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  中部地方の縄文1  24  2017.05.13

    川上村文化センター   長野県南佐久郡川上村大深山348-9  0267-97-2000
     月・祝日の翌日・毎月末 休館 撮影可


  交通  レンタカー

  見所  大深山(おおみやま)遺跡の出土物

  注意  以前、大深山考古館が開館していましたが、現在は閉館中とのことです。

       撮影はたいへん暗いところで行われました。カメラの限界で、識別不能のものもあります。
 
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目次
 
01外観
10入口展示

 大深山遺跡出土品

資料 曽利式・井戸尻式土器

 川上村に暮らした人々

20旧石器時代

21馬場平遺跡
23川上村の植生
24川上犬
25積み上げられた標本
27西の腰B遺跡
28ナイフ形石器文化

考察 旧石器人の住居

29東森遺跡
30川上村の遺構

35旧石器時代
36馬場平遺跡
38柏垂遺跡 

 
50縄文時代

52川上にムラを作った人々

考察 八ヶ岳南麓高原地帯の利用

53生活の道具
54生活空間
55川上村の遺跡
56大深山遺跡

73三沢遺跡
75東原A遺跡
77立石遺跡

79大深山遺跡
80土器群

資料 曽利式土器

82土器群
86後期の石器・土器 
 
100弥生時代〜現代

101弥生時代
102川上を形作った人々
 ―弥生時代以降―

 平安時代
103川上村の遺跡
104金峰山信仰

105金山の開発

 江戸時代

110平安時代の金峰山信仰

 
120近世 江戸時代の暮らし
121川上村のいしずえ
122近世の川上

123農業と馬
124馬の生産・馬市
125馬用農耕具

130近代

131近代の農業の始まり
 落葉松の生産
 野菜の生産

 民俗
136人々の祭り
141梓久保金山遺跡
143展示場全景・外観 
 
 01外観
画像引用:藤岡牧夫 公式ブログ - 全国川サミット川上村 見渡す農地には雪が降ったかのような白色シートが張られている。 膨大な量のキャベツ・レタス・白菜など葉菜類が栽培され関東へ出荷。 カラマツの自然林が延々と続いている。植林でなく自生だろうか。 この美しい畝立てとシート敷設は農業機械によるものです。 関東・東海の卸売り市場を支えるのにこの膨大な農地が活躍しています。



 10入口展示
   巨大な文化センターは、正面に体育館があり、二階観客席に考古遺物が展示されています。
   私の経験上、ここは埃と泥と綿ゴミでひどいことになるのだが、今のところよく掃除され、破損もまだ見られない。時間の問題かもね。

 大深山遺跡出土品 (おおみやま)
   縄文中期 (4,500〜5,000年前)の遺跡、標高1,300mの台地上にあり、遺跡としては最高所に位置しています。
   竪穴住居跡が50ヶ所、数万点に及ぶ土器、石器が発見されています。

 入口展示について
   入口のガラスケースにまとめて展示されているこれらの土製品は、いずれも大深山遺跡を代表する、大変有名な土器類です。

ハードケースに保存された目玉の展示品

香炉形土器/井戸尻V式

釣手土器/曽利U式

 香炉形土器について
   当館の香炉形土器と酷似した土器が神奈川県寒川町から出土しており、その系統の研究もなされている。
    資料 寒川町岡田遺跡 116 住居址「釣手土器」について


深鉢/藤内T式

釣手土器/曽利V式

深鉢/曽利T式

有孔鍔付土器


大深山遺跡

有孔鍔付土器

釣手土器

釣手土器


 資料        引用転載「曽利式土器曽利式土器の 研究曽利式土器の 研究井戸尻式土器の様相
 曽利式土器
  井戸尻式土器を母体として発生し、加曽利E式土器の影響を強く受けた曽利式土器は、T式〜X式までの5段階に分類されている。

 井戸尻式土器
  八ヶ岳南麓の縄文遺跡は、早期や前期にかけては少ないが、縄文中期中葉を中心とし、立場川から東へ二つ目の母沢から東の鹿ノ沢周辺に、
  井戸尻・曽利・藤内・九兵衛尾根・居平・唐渡宮・向原などの遺跡が集中し、「井戸尻遺跡群」を形成している。

  中期中葉の最盛期の土器は、土器形式で藤内式や井戸尻式と呼ばれる。巨大な深鉢は豪快で抽象的な土器文様が描かれ、
  なかには動物や人の頭をかたどったとみられる文様もある。 引用井戸尻遺跡 - Wikipedia

 井戸尻V式 井戸尻V式についての情報はありませんでした。
  いずれにしても、この地域も井戸尻遺跡群の文化圏にあったということのようです。

 

 川上村に暮らした人々と文化
  千曲川の源流域である川上村は、標高1100mを越える高原地帯であり、甲武信岳(2475m)国師岳(2591m)金峰山(2595m)などの山々に囲まれた
  自然豊かな村です。
 
  この環境の中で、人々は旧石器時代から今日に至るまで、栄枯盛衰を繰り返しながら暮らしてきました。
  時には恵まれた自然の恩恵を受け、時には厳しい自然に打ち勝って生活をし、文化をはぐくんできました。

川上村に暮らした人と文化
川上村に暮らした人と文化 川上村地図 川上村の位置




     川上村の旧跡時代については、「八ヶ岳旧石器通信」に詳しく掲載されています。

        八ヶ岳旧石器遺跡探訪   八ヶ岳山麓の旧石器   黒曜石の謎  

        ミュージアムショップでは機関誌も販売されています。

     かつての若者 (今は高齢者) の、あこがれの地だった八ヶ岳周辺の、自然や考古資料がおもしろそうです。

     出来れば、この展示館に放置された、川上村の旧石器資料を整理展示するよう働きかけてほしいものです。







 20旧石器時代



  ここにかなりひどい状態で置かれている旧石器時代の資料は、平成7年の文化センター開設に伴って閉鎖された、大深山考古館の資料のようです。
  なぜこのような状態で放置されているのかはわかりませんが、せっかくの貴重な旧石器・縄文遺物が、これではとても残念です。

        川上村遺跡詳細分布‐調査報告書


  21馬場平遺跡 (尖頭器文化 旧石器時代)  引用コトバンク馬場平遺跡

   長野県南佐久郡川上村御所平所在の先土器時代遺跡。千曲川水源に近い段丘上に立地し、標高1180m

   槍先形尖頭器を主に、掻器、削器、石核などが検出された。石材は頁岩、安山岩などが主で、黒曜石はわずかであった。
   尖頭器には、小型柳葉形、木葉形など、形のうえでいくつかの種類がみられた。

   この遺跡は1952(昭和27)年に調査され、
   槍先形尖頭器を含む石器群が先土器時代に属することを最初に確認した、学史的にも重要な遺跡である。


  矢出川遺跡
    長野県南佐久郡南牧村にある先土器時代遺跡。標高 1350m,八ヶ岳のふもとにある。広大な遺跡であることが確認されている。
     1954,63年に発掘調査が行われ,日本における細石器文化の本格的調査のきっかけとなった。

    細石核細石刃が大部分であるが,その他、掻器,削器なども出土。細石核,細石刃のほとんどが黒曜石製である。コトバンク矢出川遺跡

尖頭器/馬場平遺跡
旧石器時代
細石刃/矢出川遺跡資料
旧石器時代
その他の遺跡
縄文時代耳環/彫刻は見えないがあると思われる

尖頭器と石鏃
旧石器終末-草創期の
ものでしょうか。

  馬場平遺跡 旧石器時代を代表する槍先型尖頭器の時代確定が行われた。
  矢出川遺跡 日本で初めて細石刃の存在を確認した。

   このような貴重な資料が、体育館の片隅に汚らしく積み上げられ、既に埃まみれ、になっていることは、本当に残念です。



  23川上村の植生

   川上村の現在の植生は、千曲川周辺から耕作地を除いた標高1800mまでのほとんどが、カラマツの植林域となっています。

   この中に、アカマツやミズナラの群落が点在しています。そして、これから標高2500mの間は、自然林となり、
   シラビソ・オオシラビソの群落が広がる常緑針葉樹林帯となっています。

  また、標高2500mを超える金峰山国師岳などの山頂部に於いて、ハイマツの群落へと変化します。

川上村の植生 水田域は少なく、高冷地野菜の生産が主である。 カラマツなど、関西ではもう、1500m以上の山地でしか生育しない樹木です とにかく、恐ろしいほど高地・寒冷地です。


  24川上犬
   川上犬は、小型日本犬の純血種です。一時絶滅寸前にまで追い込まれましたが、保存運動が展開され、多くの逸話を生みながら、
   その危機を乗り切ることができました。

   特徴は、小柄で均整がとれた体格、小ぶりながら厚い立耳と太い尾です。また、寒さに強く粗食に耐え、着家性が高く、
   気が強いといった性格を持っているようです。

   現在は、県の天然記念物に指定され、川上犬保存会により、その血統が守られています。

 なぜ、展示のここで、この犬が登場するのか。縄文犬との関りを示唆しているのか、言及されていないので、よくわかりません。
  川上犬は日本犬 (縄文犬=縄文人が東アジアから連れてきた犬) と、日本オオカミとの混血種だそうです。

    川上犬wiki  川上犬とは日本オオカミの血を引く 川上犬基礎情報 コトバンク川上犬 川上犬:犬種図鑑 川上犬

川上犬 川上犬オス メス
猟犬として活躍

子犬
子犬に授乳する



 25積み上げられた標本
  旧石器時代の展示コーナーの真ん中に、光の当たらない、積み上げられたまま、ホコリまみれになっている標本がありました。
  この資料はおそらく閉鎖された大深山考古館の展示資料ではないでしようか。

  暗闇の中に乱雑に積み上げてある遺物に、なぜか心が暗くなりました。
  貴重な標本に手を触れることははばかられ、広げて見ればいいものが見れたかもしれません。残念です。

  どうか二度と手に入れることのできない、これらの貴重な資料を、正しく展示していただきたいと、心から念じております。

  素晴らしい大型石器の数々

菅の平遺跡
中の沢遺跡
とあります

  27西の腰B遺跡 旧石器時代
    ※先の馬場平遺跡では、黒曜石は僅かでしたが、ここでは、大きくて良質の原石から、惜しげもなく大型石刃器をいくつも作り出しています。
      黒曜石が自由に採取でき、多人数で頻繁に採取・運搬が出来た時代のものでしょう。

黒曜石製石器 西の腰B遺跡 石核

  28ナイフ形石器文化 (礫器→ナイフ形石器→尖頭器→細石刃)

  約3万年前になると、ナイフ形石器が主要な道具として使われるようになり、その他にも、彫刻刀形石器や掻器、削器などが使われました。
  これらは石刃技法によって多量に作られた縦長剥片(石刃)を素材とし、加工する位置や形態によって作り分けられます。

  ナイフ形石器の確実な使用法は分かっていませんが、狩猟用の利器や調理、道具を作るための加工具として使用されたと思われます。

ナイフ形石器文化 石器の種類ナイフ形石器・掻器・削器
彫刻刀形石器・石核
石器の使い方・ナイフ形石器-切る・刺す
・彫刻刀形石器-木・骨を削る
・掻器-皮を剥ぐ
石器の作り方@打面を作るA形を整形B石刃の剥離
C連続して石刃を剥離
D石刃の加工E完成
旧石器時代の様子
皮革をつないだテント
石器作りの様子。
石蒸し土坑、石列
解体作業らしき様子

考察
 旧石器人の住居
  旧石器人の生活跡である石器ブロックの形状から、円錐形テントと想像され、重い外装用皮革を何枚も運んだと考えられている。

  外装天幕用皮革を運搬するのは、シベリアのトナカイ遊牧・飼育民や、アメリカインディアンがそうであることから、運搬するものと思っているようだ。
  が、一頭分の牛の皮がどれほど重いものか。天幕には何頭分もの皮革が必要であり、それを運んでいたら、旅に必要な食糧や道具は運べない。

  現在のシベリアや北米では、使役動物に引かせて運ぶのです。旧石器時代に動物を飼育した形跡は見当たらない。

  当時は、立ち木や枝を折り取って、縛ったり組んだり絡ませたりしてドーム状のものを作り、その後容易に手に入る動物皮革は、現地で調達した。
  これは、アフリカの狩猟民が現在も行っていることです。(「オードリー春日の部族訪問」 で紹介していました)


 29東森遺跡 尖頭器文化
    畑の開墾によって発見された遺跡。遺跡はおそらく既に破壊されたものと思われる。
東森遺跡
有樋尖頭器/東森

ナイフ形石器/馬場平

黒曜石が増加
尖頭器・石匙/馬場平
小型尖頭器・石匙など
進んだ石器が登場

石匙は西日本型です




  30川上村の遺構
     川上村では、早くから旧石器時代の遺跡が発見され、注目を集める地域になっています。
     現在では24遺跡が確認され尖頭器が旧石器のものであることを立証した馬場平遺跡や、

     豊富な遺物量で知られる柏垂遺跡ナイフ形石器と礫群の出土した三沢遺跡などがあります。
     また、国内では初めて細石刃が確認された南牧村の矢出川遺跡を含め、極めて重要な遺跡が集中する地域です。

川上村の遺構 川上村の遺構 柏垂遺跡 西の腰B遺跡 東森遺跡
川上村の遺跡(西部)

川上村東部
三沢遺跡 馬場平遺跡 菅の平遺跡 遺跡が大変密集しており、食糧確保が難しい状況にあったのではないかと感じます。

これじゃまるで現代の
集落と同じ密集度だ。





 35旧石器時代

  36馬場平遺跡 尖頭器文化の遺跡。出土石器 槍先形尖頭器、掻器、削器、石核。 石器材料 頁岩 安山岩など。
馬場平遺跡
(石核)
馬場平遺跡 馬場平遺跡/尖頭器
  37馬場平遺跡
馬場平遺跡 馬場平遺跡 尖頭器 尖頭器


  38柏垂遺跡  尖頭器 と ナイフ形石器 の文化
尖頭器 尖頭器 尖頭器
  39柏垂遺跡
尖頭器 ナイフ形石器 ナイフ形石器
 
  お詫び
   旧石器時代の
    展示コーナーは体育館の片隅。照明を点けようとされましたが、乱反射が恐ろしくて断りました。従って、本当に暗い所で撮影したため、
    画素が荒い、露光時間が長くピンボケ、などよくない画像がほとんどです。

    カメラの性能を精一杯引き出し、ほんとに暗いところが、意外と明るく撮れていることは、私なりにほっとするところですが、

    お見苦しい点、お詫びします。

    キャプションがほとんど付いてないのは、この館には専門家が不足していたためでしょう。






 50縄文時代



  51パネル

 52川上にムラを作った人々
  縄文時代は温暖な気候になり、旧石器時代に比べ植生や動物相が変化しました。
  縄文時代中頃(約4500年前)になると、川上村でも堅果類などの木の実を採集でき、そこに集まる動物を狩ることのできる食糧豊富な場所でした。

  この恵まれた環境の中で縄文人は集団で集落を営み、ある程度の定住生活を始めました。
  縄文時代は私たちの想像を越える発達した社会を形成していたと考えられます。

川上にムラを作った
人々
裏八ヶ岳を遥かに望む川上村
川上にムラを作った
人々

定住生活なので住居が茅葺屋根。大きく整地された広場。

土坑や石棒・立石は見られない。

土器づくりや、石皿での作業を表している

 考察

  八ヶ岳南麓高原地帯の利用

  旧石器時代人がこの一帯を利用したのは、食糧動物の狩猟のためだった。きっと、広い裾野や低地、野辺山高原などを回遊していたのでしょう。
  縄文人は、縄文中期までの温暖化による植生の変化以降に、植物や堅果類を目当てに集まる中型動物の狩猟が目的だったのでしょう。




  53生活の道具

  土器
    およそ1万2千年前に登場した土器は、その後、様々に変化しました。当初は煮炊き用の深鉢状のものから始まり、
    貯蔵や盛り付けといった使用目的に応じた形態が加えられ、浅鉢や甕、壺なども見られるようになります。

    また、芸術的な装飾を施したものにまで発展します。
    土器の発明は、それまでの調理方法を変化させ、縄文人の食生活を豊かなものにしたのです。

  石器
    縄文時代になると石器の種類が増え、使用する目的に合わせて色々な形態の石器が作られるようになります。
    特に石鏃は弓矢に使用され、狩りの方法も大きく変化しました。

    また、全体を磨いて作る石器 (磨製石斧など) も一般的にみられるようになります。
    ペンダントや耳飾りなどの装飾品や、石棒などの宗教的な石器も作られるようになります。

生活の道具 土器 土器の使い方煮る・蓄える・盛る・灯す 土器の作り方 石器 石器 石器の使い方石鏃・磨製石斧・
打製石斧


  54生活空間

  住居
    縄文時代の住居は、地面を数10cm掘り窪めて、その底を床として、柱を立て屋根をかけた半地下式の家が一般的なもので、
    竪穴住居と呼ばれています。住居の中央付近には炉が設けられ、5〜6人の家族が生活したと考えられています。

  食生活
    縄文人は多種多様なものを食料としました。しかし、生活していた自然環境によっては大きく異なるものでした。

    山国である長野県では、狩猟によって得られるシカなどの獣類や魚介類は季節によって食べられただけで、
    むしろ採集によって得られるコナラ・トチ・クリなどの堅果類を主食にしていたようです。

生活空間 住居竪穴住居実測図
竪穴住居想像図
住居 食生活 食生活
地域による食物の差

  地域による食物差
    海獣狩猟民 (北黄金貝塚・北海道 噴火湾沿岸) は海獣肉やその干し肉が多い。 02 03 04 05 06 07 08 09

    平地民 (古作貝塚・千葉県 海岸部) は陸獣肉に次いで魚肉が多い。まだ、漁労技術が不十分だった。 02 03 04 05 06 07

    山地民 (北村遺跡・長野県 山間部) は堅果類等の植物食が大半を占め、獣肉・魚肉・貝類は僅か。(体格差生ず)  02 03 04 05 06

   食料獲得競争 (戦争) に敗れ、内陸に糧を求めてやってきた人々でしたが、気候変動に弱い植物食糧が大半を占めていました。
     常に飢餓状態だったでしょう。



  55川上村の遺跡
    現在、村内には37ヶ所の縄文遺跡が確認されており、それぞれの規模や遺物量などは様々ですが、遺跡数は最も多くなります。

    草創期の立石遺跡や、早期の東原遺跡中期の大深山遺跡後期の深山口遺跡など、縄文時代を通じて、
    あるいは断続的かもしれませんが、人々が生活していたことを知ることができます。

 資料 @川上村遺跡詳細分布調査報告書 - 全国遺跡報告総覧 A川上村遺跡詳細分布‐調査報告書 B39浜 場 遺 跡 
     C川上村の歴史 : 歴史と素適なおつきあい D八ヶ岳山麓の旧石器 E八ヶ岳旧石器文献 F縄文学研究室//考古学ニュースから

     G大深山遺跡|川上村  H長野・大深山遺跡 - 邪馬台国大研究  I大深山遺跡 - Wikipedia  J大深山遺跡(川上村)
     K大深山遺跡(おおみやまいせき)とは - コトバンク

     L「信州の遺跡第12号」(8p 1.5MB) - 長野県埋蔵文化財センター
     M八ヶ岳の麓に点在する遺跡の紹介 - ペンションあるびおん  N川上村 大深山遺跡から赤顔山を越えて男山と天狗山を歩く

   川上村の遺跡に関する文献はこんなにありました。 川上村遺1跡詳細分布‐調査報告書

 川上村の遺跡
川上村の遺跡

立石遺跡
草創期

東原A遺跡(大深山)
前期
縄文遺跡分布図

御堂窪遺跡
前期

三沢遺跡
中期

深山口遺跡
後期


  56大深山遺跡 (おおみやま) 中期
     千曲川右岸の天狗山南斜面にあたり、標高1300mの高所に位置する、中期(4500年前)の遺跡です。
     51ヶ所の住居址と多数の土器・石器が出土しています。

大深山遺跡 大深山遺跡の位置 大深山史跡公園 遺跡分布図・発掘風景
偉い人達を沢山呼んで権威付けることが、
遺跡の保存やその後の調査活動に重要だったのでしょう。

  73三沢遺跡 前期 6000-5000年前
上段:三沢遺跡
下段:東原A遺跡
上段:三沢遺跡前期土器
爪形文・押型文土器等見えるが脚注無
石鏃 石匙(横型) 凹石と磨石
三沢遺跡/前期/出土物

  下段

  75東原A遺跡 土器  早期土器 1万-6000年前 (尖底、押型、撚糸)  中期土器 住居址3棟
早期土器尖底、押型、撚糸 楕円押型文土器 楕円押型文土器 斜縄文土器 山形押型文土器

  77立石遺跡 草創期 1万3000-1万年前 と 大深山遺跡 中期 5000-4000年前 三沢遺跡 中期

立石遺跡/草創期
石鏃
大深山遺跡

三沢遺跡/中期
三沢遺跡/中期


  大深山遺跡  中期
大深山遺跡/中期  大深山遺跡石鏃と石錐/大深山 石匙/大深山  磨石・凹石/大深山 石皿/大深山 大深山遺跡出土物
大型・小型の石匙
石皿・磨石・凹石
  79大深山遺跡 中期

井戸尻V式
20・7・8号住

打製石斧

打製石斧
磨製石斧 曽利T式土器 装飾土器など

土偶・人面把手

注口土器

赤色土器/彩色土器
首飾り (垂飾) 石棒 打製石斧
 長大な草刈り道具だったか、穴掘り道具だったか

   寒冷、遠隔、貧窮のなか、広大な山中にも、土偶や人面把手などの、流行文化が押し寄せて来た。
   信州の広大な高原地帯。踏み迷うことの多い地域に、どうやって文化が伝わったのでしょう。案外この地域は交通の多い地域だったようです。
 


  80土器群

  81

資料
 曽利式土器とは、 転載「ブナ林と古代史」曽利式土器

  井戸尻式土器を母体として発生し、加曾利E式の影響を強く受けた土器。 
  土器形式はT〜X式までに分類される。縄文中期後半からの土器。

 曽利T式
  中期中葉の井戸尻式土器から発生した型式。無文口縁のキャリパー形深鉢の盛行。
  大型渦巻把手の盛行、粘土紐貼り付けによる胴部懸垂文の発達、
  摺曲文、籠目文土器の発生、箆や半截竹管文による平行沈線地文の盛行、X把手の発生、櫛型文土器の消失などを
  特徴とする。
曽利T式
  新旧があり
  旧型深鉢は、口縁に縦の隆帯が着くものや、口縁がやや外傾し、直線的に開く物、頸部の粘土帯や波状隆帯が幅広で条数の少ないもの
          頸部に膨らみを持つものなどがある。

    新型は、頸部の波状隆線が多条化し、X把手が出現する。大渦巻把手は、古いものに比べて全体に小さく弱々しい感じになる。

      また、籠目文土器は摺曲文を口縁に施すようになり、唐草文形土器の影響を受けて、摺曲文が成立したことがわかる
      深鉢土器の胴部懸垂文と並んで波状隆線が付けられるのも新しい要素。なお加曽利E式の影響である縄文地文の土器が出現する。

 曽利U式
  加曽利E式土器の影響を強く受けた土器群が発生する。 このため古い段階では曽利U式の残影的土器が主流を占め、
  新しくは口縁部に横帯文をもち、
  胴部に隆線の懸垂文をもつ土器群が発生して、新旧が交代する時期である。特に地文は、平行沈線文が少なくなり、縄文地文が盛行する。

  X把手付大甕が定着していく。把手の数が6個、8個と数多く付くものも多い。
  胴部の文様は逆J形、逆U字、M字形の隆線文様が多く、渦巻き文は少ない。
  大渦巻き把手土器は全く姿を消し、27のような残映的な土器が稀に出土する。

  口縁部に渦巻つなぎ弧文の区画帯をもつ土器が出現するのは、加曽利E式土器の影響である。
  この時期には、かつて曽利V式Aと呼ばれていたものの一部を含めてU式としているが、
曽利U式
  それは山梨県下の柳坪1/2号住居、長野県曽利50号住居一括出土遺物からU式に比定されることが明確になったためである。



 曽利V式
  かつて居平4号住居をVA、曽利7号住居をVBとして、曽利V式の標式住居としていたが、
  縄文系の土器群がU式に位置づけられたことによって、型式内容も解りやすくなった。

  深鉢や甕の特徴は、円文、渦文、S字文の口縁部文様帯の発達、渦巻きつなぎ弧文や
  連続弧文による口縁横帯文の発達が見られ、
  胴部文様では大柄渦巻文、H形懸垂文、沈線による蛇行懸垂文と蕨手状懸垂文の盛行がある。

  地文では、縄文が減り縦条線文、斜線文、羽条文といった沈線地文の発達が著しい。
曽利V 曽利V

  器形では頸部のくびれがゆるやかになり、底部の小型化が始まる。
  関東西部の丘陵地帯や神奈川の一部では、一方向に斜行する斜線文の土器も多く、加曽利E式の斜縄文を沈線で表現したと思われる。


 曽利W式
  深鉢形土器の口縁部文様帯が退化し、横走する1本の幅広沈線で表現されるものが増加し、胴部のくびれも殆ど無くなって、口縁は大きく開く。
  深鉢形土器で口縁部文様帯のあるものは、V式の渦巻つなぎ弧文が渦文と円文に分れたり、
  長円形区画や、弧線が水平な線になって先端が渦巻きなど、簡略化を示している。
  口縁部文様帯のないものは、胴部の蛇行懸垂文だけのもの。次のX式になると消失する。


 曽利X式
  器形は深鉢形土器が主体で、胴部のくびれが無く、直線的に開く物が多くなる。
曽利 W 曽利 X
  V式には口縁部文様帯が残っているものも多く、加曽利E式のように口縁部文様帯の消失をもって型式分類することは出来ないが、
  新しい段階では口縁部文様帯が減少する。

  この時期には加曽利E式土器の流入が激しく、終末期には曽利式土器が減少する。
  あたかも曽利式文化が完全に加曽利E式文化に吸収されてしまったかのように見える。

  曽利と加曽利の終焉は足並みを揃えていたようである。この時期の深鉢以外の器形は、無文浅鉢や両耳把手付広口坪、台付鉢などがある

 


 82土器群

曽利T式(全て)
左:曽利1式×2、曽利U式×2 左:曽利T式×2、
曽利V式×1
左に同じ 曽利V式×2
  83
曽利T式
曽利U式

曽利U式
曽利V式
  84
曽利V式 曽利V式×2
  85

曽利V式

曽利V式

曽利V式

曽利V式

曽利T式

曽利V×2、曽利T



  86後期の石器・土器 川上村遺1跡詳細分布‐調査報告書
石皿 唐沢遺跡
石皿
・唐沢遺跡中期
・天神林遺跡  
天神林遺跡天神林遺跡 石皿 深山口遺跡
後期
装飾把手/深山口遺跡
後期
注口土器?/深山口/
後期
 
   長野県南部の伊那谷でさえ、後期〜晩期には、寒冷化のため、ほとんど集落が姿を消してしまう。
   にもかかわらず、標高1000m以上のこの地で、後期に集落遺跡を維持できたのは驚異的ではないでしょうか。

   植物食に頼ってよく生きられたと思います。









 100弥生時代〜現代




  101弥生時代

  102川上を形作った人々 ―弥生時代以降―

  稲作農耕によって特徴づけられる弥生時代以降は、稲作の不可能な地域となった川上村には、まとまった集落は見られなくなります
  しかし、社会の発達などにより農耕以外を生業にしたと思われる人々が僅かながら生活するようになります。

  また、更に社会が複雑化すると、峠と接するなどの地理的な環境によって、人々が往来するようになり、
  今日まで続く文化や集落の形成の基礎が形作られていきます。

川上を形作った人々
山間地の集落/ピンボケ

狩猟採集民か
川上を形作った人々
 
  平安時代

  103川上村の遺跡 平安時代

     村内の弥生時代以降にあたる遺跡は少なく、22ヶ所が確認されています。このほとんどが平安時代で、
     焼失したと思われる住居址を検出した横尾遺跡大海道遺跡や、しだみじゅく遺跡などがあります。

     弥生時代の遺跡はごくまれで、遺物が数点あるのみです。また、古墳時代・奈良時代の遺跡はいまだに確認されていません

川上村の遺跡平安時代の荘園の発達が、このような寒冷地まで私有地化して、不毛の土地から何を得ていたのだろう。狩猟関係かな。 横尾遺跡/平安時代 遺跡地図/平安時代   大海道遺跡/平安・中世
切草遺跡/平安
しだみじゅく遺跡/平安 


  104金峰山信仰 (きんぽうざん) 平安時代末期の山岳信仰

    平安末期に開かれた山岳信仰の山。中世から江戸時代にかけて広い信仰圏を形成し川上側・甲州側から多くの修験者が訪れた。
    人々の往来によって情報の集積や経済の発展に大きな影響を与えました。
    また、信仰に関する地名・伝承があり村の起源や文化に繋がると思われます。

 資料 @金峰山修験道遺跡 - 全国遺跡報告総覧  A金峰山修験道遺跡 - 全国遺跡報告総覧 B文化財|川上村

 ※現在の川上村は、平安時代の山岳信仰によって形成された集落でした。その様な文化が現代まで残っているのでしょうか。
  現在は山岳仏教の様子はなく、金峰山神社 のみが立派な彫り物と伴にあり、登山コースとして残るようです。

  恐らく、明治の廃仏毀釈で仏教施設やその文化は破壊され、それと共に、修験道の信仰も消滅したのでしょう。

  川上村 金峰山荘 川上村 金峰山 川上村 廻り目平 金峰山 金峰山 登山口 川上村

金峰山信仰修験道の山
大峰山のような
金峰山神社 金峰山大鳥居 金峰坂修験道場 登山ルート
金峰山修験道遺跡 大日堂 金峰山五丈岩



 105金山の開発 江戸時代

  金峰山川の上流の川端下地区と梓川上流の梓久保地区で、

  安土・桃山時代の永禄・天正年間に武田信玄・武田勝頼によって金山の開発が行われていたといわれています。
  また、最盛期には梓千軒・川端下千軒といい、大勢の人々が住み栄えていたという伝承も残っています。

  江戸時代には、幕府直轄による金山開発が続けられ、江戸中期まで採掘が行われたようです。その後は、村人によって細々と続けられました。
  また、他のいくつかの鉱山は昭和初期まで操業が続けられました。

金山の開発 長尾山金山坑道 大深山鉱山遠景 鉱山地図 居倉横築地鉱山遠景 長尾鉱山
長尾山遠景

  鉱山の形成は、フォッサマグナ地帯ですから、熱水鉱床が形成されたのでしょう。
 
 110平安時代の金峰山信仰
  112
平安時代の集落
五輪塔 (墓石)

土師器 坏/七久保遺跡

陶器片 切草遺跡
  113
陶片・鏡・刀子・釘など 金峰山縁起 修験者の持ち物 古銭 金峰山修験道遺跡と
関係する古銭とされている
  




 120近世 江戸時代の暮らし



  121川上村のいしずえ―民俗― いしずえ(礎)
     標高が高く寒冷という厳しい自然条件にある川上村では、人々の生活もまた厳しいものでした。
     しかし、人々はその状況を生かした暮らしを続け、馬を育て、落葉松を育てて、ついには高原野菜の村へと変わっていきます。

     厳しい中だからこそ自然を見つめ、たくましく生き抜いた人々の英知と歴史が、現在の川上村の基礎となっいるのです。

近世の様子 住居模式図 川上村のいしずえ



  122近世の川上

     樹木の伐採による木材の売却益。開墾による農業収入。が主な収入源でした。(伐採後に落葉松を植林し薪炭生産を継続させたのか)

     江戸時代は蕎麦が主な農産物でした。元文年間 (1736-1741) 以降の樹木伐採後の開墾によって収量が増加し、人口も増えます。
     林産物は、小諸・高崎・甲府・江戸などに出され、必要な物資がそこから入ってきました。

近世の川上村 各村の農産物の
取れ高比較
すいません。グラフも

地図も、ピンボケで

全く分からない。
すみません。

  123農業と馬
      寒冷地農業は、粟・稗・麦などの畑作で、蕎麦は有名でした。 
      昭和初期以降に野菜生産が始まる以前の産業は、山林・馬・養蚕・出稼ぎでした。

    農業と馬の関わり
      寒冷地では、馬は農耕・運搬・堆肥などに使役します。水田農耕、材木の土引き、荷駄・荷車運搬など、重要な労働力でした。
      厩は建物内で、囲炉裏の向かいに設けられ生活を共にしていました。

農業と馬

小麦の棒打ちによる脱穀
田植えの様子
蕎麦のベイによる脱穀

馬による代掻き
荷車による運送
小荷駄・乾草運び
農業と馬の関り



 124馬の生産・馬市
   明治15年頃、534頭が飼育され、江戸時代以前よりかなりの数が飼育されていたと思われます。農家にとって仔馬は、養蚕とともにまとまった
   現金収入であり、仔馬の馬市は野辺山の市場で毎年開かれていました。

   また、明治政府の援助による優良種壮馬の貸下げや、長野県種馬所川上種付所の開設 (明治40年) など、馬の生産にも実績をあげました。
   その後、昭和4年頃をピークにして、昭和50年頃に馬の生産は姿を消してしまいました。

  馬と信仰
   頭に馬を頂き、畜生道を司ることから、馬頭観音は馬の守護尊の信仰を得ました。
   馬頭尊は馬の事故や、死んだ所に供養塔を建て、健康安全を祈りました。

馬の生産・馬市場 馬と信仰 村内の馬頭観音

  125馬用農耕具

馬鍬(マンガ)、鋤

穂打ち棒、座繰り機

ベイ
(蕎麦の脱穀)


ササ板
  私の子供の頃は、馬は運搬。牛は農耕に使役されていました。 寒冷地では、東北でも、牛の話は全く出てきません。
  元来、信州・東北は馬の繁殖と、使役が盛んで、その文化のためでしょうか。 乳牛は北海道でも飼育しているので、ここは不適地ではないでしょう。



 130近代



  131近代の農業の始まり
近代の農具



 落葉松の生産
  明治初め頃から始まった苗木の人口育成は、国外にまで販路を広げ、昭和に入ると年間 3千万本以上を販売しました。

  ※3千万本/年 は脅威的な数です。きっと、現在の白菜やレタスほどの生産面積に、野菜程の生産量を行っていたのでしよう。

落葉松の生産 落葉松の生産

高校生の頃近隣の山奥にカラマツ林があると知り長く憧れていました。就職後すぐに50ccのバイクで登山に出かけました。

黄金色で整然と並んで植林された景観は見たこともない長めで、とても美しく、感動しました。
 全国への広がり



 野菜の生産
  昭和8年頃白菜の栽培が開始され、野菜生産の歴史が始まります。ハクサイ・キャベツ・ダイコンの生産は昭和20年代に本格化しました。

  レタスは、昭和25年の朝鮮戦争の特需によって生産が増加しました。
  冷涼少雨がレタス栽培の適地であったこと、などで、日本の食生活の変化などが相まって驚異的な発展を遂げました。

野菜生産の開始 野菜生産 白菜の生産
白菜の箱詰め
人力での運搬
駅舎の風景
こんな風景は、駅でよく見かけました。

子供の頃こんな入れ物に白菜が入ってました。
その後、国策で段ボールに代わりました。リンゴ箱も木製から段ボールになりました。

 感想
  こんなに寒冷で、不毛と思われた、高冷地に、カラマツ栽培や野菜栽培を持ち込み、村人を富ませ、村を興した人は誰だったのか。
  そんな大切なことには、歴史家は触れていない。

  民俗


 136人々の祭り
  村には、伝統の年中行事や氏神祭礼をはじめ、いくつかの祭りがあります。その中で盛大に行われる行事として、正月の道祖神祭りがあり、
  各地区によって多少の違いがみられます。特に際立った特色を持つのが、居倉の「御幣切り=おんべきり」や、原の「お方ぶち」などです。

  先人たちの残してくれた多くの祭も、生活の変化などにより簡略化されたり、消え去りつつあります。

伝統行事
御幣切りと道祖神の御年始
道祖神お仮屋

御幣切りと道祖神の御年始
お方ぶち
どんどん火

お方ぶち
浦安の舞
御柱祭

   町民向けの内容で、部外者には何のことかは分かりませんが、 伝統行事がすごく少ないと感じます。





  141梓久保金山遺跡

  142梓久保金山遺跡B地点の位置図
梓久保金山遺跡B地点の位置図地図の鮮明化は不可能 金鉱石を磨り潰した砥石 石皿・敲き石・砥石類
石皿・敲き石

煙管・砥石・銭貨
  輸入銭の政利通宝や永楽通宝が主。
慶長通宝が1点のみ

  143展示場全景・外観
  144
入口展示/重要遺物
民家園 外に民家園がありましたが、休みでした。
 
 初めて聞いた川上村。
  走ってみると意外に古い町。 昔から、コメも取れないこんな高冷地で、人々はどのように暮らしてきたのか興味があり、現代まで調べてみました。
  江戸時代の年貢を何で納めていたのか。高冷地畑作、養蚕、馬の単頭飼育などは、大変だったでしょう。冬は山仕事か出稼ぎだったのでしょうか。

  野辺山、清里のような戦後開拓地しか知らない私にとって、全国ネットで取り上げられない辺境のムラとしか思えない高冷地山村の様子が
  少しわかりました。(最近、関西でも、川上村を取材した番組を見ました。)