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 縄文を旅する1 中部地方10 2013.05.23-1

  北相木村考古博物館  長野県南佐久郡北相木村2744 月・休日の翌日休館、土日祝は学芸員不在

交通 茅野駅佐久駅清里駅小淵沢駅からレンタカー  
         
見所 栃原岩陰遺跡は8000年前~7000年前の1000年間の縄文早期の遺跡です。
洞窟住居遺跡に人骨の出土。大変珍しい遺跡です。
博物館のテーマは 「縄文時代早期の人々と暮らし」  ですが、 
北相木人」に焦点を当てて勝手な妄想をめぐらしたいと思います。(笑)
    国史跡 「栃原岩陰遺跡天狗岩岩陰」 発掘調査報告書
     
    人口800人のとても小さな村で、さしたる産業もない (大きなお世話) と思われますが、
立派な博物館を運営されていることに頭が下がります。
また、学芸員さんも少ない予算の中から、よく、企画展をされていることに感謝します。
     
年代   8000年前~7000年前の1000年間の縄文早期の遺跡と言われたり、
    8300から8600 BP(未較正)とも言われる。
引用栃原岩陰遺跡(長野県南佐久郡北相木村)出土の縄文時代早期人骨
 

 
  目次


10入口展示
12栃原岩陰遺跡

企画展
13失われた生き物

常設展示
30人類の進化と北相木人
31人類の進化
32縄文人はどこから来たか
 岩陰(ノッチ)の形成
34北相木人の洞窟生活
36狩猟採集生活から農耕社会へ
37年表
40栃原岩陰遺跡の出土物
41発掘現場の再現

資料
 土石流の大規模な堆積について
42北相木人 人骨の出土
43北相木人 復顔

栃原岩陰遺跡の出土物
120いろいろな土器
121出土した土器
122縄文早期の土器文様
123土器を作る
 文様を付ける
130道具
131石器
132石で作った道具
133使い方
134骨角器
135利用された骨や角
136精巧な加工技術

140食べ物
141獣類・鳥・魚介類・植物
 何でも食べた時代
142木の実などの食べ物
143発掘の経過
144獲物はどのようにして食べたか
 北相木人と狩猟
145食用貝類
 北相木人と貝
146動物骨

150岩陰遺跡
 岩陰の元となった泥流
151岩陰の形成
 遺物を守った灰層
 年代を計る物差し・炭
160遺跡分布
161北相木村の歴史

栃原岩陰遺跡以外の出土物
170北相木村出土の土器
171土器の形と用途
175土器片
176前期
178中期
180縄文時代
 石斧の使い方
183土器
182石器
184石器

200弥生時代
210古墳時代

220屋外
221空から見た北相木村

230栃原岩陰遺跡
遺跡前に立つ案内板の全文
栃原岩陰遺跡現場

 
 10入口展示
 11
 板碑
板碑は鎌倉時代から室町時代にかけて盛んに造られた石塔婆の一種で、緑泥片岩などの平板石を用い、死者の追善などの意味を込め、
多くは社寺の境内や墓地に建立されました。碑面には凡字や仏像が刻まれています。

北相木村にある板碑の一枚は京ノ岩の洞窟にまつられていたもので、もう一枚は坂上地区から発掘されました。
佐久地方の板碑の数は多く、関東から信州への古い交通路に沿って見られます。
北相木村の板碑からも相木川の谷筋が交通路として利用されていたと考えることが出来ます。

北相木村考古博物館
交通不便と知名度で来館者は少ないが、

立派な展示と展示物です。
板碑 板碑 植物化石
新第三紀漸新世
3,400万~2,300万年前
植物は被子植物全盛期
貝化石
チャールズ・ライエルの百分率法区分では化石中の現世種が 10~15%のものを
漸新世としたコトバンク
坂上遺跡出土埋甕
平成10年坂上遺跡調査で出土。
外側の土器は文様のある精製土器。
内側の土器は文様のない粗製土器。

堀之内式土器 (約3800~3500年前 後期前葉) で、縄文時代後期の墓だった可能性がある。

※粗製土器は蓋ではなく、精製土器の中に入れて使用したという。蓋はなかったようだ。→

とにかく、この頃には土器棺として使用されていたようだ。
そもそも、この洞窟遺跡の発見は、小学生の通報によるものです。
中で遊んでいて、後世の埋葬人骨などを見つけたのでしょうか。

洞窟は、多くの場合、古代以降、信仰の場や埋葬に使われました。

 12栃原岩陰遺跡

栃原岩陰遺跡は、縄文時代早期 (約7~8千年前) の遺跡で、1965年に発見されて以来10年間に渡り信州大学を中心に発掘調査が行われました。

厚さ5mの岩陰の堆積物からは縄文時代の人骨 (北相木人) や、土器・石器・骨角器、更に、当時の食生活を示す遺物などが数多く出土しました。
このような遺物の豊かさと特異性から、栃原岩陰遺跡は日本での重要な遺跡の一つとして位置づけられ、国史跡に指定されています。

栃原岩陰遺跡
上に記述

  企画展




 北相木村考古博物館 企画展

 13失われた生き物  これは、このとき行われていた企画展です。

 panel
北相木村考古博物館
失われた生き物たち
はじめに

遺跡からニホンオオカミとニホンカワウソの骨が出土している。
栃原岩陰遺跡の動物骨

早期(1万-9千)の骨は炉の大量の草木灰によってよく残存し狩猟や骨・皮・角の利用も確認された。
絶滅した哺乳類

明治以降列島の中・大型獣は絶滅危惧種である。カワシンジュガイも北相木では絶滅した。
ニホンオオカミ

本州四国九州に分布したが、1905奈良県で捕獲後絶滅確認。駆除や疫病が原因か。
ニホンカワウソ

分布域は北海道~九州だったが、農薬や河川改修によって絶滅した。
カワシンジュガイ

幼生の頃イワナやヤマメのエラに寄生するので、これらの繁殖域でのみ生育する。
体長13cm。
日本海側中心に山間の渓流で生息したが河川改修やダム建設で絶滅危惧となる。
縄文時代の狩り

方法は弓矢・落し穴・罠猟等
犬も狩猟に使う。肉は食料、骨・皮は道具。

イノシシを一定期間飼育していた可能性もある。

(イノシシ送りの祭祀)
現在の自然環境

動物の絶滅は乱獲や環境破壊が原因。
戦後の唐松植林による森林の荒廃は、森にいた熊や猪の里への進出の原因。狼の絶滅は生態系を破壊し、逃げ出したミンクは外来獣の繁殖を招いた。
終わりに

今の北相木村も自然環境が壊れつつある。
縄文時代は僅かな人口で環境を変えずに暮らせた。環境保護の大切さを痛感する。



 20展示


 21

 出土した骨
栃原岩陰遺跡で出土した骨の量は膨大です。現在分類のできた物だけで約7300点、200kgを超えています。
出土した動物の種類は、ニホンザル、イノシシ、ツキノワグマ、カモシカ、ニホンザル、ノウサギなど22種で他に鳥や魚(サケ属)の骨なども見られます。

 スクレイパー
獲物とした動物は、肉を食べるだけでなく、骨や角、さらに皮も加工され利用されていました。
この黒曜石の石器は、皮なめしをした道具と思われ、その傷や光沢が残されています。
縄文時代の人々が動物の皮を加工していた証拠の一つといえます。

栃原岩陰遺跡の特に古い層位では、皮の加工に使ったスクレイパーと呼ばれる石器が多く見つかっています。
捕らえた動物を余すことなく利用しようとしていたのでしょう。

 骨角器
栃原岩陰遺跡では、骨や角、牙を加工した道具も多数出土しています。
その中には釣針や縫い針、アクセサリーとして用いた装身具など、多様な物があります。山国での出土は極めて珍しく、全国的にも貴重な資料です。


出土した骨 スクレイパー スクレイパー
※石材種類は不明。ガラス様の透明感。
スクレイパー
よく使い込んだ掻き取り器です。なめしに使ったのでしょう。今も瑪瑙などで皮をなめします。
骨角器 骨角器
弾力性のある骨格を用いて刺突具やヘラ状の物を作っています。
ニホンオオカミ
踵骨、臼歯

動物骨で量が多いのは現在同様鹿と猪です。
ニホンカワウソ骨
ごく少数のカワウソ骨が出土
ニホンカワウソ カワウソは、
水中夕で魚や甲殻類の獲物を捕らえることができるよう、体全体を流線型に進化させてきました。
模型制作の柏内邦夫氏は、写真家で各地の博物館のコンテストで入賞されています。
カワシンジュガイ 栃原遺跡はおよそ3000点の出土が有り、食料にしていたと考えられます。
保存状態がよく、内面の光沢が残されています。
ニホンジカ 鹿の骨は栃原では最も多く、3500点以上出土し主な狩猟対象だった。 現在でも、村内では数多く生息しています。
雄は立派な角を持ちます。近年では増えすぎたため、農業被害なども深刻になっています。


 狩りのパートナー縄文犬
縄文時代、犬は狩りのパートナーとして、大切な存在でした。
他の動物と違いお墓に埋められていた例や、怪我をした後も飼われていた例などもあります。

一般に小型で、鼻先が平たいのが特徴です。アイヌ犬や琉球犬が遺伝的に近いという説もあります。
栃原遺跡では、犬と思われる骨も出土しています。これは日本で最も古い例の一つです。

石鏃
水晶製・黒曜石製など、近隣の優良な石材を使用している。
狩りのパートナー
縄文犬
  企画展はここまでです
 


  常設展示




 30人類の進化と北相木人

 31人類の進化
チンパンジー
ヒト科
アウストラロピテクス
類人猿
北京原人
原人類
ネアンデルタール人
旧人類
山頂洞人
新人類

 32縄文人はどこから来たか
  一万年余り昔の氷河時代には、日本列島はアジア大陸と3カ所で陸続きでしたので、旧石器時代人がこの列島に入り、住み着きました。
  大部分は中国江南以南の人々であり、その他はシベリアやサハリンから北海道、朝鮮半島から九州へもそれぞれ移住しました。
  これらの人々がうまく混ざり合い、縄文人が形成されたと考えられますが、本格的な研究は今後に任されています。

縄文人はどこから来たか
上に記述
縄文早期人(北相木人)
古人類の移動経路 ➡南方から
大陸と陸続きだった更新世終末期に東アジアの後期更新世人類が日本に移動(1万年以上前)

➡北方から
同時代に北アジアの後期更新世人類も移動。
やがて、後期更新世人類の子孫が列島全体に広がり縄文人となった。

➡朝鮮半島から(弥生時代)
縄文時代以降、北方アジアのモンゴロイドが朝鮮半島沿いに日本へ移住してきました。


  岩陰(ノッチ)の形成
岩陰の形成 八ヶ岳の噴火
7~8万年前
千曲川泥流により、千曲川・相木川の一部が埋められました。
岩陰(ノッチ)の形成
約1万年前
相木川の浸食により崖が削られ、岩陰が形成されます。

蛇行、段丘、岩陰
岩陰の生活
7~8000年前
南向きで水が近くにあり風を防げる岩陰は、生活に最適でした。

※栃原洞窟の上に天狗岩洞窟があり、栃原より遥か以前にも、浸食洞窟が形成されていました。


 34北相木人の洞窟生活
 
岩陰住居は、自然にできた浅い洞穴を利用した住居です。
南向きで水の便利なところが好まれ、河原から手ごろな石を運んで炉を作り、絶えず火を燃やし続けました。
男たちは仲間と狩りに出かけ、女性は土器作りや食事の支度をしたのでしょう。獲物は肉だけでなく、皮や骨まで利用されています。

遺跡からは煮炊きのための土器、様々な用途の石器、釣針や縫針などの骨角器、そして食べた後の骨片、貝殻など、
当時の生活を物語る遺物が沢山発見されています。

洞窟内の再現
上に記述

復顔できた2人の男女

の顔を用いたよう

です。


 36狩猟採集生活から農耕社会へ
  日本列島に人類が登場する旧石器時代に続いて花開いたのが縄文文化です。
  縄文土器に象徴される新しい時代を担った縄文人は、後約1万年間にわたり、様々な道具を生産し、主に狩猟採集の生活を営みました。

  洞穴や岩陰、簡単な竪穴住居はやがて集落として発展しますが、ついに稲作・農耕社会である弥生時代へと移り変わっていきます。
狩猟採集生活から農耕社会へ 長野県の主要遺跡分布
 37年表
旧石器・草創期・早期 早期・前期 中期・後期・晩期 晩期・弥生時代 北相木村歴史年表
旧石器~鎌倉
室町時代
 


 40栃原岩陰遺跡の出土物

 41発掘現場の再現
発掘現場再現 現場見取り図 2号人骨上から押し潰された様子が再現されている 洞窟内の土質は、火砕流などではなく 角の取れた石もあることから、風化した山体の土砂や、千曲川や相木川に堆積していた土砂が押し出されて、押し寄せ、堆積したようです。

 資料
  土石流の大規模な堆積について

     洞窟形成のおおもとである泥流・岩屑流・火砕流などの噴出・堆積の履歴を北相木村考古博物館にお尋ねしましたところ、
     次のようにお教えいただきました。

     北相木周辺には、過去何度か八ヶ岳の泥流が流れ込んでいますが、
     およそ100万年前に麦草峠付近の古火山、
     25万年前に硫黄岳付近、
     さらに10~3万年前にも硫黄岳付近から発生した泥流が流れてきたようです。
     天狗岩岩陰も、同じ成因で出来ていると思われます。


     地図で確認すると八ヶ岳と北相木村の間には山塊や地形的屈曲があるのにそれを乗り越えて泥流が来るとは、
     韮崎岩屑流代表に、本当に想像を絶する大災害が起こり続けたところなんですね。


 42北相木人 人骨の出土

 最後の北相木人
岩陰に埋葬された北相木人の骨は12体分が確認され、この中には成人の男女と子供の骨が含まれ、屈葬の姿勢で胸の上に抱き石載せた遺体もありました。約8000年を経た人骨はさすがに破損が進んでいますが、その内の1体の頭骨は、壊れやすい顔の部分がよく保存されており、日本で最も古い縄文人の顔であると考えられています。

 骨から描く北相木人
大人の頭骨は全体に小作りで、鼻筋は通り、頬骨は張り出して立体的な顔立ちをしています。下顎骨は小型で頑丈です。
腕や足の骨は現代人に比べて細く華奢ですが、強い筋肉の付いていた跡が見られます。
これは乏しい栄養と激しい労働を意味します。縄文人は現代人よりかなり老化が早く短命でしたが、北相木人の骨からも同じ傾向が読み取れます。

 先史時代の埋葬法―屈葬―
遺体の手足の関節を強く曲げ、体を仰向きや横向きの姿勢で埋葬する方法です。
理由として、墓穴を掘る場所や労力の節約、霊魂の甦りを防ぐ、などの説があります。

 特異な歯の減り方
縄文人の歯は年齢に比べ全体に激しい減り方をしています。前歯のかみ合わせが斜めになっていたり、
臼歯がえぐられたような特異な減り方をしています。これは、繊維や動物の皮などを習慣的に噛み続けたり、
歯でしごいていた結果と考えられます。(歯で皮なめしを行っていた)

 歯のかみ合わせ
縄文人 上あごと下あごの前歯の先端が毛抜きの様に接する。
現代人 ハサミの様に、上の前歯が、下の前歯の前にかぶさる。

北相木人人骨の出土
上に記述
4号人骨

上腕骨、大腿骨、脛骨
の比較が同等である。
頭骨
1号頭骨男性、
4号頭骨女性、
10号下顎骨女性



 43北相木人―甦った早期縄文時代人―

 よみがえった北相木人
北相木人の男性と女性の頭骨を基にして復顔を試みました。
顔は高さに比べて幅が広く、現代人の様な面長ではありません。眉の上の高まりが強く、鼻の付け根は高く鼻筋が通っています。

目は細く一重瞼に見え、口元はやや受け口の感じで、あごは尖っています。
顔つきは彫りの深い精悍な印象です。このような特徴は縄文人に共通する顔立ちといえるでしょう。

 ※他所の復顔てこのような顔は見たことがない。この顔は、むしろ半島人の顔によく似ています。

 おしゃれだった北相木人
北相木人は大変おしゃれだったと見え、アクセサリーに用いられたと思われる遺物が多数出土しました。
最も多かったのがタカラガイとツノガイで、クマの牙などと共にネックレスとして使われました。

タカラガイの中にはベンガラで赤く染められたものもあって、日本最古のベンガラ使用例と考えられています。
イモガイの殻頂部で作った貝輪も多く、腕輪に使われたのでしょう。このほかに骨製のヘアピンなども出土しました。

縄文時代人の寿命 貝のアクセサリー 復顔像
男性 女性
装身具
 


  栃原岩陰遺跡の出土物


 120いろいろな土器


 121出土した土器
栃原岩陰遺跡に堆積する遺物包含層からは、多量の土器が出土しました。
この遺跡から出土する土器は文様が多様なことが一つの特徴となっています。

土器は全て、縄文早期に含まれるもので、下層から上層へ、形や文様の移り変わりを見ることが出来ます。
人骨の発見された上層部では押型文が主体でしたが、発掘が進むにつれて、出土する土器の文様も変化し、
下層では表裏縄文土器が主流となりました。

出土した土器
縄文土器
縄文土器
表裏縄文土器
表裏縄文土器
撚糸文土器
無文土器
沈線文土器
貝殻腹縁文土器

磨消縄文土器
無文土器 北相木土器 北相木式土器


 122縄文早期の土器

この時代の土器の特徴は、深鉢形の尖底土器が主なもので、その中には乳房状や丸底も見られます。土器の多くは煮炊きに用いられました。
土器の文様には
 縄や糸を撚って付けた縄文や撚糸文、
 彫刻した棒を転がして付けた山形文・楕円文・格子目文などの押型文があり、
 さらに文様の組み合わせで様々な様式が出来ました。

縄文早期の土器 押型文土器(山形文) 押型文土器(山形文)
押型文土器(格子目文) 押型文土器(楕円文) 押型文土器(楕円文) 押型文土器(格子目文)
縄文土器 撚糸文土器 格子目文土器 山形文土器

 123土器を作る
粘土に川砂などを混ぜてよく練り上げます。まず、底の形を作り、その上にひも状にした粘土を胴部から口縁部へ向けて積み上げていきます。
この方法を巻き上げ法といい、粘土紐の太さや長さは土器の大きさによって調節します。
粘土紐の隙間を埋めて形を整え、文様を付けたあとよく乾燥させ、焚火の中で焼き上げます。

 土器に文様を付ける
●縄文:撚った縄を土器の表面に押し付けながら転がして付ける。
●押型文:様々な彫刻をした丸棒を押し付け転がす。山形文、楕円文、格子目文など。

土器を作る 山形文、縄文
格子目文、楕円文
深鉢
表裏縄文土器 山形文 山形文 乳房状尖底部
 
 130道具
 131石器
 132石で作った道具
先史時代の人類は、必要な道具のほとんどを石で作りました。
旧石器時代から、縄文時代へ進むと弓矢が発明され、石鏃や石錐、掻器など精巧な石器が作られました。
骨器などを作るための砥石も発見されています。

石器材料には主に黒曜石やチャートが使われ、頁岩、安山岩なども利用されています。
石器は住居の中で作られたと見え、岩陰には多量の石屑が残されていました。

石で作った道具
上に記述
原石と剥片
黒曜石、チャート、赤色チャート

磨石
凹石(くぼみいし) 穀摺石
スクレイパー  石錐 スクレイパー 砥石

 133使い方
石器の使い方 原石と剥片
頁岩、砂岩、石英水晶

下に記述
水晶原石 石鏃 石鏃 形の移り変わり 石鏃を出土した層位別に分類。

下層では極めて小型の三角鏃が多く、
上層に向かって次第に大形に変わります。
製作途中で欠けた製品も沢山残されています。

石材は黒曜石が大多数で、チャートや水晶製もあります。


 134骨角器
 135利用された骨や角

 骨器・骨で作った道具
動物の骨や角、牙などを用いて、様々な道具や装身具が作られました。鹿の足の骨や角、イノシシの牙などが用途によって選ばれました。
これらの材料は適当な大きさに割られた後切断され、砥石を使って丁寧に目的の形に仕上げられます。
出土した骨角器は、質量ともに豊かで、この遺跡の特徴の一つともなっています。

牙製品 尺骨製刺突具 刺突具 刺突具

 136精巧な加工技術
出土した骨角器の中でも、釣針や縫針を見ると、その精巧な技術には驚くばかりです。
釣針は一本の骨から針が完成するまでの順序を示す遺物が出土しています。
縫針は、現在使われている金属の木綿針と形も大きさも、ほとんど違いがありません。細い糸を通す小さなメドは、どうやって開けたのでしょう。

 釣針のできるまで
金属のなかったこの時代には、釣針も骨で作られました。骨のまっすぐで平らな部分を用い、丹念に削り、切り離した後に形を整えました。
形は現在の釣針とよく似ています。

 まっすぐな釣針で魚を釣る
釣針というと、普通はJ字形を想像しますが、この遺跡からはまっすぐで両端の尖った骨製の釣針が出土しました。
このような釣針は日本では珍しい例です。まっすぐな釣り針でどのようにして魚が釣れるのでしょう。

骨器の未成品 骨ヘラ 骨針
釣針 縫い針 直釣針
 



 140食べ物

 141獣類・鳥・魚介類・植物
 
 何でも食べた時代
遺跡を取り巻く豊かな自然の中で、人々は弓矢やワナを使って、獣や鳥の狩りをしました。
ドングリなどの木の実を集め、川では魚や貝を採りました。獣ではシカとイノシシの骨が最も多く、カワシンジュガイの殻も約3000個程出ましたが、
採れた獲物はなんでも食べなければ生きていけない厳しい時代でした。

加工痕のある骨 加工痕のある鹿角
焼けた獣の骨
割られた獣の骨
 142木の実などの食べ物
哺乳類以外の骨・
木の実・貝殻

沢蟹・蛇・蛙
オニグルミ
炭化したオニグルミ
炭化したドングリ
椋の実
栃の実

カラス貝
カワシンジュガイ
マツカサガイ
ミスジマイマイ

鳥の骨
キジ
ヤマドリ
魚の骨


 143発掘の経過
発掘の経過 遺跡発掘 堆積物最上部
断面スケッチ
第三次発掘平面測量図
・貝輪
・ベンガラの付いた
 カワシンジュガイ
・大形の刺突具

灰と焼け土の分布
奥の院の堆積物

釣針・縫い針・
水晶製スクレイパー


 144獲物はどのようにして食べたか
遺跡から出土した獣骨は全て解体の上、ほとんどが砕かれています。
その一例として最も数多く出土しているシカの全身の骨をそろえて、獲物がどのように利用されたか見てみましょう。

頭骨はあごの先や歯を除き全て砕かれていて、角も切り取られています。
椎骨や指骨はほとんど手を付けられていません。肩甲骨や骨盤は解体の為に壊れています。
前・後肢(足)の永い骨は両端の関節が打ち折られ、中央の部分は全て細かな骨となり、原形を残していません。

また、縦に細かく割られた骨もあり、これらは全て栄養に富んだ骨髄を取り出した跡とみられますが、骨器の材料を作り出す目的もあわせ
考えることが出来ます。
焦げた骨片は少なく、生のまま内臓や肉を切り取り、骨はそのまま捨てられたものと思われます。


 食べられ捨てられた骨
遺跡の堆積物の一部、広さ4㎡、厚さ10cmの範囲に残されていた獣骨類です。
全て細かく砕かれていて、動物の種類の見分けもつかないほどで、全て無駄なく利用した様子がうかがえます。

骨片は灰や焼土と混じり合って出土することも多く、住居内に打ち捨てられたと思われます。
捨てられた骨が散乱している中での北相木人の生活はどのようなものであったのでしょう。


 北相木人と狩猟
遺跡から出土した獣骨の量は約230kgにも達しています。哺乳動物の種類は22種で、これらの獣は、現在の北相木村周辺にも生息していますが、
オオカミとカワウソは近年になって全国で絶滅してしまいました。

シカやイノシシ・クマなどは、肉が食用として好まれ狩猟の主な対象となり、キツネやテンは毛皮を目的として捕らえられました。
鳥の他にも岩陰に侵入したネズミやヘビやカエルまで獲物となりました。

獲物はどのようにして食べたか
上に記述
食べられ捨てられた骨
上に記述
北相木人と狩猟
上に記述

下顎骨
 ノウサギ、リス
寛骨(骨盤)
 ムササビ 

鹿・猪

カモシカ・鹿

 145食用貝類

 北相木人と貝
栃原岩陰遺跡は、内陸部の遺跡としては珍しく、沢山の貝が出土しました。貝の種類では海の貝が最も多く、14種で、一部の種類を除いて、
ほとんどは装身具に用いられました。

淡水産の貝はほとんどすべてが食用を目的に採取され、特にカワシンジュガイは3000点が出土しています。
当時の遺跡のそばを流れる相木川から得たものでしょう。
陸棲の貝、カタツムリも数種類の出土が見られますが、大形種以外は自然遺物の可能性があります。

出土した淡水産貝
キセルモドキ(陸棲)
ニッポンマイマイ(陸棲)
ヒダリマキマキガイ
 (陸棲)
ヤマトシジミ(汽水)

ツムガタギセル(陸棲)
パツラマイマイ(陸棲)
カラスガイ(淡水)

シボリダカラ(海棲)

カモンダカラ(海棲)
キクスズメ(海棲)
北相木人と貝
上に記述
カワシンジュガイ

 146動物骨

ニホンザル頭蓋骨 クマ タヌキ・キツネ イタチ・アナグマ・テン 鹿の骨格各部
 

 150岩陰遺跡

 岩陰の元となった泥流
今から約8万年前、八ヶ岳は激しい火山活動を繰り返し、噴出した火山灰や溶岩などは山腹に厚く堆積しました。
堆積した火山噴出物は多量の降雨などにより泥流となって、南佐久の低地を埋め尽くしました。
その一部は相木川を遡り久保付近にまで達しています。

火山灰の混じった新しい堆積物なので、やわらかく、容易に川の水の浸食をうけ岩陰を作ります。
栃原岩陰遺跡をかたち作る泥流は千曲川泥流(旧称 相木川泥流)と名付けられています。

 日本最初の事故
1967年7月、遺跡の中央にあたる大きな岩の下から、小さな人骨の一部が発見され、調査の結果、二人の子供の骨が発見されました。
二人とも立ち上がって逃げようとする姿勢をとっていましたが、頭骨は砕け腰の骨にも大きな傷があり、巨大な力で押し潰された様子が伺えました。
大きな岩は落盤で、二人の子供は突然起きた落盤の下敷きとなってしまったのです。骨のそばには貝殻や、カタツムリの殻が散らばっていました。

※洞窟内でカタツムリを捕らえて遊んでいた子供が、突然の落盤に遭った。この遺跡を発見したのも遊びに来た小学生だった。ゾッ!

  

 抱き石
北相木人1号人骨が発見されたとき、その人骨の上に、直径35cm程の平らな石が載せてありました。
この石は、人骨を取り囲む石とは明らかに別の意味を持つものと思われ、石を裏返してみると、肋骨などの一部がそのまま張り付いて残っていました。

この石は抱き石といって、死者の霊魂を封じ込め。蘇りを防ぐ意味を持つものと考えられています。
このような例はこの遺跡に限らず、外国の遺跡からも知られています。

 151岩陰の形成
岩陰の元となった泥流 日本最初の事故 泥流堆積物 抱き石 抱き石
骨が圧着されている


 遺物を守った灰層
栃原岩陰遺跡の発掘では、遺跡の至る所から厚く積もった白灰の層が見つかり、その中から保存のよい遺物が沢山発見されました。
この白灰の成分は、X線分析の結果、微細な方解石(炭酸カルシュウム)で、木を燃やしてできたものとわかりました。
この白灰の持つ化学的性質が、鳥の骨や骨針などの繊細な遺物を8千数百年もの間守る役割を果たしました。

 年代を計る物差し・炭
遺跡の炉跡や灰層の間などから、沢山の炭が見つかりました。これらの炭は北相木人が、岩陰で暮らしていた時の、焚火のなごりです。
出土した炭は当時の人々の生活の様子を示すだけではなく、古い年代を調べるのに大切な試料となります。

炭に含まれる放射性同位元素C14によって年代を測定するのです。
遺跡の様々な深さで採取した済を基に、年代測定をした結果、-462cmの深さから得た炭からは、8590年±160年という値が得られました。

遺物を守った灰層 年代を計る物差し・炭 炭・白灰


 160遺跡分布
 161北相木村の歴史
相木村の歴史は尖頭器の出土から、旧石器時代に遡ることが分かります。
しかし、文化の最盛期は縄文時代に入ってからで、縄文時代早期の栃原岩陰遺跡をはじめとして前期・中期にかけて遺跡の数は増加し、
土器・石器などの遺物の量もにわかに多くなります。

北相木村は、相木川の豊かな流れと、緑深い山々から恵まれる豊かな産物を採集するための好適地であり、以来、数千年に渡り、
縄文人のムラとして生活が営まれてきました。

弥生時代から古墳時代になると、稲作のひろがりと共に、集落の場所は北相木の谷沿いから佐久平の平地に移ったために、
この時代の遺物はほとんど発見されていません。
しかし、奈良・平安時代になると、人々は再び相木川に分け入り、住み着いた形跡が見られます。

北相木村の歴史 北相木村の原始・古代
 

 栃原岩陰遺跡以外の出土物



 170北相木村出土の土器





 171土器の形と用途
  縄文時代
縄文土器は今からおよそ10,000年前に世界最古の土器として生まれました。
その後、底の形は丸底、尖底、平底と変化し、用途も食物の煮炊き用の深鉢と共に貯蔵用、盛り付け用、祭り用などの土器が目的に応じて盛んに作られました。

  弥生時代
土器の形は壺、甕、鉢、高坏が基本です。甕は煮炊き用。大小の壺は種籾の保存や、食料・水などの貯蔵用。鉢・高坏は食べ物を盛る器です。
土器の表面はクシやヘラなどの道具で丁寧に仕上げられ、なかには赤く塗られた土器も見られます。


  縄文土器

土器の形と用途

弥生土器
 
 175土器片
 176前期
縄文時代前期

 178中期

坂上遺跡

坂上遺跡

坂上遺跡

坂上遺跡

縄文時代中期
 



 180縄文時代



洞窟や岩陰を住まいとした縄文人は、やがて丘陵や台地を選び、地面を堀り下げて柱を立て、屋根を葺いた竪穴式住居を造り、定住性笠を始めました。土器を用いて煮炊きをすることにより食べられる物も増え、食生活は豊かになりました。

人々は、共同で犬を伴い、弓矢を用いてシカ・イノシシなどを狩り、魚を捕え、木の実や草の実を採取するという、自然の中で季節を巧みに利用しながら過ごす生活を続けました。


 石斧の使い方
石斧は縄文時代の重要な石器の一種で、北相木村の幾つかの遺跡からも出土しています。
  磨製石斧
叩き減らしの技術で形を整え、砥石で研磨して仕上げてあります。
柄と刃が直交した形で、手斧として使われました。擦切状、乳棒状などに分けられます。
  打製石斧
手頃な礫や剥片を打ち欠いて作ったもので、棒の先に並行に取り付け、土堀具として使用した掘り棒とみられています。
短冊形、撥形、分銅型などに分類されます。

 183土器
石斧の使い方
縄文時代後期
縄文時代
上に記述

縄文後期

縄文後期

縄文後期


 182石器

有舌尖頭
縄文草創期の石器

有舌尖頭器
木次原遺跡出土。
北相木村最古の遺物。
12,000~10,000年前

石錐・石鏃・石匙

打製石斧
 
磨製石斧
 184石器

打製石斧・磨製石斧

磨製石斧
石棒(坂上遺跡)
石棒(坂上遺跡) 男根を模した呪術的な道具です。
上も中期には更に巨大な物(最大2.5m)もあった。
村内ではこれ以外に栃原や宮ノ平、坂上に今も残されています。

凹石 
 
石皿
   
有舌尖頭器
有舌尖頭器と石錐
有舌尖頭器は
現存する北相木村最古の出土品。
12,000~10,000年前
縄文草創期

石錐は同時期と思われる。
有舌尖頭器は旧石器時代の呼び名。

石槍は縄文時代の呼び名。

これは、旧石器時代のものとなる。
  



 200弥生時代

 201
ピンボケ
平安時代
土師器・須恵器

鎌倉時代以降
内耳土器


 210古墳時代
三世紀の終わり頃、近畿地方から西で古墳が造られるようになりました。古墳は豪族たちの力を示すために築かれた墓です。
この時代の文化の発展には中国や朝鮮からの渡来人の役割が大きく、様々な技術や文化が伝えられました。

長野県初期の古墳は、松本平と善光寺平に限られていて、この地方での農業生産が大きかったことによると言えますが、その後、
次第に各地に多くの古墳が造営されるようになります。

 211
埴輪(飾り馬) 豪族の墓
森将軍塚古墳
更埴市

円筒埴輪と特殊器台

眉庇付冑、
埴輪(ひざまづく男)
埴輪(武装した男)
勾玉・銅鏡 更埴市
 
 220屋外
 221空から見た北相木村

こんな山の中にハクビシン。きっと固有種か
ハクビシン
と思いきや、外来種の
有害獣でした。こんな山の中にまで増殖しているとは。
誰かがここまで運んだのか、適地を求めて移動したのか。 何でこんなものを飼いたがるんだろう。
育てられないことは目に見えているのに。


 230栃原岩陰遺跡

 遺跡前に立てられた案内板の全文
栃原岩陰遺跡は、今からおよそ8万年前の八ヶ岳の火山活動で生じ、流れ込んできた泥流を、相木川の水流が長い年月をかけて刻み込んだ洞窟状の地形に残された遺跡です。この遺跡は大小三つの岩陰からなり、ここから見えるのは南西部の「栃原岩陰」です。

1965年からの信州大学をはじめとする栃原岩陰遺跡発掘調査団の調査ではこの「栃原岩陰」から、縄文時代草創期から早期(約1万年前~7千年前)の生活の後が発見されました。

中でも埋葬や落盤事故死による幼児骨を含む計12体もの人骨の出土は、人類学的にも貴重な資料となっています。
また、百個以上の炉跡が見つかったのも、岩陰の内部が盛んに使われていた証拠です。

その他の遺物も大量に出土しており、通常の遺跡でも見つかりやすい土器や石器の他にも、シカやイノシシをはじめとする多量の獣骨片や木の実、貝殻など当時の食料を示すもの、また、極めて精巧な作りの釣り針、縫針などの骨角器、海の貝や動物の牙で作られた装身具などがあり、当時の生活・文化を考える上で、計り知れない意義があると言えるでしょう。

尚、土器の一部はこれまでに例のないもので、「相木式」と名付けられました。


一方、1983年及び、1999年の遺跡東北部「天狗岩岩陰」の調査では、縄文時代早期やそれに続く前期・中期(約6千~4500年前)、
更に弥生時代、奈良・平安時代、室町時代、江戸時代の遺物も出土しました。

これは、ごく一部の調査に過ぎませんが、遥か昔から今日に至るまで、人々に利用され続けた場所だとわかってきています。

ここから約4km上流にある「北相木村考古博物館」では、これらの遺物を収蔵展示しながら研究を続けており、館内には岩陰遺跡内部を模した実物大の展示もあります。尚、遺跡はその重要性が評価され、1987年に「国の史跡」に指定されました。

 北相木村風景
博物館・役場・小学校の集まる中心部 細長い谷筋に沿って相木川沿いを西へ
岩陰遺跡があります。
この日、小学生の見学があるということで、
その準備にでかけられた後、見学を終えて行ってみました。
栃原岩陰遺跡前 リンク
草刈しているのは学芸員さんです

人と対比でき大きさがわかります

突っつけば落ちる事間違いなしの泥と礫の壁。誰でも危険とわかる

ひびが入って落盤秒読みかと思えそう。

栃原岩陰の上に天狗岩岩陰遺跡があり試掘段階です。
 近々に川沿いの他の洞窟を発掘する予定だそうです。