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 縄文を旅する4  南の縄文  沖縄~九州10  2014.02.09(日)


  中種子町立歴史民俗資料館  鹿児島県熊毛郡中種子町野間5173-2  0997-27-2233
  なかたねちょう

交通 種子島航路高速艇トッピー・ロケット鹿児島本港南埠頭 種子・屋久高速旅客ターミナルから 種子島西之表港95分
     
特徴 種子島はフィリピン海プレートが沈み込む際に残った付加体(残渣)でできた島で、火山島ではない。
次々と海洋底の堆積物が集まったもので、高い山もできない。堆積岩あるいは泥岩・砂岩の土壌。
海上独標の屋久島よりも、先史時代遺跡が沢山発掘されています。
     
見所 35,000年前の旧石器時代遺跡・遺構。甕棺
     
     
反省 始発の船で来て、最終の船で屋久島へ立ちます。しかし、ナビがあっても島内の観光地を沢山回ることはできませんでした。
     
感想 始発の船で来て、最終の船で屋久島へ立ちます。しかし、ナビがあっても島内の観光地を沢山回ることはできませんでした。

編集後記  種子島は種子(たね)(しま)で、ヶはかってに付ける読みでした。元の名前に漢字を振ってつけた名前ですね。
     小さくて埃のかぶったような郷土資料館ですが、立切遺跡出土物など素晴らしい展示物がたくさんあります。
     リンク   大隅諸島・トカラ列島




 01入口展示
    一階は民俗資料、二階が歴史資料です。 館内撮影禁止ですが、サインすればOKです。

    入口の丸木舟刳り舟(くりぶね)一本の木をくりぬいてつくった舟。空舟(うつおぶね)。 は、国内の博物館に多く見られる「川船」ではなく、
    外洋航海用です。沖縄県立美術館博物館でも、実際に使われていたものが展示されています。

    この舟は大変優秀で、現在でも、一週間もあれば、沖縄から伊豆まで、また、
    明治時代には、この船でインドネシア辺りまで普通に出稼ぎに出かけていました。
    そういう、高い能力を持つ舟で、旧石器時代からスンダランドで発達した万能交通手段だったのでしょう。

町立歴史民俗資料館 最後の丸木舟写真から外れていますが、帆柱付きです 製作記録櫓(ろ)や櫂(かい)、手漕ぎのオールを使用 舳先一木造の丸木舟は最強の生活手段だった 製作過程の写真 ヤクタネ五葉松
山で荒仕上げ
墨うち・ハツリ
クリボク・測定 文字判別不能
舵に使うものか
舟作りの道具 水汲み(アカ取り)道具
近代的漁具を積み込んだ 日本列島の形成 古生代~新生代 第四紀~完新世 古生代~中生代 中生代~新生代 遺跡年表この年表は大変重要




   旧石器時代~縄文時代

 03立切遺跡
    30,900年以上前の旧石器遺跡~縄文時代    リンク01  02  03  04
   横峯C遺跡とともに我が国の後期旧石器時代のようすを知ることのできる数少ない遺跡です。

立切遺跡の概要 国内最古の生活跡

4点セット石器・礫群・焼土・土坑
一定期間の定住跡
旧石器時代終末期~
縄文時代早期の遺物包含層
姶良カルデラ層~種Ⅳ火山層とそれ以前の旧石器時代遺物包含層 旧石器時代
3万年前の石器(本物)磨製石斧と打製石斧 細石刃・剥片石器 磨石、砥石、台石

かつて旧石器時代に磨製石器はないといわれていた。
立切地区 3万年以前の調理跡旧石器時代の焼き石
調理の痕跡
礫群・調理跡
縄文時代早期の石器石皿・砥石・石核・小型剥片・刃部磨製石斧・大型剥片・石核 焼土遺構ファイヤーピット ナタ状石器出土状況 土坑内遺物 土坑(3万年以前) 同一反復すみません
土坑 台石・敲石 磨石・掻器・くぼみ石 大津保畑地区 遺物出土状況 三角山遺跡竪穴住居縄文遺跡です
同一反復です 日本最古の落し穴 日本最古の落し穴 3万年前の落し穴 フラスコ状土坑貯蔵穴  落し穴の底には、逆茂木が植えてあり、
 貯蔵穴には、植物残渣があり、
 土壙墓の中には、副葬品がある。

  いつもならぼんやりとしか残っていない旧石器人の生活痕跡が、ここでは克明に残っている。まるで、昨日のことのように感じます。

 旧石器時代
   3万年前の日本列島へスンダランドから南西諸島伝いに丸木舟でやってきた人々は、海上独標の屋久島を目指し、種子島にたどり着いた。
   種子島は、動植物に富み、生活しやすい土地だった。また、石器材料にも恵まれていた。
   従って、この島は南から来る人々の中継地点だった。だけではなく、きっと南へ行く人々もいたに違いない。

 最終氷期 (2万年前)
   大隅諸島は九州本土と陸続きとなり、動植物や人の移動・渡来が盛んだったが、そのことは発掘資料に現れていない。

 縄文時代草創期には、
   細石刃文化期の遺物(細石刃)が発見された。石材・技法ともに南九州のもので、九州本土との交流を示すものだった。

   旧石器時代と縄文時代草創期が混然一体としていてすみません。



  縄文時代
   06三角山遺跡  縄文時代草創期~早期 1万2000年前の遺跡  リンク01  02 遺跡出土物は鹿児島県埋蔵文化センターにあるようだ(非公開)
三角山遺跡の展示物 三角山遺跡竪穴住居跡、土器・石器・玦状耳飾り。台湾との密接な繋がりがある
三角山遺跡の土器1

三角山遺跡の土器2

石鏃・石斧
市来式土器・黒曜石屋久島でも粗雑な復元品が返却されています。

市来式土器は3500前に一斉風靡した文化

   こんな列島の端。にもかかわらず、いち早く最先端の土器文化が花開き、人々が定住した。
   やはり、南からの文化が人の移動によって流れ込み続けていたのでしょう。

   磨製石鏃は、種子島で12000年前の縄文草創期。九州本土では1万年前の縄文早期であり、南から文化が伝わったことを証明している。
            引用三角山遺跡調査報告書




 11園田遺跡 1万2000年前縄文草創期   リンク01  02

          北海道からの神子柴型石斧が種子島園田遺跡から発見され、8本の埋納遺跡であった。
園田遺跡草創期の文化層から9本の石槍や磨石・石斧出土 石槍埋納遺構 園田遺跡石槍埋納
遺構A群

これらの石槍は、
中央高地から新潟県にかけて分布する
神子柴型石器

大変良く似ていると思います。
大きく美しく、ただ、折れていて、
出土石槍(本物)
使用の痕跡があります。

   北方系石槍が発見されたことは、南方から北方へ、またその逆に、人々が往来していたことを示している。
   御子柴文化は信州を中心とする文化。安山岩と石槍で検索すると、苗場山麓ジオパークの露頭と石槍出土がヒット。ここからやってきたのか。



 16常牧遺跡  縄文早期遺跡 4000点の土器・石器が出土

土器片と石鏃 復元土器 タッチ土器

 21その他の縄文時代遺跡
縄文時代 京塚遺跡尖頭器と土器片 須行園遺跡 大園遺跡土器・石器・シイの実貯蔵穴・五棟の住居跡 須行園遺跡
磨製石鏃・石斧
京塚遺跡打製磨製石斧、三稜尖頭器、石鏃、石針 環状石斧有肩石斧・打製・磨製石斧・くぼみ石
有肩石斧は台湾、環状石斧は大陸から

 31弥生時代・古墳時代

縄文時代の絵なぜか毛皮を着ている 弥生時代の絵どちらも古い絵ですね。 副葬品 弥生土器
古墳時代の土器弥生土器は穿孔がありどちらも土器棺ですね
多条の三角凸帯から大分・宮崎の影響受けた 鳥ノ峯遺跡砂丘上の生活痕で貴人の甕棺墓 鳥ノ峯遺跡古墳時代初頭の埋葬遺跡 土器・石器・装飾品・覆石墓・人骨
土器出土状況 覆石墓石で覆った土壙墓 人骨覆石を除去後の人骨 覆石取り去り後の人骨 土器これらはほとんどが→ 土器棺ですね

  弥生時代
    3000年前、西・北部九州で始まった半島人の流入は、直ちに貝の道の成立に繋がり、種子島はその経路に当り、人・物の交流が盛んになった。
    農耕に適した種子島には多くの半島人が流入し、弥生文化を築いたようだ。

 36中世以降   中世から始まった制度や製塩、牧場

牧と呼ばれる同族集団血縁共同体が発達
産業の専制化
牧の図 牧の絵図島嶼独特の閉鎖的封建的な社会制度が形成されたようです。 塩づくりの小屋塩田がなく、単に土器で海水を煮詰めるのかな。

海藻を燃やした灰を煮詰めるのかな。
塩づくりの道具 朝鮮式の石臼粉砕物の容器付きは、
地方に行くと時々見かけます。半島との結びつの強い集落で見ます。

 41近世  鉄砲伝来

中世日本の対外貿易は、中国や日本の商人や、地方領主に独占されていた。 
貿易港も決まっていて、新参者が入り込み利益を上げることはできなかった。
     
そこで、ポルトガル人が中国船に乗り、インドネシアで作った蛮地型の鉄砲を売り込もう。新たな貿易ルートを開拓しようと、種子島にやってきた。
教科書に書かれているような、決して漂着したのではないのです。

その後の取引がどうなったのか、種子島が鉄砲貿易の中心になったのか、は、知らない。まぁ、きっとそうはならなかったのでしょう。

ポルトガル人は金と領主の娘二人と鉄砲を引き換えにしたのだから、初期の目的よりも、スケベか、女衒か、奴隷貿易か、に目的を変えたのだから。
貿易よりも、未開人の女の方がよかったとは、、、馬鹿な奴らだ。(笑)


鉄砲

 51その他
中種子町の遺跡年表 カメ墓水瓶型の塔婆。陶器製。
この下に甕棺を埋めたようだ。
甕棺(座棺)甕棺は世界各地で独自発達した埋葬方法 日本は弥生時代だが、種子島では明治まで続いたとは驚きだ。 板碑墓碑銘のことでしょうね 板碑