西日本の縄文 19-1 2015.11.27 岡山県立博物館 2 岡山市 北区後楽園1-5 086-272-1149 月曜休館 ※季節で開館時間が違う 常設展は撮影禁止 発掘された日本列島2015 特別展 "邪馬台国と吉備"
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弥生時代 |
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09楯築墳丘墓 楯築神社 倉敷市矢部 弥生時代後期 (2世紀後半〜3世紀前半) の首長の墳丘墓。墳丘から壺形土器、特殊器台・特殊壺の破片が出土。 直径約43m、高さ4.5mの不整円形の主丘に北東・南西側にそれぞれ方形の突出部を持ち、現在確認されている突出部両端の全長は72m。 同時期の弥生墳丘墓としては日本最大級である。 転載Wikipedia楯築墳丘墓 特徴的は、 旋帯文石、巨石の配石、特殊器台、特殊壺、双方中円墳。最大長72mで当時最大の墳墓。 |
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10旋帯文石
旋帯文石(せんたいもんせき)
弧帯文石
楯築弥生墳丘墓
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12邪馬台国への道
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14吉備のコメ作り※1
吉備の塩づくり※2
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16倭国大乱
※弥生時代の武器・武具 サヌカイト製の石剣・大型石鏃。紐で補強した木製楯。木片 (小札=こざね) をひもで繋いだ甲冑。甲冑の表面に黒漆を塗る。(目立たなくするため) 戈(か)の柄やこん棒は装飾され、祭りや儀式で使用したかも。 このような原始的な武器武具が果たして、略奪・強盗集団に対して有効だったとは思えない。 それよりも、平和だった列島に突如巻き起こった 戦乱で、あわてて武器のようなおもちゃを作ってみたという程度の防御。 農民集団にはそれが精いっぱいだったかもしれない。 敵は、長い春秋戦国の戦乱で職業軍人と化した戦争のプロ。そんな殺戮強盗集団や、近隣国の武装侵略農民。 きっと、弥生人の開拓の成功に、あとからあとから様々な半島人がやって来てのでしょう。農奴。武装王族。逃亡兵士。山賊。強盗。なんぞ、、、 中には、青谷上寺地遺跡のように、前住民を逆殺して集落のどぶに投げ込み、集落に火をかけ燃え残り家財も一緒に投げ捨てて、何食わぬ顔をして 入れ替わった者たちもいたようだ。 (そうそう、そういえば、かつて政府が国際化国際化とわめいて社会に変化を起こさせたとき、最初にやってきたのは 近隣諸国の、殺人者・スリ集団・強盗・空き巣・などなどの犯罪者だった。今だにその時の捜査が続いている。同じことだ。) |
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18吉備の中枢 岡山平野西部の足守川流域に竪穴住居が密集する拠点的大規模集落が集中し、金属器や特殊祭祀遺物などが多数出土する。 また、港湾施設遺構や、周辺丘陵上には楯築遺跡など有力者の墳墓が存在するため、一帯が吉備の中枢だったと考えられる。
まとめ 強大な権力と豊かな経済力に支えられた吉備の中枢では、様々な高い文化が花開いた。その文化は古墳文化の一部となった。 |
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20吉備の遺跡群
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22各地との交流 |
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24吉備のマツリ ※1絵画土器 (弧帯文・撥形文) 弧帯文は、数条の平行線からなる帯状文様が弧を描いて複雑に絡み合いながら展開するもので、 吉備で発達した葬送儀礼を象徴する 呪術的文様です。 その初現は、楯築遺跡遺跡の旋帯文石(弧帯石)と考えられ、特に特殊器台や供献土器などの祭祀土器に描かれました。 霊魂の封印や結束、継承を意味すると言われ、王権を象徴する龍のひょうげんとする説もあります。 撥形文は、弧帯文の端部にみられる撥形に開いた文様で、弧帯文と組み合う場合と単独で描かれる場合があります。 弧帯文は二匹の龍が絡み合う様子を表現したとも言われます。 ※2絵画土器 (人体・人面) 数少ない絵画土器の中でも、人面や人体を表現したものは特に珍しく、 弥生時代には人間を具体的な形に表すことが特別な行為だったと みられます。 そのためか、絵画土器に描かれた人間は、異形の姿のものが多く見られます。 新庄尾上遺跡出土品には頭に嘴くちばしと鶏冠とさかをつけて両手を広げた鳥装の人物が描かれています。 鹿田遺跡・上東遺跡・一倉遺跡出土品には、いずれも顔面に弧状の入れ墨をした、いわゆる黥面が描かれており、特別な立場の人物と 考えられます。 ※3小銅鐸・銅鐸形土製品 銅鐸を模した小型銅・土製品です。 本式の銅鐸が集落全体を対象とした集団でのマツリで使われた共同所有のものであるのに対し、銅鐸形銅・土製品は、より個別の事柄を 対象にした マツリで使われた、つまり、個人所有の個人信仰用のものと考えられます。 岡山県内では十数例ほど出土しており、忠実に模したものから簡略化されたものまで様々です。 不思議なことに、本式の銅鐸が吉備で使われなくなる弥生時代後期のものが多く、銅鐸信仰が個人レベルでは根強く残っていたことが 伺えます。 きっと、隠れキリシタンや、隠れ念仏のように、隠れ銅鐸・隠れ銅剣銅矛の信仰があったのでしょう。 こういった青銅器信仰を捨てさせ、地域の大王を信仰するように強制されたのでしょう。 |
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古墳時代へ |
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特殊器台から埴輪へ※1 特殊器台は吉備で生み出された大型の土器で、主に首長の墳墓で行われたマツリで用いられた祭器と考えられています。 円筒形の器形の外面を突帯で区画し、弧帯文を中心に様々な文様で飾り、巴形や三角形の透孔(すかしあな)が開けられ、赤彩色されています。 特殊器台の分布は、吉備を中心に、出雲・大和とその雌雄片に限られ、これらの地域間祭器を共有する密接な関係があったことが伺えます。 特殊器台は、特殊器台型埴輪を経て、古墳時代に立て並べる円筒埴輪に変化したと考えられており、 大和で成立した古墳と言う新たな墓制に、吉備のマツリが取り入れられたことを物語っています。 特殊器台・特殊壺・特殊器台型埴輪※2 参考 Wikipedia 特殊器台は、「立坂型→向木見型→宮山型」へと変化し、「都月型」と呼ばれる特殊器台型埴輪を経て、円筒埴輪になったと考えられています。 変化の特徴として形態では器高の小型化、脚部と口縁部の縮小、文様帯の拡大などがあげられます。 文様では、縦方向の分割型から横方向の連続型へ変わり、弧帯文は次第に簡略化されて、特殊器台形埴輪では蕨手文と呼ばれるものになります。 円筒埴輪になると基本的に無文になりますが、透孔や突帯に特殊器台のなごりが見られます。 26古墳時代の始まり※3 古墳時代最古の箸墓古墳(全長280m)の大型前方後円墳で、後円部から吉備に由来する特殊器台・特殊壺・特殊器台型埴輪が発見されています。 一方、吉備最古の浦間茶臼山古墳は(全長140m)箸墓古墳の平面形の2分の1に縮小したとみられ、初期古墳としては、畿内以外で最大でした。 この二つの初期古墳のあり方から、畿内のヤマト王権を中心とする政治体制の確立に、吉備勢力が関わり、 政権内部で重要な役割を果たしたことが伺えます。 |
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28吉備の墓制 |
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30吉備の王墓 楯築遺跡は、弥生後期の吉備の発展を象徴する遺跡です。 当時の国内最大(全長80m)の墳丘規模。円丘の両側に方形の突出部を設けた独自な墳形。立石と列石による特異な外観。 排水溝を備えた木槨に木棺を納めた中心埋葬施設。棺底に敷かれた32kgを越える朱。 旋帯文石(弧帯石)・特殊器台・祭祀遺物等による葬送儀礼。 それまでの弥生墳墓とは隔絶した画期的な内容を持っていました。 被葬者は吉備を代表する大首長(王)と考えられる。 その次世代の首長墓が鯉喰神社墳丘墓(倉敷市)や宮山墳墓群(総社市)とみられます。 |