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 中部地方の縄文1 19  2017.05.12

  長和町原始・古代ロマン体験館   長野県小県郡長和町大門1518  0268-68-4339 月曜休館 撮影可


   ・旧長門町の黒曜石博物館。 長和町は2005年に、長門町 (星糞峠) と和田村 (和田峠) が合併してできました。

   ・所在地の「大門」は、後に何度も出てきます。ここは、黒曜石を求める縄文人が各地からやってきた場所で、交易や宿泊、
    黒曜石製石器の製造が行われ、産地で働く人々など、が集まる、旧石器から縄文までの長い間、大繁栄した場所です。

    きっと、当時の列島で、最高の人口密度、多地域の人々の来訪度、など、最高の場所だったのでしょう。

  交通  車

  見所  ものではなく、立地する「旧大門]村」が、旧石器時代から続く、黒曜石交易の大集落跡の遺跡であること。その歴史。

  注意   ここの館では、黒耀石 と表示されていますが、ワープロの一般的な変換に従って 黒石と記述します。


目次

01外観
03入口展示

10旧石器時代

11黒曜石のふるさと
20旧石器時代
21先土器時代の長和町
23先土器時代の鷹山ムラ
考察
 旧石器時代の定住集落

24黒曜石原産地遺跡と
   石器の搬出
考察 黒曜石の交

25石器を作る

30縄文時代

31長野県の土器の移り変わり
32長門町の縄文ムラ
33長和町出土の縄文土器
 34早期〜後期
考察
 縄文時代の終焉と黒曜石産地

40弥生時代

41里のムラ・山のムラ
考察
 黒曜石産地の玉製作工房

42古墳時代
43奈良・平安時代

考察 古代の長和町
資料 黒曜石産地地図

縄文時代の鷹山

51住居址を掘るとは

60明神原遺跡の土器
61前期前半〜中期中葉

70縄文の暮らし
71季節の変化と食べ物
72土器
73石器

80大仁反遺跡の土器

90食べ物
92道具

100縄文の心
102@文様と衣服
103A髪型
104Bアクセサリー


110民俗

 01外観
JR茅野駅茅野市は八ヶ岳の広大な山域と、そこに根差した歴史と文化が有名 御柱祭りのディスプレイな街である。ここの縄文博物館には関東からバスを連ねてやって来る 縄文遺跡のディスプレイ八ヶ岳総合博物館撮影可では特殊な展示の為写真が見えなかった。 茅葺って大変ですよね。
相当資力がないと維持は無理
原始・古代ロマン体験館  ここは、廃校になった小学校の体育館を改造して作られています。

とてもうまく改造されています。


 03入口展示
 10旧石器時代

  11黒曜石のふるさと
    火山から生まれた天然ガラスの黒曜石は、割れ口が鋭く加工しやすいので、良好な石器の材料として使われてきました。
    火山の多い日本列島では各地に様々な黒曜石が生み出されていますが、その中でも、信州産の黒曜石は、最も広い範囲で利用され、
    本州最大の黒曜石の原産地と言われています。

    長和町では、星糞峠の付近に、黒曜石を生み出した火山があり、この麓の鷹山地区では、全国各地に黒曜石を送り出した、
    大きなムラの跡が発見されています。(星糞=黒曜石の方言) (月糞=巻貝の化石)

入口展示来客少なくてもよく工夫してディスプレイされている 移動博物館を実行中
素晴らしい
黒曜石のふるさと 黒曜石のふるさと 日本の黒曜石産地
北海道白滝 長野県和田峠
神津島・箱根
島根県隠岐 大分県姫島
佐賀県腰岳
黒曜石のでき方
 黒曜石のでき方

 黒曜石Wikipediaでは、「流紋岩質マグマが水中などの特殊な条件下で噴出することで生じる。」とあり、
 海水中・湖水中への溶岩の流出によって形成されると思っていました。

 しかし、実際には、二酸化ケイ素を多く含むマグマが空気中に噴出したときにできるもので、
 ケイ酸分の多い火山では、火山弾として火口周辺に転がっているのです。

 空気中で出来る黒曜石の方が一般的なようです。
黒曜石運搬経路
 黒曜石の推定運搬経路とナイフ形石器の特徴型式の広がり※
   図示はされていても、文章として何も言及されていないのですが、長野県産黒曜石は関東への搬出が多かった。

   東北南部の黒曜石を調べていた時、関東地方の黒曜石流通には、特別な文化圏があり、文化や黒曜石は、
   特定の地域にのみ伝播し、決して、いくら近くても交わらない地域がある。と読んだことがある。

   この図がまさにそのことのようです。
    ふーん。凄いもんだ。 言語や部族、民族等の違いだろうか。関東の遺跡を調べていないので全く手掛かりがない。
 
北海道白滝産黒曜石
 
流紋岩と黒曜石
(男女倉)

男女倉黒曜石 (和田村)
星ヶ塔の黒曜石(下諏訪町) 
 





 20旧石器時代   〜約12,000年前



  21先土器時代の長和町
    日本列島に人が住み始めたのは、最近の発掘調査から10万年を遥かに超える昔ともいわれています。
    長野県内でも野尻湖からナウマンゾウの骨と供に約4万年前の人々の生活の跡が発見されています。

    長和町では、標高の高い町の南側に、割橋・追分・鷹山遺跡などが発見されており、約3万年前から人が住み始めていました。
      3万年前から黒曜石の採掘が始まっていたということらしい。

     割橋遺跡   宮坂英弌の軌跡(4) 旧石器文化の探求 | 茅野市尖石縄文考古館
     追分遺跡   黒耀石の道 Discovery Trail - 黒耀石体験ミュージアム
     鷹山遺跡群 長野県 - 長和町 - 全国遺跡報告総覧 鷹山遺跡群X - 全国遺跡報告総覧


先土器時代の長和町 出土した黒曜石 剥片・石核・原石(母岩)
原石 (母岩)

石核

剥片
剥片石器の製作工程

  22土層剥ぎ取り標本と遺跡の年代関係
鷹山・追分(T)遺跡
 旧石器末期
 細石刃器の時代
割橋遺跡
 槍先型尖頭器の時代

追分(U)遺跡
 ナイフ形石器の時代
長野県小県郡長門町

ダウンロード
概報・鷹山遺跡群4

星糞峠 第 I 遺跡M地点 虫倉山 鷹山川 追分遺跡 大門川 大笹川 大笹山


  23先土器時代の鷹山ムラ  (星糞峠の麓のムラ、鷹山遺跡群)

  旧石器時代の定住集落
   先土器時代の人々は、獣などを追いながら転々と住む場所を変えていたとされていますが、黒曜石の山のふもとの鷹山では、
   南北に流れる鷹山川とその周りの湿地を取り囲むようにして、大きなムラがあったことがわかってきました。

       縄文時代に先駆けた定住、しかも集落である。大変稀有である。

   ムラの中には黒曜石を打ち割って大量の石器を作った跡や、河原の石を並べてバーベキューをした跡などが多数残されています。
   発見された石器の量や、遺跡の広さからすると、この地には沢山の人々が何度も訪れ、にぎわっていた様子がうかがえます。

考察 旧石器時代の定住集落

   ※旧石器時代の大規模な定住集落や石器製作工房跡、多人数の調理をする石焼調理跡も確認された。
    住居には、居住棟と宿泊棟があったでしょうし、石器交易の市場があったのだから、食糧等日用品の交易市場もなければならない。

    そうすると、黒曜石鉱山を支配する者や、その権益を守るための武装集団もいただろう。
    いずれにせよ、黒曜石を求める人々が溢れた、流通・交易拠点だったといっている。きっと、当時の列島で最大の繁華街だったのだろう。

先土器時代の鷹山ムラ 鷹山ムラの風景 各種の石器
ナイフ形石器
槍先形尖頭器
掻器
削器
彫器
揉切器もみぎりき



  24黒曜石原産地遺跡と石器の搬出

    中部高地の黒曜石原産地周辺には、鷹山遺跡群のように沢山の遺跡が密集する、いくつもの遺跡群が残されている。
    どの遺跡群でも豊富な黒曜石を使って膨大な量の石器の生産が行われ、製品や原石が遠隔地の遺跡へ搬出されている。

    黒曜石原産地遺跡は、先土器時代の石器流通網の拠点であった。

星糞峠から見た鷹山ムラ 黒曜石原産地遺跡と
石器の搬出
鷹山遺跡群の遺跡区分
各遺跡の通し番号が
載っています。
それだけ
バーベキューの跡

 考察
  黒曜石の交易
   黒曜石産地には大きな石器製作工房があり、各種石器を専門の職人たちが作り、専門の鉱夫が採掘していた。(採掘には呪術を使用しただろう)
   原産地は何らかの集団によって支配され、効率的な分業と統制によって高い経済効果を生んでいたようだ。

   時々、黒曜石の交易が、村から村へとリレー式で行われたとする説明を見るが、これは、ナンセンスである。
   苦労して入手した、高価で、必要不可欠な狩猟必需品を、安々と手放すはずがない。こんな交換交易では、信州から礼文島まで届くわけがない。

   考えられる入手方法
   @各地の縄文人が原産地まで交易に行ったり、
   A原産地から製品を携えて交易に出たのではないでしょうか。これは、縄文の行商人というべきだろうか。

   縄文人には、定住民と遊動民がおり、この遊動民が即ち交易人ではなかったのだろうか。

   縄文集落には遠くからよく見えるように高い柱 (立柱) を立てており、それを目指して行商したのではないか。
   石器製品と食料を交換しながら旅をし、また、原産地に戻って仕入れて、、縄文の寅さんみたいな人々が居たんだと私は想像する。

   そして、ときどき、進むことも戻ることもできなくなったら、その場に一時滞在し、時には定住に進んだのではないか。


   (各地から原産地まで取りに行ったこと)
    旧石器時代の岡山県恩原遺跡では、確かに原産地まで石材を取りに行っている。新潟県立歴博でも復元住居に黒曜石原石があり、
    縄文人も黒曜石原石を採りに行ったようだ。 (ただし、自分で採掘したか、採掘したものを入手したかは不明)


  25石器を作る
各種の石器
鷹山第1遺跡S地点
石器の作り方
鷹山第1遺跡M地点
石器の出かた 場所によって違う石器作り
鷹山第T遺跡M地点
剥片を大量に作る原石・石核・剥片
鷹山第T遺跡S地点
石槍を大量に作る

 考察

 旧石器時代の専門職人
   同一遺跡内の、作業場所によって (その意味で石器集中区毎に)、製作するものが違うということは、製品生産に関して分業が行われ、
   専門性があったようです。 生産効率と、製品の歩止まり、品質の向上では欠かせない方法ですね。






  30縄文時代 約12,000〜2,300年前




   長く寒い氷河期が終わりかける頃、列島では・・・・土器が・・・・。土器文様から縄文土器、縄文時代と呼んでいます。

   長和町では姫木から大門にかけて、
   8000年前 (縄文早期1万〜6千年前) の土器が採取されたり、洞窟の住居跡が発見されていますが、
   6000年前 (縄文前期初頭) より、大門、長久保、古町の一帯に大仁反、片羽、六反田遺跡のような大きなムラが作られるようになります。

     大仁反遺跡 大仁反遺跡 : 長野県小県郡長門町大仁反遺跡発掘調査概報
     片羽遺跡
     六反田遺跡
   31 
縄文時代 縄文時代




  31長野県の土器の移り変わり

土器の移り変わり
(長野県の土器)

  土器形式の移り変わり  この土器形式編年図は、私にとって、大変有効な資料です。

土器の移り変わり

草創期〜早期

草創期 12500〜1万年
隆起線文
爪型文  
押圧縄文
回転縄文

早期 1万年〜6000年前
 多数
前期
6000〜5000年前
花積下層
関山  
諸磯a.b.c
十三菩提
中期
5000〜4000

五領ヶ台  
勝坂T〜V
加曾利ET.EU.EV.EW
曽利W.X
後期・晩期

後期 4000〜3000
 称名寺
堀之内T〜U
加曾利BT〜BU
曽谷・安行T・U

晩期 3000〜2300
 安行Va〜Vd
最新の時期区分 草創期
(約1万5,000-1万2,000年前)
早期(約1万2,000-7,000年前)
前期(約7,000- 5,500年前) 中期(約5,500-4,500年前) 後期(約4,500- 3,300年前)
晩期(約3,300-2,800年前)


  31ところ変われば土器も変わる
ところ変われば土器も変わる
判別困難、写真悪、
すみません
関東・東北・北陸の土器 北陸:上山田
上越:馬高(火焔)
東北:大木
関東:阿玉台
    加曾利E

引用火炎土器基礎知識
北陸
新保・新崎
上山田・天神山

関東・東海
曽利・加曾利E
勝坂・阿玉台
五領ヶ台

東北:大木式

引用嵐山町web博物館
火焔
曽利
大木
加曾利E

ところ変われば土器も変わる 関東・東海・信州中南部
 五領ヶ台
 阿玉台
 狢沢
 勝坂
 加曾利E
 北関東加曾利E
 曽利
 連弧文系
北陸
 火焔
 新保・新崎
 上山田・天神山
 串田新・大杉谷
近畿・中国・四国・九州・東海・関東
 咲畑・醍醐
 船元・里木

九州
 阿高

南島
 南島沈線文系
東北
 円筒土器上層
 中期大木

北海道・東北
 円筒土器上層
 北筒
 
 

 32長門町の縄文ムラ
    約4500年前 (中期中葉)、芸術的な土器が沢山作られた信州は、全国的にも遺跡の数が多く、その大きなムラの様子から「縄文王国」と
    呼ばれています。長和町では大門の大仁反遺跡でムラの一部が調査されました。

    長和町では、在地系土器と共に、関東や東北、北陸系の土器も発見されており、地域を越えて様々な人たちが訪ねてきた様子が伺えます。


   縄文時代の黒曜石採掘跡
    星糞峠北東側の、ややなだらかな斜面には、ズリと呼ばれる小さな黒曜石が一面に散らばっていますが、縄文時代にはこの場所から
    沢山の黒曜石が掘り出されて各地に運び出されていたことがわかって来ました。

    縄文人が黒曜石を掘り出した跡は、直径10mを超える円形や扇形の窪みとなって、斜面一帯に重なるようにして残されています。

長門の縄文ムラ 大仁反ムラのイエ 縄文時代の黒曜石採掘跡 黒曜石の分布と黒曜石採掘跡の広がり 星糞峠〜虫倉山の間の黒曜石鉱山は狭く、

ここから川に落ちた黒曜石を拾ったり、

和田峠から吹き飛ばされて山腹に埋もれた黒曜石は、本当に僅かだったと思う。

それでも、1万年以上に渡って採掘が続けられ、減っていく鉱物を有効に利用するため、

原石を加工して、運搬の利便性を上げるとともに、価値を高めて交易したのでしょう。


採掘穴に忘れ置かれた加曾利B式土器
後期後半約3500年前
加曾利式土器
加曾利貝塚土器編年

加曾利B 後期後半
約3500年前
堀之内 後期前半
約4000年前
加曾利E 中期後半
約5000年前
採掘跡断面
黒曜石採掘跡の
土層堆積

↑埋設土器
星糞峠から火砕流と共に飛ばされてきた黒曜石含有層は浅く、
それでも3m余りと言うことですが、狭い範囲、浅い包含層です。

加曾利B式土器が発見されたのは、左端の第3層上の崩落土の中です。
随分遅い時期の開削の跡に埋まっていました。






 33長和町出土の縄文土器  土器形式については、31の土器図を、名前を付けてデスクトップ上に保存し、下の35-37の写真と比較して下さい。



  34早期 9000年前
縄文土器、全体 早期の土器片
拡大しても、写真からは、無文土器のように
見えました。
  35前期 約6000年前
  36中期 約4500年前
長和に訪れた人々

左:東北の土器
右:北陸の土器
大仁反遺跡/中期後葉
  37後期 約3500年前
 後期の土器
3500年前
称名寺式
 
 考察

 縄文時代の終焉と黒曜石産地

   縄文後期に入ると、小氷期のために列島各地の遺跡が激減する。中期中葉の人口26万人から晩期には5万人になったとも言われている。

   人口減少は、当然、黒曜石の需要を激減させた。ムラの間を交易して回る人々は、交易するムラが消滅して、補給地を失い、
   また、交換材としての食料も入手できず、交易人自身も飢え死にしたであろう。

   これらによって、黒曜石産地は大打撃を受けたであろうし、交易で入手していたであろう食料を断たれて、大変な飢餓が襲ったのだろう。

   更に、そのまま弥生時代に突入し、僅かに残った穴掘り人足や石器職人たちも、やがて需要を失い、黒曜石産地は、衰退していったのでしょうか。








 40弥生時代 約2300〜1700年前


   弥生時代には水田でイネが栽培され本格的なコメ作りが始まりました。
   また、鉄や青銅器などの金属器が使われるようになり、糸を紡いで布を織り始めたのもこの頃からです。

   稲を栽培する技術は、大陸から九州へと南の暖かい地方から日本列島に伝わり、水の豊富な低地を中心に水田が作られました。
   標高の高い長和町では、古町の六反田中道遺跡などで弥生の住居跡が発見されていますが、時期は弥生時代も終わりの頃となっています。

  41弥生時代
弥生時代 弥生時代 イメージ

弥生集落と畑、低地に水田。
遠くの山には縄文集落らしきが見える。


  41里のムラ・山のムラ
   弥生時代のムラには、低地に水田を作るムラ、高台に畑を耕すムラ、また、山あいに獣を狩ったり、木の実などを採集するムラというように、
   様々な特色の違いを見せています。

   そして、大きなムラからは卑弥呼のような有力者が現れ、いくつかのムラはこの有力者のもとに治められて、次第にクニをつくるようになります。

六反田・中道遺跡

角丸方形住居に丸い大穴、貯蔵穴かな。
弥生土器/中道遺跡

壺と高坏
壺は長頸壺と思われる
が、土器形式等詳細不明
磨製石鏃:
 大型で弥生式=半島人の物。対人用でしょう。
縄文人を倒すために使ったのでしょうか。

 こんな寒冷な、平地の少ない山中になぜ弥生人が武装して居住しにきたのだろうか。

基本的に稲作など、当時にはできないはず。
里のムラ・山のムラ

考察・資料
黒曜石産地の玉器製作工房

 中道遺跡 長野県小県郡長和町古町4139-1  引用遺跡ウォーカー

 遺構概要:県要覧5(縄文-住居6(前期)+土坑11/ 弥生-住居1   古墳-住居1+玉作工房1 中世-住居4+掘立柱建物4+土坑44/不明-土坑10)
 遺物概要:県要覧5(縄文(前期+中期)-縄文土器/ 弥生-弥生土器 古墳-土師器+須恵器+石器+管玉/中世-陶器+土師質土器)

   黒曜石産地、霧ケ峰から少し離れた遺跡ですが、弥生住居は1棟 古墳時代には玉製作工房があった
   新しい人々が入ってきたのか、黒曜石工房は存続していたのか、、、土器が全く違うので、、、どうでしょうか。

   玉工房ではどんな石材を使っていたのでしょうか。 ちょと情報不足で詳細は分からないです。

 





  42古墳時代 約1700〜1300年前


     大きな古墳 (権力者の墓) に代表される古墳時代には、畿内のヤマト朝廷を中心として日本を統一する国づくりが進められました。
     科野 (信濃) では、このヤマト朝廷の役所として塩田方面 (上田市) に国造がおかれました。

古墳時代 古墳時代 古墳時代の土器
土師器
土器の底は丸底で、カマドに掛けた物か、
尖り底を利用して重量で燃え火や炭火の中に置いたものか。

 考察
  弥生・古墳期の鷹山遺跡
  弥生・古墳期の遺跡情報が殆ど無いということは、この頃には消滅に近いほどの衰退をしていたのだろうと思います。



 43奈良・平安時代 1300〜800年前


    奈良時代には、「律令」という現在の憲法に当たる法律が定められ、国の体制が大きく整備されました。

    各地ではこの法律の下に土地が治められ、新しい土地の開拓が盛んに行われるようになりますが、その中で、
    有力な農民らが土地を守るために武装するようになり、次第に武士集団へと成長していきます。


  古代のミチとムラ
    大和朝廷はその勢力を全国に広めるために中央の都から各地に通じる道を整備します。
    信濃では関東、東北地方へと続く古代東山道などが重要な役割を果たした道として知られています。

    古墳、奈良、平安時代の長和町は、この古代東山道を初めとして、幾筋かの主要な道路が走る交通の要所であったことが伺えます。

    当時のムラ跡としては、鷹山町大門の大郷路遺跡、古町の藤の木・六反田・中道遺跡などがあり、
    一帯に小さな村が点々と残されていることがわかってきました。

    遺跡からは周辺地域の影響を受けた土器や玉づくりの跡、また、寺院などで使われたと思われる寺院瓦の破片などが出土しています。

  こんなところに官営寺院の国分僧寺・国分尼寺か、有力者の造営した寺院があったのだろうか。
   交通の要所として栄えていたのだろうか。しかし、主要街道ではなく、脇街道にすぎないと思うが。

奈良・平安時代 玉づくりのイエ
玉造り場がある
カマドのあるイエ
柱に礎石がある
掘立柱ではない
古代のミチとムラ 須恵器 鉢・皿
土師器 壺・耳皿
耳皿=箸置き
緑釉陶器
内黒の土器
文字が書かれた
土器、布目瓦

 考察

 古代の長和町
   「長和町」がどこを指すのかはわからないが、(和田村+長門町) 内に、
   東山道の枝街道や、玉作り工房、寺院、役所跡 (須恵器・墨書土器)、有力者の住居 (緑釉陶器=半島土器・耳皿等) などがあったと思われる。

   しかし、鷹山遺跡の黒曜石鉱山の情報はない。 「もののけ姫」では、見事なナイフ形石器が登場する。古代にも使われたのだろうか。

   だいたい、この時期に、いったい何の産業が原因で、この地域が反映していたのだろうか。不明である。


 資料

  黒曜石産地地図

   私の失敗、 この館が、名だたる黒曜石原産地と、どのような位置関係になるのか。を、知らずに訪問しました。
   そこで、今になって調べてみますと、

    黒曜石産地は、霧ケ峰高原・霧ヶ峰山塊星ヶ塔和田峠星糞峠、等々の産地が狭い範囲に密集していました。
    そして、長和町は本来、長門町と和田村ですから、黒曜石の大産地、及び、交易遺跡の真っ只中にあるということです。

   こんな初歩的なことは、どこのページにも一切紹介していない。 黒曜石を紹介する企画の盲点だと思っていましたが、
   そうではなくて、遺跡の盗掘や黒曜石の盗難などの被害から守るために、どうも、これらの位置を隠している、、かのようです。

    ※確かに以前、車で和田峠へ黒曜石を盗り (本人:採) に行く老夫婦のブログがありました。犯罪だとは1mmも思っていないようでした。

    ※黒曜石産地と、周辺遺跡については、まるごと信州 黒曜石ガイドブック に最も詳しく説明されています。


 44長野県の黒曜石原産地分布図    転載まるごと信州 黒曜石ガイドブック

 
長野県の黒曜石原産地

長野県の黒曜石原産地
長野県の黒曜石原産地
(作り直し)
黒曜石原産地遺跡群と縄文遺跡群
南北が反転した地図

    黒曜石原産地地図はほぼ見えませんので、作り直してみました。しかし、遺跡場所のプロットまではできませんでしたので、
    二つ合わせて御覧ください。

 








   縄文時代の鷹山

















 50黒曜石





  51旧長門町  長門町は、和田村と合併して長+和町となった。 和田村は黒曜石の和田峠のムラです。

長門町のイラストマップ

多くの遺跡・観光地地図
 ちなみに、
現在のイラストマップには
遺跡は載ってないようです。
星糞峠と湿地帯を望む

エコーバレースキー場から見た鷹山です。
 google mapで見ると

旧石器から縄文にかけての遺跡の上に、多くのペンションが立っていることがわかります。




 51住居址を掘るとは

    明神原遺跡/縄文中期

住居址を掘るとは、 写真1

ジョレン掛け表土を薄く
剥ぎ取り遺物を探す
写真2


遺構の輪郭が見えた。
トレンチを掘って試掘
写真3
  住居址の発掘
土壁を残し床まで試掘
写真4  
土壁撤去
縄文中期の円形住居
中央に石組炉跡
100号住祉/4500年前
写真5
 
縄文前期の方形住居
6000〜5000年前
前期は四角で中期は丸



黒曜石の行方を考えよう
鷹山は、黒曜石交易の
一大中心地でした。
 狩猟に必要不可欠の黒曜石を、他のムラに多すぎるとして、分配するでしょうか。 遺跡・発掘写真
星糞峠の黒曜石屑
虫倉山の黒曜石採掘壙  虫倉山は、
星屑の里鷹山 」の裏手にある星糞峠の山のことです。
このへこみが採掘跡



 縄文人が掘り残した小さな黒曜石
    白い土の固まりは黒曜石と隣り合わせにできた流紋岩が粉々に崩れ、水に浸されてできた白粘土。
    この白粘土の層に大きな黒曜石が含まれています。


 峠から崩れてきた星糞
    宇宙から降り積もったキラキラ光る黒い石。地元の人は黒曜石を星糞と呼んでいます。 ちなみに、月糞は、巻貝の化石

採掘跡の発掘

白粘土と包含層
縄文人が掘り残した小さな黒曜石

掘り残しとはクズだから採掘せず、ほっといた
星糞峠の黒曜石
峠から崩れて来た星糞






 60縄文土器


  61縄文住居イメージ
復元住居外観
縄文模様と中期土器
家の中の様子
4本柱、石囲炉

  62 細尾中道遺跡出土/中期初頭 (約5000年前)

深鉢と浅鉢
 

  64明神原遺跡出土 /前期前半 (6000〜5500年前)

深鉢

   66明神原遺跡出土 71-74号住居址出土 /中期前葉 約5000〜4500年前

深鉢の大小が
バリエーション

  68明神原遺跡出土 100号住居址 中期中葉 約4500年前

浅鉢、深鉢など、バリエーションが増えてきた

小鉢も大深鉢も
出土する
 





 70縄文の暮らし


    71季節の変化と食べ物
    山や川、春夏秋冬と、日本の国土は変化にとんだ地形と季節の移り変わりによって、様々な自然の恵みを受けています。
    これを生活に取り入れて暮らしはじめたのが縄文人です。

    土器が発明され、今までよりも沢山の種類の食べ物を煮炊きして食べられるようになると、人々は森や水辺に接した高台にイエを建て、
    比較的長く一か所に生活するようになります。いつどこへ行けば、どんな食べ物が収穫できるかを知り、旬の食べ物が食卓に載せられました。

縄文の道具弓矢・石斧・・マトもある 縄文式バーベキュー燃え火では魚は焼けない。炭火になってから。
石蒸しが一番確実かな
縄文時代の調理煮込みは普通だが、
壺のくびれにサナを敷いて、蒸した
蒸し器があったとは
季節の変化と食べ物 縄文カレンダー
骨角器をつくろう 鹿角を使った道具作り
釣り針、ペンダント、針
耳飾り、櫛・ヘアピン

鹿角は硬くてしなやか
縄文人の主な食べ物 椎の実・あけび
・ドングリ
・ノビルなどの野草類

ヤマブドウ・キノコ・山芋・イノシシ・蛙・ヘビ・魚・
昆虫
  


  72土器
いろいろな形の土器 とても特殊な土器形状 この形。どこかで。ヒトの形だったことがある。
ここは、脚注無しだが

刺突文
  73石器
縄文時代の道具 石鏃 揉錐器・石核 打製石斧
掻器・削器
掻器/掻き削る/
スクレイパー
削器/切る/削る/ナイフ 石匙 石匙/
縄文時代の万能ナイフ
磨製石斧 石皿・磨石、叩き石・
凹石、土製円盤
  




   80大仁反遺跡の土器 中期中葉〜後期  (約4500〜4000年前)

  大仁反遺跡 ―長和最大規模の縄文集落―

   大仁反遺跡では、約1000uという狭い調査面積ながら、非常に多くの土器が出土しています。個々の土器の残り具合もよく、
   50点が復元されています。特に、中期中葉から後期 (約4500〜4000年前) の土器は充実しています。

   在地色の強い「焼町式土器」、関東の「加曽利E式」、北陸の「上山田式」、東北の「大木式」など、周辺地域の土器も出土しており、多様な様相です。


  大仁反遺跡測量図
   検出された遺構から復元された集落の形は、集石土壙(黄緑)・集石遺構(緑)を取り囲むように住居址(水色)が巡る、形が推定されます。

大仁反遺跡 大仁反遺跡測量図

  大仁反遺跡の土器 は、実に変化に富んだ芸術性の高い土器が沢山あります。明神原遺跡に比べると、実に多様です。


  90食べ物
   91パネル
今日はごちそう 肉料理
@石匙作りA肉を切る
B石蒸し料理
みんなで食べ物探し 縄文人は何を食べたのか遺跡から500種類の食べ物発見されている 大切な食べ物
森の木の実
くり・くるみ・どんぐり・とち
アクを抜いて調理 水さらし遺構アク抜きをする

アク抜きによって食料が増え、植物食が可能となった。
調理に使われた土器三段腹のような器形は
噴きこぼれ防止だった
こんな意匠ありました?

煮沸してアク抜きをした
石囲い炉 イエの中央に炉があり、調理・暖房・照明等に使う

炉の石が抜き取られているのは、この住居が廃棄されたことを意味します。
探してみよう調理の跡

   92道具
石匙/明神原遺跡/
縄文前期〜中期

石鏃/明神原遺跡/
縄文前期〜中期
塩:海辺の村からの贈り物 関東系浅鉢入り

積み重ね紐をかける運搬用土器で塩交易をしたのかもしれない。
石皿/長和町
深鉢/大仁反3号住/中期
              





 100縄文の心

  102@文様と衣服
文様と衣服仮面土偶の文様は衣服の文様だったかも 曽利遺跡の土器文様
中空土偶の文様
土器文様
どこかにありそうな文様
アンギン織り アンギン織りで作った布 織り機いや編み機
やね
 

  103A髪型
土偶の髪型を研究 渦巻型  :秋田県 虫内T遺跡
稚児まげ:秋田県 麻生遺跡
編込み  :青森県 三内丸山遺跡
アーチ  :秋田県 鐙田遺跡
ターバン :福島県 荒屋敷遺跡
一つまげ :青森県 船ケ沢遺跡
二つまげ :青森県 砂沢遺跡
三つまげ :宮城県 根岸遺跡
縄文の心

縄文時代には土偶が作られていました。これらをよく見ると、いろいろな髪形や服の意匠がわかります。
そこから、意匠や色彩が豊かであった様子が見えてきます。彼らもファッションを楽しんていたのでしょうか。

  104Bアクセサリー 
赤漆塗り櫛、首飾り、耳飾り、腰飾
赤と黒の彩色土器
台付浅鉢型土器/彩色 赤漆で彩色
勝坂V(藤内)式?
縄文の色 縄文色
 ヒスイの緑
 赤漆
 黒漆
 骨牙の白
 琥珀の茶色




  民俗




  110住居    昭和30年代頃までの暮らしですね。

    これらの建物配置、家具、調度、室内のレイアウトも、この山深い、豪雪、寒冷地域の様式です。
    わたしの見慣れたものとは、かなり違います。


家に開放部がほぼなく壁立ちで寒冷地仕様である。
洗濯物は三本の竹をくくって開いた三脚に干すのはよく見ましたが。 鉄平石の踏み石が土間にある。
昭和の家具が置いてある

立派な板戸。漆塗りで大変な幅広で一枚板。
戦後のカマド、昭和40年位かな。特殊な形です 長野県には藁馬神事というのがあるらしい。 吹き抜けの天井は寒いですよね。
土器の作り方
縄文土器の模様