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 北部九州の縄文 №19  0000 2020.11.15-1

  宇美町立歴史民俗資料館  福岡県糟屋郡宇美町宇美1丁目1-22
  092-932-0011 月休・撮影可 開館8:30~17:00となっていますが
  訪館日は10:00開館でした。実際は十時開館時間です要注意

交通 JR宇美駅から徒歩5分 
  備考  宇美八幡宮の境内にあり、神社は大変有名で、交通なども便利です。


 2023.08.13追記
 訂正
 宇美町立歴史民俗資料館を紹介する際に、設置場所の宇美八幡宮の紹介の中で、神功皇后、仲哀天皇、応神天皇について記述しています。しかし、

仲哀天皇神功皇后は架空の人物。応神天皇は実在の人物ながら、筑紫で生まれてはいませんでした。
仲哀天皇の筑紫での死亡説話は、斉明天皇(皇極天皇)が筑紫朝倉宮で病死した話を、
神功皇后が筑紫で応神天皇を出産した話は、斉明天皇に同行した持統天皇が筑紫で草壁皇子を出産した話であった。
応神天皇は、入り婿天皇で、物部氏が出自。従ってこれ以降はヤマト政権物部王朝という。ちなみに、継体天皇以降は蘇我氏の王朝というらしい。

 仲哀天皇=斉明女帝。
 神功皇后出産=持統女帝、生まれたのは応神天皇ではなく草壁皇子
 応神天皇物部氏からの入り婿。
 
 初期大和政権は、有力氏族の連合体であり、大王が次の王を指名して没するのが慣わしで、各氏族から入り婿の形で王権を引き継いでいたという。
記紀の時代、血脈というものを重視するようになった皇統では、入り婿天皇という型式を排除して万世一系ということにしたかったようだ。そのための説話。

 以上の点を追記、訂正します。なお、この出典については、 『東征の主人公 - 古代統一国家の形成』に基づき、文中引用した各ネット情報による。

 はじめに

 宇美八幡宮について
 歴史民俗資料館に来るまで、宇美八幡宮の境内にあるとは知りませんでした。(地図で近くに神社があったが境内にあるとは思わなかった。)
「ウミ」神社というので、海神を祀った宗像族に関わる神社かと思っていました。が、後で神功皇后に関わる神社だと知りました。
 当日はたまたま11月15日で、七五三詣での家族連れでごった返していました。

 「七五三詣で」を知らない私は、どこの神社でもこうなのかと思っていましたら、ここは特別で、神功皇后由来の子育てに関わる神社なので、
特に近郷近在から多くの人々が参詣しているようです。

 現在は八幡社の一つとなっていますが、元々は、仲哀天皇の后であるオキナガタラシヒメ、後の神功皇后が、仲哀天皇と共に九州に進軍した時、この地で男児を出産したとしてこの神社が建立されています。
 実際には、出産時の胞衣壺をこの山中に埋め、それを根拠にして神社としたものと思われます。(私の想像です)
 また、その時生まれたのは、応神天皇です。

 ちなみに、八幡社は大分県の宇佐神宮がその総本社で、宇佐神宮そのものは、近所の山の上にあった巨岩信仰(磐座信仰)がもとになっていて、
つまり、縄文時代のアニミズム信仰をそのまま受け継いだものです。

この神社が特に力を持ったのは、奈良時代の東大寺大仏殿の建立にあたって、反対の嵐の中で、「それを守護する」としたため、東大寺の守護神として天皇にあがめられ、全国に広まることになりました。(実際には荘園の増加によるものと思われます。荘園はのちに悪党などに乗っ取られることがあり、所有を明確化するために多くの寺や神社が分社や末寺を建立しました。)

 宇美神社は初期は神社ではなく、途方もない権力を持った皇族の「聖地」のような場所だったと思われますが、
やがて神社という形式をとり、たまたま当時勢いのあった八幡社の系列に入ったのでしょう。
 従って、八幡社となったのは後のことで、本来は胞衣壺を埋納した礼拝所だったのでしょう。(あくまで わたくしの勝手な想像です)

 境内には巨木が何本も生い茂り、千数百年の歴史を感じさせます。
 また、神功皇后由来の神話が多く残され、「鎮懐石伝承応神天皇 安産・子育ての女神 神功皇后(じんぐうこうごう)
それにちなんだのか、「子安の石」として丸い川原石に名前を書き込んで奉納するという祈願が大量(石が)に行われています。

 これは、神功皇后が出産の前に腹に石を挟んで冷やして出産を遅らせたという伝説か、
 生まれた子を石で埋めて隠していたという伝説かに由来するものと思われます。
 奈良・平安時代の一字一石とは違うようです。 

仲哀天皇は当時無秩序だった瀬戸内航路を平定しながら進み、オキナガタラシヒメは日本海航路を進んだといわれている。
 
 目次

 

10宇美八幡宮
11境内の外観
13「七五三」詣
15宇美八幡宮奥宮
17下宮境内


20 宇美町立歴史民俗資料館外観
30入り口展示
33光正寺古墳主体部復元模型
40年表

100二階展示室
103ヘラ書き土器
105土師器等出土土坑
107宇美町の航空写真
111「馬の絵」線刻土器
113蜻蛉形鞘金具
120大野城跡城門の礎石

140縄文時代の石斧
142扁平打製石斧
143分銅形打製石斧
146弥生時代の石斧

200常設展示

210旧石器時代
211旧石器時代の狩
212石器材料標本
215石器

※資料 角錐状石器

230縄文時代
231縄文時代の住居
232縄文時代の道具
239凹石と叩き石

260弥生時代
261弥生時代の暮らし
262石器
264石製武器
266食糧

310縄文時代
312上角遺跡の遺物

320弥生時代
321川原田・供田遺跡
323弥生土器
325弥生時代の丹塗り土器

340古墳時代
341光正寺古墳
350神領・浦尻古墳群
360正籠古墳群

362石製臼玉製作工程
364石製紡錘車
365正籠古墳群出土

370宇美中学校遺跡
380観音浦古墳群

※皮袋形土器

390岩長浦須恵器窯跡遺跡

410正楽遺跡
430馬具
35素環頭大刀
436装身具

440各古墳出土品
464宝飾品

470装身具
480大甕

510大野城
513大野城出土品
521特別史跡大野城跡
 

 10宇美八幡宮

 11境内の外観
神舞の奉納
寅さんの世界だね

昔懐かしい

クスノキの巨木
天然記念物
湯蓋の森

確かに凄い巨木です。
子安の石これを80過ぎた爺さんが背負って山の上に運ぶんだぜ。
子寶石の由来
子安石の由来 聖母宮(しょうもぐう)
産湯の水
 13「七五三」詣
   七五三詣←(帯び解けの儀(男子五歳、女子七歳)鎌倉・室町時代(男女とも九歳))
祈祷を受けた人々への神舞
この姿勢からいかに信仰が深いかわかりますね。
いや、信仰心ではなく、楽しみや、子や孫を得た喜び、こんな儀式に参加できる喜び。や、
こんなことをやってみたいという、日本人独特の物みうさんの心理なのかもしれません。
人々の顔はみんなニコニコ。信仰心とは別の心理を表しているようです。

 みんな晴れ着の一張羅です。
 久しぶりに和服を…って、よろこび、、

 15宇美八幡宮奥宮
   本来の神社は胞衣壺を埋めた、この山上にあったものです。
奥宮へ
砂岩の硬い岩盤が斜めに堆積して、美しい景観を作っています。

九州北部の地学展示の博物館はありませんでした。

バイパス建設のためこの赤い橋ができたようです。
応神天皇御胞衣浦
とある(浦って?)
 神社や資料館で胞衣壺について聞きましたが誰も知りませんでした。が、私のカンは当たっていました。缶が当たった程度ですね。(笑)
 しかし、本来の神社の由来も知らずに神社経営をするとか、博物館を営んでいるのは、、、勉強不足ではないか、
 などと、ヤマカンが当たったことに、いい気になって、そんなことを考えていました。(笑)
 胞衣壺がご神体なんて、、、言えませんよね。現代なら。いくら天皇のものだって、、、。

奥宮 この祭殿の下に胞衣壺が埋まっている? 子安の石
お金を払ったのかどうだか、大量の子安石が↓
中央は宇美八幡宮
奇妙な山塊が見える。
バイパスと高速バスの停留所
積み上げられている。
って、ここまで運んだ下働きの老人(私、出会いました)も大変な思いだったでしょう。
いや、重い、だったでしょう。
北部九州の地形地質を展示した博物館は無いそうです。
私はぜひ知りたいと思うのですが、そんな展示は万人受けしないのでしょうか。
それとも博物館が興味が無いのでしょうか。
古宮への参道をブッタ切ってできたバイパス。

 17下宮境内
 


 20 宇美町立歴史民俗資料館外観

 
 30入り口展示
 31
入口から奥を見る
四王寺山三十三体石仏 四王寺山は、大野城跡を含む山城で、平安時代に四天王が配置され(塔頭が建立され)、
天台禅の信仰の場となった。
三十三体石仏は、近畿・中国の西国三十三か所巡礼になぞらえて、作られた信仰の場である。

 四王寺  四王寺の歴史 四王寺遺跡経筒 四王寺山

 33光正寺古墳主体部復元模型 1/5
3世紀中~後期の前方後円墳である。初期ヤマト政権に組した北部九州の豪族の墓である。
全長54mは、初期古墳としては大きな古墳である。 光正寺古墳公園  

第5主体 第5主体
箱式石棺
第1主体
箱式石棺
第5・第1・第3 第3主体
粘土槨に覆われた
割竹形木棺
第4主体
合口土器棺
第1主体 甕(朱入) 第2主体
箱式石棺4
第2主体 第1主体
箱式石棺
 
 40年表
旧石器~弥生後期 古墳時代 奈良・平安時代 鎌倉・南北朝・室町 安土桃山~江戸
明治~昭和
 
 


 100二階常設展示室

 
 101

 103ヘラ書き土器
漢字 ヘラ記号
ヘラ記号の付いた土器

 105土師器等出土土坑  Ⅰ-1区 土坑2 出土  古墳時代中期(5世紀中頃~後半)
土師器の甕や高坏がまとまって出土した土坑の模型。
※それより、なぜ、まとめて埋めたんだろう。そちらも追及してほしかった。ただのゴミ穴か、儀式の土器を埋めたのか。

 107宇美町の航空写真
昭和20年の宇美 昭和42年の宇美
 
 110
 111「馬の絵」線刻土器  岩長浦1号墳
 古墳時代の終り頃作られた須恵器の提瓶です。ヘラのような工具で馬と人が描かれています。

 112 「馬の絵」線刻 韓国公州博物館 
  ※韓国の絵とモチーフが全く同じなので、このような描き方手本があったのか、韓国の壺絵を参考にしたのか、、

 113蜻蛉形鞘金具とんぼがたさやかなぐ    観音浦南19号墳出土 6~8c (宇美町にしかない特別な鞘金具)
観音浦古墳群は、宇美町ひばりが丘に所在した古墳時代終り頃の古墳群です。
6世紀末頃から築造され始め、8世紀頃まで追葬されています。

トンボ型鞘金具の再現
 

 120大野城跡城門の礎石
ここに展示している礎石は、国の特別史跡「大野城跡」の百間石垣付近にあったとされる宇美側の礎石です。
  
大野城は、岡山県の鬼ノ城と同じ、白村江の戦いで敗れたヤマト政権が、亡命半島人に命じて作らせた山城です。
 現在は、市の名前にまでなっているのに、大野城はその全貌を明らかにした展示はどこにもありません。
※この礎石は山の上にあったものを持ってきたようです。

門柱、軸摺穴 軸摺穴、門柱 扉の軸受け金具の穴
軸受け金具穴(回転穴)
礎石、
門柱、方立
 130宇美町の遺跡地図

 140縄文時代の石斧 伐採具・土堀具・
 141
打製石斧(縄文時代)

 142扁平打製石斧(縄文時代)

 143分銅形打製石斧
分銅形打製石斧
分銅型打製石斧
打製石斧は鍬のような使い方をしていたようです。
形は、細長い「短冊形」、
三味線の撥(ばち)に似た「撥形」、
秤(はかり)のおもりに似た「分銅形」の3つに分けられ、
縄文時代の初頭から半ばまでは短冊形が最も多く、
縄文時代の終わり頃になると分銅形が最も多くなります。

 山梨県埋文より引用
 

 146弥生時代の石斧
磨製石斧
柱状片刃石斧
 147
磨製石斧
太型蛤刃石斧
 


 200常設展示




 210旧石器時代

地球上に人類が現れたのは、地質学でいう洪積世の初め頃のことです。
氷河期頃(今から20万年前頃)日本列島はまだ大陸と地続きであったから、ナウマンゾウやマンモスゾウなどの動物の群を追って人間の集団が朝鮮半島やシベリアから日本列島に移住してきたと考えられます。

この時代の人々が使用していた石器は、石を打ち欠いて作っただけの握槌型のものを使っていましたが、
今から3万年前頃には、切断の機能を持つ石器や槍先に使う尖頭器などを作り出し、これらを大量に生産して狩猟や生活の道具として使用するようになります。 

旧石器時代 旧石器時代

 211旧石器時代の狩り
旧石器時代の人々は、大勢で協力してナウマン象やオオツノジカなどの大型の動物を湿地帯(沼や湖)に追い込んで狩りをしていました。

旧石器時代の日本列島と動物
石器作り風景
旧石器時代の狩り 旧石器時代の狩り 旧石器時代の人々は
大勢で協力してナウマンゾウやオオツノシカなどの大型動物を
湿地帯に追い込んで狩りをしていました。

普段はバラバラに住んでいる人々ですが、この狩猟期になると集まって共同で大型動物の狩りをしたようです。獲れた獲物を分け、寒風で干し肉にして、それぞれの家族単位が携えて、季節が変わると、また新しい狩猟の旅に出かけたのでしょう。

 212石器材料標本
瑪瑙 水晶
黒曜石
須恵高校遺跡表採
↑筑後川(原鶴周辺)で採取され土砂に含まれていたと思われる。
多久産安山岩
佐賀県多久市
小城産安山岩
佐賀県小城市
白滝産黒曜石
北海道紋別郡
球磨川産チャート
熊本県人吉市
 213
和田峠産黒曜石
長野県諏訪郡
印通寺産黒曜石
長崎県壱岐市石田町
針尾島産黒曜石
長崎県佐世保市

十勝産黒曜石
北海道十勝地方
牟田産黒曜石
長崎県松浦市
平人蝕産黒曜石
壱岐市郷ノ浦町
椎葉川産黒曜石
佐賀県嬉野市
淀姫産黒曜石
長崎県佐世保市
腰岳産黒曜石
佐賀県伊万里市

 ※九州には、私たちがよく知っている以外にも沢山の黒曜石産地があることがわかった。
 214
赤い黒曜石
針尾島産
長崎県佐世保市
三船産黒曜石
鹿児島市
大山産黒曜石
大分県日田市
小国産黒曜石
熊本県阿蘇郡
日東産黒曜石
鹿児島大口市
姫島産黒曜石
大分県東国東郡
上牛鼻産黒曜石
鹿児島薩摩川内市
 
 

 215石器
石核
縦長剥片
瀬戸内技法は横長剥片だが、
西北九州では縦長剥片である。
 216
彫器 礫器 石槍未成品
 217
石槍 剥片尖頭器 角錐状石器
宇美町表採
唐津市上場台地

※資料 角錐状石器  
角錐状石器は、後期旧石器時代のAT降灰後に、朝鮮半島から渡って来た人々によって持ち込まれた。
九州から東北にまで分部するが、東九州から近畿では、サヌカイトや安山岩の原産地遺跡を中心に、ひとつの遺跡から多数出土する。
従って、後期旧石器時代後期前半の、約2万2千年~1万5千年前頃に盛行した石器である。
 218
ナイフ形石器 ナイフ形石器原ノ辻型
台形石器宇美町表採
台形石器
細石核
細石核宇美町表採 細石核
唐津市上場台地
 219
細石刃
切断する前
細石刃
頭部
細石刃
中間部
細石刃
先端部
 


 230縄文時代

縄文時代とは約1万年前から2300年前までの約8000年間を言います。
縄文時代の特徴は土器発見と、弓矢の発達があります。土器は、ものを煮炊きし、また貯蔵具としても用いられ生活にゆとりができるようになります。
弓矢は鳥や獣を狩る道具として、その威力を発揮しました。

の時代の人々は食料を狩猟、漁撈、植物採集に頼っているため、自然環境に大きく左右され、一定地域に定住しないで季節によって移動していました。
このような生活状態は、縄文時代晩期(今から2300年前)に農耕文化が始まるまで続きました。

最古の水田跡として、福岡市博多区の板付遺跡があります。

※「縄文時代も移動生活である」と言い切れる確信。凄いね。

 231縄文時代の住居
縄文時代
縄文時代の家づくり

縄文時代の人々は、地面を掘り下げて、その上に屋根をかけて作った竪穴住居に住んでいました。

 232縄文時代の道具  
※この道具で家を作った。 打製石斧
扁平打製石斧(土堀具)
磨製石斧 磨製石斧
 233
石鋸、釣針状石器
これって、普通は
異形石器というけど
石錐

下の物は不明
石錐
 234
異形石器 縄文の石鏃
宇美町表採
 235
石槍
石匙

ナイフとして使用
動物の皮剥ぎ、肉切り等に使用
 238
打製石鏃
宇美町出土
打製石鏃
 239凹石と叩き石
凹石と叩き石
 


 260弥生時代

弥生時代とは、紀元前3世紀から紀元3世紀中頃までの約約600年間を言います。
この時代は、大陸から稲作、青銅器、鉄器などの進んだ技術が伝来しました。
この頃の北部九州は、弥生文化の最も栄えたところで、日本最古の水田跡として福岡市博多区の板付遺跡や、佐賀県唐津市の菜畑遺跡などがあります。
稲作技術の導入などにより、富の集中が始まり、支配するものと支配されるものの、階級社会が芽生え始め、大きな集団(村)から国へと、国の成立の基盤ができていきました。

弥生時代中期(今から2000年前)には、このような国のうち、現在の春日市から那珂川町(市)付近にあったとされる奴国が、
中国の後漢に朝貢し(漢委奴国王)の金印を授けられた事はよく知られています。
※中国の「魏志倭人伝」に記されている「不彌国」(奴国の隣にあった国)の所在地不明が、宇美ではないかと考えられています。


 261弥生時代の暮らし
弥生時代 弥生時代 稲の入ってきた道 埋葬風景

 262石器
磨製片刃石斧
河原田・供田遺跡
弥生時代
柱状片刃石斧
河原田・供田遺跡
弥生時代
磨製石斧
河原田・供田遺跡
弥生時代
 263
砥石
河原田・供田遺跡
弥生時代
磨製石鏃
アメリカ式石鏃 紡錘車

 264石製武器
 石製武器は祭祀用だろうか、実戦用だろうか。
円盤状石器
河原田・供田遺跡
弥生時代
石戈
河原田・供田遺跡
弥生時代
石剣
河原田・供田遺跡
弥生時代
鉄製鋤先
神領遺跡 弥生時代

 266食糧
弥生時代の米・ドングリ
観音浦遺跡
籾圧痕土器
川原田・供田遺跡
籾圧痕が付いた土器
投弾
河原田・供田遺跡
弥生時代
投弾
収穫物を狙う敵に投げる武器である。
 267
石包丁
河原田・供田遺跡
弥生時代
 


 310縄文時代

 311
縄文時代の土器作り

 312上角遺跡の遺物 後期~晩期 約4000~3000年前
縄文後期~晩期
約4000~3000年前
上角遺跡 後期
精製浅鉢 口縁部
深鉢 打製石鏃
扁平打製石斧 精製浅鉢
 313
精製浅鉢、浅鉢 深鉢
 


 320弥生時代

 321 川原田・供田遺跡
川原田・供田遺跡は宇美川井野川によって形成された平野の先端部(宇美町志免町の境)にあります。
昭和63年と、平成元年の2回の発掘調査で弥生時代の集落遺跡を確認することができました。

集落は宇美川と井野川を利用し、井野川側(西側)には幅2m強の溝が掘られ、溝の東側に集落が営まれていました。(これが環濠?)
溝の中からは当時の人達が使用した土器、石器などが沢山出土しました。中でも赤い「丹」を塗った祭祀用の土器が多く出土して注目されています。
住居跡は四角形の竪穴式住居と掘立柱(高床式住居?)の建物群が確認されました。
また、住居周辺には貯蔵穴や土坑(廃棄物捨て場?)などが掘られていました。

川原田・供田遺跡が、周囲に大溝を巡らせた防御性集落であったようです。(環濠集落)

川原田・供田遺跡 川原田・供田遺跡
大溝全景
大溝断面 土器溜り状態 弥生時代の集落の様子 


 322土器
 323弥生土器
手づくね土器
川原田・供田遺跡
弥生時代
小型壺
川下宇美遺跡
弥生時代
小型鉢
川原田・供田遺跡
弥生時代

川原田・供田遺跡
弥生時代
グラス状土器 小型鉢
川原田・供田遺跡
弥生時代
 324
小型鉢
川原田・供田遺跡
弥生時代

川原田・供田遺跡
弥生時代
鋤先状口縁壺
川原田・供田遺跡
弥生時代
器台
川原田・供田遺跡
弥生時代

 325弥生時代の丹塗り土器
ここに展示している赤い色をした土器は、丹塗り土器と言います。
これは、橙色の土器の上に、赤茶色の丹(硫化水銀)を塗って彩色したものです。お祀りの時に使用されたと考えられています。
宇美町 川原田・供田遺跡からも沢山見つかっています。
※茶色の土器も本来は丹塗りであったものですが、長い年月のためか、色が剥がれ落ちています。

袋状口縁壺

弥生時代の丹塗り土器

 327墓地への共献土器
高坏

こんな高坏見たことある?
高坏
瓢形土器
ひさごがた
甕棺
ウソフキ遺跡
 


 340古墳時代

古墳は、
3世紀後半ごろに大和地方(奈良県桜井市周辺)で権力の象徴として築かれたと考えられています。
古墳を造ったのは、大王(おおきみ)を中心とした支配者階級と地方の豪族たちでした。

5世紀頃になると築造される古墳は最盛期を迎え、いわゆる天皇陵と称される巨大古墳が築造されるようになり、古墳は被葬者の墓であると共に
権力の大きさを示す象徴的存在となります。(古墳時代前期の古墳は宇美町周辺で、光正寺古墳、七夕池古墳、神領古墳などがある)

6世紀になると巨大な古墳は姿を消し、小型の円墳が群集して作られるようになり、石室も個人墓として竪穴式石室から家族墓的な横穴式石室へと変わっていた。(宇美町の観音浦古墳群はその典型的なもので山の斜面に約60基の古墳が築かれていた。)

 341光正寺古墳
古墳時代 古墳の築造風景
甘木市歴史資料館


 光正寺古墳
時  期: 古墳時代前期(3世紀中~後期)
遺  構: 前方後円墳・主体部(箱式石棺3基・木棺墓1基・土器棺墓1基)
全長53m・後円部径33m・前方部20m・後円部高さ7.9m ※ヤマト政権当初としては大変大きな古墳が許可された。
  前方部幅24m・周溝2m
出土遺物: 鉄剣 
   所蔵場所 宇美町立歴史民俗資料館(宇美町教育委員会)
   備  考: 後円部頂部に主体部が5基築かれている。第1主体部の共献土器から福岡県最古級の古墳と考えられる。

光正寺古墳 全景 第1主体(水銀朱入り) 主体部復元イメージ図 光正寺古墳
奈良県の水銀朱産地から、大型前方後円墳の許可と共に、政権側から下賜された水銀朱ではないだろうか。
 342
光正寺古墳 石棺石材
赤色顔料が付着。
第1主体部より出土。
二重口縁壺
前方部墳丘部より出土
 343光正寺古墳全景
古墳全景 古墳ジオラマ
これは周溝墓か
弥生後期か

古墳後期の
前方後円墳
第四主体部の土器棺
下甕に死体、上甕は蓋
下棺に死体、上棺は蓋
主体部とは死体を埋めた場所
 344
 第1主体部出土。甕の表面にはベンガラが塗られ、内部には水銀朱が入れられています。
下棺(第1主体部より)
上棺 下棺(第4主体部より)
石囲いの石棺を用いながら、内部では九州伝統の甕棺で葬っている。 
畿内の葬法には表面だけ迎合していた。
 


 350埴輪 浦尻古墳群
 351
朝顔形埴輪
浦尻古墳群3号墳
5世紀初め
円筒埴輪
浦尻古墳群3号墳
5世紀初め

 353神領・浦尻古墳群(浦尻支群)
浦尻3号墳では平成22年・23年に、墳丘・くびれ部や墳丘裾などの7か所で発掘調査を行いました。
調査の結果、全長約45mの前方後円墳であることが分かりました。
古墳が作られたのは、出土した埴輪などから5世紀初頭と考えられます。
この古墳群には、前方後円墳の他に6基の円墳があります。

神領・浦尻古墳群 神領・浦尻古墳群
(浦尻支群)

 355神領古墳群出土土器
高坏 須恵器
神領古墳群
ハソウ
神領古墳群

浦尻古墳2号墳
ハソウ
神領古墳群

 357円筒埴輪 正籠古墳群3号墳
 
 360正籠古墳群
正籠古墳は、昭和63年8月から1ヶ月館発掘調査を行いました。発掘調査は主体部(石室)と墳丘クビレ部、前方部の裾の3ヶ所で行いました。
調査の結果正籠3号墳は、全長33m前方後円墳であることが 確認されました。
 出土物は、
  石室内…鏡、馬具、素環頭大刀、矛、鉄鏃多数、鉄斧、刀子、玉類、須恵器
  墳丘…円筒埴輪、土師器、須恵器
など多数の遺物が出土しました。       時期は※6世紀中頃とされる。古墳時代後期

※前方後円墳は、宇美町に現在3基あります。出土遺物や古墳の形状から本墳画その中で最後に築造されたものと考えられます。

 361
正籠古墳群 正籠3号墳実測図

 362石製臼玉製作工程図 宇美中学校遺跡
 ※臼玉は死者に持たす祭祀用装身具ではなかったのだろうか。
臼玉製作工房跡
宇美中学校遺跡
宇美中学校遺跡での
臼玉製作工程
 363石製臼玉製作工程 宇美中学校遺跡
1.滑石原石 2.割り取る 3.4.板状製品 5.方形チップ
6.孔をあける
臼玉 参考 完成品 臼玉未成品
正籠古墳群
 364石製紡錘車
紡錘車
宇美中学校遺跡
古墳時代
撚糸作業

 365正籠古墳群出土 須恵器
提瓶
平瓶
有蓋脚付壺 短頸壷
 
 370宇美中学校遺跡
遺跡の時代:  古墳時代後期(6世紀後半)
   遺跡の内容:  滑石製品工房跡
   出土遺物:  須恵器・土師器・甑・滑石製品(臼玉・紡錘車)

 遺跡の概要
平成17年に発掘調査を行い、他竪穴式建物6軒、掘立柱建物跡1棟が 見つかりました。遺跡内からは、古墳時代の土器である須恵器や土師器、
そして、臼玉や紡錘車など滑石製品が沢山出土しました。
若杉産の滑石を採掘してきて、遺跡内の建物で臼玉や紡錘車などを作っていたと考えられます。

糟屋郡内では、古墳時代の滑石製品製作遺跡が多く発見されています。宇美町での発見例はこの遺跡が初であり、宇美町にもまだ、製作遺跡が残っていると考えられます。
※滑石・・・鉱物の中で一番柔らかい石です。温石(おんじゃく)とも呼ばれます。
※臼玉・・・装身具。薄い円柱の中心に紐を通すための孔があり、臼のような形をしていることから、この名前がつきました。
※紡錘車 糸を紡ぐための道具です。

※臼玉は滑石製で美しさに欠ける。一か所から大量に出土すること。北海道でも墓地から大量に出土する。
これらのことから、最初から生きた人間の装身具ではなく、死者の装身具ではないかと考えています。

 371
宇美中学校遺跡 宇美中学校遺跡 遺跡全景 遺跡全景 竪穴建物跡
出土した滑石資料 土器出土状況 遺跡の概要
 373
土師器
鉢・碗・坏身
宇美中学校遺跡
土師器
小鉢・坏蓋
提瓶
 375
土師器碗、坏身 土師器
小型丸底壺
 377

脚付壺
 

 380観音浦古墳群
観音浦古墳群は宇美町大字井野字観音浦岩長浦地区に営まれた宇美町最大の古墳群です。
古墳群は井野唐山から西に延びる月隈丘陵の北側斜面に営まれていました。古墳は全体で61基確認しました。
これらの古墳はいくつかの尾根に分散して築造されています。この築造場所は大別すると、

 観音浦東支群2基  観音浦南支群44基  観音浦北支群4基  岩長浦古墳群11基 の4つのグループになります。

古墳はいずれも円墳で直径約10m前後のもので、石室はほとんど横穴式石室です。
横穴式石室は小型のもので4m前後、大型のもので9m前後の規模のものです。

観音浦古墳群からは多くの遺物(副葬品)が出土しています。
これらの遺物は、今から1400年前の宇美町周辺地域の歴史を知る重要な手懸りとなります。
 381
観音浦古墳群 観音浦古墳群 石室内石組 古墳全景
 383副葬品
観音浦古墳群副葬品 提瓶
蓋坏 皮袋形提瓶

 ※皮袋形土器は、弥生時代から、騎馬民族に由来するもので、信州や関東など東日本で多く出土していますが、
  西日本でも稀に出土することがあります。
  これは、被葬者の出自(新羅・高句麗)に関わるものなのでしょうか。それとも、単にデザインとしての面白さなのでしょうか。

 384
横瓶 観音浦古墳群
ハソウ 蓋付鉢
観音浦古墳群
 386
高坏
平瓶
脚付長頸壷
 

 390岩長浦須恵器窯跡遺跡
 391
岩長浦須恵器窯遺跡
 392須恵器
須恵器

 395須恵器窯 窖窯(あながま)の内部です
 397
 

 410正楽遺跡 宇美町字正楽 昭和の森の上
遺跡の時代: 中世(1400年代頃)
   遺跡の内容: 寺院跡
   出土遺物: 中国産青磁、朝鮮産陶器、備前焼、鉄釘、国内産土師器、砥石、石臼、火鉢・碁石・古銭

 遺跡の概要
平成8年から続く発掘調査の結果、礎石建物が少なくとも2棟建っていたことが 分かりました。当時の石段や石垣は現在でも良く残っています。
建物があった場所の部分には焼け土が多く見られることから、火事で建物が焼け落ちて立て直したことが考えられます。
調査継続中のため、正確なことはまだ不明ですが、板碑など宗教色の強い遺物が出土していることから、寺院跡の可能性が高いと考えられます。

※板碑・・・薄い板石で造られた墓石の一つで、梵字などが彫られています。
 411
正楽遺跡 正楽遺跡 正楽遺跡 遺跡全景 石垣
備前焼出土状況
板碑出土状況
顔が描かれた土器
銅銭(永楽通宝)
遺跡の概要

 412正楽遺跡出土物 室町時代
 413
国内産土師器小皿
製品
顔が描かれた土器 まるでカッパのようなユニークな顔が描かれたこの遺物は獣足と言われ、脚付土器(香炉)の脚の部分と考えられます。

※仏具には金属製・土製品を問わず、このようなデザインが多く施されており、特異なものではありませんが、その足が取れてしまったのは珍しいことです。この顔は邪鬼(天邪鬼)ということかなぁ。
碁石
砥石
 414
すり鉢 備前焼壺

 415銅銭 正楽遺跡 室町時代
遺跡から多くの銅銭が出土しています。永楽通宝が一か所からまとまって18枚出土しました。
永楽通宝は、室町時代に明(中国)より多量に移入された一文銭で、江戸初期まで一般通貨として広く流通しました。

祥符元宝
北宋
治平元宝
北宋
凞寧元宝
北宋
永楽通宝
銅銭
銅銭
 416
刀子・鉄釘 鉄製の刀子です。刀子は現在の小刀やナイフにあたる短い刀です。

刀子は死者に副えるもの。鉄釘は木棺の留め具。
墓地からの出土物のようです。
 417板碑 正楽遺跡 室町時代

板碑 梵字 板碑
 418青磁
中国龍泉窯 青磁 李氏朝鮮系 陶器
 419土製燭台
土製燭台
 

 430馬具
 431

 432馬具
馬具とは、馬の動きをコントロールしたり、馬に乗る人の威厳を示すために造られたものです。
いまから1600年近く前に、中国大陸や朝鮮半島から乗馬の風習と共に日本に伝わってきました。
宇美町では、正籠3号墳や観音浦古墳(6c後半-7c中期)から、沢山の馬具が出土しています。

馬具の名称 馬具 ※馬具が出土した古墳は、いずれも古墳後期なので、
世間に乗馬がかなり普及した時代の遺物のようです。
 433馬具  正籠古墳群3号墳 古墳後期
鉄鏃、ヤリガンナ 仿製内行花文鏡
正籠古墳群3号墳
古墳後期
国内産鏡
 434馬具  正籠古墳群3号墳 古墳後期

自転車のハンドルにあたります。馬の口にくわえさせる棒状の金具と、それが横にずれないようにする鏡板、手綱につながる引手から構成されます。

杏葉
馬の胸や尻を飾るペンダントです。馬の動きをコントロールすることには、直接関係ありませんが、乗る人の地位や職業を表していたと考えられます。

辻金具
杏葉を取り付けたベルトが交差する部分(辻)を固定する金具です。

矛と鏡板 轡 鏡板付 杏葉
辻金具
 435素環頭大刀
 436装身具

ガラス製勾玉、
水晶製・ガラス製勾玉、碧玉製管玉
 

 440各古墳出土品
 441馬具
 442
鞖金具、辻金具 杏葉

鑿、刀子 鉄斧
 443大刀
単鳳環式環頭柄頭
湯湧古墳群1号墳
四王寺坂出土
三累環式環頭柄頭
観音浦古墳群南支群
 444武器
鉄鏃

正籠古墳群3号墳
古墳後期
 445鉄刀 古墳後期
大刀
岩長浦古墳群1号墳
古墳後期

刀と鞘
観音浦古墳群19号墳
古墳後期
 
 450土製品
 451
 452土器
高坏 光正寺古墳後円部墳丘斜面
鉢 光正寺古墳第3主体上面
古墳前期
二重口縁壺片
 453装身具等
繊維痕 勾玉・管玉
光正寺古墳
古墳前期
 457鉄製品
刀子
鉄剣
 
 460
 461鉄製品
 462鉄製品
鉄斧 鉄剣、鉄鎌 神領2号墳
鉄剣
 463
銅鈴
 464宝飾品
臼玉管玉出土状況 内行花文鏡
神領古墳群
5世紀前半
管玉出土状況
 465
勾玉、 管玉 臼玉 勾玉、ガラス小玉
 
 
 470装身具
 471装身具
 472装身具
神領古墳群5号墳

勾玉・水晶製切子玉・
ガラス玉・碧玉製管玉などを組み合わせた装身具
 473装身具  観音浦古墳群 古墳後期
管玉
観音浦古墳群
古墳後期
丸玉
勾玉
観音浦古墳群
古墳後期
勾玉
メノウ製
勾玉
硬玉製
勾玉
ガラス製
 474

観音浦古墳群1号墳
古墳後期
耳環
古墳時代
 475
子持ち勾玉
稲金・山の上遺跡
釧(銅釧)
観音浦南支群5号墳
古墳後期
金銅製装身具
観音浦南支群19号墳
古墳後期
 

 480大甕 弥生~古墳期
古墳時代の土器 弥生時代の土器 古墳時代の土器
弥生時代の土器
 


 510大野城


 511国指定特別史跡 大野城跡 築城開始年:天智4年(西暦665年)
 大野城跡は福岡県宇美町・大野城市・太宰府市にまたがる大野山(四王寺山)に築かれた日本最古の山城です。城の範囲のほとんどが宇美町にあります。山の峯や谷を丸ごと全長約8kmにも及ぶ土塁で囲み、部分的には石垣まで導入するような大規模な城:大野城跡。
ではなぜこのような大規模な城を造ったのでしょうか?

  大野城が造られた理由
当時、朝鮮半島では高句麗・百済・新羅という国々が割拠し激しく対立していまし。660年、唐(中国にあった国)は新羅と手を組み、百済を滅ぼしました。
滅亡後、百済の遺臣たちが挙兵し、倭(当時の日本の呼び名)に援軍を要請します。これに呼応し、中大兄皇子(天智天皇)は朝鮮半島に出兵しました。
しかし、唐・新羅連合軍と戦った結果負けてしまいました。(663年の白村江の戦い)
 その後、唐・新羅が攻めてくることに備え、国内の守りを固め始めます。
翌664年には津島・壱岐・筑紫国に防人を配置、狼煙台も設置し、
那津官家(なのつのみやけ、現在の福岡市にあった国の役所)を内陸である現在の大宰府に移します。

 こうして、665年に大野城が築城されます。つまり、大野城は、半島からの攻撃に備えた大宰府政庁の守り城として造られたといえます。

  お城の構造
 土塁
城は、全長約8kmにも及ぶ土塁で囲まれています。土塁は、敵の侵入を防ぐために作られ、粘土や砂混じりの土など、質の違う土を、厚さ数センチ単位で突き固める工法を用いています。これを版築工法と言います。

 石垣
谷部など土塁を作ると、雨などで流される恐れがある箇所は、石垣が作られており、宇美町側にある百間石垣は全長180mにも及ぶとても立派な石垣です。
今のところ、他に、大石垣・北石垣・小石垣といわれる石垣が確認されています。

特別史跡大野城跡 大野城跡 大野城跡周辺遺跡
国指定特別史跡
大野城跡
大野城が造られた理由
お城の構造 大宰府政庁と四王寺山
八ツ波礎石群
(建物跡)
 513大野城出土品
炭化米
大野城跡出土
大野城跡、尾花礎石建物群の近くで見つけました。
当時ここにあった倉庫に納められて板お米かも知れません。
石鍋(把手部分) 文様塼
※次項の画像が迷い込んでいます。
軒丸瓦
丸瓦 丸瓦
 
 515文様塼
宝相華文と周縁をめぐる珠文が施されたタイプであり、大宰府、政庁跡・学校院跡・観世音寺など、太宰府史跡の限られた場所で出土しているものと同様の資料です。
「館」銘墨書土器と同様、昭和52~53年にかけて、宇美町大字四王寺前田地区から発見されたものです。
これらの資料は、大野城内に役所的機能を持つ建物の存在の可能性を示す重要な資料といえます。
大野城跡前田地区出土

文様塼 平瓦 平瓦
 
 520
 521特別史跡大野城跡
 522文字瓦
「館」銘墨書土器
 523
須恵器 土師器