>北陸の縄文と観光 環状木柱列を尋ねて28 2014.05.29(木)
塚原遺跡公園展示館 岐阜県関市千疋1777-1 0575-28-5955 月曜休館
交通 |
長良川鉄道の関駅下車 タクシー 4qほど歩くかタクシーか。 岐阜駅から岐阜バスの便もあります。 |
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タクシーはひどかったですよ。南に大きく下がって迂回して大変遠回りしていきました。
道が違うというと「おまえ行ったことあるんか、地図見せてみぃ」などと凄み始めた。
あまりのたちの悪さにこちらも言い返し、最終的にナビタイムのシミュレーション通り2000円程で手を打つことにした。
関市のタクシーこうでした。みなさん。よくお考え下さい。ニコレンがあれば、それが一番いいのですが。 |
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時代 |
縄文早期 縄文中期 古墳時代 の三期に渡る遺跡です。 これらの遺跡が復元されている。 引用関市塚原公園 |
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大変良く整備され、美しい遺跡公園でした。ただ、浅学のため私には案内板がなかったのでよく分からなかったです。
今考えてみると、古墳時代は復元古墳だけ。縄文中期は竪穴住居と掘立柱建物。 縄文早期の炉跡はどこにあったものやら。
というより、タクシーとの不毛なやり取りで興奮おさまらず、冷静な判断ができていなかったのでしょう。
本当に関市のタクシーは悪質でした。 |
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見所 |
撮影はだめの博物館だらけの岐阜県で、数少ない撮影可能の博物館です。 |
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縄文遺跡の上に古墳が築造された遺跡です。 |
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備考 |
この縄文遺跡は、古墳を発掘する過程で古墳の下から縄文遺跡が発見され、発掘に至りました。 |
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塚原遺跡に関するネット情報はほとんどありません。だから、何もわからないのが現状です。すみません。 |
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反省 |
悪質タクシーのために大変興奮してしっかりと、落ち着いて撮影をできなかったことが悔やまれる。関市なんて二度と行くもんか。 |
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リンク 動画「塚原遺跡公園」 同様静止画 東海四季便り 学術的情報は少ないのですが、写真情報はあります。 |
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目
次 |
10縄文時代
12早期の遺跡
※2押型文土器
※1屋外炉との説明 |
14中期の遺跡
22土器
縄文中期の土器
23日本各地の土器型式
29V岐阜県における土器形式
関東地方の土器
24東西日本の土器形式
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27T期の土器
28U期の土器
29V期の土器
19石器 |
40古墳時代の遺跡
42石室
44土器
45古墳時代の「むら」と家屋
46副葬品
47玄室
50復元遺跡 |
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10縄文時代
12早期の遺跡 屋外炉8基 引用Wikipedia
1万〜6千年前
早期 (1万年〜6000年前)
何度も訪れたキャンプサイトと考えられており、竪穴住居址はなく、長良川に面していることから食糧獲得のために
定期的に訪れる漁場だったのでしょう。
屋外炉8基 補修孔のある土器が見つかっている。
画像拝借wikipedia |
いきなり展示室の設計 |
縄文早期の遺跡はキャンプサイトで住居はない。
炉跡※1だけ発見された |
炉跡 が8基ありました |
早期の土器 押形文尖底土器※2
右は補修孔あり |
押形文の作成法
土器形式から縄文早期と判断されたようです |
※2押型文土器は
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縄文時代早期前半から前期にかけての回転押型文をもつ土器群。
山形押型文と楕円押型文と格子目押型文が主体で、 賽目文、同心円文、矢羽根状文、梯形文もみられる。
古い押型文土器は、草創期の爪形文土器を継いだ近畿地方の神宮寺式や大川(おおこ)式、中部地方の立野式 (信州南部7000年前) である。
早期前半には
岡山県黄島貝塚(8400BP)、大分県早水台貝塚(8200BP)、和歌山県高山寺貝塚、長野県樋沢、細久保、新潟県卯ノ木、群馬県普門寺などの各遺跡で、山形文、格子目文、楕円文をもつ尖底深鉢の土器が使用されている。関東地方の撚糸文土器も回転施文で共通し、押型文土器と共伴している。
北海道の格子目文、賽目文の平底深鉢、東北地方の日計式の変形山形文は早期に属するが、
中部日本の押型文土器とは別系統とみられる。
本州では沈線文土器の出現とともに押型文土器は消滅したが、九州南部と北海道東部では平底深鉢の押型文土器が前期前半まで存続している。
引用コトバンク「押(し)型文土器」 ※立野式(押型文)土器は伊那谷の土器です
私見 押型文土器は西日本や(和歌山など) 南の方からやってきた土器文化のようです。関東は撚糸文土器。
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※1屋外炉との説明
これが蒸石遺構だとすると南方系縄文人。東海地方から上がってきた人々と言うことになります。土器形式も。
※この場合北方系に対しての意味で、南九州の海洋民のことではなく、西日本系の人々ではないでしょうか。
場所が長良川の氾濫原で、ここは、川漁に便利だったのでしょう。
夏場のアユ漁とその保存食の 干し鮎や 焼き鮎にしたのでしょう。 太平洋側ですから鮭の溯上はなかったでしょう。
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14中期の遺跡 三期に渡り、合計 竪穴住居17軒 掘立柱建物19軒 土器捨場5か所 蒸し焼き場7か所 引用Wikipedia
5千〜4千年前
縄文中期の「むら」T期のムラの説明がなく意味が分からない |
U期のムラの成立 |
円形集落なら円内に土壙があり、葬送儀礼の遺物があるのではと思うが |
人口最大時期のムラの建替史
写真が悪くて何も見えへんね。ごめん。 |
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U期に20人余4軒の竪穴住居が成立。すぐに消滅
V期に環状集落形成。ムラは三回作り変えられ、
竪穴住居跡13、掘立柱建物跡19、蒸焼場7、土器捨場5 が作られた。
30人程が暮らす小規模な集落だった
掘立柱建物の用途は
1.作業小屋
2.倉庫
3.死者を弔うもがり小屋
4.季節による住み替え用住居
などの推測がある |
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22土器
このTUV期は上記の住居建替史のUVにあたるようだ。Tは何? |
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全て縄文中期の土器ですが、説明が不完全でほとんどわかりません。
土器形式についても不明です。 |
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T期にもムラがあり、土器捨て場から5000点発見。住居跡も発見された。
が、パネルでは突然U期の集落成立から記述してT期を飛ばしている。意味不明。理解力の低いわたくしには何のことか不明です。
まるでU期が中期遺跡の始まりでT期は早期遺跡のように感じた。 |
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縄文中期の土器
中期 (5000年〜4000年前) 多様な土器が各地に作られた 引用縄文時代Wikipedia
23日本各地の土器型式
@とAの九州の土器形式は参考文献としてご覧ください。
BとCの図表は岐阜県周辺にも参考になります。
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29V 岐阜県における土器形式
関東地方の土器
関市と茅野・甲府・鎌倉 |
勝坂式土器は、中期前半に、 関東西部〜中部地方が分布域加
曽利式土器は、中期後半に、 中部山岳地帯に広まった土器形式
その他、加曽利E式や西日本系、北陸系、東海系などが、複雑に影響を与えました。
つまりは、その系統の集団がこの地に侵出を繰り返した。
各々の集団は岐阜県内でモザイク状に点在し、同時期の近接した遺跡でも、遺跡ごとに土器形式が異なっていた。(非交流)
関東系土器の拡大は驚異的で、関東地方から沢山の集団が、川や海伝いに、富士山周辺の陥没地帯から八ヶ岳大崩落で
大平原地帯となった甲府・茅野。そこから峠伝いに長良川を下って、遥々岐阜までやってきた。遥かなる旅路でしょう。
縄文人のダイナミックな活動には驚きを禁じえません。なぜこれほどまでに移動するのだろうか。 |
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24東西日本の土器形式
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縄文時代時代中頃の土器の特徴
大木式土器(A〜C)
胴から口の部分は開きますが、全体は筒形に近い形です。
口には円や渦巻きなどを合わせた把手が付きます。
胴は,2,3本の細い粘土や線で、連結した渦巻きや円形の文様がつけられます。
阿玉台式土器(D,E)
胴から開く口の部分には、大きな山形の把手がつき、その下は鍔状につけられ た粘土で枠が作られます。粘土と線で文様がつけられ、
文様がぶつかる部分が出っ張ります。
勝坂式土器(F)
口の部分が大きく湾曲し、胴がくびれ、そこがソロバン玉形のものがあります。 大きな立体的な把手がつき、太い粘土が貼り付けられたり、
彫刻刀で削ったような模様がつけられます。
火焔土器(G)
まっすぐな胴部から口の部分は大きく湾曲します。粘土により土器の表面いっぱ いに模様がつけられます。
口縁上部には炎を思わせるノコギリ歯状の連続する 三角形の突起や、鶏のトサカのような把手が付きます。 |
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27 T期の土器 (縄文中期) 土器捨て場などから5000点出土しています。
(中期T期の9号住居出土、)
住居跡出土の二点だけ展示
土器捨て場の5000点は復元不能だったよう |
二つの異なる土器形式の遺物です
土器形式不明 |
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縄文中期の住居跡から出土の土器。
しかし、5000点もの破片はも〜っと長い期間
居住した様子です |
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28 U期の土器(縄文中期) T期のムラが廃絶した後、新たな住人が作ったムラ、で用いられた土器。竪穴住居跡から6500点が出土。
6500点出土。
縄文中期の土器 |
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土器捨て場より |
12号住居跡から |
遺構外でみつかった |
土器形式は不明 |
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29V期の土器(縄文中期)
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V期のムラは連続的に三回建て替えられたようです。(上記14の4番目の写真)長い間ムラが営まれました。
本格的なムラが営まれた時期の土器。掘立柱建物・竪穴住居・土器捨て場などから10500点が出土。炉の底にあったものもあり、
埋甕炉(うめがめろ)がありました。
土器の形はよく似ていて、家屋別の土器形状の区別はできなかった。とある。 つまり、同一文化人でした。
T期U期と比べて形状・意匠・技術ともに格段に進歩しています。 T期U期とは全く別の文化人です。 |
V期の土器最盛期の村1万点出土
関東系や山梨の土器が主流 |
縄文中期の土器 |
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19石器
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30縄文の村 ジオラマ 館内に展示されている「縄文の暮らし」をジオラマにして子供たちに見せる仕掛けですが、
実に丁寧なストーリー建てをして制作されています。
縄文の村のジオラマ
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多様な場面設定がなされ |
暮らしを身近に想起させるが |
ちょっと小さかったごめん見えないね |
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40古墳時代の遺跡 古墳16基 古墳の周溝11条 石室の前の穴4基 引用Wikipedia
弥生時代を飛び越えていきなり古墳ですから、弥生の中心は近所の村にあり、墓場・古墳だけ山裾に造ったのでしょう。
42石室
東日本の竪穴式と西日本の横穴式の2種類の石室形式が混在している。
1号竪穴、7号横穴 |
これが混在する理由については何も説明がない。
竪穴石室は上蓋が木板なのか、復元現場から大きな石板を見ない |
竪穴式石室は小さな石を積み上げて石室を造り上から納棺して土盛りする。 |
横穴式は重い蓋石に耐えるため大石で玄室を作る。 |
しかし、ここでは竪穴式石室に大きな蓋石を載せている。横穴式埋葬法は後から学んだ形式のようです。 |
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44土器
美濃地方には広範囲に良質の粘土があったためか須恵器が大量出土 |
半島人の須恵器職人がここにも派遣された |
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中央が土器職人を派遣して造った全国統一土器。
でも、右端のシビン状のものは本当は何でしょう |
かなり、他の地域とは違う形状の土器が混入している |
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45古墳時代の「むら」と家屋
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46副葬品
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47玄室
木棺の模型 |
木を断ち割った木棺 |
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お供えの須恵器が点在 |
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50復元遺跡 関市のタクシーの悪質さにブチ切れて撮影がいい加減だったため下のリンクを見てね。復元遺跡が丁寧に掲載されいてます。
リンク塚原遺跡 大和國古墳墓取調室 岐阜県:歴史.観光.見所
画像拝借関市塚原遺跡公園を開園する |
この大石は祭祀遺跡の一つか 古墳の一部 |
忠実に葺石きをしている
河原だから得やすかったでしょう。 |
掘立柱の大型建物 縄文 |
掘立柱建物跡 縄文 |
横穴式石室 |
古墳は時間が経つと
低くなってしまう。古墳 |
これら全てそう。古墳 |
掘立柱建物 縄文 |
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掘立柱建物内 縄文 |
竪穴住居 縄文 |
竪穴住居内部 縄文 |
大石曳き実験 |
修羅 |
修羅
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横穴石室造営には大石が必要で、修羅での運搬が不可欠でした。 |
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