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目次
01外観
10入口展示
12埋蔵文化財センターの仕事
14文化財の発掘調査
15遺物の出土状況
17測定する
18報告書の作成
20文化財の保存処理方法
23ホリエチレングリコール含浸法
25真空凍結乾燥法
30埋蔵文化財の保存処理
32金属製遺物の出土状況
33金属製遺物処理工程と装置
34庚寅銘大刀の発見と保存処理
35透過X線撮影
36顕微鏡観察
40石囲炉
45彩色された閉塞石
50埋蔵文化財の修復
52土器の出土状況
53土器の修復
54発掘現場出の保存科学的作業
55埋蔵文化財の収蔵管理と活用
60収蔵と検索の方法
70埋蔵文化財と考古学
80剥ぎ取り土層
82土器
85型式学
87弥生時代早期の設定
90絶対年代
100出土品に見る道具の変化
101旧石器時代
102縄文時代
103弥生時代
104古墳時代
105古代
106中世
108現代の器、昔の器
110碇(いかり)の復元
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常設展示
120先史時代
121先土器時代
124旧石器遺跡出土物
縄文時代
130土器の誕生(草創期)
140中期から晩期
150後期から晩期
弥生時代
160稲作の始まり
200第2展示室
200奴国と博多
203奴国の拠点集落
205奴国以前
207大型建物
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210奴国の時代
211弥生中期の
比恵・那珂遺跡群
213環濠・大溝・条溝
217墳丘墓
219交流と交易
生産工房の成立
221争う
222鏃
223武器
224弥生後期土器
225祭る
226土器以外の祭器
232比恵遺跡の副葬品
233装身具
240つくる
242鋳造鉄器
24甕棺の焼成
245まかなう
246弥生の農作物
247農耕具
248農具 |
250日本の玄関博多
251博多遺跡群
253過去の道路断面
260匠(手工業者)
263出土土器
270たしなむ・遊ぶ
271奴国と中世都市博多
276中世博多の戦乱
中世博多の情景
280国内の交易
281貨幣経済の成立
282経済の発達
283経済の中心都市
284各地との交易
285各地の土器
286海外との交易
290韓国新安海底沈没船
の箱荷
295弥生時代の埋葬祭祀
297鴻臚館の時代
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300企画展
発掘された福岡2020
310縄文時代
311中村町遺跡
312縄文土器・石器
320弥生時代
321山王遺跡
323銅戈鋳型
325井戸出土弥生土器
330古墳時代
331姪浜遺跡
333居尻B遺跡
336雀居遺跡
338人骨
340飯氏古墳群P群
350古代
351名子遺跡
353須恵器
360中世
361博多遺跡群
370中世箱崎遺跡
380中世福岡城下町遺跡 |
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01外観
福岡市埋蔵文化財センター |
展示室入口 |
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10入口展示
首飾り(勾玉・ガラス製丸玉) 古墳時代 神松寺御陵古墳 古墳時代
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めのう製の勾玉とガラス製の丸玉・小玉を組み合わせた首飾りです。このような石やガラスの玉類を使ったアクセサリーが福岡市内の古墳から沢山出土しています。
今回紹介するのは、昭和50年に城南区神松寺の神松寺御陵古墳(現:老松神社)を発掘した時に出土したものです。城南区での発掘調査は多くないのですが、城南区にも貴重な遺跡が点在しています。 |
首飾り
(勾玉・ガラス製丸玉)
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首飾り
(勾玉・ガラス製丸玉)
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首飾り
(勾玉・ガラス製丸玉) |
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埋蔵文化財センターの仕事 |
12埋蔵文化財センターの仕事
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はじめに
沿革
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遺跡はどの様に埋もれるか
土の下に埋もれる遺跡
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地上に残る遺跡
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遺跡はどの様に発見されるか
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14文化財の発掘調査
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15遺物の出土状況
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16
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17測定する
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18報告書の作成
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20文化財の保存処理方法 |
21
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埋蔵文化財の保存処理
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木製遺物の保存処理 |
埋蔵文化財の保存処理
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復元した木製農具
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木製遺物の保存処理
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木器の出土状況
博多区雀居遺跡 |
水を大量に含んだ出土木器
乾燥して収縮、変形した木器 |
乾燥変形した平鍬
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乾燥変形した木器 |
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23ポリエチレングリコール含浸法
ポリエチレングリコール含浸法 |
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保存処理した木製品 |
三又鍬・平鍬
西区拾六町ツイジ遺跡
弥生~古墳時代
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櫛・江戸・博多区板付
槌・古墳・相良区四箇
三又鍬 |
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25真空凍結乾燥法
真空凍結乾燥法 |
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エブリ(四箇遺跡)
鋤(博多区比恵遺跡)
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三又鍬(四箇遺跡)
さらえ(拾六町ツイジ)
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鉢(博多区三筑遺跡) |
杵(比恵遺跡) |
鋤(西区下山門乙女田遺跡)
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槽(比恵遺跡) |
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30埋蔵文化財の保存処理 |
31金属製遺物の保存処理方法
埋蔵文化財の保存処理 |
金属製遺物の保存処理 |
錆びて崩壊した鉄製品
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斧 |
刀
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32金属製遺物の出土状況
青銅器
西区吉武高木遺跡
約2000年前
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鉄器
東区舞松原古墳
約1600年前
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保存処理した金属製品
古墳後期
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馬具
南区桧原古墳群 |
刀と刀装具 |
耳環
博多区席田大谷古墳群
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馬具 轡 |
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鉄鏃 |
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33金属製遺物処理工程と装置
金属製遺物処理工程と装置
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保存処理した鉄製品
古墳時代
相良区藤崎遺跡 |
刀子 中世
有田遺跡
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手鎌・刀子 |
用途不明石器 |
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34庚寅銘大刀の発見と保存処理
庚寅銘大刀の発見と保存処理
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横穴式石室の遺物
赤線内大刀 |
元岡・桑原遺跡群 |
元岡G-6号墳 |
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35透過X線撮影
構造や劣化状態を調べる~透過X線撮影~ |
出土直後の大刀 |
象嵌の発見で活躍した透過X線撮影装置 |
大刀の透過X線画像 |
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庚寅銘大刀
古墳時代 |
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庚寅銘大刀
古墳時代
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同復元品
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36顕微鏡観察
材質調査
何でできているのかを知る
蛍光X線分析による材質調査
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40石囲炉 福岡市南区柏原遺跡F区 第12号炉 縄文早期(約7000年前)
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45彩色された閉塞石
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50埋蔵文化財の修復 |
51円筒埴輪
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埋蔵文化財の修復
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円筒埴輪 |
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朝顔形埴輪
剣塚北古墳
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52土器の出土状況
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土器の出土状況 |
生活遺跡
博多区雀居遺跡 |
墓地
西区金武古墳群 |
弥生土器
西区 |
弥生土器片
城南区小笹遺跡 |
復原前の土器
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弥生土器片
城南区小笹遺跡 |
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53土器の修復
土器の修復
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復元された土器
白磁四耳壷(平安)
博多遺跡群
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弥生中期後半の土器
板付遺跡
高坏:有田遺跡
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板付遺跡
弥生中期後半 |
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54発掘現場出の保存科学的作業
発掘現場出の保存科学的作業
土層の剥ぎ取り
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遺跡の複製
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55埋蔵文化財の収蔵管理と活用
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60収蔵と検索の方法
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70埋蔵文化財と考古学
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埋蔵文化財と考古学 |
年代を調べる |
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西区吉武遺跡の
遺構の切りあい |
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吉武遺跡
弥生竪穴住居跡出土
土器 |
吉武遺跡
古墳時代土壙出土
遺物
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80剥ぎ取り土層 |
81土層
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82土器
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1第1層出土
撚糸文土器 |
2第2層出土
楕円押し形文土器 |
2第2層出土
楕円押し形文土器 |
2第2層出土
楕円押し形文土器 |
1第1層出土
沈線文土器 |
第3層出土
山形押し形文土器 |
第3層出土
山形押し形文土器 |
第3層出土
山形押し形文土器 |
5第5層出土
条痕文土器 |
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85型式学
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87弥生時代早期の設定
弥生土器 甕
弥生早期・前期
雀居遺跡 |
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弥生時代500年早い |
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90絶対年代
絶対年代
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古記録・金石文を利用した交差年代法 |
科学的手法による測定法
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年輪年代法
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100出土品に見る道具の変化 |
101旧石器時代
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102縄文時代
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103弥生時代
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104古墳時代
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土師器 |
土師器 |
須恵器 |
木製容器 |
鋳造鉄斧の柄 |
鉄製桑崎 |
袋状鉄斧の柄 |
U字型鍬先 |
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105古代
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106中世
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108現代の器、昔の器
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下段 |
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タマゾノ遺跡 |
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古墳時代 5世紀 |
中段 |
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博多〇遺跡 |
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鎌倉時代 12世紀 |
上段 |
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○○○遺跡 |
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現代 20世紀 |
これらの資料はいずれも容器や食器として用いられました。上段のガラス瓶のようにラベルが失われたり、同じものが使われなくなると、
元々何の容器だったのか、何に用いられたのかわかりづらくなります。
下段の土器は、一つの墓からまとまって発見されました。
考古資料の多くは、ほとんどの情報がそぎ落とされた状態で出土しますが、須恵器の中に残っていたサザエの殻は、黄泉の国の食材を知る手がかりとなるかもしれません。 |
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上段・現代・20世紀 |
中段・鎌倉時代
12世紀 |
下段・古墳時代
5世紀 |
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110碇(いかり)の復元
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博多湾の碇石(西区唐泊出土、長さ224cm)から碇の復元を試みました。泉州船の碇と同じ全長7m程の大きさと考えられますが、
会場の都合で長さを5.3mと短くしています。碇石は中央部のほぞ穴で固定しています。
碇歯(爪)は鷹島4号碇も参考にしています。交易船の大きさを実感してください。 |
碇(いかり)の復元 |
いかりの計測図 |
碇石の分布図 |
博多湾の碇石の復元
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復元された碇 |
木製碇と碇石 |
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元寇当時の朝鮮船の痕跡が奄美・沖縄・福建省、とウラジオから出土している。
ウラジオの沈没船は遭難による難破船でなく、寄港して沈没したようだ。 |
奄美・沖縄の碇石は、元寇で流されたのでなく、
それ以前の三別将乱の敗残兵が南海に逃亡し、その痕跡ではないか。 |
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常設展示 |
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120先史時代
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121先土器時代
市内の旧石器遺跡
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土器が出現する1万年以上前の時代を旧石器時代と言い、
福岡市内では海岸部に近い板付遺跡、那珂・比恵遺跡、有田遺跡などの更新世台地(火山灰台地)や、
柏原遺跡・吉武遺跡などの山裾の丘陵部や扇状地などに80箇所以上の遺跡が確認されています。
旧石器時代は氷河期にあたり、気温は現在より年平均で7度も低く、鹿児島県でも現在の青森県くらいの気温でした。
このため海水面は現在より100m以上も低く、博多湾はなく、対馬・五島列島まで陸続きでした。
市内では、海面がいちばん低かった25000年程前のナイフ形石器文化から、14,000~1万年前の細石器文化までの遺跡が発見されています。 |
先史時代 |
先土器時代
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市内の旧石器時代
上に記述 |
ナイフ形石器
彫器
尖頭器
細石器 |
主な旧石器時代遺跡 |
遺跡名 |
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124旧石器遺跡出土物
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125
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縄文時代
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130土器の誕生(草創期)
草創期~早期のムラ 柏原遺跡群 福岡市南区柏原字荒谷ほか
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柏原遺跡群は、油山の麓の丘陵地帯にある旧石器時代から歴史時代にかけての一大遺跡群です。
大型団地の建設に伴う調査で、68万㎡の地域の中に12ヶ所の旧石器時代と縄文時代の集落跡が発見されました。
この中でもE・F・K遺跡は、縄文時代草創期から早期にかけての大きな集落跡で、
数多くの遺構や遺物が検出されており、この一帯の縄文時代の重要な拠点集落であったと考えられます。 |
F遺跡は、
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F遺跡は、樋井川の第2支流の左岸にあり、約300㎡の小規模な河岸段丘上に位置しています。
三つの文化層が確認され、
第Ⅲ層では、土壙と共に草創期の刺突文土器、撚糸文土器、条痕文土器や局部磨製石鏃、スクレイパーなどが出土しました。
第Ⅱ層からは15基の石組炉が発見され、押形文土器、無文土器、石鏃、磨製石斧、石匙、石錐、スクレイパーなどが出土しました。
第Ⅰ層からは、押型文土器、撚糸文土器、平栫式土器、沈線文土器、石鏃、スクレイパー、磨製石斧、石皿、磨石、環状石斧などが出土しています。
炉の周辺で、出土した木炭から、カシやコナラが優勢で、落葉広葉樹の繁茂する森の中に営まれたムラであったと考えられます。 |
土器の誕生(草創期) |
草創期~早期のムラ
柏原遺跡群
上に記述 |
F遺跡は
上に記述 |
F遺跡の調査 |
F遺跡より市街地を臨む
F遺跡第5号石組炉
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E遺跡全景
E遺跡の早期の住居群
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柏原F遺跡第Ⅱ層の炉と出土土器の分布 |
南区 柏原遺跡
縄文早期~前期
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140中期から晩期
中期~晩期のムラ 野多目拈渡遺跡のためうちわたし 南区大字野多目字拈渡
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野多目拈渡遺跡は、福岡平野の南西部、南区野多目に位置しています。これまでに4回にわたる発掘調査が行われ、
旧石器時代から平安時代にかけての竪穴住居、掘立柱建物跡、貯蔵穴、土壙などが検出されています。 |
縄文時代では、
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縄文時代では、後期前半と晩期前半の貯蔵穴、中期から後期前半にかけての川の跡が調査されています。
貯蔵穴はドングリなどの木の実を蓄えるもので、この遺跡の貯蔵穴にはアク抜きの必要のないイチイガシが多量に含まれていました。
水気の多い場所を選択したのは、おそらく虫などの被害を避けるために縄文人が考えた知恵であったのでしょう。
野多目拈渡遺跡では、まだ、縄文時代の竪穴住居跡は見つかっておらず、おそらく貯蔵穴群の西方に広がるものと思われます。
出土した土器は、
九州特有の
指や棒を使って太い凹線を引く阿高式土器(中期)、
指先で口縁部に丸い窪みを並べてつける坂の下式土器(後期始め)などが中心ですが、
瀬戸内地方から近畿地方の土器で、
細い沈線の間に縄文を飾る中津式土器・福田KⅡ式土器(後期始め)も出土しています。
石器は、石鏃・石匙・石錐・石斧・石皿などが出土しました。野多目拈渡遺跡の一部は、野多目中央公園の地下に盛土保存されています。 |
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中期~晩期のムラ
野多目拈渡遺跡
のためうちわたし
上に記述 |
野多目拈渡遺跡地図 |
縄文時代では
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第4次調査の貯蔵穴群 |
第4次1調査1号貯蔵穴
第1次千代宇佐の貯蔵穴群
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野多目拈渡遺跡
貯蔵穴群 |
野多目拈渡遺跡
縄文中期 |
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150後期から晩期
後期~晩期のムラ
四箇東遺跡 福岡市相良区大字重留
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四箇東遺跡は、背振山地から延びる室見川と金屑川に挟まれた沖積微高地の標高25~28mのところにあります。
四箇東遺跡の周辺には、縄文時代後期の遺物や自然遺物を多量に含む特殊泥炭層が発見された四箇遺跡や<
後期から晩期の遺物や遺構が発見されている田村遺跡群などがあり、この時代を中心としていくつかのムラがこの辺り一帯に営まれていたことが判ります。
四箇遺跡からは市内でも数少ない土偶が発見されています。 |
四箇東遺跡の土偶 写真引用「四箇周辺遺跡調査報告書5」
圃場整備事業に伴う調査で
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圃場整備事業に伴う調査で、約300㎡の範囲から縄文時代後期末から晩期初頭にかけての円形住居跡5棟、竪穴遺構1基、貯蔵穴1基、埋め甕・埋鉢各1基などが発見されました。
第1号竪穴住居跡は残りがよく、直径3.8~3.6m、深さ20cmの遠景の住居で、5本の柱穴と中央部には口縁と底部を打ち欠いた鉢を据えた炉跡がありました。
中からは、深鉢形土器や浅鉢形土器などと共に、石斧や石鏃などの石器が発見されています。埋甕は口径42cm、高さ50cmの粗製深鉢の底を打ち欠いて、穴の中に斜めに据えたもので、当時の死者を葬る手段の一つです。
住居の入口などに埋められることによって再生を期した風俗とも言われています。 |
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四箇東遺跡
上に記述 |
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上に記述 |
第4次の調査風景 |
住居跡遺物出土状況
1号住居跡
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四箇遺跡の特殊泥炭層調査風景 |
四箇東遺跡第4次調査遺跡分布 |
四箇遺跡
縄文後期
早良区四箇 |
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弥生時代
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160稲作の始まり 日本最古の農村
稲作の始まりを語るムラ 弥生中期~後期 国史跡 板付遺跡 博多区板付2~3、5丁目地内
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板付遺跡は、我が国に初めて稲作がもたらされた頃の集落の成り立ちや、稲作農耕のあり方について知ることのできる遺跡です。
遺跡は、御笠川と諸岡川に挟まれた、低丘陵部に南北110m、東西80mの堀を巡らす環濠集落や甕棺墓・貯蔵穴群があり、また、
東西に広がる沖積地には水田が形成され、弥生時代の全期間を通して営まれています。
G-7a・b区では、我が国最古の水田跡が発見され、高い技術水準の稲作農耕の文化が今から約2300年前に大陸から伝わってきたことが分かりました。また水田からは、土器や石器のほかに縄文時代晩期の人々の人々の足跡も発見されました。
H-5d区では弥生前期~中期の水田が台地のへりに沿ってみとめられ、南北に細長い水田の形状が復元できました。
確認調査では、いままでに わかっていた濠の外に更に堀を巡らせた二重の環濠集落の可能性が指摘され話題になりました。
また、内側の環濠では、ムラの出入口と考えられる幅約4mの陸橋や、環濠が用いられなくなった弥生中期から後期の集落の広がりの様子が明らかになりました。 |
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日本最古の農村 |
稲作の始まりを語るムラ
国史跡 板付遺跡
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ムラは長110m短径80m程の環濠集落
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板付遺跡
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調査の経過と主な発見
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1988年度調査
環濠の形・大きさ・遺構の分布状況の調査 |
弥生初期の水田・足跡
弥生前期-江戸の水田
弥生前期の水田面 |
環濠の断面
弥生中-後期竪穴住居
後期遺構から小銅鐸
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弥生中-後期水田面
弥生前-中期水田面
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板付遺跡土器 |
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170碇
元寇碇石といわれているが、実際は日本や海外から多数出土していることから、平安時代から鎌倉室町などにかけてものとされる。
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200第2展示室
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200「奴国」の時代と中世都市「博多」
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福岡市域は、古来より海に開かれた日本の「玄関口」として、歴史の舞台で重要な役割を果たしてきました。中でも大陸から稲作文化を受け入れ、
弥生文化を生み出し、いち早く「クニ」をかたちづくり、後漢書に「金印」を与えられた「奴国」として登場する弥生時代、
11世紀後半以降中国や遠く東南アジアにまで海を渡って交易を行い、日本最大の国際貿易港として栄えた中世都市「博多」の時代は福岡市の歴史の中でも燦然と輝く時代です。
第2展示室では、この二つの時代にスポットを当て、その生活の復元を試みました。 |
※奴国
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奴国は、現在の春日市奴国の丘資料館にその王の支石墓があり、博多湾一体を支配する大王で、テクノポリスといわれるほどの先進技術の工房を多く抱え、最先端の製品を数多く生産していました。その詳細は16週間後に掲載予定の「春日市奴国の丘資料館」をご覧ください。 |
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201展示室全景
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203 奴国の拠点集落那珂・比恵遺跡
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那珂・比恵遺跡群は、福岡平野の中央部に位置し、御笠川と那珂川にはさまれた標高5~11mの低丘陵上に位置します。
遺跡の範囲は100haを越え、弥生時代の遺跡がほぼ全域に分布しています。
ことに、弥生中期後半より春日丘陵の須玖岡本遺跡をはじめとする須玖遺跡群から、この地域に連なる丘陵上までは、青銅器工房・ガラス工房・大型建物・墳丘墓・大溝など、質・量ともに他の弥生集落を圧倒し、「奴国」の中心をなす全国でも屈指の遺跡群です。
この様子は古墳時代にも引き継がれ、この地域でも最古の前方後円墳である那珂八幡古墳が築造されたことでも伺えます。 |
奴国の拠点集落 |
那珂・比恵遺跡全体図
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那珂・比恵遺跡群全体図
上に記述 |
弥生前期初頭の土器
那珂32次・比恵30次
下に詳細 |
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205奴国以前
板付遺跡 福岡市博多区板付3丁目21−1
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板付遺跡は国内最古の農耕集落の一つで、御笠川と諸岡川にはさまれた標高11~12m程の低い丘陵上に集落を設け、その東西の低地に用水路・井堰を備えた水田が開かれ、最古の稲作が行われていました。
集落には幅6m・深さ3m程の巨大な濠が東西80m南北110mの多勢遠景に巡らされ、西南部に1ヶ所陸橋を設けています。
また、環濠東南側では銅剣・銅矛を副葬した墳丘墓が確認されています。(国指定史跡) |
那珂37次 福岡県福岡市博多区東光寺町1丁目
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那珂37次調査区は遺跡群の南西部に位置し、板付遺跡より更に遡る最古の環濠集落で、長径160m短径140m程の円形に濠が二重に巡っています。
濠の底からは、農耕開始期の縄文土器だけが出土しており、最古期の集落であることを示しています。(福岡市指定史跡)
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比恵30次 福岡県福岡市博多区博多駅南5丁目
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比恵遺跡では丘陵北部と西部で前期の集落づくりが始まり、竪穴住居や貯蔵穴・多数の木器などが検出されています。
30次調査区は遺跡の北東部に位置し、39基の貯蔵穴が検出され、住居区から切り離された貯蔵穴のみ区域をかたちづくっています。
この貯蔵穴内部からは製塩を示す貝類が出土しました。 |
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207大型建物
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弥生時代の大型建物は近年調査件数の増加に伴って、西日本を中心に各地(平地)の拠点となる集落で発見が続いています。
那珂・比恵遺跡群でも中期後半から後期にかけて比恵丘陵の中央部・那珂丘陵の南西部で 全長7~12m程の建物が多く発見され、
周辺の久保園・雀居遺跡ではさらに巨大な建物が発見されています。 |
大型建物
上に記述 |
各遺跡の掘立柱建物
那珂23・27次 |
比恵50次・久保園 |
雀居4・5次
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大型建物の変遷
前期~後期
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左:建築部材
右:建物柱 |
大型建物復元模型 |
復元された大型建物
西区吉武高木遺跡
弥生中期 |
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建築家若林弘子氏が古墳時代前期の銅鏡「家屋文鏡」の高床建物を元に推定復元したものです。
別説に、高床でなく土間の平地式建物ともいわれる。 |
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210奴国の時代
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211弥生中期の比恵・那珂遺跡群
奴国の時代 |
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比恵遺跡群大溝・環濠位置図
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那珂遺跡群大溝位置図
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弥生中期土器
比恵53次 |
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213環濠・大溝・条溝
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中期後半から後期にかけて比恵の中央丘陵の35次から46次地点や、那珂丘陵南半部分の20次から23次地点を中心に、
最大幅5m深さ1.5m程の大溝が彫られています。
これらは集落の中心部を巡っており、環濠の一部と考えられています。
また、1次調査地点では終末期にかけての四つの方形環濠が現出され、居館の可能性も考えられています。 |
環濠・大溝・条溝
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比恵35次
上に記述 |
比恵9次環濠
那珂20次
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比恵40次
比恵50次
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比恵46次
那珂23次
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214那珂18次土器
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215比恵50次
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比恵遺跡50次地点のD地区では古墳時代の始め、南北方向に40m程にわたって幅6mの間隔で2本の平行する溝が確認され、溝の間は道路の可能性も考えられます。
溝は那珂比恵丘陵を縦断する可能性が高く、那珂丘陵では周囲の方形周溝墓がこれに沿っており、当時の都市計画の基準線となっているようです。 |
比恵50次 |
比恵50次
上に記述 |
那珂18次Y字溝断面
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Y字溝写真 |
比恵50次遺構分布図 |
那珂18次全景 |
比恵50次 |
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217墳丘墓
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弥生時代、農耕による生産力の増加に伴って社会は複雑に発展しました。
集団の中に有力者が現れ、一般の人々と異なった範囲に有力者グループだけで青銅器・鉄器などの貴重品を副葬した墓地を作ります。
その一つが墳丘墓で、比恵丘陵と那珂丘陵のそれぞれ一ヵ所で確認されています。 |
比恵丘陵では
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稗丘陵では中央部の6次地点を中心に甕棺60基・土壙墓10基程が東西22m南北30m程の方形区画の中、周囲を祭祀遺跡に囲まれて検出した。
この中央の大型甕棺SK28号からは久ぬにくるまれた細形銅剣が出土しています。 |
那珂丘陵では
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那珂丘陵では北西部の21次地点を中心に南北35m東西18m程の方形区画が想定され、周囲を祭祀遺跡に囲まれています。
この中から40基前後の甕棺墓と6基の土壙墓が検出され、中央に位置する甕棺墓SK21から当時としては非常に貴重であった水銀朱が発見されました。この墳丘墓の存在からも、この地域が発展した集落であったことが伺えます。 |
墳丘墓
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那珂21次 |
墳丘墓 |
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比恵2,6,16,17次墳丘墓想定図 |
比恵6次全景
28号甕棺墓
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銅剣出土
那珂21次全景 |
那珂21,50次墳丘墓想定図 |
弥生農耕社会の発達
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那珂21次 |
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219交流と交易
各地の土器の流入
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奴国では、
弥生時代後期に西瀬戸内・東瀬戸内・東九州系などの瀬戸内系土器が、
弥生終末期から古墳時代初めにかけ畿内系・山陰系・朝鮮半島系の土器が盛んに流入します。
前方後円墳が出現する前後、拠点集落での広範な交易の社会情勢を示しています。 |
生産工房の成立
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農耕の発展によって、より複雑で高度な社会をかたちづくった弥生社会は専業集団を生み出しました。
中期には西区今山遺跡で石斧が、飯塚市立岩遺跡で石包丁が、それぞれ大量生産が開始され、優良なブランド品として北部九州に移出され、福岡・佐賀では7~8割りを今山産が占めていました。 |
今山産石斧・立岩産石包丁分布図
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上に記述 |
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今山遺跡全景 |
今山遺跡調査風景 |
弥生後期土器
弥生時代後期土器 |
弥生後期土器 |
豊前・半島・山陰系
の土器 |
豊前系、半島系 |
山陰系 |
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221争う
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稲作農耕の発展は富を生み出し、より豊かな社会を出現させましたが、同時に農地や水利権、富を巡っての争いをもたらし、武器としての道具を発達させました。
近隣同士の争いを経て、地域は大きくまとまり、祭祀を通じて結束を深め、この司祭者・指導者として主張「王」が登場しました。
武器には弓矢・剣・刀・矛ほこ・戈かなどがあり、防具として盾たて・甲よろいがあります。
素材は石製・木製・生と瀬宇正・鉄製などがあり、天然素材から青銅製・鉄製へと変わっていきます。
奴国周辺では前期後半から中期中頃をピークに、人体に突き刺さって折れた石剣・首のない遺体が葬られた甕棺等が出土しています。
「奴国」として地域がまとまる以前の戦闘の激しさを物語っています。 |
争う
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争う
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短甲 雀居遺跡 |
石剣切先の刺さった人骨(スダレ遺跡) |
首なし人骨(西新町遺跡10次調査)
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戈
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角戈(鹿つの製)
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角戈 |
石戈
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石戈
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222鏃(矢じりのこと。素材により鉄鏃や石鏃などとよばれる。)
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223武器
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石剣・石戈 |
投弾 |
環状石斧 |
環状石斧
厚手の円盤形で、周辺を薄く整形して刃部とした磨製石器。
中央にある穴に、棍棒状の柄を挿して使用する。 |
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224弥生後期土器
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225祭る
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弥生時代の生活は農耕が中心に据えられ、様々な節目ごとに方策を祈って祖先の霊や、農耕の神に祈りが捧げられました。
ムラごとの長老や長を司祭にした小さな祭りから、より重要な、地域や「クニ」をまとめた特別な祭りなどが行われたようです。
この特別な祭りで使われた、最高のシンボルが銅矛などの武器形祭器と銅鐸でした。
「奴国」を中心とした北部九州では武器形祭器が用いられ、同じ祭りをとり行うグループとして、遠く中国・四国地方まで配布されました。
「奴国王」はこの生産と配布を一手に握っていました。
※奴国と同じ祭祀を行う遠方のクニとは、奴国の同盟国なのか、奴国民を植民してクニを作ったのだろうか。 |
祭る |
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溝内祭祀(那珂20次) |
井戸祭祀(那珂34次) |
祭る
上に記述 |
武器形祭器
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銅剣・銅戈・銅矛 |
案(机)出土状況
雀居4次 |
蓆田大谷遺跡4次
鋳型模造品
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226土器以外の祭器
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まつりには土器以外にも飾られた武具や木製品・祭壇なども用いられ、着飾った司祭によって執り行われたようです。
畿内や中国地方の土器に祭の様子を線刻したものが見られ、市内でも関連したものが見られます。 |
土器以外の祭器 |
翳(さしば)状木製品
比恵54次 |
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短甲装飾文様
雀居5次 |
案(机)雀居4次 |
絵画土器
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吉武高木 |
小葎 |
那珂23次 |
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227那珂20次 弥生中期後半
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228
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ミニチュア土器 |
鏡形土製品
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土製杓子 |
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短甲(よろい) |
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230奴国の時代 |
23装う
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発掘調査で布や圧痕・機具が出土することが稀にあり、縄文晩期から九州で機織が始まったことがわかっています。
市内では比恵と相良区有田遺跡で布が出土しています。
佐賀県吉野ケ里遺跡では茜と貝紫で染められた布が発見され、想像以上にカラフルな衣装を身にまとっていたようです。
装飾品には縄文時代からのヒスイや碧玉の玉類や木製・貝・骨格製の腕輪・垂飾があり、新たな素材として銀や青銅の金属・ガラスが加わりました。 |
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232比恵遺跡の副葬品
銅剣(比恵6次) |
絹布拡大 |
貝輪装着、木製腕輪 |
銅釧 |
玉類
吉武高木遺跡 |
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233装身具
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細形銅剣
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紡錘車
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ゴホウラ貝製貝輪
西新町遺跡 |
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辰砂、石杵 |
辰砂 |
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おさ 緯打具
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240つくる |
241つくる
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弥生人たちは稲作農耕以外にも更に進んだ技術・文化を大陸・半島から取り入れ、現代社会にまで続く鉄器・青銅器・ガラス・玉・土器づくりなどの専業工人達を成立させました。
那珂・比恵遺跡では比恵42次をはじめ鋳型・取瓶などの青銅器製作関係の遺物が多数出土しています。 |
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つくる |
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取瓶・鋳型
比恵40・42次 |
銅戈鋳型
比恵42次 |
銅剣鋳型
東区八田
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銅戈鋳型
東区八田 |
つくる |
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鋳造鉄斧
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中期後半の土壙から砥石と一緒に出土したもので、分析の結果、固くてもろい鉄斧の刃の部分を「脱炭軟化処理」という高度な技術で衝撃に耐えるよう熱処理した中国製品であることが分かりました。
※半島や列島の脱炭は、製錬炉で木炭と共に赤熱して脱炭する方法と、更に、鍛造という赤熱して打ち据える鍛造方法がとられましたが、
中国では、二次炉の中で、鉄棒でかき混ぜるという簡単な方法で、脱炭に成功しました。 |
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鋳造鉄斧のマクロ組織
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鉄斧の刃(正面視) |
鉄斧の刃(側面視) |
上に記述 |
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鋳造鉄斧(比恵51次) |
鋳造作業想像図 |
鍛冶遺構(博多59次) |
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242鋳造鉄器
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鋳造鉄斧
比恵51次 |
鋳造鉄斧
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取瓶 |
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溶解炉から溶融金属をすくい出し、鋳型に注ぐための容器 |
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銅矛鋳型
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銅矛鋳型
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中子(鋳型の支え)
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熱変性石包丁
銅滓
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左:斧柄未成品
中:つちのこ(横槌)
右:工作台
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工作台 |
石斧柄 未成品
つちのこ(横槌)
工作台
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243つくる
甕棺の焼成
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3m程の長方形の竪穴で、床面が赤く焼け、甕棺が伏せた状態で多数の藁の圧痕がついた焼粘土と一緒に発見されました。
土器を藁で覆い、その上を粘土で覆った簡単な窯であったと考えられています。 |
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土器表面の調整 |
ハケメ・ナデ調整
ハケ=木の板。木口を土器表面に当てて器面調整するので、摩耗した木口の年輪が刷毛目のように見える |
研磨・丹塗研磨調整 |
甕棺の焼成
上に記述 |
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中国雲南式土器焼成 |
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よく見る野原に乾燥土器と薪を積み上げて露天で焼成するのではなく、
粘土で密閉して焼くことによって色ムラ、焦げムラ、焼きムラを少なくできるのだろう。 |
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縦斧復元模式図 |
横斧復元模式図 |
木材の割り出し
(木取り法)
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木器出土状況
比恵遺跡 |
土器表面の調整具 ハケメ調整板
土製あて具
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※内壁にあて具を、外から叩くと思ったら、
中から叩くんだそうです。
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245まかなう |
246弥生の農作物
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弥生人たちは米作りに最大の努力を傾け、水田の開発に力を注いでいました。
わが国で最初の稲作集落である板付遺跡では、最初から水路や堰などの灌漑施設・さまざまな鍬や石包丁などの農耕具・収穫具が完備した、
本格的な稲作が半島から伝わっていました。
また、当時はアワ・ヒエ・ムギ・アズキなどの雑穀も栽培され、戦前までの農村と変わらない風景であったと思われます。
比恵遺跡ではモモ・ヒョウタン・ウリなども出土しています。
集落が大きくなると飲料水も重要になってきます。那珂・比恵遺跡では100基以上の井戸が発見されています。
※平成の耕地改革で、全国で曲がりくねった田んぼを直線的に直しました。その際にわかったことは、古代から現代まで、千数百年間も、田んぼの畔の形が変わることはなかったそうです。農作物も同様で、千数百回も、稲作と、雑穀などを変わらず栽培してきたようです。 |
まかなう
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弥生の農作物
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板付遺跡水田想像図 |
板付遺跡水田 |
比恵遺跡井戸断面 |
比恵遺跡出土種子 |
モモ
イヌガヤ(コナラ属)
ムクノキ
サクラ属
ヒョウタン類
メロン類
カラスザンショ属 |
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247農耕具 四箇船石遺跡
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248農具
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稲作には、開発の進み具合や地形に合わせて様々な農耕具が用いられ、一部に鉄製の刃先を付けた物もありましたが、
ほとんどは刃先まで木製でした。鋤は主に開墾に使われ、鍬は田起こしや田ならしなど、用途に合った形が開発されました。 |
各種農耕具
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上に記述 |
鍬出土状況 |
なんでこんなところに鍬を忘れていたんだろう。
物が豊富な現代でも、田畑に農具を忘れてきたら必ず取りに帰るよ。
物が少なく貴重な時代に簡単に作れない鍬を
千年も放りだしたままにしておくなんて、、、
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249
鋤
三又鍬 |
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平鍬
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諸手鍬もろて
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二又鍬
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銅製鋤先 |
エブリ |
釣瓶形土器 |
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250日本の玄関 博多
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博多湾一帯は弥生時代から大陸文化の玄関口でした。
JR博多駅北側の南北1.6km東西0.8kmに広がる博多遺跡群はまさに「玄関口」であることを示す遺跡で、
特に11世紀後半から安土桃山時代にかけて中国製をはじめとする膨大な量漁の輸入陶磁器が出土し、
「博多」が中世の国際貿易都市であったことを示しています。 |
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251博多遺跡群
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博多遺跡群は那珂川・御笠川によって運ばれた砂で出来上がった砂丘の上に立地しています。
国道202号線を挟んで北は「息の浜」南は「博多浜」と呼ばれていました。
博多の地に、整備された街が出現するのは8世紀以降で、南北方向の溝に囲まれた役所的な施設が考えられています。
12世紀には砂丘は陸続きとなり、博多浜を貫く北西から南東方向の街割りの基本線となる溝が設けられました。
13世紀末から14世紀初めにかけ、この溝に重ねて幹線道路や支線道路が整備され、「中世都市」の景観が整えられてきます。
しかし、16世紀には戦国大名による度重なる戦乱で荒廃し、1587年豊臣秀吉により現在の街割りに再興され、今に至っています。 |
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日本の玄関博多 |
博多遺跡群全体図
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「博多」の街割 |
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中世都市博多の情景 |
博多遺跡群 |
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253過去の道路断面
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35次道路断面
14c前後
14c前後 |
35次出土道路
15c前半-中頃
15c前半~中頃 |
40次道路 |
築港線調査全景 |
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260匠(手工業者)
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都市での生活には様々な日常生活品を必要としました。このために日常品を作る様々な手工業者が住んでいたと思われます。
遺跡からは鋳物・滑石細工・ガラス工芸・骨角工芸・漆工芸関係などの遺物が多数出土しています。
下駄や曲げ物などの木製品の多くも作られていたことでしょう。 |
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261
匠 |
64次溶解炉 |
鋳物師 |
匠 |
糸紡ぎ |
石鍋切り分け状態 |
鍛冶 |
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263出土土器
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根付・飾・小玉・
ガラス素材・るつぼ |
刀装具・耳かき・笄
骨角器素材
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漆器 |
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265
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紡錘車・糸巻・ヘラ |
手代木:紡錘車の回転台
後の曲物:糸を入れる容器 |
滑石製鋳型
歓喜天鋳型
羽口、取瓶 |
溶解炉 |
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267
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270たしなむ・遊ぶ
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271たしなむ・遊ぶ
「奴国」の時代と中世都市「博多」
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福岡市域は、古来より海に開かれた日本の「玄関口」として、歴史の舞台で重要な役割を果たしてきました。
中でも、大陸から稲作文化を受け入れ、弥生文化を生み出し、いち早く「クニ」をかたちづくり、
後漢書に「金印」を与えられた「奴国」として登場する弥生時代、
11世紀後半以降中国や遠く東南アジアにまで海を渡って交易を行い、日本最大の国際貿易港として栄えた中世都市「博多」の時代は
福岡市の歴史の中でも燦然と輝く時代です。
第2展示室ではこの二つの時代にスポットをあて、その生活の復元を試みました。 |
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「奴国」の時代と中世都市「博多」
上に記述 |
たしなむ・遊ぶ |
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茶道具
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栄西が「喫茶養生記」を表したのは1211年ですが、博多では早くも12世紀には喫茶の風習が伝えられました。
14世紀頃から瀬戸で茶道具が作られ、全国的には15~16世紀に普及しました。 |
遊具
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遺跡からは様々な遊具が出土します。石や木製の球は絵図のように棒で打って遊ぶホッケーのような遊び道具と考えられます。
ほかにも、双六用のメンコやサイコロ・将棋の駒など大人の遊具も出土しています。 |
たしなむ・あそぶ |
上に記述 |
茶道具 |
茶道具
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遊具
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毬打図ぎっちょうず
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272たしなむ
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香炉、合子(香木入)
香道
香りをたしなむ |
茶入・天目茶碗
灰匙・茶臼
茶道
喫茶をたしなむ |
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273遊ぶ
石球・木球・瓦球 |
独楽・形代・トンボ |
碁石・双六駒・
将棋駒・サイコロ |
碁や双六は、当時のバクチで、絵巻に負けて裸にされた男の絵が描かれています。 |
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274
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水滴
花器・硯・青磁向付 |
金製箸・吊金具・耳かき
白磁天人像 |
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275戦乱
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276中世博多の戦乱
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貿易で栄えた中世博多は、戦国大名の利権収奪を求める度重なる戦乱によって火災にあい、その時期は14世紀前後の鎌倉時代後半と16世紀の戦国時代の、政治不安の時期に集中しています。遺跡からも焼土や焼けただれた陶磁器・鏃・鎧などが出土しています。地下鉄祇園町工区の発掘調査では、14世紀前半の斬首された110体分の頭蓋骨が検出されました。 |
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中世博多の主な火災
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祇園町工区術度頭蓋骨
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中世博多の戦乱
上に記述 |
橈骨に残る刀傷 |
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鎧各部名称 |
刀各部名称 |
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278
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鎧小札、鉄鏃 |
鉄鏃 |
鎧小札 |
小刀、刀装具 |
刀装具 |
小刀 |
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中世博多の情景
「筑紫道記」文明12年(1480) 連歌師 飯尾宗祇
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「夫より誰にいそぐ心もとなく駒打ちはやめ、夕陽のほのかなるに博多というに着きぬ。宿りは龍宮寺といへる浄土門の寺なり。
此の所つかさどるは山鹿壱岐守、とかくのこわざす、常のごとし。(中略) 明けぬれば此の所のさまを見侍るに、前に入海はるかして、
志賀の島をみわたして、沖には大船おほくかゝれり。もろこし人も乗りけんと見ゆ。
左には夫となき山どもかさなり、右は箱崎の松原遠くつらなり、仏閣僧坊数しらず、
人民の上下門をならべ軒をあらそひて、その境四方に広し。」 |
「日本史」天正8年(1580) 宣教師 ルイス・フロイス
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「本年、日本で最も人口が多く富裕な市の一つであり、過ぐる年まで常に我らが司祭館を有していた筑前国の博多の市は、
竜造寺が豊後に進撃した際にことごとく破壊され、焼却され、蹂躙れ、市の痕跡すら留めぬ有様であった。
というのは、日本の家屋は木造なので、わずかな時間に燃え上がり、すべて灰燼に帰したのである。
それに混じって、我らも一つの立派な教会と、それに付随している家屋を失った。」 |
中世博多の情景 |
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280国内の交易
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281貨幣経済の成立
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中世日本では中国からの輸入銭による貨幣経済が成立していました。
中でも博多は、中国製の白磁の輸入が爆発的に増える12せいき前後から銭の流通が始まっており、経済システムの上でも先進地域でした。
当十銭(1枚で10文分)などの高額銭が博多だけで流通していたのも、より高度な経済性を示しています。
貨幣経済が発展するにつれ、銅銭は慢性的に不足し、大量の中国銭が輸入されました。 |
国内の交易 |
国内の交易 |
行商人 |
商家 |
出土銅銭 |
中国銭の種類 |
上に記述 |
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282経済の発達
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繭形分銅 |
権(けん=分銅) |
権 |
錠前 |
朝鮮銭、中国銭 |
銭鉢ぜにばち |
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283経済の中心都市
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博多に陸揚げされた中国陶磁器などは、日本海側や瀬戸内海航路を通じて日本各地へもたらされました。
このように博多は国内の流通においても重要な交易港でした。
この状況を示すように中世陶器の備前・常滑・瀬戸・信楽ら紀などの古窯の焼き物は日常品として、12世紀の初期の段階から博多にもたらされていました。ほかにも近畿・瀬戸内海を中心に各地の土器がもたらされています。 |
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284各地との交易
※濃尾平野では陶土が多く産出し、窯業が各地で発達している。
約1000万年から200万年前にかけて堆積した「瀬戸層群」といわれる、河成・湖成層の堆積陶土・砂礫が、伊勢湾以東に分布している。
濃尾平野東部では瀬戸層群。知多半島では常滑層群。三重県では奄芸層群と呼ばれ、各地で陶土として用いられている。
瀬戸層群 瀬戸層群 瀬戸焼の概要と歴史 愛知県 陶器 理由
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285各地の土器
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286海外との交易
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日本に来航したと思われる船が中国泉州と韓国新安の海底で発見されています。
泉州船は全長約35m幅10m排水量200t。竜骨を持ったジャンク船で、隔壁で13質に仕切られていました。
新安船は全長30m幅9.4m排水量300tのジャンク構造の外洋船で、8室に仕切られていました。
京都の東福寺の派遣船であることがわかっています。
泉州船には香木・香料・胡椒・宋銭・陶磁器2万点などが積み込まれていました。 |
国際貿易都市
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国際貿易としてあった博多には中国や琉球の貿易船が来航し、様々な品物を陸揚げしました。
これらを示すように遺跡からは大量の中国製をはじめ朝鮮、遠くはタイ・ベトナム産の陶磁器が出土します。
中国では福州・泉州が主な貿易港で、1105年博多に来航した泉州の船には、船長である「綱首こうしゅ」以下70人の中国人船員が乗り込み、
4万枚の磁器碗、2万枚の皿が積み込まれていました。 |
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海外との交易 |
絵巻の中の船 |
海外との交易 |
一括して埋められた
陶磁器
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国際貿易都市 |
中世の対外航路 |
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287
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青花せいか
博多40次4号土坑
出土陶磁器
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赤絵皿、青磁 |
黄釉盤/中国
:経年劣化で退色
しています。
鉱物が酸化したのでしょうか。吃驚。 |
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288海外との交易
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289
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290韓国新安海底沈没船の箱荷
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新安沈没船は、1975年韓国の西南、全羅南道徳島沖推進20mの海底から発見されたもので、中国南部の松材を用いた全長34m幅11m排水量300tのジャンク構造の外洋船です。
8室に区切られた船室からは約2万点の中国陶磁・28t約800万枚にも及ぶ銅銭、その他金属器・石製品・香辛料・木製品・紫檀原木などが満載された状態で発見されました。
荷札である木簡から、この船が京都東福寺を荷主とした造営料唐船で、1323年(元・至治3年)6月慶元(中国浙江省寧波)から日本の博多に向かう途中沈没した交易船であったことが判りました。(※皇室勅願寺なので独自貿易の許可が得やすかった)
中国の文化は隋・唐の昔から日本人のあこがれの的であり、南宋の文化の中心であった江南地域からもたらされる文物はまさに垂涎の品々でした。
造営料唐船とは、寺社の修造費を得るため、朝廷や幕府の許可を得て商人に請け負わせ、中国に派遣された貿易船で、一度の航海で百倍の利益が上がったといわれています。
重要な交易品であった陶磁器と銭は側面に「大吉」と書かれた木箱に詰められ運ばれていました。 |
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韓国新安海底沈没船の箱荷
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沈没船復元図 |
沈没船船体 |
上に記述 |
大吉銘荷箱 |
上に記述 |
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上に記述 |
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295弥生時代の埋葬祭祀
弥生時代の埋葬祭祀 |
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※甕棺を埋葬した墓地の外に置かれた、
高脚の筒形器台。一対。
共献物を置いたのか、燈明を立てたのか、
その後、墓地の入口に大甕が置かれるようになったが、それとは目的がちがうようだ。
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297鴻臚館の時代 (奈良時代7c~平安時代11c後半まで置かれた対外施設)
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鴻臚館は平安時代、平安京・難波・筑紫の三か所に置かれた外交施設で、現在の迎賓館にあたります。
昭和62年に平和台球場外野席改修工事で初めてその存在が明らかになりました。
飛鳥・奈良時代には筑紫館(つくしのむろつみ・つくしのたち)と呼ばれ、当時の遺構が確認されています。
鴻臚館では国の管理のもと、政府主導で貴重な「唐物」の貿易が行われていました。
その後、博多に拠点が移り、有力領主の私貿易へと主体が移りました。 |
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平安時代の鴻臚館全景 |
鴻臚館想像復元図 |
西街道の駅?
多々良込田遺跡 |
太宰府鴻臚館の御厨
(厨房)海の中道遺跡 |
中国製陶磁器
鴻臚館出土 |
上に記述 |
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300 |
令和2年度福岡市埋蔵文化財センター
300企画展「発掘されたふくおか2020」
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301
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310縄文時代
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311中村町遺跡
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中村町遺跡は福岡市南区野間3,4丁目、若久1丁目にかけて所在し、片縄山から北側に派生する丘陵端部に立地する、縄文~奈良時代の遺跡です。
遺跡の北端に位置する2017年調査の第7次地点では縄文時代の河川が発見され、縄文時代前期の轟B式土器や曽畑式土器、石器がまとまって出土しました。
轟B式土器は熊本県宇土市の轟貝塚で発見された土器に由来します。ミミズ腫れ状の細い粘土紐を貼り付け幾何学文様を描いています。
※縄文前期初め頃、九州地方を中心に西中国、山陰地方にまで分布する。
曽畑式土器は轟B式の後の時代の物で、熊本県宇土市の曽畑貝塚で発見された土器に由来します。沈線で幾何学文様を描いています。
※縄文前期中頃、九州地方を中心に朝鮮半島南海岸~沖縄、西中国にまで分布した
※いずれも半島系の土器である。この頃、多数の半島人が大量に渡来し、沖縄まで進出した。この時、沖縄の縄文人が混血となった。 |
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縄文時代 |
縄文時代 |
中村町遺跡 |
中村遺跡地形復元図 |
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312縄文土器・石器 中村遺跡
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石皿 |
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磨製石斧 |
打製石器
石匙、スクレイパー |
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条痕文土器
・中央の土器片に幅広の貝殻条痕文が見ゆる。
・左は細粘土紐のうねった轟B式で
・右も粘土紐貼り付けの幾何学文様が見える |
轟B式土器
ミミズ腫れ状の細い粘土紐を貼り付け幾何学文様、は見えない |
曽畑式土器
深い沈線による文様が見える |
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320弥生時代
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321 山王遺跡
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山王遺跡は御笠川と那珂川にはさまれた洪積台地上に位置しています。
この台地上には弥生時代の重要な遺跡である板付遺跡や那珂遺跡群・比恵遺跡群などが連なっています。
山王遺跡は比恵遺跡群の東側に接し、那珂遺跡群と共に一体の大遺跡群を構成しています。
2017年の12次調査では弥生時代の竪穴住居や井戸、古墳時代後期から平安時代にかけての溝などが発見されました。
弥生時代後期の井戸SE11からはほぼ完形の壺や甕が6点出土しました。井戸廃棄祭祀で投げ込まれたものと考えられます。
また、ピットSP154からは銅戈の鋳型が出土しました。砥石に転用され、磨り減っています。黒変しており、実際に鋳造に使用されています。 |
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323銅戈鋳型
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325井戸出土弥生土器
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330古墳時代
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331姪浜遺跡
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姪浜遺跡は西区姪の浜3・6丁目周辺に広がる遺跡で、名柄川右岸の砂丘上に位置します。これまでの調査で弥生時代の集落や甕棺墓などが発見されています。
2017年の6次調査でも11基の甕棺墓が発見され、集団墓地の広がりが確認されました。
また、幅7~7.5mの屈曲した溝が発見され、この溝の出土遺物を整理している段階で壺形埴輪が含まれていることが判明しました。
少なくともと7個体存在しており、、南区老司に所在する前方後円墳「老司古墳」出土の壺形埴輪と形態が類似しています。
老司古墳は4世紀末~5世紀初めの築造と考えられており、姪浜にも同時期の古墳が存在することが明らかになりました。 |
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銘浜遺跡 |
遺跡位置図 |
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銘浜遺跡 |
老司古墳
壺形埴輪
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332
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333居尻B遺跡
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居尻B遺跡は西鉄天神大牟田線居尻駅周辺、諸岡川と那珂川に挟まれた須玖丘陵扇端部に位置します。
2020年1~3月に地禄神社北西側で調査した45次調では、弥生時代から古墳時代までの他竪穴住居、掘立柱建物のほか、これまで知られていなかった古墳が発見されました。
居尻B遺跡では1986年に地禄神社南東で「居尻B1号墳」が調査されています。
今回発見された「居尻B2号墳」は漢゛゜んに削平されていましたが周溝が残り、約25mの円墳に復元されています。
周溝からは須恵器、土師器片のほか、多数の埴輪片が出土しました。
埴輪は円筒埴輪、朝顔形埴輪のほか家形埴輪、盾形埴輪といった形象埴輪が出土しています。
埴輪の型式から1号墳よりやや新しい5世紀後半の古墳と考えられます。 |
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居尻B遺跡 |
居尻B遺跡古墳位置図 |
居尻B2号墳
埴輪出土状況 |
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334
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336雀居遺跡 トンボ玉 ※福岡空港の遺跡 中国産ガラス玉
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雀居遺跡は御笠川東岸、標高5m前後の沖積平野に立地しており、これまで弥生時代から平安時代までの遺跡が調査されています。
福岡空港内西側、国際線ターミナル南側で行われた18時調査では古墳時代前期のガラス製のトンボ玉が出土しました。
青紺色の地に白と緑の同心円の文様が配置されています。化学分析の結果「鉛バリウムガラス」という種類のガラスということが判明しました。
「鉛バリウムガラス」は中国の戦国時代から漢代にかけて、中国で製作されたもので、日本には弥生時代前期後半から古墳時代初頭頃まで流通するとされています。 |
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雀居遺跡
上に記述甕棺 |
トンボ玉の顕微鏡写真 |
トンボ玉
古墳時代
雀居遺跡(博多区)
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338人骨 飯氏古墳群P群の3体の頭骨
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第1号主体
B号人骨頭蓋骨
飯氏古墳群P-1号墳 |
第1号主体
C号人骨頭蓋骨
飯氏古墳群P-1号墳 |
第1号主体
A号人骨頭蓋骨
飯氏古墳群P-1号墳 |
3つの人骨は同一古墳から出土したものです。
首だけを葬ったのではなく、赤色顔料が塗られているので、貴人の頭骨であり、追葬が行われたことを示している。 |
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340飯氏古墳群P群
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飯氏古墳群P群は高祖山西山麓の尾根上に存在する3基の古墳群で、尾根の先端から1号墳、2号墳、3号墳と名付けられています。
2016の調査で、3号墳が5世紀前葉頃、2号墳が5世紀中頃、1号墳が5世紀後葉頃に位置づけられ、尾根の高所から順に築造されていることが分かりました。
1号墳は2基の埋葬主体部が確認されました。その内、第1主体部は蓋石が残る組合式箱式石棺で、内面には赤色顔料が塗布されていました。
内部には3体の人骨が埋葬されて居ました。
南頭位のA号人骨(西側)、B号人骨(東側)と北頭位のC号人骨です。
人骨の観察からA号人骨は60代以上の老年男性、B号人骨は20~30代成年女性、C号人骨は40~50台の熟年女性と推定されました。
古墳以外にも弥生時代中期頃の竪穴住居や土坑が発見され、荒谷「千里大久保遺跡」という名称で登録されました。 |
飯氏古墳群P群 |
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飯氏古墳群P群
千里大久保遺跡 |
1号墳
第1主体(下)
第2主体(上) |
第1主体人骨埋葬状況
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350古代
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名子遺跡は多々良川支流の猪野川が形成した沖積地上に立地し、これまで縄文時代から古墳時代を中心とする集落が調査されています。
遺跡の北端に位置する2020年の5次調査では、2200㎡が調査され、古墳時代後期の竪穴住居28棟、掘立柱建物3棟以上のほか
奈良時代の溝などが検出されました。
本調査区は大和と大宰府を結ぶ古代西海道の推定線上にあり、検出した奈良時代の溝はその道路側溝の可能性があります。 |
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351名子遺跡
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名子遺跡 |
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名子遺跡と5次調査 |
奈良時代の溝から
出土した土器
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名子遺跡全景 |
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353須恵器
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360中世
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361博多遺跡群
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博多遺跡は博多駅の北西側、東は御笠川、西は那珂川に挟まれた東西800m南北1200mの範囲に広がる弥生時代から江戸時代までの遺跡群です。
現在まで250地点以上の調査が行われています。
鴻臚館に変わる対外貿易拠点として11世紀後半から繁栄し、輸入された陶磁器の出土量は膨大な量になります。
2017年9月に出土品の内、2138点が重要文化財に指定されましたが、近年の調査でも重要な出土品が相次いでいます。
祇園町の萬行寺境内で 行われた210次調査では12世紀後半の青磁碗が9枚重なった状態で出土しました。
中国浙江省の龍泉窯で焼かれたもので内面にヘラで蓮華文が描かれています。
店屋町の大博通り沿いで行われた229次調査では双層碗という珍しい青磁が完全な形で出土しました。
これも12世紀後半、龍泉窯の製品で やや大きめの碗の上に皿が重なっているものです。
この碗は中国で「諸葛碗」や「孔明碗」と呼ばれ、真偽は不明ですが、体の弱かった諸葛孔明がそれを悟られまいと食べ物を山盛りに見えるように工夫した碗であるとされています。
そのことから、盛ったものを多く見せるお供え用の容器という説があります。
また、「暖碗」とも呼ばれ、底に開いた穴に熱湯を入れ栓をして、保温した碗であるとも言われています。 |
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326青磁双層碗
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370中世箱崎遺跡
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箱崎遺跡は筥崎宮(はこざきぐう)周辺、東西400m南北2000mの範囲に広がる遺跡です。
筥崎宮が創建された10世紀以降、門前町として発展し、博多と同じように対外交易の窓口として繁栄しました。これまで100ヶ所以上の調査が行われています。
2015年に調査した77次地点では土坑から100枚以上の銅銭が出土しました。中には孔に紐を通した痕跡がある銭が30枚連なったままの緡銭(さしぜに)状態で発見されています。一番新しい銭が1260年初鋳なので13世紀後半以降に埋まったものと判断されます。
また、ここでは両端部が環状になっている火打金が出土しています。蒙古襲来時、沈没した元軍の船が発見された長崎県松浦市の鷹島神崎遺跡からも見つかっており、元軍が持ち込んだものと物と考えられます。
2017年に調査した84次地点では「薩摩塔」と呼ばれる石塔が出土しました。鹿児島県で多く見られる石塔なので「薩摩塔」と名付けられましたが、近年の調査で西九州に多く分布していることが判りました。
久山町の首羅山にも祀られています。これらの「薩摩塔」は11世紀後半以降の入宋貿易で中国商人によりもたらされたと考えられています。
※薩摩塔は日本に住んでいた中国商人の供養塔だと言われています。中国から輸入した石材に中国の須弥山をあらわした石造彫刻がなされている。
つまり、この塔が多いところには中国商人が沢山住んでいたところとなります。薩摩と、西九州
鹿児島の博物館で「サツマトウ」を聞いたら二階にある「薩摩刀」を教えました。「薩摩塔」はありませんでした。 |
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371
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373
薩摩塔
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宋銭
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土壙出土銅銭
さし銭 |
ひうちがね
元軍が持ち込んだ |
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380中世福岡城下町遺跡
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福岡藩主黒田氏の居城、福岡城の周囲には城下町が形成されました。その中で藩の役所や大名、上中級家臣の屋敷が集中する福岡城の北側を「福岡城下町遺跡」として登録しています。
2014~15の第1次調査が赤坂1丁目で行われました。調査地点は三奈木黒田家、久野家、斎藤家といった上級家臣が代々屋敷を配利用していましたが、18118年には福岡城内にあった郡役所が移転してきたことを記した資料が残っています。
調査では残された郡役所建物の図面の通りの位置で礎石が出土した他、
上級家臣の屋敷らしく、志野、織部といった茶陶や中国から輸入した焼き物、
日本各地の焼き物が出土し、江戸時代の福岡城下町の様子が明らかになっています。 |
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381
中世福岡城下町遺跡 |
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中世福岡城下町遺跡 |
福岡城と城下町遺跡の位置
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福岡城下町遺跡
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郡役所建物配置と第一面検出礎石配置図
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383
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織部、初期京焼
志野、瀬戸・美濃
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中国陶磁器
景徳鎮
宣興窯・漳州窯
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有田・肥前・備前・高取 |
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