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 新潟の縄文 №6 2020.09.26-3

  なじょもん 津南町農と縄文の体験実習館

  025-765-5511月休撮影可
  新潟県中魚沼郡津南町下船渡乙835

交通 レンタカー
特徴 体験施設
 
※見て頂くポイント
 ①縄文草創期の土器についてのアプローチ 100~188
  これほど詳しく縄文草創期に迫った展示や解説はこれまで見たことがありません。
 ②企画展「千曲川・信濃川流域の縄文文化」 200~630
  ・縄文土器の成立に関わる千曲川-信濃川流域の縄文文化
  ・火焔土器の成立に強い影響を与えた、各地の土器の詳しい解説。

 私が最も望んでいた論文をよくわかりやすく図表や写真・実物土器を用いた解説です。
 
目次

10なじょもん外観
20入口展示
30火焔土器
31火炎土器
32王冠型土器
40アンギン編
41アンギンとは
42アンギンの歴史や素材
43アンギンの製作工程
44アンギン編
50土層壁
60トチノキの利用と習俗
 森と共鳴した縄文の心
61正面ヶ原A遺跡のトチ塚
62トチノキとトチの実
63トチの実を食べる
70土層模型
72石器
73火山灰
80動物
81ツキノワグマ
81ニホンジカ
83ニホンカモシカ
84ホンドギツネ

 常設展示(草創期を詳しく展示解説)

100土器の出現と縄文時代の幕開け
101長者久保・神子柴石器群
 長き論争の始まり -「本ノ木論争」-
110石器
112正面中島遺跡
113寺田上A遺跡
115本ノ木遺跡
118単独出土の尖頭器類

130草創期の土器

131小規模石器群としての活動痕跡
 出現期の土器 (Ⅰ-1期)
 隆起線文土器群の展開 (Ⅰ-2期)
 隆起線文土器群の石器群 (Ⅰ-2期)
 草創期の土器編年
140石器・土器
144出現期の土器

170草創期末の土器 (草創期後半)
171panel
 草創期後半における生活変化
  -定住的要素の初源-
 草創期後半における生活変化
  -定住的要素の初源-
 押圧縄文土器群の石器群
 草創期末の土器群とその構成(草創期末)
 本ノ木遺跡と卯ノ木南遺跡の遺跡間接合
 草創期後半のもう一つの土器

186石器・土器 草創期後半
187押圧縄文土器の用途

考察 鮭の遡上する・しない川
188石器 卯ノ木南遺跡

200企画展
「千曲川・信濃川流域の縄文文化」
201千曲川流域情報
210

日本一の大河「千曲川-信濃川」と縄文文化

211 1「千曲川―信濃川」概観
   千曲川-信濃川を取り巻く地形環境
212 2河川区分と流域様相
 (1)最上流域 -源流から佐久盆地へ
 (2)上流域 -佐久盆地と上田盆地
213(3)中流域 -大量の土砂を貯めた長野盆地-
 (4)中流域 -織りなす河岸段丘-
214 (5)下流域 -広大な平野を流れる-
2153千曲川―信濃川流域の気候区分と植生
 (1)千曲川-信濃川流域の気候
 (2)千曲川―信濃川流域の植生
216 (3)千曲川―信濃川流域の特性と生態

220『千曲川-信濃川』を取り巻く縄文文化
2211上流域に佇む2つの黒曜石鉱山
     -星糞峠と星ヶ塔-
 (1)星糞峠遺跡-和田峠系黒曜石原産地-
225(2)星ヶ塔遺跡-諏訪系黒曜石原産地-
228(3)黒曜石の利用と流通
2302千曲川-信濃川流域の石器石材環境
231 (1)千曲川-信濃川流域の石材環境
233 (2)千曲川-信濃川流域の石材利用
240石器
250星糞峠の採掘遺跡
251黒曜石
252台石
253加曽利式土器

2603変動する文化圏
 -土器形式圏を中心とした集団動態-
261(1)前期後葉 諸磯式併行期 -山と海の世界-
263(2)中期中葉 五丁歩・馬高式
   -絢爛豪華な土器群の世界-
265(3)晩期前葉 佐野式期
   -流域をつなぐ2つの土器群-

300Ⅰ火炎土器の成立前夜
301火焔土器の成立前夜
1火焔型・王冠型土器の表現と文様要素
2火焔型・王冠型土器の文様構造
302堂平遺跡 火焔型土器 1-2
305道尻手遺跡 火焔型土器 1-5
306道尻手遺跡 火焔型土器 1-6
307堂平遺跡 王冠型土器 1-7

320「初期火焔・王冠」土器の特徴
 -火焔土器と何が違うのか!?-
321panel
1火焔型・王冠型土器の成立前夜
2「初期火焔・初期王冠」土器の形・表現要素
3「初期火焔・初期王冠」土器の文様構造
4「初期火焔・初期王冠」土器の行方
330初期火炎土器と異系統土器の融合
331
1.異系統との折衷土器
2.大木系土器との融合
3.中部高地系土器との融合
4.「初期火焔」のみが融合する異系統性
340初期火炎土器と異系統土器の融合
345「初期火焔」とは、-火焔土器と何が違う-


400Ⅱ火焔前夜 五丁歩土器の世界
401五丁歩土器の特徴
1五丁歩系土器の発見
2 五丁歩系土器の特徴
3 五丁歩系土器の広がり
402土器展開写真
410五丁歩土器
430五丁歩土器と北陸系土器
431
1天神山式土器(北陸系土器)とは
2天神山式土器の特徴
3台付鉢形土器について
4道尻手遺跡の北陸系土器
432道尻手遺跡の北陸系土器
433五丁歩土器の成立を考える
1五丁歩系土器と千石原式土器
2五丁歩系土器と信州方面の土器
3五丁歩系土器の出自
435野首遺跡の五丁歩土器
436五丁歩と北陸
437野首遺跡の五丁歩土器
438五丁歩土器と北陸系土器
462五丁歩遺跡の成立を考える

500Ⅲ焼町土器の世界
502焼町土器の特徴
 -五丁歩土器との関係など-
1 焼町土器の名称について
2 曲隆線文を基軸とする千曲川上流域の土器
3 焼町土器の特徴
4 五丁歩土器との関係
511焼町土器とは
540焼町土器の波及
 -千曲川上流域から周辺地域へ-
1焼町土器の勝坂式土器文化圏への波及
2焼町土器新段階の中越への波及
3焼町土器古段階及び後続する段階の
   中越への波及
541焼町土器の波及
547堂平遺跡

600Ⅳ火焔前夜における大木式土器の世界
612火炎土器前夜の阿賀野川流域
   -屋敷島遺跡の様相-
615火焔前夜の阿賀野川流域
620信濃川上流域における大木8a式古段階
630大木式土器の波及

 企画展 終了

 一般展示室
700信濃川流域の火炎土器と雪国の文化
710津南町における大木系土器の世界
 地文を撚糸文とする大木系土器
 不思議な台形土器
 深鉢形土器の用途
730石器に彫刻された 礫造形
740苗場山ジオパーク
800博物館栽培の古代雑穀
 
 
 10なじょもん外観
  上面視はラグビーボール形をしています。
  円形や紡錘形の展示館は、大変展示がしにくく、また、展示が鑑賞しにくく、展示映えしにくい傾向にあります。


 ようこそ! 苗場山麓ジオパーク -台地と雪の恵みを知る旅-
 一帯は苗場火山の溶岩流や火砕流の分厚い堆積による火山性堆積物による地形です。 

 苗場山の激しい火山活動は、辺り一帯に大量の噴出物を堆積させ、分厚く、まるで毛布を被せたかのように覆いました。
その堆積原を魚野川~中津川が深く長く抉って渓谷を形成し、秋山郷と言われる全長30kmにも及ぶ長大な集落群を形成し
あまりの長さに、上流側を長野県栄村、下流側を新潟県津南町(六か村の合併)となり、豪雪地帯と絶景、そして、独特な文化で知られている。
 苗場山麓から流れ出る魚野川は中津川となり、信濃川と合流するが、豊富な伏流水は、魚野川の東側の山の上にいくつものダムとパイプラインで送水される水路式発電所が北へ北へと連なっている。

これら、苗場山を最高峰とするなだらかで広大な堆積高原が山稜を為し、山の上には広大な平地が広がり、その堆積原を深く浸食して最下流津南町で信濃川に合流する中津川によって削り出された苗場山麓の絶景と、人々が生きて活動してきた歴史の遺産が、観光スポットになっています。

 苗場山麓ジオパーク
見どころマップ     
➀河岸段丘展望台
マウンテンパーク津南
山伏山の風穴
 
龍ケ窪
石落し(柱状節理)
箕玉不動尊(参道脇滝山門の彫刻)
結東の石垣田
見倉橋(吊り橋)
布岩山(柱状節理崖)
大瀬の滝
天池
切明温泉(川原の湯)



 『企画展「千曲川―信濃川 流域の縄文文化」 火焔土器前夜の世界』は、
本来、体験学習館である「なじょもん」の常設展は、当然乏しく、子供への説明パネル程度で、写真材料になるほどではない。
今回、火炎土器の本場で、火焔土器前夜の企画展があると知り、見学した次第です。

 
 「なじょもん 農と縄文の体験学習館」 外観
なじょもん玄関 企画展ポスター
なじょもん 入口
 


 20入口展示

 30火焔土器 縄文中期中葉 約5500年前 道尻手遺跡(どうじって遺跡)
 31火炎土器 道尻手遺跡 約5000年前 中期前葉~中期後葉の巨大集落遺跡
   
火炎土器
道尻手遺跡出土
約5000年前

 32王冠型土器 道尻手遺跡 約5000年前
王冠型土器は、火焔型土器に類似しながらも大きな台形状の口縁を持っている特徴的な土器です。
この王冠型土器は、道尻手遺跡F6・F5区から出土しました。
口頸部と胴部の径は、さほど違いはなく、全体的に太い筒状になります。特徴的な台形状の把手は左右対称で、裏面に基本文様を施しません。
これらは真正の王冠型土器からやや逸脱する要素です。文様構成は、基本的に火炎土器と同様です。胴部上半に施された文様は、横位のS字状文です。
この横位のS字状文は区画面と連結せずに、単独で存在する特徴があります。口径は約31.8cm器高約52.0cmです。

王冠型土器
 道尻手遺跡
上に記述
 33
 

 40アンギン編


 41アンギンとは
アンギンとは、近世の妻有(新潟県妻有地方)でアンギン マギン・バドと呼ばれた編物であり、その総称が「アンギン」です。
このアンギンは、当地域に自生するカラムシ・ アオソアカソなどの植物繊維を利用した編み物です。
そのルーツは縄文時代に遡り、「衣」の源流とも言われています。
日本で初めてアンギンが発見されたところが津南町結東です。一つの「アンギン袋」の発見を契機に体系的な調査研究がすすめられました。
その推進者が津南町在住の滝沢秀一先生です。

私たちはこの貴重な縄文伝統である技術を滝沢先生から学び、未来へと伝承する目的で、
カラムシ栽培から採取、オカキ(繊維の採取)、撚り(糸つくり)、編みを経て、
アンギンの袖なしやコースターなどを製作しています。


※現在出土のアンギンは次の地点である。  引用「越後アンギンとは」雪国十日町 苧坂(カラムシ)
 北海道斜里町朱円遺跡(縄文後期)
 北海道小樽市忍路土場遺跡(縄文後期)
 青森県木造町亀ヶ岡遺跡(縄文晩期)
 秋田県五城目町中山遺跡(縄文晩期)
 山形県高畠町押出町遺跡(縄文晩期)
宮城県一迫町山王遺跡(縄文晩期)
福島県三島町荒屋敷遺跡(縄文晩期)
石川県金沢市米泉遺跡(縄文晩期)
福井県三方町鳥浜貝塚(縄文晩期)

アンギンとは
上に記述

コモヅチ(竿のこと)
コモを編む道具のこと
アンギン袖なし アンギンの帽子
たたみ・ムシロ・コモ・ダツ・タワラを編む方法で編まれていた
 42アンギンの歴史や素材
   文政11年に発見され、昭和28年に再発見される。
   カラムシ、アカソ、ミヤマイラクサなどの植物繊維からつくる。
アンギン発見の歴史
左:バトオビ
右上:ヒ、右下:サオ
サオに糸を掛けヒで綴ってバトオビを作る道具
苧掻きする女 アンギンの素材
カラムシ
アカソ
ミヤマイラクサ
 43アンギンの製作工程
カラムシがアンギンになるまで ➀カラムシ畑 ②カラムシの刈り入れ ③茎をひと晩流水晒し ④繊維の元、表皮を剥ぐ
⑤表皮の流水さらし ⑥繊維を掻く ⑦繊維の陰干し ⑧繊維を裂く ⑨繊維で糸を作る ⑩アンギンを編む
⑪雪さらし(オゾン漂白) ならんごしの会
 44アンギン編
文献紹介 津南町のアンギン 会員募集 活動紹介 津南町歴史民俗資料館
アンギン編
 
 50土層壁
※写真➀のように、②「土層壁」のパネルが、剥ぎ取り土層標本の上に置かれて、その解説のように見えますが、
書かれている内容は 「70土層模型」の解説です。そして、この剥ぎ取り標本は、「60トチノキの利用と…」の本物標本です。 まさかのフェイクです
➀土層壁
正面ヶ原A遺跡の土層
剥ぎ取り標本
②土層壁
下方に記述

正面ヶ原A遺跡
トチ塚
 

 60トチノキの利用とその習俗 森と共鳴した縄文の心

 61正面ヶ原A遺跡のトチ塚 縄文晩期:約3200年前
かつて、津南小学校の北東部に大清水から流れる「トンボ谷」と呼ばれる小川がありました。
その谷に隣接して、正面ヶ原A遺跡という縄文時代晩期の集落跡が見つかりました。

ここで示している土層壁は、その遺跡で発見された"トチの実"の内皮が大量に捨てられていた塚の断面を剥ぎ取ったものです。
集落内にある清水で発見され、おそらくそこではトチのアク抜きのための水晒しなどをおこなっていたと考えられます。
水晒し場遺構を示す木組みの構造物は見つかっていませんが、この近辺に存在していたことが想定されます。

正面ヶ原A遺跡のトチ塚
縄文晩期:約3200年前
上に記述
トチの実堆積層調査
正面ヶ原A遺跡
トチの内皮堆積層 出土種子
正面ヶ原A遺跡
 62トチノキとトチの実
 そもそも、トチの実とは何でしょうか。
 トチノキは、温帯の落葉広葉樹林を構成する高木で、5月~6月に花が咲きます。
 トチの実とは、このトチノキに生る実のことであり、初秋になると見られます。見た目はクリに類似しています。
 秋山郷見倉集落には、広大なトチノキの原生林があり、日本の巨木百選に選ばれてる巨木があります。
 古くから木材としても使われており、秋山郷の木工品には欠かせない材料です。
 また、トチノキの実は食用にもなり、秋山郷ではかつて主食でした。飢饉の際には、非常に重宝されたといいます。

トチノキとトチの実 トチノキとトチの実
上に記述
トチの花
トチノキ原生林
 63トチの実を食べる
 トチノキの実は渋いため、拾ってすぐ、そのままでは食べられません。煮て水にさらしたり(コザワシ)、灰合わせをしてアクを抜くなどして、やっと食べることができます。天日で乾かせば、保存食にもなります。
 正面ヶ原A遺跡でトチ塚が見つかったことから、トチの実は縄文時代から食用されていたことがわかります。秋山郷では今もなお、トチの実を食べる習俗が残っています。
 農と縄文の体験実習館"なじょもん"では、郷土料理である「トチあんぼ(粉にしたトチノ実を練って皮とし、中にあんこなどを詰めたもの)」を作る体験実習を行っています。(※ということは、トチの実は澱粉のようです。タンパク質のクリとは全く違いますね。)

 ※縄文時代には栃の実をどの様にして食べていたのかはわかっていません。現代では栃餅として弥生農耕の産物に混ぜて食べていますが、
 本当はどうしていたのでしょう。栃の実だけを食べるという調理はすたれてしまったようです。

トチの実を食べる
上に記述
モジリを使って
栃の皮をむく
栃の実を食べる方法 コザワシの方法 コザワシの方法漫画 コザワシの方法
未文章化
 
 70土層模型
 71土層壁
この壁は、土の堆積と遺跡の関係を模式的に表現した「土層壁」です。

人の足がある現 地表面が一番新しく、一番下に堆積している礫が、堆積順番で一番古いものです。
江戸時代後期のお経を入れた塚の下には、平安時代の住居跡があります。また、
江戸時代後期の塚の一部を破壊して、江戸時代末の墓場が作られています。
 平安時代の下には、弥生時代の住居跡があり、その下には縄文時代後期の配石墓が作られ、
その下には、縄文中期末のフラスコ状貯蔵穴が掘られ、隣接して中期後半の住居跡が構築されています。

 赤土はローム層と呼ばれており、その中に火山灰が含まれています。その火山灰が広域的に時計の役割を果たします。
津南町から発見されている旧石器は、その火山灰との関係から新旧に整理されています。
段丘面の基盤には、礫層が厚く堆積しています。これは古い川原で堆積した礫です。

この壁には、様々な要素が埋め込まれています。
この壁を見るのではなく、熟覧していただきたいと考えています。
どんな生き物がいるでしょうか? 季節はいつでしょうか?
ゴミが捨てられたのはいつでしょうか?
この壁から、情報を幾つ拾い上げることができるでしょうか。

 72石器
 73火山灰
火山灰
AS-K
浅間火山噴出物
15800年前
AT
姶良火山噴出物
約2.9万~2.6万年前
DKP
大山倉吉テフラ
約5万年前
ASO
阿蘇4火山灰
約9万年前
 
 80動物
 81ツキノワグマ 食肉目 クマ科
 東アジア北部、中国東北部、ロシア南東部、台湾、海南島、日本に分布します。国内では本州、四国、九州の落葉広葉樹林を中心に生息しています。
本州中部以北に生息していますが、九州では絶滅した可能性が高く四国でも絶滅寸前の状態にあります。
 体の長さ(頭胴長)120~150cm、体重60~150kgになります。毛色は全身黒色で、胸に三日月模様があります。この「月の輪」が名前の由来となっていますが、形は様々で全くない個体もあります。
 冬は穴ごもり(冬眠)します。越冬場所は大木の樹洞、岩穴などで、メスは冬眠中に1~2頭の仔を出産します。
 木登りが得意で、後ろ脚で立ち上がることもできます。
食べ物は雑食性ですが、植物性をとる割合が大きく(80%~90%以上)、奥歯(臼歯)が繊維質のものを嚙みこなすのに適した形となっています。
春は樹の若葉や草木類、夏はアリやハチノコなどの昆虫類、秋はブナやミズナラなどの樹の実を中心に食べます。
秋に見られるブナ、ミズナラ、クリなどの樹上の枝の塊は採食の名残で「クマ棚」「クマ座」などと呼ばれています。
 苗場山麓では、ブナ、ミズナラなどの堅果類が不作の年は人里に出没し、農作物に被害を与えることがあります。

ツキノワグマ ツキノワグマ分布図

 82ニホンジカ 偶蹄目シカ科
 ベトナム、中国東部、ロシア沿海州、台湾、朝鮮半島、日本に分布します。日本産亜種は、北海道から沖縄慶良間諸島まで分布していますが、生息する地域によって体の大きさに違いがあります。最大は北海道に分布するエゾシカで体重100kg以上、最小は屋久島に分布するヤクシカで体重30~50kgです。

 本州に分布するものはホンシュウジカと呼ばれていて、体の長さ130~160cm、体重40~90kgです。
 角は雄だけにあって、毎年3月頃に抜け落ち、4~5月に新しく生えてきます。4歳になると枝分かれした立派な角となります。寿命は15~20歳です。
毛色は夏と冬で大きく違っていて、夏毛は茶色に白い白点が散らばり、冬毛は灰褐色で白い点はなくなります。換毛期は5~6月と9~10月です。

 雄と雌は別々の群れをつくって生活します。出産期は5月下旬~7月上旬で、通常1子を産みます。雄の子は1~2歳で母親の元を離れますが、雌の子は母親の群に留まります。
 食べ物はイネ科の草、木の葉、木の実などで、冬季は樹皮や枝などで飢えをしのぎます。
 積雪の多い地域には生息できないといわれていますが、最近になって津南町周辺での目撃例が増えています。

ニホンジカ
 83ニホンカモシカ 偶蹄目ウシ科
 日本の固有種で、本州、四国、九州に分布してる。かつては「幻の動物」と呼ばれていましたが、昭和30年に国の特別天然記念物に指定されてからは、数を増やしています。ただ、中部以北では、個体数も多く、分布域も拡大していますが、中国地方では絶滅したと考えられ、四国、九州でも数は多くない。
 体の長さ(頭胴長)は70~85cm、体重30~45kgになる。角は雌雄にあり、外見から雌雄の区別は難しい。角は一生伸び続け、毎年節(角輪)ができる。角輪の数に1を足したものが、年齢だといわれていて、長寿なものは20歳を越えます。
 毛色は黒褐色、灰褐色、灰白色など変化がありますが、北方では白っぽい個体が、南方では黒っぽい個体が多い傾向にあります。
 単独生活するのが普通で、縄張りをつくります。出産期は5~6月で、通常1子を産み、約1年間母親と共に生活します。
 食べ物は木の葉や草が主で、冬季は樹皮や枝で飢えをしのぎます。日中は安全な場所で反芻はんすう(一度食べたものを胃から口に戻し噛み直して飲み込むこと)している姿を見かけることがあります。
 糞は1ヶ所にまとめてする習性があり、残雪期にはよく目だちます。苗場山麓では目にする機会が多い大型獣となっています。

ニホンカモシカ
 84ホンドギツネ
 
 


  常設展示



 100土器の出現と縄文時代の幕開け

 土器の出現と縄文時代「草創期」 -旧石器時代から縄文時代へ-
津南段丘における人類の歴史は、約30,000年前の旧石器時代から始まります。
その後、長い氷河期を経て約16,000年前に日本列島(青森県大平山元Ⅰ遺跡)で初めて土器がつくられます。
15,000~14,000年前頃になると、気候の温暖化が進行し、津南段丘でも縄文土器が出現します。

その頃の土器は「隆起線文土器」と呼ばれ、文様は簡素に施文されています。
そして、「押圧縄文土器」と呼ばれる縄で施文した土器が登場する12,00~11,000年前には、再び寒冷化が起こります。
この土器が出現してから約5,000年もの期間を、縄文時代「草創期」と呼んでいます。

この草創期は、旧石器時代から縄文時代への変化の過程と捉えられており、遊動的な生活スタイルから定住的な生活スタイルへと徐々に変化していきます。段階を追いながら、弓矢や磨石・石皿、竪穴住居などの、縄文時代に特徴的な要素が定着していきます。

これらの変化は非常に漸移的で、地域ごとに異なります。(したがって)
何をもって旧石器時代の終りとし、縄文時代の始まりとするのか、この基準は研究者間で異なっており、旧石器時代と縄文時代の線引きを一概に引くことはできません。
 101
 優美な槍と斧をもつ石器群 ―長者久保・神子柴石器群―
長者久保・神子柴石器群とは、重厚で優美な尖頭器と石斧を器種として組成し、基本的な石器製作技術に「石刃技法」を用いるのが特徴です。
細石刃石器群の次段階に出現するとされていますが、一部並行するとも考えられています。
津南段丘では、上記した定義に沿う遺跡は、正面中島遺跡の大型尖頭器石器群のみです。

おおむね同時期だといえる本ノ木遺跡尖頭器石器群寺田上A遺跡雨池A遺跡では石刃技法を用いていません。

長野県栄村横倉遺跡では、大型の木葉形尖頭器41点がまとまった状態で出土し、デポ(埋納)であることが示唆されています。
 (※栄村横倉は、津南町と共に秋山郷と言われる、同じ谷沿いのムラで、行政区分は違っているが、同じ文化圏・同じ谷筋のムラである。)
 (次に出てくる、飯山市・湯沢町も近所である。)
同じく長野県飯山市関沢遺跡では、雨池Aと類似した石器群が確認されています。
 湯沢町大刈野遺跡村上市樽口遺跡飯山市千苅遺跡では、大型尖頭器と細石刃が一緒に出土しています。

土器の出現と縄文時代の幕開け 土器の出現と縄文時代
「草創期」 -旧石器時代から縄文時代へ-
上に記述
優美な槍と斧をもつ石器群 ―長者久保・神子柴石器群―
上に記述


 長き論争の始まり― 「本ノ木論争」―
第1・第2次調査を契機に、本ノ木遺跡の帰属時期のみに留まらず、芹沢・山内両氏の"旧石器時代の終末から縄文時代の起源"に対する歴史観に差異が表出しました。これをめぐる論争を学史上では「本ノ木論争」と呼びます。縄文文化の起源に関する論争は今もなお終わりを見せません。

 単独出土の尖頭器
津南段丘の草創期遺跡群の中には、単独で石器が出土する事例や、土器や定型的な石器が伴わない非常に小規模な石器群が出土する事例があります。
堂尻遺跡では頁岩製と黒曜石製の資料が出土し、黒曜石は星ヶ塔産(長野県)です。

午肥原遺跡からは完形を呈する頁岩製の大型尖頭器が出土しており、中央部には抉りが加えられています。

尖頭器の身部に抉りが加えられる事例に、堂屋敷遺跡採集の大型尖頭器があります。本事例は、制作時における器面の剥離面と抉り部を作出する剥離面の風化度合いが異なることが指摘されており、木葉形尖頭器の廃棄後にしばらくしてから抉り加工が施されたことが指摘されています。

 単独出土の有舌尖頭器
単独で出土した有舌尖頭器は6点で、詳細な帰属時期は不明です。堂屋敷遺跡からは、非常に整った有舌尖頭器が出土しています。
器面を覆う右肩上がりになる斜めの剥離面が特徴で、「本州系RL斜行石器群」として本州・四国一円の表現だとされています。


長き論争の始まり― 「本ノ木論争」―
上に記述
単独出土の尖頭器
上に記述
単独出土の有舌尖頭器
上に記述
 
 110石器
 111
石器
 112正面中島遺跡 長者久保・神子柴石器群が含まれている。
正面中島遺跡 大形尖頭器石器群の
接合資料
大形尖頭器石器群の
不明石器
大形尖頭器石器群の
不明石器
大形尖頭器石器群の
不明石器
大形尖頭器石器群
上記説明によると

長者久保・神子柴石器群に該当する石器です

神子柴形石器 です!
正面中島遺跡の
大型尖頭器石器群
 113寺田上A遺跡
  形状はそっくりですが、石刃技法を使っていないので、神子柴形石器には当たらないのかもしれません。
寺田上A遺跡
掻器群
駒返り遺跡の表面採集資料 寺田上A遺跡の尖頭器石器群
寺田上A遺跡の尖頭器石器群
 115本ノ木遺跡 表面採集資料
  しかし、石刃技法を使うと以下のような優美な大型尖頭器が作れるのかな。
 原石から剥片を剥がしながら木葉形に仕上げるので、剥片技術ではないと思う。これらも、神子柴形石器ではないのだろうか。
本ノ木遺跡
表面採集資料
本ノ木遺跡
表面採集資料
 本ノ木遺跡
8-12次調査出土
 本ノ木遺跡
8-12次調査出土 
 本ノ木遺跡
8-12次調査出土 
 本ノ木遺跡
8-12次調査出土 
   
本ノ木遺跡表面採集 本ノ木遺跡表面採集 本ノ木遺跡表面採集
 118単独出土の尖頭器類 道下遺跡
単独出土の有舌尖頭器
六町尻ノ池東A遺跡
胴抜原A遺跡
屋敷田Ⅱ遺跡
大原北Ⅱ遺跡
赤沢城跡
堂屋敷遺跡

六町尻ノ池東A遺跡
胴抜原A遺跡
屋敷田Ⅱ遺跡
大原北Ⅱ遺跡
赤沢城跡
堂屋敷遺跡
道下遺跡採集の削器と
局部磨製石斧
単独出土の尖頭器
別当A遺跡
貝坂桐ノ木平C遺跡
正面ヶ原A遺跡南端部
単独出土の尖頭器
正面ヶ原A遺跡南端部
屋敷田Ⅱ遺跡
駒返り遺跡周辺
堂尻遺跡

単独出土の尖頭器 
越那B遺跡
大原北Ⅱ遺跡
貝坂桐ノ木平B遺跡  
 
堂尻遺跡
小坂平遺跡
午肥原遺跡
 
 


 130出現期の土器 (草創期)

 131小規模石器群としての活動痕跡
小規模石器群には、貝坂桐ノ木平B遺跡城原屋敷添遺跡堂屋敷遺跡が確認されています。
貝坂桐ノ木平B遺跡では、先刃掻器と呼ばれる大型の剥片石器と彫器が出土しており、頁岩を主要な使用石材としています。

城原屋敷添遺跡では、無斑晶ガラス質安山岩製の不定形剥片の辺縁部を加工した石器や、接合資料が出土しています。
近年発掘調査がされた堂屋敷遺跡では、不定形剥片の辺縁部を加工した石器群が、土器を伴わずに発見されました。

これらの小規模石器群は、大規模な本ノ木遺跡正面中島遺跡寺田上A遺跡雨池A遺跡等と比較した場合、
「活動領域内の「場」の使い分けを示唆するもの」として大きな意義を持ちます。

 出現期の土器 (Ⅰ-1期)
出現期の土器群は、縄文時代中期以降の装飾的な縄文土器と異なり、文様も施さない簡素な作りです。津南段丘においては、このような「出現期土器群」が未だ明確に発見されていません。
清津川対岸の壬遺跡(じんいせき)では、該期土器群の無文土器が出土しています。
屋敷田Ⅲ遺跡における無文土器片も、「出現期土器群」の可能性がありますが、確証はありません。


 隆起線文土器群の展開 (Ⅰ-2期)  (草創期初頭の土器)
縄文時代の初期に出現する土器で、器面に粘土紐を貼り付ける、もしくは器面に工具を引いて「みみず腫れ」状の細い隆線を施文する「隆線文土器」があります。非常にシンプルな土器であることがわかります。
津南段丘周辺で最も古い明瞭な土器はこの隆起線文土器群であり、屋敷田Ⅲ遺跡北林C遺跡胴抜原B遺跡で出土しています。

他にも、上原E遺跡や旧中里村の田沢遺跡・壬遺跡・久保寺南遺跡などで確認されています。該期には汎列島的に類似する土器群が展開する時期で、「隆起線文土器群」が雰囲気を変えながらも地域ごとに展開します。そのため、津南段丘内でも分布範囲が広がり、志久見川流域にまで及びます。
また、津南町堂尻遺跡魚沼市黒姫洞窟では、口唇部に自縄自巻原体を押圧した隆起線文土器が確認されています。非常に特徴的な資料です。


 隆起線文土器群の石器群 (Ⅰ-2期)
隆起線文土器段階の石器群は、旧石器時代から続いていた石器製作の伝統が消失する特徴があります。
いわゆる旧石器時代の特徴的な技法であった「石刃技法」が用いられなくなります。
しかし、久保寺南遺跡では大型尖頭器を主要組成とする石器群の中に、石刃技法による石器製作技術が認められます。隆起線文土器段階としては稀有な事例です。

屋敷田Ⅲ遺跡は、清津川左岸の低位段丘面上に立地します。珪質頁岩を主要石材とし、石器組成には有舌尖頭器半月型石器、打製石斧や石錐・石匙などが含まれます。また、字「屋敷田」からは、局部磨製石斧が採集されています

北林C遺跡は、志久見川右岸に立地します。無斑晶ガラス質安山岩を主要石材とします。石器組成は、不定形石器が主ですが、完成品で持ち込まれている局部磨製石斧とその調整剥片も出土しています。遺跡内で調整・加工を行っていることが わかります。

小規模石器群としての
活動痕跡
上に記述
出現期の土器
(Ⅰ-1期)
上に記述
隆起線文土器群の展開
(Ⅰ-2期)

上に記述
隆起線文土器群の
石器群(Ⅰ-2期)
上に記述



 草創期の土器編年
  縄文時代草創期の東日本の土器編年をこれほど詳しく書かれた図表は他に見たことがありません。
  草創期の土器と言えば南九州鹿児島県でよく発達し、研究がされています。詳細はキャプションないのでよくわかりませんが。

草創期の土器編年 草創期
Ⅰ-1期~Ⅰ-3期
草創期
Ⅰ-3期~Ⅰ-4期
草創期
Ⅰ-5~Ⅰ-6期
Ⅱ-1期
 
 140石器・土器
 141
 142
堂屋敷遺跡の石器群 貝坂桐ノ木平B遺跡の石器群 城原屋敷添遺跡の
石器群
 144出現期の土器
北林C遺跡の
隆起線文土器
屋敷田Ⅲ遺跡の
隆起線文と無文土器
上原E遺跡の隆起線文土器
堂尻遺跡の隆起線文土器
胴抜原A遺跡の爪形文土器
 146
北林C遺跡の石器群 屋敷田採集の
局部磨製石斧
屋敷田Ⅲ遺跡の石器群
本ノ木遺跡A地点
押圧縄文土器
 148
堂屋敷遺跡の
押圧縄文土器群
卯ノ木遺跡第2次調査出土土器群 卯ノ木南遺跡 土器底部 卯ノ木遺跡A地点
本ノ木遺跡の押圧縄文土器

卯ノ木南遺跡
 

 170草創期末の土器 (草創期後半)

 171panel
 草創期後半における生活変化 -定住的要素の初源-
当該期は、地域によっては竪穴住居跡が作られるようになり、定住的な生活を開始しています。本地域では、竪穴住居跡は未だ見つかっていませんが、卯ノ木南遺跡では群集するフラスコ状土坑(貯蔵穴)群が発見されており、堅果類などの計画的な貯蔵が行われていたと推察されます。また、調理施設と推測される集石遺構も確認されています。ただ、明瞭な集落跡が発見されていない点においては、基本的に移動を繰り返す回帰性のある生活で暮していたと考えられます。しかし、貯蔵穴はその土地への定着性を示す一つの要素であることから、生活スタイルは徐々に変化していたことが わかります。

 "縄"に魅入られた人々
約13,000年前には、土器の器面に"縄"を押し付けて施文する土器が登場します。「縄」というと、まず私たちが連想するのは結束や結縛をするための道具です。しかし、縄文時代の人々は縄を結縛具以外にも、土器に文様を施すための道具、いわゆる「施文具」として用いていました。それが、「縄文土器」と呼ばれている所以でもあります。縄文文様は、縄文時代草創期から晩期まで通して用いられ、一部では弥生時代にも用いられています。縄を使って土器に施文することが、象徴的な行為であったことが窺えます。

 押圧縄文土器群の石器群
押圧縄文土器群の段階は、前段の石器群の伝統を引き継ぎつつも、更に変化を見せます。その顕著な事例が「石鏃の定着」です。石鏃の定着は「弓矢の定着」とも捉えられ、狩猟対象の中・小型化がそれを促進させたと推測されています。

隆起線文土器段階まで認められた尖頭器類はほぼ組成されなくなります。しかし既述したように、本ノ木遺跡のA地点土器群と尖頭器石器群の帰属時期の関係が解決できないので、尖頭器類が組成されないとも言いえません。そのため、卯ノ木南遺跡第1・2次調査出土石器の一部の位置づけに関しては、課題と言えます。
押圧縄文土器段階にもいくつかの階梯が存在し、その階梯ごとに石器群の顔つきも異なっていたと想定できます。

 草創期末の土器群とその構成 (草創期末)
縄文時代草創期の末になると、縄文を押圧する手法ではなく、土器の器面に転がして施文する手法が採用されていきます。
津南段丘では該期の遺跡が希薄ですが、小千谷市元中子遺跡において、まとまった土器群が近年発見されました。
この一群は、関東地方で押圧縄文土器群と呼ばれる一群に近似する資料群で、今後魚沼地方での類例の増加が期待されています。

更に、草創期末には、「室谷下層式土器」と呼ばれる、特徴的な土器が出現します。
この土器は新潟県阿賀町室谷洞窟から出土した土器が標識とされ、青森県や静岡県などに広域的に分布する土器です。(多縄文系土器)
室谷下層式土器の類例は、津南段丘では堰下遺跡貝坂桐ノ木平C遺跡にて、小破片が確認されています。
また、室谷下層式土器には、土器器面に「正反の合」と呼ばれる特徴的な文様が施文されています。

 本ノ木遺跡と卯ノ木南遺跡の遺跡間接合
本ノ木遺跡の浸食谷に埋積する崩落礫層上部より出土した不定形石器と、卯ノ木南遺跡から出土した不定形石器が接合しました。これにより、類似する石器群と考えていた両遺跡は、遺跡間往来する関係にあることがわかりました。人々の具体的な行動が読み取れる貴重な事例です。
(すぐ近くです。同一集団の巡回・ローテーションする季節集落だったかもしれません。)

   草創期後半のもう一つの土器
本ノ木遺跡や卯ノ木南遺跡にも出土しましたが、該期には、「押引文土器」が存在します。
出土量は少なく、津南段丘では寺田上A遺跡、旧中里村では「おざか清水遺跡」にまとまって出土しています。
寺田上A遺跡の資料は、口縁部に押引沈線が2段で構成され、その下位には格子状の沈線が認められます。

草創期後半 草創期後半 草創期後半における生活変化―定住的要素の初源―
上に記述
"縄"に魅入られた人々
上に記述
押圧縄文土器群の石器群
上に記述
草創期末の土器群と
その構成
上に記述
本ノ木遺跡と卯ノ木南遺跡の遺跡間接合
上に記述
草創期後半のもう一つの土器
上に記述
 
 186石器・土器 草創期後半
 187
 押圧縄文土器は何を煮炊きしていたのか
土器の出現は、その性格上、煮沸用具と考えられており、その証拠として器面に煮こぼれの際に付着した炭化物が確認されています。
ただし、何を煮ていたのか? 即ち、食用対象物なのか、膠(にかわ)や毒、あるいは身体に塗る油などの非食用対象物を煮沸したのかについては不詳です。
吉田邦夫氏をリーダーとする研究チームは、津南町“なじょもん縄文ムラ”で、様々な想定対象物を土器で煮て、そこに付着する炭化物の形状や含有構成物質の分析を蓄積し、そのデータと実際の土器付着炭化物との比較研究を進めています。
その結果、卯ノ木南遺跡から出土した押圧縄文土器の付着炭化物からは、海産物を煮た可能性を示すデータが得られて織り、海から遡上した鮭を煮ている可能性が指摘されています。
また、黒姫岩洞窟出土土器に関しては、海産物を煮炊きした可能性は低いという分析結果も得られています。

※考察 鮭の遡上する川としない川
卯ノ木南遺跡 住所新潟県中魚沼郡津南町大字下船渡乙129-1ほか
黒姫岩洞窟  住所新潟県魚沼市堀之内130
大河信濃川沿いにある卯ノ木南遺跡には鮭が遡上してくるが、信濃川の支流、魚野川には鮭は遡上しなかったということか。
魚野川は、長岡市-十日町と六日町-魚沼市を褶曲でできた山地・魚沼丘陵を断ち切って流れており、これは褶曲山脈が形成される以前から
流れていた河川であり、300~100万年以上の歴史があり、鮭が遡上してもおかしくない歴史を持っている。
にもかかわらず、その魚野川河畔にある黒姫岩洞窟では、土器で鮭を煮た痕跡がないというのはおかしな話である。
鮭は、信濃川をもっと遡って、長野県側にまで遡っている。

押型縄文土器・無文土器
卯ノ木南遺跡
押圧縄文土器
卯ノ木南遺跡
押し型文土器と
無文土器
無文土器 押し型文土器 押し型文土器
押圧縄文土器は何を煮炊きしていたのか
上に記述
土器付着炭化物
同位体比
炭化物の炭素同位体比とC/N比
 188石器 卯ノ木南遺跡
卯ノ木南遺跡の
石鏃・不定形石器群
卯ノ木南遺跡の石器群
 189
寺田上A遺跡
押引き文土器
堰下遺跡(左/中)と
貝坂桐ノ木平C遺跡(右)の室谷下層式土器群
堰下遺跡の局部磨製石斧と打製石斧
本ノ木遺跡B地点
不定形石器群 
本ノ木遺跡B地点の
不定形石器群 
       
中里村向田採集の
磨製石斧
本ノ木遺跡B地点と卯ノ木南遺跡の遺跡間接合資料
 
 
 



    企画展


 
 ※はじめに
この館の展示は、100~189「土器の出現と縄文時代の幕開け」と題する「縄文時代草創期」を取り上げた展示でもわかるように、解説が大変多いです。
縄文草創期という、あまりわからないにもかかわらず、6000年も期間があり、遺物も少ないことから、大抵の博物館はあまり触れずに逃げますが、
この館では、それを長い解説と大量の資料で展示しています。そのことは、大変ありがたく、頭の下がる思いです。

200~から始まる企画展も解説が大変長いです。懇切丁寧に微に入り細に入り徹底的に疑問の余地がないほどの丁寧な解説です。
しかし、そのことがわかるのは、今回写真撮影ができ、それを文字化してネット上に揚げることによって、はじめて読むことができ、
企画展の価値が理解できたと思います。展示会場では、その詳しい内容を読むことはとても難しく、数日はかかるかと思います。

そのような意味で、大変膨大な解説ですが、文字化しいてますので、是非読み通して頂きたいと思います。

この館はとても親切だと思います。全国には、展示物のそばに脚注がなく、別のところにまとめて表にしてあり、見に来た者には何が何だかわからない。
わかろうとすると、何度も表と展示物の間を往復しなければならない。・・・誰もそんなことしないから、展示物の意味は分からない。

また、脚注ではなくバーコードが貼ってあり、わざわざスマホで見なければわからない館もあります。
進んでいると思っているのかもしれないが、バカなことだ。だれが そんなことまでして展示を見ますか。

展示物のそばに脚注を置くことが一目瞭然、見てすぐわかる、最もポピュリズムに適合したやり方です。
      沖縄写真通信運営者
  
 



 200企画展「千曲川・信濃川流域の縄文文化」


 ご挨拶
類なき造形美を醸し出す火焔土器は、その際立った容姿によって、多くの人々の目を引きます。

 「このような不思議な形をした土器は何故生まれたのか」
 「火焔土器はどのようにして成り立って行ったのか」

火焔土器の魅力の前には、そのように考えずにはいられません。

この度の企画展示会のテーマは、「千曲川―信濃川」及び「火焔土器前夜」となっています。
全長367km、日本一の長さを誇る千曲川―信濃川は、甲武信ヶ岳を源流に流れ出、そして日本海へと辿り着きます。
一本の河川でありながら、随所で異なる植生や気候環境を背景として、どのように縄文文化が息づいていたのか。

およそ5000年前に火焔土器が“火焔土器”として成るとき、その直前期にはどのようなきっかけがあったのであろうか。
また、どのような土器を用いた人々がこの地に住んでいたのであろうか。火焔土器が成立していくプロセスを探ります。

開館16年目を迎えた農と縄文の体験実習館、秋季企画展も今年で16年目となりました。縄文文化の魅力を伝えます。
結びに本企画展開催に際しまして多くのみなさま並びに諸機関、そして館外研究員の先生方からご指導とご協力を得ました。衷心より感謝申し上げます。

 201千曲川流域情報
企画展「千曲川・信濃川流域の縄文文化」
火焔土器前夜の世界
ご挨拶

上に記述
謝辞
千曲川-信濃川を取り巻く地形概観 千曲川-信濃川
流域自治体名
主要遺跡地図
 210

 210序 日本一の大河「千曲川-信濃川」と縄文文化

甲武信ヶ岳を初流とする湧水は、渓谷を下りながら流れを拡大し、旅情豊かに小諸城脇を流れ、善光寺平で犀川と合流します。
そして、水嵩を増やし、流れを大きく北に向けていきます。飯山盆地を大きく蛇行し、市河谷の地峡を北流する千曲川は、信越国境を超え、津南町に入ると、信濃川と改名します。
信濃川が津南段丘を侵食し、十日町盆地を緩く蛇行し、西川口で流れを大きく変え、魚野川と合流します。
さらに北上しながら蒲原平野を潤し、日本海へ流れ出ます。

日本一の長さを誇る「千曲川―信濃川」は、
➀源流~佐久盆地手前までの最上流域、
②佐久・上田盆地を流れる上流域、
③長野盆地を貫流する中上流域、狭窄部を越えた
④河岸段丘地帯の中上流域、
⑤広大な越後平野を下り日本海へと続く下流域
という、5地帯に便宜的に湧けることができます。

それぞれの地帯は地形・地質環境が異なり、それに伴い植生や気候環境も異なってきます。
一つの河川でありながらも、異なる河川環境において独自の縄文文化が形成されてきました。
本章では、「千曲川―信濃川」における縄文文化の一端を紹介します。

序 日本一の大河「千曲川-信濃川」と縄文文化 序 日本一の大河「千曲川-信濃川」と縄文文化
上に記述

 211
 1.「千曲川―信濃川」概観 千曲川-信濃川を取り巻く地形環境
「千曲川―信濃川」は、長野県・新潟県を流れる一級河川です。全長367kmのうち、千曲川214km、信濃川153kmとなっており、長野県と新潟県の境で名称を変えます。「千曲川―信濃川」の流域面積は、11,900㎢となっており、山梨県埼玉県・群馬県・長野県にまたがる甲武信ヶ岳(標高2475m)を水源とし、新潟県の日本海へと流れ出ます。

約100万年前、中・下流域には、千曲川―信濃川は流れていませんでした。
この頃、信濃川流域はまだ陸地化しておらず、千曲川は長野盆地を通らずに、現在の高田(上越方面)へと流れ出ていました。
約40~30万年前には大地の隆起が進行し、丘陵や山地の形成が促され、千曲川は現在の関田山地に遮られます。
更に、松本・長野盆地が沈降することによって千曲川はその方向に流れ込み、現在の信濃川の原型が形成されました。

その後約18,000年前までに、中下流域での段丘形成が発達します。約7,000年前以降には、下流域に流れ出た土砂が海岸部を埋め立て、平野や海岸に砂州が作られ、現在の「千曲川―信濃川」が形成されました。

1.「千曲川―信濃川」
概観
1.「千曲川―信濃川」
概観
上に記述
1千曲川-信濃川を取り巻く地形・地質環境 2千曲川―信濃川流域の地形分類図
 3千曲川―信濃川流域の古地理の遺跡略図          
➀約200万年前 ②約100万年前

直接北流して海に流入する千曲川
③約40~30万年前
河口付近に広大な沖積平野を形成する
④約1.8万年前
東西圧力により北東から南西方向に波状に褶曲付けいを形成し、海岸部図隆起し北東に流れる
⑤約7千年前
褶曲隆起と、河川堆積により、広大な沖積平野を形成する。
⑥現在
広大な低湿地を形成する

 212 2.河川区分と流域様相

 (1)最上流域 -源流から佐久盆地へ
千曲川は甲武信ヶ岳北西斜面の標高2160m付近を源流点とし、一気に標高をさげ、川上村梓山へ流れ下ります。
甲武信ヶ岳周辺は:原生自然が残されており、ユネスコ・エコパークにも認定されています。
川上村の幅広の谷を西へと緩く流れる千曲川両岸には氾濫原が続き、左岸には高原野菜の畑となる段丘が広がります。
谷をつくる南北の山地は、中生代ジュラ紀から白亜紀の泥岩・砂岩・チャートおよび石灰岩などからなる付加体の岩石から作られています。
金峰山から甲武信ヶ岳にかけての山体には、新第三期の花崗岩類が分布します。

川の流れが北へ変わる五所平以北の下流では、川幅も狭まり、相木川が合流する小海町付近まで急流となり、次第に川幅を広げ高野町付近で佐久盆地の南端部に到達します。この北流する千曲川は、八ヶ岳の東麓を流下した火砕流や泥流などが佐久山地にぶつかった境界部を侵食して流れています。最上流域・上流域の東側には佐久山地が広がり、関東地方の西縁に当たります。西側には八ヶ岳が聳え、第四紀の火山岩・火砕岩類が分布します。

 (2)上流域 -佐久盆地と上田盆地-
佐久盆地は、東は佐久山地、南は八ヶ岳北東麓山地、西は御牧ケ原の台地、北は浅間山麓に四方を囲まれています。
盆地北部には、浅間火山が一万数千年前に噴出した浅間第1軽石流と第2軽石流堆積物が広く分布します。盆地南部で北流し、中込の南から北西方向に流れを変えます。軽井沢方面から流れる湯川が合流する付近からは、蛇行しながら北流し、小諸市耳取付近から狭い谷をつくります。

千曲川は、懐古園(小諸城址)付近から流れの向きを北西方向に変え、上田からは北西方向をとり長野盆地に至ります菅平方面からの神川と依田川が 合流すると、千曲川の流量は増加し、上田盆地を横切って流れます。上田盆地北西部の岩鼻と虚空蔵山との谷間を流れ出た千曲川は、ゆったりと蛇行し谷幅の広い平坦地を流れます。この広い谷は坂城広谷と呼ばれいます。川の両岸には氾濫原が広がり、洪水時には常に流れを変え、その旧河道の痕跡が随所に残されています。河床下には100m以上の河川堆積物が埋設されていると考えられ、この厚い堆積物は、長野盆地の沈降と関連して形成されています。
上流域は礫河床で構成され、左岸側には黒曜石を含む和田峠火山岩類が広く分布しています。

2.河川区分と流域様相 (1)最上流
-源流から佐久盆地へ-
甲武信ヶ岳 長野県川上村梓山東の源流
(2)上流域
-佐久盆地と上田盆地-
佐久盆地遠景 坂城広谷

 213 (3)中流域 -大量の土砂を貯めた長野盆地-
流れの向きを90°変え、長野盆地に入った千曲川は、犀川扇状地の土砂の押し出しによる影響を受け、川東山地の西縁を緩やかに蛇行し、川田・綿内付近で犀川が合流します。犀川は千曲川に合流する最大の支流で、流域や水量が本流を上回っていますが、歴史的な経緯により、千曲川の支流とされています。

千曲川の2倍の水量をもつ犀川が合流すると、千曲川の水量は急増し、川幅も1000m前後となり、向きも北東方向に変え、直線的に流れます。川沿いには氾濫原が広がり、両岸には規模の大きな自然堤防、後背湿地や旧河川跡が分布します。この氾濫原地域は、大洪水のたびに水害を被って来ました。千曲市屋代遺跡群では、縄文時代前期後葉(約5800年前)の遺物が地下5mから出土していることから、千曲川沿いでは1000年に1m程の速度で堆積物が溜まっていると考えられます。

長野盆地内を緩やかに流れてきた千曲川は、盆地北部立ヶ花狭窄部で急に川幅を狭め、丘陵の間を蛇行し、飯山盆地に流れます。この流れ
は河床の岩板を侵食しながら蛇行する穿入蛇行と呼ばれる現象で、山地全体が隆起していることを示しています。
中上流域では泥河床で 構成されています。

  (4)中流域 -織りなす河岸段丘-
長野県北部の飯山盆地を過ぎると、丘陵や山地が迫り、狭い谷地形の中を北東方向に少し蛇行しながら流下しています。この地域の千曲川の右岸や左岸部には、やや狭い平坦面を有する数段の河岸段丘が認められます。長野県境の栄村から新潟県の津南町に入り、志久見川との合流部を過ぎると、これまでの狭い谷地形ではなく、多くの段数の河岸段丘が発達する地形環境へと変化します。(写真10)。

この特徴的な地形は、長野県境から小千谷市付近(魚野川との合流点。写真11)まで続き、数十万年以上にわたる周辺地域の地層や隆起・沈降(断層)による構造運動の過程や河川による土砂運搬と地形形成によって形成されたダイナミックな地形です。

 中上流域と中下流域の地形環境に災害が発生する背景には、基盤を構成する土質にあると考えられます。信濃川流域では、浅い海や河川起源の地層が基盤に堆積しているのに対し、千曲川流域では火山活動が活発で、溶岩、火砕岩、火山山麓の堆積物など火山周辺に分布する堆積物から構成されています。

(3)中流域
-大量の土砂を貯めた長野盆地-
長野盆地遠景 立ヶ花狭窄部
(4)中流域
-織りなす河岸段丘-
津南町の河岸段丘 信濃川と魚野川の合流点

 214 (5)下流域 -広大な平野を流れる-
長岡市以北においては、信濃川は、越後平野を流下し日本海に注ぎます。
越後平野は、西側に西山丘陵(新第三紀の堆積岩)、角田・弥彦山地(新第三期の火山岩、火砕岩)、東側に東山丘陵(新第三紀の堆積岩)、新津丘陵(新第三紀の堆積岩)が位置する面積約2000㎢の広大な沖積平野です。平野には、信濃川や阿賀野川などが形成した自然堤防と氾濫原が広がり、特に氾濫原は標高の差異がなく、低平であるため、潟湖や池沼などが点在する低湿地の地形を有しています。

また、約7000~6000年前以降、平野を埋積していく過程において、海岸線の移動が一時的に安定した際に、その時の海岸の背後に砂丘が形成されます。この結果、海岸線の移動に合わせて砂丘が発達するため、複数の列状の砂丘地形が発達する特徴的な地形を有することになります
この複数の砂丘(浜堤)は、低平であることに加えて信濃川の流下を阻害するため、越後平野には広大な低湿地が広がりました。越後平野は泥河床によって構成されています。

約15000年前の浅間草津火山灰は、段丘地域ではローム層、新潟市ではマイナス約150mの河川の氾濫原を示す地層から発見されています。
約15000年前は、最終氷期の最寒冷期から少し温暖になりつつある時期であり、段丘地域では現在とほぼ同様な地形環境(信濃川と段丘地形)を有しているのに対して、平野部では沈降量を差し引いても、現在の平野の信濃川の河川勾配よりも傾斜が大きく、現在のような低平な平野ではなく、縁辺の丘陵部から扇状地性の地形が張り出したやや狭長な谷底低地のような地形環境を推定できます。
 (15000年前の平野部は急峻な勾配で流下する堆積物がどんどん沈んでいったの意味) (新潟平野は年に1㎝沈降しているということか。)


(5)下流域
-広大な平野を流れる-
千曲川-信濃川の河川縦断図 長岡市域の信濃川
-馬越島-
広大な越後平野 佐渡

 215 3千曲川―信濃川流域の気候区分と植生

 (1)千曲川-信濃川流域の気候
千曲川―信濃川流域の気候は、日本海側気候と内陸側気候に区分されます。
日本海側気候は、冬季の降雪により、降水量が最大となることを特徴とします。冬季の降雪は、シベリア高気圧と千島からアリューシャン列島にかけて発達した低気圧があると冬型(西高東低)の気圧配置となり、冷たく乾いた北西の季節風が吹き、対馬海流により相対的に温かい海面から大量の熱や水蒸気が供給され、日本海上で発達した積乱雲によってもたらされます。

日本海側の降雪は、山間部を中心に山雪型と、海岸地方を中心に里雪型とがあり、魚沼地方が豪雪地帯となるのは前者・山雪型の要因によります。
また、長野県北部から北西部も多雪地帯にあたり、日本海側の気候を示します。

これより内陸部の千曲川流域は、内陸側気候に区分され、日較差や年較差が海岸地方に比べて大きく、湿度が低いことを始め、日照時間が 長いこと、年間の降水量が少ないことなどを特徴とします。

 (2)千曲川―信濃川流域の植生
新潟県域丘陵地帯(温暖帯)は、冬季に対馬暖流の影響で比較的温和な日本海沿岸部および平野内陸部(蒲原地域)の海抜200m以下の丘陵地にあたり、常緑広葉樹のウラジロガシやアカガシなどが生育します。
山地帯(冷温帯)は、新潟県域では標高100~300mから1600~1700mにあたり、落葉広葉樹のブナとともに、ミズナラ・コナラの二次林などが認められます。新潟県域には、日本海側の多雪地帯に適応したヒメアオキ、ハイイヌガヤ、ユキツバキなどの日本海要素の植物が育成します。

長野県域では、標高200~1500mが山地帯(冷温帯)とされ、県北部の山地には日本海要素の植物が生育します。
また、ブナ―ミズナラ林も認められ、標高1000m以下ではミズナラが優占します。山地帯下部の標高600~700mより下部はコナラを主体とし、サクラ類やカエデ類を交えた雑木林が広がります。

亜高山帯(亜寒帯)は、新潟県では標高1600~2300mにあたり、常緑針葉樹のオオシラビソやコメツガをはじめ、ダケカンバ、クロベなどの高木が見られます。
長野県域では、標高1500~2500mに分布し、常緑針葉樹のシラビソ、オオシラビソ・トウヒを主体としますが、県北部では、オオシラビソ、コメツガ、ダケカンバなどが認められます。

(1)千曲川-信濃川流域の気候
(2)千曲川―信濃川流域の植生
千曲川-信濃川流域各地点の平均気温・降水量 冬の津南段丘 日本海要素のユキツバキ

 216 (3)千曲川―信濃川流域の特性と生態
千曲川―信濃川の全長は367kmあり、甲武信ヶ岳を源流として、渓谷を抜け、佐久、上田、長野、飯山の盆地を流れます。そして、また川幅が狭まり渓谷を流れ、十日町盆地、越後平野を通り、日本海に注ぎます。この長大な川は、源流から山間部を通り、盆地を通り、再び山間部の渓谷を抜けて、河口となります。
つまり、2回山間部を通るのです。そして、犀川、魚野川、渋海川、刈谷田川、五十嵐川などの大きな支流も持ちます。

この渓谷の河床は、礫や石、砂で構成(礫河床)され、平野部では泥などで構成(泥河床)されます。この河床によって生態環境が異なります。
礫河床では、ヤマメ、イワナ、アユなどが 生息し、川を遡上するサケなどが産卵する場所ともなります。
泥河床では、フナ、コイ、ナマズなどが 生息しています。

(3)千曲川―信濃川流域の特性と生態 津南付近の河床堆積物 小千谷付近の河床堆積物 長岡付近の河床堆積物 与板付近の河床堆積物
千曲川-信濃川流域における生態環境
 
 
 


 220『千曲川-信濃川』を取り巻く縄文文化


 221 上流域に佇む2つの黒曜石鉱山 -星糞峠星ヶ塔

 (1)星糞峠遺跡 -和田峠系黒曜石原産地-
長野県のほぼ中央に位置する霧ケ峰高原から八ヶ岳の一帯は、本州最大規模と言われる黒曜石の原産地として知られています。
縄文時代には標高1450mを越える星糞峠の原産地に黒曜石の原石を地下資源として生産する採掘坑が登場します。
黒曜石が採掘され始めた時期の確定については、今なお大きな課題を残しています。しかし、原石そのものを地下資源として組織的に掘り出すという行為は、少なくとも河川の中流域側に集落の形成が認められるようになった縄文時代早期に遡り、日常の生活拠点と、狩猟や特定資源の生産域から成る活動領域の確立を背景として継続的に行われるようになったと考えられます。

星糞峠鞍部から北東側に連なる虫倉山斜面の一帯では、採掘の痕跡を示す195基の「凹み」地形が確認されており、星糞峠の調査ではこの「凹み」地形を「採掘址」と呼称しています。

    ※以下は以前の取材鷹山黒曜石体験ミュージアム」「長和町原始・古代ロマン体験館では知られていなかった新事実です

斜面のほぼ中腹に当たる「第1号採掘址」では、縄文時代早期(鵜ヶ島台式土器)と後期(加曾利B1式土器)に大規模な黒曜石の採掘活動が展開していた様子と、特異な「凹み」地形を形成するに至ったプロセスや採掘行為の実態が明らかになってきています。

特に、縄文時代後期は3段階に渡り、同じ地点で反復するように繰り返された採掘活動のようすが明らかとなっています。

採掘作業は平滑な作業空間を作り出すために造成を行ったり、積み上げた採掘排土の崩落を防ぐ木製の防護柵が 構築されています。
防護柵は排土の山を、丸太材を弧状に張り巡らせるようにして抑え込み、更に直行する丸太材が防護柵全体を支えています。
また、丸太材は木製掘具を転用した杭によって固定されています。土中に埋め込まれた木杭の一端は火で炙って防腐処理が施され、
防護柵全体を支えた丸太材の下には、滑り止め防止ネットのように、採掘排土等を運んだと思われるザルの断片が敷かれるなど、防護柵の耐久性を図る工夫が認められます。

1上流域に佇む2つの黒曜石鉱山
-星糞峠と星ヶ塔-
(1)星糞峠遺跡
-和田峠系黒曜石原産地-
上に記述
星糞峠 黒曜石鉱山の採掘跡 加曾利B1式土器の出土状況
採掘坑のの断面
上に記述

 222(1)星糞峠遺跡 つづき
採掘活動に伴う道具として、両端を鋭利に削り出した木製の掘り具、一股の鹿角、笹系の植物を組んで作られたザルが出土しています。
掘り具については、白色火山灰層の上面に残る掘削痕から先の尖った直径5cm未満の掘り具が予測されていましたが、この掘削痕に対応する10本の掘り具が防護柵の周囲から検出されています。掘り具の大きさは、片手に収まる直径3cm大と、両手で使用したと思われる直径5cm大の2種類があります。
直径3cm大の掘り具は長さ120cmから24cm(短い)のものもあり、使用の過程で先端を削り直し、次第に短くなっていった様子がうかがえます。

掘り具は山を下った集落域に見られるウツギ系の木材を用いて、同一の規格で作られており、滞在中に使用された土器や黒曜石を打ち割る円礫素材の敲き石などと共に、里のムラで作られたものが持ち運ばれてきたと考えられます。
鹿角については、緻密で粘性の強い白色火山灰層から原石を抜き出す際に用いたと考えられます。
また、出土したザルは断片的な資料ですが、縦軸に2本の素材を用いた頑強なつくりを示しており、黒曜石の採掘活動に関わる様々な技術と工夫の様子がうかがえます。

第3段階になり、累積した採掘排土を掘り込む竪坑の深さが3mを超えると、黒曜石原石を入手することが次第に困難になっていったようです。
そのような中で、興味深い現象としては、竪坑掘りから溝状に掘り進む採掘への展開が認められたことです。
採掘対象となったのは、第2段階で土砂崩れ防止の構造物を築きながら掘り棄てられた大量の白色火山灰層です。黒曜石を執拗に求めた縄文時代の人々にとって、採掘排土として投げ捨てられたこの白色火山灰層も採掘の対象で、斜面に並行して複数列に並ぶ採掘の溝は7mを超えて確認されています。

現代の地表面で観察される「凹み」状の地形は、この表土層の起伏を反映するものであり、採掘深度が限界に達した第3段階の後、採掘の地点は第1号採掘址の一帯から更に斜面の上方に移動していったことがわかっています。採掘址と呼称している「凹み」地形は、集中的な採掘活動が展開する、「工区」に相当すると考えられます。

採掘坑と土砂崩れ防止の木柵 杭に転用されていた
掘り棒

上に記述
溝状に並ぶ採掘坑
 

 225(2)星ヶ塔遺跡 ―諏訪系黒曜石原産地―
星ヶ塔遺跡は、諏訪湖の北東に広がる諏訪郡下諏訪町の東俣国有林内にある星ヶ塔山の山腹、標高1500mの東向き斜面に位置しています。
星ケ台・観音沢・東俣などと共に諏訪原産地群を構成する、星ヶ塔原産地に形成された縄文時代の黒曜石鉱山です。
遺跡分布調査では、約35,000㎡の範囲にいまだ埋まりきらずに窪地として残る縄文時代の黒曜石採掘跡が、193ヶ所分布しています。さらに発掘調査によって縄文時代前期と晩期の採掘坑が発見され、長期にわたって黒曜石の採掘活動が行われていたことが確認されています。

縄文時代前期の採掘坑は、基盤層である流紋岩質砂質土層(火砕流堆積物)に含まれている黒曜石を目的として掘削した竪穴です。
底部近くの規模は、人一人が入れる程度の大きさです。ベース層の黒曜石は節理のひびが著しく、こぶし大程度の大きさでも取り上げるとバラバラに砕けてしまいます。砕けたものの多くは径3cm以下で重さ10g以下の小さな粒状になります。しかし、4cm以上で30g程度のものもあることから、採掘された原石の中から適当な大きささのものを選択していたと思われます。採掘に伴う土層から諸磯C式土器が出土しています。

この採掘坑では壁面に、断面形がV字状をなす細長い溝状の掘削痕跡が観察され、先の尖った道具によって採掘が行われていたことがわかっています。ヨーロッパのフリント採掘では鹿角ピックが用いられること、縄文時代前期には福井県鳥浜貝塚などで鹿角斧が出土していることを踏まえ、現代の鹿角の第一枝部とこの溝状掘削痕を比較したところ、その大きさが一致しましたし。この結果から、黒曜石の採掘に鹿角ピックが使用されたと推定しています。

縄文時代前期の採掘坑から170m離れた場所で行った調査では、縄文時代晩期の採掘坑が発見されています。
この晩期の採掘坑は前期のものとは全く異なり、地下1.5m以下に存在する、流紋岩の周縁に生成している黒曜石岩脈を採掘しています。
黒曜石岩脈の面積は5㎡程度ですが、そこには直径40cm~100cm程度の円形状の穴、長さ170cm幅140cm程度の舟底状を呈する大型の穴が合計12基確認され、黒曜石岩脈を集中的に採掘している様子がうかがえます。そして、流紋岩体に付着していた掘り残しの黒曜石の状態から、これらの採掘坑は元々の岩脈上面から100cm前後掘っていると推定できます。

(2)星ヶ塔遺跡 ―諏訪系黒曜石原産地― (2)星ヶ塔遺跡 ―諏訪系黒曜石原産地―
上に記述
星ヶ塔遺跡全景
上に記述
縄文時代前期の黒曜石採掘坑
鹿角ピックによる
掘削痕跡
縄文時代晩期の
黒曜石採掘坑
 226 (2)星ヶ塔遺跡 つづき
掘削対象である黒曜石岩脈は、ガラス板のような均質な一枚岩ではなく、流理構造が発達し、縦横に細かに割れ目が入っています。
そのため、衝撃を加えると流理に沿って板状や柱状に割れるという特徴を持っています。採掘埋土から先を尖らせた敲石が出土していることから、敲石を使って流理(いわば石の目)に沿って原石を割り取っていたと推定しています。
実際、採掘された原石を観察すると、敲打の衝撃で脆弱な部分が破砕したため、一端がくさび状に割れたものがあり、ハンマーストーンによる岩脈の打ち欠きを裏打ちしています。

採掘されたばかりの原石は、まだ多数のひびに覆われており、5cm前後のものから10cm前後のものまで大きさもまちまちですが、これがさらに割れて、割れつくしたいわば芯の部分が 石器の原料として用いられます。
そうした割れつくした原石の形状は、丈の短い柱状、サイコロ状、板状であり、径5cm以下、重量40g以下のサイズとなります。
当然、より大きなものもありますが岩脈の性質上から、搬出される原石の大きさは小粒のものが主体になると考えられます。

採掘坑埋土からは縄文時代晩期の前半の大洞BC式土器が出土し、岩脈を採掘していた時期が判明しました。今回の調査トレンチから30cm離れた場所で行われた過去の調査でも、岩脈を穿つ採掘坑からほぼ同時期の土器が出土しており、晩期前半では遺跡内の広い範囲で岩脈を探り当て、集中的に採掘していた可能性が高いといえます。
採掘坑埋土の上層からは大量の黒曜石製の剥片・石核・破片が出土しています。多数の接合資料もあることから、採掘に伴って石器の製作が行われ、その製作残渣が採掘坑の上部に一括廃棄されたと考えられます。

出土した剥片の形状やサイズから見て、石器製作工程の初期段階の石鏃などの素材剥片を得る工程が行われていたと推定されますが、素材剥片に見合う形状・サイズの剥片は残されていないことから、素材剥片は搬出されたものと考えられます。
また、やや大ぶりではありますが、石鏃の未成品の可能性がある石器も少量確認され、ブランク(大型素材剥片)の搬出も想定されます。したがって、晩期の鉱山からは原石・素材剥片・石鏃ブランクが搬出されています。

この黒曜石岩脈での黒曜石の採掘量について試算したところ、1㎥につき1,300kg程度の黒曜石が採掘されると推計されました。採掘坑の規模からすると、縄文晩期の人々は一つの採掘坑から数百kgに及ぶ大量の黒曜石原石を掘り出していたとみられます。

(2)星ヶ塔遺跡 つづき
上に記述
黒曜石の岩脈部分
上に記述
縄文晩期の黒曜石採掘坑における出土遺物
土器
敲石
1~5
敲石 黒曜石製石核
6~16
 
 

 228 (3)黒曜石の利用と流通
千曲川―信濃川流域の上流に、本州最大規模とされる黒曜石原産地があります。この原産地は、太平洋―日本海分水嶺を境に南西側の諏訪系と北東側の和田峠系、男女倉系があります。
黒曜石の利用はおよそ3万5千年前に遡ります。当初は、原産地で黒曜石を採取し、野尻湖周辺の遺跡に持ち込み石器製作をしたようです。
それから2万年前頃から、石刃やナイフ形石器、尖頭器などを大量に作るようになると、原産地で石器製作を行い、各地へ運ばれたようです。
旧石器時代の終りの細石刃石器群の時期には、原産地の遺跡は減り、離れた遺跡で集中製作が行われるようになります。縄文時代草創期になるとさらに顕著になります。また、旧石器時代から縄文時代へと温暖化が進むにつれ、森林が繁茂し、山肌からの採取が難しくなってきた可能性も指摘されています。

縄文時代になると産地も変化し、多様化してきます。津南町の遺跡から出土した黒曜石原産地分析を概観すると、旧石器時代には和田峠系産が多く利用され、縄文時代になると諏訪系産が 多く利用される傾向があります。
縄文時代早期~前期にかけては、北信地域では和田峠系が諏訪系の利用率を上回りますが、両方の産地の出土数が増加します。
早期では黒曜石製石鏃、石匙、石錐、スクレイパーなどが出土します。

縄文時代前期~中期にかけては、集落数の増加と共に、黒曜石の利用も増加した時期です。東信地域では、集落における黒曜石の貯蔵例が増え、茅野市駒形遺跡のように黒曜石の流通を担ったと思われる遺跡が登場します。
この時期には諏訪系の黒曜石の利用が主体となります。黒曜石製の石鏃、石匙、石錐、スクレイパーの出土が認められます。
新潟市内では、縄文時代前期に佐渡産の黒曜石の利用が 認められます。この利用は佐渡島内と新潟沿岸の遺跡で見ることができます。

北信地域では、中期に諏訪系黒曜石が主体となりますが、東信地域では諏訪系と和田峠系が拮抗して利用されます。
中期になると石鏃など小型石器に多用される以外は、利用がほとんどなく、石核なども稀です。
縄文時代後期は、東・北信から新潟にかけての千曲川・信濃川水系地域やその他の地域でも和田峠系黒曜石の利用が僅かに上回る傾向が認められます。加曾利B1式期においては、星糞峠の鉱山において生産が続けられており、黒曜石の資源利用のつながりが窺えます。

縄文時代晩期は、千曲川―信濃川水系の遺跡では、石鏃が多量に出土する遺跡が多くなります。
黒曜石以外の石材の利用も認められますが、特に、星ヶ塔産黒曜石製の石鏃が、千曲川水系と信濃川上流域に位置する津南町において多く出土します。そして、石鏃だけでなく、剥片やズリと呼ばれる原石も出土しています。
縄文時代晩期において千曲川―信濃川流域は、黒曜石鉱山からの供給の在り方を解明するための重要なフィールドとして考えることができます。

(3)黒曜石の利用と流通 (3)黒曜石の利用と流通 火砕流中の黒曜石原石 津南町下モ原Ⅰ遺跡
杉久保ナイフ形石器
津南町内出
黒曜石製石鏃
津南町正面ヶ原A遺跡
星ヶ塔産黒曜石
 
 
 230 2千曲川-信濃川流域の石器石材環境
 231 (1)千曲川-信濃川流域の石材環境
千曲川―信濃川の全長は367kmあり、甲武信ヶ岳を源流として、渓谷を抜け、佐久、上田、長野、飯山の盆地を流れます。そしてまた、渓谷を流れ、十日町盆地、越後平野を通り、日本海にそそぎます。この流域は、北部フォッサマグナに位置し、中新世以降の新しい地層が覆う地帯となっています。この長大な川は、源流から山間部を通り、盆地を通り、再び山間部の渓谷を抜けて、河口となります。つまり、2回山間部を通ります。そして犀川、魚野川、渋海川、刈谷田川、五十嵐川などの大きな支流も持ちます。

つまり、これらの多くの支流から流れ込む岩石は多様ですが、石器の材料として利用された石材は、これらの岩石から選択されたものです。現代、人間活動や環境変化で河川環境は変わっていますが、地質構造には大きな変化はなく、河川で採取される岩石は当時と同様と考えられます。そして、利用される石材は、河川に多くあるものの、ある程度の「目」を持ったものでなければ、現代の我々には探すことが難しいものです。場合によっては、1m×1mの範囲に獲得することができない場合もあります。その中で、先人たちは、河川において岩石という資源を見つけ出し、利用していたのです。

まず、利用されるものは、割れ安く、割ると鋭利な刃となる石材です。最も代表的なものは天然ガラスとも呼ばれる黒曜石です。しかし、黒曜石以外にも、利用されている石材があります。また、重く硬い性質を持つものや、磨くときれいに光る石も利用されました。そして、石には、様々な色があり、その色にも意味があった可能性があります。ここでは、代表的な千曲川―信濃川流域の石器石材を紹介します。

千曲川上流域である源流から渓谷地帯は、八ヶ岳火山が分布します。
その基盤には、中・古生界の秩父系、第三紀系の北相木層が分布し、秩父系で頁岩、砂岩、チャートが、北相木層は頁岩、砂岩などで構成され、頁岩、チャートは主要な石器石材です。

佐久盆地から下流は、沖積平野を構成しています。佐久盆地の北側には浅間山が聳え、浅間火山が分布します。そして、東側には、八風山があり、その周辺には、無斑晶質安山岩が分布します。この石材は、大きく、平らな板状に割れやすい性質があり、下茂内遺跡では、この石材による大形の槍先が多く出土しています。
上田盆地にそそぐ依田川や大門川の上流には和田峠原産地群や霧ヶ峰原産地群があり、日本最大の級の黒曜石産地が広がっています。
この他、佐久市周辺では、珪質頁岩が確認されています。頁岩は、千曲川中、下流域でも確認されています。チャートは、前述のほか、犀川上流の美濃帯起源のものが千曲川下流域まで確認されています。更に、赤玉が千曲川砂岩篠山で、緑色凝灰岩が上田市丸子から美ヶ原に分布する内村層に、輝緑岩(ドレライト)が須坂市周辺で確認されています。

新潟県に入ると信濃川と名前を変え、その上流には東から志久見川、中津川、清津川の支流が流れ込み、無斑晶ガラス質安山岩、頁岩、多孔質安山岩などの安山岩類、ドレライトなどが分布します。
無斑晶ガラス質安山岩は、毛無山火山を供給減とし、主に志久見川流域に分布します。また、千曲川や関田山地付近にも分布し、千曲川―信濃川の川原で認められています。

2千曲川-信濃川流域の石器石材環境 (1)千曲川-信濃川流域の石材環境 須坂市の緑色岩 志久見川 千曲川―信濃川流域の
石材環境図
 233 (2)千曲川-信濃川流域の石材利用
頁岩は、清津川上流部に七谷相当層の大沢層・葎沢層が分布し、芝倉沢や砥沢流域の露頭や川原にて採取可能です。
そして、凝灰岩層に接する頁岩層や凝灰岩層内に取り込まれた頁岩が、上記の中でも良質な傾向にあります。更に、信濃川の支流である魚野川流域や渋海川流域でも分布し、川原で採取可能です。

魚野川に合流する破間川流域では、鉄石英黄玉、流紋岩、黒曜石(松脂岩)、古期頁岩、チャート、良質な碧玉や頁岩が分布します。
信濃川中流域の支流である五十嵐川流域には、玉髄や鉄石英、流紋岩などが分布しています。この他、千曲川―信濃川流域と離れますが、長野・新潟県境に流れる松川・姫川流域には、滑石、蛇紋岩類、ヒスイなど、千曲川―信濃川流域のほか広い地域で出土する石器石材が分布します。

このように長大な千曲川―信濃川には多様な石器石材環境があり、これらは先史時代から利用されてきた重要な資源です。これら石材は、遺跡周辺の人々によって、その地域で利用されることが主ですが、それらを在地石材と呼んでいます。しかし、黒曜石やヒスイ、蛇紋岩類のように遠くまで運ばれて利用される石材もあり、これらを遠隔地石材と呼んでいます。

無斑晶ガラス質安山岩、頁岩、チャートは、石鏃などの剥片石器の素材として、広く時代を超えて利用され、遺跡から出土します。それ以外でも地域によって、流紋岩、鉄石英、碧玉、玉髄などが利用される地域があります。鉄石英、碧玉、玉髄などは、時代晩期になると広く流通し、利用されるようになります。

また、磨製石斧の石材となる蛇紋岩類などは、縄文時代前期以降、製品として流通し、利用され、千曲川―信濃川流域にも多く出土します。
縄文時代晩期になると、磨製石斧が地域の石材で製作、利用されたことが認められますが、須坂市周辺に分布する輝緑岩(ドレライト)は、津南町正面ヶ原A遺跡で磨製石斧として利用されていたことがわかっています。

これにより、流域における石材流通が黒曜石とも関連して行われていた可能性があります。

このように、周辺にある石器石材で石器が製作され、その地域で利用されますが、その石器が広範囲に流通して利用されることもあります。これらの動きは当時の人々の社会や関係性を考えるうえでも重要な手掛かりの一つとなります。

(2)千曲川-信濃川流域の石材利用 (2)千曲川-信濃川流域の石材利用 破間川の鉄石英 正面ヶ原A遺跡の石鏃
黒曜石・頁岩・無斑晶ガラス質安山岩・玉髄・鉄石英・チャート製
津南町出土
蛇紋岩類製磨製石斧
正面ヶ原A遺跡の
輝緑岩製磨製石斧
 
 240石器
 241
黒曜石 原石
星ヶ塔採取
正面ヶ原A遺跡
黒曜石製 石鏃
星ヶ塔産
正面ヶ原A遺跡
玉髄製石鏃と原石
正面ヶ原A遺跡
鉄石英製石鏃と原石
 242
正面ヶ原A遺跡
無斑晶ガラス質安山岩
石鏃
正面ヶ原A遺跡
頁岩製 石鏃
正面ヶ原A遺跡
チャート製 石鏃
正面ヶ原A遺跡
黄玉製 石鏃
 243
無斑晶ガラス質安山岩
原石 志久見川
頁岩 原石
芝倉沢採取
 
チャート原石
犀川・信濃川採取
黄玉 原石
西会津松尾川採取
 245
津南町
蛇紋岩製磨製石斧
蛇紋岩 原石
姫川採取
 247
正面ヶ原A遺跡

輝緑岩製磨製石斧の
完成品と未成品
輝緑岩 原石
須坂採取

 250星糞峠の採掘遺跡
 251星糞峠の黒曜石採掘遺跡
黒曜石原石
星糞峠遺跡
 252台石
台石・敲石
星糞峠遺跡
台石・敲石
星糞峠遺跡
 253加曽利式土器
加曾利B1式土器
星糞峠遺跡
 


 260 3変動する文化圏 ―土器形式圏を中心とした集団動態―

10,000年以上続き長い縄文時代の中で、土器形式は分布範囲を時期ごとに変えます。それはおそらく、集団の領域と関わる問題と考えられますが、
津南町がどこの土器文化圏に属するかを中心に、ある時期を切り抜いて概観したい。


 261 (1)前期後葉 諸磯式併行期 -山と海の世界-
今からおよそ6,000~5,600年前、縄文時代前期後葉には、関東から中部、北陸地方の一部で「諸磯式」と呼ばれる土器が分布しています。
今回の舞台である千曲川・信濃川の最上流域から中・下流域でも、この土器が色濃く認められます。一方、下流域では、系統の異なる刈羽式が分布しています。こちらは、新潟県の海岸地域が中心です。
千曲川源流付近の千曲川左岸八ヶ岳東麓の広い台地にある小海町中原遺跡では、直径約100mの円を描くように住居跡が並び、その内側に200基あまりの土坑が存在しています。この時期までには、中央広場を囲む環状集落が確立したと思われます。


諸磯式期では、各地で黒曜石の流通を思わせる出土例が見られるようになります。諸磯b式古段階までは転石の採集や集落間での連鎖的な交換が行われ、続く諸磯b式中段階になると、規模の大きい環状集落が形成されると同時に、拠点的中継点からの交易が開始されたとされています。

群馬県安中市の中野谷松原遺跡がその例で、このような群馬県側の集落が、黒曜石流通の拠点となっていたと考えられます。
諸磯b式の獣面突起については、群馬県にその出自があり、黒曜石と共に各地に拡散したともいわれています。
また、諸磯式土器文化には、お墓の中に埋納される有孔浅鉢が存在します。これは、住居跡の有無や多少にかかわらず、出土する場合が多く、更には形式を超えて刈羽式土器分布圏でも有孔浅鉢が用いられている。お墓との関連から、威信財とも考えられています。

下流域では刈羽式土器が分布しますが、すでに善光寺平を過ぎる辺りでは刈羽式土器が多くなります。一方で谷川岳西麓に端を発する魚野川流域には、諸磯式土器が色濃く分布します。中下流域では、津南町下モ原Ⅲ遺跡や十日町市泉竜寺遺跡にて諸磯式土器が出土しています。

3変動する文化圏 -土器形式献を中心とした集団動態- (1)前期後葉 諸磯式併行期-山と海の世界- 流域における前期後葉期の土器形式分布範囲

刈羽式土器と諸磯式土器の分布圏
湯沢町岩原Ⅱ遺跡の
猪形突起
南魚沼市吉峰遺跡の
有孔浅鉢

 263 (2)中期中葉 五丁歩・馬高式 -絢爛豪華な土器群の世界-
およそ5,300~4,800年前、縄文時代中期中葉には長野県北信地方から新潟県中越地方までを覆う五丁歩土器(約5,300年前)、およそ新潟県内をカバーする馬高式土器(火焔土器:約5,000年前)が分布します。さらにその中でも、典型的な火焔土器は千曲川―信濃川の中下流域~下流域り一部に限定されています。典型的な火焔土器の分布は、現在の多雪地帯の分布とほぼ整合することから、雪国文化の中で醸成された土器造形であることが 想定できます。
該期は、東日本各地で装飾性の高い土器群が擁立される時期で、千曲川―信濃川も例外ではありません。

最上流域では、詳細な実態は明らかになっていませんが、勝坂式土器やそれに後続する曽利式土器の分布圏に当たります。
上流域の浅間山麓を中心に展開しているのが焼町式土器でも群馬県西部まで分布圏が及んいる。
勝坂式土器と焼町式土器の大きな違いは、土器器面を区画するか否かという点にあり、
前者・勝坂式土器は区画、後者・焼町式土器は非区画土器となっています。同じ流域の中で、文様構造上大きく異なる一群が分布することが わかります。

※この違いは、①陸路による文化圏に属していた。川筋は地形的に分断されていた。。 
②同じ川筋にありながら二つの文化圏には繋がりが少なかった。又は、対立的だった。(川漁・鮭漁や狩猟場の争いなど。が考えられるが。)


中上流域である北信地方は、五丁歩土器段階ではそのその分布範囲に及んでいますが、馬高式土器が盛行する頃の土器群の実態は判然としていません。
 日本海に対馬暖流が流れ込んだのが約8000年前に当たることから、該期はすでに現行とそん色のない多雪環境であったと考えられます。既述したように、
千曲川ー信濃川の最上流域域~上流域にかけての範囲は太平洋気候区に属することから、
日本海気候区である中下流域~下流域ほどの降水(雪)量は認められません。
多雪地帯の生活環境や生活サイクルは、少雪地帯のそれとは大きく異なります。そのため、上記してきた土器分布圏と生活環境:圏では、背景となる環境の差異から、生活にも大きな違いが存在したと考えられます。
該期における海岸部の実態は判然としておらず、前期後葉期に認められたような貝塚は確認されていません。実態は不明ですが海岸部と山間部を往来するような生活がなされていたと推定できます。

※上の類推はどちらも間違い。気候環境が文化の違いだった。驚きである。降雪地帯と寒冷地帯とで文化が異なるんだ!
 しかも、同じ川筋でしかも近所なのに!!

(2)中期中葉 五丁歩・馬高式 -絢爛豪華な土器群の世界- (2)中期中葉 五丁歩・馬高式 -絢爛豪華な土器群の世界-
上に記述
流域における中期中葉期の土器形式分布範囲
大木式・馬高式・五丁歩式・焼町式・勝坂式

上に記述
道尻手遺跡「初期火焔」土器と火焔型土器の諸類系
川原田遺跡の焼町土器群
 265 (3)晩期前葉 佐野式期 -流域をつなぐ2つの土器群-
およそ3,200年前~2,800年前、縄文晩期前葉の新潟県には、系統の異なる二つの土器が分布します。ひとつは大洞式、もう一つが佐野式土器です。

大洞式土器とは、東北地方を中心とする縄文時代晩期の土器群の総称で、6型式(大洞B→BC→C1→C2→A→A'式)に細分されています。時期や地域により変動はありますが、北海道渡島半島から東北地方南部(新潟・福島県域)に及ぶ広範囲に分布し、新潟県は日本海側の南端に当たります。
縄文時代後期以前に比べて、土器の形のバリエーションが豊富になることから、生活様式の多様化・複雑化が背景にあったと推測されています。
新潟県のほとんどが大洞式土器分布圏に含まれるが、東北地方とほぼ共通するのは信濃川中流域(長岡市周辺)までで、
それより南の地域では大洞式を模倣、変容したものが多くを占めています。

一方、
佐野式土器は長野県山ノ内町佐野遺跡出土土器を元に設定された土器形式で、新潟県上越地方から長野県の北・東信地方にかけて分布しています。浅鉢形土器・台付鉢形土器・深鉢形土器等の機種が認められますが、大洞式に比べてバラエティは乏しいです。千曲川―信濃川流域の地域性を考える場合、「朝日型深鉢」と呼ぶ特徴的な粗製土器が注目できます。

 ※「朝日型深鉢」は長野県朝日村「朝日美術館・歴史民俗資料館」(撮影禁止)で見ることができます。※終り、以下本文に帰る

この土器「朝日型深鉢」は、口縁部に縄の結び目(結節)を横位に回転押圧し、胴部では縄文や撚糸文を縦位方向に施す簡素なものです。「朝日型」は大洞式土器分布圏の中でも信濃川流域に集中する傾向が顕著で、佐野式土器分布圏の一部にまでその広がりを見せるが、県境は越えません。佐野式土器の粗製土器には、表面をヘラ状工具で整えただけの無文土器が 一般的です。正面ヶ原A遺跡では、無文土器と「朝日型」が共に出土します。そして、無文土器に結節回転文を施す、両者の特徴を合わせた折衷土器も注目です。

異なる製作技術の融合を示すこの現象は、大洞式と佐野式の2つの分布圏を形成した集団が交流したことを示し、「朝日型」の分布範囲を勘案すれば、
千曲川―信濃川は長野県と新潟県中・下越地方つなぐ幹線として機能したことを物語っています。

(3)晩期前葉 佐野式期 -流域をつなぐ2つの土器群- (3)晩期前葉 佐野式期 -流域をつなぐ2つの土器群-
上に記述
流域における晩期前葉期の土器形式分布範囲

大洞式分布圏
大洞式外郭分布圏
勝坂式分布圏

上に記述
正面ヶ原A遺跡の
佐野式土器群
(後列右:高さ22.5cm)
正面ヶ原A遺跡の
朝日型深鉢と朝日型と無文土器の折衷
 
 
 


 300 Ⅰ火炎土器の成立前夜

 ※1万年以上続いた縄文時代の、土器の代表のように言われる火焔土器は、わずか300年余りの短期間の土器文化だった。
 301火焔土器の成立前夜
 火焔土器は、いったいどのように成立したのでしょうか。新潟県を象徴する縄文時代の土製造形物である火焔土器は、約5000年前に突然現れ、およそ4700年前には忽然と姿を消します。私たちにとっては突発的な消長現象に見えますが、事物成立には必ず、“きっかけ”が存在します。しかし、現在の研究成果では、火焔土器が成立する“きっかけ”はまだ掴めていません。
一見、周辺のモノと無関係にあるような造形も、個々に成り立っているわけではありません。
物質を構成する要素を分解し、その分解した要素ごとに関係性を探ることによって、他との類似性が低い物質もその成立過程を読み取れる場合があります。
 私たち考古学者は、そうした観点から象徴的な道具が成立していく過程を読み取ろうとしています。

 ここではこの難題に挑戦します。
「初期火焔」と呼ばれている長岡市山下遺跡出土土器を出発点にそれらの類似品と共に初期火焔土器の様相を探ります。

Ⅰ火炎土器の成立前夜 Ⅰ火炎土器の成立前夜

上に記述


 1.火焔型・王冠型土器の表現と文様要素
火焔型土器の大きな特徴は、立体的な装飾手法にあります。
口縁部には鋸歯状突起が巡り、口縁部から突出するように鶏頭環状突起が付きます。この突起は、口縁部に4単位で巡り、ハート形の窓が空けられています。この突起は、鋸歯部分を頭と仮定した場合、頭は右回りと左回りになるものがあります。頸部や胴部には、櫛歯状刻目文・袋状突起・トンボ眼鏡状突起などの表現が配置されています。

王冠型土器は、口縁は平らではなく波打つように4単位で突出します。これを短冊状突起と呼び、向かって左横に小さな抉りが入れられます。火焔型と同様に袋状突起などの表現が 認められます。


 2.火焔型・王冠型土器の文様構造
火焔型・王冠型土器の文様構造の特徴は、頸部と胴部でT字状の区画を行っていることです。T字の上部には横S字+J字の隆帯が施され、モチーフを連続させています。連続したモチーフは眼鏡状突起によって区切られており、器面上には4面で構成されています。T字区画内部には、上部施文域に同じく横S字+J字の基隆帯が施文され、下部施文域には逆U字文や棘状刺突などの特徴的なモチーフが表現されています。

一見複雑で雑多に見える文様構造ですが、このように完成された火焔土器には製作における規則性やルールなどが 認められます。特に規則性が高いのが、鶏頭環状突起から底部までまっすぐ下りるラインのモチーフ群です。上から、「鶏頭環状突起→ハート形窓→トンボ眼鏡状突起→縦位隆線(津南町の火焔土器にのみ、縦位隆線の中に袋状突起が付く)」という構成です。この並びは信濃川流域全体で見渡しても共通している場合が多く、なにがしかの神話や物語が表現されていたのかもしれません。
 こうした特徴的な火焔土器は、信濃川流域を中心にし、佐渡島を含めたおよそ新潟県域に分布します。

 ※各地に拡大したが、模倣ではなく、上述の文様構造や、その意味、等をしっかり学習したうえで各地で火焔型・王冠型土器を作ったため、
  偽物土器や方言土器ができたわけではない。どのようにして学んだのだろうか。

1火焔型・王冠型土器の表現と文様要素 2火焔型・王冠型土器の文様構造 火焔型・王冠型土器の
各部の名称
堂平遺跡の火焔型・王冠型土器の文様構造
 302堂平遺跡 火焔型土器 1-2
堂平遺跡 火焔型土器
1-2
堂平遺跡 火焔型土器
 305道尻手遺跡 火焔型土器 1-5
道尻手遺跡 火焔型土器 尻手遺跡 火焔型土器 1-5
 306道尻手遺跡 火焔型土器 1-6
道尻手遺跡 火焔型土器 尻手遺跡 火焔型土器 1-6
 307堂平遺跡 王冠型土器 1-7
王冠型土器
堂平遺跡 約5千年前
1-7
王冠型土器 堂平遺跡 約5千年前  1-7 王冠型土器 堂平遺跡
1-7
 
 320

 320「初期火焔・王冠」土器の特徴 -火焔土器と何が違うのか!?-

 321panel
 1.火焔型・王冠型土器の成立前夜
火焔土器が火焔土器たる所以を持つようになるのは、既述したような頸部と胴部とでT字状の区画を行っている点にあります。また、このT字状区画と関連して、鶏頭冠状突起から底部まで直線的に下るラインモチーフも特徴的です。火焔土器を定義づける際には、この文様構造の在り方が重要視されます。
火焔土器が このように文様構造を規則的に装飾しているのに対し、成立前夜の土器(ここでは「初期火焔」土器、「初期王冠」土器と呼びます)はこれらが不安定です。成立前夜の火焔土器がどのような特徴を持っているのか、初期火焔土器と火焔土器との比較を通して解説していきます。

 
 2.「初期火焔・初期王冠」土器の形・表現要素
火焔土器の形を突起を抜かして考えると、基本的には頸部が広がる「キャリパー形」を呈しています。この「初期火焔」土器も基本的には同様ですが、括(くく)れや広がりが火焔土器ほど顕著になりません。また、火焔土器が底の深い“深鉢形土器”になるのに対し、「初期火焔・初期王冠」土器に関しては、比較的小型で浅めの“鉢形土器”となる傾向が強いです。
火焔土器に顕著となる鶏頭冠状突起・短冊状突起は未発達で、トンポ眼鏡状突起・袋状突起も顕著になりません。
鶏頭冠状突起に付く“ハート形窓”も、この段階では円形を呈していたり、短冊状突起に見られる左上の抉りも施されません。
 

 3.「初期火焔・初期王冠」土器の文様構造
「初期火焔」土器も、火焔土器と同じく突起が単位となる点は共通しています。しかし、「鶏頭冠状突起→ハート形窓→トンボ眼鏡状突起→縦位隆線」という直線的なモチーフ群に関しては、まだ表現されていません。また、火焔土器の胴部が密集した隆線の束で施文しているのに対し、「初期火焔」土器は沈線間の空白部が多く、J字・逆J字状文やS字状文などに替わり、蕨手状の横位又は縦位モチーフが施文されています。
印刻される三叉文も施されており、後述する五丁歩土器との共通性が強いです。


 4.「初期火焔・初期王冠」土器の行方
近年の調査によって、「初期火焔・初期王冠」土器がより発見されるようになりました。近年の十日町市野首遺跡笹山遺跡は良好な事例ですが、
古くから知られていた長岡市山下遺跡なども顕著な事例で、同じく長岡市岩野原遺跡でも確認されます。このように、およそ分布は魚沼地方(信濃川上流域)~長岡市域(信濃川中流域)で発見されています。
こうした「初期火焔・初期王冠」土器は、文様における五丁歩土器との共通性を鑑みるならば、大木8a式古段階に並行します。大木式8a式中段階からが火焔土器の成立期とされていますが、その標識資料となっている道尻手遺跡第15A号住居跡や第14A・B号住居跡出土土器は、已然として形態や表現が定着していません。前段階的な五丁歩土器の要素が残っています。

「初期火焔・王冠」土器の特徴 -火炎土器と何が違うのか-
1火焔型・王冠型土器の成立前夜
2「初期火焔・初期王冠」土器の形・表現要素
火焔型土器・王冠型土器との比較
3「初期火焔・初期王冠」土器の文様構造
「初期火焔」土器の展開図
4「初期火焔・初期王冠」土器の行方 成立期
(大木8a式併行期)
の火焔土器
 322
岩野原遺跡
「初期火焔」土器
山下遺跡
「初期火焔」土器
山下遺跡
「初期火焔」土器
野首遺跡
「初期火焔」土器
 323
野首遺跡
「初期王冠」土器
山下遺跡
「初期王冠」土器
道尻手遺跡
「初期王冠」土器
道尻手遺跡
「初期王冠」土器
 

 330初期火炎土器と異系統土器の融合
 
 3311.異系統との折衷土器
火焔土器成立前夜の「初期火焔」土器の中には、異系統の土器の文様要素が融合する事例が認められます。その内容は、大木系土器中部高地系土器との融合であったりと、多様です。こうした特徴は、火焔土器成立前夜に特徴的なもので、火焔土器が成立していくプロセスの一役を担っていると考えられます。

火焔土器との大きな違いは、火焔土器の文様帯の構成が大きく3帯構成になるのに対し、本折衷土器群の場合は大きく4帯構成になることが特徴です。中には例外もありますが、共通する特徴としては、基本的には火焔土器は頸部が1帯構成であるのに対し、本折衷土器は頸部が2帯構成となります。この2帯構成の部分に、異系等の要素が組み込まれます。

 2.大木系土器との融合
大木系土器との融合は「対向弧線文」が使用されることで形成されます。クランク状文や対向弧線文、波状文などの意匠文がいくつかある中で、折衷土器に用いられる文様は対称弧線文である(1図)。管見にて確認できる資料は、長岡市山下遺跡(Ⅰ-19)、魚沼市親柄上ノ原遺跡(Ⅰ-20)、糸魚川市長者ヶ原遺跡(Ⅰ-21)、富山県朝日町不動堂遺跡にも長者ヶ原遺跡の類例が出土しています。点数も限られているため傾向も掴みにくいですが、山下遺跡と親柄上ノ原遺跡に関しては、共に大木式土器文化圏との関連が強い立場を示しています。北陸系土器文化圏の長者ヶ原遺跡や不動堂遺跡に出土した点に関しては、当時の地域(型式)間交渉を考えていく上で重要です。


 3.中部高地系土器との融合
異系等との折衷土器の中には、頸部に三角パネル文を施文する例が認められます。津南町や十日町の信濃川上流域に特徴的に認められる一群で、地域性の強さが評価されています。
管見にて確認できる資料は、道尻手遺跡(Ⅰ-22・23)と野首遺跡(Ⅰ-24)から出土しています。
こうした三角パネル文は、勝坂式土器に顕著に認められます。ただし、本要素が直ちに中部高地系との融合(折衷)を示すものとは断言できず、慎重に評価していく必要があります。


 4.「初期火焔」のみが融合する異系統性
こうした特徴を見た場合に、異系等要素と融合するのは「初期火焔」土器のみで、「初期王冠」土器とは融合しません。
それは、地域(型式)間交渉の媒体となる社会的機能を有していたのが「初期火焔」土器であったことが想定され、「初期王冠」土器にはない社会的機能であったと考えられます。
また、異系等を示す文様要素が「対向弧線文」「三角パネル文」であったことは、本文様要素が交渉を媒介する要素であったと考えられます。
類例はまだ少ないですが、火焔土器の成立前夜にのみ現れる点では、該期の文化的様相を把握するうえで重要です。

こうした折衷土器が、火焔土器の成立に何がしかの一役をかっていたことは、想像に難くありません。定型化した火焔土器作られる以前の、試行錯誤の土器なのかもしれません。

初期火炎土器と異系統土器の融合
初期火炎土器と異系統土器の融合 1異系統との折衷土器 2大木系土器との融合 1図
阿賀町屋敷島遺跡の対称弧線文とその変容
文様帯内における異系等文様の貫入状況 3中部高地系土器との融合
4「初期火焔」のみが融合する異系統制
 332
山下遺跡 初期火焔・大木系の折衷土器 長者ヶ原遺跡 初期火焔・大木系の折衷土器 道尻手遺跡 三角パネル文が施される「初期火焔」土器 道尻手遺跡 三角パネル文が施される「初期火焔」土器
 
 340初期火炎土器と異系統土器の融合
 341
「初期火焔」と異系統土器の融合
「初期火焔」とは?
-火焔土器と何が違う?-
 342初期火焔土器と異系土器の融合
「初期火焔」と異系統土器の融合 道尻手遺跡
三角パネル文が施される「初期火焔」土器
親柄上ノ原遺跡
「初期火焔」・大木系の折衷土器
山下遺跡
「初期火焔」・大木系の折衷土器
長岡市山下遺跡
「初期火焔」土器
 343初期火焔土器と異系土器の融合
「初期火焔」と異系統土器の融合
道尻手遺跡
三角パネル文が施される「初期火焔」土器
道尻手遺跡
三角パネル文が施される「初期火焔」土器
道尻手遺跡
三角パネル文が施される「初期火焔」土器
野首遺跡
三角パネル文が施される「初期火焔」土器
道尻手遺跡 廃棄帯
「初期火焔」土器
野首遺跡
「初期火焔」土器
 
 345「初期火焔」とは、-火焔土器と何が違う- (この部分にキャプションはあったのだろうか。あったとしたら見落としている。)

「初期火焔」とは、-火焔土器と何が違う-

「初期火焔」とは、-火焔土器と何が違う-
 346「初期火焔」とは、-火焔土器と何が違う-
水上遺跡16号住居
「初期王冠」土器
野首遺跡
「初期王冠」土器
野首遺跡
「初期王冠」土器
道尻手遺跡
「初期王冠」土器
野首遺跡
「初期王冠」土器
 347「初期火焔」とは、-火焔土器と何が違う-
岩野原遺跡 第1土器捨て場 「初期火焔」土器 岩野原遺跡 第1土器捨て場 「初期火焔」土器 道尻手遺跡
14A・B号住居出土土器群
道尻手遺跡
15号住居出土土器群
 348「初期火焔」とは、-火焔土器と何が違う-
岩野原遺跡 第1土器捨て場 「初期火焔」土器 岩野原遺跡 第1土器捨て場 「初期火焔」土器 笹山遺跡
左:「初期王冠」土器
右:「初期火焔」土器
 


 400Ⅱ火焔前夜 五丁歩土器の世界

昭和58・59(1983・84)年、現在の南魚沼市にて、縄文時代中期における一つの集落遺跡の発掘調査が行われました。それが、「五丁歩遺跡」です。
本遺跡から出土する土器は、半隆起線を基調とする火焔土器と類似しながらも、火焔土器が出土しない点が特徴的でした。
当初は火焔土器の仲間として扱われましたが、周辺の遺跡の調査が進み、少しずつ実態が掴めてきました。
その結果、現在では火焔土器と切り離し、「五丁歩土器」として独立する存在になりました。

近年の研究動向により、本土器群が火焔土器が成立する前段階におけるものだという理解が進み、火焔土器の成立にも大きく影響していると考えられています。更に、この「五丁歩土器」を標識として、火焔土器成立の前段階を「五丁歩式」という時間・空間の単位が呈示されるに至りました。

火焔土器はどのように成立し、そして成立する前夜ではどのような土器群が存在していたのか、五丁歩土器の実態を通して、その様相を考えます。

Ⅱ火焔前夜
 五丁歩土器の世界
Ⅱ火焔前夜
 五丁歩土器の世界

上に記述


 401五丁歩土器の特徴

 1.五丁歩系土器の発見
五丁歩系土器とは、火焔土器が出現する直前の縄文土器で、火焔土器成立の母体となりました。「五丁歩土器」(ここでは「五丁歩系土器」と表記します)とも呼ばれます。発見は昭和58・59(1983・84)年に遡り、五丁歩遺跡の発掘調査によって知られることになりました。
五丁歩遺跡の縄文土器は、火焔土器のように隆帯が発達し、一見火焔土器のようでもありますが、それらには見られない特徴を持っていました。そこで研究者たちは、魚沼地方一帯で作られた火焔土器などの仲間と考えることにしました。

その後、五丁歩遺跡の縄文土器は、出土事例が増え、最近では火焔土器などの仲間というよりも、火焔土器よりも古く、その出現に関わる重要な縄文土器と考えられるようになりました。そこで、火焔土器(馬高式土器)から分離して、「五丁歩土器」と仮称することにしました。


 2.五丁歩系土器の特徴
五丁歩系土器(1図)は、文様を描く際、まず隆帯と隆帯に沿った側線で渦巻文や懸垂文といわれる文様を描きます。
これを主文様と言いますが、主文様の間はよく見ると平坦な空白部があり、円形や三叉状に陰刻して空白部が少なくなるように文様を描きます。陰刻による文様を玉抱三叉文(あるいは三叉文)などと呼びますが、五丁歩系土器の文様は隆帯などの主文様とこの三叉文によって文様の大部分が描かれることに第1の特徴があります。
一方の火焔型土器の文様の描き方は、多くは主文様の間の平坦な空白部が少なく、主文様の隆体(基隆帯)と主文様に沿った半隆起線(隆線)でほぼ文様が埋め尽くされ、三叉文が描かれる余地がなくなります。

破片を手に持った時こうした主文様間の特徴をみることで、五丁歩系土器と火焔型土器を見分けることができ、両者の大きな違いの一つとなっています。
突起(把手)の形にも大きな違いが見られます。まず口縁部に見られる突起では、五丁歩系土器は、蝸牛状突起(かたつむりを横向きにしたような形状の突起)や左右の両側面に円孔をもつ双環状突起やコイル状突起などがあり、突起の形に多様性が見られます。

火焔型土器の口縁部突起は、「鶏頭冠状突起」にほぼ統一され、他の形状の突起(把手)は見られなくなります。五丁歩系土器のような多様性は失われますが、より立体的で装飾的となり、五丁歩系土器との明確な違いです。
土器の器面に展開する主文様の構成にも違いが見られます。口縁部の文様では、五丁歩系土器は、横線文と呼ばれる半隆起線文の束が特徴的ですが、火焔土器では櫛状文と呼ばれる独特の文様が横方向に連続しています。


頸部~胴部の文様は、五丁歩系土器では、構成が多様で、バリエーションも豊富です。代表的なものは、胴部上端を横に分帯するもの(胴部上端区画文土器)と、しないもの(懸垂文土器)などがあり、前者は胴部の渦巻き文に沿って鱗状小区画文を描き、その下に花弁のような縦位連続文を配しています。後者の懸垂文土器には主文様が斜め方向に描かれ、主文様間は三叉文で埋められます。火焔型土器とは異なり、胴部を縦に4分割するものは少ないようです。

これに対して火焔型土器では、五丁歩系土器のように斜めの文様構成をとるものは皆無で、大多数は胴部の上端を横に分帯したうえ、さらに胴部を逆U字状(あるいは2条の隆帯)の文様で縦に4分割するようになります。文様構成はバリエーションが乏しく、極めて統一的なものとなっています。

中でも逆U字状文などの縦の区画文様は重要なもので、五丁歩系土器では、区画文的性質は希薄で、独立した単体文として用いられています。(Ⅱ-2a・Ⅱ-10d)。区分の際の重要な指標の一つと言えるでしょう。こうした特徴と共に、五丁歩系土器に見られた鱗状の小区画文や縦位連続文は密集した隆線の束に変質しています。

 3.五丁歩系土器の広がり
五丁歩系土器は、発見当初は魚沼地方を中心とした局所的に分布する縄文土器と考えていました。しかし、最近になって更に広く、新潟県内の少なくとも中越地域まで分布が及ぶ可能性が考えられるようになりました。
また、長野県の北信地域でも出土する遺跡が知られるようになり、火焔土器の出現前夜に、これまで考えられていた以上の広範囲に展開することが明らかになってきました。

五丁歩系土器の特徴
1五丁歩系土器の発見
2五丁歩系土器の特徴
3五丁歩系土器の広がり 1図
五丁歩系土器の
細部の名称
 402土器展開写真
野首遺跡の五丁歩土器 野首遺跡の五丁歩土器 堂平遺跡の五丁歩土器 上野スサキ遺跡の
五丁歩土器
 
 410五丁歩土器 五丁歩遺跡8A号住居跡
五丁歩土器 五丁歩遺跡8A号住居跡 丁歩土器 五丁歩遺跡8A号住居跡
 
 420五丁歩土器とは
 421
五丁歩土器とは 五丁歩土器とは 堂平遺跡 9号住居跡
五丁歩土器
堂平遺跡 9号住居跡
五丁歩土器
芋川原遺跡採集
五丁歩土器
芋川原遺跡
五丁歩土器
森上遺跡
五丁歩土器
長野遺跡の
五丁歩土器
キンカ杉遺跡の
五丁歩土器
キンカ杉遺跡の
五丁歩土器
キンカ杉遺跡の
五丁歩土器
 425五丁歩土器とは
五丁歩遺跡8A号住居跡五丁歩土器 道尻手遺跡 廃棄帯
五丁歩土器
道尻手遺跡 廃棄帯
五丁歩土器
道尻手遺跡 廃棄帯
五丁歩土器
堂平遺跡 包含層
五丁歩土器
上野スサキ遺跡
五丁歩土器
上野スサキ遺跡
五丁歩土器
篠山遺跡の五丁歩土器 篠山遺跡の五丁歩土器
(三角形土偶付土器)
山下遺跡の五丁歩土器他
 

 430五丁歩土器と北陸系土器

 431
 1.天神山式土器(北陸系土器)とは
五丁歩系土器が本県で盛行していたのと同じ頃、北陸地方では、天神山式土器(北陸系土器)と呼ばれる非常に個性的な縄文土器が、富山県地方を中心に成立していました。
天神山式土器は、昭和34年(1959)年、富山県天神山遺跡の出土資料を標識として命名され、石川県の上山田式土器や本県の火焔土器に並ぶ北陸の中期中葉を代表する縄文土器として設定されました。とくに、石川県の上山田式土器とは特徴がよく類似しており、長らく「上山田・天神山式土器」と併記されていました。
最近本県でも、六反田南遺跡や長者ヶ原遺跡で良みうな資料が出土し、糸魚川市域も天神山式土器の分布圏であることが、明らかとなってきました。六反田南遺跡は概ねその前半期、長者ヶ原遺跡は後半期を中心としています。



 2.天神山式土器の特徴
五丁歩系土器と時期的に並ぶ天神山式土器(1図)は、後述のように相互によく似た特徴があります。天神山式土器を代表する深鉢形土器を中心にして解説しましょう。
まず、天神山式土器の器形の特徴は図のようにバケツ状の器形となるものが中心で、頸部付近で緩くくびれ、口縁部は短く内折します。
文様構成は、口縁部には横線文を持つものが多く、頸部以下の胴部の構成も、上端を横に分帯せず、斜めの主文様(斜行懸垂文)となるものが主流です。

主文様の描出方法も、隆帯と側線によるものを採用し、主文様間の広い平坦面は鱗状小区画文で埋められています。
また体部付近は縦位の連続が加えられています。これらの文様を描く技法は側線や小区画文に半隆起線文と呼ぶ北陸地方独特の隆線が採用されています。
このような特徴は、五丁歩系土器との深鉢形土器にも数多く見られます。しかし、天神山式土器と五丁歩系土器との間には上記のように類似した特徴ばかりではなく、両者の識別を可能にする違いも少なくありません。

例えば主文様に用いられている隆帯は、天神山式土器では矢羽根状や爪形文などによって刻み目を加えるものがほとんどです。
反対に五丁歩系土器では隆帯上の加飾がない物が大多数です。また天神山式土器は主文様間を細い沈線や縄文などで埋めていますが、
五丁歩系土器にはそうした充填文は基本的にありません。

 3.台付鉢形土器について
天神山式土器の特徴で見逃せないのは、台付鉢形土器(1図右)と呼ばれる天神山式土器独特の器形が見られることです。
それも少量ではなく、多く出土することにあります。
まず、台付鉢形土器の文様構成は、上記した深鉢形土器と同様の手法を用いて描きます。主文様に隆帯と側線を用いその間を鱗状の小区画などで埋めています。器形は底部までの身が深く、口縁部が短く外反する特徴があります。

台付鉢形土器は五丁歩系土器では散見される程度ですが、天神山式土器との関連深さを示しています。しかし、器形も身が浅く口縁部が省略されたものが多いなど、その特徴には少なからず、違いも見られます。(2図下)

 4.道尻手遺跡の北陸系土器
津南町道尻手遺跡では、天神山式土器と類似した土器が少量ながら出土しています。まだ、適切な名前はありませんが、ここではひとまず北陸系土器に加えて解説します。
2図上は、主文様となる隆帯上に刻み目を加え、B字状や鱗状の小区画内部を細い沈線で充填します。
口縁部の突起の形状や、主文様の文様構成には天神山式土器には見られない特徴が観察できます。

Ⅱ-16aは、主文様が天神山式土器のように斜方の文様構成をとっていますが、ラーメンマークのような半隆起線文(雷文)が主文様間を埋めています。これまでのところ、雷文を用いる土器は道尻手遺跡以外では見れません。

Ⅱ-18は、胴部の主文様の処理などに三叉文などを用いるなど、五丁歩系土器の特徴が数多くあります。
しかし渦巻き文脇の重弧状のモチーフは五丁歩系土器にはほとんどなく、天神山式土器に特徴的にみられるものです。
このように道尻手遺跡の北陸系土器は、単純に天神山式土器や五丁歩系土器と言い難い特徴が認められます。


 五丁歩土器と北陸系土器
五丁歩土器と北陸系土器
1天神山式土器
(北陸系土器)
2天神山式土器の特徴
富山県・新潟県の天神山式土器
深鉢形土器
台付鉢形土器
3台付鉢形土器について
4道尻手遺跡の北陸系土器
道尻手遺跡の北陸系土器
深鉢形土器
台付鉢形土器

 432道尻手遺跡の北陸系土器
道尻手遺跡の北陸系土器 道尻手遺跡の北陸系土器 道尻手遺跡の北陸系土器 六反田南遺跡の北陸系土器
 

 433五丁歩土器の成立を考える

 1.五丁歩系土器と千石原式土器
 前節では五丁歩系土器と天神山式土器の類似性について解説しました。その類似性は五丁歩系土器の出自が、天神山式土器などの北陸系土器との関係性の中にあることを示唆しています。ここでは、五丁歩系土器がどのような縄文土器から成立してくるのかを考えてみましょう。

 五丁歩系土器成立以前、本県には北陸系土器の一角をなす千石原式土器が盛行していました。千石原式土器は昭和48(1973)年、長岡市(旧三島町)千石原遺跡の出土資料をもとに、火焔土器盛行以前の縄文土器として標識化され、近年になって「千石原式土器」と正式に型式名で呼ばれるようになりました。
 その特徴の一つは、文様を描く際、竹管状の工具を用いる独特の技法あり、半隆起線文と呼ばれる文様が生成されていました。千石原式土器の文様はこの半隆起線文で描かれ、五丁歩系土器の多くに引き継がれました。特に五丁歩系土器の標識遺跡がある魚沼地方周辺には、施文が深く、半隆起線文の曲線と曲線の接点の隙間を陰刻状に削り取る流儀があり、それが五丁歩系土器にも見られます。

 口縁部文様にも五丁歩系土器へと受け継がれるものがあります。千石原式土器では、時期が降ると口縁部は短く内折し横の半隆起線文束がひかれるもの(1図中)が出現しますが、それが五丁歩系土器では口縁部の横線文になっていきます。千石原式土器の口縁部の川字状の半隆起線文も、五丁歩系土器の添付文へと変化します。(2図)

 文様構成は、千石原式土器では基本的に口縁部から頸部にかけて横方向の文様、胴部以下は、縦方向の文様で構成されていますが、時期が新しくなってくると、斜方向に隆帯をおろしたもの(1図中・右)が出現し、それが五丁歩系土器の主文様として発達を遂げていきます。
先に見た五丁歩系土器に伴う北陸系土器に、斜めの主文様を持つものがありましたが、よく見ると頸部付近に横方向の文様が描かれており、この特徴は千石原式土器の文様構成の名残と推測されます。五丁歩系土器の成立直前の土器なのかもしれません。

 


 2.五丁歩系土器と信州方面の土器
 五丁歩系土器には、信州方面の土器との関わりの中で生成されて来た文様がいくつかあります。その一つが片目の突起(環状突起:4図)で、元々は信州方面の縄文土器に付されていたものです。五丁歩系土器生成の過程で、渦巻文の起点などに取り入れられるようになります。
この片目の突起(環状突起)は新しくなると両眼の眼鏡状突起に置き換わります。
一方で片目の突起(環状突起)は形骸化し、火焔土器では渦巻文の起点に見られるY字状の分岐となって僅かに痕跡が残るだけになります。

 もう一つは、五丁歩系土器を特徴付ける三叉文です。
三叉文は千石原式土器の新しい時期に徐々に多用されるようになりますが、もともと千石原式土器では、三叉文を描く流儀は重用されず、半隆起線文でB字状や楕円文形状に区画して、その内部を細い沈線文や縄文で埋めるのが主流でした。
しかし、魚沼地方周辺においては、三叉文を用いる信州方面の縄文土器(3図)が多数流入するに伴い、千石原式土器がこの文様を採用し、五丁歩系土器に引き継がれていきました。

 3.五丁歩系土器の出自
五丁歩系土器は、これまでに解説してきたように、その特徴が北陸系土器との親縁性が高く、特に基本となる文様構成や描出方法など、千石原式土器から継承されている要素が多く伺えます。その一方で三叉文や片目の突起など、信州方面との関りで成立してきたと考えられる特徴もあります。
その成立については課題も多いのですが、今のところ、千石原式土器を母体として、信州方面との関係性の中で生成されてきたと考えられます。

五丁歩土器の成立を考える
1五丁歩系土器と
千石原式土器
2五丁歩系土器と信州方面の土器
3五丁歩系土器の出自
 435野首遺跡の五丁歩土器
野首遺跡の五丁歩土器 野首遺跡の五丁歩土器
野首遺跡の五丁歩土器 野首遺跡の五丁歩土器
野首遺跡の五丁歩土器 野首遺跡の五丁歩土器 野首遺跡の五丁歩土器 野首遺跡の五丁歩土器 野首遺跡の五丁歩土器
 436五丁歩と北陸
 437野首遺跡の五丁歩土器
野首遺跡の五丁歩土器 野首遺跡の五丁歩土器 野首遺跡の五丁歩土器
野首遺跡の五丁歩土器
野首遺跡の五丁歩土器
 438五丁歩土器と北陸系土器
道尻手遺跡の
北陸系土器
道尻手遺跡の
北陸系土器
道尻手遺跡の
北陸系土器
道尻手遺跡の
北陸系土器
 438
 439五丁歩遺跡と北陸系土器
道尻手遺跡の
北陸系土器
道尻手遺跡の
北陸系土器
道尻手遺跡の
北陸系土器
道尻手遺跡の
北陸系土器
道尻手遺跡の
北陸系土器
道尻手遺跡の
北陸系土器
 
 462五丁歩遺跡の成立を考える
野首遺跡の
千石原式土器
道尻手遺跡の
北陸系土器
清水上遺跡の
千石原式土器
 


 500Ⅲ焼町土器の世界


 縄文時代中期中葉の長野県中北部(北信・東信地方)では、「焼町土器」と呼ばれる土器群が分布します。粘土紐による流れるような曲線を軸として文様を展開し、文様を横に区切らない傾向があります。横区画を多用する長野県南西部の勝坂式土器とは非常に対照的と言えます。
 その曲線の文様などから、新潟県域における火焔土器との関係で捉えられてきた経緯を持ちますが、類例の増加と共に独自の土器群として認識が改められてきました。
 焼町土器の中心地は、千曲川上流域の東信地方にあります。代表的な遺跡として御代田町川原田遺跡長和町町大仁反遺跡・長和町明神原遺跡佐久市寄山遺跡などが挙げられます。これらの遺跡では、焼町土器が主体的に出土することが多く、制作地域の中核を担っていたことがわかります。
 ここでは、焼町土器の本場である千曲川上流域における様相からその特徴を概観します。その上で、新潟県域における五丁歩土器や火焔土器・北陸系土器との関係を探ります。
また、焼町土器がどのように波及するのか、新潟県域の焼町土器から考えます。

 501panel
Ⅲ焼町土器の世界
上に記述

 502焼町土器の特徴 -五丁歩土器との関係など-

 1.焼町土器の名称について
焼町土器とは、長野県塩尻市「焼町遺跡第1号住居址出土土器とその類例」の略称です。長らく良好な資料に恵まれず、暫定名称のまま研究が進められてきました。特徴は曲がりくねった粘土紐(曲隆線)とそれに沿う沈線により流動的な文様を描く点にあります。
堤隆氏は長野県御代田町川原田遺跡の報告で焼町式に言及し、寺内隆夫氏も現在は焼町式を使っています。一方、山口逸弘氏は新巻類型と焼町類型に二分し、研究を進めています。
 
 2.曲隆線文を基軸とする千曲川上流域の土器
焼町土器を主に製作・使用しているのは、千曲川上流域(最上流域を除く東信)の狭い範囲です。この地域では、中期初頭(大木7a式併行期)以来、分帯・区画を土器装飾の基本にしてきました。
ところが、類似性の強い勝坂式土器が影響を増す中、伝統を捨て大転換を図ります。北信~頸南地域 (新潟県頸城郡南部地域) の「継手文」(右図)を採用、h字状の懸垂文とともに複雑化させて、流動的な装飾構造に変えたのです。筆者はこの転換 (大木7b式後半並行期) を持って、焼町土器の成立(古段階)と考えています。
 一方、殊な台付鉢だけが発達し、全体的には曲隆線文が退化した段階(大木8a式後半に並行) の土器は、焼町土器から外しています。焼町土器の最盛期 (新段階) は大木8aの前半期に並行します。(Ⅲ-2-5)


 
 3.焼町土器の特徴
製作は厚手の作りです。鉄分の多い粘土を使うため赤黒い焼き色が特徴です。雲母・石英の混入例が多く見られます。
器種の大半は深鉢形で、台付鉢が少数あります。浅鉢は皆無です。深鉢形の器形は、口縁部が膨らみ、底部は内折しません。他に、体部が膨らむ樽型が多少あります。
 装飾は直線的な分帯・区画を避け、縦横に流れる曲隆線文を基軸に構成します。隆線上の刻みは稀でも曲隆線の結節点や口縁部には8字状や円形の突起が付きます。これらは新段階に巨大化し、突起下部にコイル状貼り付け文が加わります。沈線は隆線に沿い、流動感を高めています。古段階の沈線は条数が少なく、幅広の単沈線が浅く施文されます。新段階には条数が増え、鋭利な単沈線の密接施文か、半隆起線文があります。

後者では、半隆起線文の凹線部を二度引きして深さを強調する例もあります。底部付近を除く器面は、沈線などで充填します。縦位楕円形・逆U字状文の内側は、列点や玉抱き三叉文で埋める場合があります。古段階には縄文が、後続する土器には縄文撚糸文が見られますが、通常は施されません。

 4.五丁歩土器との関係
隣接型式の中で、類似度が高いのは北信~越後の土器です。焼町土器がこの地域の装飾を採用して成立するからです。そのため五丁歩土器などに比べると、欠落する要素が散見されます。横S字状文や渦巻文などの意匠が乏しく、隆線や沈線を半截竹管で整える技法も徹底されません。
一方焼町土器では隆線を太く、突起を大きく目立たせる傾向が顕著です。五丁歩土器に見られる内屈する口縁部形態や明確な文様帯の分割がない点、空白部の充填に連続する陰刻文が少ない点なども焼町土器の特徴の一つです。
 このように、個々の要素では焼町土器と五丁歩土器の違いは少なく近縁関係にあります。
今後、違いを明確にすることが暫定的な略称の解消につながると思われます。

焼町土器の特徴 -五丁歩土器との関係など-
1焼町土器の名称について
2曲隆線文を基軸とする千曲川上流域の土器
3焼町土器の特徴
長野県塩尻市焼町遺跡
第1号住居址
4五丁歩土器との関係
焼町土器
上:古段階
下:新段階
川原田遺跡
 
 510Ⅲ焼町土器の世界
 511焼町土器とは
大仁反遺跡の
4g号住居跡
焼町土器古段階
大仁反遺跡の
4g号住居跡
焼町土器古段階
大仁反遺跡の
4e・4f号住居跡
焼町土器新段階b・c
大仁反遺跡の
4e・4f号住居跡
焼町土器新段階b・c
久保在家遺跡18号住居跡 焼町土器古段階
久保在家遺跡18号住居跡 焼町土器古段階
東畑遺跡95号住居跡
焼町土器(新段階)
 513焼町土器
熊久保遺跡
焼町土器(新段階)
 532焼町土器展開写真
焼町遺跡
焼町土器
川久保遺跡
新巻類型土器
道尻手遺跡
焼町土器類似
 

 540焼町土器の波及 -千曲川上流域から周辺地域へ-


 1.焼町土器の勝坂式土器文化圏への波及
焼町遺跡出土土器が最初に注目され、「焼町」の名前が定着しましたが、遺跡自体は分布の周辺に位置しています。
体部下半に分帯線がある土器も、典型例とは言えません。本場の千曲川上流域では、装飾の流れを阻害する分帯線はないか、又は、直線的に描かないのが基本です。
ところが、本場の東側に当たる群馬県、西側の長野県中・南信といった、分割・区画を好む勝坂式土器が影響力を持つ地域では、体部下半に分帯線を描く例がしばしば見られます。
 群馬県側には様々な分帯のパターンがあります(Ⅲ-8)。この地域では、勝坂式土器と共に五丁歩土器などの装飾や分帯方法も取り入れ、焼町類似の土器を作っています。
一方、中・南信では、焼町遺跡例のように、分帯線はあるものの胎土や施文手法は本場と見分けの付かない例が多くあります。
勝坂文化圏向けの特注品か、作り手が出張製作した際に地元向けに分帯を入れた可能性も想定され、興味深い現象です。ただし、拠点的なムラには焼町土器の典型的な優品が運ばれています。(Ⅲ-7)
 このように、焼町土器の隣接地であっても、群馬県側と中・南信では情報の受け入れ方が異なっていました。
 
 2.焼町土器新段階の中越への波及
では、魚沼地方へはどうだったのでしょうか。焼町土器の魚沼地域との関係を探るには、➀中間の北信~頸城南部の土器。②群馬県側で変容した焼町土器や類似土器、この2者を念頭に置く必要があります。

 焼町土器は、その成立に深く関わる➀地域と密接な関係にあるはずです。ところが、長野盆地などでの調査例が極めて少なく実態は不明です。
北信・東信・中信、3地区のほぼ中央に位置する筑北村東畑遺跡では、焼町土器新段階の興味深い資料が見つかっています。(Ⅲ-6)。
3点とも胎土が異なっており、Ⅲ-6-b・cは、北信~頸城南部で製作されたと思われます。これらは口縁部に明確な区画帯を配し、沈線・陰刻系の文様は焼町土器に比べ多様で丁寧です。一方、突起は控えめです。これらは焼町土器の波及で変容したのでなく、元々、➀と域に本場があり、焼町土器の側に影響を与えた土器と考えられます。

北信の中野市千田遺跡には、五丁歩土器に似た北信の土器(1図)があり、焼町土器は少数にとどまります。焼町土器の本場から更に遠方に当たる魚沼地域では、搬入例 (津南町道尻手遺跡など) は限定的で、焼町土器の直接的な影響は僅かだったようです。今後、中間地域の北信との関係を検討していく必要があると考えられます。

また、津南町出土の焼町類似土器の例を見ると、半截竹管による「C」字の刺突が連続する道尻手遺跡例(Ⅲ-11)。体部上半部に明瞭な分帯線をもつ堂平遺跡例(Ⅲ-14)など、群馬県側の焼町土器や類似土器との共通点が伺えます(Ⅲ-8)。湯田町川久保遺跡の口唇部にみられる大型の円文(Ⅲ-10)も群馬県側で巨大化する例が多く、焼町土器新段階では、群馬県側との交流が盛んだったと考えられます。
 
 3.焼町土器古段階及び後続する段階の中越への波及
 小地域ごとの特徴が明確になる新段階に比べ、古段階では、土器装飾の相互影響がうかがえます。特徴的なのは4単位の山形口縁を持つ類型で、広範囲(Ⅲ-9)に分布し、胎土の違いから各地で製作されていたことがわかります。
これは、関東の阿玉台式土器や千曲川流域の土器などが活発に動き、各地で変容を生む前時期の状況が続いていたためと考えられます。

 また、再び千曲上流域の土器様相が不安定化する焼町土器新段階末から後続の段階(大木8a式後半段階並行)では、焼町系統の土器が特殊な動きを見せます。新段階末頃の堂平遺跡例(Ⅲ-12a)の台付鉢の動きなどです。
加飾性に富んだ台付鉢は本場での出土例が少ない一方、周辺地域で広く点在する傾向にあります。そして、焼町土器が衰退する時期(2図)にも製作が続きます。儀礼などのために特別に1点ものとして製作された可能性が考えられます。
堂平遺跡例(Ⅲ-12a)も、焼町土器製作が終わりを告げる時期の例と考えられ、焼町土器よりも北信との関係を模索する必要があるでしょう。このように、焼町土器の波及は、それぞれの方面で異なった状況を示しています。

 541焼町土器の波及
焼町土器の波及 -千曲川上流域から周辺地域へ-
1焼町土器の勝坂式土器文化圏への波及
2焼町土器新段階の中越への波及
北信の土器
中野市千田遺跡
3焼町土器古段階及び後続する段階の中越への波及

焼町土器に後続する時期の台付鉢
塩尻市上木戸遺跡
 543焼町土器の波及
川久保遺跡
焼町土器の要素を取り入れた
五丁歩土器
道尻手遺跡 廃棄帯
焼町土器(古段階)
道尻手遺跡 廃棄帯
焼町土器(古段階)
道尻手遺跡 廃棄帯
焼町土器(古段階)
 545焼町土器の波及
道尻手遺跡 廃棄帯出
焼町土器類
堂平遺跡42号住居跡
焼町土器類
堂平遺跡42号住居跡
焼町土器類
堂平遺跡42号住居跡
焼町土器類
 547堂平遺跡 54号住居跡 焼町土器類似
 


 600Ⅳ火焔前夜における大木式土器の世界


 縄文時代中期には、東北地方南部を中心として「大木式土器」が分布します。大木式土器は周辺地域に対しても大きな影響力を持って存在していた土器で、新潟県域でも例外ではありません。
 信濃川最下流域から会津地方へ向かう阿賀野川流域は、その大木式土器文化の様相が色濃く反映されています。ここでは、会津文化の一端を見られる新潟県阿賀町を対象にして、火焔土器成立前夜における大木式土器の様相を探ります。

 大木式土器の大きな特徴は、まずもって"縄文"を施文するところにあります。これまで概観してきたように、火焔土器・五丁歩土器・焼町土器には基本的に"縄文"を施文しません。こうした独自の在り方を保持していた大木式土器は、新潟県域の中でも多く出土しています。新潟県内で土器の編年を組む時、まずもって大木式土器をその基準としていることからも、存在が目立つことがわかります。このような事象から、新潟県の魚沼地方・信濃川流域に於ける大木式土器の波及現象とその様相を考えていきます。

 611
Ⅳ火焔前夜における大木式土器の世界 Ⅳ火焔前夜における大木式土器の世界 Ⅳ火焔前夜における大木式土器の世界

 612火炎土器前夜の阿賀野川流域 ―屋敷島遺跡の様相―

平成15・16年に東蒲原郡旧鹿瀬町が発掘調査を行った屋敷島遺跡では、縄文時代中期前葉から中葉にかけての土器が豊富に出土しました。本コラムでは屋敷島遺跡出土土器の主体である東北南部系「大木式土器」を対象に、特に火焔土器成立前夜に焦点を当てて筆者の考えを提示します。

筆者は屋敷島遺跡出土土器を5期に細分して考えており、1・2期は大木式7b式、3~5期は大木8a式に対比しています。
下図はその内1~3期を抜粋し、2種類の深鉢を時系列に沿って配置したものです。
深鉢Aは湾曲しながら開く口縁部に円筒状の胴部が付くもの、深鉢Bは樽状の器形をとるものです。器形と文様帯に着目して変化を追跡してみましょう。

 1・2期の深鉢A(1・2)は口縁部Ⅰ-1帯のピンク色の帯の幅が広く、個々に楕円区画文(2の赤色)が入ったり、交互刺突文(2)が施文されます。また胴部Ⅱ帯には垂直に区画する隆帯(緑色)が貼り付けられます。
 3期(5~7)になると口縁部のピンク色の帯の幅が圧縮されて狭くなるので、縦の短い沈線を並べるだけになったり(5)、横に沈線を引くだけになってしまいます(6)。また胴部Ⅱ帯の緑色の区画は2本に増える例(7)、クランク状に折れ曲がる例(5)、横にも連結される例(5・6)、斜めに流れ落ちるようになる例(6)があります。口縁部と胴部の境目も幅広くなってⅡ'帯を形成します(6・7)。

次に深鉢Bを見てみると、1・2期では、口縁部Ⅰ帯の青色の帯は文様がなく、Ⅱ帯は深鉢Aと同じく垂直に区画する隆帯(緑色)が貼り付けられています(3・4)。
 3期(8)になると青色のⅠ帯に縄目や楕円区画文(赤色)が付けられ、Ⅱ帯には緑色の垂直の区画文に文様が連結するようになります。
両深鉢に共通して、横倒しのS字状突起(オレンジ色)が発生・大型化し、文様も一つ一つの単位がはっきりしているものから横に流れて繋がっていく(7のⅠ-2帯、8のⅡ'帯)方向に変化していきます。

 3期はそれ以前に比較して装飾の度合いが強まり、文様帯の幅やその中の区画方法も大きく変化しています。安倍泰之氏はこの変化を評価して3期からを大木8a式と考えていますが、これと近い時期に編年される越後の千石原式系統や「五丁歩土器」、火焔土器とどのような影響関係にあるのか、さらには他地域の大木8a式とはどこが違うのか…研究課題は山積しています。






火炎土器前夜の阿賀野川流域
-屋敷島遺跡の様相-
火炎土器前夜の阿賀野川流域
-屋敷島遺跡の様相-
火炎土器前夜の屋敷島遺跡の大木式土器 屋敷島遺跡の
大木式土器編年
 615火焔前夜の阿賀野川流域 -阿賀野川屋敷島遺跡-
火焔前夜の阿賀野川流域 -阿賀野川屋敷島遺跡- 屋敷島遺跡
大木式土器群
屋敷島遺跡
大木式土器群
屋敷島遺跡
大木式土器群
屋敷島遺跡 包含層
大木式土器
屋敷島遺跡
大木式土器
屋敷島遺跡
大木式土器群
屋敷島遺跡
大木式土器群
屋敷島遺跡
大木式 浅鉢形土器
屋敷島遺跡
大木式土器
 

 620信濃川上流域における大木8a式古段階の土器

大木式土器とは、宮城県七ヶ浜町大木囲貝塚を標識として、1929(昭和4)年に山内清男によって設定された、1式から10式までの土器形式です。特に東北南部に分布が見られます。信濃川上流域も縄文時代中期前葉頃になるとこの大木式土器の分布圏に含まれます。
大木式土器は、東北南部から下越地方、中越地方、魚沼地方と広く分布するため、時間軸の比較や地域性を見ることができます。
器種は、深鉢形と浅鉢形からなり、深鉢形土器の口縁部は、キャリパー形、外傾する波状口縁と平口縁が見られます。胴部は底部から直線的に立ち上がるものと、丸く張り出すものがあります。
文様は縄文を地文に持ち、隆帯や半截竹管文・棒状工具で並行沈線や単沈線で波状文やクランク文、渦巻き文や懸垂文を施文します。

 五丁歩土器に縄文文様が施文されていないのに対して、大木系の土器には縄文文様が地文として施されているのが特徴です。
 津南町堂平遺跡第9号住居から2点の五丁歩土器(Ⅱ-3)が出土しています。そして、同じ住居跡から写真の通り大木系の土器(Ⅳ-8)も出土しています。この3点の土器は深鉢形土器で、縄文地文を持ち、隆帯に棒状工具による刻みや押し当て文様を口縁部や頸部に施しています。また、沈線による懸垂文が施されます。
同時期と考えられる十日町市野首遺跡出土の深鉢形土器(1図-1:Ⅳ-10)は文様帯を3つに分けてみると口縁部に突起がつき、頸部には縄文を地文として、連続する二重の弧線文が施されます。胴部は、隆帯によりT字に区画され、同じく縄文地文が施され、沈線による文様が施文されます。
 魚沼市清水上遺跡の深鉢形土器(1図-2:Ⅳ-11)の口縁部には、橋状突起が付けられ、頸部には縄文を地文として、沈線によるクランク文や渦巻き文が二重に施されています。
 道尻手遺跡の丸く張り出す樽状の深鉢形土器(1図-3:Ⅳ-9)の口縁部には大仰な突起と隆帯による波状文が施され、頸部には橋状把手が付けられます。胴部は縄文地文に隆帯による二重の渦巻き文が不規則に施されます。

三条市長野遺跡の深鉢形土器(Ⅳ-12)は口縁部は波状を呈し、頸部の橋状突起と繋がり、その間に楕円形状区画を持ちます。胴部は、縦転がし、横転がしなど何通りかの方向を持つ縄文地文上に隆帯による渦巻き文や懸垂文が施され、両脇を棒状工具で調整していることが特徴です。

長岡市山下遺跡出土の浅鉢形土器(Ⅳ-13)は、4つの突起の波状口縁を持ち、胴部には縄文地文が施され、楕円区画や隆帯の脇に縄を押し当てた縄文側面押圧痕文が特徴的です。
 これらの土器に共通するのは、縄文地文に複数の沈線による弧線文やクランク文が施されることです。

「馬高式」は、火焔型土器、王冠型土器のほか、東北の大木系土器や信州の焼町系、北陸の上山田・天神山系、中部高地・関東系の土器で構成されます。つまり、多様な地域の影響を受けた土器が出土しています。これらの土器を作った人々と、縄文文様を持たない五丁歩土器や火焔型土器を作った人々は、どのように考えていたんでしょうか。
 1つの遺跡(ムラ)から多様な土器が作られる意味や背景を考えていく必要があります。



信濃川上流域における大木8a式古段階の土器
信濃川上流域の大木8a式古段階土器
 630大木式土器の波及
大木式土器の波及 堂平遺跡9号住居跡
大木系土器群
堂平遺跡9号住居跡
大木系土器群
道尻手遺跡 廃棄帯
大木系土器群
堂平遺跡9号住居跡
大木系土器群
清水上遺跡
大木系土器
野首遺跡
大木系土器
長の遺跡
大木系土器
山下遺跡
大木系浅鉢形土器
 
  企画展 終り
 
 
 
 
 
 

 一般展示室

 700信濃川流域の火炎土器と雪国の文化

 710津南町における大木系土器の世界
大木式土器は縄文時代中期に盛んに作られた土器で、東北地方南部を中心に数多く出土します。
この大木式土器はここ津南町でも多くみられ、何らかの地域的な繋がりがあったことを示唆しています。
 器形はキャリパー形の深鉢形土器が多いことが特徴で、他にも樽形の深鉢形土器や浅鉢形土器等が見られます。
大木式土器は、同時期に作られる火焔型土器とは対照的で、地文に縄文を施文することを基本とし、クランク文や渦巻文、波状文等の沈線を貴重とし、比較的簡素な雰囲気を持つという特徴があります。一方で、装飾性の高い突起を持つ個体もあるなど、共通する要素もあります。

信濃川流域の火炎土器と雪国の文化 津南町における大木系土器の世界 道尻手遺跡 道尻手遺跡 堂平遺跡

 地文を撚糸文とする大木系土器

撚り糸文とは、撚り紐を軸棒に巻き付けた施文具によって施文された文様を指します。本場である東北地方ではほとんど見られません。むしろ関東の土器に見られる文様要素であり、その影響が伺えます。通常の縄文は横回転、撚り糸文は縦回転で施文することから、施文軌跡が異なることも特徴です。

 不思議な台形土器
台形土器は用途がはっきりわからない特殊な土器です。一般的には土器を置くための台だといわれています。
しかし、この堂平遺跡出土例は煤が多く付着しており、土器を上にのせて火にかけていたことが推定されています。

道尻手遺跡 堂平遺跡 地文を撚糸文とする
大木系土器
土器展開写真
堂平遺跡 不思議な台形土器

 深鉢形土器の用途
深鉢形土器は主に煮炊きに使われたと考えられており、付着している炭化物(おこげ)はその痕跡と考えられています。

堂平遺跡 堂平遺跡 道尻手遺跡 深鉢形土器の用途 道尻手遺跡 道尻手遺跡
道尻手遺跡 道尻手遺跡 道尻手遺跡 道尻手遺跡 道尻手遺跡 道尻手遺跡
道尻手遺跡
 730石器に彫刻された 礫造形
ピンボケ 屋敷の平遺跡 の
彫刻石皿
中期中葉
長さ38㎝
上郷小学校遺跡の
脚付石皿 長44cm
中期後半~後期
) 芋川遺跡の大型石棒
十日町市(旧中里村
中期中葉 72cm
堂平遺跡の大型石棒
後期前葉 62.4cm
 
 
 740苗場山ジオパーク
一帯は苗場火山の溶岩流や火砕流が分厚く堆積しており、それを深く浸食して各所に絶景が生まれている。


番号は見えません

判別は出来ません

ジオラマ全景

北から南を望む
最奥が苗場山、手前が川の展望台

信濃川・線路・道路と沢山の遺跡

本ノ木・卯ノ木・神山
・正面ヶ原D(遺跡)

火山堆積物を川が削った地形

火砕流が分厚く積もった台地が山の上に広がる

水利不便な山上台地は放牧か畑作地

信濃川発電所。他所では明治大正の記念物の発電所が現役で稼働している。

南側
南から北を望む
南端には苗場火山が聳える。ここから全て始まった。

特徴的な火山灰台地です。

渓谷としては壮年期
山の上派幼年期地形


 
 800博物館栽培の古代雑穀
館では古代の穀物を栽培しています。アワやキビ、ヒエなどを始め様々のものでした。
もう、60年も前の記憶。雑穀の名前などすっかり忘れていました。

縄文ムラの復元施設