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  西日本の縄文 北陸の辺縁はどこまで 03

  東近江市埋蔵文化財センター03   東近江市山路町2225番地  平日開館 0748-42-5011


   交通  JR能登川駅西口 (琵琶湖方面) から見えるスーパーマーケットの中を突っ切って15分まっすぐ歩く。博物館の中庭を通ってすぐ。

   見所  環状木柱列資料 土面  北陸縄文の南端です。

   注意  照明はLEDです。シャッター速度と絞りの組み合わせによっては写真にフリッカーが入ります。要注意
        展示は古代・中世とありますが省略しています。
目次  
01外観

10縄文時代
11相谷熊原遺跡の草創期土偶
 相谷熊原遺跡
  ※下呂石
12草創期の土偶
 土偶について
 不思議な北方民族の移動 

13正楽寺遺跡の環状木柱列と
 近江の縄文資料

14土面について

15縄文遺物と土面

20弥生時代

30古墳時代
 東近江市の古墳築造史

32古墳内部と銅鏡

 01外観
能登川博物館と同じ設計です 上日吉古墳群2号墳(建部北町)
横穴式石室 移設復元
 注意

 埋蔵文化財センター隣にある、東近江市立能登川博物館は、
常設展がありません。
 したがって、
特別展開催中以外はなにも展示がありませんので閉鎖されています。ご注意下さい。
埋蔵文化財センターへの近道



 10縄文時代


 11相谷熊原遺跡草創期土偶  遺跡の位置 滋賀県東近江市永源寺相谷町1292   縄文草創期13000年前〜晩期2500年前の遺跡

   相谷熊原遺跡
     草創期13000年前の竪穴建物跡5棟検出 土偶1体のほか爪形文・無文土器(13000年前)、

     石器石鏃・有茎尖頭器・刃器等の剥片石器と、有溝砥石(矢柄研磨器)・敲石・凹石・台石・石皿等
     石材は、石鏃・剥片はチャート・下呂石が多数、サヌカイト製の剥片石器(石鏃・掻器)

     彼らは北から日本海側を通って下呂石産地を通り、東海から滋賀に至ったようです。
     琵琶湖の安定した気候と豊かな食料資源を見つけたのでしょう。
        引用国内最古級の土偶出土 - 公益財団法人滋賀県文化財保護協会

     下呂石
       湯ヶ峰流紋岩がガラス化したもの。引用黒曜石・下呂石・サヌカイトと「石目」
       下呂石は、鋭利な剥片石器の原材料として、神通川経路で富山平野に持ち込まれた。引用富山市考古学NOW 下呂石



 相谷熊原遺跡の土偶は、縄文草創期の土偶です。全国で2体しかなく、もう一体は、山を越えた所の集落から出ました。

土偶とは、1万数千年前の縄文草創期に出現し、縄文時代を通じて作られた土製品です。
女性を象ったものが多く、おまじないや信仰の対象にされていたと考えられています。

相谷熊原遺跡から出土した土偶は1点。今から1万3000年前のもので、日本最古です。
顔、腕、足は省略されていますが、乳房をとても強調しています。
女性や女神を表現していることがすぐわかりますね。

縄文人は木の実を採集したり、狩りをして暮らしていました。大自然を相手にする中で、
豊穣のシンボルとして、女性を信仰の対象にしていたのかも知れません。



相谷熊原遺跡の土偶
相谷熊原遺跡から出土した土偶

日本最古級13000年前の土偶は顔・腕・足葉省略し
乳房だけを強調。
ていうか、写実的に表現
縄文系の女性は豊乳だった。半島人は貧乳かも




 東近江の始まり 旧石器時代から縄文時代
旧石器時代
東近江市内の旧石器時代(約2万年前)の遺跡は未発見ですが、正楽寺遺跡や浄土屋敷遺跡などで有舌尖頭器が出土しています。

縄文草創期
相谷熊原遺跡では、約13,000年前の縄文時代初めの竪穴式建物跡、使っていた土器や石製品、国内最古級の土偶などが出土しています。
東近江市内では一番古い時代の遺跡です。

縄文早期
琵琶湖に近い大中の湖東遺跡から縄文時代早期(約8,000年前)の土器が出土しています。

縄文後期
正楽寺遺跡からは縄文時代後期(約4,000年前)の竪穴住居群や食料貯蔵穴、祭祀場と考えられる環状木柱列、屈葬人骨などが見つかっています。

縄文晩期
日野川流域の麻生遺跡や下羽田遺跡からは縄文時代晩期(約3,000年前)の住居と墓が見つかっています。

土偶
土偶が能登川石田遺跡と新堂遺跡から出土しています。


東近江の始まり
旧石器〜縄文
・旧石器遺跡は未発見だが、縄文後期の正楽寺遺跡 や浄土屋敷遺跡から有舌尖頭器が出土した。
・相原熊谷遺跡では、1万3000年前の住居跡・土器・石 製品・土偶が出土。
琵琶湖に近い
・大中の湖東遺跡から早期(8000年前)の土器
・正楽寺遺跡から後期(4000年前)竪穴住居群・食糧  貯蔵穴・環状木柱列(祭祀場)・屈葬人骨
日野川流域の
・麻生遺跡・下羽田遺跡から縄文晩期(3千年前)住居 跡と墓
・能登川石田遺跡・新堂遺跡から土偶


  12草創期の土偶

三重県粥見井尻遺跡の土偶
1万2千年〜9千年前
地図リンク
 三重県松坂市粥見井尻遺跡 縄文草創期 1万2000〜9000年前

・相谷熊原遺跡同様に河岸段丘上に立地している。

・縄文草創期前半(後半)の、竪穴建物4棟の内2棟から其々土偶を検出した。

 肉厚で底部に丸みを持つ。6.8cm。

ユーラシア大陸の土偶   後期旧石器時代後半に、ユーラシア大陸で女性像が出現した。なぜかヴィーナスと呼ばれている。
 人口減少に対する危機感からか、妊娠出産を促すためのものだったのか。

 それは、16000〜14000年前のこと大陸ではこれ以降姿を消す。

 大陸での終末と列島での発見時期に千年の時間差があり、列島では大陸と無関係に土偶が発生したと考えている。

日本列島の発生期土偶 列島の土偶は寒冷期にはなく、大陸の女性像とは意味が違う。

列島は住環境がよく食糧も豊富だった。
安定した生業環境の中で「いのり」が生まれ、女性像がその象徴だった。

以後、1万年間も土偶を使った祭祀が連綿と続くことになる。

しかし、14000年前北方民族が大量に南下し、北海道〜本州〜九州〜沖縄まで独特な石器を持って下った民族がいたぞ。


 土偶について
パネルでは、大陸の女性像は16000〜14000年前のことであり、 13000年前滋賀県永源寺で見つかった土偶とは無縁。列島独自と言っている。

大陸で女性像が途切れる頃は、温暖化で沢山の民族が南下し、列島に細石刃や御子柴型石斧や、ナイフ形石器など、サハリン北海道経由で
沢山の文化人が、相前後しながら、次々とやってきた時代です。

14000年前〜13000年前の、氷が解け、台地がぬかるんで動物が、人が、泥の海にのまれた時代。シベリアから足早に列島をわずか1000年で南下した時代。
大きな集落を形成したりできず、食糧獲得と、他民族集団との競争に追われた混乱した時代の遺跡が、簡単に見つかるものではないと思います。
生活はおそらくキャンプサイト程度でしょう。

 不思議な北方民族の移動
北方民族・寒冷地適応民族である彼らは、列島に入るや否や、急速に南下し、種子島やにまで達した集団もいました。何があったのか。

とにかく、南下途中で土器製造技術を身に着け、琵琶湖畔に定住した彼らは、硬い骨角器ではなく、可塑性素材の粘土で女性像を作っていたのです
従って私はこの14000年前と、13000年前の、二つの間には、連続性があるものと(願いたいと)思います。







 13正楽寺遺跡の環状木柱列と資料

  正楽寺遺跡は
縄文時代後期前葉(約4000年前)の集落跡
神崎郡能登川町大字種(たね)地先の田園地帯、愛知川左岸の標高96m地帯に立地する

西日本最大級の縄文遺跡。
主な遺構建物5棟、掘立柱建物跡14棟、ドングリ貯蔵穴130基以上、サヌカイトを用いた石器製作場環状木柱列土面、土器塚 など

  東近江市の歴史教材「能登川の遺跡探検

  遺跡の概要
正楽寺遺跡は愛知川左岸の標高96m地帯に立地します。
平成4〜6年の調査で、縄文時代後期前葉(約4000年前)の集落跡が見つかり、西日本最大級の縄文遺跡として注目を集めました。

竪穴建物やドングリ貯蔵穴、サヌカイトを用いた石器製作場、環状木柱列が発見され、集落の岸辺に大量の土器や動物遺体が堆積した土器塚が130m以上確認され、様々な遺物が出土しました。


正楽寺遺跡は愛知川左岸の標高96m地帯に立地します。
平成4〜6年の調査で、縄文時代後期前葉(約4000年前)の集落跡が見つかり、西日本最大級の縄文遺跡として注目を集めました。

竪穴建物やドングリ貯蔵穴、サヌカイトを用いた石器製作場、環状木柱列が発見され、集落の岸辺に大量の土器や動物遺体が堆積した土器塚が130m以上確認され、様々な遺物が出土しました。


  環状木柱列
正楽寺遺跡の縄文村には人々が集まって祭りを行った広場がありました。
川沿いで見つかった環状木柱列には中央に大きなかがり火を焚いた跡が残されていました。

土面は実際に被ることのできる大きさで、国内最古級のものです。この土面は環状木柱列の近くで出土しており、土面を被ってマツリを行っていたのかもしれません。

出土した遺物には、関東・中部・北陸・四国・九州など各地の土器や石製品が含まれ、当時の人々の活発な交流が伺えます。


環状木柱列の中央で焚火をした形跡があった。
炉跡ではない
正楽寺遺跡 遺跡の概要北陸発祥の環状木柱列では焚火はなく、高床建物跡でした。少し違っている 環状木柱列 かがり火跡の環状木柱列と国内最古級の土面の祭り 出土土器は関東・中部・北陸・四国・九州の土器・石器を含んでいた。
建物跡ではなく祭祀跡、祭り跡が妥当か ママチ遺跡の土面は墓場から。ここでは列柱付近から発見された。
正楽寺遺跡の土器群
土器形式は不明。交易により、東北〜九州の土器が出土している。
東近江市埋蔵文化財センター 0748-42-5011 粟津湖底遺跡貝塚の
生活カレンダー
正六角形の環状木柱列の篝火の祭祀跡
付近から身長160cm40代の大柄な男性の屈葬人骨
リーダーだったらしい
3800年前の正楽寺遺跡の屈葬人骨・土面・石棒 能登川石田遺跡の土偶・石棒
縄文時代のアクセサリー耳栓型耳飾り・竪櫛・垂飾 赤色顔料付着土器縄文前期の岩陰遺跡からも出土しており、人類の初期から魔除けまじないとしてあったようです 縄文人の装い結歯竪櫛復元イメージ 滋賀県南東部の縄文
 土器形式について

 後期末葉の土器形式は
  御領式土器群
 晩期前半
  滋賀里式土器
 滋賀里式研磨土器
  亀ヶ岡式の組み合わせ

 滋賀里式粗製土器と
  宮滝式,丹治式,橿原式
 などの組み合わせ
  14土面について
全国の出土土面にはほぼ全て穴があり、紐を通せば被れるようになっています。
しかし、だからと言って被ったとは思えません。
左は、宮城県北小松遺跡から出土した土偶です。紐穴あり。高さ4.5cm
右は、石川県真脇遺跡の土偶。紐穴あり。高さ13.7cm×幅9.6cm復元すると能面の大きさになる。

つまり、デスマスクのように死者を表し、墓標に掛けたり、葬送儀礼に使ったのではないか。
と思います。 4.5cmじゃ被れないでしょうし、あっという間に壊れてしまいます。

素焼きは重く、壊れやすい。お面は壊れやすい紐穴からでなく、手で潰したような壊れ方です。
出展不明
極小サイズ

引用ブナ林と古代史
被れるサイズ


  15縄文遺物と土面  土器形式は不明です

     正楽寺遺跡 縄文後期 3800年前
        は、大変広範な交易によって東北から九州までの、運ばれてきた土器が出土している。

能登川の縄文村想像図 正楽寺遺跡の土器石器深鉢・浅鉢・注口土器・石皿・磨石 深鉢 浅鉢・深鉢・注口土器 注口土器 深鉢
浅鉢 石皿・磨石 石皿・磨石・磨製石斧 石剣・垂飾・石匙・彫器・
?・石鏃
木流遺跡/縄文晩期
3000年前
突帯文土器
能登川石田遺跡石棒
彫刻なし
石田遺跡の土偶 (左・中)
新堂遺跡 (右)
新堂遺跡の土偶・石冠
 縄文晩期
石冠とされる石製品
この形は全国初です
正楽寺遺跡の土面
左:出土部分 右:復元土面
ママチ遺跡の土面のような復元ですが、我思う真脇遺跡の土面に似ている 眉の盛り上がりは縄文人特有で、私も同じですね
北陸の彫刻石棒でなく、兵庫県北部、見蔵岡遺跡生産の石棒に似ている


 東近江市内の遺跡

正楽寺遺跡 下羽田遺跡 新堂遺跡
   縄文・弥生の遺跡分布
縄文・弥生の遺跡分布図       
能登川石田遺跡 市子遺跡 一色城遺跡












 20弥生時代


 稲作の始まった時代

中国大陸から日本に伝えられた稲作は、短期間に広がり、琵琶湖の周辺部も稲作が行われました。

昭和39年まで琵琶湖の内湖であった大中の湖南遺跡から、弥生時代中期の水田跡や木製品が多数発見されました。
日野川流域にある市子遺跡から方形周溝墓が多数見つかっています。

能登川石田遺跡では、集落の周囲に水路(環濠)が巡る「環濠集落」がつくられ、弥生時代後期の大量の土器や木製品が出土しました。
北陸・東海・山陰などの各地域の土器や青銅器鋳造関連遺物(フイゴの羽口、鋳型)などが見つかっており、各地域との人の交流が伺えます。

この弥生時代から古墳時代の集落として中沢遺跡、斗西遺跡、正源寺遺跡、木流遺跡、川合寺遺跡、日吉遺跡、建部下野遺跡、蒲生堂田遺跡などがあり、竪穴住居などが多数発見されています。

大中の湖南遺跡から中期の水田跡・木製品 市子遺跡は方形周溝墓多数。石田遺跡は環濠集落・青銅器工房 中沢遺跡-甕・壺
殿衛遺跡-手焙形土器
木製脚付方形容器
殿衛遺跡-手焙形土器 木製脚付方形容器 中沢遺跡 壺

中沢遺跡 甕
能登川石田遺跡
甕・高坏・器台と壺
能登川石田遺跡
田下駄・広鍬・
フイゴの羽口・土製鋳型外枠・銅鏃
能登川石田遺跡 市子遺跡 一色城遺跡 弥生〜古墳期の遺跡
 中沢・斗西・正源寺・木流・川合寺・日吉・建部下野・蒲生堂田の遺跡から竪穴住居など多数発見




 30古墳時代





  東近江市の古墳築造史
      古墳時代前期
         神郷亀塚古墳-前方後方墳-3世紀初頭―日本最古級 前方後方墳は北陸にも多い
         雪の山古墳  -前方後円墳-4世紀中頃―雪野山山頂に。 三角縁神獣鏡が竪穴石室から出土
      古墳時代中期
         木村古墳群 - 天乞山・久保田山古墳-5世紀
      古墳時代後期-複数の古墳が集まった群集墳がつくられる-6世紀後半
         勝堂古墳群・平柳古墳群・八幡古墳群・八之塚古墳群・上日吉古墳群・祇園古墳群



 古墳が造られた時代
古墳時代には日本各地で前方後円墳や前方後方墳、円墳、方墳等様々な形の古墳が造られました。

神郷亀塚古墳は前方後方墳で、3世紀初頭に造られた日本で最古級の古墳です。
4世紀中頃に雪野山の山頂には前方後円墳の雪野山古墳が造られ、三角縁神獣鏡などが竪穴石室から出土しました。

古墳時代中期(5世紀)には雪野山の麓の平野部に木村古墳群(天乞山古墳・久保田古墳)が造られます。

古墳時代後期(6世紀後半)には複数の古墳が集まった「群集墳」が市内各地で造られました。
(勝堂古墳群(赤塚古墳・弁天塚古墳、行者塚古墳)、平柳古墳群、八幡社古墳群、山面古墳群、八之塚古墳群、上日吉古墳群、祇園古墳群)


古墳が造られた時代 古墳時代の村の様子 祭祀遺構出土物
斗西遺跡
久保田山古墳円筒埴輪(中期)
朝日塚古墳須恵器
高坏・壺・ハソウ
西ノ辻遺跡土壙内
須恵器
山面古墳群金環・管玉・小玉・粟玉(ガラス)
小玉(瑪瑙)平玉(碧玉)
勾玉(瑪瑙)
山面古墳群金環・管玉・小玉・粟玉(ガラス)小玉(瑪瑙)平玉(碧玉)
勾玉(瑪瑙)
竪穴式石室復元模型みずらを結った武人 頭と足元に2面ずつ鏡内行花文鏡は下向き
石室内・木棺内は弁柄ぬり
丸太を縦割りし、くり抜いた巨大木棺 能登川石田遺跡 斗西・中沢遺跡 下羽田遺跡


 古墳時代の集落遺跡
日本各地に様々な形の古墳が造られた時代です。
市内では古墳時代を通じて古墳が造られていますが、それらの担い手となった人々の生活の場が集落遺跡です。

斗西・中沢遺跡では、住居跡が無数に重なって見つかり、古墳時代から古代まで続く集落となっていました。
このような大規模な集落から古墳が必要となってきたと思われます。(?ちょっと意味がわからない)

市内では馬鍬が2点出土しています。牛馬耕など新技術の導入が行われたことが、現在の田園地域につながるのではないでしょうか。

古墳時代の集落遺跡 集落遺跡地図 建部下野遺跡 堂田遺跡
正源寺遺跡


古墳の副葬品 は魔を跳ね返し、剣は魔を裂き、玉は魔を封じる力があると信じられていました。
施朱の風習 の赤い色は呪術的に神聖視され「魔よけ」や「死者の復活」を願う意味があった。



  32古墳内部と銅鏡

 雪野山古墳
  5〜7世紀の円墳・前方後円墳が200基以上築造。山頂部から三角縁神獣鏡が出土。その後、鏡計5面・石製品・漆塗製品・土器等出土。
  古墳の形態 全長70m(後円部径40m、高さ4.5m以上、前方部長30m、高さ2.5m以上) 葺石あり、埴輪なし
  古墳時代前期の中頃、実年代で西暦4世紀中葉までにつく蔵された

雪野山古墳 竪穴石室内部 石室内部石室側壁は納棺前と納棺後に分けて積み上げ。築造埋設。  銅鏡3面と鍬形石 被葬者の枕元から銅鏡3面と碧玉製鍬形石出土。三角縁波文帯盤龍鏡、ダ龍鏡、内行花文鏡。銀色に光って出土。 雪野山古墳出土(美術工芸品)、三角縁唐草文四神四獣鏡
内行花文鏡、ダ龍鏡
三角縁唐草文四神四獣鏡、しん出銘三角縁四神四獣鏡
三角縁波文帯盤龍鏡
しん出銘三角縁四神四獣鏡
三角縁波文帯盤龍鏡
紡錘車形石製品
管玉
鍬形石、琴柱形石製品
 銅鏡は国内生産のもののようです。
 
 宝器とよばれる
鍬形石や琴柱形石製品は北陸産です