新潟の縄文 3 2020.09.25-2
藤橋歴史の広場 新潟県長岡市西津町4157-1 0258-46-8441 月休撮影可
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交通 |
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レンタカー |
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長岡駅Fバス乗り場「ニュータウンot歴史博物館行」で「技大前」下車徒歩5分
長岡駅Bバス乗り場「小国行」で「富岡」下車徒歩5分 |
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特徴 |
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掘立柱建物、平地式建物の復元展示館
ですが、このような建築構造の平地式建物は初めて見ました。 |
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目
次
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01屋外復元建物
20遺構展示館
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100歴史館
110復元住居
120藤橋縄文人のあらまし
121藤橋ムラのようす
122藤橋縄文人の生活
130藤橋遺跡出土品
140荒れ果てたムラ
150藤橋遺跡出土品
151藤橋周辺の遺跡
153石器
155土製品
160玉作のムラ
161藤橋の玉類
162縄文時代のアクセサリー
164藤橋遺跡の鏃
167石斧 |
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170発掘調査
190調査の結果
191柱穴の構造
192建物の復元
193藤橋歴史の広場
194年表 |
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藤橋歴史の広場
縄文晩期の集落遺跡。掘立柱建物のある集落。 ヒスイや滑石製の玉を作ったムラ。 |
01屋外復元建物 2500年前 縄文晩期
縄文の家
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今から約2500年前の縄文時代の終り頃の住居を3棟復元しました。いずれも掘立柱の建物で、2棟は高床式で、もう1棟は平地式住居です。
縄文時代の住居は半地下の竪穴式住居と考えられていましたが、最近の研究から4000年前頃に掘立柱の建物が出現し、
藤橋では一般的な住居になったことがわかってきました。 |
駐車場から見る館
雨の駐車場からは、ぬかるんだ草原を抜けないと館にたどり着けない |
復元住居
棟持ち柱が特徴的
他では見ない構造 |
積雪地であるための工夫なのか。出入りに不便だと思うが。 |
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高床式住居 |
平地式住居 |
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20遺構展示館 (大小二棟分の柱穴が重なっていたため、大家屋の内側に、小家屋を再現)
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本館では、縄文時代の柱穴を発掘されたままの状態で展示しています。何度かの建て替えが行われたらしく、多くの柱穴が重なり合っています。ここでは大小2棟分の住居跡を復元しました。
小形の1棟は、透明なアクリルのパイプでおおよその骨組みを復元してみました。また、大型の物は柱穴の位置に実際に柱を立て並べてみました。ただし、大型の住居跡はこの展示館には収まらず、東側の5本の柱は展示館の外に出ています。尚、当時の住居の様子は「縄文の家」として屋外に復元してあります。 |
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同じところに多数の穴
周囲に建物があり、位置が変えられなかった |
打製石斧での穴掘りは鉄器の何倍もも大変だったろう。 |
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柱穴の断面 |
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柱穴を壺足状に垂直に掘っている。棒の先に打製石器をつけて上から突いて掘ったようだが掘った土を上げるのが大変で、大穴を掘って中に入らないと、土があげられず、と深い穴は大穴になる。
効率が良いのは細長い溝状の穴にすると土が上げやすく、 深くも掘れる。
マッチョな縄文人は丸くて深い大穴を掘り、中に入って土あげをし、太い柱を建てたようだ。 |
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遺構展示館 上に記述 |
大型住居と小型住居 |
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柱穴の断面
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下図は実際に柱を立てた穴の断面です。今では柱は腐って残っていませんが、断面にその痕跡を見ることができます。
柱穴は大変大きく掘られていたことがわかります。深い穴に大きな柱をしっかり立てていることからも、高床式の建物であったことが頷けます。 |
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100歴史館 (遺物展示館)
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101入口展示
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栃の実があちこちで干してあった。 |
栃の実は渋が強く、簡単には食べられない。何度も渋抜きが必要。
そんなに苦労してでも食べるのは、この実の粉末を添加すると澱粉質が硬くならないなどの利点があったといわれている。
関西では珍しいトチの実ですが、新潟県では多いのでしょうか。それとも縄文の里山を復元する中で、たくさん植えられたのでしょうか。
トチ餅はおそらく穀物栽培(弥生)以降の食べ方です。縄文時代にはどのように食べていたのかはわかっていない。 |
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110復元住居
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椎の実 |
栃の実 |
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鮭の干物
塩引き鮭だが、大量に塩が入手できたのか。 |
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120藤橋縄文人のあらまし |
121藤橋ムラのようす
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藤橋のムラが営まれたのは、今から3000年〜2300年前の昔で、約1万年に渡って続いていた縄文時代が終わろうとする縄文時代晩期です。
ムラは信濃川が作り出した河岸段丘上にあります。ここは東側に開けて日当たりもよく、また、水の便もよく、周りには動植物が沢山いたと思われる野山が控えています。この自然の豊かな恵みを受けて生活する縄文人にとっては絶好の場所であったと思われます。
発掘調査により、当時の住居は高床または平地式の掘立柱建物であったと考えられます。それは、数本の柱を四角形に建て、丸太で骨組みをし、
切妻(山形)の屋根をかけて造られていました。
なお、屋根の両端に強風などによる建物の横ブレを防ぐために、棟持柱と呼ばれる大きな柱を設けていました。
藤橋にはこうした建物が数件並んでムラを作っていたと思われます。そして、調査ではまだ明らかにされていませんが、ムラの中央には、祭りや共同作業の場としての広場があったと考えられます。 |
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122藤橋縄文人の生活
〈住まいのようす〉
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一つの部屋に家族数人で暮らしていたと思われます。身近な生活道具をつくったり、衣類などに使用する編み物をしたり、また、秋の終りにかけては厳しい冬場に向けての準備が行われていたかもしれません。
発掘調査では明らかにできませんでしたが、家の中では粘土を厚く敷いた囲炉裏のようなものを置いて冬の暖をとったり、煮炊きなどをしていたと考えられます。 |
〈狩〉
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狩猟は主に晩秋から冬にかけて行われていたと考えられます。シカやイノシシなどの大きな動物や、ウサギや小鳥などの猟にも、弓矢は大変役立ったことでしょう。動物の肉は大切なたんぱく源でした。また、川ではフナ・コイなどの小魚を獲ったり、鮭が遡上る季節にはサケ漁が盛んに行われ、干物にして保存していたとも考えられます。また、ムラびとが協力してとった獲物はそれぞれの家族に公平に分配されていたと思われます。 |
〈ドングリひろい〉
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ムラ人の主食はドングリやトチノミなどの木の実です。狩猟が男たちの仕事であったのに対し、木の実の採集は女性や子供たちの手によって行われていたと考えられます。こうして秋に採集された木の実は保存食として蓄え、これをアク抜きした後、石皿の上で粉状に磨り潰し、肉を混ぜて団子状にして食べていたと思われます。 |
〈収穫のにぎわい〉
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秋から冬にかけては木の実やサケ、動物が採れる収穫の季節です。ムラびとは野山の幸や川の幸など、豊かな自然の恵みに感謝したことでしょう。広場ではムラびとが集まって、収穫を喜んで、大宴会が行われていたかもしれません。 |
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藤橋縄文人の生活
上に記述 |
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住まいのようす |
ドングリ拾い |
狩 |
収穫のにぎわい |
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130藤橋遺跡出土品 |
131
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遺跡を発掘すると土器や石器などが出土します。それらは縄文人が実際に使っていた道具であり当時の人々の生活のようすがわかります。 |
〈土器〉
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粘土で形をつくり、600〜900℃で焼いた素焼きの器で、食べ物の煮炊きに使用された深鉢、食べ物の盛り付けやお供え用に使われた浅鉢、
食べ物や水をためておいた壺、ヤカンや急須の様に注ぎ口が付いた注口土器などがあります。
また、土器には様々な文様が描かれており、その文様や土器の形などから、それらが造られた時期がわかります。
ここから、藤橋にムラが営まれていた時代が縄文時代晩期であることがわかりました。 |
〈石器〉
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石器は使用目的に応じた石を割ったり、砥石で磨いたりして作ります。種類は大きく分けると、狩猟具・工具・調理具などがあります。
・狩猟具には、弓矢に使うヤジリ(石鏃)やヤリの先端に浸ける石槍、魚捕りの網の錘に使用する石錘などがあります。
・工具には、地面に穴を掘る打製石斧や木を切り倒す磨製石斧、その磨製石斧を磨く砥石や、毛皮や木に孔をあける石錐などがあります。
尚、藤橋遺跡からは多量のヤジリが出土しています。
・調理具には、ドングリやクルミなどの硬い殻をたたき割る凹石と敲石、ドングリなどを磨り潰して粉にする磨石と石皿、
動物の解体や調理ナイフとして使用されたと思われる板状石器や石匙などがあります。
※板状石器(新潟特有のものかも) |
〈土製品・石製品〉
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日常生活に関わる道具以外に、首飾りに使用した小玉などの玉類や土で作った耳飾りのほか、土偶・石棒・石剣・石冠・独鈷石などの祈りを込めた呪術道具と思われるものも出土しています。 |
藤橋遺跡の出土品 縄文後期前葉〜晩期後葉
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藤橋遺跡の出土品 |
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縄文の道具 |
浅鉢 |
深鉢 |
石鏃・石錐・石槍 |
独鈷石・石剣・石棒・石冠 |
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133
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注口形土器
縄文後期前葉 |
深鉢形土器
縄文晩期
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浅鉢形土器
(大洞A式前半)
縄文晩期後半
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深鉢形土器
(浮線網状文)
縄文晩期後葉 |
浅鉢形土器
(浮線網状文)
縄文晩期後葉 |
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135小型土器 縄文晩期
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140荒れ果てたムラ
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今から2300年前頃に西から米作りの文化が伝わってきました。
この事件はドングリやトチノミなどの採集や狩猟・漁撈でくらしてきた藤橋縄文人に大きな変化を与えました。
新しい文化が入ってくると同時に、人々は藤橋のムラを離れていきます。新天地を求めたのでしょうか。
藤橋のムラがなくなった直後、いまは尾立遺跡と呼ばれている藤橋の南隣に新しいムラができています。
藤橋の縄文人が移り住んだムラかもしれません。 |
原野になったムラ
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人々がムラを離れると、住まなくなった掘立柱建物は、雪の重みや雨風にさらされて屋根のカヤが抜け落ち、柱が腐るなど、徐々に住居は崩れ落ちていきます。そして、そこに残るのは、風に吹かれてたなびくススキ原になります。
その後ムラがあった地には枯れた植物や落ち葉などが積み重なり、永い年月津を経てムラの跡は土の中に埋もれていき、集落のあった面影はなくなってしまいました。 |
発掘とは・・・
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長い年月の間に土の中に埋もれてしまった昔の人々の暮らしのようすを掘り出します。
特に藤橋に集落が営まれた縄文時代ではまだ文字がなく、当時を伝える記録が全くありません。そのため、遺跡から発見される建物跡など施設や土器・石器などを手掛かりに、その頃の生活の様子を知ることができます。従ってそうした資料を見つけ出す発掘調査は歴史を知るうえで大変重要になります。
以後略 |
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荒れ果てたムラ |
原野になったムラ |
発掘とは・・・
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遺構確認 |
測量 |
遺構掘削 |
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150藤橋遺跡出土品 |
151藤橋周辺の遺跡
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藤橋の近くには、馬高遺跡、三十稲場遺跡及び岩野原遺跡の縄文中期から後期の大集落があり、またその周辺には、転堂遺跡・南原遺跡・雉子打場遺跡など縄文時代中期の中・小遺跡が分布しています。いずれも藤橋よりも古い時期のムラで、こうしたムラの人々が縄文時代晩期に藤橋へ移り住んで来たと思われます。
その後、藤橋のムラがなくなった直後の弥生時代には、南側の尾立に新しいムラが作られ、今度は藤橋からそのムラに人々が移住したと考えられます。
馬高遺跡は有名な「火焔土器」が出土した縄文中期の大集落跡、
三十稲場遺跡はさかんに玉を作っていたと考えられる縄文後期の大集落で、馬高・三十稲場遺跡として国の史跡に指定されています。
岩野原遺跡は、約4万uにも及ぶ大集落で、火焔土器のほか、藤橋遺跡と同じような掘立柱建物跡が発見されています。縄文中期
尾立遺跡は弥生中期初め頃の集落で、掘立柱建物跡が5棟発見されています。 |
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153石器 藤橋遺跡 3000年〜2300年前の縄文時代晩期
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154
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155土製品
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160玉作のムラ |
161藤橋の玉類
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藤橋遺跡では、多くの玉類が出土しました。玉の材料のひとつであるヒスイについては、糸魚川市の姫川周辺が産地として考えられています。
姫川周辺は日本有数のヒスイの産地で、各地の遺跡から姫川産のヒスイ製品が出土しています。おそらく糸魚川方面と藤橋のムラとの間にも何らかの交易があり、このような交易を通じてヒスイが持ち込まれたものと考えられます。
また、藤橋遺跡では作りかけの玉もあり、そのことからここが玉作の地の一つであったことが分かっています。 |
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玉作のムラふじはし |
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ヒスイ産地と藤橋 |
藤橋の玉類 |
玉製品 |
玉製品 |
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162縄文時代のアクセサリー
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164藤橋遺跡の鏃
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縄文時代の遺跡では多くの石製の矢尻が見つかります。藤橋遺跡で見つかる石鏃は形のバリエーションが豊富で、縄文時代晩期の様相をよく残している資料として知られています。
また、新潟県で見つかる石鏃には根本(基部)に黒いアスファルトが接着剤として用いられています。 |
バリエーションの豊富な石鏃
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165
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166石鏃
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167石斧
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168
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169
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170発掘調査の流れ
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180発掘調査
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190調査の結果 |
191柱穴の構造
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192建物の復元
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建物の復元によって、当時(縄文晩期)の様子を目で見ることができます。藤橋では掘立柱建物を3棟復元しました。
掘立柱建物の構造については、発掘によって発見された建物の柱穴を元に専門的な立場から充分に検討しました。また、建物の材料には当時生えていたと思われるナラやカヤなどを用いるとともに、できるだけ石器などを使用した場合と同じになるような加工をしました。なお、より現実的になるよう建物は発掘された位置に建てましたが、遺跡を傷つけないように土砂を入れて保護し、その上に建物を復元しました。 |
復元と復原 復元=新築する 復原=改造前の状態に戻すこと
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193藤橋歴史の広場
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藤橋歴史の広場 |
遺構復原展示館 |
内部 |
復元住居 |
歴史館 |
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194年表
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旧石器〜縄文中期 |
縄文草創期〜古墳 |
縄文後期〜古墳 |
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195栃の実
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