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 新潟の縄文 №14 2020.09.30-1

縄文の里・朝日, 奥三面歴史交流館 新潟県村上市岩崩612-118 0254-72-1577
月曜休館(3~12月) 撮影可

交通 レンタカー:新潟駅から約1時間半 村上市で宿泊は非効率
バスバス時刻表
特徴 現代に続いていた縄文的生活文化
 
 目次

01外観
02複式炉
05入口展示
動物形土製品・土製品
・磨製石斧

※資料
 アチヤ平遺跡・前田遺跡
注口土器・香炉形土器
・深鉢・丸木舟

40廊下展示 石製品
50食物の採取
51動物遺存体
55元屋敷の植物
60石器
61磨製石斧
62有孔石製品
65ミニチュア土器
70奥三面の石材

 本展示
80奥三面から受け継ぐもの
81かつての奥三面
90朝日村遺跡分布

100常設展示
101展示に当たって
三面集落の誕生
102三面の信仰
年中行事
103民俗資料
105神送りのワラ人形

110奥三面遺跡群のあらまし
縄文カレンダー
115発掘調査の概要
117元屋敷遺跡集落の様子
121年表

 旧石器時代
131最古の狩人
133瀬戸内系ナイフ形石器
134東山型ナイフ形石器

※研究 楔形石器

135台形状石器
136ホロカ型細石刃石核
137白滝型細石刃核
138杉久保型ナイフ形石器

※感想 多くの旧石器文化
140狩猟採集
42クマオソ
※考察 クマオソ
143狩猟装束
145スノヤマ
146狩猟装束
149尖頭器・石鏃の移り変わり

 縄文時代
151縄文時代の漁撈

※考察 奥三面の暮らし
152漁具
155尖頭器・石鏃の変遷
157銃猟補助具・漁具
160食べ物の調理加工
161木の実等の採取と利用
165食べ物の調理加工
166トチ餅の作り方
 食料の保存
167石器の使い方・石器石材
171土器の使用法
172食器
180農耕・栽培
181奥三面の農耕

 農耕
182農耕具
185焼畑
※考察 焼畑文化
186林業道具・焼畑道具
190木材の伐採加工

210漆の採集
縄文文化と朝日村伝統産業
213朱漆製品

230竪穴住居
232炉の移り変わり
233ゼンマイ採り・小屋
250縄文人の住居・集落
260衣服の製作
270捨て場

300元屋敷遺跡出土物
321土器文様
332注口土器・台付土器

341特殊な土器群
・人面土器・注口土器
・単孔土器・多孔底土器
・香炉形土器・火焔土器
・環状注口土器
・巻貝型注口土器
・人面付土器
・人面付注口土器

420奥三面遺跡群の概要
421元屋敷遺跡
422配石墓


430人と物の交流
431運ばれた物資
434縄文時代の交通ルート
 磨製石斧の生産
440縄文全史年表
443元屋敷遺跡の土偶
450縄文人の死と墓
・石棒・独鈷石・石冠
・環状石斧
・石棒・石剣・石刀
470装身具
・耳飾・腕輪・土版
・土製玉・ヒスイ玉・
474土製耳飾
482線刻礫
483木製品
484異形石器
485土版・岩版
486異形土製品
487土錘
488木胎漆器

弥生時代後期
490山元遺跡出土土器
492東北系土器
493東北系台付土器
494北陸以西の土器
495続縄文土器
512山元遺跡出土物

700
企画展「縄文クッキング」
縄文人の食生活に迫る
701趣旨説明
 縄文カレンダー
710縄文人の食べたもの
713狩猟・採集具
721深鉢土器の痕跡
723縄文人の調理器具
724石器
730盛り付け皿
732注口土器・浅鉢・壺・鉢
741高坏・台付鉢
744特殊装飾土器
750木製品
・箆状木製品・柄杓
・把手付容器

800縄文広場
801縄文広場の概要
803環状配石
804掘立柱建物
 
 

 おわび
このページには沢山の誤植(誤字)が残っています。少しずつ取り除いていましたが、私の目が随分悪くなり、長時間画面を見続けることが出来なくなっています。大変申し訳ありませんが、文字がおかしい所は、原文を見てください。

 はじめに
新潟市内からレンタカーで「縄文の里 朝日」に向かいました。カーナビの出鱈目な道案内のため、所要1時間を倍ほどかかって到着しました。
ダム建設に伴う付帯施設には電力館原子力館PR館などがありますが、この「縄文の里 朝日」は村上市立の施設です。
私達は考古資料館として捉えていますが、正しくは湖底に沈んだ「縄文遺跡と縄文文化を残していた朝日村の記念館で、ダム建設によって四散した旧村民が集い交流し、かつて育まれていた山村のくらしを伝承していくための施設」として、建設されたようです。

考古資料を見ていると、時々これって現代に生きているぞ。私も体験した。父や祖父に話を聞いていた。などと言う縄文・弥生の文化に遭遇します。
しかし、ここ三面では、縄文文化そのものが現代化したような、構造主義哲学がそのまま当てはまるような、まさに縄文が色濃く残た生活が続いていたのです。
この日、私以外のただ一人の来館者に話を聞くと、なんと、湖底に沈んだ三面村よりもさらに上流に今も住んでいる人で、三面集落のいろいろな生活スタイルがつい最近まで残っていたといいます。大変驚きました。

今、最後の編集にあたり、思い返してみると、この博物館の展示物は、まさに生きた資料だと思いました。
ご覧になる皆様には、是非、これらの資料の全てがふるさとを失い、伝統文化のよりどころを失った人々の、大切な宝物であることを御記憶いただきたいと思います。               2021.12.16
 

 01外観 三面集落は、東日本では登山や縦走で有名な朝日連峰の西の麓にあります。
縄文の里朝日 鷲ヶ巣山登山案内
館から1.6km1時間半程にある朝日連峰の山

トレッキングで有名だが先史時代には縄文ムラを支えた山でしょう。
縄文の里朝日 案内板
縄文の里朝日 栃の実、日干し中
きっと今も栃餅を食べているのでしょう。
複式炉屋外展示 博物館の前に栃の実が干してありました。きっと、集落の児童が年に一度の見学時に実験考古学で使うのでしょう。

家庭で使うにしては量が少なすぎます。長岡市藤橋歴史の広場で干してあったほどあれば家庭でも使えるでしょう。

縄文時代にはどの様にして食べたのでしょう。
各地で大量に皮をむいてアク抜きしています。そのまま煮て粥にして食べたのしょうか。

弥生時代に入ると栃餅になったのでしょう。

 02複式炉 館外展示

東北南部福島県などに多い複式炉だが、新潟県にも広く分布していた。馬高縄文館、阿賀町郷土資料館など。
集落の全てが複式炉ではなく、一部の住居だけが独占的に薪を独占できる複式炉でした。どのような文化が背景にあるのでしょうか。
三面集落は東へ山を越せば山形県です。複式炉は山形県・福島県に多く出現します。 新潟県は福島・山形県と近い位置関係にあります。



 05入口展示


 ニホンカモシカ
奥三面では、青色の汗を流すことから、アオジシと呼ばれていました。高さ80cmくらい、体重40kg位です。角の根元のしわが一年毎に増え、おおよその年齢がわかります。
目の下の部分に分泌腺があり、木などにこすり付けて縄張りのしるしにします。普段は、断崖絶壁に住んでいます。蹄を広げることができ、岩場や足場の不安定な場所でも立つことができます。
断崖の上で、物思いにふけるように、じっとしていることから、「森の哲人」と呼ばれています。好奇心が強いらしく、人間を見に来ることもあるそうです。

ニホンカモシカ 国の特別天然記念物
ニホンカモシカ上に記述
 

 10入口展示2
 11
 縄文の里・朝日の館内展示について
縄文の里・朝日奥三面歴史交流館の管内では、奥三面ダム建設により移転した三面集落の人々の暮らしの道具と、
建設に伴う調査で出土した奥三面遺跡群の貴重な出土品など、山と共に生きた人々の生活道具が展示されております。
国指定重要文化財である元屋敷遺跡の出土品など、ここでしか見ることのできないものが沢山展示してあります。
縄文の里・朝日の館内展示について
上に記述


 土製品 動物形土製品
水鳥、または海獣を表した土製品。自然崇拝に動物を敬う気持ちから器に表現したものである。

水鳥or海獣 動物形土製品
上に記述
 
考察 水鳥土偶ビビちゃん
北海道千歳市美々遺跡出土の「水鳥型土偶(愛称ビビちゃん)」は、研究の結果とても大きな土製の疑似餌=ルアーであることが分かりました。
北海道にはそのほかに鰹節型石器と言われる大きな石製ルアーもありました。どちらも舟で引っ張って使いました。

写真の水鳥型土製品は川の水面に浮かべておいて、カモなどが仲間がいると安心して舞い降りてきて休むように仕向ける猟をする、
ダックデコイ狩猟に、鴨の鳴き声の笛など、現代も行われている狩猟法が、当時も行われていたのかもしれません。

 
 ※資料 アチヤ平遺跡・前田遺跡

 アチヤ平遺跡上段 新潟県岩船郡朝日村大字三面字アヂヤ平59-Bほか 住所地は既にダム湖の底のようです。
継続期間:縄文時代中期末葉から後期前葉。
主な遺構:住居跡・掘立柱建物跡・配石・土坑・埋設土器・焼土主な遺物 縄文土器・石器・土製品・石製品・植物遺体・焼骨片
特記事項:直径約60mの環状集落跡・敷石住居

 アチヤ平遺跡中段・下段 新潟県岩船郡朝日村大字三面字アヂヤ平59-Bほか
縄文前期から後期。主な遺構. 竪穴建物1. 土坑56. フラスコ状土坑4. 敷石住居1. 主な遺物. 縄文土器. 石器. 特記事項, 縄文土器65箱+石器20

 前田遺跡…縄文中期 新潟県岩船郡朝日村大字岩沢5668

 12
注口土器
元屋敷遺跡

熊登遺跡出土
深鉢 前田遺跡
煮炊き用だが小形で別用途も考えられる
 13蓋形土器
蓋形土器
アチヤ平遺跡

深鉢の口に被せ煮炊きに使用

刺突文で縄文中期後葉から晩期の十三稲場式ではないか
 14
蓋形土器
アチヤ平遺跡
 15磨製石斧(復元品) 滋賀県大津市滋賀里遺跡(縄文晩期末 約3000年前)
  滋賀県大津市志賀の里遺跡(縄文時代末期約3000年前)から出土した磨製石斧を復元したものです。
 
 20入口展示3
注口土器 熊登遺跡
縄文後期後半~晩期
3500~2300年前
縄文後期前葉
約4000年前
アチヤ平遺跡
縄文中期中葉~後葉
約4500~5000年前
前田遺跡
 30入口展示4
奥三面狩猟装束資料
国有形民俗文化財指定
奥三面狩猟装束資料 丸木舟

1983(昭58)製作
朝日村大字三面
材質:トチノキ
用途:対岸との往来運搬
丸木舟  このような丸木舟は、
2021年現在でも日本各地で現役で使用されています。
 

 40廊下展示


 41石鏃 アチヤ平遺跡
石鏃 アチヤ平遺跡

 42尖頭器 アチヤ平遺跡
尖頭器 アチヤ平遺跡

 43石錐 アチヤ平遺跡
石錐 アチヤ平遺跡

 44石匙 アチヤ平遺跡 万能ナイフ。憎きり、解体、ツタを切るなど多目的に使用。

 45箆状石器 アチヤ平遺跡 繊維や皮なめしのために削り取る道具。
 

 50食物の採取


 51元屋敷の動物 リンク リンク
元屋敷遺跡からは、多くの種類の動物の骨が出土しています。
骨のほとんどが火を受けて白色化しており、このため、腐らずに残ったと考えられます。

確認できた動物
フネガイ
ネズミザメ目・サケ属・イワナ属・コイ科・ウグイ科
両生類 カエル目・ヘビ科
鳥 類 スズメ目・ヒヨドリ科・キジ科・ガンカモ科
哺乳類 ニホンカモシカ・ニホンジカ・イノシシ類・イタチ科アナグマ・イヌ科・ホンドタヌキ・ホンドギツネ・ニホンツキノワグマ・
ノウサギ・コウモリ類

元屋敷遺跡からは、カエルが大量に検出されています。そして、ニホンカモシカ・ツキノワグマ・ノウサギと続きます。ニホンカモシカ・ツキノワグマは食料の他に、毛皮・犬歯の装飾品など多岐にわたる使われ方が考えられ、交流品としての役割も担っていたのでしょう。
逆に量の少ないフネガイ科の貝殻・ネズミザメ目の歯牙・イノシシ類・ニホンジカは装飾品・骨角器・骨角器の素材として持ち込まれたもののようです。

縄文時代と奥三面の狩猟について
出土した骨から見ると、(近代の)三面集落で狩猟している動物とほぼ同じことから、時期・方法は非常に似たものであったと考えられます。ただし、落とし穴は奥三面集落では使われていません。

動物骨 元屋敷の動物
上に記述

タヌキ・ウサギ・カモシカ・カエル・キツネ・クマ

 元屋敷遺跡出土動物骨 縄文後期後半~晩期(約3500~2300年前)
出土動物骨 元屋敷遺跡出土動物骨 縄文後期後半~晩期(約3500~2300年前) カモシカ クマ
キツネ ノウサギ
鳥類
タヌキ
カエル

 55元屋敷の植物  縄文後期後半~晩期 約3500~2300年前

元屋敷から出土した植物・・・元屋敷遺跡から出土した植物遺存体は15種類でした。
 可食植物……トチノキ・オニグルミ・クリ・サンショウ・ドングリ類・ブドウ属・ブナ・マメ科・ミズキ
 非可食植物…アブラチャン・エゴノキ・クサギ・サワグルミハクウンボク・ホウノキ
 ・可食植物約70%、不可食植物約28%、同定不能植物約2%
 ・可食植物の最多植物はトチ
 ・非可食植物出土量最多はサワグルミ

元屋敷遺跡における植物の利用について

元屋敷遺跡の水場遺構付近からはトチ出土量全体の約66%(1991個体)が出土している。トチのアク抜き作業「水さらし」に利用されていたと考えられます。
現在では、トチは餅に混ぜる「栃餅」が主流であり、トチだけの食べ方はありません。縄文時代には今では失われてしまったトチの食べ方があったのでしょう。
種実そのものを食べることのできないものの中には、その名が示すとおり、油が採れるアブラチャンや果皮に有毒物質を含むエゴノキなどがあります。
これらは食以外の目的のために持ち込まれたようです。

元屋敷の植物
縄文後期後半~晩期
約3500~2300年前
元屋敷の植物
上に記述

サワグルミ・トチ・ドングリ・クリ
クリ
トチ
オニグルミ
ツノハシバミ ブナ
アブラチャン
ハクウンボク エゴノキ 縄文時代
後期後半~晩期
約3500~2300年前
 

 60石器

 61磨製石斧
  木の伐採・加工に使われた石器です。大きいものは斧のようにして、小さいものは鑿(のみ)のように使われました。

破断した磨製石斧を捨てずに揃えて廃棄している。宗教的観念があったのかもしれない。

 62有孔石製品
様々に彫刻を施し、、ペンダントのように用いられた穴の開いた石製品です。丹念な彫刻からお守りりとする説もあります。
基本的には装身具です。2つの孔をもつものもあります。

 棒状加工礫類
棒状の自然礫、方形の板状礫に磨れ痕(すれあと)、擦痕(さっこん)が認められるものです。用途や目的が不明のものが多いです。

有孔石製品 棒状加工礫類

 65ミニチュア土器 元屋敷遺跡 約3500年前
小形の土器。文様が施されるが、大きさから実用的な道具でないことがわかる。神棚や仏壇などの祭壇を飾る装飾品であろう。

ミニチュア土器
上に記述
 

 70奥三面の石材
 奥三面遺跡群で使われた石材
現代の標本としての石材と元屋敷遺跡から出土した石材です。遠くから持ってこられたものから近くの川原石まで様々な石材がありました。
奥三面の縄文人は、硬いもの、鋭くなるもの、加工しやすい形のものなど材質によって様々な石器・石製品を作りました。

※通常はその辺に転んでいる何でもいい石ころを拾ってきて石器を作ることはありません。近くの河原に石器石材となる転石があったようです。

奥三面遺跡群で使われた石材
上に記述

 奥三面産の石材 大変豊富な石材がありました。
デイサイト質凝灰岩
流紋岩質含軽石凝灰岩
安山岩質協会岩
 流紋岩質凝灰岩
安山岩×2
珪化木凝灰岩
珪化流紋岩
 ヒン岩
花崗岩質マイロナイト
珪化流紋岩質凝灰岩
花崗岩
閃緑岩×2
角閃石斑レイ岩
ドレライト
珪化木
鉄石英
碧玉
水晶
メノウ 
砂岩
黄褐色泥岩
泥岩
安山岩
玄武岩質安山岩
安山岩質凝灰岩の変質岩
チャートラミナイト
千枚岩 
 玄武岩質安山岩
安山岩質凝灰岩の変質岩
チャートラミナイト
千枚岩
頁岩
角閃石斑レイ岩
アプライト
流紋岩
 頁岩
角閃石斑レイ岩
アプライト
流紋岩
真珠岩
黒色緻密安山岩
頁岩
珪質頁岩
 
 


 本展示


 80奥三面から受け継ぐもの
通称奥三面の地は、途中抜ける時期はあるものの、約25,000年前の氷河時代から人々が生活し、行き来していました。
残念ながら1985(昭和60)年、県営奥三面ダムの建設に伴う集落の移転により、奥三面の歴史はその長い歴史にいったん幕を閉じました。
長い歴史の中で、様々な人々が行きかい、生活をした奥三面の地には、遺跡・奥三面集落という形で、自然との共生の跡が遺されていました。

奥三面での生活は、「山に生かされる」と表現されました。生きるために必要なものは自然が与えてくれました。現在の機械化、分業化、資本主義経済化が進んだ生活から見ると、一見、非常に刺激のない、肉体労働ばかりのきつい生活であるように思えることでしょう。

しかし、そのような見方は、本当に一側面でしかありません。奥三面の生活は非常に豊かなものでした。お金に頼り切った生活の我々は、様々な便利な道具に囲まれ、必要な物はお金で何とかしています。次から次へと消費するばかりで、満足することも感謝することもその意味すら忘れているようです。そんな生活が もたらしたものは、貧富の激烈な差、一方的な殺戮戦争、自然破壊、異常気象など人類にとって生きることにマイナスな面ばかりが浮かび上がってきています。

奥三面の生活には、このような人間の傲慢さは微塵も感じられません。そこに感じられるのは、山に感謝し、人に感謝し、共に生きていくという何とも謙虚な姿勢です。
冬山で過ごすスノヤマは山の厳しさと共に生き抜く経験や知恵を教えてくれます。世代世代に受け継がれる年中行事には、すべてを与えてくれる山や大地に感謝する気持ち、厳しい冬の時期に助け合う人々の団結力といった敬虔な生き方が示されています。

奥三面の生活には、明るい未来を想像できない人類に対して、自然に生かされ、人に生かされ、己がすべてを活かす長い歴史の中で学んだ人類本来の生き方が示されています。
奥三面の地が残してくれた生き方を本当に豊かな生き方をするための一例として、伝え続けられればと思います。

 ※スノヤマ:通過儀礼。雪山でのイジメというか、、

 81かつての奥三面の風景
奥三面から受け継ぐもの

上に記述
 83
 85
 

 90朝日村遺跡分布
ここに、旧石器時代から近世までの、176もの遺跡があるなんて、想像もできませんでした。いったい奥三面とはどんなところなんでしょう。

奥三面遺跡群の位置 朝日村遺跡分布図 朝日村 博物館から
奥三面遺跡群へ
google地図で見る google 地形図で見る
遺跡名リスト 奥三面は、とても山深い所にあります。その多くはダムの底・水底に沈んでしまいました。
しかし、奥三面集落だけがこの辺りの集落ではないのです。
現在も、ダムよりも奥の方に集落があり、かつての奥三面と同じ暮らしが続いているのです。

狩猟などの文化は薄れたものの、その伝統文化は基本的に変わっていないと思います。
 





 100常設展




 101展示に当たって
新潟県岩船郡朝日村大字三面、通称奥三面は、2001(平成13)年10月の奥三面ダムの完成によって、歴史に幕を閉じることになりました。
1967(昭和42)年の羽越水害を機に、1969(昭和44)年から県営ダム建設の話が 持ち上がり、反対運動や度重なる交渉の結果、1985(昭和60)年に閉村。住み慣れた土地を離れることになりました。山・川などの自然の恵みを利用して生活していた人々の心境は大変複雑であったと思われます。
奥三面集落の伝統を維持したいという希望から、村上市松山地区へ集団移転することになりました。

移転の際には、4000点にものぼる民具が収集され、この山での暮らしを伝える証として残されました。また、1988(昭和63)年から埋蔵文化財の発掘調査が大規模に行われ、後期旧石器時代~縄文時代の歴史が明らかになりました。

遺跡からは膨大な量の出土品が発見されていますが、植物や動物が原料の道具は特別な条件下でないとほとんどのものが腐ってなくなってしまいます。これらの失われた道具について参考にされているのが、民俗資料です。また、遺跡の集落の景観、共同施設の位置、行動領域などを読み解く上で、、一昔前の風景を 残した村の様子やそこに生きた人々の日常が参考となります。
そこで展示にあたって、奥三面の人々の民俗資料と考古資料をテーマごと比較できるように展示してあります。
 ※昭和の奥三面の人々の暮らしと、縄文後晩期の奥三面の人々の暮らしとの間に非常に近似性がある。と言っている。

我々の祖先は、いろいろな環境の中で、自然と上手に折り合いながら生活してきました。そして科学技術が発達してもこの自然環境の中で生きることはずっと変わらないと思います。奥三面で生きた人々の知恵や技術を伝え、人々が上手に自然を利用し、共生していたことを伝えられればと考えています。
この展示を通じて地域の歴史学習や文化振興、農林業と深く関わる自然環境の大切さを感じて頂ければ幸いです。

常設展示場 展示物の色分け 展示に当たって
上に記述


 三面集落の誕生
三面集落の誕生
右・下に記述
三面集落の祖先
奥三面の地には19もの遺跡が存在し、最古の遺跡は2万5千年以上前の氷河期、後期旧器時代から生活の痕跡が認められます。
縄文時代の1万年間、弥生時代、古墳時代まで奥三面で生き続けてきた人々は、その後一時姿を消します。
この地に再び人々が戻ってきたのは、数百年後の室町時代でした。
現代の奥三面の人々の祖先は室町時代にやって来た人々です。

※新潟から福島・山形へ抜ける道筋にあり、生活を成り立たせる資源もある地域に、奈良~平安の遺跡が見つからないため人跡が途絶えたとするのはどうかと思います。小規模にでも人々が暮していたのではないか。そうでなければ、あまりにも縄文的な生活が残りすぎています。それとも、、、
101の記述(縄文晩期的生活様式)と相反するようだが、➀室町時代に移住してきた人々も、室町時代の生活そのものが縄文晩期の生活を残していたか、②本来縄文晩期的生活文化を持っていた人々だったのか、③あるいは縄文晩期的な環境の三面では、おのずと生活が縄文のくらしになってしまうのか。いずれだろう。
縄文生活が伝承されていたのか、環境が縄文的生活に追いやるのか。どちらだろう。

 三面集落の誕生
➀高橋氏の元屋敷に小池氏がやってきました。
泥又には伊藤氏が生活していました。
②小池大炊介・治右ヱ門兄弟が下クボに移動しました。
小池氏が下クボに集まりました。
③下クボに高橋氏、伊藤氏が集まります。
小池・高橋・伊藤の三家が一緒に顔を合わせた地、
つまり三面(さんづら)が会った所、三面(みおもて)と名付けられました。
(室町時代)1465(寛正7)年のことだそうです。

 三氏が集まった理由
小池・高橋・伊藤の各一族が下クボに集まった理由にはいろいろな説があります。
 ・出羽の上杉氏が越後村上の勢力に対抗するための前線基地として各一族を集結させたとする説。
 ・山賊の害を避けるために団結したとする説。
 ・鳴海金山など朝日山地は金の産出地であるため、ここを確保しようという政治勢力からの働きかけがあったとする説。

このように諸説ありますが、はっきりしたことはわかっていません。ただ、村の伝承では、ここで暮らしていくためには、小池・高橋・伊藤の各一族が力を合わせる必要があったためだといわれています。謎はまだあります。それは、小池一族についてです。彼らはどこからやって来たのかがはっきりしていません。平家の落人ではないかと言われたりしましたが、残念ながら、証明できません。

三面集落の誕生 冬の三面集落 湖底に眠る三面 夏の三面集落 三面地区遠景
 


 102三面の信仰
奥三面の人々の信仰とはどのようなものであったのでしょうか。山人(やまんど)と自らを呼び、山に生かされた生活を営んでいた奥三面の人々の年中行事の中の独特なものは、山の神に対する信仰が大部分を占めています。
奥三面では、山の神様田の神様鎮守様と同一です。奥三面の人々にとっては生きる糧を与えてくれる神様が山の神様であり、山の神様に感謝したり、お願いすることにより豊かな生活を手に入れていました。
生きるための信仰の対象が山の神様であり、反対の死にまつわる信仰の対象は、仏様でした。

代表的な行事はお盆です。奥三面では、13日に仏壇を飾り、祖先を迎えます。ナス・ほうずき・センベイ・ナシなどを仏壇に吊るしておきます。
仏壇の前には盆棚と言い、ホウの葉の上にカガミ(天草で作った寒天)、キュウリかナスでできた馬一対、豆や根の付いたままのサトイモ、迎え火を焚くための平べったい石やお供えものが置かれます。夕方になると、お寺さんにより全部のお墓に読経してもらい、花、ミズ、団子、アラレ(キュウリを賽の目状に刻んだもの)を持って墓参りします。

14日は親戚中の仏様参りをし、夜は盆踊りをします。15日は、赤飯を炊いて、お宮参りをします。16日は送り盆です。仏壇のお供え物などを川に流しました。

信仰 信仰

上に記述
石積み墓 三面のお墓 石積み墓  この石積み墓はどう見ても縄文の立石墓です、

墓域全体の様相は、
配石墓となっています。


 年中行事 (資料から抜粋しています。民俗学に興味ある方は下の原文をお読みください。)

奥三面では、様々な節目節目に行事を行い、子孫繁栄、豊穣などを願うとともに労をねぎらいました。これらの行事で、家族、近所、村内や子供から年寄りまでいろいろな人との交流が図られ、奥三面の人々の親睦、秩序が作られていく大切なことでした。
縄文時代にも、祭祀遺物が多く出土していることから、祭り、儀礼、行事が行われていたのでしょう。その内容は全くと言っていいほどわかりません。
ただ、生活する上での祈りの姿勢は縄文時代も同様だったはずです。奥三面に深く根付いた行事をいくつか紹介していきます。

 正月(1月1日)
朝、暗いうちに、年男は水垢離を採り、若水を汲みます。その時、「新玉あらたまの年の始めに若水を汲み、水に黄金こがねを汲みまぜる」と三回唱えます。若水は元旦の早朝に汲む水のことで、若水で顔を洗うとシワにならないそうです。
その後、お宮参りをします。年男は、トシヤ(大晦日の夜)に作ったノサ(五葉松・昆布・麻糸・紙をワラにつけたお供え物)を男衆の数だけ、境内の立ち木に供えます。次いで、男衆、女性がお参りします。

 綱打ち(1月8日)
この日から十五歳になったものが、「若え衆わけえしゅう」の仲間入りをします。その時、丸木舟をつなぎとめる綱を作ります。非常に力のいる仕事です。5,6本の荒縄をねじっていく。2mほどになった綱が立つよう出ないとだめだそうです。夜は酒飲みをします。

 小正月(1月15日)
小正月は、夜中から行事が続きました。鳥追い、団子刺し、田バヤシ、松焼きといろいろ行事が立て続けに行われます。
鳥追い…子供たちの行事で、「夜鳥もホーホー、朝鳥もホーホー、稲食う鳥は、頭を割って、塩付けて、小俵にへし込んで、佐渡島におやーれおやれ、佐渡島に席やなから、鬼ヶ島へおーやれおやれ」と歌いながら、集落中を回ります。
団子さし…イネや雑穀類の豊作を願う行事です。朝の明けないうちから家族で準備します。木の枝に色とりどりの団子を刺したり、りんご、みかんや藁でできた飾りを吊るしました。21日には団子などは取り外され、食べました。木は田植えまでとっておいて、イロリで焼いたそうです。
田バヤシ… 冬に来年の豊作を祈願する
松焼き…小正月の行事と、子供の虫歯除けと、、、いろいろなものが 混じった行事のようです。
サナブリと虫送り(7月1日頃)
サナブリ(早苗饗)田植えが終わった感謝の行事  虫送り…春・夏・秋のいずれかに行われる虫追いの行事。寺社が出すお札でおいはらう

 十六団子(田の神上がり・10月16日)
そろばん玉形の大きな団子16個をお供えする行事です。奥三面では田の神は山の神と同一です。2月15日に山から下りてきて田の神になり、10月16日に山に登って山の神になるそうです。登る方が大変なので1日遅いそうです。

 オオカリアゲ(10月29日)
稲の収穫の締めくくりと鎌に対する感謝の気持ちを込めた行事です。

 山の神祭とカグラ(12月12日)
山の神祭…田畑の収穫の感謝と、これから始まる狩猟の安全を願う祭り。
カグラ…山の神祭後の親睦会。ナオライ(直会)のことのようです。芸能の神楽(かぐら)を演じたのではないようです。

 松迎え(12月30日)
新年を迎える行事。30日~31日までつづく。

年中行事
上に一部記述
年中行事 年中行事 小正月 十六団子
 

 103民俗資料
神送りのワラ人形 団子の木
 104民俗資料
火打ち石
山や川に出かける時打ち合わせて、お清めの火花を出す道具。
魚型
団子の木につける団子の型
ノサ
12月12日に山の神に奉納します
アイヌの“ヌサ”に似るがヌサは御幣の事。これは何?
田バヤシの馬
小正月早朝の行事田バヤシに使う飾り。棒や木に結んでさげておく。
田バヤシの飾り
元旦に神社に奉納する
塩水コギ
塩水のお清め
塩水コギ 塩水コギ
たいまつ

 105神送りのワラ人形
このワラ人形は、旧暦の2月2日、現在の3月初め頃に行われた神送りの行事の際に作られたものでした。

神送りの行事とは、病気などの不幸をふりまく神様に村から出て行ってもらおうとするもので、春の訪れを表す区切りの行事として、大切に受け継がれていきました。
神送りになくてはならならないものが、ワラでできた等身大よりやや小さい裸の人形でした
わら人形は、十五若え衆と言われる十五歳になった青年たちが作りました。ムラ中からワラを集めて回り、先輩に教えてもらいながらワラ人形を作りました。こうして、十五若え衆は、大人としての仕事を覚えていきました。
ワラ人形の腰には、ハケゴなどのカゴが付けられています。この中に村中の人々がほんの少しの米を紙に包んで入れておきます。

行事の内容
神送りの行事の内容は、夕方に、十五若え衆がワラ人形を肩に担ぎ、集落を3回ります。その後ろを子供たちが鉦(かね)を叩きながら、「なに神送れば、はやり神送るわ、送るわ」と叫びながらついて回ります。この時、見物の村人は、頭から帽子や手ぬぐいを取り、手を合わせて見送ります。見送ったあと、雪で口をすすぎます。
3回まわり終わったら、村の端の人形立て場(前田の渕、村上方面の道の近くの辺り)にワラ人形を持っていき、立てておきました。
ワラ人形は自然と朽ち果てるに任せ、そのままにして置かれました。

神送りのワラ人形 神送りのワラ人形
(疫病神払いの行事)
未記述

 110奥三面遺跡群のあらまし

 111奥三面遺跡群 ※こんな豊かな森に奈良~平安まで人跡途絶えたとは考えられない。
三面川本流に掛かる吊橋
ブナ林(夏) 朝日連峰の秋 ブナ林(秋)

 縄文カレンダー
縄文カレンダーは全国の遺跡から出土した動植物のデータをもとに、捕獲・採集の時期とを組み合わせて表示したものです。
縄文人の「食」の全てではないでしようが、かなり詳しくわかってきています。「食」の確保については、奥三面の「食」と似通っているようです。
元屋敷遺跡で確認された、動植物遺存体の中で、食べられていたものも奥三面と共通するものが多いのです。奥三面では縄文時代も山に生かされた生活を行っていたようです。
 食料の採取
  春・・・山菜類の採取
  夏・・・川魚、海獣類の捕獲
  秋・・・トチ・クリ・クルミの堅果類、キノコ類などの採取
  冬・・・カモシカ・ノウサギ・クマなどの捕獲。(※熊猟は冬眠中だから、晩秋か早春だと思うよ。)

 土器づくり
土器づくりは、秋に行われていたようです。土器の裏に残った葉の跡や縄文を真似た疑縄文の原体がオオバコの仲間であり、種が硬くなる秋の頃のものが使われていたことから、土器づくりの時期が秋であると考えられています。また、指の痕の大きさから女性が作っていたようです。

 石器づくり
石器作りの正確な時期はわかりませんが、夏・冬・雪解け頃に狩猟が行われていたので、石鏃・尖頭器はその前に準備されていたのではないでしょうか。
元屋敷遺跡の磨製石斧のような特産品は、年間を通して専業で製作されていた可能性もあります。

縄文カレンダーは、三面カレンダー(奥三面の暮らし)と比べると、1年の生活サイクルが似ています。ただし、縄文時代には、稲作や畑のような農作業が行われていないため、その分は食料の採取や道具つくりなどの作業を行っていたのではないかと思われます。

縄文カレンダー 縄文カレンダー 三面カレンダー  ※縄文カレンダーと三面カレンダーが似ている
と、言われても、
表示方法が違うので、
ちょっとめで比較は難しいが、
じっくり見て、、、


 奥三面の暮らし (三面カレンダー)
奥三面での暮らしは、必要なものを自分たちで採ってきたり、作ったりする、自給自足の生活を主としていました。必要な物の多くは山や川などの自然から得ていました。このような生活は、1985(昭和60)年の閉村まで続きました。特に食料の採取や生産は、四季の変化に応じて行われていました。
 食料の採取 
  雪解け頃・・・冬眠あけ熊猟。ヤブザッコ・ウグイなどの川魚漁。
  春・・・ゼンマイ・ワラビ・コゴメなどの豊富な春の山菜を採取。田植えや畑仕事の開始。
  夏・・・イワナ・ヤマメ・マスの川魚漁
  秋・・・稲・雑穀(アワ、ヒエ、ソバなど)の畠の収穫。 秋の山菜・キノコの収穫。クマオソというワナによる熊猟。
  冬・・・カモシカ猟、ノウサギ猟など

 食料保存と冬仕事
採取されたものはすぐに食べるだけでなく、山菜類は塩漬け、乾燥などで保存し、川魚はアラマキ、塩漬け、乾燥などの保存方法によって、年間を通して食べられるように工夫しました。
食料確保以外の作業は、ほとんど春に行われました。採取道具のテゴ、フゴ、防水具のミノ、スゲゴザ織り、機織りといった作業が行われていました。
もちろん、夏・秋にいろいろな繊維を準備しますが、(機織り)作業自体は冬に行われていました。

奥三面の暮らし  上に記述
春の領域図 奥三面の人々の活動範囲は、春夏秋冬で変わってきます。
行動領域が示す山での活動は、縄文時代の活動範囲の参考にされています。

ゼンマイの採取領域です。
ゼンマイは山中の北向いの斜面に多く自生するといわれています。
沢の両岸ともに自生するところは少なく、特に南北に流れる沢は日当たりの関係から良質なゼンマイに恵まれないといわれています。
夏の領域図  昔行われたカノ場(?)、スゲを栽培したスゲヤチ、カヤを採取するカヤ場の位置です。
奥三面、三大権利の一つであるスゲヤチは現在確認できるものだけであり、この2倍はあったようです。
秋の領域  ドォ場とオソ場の位置を示しました。
ドォ場・オソ場共に三大権利に含まれている非常に大事な場所でした。
泥又川流域の尾根にオソ場が認められないのは、作るのが不向きな地形だからだそうです。

オソ場、ドォ場、サケ遡上限界、マス遡上限界。
※この山奥のムラを支えたのは、サケ・マスの遡上だったようです。
※ところで、オソ場、ドォ場ってなんでしたっけ?
※オソ場=クマを獲る罠を仕掛けた(る)所、ドォ場=魚を獲る筌を仕掛ける場所
 冬の領域 熊の狩猟コースが示されています。
このほか、冬にはカモシカ狩りや個人的に行われるノウサギ狩りなどもあります。
冬の重要なたんぱく源とされました。

※冬には冬眠に失敗した熊のマタギ猟も、このムラの生業だったようです。
※クマは晩秋に繊維素を沢山食べて腸を詰めて便が出ないようにして冬眠に入るが、これが外れてしまうと空腹で冬眠できず、餌のない冬山を徘徊する。これを撃つのが冬のマタギ猟。
 
 

 115発掘調査の概要
奥三面遺跡群の立地する場所は三面川の上流、三方を山に囲まれた盆地にあります。東西5km、南北4kmの範囲で、三面川と末沢川によって作られた河岸段丘と呼ばれる平坦地に19の遺跡がひしめいていました。
1988(昭和63)年春から、ダム水没予定地内の19遺跡を前面発掘することになり、新潟県でも類のない大規模な発掘調査が行われました。
  (以下表を参照してください)

これらの遺跡の発掘により、特に縄文時代において、これまでにない成果が多く得られました。
これらの成果は、発掘期間中の現地説明会だけでなく、開発側の理解と多くの要望から1999・2000(平成11・12)年度にも行われました。
この2年間だけで約8,400人の見学者があり、調査開始からは約41,360人の見学者が遺跡を訪れてくれました。
多くの人々を魅了した遺跡は、今、ダムの底で静かに眠っていますが、奥三面遺跡群が残してくれた成果は、これから新しい歴史の事実として残り続けて行きます。

 奥三面遺跡群のあらまし
奥三面遺跡群では、最古の遺跡は樽口遺跡です。ここからは約2万5000年前の旧石器時代の石器が見つかっています。その後、縄文時代が終わるまで多くの人々により生活の痕跡が遺されていきました。

縄文時代早期頃までは、遺物も少なく、短期間の生活だったと思われますが、縄文時代前期頃からは遺物量も多くなり、縄文時代中期中葉頃には前田遺跡に集落が形成されます。その後、下クボ遺跡アチヤ平遺跡元屋敷遺跡と集落が移転しますが、その原因ははっきりしません。

縄文時代後期~晩期になると、集落が安定的に営まれ、遺跡・遺構の量がさらに多くなりました。環状配石や配石遺構、敷石住居、大型掘立柱建物など、いろいろな生活のための施設が作られました。

他に、奥三面では原材料が確保できないヒスイ・蛇紋岩製のアクセサリーや接着剤としてのアスファルトなどを他地域との交流によって入手していたようです。また、アチヤ平遺跡、元屋敷遺跡では、大量に磨製石斧を生産し、交易品としていたようです。
広域調査により、集落遺跡と小さな遺跡の関係もわかりました。この地域の自然を利用するため、集落の他に数か所の居住地を設けて、生活していたようです。
奥三面集落でも、集落から離れた場所にゼンマイ小屋や作業小屋など自然を利用するための施設が作られていました。

発掘調査の概要
未記述
検出物・年代・遺跡名 奥三面遺跡群のあらまし

上に記述
遺跡繁栄時期
旧石器~弥生

 117元屋敷遺跡集落のようす
岩版・掘立柱建物 掘立柱建物跡
大型建物跡・道
 
大形住居・道  斜面(捨て場)
配石遺構 
配石遺構  捨て場・配石遺構   
水場・付け替え河川 水場・付け替え河川 埋設土器・配石墓 石製垂飾品
縄文後期~晩期
約4000~2300年前

 117a元屋敷遺跡集落の様子詳細
岩版 掘立柱建物 大形竪穴建物 斜面(捨て場)
   縄文時代後期末~
晩期初頭
約3000~2900年前
 地面に炉や床面が認められず、柱穴のみを残す建物です。
倉庫や住居として使われていたようです。
床面が79.66㎡(約49畳)あり、平均的な大きさが20~30㎡(約12~18畳)なので、約3倍の床面積。 縄文晩期後葉(約2500~2300年前)に作られた竪穴建物。床の中央には石を2重に組んだ円形の石囲炉があり、建て替えを示す4つの溝が遺されている。建物内や溝から多くの遺物も確認されている。  道は、両脇に大きめの川原石が土止めするように配列されていました。道は1度掘り窪められて、細かい砂利が敷き詰められていました。  多くの遺物が斜面部から見つかりました。使えなくなった道具をまとめて捨てた場所のようです。
配石遺構 配石遺構 水場
岩盤を刳り抜いた水場遺構
付け替えられた川 石製垂飾品 埋設土器、配石墓
  石が人為的に並べられた場所のこと。丸石ばかりを集めたり、棒状の立石を伴っていたり、いろいろな形に並べられたりしています。どのような遺構であるのか詳しくはわかっていませんが、特別な場所であったことは確かなようです。   上段部で3ヶ所、下段部で1ヶ所見つかりました。上段部では湧水の近くにイネ科植物を敷いた水場遺構が、下段部では、岩盤を刳り抜いた水場遺構がそれぞれ作られていました。湧水のきれいな水を大切に使っていたようです。

上段・中段・下段は遺跡のA・B・Cとおなじで別区画のことです。
付け替えられた川は、住居域よりも高い位置を流れていた川を住居域にあふれてこないように流路変更をしていました。
住居域と墓域を区別するように川が流れていました。 
 縄文後期~晩期
約4000~2300年前
お墓としては、穴を掘っただけの土壙墓、配石墓は墓域から見つかりました。埋設土器は主に幼児のお墓であり、墓域に埋葬される大人とは違い、住居域に埋葬されていました。また、配石墓は特別なお墓のようで、複数の縄文人の焼かれた骨が確認されています。土壙墓・配石墓からはヒスイ製の勾玉、石剣、竪櫛などの副葬品が見つかっています。※
 ※土葬が基本の縄文遺跡で、時々見つかる火葬人骨。どんな意味があるんだろう。
 119ジオラマ 反射でみえない 
 121年表
旧石器~縄文早期 早期~中期 中期
後期
晩期~古墳時代
弥生~現代
 
 
 旧石器時代


 131最古の狩人 旧石器時代 樽口遺跡

 旧石器時代の環境と生活
奥三面遺跡群の中で、最古の遺跡は後期旧石器時代(2万5千年前~1万2千年前)の樽口遺跡です。
当時は氷河期と呼ばれ、現在より平均気温が約7、8度低く、現在の北海道の北端と同じような環境の中での暮らしでした。
奥三面の旧石器人は、短い春・夏・秋の時期に樽口遺跡を拠点に活動していたようです。ヤリなどを使って、当時生息していた大型の動物(ナウマンゾウ・オオツノジカ・ヤギュウなど)を追いかけ、捕食していました。
  ゾウの大きさ比べの図

狩りの方法は、先の尖った石器を付けたヤリを使い、大形の動物を落し穴や崖などに追い込み、捕まえていたと考えられます。
動物が移動するのに合わせて自分たちも移動する「旅」のような生活をしていました。その為、住まいは長期間住めるようなしっかりとしたものではなく、テントのような家に住んでいたと考えられています。また、岩陰や洞窟などの場所も住まいとして利用していました。

食事は、肉を葉っぱに包んで、蒸し焼きにしたり、そのままでも食べられるようなハシバミなどの木の実や果実を食べていたようです。
衣服は、狩りで捕まえた動物の毛皮を着ていたと考えられますが、詳しいことはわかっていません。
樽口遺跡から出土した黒曜石を詳しく調べると、秋田県男鹿半島産と長野県霧ヶ峰産のものがありました。他の集団から入手したか、自分たちで採りに行ったかはわかりませんが、旧石器時代の人々は広い範囲を活動していたようです。

旧石器時代が急に終わりを告げます。気温が上がり、氷河期が終わり、気候が温暖になってくると、大形の動物は環境の変化についていけず、倒れていきました。狩猟中心の旧石器時代は、植物採集中心の縄文時代へと 変わっていきます。

樽口遺跡の発掘作業 旧石器時代人の暮らし 石器製作 食事風景 動物解体
ナイフ形石器 ナイフ形石器 旧石器時代の環境と生活

上に記述
大きさ比べ

 132石器

 133瀬戸内系ナイフ形石器に伴う石器群 約25,000年前 樽口遺跡 旧石器時代
    ※西日本からやって来た人々の痕跡
瀬戸内系ナイフ形石器
25,000年前樽口遺跡
角錐状石器 彫器 彫掻器接合資料
ナイフ形石器 掻器 彫掻器

 134東山型ナイフ形石器に伴う石器群 後期旧石器時代 約25000~12000年前 樽口遺跡
    ※シベリアなど北方からやって来た人々の痕跡

 ナイフ形石器
柳の葉のような形のものが多く、先端がとがり、一部に鋭い刃をもつところから現代のナイフに例えられ、この名称となりました。
主に槍先に装着される石器です。中には先端が尖らず、鋭利な刃の部分で柔らかいものを切っていたものもありました。

東山型ナイフ形石器に伴う石器群 柳葉形ナイフ形石器

 掻器

長方形の剥片の短辺に直角に近い厚い刃を付けた石器です。獣皮の皮なめしのどうぐと考えられています。

掻器
楔形石器
 
 

※研究 楔形石器
 楔形石器は各所で出土していますが、詳細な説明は見かけません。これはどんなや石器なのでしょう。

楔形石器 Wikipediaで楔形石器を調べると
細石器が表示され、
細石刃を大きく分けると、北東日本の楔形細石刃と南西日本の野岳・休場型や船野型細石刃の二つの分布圏に分かれる。
前者はシベリアから北海道を経由して本州へ、後者は中国黄河中・下流から九州を経由して本州へ及んだらしい。
この文化段階で、北方から相当数本州へやってきた可能性が否定できず、後期旧石器人がそのまま縄文人になったわけではないと想像できる。
 これは細石刃の楔形石核の事でした。wikiでの記述はまだありません

新潟県出土楔形細石刃1.6万年

佐賀県出野岳休場型細石刃1.3-1.2万年
 引用Wikipedia細石器


 ②栫ノ原遺跡-Wikipedia
<抜粋>参考文献には「ピエス・エスキーユ」とあるが、原語はフランス語のpièce esquillée であり、発音は「ピエス・エスキエ」に近い。
日本語では「楔形石器」ともいう。 

 ③みたか遺跡展示室 縄文時代の石器では、
<抜粋>楔形石器(ピエス・エスキーユ)は、タガネのようにハンマーと対象物との間におかれた間接具と考えられています。(加工具)

 ④石器分類表
石器分類表によると、楔形石器 ピエス・エスキーユは加工具に分類されている。

 ⑤両極打法とピエス・エスキーユ(楔形石器)についての研究史「研究紀要」齊藤岳(青森県埋蔵文化財センター)この論文の内容は掲載禁止です。 
 ⑥両極打法による剥片剥離実験 上峯篤史(南山大学)
※両極打法は石器石材の上端と下端の両方向から打撃して剥離成型する技術です。この方法で楔形石器は作られています。
二つの論文は本節とは乖離しているかもしれません。



 ⑦横芝光町民ギャラリー企画展図録謎の石器 楔形石器」 この文献は楔形石器に正面から取り組んだ論文です。
   ※引用「横芝光町ギャラリー企画展 謎の石器楔形石器」
<抜粋>
 はじめに
千葉県には旧石器遺跡が2千以上あり、全国最多である。それは遺跡の地層が県北の下総台地で地下1~2mで発見しやすいからである。
この地域は多様な石器文化-石器群が存在する地域である。(※新人の旧石器遺跡のようです。)

楔形石器は下総台地東部で濃厚に分布し、西部に行くにしたがって希薄となり、他地域では皆無となる。
特異な石器を有する石器群がなぜ偏在するのか。この石器の形と技術について考察する。

楔形石器=両極石器=ピエス・エスキーユは世界各地で出土する普遍的な石器であり、縄文時代にまで存在する稀有な石器である。
形は多くが方形、正面視で上と下から打撃剥離され、その断面は円盤状で、農道具のクサビや石割に使うクサビに似ることからこう呼ばれる。
当初は剥片を取る石核や、石器の未成品とされたが、下総台地東部のように地域的なまとまりを有して安定的に存在することから、
ある(何かの)石器であるとの見方が有力になっている。

 1.楔形石器とは
方形で上下から剥離を加えて、上下断面形が円盤状になっている形である。
製作法は、
比較的扁平な素材(剥片もあり)を台石の上に置き、上から敲石で直接打撃し打撃点と
台石接地点の上下から同時に剥離(かつ表裏が同時に剥離する場合もある)することから
これを両極打法とも言われ 比較的容易な石器制作技法と云える。

しかし、用途は不明だが、骨角や木材の分割具()、石鏃製作素材などや、石核との見方もある。また、最初の両極打法で複数の剥片ができることから石器製作過程で偶然できた形ともされる。
ここに集めた楔形石器の出土例を見ると その制作過程を右図②のように整理することがでる。
楔形石器 楔形石器
制作過程
 

 2.楔形石器の分布
下総台地では2.9万年前のAT層以前(後期旧石器時代前半期)の下総台地東部で、小円礫を素材とした楔形石器が多く作られ、一つの文化圏を形成していたと考えられる。
旧石器時代の他地域では、関東地方では数点であるが、長野県貫ノ木遺跡(野尻湖信濃町)では264点、奈良県二上山321点の出土である。
縄文時代では、東北地方で転々と出土とし、千葉県内では中期の遺跡で多数出土する。
中でも東長山野遺跡の1点は、大形で両極打撃が顕著で明らかに楔形石器を意識的に制作している例である。

 3.旧石器時代の楔形石器
論文では多数の遺跡出土の楔形石器の写真が掲載されている。それぞれの遺跡ごとに少しずつ楔形石器の形状が変化し、石材も異なっている。
  (願:論文写真参照)

 4.縄文時代の楔形石器
日本では縄文時代の楔形石器の方が早くから見いだされ石鏃の素材や石核としての見方が考えられこれを単独での石器としてその機能用途の研究までは進んでいない。千葉県内でも多く出土している。それらを概観すると石鏃の素材加工の途中形態のようなものが多い。
それに対してここに提示した資料は横芝光町内から出土した楔形石器でいずれも縄文中期を主とする遺跡からの物である。
また、どれも円礫を素材として両極剥離で作られ、旧石器時代のものと同様の技法と言える。
特に1~3の(論文参照)東長山野遺跡出土の石器は、数度の両極剥離が行われ(何度もひっくり返して敲いて)楔状の形状を作 り出している。

また 同遺跡では箆状石器が多く出土していて それの形態、刀部形状等に共通性も考えられる所から 箆状石器加工途上の石器ということも推定される。

 5.千葉県旧石器時代楔形石器の考察
 (1)楔形石器の形態
各遺跡ごとで、製作された楔形石器には、それぞれで、大きさに共通した特徴がある。
そして、
楔形石器の形態数値から推定すると 単独での使用ではなく 柄に複数装着しての複合石器か、一時に複数使用の石器と考えた方が妥当ではないか。と結論付けている。 (※植刃器または細石刃のことを言っているのかな)
※この時期に細石刃があったとしてもおかしくはない。細石刃の技術は4万年前にユーラシア中央アルタイ地方で生まれた技術とされているから、
それが、石核からの剥離ではなく、円礫への一撃によって作るという原始的な方法であっても不思議ではない。

 (2)楔形石器の地域分布と時間的分布 (論文参照)
楔形石器は千葉県内では下総台地の東部へ行く程その濃度を増す。また出土層位では特定の層位に偏る。
他地域で見られるのは長野県野尻湖畔の貫ノ木遺跡で多数出土し、西では奈良県のニ上山遺跡群で裁断面のある石器として取り上げられている。
貫ノ木遺跡では多数の 局部磨製石斧が伴い後期旧石器時代初期の遺跡であることが確認されている。
ニ上山遺跡群では国府型ナイフ形石器に伴い降灰直後(2.9万年前)と思われる。
この両者では貫ノ木遺跡が注目される。

※貫ノ木遺跡=局部磨製石斧+楔形石器 とは(農耕具+植刃器?)
※二上山遺跡群=ナイフ形石器+楔形石器(AT降灰で植物資源枯渇、残存動物の狩猟?楔形石器は狩猟具?)

AT前の楔形

石器出土遺跡
千葉に戻って
下総台地の楔形石器を含む石器群は、後期旧石器時代前葉に見られるが、その初期段階のⅩ層ではあまり見られない。
Ⅸ層になると含まれるようになりⅦ層下部でピークに達する
このX層は台形石器局部磨製石斧を代表とする石器群で日本の後期旧石器時代初頭の特徴を示している。

Ⅸ層になると石斧にナイフ形石器 楔形石器を伴うようになり、遺跡は遺物集中地点が環状に分布する環状ブックを形成して大型化する。
環状ブロックを形成する遺跡では 一方で石斧が少なくなると同時に楔形石器の増加を示す。この石斧が少なくなるのと楔形石器が増えるのが、何か用途上で相関があるのかもしれない。

横芝光町内の鍛冶屋台遺跡の石器群は楔形石器を伴わず、局部磨製石斧がある石器群で、点数は少ないが遺物の分布は環状を示す。
一方 鷺山入遺跡はニ側縁加工ナイフ形石器が主体を成し、楔形石器は比較的大振りになって、その大きさも不揃いになっている。
このように下総台地東部に多く出土している楔形石器を集成してみると、必ずしも一様ではなく その石器組成の変化と遺跡の形態と共に変化していることが分かる。

   旧石器の変遷と楔形石器  参照横芝光町の歴史1
この変遷を簡単に示したのが右の図である。これは下総台地の後期旧石器時代前半にあたり、最も上の (※時代的に初期の頃、古い時代)
第1段階は、台形石器、局部磨製石斧を代表とする石器で構成され楔形石器は含まず、遺跡によっては東峰御幸畑西遺跡のように環状ブロックを形成している。

第2段階は 今のところ柿台遺跡が認められるのみで石斧に楔形石器が出現する段階と思われる。

第3段階は3万年前の四ツ塚遺跡などナイフ形石器があるが、石斧は少なくなり、それに代わって楔形石器が多くなる。環状プロックを形成している遺跡が多い。

第4段階は約3万年前、遠山天ノ作遺跡に代表される石器群で石斧はなくなり、楔形石器は小さいものが大量に作られる遺跡が多く環状プロックは形成しなくなる。
遠山天ノ作遺跡で出土した台石は 局部磨製石斧を研いだと思われる面が残リ 前段階の伝世品と推定されると、前後のつながりを考える上で面白い資料である。

第5段階千田台遺跡などのようにナイフ形石器に楔形石器を含む石器群で 石器素材に石刃を多用し、楔形石器の素材には前段階で多用した小円磯を使わなくなる。そのためか楔形石器の大きさに企画性がなくなり 大きいものが増えて来るが これが楔形石器としての完成品か疑問点が残る。

第6段階は第2黒色帯上部を出土層準とする石器群で鷺山入遺跡を代表とし、ニ側|縁加工のナイフ形石器を主体に楔形石器を伴う。
石材は黒曜石、珪質頁岩、馬瑠など比較的上質な石材を使い、楔形石器の素材も剥片を多用し、大きさは不揃いである。
この段階以後、AT(姶良丹沢火山灰)降灰前後以降になると楔形石器はほとんど見られなくなり、たまに遺跡ごとに1~2点見られるくらいとなる。

安蒜(2017)では 環状プロックと局部磨製石斧とを関連づけて、日本列島に渡って来た旧石器人が、独木舟制作の場と道具であったと推測し、下総台地にそれが多いのは外洋に接していることが大きな特徴であるとした。

下総台地にはこれまでに20箇所以上の環状ブロックが発見され、局部磨製石斧の使用について最も説得力のある説である。
それらの遺跡が下総台地東部に多く、それを継承するかの様な楔形石器石器群もまた東部に多いことは、後期旧石器時代前葉における社会生活の
変容と石器文化の変革とを示している例であり 決して単にこの地域の石材獲得環境の厳しさだけでは決められないことだろうと考える。

 (3)楔形石器の製作方法
両極打法で楔形石器を製作するため、台石上で円礫を上から敲石で打撃しても上下面が一度に剥離することは少なく、ほぼ偶然でしかない。
実験の結果、簡単な打撃のコツさえ掴めばできる剥離で、記述と言える技術はない。しかし、この方法で楔形石器の完成品を作り出すことは容易ではなかった。


 ※記述はここまでである。
楔形石器についての何らかの結論は導かれていない。今後の研究によって得られるかもしれない結論のための、状況証拠をたくさん集めてもらえたことに感謝します。楔形石器についての「分かっていること」が判明しました。
 
 

 135台形状石器に伴う石器群 約30,000年前
形が台形状の石器です。長辺部を刃とし、掻器と同様、獣皮のなめしの道具とする説や鏃として使われたとする説などがあります。詳細は不明です。
 ※台形状ではヒットしないが、台形様石器で旧石器のものがヒットした。
 北方系石器
剥片・台形状石器
石核
台形状石器 石核 剥片

 136ホロカ型細石刃石核に伴う石器群  (ホロカは日高山脈の中にある地名
 北海道で発達した北方系細石刃技法
ホロカ型細石刃石核に伴う石器群 ホロカ型細石刃石核に伴う石器群
掻器
掻器
石核接合資料
細石刃石核
尖頭器 彫掻器 彫器
剥片の一部を斜めに打ち欠き、鋭い部分を創り出した石器です。
骨や木に溝を付けたり、切込みを入れたりする道具です。

 137白滝型細石刃核に伴う石器群 約15,000年前 後期旧石器時代 約25000~12000年前 樽口遺跡
 細石刃
長さ約2~3cm、幅6~7mm、厚さ約1mmの非常に小型の石器。木や骨でできた槍曽木の側面両面に溝を付け、その溝に嵌(は)め込み、槍として用いた道具です。装着した細石刃が破損・欠落した場合、新たなもので補填することができます。

白滝型細石刃核に伴う石器群 約15,000年前 後期旧石器時代 約25000~12000年前 樽口遺跡 細石刃
上に記述
細石刃石核 細石刃石核接合資料
 138杉久保型ナイフ形石器に伴う石器群
 尖頭器 北方系石器群
先の尖った木の葉のような方との石器です。ヤリの先に装着される旧石器時代の代表的な石器です。

杉久保型ナイフ形石器に伴う石器群 尖頭器
 139杉久保型ナイフ形石器に伴う石器群
ナイフ形石器
 
※感想 多くの旧石器文化人の到来
 こんなに日本の片隅の、通り過ぎてしまいそうな山奥の縄文集落に
瀬戸内から、東北から、サハリンから、北海道から、信州から、 日本の旧石器文化のほとんどが集結している。
それほど、いずれの旧石器人も、食糧を獲得するために列島の隅々まで細かく歩き、多くの異文化人としばらくの間交流し?、、たのか、?
それとも、人が一時滞在するところは大体同じような場所・条件なので、たまたま、同じ場所に全く別々に旧石器人が滞在したのかもしれない。


 


 140狩猟採集

 141狩猟・採集
狩猟・採集 修理前のクマオソ 本道平遺跡の陥し穴

 クマオソ

秋の彼岸から雪の降る11月下旬頃にかけて、熊を獲るために尾根筋やケモノ道にオソと呼ばれる吊り天井式のワナが仕掛けられました。
オソグイという並行に並べられた杭列の上に総量が1tにも及ぶ量の石をのせておき、杭列内に誘導された熊が中の仕掛けであるケズナという部分に触れるとワナが発動し、クマの上に石が落ちて圧死させてしまいます。
 オソは、木の葉などにより巧妙にカモフラージュされています。また、クマがワナの中にうまく入ってくれるように、出入り口の部分にシバ垣という入口に向かって同じ幅で道上に垣根を造ってあげたりしています。また、ワナの入口の高さは大人の膝までの高さほどだそうです。この高さがクマのヒジが 曲がるほどで、これより低すぎるとワナに入ってくれず、高すぎるとワナが発動する前に逃げられてしまいます。このようなワナが縄文時代にも使われていたことは十分考えられます。

 オソ場
オソ場はオソを仕掛ける場所のことです。奥三面の人々にとってこの場所の権利は非常に重要なもので、家の権利として代々受け継がれていました。奥三面の生活で現金収入を得られる産物は、クマとスゲで編んだゴザ、絹まゆでした。1シーズンに獲れるクマは1、2頭くらいだそうです。

 
クマオソ

上に記述
クマオソの仕掛け オソ場について

 陥し穴
陥し穴は、最も簡単なワナであり、危険な目に合わずに獲物を捕獲できる狩猟方法です。仕組みも穴を掘り、獲物が落ちるまで待つというものです。また、比較的に獲物に傷を付けずに捕えられる方法でもありました。
奥三面遺跡では、ガラハギ遺跡下ゾリ遺跡脇ノ沢遺跡・本路遺跡で陥し穴が見つかっています。ガラハギ遺跡を除く3遺跡では複数確認されました。

各遺跡における陥し穴の立地と配置について説明します。ガラハギ遺跡では、山の尾根の先端に位置していました。
下ゾリ遺跡では東から西に緩やかに傾斜する地形に列をなして配置されています。下の水場に集まる動物を対象にしたワナだったようです。
脇ノ沢遺跡では、配置に3つのグループがあるようです。東端の弧線状のまとまりと西側の弧線状のまとまり、他は平坦面にまばらに配置されています。
本道平遺跡では、西側に東西方向に列状に配置されています。南側の山から下りてくる獲物を対象にしたようです。

落し穴の対象となる獲物は、イノシシ・シカが多いようですが、奥三面には生息しておらず、ノウサギ・タヌキ・キツネなどの小型動物だったようです。

陥し穴

上に記述
落し穴猟想像図 脇ノ沢遺跡 本道平遺跡 下ゾリ遺跡

 142クマオソ
※考察 クマオソ
クマオソについては「北方狩猟民の民族考古学佐藤宏之著に詳しく載っており、沢内村ではヒラ、阿仁ではウッチョウ、などと各地で呼び名が異なる。
呼び名が異なるということは、各地のマタギ特有の隠語で、其々知られないように仕掛けるためかとも思える。
しかし、マタギは、和人がアイヌに狩猟を教えられて発生したものであり、その意味では用語が共通していたであろうし、マタギ同士の遭遇でも同一語が必要である。すると、マタギ以前の古い呼び名が各地にあったとしたら、それが、縄文時代、弥生時代、天王山式土器時代などと考えられなくもない。


ニホンカモシカ クマオソ
 143民具 狩猟装束一式
民具 狩猟装束一式

 145スノヤマ
伝統的な狩猟装束を身にまとい、、厳しい冬山に挑むスノヤマ。スノヤマは山を知り、山に生かされる生活のための修行の場でもありました。
縄文時代も集団による狩りが行われていたと考えられ、狩りを成功させるためにはこのような厳しいルールがあったものと思われます。

スノヤマは年に一度、寒中の一番寒い時期に行われました。天候の良しあしに関わらず、行われました。
狩猟対象はアオシシ(カモシカ)のみでした。スノ小屋に泊まり込み、厳格な作法と山言葉を使いました。
間違うと、沢まで行き、雪の中で水垢離をしなければなりませんでした。

 スノヤマにおける狩猟法
スノヤマではカモシカのみが対象です。厳寒の雪の中では、カモシカの動きが鈍り、捕獲しやすくなります。
カモシカの性質上、敵と遭遇した際、山を下るため、山の上から声などにより威嚇し、カモシカを谷底に追いやります。
厳寒で雪深い時期になると、積雪が3,4m になり、ほとんどの沢が雪でふさがってしまう状態(奥三面ではこの状態をツクイというそうです。)になります。
ツクイのところどころにイズボという井戸のような穴の開いた状態の場所ができます。

谷底に追いやったカモシカがイズボにはまるように追い込みます。カモシカがイズボにはまったら、穴の周りを広げ、
中のカモシカの首にタナワ(シナの皮で作った縄)をかけ引きずり出し、ナメゾで突き殺しました。

スノヤマ
上に記述
狩猟装束について スノ小屋の席順 スノヤマの階級と役割 スノヤマ装束

 146狩猟装束 マタギ装束

サシコ、オビ

クシキ、カンジキ、フシ
石ヤリ複製品
タビシキ、キリハ、タナワ

タビシキ

キリハ

タナワ

ヒヅツ (弁当包)

ゼニブクロ
ヒヅツを包み腰につける

デジシブクロ
切り分けた動物の肉を入れる

 149尖頭器・石鏃の移り変わ
石器は、旧石器時代~弥生時代の終りまで非常に長く使われた道具でした。鉄が加工できる技術にとって代わられていきますが、最近まで石臼など一部の石の道具が活用されていました。ここでは石器の中でも狩猟具である尖頭器・石鏃の変遷について見ていきます。

  尖頭器
旧石器時代から活躍した狩猟具は尖頭器です。いわゆるヤリ先です。主に木葉形で、10cm前後の長さを有しています。
旧石器時代の終り頃から縄文時代の初めにかけて有舌尖頭器と呼ばれるヤリ先が登場します。茎(なかご)と呼ばれる部分を持つ尖頭器です。通常の尖頭器より小さく長さは5cm前後です。
本体部分より茎部分が細いため、カエシが付いた状態になります。装着される柄も細かったと考えられます。有舌尖頭器は投げ槍の一種だったと考えられています。
有舌尖頭器がさらに小型化することで石鏃が登場します。旧石器時代主流だったヤリは縄文時代に入り、弓矢に変わっていきました。尖頭器は縄文時代晩期までありますが、その数は非常に少なくなりました。

尖頭器は局部磨製石斧の後、剥片石器として、3万年前から登場したナイフ形石器から発展したとされている。
万能石器であるナイフ形石器から狩猟専用具として分化し、最寒冷期に発達し、槍先形尖頭器として、いろいろな形態を付与されるようになり、最寒冷期以後には、巨大化し、美しく均整の取れた大型尖頭器へと変貌するものも出現した。一方、縄文時代以降には、槍先形尖頭器として、弥生時代まで使い続けられた。

  石鏃
縄文時代の始まりから登場し、縄文時代を代表する石器が石鏃です。
一般的には、平基無茎石鏃(縄文草創期~早期)→凹基無茎石鏃(縄文前期~後期前葉)→有茎石鏃(縄文後期中葉~晩期)の順で主体となる時期が代わります。奥三面遺跡群においてもおおよそのような傾向が認められます。

石鏃は槍先形尖頭器の小型化から生まれたとされる。
1万6500年前の大平山元Ⅰ遺跡の出土物には、➀無文土器 ②神子柴形石器群 ③石鏃がありました。
以降、1万年間に様々に発達し、和歌山県串本町では魚捕獲用の小さな石鏃から、弥生時代に対人戦闘用に大きくなった石鏃までありました。

尖頭器・石鏃の移り変わり

上に記述
尖頭器

尖頭器(軽口遺跡)
有舌尖頭器
(小淵が沢洞窟)
石鏃

平基無茎石鏃
(前田・アチヤ平)
凹基無茎石鏃
(アチヤ平)
有茎石鏃(元屋敷)
丸木弓
 
※資料 尖頭器 
石鏃・尖頭器 1.2~1.0万年前
縄文草創期
神子柴形尖頭器 1.3~1.2万年前
細石刃 1.4~1.2万年前
尖頭器 2~08万年前
ナイフ形石器 3~1.4万年前
局部磨製石斧 3~2.4万年前
後期旧石器時代
尖頭器とは
尖頭器 ナイフ形石器 違い
尖頭器の変遷
尖頭器 種類
尖頭器 作り方
尖頭器 細石器
尖頭器 細石器 違い
尖頭器 石鏃 違い
 
 

 縄文時代


 150縄文時代の漁撈
  三面川にはサケ・マスが遡上していました。

 151
 縄文時代の漁撈
縄文時代に入り、本格的に漁撈が行われていました。釣針・ヤス・土錘(おもり)といった漁撈具の出現や各地の海岸に貝塚が作られたことがそのことを示しています。貝塚から出土する大量の貝類やボラ・スズキ・クロダイ・エイのような汽水域に生息するもの、マグロ・カツオの外洋性のもの、サケ・マスなどいろいろな種類の魚が確認できます。この他、海の生き物としてトド・アザラシ・オットセイが捕獲されています。
  漁の方法
漁の方法としては、海岸部の遺跡の出土品から、ヤスを用いる刺突漁、釣猟、投網漁などを行ったり、網漁も行われていたようです。
また、貝類の捕獲として潮干狩りも行われていました。
外洋性の魚類を捕獲していることから、丸木舟を補強したイカダを使い、海で活発に活動していたようです。山の中でも海岸部と同様に、ヤス・釣針・おもりが出土していることから、活発に利用が行われていたようです。
  元屋敷遺跡の例
元屋敷遺跡では骨角器のヤス状刺突具・挟み込み式ヤス・釣針・網のおもりとなる土錘・石錘が出土しています。
サケ属(サケ・サクラマス・ヤマメ)、イワナ属(イワナ・アメマス)、コイ科、ウグイ属の骨も出土しています。
奥三面遺跡群の縄文人は三面川や近隣の沢で刺突漁・釣猟・網漁といった漁法を用いて、サケ・マス・イワナ・ウグイ・コイといった川魚を捕獲し、食料としていました。また、漁撈具である骨角器は同時期の海岸部のものと比べ、小さく、魚の大きさに合わせて作られていたと考えられています。


 川漁
奥三面の川漁は式を通じて行われます。春、雪解け時期には沼に雪を投げ込むとヤブザッコが跳ねて飛び出すので捕まえます。
雪が解けると小さなドォ(筌)を使い、ヤブザッコ、ドジョウ、カジカを捕まえました。田植えが終わったころにはヤマメ釣り、夏はマス漁が盛んでヤス・カギ・テンカラなどを使って捕まえました。 9月のマス・イワナの産卵期は、ドォを仕掛けたり、夜突き(ヒブリ火振り)を行いました。10月になれば、サケが遡上してくるので、カギ・テンカラで漁を行いました。
  奥三面の漁撈具
ドォ
 ドォは一般的には筌うけと呼ばれる漁具。形は円錐状で、アギと言われる魚が入れるほどの孔をあけ、中に入った魚が逃げられないようにして
 あります。ドォを仕掛ける場所の権利は重要な財産権の一つでした。
ヤス
 先が数本に分かれ、先端部にカエシの付いた刺突具です。ヤスにもいろいろな種類があります。
 カサヤスは先頭部にカサ(脱着式のカエシの着いた先頭部)が付いたヤスで、カサは魚の体に残り、逃がさない工夫がされています。
 縄文時代の回転離頭銛そのものです。他にはホリマスヤスというマスを獲るための大型のヤスもあります。
カギ
 形がU字状になっており先端にカエシが付いたカギ状の道具。マスなどを引っ掛けて捕えます。
テンカラ
 数本のU字状の鉤が付いた部分にヒモを付け、棒に結び付けて使用します。釣のように川に沈め、マス・サケを引っ掛けて吊り上げます。
オキバリ
 紐(麻縄・ワラ縄)の先端と途中に石による重りをくくり付け、その重りの間に数本の釣針を40~50cm間隔で付けます。紐の最後尾は流されないように
 木に縛り付けたりしておきます。釣針に餌を付け、川に投げておく釣法で、おもに春に行われます。(はえ縄漁)
エナミ
 U字状の枠に網が付けられ、枠の中央に柄が付けられたタモ状の網です。小さなザッコを大量に捕獲できる道具です。(ザッコ=雑魚=小魚じゃこ)

縄文時代の漁撈
上に記述
漁法 川漁

上に記述
川魚

※考察 奥三面の暮らし
 奥三面は耕地の乏しい高冷地の山村である。生活の手段は動物の狩猟。川魚漁。山菜の採集と販売。それに、縄文時代には石斧の製造。
しかし、狩猟罠を仕掛ける場所も、川魚を獲る筌を仕掛ける場所も、山菜を採りに入る山も、独占的に権利が設定されており、つまり、村の掟があり、勝手に食べ物を採ることさえ禁じられていた。
 それは、ムラ中の「家」には全て序列が決まっていることを表している。最下層の序列の家は、何をしても誰からも認められず蔑まれたままで、何百年も続いてきたとようだ。最下層の家は永遠に貧乏であり、飢えにさいなまれ続けることになる。ただ、かろうじて生きていける隙間があったから家が続いたのだろう。 分家の分家の更にもっと先の分家や、次男三男、二女三女などは生きていく余地さえなかったであろう。
このようなこれ以下に位置づけられたものは、ムラを出て村上の街に奉公に出たのかもしれない。

 このような類例はつい40年前に近所の元天領のムラで知ったし、もっと狭い範囲では、昭和30年以前の飛騨の合掌造り住居では、長い長い間、家の中で完全な身分制が敷かれていた。日本の地方都市が過疎化し、農村に力がなくなるまで、日本中どこに行っても限られた経済収入と人口のパランスを保つために、厳しい掟が敷かれ、間引きが日常的に行われ、人も売られた。娘が金にならなかった、、などと言う話は、昭和の私は驚きをもって耳にした。 

 152漁具
エナミ エナミ カサヤス・マスヤス×2 カサヤス
マスヤス マスヤス ドジョウドォ イワナドォ ドォ

 155尖頭器・石鏃の変遷
 猟銃・槍・刀
クマヤリ
熊猟のための鋭いヤリ、主に穴の中にいる熊に使用
キリハ
狩猟時、熊やカモシカの解体等に使用。万能ナイフ
村田銃
狩猟のための銃。明治30年頃から狩猟具の主流になる。
火縄銃
村田銃以前に使われた銃
民具カルガー

 尖頭器
尖頭器 後期旧石器時代
約25000~12000年前
樽口遺跡
縄文時代草創期
約12000~8000年前
ガラハギ遺跡
縄文時代後期前葉
約4000年前
アチヤ平遺跡
※いずれも大変美しい形の尖頭器です。
ガラハギ遺跡・アチヤ平遺跡のものは
使用痕がなさそうな、使用可能か、と思うほど
完成度が高い。
 折れてもいず、欠けてもいない。
使ったのかな?
狩りのシンボルだったのだろうか。

 石鏃
石鏃
縄文時代中期中葉
約4500年前 前田遺跡
石鏃
縄文時代中期後葉
約4300年前
下クボ遺跡
石鏃
縄文時代後期前葉
約4000年前
アチヤ平遺跡

 157銃猟補助具
エセ型
村田銃の実弾の鋳型
溶けた鉛を流し入れる
ツメカエキ
村田銃の弾丸詰め替え具。使用済み雷管を詰め替える。
火薬のハカリ
火薬の量を秤り、弾の中に火薬を入れる道具。
底が伸びて玉の大きさで火薬の量を調節できる。
ナマリトカシ

村田銃・火縄銃の弾を作るときに鉛をのせて溶かす道具
薬莢やっきょう 火薬入れ
村田銃の雷管薬きょう
 この銃の薬きょうは細長い金属の筒で、先端に銃弾を入れ、その後ろに火薬を積める。
 (この場合、薬とは火薬のことである)
薬きょう後尾の蓋として雷管を装着する。雷管はボタン状で、撃鉄で叩くと発火し、前方の薬きょうに詰めた火薬に点火され、爆発して銃弾を押し出す。

 現在の薬きょうは紙製からポリ製で、後部に金属の雷管がついている。従って、現在の薬きょうは使い捨てであるが、村田銃の時代は薬きょうを回収して火薬を詰め直して再使用した。


 漁撈具
イワナヤス テンカラカギ 釣り具
マスカギ


 刺突具
ヤス状刺突具・挟み込みヤス・骨角鏃・骨針といった刺突具の先端部、もしくは胴部と推定されるものです。
 挟み込み式ヤス
カエシ状になったヤス先を持つ軸を2対、V字状に柄に固定したヤスです。魚をV字に開いた真ん中に挟み込んで捕獲するタイプのヤスです。
 箆状骨製品
シカの中手骨・中足骨を用いて、周辺部が丁寧に研磨され、先端を尖らせた道具で、多目的に使われたようです。関節部に血管孔が開いているので、紐通し穴として使われたようです。


マスカギ
刺突具 挟み込み式ヤス 挟み込みヤス
上に記述
挟み込みヤス
挟み込み式ヤス 挟み込み式ヤス 箆状骨製品上に記述 箆状骨製品
 

 160食べ物の調理加工

 161木の実等の採取と利用
山のものの種類と採取時期
 奥三面では、山菜、木の実、きのこ類を「山のもの」と呼んでいました。飯のカテ(おかず)として山のものが食べられました。焼き畑で作る雑穀類と同じく、非常に重要な食料として利用されていました。
 4月にはアサズキ、コゴメ、5月にはウルイ(大葉ギボウシ)、ウド、ゼンマイ、6,7月にはミズ、フキ、ゴボッパ、9月にはトチ、クルミ、10月にはクリ、マイタケ、11月にはナメコが採取されました。

山のものの利用
 山のものは、飯のカテとして食べられました。ここでは、どのような料理があったか紹介します。
漬物
 ・真珠付け…アサズキ球と細かく切ったワラビをしょうが・砂糖・醤油を一旦沸騰させて、冷ましたものの中に5日程漬けたものです。
  (アサズキは現在も料理に出ます。みんな細いネギだと思っていますが、本当はアサズキです。浅葱。料理人にもネギだと思ってる人いた)

 ・ミズウルイの塩漬けがあります。
 ・ワラビ、ゼンマイ、ウド、キノコの粕漬があります。
和え物
 ・きくらげの辛し和え、…細かく切ったキクラゲにぬるま湯で練ったからし、砂糖、みそ、を混ぜたものです。
煮物
 ・ゼンマイ、ワラビ、、ウド、ミズなど山のものと人参、サトイモ、油揚げなどとの煮物があります。
みそ汁
 ・ワラビ、ゼンマイ、ミズ、アサズキなどのみそ汁があります。ミズは手でちぎると味が染みるそうです。アサズキには大根おろしを入れるとおいしいです。

 食料としての利用のほかに、大量に採るゼンマイは自分たちの食糧だけでなく、現金を手に入れる商品として取引されました。 

木の実等の採取と利用
上に記述
木の実等の採取
種類と時期

 165食べ物の調理加工
トチの実 トチの皮むき 水さらし トチを煮る 灰あわせ
トチの花 ワラビ マイタケ
 
166トチ餅の作り方
縄文時代に大量に出土するトチは、現在でも朝日村では「トチ餅」という形で食べられています。
トチの実は渋くて、そのままでは食することができません。そのためにどのような作業が必要になってくるでしょうか。
縄文時代にはトチ餅は食べていませんが、トチの加工技術は縄文時代から受け継がれたものです。トチ餅のできるまでを見ていきます。

トチの実の採集と保存
9月下旬頃、クリよりも少し前に落ちた実を拾います。外皮はすぐに裂けます。中にはクリに似た実が入っています。
これを2,3日水に浸け、「虫出し」をします。そのあと皮がより(意味不明)、カラカラと中身が鳴るまで、天日で乾燥させます。
この状態で、風通しの良い場所に置き、たまに風に当てれば何年でも保存できました。

トチ餅の作り方
1.ウルカシ
 ウルカシは乾燥保存したトチの実の皮をむきやすくするための作業です。三日ほど水場などで流水に浸けておきます。
2.皮むき
 ウルカシて柔らかくなったトチの実の皮をむく作業です。「トチオシ」という道具を使ったり、コブシ大の丸石を使って行います。
 トチの実をトチオシの上下の木の間に挟み、上の木を横に滑らせるようにすると、奇麗に皮が剥がれます。石も同様に使うと簡単にむけます。
この時、駄目な実は、異臭を放つ汁を出し、ボロロボに崩れます。皮ムキが一番手間のかかる作業です。
3・水さらし
皮むきを終えたトチのアクを洗い流作業です。網や布袋に入れて、水場などで3、4日程流水に浸けておきます。
最後にザルにあけ、流水でゴミを洗い流します。

4.灰あわせ
この作業でトチ餅の味が決まるといわれる重要な作業です。木灰となじませ、寝かせる作業です。長年の経験のみが頼りになる所が多いです。

木灰はナラなどの広葉樹の灰が最も良いとされています。
作業工程は、まず、鍋にトチがひたひたになるくらい水を入れ煮ます。沸騰したら弱火にし、柔らかくなるまで煮ます。
柔らかくなったら、灰を少し入れます。かき混ぜるとシチュー状になります。そのような状態になったら火から降ろします。
そこでさらに少量ずつ灰を加え、灰が粘土状になるまで混ぜ合わせます。
トチが灰の中に隠れるほど灰を入れます。この状態になったら、袋に移します。

5.ねかせる
トチと灰をなじませる作業です。灰合わせの終わった状態の温度をさげずに、一晩ほど灰となじませる必要があります。
以前は、ゴザ、ワラ、毛布、などにくるんで保温していましたが、現在では発泡スチロールの箱に入れておきます。
大体一晩ほど寝かすと、トチが赤みがかり、少量でも口にすると、ピリピリとしびれる辛みが出ます。これで完成です。
このままにして1週間は保存がききます。使うときは、灰を洗い、渋皮(ホッコ)を取ります。この状態でも冷凍すれば保存がききます。

6.トチ餅をつく
複雑な工程を経て、あとは餅をつくときに一緒に混ぜて搗けば、完成です。割合としては、トチ1kgで餅米1升5合ほどになります。
餅に混ぜる際、二つの方法があります。
ひとつはもち米を蒸しているとき、途中でトチを一緒に蒸して、つくときに投入する方法と、
トチを蒸さずにそのまま潰して団子にしておき、半分つきかかった餅に入れてつく方法があります。


※考察 トチの実
 縄文人なら必ず食べたようなトチの実だが、縄文人はどうやって食べたんだろう。
 ➀この本当にジャマクサイ複雑なアク抜きの過程。
 ②出来上がったトチの実が、栗の様においしいのではなく、こんなに手間をかけても尚、ニガイというもの。

 弥生時代に始まった米に混ぜるという食べ方は、縄文時代にもなにかと混ぜて食べていたんだろうか。
 ドングリか?いやそんなことないだろう。 どんぐりもトチ同様にして渋抜きをするんだ。同じものだ。片栗粉と小麦粉みたいに。
 だったら、縄文クッキーを作る時に肉と混ぜたのかな。混ぜたら何かいいことがあったのかな。
 餅に混ぜるとカチカチにならないと聞いたことがある。確かめていない。汚い色が付くだけで、味が良くなるわけでもない。
 では、なぜ、これほどまでに執拗に食べるんだろうか。こんなものよりも、アク抜きなしで食べられるドングリのマテバシイなどを栽培する方が
 何倍も有益だろうと思います。

トチ餅づくり
上に記述
トチおし・灰あわせ
灰あわせ・トチ餅を搗く

上に記述


 食料の保存
奥三面の人々にとって、冬のための保存食は非常に重要な物でした。様々なものが保存され、冬に備えました。
縄文時代においても年間の食料を確保するためには、食料を保存する技術が必要であり、ここで紹介する奥三面の保存方法の一部には縄文時代から受け継がれているものがあると考えられます。
ワラビの例
・乾燥保存・・・天日で乾燥させます。乾燥したらビニル袋に入れます。時々乾燥させ、湿気を取る
・乾燥保存の戻し方・・・自ら入れておき、ぬるま湯手程度でもみほぐします。ひと煮立ちでお湯を捨て、2~3回水を取り替えながら1日水に漬けます。
・塩漬け・・・長さをそろえ、桶に隙間なく平らに敷き詰める。蕨4kgに塩1.5kgの割合でまんべんなくふりかけ、均等になるように重い重石を乗せ。
・塩漬けの戻し方・・・一昼夜冷水にさらす方法と、煮沸して4、5分で上下を返して更に4、5糞煮沸し、一昼夜冷水にさらす。

食料の保存
上に記述
冬に備えての保存食料一覧


 木の実の保存方法
クリの保存方法
一晩水につけ、天日で2,3日乾かします。木箱や水を通す袋に入れます。その時、クリと砂を順々に重ねていきます。それを茅葺屋根の軒下に置き、雨だれに打たせます。雨だれに含まれるススのアクが溶け込み防虫になるそうです。雪の降る前に取り出し、乾燥させたら、籾殻の中に入れて保存します。
クルミの保存方法
秋の彼岸頃に熟して落ちたクルミを畑の脇などに積み上げておき、ワラや枯草を被せます。数週間後に、外皮が腐って真っ黒になったクルミを川で丹念に洗います。それを天日で乾燥させて保存します。
※クルミの皮は銀杏の実と同じで直接触ると被れます。
魚の保存方法
アラマキ・・・主にイワナを保存すための方法です。
作り方 ➀藁を敷き詰め、その上に陰干ししたトチの葉を裏にして4,5回重ねて並べておきます。
②はらわたを抜き、塩を振った魚を葉の上に置く。
③トチの葉が崩れないように包み、両端と中央の3ヶ所で縛ります。
④両端のワラを折り込みます。
⑤両端から藁を強く締めます。
⑥真ん中で輪を作り、持てるようにしたら出来上がりです。
 あとは、清水につけておけば1,2年もちます。
※えっ! 腐らないの? 

スシ・・・一般に「なれずし」と呼ばれているものです。川魚(主にイワナ)でつくられます。
作り方 ➀ウロコ・はらわたを取り、5,6日塩漬けした魚を用意します。また、オケも5,6日水に浸けておきます。
②オケの底から陰干しした笹、塩、麹とご飯を同量で混ぜたもの、サンショウの葉を順々に敷き詰めます。
③魚を敷く。マスは切り身、イワナは尾頭付きです。
④魚の上に少量の塩を撒き、ご飯、次いで少量の塩を敷く。
⑤➀~④を繰り返し、何段も重ねます。
⑥笹の葉で蓋をし、2,3日後、少し慣れてきたら木の蓋をし、重石を載せます。

その他の保存方法
シラボシ・・・マスの切り身を軒下に吊るし、自然乾燥させたもの。
燻製・・・・・・川魚を囲炉裏の強火で焼き、2枚の板で挟み、一晩、火棚に吊り下げます。
       そのあと、火棚の上に吊るし、カラカラになるまで乾燥させました。

木の実の保存方法
上に記述
アラマキ
スシ

 167石器の使い方
縄文時代においても石を加工した道具は様々な場面で活躍しています。木の伐採・土掘り・狩猟・漁労・調理など様々です。
石の硬さ・鋭さを利用した道具が多く発明されました。ここでは調理・加工に関わる石器を紹介します。
石匙
縄文時代の万能ナイフと言われる道具。「つまみ」がついているのが特徴です。つまみ部分には紐が巻かれ、腰に下げていたと考えられます。
そのため、最も身近で、山菜の収穫・動物の解体・皮なめし・肉切りなど生活のあらゆる場面で使用されたようです。
形は、大きく「縦型」と「横型」に分かれます。時期や地域によって形が変わることが多いです。
機能的には大差はありませんが、「縦型」には「突き刺し」として使うものがあります。
スクレイパー
物を切ったり削ったりする道具です。代表的なものとして、箆状石器などが挙げられます。
石錐
現在の錐のように木・皮・石などに穴を開ける道具です。ひびの入った土器の補修のために土器に穴を開ける時にも用いられます。
磨石
木の実の皮を剥いだり、身を潰したり、粉にしたりするために使う、食材の粉砕を目的にした道具です。石皿とセットで使います。
石皿
磨石で粉砕、製粉する際の台座として使用されます。粉砕等の行為が繰り返されることにより中央部などがすり減っているのが特徴です。
自然石の石をそのまま使うもののほかに形が整えられ、装飾が施されるものもあります。

石器の使い方
上に記述
石匙 スクレーパー・石錐 磨石・石皿


 石器の石材
石器は、その用途によって用いられる石材もその種類を変えます。大まかに剥片石器と礫石器、石核石器に分けられます。
剥片石器は石を割り、割れた破片を加工することにより作られる石器です。
礫石器はほぼそのままの加工去れない形で用いられる石器です。
石核石器は石を敲き、磨いて形を整える石器です。

石器の石材
未記述
石器機種別石材表
 168
石匙
動物の肉を切ったり、皮を裂いたりする道具
全て縦長。東日本型
スクレイパー
切ったり削ったりする道具
箆状石器 トチオシ・キリハ
トチオシ
トチオシ・キリハ 石皿
縄文後期前葉
約4000年前
アチヤ平遺跡
石臼
 

 171土器の使用法

 縄文土器の発明
土器は粘土を焼き締めることにより製作されます。土器は火にかけて煮炊きに使うことができます。土器の発明は旧石器時代時代までの生活を一変させる画期的な道具でした。
煮炊きできるようになったため、今まで食べることのできなかった木の実・山菜をアク抜きし、食料として利用できるようになりました。この食料革命が、旧石器時代までの移動生活から定住という新しいライフスタイルに変えていきました。
土器は各時期の使い方に応じて姿を変えています。その形は土器の底に顕著に表れ、代表的な例が「尖底土器」です。
 尖底土器 意味 尖底土器 尖底土器 形 なぜ 尖底土器 使い方 尖底土器 作り方 尖底土器 年代 尖底土器 メリット

これは縄文早期10000~6000年前)の土器で、底が尖っているため、石などで囲った中に土器を置いて使っていたものと考えられます。
しかし、後の時期には、土器のほとんどは「平底土器となり、地面の上に置いて使用したと考えられる。
 平底土器

 器種の増加と祭器としての土器
縄文時代後期(4000~3000)になると、器種が増加します。土器は煮沸に適した深鉢形が主流でしたが、鉢・浅鉢・壺・注口土器の量も増加します。また、深鉢にも大小が存在することから、使い分けが行われていたのかもしれません。
縄文中期半ば(約4500年前)になると、火焔土器に代表される派手な把手の付いた非日常的な土器が出現します。
土器は単なる調理器具の枠を超え、縄文人の精神的な儀式の道具としても使用されるようになりました。

縄文時代が進むとこのような儀式的役割は注口土器や小型の土器に受け継がれました。人面付注口土器の存在や実用性に乏しいミニチュア土器の中に非日常的な活動の一端が示されています。
このように旧石器時代までの生活を一変させ、日常生活の必需品となった土器は、最終的には縄文人の精神活動にまで取り入れられる縄文時代に最も必要とされる道具へと昇華されていきます。

土器の使用法
上に記述
尖底土器 平底土器 器種の増加と祭器としての土器
上に記述
注口土器浅鉢 火焔土器
人面付注口土器 注口土器 用途
注口土器 特徴
注口土器 種類
注口土器 サイズ
注口土器 場所


 172食器

鉄ビン ケヤキコブ
カタクチ お盆 台付鉢
 

 180農耕・栽培
 181
 奥三面の農耕
奥三面の生活は多くを山の資源に頼って暮らしています。しかし、それだけでなく、田・畑・焼畑(カノ)などの農耕作物に支えられている面もありました。水田は古くからあるようで、1597(慶長2)年に作られた「瀬波郡絵図」にも水田のある様子が描かれています。他にも江戸時代の記録などにも登場しており、奥三面でも稲作が行われていました。
焼き畑(カノ)は水田よりも古くから行われたようですが、はっきりしたことはわかりません。
畑作については、あまり盛んに行われていないようで、昭和30年代(1956~65の間)までは肥料は行き渡らず、ガチガチの土で作業が行われたようです。
奥三面の稲作
 稲作の準備は雪が消えたら、すぐに始まります。田起こし・畔作り、苗床を作り田植えできるようになるまで苗を育てます。大体、ゼンマイ取りが終わった頃、丁度よくなっているそうです。そして、田植えになりますが、これも非常に忙しく、家族総出の作業になります。田植えの時は、一日に5回の食事をしました。
その時の代表的な弁当に「コビリ」がありました。片手で持てないほどの赤飯のオニギリをホウの葉に包んでありました。天候が悪い年は、ゼンマイ取りと田植えが重なり、大変になるそうです。
秋の稲刈りも大変で、稲刈り機の入れない田が多く、また稲わらを運ぶのも細い山道のため、非常に困難でした。モミスリの作業なども深夜に及ぶこともあったそうです。(※これって、当時は普通でした。稲わらを背負って運び、深夜まで籾磨り・脱穀をしていましたよ。)

 縄文時代の農耕
農耕とは
縄文時代には農耕が行われていたのでしょうか。未だ研究者の間で論争になるテーマです。農耕というと、畝ウネを持った畑が最もイメージし易いのではないでしょうか。
水稲農耕の登場が弥生時代の開始であるという考えがあります。これはある意味では正しいのですが、最も早い水稲農耕の開始は、縄文時代晩期の終りに九州で開始されていたようです。そのため、現在では弥生時代の開始とは水田農耕を含む大陸からの知識・技術を受け入れることのできる体制の整った時代であるとされています。
水稲農耕は縄文人の知識・技術により考え出されたものではありませんでした。それでは、縄文人が考え出した農耕とはどんなものだったのでしょうか。

縄文農耕論
縄文農耕論という考えがあります。縄文時代中期に繁栄を極めた長野県では住んでいる人数に対し、自然の恵みだけでは食料が賄えなかったのではないかとする説です。
この説は、当時余り支持されませんでしたが、花粉分析や種子同定などの化学分析によって縄文時代の農耕、栽培についていろいろと分かったことがあります。
北海道・青森からアワ・ヒエの雑穀類が発見されています。ソバも日本海沿岸の遺跡から発見されています。ただ、野生種か栽培種かは分からず、これらの雑穀が主食ではなかったことは明らかです。

現在、縄文時代の栽培については、三内丸山遺跡のクリが栽培されていたものであることがわかっています。DNA鑑定により、遺伝子にほとんどばらつきがないことがわかり、縄文人によりクリの品種が管理されていたことが明らかになっていました。
ほかには、北海道で、掘り込みが多数認められる畑状遺構が発見されています。この掘り込みにも刺さっていた打製石斧はクワとしての役割をしていたと考えられています。
残念ながら奥三面遺跡群の中では栽培・農耕の痕跡は認められませんでした。しかし、打製石斧は出土しており、まったく否定されたわけではありません。
 飛躍し過ぎかもしれませんが、奥三面のカノ(焼畑)のようなことを行っていたのかもしれません。

奥三面の農耕
上に記述
奥三面の農事暦 縄文時代の農耕
上に記述

しょいこ(背負子)かと思いきや

橇(ソリ)でした。中央に棒があるので背負えない
 
 

 農耕 中世~現代

 182農耕具
このかごに牛馬の糞便を入れて斜面を這い上がって肥料を撒いた 肥ショイカゴ
肥背負い籠
クロツケクワ 泥除け付きの鍬。
弥生時代は泥除け部分が木製でしたが、軽量化のため、竹で編んだネットになっています。
東北地方で見ましたが、奥三面にも湿田があったのか、単に代掻きなどに使ったのか。
クワ・トウグワ ヒエ・アワ・キビ・エゴマ キビ・エゴマ
米は換金作物で、弥生時代以来、雑穀が主食だったのでしょう。

 185焼畑

 焼畑(カノ)について
焼畑のことを、奥三面では、「カノ」と呼んでいました。カノは、南向きの斜面や河岸段丘の平らになっている草原を焼き払って、畑にしました。
カノは自然の地力に頼る農法です。主作物は雑穀類でした。
土用の頃(7月20日前後)に「カノのカッパツケ」が行われます。カッパツケとはカノに参加する人を集め、場所を決める話し合いのことです。
応募者多数の場合はくじ引きで決めたそうです。一軒が一、二反(約1000~2000㎡)程の場所を確保していました。

7月下旬から8月上旬頃、草を刈り、晴なら4、5日程乾燥させます。その後、風のない日を選び、焼きます。焼いたその日、又は翌日に種まきをします。蒔いた後は、耕すようにして土を掛けます。
一年目は、ソバを作り、二、三年目はアワ、キビ、ダイズ、アズキを作りました。三、四年で地力が落ち、放棄してしまいますが、土地の権利は、その後一年半は保たれていました。


焼き畑で使う道具
焼畑

上に記述
焼き畑の年間工程と
作付け順序
カノの火つけ
ソバボッチ

※考察 焼畑文化
焼畑農法は北部九州に上陸して、中国山地、岐阜・長野の山の中と、水田稲作同様列島を北上した文化である。私の知り合いにも、つい50年前までやっていたという人もいた。高度経済成長と農山村の高齢化によって失われた農耕法である。
しかし、この文化を持つのは、ほぼ山国の日本列島に住む山村農民の多くであり、特に突帯文土器の弥生焼畑民の末裔とは無縁だ。



 186林業道具・焼畑道具
クチヤ ナタ・ナタサヤ
カワムキ・チョウナ ノコギリ・ヤスリ ヤスリツッポ
ノコギリガマ ノコギリ鎌は麦刈りに使っていましたよ。
稲刈りは普通の鎌でした。切る稲藁
・麦藁の特徴によって道具も使い分けたのでしょう。
 

 190木材の伐採加工
カマステゴ マドノコギリ マエビキノコギリ トビグチ・クサビ
磨製石斧復元品 ナタ
ヨキ・マドノコギリ
 

 210漆の採集

 211
 うるし ~縄文の文化と朝日村の伝統産業~
漆とは、ウルシの木の樹液のことです。漆は縄文時代から漆器装飾品の塗料や接着剤として使われてきました。土器や木製品との相性がよく、特に、○○や○○なものに塗られることが多いようです。
漆器は、英語ではJapanと言われ、日本を代表する工芸品です。現在では、多くの人の手や工程から、高級品として扱われていますが、光沢のある色合い、○○りなどから多くの人に愛されています。

近世以来、漆の産地として知られる朝日村では、「漆掻き」が行われています。正確にはわかりませんが、○から○○田を中心に行われていました。次第に朝日村中に広がり、最盛期は、1942(昭和17)~1951(昭和26)年頃でした。この頃の「漆掻き」は、県内外へと出稼ぎに出て、行われていました。

しかし、村内での活動は盛んではなく、残念ながら、現在では、漆掻きをする人は数えるほどしかいなくなりました。
かつて朝日村の経済を支えた事業である「漆掻き」は、その伝統を伝えるため、漆掻き道具が1977(昭和62)年に村の有形文化財に指定されました。

また、奥三面遺跡群の調査の結果、元屋敷遺跡、アチヤ平遺跡、二又遺跡で漆器生産が行われていた可能性が高いことがわかりました。
ここでは、縄文時代後期(約4000年前~)から行われていた、
朝日村の誇るべき伝統産業である「漆掻き」や縄文時代の漆製品を紹介していきます。

 縄文時代のウルシ
漆製品は、縄文時代、最古のものは約9000年前から作られていたようです。中国大陸から伝わったとする説と、日本で考え出されたとする説がありますが、結論は出ていません。
 (※ウルシの木は、日本列島固有の樹木でなく、縄文時代の早い段階に大陸から持ち込まれました。漆の小枝が出土していますから、
   種が持ち込まれ、列島に植えられました。話は違いますが、江戸時代に貧乏藩では、武士の副業として野山に漆の種がまき散らされました。)

漆製品の生産は、東日本、特に東北地方で盛んに行われていました。
奥三面遺跡群のアチヤ平遺跡、元屋敷遺跡からもウルシを塗ったものが多数出土しています。赤の素材であるベンガラを粉砕した石皿、漆を入れておいた鉢が出土したことから漆製品を生産する遺跡であったと考えられます。

漆製品の生産には漆樹液の採取、塗りの工程など複雑で、専門的な知識を持っていないと製品の生産はできません。
また、ウルシは塗料として優美さを演出するだけでなく、接着剤として実用的な使い方もされていました。
縄文時代から使われてきた漆製品は、現在と同様に、単なる塗料としてだけでなく、ウルシの持つ優美さから「大切なもの」として扱われたと考えられます。

うるし
縄文の文化と朝日村の伝統産業(不明瞭)

上に記述
縄文時代のウルシ
上に記述
弁柄の付いた石皿
アチヤ平遺跡
漆容器(元屋敷遺跡)
注口部を漆で接着した
元屋敷遺跡



 ウルシ掻き
漆掻きのシーズンは、田植えの終わった6月中旬頃から11月頃まで続きます。多くの工程を経て漆を採取します。
漆の採取やの仕方は、「上掻きウエガキ」、「返掻きヘンガキ」、「裏鎌掻きウラカマガキ」、「枝掻きエダガキ」の4つがあります。
  「上掻き」
1.ウルシの木の鬼皮をカマで剥ぎ落とします。
2.ヘングリで木の芯を傷つけないように切れ目を入れます。
3.ウルシカンナのネサシの部分で、切れ目を広げていって幅の溝を作ります。(溝付け=ヘンつけ)
4.3の溝から35cm程の間隔をあけて、幹の面積の許す限り、溝を付けます。
5.四日後に、溝から生漆がにじみ出しているので、ヘラで漆筒に採取します。
6.5を繰り返し、一ヵ所に15~20溝を付けます。
 「返掻き
・9月頃からは、「上掻き」で付けた溝を、再度掻き、ウルシをとります。
 「裏鎌掻き」
・10月頃からは、「返掻き」までした木の裏側にも溝を付けてウルシを採取します。
 「枝掻き」
・11月頃からは、枝にも小さな溝を付けてウルシを採取します。

 生漆
採取されたばかりのウルシは透明だが、すぐに白濁し、2時間後には黄色、さらに時間がたつと赤になり、最後に黒くなります。
空気と接触していると変色するため、和紙に渋柿の渋を塗ったものを表面にはわせます。

ウルシ掻き
上に記述
上掻き
返掻き
生漆
ヘンつけ ヘラで漆筒に漆の樹液を入れる
生漆きうるし
 212漆掻き道具
カマ

草刈り鎌に似ているが、刃が肉厚で漆の鬼皮剥ぎと周辺の草刈りに使用
ウルシカンナ
頭部脇にネサシと呼ぶ突起が特徴。頭部のカギ状に曲がった内側に刃が付いている。漆の樹液を採るためのヘンという溝を付ける道具
ヘラ

先端部分が溝の幅だけ折れ曲がっている。
職人はヘラで溝をなぞって直下に添えた漆筒に漆樹液を集めます。
ゴングリ

漆筒の生漆を樽に移す際、漆筒に残った漆駅をこそぎ落とす道具
漆筒
漆を採取するときに溜めるオケです。
ヘングリ

カンナの一種。漆の幹にヘンという溝を付けるための道具です。
 213朱漆製品 元屋敷遺跡 縄文後期後半~晩期 約3500~2300年前
朱塗りの竪櫛 赤漆塗り土偶 石皿(弁柄粉砕用)
(赤色顔料付着) 磨石 ベンガラ(青森産) ベンガラ
赤い色の素材として粉にして使われます。
原石さえ手に入れられれば、加工は容易なため、
多くの遺跡で使われています。
アチヤ平遺跡・元屋敷遺跡から原石が出土。

※新潟の山中から津軽半島最北端まで原石を丸木舟(石の運搬に不可欠)で採りに行ったのか。
それとも交易人が持ち込んだのだろうか。
ベンガラ塊 ベンガラ原石
 214漆掻き
ウルシオケ ヘラ
ヘングリ・カマ
漆筒
ヘラ
ウルシカンナ カマ・ウルシカンナ・ヘラ
 

 230竪穴住居

 231 縄文時代の建物
縄文時代の建物には、竪穴建物・平地建物・掘立柱建物があります。数千年以上前の建物のため、建物として残っているものはありません。
考古学的手法によりその建っていた竪穴や堅くした床面などから建物跡であることを確認しています。その為、上屋の構造は未だ不明な点も多いものですが、火事にあった建物の炭になって残った木材の研究から明らかになってきたことが沢山あります。

 竪穴建物
縄文時代で最も知られている建物は竪穴建物でしょう。奥三面遺跡群でも縄文時代前期(6000年前)から確認できている建物です。
竪穴建物にもいろいろに種類があります。
竪穴建物は地面を掘り込み、床を踏み固めて造られた半地下式の建物です。平面形にも円形・方形・柄鏡形などいくつかの種類があります。

竪穴建物は、青森県一戸町御所野遺跡の成果などから、縄文時代は土屋根式のものが一般的だったと考えられるようになっています。カヤ葺き屋根のものも、もちろんあったのでしょうけど、弥生時代以降の遺跡と比べ、縄文時代の火事の痕跡が極端に少ないのは土屋根構造にあったからだといわれています。

 平地建物
平地建物は、その痕跡がわかりづらく、炉や柱穴の存在から判断しています。基本的には地面を掘り込まずに、柱を巡らして建てる建物で、平面が円形か多角形になるものをいいます。
また、床は土を踏み方たものだけではなく、平らな石を敷き詰めた敷石住居もあります。アチヤ平遺跡では縄文時代後期初め頃(4000~3700年前)に認められます。アチヤ平遺跡では敷石の方が多いことからも特別な建物という感じではないようです。

 掘立柱建物
柱穴が四角形や長方形に配列される建物で、平面形は正方形から長方形をしています。上屋の構造は不明ですが、中には高床式になるものもあり、大きさによって性格が異なる建物であるようです。
アチヤ平遺跡においても大型のものが確認されました。

竪穴住居 竪穴住居の中の様子 石囲炉 縄文時代の建物
上に記述
竪穴建物
住居構造
上に記述
竪穴建物 平地建物 掘立柱建物

 232炉の移り変わり
円形石囲炉
炉の移り変わり

  名称  遺跡名 特徴
  地床炉  前田・沼沢 縄文時代全時期を通して見られる炉です。床面に直接火を焚いあとです。
石囲炉  前田 縄文時代早期(約8,000年前)から出現し、縄文時代中期(約5,000年前)に一般化します。
   土器敷炉 前田 縄文時代中期(約5,000年前)に出現します。石囲炉の底面に割れた土器が敷かれています。
複式炉  下ゾリ・下クボ・アチヤ平 縄文時代中期後葉(約4,300年前)~東北南部を中心に認められ、埋設土器部
・石組部・前庭部から構成される炉です。
  埋設土器を伴う石囲炉  アチヤ平 石囲炉の内部に土器が埋設された炉です。
円形石囲炉  元屋敷 元屋敷遺跡で多く見られる炉です。石が円形に配列された炉です。

 233ゼンマイ小屋
三面のゼンマイ小屋
山ギモン

 234ゼンマイ採り
奥三面の人々がお金を手にするための手段は、ゼンマイを売ることでした。
ゼンマイという奥三面の魅力的な特産品を市場に出荷すべく奥三面の人々は競うように沢に入り、およそ1カ月にもわたりゼンマイを求め、
山を歩きまわるのです。ろくに食事もとらず、ゼンマイの出荷作業を日夜繰り返します。この頃が最も痩せる過酷な時期です。

ゼンマイ小屋を中心とし、山の中で宿泊しながら過ごす人と、村から山中に通ってくる人に分かれています。
村からゼンマイのなる沢に通う人たちは朝の4時前から出発し、誰よりも早く沢に入り、ゼンマイを採取していました。
お昼は地下足袋を履いたまま食事し、日が暮れるまで山を歩き回っていました。

ゼンマイの加工
 ゼンマイの天干し
  ➀綿毛を取り、選別されます。
  ②大釜で一度茹でます。
  ③茹で上がったものは2人がかりで担ぎ上げます。
  ④筵やゴザの上に広げ、両手でもみ、天日干し、揉み、干すを繰り返す。
 青干し(雨天の場合)
  ・煙でいぶし乾燥させる。

 ゼンマイは毎年、同じ場所に大量に良品がなることはなく、大量に良品を獲得するためには、乱獲の禁止や場所を変えることが必要です。
 それで、沢でムラの人に会えば、その沢に入ることはなく、取る場所も昨年と違う側を選びます。

ゼンマイ採り ゼンマイは奥三面での重要な山林資源でした。
近世・近代には現金収入の手段として、
先史・古代においては大切な保存食でした。

その採取には、おそらくかつてのマタギ小屋を利用して、山中に寝泊まりして採取するほど、大量に採れ、取らざるを得なかったのだと思います。


 ゼンマイ小屋のつくり 

※ゼンマイ小屋はかつてのマタギ小屋(狩猟小屋)。こういった簡単な作りの小屋や、もっと簡素な小屋が、かつての旧石器などの人々の住まいに近かったのではないかと想像します。
アフリカ・サハラ砂漠の遊牧民は、現在も岩陰で風雨をやり過ごしたりしているという。最近は定住化が進んでいて、雨を岩陰でやり過ごすのは本当に大変だったと言っていた。ましてや日本では一年の3分の1は雨だろう。それなりの防雨・防風・防雪などの工夫はしていたに違いない。
そうでなければ、乳幼児はすぐに死亡し、今頃人類は絶滅しているだろう。
屋根には木の皮を重ねたりして防水もしたでしょう。

ゼンマイ小屋のつくり   
ゼンマイ小屋の構造は狩猟小屋そのものです。映画デルスウザーラにも登場しました。→
 
年間にほんの一時しか使わない小屋を建てるのは、利権が絡んだ、既得権を守るための行動のようです。→
 狭く乏しい資源の中で多人数が暮らすためには、権利や序列が厳守されたのだろう。→ ゼンマイ小屋のつくり   元は狩猟小屋であっただろうゼンマイ小屋は、地域においては優越者の象徴だったのでしょう。
 

 250縄文人の住宅事情
 住居
縄文時代の住まいと言えば、竪穴住居がよく知られていますが、、地上部分だけの住まいや高床の建物もありました。
大きな建物を建てる時には、約35cmを単位とする物差しが使われていました。

住居の一生

 集落
住まいや墓は計画的に配置されていました。広場を中心に円形に住まいが作られた例が多く、道に沿って墓や建物が並ぶ例も知られています。

集落 環状集落
堀之内町清水上遺跡
通路を持つ集落
三内丸山遺跡
川によって区画された集落
朝日村元屋敷遺跡
盛り土のある集落
栃木県寺野東遺跡
 
 260衣服の製作
奥三面では、天然の草木や栽培したものから繊維を取り出し、糸に紡ぎ、その糸で機織りをして布を作り、衣服を裁縫により製作していました。
奥三面遺跡群からは布や糸は出土していませんが、繊維を取り出して糸(布)を編む技術はすでに縄文時代からありました。

奥三面で利用した草木は、麻・イラクサウルキシナノキが挙げられます。麻・イラクサは衣類に加工されました。
ウルキ・シナノキから採れた繊維はそれぞれウル皮・シナ皮と呼ばれ、強い繊維で袋などに加工されました。
また。シナノキには「コバ」と「オオバ」の2種があり、コバはウル皮同様に絞り剥ぎという方法で繊維を取り、シナ皮と言われます。
オオバはアク(灰汁)で煮て繊維を取り出すという方法を用います。これはウマダと言われ、セゲゴザのたて糸や、機織りにって布になります。

 繊維の取り出し方について
・・・春に種が蒔かれ、お盆頃に刈り取ります。そのまま二、三日天日干しし、オウツケ(池のような施設)にうるかしておきます。
  そしてオフキ台とカナゴにより硬い表皮の部分をこそげ落とすと繊維が取り出せます。繊維は家の中に干しておきます。(陰干し)
   ※うるかす=福島方言、水漬けにする。ふやかす。
イラクサ・・・自生しているものを秋に刈り取ります。麻同様、天日干しし、水につけ、オフキ台・カナゴにより、硬い皮をこそげ落とします。
  麻よりカスが多く出ます。陰干しします。
ウマダ・・・シナノキのオオバは、木の皮を剥ぎ、アクで煮出して柔らかくし、繊維にほぐします。

ウル皮・シナ皮(コバ)・・・木から皮を剥ぎます。中皮を搾り取るように引っ張り、はがします(シボリハギという技法)。
  目入りのいい(年輪の詰まった)木からは10枚は採れます。
  これらの繊維は干され、糸にせず、そのまま、ミノに付け、担いだ荷物で擦れるのを防止するものにしたり、縄の材料となりました。
  しっかりした繊維であるため、布には加工されませんでした。

 衣服を作る
奥三面の機織り仕事は春の三、四月に行われます。夏・秋に繊維にされたものを糸車で紡ぎ、糸にします。(紡ぐ=繊維を糸をつなげること)
麻は糸にし、機織りにかけ、布にしていきます。イラクサは、冬に長い糸に巻いておくと、糸が硬くなるなるので、アワぬかをかけて、ほぐれるように櫛(くし)をかけておきます。布に織り上げた後、ぬかを取るために、水をかけ、棒で叩いて雪の上にさらしておきます。

この麻布とアイコ(イラクサの布)で野良着であるサシコ・ツヅレやコバカマ、ハンバキが裁縫で作られます。理由は不明ですが、シシ獲りなどで山に入る時、アイコ製品(イラクサ繊維製品)は着て行ってはいけない決まりでした。山に入る時は麻のコバカマにアオシシの油を塗って防水加工しました。

衣服の製作
上に記述
機織 地機 ヨッツォカケ
ウマダ(大葉菩提樹)の皮の繊維を掻けておく道具。ハタシの長さと同じ
ツグラ
ヨッツォヨリワク
糸繰枠(いとくりわく)

ウマダの糸を八の字掛けにしておく道具。

→硬い繊維で作った糸が8の字掛けしてある。
樹皮(ウマダ?)
狸の糸車のパロディ
糸より車(糸撚り車)
繊維を巻き取って撚りをかけて糸にする
糸巻
琉球舞踊でも有名です
撚りをかける前、。つないだ繊維を入れておく。絡まないようにふわっと
 

 270捨て場

 271捨て場
捨て場からは、土器片や石器などの遺物が大量に出土します。
使用されなくなった土器、石器だけでなく、木の実、動物骨や特殊な道具である土偶や石棒なども出土します。中には人の骨が出てくる場合もあります。
このような状況は、現代のように単に要らなくなったものを集めただけのゴミ捨て場とは違った意味の場所であったものと考えられます。
捨て場については、1次廃棄、2次廃棄といった行為も考えられています。初めは自分の家の周囲に溜めていた壊れた土器・石器・土偶などをある一定期間経つと、集落の決められた場所に廃棄するというものです。捨て場のものと居住域のものが接合する例があることから、このような考えが示されています。
元屋敷遺跡・アチヤ平遺跡にも形成された捨て場は、集落の端の崖になっている部分に作られています。

捨て場の剥ぎ取り地層 捨て場

上に記述
捨て場から見つかった アチヤ平遺跡の捨て場 元屋敷遺跡の捨て場


 遺物接合図と解説
発掘により見つかった出土品は、たいていの場合、粉々の破片です。稀にほぼ完全な形で出てくるものもあります。そこには何らかの意味があります。
出土品の材質による場合もありますが、完全な形のものは、大体の場合が捨てられたものではなく、安置されたものだと考えられます。

しかし、大抵の遺物は粉々です。壊れて使えなくなったものが捨てられたとしても、これほど粉々にはなりませんし、壊れた遺物が一ヵ所にまとめて捨てられていたら、また、元通りに復元できそうなものですが、そのようなことは非常に少ないです。

大抵の場合、破片同士が少しくっつけばいい方です。ただ、中には、何十メートルも離れた破片同士がくっつくことがあります。自然に転がったり、風の力で動いたとは考えにくい距離です。何らかの意図で人の手が加わって壊されたと見た方がよいと考えられます。

離れたところから出土したものがくっつくのは何故でしょうか。考えられるのは、
➀もともとばらばらに捨てるため、②溜まったごみをさらに邪魔にならないところに捨てたため、③壊れたものを一ヵ所に捨ててはいけないというルールがあるためなどが考えられます。

遺物接合図と解説
上に記述
磨石類接合図

 272元屋敷遺跡の捨て場土層の断面
元屋敷遺跡の捨て場土層の断面
これって丸鑿石斧?

 273捨て場出土土器 元屋敷遺跡 縄文後晩期 約4000~2300年前
捨て場下層の土器
縄文後期前・中葉
約4000~3500年前
中層の土器
縄文後期後葉
約3000年前
上 層の土器
縄文晩期
約3000~2300年前
         
 


 300元屋敷遺跡出土物

 310

 311国指定重文になった元屋敷遺跡の出土品
この度、本遺跡は縄文時代後・晩期(約4000~3000年前)の他地域との交流品や当時の精神文化、磨製石斧等の石器製作技術、北日本における日本海側と太平洋側とをつなぐ文化や物資の交易を考える上で、極めて重要な出土品として、土器・土製品287点・石製品1423点、漆塗り木製品2点、骨角器6点、計1718点が国指定重要文化財とされました。
本遺跡の遺物で学術的価値が特に高い環状注口土器巻貝形注口土器人面付岩版のように独特で造形的にも素晴らしいものも多く、重要であると認められました。

 元屋敷遺跡の土器
元屋敷遺跡の土器は、縄文時代後期後半(約3500年前)のものを中心に、縄文時代後期前葉(約4000年前)から縄文時代晩期末(約2300年前)に使われたものです。
土器の厚さが薄くなる時期で、複雑な文様を施すものもあります。土器の種類は胴長のバケツのような深鉢だけでなく、鉢、浅鉢、壺、注ぎ口の付いた注口土器、香炉のように透かし孔が施される香炉形土器、そこに多数の孔の開いた濾し器である多孔底土器など多様化します。
文様も時代により様々です、後期前→321→341

 土器文様
文様も時代により様々です。
後期前葉の土器の特徴的な文様は、縦長の線が何本も集まった「集合沈線」です。胴部に施されます。
後期後半の土器の特徴は、帯が階段状に延びる「入組文イリクミ」です。また豆粒状の粘土粒が付けられるのも特徴的です。
晩期の土器は、無文部に磨きが施されます。文様として、深鉢、鉢の上部、壺の肩部などにシダの葉のような「羊歯状文シダジョウモン」、
雲形定規のような「雲形文クモガタモン」や網目のように複雑に結びつく「浮線文ふせんもん」など様々です。

重要指定を受けた中でも更に優品として、環状注口土器(403)が挙げられます。中央の孔が上から見えるものが多い中、元屋敷遺跡の→続きは別場所

 特殊な注口土器   環状注口土器
重要指定を受けた中でも更に優品として、環状注口土器が挙げられます。中央の孔が上から見えるものが多い中、
元屋敷遺跡の注口土器は、横から中央のあなが 見える立った状態の環状になっており、全国的にも珍しい器形です。

全国でもあまり類例のないものとしては、巻貝形片口土器が挙げられます。
左右非対称である点や螺塔部分の特徴など本物の巻貝をモデルにしたと考えられる精巧な作りです。

 人面土器
また、顔面が施された土器が珍しいものとして挙げられます。顔の付いた土器はほとんど注ぎ口がついており、特別な飲み物が注がれたと考えられます。縄文人にとっても顔の付いた土器は大切なものでした。土器は文様がついていないものがほとんどであり、文様がついているだけで特別なものと言えます。食べ物を作る土器には、縄文人の文化が刻み込まれています。



国指定重文になった
元屋敷遺跡の出土品
上に記述
元屋敷遺跡の土器
上に記述
 312元屋敷遺跡の土器
蓋形土器 元屋敷遺跡
国指定重文 蓋
浅鉢 元屋敷遺跡
食器
鉢 元屋敷遺跡
国重文 食器・鍋
 313深鉢 元屋敷遺跡
深鉢 元屋敷遺跡
土鍋
 
 320
 321土器文様
文様も時代により様々です。
後期前葉の土器の特徴的な文様は、縦長の線が何本も集まった「集合沈線」です。胴部に施されます。
後期後半の土器の特徴は、帯が階段状に延びる「入組文イリクミ」です。また豆粒状の粘土粒が付けられるのも特徴的です。
晩期の土器は、無文部に磨きが施されます。文様として、深鉢、鉢の上部、壺の肩部などにシダの葉のような「羊歯状文シダジョウモン」、
雲形定規のような「雲形文クモガタモン」や網目のように複雑に結びつく「浮線文ふせんもん」など様々です。

土器文様
 322
鉢 元屋敷遺跡
食器・鍋
浅鉢 元屋敷遺跡
食器・貯蔵容器
 323壺 元屋敷遺跡
壺 元屋敷遺跡
貯蔵容器・調理具
 324
注口土器 元屋敷遺跡
どびん
注口土器 元屋敷遺跡
どびん
単孔壺 元屋敷遺跡
国重文
土器の底の方に孔が一つ開いた土器。
醸造や注ぎ口を装着した道具と考えられる。
 
 330
 331深鉢 元屋敷遺跡
  土鍋として煮炊きに使用した
深鉢 元屋敷遺跡
国重文
 332
注口土器 鉢 元屋敷遺跡
国重文 食器・調理
台付土器 元屋敷遺跡
食器
 
 340
 341
 特殊な注口土器
重要指定を受けた中でも更に優品として、環状注口土器が挙げられます。中央の孔が上から見えるものが多い中、
元屋敷遺跡の注口土器は、横から中央のあなが 見える立った状態の環状になっており、全国的にも珍しい器形です。
全国でもあまり類例のないものとしては、巻貝形片口土器が挙げられます。左右非対称である点や螺塔部分の特徴など本物の巻貝をモデルにしたと考えられる精巧な作りです。

 人面土器
また、顔面が施された土器が珍しいものとして挙げられます。顔の付いた土器はほとんど注ぎ口がついており、特別な飲み物が注がれたと考えられます。縄文人にとっても顔の付いた土器は大切なものでした。土器は文様がついていないものがほとんどであり、文様がついているだけで特別なものと言えます。食べ物を作る土器には、縄文人の文化が刻み込まれています。 

 343壺 元屋敷 国重文
これらはなんともすごいデザインの土器です。

特にこの壺のデザインは印象的です。
 344
台付土器 元屋敷
食器 国重文
浅鉢 元屋敷 食器
国重文
 345注口土器 元屋敷遺跡 国重文
注口土器 陰嚢付注口土器
陰嚢付注口土器

陰嚢付注口土器
 青森県白神山地遺跡から関東にかけて所々に出土しています。島根県立古代出雲歴史博物館へは、東北地方から持ち込まれました。

 
 350深鉢 鍋
深鉢 元屋敷遺跡
国重文 鍋
 360

 361小型土器
小型土器 元屋敷遺跡
国重文

 362単孔土器 元屋敷遺跡
   土器の底の方に孔が一つ開いた土器。醸造や注ぎ口を装着した道具と考えられる。
単孔土器
単孔土器
単孔土器
 岩手町の上境遺跡からは縄文時代後期の注口土器と共に出土
 宮城県大木囲貝塚から、大木8b式期、縄文前期前葉~中期末葉に
  出土しています。
 363 元屋敷遺跡 貯蔵用具 国重文



 370
 371深鉢 国指定重文
深鉢 国指定重文
 372漆で接着された注口土器 注ぎ口を漆で接着している。 国指定重文
漆で接着された注口土器
国指定重文


 多孔底土器 元屋敷 国重文
  底部に多数の孔が開いた土器。濾過器として使用。多孔底土器と注口土器が一体となったものもある。

※考察 多孔底土器
  注口土器自体が使用目的がわからないのに、そこに濾過器としての多孔底土器が合体したら、これはもう、完全などびん、やかんじゃないか。
  煎じるものを入れて、湯を注ぎ、それを飲む。煎じるものが注口に詰まるので、それを防ぐために多孔底土器を合体した。
  土瓶内部の注ぎ口の根元に多孔濾過器が付いている。あれのことじゃない?
  多孔底土器は蒸し器にも使える。のだが、、、どうだろうか。

  どう考えても、蒸すという調理は穀物に対してのみ行うようにも思える。
多孔底土器 元屋敷
国重文
 
 380
 381鉢・注口土器
鉢 元屋敷遺跡
国重文
注口土器 元屋敷遺跡
国重文
 382香炉形土器 元屋敷遺跡 透かし孔が特徴的な土器。 使用目的がはっきりしない。 国指定重文
香炉形土器 香炉形土器 香炉形土器
浅鉢 元屋敷遺跡
国重文
 
 390鉢・漆容器
漆容器 元屋敷遺跡
約3500年前
漆を入れていた器。中に漆が付着しており、使い残しと考えられます。

漆の生産や漆器の生産が行われていたようです。
 
 400
 401火焔土器 馬高式土器 炎を思わせる把手が特徴的 前田遺跡 約4500年前

 403環状注口土器について
重要指定を受けた中でも更に優品として、環状注口土器が挙げられます。中央の孔が上から見えるものが多い中、
元屋敷遺跡の注口土器は、横から中央のあなが 見える立った状態の環状になっており、全国的にも珍しい器形です。
全国でもあまり類例のないものとしては、巻貝形片口土器が挙げられます。左右非対称である点や螺塔部分の特徴など本物の巻貝をモデルにしたと考えられる精巧な作りです。

また、顔面が施された土器が珍しいものとして挙げられます。顔の付いた土器はほとんど注ぎ口がついており、特別な飲み物が注がれたと考えられます。縄文人にとっても顔の付いた土器は大切なものでした。土器は文様がついていないものがほとんどであり、文様がついているだけで特別なものと言えます。食べ物を作る土器には、縄文人の文化が刻み込まれています。

 環状注口土器 縦型
環状注口土器
上に記述
縄文時代後期中葉の
環状注口土器
国指定重文
環状注口土器
リング状に中空部をもち、注ぎ口がついて、中の液体を注ぐ道具

 環状注口土器 横型
縄文時代後期中葉の
環状注口土器
国指定重文

 410

 411巻貝形注口土器 元屋敷遺跡 縄文時代後期後葉(約3400~3000年前)
巻貝形注口土器は、縄文時代後期後葉(約3400~3000年前)に登場します。
巻貝形注口土器は、現在の所奥三面遺跡群元屋敷遺跡を含め、北海道、岩手県、宮城県、山形県、新潟県村上市(旧山北町)の数か所の遺跡からしか見つかっていません。
巻貝の特徴をよく捉えており、殻頂(巻貝の三角錐状に渦巻いているところ)が付けられたり、左右非対称の口縁部、水管溝(棒状に延びた部分)が注ぎ口になっています。本物の巻貝をよく見て作られていますが、浜辺から遠く離れた元屋敷遺跡など山奥にある遺跡から出土しています。
縄文人が巻貝にどのような思いを寄せていたのか想像してみると面白いのではないでしょうか。

※この遺跡では蛇紋岩製磨製石斧を製造して交易していました。蛇紋岩は粘りのある石でその磨製石斧は高級品です。きっと、環状注口土器や巻貝形注口土器は交易品だったのではないでしょうか。もし、この遺跡で作っていたのなら、ほかにも続々と出てくるはずです。大切なお土産品だったのでしょう。

巻貝型注口土器

上に記述
巻貝型注口土器 巻貝型注口土器 ホラ貝などの巻貝を模した土器。大きさから徳利のように中の液体を注ぐ道具である。
 412巻貝形注口土器

 413人面付土器 元屋敷遺跡 約3000年前
顔表現が施された土器。人面部のみで、顔全体はわからない。顔の表現は同時期の土偶と同じである。
堂土器の土ぐには中実のものが多いが、これらの破片は中空で、容器の一部と考えられる。
 414
 415
 416

 417人面付注口土器 元屋敷遺跡国指定重文 約3000年前
顔表現がされた注口土器。特別な容器であることがわかる。容器自体に特別な力があると思わせる土器である。
顔の表現は同時期の土偶と同じであるが、土偶が女性的表現が多いものの注口土器注ぎ口は男性的な表現がされるものも多い。

 
※儀式用の土器として、火焔土器、縦型・横型環状注口土器、巻貝型注口土器2種、人面付土器、人面付注口土器が、
 他の遺跡では本当にまれなものが、一度に固まって何種類も出土している。
 何に使ったのでしょうか。どんな儀式だったのでしょうか。とても稀有な土器群です。
 
 420奥三面遺跡群のあらまし 
奥三面遺跡群最古の遺跡は樽口遺跡です。ここからは約2万5000年前の旧石器時代の石器が見つかっています。その後、縄文時代が終わるまで多くの人々により生活の痕が残されていきました。樽口遺跡

縄文時代早期までは遺物量も少なく、短期間の生活だったと思われますが、
縄文時代前期頃からは遺物量も多くなり、
縄文時代中期中葉頃には前田遺跡に集落が形成されます。その後、下クボ遺跡→アチヤ平遺跡→元屋敷遺跡と集落が移転しますが、その原因ははっきりしません。
縄文時代後期~晩期になると、集落が安定的に営まれ、遺物・遺構の量がさらに多くなりました。環状配石や配石遺構、敷石譲許、大形掘立柱建物など、いろいろな生活のための施設が作られました。

他に、奥三面では原材料が確保できないヒスイ・蛇紋岩製のアクセサリーや接着剤としてのアスファルトなどを他地域との交流によって入手していたようです。またアチヤ平遺跡、元屋敷遺跡では大量に磨製石斧を生産し、交易品としていたようです。

広域の調査により、集落遺跡と小さな遺跡の関係もわかりました。
この地域の自然を利用するため、集落の他に数か所の居住地を設けて、生活していたようです。奥三面集落でも、集落から離れた場所にゼンマイ小屋や作業小屋など自然を利用するための施設が作られていました。

 421元屋敷遺跡について
元屋敷遺跡は、三面川上流域、砂岩の河岸段丘上、標高200mに位置します。
明治39年の新潟新聞(現在の新潟日報)で当遺跡のことが報告されており、それ以前から周知されていたようです。
全国的にも例の少ない全面発掘により多数の遺構・遺物が確認されました。

竪穴建物23棟、掘立柱建物62棟、配石墓・配石土坑99基、土壙墓65基、埋設土器204基、配石遺構53基、道、水場遺構、流路、盛り土などの遺構と土器、土製品、石器、石製品、漆製品、骨角器、植物依存体、動物依存体など様々な出土品が多数検出されました。

奥三面遺跡群のあらまし

上に記述
元屋敷遺跡について

上に記述
大形住居 道 (砂利敷きの道)
イネ科植物を敷いた
水場遺構
人工的に付け付け替えた川

 422配石墓
 
縄文時代のお墓の形態は様々であり、土壙墓・甕棺墓・配石墓・石棺墓・廃屋墓などがあります。
埋葬法には、伸展葬・屈葬・再葬・合葬などがあり、お墓の形態と埋葬法が様々に組み合わされています。

奥三面遺跡群では、土壙墓、配石墓、埋設土器が確認されています。 元屋敷遺跡において配石墓・土壙墓の中から焼人骨がごく少量確認されています。
墓壙内から確認された量は僅かな為、お墓に納められた骨は一部でしかないようです。小破片のため断言はできませんが、再葬された複数の遺体の一部が納められていたものもあったようです。

土壙墓
 土壙墓は最も一般的なお墓の形態です。人が収まるほどの穴を掘り、埋葬します。
 副葬品が出ることや多くの礫が伴うものをお墓として考えています。

 配石墓
土坑の上や脇に石が並べられた状態のお墓です。楕円形のものが多く、長軸方向がほぼそろえて作られています。
副葬品が伴ったり、ベンガラなどで土が赤く染まっていたりするものについては、特別な人が埋葬されるお墓であったのかもしれません。
場所もおよそまとまっており、特殊な雰囲気を作り出していたようです。
 埋設土器
埋設土器は大人のお墓ではないようです。生まれる前や生まれてすぐのく子供のためのお墓のようです。土器をお腹の中に見立ててまた帰ってきてくれるようにと、家の周りに埋葬されています。
大人は住居から離れた墓地に埋葬され、祖先としてお祀りされ、こどもで 亡くなると、生まれ変わってくれることを願って家の側に埋葬されたようです。

配石墓 元屋敷遺跡
縄文後期~晩期


上に記述
埋葬の風景 土壙墓
配石墓

上に記述
配石墓 埋設土器
           配石墓遺構
 
 430人と物の交流
 431運ばれた物資
縄文時代には徒歩か舟しか移動の方法はありませんでしたが、日本列島全体に及ぶ人々や交易品の動きがありました。
特に産地が限られるヒスイや黒曜石などの鉱産物は、石器やアクセサリーの材料として重要でした。
また、海辺と山間部の間で特産物の交換が行われていたことは、内陸の遺跡で海の魚の骨が見つかることでわかります。

サヌカイト
讃岐石とも呼ばれる硬い安山岩で、本州西部や四国で主な石器の材料として旧石器時代以来弥生時代まで使われていました。
岐阜県あたりから北部九州にかけて産地があり、特に奈良県二上山・香川県金山のサヌカイトが広い範囲で使われたことがわかっています。

ヒスイ
蛇紋岩が地下で強い圧力を受けてできる透明度のある美しい鉱物で、硬玉とも呼ばれ、糸魚川市周辺に産地があります。
硬度は7でナイフでは傷がつきません。
その硬さと緑色には神秘的な力が秘められていると考えられたらしく、多くの時間と労力をかけて穴をあけた玉類が全国各地で見つかっています。
青海町寺地遺跡や糸魚川市長者ヶ原遺跡ではヒスイ加工を行った道具が出土しています。

※以前台湾人女性がヒスイの(緑色の)宝飾品を魔除けとして欲しがっていた。中国では昔からそのような風習があるようで、縄文人がきっと魔除けとして持っていただろうヒスイも、同じ意味があったのだろうと思う。何故1万年前の日本列島と、いつからか知らないが古代中国でも同じ風習があるのが大変不思議です。
 で、どうしたかって? イヤリングと指輪を送っときました。台湾ではどうか知らないが、日本では安かった。本物がなかったらオニキスでもいいと言っていたが本物でした。

運ばれた物資
サヌカイト
ヒスイ 青海町橋立ヒスイ峡 ヒスイ海岸
ヒスイ加工用砥石 ヒスイ ヒスイ産地と出土遺跡の分布
 432
アスファルト
新潟県や秋田県の石油が自然に湧き出るところで採取されました。その粘り気を利用して、接着剤として矢尻を矢柄に固定したり、割れた土器をつなぎ合わせるのに便利だったので、交易品として遠くまで運ばれました。

アスファルトで繋いだ土偶
アスファルトの付いた土器
アスファルトの入った土器 アスファルトの塊 アスファルト接着痕のある骨角器

 433黒曜石
天然の硝子である黒曜石は、割れ口が鋭い刃先になるので、石器の材料として重要でした。
火山の多い日本には各地に産地がありますが、特に質の良い黒曜石を採るために深い穴を掘った痕が、長野県の霧ヶ峰山麓で数多く発見されています。

 コハク
松ヤニなど樹液が化石化した石で、日本では北海道・岩手県・千葉県に産地があります。
縄文人たちはコハクにも穴をあけたり、玉類に加工して飾りに使っていました。

 サヌカイト
讃岐石とも呼ばれる堅い安山岩で、本州西部や四国で主な石器の材料として旧石器時代以来弥生時代まで使われていました。
岐阜県から北部九州にかけて産地があり、特に奈良県二上山・香川県金山のサヌカイトがひろいはんいで使われたことがわかっています。


黒曜石 黒曜石の露頭
北海道白滝村
黒曜石の産地 コハク サヌカイト
物流 物流 物流

 434縄文時代の交通ルート
縄文時代にも交通のためのルートが整備されていました。交流品の出土から他地域とのルートが整備されていたものと考えられます。
奥三面遺跡群の交易ルートは、近現代の奥三面のルートが参考になります。
奥三面の主要ルートは山形県小国町方面に移動するルートです。他にも
山岳・登山ルートにより山形県鶴岡市方面山形県寒河江市方面に抜けるルートがありました。
縄文時代もこのようなルートを使い、他地域に移動していたと考えられます。

しかし、直接現地まで行くことは少なかったのではないかと思われています。縄文人たちには生活領域があり、その行動範囲内での移動だったのではないかという説が有力です。その範囲は一日で行って帰れる半径20kmだといわれています。

行動範囲を超えた交易品を手にしている縄文人たちは、「玉突き現象」という言葉で表されるように、各交易品の原産地・生産遺跡から様々な遺跡を介して、交流品が伝わってくると考えられています。
また、山に住む縄文人だけではなかったので、低地に住み、丸木舟を移動手段に使う縄文人もいました。大きな川は、舟で越えていたのでしょう。奥三面でも丸木舟を交通手段にしていました。そして丸木舟はムラ共有の財産でした。縄文時代はそうであったでしょう。ヨソモノには何らかの代償がなければ、使わせてもらえなかったのでしょう。

縄文人が最も早く遠くにいろいろな物を運ぶ手段は丸木舟でした。現代では最短距離を渡る道路が整備されています。一昔前は、村々を結ぶ道であり、あまり自然の立地に逆らわないルートが形成されました。そのため、難所や峠などもありました。

 搬入品の原産地
原産地とは、石・天然資源などを産出する土地のことです。素材の特徴や化学分析によって原産地が特定できる出土品からは、その遺跡の行動範囲や交易範囲を知ることができます。また、特定の原産地の周辺に遺跡を形成し、その素材を加工する集団も出現します。
縄文人は原産地を発見し、素材を利用しています。より良い素材が求められており、素材そのものが交易品として流通していました。
 
ヒスイ
 日本国内の原産地で現在の所確認されているのは、新潟県の西南部、糸魚川周辺のみです。ヒスイは、奥三面遺跡群からも検出されています。原石が持ち込まれることはなく、加工品と言う形で持ち込まれています。
蛇紋岩
 蛇紋岩はヒスイの元です。蛇紋岩に圧力がかかり、ヒスイへと変化します。そのため、原産地もヒスイ同様で、新潟県西南部周辺であろうと考えられます。元屋敷遺跡では、玉類だけではなく、磨製石斧、特に小型のものが多く、検出されています。、

アスファルト
 アスファルトは、秋田県や新潟県の石油が湧き出るところから産出されます。元屋敷においても化学分析の結果からは、秋田県・新潟県のどちらからも持ち込まれています。比較的近隣の新潟県黒川村産のアスファルトは持ち込まれていないようです。
 アスファルトは、縄文時代には重要な材料でした。接着剤として石鏃・石匙の紐の固定や土器のヒビの補修にも使われています。
また、流通していて、土器の中で固まって見つかったものもあります。

黒曜石
 ガラス質の強い石材で、旧石器時代から用いられていました。火山列島である日本には78の原産地が確認されています。
奥三面遺跡群の各遺跡からも黒曜石の石器が出土しています。元屋敷遺跡では、新発田市板山産と山形県月山産のものが多く持ち込まれています。

頁岩
 頁岩は、朝日村内の高根川上流に産出地が得ることが確認されています。しかし、奥三面遺跡群の縄文人たちはより良質のものを求めて、山形産のものを持ち込んでいたようです。





 磨製石斧の生産
元屋敷遺跡群のアチヤ平遺跡、元屋敷遺跡からは大量の磨製石斧の完成品、未成品が出土しました。未成品には、剥離段階、敲打段階、研磨段階の未成品が認められることから、磨製石斧を生産していたことが わかりました。
磨製石斧を生産する遺跡は、新潟県内では県西部と県北部で確認できます。県西部は蛇紋岩という特定の石材を使い、磨製石斧を生産しています。

 阿賀野川以北の磨製石斧生産遺跡
三面川流域のグループ アチヤ平遺跡・元屋敷遺跡・駒山遺跡・古四王林遺跡・熊登遺跡
  加治川流域のグループ 新発田市村尻遺跡・北平B遺跡・中野遺跡・上車野E遺跡・狐森遺跡・館ノ内遺跡・滝谷新田遺跡
  阿賀野川流域のグループ 鳥屋遺跡・六野瀬遺跡

 磨製石斧の遺産
元屋敷遺跡・アチヤ平遺跡で生産された磨製石斧は、地理的条件や山形県南部に磨製石斧生産遺跡が認められないことから、山形方面に出荷されていたと考えられます。
三面川下流域、日本海沿いの山形県地域にも流通が考えられるのですが、ほかの三面川流域生産遺跡の存在や加治川流域のグループからの流通を考えると、奥三面遺跡群殻は、日本海側には磨製石斧をあまり出荷していないと考えられます。



縄文時代の交通ルート
上に記述
搬入品の原産地
上に記述
石材別原産地 蛇紋岩製磨製石斧
元屋敷遺跡
アスファルト 
上に記述
奥三面遺跡群遺跡別黒曜石産地表  奥三面頁岩調査       
磨製石斧の生産
上に記述
元屋敷遺跡の
磨製石斧
阿賀野川以北の
磨製石斧生産遺跡
阿賀野川以北の磨製石斧生産遺跡

 435磨製石斧の製作 アチヤ平遺跡 約4000年前
磨製石斧の製作
縄文時代後期前葉
約4000年前
アチヤ平遺跡
荒割り 縄文時代後期前葉
約4000年前
アチヤ平遺跡
敲打 磨製石斧
ハンマー 多面体敲石 砥石 磨くための石。
主に砂岩が使われる。
溝が使用頻度を物語っている。
 436石器産地の遺物
蛇紋岩製磨製石斧
後期前葉 約4000年前
アチヤ平遺跡
黒曜石
新潟県新発田市板山産
縄文後期後半~晩期
約3500~2300年前
元屋敷遺跡
黒曜石
新潟県新発田産
山形県月山産
サメの歯
アクセサリーや権力の象徴として使われた物のようです。
フネガイ
貝製腕輪の部品と考えられる。海に近い集落との交易が行われていたのでしょう。
 437ベンガラ
ベンガラ
縄文後期前葉
約4000年前
アチヤ平遺跡

赤い色にするための素材。磨り潰して漆などに混ぜて使います。
ベンガラ
 438呪術具
緑泥片岩 国重文
アスファルトが付着した石匙
縄文後期後半~晩期
約3500~2300年前
元屋敷遺跡
アスファルトの塊 アスファルトを入れた土器
 439修復された注口土器 国重文
修復された注口土器 国重文
 

 440縄文全史年表
 441
縄文時代全史
人類誕生~縄文草創期 草創期
早期
早期前期
前期・中期
 442縄文中期
早期~晩期
ピンボケ
中期~晩期 中期
後期
晩期
弥生時代~

 443元屋敷遺跡の土偶 X線撮影
土偶は、人の形を真似たもので、乳房が付けられ、お腹が膨らんでいることから妊婦を表しているようです。
その役割ははっきりとしないのですが、縄文人の祈りを受け止める道具として使われたと考えられます。
本遺跡の土偶には、縄文時代後期前葉(約4000年前)のハート型土偶と後期後半(約3500年前)の山形と土偶、晩期(約3000年前)の遮光器土偶があります。
ハート型土偶は顔がハート形をしており、山形土偶はその特徴がT字形の繭と鼻として顔に現れています。遮光器土偶は大きな目が特徴的です。
特徴は違いますが、目的はほぼ一緒であると考えられます。

土偶エックス線写真 元屋敷遺跡の土偶
上に記述
 

 445土偶

 446ハート形土偶
ハート形土偶

 447山形土偶
山形土偶

 448土偶

 449遮光器土偶
エックス線撮影した土偶
 

 450縄文人の死と墓
縄文人の寿命は現代人よりはるかに短く、特に子供のうちに亡くなる人が多かったのです。小さい子供は土器の中、大人は穴に埋めるという違いがみられる遺跡もあります。ごく一部の人だけ大量のヒスイや漆製品と共に葬られることがありました。

縄文人の死と墓 写実仮面を結わえた墓 人類の平均寿命の比較 埋葬のいろいろ 縄文人の死と墓


 石棒類の謎
石棒、石剣、石刀をまとめて石棒類とした。石棒は磨製石器の一種で、男性のシンボルを表したとされている。石剣・石刀も大陸より伝えられた青銅器の剣に似ており、呪術や祭祀に関連した特殊な道具と考えられる。元屋敷遺跡から破片も含め、1331点出土している。そのうち、接合した9点を含め完成品は少なく15点である。大半は破損品か破片で、これらのうち熱を受けて変色しているものが破片全体の約56%あり、捨てられる前に火を受けたものと考えられる。
部位別では頭部が138点、端部が110点発見され、完成品と頭部を合わせた最小の個体数は153点となる。このうち胴部の径が5cm前後を境に、大別して大形石棒類は40点、小型石棒類は113点となる。
大型石棒類の石材は流紋岩質凝灰岩が4割以上を占めるが、他は多種の石材を使っている。小型石棒類は頭部113点のうち粘板岩が約8割を占める。
小型の石棒類の欠損したものの中には、転用・再利用したと考えられるものや頭頂部に穴があけられたものも見られる。また、石棒類の分布は居住域、墓域、配石域にまんべんなく発見され、一部には集中しているところも見られる。集中する地区の地層ではⅢb層の出土が多いことから、道路造成時に周辺の砂利を入れた際に混入したと考えられる石棒の破片は移動している可能性もあり謎が多い遺物の一つでもある。

 独鈷石・石冠・環状石斧
使い方の分からない不思議な石器、独鈷石・石冠・環状石斧などが元屋敷遺跡から他の遺跡の出土量に比べて大量に出土し、磨製石斧と同様に注目されている。
独鈷石は仏具の独鈷に形が似ていて、両端が細くなり、先が刃のようになっているものや尖っているものがあり、中央部が抉られていて握れるような形になっている。
石冠は冠に似ている形で、環状石斧は平べったい環状で、周辺部が刃のようになっているものが多い特殊な石器である。これら3種類の石器のどれも未成品が完成品よりはるかに多いことである。
独鈷石は完成品が10点、未成品が71点、石冠は完成品26点に対して111点、環状石斧は完成品5点に対して33点であった。

これらの製作工程や工具、石材なども磨製石斧にほぼ似ており、出土するところもほぼ一致していて、制作工房として機能し、これらの品は特産物となって広く供給されていたのかもしれない。

石棒類の謎
上に記述
石棒類の謎2

上に記述
土壙墓内からの石棒出土状況
独鈷石・石冠・環状石斧

上に記述

 451石棒・石剣・石刀

 石棒・石剣・石刀  国重文 元屋敷遺跡 約3500年前
男性器を模したとされる祭祀用の道具。棒状、両刃状、片刃状で呼び名が違う。 元屋敷遺跡

 石棒 国重文 元屋敷遺跡 約3500年前
円筒で端部に半球状の表現のある石製品。見た目から男性器を表現した道具と考える。
半期友情の頭部に文様が施される物、一部に彫刻されたもの、無文のものがある。
正確な使用方法はわからないが、折れているものが多いことから手に持って何らかの行動をしたと考えられる。
大型のものは特定の場所に設置した。 元屋敷遺跡 約3500年前

 石剣 国重文 元屋敷遺跡 約3500年前
楕円形の棒状の石製品。敲打によるくびれ部分がある。くびれ部は偏っている。
正確な使用方法はわからないが、墓内から出土したものがあり、威信材として手に持っていたと考えられる。
石棒同様、割れやすい石材で、折れているものが多い。 元屋敷遺跡 約3500年前

 石刀 国重文 元屋敷遺跡 約3500年前
片方の側面が薄くなる楕円形の棒状の石製品。薄い側面の反対側が反っているものがある。端部片側が半球状である。
正確な使用方法はわからないが、、威信材として手に持っていたと考えられる。
石棒同様、割れやすい石材で、折れているものが多い。  元屋敷遺跡 約3500年前

石棒
上に記述
石棒
石棒 石剣

上に記述
石剣
石刀 石刀

上に記述
石刀
石刀
石棒、石剣 石剣、石刀 石刀

 453独鈷状石器 国重文 元屋敷遺跡 約3500年前
仏具の独鈷杵(どっこしょ)のような形からの呼称である。棒状で両端が尖った刃部を形作る。中央が窪んでいる。
中央部を棒で挟み、つるはし、または両頭石斧としての使用が想定されるが、実際に使用された痕跡がない。
正確な使用方法はわからないが、、威信材として手に持っていたか、装飾として安置したと考えられる。
  元屋敷遺跡 約3500年前

独鈷状石器
上に記述

縄文人の死と墓

縄文人の死と墓

縄文人の死と墓
 455環状石斧 国重文 元屋敷遺跡 約3500年前
ドーナツ状の石製品。辺縁が薄く、刃を形作る。中央の孔に棒を差し込み、斧として使用することが想定されるが、実際に使用された痕跡がない。
正確な使用方法はわからないが、、威信材として手に持っていたか、装飾として安置したと考えられる。
  元屋敷遺跡 約3500年前

環状石斧
上に記述
 457石冠 国重文 元屋敷遺跡 約3500年前
三角柱を横倒しにしたものと半球状の台部に端部半球状の棒が載った形の石製品。
正確な使用方法はわからないが、底面が擦れたものがあることから、装飾として安置したと考えられる。
  元屋敷遺跡 約3500年前


石冠
石冠
上に記述
石冠
石冠 石冠
石冠 石冠 石冠
石冠
石冠
 

 470装身具
 471
 装飾品いろいろ
縄文人も今の私たちと同じように、いろいろ身を飾りました。元屋敷遺跡からは真っ赤に塗られた櫛や土製の耳飾りなどが見つかりました。
縄文時代の耳飾りには、いろいろな大きさと文様があります。耳たぶに穴をあける、現在のピアスと同じ付け方です。初めに小さいサイズのものから付けます。少しずつ穴を大きくし、きれいな文様の大きいサイズのものを付けたのでしょう。
他にも元屋敷遺跡からは、204点もの首飾りの玉がお墓(配石墓)の中から見つかりました。しかし、89基あるお墓のうち、13基からしか見つかっていません。

 元屋敷遺跡の土製品
国の重要文化財に指定された土製品は、土偶、耳飾り、腕輪、土版、土製玉、その他の土製品が挙げられます。

土偶について
 土偶は、人の形を真似たもので、乳房が付けられ、お腹が膨らんでいることから妊婦を表しているようです。
 その役割ははっきりしないのですが、縄文人の祈りを受け止める道具として使われたと考えられます。

耳飾りについて
 耳飾りは、その名が示す通り、耳を装飾する道具です。現在のピアス同様に耳たぶに穴をあけ、はめるものです。
 大きなものがはまれば立派な人だとする民族例から同様の役割が推測されています。

腕輪について
 腕輪は、土製のものは出土例が少ないです。貝製の腕輪を真似たものと考えられます。貝製のものは数個を重ねて腕に装着します。
 土製のものは重なった状態を表現するように線を何本も巡らしています。

土版について
 土版は、岩版と同様に紐通しの孔があることから身に着けるものと考えられます。役割ははっきりしませんが、
 お守りのようなものや玉類と組み合わせた装飾品とも推測されています。特徴として、小判形で、土器と同様の文様が施されます。

土製玉について
 粘土製ビーズで、石製の玉類と同様に首飾りなどの装飾品の一部です。石製の玉類ほどの魅力は感じられませんが、縄文人の装いとなって
 いたのでしょう。

装飾品のいろいろ
上に記述
縄文人の装身イメージ
耳に穴の開いた土製品
元屋敷遺跡の土製品
上に記述
元屋敷遺跡の土製品 元屋敷遺跡の土製品



 ヒスイの玉
元屋敷遺跡ではヒスイの玉が140点も見つかりました。一遺跡からの出土数では全国で2番目の多さになります。
ヒスイの産地は新潟県西部の姫川、青海川上流域に限られており、その下流には専業的に玉を製作したムラが見つかっています。
元屋敷遺跡の玉も、その地域からもたらされたと推定できます。ムラのリーダーのような人だけが身に着けることのできた、特別なものだったのでしょう。

 ヒスイ出土状況
ヒスイは、日本では新潟県糸魚川周辺を主体とし、新潟県南西部~富山県東部をその原産地としています。
これらは玉類 (小玉・勾玉・管玉・不定形垂飾など装飾品の一部、穿孔されていることから垂飾、首飾りなどの一部とされています) として全国に流通しています。
元屋敷遺跡においても玉類として持ち込まれており、全て製品として入ってきています。
玉類総点数287点中141点がヒスイでした。そのうち、98点がお墓である配石墓13基、土壙墓1基から出土しています。
他の遺構からは、配石遺構から3点、竪穴建物の覆土から3点出土しています。残り器包含層からの出土でした。

お墓から出土するものはまとまった形で見つかっています。首飾りの親玉、つまり勾玉など大きめのものと小玉が一緒に出土していました。
中心に親玉が来たり、数個の親玉を挟んだりする首飾りが想像されるが、出土した玉類は離れていたり、重なっていたりしたため、完全な復元は難しいようです。また、勾玉などの親玉がヒスイのものは13点、小玉がヒスイであるものは85点でした。

ヒスイの玉
上に記述
ヒスイ製品出土遺跡 ヒスイ出土状況
上に記述
お墓から出土した勾玉や玉類 異形土製品と小型土器出土状況

 472耳飾り

 473耳飾り アチヤ平遺跡 4000年前

 土製品 耳飾りアチヤ平遺跡 約4000年前
耳栓、所謂ピアスである。民族例や大小の存在から大きいものが装着できるほど、魅力的、または立派な人であることを示した。
儀式など特別な場合に盛装するため身に着けたアクセサリーと考えられる。
  アチヤ平遺跡 約4000年前

 石製品 耳飾り アチヤ平遺跡 約4000年前
耳に孔をあけ、はめ込む装飾品。ピアス
  アチヤ平遺跡 約4000年前

 石製品 玦状耳飾り アチヤ平遺跡 約4000年前
中国古代の玉器、玦に似たU字状のピアス
  アチヤ平遺跡 約4000年前
 
耳飾り 土製品 耳飾り
アチヤ平遺跡 4千年前
上に記述
石製品 耳飾り
アチヤ平遺跡 4千年前
石製品 玦状耳飾り
アチヤ平遺跡 4千年前
 474
 土製品 耳飾りアチヤ平遺跡 約4000年前
耳栓、所謂ピアスである。民族例や大小の存在から大きいものが装着できるほど、魅力的、または立派な人であることを示した。
儀式など特別な場合に盛装するため身に着けたアクセサリーと考えられる。
  元屋敷遺跡 約3500年前

土製品耳飾り
上に記述
※耳穴に挿入する耳栓タイプ
耳たぶに穴を開けてぶらさげるピアスタイプがあります。

 476腕輪

 土製品 腕輪 元屋敷遺跡 約3500年前
円筒状である。腕に装着した装飾品である。孔を結ぶように線が何重にも巡らされている文様は、貝製腕輪を幾つも装着した様を想像させる。内径が小さく、幼児や細めの女性が付けていたと考えられる。
儀式などの特別な場合に盛装するため身に着けたアクセサリーと考えられる。
  元屋敷遺跡 約3500年前

土製品腕輪
上に記述

 477玉類

 石製品 玉類 元屋敷遺跡 約3500年前
ヒスイや蛇紋岩などで作ったビーズやペンダントトップである。首、頭、手首、足首などに装飾品として身に着けた。
儀式などの特別な場合に盛装するため身に着けたアクセサリーと考えられる。
  元屋敷遺跡 約3500年前

石製品 玉類
上に記述

 478

 石製品 玉 元屋敷遺跡
装飾品。ビーズで首飾りなどの装飾品の一部。勾玉、管玉、玉類などがある。
  元屋敷遺跡 約3500年前

石製品玉
上に記述

 479土製玉

 土製品 土製玉 元屋敷遺跡
装飾品。ビーズで首飾りなどの装飾品の一部。勾玉、管玉、玉類などがある。
  元屋敷遺跡 約3500年前

土製玉
 

 480有孔石製品

 石製品 有孔石製品  元屋敷遺跡 約3500年前 国重文
石製ビーズやペンダントトップである。頸、頭、手首、足首などに装飾品として身に着けた。
儀式などの特別な場合に盛装するため身に着けたアクセサリーと考えられる。
  元屋敷遺跡 約3500年前

 481
有孔石製品
上に記述
 482
 石製品 線刻礫  アチヤ平遺跡 約4000年前
円盤状、三角などの板状の石に人体表現などを線で刻んだ石製品。護符として飾ったり、身につけたりしたと考えられる。
  アチヤ平遺跡 約4000年前

石製品線刻礫
国指定重要文化財
石製品線刻礫
上に記述

 483木製品

 木製品 竪櫛  元屋敷遺跡 約3500年前 国重文
木の皮や棒を組み合わせたものを土台に漆を塗り重ねて作った竪櫛、いわゆるヘアピンである。ベンガラで朱色となっている。
儀式などの特別な場合に盛装するため身に着けたアクセサリーと考えられる。
  元屋敷遺跡 約3500年前

 骨角器 かんざし  元屋敷遺跡 約3500年前 国重文
動物の骨でできたかんざし、いわゆるヘアピンである。哺乳類であるが詳しい種類はわからない。
儀式などの特別な場合に盛装するため身に着けたアクセサリーとも考えられるが、装飾性が低いことから日常的に使用したことも考えられる。
  元屋敷遺跡 約3500年前

木製品 竪櫛 国重文
元屋敷遺跡3500年前
竪櫛(複製)
福井県鳥浜貝塚出土
骨角器 かんざし
国重文 元屋敷3500年

 484異形石器

 石製品 異形石器  元屋敷遺跡 約3500年前 国重文
定形外の様々な剥片石器。実用的でなく、人形など象徴的なものが多い
  元屋敷遺跡 約3500年前
 484a
異形石器
 484b異形石器
異形石器
 

 485土版・岩版

 土製品 土版 元屋敷遺跡 約3000年前 国重文
小判形で孔があるものが多く、身に着ける道具、装身具と考えられる。
儀式などの特別な場合に盛装するため身に着ける、又は、護符・お守りと考えられる。
  元屋敷遺跡 約3000年前

土版 元屋敷遺跡
約3000年前
土版

 石製品 人面付岩版 元屋敷遺跡 約3500年前 国重文
縦長長方形の頁岩に浮き彫りした顔面表現のある岩版。顔のみで身体表現がない。
  元屋敷遺跡 約3000年前

岩版 元屋敷遺跡
約3500年前

上に記述
人面付岩版 人面付岩版

 486異形土製品
 

 486a異形土製品 元屋敷遺跡 約3000年前 国重文
遺跡から出土した際、小型土器に収まって検出された。偶然なのか意図的なのかはわからないが、小型土器と一緒にお供えされたとしたら、興味深い出土例である。
男性と女性の性的特徴が合わさったものと推測される形である。石棒などと同じ意味合いを持っていると考えられる。
  元屋敷遺跡 約3000年前

異形土製品 異形土製品
上に記述
異形土製品
 486b異形土製品
異形土製品
石製品
これは石製品が混じっています。
御物石器?
御物石器か石冠か
御物石器 異形土器と小型土製品

 487土錘

 土製品 土錘 元屋敷遺跡  国重文
漁撈具などのおもり。紐をくくり付けるための凹みがある。
  元屋敷遺跡


 488木胎漆器

 木製品 木胎漆器 元屋敷遺跡 国重文
木地に漆を塗り重ねた器。ベンガラを混ぜた漆で表面は赤い。
  元屋敷遺跡

木胎漆器
 


 490山元遺跡出土土器 弥生時代後期

 491山元遺跡の概要
山元遺跡は、周辺との比高差約40mの丘陵上に立地する日本海側最北の高地性環濠集落です。
山谷を隔てて集落域と墓域があります。集落域からは竪穴住居、掘立柱建物や環濠が見つかりました。
竪穴住居は6m×4mの楕円形で、ほぼ中央の床に火を焚くところである地床炉ありました。また、数本の環濠が標高34~37mラインで集落を囲うに見つかりました。
墓域からは楕円形の土壙墓が7基見つかりました。墓の中や周りからは、副葬品とみられる大量のガラス小玉や土器、石器、青銅製の筒形同製品、鉄器が見つかりました。
また、出土した弥生土器は東北地方のものがほとんどで、わずかに北陸の土器や北海道の続縄文土器が認められます。

今まで、ガラス小玉や青銅器などは北陸との交流によって県内の遺跡に持ち込まれていたと考えられていました。
しかし、本遺跡は高地性環濠集落という北陸地方からの敵に備えた集落です。使っている土器からも、北陸地方の人との交流の様子はほとんど見受けられません。しかし、ガラス小玉、金属器など北陸やより西の側の地域との交流が認められるのも事実です。北陸の人は敵であり、交流する相手だという矛盾が山元遺跡から伺えます。この複雑な状況が当時の「倭国大乱」という状況を表しているのかもしれません。
 北海道の土器も確認できることもあり、本遺跡は日本海側東北系土器圏の南端拠点として日本海側の海のルートにおける重要な役割を担っていいたのではないかと考えられます。
ここ村上の弥生人が縄文時代からの文化を背負いつつ、西から押し寄せる新しい時代と向き合っていた証がこの山元遺跡なのかもしれません。

山元遺跡の概要
上に記述
山元遺跡の概要2
上に記述
 492東北系土器
 食べ物の煮炊きに使われる道具。弥生時代後期(1900~1800年前) 山元遺跡
土器 甕(東北系)
 493東北系台付土器
台付鉢(東北系)
盛り付け用
弥生後期
1900~1800年前

 494北陸以西の土器

 土器 北陸以西の土器 山元遺跡
文様の形から近畿地方辺りと考えられる土器。日本海による海の道を窺がわせる。 弥生後期 1900~1800年前
  山元遺跡

近畿地方の土器
上に記述

 495続縄文土器
 土器 続縄文土器 山元遺跡 
器形・文様の形から北海道を中心に確認される土器。
北方との交流を窺がわせる。甕形で食べ物の煮炊きに使われる道具 弥生後期 1900~1800年前
  山元遺跡
 
 
 510山元遺跡
 511panel
山元遺跡 上空から見た山元遺跡 遺構配置図 山元遺跡から日本海方向を望む
住居域を取り囲む環濠
墓から見つかった埋設土器(蔵骨器)
左:小型鉄剣、
右:筒形同製品
ガラス小玉

 512遺物
 513山元遺跡1900~1800年前
環状石斧 山元遺跡 ドーナツ状の中心に柄を差し込む斧。武器説、実用斧説、儀礼道具説と諸説ある。
弥生後期
1900~1800年前
磨石類 山元遺跡
弥生後期
1900~1800年前
砥石
弥生後期
1900~1800年前
 514山元遺跡1900~1800年前
管玉 管玉
首飾りなどの装飾品の一部。
ガス小玉
畿内地方産
玉類
角玉
新潟で2件目です
 515山元遺跡1900~1800年前
アメリカ式石鏃
弥生後期
1900-1800年前
山元遺跡

ネイティブアメリカンの石鏃に似ていることから命名
スクレイパー
切ったり削ったり
楔形石器
木を割るクサビのような使用法が過考えられるが詳細不明。
 516山元遺跡1900~1800年前
石鏃 石錐
2次加工のある剥片 磨製石斧
 517発掘調査風景
 
  ※以下は同博物館が行っていた企画展です。
 


 700企画展「縄文クッキング」 縄文人の食生活に迫る

 701趣旨説明
令和2年度夏・秋の企画展は、「縄文クッキング~縄文時代の食生活に迫る~」と題し、市内、県内の出土品から縄文人の食に関わる遺構、遺物を紹介します。
ここでは、主に奥三面遺跡群元屋敷遺跡からの遺構、出土品を中心として、縄文人がどのような食に関わる活動をしていたのかに迫ります。
遺跡に残された植物、動物の骨、土器に残された痕跡、様々な器、食品加工に関係ある道具、調理施設などから縄文人が動植物を食べるためにどのような工夫をしていたのかを解き明かしていきます。
縄文人の食に関する一部分ではありますが、縄文人がどのようにして食べ物を獲得し、調理、盛り付けといった食生活を営んでいたのか、どうぞご覧ください。

 縄文カレンダー
元屋敷遺跡出土の動植物から推測した一年間、季節ごとに狩猟・採集できたであろう食料暦カレンダーです。季節ごとに様々な動植物が手に入ります。
元屋敷遺跡で出土した動植物を当てはめると、
春は、クマ、カエル、ウグイ。
夏はコイ、イワナ、マス。
秋は、クリ、トチ、クルミ、ヤマブドウ、サンショウ、タヌキ、キツネ、カモ、ヒヨドリ、サケ。
冬はノウサギ、カモシカ。以上の動植物が季節ごとに入手されていたと推測されます。

また、出土しませんでしたが、ハチノコのような昆虫、ハチミツ、アサツキ、ヤマイモ、キノコ、アケビ、山菜といった現在も食される動植物を食べていた可能性が高いです。
他にも、海岸部では、タイ、スズキ、クジラ、アザラシ、カキ、サザエ、アワビなどが捕られており、干物のとして山間部にも持ち込まれていた可能性があります。なかなかに豊かな食生活をしていたようです。

※ヘビも近現代まで食材でしたが、ここ最近の現代人の風潮に配慮してか、記述されていません。

趣旨説明

上に記述
縄文カレンダー 縄文カレンダー
上に記述
 

 710縄文人の食べたもの
 711縄文人の食べたもの
奥三面遺跡群元屋敷遺跡は縄文時代後晩期(約4000~3000年前)の遺跡です。遺跡からは、動物の骨や植物の皮などが出土しました。
植物の中でも食べられるものとして、トチノミ、クリ、クルミ、オニグルミ、サンショウ、ドングリ類、ブナ、マメ科、ミズキが出土しました。
動物はツキノワグマ、カモシカ、イタチ、アナグマ、キツネ、タヌキ、イノシシ、シカ、カエル、ムササビ、ヘビ、ヒヨドリ、ガンカモ科、サケ科、イワナ属、コイ科が出土しました。
トチノミ、クリ、クルミは大量に出土しました。乾燥させて保存できる木の実は雪深い奥三面遺跡群では大切な食料であったと推測されます。
動物では、大型であるクマの骨が多く出土しました。
カモシカは、臼歯の成長線から冬に捕っていたこともわかりました。また、動物の骨は焼けたもので、火を通して食べていました。


 植物遺存体 元屋敷出土
縄文人の食べたもの
上に記述
サンショウ
ミズキ
落葉高木ミズキの実。可食。ツキノワグマの好物。野鳥もついばむ
マメ科
ツル性マメ科の実。可食だが、中には毒性のものもある。
ブドウ属
ツル性落葉低木ブドウの実。日本のブドウ属はヤマブドウなど数種類ある。生食もできるが、飲み物に加工された可能性が高い。
ブナ
落葉高木ブナの実。見の中の胚乳に渋みがなく、脂質が豊富で生食もできる。
ドングリ類
落葉高木ブナ科の実。形からナラやカシか。生食可能なものもあるが、ほとんどはアク抜きが必要。現代でも食べる地域がある。
クリ

落葉高木クリノキの実。生食も可能。
トチノミ
落葉高木トチノキの実。デンプン、たんぱく質が豊富。アク抜きして食用となる。
オニグルミ

落葉高木オニグルミの実。
堅い殻を割った仁の部分を食べる。脂質、ビタミン、ミネラルが豊富。

 712動物遺存体
サケ科
サケ目の魚類。
シロザケ、サクラマスなど
コイ科
コイ目コイ科の魚類
コイ、フナ、ウグイ等
ヒヨドリ雑食スズメ目ヒヨドリ科の小型鳥類 ガンカモ科

雑食カモ目鳥類
カモ、オシドリなど
カエル

雑食両生綱無尾目の両生類
ヘビ

肉食爬虫鋼有隣目ヘビ亜目の爬虫類
キツネ

肉食コ目(食肉目)イヌ科イヌ亜科キツネ属の
中型哺乳類
タヌキ

イヌ科タヌキ属の中型哺乳類
アナグマ

イタチ科アナグマ属の中型哺乳類
イタチ

肉食 イタチ属の小型哺乳類
ムササビ

草食 リス科ムササビ属の子形哺乳類
ノウサギ
草食 ウサギ科ノウサギ属の小型哺乳類
シカ
草食シカ科の大型哺乳類
イノシシ
雑食ウシ科の大型哺乳類
カモシカ
草食ウシ科の大型哺乳類
ツキノワグマ
雑食クマ科の大型哺乳類

 713狩猟・採集具 元屋敷遺跡

 食べ物の集め方
元屋敷遺跡からは、狩猟具として石鏃(弓)、尖頭器(ヤリ)、石錘・土錘(網)、骨角器(ヤス)が出土しました。これらを使い、突き刺し、からめとって、鳥獣魚を捕えました。
また、縄文ポシェットと言われる小型のカゴが青森県三内丸山遺跡より出土しており、中にクルミが入っていたことから、植物の皮でカゴを編み、山菜、木の実、キノコなど採集物を入れていたと推測されます。

食べ物の集め方
上に記述
石鏃
骨鏃
尖頭器
土錘

画像を右回転しています
石錘
ヤス状刺突具 民具テゴ
 

 721深鉢土器の痕跡
煮炊き道具である深鉢の表面には火が当たり、ススがついています。吹きこぼれた痕もあります。内側には、おこげが遺されています。
また、すくった汁が垂れたような痕が残るものもあります。
おこげの跡が土器の下まで付いていることから、水分を煮詰めた調理法だったようです。

深鉢形土器に残る痕
上に記述
深鉢 外面の煤の痕と内面のおこげの痕が表裏で同じような位置にある。 深鉢
深鉢
深鉢
吹きこぼれた痕がある
外面の煤の痕と内面のおこげの痕が表裏で同じような位置にある。 外面の煤の痕と内面のおこげの痕が表裏で同じような位置にある。

 723縄文人の調理器具
現在のキッチングッズで考えると、包丁に当たるのが石匙です。つまみのある万能ナイフです。様々な食材を切るのに使いました。
動物、魚、キノコなどをさばきました。
鍋は、深鉢形土器です。煮炊きする道具です。火にかけられて、表面にはススの痕、内側には煮炊きした食べ物のおこげの痕がついています。
出土する深鉢のなかには吹きこぼれの痕もあります。
他に、石皿、磨石類があります。石皿は台で、磨石類で潰、したたき、砕きます。石皿は使用され、すり減っています。磨り石類は、磨り潰すとすべすべの痕があり、たたいたり、砕いたりするとボコボコの凹んだ痕が残っています。

肉、クルミ、クリ、トチノミを磨り潰し、クルミの殻、クリ、トチノミの鬼皮を叩いて中の実を取り出します。
残った道具から、縄文人は焼く、煮る、ゆでる、和えるといった調理法で料理したようです。

 食に関する遺構
食に関する遺構には、キッチンである炉の他に、水場遺構、貯蔵穴があります。
水場遺構には、イネ科植物を敷き詰めてあり、クリやクルミ、トチノミなどを水にさらして、アク抜きや虫殺しといった食べるための下処理をしていた場所です。
また、貯蔵穴とは、木の実など食物を貯めておくための穴です。
フラスコ状土坑は、地表面は小さく、中を広く断面が実験器具のフラスコのような形からの名称です。

 縄文人のキッチン
縄文人の住居である竪穴建物内には、「炉」という施設がありました。照明、暖房と調理施設という役割がありました。

炉には、ただ地面に火を焚いた、焚火の場所である地床炉、
焚火の場所を石で囲んだイロリのような石囲炉、
石囲炉内に土器片を敷き詰めた土器敷炉、
石を敷き詰めた石敷炉、
炉内に土器を埋め込んだ土器埋設炉、
石敷き路と土器埋設炉を組み合わせた複式炉などがあります。

これらの炉に薪で火を焚き、土器を置いて調理しました。土器と火の距離を調節する目的やイロリのように灰を敷き、串焼きやクリなどを灰に埋めて焼くといった目的から囲炉裏などいろいろな炉が作られたと考えられます。
火を上手に扱って、おいしい食べ物を調理するために、炉に様々な工夫をしました。

縄文人の調理器具
上に記述
食に関する遺構
上に記述
クルミ塚 剥かれた栗の果皮 ナラガシワ果実が出土した土坑
トチの果実が詰まった穴
フラスコ状土坑上面 フラスコ状土坑断面 水場遺構の全体
元屋敷遺跡
岩版を刳り抜いた水場遺構 イネ科植物を敷き詰めた水場
縄文人のキッチン
上に記述
石囲炉 複式炉

 724石器
多孔底土器
果実などを濾して液体を下の器に移すための濾器
多孔底土器 石匙

万能ナイフ。持ちやすいようツマミが作ってある



 砕く・擦る.粉にする
石皿を台にして、磨り石類で叩き、磨り潰すという下準備がされていました。
トチノミ、クリ、クルミ肉を磨り潰して、粉にしたり、ペースト状、ミンチ状にして、パン、クッキー、ミートボールといった料理になったと推測されます。

石匙
磨石類
砕く・擦る.粉にする
上に記述
石皿
石皿
 

 730盛り付け皿

 731縄文人が盛り付けた器 分谷地A遺跡
土器は縄文時代中期中頃(約4500年前)からその種類が増えます。
食器と考えられる土器は、鉢、浅鉢、台付鉢、皿、注口土器、などが挙げられます。
これらは、土製だけでなく、もともとは木製品や漆製品だったと推測されます。

深鉢で煮炊きした料理は、アツアツでしたから、、手のひらや木の葉では火傷するので、盛り付け用の器が必要とされたのでしょう。
木製から土製への変化は、装飾性の高さから推測できます。火焔型土器などに見られる装飾は木製品では再現が難しいです。
ではなぜ装飾性の高い器が必要だったのでしょうか。おそらく「おもてなし」のためです。
神・精霊・先祖などの目に見えない存在や他の家族、他の集落の人といった他人と一緒にごちそうを食べるためにも見た目のいい器が必要だったと考えられます。特別な器がごちそうの一部だったのでしょう。

縄文人が盛り付けた器

上に記述
漆塗り水差し
分谷地A遺跡
漆塗り水差し
分谷地A遺跡

木製の片口に漆を塗った道具。液体を注ぐ道具。中から様々な木の実の欠片があり、お酒のようなものが入っていた。
朱漆塗り水差し
分谷地A遺跡
朱漆塗り水差し
分谷地A遺跡


  漆塗り水差しの中身
分谷地A遺跡出土
漆塗り水差しの中身
胎内市分谷地A遺跡出土
ニワトコ

落葉低木ニワトコの実
現在では焼酎漬けにして果実酒の材料になる。
サルナシ

ツル性落葉低木サルナシの実。別名コクワ
キウイのような味で生食する。
ヤマブドウ

つる性落葉低木ブドウの実。日本のブドウ属はヤマブドウなど数種類ある。生食もできるが飲み物に加工された可能性が高い。
※これらの果実を入れておくと、自然酵母で発酵して酒を醸造したと言っているようだ。

 732注口土器 元屋敷遺跡
注口土器 注口土器
注ぎ口の付いた壺状の器。酒や精力剤のような液体を注ぐ道具
注口土器 注口土器

 733浅鉢
浅鉢
盛り付け用の器

 734壺・鉢
壺 国重文

木の実などの貯蔵や液体を注ぐ道具


盛り付け用の器
鉢 重文

煮炊きしたススコゲが付着している


盛り付け用
 
 740

 741高坏 元屋敷遺跡
高坏 元屋敷遺跡盛り付け用

 743台付鉢

盛り付け用
台付鉢 台付鉢 台付鉢 台付鉢

 744特殊装飾土器
片口土器
元屋敷遺跡
片口土器
単孔土器
単孔土器 単孔土器
胴下部に丸い穴のある壺。孔に栓をして飲み物を醸造したか、穴にストローを指して液体を注いだと考えられる。
注口土器

 745


木の実などの貯蔵や液体を注ぐ


 
皿の底面
 

 750木製品

 752箆状木製品
しゃもじ状木製品
ヘラ状木製品
新発田市青田遺跡
杓文字状木製品
 杓文字形木製品。土器で煮炊きしたものを掻き混ぜたり、肉や粉を練り合わせる際に使用した。
箆状木製品
 先端が箆状に加工された道具。掻き混ぜる棒の庸で、アイヌのイクパシイ(棒酒箸)のように趣がある。

 753柄杓
柄杓状木製品(未成品)
ひしゃくじょう
新潟市御井戸遺跡
木製ひしゃく未成品
ひしゃくのつぼ部分

柄を取り付け、煮炊きしたものをかき混ぜ、すくって盛り付けた
新潟市御井戸遺跡
出土木製品
把手付皿(未成品)
盛り付け用
把手付木製品(未成品)
盛り付け用

 755把手付容器
把手付容器(未成品)
新発田市青田遺跡

盛り付け用・注ぎ用
 
 
 800縄文広場
 801縄文広場の概要
博物館展示棟

この辺り縄文の道が続いているはずですが

今はもう生い茂る草の中に隠れています。

こちらには小川が流れ、水場があるようです
 来館時に館長が草刈りをしておられました。
予算も少なく来館者も少ない、しかし、重要資料の有名館です。
 草を生やすわけにはいかず、客が来なくても企画展はしなければならない。
 維持していくには大変な努力と、労力と根気がが必要です。
 802
この縄文広場は、アチヤ平遺跡、元屋敷遺跡の発掘調査の成果を基に縄文時代後期前葉頃(約4,000年前)の集落を再現しました。
集落は環状集落と呼ばれるもので、配石遺構を中心に住居や建物が環状に配置されています。
集落内を流れる小川は、木の実の加工や生活用水に利用し、小川に沿って砂利敷きの舗装道路が作られていました。

縄文広場
上に記述
縄文広場
住居 アチヤ平遺跡から検出された縄文時代後期初頭(約4,000年前)の敷石住居跡を元に復元しました。
いわゆる柄鏡型住居と呼ばれるもので、、特別な住居であった(共同施設、首長の住居、祭殿等)と考えられます。
縄文の道 元屋敷遺跡上段から検出された幅2~2.5m、長さ約40mに及ぶ砂利敷きの舗装道路。
両側縁を平石で区画し、中に砂利を盛っています。
環状配石 アチヤ平遺跡から検出されたもので、石の重量は約6トンに及びます。
精神文化を表現したモニュメント、祭祀の場と推定されます。
水路・水場 元屋敷遺跡からは、石で護岸工事がされた水路と水場が見つかっています。
トチの実などの水さらしや、石斧づくりなど様々な生活用水として利用していました。
掘立柱建物 4本あるいは6本の主柱で構成され、長方形状を呈します。
小型のものは住居や倉庫、大型のものは集落の共同施設、祭殿等の可能性が考えられます。

 803環状配石
※これと同じ墓地形式が現代まで続いていました。
※この配石墓はアチヤ平遺跡のものを、おそらく、移設したものと思われます。重量6トン。縄文時代後期初頭約4千年前のものでしょう。
記述によると、縄文時代の終焉と共に朝日の縄文集落は消滅し、中世室町時代になって移住してきた人々によって新たに始まったムラとある。

千年もの間、人跡の途絶えた朝日連山の最奥部に生活を始めた人々にしては、あまりにも朝日村縄文人の生活と酷似している。
構造主義哲学では、おそらく最も変化しにくいものに埋葬様式もあるだろう。ここにある環状配石募は廃村直前の朝日村の埋葬様式そのものです。縄文時代から続く埋葬様式を、葬送儀礼が仏式などにかわったとしても、そのまま続けている。

私の育った田舎では、江戸時代の名前などを彫った墓石がある一方で、山中にはないはずの丸い奇麗な川原石を持ち込んで墓石としたものもありました。しかし、石を敷き並べ、立て並べて配石墓にするという風習はおそらく中世以前に消滅しています。(古い墓ばかりの人が入れない山がありますがそんなものはありません。)

縄文の埋葬習慣が残っているのは、そればかりでなく、マタギの伝統技術以外の狩猟言葉など、縄文時代との連続性を感じさせものです。


 804掘立柱建物
※以前は案内板にあるような、いろいろな復元施設があったようです。どこでもそれらの維持は困難で、配石遺構と掘立柱建物が残っています。
しかし、かえってこの方が好都合で、未知の(大型)掘立柱建物の構造がよくわかります。
 石敷きであること。前室と後室があること。前室は方形の屋根掛けに対して平行に入口が設けられ、後室は90度回転して立てられています。
きっと二つの建物の合わせ目からは雨漏りがしたでしょう。

 このような複合的な掘立柱建物は初めて見ました。豪雪地帯のこの地域特有のものなのか、それにしても全国的にも珍しいと思います。
石敷きは、そばに小川が流れるような湿地なので、必要だったのでしょう。かなり雨や水に弱い、雪に弱い構造のように思えます。
 別に復元住居(現在は消滅)があったようですから、居住目的ではない建物だったようです。祭殿と言ってましたが、、、


この部分から雨漏り