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 西日本の縄文43   2019.8.1-4

  福市考古資料館  鳥取県米子市福市461-20  0859-26-3784 火曜休館・撮影可

交通  レンタカー
 路線バス 米子駅前バスターミナルより、溝口・日野方面、安養寺入口下車、西へ徒歩600m
 他に、八郷線、二部線、根雨線、賀野・岩屋谷線(御内谷行きを除く)があり、安養寺入口で下車
 米子市埋蔵文化財センターのアクセスに同じ。
周辺観光地 いにしえ横穴学習館 神代塚古墳  足立美術館水木しげるロード 周辺古墳

 



01外観・入口展示

資料 青木遺跡
資料 福市遺跡


110旧石器時代
111石のナイフ
資料 諏訪西山ノ後遺跡

120縄文時代
122縄文草創期~中期

資料 目久美遺跡
121豊かな海の幸 前期
  豊かな森の幸
123石器
125骨角器
127岩偶

130弥生時代

資料 池之内遺跡
131弥生のかんざし
 弥生の土笛
 八禽鏡
132弥生の暮らし道具


140古墳時代
141青木遺跡
 博労町遺跡
 土馬 陰田隠れ家谷遺跡

142弥生の石器
 古墳時代の特殊土器

143玉の材料
144玉の種類
145玉類
146金属製品
147飾り馬具

150奈良時代
151文字書き土器
152石帯
153土馬

資料 陰田横穴墓群

154文字書き土器
159目久美遺跡の

210土器が語る米子の歴史

211縄文時代
212縄文早期
213縄文前期
214縄文後期

220弥生時代
221弥生土器
223弥生中期
227弥生後期

資料 尾高浅山遺跡

230古墳時代
231古墳前期・中期
233古墳中期
 畿内系土器
236古墳後期
 須恵器
237古墳時代後期土器
238子持ち土器


240飛鳥・奈良時代
241panel
242日下12号墳
243人骨の出土

245山陰型甑形土器
246炊飯具
250古代の食べ物

260古墳後期の大甕
261貯蔵の土器 弥生前期
 埋葬用の大型壺

262須恵器屍床
264弥生後期の田舟

265奈良・平安
266今在家下井ノ上遺跡

268古墳後期の刀剣
 
 
 福市考古資料館

 01外観・入口展示

 福市遺跡 調査期間:昭和41~43(1966~68)
  弥生~古墳時代の大規模な集落遺跡です。遺跡の一部が現在の福市遺跡公園です

青木遺跡 青木遺跡
青木遺跡は
弥生~奈良時代の西日本最大級の大規模な集落遺跡です。
福市遺跡の発掘現場 福市遺跡 福市遺跡
福市遺跡は
弥生~古墳時代の大規模集落跡です
米子市の遺跡分布 米子市の遺跡分布
  このページ編集で多く検索しているページ「遺跡紹介」米子市埋蔵文化財センター
  
資料 青木遺跡 縄文晩期~中近世 米子市永江
 参照「青木遺跡パンフレット」

標高40mの青木丘陵は、日野川と法勝寺川に囲まれた、長者原台地北端部の丘陵で、福市丘陵の南側に接しています。昭和46~52年の調査で、
8支陵、40haの調査区域の全面から遺跡が発掘され、青木遺跡は山陰を代表する丘陵性集落(集落と墳墓群)として注目されました。

土器棺A地区からJ地区までに区分された40haの遺跡からは、掘立柱建物、竪穴式住居、棚列、貯蔵穴、落とし穴、土坑、古墳(含方墳)、周溝墓、
土坑墓、溝状遺構、段状遺構など総計995の遺構が確認され、土器、石器、金属器、玉類など各時代の生活用具と、古墳副葬品など数万点が
検出されました。
これらの年代は、縄文時代晩期から中近世にわたっていますが、大部分は弥生時代中期から奈良時代にかけての住居跡と古墳です。

縄文時代:土壙墓、落し穴
弥生時代:中~後期~古墳時代に繋がる、大規模な集落跡(竪穴建物跡、掘立柱建物跡)、土坑、方形周溝墓
古墳時代:古墳及び住居跡、箱式石棺と人骨
奈良時代:住居跡
平安時代~中世:墓

国の史跡に指定されたのは、4haで全体の10分の1にすぎませんが、弥生時代中期から奈良時代にかけての竪穴式住居23棟、掘立柱建物跡9棟、
土坑10基、古墳17基、周溝墓2基、その他2基が確認されています。

これらの遺跡遺物は、各時代の各種の遺構・各種の土器・石器・金属・玉類等の変遷をよく表している。
 引用「国史跡 青木遺跡 米子市」 参照「青木遺跡 文化財database

 
  
資料 福市遺跡 米子市福市

 参照「福市遺跡パンフレット」

標高25mの福市丘陵は、日野川と法勝寺川の合流点に突出するなだらかな丘陵となっていますが、この丘陵の全面に遺跡が分布していることは古くから知られていました。
昭和42年の調査では、遺跡は東西500m、南北400m程の範囲に確認され、山市場、御所原、南御所原、四つ塚谷、日焼山、吉塚、青木向の7支群が設定されました。

遺構は、住居跡152、土坑墓28、古墳6、横穴14、合計217が確認され、遺物は土師器を中心に須恵器と弥生土器の壺、甕、こしき、器台、土製支脚、玉類、武具などが多数検出されました。

国の史跡に指定されたのは、吉塚、日焼山の2支群で、弥生時代後期(3世紀)から古墳時代中期(5世紀)にかけての集落跡と墳墓群です。

遺構は、住居跡90、柱穴群6、溝2、土坑墓24、古墳1、横穴1、合計122が確認されました。また、遺物は、土師器片が約35,000点で最も多く、弥生土器と須恵器が若干、土製紡錘車、土製獣首、鏡片、玉類、鉄器、砥石などが多数検出されています。

住居跡の調査は、大規模な住宅団地と学校の用地造成の事前調査として実施されましたが、村落跡と古墳群を中心に構成されたこの遺跡が、山陰における古墳時代の住居構造、集落構成、変遷および土器編年を考えるうえで学術的に重要な価値を持つことが認められ、その一部を国の遺跡として保存、活用されることになりました。これは、米子市民の文化財保護運動の成果です。

 引用「国史跡 福市遺跡/米子市ホームページ」
 





 110旧石器時代




 111石のナイフ 後期旧石器時代 諏訪西山ノ後遺跡 米子市諏訪
日本は約4万年前の後期旧石器時代から人々が活動し、米子では諏訪西山ノ後遺跡から出土した石器から、2万年前に人が棲み始めたことがわかりました。
2万年前頃は、大陸と陸続きで、大山が噴火していて火山灰が降り注いでいました。

西山ノ後遺跡では、その火山灰の中から石器が発見されました。見つかった石器はナイフ形石器で、ナイフや槍先として使用しました。
この遺跡は、2万年前は内陸の高原地帯であったと思われ、旧石器時代の人々がキャンプ地として利用して、周囲の森や草原で狩りをしていたと考えられます。
 ※氷河期の海退で現在より海抜高度が高く、高原・丘陵地帯だった。


旧石器時代 石のナイフ
上に記述
諏訪西山ノ後遺跡全景 ナイフ形石器
西山ノ後遺跡
旧石器時代 旧石器時代
今から1万2000年前
ナイフ形石器
2万年前
諏訪西山ノ後遺跡
珪岩製
剥片(石器材料)
2万年前
諏訪西山ノ後遺跡
黒曜石・鉄石英

 112諏訪西山ノ後遺跡 資料 引用「諏訪西山ノ後遺跡」発掘調査報告書





 120縄文時代




  122縄文草創期~中期
尖頭器
陰田宮ノ谷遺跡
縄文草創期

奈喜良遺跡
縄文草創期
石錘 陰田第7遺跡
縄文前~中期

石を打ち欠いた石錘(打欠石錘)で、ほとんどが100~400g程の重さです。

 122
資料 目久美遺跡 縄文前期~弥生前期(6000~2300年前) 米子市目久美

 引用「目久美遺跡 米子市」
昭和8年(1933)加茂 川放水路(現加茂川)の開削時に地元の清水安造氏によって発見され、その後の数回の発掘調査によって縄文時代と弥生時代の山陰の代表的な 低湿地遺跡です。
遺跡は米子市目久美町の足尾山の山裾一帯の水田の地下1~4mに埋もれている縄文時代前期(6千年前)から弥生時代前期(2千3百年前)に営まれた村跡や水田跡です。

縄文時代の遺跡は、この辺りまで海が入り込んでいたことを示し、当時の海辺に住んだ人たちが使用した縄文土器のほか、石器や動物の骨や魚骨が大量に出土しました。また、ドングリを蓄えていた穴も43基見つかっており、植物の採取と狩りや漁を行 って暮らしていた様子を物語ります。

弥生時代には、山裾の微高地に村を営み稲作を行って暮らしていたらしく、村跡と 水田跡が発見されています。水田は小さな区画ですが畦や水路も整備された立派な田です。弥生土器や石器のほかに鍬や鋤、田下駄などの農耕具 も多数発見されており、 当時のこの地域の農耕文化を具体的に物語っています。    (※弥生時代には海退して海辺のムラから内陸の村になっていた)

 引用「広葉樹資源の管理と活用-237ページ」
川沿いの低湿地遺跡で、上層は主に弥生前期、下層は縄文時代前期後半の遺物が検出され、遠賀川式土器や三つ刃鋤などが出土した。
 写真引用引用「目久美遺跡 米子市」
弥生時代の区画の小さい水田 田面の足跡 縄文時代のドングリの貯蔵庫 鹿の角で作った鳶口
 121

 豊かな海の幸 目久美遺跡 縄文前期 米子市目久美
6千年位前の縄文時代前期の頃は、気温が温かくなり海水面が上昇し海が陸地に深く入り込んでいました。
縄文前期頃の目久美遺跡の辺りは海岸でした。
遺跡からは縄文土器や石器の他に、動物骨・魚骨、木の実などが出土しました。

海の幸は、タイ、クロダイ、スズ、ブリ、マグロ、ウマヅラハギ、メジロザメ、クジラなどの骨や、カキ、ハイガイ、サルボウガイなどの貝類です。
特にタイの骨が多く見られました。丸木舟で日本海に出て獲ったと思われます。また、大量の石錘が出土しており、、網漁も行っていたようです。

縄文時代 豊かな海の幸
目久美遺跡
米子市目久美
クジラの骨 タイ・マグロ・サメ歯 タイ・マグロ・サメ歯


 豊かな森の幸 目久美遺跡 米子市目久美

中海の海岸に位置する目久美遺跡の裏山には、かつてカシやシイが生い茂る森が広がっていたようで、木の実の貯蔵穴が沢山見つかりました。
また、縄文土器や石器の他に、動物骨が沢山見つかっており、植物採集と狩猟をして暮らしていたことがわかります。

動物の骨は、シカ、イノシシ、サル、アナグマ、カワウソ、タンチョウヅル、コウノトリ、ヒメウ、カワウ、トビなどです。
犬の頭骨も発見され、食用にしたナイフ痕がないため、愛玩動物だったと考えられます。また、犬の糞石もたくさん発見されています。

豊かな森の幸
目久美遺跡 
  貯蔵穴  犬の頭蓋骨(ペット)   鹿角製斧
「 鹿角斧」とも言われる
こちらでは斧とされているが、
うえでは鳶口とされている。

どちらにも使ったのかもしれません。

 森の落とし穴 喜多原第4遺跡 縄文後期 米子市泉字喜多原
喜多原第4遺跡は、米子市東部の大山山麓にある縄文後期の遺跡です。
4千年ほど前の縄文後期の遺跡は10か所ほど発見されていますが、竪穴建物の住居は発見されてなく、土器が落ちている場所や、落とし穴があるだけの遺跡が大半です。

喜多原第4遺跡では、平地式の建物跡と貯蔵穴、落とし穴が発見されました。
落とし穴は丘の斜面に沿って分布しており、大半は楕円形で直径1m深さ1.2m程の大きさで、穴の底には逆茂木があるものとないものがありました。
落とし穴を使った猟が盛んにおこなわれていたことを物語ります。

森の落とし穴
喜多原第4遺跡
米子市泉
落とし穴断面
平地式住居跡

 123目久美遺跡の石器 縄文時代前期
石匙
目久美遺跡
縄文前期
石斧
目久美遺跡
縄文前期
石鏃
目久美遺跡
縄文前期
 125骨角器 縄文前期
 目久美遺跡の位置
当時の弓ヶ浜はまだ発達していなかったので、目久美遺跡は日本海にも中海にも近く、汽水域と海の恵みが得られました。
鯨骨は弓ヶ浜の外海、日本海で得られたものかもしれません。
海の魚や貝、中海のスズキ、川に遡上する鮭、裏山シカや猪といった、一年中欠けることのない食料資源に裏打ちされて、豊かな生活が営まれたのでしょう。

鹿角斧(漁労具)
縄文前期 目久美遺跡

大型魚の刺突具
マグロ脊椎骨
タイの頭骨
縄文前期 目久美遺跡
鯨の骨(脊椎・顎)
縄文前期 目久美遺跡
犬の糞石と犬の頭骨
縄文前期 目久美遺跡
犬の頭骨
鹿(下顎骨)
イノシシ(足)
イノシシ(下顎骨)
 127岩偶 前期
岩偶(まじない道具)
縄文前期 目久美遺跡
すり石(叩石)
縄文前期 目久美遺跡
石皿出土
陰田第7遺跡
石皿・すり石(叩き石)
縄文時代・目久美遺跡
 
 





 130弥生時代




 
 133
資料 池之内遺跡 引用「遺跡シリーズ3 池之内遺跡」 米子市埋蔵文化財センター

池ノ内遺跡は、米子駅の南東1㎞の美吉の水 田下1mに所在する遺跡で、1933 年の新加茂川 開削時に目久美遺跡と供に発見されました。
1984 年に新加茂川拡張に伴う調査によって、弥 生時代中期末から古墳時代にかけての水田跡の 遺構が検出されました。水田跡は小区画の水田 で、洪水を受けるたびに新しい畦を造り直して おり、層位の異なる弥生時代の水田跡3面と古墳時代の水田跡1面が確認されています。

(上)造り直された水田の畦 (下)田船 また遺跡からは農具や工具、建築部材などの 大量の木製品が発見されました。
木製品は鍬、 鋤、穂積具、えぶり、田下駄、田舟など農耕具 が大半ですが、梯子、柱、杭、加工板などの建 築部材や斧柄、容器片、網枠、かんざしなど多種多様なものです。 本遺跡は古代の人々が自然災害と戦いながら 水田を切り開いてきた様子を物語っています。

造り直された水田の畔 田舟

 131
 弥生のかんざし 池ノ内遺跡 米子市美吉
水田稲作と共に、鉄器などの金属器も伝わり、石器で作っていた木製品を加工する技術が、鉄器の普及で発達しました。

池ノ内遺跡からは、鍬、鋤、穂摘具、えぶり、田下駄、田舟など農具と、梯子、柱、杭、加工板などの建築部材、容器、斧柄、「かんざし」など多数の木製品が出土しました。

池ノ内遺跡は、水捌けの悪い湿地の水田だったようで普通は腐ってしまう木製品が泥と水でパックされたため、空気に触れることなく2千年もの間、姿が保たれていました。田んぼの中に「かんざし」を落とした人は見つけられなくて残念な思いであったことでしょう。

弥生時代 弥生のかんざし
池ノ内遺跡:米子市美吉
かんざしの出土状況 田下駄の出土状況 区画の小さい水田



 弥生の土笛 目久美遺跡  米子市目久美

弥生時代の土笛は、目久美遺跡から2個発見されています。
土笛の一つは長さ7.4cm径6cmの卵形の土器で、小さな孔が 正面に4個、背面に2個あります。この穴を指で押さえて音階を奏でたようです。
1982年の調査でムラの背後に流れる水路の中から発見され、2008年の調査でもう一つ発見されました。

弥生の土笛は、中国の陶塤(とうけん)という笛に似ており、稲作の祭りに使われたと考えられます。
山口県綾羅木遺跡島根県タテチョウ遺跡鳥取県青谷上寺地遺跡京都府扇谷遺跡の海岸沿いの遺跡から見つかっており、
弥生文化が日本海を北上したルート上にあたります。

弥生の土笛
目久美遺跡 
目久美遺跡の土笛 
上の4か所の土笛と比べて見て下さい。
目久美遺跡の土笛  


 八禽鏡 (はっきんきょう) 青木遺跡 弥生後期 米子市永江
青木遺跡の弥生時代後期(1800年前)の竪穴建物で青銅鏡が発見されました。鏡は半分に割れていましたが、向かい合う二羽の鳥が四対八羽描かれており、
八禽鏡(はっきんきょう)と呼ばれる中国前漢の鏡でした。

この形の鏡は青谷上寺地遺跡からも出土しており、全国では9点出土しています。
鏡といえば女王卑弥呼が百面の鏡を中国から贈られたことが知られていますが、それ以前の鏡です。(239年以前)

出土した竪穴建物跡は直径8mを測る大きな建物で、 管玉や鉄器も出土しており、建物の主は村の長だったと考えられています。
村長は、この鏡をどんなルートで手に入れ、なぜ家の中に埋めたのでしょうか。

八禽鏡   青木遺跡
八禽鏡 
 
 132
もみ痕跡のある土器
弥生前期
長砂第2遺跡

弥生前期
長砂第2遺跡
土笛(祭祀具)
弥生前~中期
目久美遺跡

九州~近畿の日本海側に分布する
分銅型土製品(祭祀具)
新山山田遺跡
目久美遺跡
分銅形土製品
弥生中期~後期に、岡山県を中心に瀬戸内海沿岸、中国山地、近畿地方に分布しています。
絵画土器(鹿)
弥生中期 大谷遺跡
鶏形土器
弥生前期
目久美遺跡
木製かんざし
弥生後期
池の内遺跡
木製琴の部材
弥生中期 大谷遺跡
 
 




 140古墳時代






 141青木遺跡
青木遺跡の竪穴住居跡 青木遺跡の竪穴住居跡 青木遺跡の掘立柱建物跡


 博労町遺跡 米子市博労町   参照博労町遺跡
大昔から「玉」は不思議な力があると信じられ、宝や装身具として、人々に大切にされてきました。
勾玉は、倒した動物のキバの形が元とも言われ、縄文人はヒスイの石で作った玉をつけていました。
弥生人や古墳時代の人たちは、ヒスイや碧玉、メノウ、水晶、ガラスなど様々な材料で、玉を作っています。

古墳時代の中頃からは、滑石でも玉がつくられました。博労町遺跡から出土した玉は、その滑石製で、勾玉の背を合わせたふたごの勾玉です。
小さいですが、双子の勾玉は全国的にも珍しく、他にありません。なぜ、こんな形の玉を作ったのでしょうか。

 双子勾玉
博労町遺跡

上に記述
博労町遺跡の竪穴建物跡  双子勾玉出土状況  双子勾玉 
滑石製
エックス字形勾玉は、確かに珍しいのですが、全国唯一かなぁ。

最近、どこかで見ました。こんなのがいくつもあって、何かをグルリと取り囲んでいる写真。

どこだったか思い出せない…



 土馬 陰田隠れが谷遺跡 米子市陰田 古墳~平安時代
1400年くらい前の古墳時代の終わり頃から平安時代にかけて、馬をかたどったミニチュアの土器が出土します。
土馬と呼ばれるこの土器が出土する場所が、水辺やいどなどの水と関係が深いところが多いため、水神に捧げる馬の形代(かたしろ)として使われたのではないかと考えられています。

土馬は壊されて出土するものが多いのですが、陰田隠れが谷遺跡の須恵質の雌雄一対の土馬はほぼ完全な形で出土しました。鞍や手綱などの馬具を付けた華麗な飾り馬です。

この土馬は炭や焼土が溜まった窪地から、重なって発見されており、火を焚いた雨乞い祀りで使われた形代ではないかと考えられています。
陰田隠れが谷遺跡では、この土馬の他に赤く塗られたものなど、19体が発見されています。

土馬 米子市陰田
陰田隠れが谷遺跡
上に記述
土馬出土の炭・焼土土坑 陰田隠れが谷の土馬
「雌雄2体」とされる
 
 142弥生の石器

左:磨製石剣
 弥生時代中期
 2200年前
 東宗像遺跡

右:磨製石剣(祭祀具)
 弥生時代
 吉谷銭神遺跡
目久美遺跡の石器
磨製石斧
石鏃
石鑿
石鍬

石鍬・石鑿・環状石斧
穂摘み具 弥生時代
石包丁 目久美遺跡
木包丁 池ノ内遺跡


  古墳時代
古墳時代 皮袋形土器
古墳時代前期
福市遺跡
鶏形土器
古墳前期
福市遺跡
 


 143玉の原材料
玉の原材料 ヒスイ
緑色凝灰岩
碧玉
瑪瑙
水晶
滑石
結晶片岩
琥珀
埋もれ木
ガラス
 144玉の種類
玉の種類
装身具として使用された玉には、様々な種類があります。

玉は時代によって材料や形、色、使用方法、正確が大きく変化していきます。
  勾玉:鉤(かぎ)状に曲がっており、頭部に紐を通すための孔がある。
    翡翠や焼玉・瑪瑙など様々な石材やガラスで造られる。最もポピュラーな玉。
管玉:円筒形の玉で、タテ方向に孔が貫通しているのが特徴。勾玉と共に主要な玉である。
丸玉:球のような形で中央に孔があけられている。
  臼玉:小さな玉で、滑石で作られる。ガラス小玉を真似たとも考えられている。
算盤玉:ソロバンの珠に似た形をしている。碧玉・露脳・水晶・埋もれ木で作られる。
切子玉:角錐体を2個合わせたような形で、断面が六角形のものが多い。主に水晶で作られ、タテ方向に孔がある。
  棗玉:ナツメの実に似た形で、側面は丸みを帯びている。タテ方向に孔がある。碧玉、埋もれ木、琥珀で作られる。
垂玉:不安定な方地をしており、上端に孔がある。水晶の他、骨や牙で作られた玉も含む。
平玉:平らな珠で、表裏面と側面は面取りされている。側面に孔があけられているのが特徴。
  この製品には孔がなく、玉と呼べません。しかし、玉作遺跡において玉と同じ石材で作られていました。

腕輪型石製品(鍬形石・車輪石・石釧)
   貝の腕輪を模した宝器で、主に碧玉や緑色凝灰岩、滑石で作られる。古墳時代前期に多く副葬される。

三輪玉: 山形の装飾品で、古墳時代後期の大刀の柄に数個を連ねて使用された。水死要請や金銅製がある。

碁石状石製品: 平玉に似ているが、孔がないのが特徴。奈良時代以降に登場する。
 145玉類
ガラス小玉・管玉
吉谷上ノ原遺跡
勾玉 古墳後期
大﨏山横穴墓
子持勾玉
古墳中期 福市遺跡
玉(首飾り)
古墳時代後期
日下横穴墓
大﨏山横穴墓
別所1号墓
管玉 切子玉
丸玉 金環(耳飾り)
古墳後期
石州府古墳群
異形勾玉(いぎょう)
古墳前期
博労町遺跡
異形勾玉(いぎょう)
古墳前期
博労町遺跡
双子勾玉
異形勾玉
X字勾玉
とか、
色々な呼び名がある
ニューデザインを考えたんだけど、現代にいたるまで、真に新しいデザインはないですね。
みんな同じ変わらない。

 146金属製品
珠文鏡 古墳中期
長砂第3遺跡
獣帯鏡
古墳前期
石州府29号墳
鉄鏃
古墳後期
日下横穴墓
鏡の出土は、その地に有力豪族がいた証拠であると推察できる


 147飾り馬具
飾り馬具 埴輪馬の飾りと馬具 馬具(轡)
古墳後期 別所1号墳
馬具 古墳後期
石州府5号墳
鞍金具・轡
辻金具・鞖(しおで)
観音寺狼谷山遺跡
出土轡の保存処理
観音寺狼谷山遺跡
 




 150奈良時代



 151
 文字が書かれた土器
米子市内での文字が書かれた土器資料は、土器を焼く前にヘラで文字を刻んだヘラ書き土器と、焼成後に隅で書かれた墨書土器が見つかっています。これらの文字土器を出土した古代遺跡は、古墳時代末(6世紀末)から平安時代(10世紀)の古墳等の墓関係の遺跡と、古代の役所に関係する遺跡で、
陰田横穴墓群陰田マノカンヤマ遺跡陰田第6遺跡陰田広畑遺跡陰田荒神谷遺跡陰田子犬田遺跡博労町遺跡上福万遺跡石州府古墳群上淀廃寺跡など10か所あります。

文字土器の出土は、この辺りでも古墳時代末には文字の読み書きができる土器づくりの工人がいたことを物語ります。

文字が書かれた土器
上に記述

陰田横穴墓ヘラ書土器
博労町遺跡墨書土器
オスメス土馬出土状況
陰田隠れが谷遺跡
陰田隠れが谷遺跡の
掘立柱田建物群
陰田広畑遺跡の斜面に造られた掘立柱建物
土馬(祀りの道具)
奈良時代
陰田隠れが谷遺跡
 152石帯 博労町遺跡  この辺りに官人がいた証拠かな
石帯・腰帯構造図
青銅製の丸鞆
奈良時代 博労町
青銅製の丸鞆 石製巡方 平安時代
博労町遺跡
青銅製巡方 奈良時代
博労町遺跡
 153土馬

水に関わる祭祀具
土馬(祭祀具)
奈良時代
陰田隠れが谷遺跡
 154a
資料 陰田横穴墓群 引用「陰田横穴群」 6世紀後葉~8世紀前葉
陰田横穴群は、市街地の西、米子市陰田の米子バイパス米子西インターの西側丘陵に発見された横穴墓群は、昭和57年(1982)に発掘調査され、
鳥取県下最大規模の横穴墓群であることが判明しました。
丘陵斜面に発見された大小50基の横穴墓は工事で消滅しましたが、横穴群は未調査の南北側斜面にも続くのが確認されており、数は更に増えると
推定されています。

横穴墓の形態は、丸天井型、断面三角妻入型 、断面三角平入型と小横穴です。
横穴墓からは、主な遺物として各種の須恵器 、ヘラ書文字土器、馬具、鉄器、玉類など多数発見されています。墓は古墳時代後期の6世紀後葉から
8世紀前葉まで営まれており、陰田地区に住んでいた家父長家族の一団が葬られたと考えられます。
 写真引用「陰田横穴群」
陰田横穴墓群遠望 ヘラ書土器 27号横穴前庭部 25号横穴墓内部墓堀職人の息遣いがしそうな壁面の鍬跡
 154刻書土器 ヘラ書き土器・墨書土器 奈良時代 上福万遺跡  陰田横穴墓

新山山田遺跡「責」
 155ヘラ書き土器
ミキ
陰田6号横穴墓
ヘラ書き土器・墨書土器
奈良時代
上福万遺跡
上淀廃寺跡
石州府6号墳
石州府11号墳
陰田横穴墓
上福万遺跡 奈口
 158ヘラ書き土器
「琴」上淀廃寺
「琴」と書かれた土器
「琴」上淀廃寺
「琴」と書かれた土器
円面硯 奈良時代
陰田広畑遺跡

 159目久美遺跡の土層
埋没していた目久美遺跡の土層断面の剥ぎ取り標本です。6千年前から現在に至る土砂の堆積を示しています。
深さや土質の違いが各時代の環境を物語ります。


 3000年前から現代の土の堆積 
  天候不順で洪水の時代があったことが分かる。(弥生後期から平安時代)
現代

鎌倉-江戸

弥生後期-平安(洪水の堆積)


弥生中期 (古代水田)
弥生前期

縄文晩期
 
 








 210土器が語る米子の歴史








 211縄文時代

草創期 13,000-10,000
早期 10,000-6000
前期 6,000-5,000
中期 5,000-4,000
後期 4,000-3,000
晩期 3,000-2,500


  引用「米子及び鳥取県西部の遺跡」(参照してください。)
日野川以西(左岸)の遺跡群 日野川以東(右岸)の遺跡群
縄文時代の遺跡 茶畑山道遺跡
目久美遺跡(目久美町)
上福万遺跡(上福万)
泉中峰前田遺跡(泉)
喜多原第4遺跡(泉喜多原)

展示全景 縄文展示 目久美遺跡 貯蔵穴

 212縄文早期
上福万遺跡
縄文早期
菱形文深鉢
上福万遺跡 縄文早期

押型文土器期
 213縄文前期
押引文深鉢  
陰田第9遺跡
刺突文深鉢  
上福万遺跡
条痕文深鉢  
渡り上り遺跡
爪形文深鉢
目久美遺跡
爪形文浅鉢
目久美遺跡
縄文前期
 

  ん? 中期がない!

 214縄文後期
爪形文浅鉢  
目久美遺跡
縄文前期

凹線文浅鉢  
太一垣遺跡

注口土器  
太一垣遺跡
無文浅鉢  
井手胯遺跡
  晩期もない。 米子市周辺の 特徴的な土器を中心とした展示でした。 土器がない時期は共通する土器が一般化していたのかな。






 220弥生時代



前期 2,500-2,200
中期 2,200-1,900
後期 1,900-1,750

 221弥生土器
目久美遺跡の水田跡 弥生時代
 222弥生前期
弥生前期
甕、鉢・蓋
長砂第1遺跡

甕 目久美遺跡
甕 奈喜良遺跡

木の葉文

壺 長砂第1遺跡
壺 諏訪西山ノ後遺跡

壺 長砂第1遺跡

北尾宮廻遺跡
弥生後期~古墳前期
鳥取県西伯郡淀江町大字福岡字宮廻


吉谷屋奈ヶ塔遺跡
弥生中期中葉~奈良
米子市吉谷

  引用「米子及び鳥取県西部の遺跡」
弥生前期の遺跡
目久美遺跡(目久美町)
池ノ内遺跡(美吉)
長砂第1・第2遺跡(長砂)
尾高御立山遺跡(尾高)
日下寺山遺跡(日下)
 

 223弥生中期
日下弥生木棺墓群
器台
 尾高御建山遺跡
米子市尾高字御建山開二

  引用「米子及び鳥取県西部の遺跡」
弥生中期の遺跡 四日市町遺跡(四日市町)
久米第1遺跡(久米町)
青木遺跡(青木永江)
東宗像遺跡(長砂町・宗像)
妻木晩田遺跡
喜多原第2遺跡(泉喜多原)
日下遺跡(日下)
石州府第1遺跡(石州府)
 
 227弥生後期

尾高浅山遺跡墳丘墓
高坏・器台
妻木晩田遺跡

壺 博労町遺跡
壺・器台 青木遺跡

前方
高坏 青木遺跡
低脚坏 福市遺跡

後方
低脚坏 福市遺跡
小型丸底壺 福市遺跡
器台 福市遺跡

甕 青木遺跡
甕 青木遺跡

盤(ばん=皿)
 福市遺跡
弥生後期

 228
資料 尾高浅山遺跡 引用「尾高浅山遺跡」 弥生時代後期前葉~中葉(2世紀)頃
尾高浅山遺跡は米子市街の東8㎞の米子市尾高の大山西山麓端の丘陵に所在する遺跡で、試掘調査で発見された
城塞的な環濠集落四隅突出型墳丘墓を特徴とする遺跡で、北側丘陵に3重の環濠集落、南側丘陵 に墳丘墓群があります。

環濠は丘陵頂部を鉢巻状に巡り、
第一環濠の規模は長軸 110m、短軸50m。第二環濠は長軸130m、短軸60m。第三環濠は丘陵西端を 半弧状に巡っています。
環濠内部には竪穴住居跡10棟、集石遺構1基、配石遺構1基、袋状貯蔵穴2基が確認されています。

集石は15cm大の丸い河原石が70個ほど集めた戦闘用投石と推定されています。環濠遺構の時期は弥生後期前葉~中葉(2世紀)頃と考えられています。
墓群は四隅突出型墳丘墓円形墳丘墓、段状の3基の方形墓が確認されています。
丘陵頂部の1号墓は四隅突出型墳丘墓で長軸9.7m、短軸7.1m、高さ0.85mを測り、突出部はあまり発達していません。人頭大の河原石を4~7段貼り、墳裾には立石状の列石を巡らしています。主体部は未調査で不明ですが、遺物から弥生後期初頭と推定されます。
円形墳丘墓は時期不明ですが、方形墓は弥生後期後葉の貼石墓と推定されています。
 写真引用「尾高浅山遺跡」
尾高浅山遠望 第一環濠の断面 1号四隅突出型墳丘墓
集積遺構

  引用「米子及び鳥取県西部の遺跡」
弥生後期の遺跡 陰田遺跡群(陰田)
福市遺跡(福市)
尾高浅山遺跡(尾高)
陰田第6遺跡
奈喜良遺跡(奈喜良)
下安曇遺跡
日下墳墓群(日下)
岡成第9遺跡(岡成)
洞の原1-18号墓(淀江町福
 


 230古墳時代

  古墳時代前期 1750-1650年前
  古墳時代中期 1550-1650年前
  古墳時代後期 1400-1550年前


 231古墳時代前期・中期 (古墳時代前期・中期は混然として区分もよくわかりません。古墳後期は明確です。)
 232panel
青木遺跡 J地区 青木遺跡発掘調査

土師器は、野焼きで作られるため。680℃~700℃位の低い温度で焼かれた土器です。橙色から赤褐色の柔らかい土器です。
主に住居から出土していることから、日常生活で使っていたと思われます。
土師器には、壺・甕・高坏・器台が中心で、その他に低脚坏・甑・支脚・鉢・盤・小型壺・手づくね土器などがある。

 壺: 食べ物の貯蔵や水や酒などを入れたりする容器。
 甕: 食べ物や汁物などを調理するときに使われる容器。
堤瓶:携帯用の水筒のような用途に用いられた容器。
脚付碗:食べ物をのせるうつわ、足がついている。


盤(ばん=皿)
 福市遺跡
弥生後期~古墳中期


福岡遺跡
弥生中期中葉


土製支脚
福市遺跡
弥生後期~古墳中期
3世紀~5世紀

高坏
青木遺跡
弥生中期~奈良時代



福市遺跡

  引用「米子及び鳥取県西部の遺跡」
古墳前期の遺跡 日原6号墳(日原)
普段寺1、2号墳(会見町寺内)
研石山1号墳
青木F2号墳
青木F1号墳
浅井11号墳(会見町浅井)
石州府119号墳(石州府)
石州府29号墳(石州府)
日下25号墳(日下)
日下39号墳(日下)
 

 233古墳時代中期

古墳中期

壺 青木遺跡

壺・器台 福市遺跡

 畿内系土器 米子城2遺跡

畿内系土器
小型丸底壺・器台・高坏・壺・土製支脚

高坏

鉢・器台

小型丸底壺
土製支脚


  引用「米子及び鳥取県西部の遺跡」 
古墳中期の遺跡 陰田41号墳
三崎殿山古墳(会見町三崎)

新山山田7号墳
青木B1号墳
尾高19号墳(尾高)
日下45号墳(日下)
日下44号墳(日下)
晩田山3号墳(淀江町福岡)
上ノ山古墳(淀江町福岡)
向山4号墳(淀江町福岡)
 


 236古墳時代後期

 須恵器
須恵器は、登り窯を使って1000℃以上の高温で焼かれた土器で、青灰色をした硬い土器です。

5世紀ころ朝鮮半島から伝えられ、大阪にある陶邑古窯址を中心に生産されたのを始め全国に広まりました。主に古墳や横穴墓から出土していることから、葬祭の共献用として使われていたようですが、普及してくると、西日本を中心に集落でも出土していることから日常生活でも使われるようになったと思われます。
須恵器には、坏が最も多く、高坏・壺・瓶・甕・ハソウなどがある。

須恵器は、窖窯を使って焼かれました。登り窯は、穴窯を横にして、それを何段も並べたものをいいます。Wikiでは両者を一緒にしています。

 237古墳時代後期の土器
須恵器 石州府古墳群
古墳時代後期土器 蓋坏・高坏・はそう
長頸壷・長頸壷・直口壺

別所1号墳

蓋坏・高坏・はそう
研石山遺跡

高坏・小壺・把手付坏
 238子持土器

子持器台
古墳時代後期
別所2号墳


壺 石州府第4遺跡

脚付き子持壺
観音寺古墳群

  引用「米子及び鳥取県西部の遺跡」
古墳後期の遺跡 東宗像5号墳
東宗像6号墳
東宗像2号墳
陰田37号墳
宗像1号墳
別所1号墳
日下12号墳
長者ケ平古墳
石馬谷古墳
岩屋古墳
石州府1号墳(石州府)
石州府56号墳
 


 240飛鳥・奈良時代


 241
陰田横穴墓群 陰田隠れが谷遺跡

石州府69号墳
蓋坏・はそう・長頸壷・
土師器坏
石州府古墳群

坏 陰田隠れが谷遺跡

土師器坏 陰田広畑遺跡

 引用「米子及び鳥取県西部の遺跡」
飛鳥時代の遺跡 石州府1,56号墳 石州府6号墳
石州府67号墳
石州府69号墳
晩田31号墳
奈良時代の遺跡 陰田遺跡群(陰田町)
久米第1遺跡(久米町)
新山下山遺跡(新山)
 
 
 






 242日下12号墳 古墳時代後期   米子市日下地区    日下古墳群堂平支群  日下古墳群

 日下12号墳出土人骨 一つの棺に7人埋葬
日下12号墳は直径約13mの円墳です。
石棺の中に大人4人、子供3人が埋葬されていました。追葬の時、骨寄せが行われたので、先に葬られた人の骨は大きく動かされています。

この内、1号人骨と2号人骨には朱が塗られていました。朱は2種類あり、ややくすんだ色の1号人骨がベンガラ、鮮やかな色をした2号人骨が水銀朱です。墓壙内からは6世紀中頃~7世紀前半の土器が出土しました。

日下12号墳出土人骨
一つの棺に7人埋葬
日下12号墳出土人骨
一つの棺に7人埋葬
日下12号墳 埋葬施設
埋葬の様子(集骨墓)
 243日下12号墳人骨
ベンガラが塗られた
頭骨 男性
埋葬状況 日下39号墳人骨
女性
キャプションがありません。
この墓が集積墓なのか、集団死した死体を一度に埋葬したのか不明。
アイヌでは、流行病での死者は墓標も建てず、穴に埋めます。

埋葬の様子から、一部に集積された骨があり(二次葬骨)、頭骨に赤色顔料が塗られているものが2つあり(二次葬骨)、
死因は虐殺などではなく、自然史、あるいは病死。身分の高いものが含まれること、細かい骨が散乱していること(一次葬)などから、

どちらとも言い難いように思います。
 


 245山陰型甑型土器

漏斗状の中空の胴部に環状の把手を付けた形の土器で、弥生時代後期から古墳時代前期の遺跡から出土しています。

この土器は、発見当初に蒸し器と考えられ、甑形土器と命名されました。その後上下逆にしての使用説、煙突説、儀式用の仮器説などの説が唱えられ
用途が定まっていません。壺や甕などの土器に比べ出土数が非常に少ないため、日常的に使用されたものではないようです。

この土器の分布は山陰地方を中心に、、広島県愛媛県、福岡県、兵庫県などからも発見されており、他地域にも、この土器を使う習俗が伝わったことを物語っています。

山陰型甑型土器 山陰型甑型土器 山陰型甑型土器 各地の出土物
山陰型甑型土器
青木遺跡
山陰型甑型土器
漏斗型の把手
(牛角把手)
が付いた土器
 

 246炊飯具

 古代の煮炊き具
土製支脚は、甕などの煮沸容器を3個で下支えする道具で、近代の「五徳」に類します。「五徳」タイプの支脚は西日本各地にみられ、山陰地方では、
主に古墳時代後期になって多数出土します。古墳時代前期の支脚は、米子の遺跡で畿内系の2点がありますが、「五徳」タイプではありません。

カマドは朝鮮半島からもたらされたもので、クドやヘッツイとも呼ばれています。山陰の古代の住居では、作り付けられたカマドはほとんどなく、
移動式カマドが使われています。移動式カマドは、古墳時代中期から後期の住居跡などの遺跡から、甕と甑のセットとして出土します。

これらの道具により、これまでの直置きの煮炊きより熱効率が上がり、炊飯時間が短縮され便利になったと考えられます。


 カマド・甕・甑のセット
カマドに火を入れ、水を沸騰させ、その蒸気で甑の中の米を蒸しました。しかし、甑の出土は、煮炊きに使った甕に比べると極めて少なく
蒸し米は祭りなど特別な時だけに食べたと考えられます。

 古墳時代の炊飯具
古代の煮炊き具 古代の煮炊き具 深鉢による煮炊き
移動式カマドと甑
カマド・甕・甑のセット
土師器 甑
古墳後期 青木遺跡
移動式かまど
古墳後期
石州府第4遺跡
土師器 炊飯具セット
後期 陰田宮ノ谷遺跡

土製支脚 後期
陰田宮ノ谷遺跡

移動式かまど
石州府第4遺跡
 
 250古墳時代の食べ物

 古墳時代には何を食べていたのでしょうか?
古墳時代になると、弥生時代に始まった稲作が更に栄えてきますが、まだまだ米は貴重なものだったようです。
 251

モモ・ウメ・カキ・マクワウリ
ドングリ・カシ・クリ・クルミ

イヌガヤ・モロコシ・キビ
エビヅル・オオムギ・ヒエ
アズキ・コムギ・アワ

クロダイ・タイ・イサキ
ウニ・ハマグリ・マガキ・イガイ


 260古墳後期の大甕


 261貯蔵の土器 弥生時代前期 目久美遺跡

 貯蔵用の器
弥生時代の器には、貯蔵用の壺、煮炊き用の甕、盛り付け。お供え用の高坏の三種があります。特に物を貯める壺はそれまでにない新しい文化でした。
貯蔵用土器 貯蔵用土器

弥生時代前期
目久美遺跡
貯蔵用土器


 埋葬用の大型壺

 米子市目久美遺跡出土 弥生時代中期後半(2000年前頃)
埋葬用の大型壺と思われます。頸部の粘土紐、口縁部の丸い粘土板と刻みによる装飾により、儀式用土器としての演出効果を高めています。

埋葬用の大型壺  弥生土器    埋葬用の大型壺というも、口が大きく、死体も入りそうだ。
土器棺だったのか、二次葬骨の骨壺だったのか、

破壊断片の大きさが良くそろっていることから、
埋葬前に高価な大型土器を破壊して屍床として財力を見せつけあの世に送り、高価なものの上に遺体を置いて、死後の世界でも高貴な立場に生まれ変わるように祈ったのかもしれない。


 土師器大甕
土師器
古墳時代前期
新山研石山遺跡

 262須恵器屍床
大きな壺とやや小さな甕で、須恵器屍床(須恵器を破砕し破片を横穴墓に敷く風習)として使用されたものです。
この風習は陰田横穴墓群10基で見られますが、大小2つの土器を1セットとして屍床にするのが基本原則だったようです。

埋葬用の大型の壺

墓の床に敷き詰められた壺と甕
6世紀 陰田16号横穴出土
陰田16号横穴出土須恵器
6世紀末~7世紀初頭
須恵器屍床
屍床 (ししょう)
  屍床用須恵器は、完形の物二個を横穴墓に持ち込んで、墓室の中で打ち壊してばらまいたようです。

 
 264弥生後期の田舟
田舟 田舟

池之内遺跡 弥生後期
水田で農具や稲穂を運ぶのに使用した。
当時は湿田だったようだ。
 


 265奈良・平安



 266米子平野のど真ん中から見つかった
    今在家下井ノ上遺跡 米子市今在家

今在家下井ノ上遺跡(いまざいけしもいのうえいせき)は、平成13年に米子ジャンクションの工事に伴い、発掘調査されました。

ここは米子平野を流れる日野川と精進川の堆積作用によって形成された平野のど真ん中にある遺跡です。
この遺跡は古墳時代後期から集落が形成されていました。この場所は、川の氾濫原に近い不安定な環境ですが、居住に適した場所だったのでしょう。

奈良・平安時代には、米子市内でも珍しい緑釉陶器が出土しました。
緑釉陶器とは、緑色に発色する釉薬を掛けて焼かれた陶器です。古代の役所跡や寺院跡などから出土することが多いので、奈良・平安時代の頃には、この辺りに役所や寺院に類するような施設が建っていたのかもしれません。

米子平野の中心にぽつんと佇む遺跡ですが、米子市街の中心部には、この遺跡以外にも沢山の未発掘の遺跡が沢山埋もれていると思われます。
 
今在家下井ノ上遺跡
上に記述
土師器の甕
緑釉陶器の碗 奈良平安時代の遺構群
集積と土器出土状況
土師器の皿 平安時代
1100年前
今在家下井ノ上遺跡
土製支脚 平安
1100年前
今在家下井ノ上遺跡

 268古墳後期の刀剣 東宗像1号横穴墓
 269
装飾大刀古墳後期
石州府1号墳
大刀各種
古代大刀各部名称
鉄刀
古墳後期
東宗像1号横穴墓
  各種大刀
1:環頭大刀
2:円頭大刀
3:方頭大刀
4:圭頭大刀
5:頭椎大刀
6:鶏冠頭大刀
7:蕨手刀