縄文を旅する4 南の縄文 沖縄~九州10 2014.02.09(日) 中種子町立歴史民俗資料館 鹿児島県熊毛郡中種子町野間5173-2 0997-27-2233 なかたねちょう
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01入口展示 一階は民俗資料、二階が歴史資料です。 館内撮影禁止ですが、サインすればOKです。 入口の丸木舟・ 刳り舟(くりぶね)一本の木をくりぬいてつくった舟。空舟(うつおぶね)。 は、国内の博物館に多く見られる「川船」ではなく、 外洋航海用です。沖縄県立美術館博物館でも、実際に使われていたものが展示されています。 この舟は大変優秀で、現在でも、一週間もあれば、沖縄から伊豆まで、また、 明治時代には、この船でインドネシア辺りまで普通に出稼ぎに出かけていました。 そういう、高い能力を持つ舟で、旧石器時代からスンダランドで発達した万能交通手段だったのでしょう。 |
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旧石器時代~縄文時代 03立切遺跡 30,900年以上前の旧石器遺跡~縄文時代 リンク01 02 03 04 横峯C遺跡とともに我が国の後期旧石器時代のようすを知ることのできる数少ない遺跡です。
いつもならぼんやりとしか残っていない旧石器人の生活痕跡が、ここでは克明に残っている。まるで、昨日のことのように感じます。 旧石器時代、 3万年前の日本列島へスンダランドから南西諸島伝いに丸木舟でやってきた人々は、海上独標の屋久島を目指し、種子島にたどり着いた。 種子島は、動植物に富み、生活しやすい土地だった。また、石器材料にも恵まれていた。 従って、この島は南から来る人々の中継地点だった。だけではなく、きっと南へ行く人々もいたに違いない。 最終氷期 (2万年前) に 大隅諸島は九州本土と陸続きとなり、動植物や人の移動・渡来が盛んだったが、そのことは発掘資料に現れていない。 縄文時代草創期には、 細石刃文化期の遺物(細石刃)が発見された。石材・技法ともに南九州のもので、九州本土との交流を示すものだった。 旧石器時代と縄文時代草創期が混然一体としていてすみません。 |
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縄文時代 06三角山遺跡 縄文時代草創期~早期 1万2000年前の遺跡 リンク01 02 遺跡出土物は鹿児島県埋蔵文化センターにあるようだ(非公開)
こんな列島の端。にもかかわらず、いち早く最先端の土器文化が花開き、人々が定住した。 やはり、南からの文化が人の移動によって流れ込み続けていたのでしょう。 磨製石鏃は、種子島で12000年前の縄文草創期。九州本土では1万年前の縄文早期であり、南から文化が伝わったことを証明している。 引用三角山遺跡調査報告書 |
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11園田遺跡 1万2000年前縄文草創期 リンク01 02 北海道からの神子柴型石斧が種子島園田遺跡から発見され、8本の埋納遺跡であった。
北方系石槍が発見されたことは、南方から北方へ、またその逆に、人々が往来していたことを示している。 御子柴文化は信州を中心とする文化。安山岩と石槍で検索すると、苗場山麓ジオパークの露頭と石槍出土がヒット。ここからやってきたのか。 |
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16常牧遺跡 縄文早期遺跡 4000点の土器・石器が出土 |
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21その他の縄文時代遺跡 |
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31弥生時代・古墳時代 弥生時代 3000年前、西・北部九州で始まった半島人の流入は、直ちに貝の道の成立に繋がり、種子島はその経路に当り、人・物の交流が盛んになった。 農耕に適した種子島には多くの半島人が流入し、弥生文化を築いたようだ。 |
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36中世以降 中世から始まった制度や製塩、牧場 |
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41近世 鉄砲伝来
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51その他
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