青森の縄文 01 2019.09.26-1
おいらせ阿光坊古墳館 青森県上北郡おいらせ町阿光坊107-4 0178-20-0405 月休・撮影可
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交通 |
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レンタカー |
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ナビが認識しないときは、下田こども園0178-56-2254の手前交差点にある。 |
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バス |
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青い森鉄道「下田駅」下車⇒おいらせ町民バス(南線内回り)「阿光坊古墳群」下車(徒歩3分) |
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おいらせ町民バス(南線)⇒「阿光坊古墳群」下車(徒歩3分) |
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十和田観光電鉄バス(八戸十和田線)⇒「下阿光坊」下車(徒歩3分) |
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東北地方における終末期群集墳
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目
次 |
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01外観
100➀阿光坊古墳へのいざない
111北東北地方の末期古墳群
112様々な古墳
113末期古墳群とは
114史跡阿光坊古墳群
115阿光坊古墳群が造られた時期
200②古墳と埋葬品
210阿光坊古墳群 阿光坊遺跡
211末期古墳 推定復元模型
212古墳群の出土遺物
A11号墳
213 A1号墳
221 A11号墳
224 A1号墳
感想 古墳群出土物から
231 A3号墳
A6号墳
感想 豊かになった首長
235末期古墳の埋葬方法
237木棺の構造と埋葬手順
四辺埋め込み式木棺の構造と埋葬手順
小口板埋め込み式木棺の構造と埋葬手順
238末期古墳推定復元模型
241 A9号墳
243出土遺物に付着した繊維 |
天神山遺跡(阿光坊遺跡群)
260被葬者の推測
想像 被葬者の出自
263 T2号墳 天神山遺跡
T3号墳
266 T3号墳 埋葬部出土品
271耳皿
272 T4号墳・T5号墳
十三森(2)遺跡(阿光坊遺跡群)
276石帯丸鞆
281J21,J10
283鉄製品
284結び付く出土遺物
竪穴建物出土品 ふくべ(3)遺跡
285古墳から出土した刀類 |
300③古墳を残した人々
301古墳群周辺の古代集落遺跡
資料 8世紀末~9世紀の人口減少
303中野平遺跡
305ふくべ(3)遺跡
307根岸遺跡
挂甲小札
308根岸遺跡出土物
311立蛇(1)遺跡
320古代集落の暮らし
321古代集落の建物
330蝦夷の生業と生活
蝦夷による馬の生産
332墨書土器
334馬具
400④出土品と文化の交わり
401律令国家と蝦夷
403出土品と文化の交わり
405各地の土器
407都母の村
500⑤阿光坊の不思議
501古墳群とその後の話
503聖福寺の聖観音菩薩立像
十三塚伝説
600博物館 二階
601八甲田カルデラ
602阿光坊古墳群(写真集より)
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01外観
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100➀阿光坊古墳へのいざない
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阿光坊古墳群は、7世紀前半から9世紀末までの、約300年間にわたって作られ続けた地域の首長墓です。125基確認されています。
考察 最終編集です結論から書いてしまいます。
ここの人々は東北地方南部、または、関東、または、東海、信州、北陸などの大和政権の支配地域から入植した人々で、
馬産(馬の飼育繁殖、馬の生産)を生業にした人々ではないかと考えられています。
東北地方南部からだとエミシであり、関東以西からだと半島系ですが、詳細はよくわかりません。
古墳の被葬者はこの地域一帯の首長たちであり、分散して近隣に入植し、それぞれが別々に村を営んでいたが、首長墓だけは同じところに集まって作りました。つまり、本来同族の人々であり、血統を重視するために、同じ場所に作るようになったのでしょう。逆に言えば、それぞれが支配する村には、同族以外の住民もいたので、特に血統にこだわったともいえます。
したがって、出土の副葬品の中に役人の装束に用いる石帯や大刀などが含まれていますが、それは、ただ、下賜されたものなのか、役人としての身分をもらったものなのかはわかりません。
展示ではこのような憶測なしで、淡々と事実だけを展示されています。 |
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102阿光坊古墳へのいざない
史跡阿光坊古墳群模型 史跡阿光坊古墳群 模型 縮尺1/500
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史跡阿光坊古墳群は、阿光坊遺跡・天神山遺跡・十三森(2)遺跡に所在する墳墓群の総称です。
発掘調査では、阿光坊遺跡で21基、天神山遺跡で39基、十三森遺跡で65基の計125基の末期古墳が確認されており、古墳の大きさも様々です。
この模型は、古墳の造成が終焉を迎えようとしていた9世紀後半・初夏の阿光坊古墳群を推定再現したものです。 |
古墳群全景 |
天神山遺跡
阿光坊遺跡
道路状遺構 |
阿光坊遺跡
道路状遺構 |
十三森(2)遺跡 |
史跡阿光坊古墳群模型 |
古墳群全景
別角度から
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110panel |
111北東北地方の末期古墳群
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112様々な古墳
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3世紀以後、畿内を中心に古墳文化が日本列島に広まりを見せます。
古墳には、大仙陵古墳で有名な鍵穴のような形をした前方後円墳や、丸い円墳、四角い方墳、中には上が丸く下が四角い上円下方墳など、様々な形があります。また、その大きさも、先の大仙陵古墳は長さが486mですが、小さな古墳だと3m余りのものまであります。
また、死者を納める方法も、木棺に入れて埋める、部屋を造り棺に納める、寝かせるなど、実に多くの形があります。
これらは作られた時代や地方によっても違いがあります。 |
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113末期古墳群とは
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末期古墳は、飛鳥時代から平安時代にわたり、宮城県から北海道石狩低地帯にかけて分布する小円墳です。
日本の他地域の古墳とは、作られた時期や特徴が異なることから、特に「末期古墳」と呼ばれています。
埋葬部が岩手県江釣子古墳のような石室タイプと、阿光坊古墳群のような土壙タイプに分けられます。
石室タイプは北上川中流域に集中します。両者は規模や出土遺物に共通性が見られます。
阿光坊古墳群は、土壙タイプの中で古墳の数が最大規模のものであり、継続期間は両方合わせて最長です。
また、末期古墳は低墳丘であるため、開墾等によって破壊されるものが多い中、この古墳群は、墳丘が60基以上残っているなど、保存状態が良好な点も特徴の一つです。 |
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114史跡阿光坊古墳群 7世始め頃~9世紀終わり頃
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阿光坊古墳群は、阿光坊遺跡、天神山遺跡、十三森(2)遺跡に所在する墳墓群の総称です。
十和田湖に源を発し、青森県の南東部を東流する奥入瀬川下流域左岸の標高40m程の段丘上に位置し、太平洋岸から約7km内陸に入っています。
昭和63年(1988)から平成26年(2014)まで断続的に14次の発掘調査が行われました。その結果、125基の末期古墳と8基の土壙墓が見つかっています。それらは7世始め頃から9世紀終わり頃まで継続して造られたものと考えられます。
阿光坊古墳群の末期古墳は直径4mから8.9m、高さ1m程度の円墳であり、その外に幅1m前後の周溝が巡ります。
周溝は、全周するものと、埋葬部の主軸方向の一端が橋状に掘り残されているものがあります。
埋葬部は、長方形の穴に、据え付ける棺を設置し、蓋をするのが基本的な形です。
周溝を持たない土壙墓は、末期古墳の埋葬部と同様の構造を持つものも含まれますが、規模が小さい傾向が見られます。
出土遺物は棺内に納められたものと、周溝や棺の蓋の上・墳丘に供えられたものに分けられ、
前者には大刀・蕨手刀・鉄鏃・鎌・斧・玉類・耳環・釧などがあり、後者には須恵器・土師器を中心に、馬具や鋤・鍬先などがあります。
大規模で残りが良いため、平成19年(2007)7月26日、国史跡に指定されました。 |
史跡阿光坊古墳群 |
阿光坊古墳群 |
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周溝を持つ末期古墳
天神山遺跡T5号墳 |
周溝をもたない土壙墓
阿光坊遺跡a2号土壙墓 |
周溝をもたない土壙墓
天神山遺跡t1号土壙墓 |
史跡指定範囲と
各遺跡の範囲 |
十三森(2)遺跡 |
阿光坊遺跡
天神山遺跡 |
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115阿光坊古墳群が造られた時期 7世紀前半~9世紀末頃
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阿光坊古墳群が造られた時期を知るために有効なものとして、古代に降下した火山灰があります。
阿光坊古墳群のほとんどの古墳の周溝には、十和田湖を墳出源とし、延喜15年(915)に降下したと考えられる十和田a火山灰が堆積しているため、この噴火以前に造られたことがわかります。
もう一つの手掛かりが、出土した遺物です。
阿光坊古墳群からは様々な遺物が出土していますが、中でも須恵器という器はその当時広く流通し、年代が書かれた遺物と一緒に出土するなど、年代研究が進んでいます。
A11号墳から出土した平瓶(ひらか)は、静岡県湖西市の窯で焼かれたもので、生産時期は7世紀前半頃とみられており、この古墳はその頃に造られたと推定されます。a2号土坑からは、これより古い平瓶が出土しています。
また、J10号墳から出土した長頸瓶は、青森県五所川原市の須恵器窯で焼かれたもので、同窯の操業が9世紀終わり頃から始まっているため、J10号墳は古くてもその頃に造られた古墳であると考えられます。
このようなことから、阿光坊古墳群は7世紀前半から9世紀末頃まで造られた古墳群と推測されます。 |
年 表 阿光坊古墳が作られた時期
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阿光坊古墳群が造られた時期
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阿光坊古墳群の造営時期 年表
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縄文~飛鳥 |
飛鳥~平安
古墳群造営開始-終了 |
平安~江戸 |
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200②古墳と埋葬品
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210阿光坊古墳群 阿光坊遺跡
初期墓域は阿光坊遺跡 Aシリーズ
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211末期古墳 推定復元模型
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この模型は天神山遺跡に位置するT2号墳の形状・寸法を参考に、縮尺1/3で表現した末期古墳の推定復元模型です。
埋葬施設の詳細が分かるように、墳丘の盛土を削り取った状態にし、木棺は「四辺埋め込み式木棺」を参考に再現しています。
棺内には、実際のT2号墳と同様の副葬品の蕨手刀と刀子を配置しています。 |
②古墳と埋葬品 |
末期古墳 推定復元模型 |
末期古墳 推定復元模型
上に記述 |
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212古墳群の出土遺物
A11号墳
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長胴甕
A11号墳、周溝部
7世紀前半 長胴甕・小型甕・球胴甕
食物や液体の貯蔵や煮炊きに使用された容器 |
小形甕・球胴甕
A11号墳、周溝部
7世紀前半 ※帝京大では、
土師器球胴甕をエミシの土器と呼んでいる。 |
小形甕 A11号墳、周溝部
7世紀前半 |
球胴甕
A11号墳、周溝部
7世紀前半 |
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213A1号墳
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刀子・鉄鏃
A11号墳、埋葬部
7世紀前半 |
小形甕
A1号墳、周溝部
7世紀中~後葉 |
鉄鏃
A1号墳、埋葬部
7世紀中~後葉 |
鉄鏃 A1号墳、埋葬部
7世紀中~後葉 |
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220 |
221A11号墳 7世紀前半 阿光坊遺跡 古墳群初期の古墳
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直径8.5m、深さ50cmの円形の溝が見つかりました。とても大きな墳丘の一つです。東側と南東部に張り出しを持つ埋葬施設が見つかっています。
この施設からは副葬された直刀や刀子(小型ナイフ)が見つかり、溝からは土師器の食器や調理・貯蔵具が出てきました。
また、平瓶と呼ばれる須恵器は、静岡県湖西産のもので、青森県では大変珍しい出土で、平成29年(2017)現在までのところ北限となっています。
また、土器の特徴から7世紀前半に作られた、古墳群が築造され始めた頃の古墳ではないかと考えられています。 |
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A11号墳
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A11号墳
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古墳全体 |
埋葬部 |
大刀出土状況 |
土器出土状況 |
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222
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坏
A11号墳、周溝部
7世紀前半 |
須恵器 平瓶A11号墳、周溝部
7世紀前半 |
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223
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大刀
A1号埋葬部出土
7世紀中~後期 |
上:大刀
A1号墳埋葬部
7世紀中~後期 |
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下:直刀
a3号土壙墓
年代未特定 |
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224A1号墳 7世紀中~後葉
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直径5.5mの大きさで、深さが48cmの丸い溝に囲まれた中心に、長さ2.3m、幅0.8mで深さが58cmの四角い穴がありました。
この四角い穴は、人が埋葬されたところです。畑仕事をしているときに、刀が見つかったそうですが、ここからの出土です。
その他に、弓矢の先につけた鏃も見つかっています。
丸い溝は、周溝と呼ばれています。ここからは、小型の土器と高坏が出土しています。
高坏には赤い色が付けられています。 |
A1号墳
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封土を取った古墳 |
埋葬施設 |
鉄鏃出土状況 |
小壺出土状況 |
A1号墳 |
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長胴甕
A2号墳埋葬部
7世紀中~後期 |
坏・高坏
A2号墳埋葬部
7世紀中~後期 |
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225高坏
A1号墳周溝部
7世紀中~後期 |
赤彩された高坏
祭祀用 |
光強すぎて見えない |
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感想 古墳群出土物から
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7世紀初め~中頃の、古墳時代後期の副葬品や共献土器としてはかなり違和感があります。
共献土器の球胴・長胴甕は韓式土器として東海以東に多く、東北から出現が多いようです。
球胴甕は、エミシの土器として、特に東北からの出土例が多く、他地域での発見は、連れて来られたエミシの土器とされる。
ただ、私はこれとは違ったホントに真ん丸な胴の土器をどこかで見ているのだが、どこだったか記憶が定かでない。
阿光坊の開拓民が生活道具として作ったであろうこれらの古い土師器とは別に、交易で入手する須恵器は貴重品のようで小さくて少ない。
鉄製品が副葬されているということは、これらがいつでも入手可能だったことを表していると思う。
初期古墳、A11号墳の対人用鉄鏃は周辺との争いがなくなり不要となったことを意味し、動物の捕獲は罠猟などが主流であることのようだ。
7世紀中期、A1号墳では、鉄剣が副葬されている。威儀具として、いつから用いられたかはわからないが、これも戦時でなく、不要となった。
とても貧しいムラだったように思える。西日本の古墳を巡って来たばかりの私には、沢山の共献須恵器や豪華な副葬品、大きな石室など豊かで大きな権力を持った豪族と言えるものは何一つなく、弥生・古墳・古代の香りは少なく、むしろ縄文の香りが強すぎる奈良時代の古墳である。
彼らはどこから来たのか。畿内や西日本ではない。東海以東のどこかのように思える。 |
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230 |
231A3号墳 7世紀中~後葉
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直径5.6mの周溝に囲まれた範囲がありましたが、埋葬施設は畑の耕作で削られてしまったらしく、残っていませんでした。
この古墳の中心部辺りからは、勾玉7点、切子玉1点、管玉1点、ガラス玉22点が出土しました。おそらく埋葬施設の底の部分だったのでしょう。
阿光坊古墳群は、昭和62年(1987)畑仕事中に勾玉が見つかったことで調査が始まりました。
おそらく、この古墳の上で畑仕事をしていたのではないかと考えられています。 |
A6号墳 7世紀中~後葉
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直径7.5mの、大きい円形の溝が見つかりました。とても大きな墳丘の一つです。
溝の上部には、延喜15年(915)に十和田火山が噴火したときに降ってきた火山灰と、中朝国境の白頭山が噴火(946)したときに降ってきた火山灰が堆積していました。
中心部に、東側の端が出っ張った埋葬施設が見つかりました。
東側の出っ張りは、階段のように見えます。出入りに使ったのでしょうか。埋葬施設からは、琥珀玉とガラス玉が12点見つかりました。 |
A6号墳
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周溝・墳丘(削平)・埋葬部 |
埋葬部 |
埋葬部 頭の位置 |
畑の土を撤去した状態 |
A6号墳
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233
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矢 (推定復元品) |
A5号墳出土の鉄鏃は、有茎で片刃式が4本、無茎式が6本、重なり合って出土しました。 |
宝石類 |
切子玉(水晶) |
A3号墳 周溝部
7世紀中~後葉 |
琥珀玉 |
A3号墳 周溝部
7世紀中~後葉 |
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管玉(碧玉) |
A3号墳 周溝部
7世紀中~後葉 |
小玉(ガラス)
A3号墳 埋葬部
7世紀中~後葉 |
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234
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鉄鏃 |
鉄鏃
A5号墳 埋葬部
7世紀中~後葉 |
鉄鏃・鉄製品
対人用鉄鏃 |
感想 豊かになった首長
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A1号墳からT2号墳(後出)は全て7世紀中期から後葉となっている。50年余りの間に沢山の首長の墓が造られた。
副葬品には装飾品の玉類が多く出土するようになり、武器として近代的対人用大型鉄鏃が出土するようになった。
ムラの農産物などが売れるようになり、交易で入手したものが武器と宝飾品だったという、なんともお粗末な展開であるが、
何代か前に西からやってきて、この地しか知らない人々にとっては、交易品として、こんなイロモノ(目くらまし品)に惑わされたようだ。 |
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235末期古墳の埋葬方法 |
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236末期古墳の埋葬方法
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土壙タイプの末期古墳は、最初、埋葬部から造られます。地面を長方形に堀り込み、小口や、四辺に溝を掘ります。(※墓穴の中に溝を掘る)
その溝に板を立てることによって、木に囲まれた空間を作り、その空間に、被葬者を安置したものと思われます。
周囲には刀や矢、斧などが置かれます。装身具は、身に着けていたと推定される位置から出土しています。
その後、蓋をし周辺を円形に掘りながら墳丘を作ります。
石室タイプのものは、木の棺を使用したかどうか明らかでありませんが、棺がなくても石の空間があり、同様の埋葬方法が取られたものと考えられます。
※意味が分かりにくいので下の図を見て下さい。 |
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237木棺の構造と埋葬手順
四辺埋め込み式木棺の構造と埋葬手順
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小口板埋め込み式木棺の構造と埋葬手順 |
小口板埋め込み式木棺の構造と埋葬手順 |
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墓壙と底面の溝を掘削し、溝に小口板を埋め込んで立てる。 |
小口板の外側に側板を据え、板の外側を埋め戻す。
館内に土を入れ、木炭を敷き、被葬者の埋葬品を配置 |
蓋をして墓壙を埋め戻す。 |
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238末期古墳推定復元模型
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この模型は阿光坊古墳群の天神山遺跡に位置するT2号墳の形状・寸法を参考に、縮尺1/3で表現した末期古墳の推定復元模型です。
埋葬施設の詳細が分かるように、墳丘の盛土を削り取った状態にし、木棺は「四辺埋め込み式木棺」を参考に再現しています。
棺内には、実際のT2号墳と同様の副葬品の蕨手刀と刀子を配置しています。 |
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240 |
241A9号墳 7世紀中~後葉
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左(A)・右(B)の二つの埋葬施設が見られますが、一方が途切れる円形の溝のあり方から、aの方にこの溝がセットになっているようです。
bの北側には東西方向に延びる真直ぐな溝が見られます。
(※円形の溝はaの埋葬施設のもの。bの溝は東西方向に直線的に掘られている。)
この2つの埋葬施設は方向がほとんど同じで、形もそっくりです。何か深い関係がありそうです。
出土遺物として、aから耳環(ピアス)、bから釧(ブレスレット)が出土しています。
北側の溝からは、土師器や轡などが出土しています。(※馬を所有する王族の墓地だといっている。) |
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A9号墳
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左(A)・右(B)の二つの埋葬施設 |
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左(A) |
右(B) |
A9号墳
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242
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長胴甕
A7号墳 周溝部
7世紀中~後葉 |
長胴甕
A7号墳 周溝部
7世紀中~後葉 |
坏
A9号墳 周溝部
7世紀中~後葉 |
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鉄斧
A7号墳 埋葬部
7世紀中~後葉 |
鎌
A 7号墳 埋葬部
7世紀中~後葉 |
鉄斧
A7号墳 埋葬部
7世紀中~後葉 |
鉄斧
A8号墳 埋葬部
7世紀中~後葉 |
直刀
A8号墳 埋葬部
7世紀中~後葉 |
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243出土遺物に付着した繊維
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古墳群が作られた当時、繊維は天然繊維に限られるため、現在まで残ることは極めて稀です。
しかし、金属製品に付着し、錆が繊維に入り込んだため、形が残ったものがあります。
t1号土壙出土の大刀の柄には右撚麻紐が、鞘尻金具には平織りの絹が3層にわたって残っていました。
柄の麻紐は、柄に巻いてグリップの役目をしたのではないかと考えられます。
鞘に付着した布は、刀を包んでいたものなのか、たまたま付着してしまったのかは不明ですが、絹の布がこの地にもたらされていたことがわかります。
また、T4号墳の釧(ブレスレット)にも、平織り絹が付着していました。顕微器用で調べると、0.1mmの繊維束の織物と、0.5~0.8mmの太い繊維束の織物の2種類が付着していることが わかりました。釧は身に着けるものであるため、着衣の布なのかもしれません。また、釧自体を布で巻いていた可能性も考えられます。
※副葬品が、布の袋に入れてあります。刀袋(かたなぶくろ)と袱紗(ふくさ)に包んだ大刀と釧。普通は、宝剣・宝飾品の腕輪は使い尽して壊れてから副葬しますが、ここでは首長の拝刀や宝物が拝領したときのまま、または、入手したときのまま副葬されています。
このことから、各地で出土する刀や宝飾品は、現代同様、威儀のある袋に包装されて流通し、美しい袋と、美しい宝物として流通していたことが分かりました。 |
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出土遺物に付着した繊維
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天神山遺跡t1号土壙出土
大刀の鞘尻金具部分 |
鞘尻金具付着繊維
釧付着繊維 |
出土遺物に付着した繊維
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245
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坏
A9号墳 周溝部
7世紀中~後葉 |
高坏
A9号墳 周溝部
7世紀中~後葉 |
球胴甕
A9号墳 周溝部
7世紀中~後葉 |
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耳環(錫製)
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A12号墳 埋葬部
7世紀中~後葉 |
耳環
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A14号墳 埋葬部
年代未定 |
釧
A9号墳 埋葬部
7世紀中~後葉 |
耳環(錫製 7世紀中~後葉 |
耳環(錫製)
A9号墳 埋葬部
7世紀中~後葉 |
轡
A10号墳 周溝部
7世紀中~後葉 |
威儀具としての馬も
入手していた。
半世紀ほどで
豊かになったものだ。 |
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天神山遺跡(阿光坊遺跡群)
墓域が、阿光坊遺跡から天神山遺跡に移動してきました。A→T
7世紀中期~後葉 →9世紀初頭
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260被葬者の推測 |
261被葬者の推測
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阿光坊古墳群の被葬者は、どんな人だったのでしょうか。
実のところ、自らのことを記した記録は皆無であり、言語・宗教・風俗など、この地に暮らした人々を書き表したものは全く知られていません。
一方。朝廷が記した史書の中で、北東北や北海道の人々は蝦夷と呼ばれ、中央とは異なる言語を話し、五穀を持たない狩猟民であり、体や顔が変わっているとされています。髭が蝦(エビ)のようだという解釈もあるようですが、実態を示しているか定かではありません。
発掘調査で分かっていることは、ピアスやブレスレットをし、勾玉やガラス玉のネックレスをしていることと、絹や麻の服を着ていたらしいこと。刀や矢を持っていること。では、服の色は、形は…。大変難しい問題です。
日本列島北部には、多くの古代遺跡があり、様々な出来事があったろうことが大地に刻まれています。しかし、わからないことが多いのも事実です。 |
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被葬者の推測 |
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天神山遺跡T4出土
勾玉・小玉類
ガラス玉ネックレス
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阿光坊遺跡A1号墳
鉄鏃
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天神山遺跡
T2号墳出土(左)
T3号墳出土(右) |
阿光坊遺跡a3土壙墓
直刀 |
被葬者の推測
上に記述 |
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小玉(ガラス)
T2号墳 埋葬部
7世紀中~後葉 |
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勾玉×4
翡翠・琥珀玉
瑪瑙・瑪瑙
T2号墳 埋葬部
7世紀中~後葉 |
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262
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直刀 T1号墳 埋葬部
7世紀中~後葉 |
刀子
T1号墳 埋葬部
7世紀中~後葉 |
鉄鏃
T1号墳 埋葬部
7世紀中~後葉 |
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想像 被葬者の出自
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阿光坊古墳人たちは、6世紀にこの地に入植して、3世代余りにわたって開拓開墾を行い、7世紀初頭には貧しいながらも首長墓を築くところまできた。
首長墓の頃には第1世代がどこから来たどのような人々だったのかもおそらくはわからなくなっていたのだろう。副葬品は貧しく、東日本の香り、特に東海の香りのする、首長墓でした。
6世紀代の東北は、既に弥生前期に水田が開かれ、各地に拡散し、弥生寒冷期の撤退・中断の後に、また新たな入植者が押し寄せ、開拓ブームでした。
開拓者は、北陸・東海・関東などの一次入植地から二次入植地へ、平地から丘陵地へ、瓦礫ばかりの扇状地へと開発地を求めて拡散する。
すると、コピーがコピーを生むと、オリジナルがぼやけてしまうように、入植者本来の出身地も知らなかったのかもしれません。まぁ、知る必要もなかったかもしれません。
ただ、彼らの身の回りにあった東北地方に特有の土器文化と、僅かな文明の利器・鉄器を持って開墾にやって来たのかもしれません。
少し、土着の人々よりも文明的であったのかもしれません。 |
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263T2号墳 7世紀中~後葉 天神山遺跡
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天神山遺跡で最初に発掘された古墳です。40cm程と、高さは僅かでしたが、墳丘が残っていたので、地面から古墳であることがわかりました。
最初の調査当時は山林でしたので、周溝全部を掘ることはできませんでしたが、直径6.5m深さ1m程で、少し東側が窮屈な形ですが、後の調査で円形にめぐることがわかりました。
中心部には、高さ2.38m幅1.26mの埋葬施設が見つかりました。埋葬施設の南東側は、階段のように掘られていました。埋葬施設からは、
蕨手刀、刀子や釧、勾玉、ガラス玉などアクセサリーが出土しました。更に周溝からは須恵器などが見つかっています。
出土遺物の種類が多く、また、阿光坊・天神山遺跡で数少ない、墳丘の盛り上がりがわかる古墳でした。 |
T3号墳 8世紀前半 天神山遺跡
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北西側と南東側が途切れますが、円形と考えると、直径5.4m程の大きさになります。中心部に長さ2.56m幅1.45mの長方形の埋葬施設が見つかっています。
南西側に、長方形の長い辺に直行するように掘ってある部分があり、何に使われたか不明ですが、この埋葬施設に伴うものと考えられます。
埋葬施設から玉類と釧のアクセサリーだけが出土しました。
土の中にうっすらと木の跡が残っていたため、棺があったということがわかりました。 |
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264 T2号墳 周溝部出土品 7世紀中~後葉
共献土器
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須恵器短頸壷
T2号墳 周溝部
7世紀中~後葉 |
須恵器長頸壷
T2号墳 周溝部
7世紀中~後葉 |
須恵器甕
T2号墳 周溝部
7世紀中~後葉 |
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265
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釧
T2号墳 埋葬部
7世紀中~後葉 |
環状銅製品
T2号墳 埋葬部
7世紀中~後葉 |
鑷子じょうし
T2号墳 埋葬部
7世紀中~後葉 |
鑷子じょうし
毛抜き |
鉸具かこ T2号墳 埋葬部
7世紀中~後葉
帯留め金具 |
※帯留め金具を所有したということは、役人ということか。そのような人たちもいたということのようです。
古代役人の衣冠束帯があったために、帯留め金具があり、そのような装束で威儀を正して埋葬されたのかもしれません。
※いや、これはバックルが大きすぎるので、馬具で、馬用帯留めではないか。(笑)
※馬産業者であれば、都に運んだ馬に対しての褒美として、時には、「おんぞぬぎてたまう」ということもあって、役人装束を入手したかもね。
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266 T3号墳 埋葬部出土品 8世紀前半
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小玉(ガラス)
T3号墳 埋葬部
8世紀前半 |
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切子玉(水晶) T3号墳 埋葬部
8世紀前半 |
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管玉(碧玉) T3号墳 埋葬部
8世紀前半 |
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勾玉(瑪瑙)
T3号墳 埋葬部
8世紀前半 |
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270 |
271耳皿
耳皿 |
J10号墳 周溝部
9世紀後半 |
耳皿
箸置きと推定
(ピンセット型箸の) |
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272T4号墳・T5号墳 8世紀前半 天神山遺跡
T4号墳 8世紀前半 天神山遺跡
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半分以上が道路の下になっており、調査が行われていませんが、推定される大きさは6m程です。周溝の中央に長さ2.45m、幅1.1mの長方形の埋葬施設が見つかりました。そこには壁に沿ってほぼ全周する溝がある四辺埋め込み式の木棺構造です。
刀子1点、鉄製釧1、環状錫製品1、勾玉3、ガラス小玉150点、土玉3、琥珀玉2が出土しました。
周溝からは葬送儀礼に使われたと思われる須恵器の長頸瓶1、土師器甕2、坏1、鉄鏃1、勾玉1が出土しています。これらは南東側から集中して見つかりました。
この古墳で最も特徴的なのが、周溝内にも埋葬施設t1号土壙を持つことです。断面観察からは、周溝が埋まらないうちに掘られていることがわかり、T4号墳より後ではあるもののほとんど同時期のものと言えます。
黒漆塗りの鞘や柄頭を持ち、錫製の鋲が撃たれた装飾的な直刀が出土しています。
※大刀が出土するということは、エミシやアイヌではなく、和人であったようだ。エミシやアイヌには、模造刀しか渡さなかったそうだ。 |
T4号墳
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土器の出土 |
古墳半景
封土と古墳面
周溝部
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T5号墳 8世紀後半 天神山遺跡
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直径7.28mの円形の周溝が見つかりました。大きい古墳の一つです。中心部からは長さ2.85m幅1.15mの埋葬施設か゛見つかりました。
長方形の短辺に並行してみぞが 掘られていて、板が立てられていたと考えられる、小口板埋め込み式の木棺構造です。
二つの溝の長さは175cmであり、埋葬者の伸長が反映されている可能性があります。(※被葬者は当時としては非常に大きな人だった)
T3号墳が133cmであることと比べると大きい溝の間です。周溝から須恵器甕の破片と蕨手刀が出土しました。 |
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273
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T4号墳 周溝部
8世紀前半 |
甕
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T4号墳 周溝部
8世紀前半 |
坏
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T4号墳 周溝部
8世紀前半 |
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T4号墳 周溝部
8世紀前半 |
須恵器長頸瓶 |
T4号墳 周溝部
8世紀前半
土器の底に穴が開いています。
意図的に開けられたものでしょうか。 |
球胴甕 |
T4号墳 周溝部
8世紀前半 |
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274
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T4号墳 埋葬部
8世紀前半 |
布が付着した釧
T4号墳 埋葬部
8世紀前半 |
刀子
T4号墳 埋葬部
8世紀前半 |
鉄鏃
T4号墳 埋葬部
8世紀前半 |
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T4号墳 埋葬部
8世紀前半 |
小玉(ガラス)
T4号墳 埋葬部
8世紀前半 |
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勾玉(瑪瑙) T4号墳 埋葬部
8世紀前半 |
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勾玉(碧玉) |
T4号墳 埋葬部
8世紀前半 |
勾玉(翡翠) |
T4号墳 埋葬部
8世紀前半 |
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十三森(2)遺跡(阿光坊遺跡群)
墓域が、天神山遺跡から十三森(2)遺跡に移動してきました。T→J
9世紀前半
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276石帯丸鞆
石帯丸鞆 |
日常用の石帯 |
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昭和10年頃阿光坊古墳群から採取。
長さ4.2cm幅2.7cm重さ22.1gの碧玉製。裏側に、革帯に固定するための穴が5個穿たれています。
この形は丸鞆と呼ばれ、巡方と呼ばれる四角いものと組み合わせて、官人の帯に取り付けられたものです。
阿光坊古墳群には、官位を持った人も葬られたものと思われます。
※単に拝領しただけかもしれません。官位とは無関係に。 |
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280 |
281J21,J10
J21号墳 9世紀前半 十三森(2)遺跡
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昔(明治から昭和の始め頃)、古墳の半分くらいを壊して道路が作られました。道路に敷かれた砂利を剥がしたところ、周溝が発掘されました。
古墳の断面がよく観察できました。最初に周溝を掘り始めたとき、すぐ近くに土を盛り、丁度ドーナツの様にし、後から中心部を盛り上げたことがわかりました。
埋葬施設と断定できませんが、中心部付近に長方形の掘り込み跡が見つかりました。ここからは遺物は出土しませんでした。
周溝からは土師器と須恵器破片が見つかっています。 |
J10号墳 9世紀後半 十三森(2)遺跡
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十三森(2)遺跡で初めに発掘された古墳です。地表面から明らかな円形の盛り上がりが確認できました。高さは1m程です。
周溝は直径9.1mと、発掘された古墳の中で一番大きく、南東側が橋の様に掘り残されています。中心部付近に丸い埋葬施設が見つかりました。
ここからは砥石と釘が出土しています。
周溝の上から須恵器が、周溝から土師器が見つかりました。このうち須恵器の長頸瓶は、青森県五所川原市の窯で焼かれたものとわかり、9世紀の終わり頃に作られたものであると考えられています。最も新しい時期に作られた古墳です。 |
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275土器 J-21号墳
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坏(墨書)
J21号墳 周溝部
9世紀前半 |
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須恵器甕 J21号墳 周溝部
9世紀前半 |
※墨書土器が出たということは、
官職をもらった首長もいたのかもしれない。
つまり、下級役人となった者もいた。かも。 |
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282
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坏
J23号墳 周溝部
9世紀前半 |
須恵器長頸瓶
J10号墳 周溝部
9世紀後半 |
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283鉄製品
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284結び付く出土遺物
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古墳群から出土する遺物は、死後ばかりでなく生前にも価値が高かったものと推定され、竪穴建物を廃絶する際に捨ててしまう性質のものではなく、集落遺跡からの出土は稀です。
しかし、理由は不明ですが、末期古墳と同じものあるいは関係が類推されるものが、竪穴建物跡から出土することがあります。
根岸遺跡7号竪穴建物跡(古墳群から4.5km東)からは、蕨手刀の柄が出土しています。また、挂甲小札(鎧)が137枚出土しています。
岩手県盛岡市の上田蝦夷森古墳群から衝角付冑が出土していることから、古墳群と結び付けられる可能性があります。
ふくべ(3)遺跡24号竪穴建物跡(古墳群から西1km)からは鉄斧・鉄鏃・土玉が、27号竪穴建物跡からは環状錫製品と轡の一部が見つかりました。
また、ガラス玉が出土した建物もあります。
中野平遺跡(古墳群から3km東)でも轡の一部が出土した例があります。
このことから、古墳に葬られた人々は、周辺の集落に棲んでいたと考えられます。
※そうすると、阿光坊古墳群の、短期間に多数の埋葬が行われた不自然は、この付近に集団入植した一族が、それぞれ分かれて開拓をし、支族の長の墓地は同じ場所にして共同で弔いをしたということになります。 |
結び付く出土遺物 |
古墳群からの出土遺物 |
鉄斧
↓ |
環状錫製品
↓ |
轡
↓ |
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鉄斧出土の
ふくべ(3)遺跡 |
環状錫製品と土玉
出土のふくべ(3)遺跡
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轡出土の中野平遺跡 |
中野平遺跡
阿光坊古墳群から谷を東へ約3km下ると、100軒以上の竪穴住居跡のある中野平遺跡があり、蕨手刀や挂甲の小札が出土した大型の竪穴住居跡である根岸遺跡も近く、古墳群との直接の関わりを伺わせる。引用コトバンク |
結び付く出土遺物
上に記述 |
根岸遺跡7号竪穴建物跡出土の蕨手刀柄 |
天神山遺跡T5号墳出土の蕨手刀 |
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竪穴建物出土品
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鉄斧
ふくべ(3)遺跡 24号竪穴建物出土 7・8世紀 |
轡
中野平遺跡 20号竪穴建物出土 9世紀代 |
蕨手刀
根岸遺跡 7号竪穴建物出土 9世紀代 |
ピントがすっきりあっている珍しい写真 |
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ふくべ(3)遺跡出土品 |
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環状錫製品・土玉
第27号竪穴建物出土
7・8世紀頃
ガラス玉
第34号竪穴建物出土
7・8世紀頃 |
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285古墳から出土した刀類
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阿光坊古墳群からは、これまでに大小合わせて10振りの刀が出土しています。
手に持つ部分の小指側の端、バットでいえばグリップエンドの部分を柄頭といいます。古代の刀はこの部分で種類を見分けることができます。
また、刀身の形が真直ぐか、日本刀の様に曲がっているかで「大刀」と「太刀」に分けられ、古墳群から出土したものは全て真直ぐな「大刀」に分類されます。
一部でも柄頭が明らかな出土品が5振りあります。木の部分は腐ってしまって、残った漆の被膜から円頭大刀と分類されるもの【図1】、
同じく漆の被膜で方頭大刀と分類されるもの【図2】、蕨手刀と分類されるもの【図3】です。
このうち蕨手刀は末期古墳から沢山見つかっていて、北東北の人々と関係が深いものと考えられています。
その他の大刀もおそらく柄頭がついていたものと思われますが、今は残っていません。おそらく木製のため腐ってしまったのでしょう。
ほとんどの刀身には木質が残っていて、鞘をつけたまま埋められたことがわかります。腰につけるための金属製佩用(はいよう)金具が残っていたのは、方頭大刀と蕨手刀の2振りだけですが、日本刀の様に横佩(よこはき)だったことがわかります。
鉄は、当時まだ現地生産されていないため、鉄器類は律令国家側からもたらされたものと推測されます。
其の中でも刀は、鉄素材を多く使用するだけではなく、製作には高い技術を必要とするため、所有者の政治的経済的優位性を表す出土品です。
※良い馬が生産できるようになり、次第に豊かになったということかな。 |
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古墳から出土した刀類 |
古墳から出土した刀類 |
円頭大刀
方頭大刀
蕨手刀
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蕨手刀
天神山遺跡の
T2号墳出土の蕨手刀を復元した |
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復元蕨手刀 |
蕨手刀
T2号墳 埋葬部
7世紀中~後葉
天神山遺跡 |
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300 |
300③古墳を残した人々
おいらせ阿光坊古墳群は、7世紀前半から9世紀末までです。
9世紀末に周辺の竪穴建物の数が古代最大となり、915年10世紀初頭の十和田火山の噴火により10世紀中頃には消滅します。
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301古墳群周辺の古代集落遺跡 古墳時代の北東北は寒冷化でほとんど無人だった。又は、アイヌが南下していた。
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阿光坊古墳群が造られる以前(7世紀前半以前)の、古墳時代に並行する時期は、土器の破片が向山(6)遺跡で、石製模造品が中野平遺跡で出土した以外知られていないため、人は住んでいたのでしょうが、多くはなかったようです。青森県内を見回しても、同じような状況です。 |
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7世紀代には状況が一変し、立蛇(1)遺跡・中野平遺跡・向山(4)遺跡・ふくべ(3)遺跡に集落がつくられ始めます。
8世紀代には下谷地(1)遺跡・ふくべ(4)遺跡・根岸遺跡・向山(6)遺跡と集落域がさらに広がっていきます。
9世紀前半は遺跡数、竪穴建物出土跡数とも落ち込みますが、9世紀終わり頃には古代最大になり、
10世紀中頃からは非常に少なくなり、やがて確認されなくなります。
十和田火山の噴火(915年=10世紀初頭)の影響が大きかったと考えられます。
古代集落遺跡は阿光坊古墳群と同じく奥入瀬川左岸(下流に向かって左手)の河岸段丘上に分布しています。
奥入瀬川を交通手段として利用していた村々だったと考えられます。 (右地図と同地域のgooglemap) |
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③古墳を残した人々
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古墳群周辺の古代集落遺跡
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阿光坊古墳群周辺の
古代集落遺跡
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おいらせ町の遺跡と竪穴建物数の推移
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資料 8世紀末~9世紀の人口減少 上記グラフの意味を考える
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日本史瓦版を参照ください
東北南部では、8世紀末~9世紀(桓武・嵯峨天皇)、光仁天皇(8c後期)の時代に多賀城焼き討ちの後、東北38年戦争(774-811)が続いた。
岩手県南部に対する攻撃で阿弖流為と坂上田村麻呂の戦いが起こり制圧した。
朝廷による東北経営は、7世紀以降に日本海沿いに進展し、8世紀末以降、太平洋側で北上川沿いに北上していった。
領土的野心によって、光仁天皇の時代から安房・上総・下総・常陸の船を買い上げて東北への戦争を行っていた。
打ち続く戦争と、その後の俘囚により、多くの東北人は蝦夷として日本各地へ送られていった。このような不安定な状況が人口減少を引き起こしたようだ。以後東北を弱体化させるために、延々と差別的な政策が続いた。例えば、九州の防人は食料自前で東北から徴発され、まず生きて帰れなかった。
朝廷軍の東北進出は、9世紀中期(850年頃)には秋田県米代川と青森県八戸市を結ぶ線まで北上した。
この頃おいらせ町周辺の居住者数が突然増加し(朝廷軍の駐屯によるものか?)、
10世紀初頭(915年の十和田火山の噴火)以降激減し(降灰による自然環境の激変によって食料調達が困難になったためか)、
10世紀中期(946年の白頭山の噴火降灰)以降には、(さしもの朝廷軍も撤退して)人跡を確認できなくなる。 |
中野平遺跡出土物
甕 7世紀
第1号竪穴建物出土
自作の土師器 |
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坏 7世紀
第1号竪穴建物出土
東北特有の内黒土器 |
支脚
第21号竪穴建物出土
8世紀代 |
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303中野平遺跡 集落存続期間 7世紀~10世紀初め
遺跡の概要
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現在まで20数次にわたる発掘調査が行われ、古代の竪穴建物跡100軒以上が見つかっています。その他、山林内には埋まりきらない建物跡も散見されます。
調査されたのは遺跡の一部であり、全貌は明らかになっていませんが、数百軒に上る大集落と考えられます。
7世紀後半から10世紀初めまでの建物跡が連続して見つかっています。 |
出土遺物
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土師器は、坏・甕・壺・甑・高坏があります。
奈良時代の遺構には須恵器が殆ど伴わず、9世紀以降に、坏・甕が見られます。
珍しいものに四耳壷や須恵器蓋があり、9世紀前半に作られたものと見られます。 |
遺跡の性格
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奥入瀬川下流域最大の集落です。やはり阿光坊古墳群と関係が深いのではないかと推定されています。 |
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中野平遺跡 |
中野平遺跡 |
坏
中野平遺跡
第18号竪穴建物跡出土
9世紀代 |
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甕
中野平遺跡
第18号竪穴建物跡出土
9世紀代 |
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甕 |
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305ふくべ(3)遺跡 7世紀~9世紀中 (ふくべ=瓢)
遺跡の概要
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平成14~18年(2002~2006)にかけて、新幹線建設工事や民間開発に伴う発掘調査により、古代の建物跡40軒以上が見つかっています。 |
出土遺物
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土師器坏・甕・壺・甑、須恵器甕・坏・壺などの他、阿光坊古墳群と関連が注目される遺物が出土しました。 |
遺跡の性格
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7世紀から9世紀中頃にかけて集落が営まれています。27号竪穴建物跡からは、轡の一部と環状錫製品や玉が出土し、他の建物から鉄斧やガラス玉が見つかっています。 |
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ふくべ(3)遺跡 |
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ふくべ(3)遺跡 |
ふくべ(3)遺跡 |
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甕
ふくべ(3)遺跡
第3号竪穴建物跡
7世紀代 |
坏
ふくべ(3)遺跡
第3号竪穴建物跡 7世紀 |
甑 |
甑 ふくべ(3)遺跡
第3号竪穴建物跡 7世紀 |
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307根岸遺跡 8世紀中~9世紀後半
遺跡の概要
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海岸から約2kmの高台に立地する遺跡です。平成4~平成19年(1992~2007)に行われた調査で18軒の建物跡が見つかっています。
この遺跡で特筆すべきは、10m四方の大きな建物跡が見つかったことです。県内でこの大きさに匹敵する建物跡は数件程度です。 |
出土遺物
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通常、集落遺跡からは出土しない蕨手刀と、挂甲小札が合計137枚出土しました。このほか沢山の土器も出土しています。 |
遺跡の性格
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8世紀中頃から9世紀後半にかけての集落であり、大きな7号竪穴建物跡は、9世紀初め頃のものと考えられます。
この家の主は、末期古墳に埋葬されたリーダーの一人と推定され、埋葬者の中でも最高ランクに位置づけられます。 |
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308根岸遺跡出土物
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311立蛇(1)遺跡 7世紀中葉~10世紀
遺跡の概要
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昭和51年(1976)農作業知勇に多量の遺物が発見されたことにより、存在が知られました。
平成12年(2000)に町道拡幅に関わる発掘調査が行われました。僅か248㎡の調査でしたが、建物跡や溝、土壙が次々と見つかり、遺跡の濃密さがわかりました。 |
出土遺物
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坏・甕・甑・高坏が出土しています。昭和51年(1976)に採集されたものを含む古代の中でも古い段階の一群は、7世紀中頃の特徴を示しています。
このほか7世紀後半~8世紀前半、9世紀後半~10世紀とみられる土器が出土しています。 |
遺跡の性格
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7世紀中葉から断続的に10世紀まで集落が続くと見られています。
阿光坊古墳群に1kmと距離が近い集落であり、また、土器もよく似ていて、その関係が注目されます。 |
立蛇(1)遺跡 |
立蛇(1)遺跡 |
牛の歯
7世紀に既に牛を使った農耕を行っていた |
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立蛇(1)遺跡出土物 |
立蛇(1)遺跡 |
甕
立蛇(1)遺跡
1号竪穴建物跡出土 7世紀代 |
甕
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甕
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甕
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坏
立蛇(1)遺跡
1号竪穴建物跡出土
7世紀代 |
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320古代集落の暮らし |
321古代集落の建物
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阿光坊古墳群が作られた時代の住まいは、竪穴建物と呼ばれます。土を四角く掘って、柱を4本から6本埋めて立て、その上に横木(梁・桁)を渡し、
垂木を支えたものだったと考えられます。垂木がそのまま地面まで伸びる伏せ屋の場合や、外壁があって屋根がある家も想定されます。
火事に遭った建物の観察から、茅葺屋根だったことがわかります。垂木や梁・桁にはコナラ材がよく使われています。
この建物の最大の特徴は、カマドがあることです。煮炊きはもちろん暖をとることにも使われたでしょう。
カマドには煙突があり、地下を横に数10cmから1m進んで地上に出ます。カマドの周りは台所だったのでしょう。煮炊きの土器や食器が出土します。
入口はカマドの反対側だったことが多く、階段のような施設が見つかることがあります。
建物の中央は土間で、それを挟んで板屋丸太を並べた部屋があり、そこで寝起きをしていたと思われます。
こうした建物の跡は、しばしば埋まりきらずに、現在も窪みとして残っていて、おいらせ町では100個以上見つかっています。 |
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6号竪穴建物跡
下谷地(1)遺跡
おいらせ町東下谷地 |
6号竪穴建物内
見取り図 |
古代集落の建物 |
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322
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鍬・鋤先
中野平遺跡
第1号竪穴建物跡
9世紀代 |
鎌
中野平遺跡
第4号竪穴建物跡
10世紀代 |
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323
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馬の歯
ふくべ(3)遺跡
5号竪穴建物跡
9世紀代
馬の生産 |
炭化米・クルミ殻
炭化米 中野平遺跡
第1号土壙 9世紀代
クルミ殻 下谷地(1)遺跡
第6号竪穴建物跡
8世紀代 |
炭化米
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クルミ殻 下谷地(1)遺跡第6号竪穴建物跡
8世紀代
スモモの種子 中野平遺跡 第1号土壙
9世紀代
シカの骨 中野平遺跡 第4号竪穴建物跡
10世紀代 |
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324
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砥石 中野平遺跡
第2号竪穴建物跡
9世紀代
貝殻 下谷地(1)遺跡
第16号竪穴建物跡
8世紀代 |
紡錘車・土錘
紡錘車 中野平遺跡
土錘 下谷地(1)遺跡
第10号竪穴建物跡
9世紀代 |
土錘の使い方
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土錘
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土錘を使用した
実際の漁網 |
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330蝦夷の生業と生活 |
331
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おいらせ町内の発掘調査を通して、蝦夷の生活についてある程度推測できることは、農業と漁業、そして狩猟が行われていたということです。
中野平遺跡では、平安時代の畑跡が見つかりました。畑跡の土を分析したところウリやソバの花粉と、コメの茎のガラス成分も見つかりました。
また、集落からは炭化米も見つかっていて、平安時代には農業を行っていたことが明らかとなっています。
集落が作られ始めた7世紀代の建物跡にはすでにカマドがあり、出土する土器の中には湯釜と甑の組み合わせが見られ、穀物を蒸して食べて
いたことは容易に想定でき、集落の出現と同時に農業も行われていたと考えられます。
また、下谷地(1)遺跡からは漁網の錘や、貝殻が見つかっていて、漁業が行われていたことがわかります。
更に、中野平遺跡からは、焼けた鹿の骨がカマド付近から出土し、狩猟も行われていたことを知ることが出来ます。
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蝦夷の生業と生活
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中野平遺跡の畑跡
ソバの花粉化石
シカの骨 |
夷の生業と生活 |
古代カマドの断面
模式図 |
蝦夷による馬の生産
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阿光坊古墳群からは、馬の動きを制御する轡が5点出土しています。
また、同じく出土している鎌は、馬のえさを刈り取るために使用した可能性があります。
集落遺跡の根岸遺跡やふくべ(3)遺跡の建物跡から馬の歯が出土していて、古代のおいらせ町には、馬がいたことがわかっています。
多くの末期古墳からも轡が出土し、さらには、馬の墓が見つかっている青森県八戸市の丹後平古墳群もあり、末期古墳を造った人々は馬生産とかかわりが深いと考えられています。
この辺りは馬が好んで食べるササやススキなどが生育しやすい黒ボク土と呼ばれる土壌が発達していて、牧草が豊富な地域です。
また、降雪量が少ないことも放牧に適していたのでしょう。
こうしたことから、阿光坊古墳群を造った人々は馬生産を行っていただろうと考えられます。 |
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蝦夷による馬の生産 |
馬の歯 ふくべ(3)遺跡 |
古代の主な馬具名称 |
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332墨書土器 中野平遺跡・下谷地(1)遺跡・根岸遺跡
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333
かまどにかけ、湯釜にする長胴の甕とその上に乗せて蒸し器にする甑が出土している。
長胴甕の下には支脚を入れて支えていた。 |
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甕
中野平遺跡
第19号竪穴建物跡
8世紀代 |
甑
中野平遺跡
第19号竪穴建物跡
8世紀代 |
支脚
中野平遺跡
第4号竪穴建物跡
9世紀代 |
甕・支脚の出土状況
中野平遺跡
かまどの中で、支脚に湯釜(甕)を載せ
その上に甑を載せた状態で出土 |
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334馬具
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轡
A9号墳 周溝外
7世紀中~後葉 |
轡
ふくべ(3)遺跡
第27号竪穴建物跡
7・8世紀 |
轡
阿光坊遺跡
A19号墳
7世紀 |
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400 |
400④出土品と文化の交わり
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401律令国家と蝦夷
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阿光坊古墳群が作られ始めた飛鳥時代以前は、地方支配の方法として、国造制(くにのみやつこ)という制度があり、各地の有力者が国造となり始めていました。
大化の改新によって国造が治めたクニが解体して、郡の前身である評(こおり)が置かれました。
しかし、そうしたことが行われたのは新潟県の北部から宮城県南部を結んだ線より南であり、それより北は蝦夷の地と中央からは呼ばれました。
支配領域が北上し、新たに支配した地域には城柵が作られ、郡が設置されていきます。
9世紀初めには、岩手県盛岡市の志波城(しわじょう)まで北上します。太平洋側では、それより北には古代に城柵も郡も設置されず、最後まで蝦夷の地であったと考えられます。
※だとしたら阿光坊付近には役所もなく、役人もいなかったのなら、墨書土器も、石帯も矛盾することになる。 |
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律令国家と蝦夷 |
東北地方の主な古代城柵と律令国家の支配地域の拡大 |
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律令国家と蝦夷 |
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403出土品と文化の交わり
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阿光坊古墳群や周辺の集落遺跡からは、この地域で作られたものではないもの、つまり交易でもたらされたと考えられるものが出土しています。
まず挙げられるのが、鉄製品です。
製鉄は、9世紀後半以降、津軽地方で行われていますが、それ以前のものは他所からもたらされたものと考えられます。
鉄製品の中でも刀類は高い技術と多くの鉄素材を必要とする特に貴重なものであったことでしょう。
また、錫製品やガラス玉、勾玉などの装身具も在地では製作できないものでした。
錫製品は大陸からもたらされた可能性があり、またガラス玉については、海外から輸入されたガラス素材を用いて作られていたものです。
そのほか、須恵器は東海地方や、北陸地方で作られたものがもたらされています。
阿光坊古墳群が作られ始めた頃は、律令国家側に対し、朝貢と下賜という関係で物品の交換が行われました。そうした姿を出土遺物が表しています。 |
出土品と文化の交わり |
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出土品と文化の交わり |
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出雲玉作の勾玉 |
湖西(東海)地方の土器 |
北陸の土器 |
東日本各地の道具類 |
ロシア沿海州との交易
実際にはアイヌの山丹交易品を交易して入手 |
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405各地の土器
須恵器 平瓶
阿光坊遺跡 a2号土壙
7世紀前半 |
湖西(東海)地方産 |
出羽型甕
中野平遺跡
第7号竪穴建物跡
9世紀代 |
秋田・山形地方産
出羽国=秋田山形 |
出雲の勾玉 |
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須恵器四耳壷 |
中野平遺跡
第2号竪穴建物跡
9世紀代 |
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金製品 |
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407都母の村(つものむら)
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8世紀末から9世紀の歴史を記した「日本後期」弘仁2年(811)7月辛酉(29日)条には、"邑良志閇村(おらしべむら)"弐薩体村(にさたいむら)""幣伊村(へいむら)"といった岩手・秋田県北地域と推定される地名と共に"都母村(つもむら)"が登場します。
この"都母村"の場所は、発音が類似する三戸から七戸町の坪地区周辺が有力視されてきました。
しかし、近年、7世紀から9世紀にかけての集落の集中と阿光坊古墳群の存在から、奥入瀬川下流域左岸地域が、その有力な候補地として考えられるようになりました。
"都母村"がどこであるかを実証するのは極めて困難なことですが、弘仁2年当時、この地域に多くの集落が存在したことは事実です。
"都母村"も阿光坊古墳群と周辺集落のような、地域のリーダーの墓を中心とした集落群であったのではないかと推測されます。
「日本後期」弘仁2年(811)7月辛酉(29日)条 現代語訳
出羽の国が、「邑良志閇村(おらしべむら)の帰順した俘囚である吉弥候部都留岐(きみこべのつるぎ)が「自分たちは弐(爾)薩体村」の蝦夷の伊加古らと以前より対立関係にあります。今、伊加古どもは兵力を整えて都母村におり、幣伊村の夷を誘って我らに攻撃を掛けようとしています。どうか兵糧を支給していただき、先にこちらから襲撃をかけたいと思います。」と申請して参りました。私どもが考えるに、賊を以て賊を討つことは優れた戦略です。そこで、米100石を支給し、彼らを励ましたいと思います。」と上奏してきた。それでこれを許可した。 |
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500⑤阿光坊の不思議
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501古墳群とその後の話
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阿光坊古墳群で一番新しい古墳は、J10号墳で、9世紀終わり頃に造られたものです。その頃までは、青森県では太平洋側に多く末期古墳が造られています。延喜15(915)、十和田火山の噴火以降太平洋側ではほとんど作られなくなり、津軽地方に沢山作られ始めます。
J10号墳では円形の埋葬部が見つかっていますが、同様に円形の土坑が伴う例が県内で9例見つかっていて、中には焼骨や炭が出土したものがあります。
末期古墳には火葬墓を採り入れたものも出現し、10世紀中頃の中朝国境の白頭山の噴火(946)以降に造られた東北町鳥口平(2)遺跡1号墳のような例もあります。
阿光坊古墳群には、この白頭山の噴火以降に人が歩いた跡が見つかっています。阿光坊古墳群も10世紀まで続いているのでしょうか。 |
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古墳群とその後の話 |
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古墳群の移動10c以前は太平洋側10c以降は津軽平野に移動したようす |
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503聖福寺の聖観音菩薩立像
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阿光坊古墳群から西に500mの地には、聖福寺という寺があります。ここには阿光坊古墳群が造られていた7世紀後半の作と考えられる「聖観音菩薩立像」があります。
この仏像は高さ25.8cmの金銅仏で、頭が大きく、子供のような体形をしています。頭には三面飾り、胸にも飾りをつけています。
青森県最古の仏像でもあり、青森県重宝に指定されています。
近畿地方で鋳造された貴重な仏像がなぜこの地にもたらされたのでしょうか。観音森(瓢地区=ふくべちく)から出土した。小川原湖から上がったなどの言い伝えがありますが、定かではありません。
※阿光坊古墳群は、既にこの地に仏教が伝わっていた時代に始まり、延々と作り続けられていたんですね。
仏像が出たということは、この地にも仏教を広めようと雲水がやったて来て大切な仏像を残して、消えてしまったんですね。殺されたのでしょうか。 |
阿光坊の不思議 |
聖福寺の聖観音菩薩立像
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聖観音菩薩立像
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聖観音菩薩立像 |
十三塚伝説
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阿光坊古墳群一帯は、古くから「十三森山」と呼ばれ、奥入瀬川の支流である、明神川流域の開墾失敗を根幹とする、いくつかの伝説が伝わっています。13人を1基の塚に葬った、あるいは13人の武将を埋葬したなどのバリエィションがあります。
全国的に13の数字を基調とする「十三塚伝説」というものがあります。1ヶ所に13人埋めたという例は愛知県豊橋市富本町十三本塚に見られ、また多くなくなったので3人ずつ13ヶ所に埋めたとするもの(愛知県日進市梅森十三塚)や100人ずつ13ヶ所に葬ったというもの(福岡県筑紫野市大字下見十三塚)などがあります。
阿光坊古墳群の伝説は、これらのバラエティの一つと考えられます。 |
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600博物館 二階
二階には何もありません。ただ、美しい東北北部の、西側丘陵、山岳地帯が見えます。 |
601八甲田カルデラ
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602阿光坊古墳群(写真集より)
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