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  西日本の縄文  19-1    2015.11.27

   岡山県立博物館 2  岡山市 北区後楽園1-5 086-272-1149   月曜休館 ※季節で開館時間が違う 常設展は撮影禁止

  発掘された日本列島2015

   特別展 "邪馬台国と吉備"

趣旨 文化庁の ゛発掘された日本列島2015゛ に合わせて行われた "テーマ展" 邪馬台国時代の吉備地方の遺物展です。
     
交通 岡山駅東口バスターミナル  1番乗り場 藤原団地行き。後楽園前下車。
     
見所 吉備地方特有の弥生、古墳期の遺物。 旋帯文石(弧帯文石)、特殊器台、装飾器台、弥生の武器、S字彩文土器。
これまで語られてこなかった、弥生時代の権力者の成立や墳墓信仰の強制の様子。銅鐸銅剣が消えたわけが分かった。
     
感想 何処の博物館でしている、単に並べられた弥生遺物を見ても、弥生時代の実態はわからない。しかし、
ここで語られている内容は、弥生時代の人々の姿をくっきりと浮かび上がらせて、よくわかった。 この展示がもう見られないのは誠に残念です。
     
追記 2016.05.28 双方中円墳の分布と意味を追記しました。



次 

弥生時代
09楯築墳丘墓 楯築神社
 弥生時代後期の祭祀の地域性
 双方中円墳の分布と意味
10旋帯文石
 旋帯文石(せんたいもんせき)
 弧帯文石
 楯築弥生墳丘墓

12邪馬台国への道

14吉備のコメ作り
 吉備の塩づくり

16倭国大乱
 弥生時代の武器・武具
18吉備の中枢
 まとめ-吉備の文化
20吉備の遺跡群
22各地との交流
24吉備のマツリ
 絵画土器 (弧帯文・撥形文)
 絵画土器 (人体・人面)
 小銅鐸・銅鐸形土製品

古墳時代
 特殊器台から埴輪へ
 特殊器台・特殊壺・特殊器台型埴輪
26古墳時代の始まり

28吉備の墓制

30吉備の王墓



 弥生時代

 09楯築墳丘墓 楯築神社 倉敷市矢部 

    弥生時代後期 (2世紀後半〜3世紀前半) の首長の墳丘墓。墳丘から壺形土器、特殊器台・特殊壺の破片が出土。
    直径約43m、高さ4.5mの不整円形の主丘に北東・南西側にそれぞれ方形の突出部を持ち、現在確認されている突出部両端の全長は72m
    同時期の弥生墳丘墓としては日本最大級である。           転載Wikipedia楯築墳丘墓

   特徴的は、 旋帯文石、巨石の配石、特殊器台、特殊壺、双方中円墳。最大長72mで当時最大の墳墓。

弥生後期・吉備の大王の墳丘墓です。 墳丘上や周囲に今よりもたくさんの巨石を配置し、その中心に呪術模様を彫りつけた不思議な石、旋帯文石を置き、大王の霊を封じ込めていました。 最初は大王墓として崇拝・信仰の対象となり、 やがて時間が経ちその意味が分からなくなると、信仰の対象=神社として存在しました。 国内にはこのような形の神社が沢山あり、古墳や遺跡を守っています。
 借用楯築遺跡 借用纒向遺跡とは? その調査と研究成果が示す全体像  借用倉敷観光WEB   借用楯築遺跡    借用楯築遺跡  借用楯築遺跡 
弥生時代後期の祭祀の地域性
双方中円墳
追加記述 2016.5.28(土) 


この形式の墳墓は双方中円墳と呼ぶことが判りました。
 Wikipedia双方中円墳
 奈良県櫛山古墳
 高松市石清尾山古墳群
 高松市稲荷山北端1号墳or発掘報告
 奈良県櫛山古墳は大王墓に隣接している。吉備出身の大和政権の高級幹部か、崇神天皇との親密な関係者の墓だろうか。
 吉備が天皇家に強固な姻戚関係等を持っていたとみえる。

 高松市付近も吉備の勢力範囲であったため、同一墳丘形式だったと思われる
すると、吉備一族の分家が支配していたことになる。
 引用
弥生の祭祀から見えてくる
近畿政権 - 野洲川下流域の弥生遺跡 - 伊勢遺跡




 10旋帯文石
邪馬台国と吉備 楯築遺跡 Wikipedia墳丘上に祀られる巨石。弧帯石ともいう。 呪術的な弧帯文が全面に彫刻され、側面には人面が彫刻され ている。 偉大な首長の霊威を封印したものといわれている。 弥生時代の造形物として、他に例のない 吉備独自の精神世界の象徴的存在。

 旋帯文石(せんたいもんせき)
楯築神社の御神体であるこの石は,その形や表面に彫られた文様から亀石とも呼ばれています。その大きさは縦横約90cm大です。

石の表面には全面に特殊な帯状曲線入組文様(旋帯文)が飾られ,正面には人間の顔のような彫り込みがみられます。
遺物の呪術的性格を物語るこの特異な文様は,弥生時代から古墳時代への移行期に首長の墓に供えられた特殊器台にみられるものと類似しています。

また境内にある楯築遺跡の発掘調査では,この石と酷似する小型の石製品が弥生土器等と一緒に出土しています。


 弧帯文石
楯築墳丘墓の「亀石」とも呼ばれる弧帯文石、左画像の右端に顔らしきモチーフがある他は、全面渦巻く弧帯文と、峰状の浮彫を穿った穴で覆われている

 楯築弥生墳丘墓
  
倉敷市域北東の王墓山丘陵の北端、楯築神社の境内を中心とする弥生時代後期の墳丘墓です。

自然地形を利用し盛り土を行って整えられて墳丘の規模は、現在知られている弥生時代の墳丘墓としては最大級です。
円丘部は径約50m、高さ5m。墳丘頂部には5個の巨石が立っており、墳丘斜面には円礫帯がめぐっています。

内部は、朱の敷き詰められた棺とそれを納めた木製の槨の痕跡があり、鉄剣と大量のガラス小玉、土製の勾玉などもみつかりました。




 12邪馬台国への道
※1 邪馬台国弥生時代終末期〜古墳時代初頭3世紀を中心とする時期である。
※2 吉備は弥生時代に形成された、日本列島有数の地域勢力であった。

※3 魏志倭人伝には、邪馬台国が魏の敵国の背後にあるように思わせるため、意図して行程方角を偽装したと考えられている。

邪馬台国と吉備※1※1 邪馬台国への道のり※2 魏志倭人伝の行程※3 邪馬台国時代の吉備の主要遺跡 邪馬台国時代の吉備の土器 吉備型甕
岡山平野南部は、吉備の穴海と呼ばれた。当時まだ陸化してなく、入り組んだ湾だった 邪馬台国の時代年表 倭国王師升は、2世紀初頭107年に後漢へ行き、生口160人を献上。どう運んだか。大船団で!

膨大な数の兵士や準構造船が必要だったはず。

魏志倭人伝に弥生人が全身入れ墨? どんな民族だったのか 引用Wiki帥升 縄文人ならわかるが。本当かな?
邪馬台国は卑弥呼以前から、倭国の地方国家であった。

 卑弥呼共立2世紀後半
卑弥呼死亡3世紀中頃。
当時としては凄く長生きした人でしょう。60〜70以上
卑弥呼は共立されるまでに、鬼道(道教)の呪術を習得していたのだから、

職に就いた時には、ある程度年を食っていたと思われる。
で、各地から、鬼道の祭祀跡を意味する桃の種が出土するが、
 いったいどこに祭祀学校があったのだろうか。

 やはり北方系民族のシャマンの家系で親から子への伝承だったのか。なれば、幼くしてできたかも


 14吉備のコメ作り※1
吉備の繁栄の源はコメ交易にある。生産したコメを半島に運んで富を得ることです。米作りは飢えをしのぐものでなく食糧は稗・アワの雑穀。
つまり、稲作農業の導入は、食糧危機にあえぐ縄文人を救ったのではなく、それに伴って生産された雑穀で、稲作の富は王のものだった。

米は食糧ではなく交易作物に過ぎなかった。おそらく彼ら農奴には一粒も与えられなかっただろう。

  吉備の塩づくり※2
吉備の発展を支えたもう一つが塩づくりだった。製塩業は昭和30年代まで瀬戸内の主な産業だった。2000年も続いた産業だったんだ。

塩づくりは一般に藻塩製法が知られているが、当時の吉備では、素焼きの土器で海水を煮たてる方法がとられてきた。
そのため、割れにくく、海水が注ぎ易い形が工夫された。

吉備の米作り※1
百間川遺蹟群で水田が
開削され続ける。水路・井堰などの灌漑施設から高度な農業技術が判明 弥生後期には、鉄製刃先の農具出現。生産力が向上した。
水田と水路
打製石包丁・鉄製摘鎌・炭化米・代掻きではなく
馬鍬(まんが・まぐわ)
牛鍬(うしんが)という農耕具
農耕と収穫具後期。二又鍬は吉備考案の鋤・鍬両用/鉄製鍬先・打製石包丁や鉄製摘鎌
反柄・鋤・鉄製刃先

弥生中期に児島で土器製塩が始まる。吉備が生産の中心であった交易品である。
吉備の塩づくり※2 製塩炉/原尾島遺跡
弥生中・後期の土器製塩 製塩土器 海水を注ぎ易く直火に割れない形。 脚付き製塩土器


 16倭国大乱
弥生中期〜後期に、
集落から、対人用大型石鏃・木製甲冑・盾等の武器・武具が出土する。
弥生の人々が開墾した土地や稲作交易で得た財産の略奪・殺戮が起こり、土地の支配権、 領土奪取等の戦争が常態化した。

ために、集落は山稜などの高い所や、村の周りに何重もの柵や堀を巡らして防衛するようになった。

しかし、吉備中心部では、軍事力が高く、環濠集落や高地性集落は発達しなかった。
だが、周辺部では激しく起こっており、領土拡張者のハイエナの一団に吉備王国も入っていたのかも知れない。


再現された弥生の武装農民。貧弱な武装で対抗 環濠集落と高地性集落列島中に山賊・強盗・野武士・追剥・泥棒が横行 木製小札(こざね)、木製盾、突き刺さった石鏃
こざねを束ねて鎧にした。
こんなもので鏃が止められたら奇跡だ。
弥生時代の武器・武具 戈(か)の柄 こん棒 打製石剣・石鏃・大型石鏃

 弥生時代の武器・武具
   サヌカイト製の石剣・大型石鏃。紐で補強した木製楯。木片 (小札=こざね) をひもで繋いだ甲冑。甲冑の表面に黒漆を塗る。(目立たなくするため)
   戈(か)の柄やこん棒は装飾され、祭りや儀式で使用したかも。

   このような原始的な武器武具が果たして、略奪・強盗集団に対して有効だったとは思えない。 それよりも、平和だった列島に突如巻き起こった
   戦乱で、あわてて武器のようなおもちゃを作ってみたという程度の防御。 農民集団にはそれが精いっぱいだったかもしれない。

   敵は、長い春秋戦国の戦乱で職業軍人と化した戦争のプロ。そんな殺戮強盗集団や、近隣国の武装侵略農民。
   きっと、弥生人の開拓の成功に、あとからあとから様々な半島人がやって来てのでしょう。農奴。武装王族。逃亡兵士。山賊。強盗。なんぞ、、、

   中には、青谷上寺地遺跡のように、前住民を逆殺して集落のどぶに投げ込み、集落に火をかけ燃え残り家財も一緒に投げ捨てて、何食わぬ顔をして
   入れ替わった者たちもいたようだ。

     (そうそう、そういえば、かつて政府が国際化国際化とわめいて社会に変化を起こさせたとき、最初にやってきたのは
      近隣諸国の、殺人者・スリ集団・強盗・空き巣・などなどの犯罪者だった。今だにその時の捜査が続いている。同じことだ。)




 18吉備の中枢
        岡山平野西部の足守川流域に竪穴住居が密集する拠点的大規模集落が集中し、金属器特殊祭祀遺物などが多数出土する。
        また、港湾施設遺構や、周辺丘陵上には楯築遺跡など有力者の墳墓が存在するため、一帯が吉備の中枢だったと考えられる。

津島遺跡 弥生前期水田と集落跡が一緒に見つかった 邪馬台国時代の中心的集落遺跡。 高床建物、農耕具、など大量の木製品が出土 装飾器台・特殊器台
津島遺跡の装飾器台
 蹴放=門・戸口の扉の下にあって内外を仕切る、溝のない敷居
写真
この時代に既に立派な邸宅があったということです
津島遺跡出土品高床建物の一部の柱・板材・梯子/両面弧帯文の装飾板/大型装飾器台/
向木見型特殊器台
装飾板 この模様から何が見えてくるのだろうか。復元されていない 高床建物 百間川遺跡群 岡山平野東部の人工河川
河川敷に広がる遺跡群
各時代の土地利用の変遷が捉えられる。
 各集落における農耕祭祀のあり方や、様々な生産活動の実態が明らかにされた。

   まとめ 強大な権力と豊かな経済力に支えられた吉備の中枢では、様々な高い文化が花開いた。その文化は古墳文化の一部となった。




 20吉備の遺跡群
百間川遺跡群出土品祭祀用特殊土器/
彩色壺と器台/
S字は龍のことです

彩文土器
参考薩摩隼人の楯

彩文土器

装飾壺

装飾高坏
上東遺跡
岡山平野東部河川
弥生後期の港湾施設から外来製品が出土
祭祀遺物から吉備中枢域の海の玄関口だった
上東遺跡出土品穴を開けた壺土器棺 ミニチュア土器・骨鏃・卜骨・漆容器・桃核 上東遺跡の港湾施設 足守川遺跡群 岡山平野西部・大規模集落集中 特殊な金属器・外来製品。吉備中枢域 特殊器台に弧帯文
呪詛の力を持つ模様
参考
櫛歯文鏡・有鉤銅釧・蕨手状渦文鏡・銅釧 足守川遺跡群出土品司祭者の所持品・ 銅製品は青銅器の原料として輸入し鋳潰して他製品に加工。鉄器も生産した。 貨泉

おそらく貨幣としてではなく、青銅製品の原料として輸入したと思います
棒状銅製品・銅鐸片 銅鏃・未成品 鉄片・金床石(かなとこ、鍛冶屋の必需品)


 22各地との交流
各地との交流 吉備は瀬戸内航路の中継点。通行税を取っていたかも 外来系土器は持ち込み品と、吉備で作ったものもあった 南九州・東九州・吉備・山陰・四国・畿内の土器 四国系・畿内系土器 近江系手焙形土器・北陸系装飾器台・
東海系高坏・
東海系台付き鉢


 24吉備のマツリ
吉備のマツリ 朱製造の石杵と土器朱は神になる仙薬だった 朱の製道具
・朱付着鉢
・朱付着片口鉢
石杵(朱生産用) 龍形土製品国内唯一。龍神信仰が浸透していた 色が違いますが 同じものです
絵画土器 龍は皇帝の意味だが 半島で意味が変化? あまりよく見えんね
ごめん
高塚遺跡/絵画土器 絵画土器 弧帯文※1 絵画土器/前山遺跡/弥生後期/総社市
上東遺跡/岡山市
前山遺跡・津島遺跡
足守川遺跡 絵画土器 人体・人面※2 県内各所各時代 小銅鐸・銅鐸形土製品※3 九州で個人信仰用小銅鐸が1つ発見さる 抽象的精神の信仰から支配者崇拝は無理 袈裟襷文銅鐸

弥生時代中期

弥生時代中期

弥生時代中期
突線流水文銅鐸弥生時代後期
弥生時代後期初頭
 弥生人の美意識と工芸技術の高さを示す銅鐸です。
 信仰の対象として稲作農耕のマツリで使われたもので、
 本体に流水文、鈕(釣り手)や側面の鰭に鋸歯文が、
 突線で表現されています。
 発掘調査で発見されたため、横にして、鰭を垂直に立てた状態で

、弥生時代後期初頭に埋納されたことが判明しました。

 ※1絵画土器 (弧帯文・撥形文)
     弧帯文は、数条の平行線からなる帯状文様が弧を描いて複雑に絡み合いながら展開するもので、 吉備で発達した葬送儀礼を象徴する
     呪術的文様です。
     その初現は、楯築遺跡遺跡の旋帯文石(弧帯石)と考えられ、特に特殊器台や供献土器などの祭祀土器に描かれました。

     霊魂の封印や結束、継承を意味すると言われ、王権を象徴する龍のひょうげんとする説もあります。
     撥形文は、弧帯文の端部にみられる撥形に開いた文様で、弧帯文と組み合う場合と単独で描かれる場合があります。


     弧帯文は二匹の龍が絡み合う様子を表現したとも言われます。


 ※2絵画土器 (人体・人面)
     数少ない絵画土器の中でも、人面や人体を表現したものは特に珍しく、 弥生時代には人間を具体的な形に表すことが特別な行為だったと
     みられます。
     そのためか、絵画土器に描かれた人間は、異形の姿のものが多く見られます。 

      新庄尾上遺跡出土品には頭に嘴くちばしと鶏冠とさかをつけて両手を広げた鳥装の人物が描かれています。
      鹿田遺跡・上東遺跡・一倉遺跡出土品には、いずれも顔面に弧状の入れ墨をした、いわゆる黥面が描かれており、特別な立場の人物と
      考えられます。

 ※3小銅鐸・銅鐸形土製品
      銅鐸を模した小型銅・土製品です。

      本式の銅鐸が集落全体を対象とした集団でのマツリで使われた共同所有のものであるのに対し、銅鐸形銅・土製品は、より個別の事柄を
      対象にした
      マツリで使われた、つまり、個人所有の個人信仰用のものと考えられます。

      岡山県内では十数例ほど出土しており、忠実に模したものから簡略化されたものまで様々です。
      不思議なことに、本式の銅鐸が吉備で使われなくなる弥生時代後期のものが多く、銅鐸信仰が個人レベルでは根強く残っていたことが
      伺えます。
      きっと、隠れキリシタンや、隠れ念仏のように、隠れ銅鐸・隠れ銅剣銅矛の信仰があったのでしょう。

      こういった青銅器信仰を捨てさせ、地域の大王を信仰するように強制されたのでしょう。



 古墳時代へ

 特殊器台から埴輪へ※1
   特殊器台は吉備で生み出された大型の土器で、主に首長の墳墓で行われたマツリで用いられた祭器と考えられています。

   円筒形の器形の外面を突帯で区画し、弧帯文を中心に様々な文様で飾り、巴形や三角形の透孔(すかしあな)が開けられ、赤彩色されています。
   特殊器台の分布は、吉備を中心に、出雲・大和とその雌雄片に限られ、これらの地域間祭器を共有する密接な関係があったことが伺えます。

   特殊器台は、特殊器台型埴輪を経て、古墳時代に立て並べる円筒埴輪に変化したと考えられており
   大和で成立した古墳と言う新たな墓制に、吉備のマツリが取り入れられたことを物語っています。


 特殊器台・特殊壺・特殊器台型埴輪※2  参考 Wikipedia

   特殊器台は、「立坂型→向木見型→宮山型」へと変化し、「都月型」と呼ばれる特殊器台型埴輪を経て、円筒埴輪になったと考えられています。
   変化の特徴として形態では器高の小型化、脚部と口縁部の縮小、文様帯の拡大などがあげられます。

   文様では、縦方向の分割型から横方向の連続型へ変わり、弧帯文は次第に簡略化されて、特殊器台形埴輪では蕨手文と呼ばれるものになります。
   円筒埴輪になると基本的に無文になりますが、透孔や突帯に特殊器台のなごりが見られます。


 26古墳時代の始まり※3

   古墳時代最古の箸墓古墳(全長280m)の大型前方後円墳で、後円部から吉備に由来する特殊器台・特殊壺・特殊器台型埴輪が発見されています。
   一方、吉備最古の浦間茶臼山古墳は(全長140m)箸墓古墳の平面形の2分の1に縮小したとみられ、初期古墳としては、畿内以外で最大でした。

   この二つの初期古墳のあり方から、畿内のヤマト王権を中心とする政治体制の確立に、吉備勢力が関わり、
   政権内部で重要な役割を果たしたことが伺えます。



特殊器台から埴輪へ※1 右から
立坂型→向木見型→宮山形→都月型
特殊器台・特殊壺・特殊器台型埴輪※2 立坂型 向木見型 宮山形
都月型 特殊器台の分布 特殊器台は吉備のシンボル 古墳時代のはじまり※3 浦間茶臼山古墳 浦間茶臼山古墳 出土品
鉄刀 鉄小札 鉄鏃 銅鏃 特殊器台型埴輪 浦間茶臼山古墳

 埋葬施設は竪穴石室で、
盗掘されていたが、
 銅鏡片・銅鏃・鉄刀・鉄鏃・鉄小札など副葬していた。
 
 その構成や埋葬形態は畿内のものと共通しており、関係の強さが伺える。

 また、墳丘からは特殊器台形埴輪が出土している。


 28吉備の墓制
弥生中期後半になると集落から離れた丘陵上に集団墓地が営まれる。 大きさ同じで副葬もなく平等な社会だった。 弥生後期には集団墓に墳丘や列石で区画し独立した個人墓が出現する 特定の墓には副葬品
集団間の格差や集団内部の階層の発生を示す
土器棺前内池遺跡 弥生後期の平等な墓地
土器棺は小児用
土坑は木棺の大人用
日常用土器の転用
みそのお遺跡弥生後期〜古墳初頭
集団墓から、区画を持つ集団墓、区画を持つ個人墓への変遷がわかる
供献土器の多くは高坏で、赤彩のものもあり、墓上での祭りに使われたと考えられる 甫崎天神山遺跡弥生時代後期の集団墓
墓上でのマツリに使用の土器が多数出土した。
供献土器は大型装飾土器の祖型で特殊壺と組み合わせて使用した。 鳥形土製品は死者の霊魂を天に運ぶ鳥を表している


 30吉備の王墓
      楯築遺跡は弥生後期の吉備の発展を象徴する遺跡です。

       当時の国内最大(全長80m)の墳丘規模。円丘の両側に方形の突出部を設けた独自な墳形。立石と列石による特異な外観。
       排水溝を備えた木槨に木棺を納めた中心埋葬施設。棺底に敷かれた32kgを越える朱。
       旋帯文石(弧帯石)・特殊器台・祭祀遺物等による葬送儀礼。

       それまでの弥生墳墓とは隔絶した画期的な内容を持っていました。

       被葬者は吉備を代表する大首長(王)と考えられる。

       その次世代の首長墓が鯉喰神社墳丘墓(倉敷市)や宮山墳墓群(総社市)とみられます。

吉備の王墓 墳丘上の立石・列石 復元想像図と大量の朱 楯築遺跡出土品墳丘中央木槨上部での葬送儀礼に使用した 特殊器台土器・土製品・鉄器が意図的に壊して出土。
あの世送り
特殊器台-立坂型最古木棺内から玉類・鉄剣
特殊壺 弧帯石 鯉喰神社墳丘墓 出土品方形墳丘墓40×32m 弧帯石・高坏・特殊器台
鯉喰神社墳丘墓
宮山墳墓群
宮山墳墓群出土品前方後円墳(全長38m) 飛禽鏡・玉類・鉄鏃・鉄剣・銅鏃 特殊器台