもいうの?

話を戻して、  安定した食料確保ができれば人は定住して、知識を蓄積し、技術を磨き、新しい発想を得、もって文化を高めることができる。
気候が寒冷であったバイカル湖周辺でも、温暖であったスンダランドでも、同じである。

やがて人口が増加し、 一部は食料確保の新天地を求め、その時の文化を携えて拡散して行き、手つかずの自然と、豊富な恵みを求めてさまよう。
パネル本文では、 氷河期の終了に伴って暮らしやすくなり、人が定住し、縄文時代(新石器時代)に入ったと考えられている。
しかし、
ではなく、
温暖な気候を求めるのなら南下すればよいことであり、地球人口が百万にも満たないだろう時代に極北の地を選ぶ必要はない。
極北の地には大型獣が豊富で魅力があったために人々が暮らしたのである。適応できれば暮らしやすかったのだ。
エスキモーは現在も極地で暮らしている。季節に合わせて定点を移動しながら暮らす。
これを移動生活というなら、そうかもしれない。
しかし現在の定住政策では、居住地から狩猟場までスノーモビルで何十キロ、時に百キロも出かけていくことの方が不合理だ。
カリブーや、アザラシや、クジラや、夏のサケマスや渡り鳥の、などいくつもの狩猟小屋を使うのが合理的。これ、移動生活か。

氷河期の終了は、 気候大変動であり、動物の移動経路や魚の回遊時期や経路が変わり、人々は大変な打撃を受けたであろう。
氷が解けて動物は移動できなくなり、泥にはまって死に、北方大型獣は激減し絶滅し、溶けた大地は泥沼となって
人と動物を飲み込んで身動きが取れなかっただろう。
旧石器時代の終わりに、高度に発達した大型獣ハンターの細石刃文化人が、大挙して北海道や朝鮮半島を渡って大移動してきた。
気候温暖化に追われた人々であった。彼らの一部はそのまま日本海周りで沖縄県茅打ちバンタにまで到達した。まさに死出の旅。

このボトルネックを 生き延びた人々は、やがて広がり始めた堅果類の森に出かけ、シカやイノシシの食べ物を食べ、やがて弓矢や土器といった、
動きの速い動物を捕える方法や、硬くて渋い果実を調理する道具を発達させた。いや、そのような人々しか生き残れなかった。
氷河期にあっても 温暖な熱帯地域は、大型獣が少なく、漁労や植物食に頼った定住生活が出来たのかもしれない。しかし、温暖化。
海面上昇で土地を追われた人々や、気温水温の上昇で回遊魚の異変が起こった人々は、海洋漂流民として舟で、
内陸に住む人々はインドシナ半島へ、そこは超過密となってさらに北上して中国大陸へ、次々と移動していった。
     
そして、 どこかで弓矢や土器の文化と接触し、陸路海路を通じて移動しながら、この究極の文化を拡散していった。
石刃技法など高度に石の性質を知った文化でなく、単に木のばねを利用する単純な発想。
火にくべれば食べやすくなるが炭になることの多い堅果類。泥に包んで火や熱灰(あつばい)の中に入れ、
割って取り出せは美味しく食べられる。
  そんな
例えば 
 程度の単純な発想や行為が、やがて知識として蓄え、他のことと結びついた時、大発明となった。
 木のばねを利用して石槍を遠くへ飛翔させる。カゴの周りに泥を塗って火にくべ、中の堅果類を調理した。
     
  ②屈斜路カルデラ   30万年前に大噴火 3万年前に陥没し日本最大のカルデラとなる。
周辺に、 摩周カルデラ、阿寒カルデラなど以外にも大規模火山が沢山あり、近年まで何度も噴火し続けた。
    これら千島火山帯に属する火山群は、太古から人々の生活に大きな影響を与えた。


 23縄文

 25縄文時代の道具いろいろ
  縄文時代は鉄製の道具はなく、いまだに石や骨製の道具が盛んに使われていました。酸性土壌で覆われているため、網走では骨角器の
  腐食が著しく、発見されるほとんどの道具が石製の道具ばかりですが、当時の道具を伺うことができます。

  時期によって、種類や形が少しずつ変化していますが、主な道具は次の通りです。

   狩猟の道具  石鏃・石槍など
   漁撈の道具  石錘・ヤス・銛など
   採集用の道具  石匙・石ナイフなど
   採集植物加工具  石冠・磨石・敲石など
   解体等の加工具  削石・掻器・石斧など

縄文石器の
種類用途

上に記述
削器切る削る 掻器かきとる 彫器彫る 石錘きり 石匙ナイフ 彫器同一反復でした
石冠・砥石把手付き磨り石
矢柄や鏃を研ぎ出した
石鏃 石槍・両頭石槍 磨製石斧の作り方原石を縦に擦切り、両側を形成し、刃部を研ぎ出す 打製石斧の作り方原石を楕円形にし、刃を研ぎ出す 石錘 石器の種類
狩猟 石鏃・石槍
漁労 石錘
採集 石匙石ナイフ
加工 石冠磨石敲石
解体 削器掻器石斧


 26縄文早期の石刃鏃 石刃鏃文化は北方民族の文化である。

 石刃鏃文化の渡来
  縄文時代が開始された頃の一時期、網走など北海道東部一帯には、旧石器時代の伝統を留めた人々がシベリア方面から渡って来ました。
  旧石器人の石器作りをさらに発展させて、より細長い石片を連続的に打ち取り、それを素材に「石刃鏃」という鋭い矢じりを作る高度な技術を持った
  人々でした。

  この石刃族文化人は、主に海岸沿いに生活していましたが。エゾマツやトドマツといった針葉樹の森林が広がる道東の内陸部一帯に適した暮らし
  ぶりをしていたようです。網走周辺では、網走湖を中心とした地域にいくつかの遺跡加瀬残されています。

  しかし、大陸から一段となってやってきた石刃鏃文化人も時間の経過と共に遺跡数も少なくなり、やがて北海道在地の縄文文化の中に吸収、消滅
  していきます。

  そして、ここに北海道独自の縄文時代が開始されることとなります。

石刃鏃文化人の渡来縄文初期にシベリアから旧石器の石刃鏃文化人が道東に大挙渡来した 石刃鏃文化の渡来高い細長剥片形成技術
上に記述
石刃と石刃核
石刃の作り方 ガラス質の黒曜石は鹿角や木片で押剥がして
剥片をとった


 27縄文初期・中期の石器セットと縄文住居

 縄文住居
  縄文時代の大きな特徴の一つに「竪穴式住居」での生活があります。それ以前の旧石器時代の人たちは、移動生活のため、地面に建てた
  テント式の仮小屋での生活でした。しかし、定住を始めた縄文人は、地面を掘り窪め床を造り、そこに柱を建て、屋根を葺いた丈夫な住居を
  造り出しました。

  3本柱の簡単なものから始まり、4~5本柱のもの、ひさしの付いた入口が設けられたものなど、家の造りも時期を経るに従い少しずつ発展して
  いきます。

  道南地域から東北にかけては、一辺が10m以上の大型住居も登場し、大集落の形成が予想されますが、網走周辺では直径が3~5m程の
  小型の家が殆どで、それらが2~3軒づつまとまった小さな集落での生活が続いていたようです。


 縄文時代の住居模型~三種類の住居~
  縄文人の家は、大きくこの3つの作り方に分けられます。
  右: 3本柱の簡易な作りの住居
  左奥: 大きな柱を持たない住居
  左手前: 4本柱の大型住居

  
縄文時代初頭の
石器セット8000年前石斧,削器,彫器,掻器,
石刃鏃
縄文時代中期の
石器セット5000年前石斧彫器石槍石錐鏃石匙 等々種類が増加
縄文住居
上に記述
縄文時代の住居模型網走地域は小型住居
道南から東北地方は一辺10mの巨大住居
三種類の住居 網走の小型住居模型




 30続縄文時代 弥生~飛鳥時代  -3c~7c



33続縄文石器セットと前期前半の土器   続縄文時代は前期・中期・後期に区分される


 続縄文式土器(前期)
  続縄文時代になると土器の大きさも変化に富み、縄目の模様がより細かく均一になります。
  土器上部につけられた内側からの刺突の跡が大きな特徴です。

   続縄文前期前半の土器 渡島半島は恵山式土器 札幌周辺は縄線文式土器 道央以東は 宇津内式土器

 続縄文時代前期(後半)
  前期の後半も引き続き地方色の強い文化が各地に形成されていました。しかし、遺跡の数は多く、人口の増加が見られたようです。
  網走周辺の宇津内式土器は、特徴的な目玉文様で飾られた、装飾性豊かな土器となります。

  依然として深鉢型を中心に、大小の器がありますが、道西域で多い壺形容器も使われるようになります。
  一方、道央・道南では、引き続き多彩な形の器が作られていますが、壺が減り、道東のような深鉢が多くなってきます。

  北海道の東西で文化的な交流が進められ多ようで、この傾向は左のケースの後期段階へと受け継がれていきます。


続縄文の石器セット 続縄文前期後半 前期前半の文化域 続縄文土器 土器文様
続縄文前期前半の土器
宇津内式土器
恵山式土器
宇津内式土器特徴
口縁の内側から外へ突き刺された円形の刺突文
土器文様をご覧下さい
紐掛けのある土器はたぶん土器棺 土器文様をご覧下さい日本の他の地域にない独特の文様 土器文様をご覧下さい 後北C式 後北C2,D式 土器文様をご覧下さい 注口土器後北C2,D式


 34続縄文時代 後期 続縄文時代後期の土器 札幌以西は弥生式土器 道央以東は後北式土器(江別式土器)


 続縄文時代(2000年前)の網走の様子
  本州では弥生時代をむかえた2000年程前の網走の様子です。
  現在ほぼ同じ気候と地形になったこの頃、人々は網走川を近くに臨む場所にムラをつくり、主に海辺や河川でサケ・マスなどを捕る漁撈生活を
  送っていました。


 続縄文時代後期(前半)
  続縄文時代の後期は、それまでの地域性豊かな北海道がひとつの文化圏にまとまった時期です。
  その前半は道央で発達し、全道に広まった後北C1式が使われていた頃にあたります。

  土器の形はそこがすぼまった逆釣り鐘状に統一され、前期末に出現した目玉文様を連続的に施文した美麗な器を作り出しました。
  この時期は墓址からの出土例が殆どで、信仰的な意識や儀礼の著しい発達が伺われます。

  網走で引き続き海岸や河川を臨む市街地にムラが作られています。しかし、より上流域の網走湖畔の小川沿いにも人々が住み始めます。
  河川を遡上したサケやマスを大量に捕獲する漁撈に依存した生活へと移行し始めた当時の暮らしぶりが伺われます。


 続縄文時代後期(後半)
  続縄文時代の終わり頃の北海道もひとつの文化圏にまとまっていました。遺跡の数も増え、比較的大きなムラも作られるようになり、充実した
  文化が形成されていたようです。

  後北C2・D式と呼ばれる土器がこの時期の特徴的なもので、それまでの後北C1式土器の美麗な文様が崩れていく過程をたどることができます。
  器型は従来までの深鉢に加え、注口や片口を持った液体を注ぐ器や、把手の付いた器、ボール状の浅鉢など、機能に応じた土器が作られ、
  使われるようになります。

  この時期の文化は、千島列島や東北北部にまで分布域が拡大したことが知られています。当時一時的に訪れた寒冷な気候による東北の
  稲作文化の南下が背景にあったようで、本州では弥生時代が終わり、古墳時代をむかえた頃にあたります。

2000年前の網走落葉樹に覆われた大地 現在と同じ気候で、海岸や川岸に住んで、サケマスの漁労に依存する生活 続縄文後期前半の
後北式土器
続縄文時代後期前半人口増加、陸棲動物の減少、サケマス漁依存の生活 後北C1式土器 続縄文時代後期後半特殊な土器の増加と広範な交易
後北C2,D式土器
続縄文時代の終焉
下に記述
鉄器の流入による文化の変化、アイヌ人の台頭
続縄文時代後期の土器貼り付け文 刺突文 注口土器続縄文後期
丸い目玉模様が特徴
丸い目玉文様の土器


 35続縄文時代 終焉  全ての土器が北大式土器に一元化された。

 続縄文時代の終焉と北大式土器
  続縄文時代の終末は、土器口縁が円形刺突文で飾られた北大式土器」が使われた時期です。北海道から東北北部にまでその勢力は広まり、
  特に東北地方の人々は、エミシとも呼ばれ、大和政権との軍事衝突を度々起こしていました。

  この時期になるとようやく鉄器が普及して石器は減り、道北ではオホーツク文化人が進出してくるなど、次の時代にかかわる新たな動きが
  みられるようになります。

  7~8世紀頃、千年近く続いた続縄文時代は終焉を迎え、新たな時代、擦文時代がおとずれます。

土器の減少 続縄文時代の終焉と北大式土器 注口土器どのような儀式に使われたのか 抜歯の風習があったとは聞いていない 刺突文土器 取っ手付土器


 36土器棺

 埋葬に用いられた続縄文式土器
  墓に弔うために、骨を納めた土器です。口縁の吊り手状の飾りとリボン状の文様が特徴、
  網走周辺の続縄文時代を代表する(宇津内式)土器です。

土器棺 宇津内式土器   納骨のための甕。
茶壺と同じ、釣り手風の紐掛けが付いている。

 納骨して蓋を付け、
紐を掛けて埋納したようだ。
  土器棺に埋納するのは子供の骨や遺体だったか
ここではそれに触れていない。

 中には底に穴を開けた
  不思議なことに、
土器棺には必ず、ひもかけがついている。北海道から種子島まで同じである。




  40擦文時代




 擦文時代とは
 日本列島の大部分が稲作社会の弥生時代へと移り変わった後も、狩猟・漁撈・採集生活を基盤とする続縄文時代が続いていた北海道では、
 8世紀を迎えた頃から、奈良・平安時代の本州文化と密接に関わりある新たな文化、擦文時代が始まります。

  伝統的な狩猟に加え、ヒエやアワ等の雑穀類の小規模で原始的な農耕が始まり、河川河口部での集中的なサケ・マス漁が盛んになります。
  それまでの石器に代わり、鉄製品が道具の主役となります。

  住居も本州文化を模した四角形のカマドつきの家が出現し、機織り技術も発達する。石狩地方には東北の終末期の古墳も造営されるようになる。
  本州文化の影響を強く受け、それまでの伝統的な文化が最も大きく影響した時代であり、この後に続くアイヌ文化の基盤が形成された時代でもある。



 41擦文文化 奈良時代から平安時代にかけての7c~12cの時代
   交易によって鉄器を得たアイヌは東征を始め、次第に人口と勢力範囲を広げていった。
   これが次のアイヌ時代への基盤整備となる。


 鉄器文化としての擦文時代
  擦文時代を特徴づける大きな要素は鉄製品の使用が本格化したことです。鉄製品は本州の東北地方から供給されたもので、
  北海道の南西部から北東部へと少しずつ波及しました。

  主な鉄製品としては、下のように多彩です。
   ・鉄斧、鉄鍋、鉄鍬などの農耕具
   ・銙帯金具、などの祭祀具
   ・鉄鏃、鉄針、鉄釘などの狩猟生活具
   ・蕨手刀、直刀などの祭祀具や武器
  
豊かな動物資源を交易で最先端の製品と換えながら暮らした 擦文時代とは 鉄器文化の擦文時代 擦文土器カマドに掛けるために便利な形に変化した 高杯や小鉢 カマドの中に差し込んだままにして使ったようです
擦文土器 食器も多様化したこれまで食器はなかったではどうやって食べたのか。煮立てたものは猛烈に熱い。 写真内の説明書きは
ゴザを編むときのおもり、飛び玉だと言っている
熱湯や、煮沸したものは手の上で食べられない 煮炊きしたものや焼いたものは食器が必要。

 熱くて素手で持てない

土器は自由に作れたから何かがあったのかな


 50オホーツク文化期  奈良~平安時代 6c~11c 約五百年間  3c~13cという説もある

 54オホーツク文化
  靺鞨の拡大とともに押し出されたアムール川周辺の部族が樺太~道東~千島列島にかけて広がった文化。又は靺鞨そのもの。

  海洋狩猟民族で、必ず海岸に暮らし漁労生活をした。
  高い精神文化を持っており、僅かな人数ながら、後のアイヌ文化に大きな影響を与えた。靺鞨もエベンキ人もオホーツク人も同じです


 ※オホーツク文化人とは
  大河アムール川流域に住んでいた民族が、サハリンや北海道北部・東部から千島列島にかけて、交易用の毛皮を求めて進出、定住していた。
  擦文人、のちのアイヌが北海道北部に進出し、アムール人が千島と靺鞨を結ぶ交通路を遮断してしまったため、オホーツク沿岸や千島に取り
  残されてしまった人々のことである。


 鉄の伝播と交易
  当時、鉄製品はいまだに貴重なものでした。刀子・鉄釜・鉄鉾などが代表的な鉄器としてよく使われていました。
  しかし、今のところ北海道では、製鉄跡が発見されていません。北方大陸の人々との交易により手に入れた可能性があります。

  アムール川流域に住む靺鞨文化(4~8世紀)などの人達の鉄と、オホーツク文化人のアザラシ類の毛皮とが物々交換されていたようです。


 装身具
  頭・首・耳・腕などを飾るためのものです。金属製の耳輪も大陸から手に入れて使用していたようです。ガラスの小玉も発見されています。

 オホーツク文化人(モヨロ貝塚人)の骨格
  オホーツク文化人はアイヌや和人と違う骨格をしています。頭骨は正面から見ると頭頂部がとがり、横からは幅が短いという特徴があります。
  特に下あごは耳側が幅広く頑丈な顔つきをしています。サハリンや大陸のアムール川下流域に住む人々に似ていたようです。


北辺のオホーツク文化 道東地区の立体地形図 副葬された装身具 鉄の伝播と交易靺鞨は現代朝鮮族を構成する一氏族のようです これ貝符に酷似してる 装身具オホーツク人はガラス玉がすき。これも後にアイヌに影響を与えた
交易で入手した 副葬品に男女別の鉄製品がある。中には壊されたものもある 現代人の頭骨 オホーツク人の頭骨 オホーツク文化人の
骨格
オホーツク人は、
縄文人とも、続縄文人とも、アイヌ人とも、現代日本人とも全く違う種類の人類だった。

アムール川下流域から来た人々と結論づけている


    55オホーツク文化の土器   土器形式により五期に分けられている。   写真がとれてねーし。ごめん!


  56オホーツク文化人の食べ物 

 狩猟・漁労・採集などの生活は自然を畏れ敬うことから始まる。彼らはクマを特に敬い、また、住居の中にまでクマやその他の動物の拝所を設けた。


 オホーツク文化人の食料
  海と陸の獲物によって、バランスの取れた食生活をしていたようです。また、一年を通して野生植物の実、根茎の採取も続けられ、
  安定した食料を確保していました。
  
 海の食べ物
  漁労によって得られる食料は次のようなものでした。
  ニシンを中心にオヒョウ、カレイなどの魚類が最も多く、アザラシをはじめ、オットセイ、トド、クジラなどの海獣類も捕獲していました。
  浜辺ではウニや貝類なども多く採集していたようです。

 陸の食べ物
  狩猟によって捕らえた主な獣は、エゾシカ、クマ、キツネ、ウサギなど、大型獣から小型のものまで多彩な動物達でした。
  カモ、ウ、ハクチョウなどの水鳥を中心に鳥類も多く食べていたようです。
 
犬とブタを食料として飼育していた 熊の頭骨の骨塚 彼らには独特の自然を敬う姿勢があった それがクマ信仰 大型魚類や海獣・陸獣を狩猟した 骨塚の動物骨
陸の食べ物 シカ・クマ・キツネ・ウサギや鳥類も 骨斧クジラなども。 組み合わせ釣針オサンニ式 骨鏃・骨銛 大きな石錘流れが強いから 石斧・石錐・掻器海獣ハンターの必需品

  57オホーツク文化の埋葬

 オホーツク文化の終末
  10世紀になると、オホーツク文化は終わりをむかえます。それまで北海道の地元の古代文化である擦文文化の人々へ少しずつ混血・吸収
  されていったのでしようか。

  オホーツク文化人がその終末に作った土器は、こうした動向を十分に伺わせます。
  器の表面には従来通り、粘土紐で文様を付けますが、容器の形は擦文人のものへと変わっていきます。

 オホーツク文化の代表的な墓
  網走市のモヨロ貝塚では、オホーツク文化の特徴的な墓が数多く発見されています。
  頭を北西に向け、仰臥して手足を折り曲げて葬られたものです。

  頭には甕を被せ、胸のあたりにも甕が置かれることもありました。
  男性の墓には石鏃や刀、女性の墓には骨製の装身具や刀子(鉄製の小刀)が痛いと共にそれぞれ納められています。
  

 オホーツク文化の特殊な墓
  オホーツク文化の代表的な遺跡、網走市のモヨロ貝塚では、右のような墓が一般的でした。(被甕葬)
  しかし、左のように「火葬した骨」を石で囲った墓や、「木の棺」に納めた墓など、特殊な墓も発見されています。
   ※アイヌでは「死に方」や社会的地位などによって埋葬が異なっていた。

本物の人骨です発掘当時がよく再現されている。 装飾はオホーツク文化
土器形状は擦文文化
葬送を描いた図縄文~オホーツクまで、墓地は集落の近く。 鹿皮衣服の再現もよい死体の腐臭は強烈。感じなかったのかねぇ。 オホーツク文化の代表的な墓 被甕葬 代表的な墓同じオホーツク文化でも屈葬でなく伸展葬もあった
特殊な墓 火葬骨火葬骨を石で囲って埋葬の石槨墓 特殊な墓なぜ火葬か。
正常な葬儀ができないほど激しく破壊された遺体。クマに襲われたか?
特殊な墓 木槨墓木槨墓もっかくぼ
木で墓の内部を区切った
中国山東地域に起こる。貴人の墓だったか。 オホーツク文化は
10世紀頃には終焉を迎え、
擦文文化に吸収されたという。
この移行期が
トビニタイ文化である。
 
 トビニタイの不思議

  オホーツク人は、千島~北海道東部~樺太~シベリアを狩猟と交易で行き来することにより成り立っていた生活文化。
  しかし、中間の北海道東部をアイヌによって占領され、分断されたことによって文化は孤立し、崩壊し、
  アイヌとの融合文化であるトビニタイ文化が発生した。

  侵略者であったアイヌは、敵であり、征服者であるが、被征服者・被抑圧者とはならず、融合文化が生じたのは、
  オホーツク人がアイヌに尊敬され、より高い文化を持っていたからだ。

  少数のオホーツク人と大多数のアイヌが、しかし、オホーツク人の精神文化が、アイヌの精神文化となっているのは、
  少数が多数をクマ信仰という精神文化で支配したようだ。
  つまり、オホーツク人はアイヌのシャーマンになって、殺戮や奴隷化を免れのかもしれない。


 60アイヌ時代 鎌倉時代~江戸時代末(13c~19c)

 61アイヌ文化
   鉄製品が大量に使われるようになっても、一部で石器や骨角器が加工可能の手軽な材料として、粘土とともに使われた。

   日本中で マッチが安価に一般化するまでは火打石を使っていたし、黒曜石のナイフは神聖な儀式の大切な道具だと聞いている。
   近代に入っても縄文や旧石器の文化は残っていたことになる。
   エスキモーの社会では骨角器は現役であるそうだ。(柔らかくて耐久性があり、低温に強い。プラスチックは低温で割れる)

住居再現 狩猟具 生活道具
祭祀具
骨斧など骨角器も使用された 石斧・石錐・掻器 太刀・斧・鏃・刀子 鉄鍋 軽石製火皿
衣類 木質繊維製


 アイヌ文化の貝塚
  網走から知床に延びるオホーツクの海辺を臨む藻琴湖畔の台地上にアイヌ文化の大きな貝塚が残されていました。
  この浜藻琴神社遺跡では、50cm程に厚く堆積した貝層の中から、多くの獣骨をはじめ豊富なアイヌ文化の生活資料が数多く発見されました。

  貝層はエゾイソシジミとヤマトシジミ等を主体に形成され、そこにアザラシやクジラ等の海獣骨とエゾシカを中心に、ニシン、サケ等の魚骨が多く
  含まれていました。海の資源に重きを置いた豊かな食生活がうかがわれます。

  発見された、当時の生活道具も豊富でした。アイヌの人々が自ら製作した骨製の精巧な銛やヤス、針入れをはじめ、倭人との交易で入手した
  鉄鍋や刀、船釘等の他、キセルや火皿もみられました。

  オホーツク海岸での和人の進出が本格化し、人々の生活が大きく変貌していく18世紀のアイヌコタンの様子が伺われます。

鹿角製銛先製作過程回転式離頭銛(キテ) 骨角器 銛先 アイヌ文化の貝塚 彫刻された骨モコト神社遺跡の貝塚から出土 骨器の管状装身具ネット上でも例がない  管状の彫刻した骨や装飾品は何だろう。
 65初秋
  記録的な高温の2013年。
十月中旬の網走はまだ、秋の走りだった。持って行った極薄セーターもほぼ着る機会もなかった。
  ところが、
この一週間後、
 北海道は一気に冷え込み、初雪初氷。
晩秋に突入した。