中部地方の縄文1 19 2017.05.12 長和町原始・古代ロマン体験館 長野県小県郡長和町大門1518 0268-68-4339 月曜休館 撮影可 ・旧長門町の黒曜石博物館。 長和町は2005年に、長門町 (星糞峠) と和田村 (和田峠) が合併してできました。 ・所在地の「大門」は、後に何度も出てきます。ここは、黒曜石を求める縄文人が各地からやってきた場所で、交易や宿泊、 黒曜石製石器の製造が行われ、産地で働く人々など、が集まる、旧石器から縄文までの長い間、大繁栄した場所です。 きっと、当時の列島で、最高の人口密度、多地域の人々の来訪度、など、最高の場所だったのでしょう。 交通 車 見所 ものではなく、立地する「旧大門]村」が、旧石器時代から続く、黒曜石交易の大集落跡の遺跡であること。その歴史。 注意 ここの館では、黒耀石 と表示されていますが、ワープロの一般的な変換に従って 黒曜石と記述します。 |
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01外観
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03入口展示 |
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10旧石器時代 | |||||||||||||||||||||
11黒曜石のふるさと 火山から生まれた天然ガラスの黒曜石は、割れ口が鋭く加工しやすいので、良好な石器の材料として使われてきました。 火山の多い日本列島では各地に様々な黒曜石が生み出されていますが、その中でも、信州産の黒曜石は、最も広い範囲で利用され、 本州最大の黒曜石の原産地と言われています。 長和町では、星糞峠の付近に、黒曜石を生み出した火山があり、この麓の鷹山地区では、全国各地に黒曜石を送り出した、 大きなムラの跡が発見されています。(星糞=黒曜石の方言) (月糞=巻貝の化石)
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20旧石器時代 〜約12,000年前 |
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21先土器時代の長和町 日本列島に人が住み始めたのは、最近の発掘調査から10万年を遥かに超える昔ともいわれています。 長野県内でも野尻湖からナウマンゾウの骨と供に約4万年前の人々の生活の跡が発見されています。 長和町では、標高の高い町の南側に、割橋・追分・鷹山遺跡などが発見されており、約3万年前から人が住※み始めていました。 ※3万年前から黒曜石の採掘が始まっていたということらしい。 割橋遺跡 宮坂英弌の軌跡(4) 旧石器文化の探求 | 茅野市尖石縄文考古館 追分遺跡 黒耀石の道 Discovery Trail - 黒耀石体験ミュージアム 鷹山遺跡群 長野県 - 長和町 - 全国遺跡報告総覧 鷹山遺跡群X - 全国遺跡報告総覧 |
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22土層剥ぎ取り標本と遺跡の年代関係
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23先土器時代の鷹山ムラ (星糞峠の麓のムラ、鷹山遺跡群) 旧石器時代の定住集落 先土器時代の人々は、獣などを追いながら転々と住む場所を変えていたとされていますが、黒曜石の山のふもとの鷹山では、 南北に流れる鷹山川とその周りの湿地を取り囲むようにして、大きなムラがあったことがわかってきました。 ※縄文時代に先駆けた定住、しかも集落である。大変稀有である。 ムラの中には黒曜石を打ち割って大量の石器を作った跡や、河原の石を並べてバーベキューをした跡などが多数残されています。 発見された石器の量や、遺跡の広さからすると、この地には沢山の人々が何度も訪れ、にぎわっていた様子がうかがえます。 考察 旧石器時代の定住集落 ※旧石器時代の大規模な定住集落や石器製作工房跡、多人数の調理をする石焼調理跡も確認された。 住居には、居住棟と宿泊棟があったでしょうし、石器交易の市場があったのだから、食糧等日用品の交易市場もなければならない。 そうすると、黒曜石鉱山を支配する者や、その権益を守るための武装集団もいただろう。 いずれにせよ、黒曜石を求める人々が溢れた、流通・交易拠点だったといっている。きっと、当時の列島で最大の繁華街だったのだろう。 |
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24黒曜石原産地遺跡と石器の搬出 中部高地の黒曜石原産地周辺には、鷹山遺跡群のように沢山の遺跡が密集する、いくつもの遺跡群が残されている。 どの遺跡群でも豊富な黒曜石を使って膨大な量の石器の生産が行われ、製品や原石が遠隔地の遺跡へ搬出されている。 黒曜石原産地遺跡は、先土器時代の石器流通網の拠点であった。
考察 黒曜石の交易 黒曜石産地には大きな石器製作工房があり、各種石器を専門の職人たちが作り、専門の鉱夫が採掘していた。(採掘には呪術を使用しただろう) 原産地は何らかの集団によって支配され、効率的な分業と統制によって高い経済効果を生んでいたようだ。 時々、黒曜石の交易が、村から村へとリレー式で行われたとする説明を見るが、これは、ナンセンスである。 苦労して入手した、高価で、必要不可欠な狩猟必需品を、安々と手放すはずがない。こんな交換交易では、信州から礼文島まで届くわけがない。 考えられる入手方法 @各地の縄文人が原産地まで交易に行ったり、 A原産地から製品を携えて交易に出たのではないでしょうか。これは、縄文の行商人というべきだろうか。 縄文人には、定住民と遊動民がおり、この遊動民が即ち交易人ではなかったのだろうか。 縄文集落には遠くからよく見えるように高い柱 (立柱) を立てており、それを目指して行商したのではないか。 石器製品と食料を交換しながら旅をし、また、原産地に戻って仕入れて、、縄文の寅さんみたいな人々が居たんだと私は想像する。 そして、ときどき、進むことも戻ることもできなくなったら、その場に一時滞在し、時には定住に進んだのではないか。 (各地から原産地まで取りに行ったこと) 旧石器時代の岡山県恩原遺跡では、確かに原産地まで石材を取りに行っている。新潟県立歴博でも復元住居に黒曜石原石があり、 縄文人も黒曜石原石を採りに行ったようだ。 (ただし、自分で採掘したか、採掘したものを入手したかは不明) |
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25石器を作る |
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30縄文時代 約12,000〜2,300年前 長く寒い氷河期が終わりかける頃、列島では・・・・土器が・・・・。土器文様から縄文土器、縄文時代と呼んでいます。 長和町では姫木から大門にかけて、 8000年前 (縄文早期1万〜6千年前) の土器が採取されたり、洞窟の住居跡が発見されていますが、 6000年前 (縄文前期初頭) より、大門、長久保、古町の一帯に大仁反、片羽、六反田遺跡のような大きなムラが作られるようになります。 大仁反遺跡 大仁反遺跡 : 長野県小県郡長門町大仁反遺跡発掘調査概報 片羽遺跡 六反田遺跡 |
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31長野県の土器の移り変わり
土器形式の移り変わり この土器形式編年図は、私にとって、大変有効な資料です。 31ところ変われば土器も変わる
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32長門町の縄文ムラ 約4500年前 (中期中葉)、芸術的な土器が沢山作られた信州は、全国的にも遺跡の数が多く、その大きなムラの様子から「縄文王国」と 呼ばれています。長和町では大門の大仁反遺跡でムラの一部が調査されました。 長和町では、在地系土器と共に、関東や東北、北陸系の土器も発見されており、地域を越えて様々な人たちが訪ねてきた様子が伺えます。 縄文時代の黒曜石採掘跡 星糞峠北東側の、ややなだらかな斜面には、ズリと呼ばれる小さな黒曜石が一面に散らばっていますが、縄文時代にはこの場所から 沢山の黒曜石が掘り出されて各地に運び出されていたことがわかって来ました。 縄文人が黒曜石を掘り出した跡は、直径10mを超える円形や扇形の窪みとなって、斜面一帯に重なるようにして残されています。
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33長和町出土の縄文土器 土器形式については、31の土器図を、名前を付けてデスクトップ上に保存し、下の35-37の写真と比較して下さい。 |
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34早期 約9000年前 |
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35前期 約6000年前 |
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36中期 約4500年前 |
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37後期 約3500年前
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考察 縄文時代の終焉と黒曜石産地 縄文後期に入ると、小氷期のために列島各地の遺跡が激減する。中期中葉の人口26万人から晩期には5万人になったとも言われている。 人口減少は、当然、黒曜石の需要を激減させた。ムラの間を交易して回る人々は、交易するムラが消滅して、補給地を失い、 また、交換材としての食料も入手できず、交易人自身も飢え死にしたであろう。 これらによって、黒曜石産地は大打撃を受けたであろうし、交易で入手していたであろう食料を断たれて、大変な飢餓が襲ったのだろう。 更に、そのまま弥生時代に突入し、僅かに残った穴掘り人足や石器職人たちも、やがて需要を失い、黒曜石産地は、衰退していったのでしょうか。 |
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40弥生時代 約2300〜1700年前 弥生時代には水田でイネが栽培され本格的なコメ作りが始まりました。 また、鉄や青銅器などの金属器が使われるようになり、糸を紡いで布を織り始めたのもこの頃からです。 稲を栽培する技術は、大陸から九州へと南の暖かい地方から日本列島に伝わり、水の豊富な低地を中心に水田が作られました。 標高の高い長和町では、古町の六反田、中道遺跡などで弥生の住居跡が発見されていますが、時期は弥生時代も終わりの頃となっています。 |
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41弥生時代
41里のムラ・山のムラ 弥生時代のムラには、低地に水田を作るムラ、高台に畑を耕すムラ、また、山あいに獣を狩ったり、木の実などを採集するムラというように、 様々な特色の違いを見せています。 そして、大きなムラからは卑弥呼のような有力者が現れ、いくつかのムラはこの有力者のもとに治められて、次第にクニをつくるようになります。
考察・資料 黒曜石産地の玉器製作工房 中道遺跡 長野県小県郡長和町古町4139-1 引用遺跡ウォーカー 遺構概要:県要覧5(縄文-住居6(前期)+土坑11/ 弥生-住居1 古墳-住居1+玉作工房1 中世-住居4+掘立柱建物4+土坑44/不明-土坑10) 遺物概要:県要覧5(縄文(前期+中期)-縄文土器/ 弥生-弥生土器 古墳-土師器+須恵器+石器+管玉/中世-陶器+土師質土器) 黒曜石産地、霧ケ峰から少し離れた遺跡ですが、弥生住居は1棟 古墳時代には玉製作工房があった。 新しい人々が入ってきたのか、黒曜石工房は存続していたのか、、、土器が全く違うので、、、どうでしょうか。 玉工房ではどんな石材を使っていたのでしょうか。 ちょと情報不足で詳細は分からないです。 |
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42古墳時代 約1700〜1300年前 大きな古墳 (権力者の墓) に代表される古墳時代には、畿内のヤマト朝廷を中心として日本を統一する国づくりが進められました。 科野 (信濃) では、このヤマト朝廷の役所として塩田方面 (上田市) に国造がおかれました。
考察 弥生・古墳期の鷹山遺跡 弥生・古墳期の遺跡情報が殆ど無いということは、この頃には消滅に近いほどの衰退をしていたのだろうと思います。 |
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43奈良・平安時代 1300〜800年前 奈良時代には、「律令」という現在の憲法に当たる法律が定められ、国の体制が大きく整備されました。 各地ではこの法律の下に土地が治められ、新しい土地の開拓が盛んに行われるようになりますが、その中で、 有力な農民らが土地を守るために武装するようになり、次第に武士集団へと成長していきます。 古代のミチとムラ 大和朝廷はその勢力を全国に広めるために中央の都から各地に通じる道を整備します。 信濃では関東、東北地方へと続く古代東山道などが重要な役割を果たした道として知られています。 古墳、奈良、平安時代の長和町は、この古代東山道を初めとして、幾筋かの主要な道路が走る交通の要所であったことが伺えます。 当時のムラ跡としては、鷹山町大門の大郷路遺跡、古町の藤の木・六反田・中道遺跡などがあり、 一帯に小さな村が点々と残されていることがわかってきました。 遺跡からは周辺地域の影響を受けた土器や玉づくりの跡、また、寺院などで使われたと思われる寺院瓦の破片などが出土※しています。 ※こんなところに官営寺院の国分僧寺・国分尼寺か、有力者の造営した寺院があったのだろうか。 交通の要所として栄えていたのだろうか。しかし、主要街道ではなく、脇街道にすぎないと思うが。
考察 古代の長和町 「長和町」がどこを指すのかはわからないが、(和田村+長門町) 内に、 東山道の枝街道や、玉作り工房、寺院、役所跡 (須恵器・墨書土器)、有力者の住居 (緑釉陶器=半島土器・耳皿等) などがあったと思われる。 しかし、鷹山遺跡の黒曜石鉱山の情報はない。 「もののけ姫」では、見事なナイフ形石器が登場する。古代にも使われたのだろうか。 だいたい、この時期に、いったい何の産業が原因で、この地域が反映していたのだろうか。不明である。 |
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資料 黒曜石産地地図 私の失敗、 この館が、名だたる黒曜石原産地と、どのような位置関係になるのか。を、知らずに訪問しました。 そこで、今になって調べてみますと、 黒曜石産地は、霧ケ峰高原・霧ヶ峰山塊、星ヶ塔、和田峠、星糞峠、等々の産地が狭い範囲に密集していました。 そして、長和町は本来、長門町と和田村ですから、黒曜石の大産地、及び、交易遺跡の真っ只中にあるということです。 こんな初歩的なことは、どこのページにも一切紹介していない。 黒曜石を紹介する企画の盲点だと思っていましたが、 そうではなくて、遺跡の盗掘や黒曜石の盗難などの被害から守るために、どうも、これらの位置を隠している、、かのようです。 ※確かに以前、車で和田峠へ黒曜石を盗り (本人:採) に行く老夫婦のブログがありました。犯罪だとは1mmも思っていないようでした。 ※黒曜石産地と、周辺遺跡については、まるごと信州 黒曜石ガイドブック に最も詳しく説明されています。 44長野県の黒曜石原産地分布図 転載まるごと信州 黒曜石ガイドブック
黒曜石原産地地図はほぼ見えませんので、作り直してみました。しかし、遺跡場所のプロットまではできませんでしたので、 二つ合わせて御覧ください。 |
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縄文時代の鷹山 |
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50黒曜石 |
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51旧長門町 長門町は、和田村と合併して長+和町となった。 和田村は黒曜石の和田峠のムラです。
51住居址を掘るとは 明神原遺跡/縄文中期
縄文人が掘り残した小さな黒曜石 白い土の固まりは黒曜石と隣り合わせにできた流紋岩が粉々に崩れ、水に浸されてできた白粘土。 この白粘土の層に大きな黒曜石が含まれています。 峠から崩れてきた星糞 宇宙から降り積もったキラキラ光る黒い石。地元の人は黒曜石を星糞と呼んでいます。 ちなみに、月糞は、巻貝の化石
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60縄文土器 |
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61縄文住居イメージ |
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62 細尾中道遺跡出土/中期初頭 (約5000年前) |
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64明神原遺跡出土 /前期前半 (6000〜5500年前) |
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66明神原遺跡出土 71-74号住居址出土 /中期前葉 約5000〜4500年前 |
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68明神原遺跡出土 100号住居址 中期中葉 約4500年前 |
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70縄文の暮らし |
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71季節の変化と食べ物 山や川、春夏秋冬と、日本の国土は変化にとんだ地形と季節の移り変わりによって、様々な自然の恵みを受けています。 これを生活に取り入れて暮らしはじめたのが縄文人です。 土器が発明され、今までよりも沢山の種類の食べ物を煮炊きして食べられるようになると、人々は森や水辺に接した高台にイエを建て、 比較的長く一か所に生活するようになります。いつどこへ行けば、どんな食べ物が収穫できるかを知り、旬の食べ物が食卓に載せられました。 |
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72土器 |
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73石器 |
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80大仁反遺跡の土器 中期中葉〜後期 (約4500〜4000年前) 大仁反遺跡 ―長和最大規模の縄文集落― 大仁反遺跡では、約1000uという狭い調査面積ながら、非常に多くの土器が出土しています。個々の土器の残り具合もよく、 50点が復元されています。特に、中期中葉から後期 (約4500〜4000年前) の土器は充実しています。 在地色の強い「焼町式土器」、関東の「加曽利E式」、北陸の「上山田式」、東北の「大木式」など、周辺地域の土器も出土しており、多様な様相です。 大仁反遺跡測量図 検出された遺構から復元された集落の形は、集石土壙(黄緑)・集石遺構(緑)を取り囲むように住居址(水色)が巡る、形が推定されます。 |
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90食べ物 |
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91パネル |
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92道具 |
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100縄文の心 |
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102@文様と衣服 |
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103A髪型 |
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104Bアクセサリー |
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民俗 110住居 昭和30年代頃までの暮らしですね。 これらの建物配置、家具、調度、室内のレイアウトも、この山深い、豪雪、寒冷地域の様式です。 わたしの見慣れたものとは、かなり違います。
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