縄文を旅する3 北の縄文 北東北~南北海道旅 28 2013.10.12(土) 網走市立郷土博物館 北海道網走市桂町1丁目 交通 ・モヨロ貝塚館からタクシーか歩き。私は時間つぶしで歩きました。(杖を突いては遠いが、街を感じるいい機会だ) ・市内中心部にある。通常は散歩コース 見所 ・旧石器~アイヌ時代まで ・オホーツク人の人骨(本物) 動物型土製品 オホーツク地域の動物の剥製 ・旧式な展示と採光・照明で見づらいが、展示内容は大変専門的で、北海道のどの博物館より詳しい。 改築された場合、このレベルが維持されるだろうか心配です。 反省点 この旅最後の訪問地です。でも、頭の中は二週間続いた旅行が終わるという実感がない。 始まったときと同じように、何の違和感もなくまた、終わる。緊張感を欠いた取材でした。 追記 2016.05.28 間違いを訂正追記しました |
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00郷土館 大変レトロな外観です。博物館の内装の改善を望みたいが、改築されるとこの外観が消える。痛しかゆしですね。 歴史的建造物の保護と、博物館展示の近代化は両立しない。難しいところです。
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01オホーツクの動物たち 大変立派な剥製で、モヨロ人や、旧石器からアイヌ時代、そして近代までの人々が活計(たつき)とした動物である。 剥製の手入れと保存が大変良い。
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10縄文時代 (6000~5000年前) 縄文時代のはじまり 長い氷河期が終わりを告げた今から1万年程前、日本列島では初めて土器を使った生活、「縄文時代」が始まりました。 北海道は少し遅れて8000年前頃、網走では7000年前頃に開始し、それ以降、5千年以上にもわたり続きました。 煮炊きのできる道具である土器と、石鏃を使った弓矢の発明は、植物性食料の広い利用と、当時増えつつあったエゾシカ等の中小動物の 効率よい狩猟法を発展させ、より豊かな食生活をもたらしました。 人々は定住し、集落をつくり、安定した生活を営み始めます。地域ごとに独自の文化が残されたのはこの頃からで、現在の私たちの文化的な 基盤が形成された時代でもあります。 時代区分 旧石器文化が栄えた氷河期が終わり、温暖化した気候は、豊かな生態系をもたらし、縄文文化発展の大きな要因となりました。 しかし、縄文時代を通じては、小さな寒暖がおとずれ、それに対応する形で文化内容もいくつか移り変わっていきました。 その変化は早期、前期、中期、後期、晩期と大きく5つの時期をもって区分され、まとめられています。 それでは網走周辺の縄文時代の動向を古い時期から順を追って御覧ください。 ※この頃、北海道では縄文草創期の遺跡が見つかっていませんでした。多くの年表も縄文早期からの記述になっています。 私見、北海道に縄文草創期がなかったわけを考えてみた。 ➀旧石器時代終末期の最寒冷期に、極寒に耐えられず、沢山の旧石器人が南下し本州へ渡っていったこと。 ②最寒冷化とそれに続く温暖化によって大型獣の食草が得られなくなったことや、温暖化によって動物の回遊経路が絶たれ、絶滅したこと。 ③更にその後のヤンガードリアス期の再氷期に、一旦温暖化適応した人々が、以前の生活には戻れなかったこと など、一旦北海道では、人が住めなくなったか、あるいは ④海岸線の後退で遺跡が全て何キロも沖の現在の海底へ移動してしまったために遺跡が発見できないのか、 長く草創期の遺跡が見つかっていませんでした。 西暦2000年代に入って、帯広市大正遺跡群から草創期から前期前半を示す遺物が発見され、北海道に人跡が絶えなかったことが判明した。 北海道の縄文草創期遺跡 参照帯広百年記念館収蔵縄文土器ギャラリー 草創期遺跡発見を報告したこの文書によれば、 「草創期の土器は、道内では帯広市大正3遺跡から出土した約1万4000年前の土器が最古とされています。」 「大正3遺跡の土器は、底が丸く、先端に乳房状の突起がつく形で、“爪形文”と呼ばれる爪でつけた文様に特徴がある土器群で、 本州の東北地方から中部地方にかけての、この時期の土器群と共通した特徴をもっています。」とあり、 今後、なぜ、東北から中部地方の土器群と共通しているのかを調べたいところです。 |
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11縄文時代早期(8000~6000年前) 北海道の縄文時代の始まりは、今から8000年前頃に遡ります。 竪穴式住居での生活、土器や石鏃の使用、網漁が予測される石錘の存在など、縄文時代の文化的基礎はこの時代に形成されました。 最古の北海道の土器は、貝殻や縄を器面にそのまま押し付けた文様が特徴で、道東では平底、道南では尖底と、器形の大きな違いが 注目されています。 網走では網走湖底遺跡に代表される湖周辺の水辺を臨む場所で遺跡が発見されています。しかし、その数は少なく、規模も小さなものばかりです。 恒常的な大集落は形成されず、いまだに半定住的な生活が続けられていたようです。 縄文時代早期の土器 札幌以西は尖底貝殻文土器 道央以東は平底貝殻文土器
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12縄文時代前期(6000~5000年前) 6000年前頃になると、「縄文海進」という温暖化のピークをむかえ、海面が現在よりも4mも上昇し、内陸にまで海が侵入しました。 海には暖かい魚介類が見られ、森はミズナラ等の木の実が豊富な樹木で覆われました。 こうした恵まれた自然のもとに、貝塚や大きな集落が各地に形成され、定住化による人口の増加がみられました。綱文、押型文、無文など 多様な形、文様の土器がつくられ、植物加工具である石冠や、漁撈用の石錘が盛んに使用されるのが特徴です。 当時の網走川はかなり川幅が広く、網走湖は海と直接つながった大きな湾になり、その岸辺には大曲洞窟遺跡が残されました。 縄文時代前期の土器 札幌以西は円筒下層式土器 道央以東は繊維尖底土器(粘土に植物繊維を混ぜた)
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13中期(5000~4000年前) 縄文時代中期の土器 札幌以西は円筒上層式土器・余市式土器 道央以東は北筒式土器 縄文時代中期 中期は徐々に現在の気候に近づいた時期ですが、引き続き暖かな環境にありました。 道南には本州から円筒形の土器を使う人たちの文化が伝わり、道東でも筒形の厚手の北筒式土器が使われます。 石槍などの投げ槍が多く用いられ、シカなどの動物を本格的に狩猟するようになりました。 網走では縄文時代を通じ、最も多くの遺跡が残され、そのその居住域は海岸ばかりでなく、山に近い内陸にまで広がり、安定した生活であった ことが伺われます。 現在の網走市南6~8条通りにかけての河川沿いの段丘をはじめ、美岬や潮見、駒場などの台地上にも多くの集落が形成されました。 モコト式土器 縄文時代中期の初め頃に道東地方で使われていた土器。「円筒形」をした大型の容器で、口縁には小さな突起が付けられいることもあります。 「縄」文様が全面付けられた土器表面には、太い「粘土紐」が縦横に貼られ、その上には縄や棒の端を押し当てた「刻み目文様」が数多く見られます。 |
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縄文時代後期 (4000~3000年前) 後期は今より2℃程気温が低下し、再び寒冷化が進み、冬には流氷もやって来るようになりました。 特に道東では遺跡が激減し、従来までのような食料調達の難しさから、急激に人口が減少したようです。 全道でほぼ似たような土器が使われるようになり、北海道が一つの文化で覆われました。 この厳しい環境を前に、当時の人々は生活を改良していきます。 一つは土器の面で、深鉢形、浅鉢形、壺形、高坏形などと用途に応じた様々な形の土器を初めて作り出し、使い分けました。 精神生活の面でも、発達した呪術的社会が形成されたようです。 近隣の斜里町 朱円環状土籬遺跡※に代表される豊富な副葬品を持った大きな共同墓地が各地で造られるようになるのもこの時期の 大きな特徴です。 ※斜里町 朱円環状土籬遺跡(しゃりちょう しゅえんかんじょうどりいせき)は、 斜里朱円周堤墓群(しゃりしゅえんしゅうていぼぐん)とも言われる円形の周堤で囲まれる墓地といういみです。 縄文時代晩期 (3000~2000年前) 縄文時代の終末、晩期になると、関東以北の北海道を含めた東日本一帯は、磨り消し技法を駆使した精巧な文様で飾られた土器文化 「亀ヶ岡文化圏」に組み込まれます。 しかし、網走周辺の道東地域では、舟形などの特殊な形の土器を使う独自の文化が栄えました。 遺跡数はあまり多くありませんが、市街地では網走川を間近に臨む中央公園のあたりに大きな集落が残されています。 この時期には鉄製品や鉄器の使用がそろそろ始まったようで、次に続く続縄文時代の文化的要素もみられ見られるようになり、 縄文時代は終焉へと向かいました。
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縄文時代後期・晩期になると、気候が寒冷化し、気候が不安定で生活が厳しくなりました。 そのため、個人の強さが求められるようになり、呪術的な儀式や信仰が行われるようになりました。 抜歯や入れ墨や、、、その他いろいろです。 |
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20旧石器時代(2万~8000年前) 世界中が氷河に覆われた時代であった。海水面は140m下がり、海岸線は何十キロも沖合にあった。 旧石器時代(先土器時代) 〈約2万年前~約8000年前〉 北海道最古の人類文化は、氷河期も終わりに近い2万年前頃に登場しました。 土器の発明以前のこの時期の人々は、石で作った様々な道具を携え移動しながら大型獣を追う狩猟生活をしていました。 北海道の旧石器人 北海道最初の人類である旧石器文化の担い手たちは、遠く北方のシベリア大陸から南下してきた人々でした。 彼らは今から2万年前から1万年前にかけて、ヘラジカやオオツノジカなどの大形獣を狩猟しながら、氷結した海を渡り北海道に移り住んできました。 21情報 |
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旧石器時代から縄文時代へ
川越遺跡 ~北海道最古期の旧石器時代の遺跡~ 2万年前の細石刃狩猟民の遺跡 川越遺跡はオホーツク海沿岸地域の最古級の遺跡です。 斜里岳のふもとの山間の、地面から3mも下層の焼けた火山灰の中から黒曜石製の石器が発見されています。 その年代は約2万年前の氷河期 北の大陸から宗谷海峡にできた氷の端を渡り、北海道に初めて移り住んだ旧石器時代の人々のくらしの痕跡です。 細石刃と呼ばれる細長い石片を、骨や木などの両側に埋め込んだ槍を使い、狩りをしていた旧石器人の暮らしぶりが伺われます。
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23縄文 25縄文時代の道具いろいろ 縄文時代は鉄製の道具はなく、いまだに石や骨製の道具が盛んに使われていました。酸性土壌で覆われているため、網走では骨角器の 腐食が著しく、発見されるほとんどの道具が石製の道具ばかりですが、当時の道具を伺うことができます。 時期によって、種類や形が少しずつ変化していますが、主な道具は次の通りです。 狩猟の道具 石鏃・石槍など 漁撈の道具 石錘・ヤス・銛など 採集用の道具 石匙・石ナイフなど 採集植物加工具 石冠・磨石・敲石など 解体等の加工具 削石・掻器・石斧など |
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26縄文早期の石刃鏃 石刃鏃文化は北方民族の文化である。 石刃鏃文化の渡来 縄文時代が開始された頃の一時期、網走など北海道東部一帯には、旧石器時代の伝統を留めた人々がシベリア方面から渡って来ました。 旧石器人の石器作りをさらに発展させて、より細長い石片を連続的に打ち取り、それを素材に「石刃鏃」という鋭い矢じりを作る高度な技術を持った 人々でした。 この石刃族文化人は、主に海岸沿いに生活していましたが。エゾマツやトドマツといった針葉樹の森林が広がる道東の内陸部一帯に適した暮らし ぶりをしていたようです。網走周辺では、網走湖を中心とした地域にいくつかの遺跡加瀬残されています。 しかし、大陸から一段となってやってきた石刃鏃文化人も時間の経過と共に遺跡数も少なくなり、やがて北海道在地の縄文文化の中に吸収、消滅 していきます。 そして、ここに北海道独自の縄文時代が開始されることとなります。
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27縄文初期・中期の石器セットと縄文住居 縄文住居 縄文時代の大きな特徴の一つに「竪穴式住居」での生活があります。それ以前の旧石器時代の人たちは、移動生活のため、地面に建てた テント式の仮小屋での生活でした。しかし、定住を始めた縄文人は、地面を掘り窪め床を造り、そこに柱を建て、屋根を葺いた丈夫な住居を 造り出しました。 3本柱の簡単なものから始まり、4~5本柱のもの、ひさしの付いた入口が設けられたものなど、家の造りも時期を経るに従い少しずつ発展して いきます。 道南地域から東北にかけては、一辺が10m以上の大型住居も登場し、大集落の形成が予想されますが、網走周辺では直径が3~5m程の 小型の家が殆どで、それらが2~3軒づつまとまった小さな集落での生活が続いていたようです。 縄文時代の住居模型~三種類の住居~ 縄文人の家は、大きくこの3つの作り方に分けられます。
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30続縄文時代 弥生~飛鳥時代 -3c~7c 33続縄文石器セットと前期前半の土器 続縄文時代は前期・中期・後期に区分される 続縄文式土器(前期) 続縄文時代になると土器の大きさも変化に富み、縄目の模様がより細かく均一になります。 土器上部につけられた内側からの刺突の跡が大きな特徴です。 続縄文前期前半の土器 渡島半島は恵山式土器 札幌周辺は縄線文式土器 道央以東は 宇津内式土器 続縄文時代前期(後半) 前期の後半も引き続き地方色の強い文化が各地に形成されていました。しかし、遺跡の数は多く、人口の増加が見られたようです。 網走周辺の宇津内式土器は、特徴的な目玉文様で飾られた、装飾性豊かな土器となります。 依然として深鉢型を中心に、大小の器がありますが、道西域で多い壺形容器も使われるようになります。 一方、道央・道南では、引き続き多彩な形の器が作られていますが、壺が減り、道東のような深鉢が多くなってきます。 北海道の東西で文化的な交流が進められ多ようで、この傾向は左のケースの後期段階へと受け継がれていきます。 |
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34続縄文時代 後期 続縄文時代後期の土器 札幌以西は弥生式土器 道央以東は後北式土器(江別式土器) 続縄文時代(2000年前)の網走の様子 本州では弥生時代をむかえた2000年程前の網走の様子です。 現在ほぼ同じ気候と地形になったこの頃、人々は網走川を近くに臨む場所にムラをつくり、主に海辺や河川でサケ・マスなどを捕る漁撈生活を 送っていました。 続縄文時代後期(前半) 続縄文時代の後期は、それまでの地域性豊かな北海道がひとつの文化圏にまとまった時期です。 その前半は道央で発達し、全道に広まった後北C1式が使われていた頃にあたります。 土器の形はそこがすぼまった逆釣り鐘状に統一され、前期末に出現した目玉文様を連続的に施文した美麗な器を作り出しました。 この時期は墓址からの出土例が殆どで、信仰的な意識や儀礼の著しい発達が伺われます。 網走で引き続き海岸や河川を臨む市街地にムラが作られています。しかし、より上流域の網走湖畔の小川沿いにも人々が住み始めます。 河川を遡上したサケやマスを大量に捕獲する漁撈に依存した生活へと移行し始めた当時の暮らしぶりが伺われます。 続縄文時代後期(後半) 続縄文時代の終わり頃の北海道もひとつの文化圏にまとまっていました。遺跡の数も増え、比較的大きなムラも作られるようになり、充実した 文化が形成されていたようです。 後北C2・D式と呼ばれる土器がこの時期の特徴的なもので、それまでの後北C1式土器の美麗な文様が崩れていく過程をたどることができます。 器型は従来までの深鉢に加え、注口や片口を持った液体を注ぐ器や、把手の付いた器、ボール状の浅鉢など、機能に応じた土器が作られ、 使われるようになります。 この時期の文化は、千島列島や東北北部にまで分布域が拡大したことが知られています。当時一時的に訪れた寒冷な気候による東北の 稲作文化の南下が背景にあったようで、本州では弥生時代が終わり、古墳時代をむかえた頃にあたります。 |
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35続縄文時代 終焉 全ての土器が北大式土器に一元化された。 続縄文時代の終焉と北大式土器 続縄文時代の終末は、土器口縁が円形刺突文で飾られた「北大式土器」が使われた時期です。北海道から東北北部にまでその勢力は広まり、 特に東北地方の人々は、エミシとも呼ばれ、大和政権との軍事衝突を度々起こしていました。 この時期になるとようやく鉄器が普及して石器は減り、道北ではオホーツク文化人が進出してくるなど、次の時代にかかわる新たな動きが みられるようになります。 7~8世紀頃、千年近く続いた続縄文時代は終焉を迎え、新たな時代、擦文時代がおとずれます。 |
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36土器棺 埋葬に用いられた続縄文式土器 墓に弔うために、骨を納めた土器です。口縁の吊り手状の飾りとリボン状の文様が特徴、 網走周辺の続縄文時代を代表する(宇津内式)土器です。 |
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40擦文時代 擦文時代とは 日本列島の大部分が稲作社会の弥生時代へと移り変わった後も、狩猟・漁撈・採集生活を基盤とする続縄文時代が続いていた北海道では、 8世紀を迎えた頃から、奈良・平安時代の本州文化と密接に関わりある新たな文化、擦文時代が始まります。 伝統的な狩猟に加え、ヒエやアワ等の雑穀類の小規模で原始的な農耕が始まり、河川河口部での集中的なサケ・マス漁が盛んになります。 それまでの石器に代わり、鉄製品が道具の主役となります。 住居も本州文化を模した四角形のカマドつきの家が出現し、機織り技術も発達する。石狩地方には東北の終末期の古墳も造営されるようになる。 本州文化の影響を強く受け、それまでの伝統的な文化が最も大きく影響した時代であり、この後に続くアイヌ文化の基盤が形成された時代でもある。 41擦文文化 奈良時代から平安時代にかけての7c~12cの時代 交易によって鉄器を得たアイヌは東征を始め、次第に人口と勢力範囲を広げていった。 これが次のアイヌ時代への基盤整備となる。 鉄器文化としての擦文時代 擦文時代を特徴づける大きな要素は鉄製品の使用が本格化したことです。鉄製品は本州の東北地方から供給されたもので、 北海道の南西部から北東部へと少しずつ波及しました。 主な鉄製品としては、下のように多彩です。 ・鉄斧、鉄鍋、鉄鍬などの農耕具 ・銙帯金具、などの祭祀具 ・鉄鏃、鉄針、鉄釘などの狩猟生活具 ・蕨手刀、直刀などの祭祀具や武器
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50オホーツク文化期 奈良~平安時代 6c~11c 約五百年間 3c~13cという説もある 54オホーツク文化 靺鞨の拡大とともに押し出されたアムール川周辺の部族が樺太~道東~千島列島にかけて広がった文化。又は靺鞨そのもの。 海洋狩猟民族で、必ず海岸に暮らし漁労生活をした。 高い精神文化を持っており、僅かな人数ながら、後のアイヌ文化に大きな影響を与えた。靺鞨もエベンキ人もオホーツク人も同じです ※オホーツク文化人とは 大河アムール川流域に住んでいた民族が、サハリンや北海道北部・東部から千島列島にかけて、交易用の毛皮を求めて進出、定住していた。 擦文人、のちのアイヌが北海道北部に進出し、アムール人が千島と靺鞨を結ぶ交通路を遮断してしまったため、オホーツク沿岸や千島に取り 残されてしまった人々のことである。 鉄の伝播と交易 当時、鉄製品はいまだに貴重なものでした。刀子・鉄釜・鉄鉾などが代表的な鉄器としてよく使われていました。 しかし、今のところ北海道では、製鉄跡が発見されていません。北方大陸の人々との交易により手に入れた可能性があります。 アムール川流域に住む靺鞨文化(4~8世紀)などの人達の鉄と、オホーツク文化人のアザラシ類の毛皮とが物々交換されていたようです。 装身具 頭・首・耳・腕などを飾るためのものです。金属製の耳輪も大陸から手に入れて使用していたようです。ガラスの小玉も発見されています。 オホーツク文化人(モヨロ貝塚人)の骨格 オホーツク文化人はアイヌや和人と違う骨格をしています。頭骨は正面から見ると頭頂部がとがり、横からは幅が短いという特徴があります。 特に下あごは耳側が幅広く頑丈な顔つきをしています。サハリンや大陸のアムール川下流域に住む人々に似ていたようです。 |
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55オホーツク文化の土器 土器形式により五期に分けられている。 写真がとれてねーし。ごめん! |
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56オホーツク文化人の食べ物 狩猟・漁労・採集などの生活は自然を畏れ敬うことから始まる。彼らはクマを特に敬い、また、住居の中にまでクマやその他の動物の拝所を設けた。 オホーツク文化人の食料 海と陸の獲物によって、バランスの取れた食生活をしていたようです。また、一年を通して野生植物の実、根茎の採取も続けられ、 安定した食料を確保していました。 海の食べ物 漁労によって得られる食料は次のようなものでした。 ニシンを中心にオヒョウ、カレイなどの魚類が最も多く、アザラシをはじめ、オットセイ、トド、クジラなどの海獣類も捕獲していました。 浜辺ではウニや貝類なども多く採集していたようです。 陸の食べ物 狩猟によって捕らえた主な獣は、エゾシカ、クマ、キツネ、ウサギなど、大型獣から小型のものまで多彩な動物達でした。 カモ、ウ、ハクチョウなどの水鳥を中心に鳥類も多く食べていたようです。 |
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57オホーツク文化の埋葬 オホーツク文化の終末 10世紀になると、オホーツク文化は終わりをむかえます。それまで北海道の地元の古代文化である擦文文化の人々へ少しずつ混血・吸収 されていったのでしようか。 オホーツク文化人がその終末に作った土器は、こうした動向を十分に伺わせます。 器の表面には従来通り、粘土紐で文様を付けますが、容器の形は擦文人のものへと変わっていきます。 オホーツク文化の代表的な墓 網走市のモヨロ貝塚では、オホーツク文化の特徴的な墓が数多く発見されています。 頭を北西に向け、仰臥して手足を折り曲げて葬られたものです。 頭には甕を被せ、胸のあたりにも甕が置かれることもありました。 男性の墓には石鏃や刀、女性の墓には骨製の装身具や刀子(鉄製の小刀)が痛いと共にそれぞれ納められています。 オホーツク文化の特殊な墓 オホーツク文化の代表的な遺跡、網走市のモヨロ貝塚では、右のような墓が一般的でした。(被甕葬) しかし、左のように「火葬した骨」を石で囲った墓や、「木の棺」に納めた墓など、特殊な墓も発見されています。 ※アイヌでは「死に方」や社会的地位などによって埋葬が異なっていた。 |
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トビニタイの不思議 オホーツク人は、千島~北海道東部~樺太~シベリアを狩猟と交易で行き来することにより成り立っていた生活文化。 しかし、中間の北海道東部をアイヌによって占領され、分断されたことによって文化は孤立し、崩壊し、 アイヌとの融合文化であるトビニタイ文化が発生した。 侵略者であったアイヌは、敵であり、征服者であるが、被征服者・被抑圧者とはならず、融合文化が生じたのは、 オホーツク人がアイヌに尊敬され、より高い文化を持っていたからだ。 少数のオホーツク人と大多数のアイヌが、しかし、オホーツク人の精神文化が、アイヌの精神文化となっているのは、 少数が多数をクマ信仰という精神文化で支配したようだ。 つまり、オホーツク人はアイヌのシャーマンになって、殺戮や奴隷化を免れのかもしれない。 |
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60アイヌ時代 鎌倉時代~江戸時代末(13c~19c) 61アイヌ文化 鉄製品が大量に使われるようになっても、一部で石器や骨角器が加工可能の手軽な材料として、粘土とともに使われた。 日本中で マッチが安価に一般化するまでは火打石を使っていたし、黒曜石のナイフは神聖な儀式の大切な道具だと聞いている。 近代に入っても縄文や旧石器の文化は残っていたことになる。 エスキモーの社会では骨角器は現役であるそうだ。(柔らかくて耐久性があり、低温に強い。プラスチックは低温で割れる)
アイヌ文化の貝塚 網走から知床に延びるオホーツクの海辺を臨む藻琴湖畔の台地上にアイヌ文化の大きな貝塚が残されていました。 この浜藻琴神社遺跡では、50cm程に厚く堆積した貝層の中から、多くの獣骨をはじめ豊富なアイヌ文化の生活資料が数多く発見されました。 貝層はエゾイソシジミとヤマトシジミ等を主体に形成され、そこにアザラシやクジラ等の海獣骨とエゾシカを中心に、ニシン、サケ等の魚骨が多く 含まれていました。海の資源に重きを置いた豊かな食生活がうかがわれます。 発見された、当時の生活道具も豊富でした。アイヌの人々が自ら製作した骨製の精巧な銛やヤス、針入れをはじめ、倭人との交易で入手した 鉄鍋や刀、船釘等の他、キセルや火皿もみられました。 オホーツク海岸での和人の進出が本格化し、人々の生活が大きく変貌していく18世紀のアイヌコタンの様子が伺われます。
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65初秋 |