縄文を旅する1 中部地方8 2013.05.23(木) 上諏訪神社 前宮 本宮 神長官守矢史料館 今回の旅行の目的のひとつは、 NHK新日本風土記「諏訪」の中で「御柱祭り」を「縄文の祭り」と言っていました。 縄文の祭祀とはどんなものか。弥生以降との差異は何かを知ることでした。 結果から申し上げると、何も残っていないし、何もわからない。というのが結論でした。 |
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諏訪神社 諏訪信仰を広めたのは源頼朝で、狩猟の神=戦の神(軍神)として信仰しました。 この裏には、源氏方に付いた諏訪氏の影響もあり、たちまち全国に広まりました。 |
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神長官守矢史料館 諏訪大社の祭祀の長である守矢氏の史料館です。 史料がないとは聞いていましたが、そんなことはないだろう。 話ぐらい聞けるだろう。とおもって行きました。
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縄文の祭祀と弥生の祭祀 弥生の神は農耕、稲の神。鹿は神の使いとされる。(鹿の少ない地域の信仰かも(笑)) 伊勢神宮・出雲大社で行わないことの多くは諏訪大社独自と考えてよい。 すると、 御頭祭や兎の串刺し、ミシャグジの神などは狩猟中心生活の縄文の祭祀と考えられる。 しかし、 御柱祭についてはよくわからない。 拝所の周囲に串や柱を立てるのは諏訪神社独自である。伊勢神宮や出雲大社にはない。 縄文では埋葬地に4本の掘立柱を立てる祭祀があった。 弥生では、斎串・忌串(いぐし)という札や棒を四隅に立て、中を聖域とする信仰がある。 (陰陽師の五芒星の結界のようなものである) その串または柱を鳴り物入りで山から引いてくる、御柱、というのは、人々の目や意識を祭礼の主体に向けさせる方略である。 一般に、祭りが派手で華やかになったのは江戸期で、串建てとは別に考える必要がある。 特に、諏訪神社の場合、何度も危機的状態に陥り、民衆の力を集める必要があったから。 現在、信州人の絶対の支持を集める諏訪大社について言及することは危険です。それが宗教・信仰です。 その意味で御柱祭りは大変な効果をもたらしています。 |
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諏訪神社 神話では、大和族(大和朝廷)がニニギノミコトを遣わして出雲族に国を譲るように迫った。日本書紀に記述。 歴史では、持統天皇(在位690-697)がこの件について勅使を派遣したとある。飛鳥時代末期のことである。 大国主命の次男タケミナカタノミコトがこれに反対し諏訪族となって太平洋側から天竜川を遡って諏訪に来て、 土着の神、縄文の洩矢神(もりやしん)と戦い勝利して征服した。この時、諏訪氏が支配を、呪術信仰を守矢一族が分担した。 狩猟神と農耕神の二面性を持つ信仰を司る信仰が誕生。縄文信仰が残り、のちに神社神道の形式をとって諏訪神社となる。 下諏訪神社春宮、秋宮、上諏訪神社前宮本宮など多様化するが、前宮が最も古くからの拝所であるそうだ。 神諏訪神社上社前宮には タケミナカタの尊の墓所(土壙墓)や御頭祭の行われる拝所などがある。 ミシヤクジ神 とは精霊信仰だといわれている。何にでも移って宿ることができる。これが縄文の神。 精霊信仰は原始宗教にみられ、アマゾンのヤノマミ族も精霊信仰である。 最近、日本語表現が私とは違う人が増え、靴でも、野菜でも、動物でも擬人化する。 こういったものに「この子達は」などという。 これはアニミズムで、幼児行動である。 ただし、私の日本語もたどたどしいものであります。ほんとに。 ミシャグチ神、蛇神ソソウ神、狩猟の神チカト神、石木の神モレヤ神などの諏訪地方の土着の神々 現在は神性が習合・混同されているため全てミシャグチか建御名方として扱われる事が多く 云々 タケミナカタ信仰と融合することによって縄文の祭祀を温存することができたようだ。 実にしたたかな守矢氏の宗教支配である。 |