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目
次 |
01外観
田舎館村の弥生中期の稲作栽培
2100年前の水田遺構と足跡
02玄関ホールの展示
03水田遺構と足跡
04現在の垂柳遺跡
遊稲の館
稲作の北限
日高遺跡
07平安時代の水田と足跡
考察 初期水田から前川遺跡
遺構展示室
10高樋(3)遺跡
12時代の流れ
14弥生時代
16稲の来た道
21河姆渡遺跡
22弥生人の暮らし
25狩猟・漁撈具
27戦いの始まり
30装身具 |
50高樋(3)遺跡の水田跡
52青銅器
53銅鐸
55顔
56木製品
57縄文晩期~弥生時代の土器
60全国の水田遺構
61主な弥生遺跡と水田遺構を伴った遺跡
70東北地方の弥生時代
72弥生の農耕具
73弥生前期の水田遺構
100遺物展示室
101歴史を変えた水田跡
102垂柳遺跡の土層
103発掘された垂柳遺跡
120垂柳遺跡
121田舎館式土器
130弥生人の足跡
140弥生石器
141石斧
142石鏃
145石皿 |
200その他の石器
212装身具
215生活道具
218弥生の土偶
220垂柳の土器 甕
260深鉢
270壺
271大型壺
311台付鉢
315高坏
320壺
330蓋
350略年表
360遺跡小史
380いろいろな土器
土偶
穀物練り込み土器
90古代米
400ウィンズ津軽JRA |
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01外観
津軽りんご
弘前を走るとリンゴ園だらけ。膨大な量の無袋リンゴが柵もなく栽培 |
信州のリンゴ園脇でタクシーを停めてリンゴ樹をバックに運転手に写真を撮ってもらっていると、 |
園主が泥棒だと断じて鎌を以てやって来た。 |
ここじゃ、そんな暇人はいない。この量みろ。ここだけで何億個だ。 |
以前は無袋リンゴが稀少だったが、リンゴはみんな無袋だった。特別栽培じゃなかった。 |
新青森駅から車で田舎館村は近い。電車では大回りする。この立派な埋文と博物館建設の原資が、なんと、JRAの場外馬券売り場建設でした。
空から見ると、長方形のJRAの区画の北西端に文化施設がある。
埋蔵文化財センターには、引きも切らずに来館者が団体でやって来る。閑散とした一般の博物館・資料館とはずいぶん違う雰囲気です。
JRAの効果もあり、田んぼアートや隣の博物館も含めた文化施設は来館者であふれていた。
田舎館村埋蔵文化財センター
田舎館村埋蔵文化財センター |
田舎館村博物館
博物館に考古資料はない。美術館・貸し展示場 |
ご案内
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入口
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田舎館村の弥生中期の稲作栽培 弥生中期の遺跡
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弥生時代初期、北部九州に水田稲作が定着するや否や、稲作文化は一気に日本海航路を駆け抜けて、津軽平野にやって来た。
かつては、北部九州の稲作文化がそのままやって来たと考えられていたが、今では、北方種・寒冷地馴化した籾が蒔かれたと考えられている。
その種籾が南から持ち込まれたのか、沿海州から北周りで持ち込まれたかはわからない。水田や灌漑施設を構築する技術を伴うので
北部九州からと考える意見もある。田舎館村では、弥生初期の水田遺構と、農民の足跡が出土している。 |
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2100年前の水田遺構と足跡
垂柳遺跡 青森県南津軽郡田舎館村大字垂柳字大面/松立/長田/前田/大字高樋字泉
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「青森自動車道」が、黒石ICから延びる「西十和田いで湯ライン」の建設に伴い、田舎館村南端から見つかった弥生中期、2100年前の水田遺構と
弥生人の足跡である。 |
高樋(3)遺跡 青森県南津軽郡田舎館村大字高樋字大曲地内
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垂柳遺跡の南東約100mのJRA津軽場外馬券売り場駐車場の建設に伴って発見された弥生中期、2100年前の水田遺構と弥生人の足跡である。 |
前川遺跡 青森県南津軽郡田舎館村大字田舎舘字前川13
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垂柳遺跡の西約2kmの農地から発見された平安時代の水田遺構と古代人の足跡である。 |
これらのことから、弥生時代中期には、田舎館村付近一帯は、広大な水田地帯となっていたと考えられます。
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02入口展示
02玄関ホールの展示
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03水田遺構と足跡
平安時代 前川遺跡
玄関ホールの
水田跡に残った足跡
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垂柳遺跡の水田遺構と足跡
垂柳遺跡 弥生中期 2100年前
垂柳遺跡水田遺構
発掘された畦畔と足跡 |
垂柳遺跡の水田と足跡を移設した |
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垂柳遺跡遺構➡ |
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04現在の垂柳遺跡
バイパス工事に伴って発見された遺跡で、保存のためにバイパスは高架となっている。
遊稲の館
現在は田舎館村総合案内所となっている。本来は垂柳遺跡のガイダンス施設で、農業体験施設である。
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史跡垂柳遺跡
遺跡は架橋で破壊を免れ、保存されている。 |
垂柳遺跡
遊稲の里にあり屋外に展示されている。 |
屋外展示施設
遊稲の館
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遊稲の館
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垂柳遺跡の範囲 |
遺跡解説(ピンボケ) |
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1000年前 平安時代
前川遺跡 |
垂柳遺跡、高樋(3)遺跡は2100年前、弥生中期の遺跡で、一連の遺跡だが、現在では地名が違うので別遺跡のように名前がついている。同一遺跡。
垂柳遺跡部分はバイパスの高架下に。高樋(3)遺跡部分は埋蔵文化財センター内に屋根を付けて保存されている。
前川遺跡は、1000年前、平安時代の水田跡である。 |
稲作の北限
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稲作の北限
垂柳遺跡
昭和56-58水田跡出土 |
火山灰下の水田
群馬県 日高遺跡
昭和51-52水田と
灌漑施設出土
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弥生人の足跡
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日高遺跡 弥生時代後期2~3世紀 群馬県高崎市日高町 高畑前31-2
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浅間山の火山灰に覆われた水田と集落遺構。
高崎市の北西に位置している。遺跡地は現水田が営まれる低く狭い谷地形と、その東側に広がる低台地部分である。道路建設に伴う事前調査で、
谷地形に営まれた
弥生時代の水田跡、方形周溝墓、壺棺墓、井戸跡、および、
平安時代水田跡、出土遺物として弥生、平安時代の木製品、土器類、獣骨類、種子類等多数の発見があった。
特に小さく区画された弥生水田跡の発見は全国的に注目を集め、国指定史跡として遺跡の保存が約束される所となった。
1979(昭和54)年、史跡指定のための範囲確認調査が実施され、未調査であった東側低台地部分の住居跡群検出、谷地形における弥生水田跡の広がりがおおむね明らかとなった。本遺跡の相互に関連する水田跡、墓址、住居跡群の存在は弥生時代後期における当地方の小規模な一つの村落の実態を知る上で極めて重要な遺跡である。(昭和60年10月1日現在未告示) |
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07平安時代の水田に残った足跡 前川遺跡 青森県南津軽郡田舎館村大字田舎舘字前川201-1ほか
前川遺跡
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概ね10,000㎡に及ぶ前川遺跡は、小高い寺院跡の地域とその周辺の低地を指す。ここに天文年間(1532-1555)に建立された中世寺院の安養寺と天徳寺の寺跡がある。
安養寺は、田舎館千徳家の菩提寺でもあり、この辺り一帯は津軽統一を目指した津軽為信と田舎館千徳政武が対峙した古戦場でもある。
また、中世寺院は戦時において、出城的役割を兼ね備えたものが多かった。
ここで、行われた発掘調査では、青森県で初めて平安時代の水田跡が発見されており※、本県の古代史を考える上で貴重な遺跡である。
また、下層からは、国指定の垂柳遺跡と同じ弥生時代の小区画水田も発見されている。※2
※前川遺跡は弥生中期水田の1100年後だから、弥生水田が埋もれた後(1100年≒110cm)、再度開田した遺跡のようです。
弥生水田が洪水で埋まったのか、寒冷化で耕作放棄地となったのだろうか。
いつ頃再度開田されたかは不明だが、温暖期の平安時代、領地争いと開墾ブームによって開かれたのかもしれない。
その頃には、草木を取り除き、掘り下げて底に粘土を敷いて田んぼを作っても、遺跡を壊さない深さに土砂が堆積していたので、相当の年月があったのだろう。 |
考察 前川遺跡から初期水田遺構
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※平安時代は温暖期だったので、暖流の影響の強い津軽地方には、水稲稲作が拡大したのかもしれない。
※2小さな区画の弥生水田とは言っても、
佐賀県唐津市菜畑遺跡の、縄文晩期後半の水田は本当に細長で小さく、水田両側に立った人物が手を伸ばせば届くほどだ。
福岡市板付遺跡に復元されている水田は弥生前期の水田であるが、次第に大きくなっている。
板付の初期水田は、菜畑遺跡と同時期のBC5cと言われるが、遺構は現在の復元遺構(弥生前期の水田)の下層にあって見えない。
日本列島への稲作栽培技術は、最初から田植え法で、導入されました。
(フィリピンから東南アジアにかけては1960年代まで種籾を直接水田に蒔く、 ばらまき法が行われていました。)
(この地域の田植え法は、日本の農業機械を売るために、日本人がこの地域に農業指導した後の、更に農地改革後、に普及しました。)
(フィリピン~東南アジアの品種は熱帯ジャポニカと言われる草丈の高い、粗放農業に適した品種でバラ撒き栽培に適した品種でした。)
初期の栽培品種は収穫時期がまちまちで、しかも、実るとすぐに穂が落ちてしまうので、頻繁に収穫の必要があり、大きな水田は不便でした。
水田を見回って、ひょいと手を伸ばして穂刈りできる程度の水田が機能的でしょう。
時代が進み、稲苗の品質がそろってくると見回り頻度が少なくなり、同時に、農具に鉄器が使用できるようになると、
石器農具による耕作能力に比べ、鉄器による耕作能力の増大と合わせて、
両方の理由から、水田を大きくすることができるようになり、作業効率が飛躍的に向上した。
と、私は考えています。 |
前川遺跡の足跡 平安時代
前川遺跡の水田遺構
と足跡 |
平安時代の水田に残された足跡 |
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前川遺跡
上に記述 |
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遺構展示室
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10高樋(3)遺跡 青森県南津軽郡田舎館村大字高樋字大曲地内
弥生時代中期 2100年前
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11高樋(3)遺跡 展示場 (写真は沢山撮ったのですが、あまり面白くないので、5枚だけ掲示します。)
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以下12~32 52~73 は、高樋(3)水田遺構展示場の周囲に貼ってあるパネルです。 |
12時代の流れ
時代の流れ
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旧石器時代
約12,000年前
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旧石器時代の日本列島は、
現在の日本列島より陸地が広く、中国大陸などに近くなっていました。大陸からマンモスやナウマンゾウ、オオツノジカなどの大型の哺乳類動物が渡ってきて、日本に住み着いていました。
旧石器人は、マンモスなどの大型哺乳動物を、石を打ち欠いて作った道具(打製石器)を作り、捕らえて食料にしていました。 |
縄文時代
約12,000~2,400年前
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縄文土器が作られ、縄文人は全国各地で大集落を作り、ストーンサークルや貝塚が作られます。
また、狩猟や漁労の道具も旧石器時代より進歩します。
そして、様々な文様の土器や、沢山の種類の土偶が作られるのも縄文時代です。 |
弥生時代
約2,400~1,700年前
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大陸から稲作という栽培技術や青銅器・鉄器の金属器が伝わってきた時代です。
稲作が伝わって、縄文時代の狩猟・採集生活から稲などの穀物栽培を行うという生活様式の変化とともに、
クニ同士の戦いや、身分の差が生まれた時代です。 |
古墳時代
約1,700~1,400年前
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各地で巨大な墓が作られるようになります。
その墓は王たちの墓で、古墳と呼ばれています。この古墳が沢山作られた時代を古墳時代といいます。 |
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旧石器・縄文時代
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旧石器時代
約30,000年前 旧石器時代の遺跡が日本で初めて発見されます。(群馬/岩宿)
約20,000年前 旧石器人の人骨(港川人)が発見されます(沖縄/具志頭村)
約13,000年前 少しずつ気温が上昇してきます。
縄文時代
約10,000年前 弓矢や釣り針が作られます。
約9,500年前 九州で大集落が作られます。(鹿児島/上野原)
約8,000年前 北海道で大集落が作られます。(北海道/中野A・B)
約5,500-4,000 東北北部で大集落が作られます。(青森/三内丸山) |
弥生・古墳時代
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弥生時代
約2,600年前 日本最古の水田跡(佐賀/菜畑)
約2,300年前 大陸から青銅器・鉄器が伝わります。
約2,200年前 東北地方最古の水田跡(青森/砂沢(弥生前期))
約2,100-1,900 東北でも大規模な水田経営が行われていました。(青森/垂柳(中期)、宮城/富沢)
約1,950年前 奴国の王が後漢から金印をもらう。
約1,900-1,800 小国同士の戦いが激しくなり、卑弥呼がこれを終わらせます。
古墳時代
約1,700年前 |
前方後円墳が造られます。
最も大きな古墳は仁徳天皇陵と伝えられる大仙人古墳があります。
中国や朝鮮の国々との交流が盛んになり、道具を作る技術が飛躍的に進歩します。 |
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14弥生時代
➀水田稲作農耕が開始された
②金属器(青銅器・鉄器)の使用を開始した時代
③身分の格差が生まれた時代
④戦いが開始された時代
弥生時代 |
弥生早期
BC5c中頃~BC3c
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板付遺跡
福岡市埋蔵文化財センター
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早期 2400年前
●朝鮮半島から稲作が伝わり、
狩猟採集生活から農耕生活へと移行します。
縄文時代が終わり、弥生時代へと移ります。
●北部九州に稲作が広まります。(福岡/板付)
●稲作と共に鉄器が伝わりますが、定着しませんでした。
※鉄器が一般化するのは、中国では紀元ゼロ年頃からで、半島ではやや遅く、列島ではもっと遅かった。最強武器として中国王朝が秘匿していた製鉄技術が春秋戦国時代に一般化し、当時、首狩り族の危険な未開地だった、台湾北部の海岸でも砂鉄を利用した製鉄が行われ、遠く、大陸の中原へ運ばれていた。 |
前期
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砂沢遺跡
弘前市教育委員会 |
銅剣
島根県教育委員会
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前期 2300年前
●大陸から青銅器や鉄器が伝わり定着します。
●近畿地方で銅鐸、北部九州では銅剣が国内で作られ始めます。
●稲作が東北北部に広まります。(青森/砂沢)
●カメ棺墓がさかんに作られます。 |
中期 |
宮城県富沢水田遺跡
仙台市教育委員会 |
中期 2100年前
●各地に小さなクニができ始めます。
●東北地方でも大規模な水田経営が行われていました。
北部(青森/垂柳) 南部(宮城/富沢)(福島/番匠地)
●奴国の王が後漢に使いを送り、金印をもらいます。
●鉄器の使用が始まります。 |
後期 |
神奈川県大塚遺跡
横浜市歴史博物館 |
後期 1900年前
●環濠集落がさかんに造られます。
●クニどうしの戦いが激化します。
卑弥呼が邪馬台国の女王となり戦いを治めます。
●卑弥呼が魏に使いを送り、金印や鏡をもらいます。
●卑弥呼が死に、再び戦いが始まります。
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16稲の来た道
稲の来た道 |
稲の来た道
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稲作は中国大陸揚子江中・下流地域で始まり、山東半島から朝鮮半島を通って北九州へ壷上陸したといわれています。 |
稲の種類
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日本で主に栽培されているジャポニカ種とインディカ種があり、ジャポニカには、温帯種と熱帯種があります。 |
熱帯ジャポニカ
●陸稲型(荒れ地にも適応する) ●草丈が長く籾も大きい ●1株当たりの穂数が少ない。(収穫量が少ない)
温帯ジャポニカ
●水稲型(湿地を好む) ●草丈低く、籾も小さい ●1株当たりの穂数は温帯種より多い。(収穫量が多い)
縄文稲作説
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日本列島には縄文時代前期から中期頃(6千~4千年前)に焼き畑を伴う熱帯ジャポニカ種がすでに上陸しており、稲だけでなく他の雑穀も同時に栽培されていたと考える向きもありました。
しかし、縄文人骨が摂取した栄養源を分析すると、穀物による栄養素の反応はありませんでした。
ただし、焼畑・雑穀栽培はなかったが、その他、エゴマなどの栽培はありました。 |
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17稲の来た道
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20 |
21河姆渡遺跡
長江下流稲作遺跡
河姆渡遺跡 |
住居基礎の杭跡と
散乱した床材 |
復元された住居跡 |
原始機による布作り |
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22弥生人の暮らし
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弥生人は、お米だけを食べていたわけではありません。お米以外にも食料を確保するため生業(狩猟・漁労・採集)活動に汗を流していました。 |
●栽培によって獲得した食料
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穀物類―アワ、ヒエ、コムギ、キビなど
豆豆類―アズキ、ダイズ、ソラマメなど
果菜類―シソ、モモ、ヤマイモ、ゴボウなど |
●狩猟によって獲得した食料
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動物―イノシシ、シカ、ウサギなど
鳥類―ツル、カモなどの渡り鳥 |
●漁撈によって獲得した食料
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海水性魚類―スズキ、アジ、カツオなど
海水性貝類―アワビ、ハマグリ、アサリなど
淡水性魚類―フナ、コイ、ウナギなど
淡水性貝類―シジミ、タニシなど |
●採集によって獲得した食料
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山山菜―キノコ、ゼンマイ、ワラビなど
堅果類―胡桃、ドングリ、トチ、クリなど |
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弥生人の暮らし |
弥生人の食生活
上に記述 |
機織りと器作り |
機織りと器作り |
機織り道具 |
大麻製布片 |
絹織物布片 |
米作りの道具 |
春の作業風景 |
水田に残された鋤の跡 |
補修、田起こし・田ならしの道具
鋤・広鍬・狭鍬 |
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23
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24
水田遺構と足跡 |
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25狩猟・漁撈具
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弥生時代は家畜として豚や鶏を替われていたので、食料用の肉は足りていたようです。しかし、農作物を荒らすイノシシやシカは害獣として狩猟の対象担っていたようです。また、イヌも食用になっていたようです。 |
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26
住 |
家を描いた土器片
窪木遺跡・岡山県古代吉備文化財センター |
楼閣を描いた土器片
唐古・鍵遺跡
田原本町 |
家形土器
鳥取県藤津船隠遺跡 |
家形土器
神奈川県子ノ神遺跡
厚木市 |
家形土器
岡山県女男岩遺跡
倉敷考古館 |
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27戦いの始まり
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弥生時代は人間同士、集団同士が土地と水、蓄積された富を巡って本格的な戦争を始めた時代である。
クニ同士の戦いに備えて環濠集落という防衛施設を造った。
そして、集団内にも農業生産を中心とした支配者をつくり出すと共に。支配される身分の差が明確になった時代である。 |
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28
生々しい戦いの跡
首のない人骨
吉野ケ里遺跡 |
13本の矢が刺さった人骨(これは持衰遺体)
山口県土井ヶ浜 |
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弥生前期から後期の
墓地遺跡
福岡市金隈遺跡
福岡市埋文センター |
石棺・土壙墓の墓地遺跡
山口県土井ヶ浜 |
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29
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墓に見える身分社会
甕棺に副葬された青銅製武器(剣・矛)
吉武大石遺跡
福岡市埋文 |
副葬品・武器と装身具
銅剣2・銅戈・銅矛・管玉・勾玉
吉武大石遺跡
福岡市埋文 |
同出土状況 吉武大石遺跡
福岡市埋文 |
甕棺に副葬された銅剣と管玉
佐賀県吉野ケ里遺跡 |
同出土状況
吉野ケ里遺跡 |
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30装身具 |
31アクセサリー
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貝製アクセサリー
腕輪・指輪・首飾り
土井ヶ浜 |
14個の貝輪をした男
飯塚市立岩遺跡 |
土井ヶ浜の貝輪
土井ヶ浜 |
14個の貝輪
飯塚市立岩遺跡 |
九州から北海道へ運ばれた貝小玉類
伊達市有珠モシリ遺跡 |
九州から北海道まで運ばれた貝製腕輪 伊達市有珠モシリ遺跡 |
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32装身具
青銅製品
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青銅器
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武器型青銅器は、権力の象徴・祭祀器へと変化した
銅剣:荒神谷遺跡島根
銅矛:菜畑形跡唐津市
銅戈:吉武大石遺跡福岡 |
銅剣出土状況
島根県荒神谷遺跡 |
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50高樋(3)遺跡 青森県南津軽郡田舎館村大字高樋字大曲地内 約2,100年前の水田跡・水路跡
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51水田遺構と足跡
薬剤で固められていて、2100年前の地表を歩くことが出来る。
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52青銅器
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銅矛・銅鐸出土状況
荒神谷遺跡 |
銅鐸は鈴から祭祀器へ変化した
東海地方出土の銅鐸
安城市歴史博物館 |
飾り付けられた銅鐸
岡山県高塚遺跡
古代吉備文化財センター |
同出土状況
岡山県高塚遺跡 |
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53銅鐸
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55顔
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人面付土器上村遺跡
横浜市
顔付土器三島台遺跡
市原市埋文 |
顔を象った土製品
岡山百間川兼基遺跡
山口県綾羅木郷台地遺跡、山口県埋文
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人面付土器
茨城県斧天神前遺跡
茨城県歴史館
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人面絵画土器
亀塚遺跡 安城市 |
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56木製品
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57縄文晩期~弥生時代の土器
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58弥生土器
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60全国の水田遺構
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61主な弥生遺跡と水田遺構を伴った遺跡
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62
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70東北地方の弥生時代
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71東北の弥生時代
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72弥生の農耕具
石器・石包丁 |
石器・各種 |
1.2石包丁
3石包丁未成品
4-6石鏃
7.8扁平片刃石斧
9太型蛤刃石斧
10.11ノミ形石斧 |
農具各種
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1鋤上木製品
2.3竪杵
4斧直柄
5斧膝柄
6広鍬
7狭鍬未成品
8.9狭鍬
10.11泥除け
12台付浅鉢 |
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73弥生前期の水田遺構
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弥生前期の水田跡
弘前市砂沢遺跡 |
弥生中期の水田跡
宮城県富沢遺跡 |
弥生後期の水田跡
いわき市番匠地遺跡 |
初期農民の土器セット
福岡県板付遺跡 |
神々に祈りを捧げる祈祷師
奈良県清水風遺跡
橿考研 |
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90 |
91弥生水田遺構
垂柳遺跡水田面に残された同一人物と思われる歩行経路
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100遺物展示室
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101歴史を変えた水田跡 垂柳遺跡
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今から数十年前まで、東北地方北部には、弥生時代が存在せず、弥生文化の影響を受けた、縄文時代の伝統を強く受け継ぐ続縄文時代が存在していたのだといわれていました。
しかし、1981年、垂柳遺跡で約2100年前(弥生時代中期)の水田跡が発見されたことにより、それまでの一般常識が覆されたのです。
垂柳遺跡での水田発見のニュースは、考古学関係者以外の歴史学者や植物学者などの人々に、大きな問題提起をしました。
また、北緯40°以北の寒冷地で、しかも2100年前に大規模な水田経営が実施されていたことも驚きを与えました。
このように垂柳遺跡は、東北地方北部の弥生時代を解明するうえで、大変貴重な価値のある遺跡なのです。 |
入口展示
展示室入口 |
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垂柳遺跡 |
歴史を変えた水田跡
上に記述 |
垂柳遺跡水田跡 |
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発掘調査風景 |
畦畔の検出 |
田んぼ遺構の出土 |
足跡の発掘 |
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102垂柳遺跡の土層(下に表化しました)
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垂柳遺跡の土葬
土層 |
№ |
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遺構 |
包含遺物 |
現代の耕作土 |
Ⅰ |
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中世層 |
Ⅱ |
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土壙
掘立柱建物
溝状遺構 |
土師器・須恵器・陶磁器
古銭・石器・鉄製品 |
火山灰層 |
Ⅲ |
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古代層
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Ⅳ |
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土壙・マウンド状遺構 |
土師器 |
火山灰層 |
Ⅴ |
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弥生層 |
Ⅵ |
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火山灰 |
Ⅶ |
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縄文層 |
Ⅷ |
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縄文時代後期土器 |
火山灰層 |
Ⅸ |
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※田舎館村の弥生水田の消長
上記『07平安時代水田に残った足跡』で出した疑問、弥生水田の放棄と再開田の理由が述べられています。
①弥生水田の放棄は火山灰降下によるものでした。相当大量の降灰量のようですから、近くの火山が噴火したのでしょう。
②再開田は、やはり、地方豪族同士の領地争いによるもののようです。
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103垂柳遺跡の発掘
火山灰を削平すると
大畔と畔が現れた |
降雨後の発掘後の水田跡2千年前を彷彿する光景 |
畔検出状況、人と同じ程の小さな水田だった |
碁盤の目に並んだ水田跡 |
同上 火山灰を取り去った状況 |
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120垂柳遺跡 弥生時代中期末 約2100年前
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弥生時代中期末(約2,100年前)の小さな水田が656枚発見され、稲作の北限の定説を覆し、全国的に有名になった垂柳遺跡。 現在は、その小さな水田161枚を復元し、弥生体験田として農業体験ができる場となっています。 引用史跡垂柳遺跡 |
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121出土土器 展示土器は明らかに本物ですが、触ってもよいとのこと。復元状態の良い土器が大量に出土しているようです。
出土土器の型式は田舎館式土器ですね。レプリカではないところが怖いです。
弥生中期末(約2100年前) の土器 |
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蓋のようです |
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130弥生人の足跡
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水田跡には弥生人の足跡が沢山残されていました。
現代人より土踏まずが発達し、足の指が大地をしっかりとつかむように、体重が常につま先に掛った前傾姿勢で歩いていたことがわかりました。 |
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140弥生石器 弥生中期末
石器の種類
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使途 |
機能 |
名称 |
狩猟具 |
突き刺す |
弓を使用 ― 石鏃 |
農具・工具 |
削る・切る |
磨製石斧、打製石斧、石匙の一部 |
穴をあける |
棒状石器? |
石器を作る |
砥石 |
土を掘る |
打製石斧 |
調理具 |
皮を剥ぐ、肉・骨を切る |
石匙の一部 |
製粉する |
石皿、たたき石、磨石 |
漁具 |
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石錘 |
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弥生石器
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石器の種類
石錐→棒状石器 |
石斧出土状況 |
石斧出土状況 |
石鏃出土状況 |
すり石出土状況 |
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141石斧
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142石鏃
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143
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石匙 |
棒状石器
石錐とは少し違う |
穴あけ具の石錐は指で持つ部分が痛くないよう、楽なように広くなっている。
棒状石器はこのまま使うと、細くて痛いので、矢のように棒に刺して現代の鉄錐のように両手で錐もみしたのかもしれない。 |
スクレイパー |
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145石皿
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146
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200その他の石器 |
210 |
211panel
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212装身具
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管玉 |
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管玉 |
管玉 |
管玉
こんな微細加工は弓錐で開けたのだろうか |
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213
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215生活道具
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火切り臼出土状況 |
平玉出土状況 |
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火切り臼 |
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漆塗り柄杓把手部
(熊頭くまがしら) |
熊頭柄付漆塗柄杓
リンクの写真より劣化崩壊して見づらい |
熊頭柄付漆塗柄杓
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弓装飾具 |
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鍬(舟型部分) |
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218弥生の土偶
土偶?・・遺跡の主体は縄文人だったのだろうか。
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220垂柳の土器 甕
土器の種類
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垂柳遺跡から出土する弥生中期の田舎館式土器には様々な用途のため、いろいろな形の土器があります。 |
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機能 |
名称 |
煮炊き |
甕形土器、長頸甕形土器 |
穀物の貯蔵 |
大型壺型土器、長頸壺型土器、短頸壺型土器、無頸壺型土器 |
食物を盛り付ける |
高坏形土器 |
食物を入れたり煮炊きする |
台付鉢形土器 ※台付は熱効率を上げるため |
土器の口を覆う |
蓋形土器 |
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甕形土器 田舎館式土器
煮炊きをする土器
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230甕形土器
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240甕形土器
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250甕(長頸甕)
長頸甕形土器 頸を長く伸ばした甕 田舎館式土器
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260深鉢形土器
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270垂柳遺跡出土土器 壺
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271大型壺
大量に貯蔵する
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300 |
310 |
311台付鉢
物を入れる。煮炊きをする。
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312台付鉢
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315高坏
食べ物を載せる土器。
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320壺
貯蔵する土器。
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321壺形土器出土状況
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壺形土器出土状況 |
壺形土器出土状況 |
壺形土器出土状況 |
壺形土器出土状況 |
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322壺形土器
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323壺形土器
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324
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330蓋
覆いをする土器
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331蓋形土器出土状況
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蓋形土器出土状況 |
蓋形土器出土状況 |
蓋形土器出土状況 |
蓋形土器出土状況 |
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332
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333蓋形土器
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350垂柳遺跡関連略年表
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360垂柳遺跡小史
水田遺構の証明までの小史
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370
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蓋形土器
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蓋形土器 |
蓋形土器 |
蓋形土器 |
石斧
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炭化米
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380いろいろな土器
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深鉢形土器 |
台付鉢形土器
台付鉢は東海系を
真似たのか |
壺形土器
この文様は十腰内的? |
土偶
穀物練り込み土器
この時代、土器の胎土や表面に穀物を練りこんだり、穀物の上を転がしたりして焼成した土器が多く出現する。
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390古代米 古代から伝わったとされる品種の一部 (ピンボケ)
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400ウィンズ津軽JRA
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田舎館村→新青森駅の途中にあった地層。
砂山?火山灰の堆積?風化凝灰岩?? 海岸から離れた内陸に何だろう。
砂山なら、何百万年前か。
火山灰の堆積なら、こんなに厚く。
火砕流堆積物なら十和田・八甲田・岩木山のどこから来た。
風化凝灰岩なら少し様子が違う。
やはり、砂山(旧砂丘?)の化石か。 |
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